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春庭ニッポニアニッポン事情>天災人災

2012-05-30 07:00:00 | 社会文化
天災と人災
haruniwa
投稿者:acha1 2011-03-29 21:12
生意気な事をいいます。
「天災」と「人災」は、違います。
何故、東京が必要ですか?
考えて、見ませんか。

投稿者:acha1 2011-04-12 05:34
先生、お早う御座います。
天災と人災とは、分けて考えなければ。
余震も度重なって、少しずつ南の地域に、
何だか、東海・東南海、地震を誘発しそうな感じに、
今此処で、これらの地震が起きてしまえば、日本経済は、完全に息の根がとまってしまう・・・
=================

私、春庭は、クライストチャーチの地震でなくなった語学学校の生徒は、すべて人災による被害者と思っております。
周辺の建物は崩壊していないのに、語学学校の入居していたビルは、以前の地震で耐震に問題があると指摘されていたのを無視したまま使用されていたからです。

福島原発も、津波対策に問題があることはかねてより問題視されていたのを、東電が無視して安全神話をばらまくのみで対策をおこたってきました。原発の検査体制の不備や、故障修理の不全が、あとになって指摘されてきました。最初期に廃炉を決断できず、なんとか廃炉を避けようとして、中途半端な処置しかとらず、水素爆発を招いたのも明らかな人災です。

津波警報を受け取ったあと、避難が間に合わず逃げ遅れて被災してしまった方々、ある意味、人災です。
地震が起きた14:26から、津波の最高波まで30分あり、適切な判断と避難が行われていれば、30分間で高台に逃げることは可能だったからです。

この30分の間に避難が完了できなかった人にはさまざまな事情がありました。
最後まで津波警報をアナウンスしていた女性、避難したお年寄りが寒がったので、介護施設まで毛布を取りにもどったところを津波に襲われてしまった介護職員。
逃げ遅れた人がいないか、地域の見回りを続けた消防団員や警察官。これらの方々は尊い殉職者といえましょう。

しかし、「安全とされていた防潮堤を信じて家に残った人」「防災センターの3階に逃げたから大丈夫だと思った人」、この人々にとって、津波は天災とばかりは言えないのではないかと春庭は考えます。
津波の避難所を作ったとき、「これまでに想定されている範囲の津波」を何メートルと考えていたのか。
少なくとも、1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2メートルを想定すべきだったと春庭は考えます。

1960年5月24日未明に、最大で6mの津波が三陸海岸沿岸を中心に襲来し死者は142名。多くの三陸沿岸住民は、明治の大津波を経験しておらず、津波への意識はこの1960年の6mの津波であったと思われます。10m以上の場所にいれば、チリ津波と同じくらいの波が来ても、助かる、そういう「安全神話」を皆が思い込んでいた。この思い込みが人災だと春庭は考えます。
福島原発に至っては、たった5メートルの津波しか想定していなかった。人災です。

春庭の部屋で本棚が倒壊したこと。本棚で打った頭はたんこぶ程度で済みました。いきなり倒れたのではなく、揺れているうちにL字型倒壊防止のねじ釘が徐々に弛んで倒れたからです。昨年3月の上階からの漏水事故のさい、水に浸された畳の入れ替えをしました。家具の移動に際して、担当した業者に「本棚やタンスはすべて倒壊防止の金具がついているから、入れ替え後にきちんと現状復帰してください」と頼みました。

 天井までの高さにある十段の本棚の天井のほうはよく見えないから、「現状復帰した」との報告を鵜呑みにしたまま、きちんとした点検補強をしないまま、1年がたちました。博論執筆が終わったら、部屋の片付けをしよう、そのときに本棚の点検をしよう、と、一日延ばしに安全確認を怠っていた春庭自身が招いた人災が、「春庭の部屋の本棚倒壊」でした。

春庭にとって、ニュージーランドクライストチャーチのビル倒壊も、原発も、春庭の部屋の本棚倒壊もすべて人災です。
そういう意味でこのたびの震災のほとんどを「人災」と考えているのです。

achaさんが「天災と人災はちがう」と、おっしゃるので、春庭にとっては、今回の震災は人災に思えるということを述べました。

>何故、東京が必要ですか?
というacha1さんへ。

春庭は、東京の首都機能移転に賛成しています。東京の首都機能独占、移転大反対という石原現都知事には、第一期目の選挙のときから反対意見を持ち、一貫してアンチ石原の意見を12年間表明してきました。
移転できる施設は、日本の各地に分散すべきと思います。

なぜ、春庭が東京に住み続けているか、は別問題です。収入さえ確保できれば、生まれ故郷の群馬に帰って余生を送りたい。またはIターンで山形か新潟へ行きたいと思って居ました。新潟は父方の祖先の地で中越大地震を被災した地域ですが、米所です。山形は舅と姑の故郷なので。

今のところ、しがない非常勤講師を続けるしか収入確保の方法がなく、日替わりで5つの大学に通勤するためには、5つの大学の中間点に住むことが必要です。それぞれの大学に60分から90分かかりますが、群馬に転居したら、勤務を続けることができません。
生活できるだけのささやかな収入を確保したい。現在のわが家の年収は、生活保護家庭以下のワーキングプア状態ですが、それでもなんとか生きていけるのは、通勤できる仕事場があるからです。

週末になると山へ行く金銭的余裕、時間的余裕があるacha1さんには想像しにくいtokyo working poor peopleではありますが、なんとか生きて行こうと思っています。

2011-04-12 13:40:22 ページのトップへ
Re:天災と人災
haruniwa
acha様

春庭質問への回答をありがとうございます。
短いコメントの表現ではわからなかったあちゃんのお考えもよくわかりました。

亘理町荒浜のお知り合い、ご冥福をお祈りします。
老親といっしょで逃げる時間が不足であったとしたら、残念なことです。
避難所にいけたとしても、津波に襲われたかもしれないとのこと。
その避難所が、明治三陸津波の38mではなく、1960年のチリ津波6mを想定して建てられていたことを、春庭は残念に思うのです。

>人は、今の持ちえる力で財力で、そんな災害を防ごうと務めてはいます。しかし、其れを越えていたと思います。

10mの防潮堤を建てたとき、10mを超える波が押し寄せることは考えられなかったのかも知れません。そのときの財力でできる限りの防災をした、ということはわかります。38mの高さに対応できる防潮堤を何キロも築くのは不可能です。しかし、明治三陸の津波を経験した後、高台に移転した人々もいました。

海辺に住む人全員が高台に家を建てることは不可能だったのかもしれませんが、知り合いの漁師さんは、おじいさんが津波にあったあと家を高台に移し、漁に出るには不便になったけれど、今回の津波で家も家族も助かったので、おじいさんに感謝している、ということをメールに書いていました。
多くの家は、いったんは高台に建てた人も、生活に不便であったりしてまた浜に戻ったところが多いと新聞記事で見ました。これも「費用対効果」の原則で仕方がなかったことなのでしょう。今後は、仕事の場は海辺に設けても、高台の家から通勤するような形で復興するというプランになるのではないかと何かで読んだのですが、海辺の人はやはり海辺へ戻りたいのでしょうか。

> 「下流の都会の為に、上流の地方が”犠牲になっている”」 事実なのです。
> 福島の原発も、同じだと思っています。

東京の電気の四分の一から三分の一は、福島の原発で作られていたという事実も、今回はじめて知った東京都民が多かった。これまで、脱原発運動をしようとすると、たちまち「それならおまえ達は電気を使うな」と言われました。現在の試算では、自然エネルギーに変換すれば、現在の電力消費量をまかなえることがわかっています。そうしないのは、原発を作ってしまったからには使い続けるしかない電力会社の利益を守るためです。

福島の電力は都会で使われた。では、福島の人は、都会の「犠牲」になっていたのでしょうか。
福島原発によって福島県に与えられた電源三法交付金は、1年間で120億円。雇用も生み出す原発を、地元の人は納得して選挙によって原発誘致派の議員と知事を選びました。絶対安全といわれたから賛成した、と地元の人はいいます。「絶対安全」というのはありえず、いったん事故になればここに住むことはできないと言い続けてきた人のことばがようやく届くようになりました。避難はたいへんでしょうが、そのリスクも含めての交付金であったと思います。今後は誰に投票するか考えたらよい。私たちの生活は、直接のデモを行うか、選挙で守るしかない。

都会に水を送るために計画された私の故郷の八ッ場ダムは、今も故郷が水没することに反対運動が続き、現在はまだ工期延長のまま、政争の中にあります。地元は交付金をもらって移住したい派と、あくまでも地元に残りたい派にまっぷたつです。
肝心なことは、八ッ場ダムが計画された当時と現在では、水の需要や取水方式において大きく変化があり、八ッ場ダムを造らなくても、水は足りているということです。作るかどうかは、水の問題ではなく、利権の問題だけになっています。

私が子どもの頃住んでいた家は、平地の川の流れを利用する水路自流式発電所の真ん前にありました。1925年に建てられた「歴史的建造物」ですが、現在も現役で6800kwの発電を行っています。しかし、「費用対効果」の経済原則からいうと、このような自然エネルギー利用の小規模発電所より、大規模原子力発電所のほうが、電力会社に入る利益ははるかに大きい。太陽エネルギー開発やバイオエネルギー開発には税金は回されず、電源三法による交付金は、原発の地元に落とされました。廃炉にはこの20年30年かかり、その間の費用も莫大になりますが、それは電気価格の値上げで処理せず、東電の資産売却などでまかなってもらいたい。たとえば、東電が所有している広大な尾瀬ヶ原は、売却してもよいのでは。いくらになるのか知りませんが。

電力会社は、政治家への献金を続け、「自然エネルギー転換」を訴えるグループをつぶそうとしました。
実家を田舎に移して立て替えるとき、屋根に太陽光発電をとりつけるかどうか検討されました。発電所前にあった古屋は、屋根に太陽熱温水器をとりつけてあり、お風呂は「太陽が涌かしたお湯」で入っていました。冬場の雨と曇りの日は涌かさなければなりませんでしたが。
しかし、太陽熱発電は、設置費用と余剰電力販売価格、発電できないときの東京電力からの電力買い入れを勘案すると、現在ではデメリットが大きいと計算され、設置をあきらめた経緯がありました。原発への交付金を太陽熱発電機設置補助金にまわせば、原発と同じ発電所呂能力を有する小規模発電を普及することができます。
今までは、それをせずに、税金を原発に回していたのですから、同じ財源を自然エネルギー転換のためにつかってほしいです。

ドイツで小規模太陽熱発電が普及したのは、政府が脱原発をはかり、積極的に自然エネルギー転換政策をとって、自然エネルギー利用の費用を下げる努力をしたからです。日本でも、電力会社と政治家の癒着を断ち切れば、必ずこの転換はできる。今がチャンス。
また、東京一極集中を地方分散するチャンスでもあります。

>では、収入の六割の税金に、日本国民は堪えることが出来ますか。

自然エネルギー転換をすすめているドイツを例にとりましょう。
ドイツ法人税は2008年から15%。営業税も含めた実効税率は2008年から約29%。 地方税(営業税)課税基準率は2008年から3.5%。
所得税:
2010年より、年収8,004(未婚者)、16,009(既婚者)ユーロ未満は免税。尚、8,004(既婚者:16,009)ユーロ以上の年収でも、その金額を越える部分だけが課税される。ユーロ円は、120円で換算(2011.4.13現在為替)
税率の例(未婚者の場合): 8,004ユーロ(年収約96万円)以上は14%
52,882ユーロ (年収約634万円)(既婚者:105,764ユーロ(年収約1270万円)以上は42%
250,731(既婚者: 501,461)ユーロ以上は45%の所得税。
出典:連邦中央税務庁(BZSt)、税金情報局(Steuerliches Info-Center)

所得税率が14%から42%に上がるのは、既婚者で年収1200万円以上を得ている場合です。日本では、年収1200万円以上を得ている階層は国税庁の統計で4.95%。約5%の階層が所得に対して4割の税金を払う。他は現行の日本の税率と大差ない14%でまかなっていくことができます。ドイツでこの税率で国が維持していけるのなら、日本でも1000万円以下の収入階層に6割もの所得税をかけないでも、エネルギー転換はできると考えます。
私はもちろん、1000万円以下の年収しかありませんから、14%の税金は払うつもりです。

一方,日本の法人税は世界各国に比べてきわめて低い税率です。実質の税率は一例をあげれば、ソニーは12.9%の法人税を払っているのみ。ドイツ法人税は、営業税も含めた実効税率は2008年から約29%であることから見ても、法人税優遇策であることはあきらかです。法人税を高くすると企業が海外流出することを恐れてのことでしょうけれど。

さて、このように、税額やらその使い道に対して、全国民が自分のこととして考えれば、国の共同体としての機能について、もっとひとりひとりの関わり方がちがってくるのではないかと思います。
これまで「お上まかせ」にしてきたことを、ひとりひとりが自分で考え、我が身の問題としていくら税を納め、それがどのように使われているのかを吟味する。

私など、5年前に3月に中国へ行ってしまったために確定申告ができず、それからなんやかやで5年間分の確定申告をためてしまいました。今週やっと申告し、毎年の還付金がもどってくることがわかりました。ただし、区民税都民税国民健康保険は、余分に支払ってきた所得税をもとにして計算されてしまっており、余分に払った分はとりもどせないんですって。ま、寄付と思うか。もともとたいした税額じゃありません。元の年収が超低額ですから。

achaさんのお考えをいろいろメールで知ることができた、これもウェブでの交流のひとつのありかたと思います。会ったこともない人と、このように税金問題まで話し合うことなど、20年前に考えたこともありませんでした。
皆が自分の考えを表明し、よりよい共同体を作り上げること、今回の震災は悲劇でもありましたが、これまでの古い体質リセットと、あらたなスタートになれば、亡くなった方々にも安んじてもらえるのではないかと思います。

あらためて、achaさんの亘理町お知り合いのご冥福をお祈りします。
2011-04-13 19:18:03 ページのトップへ

春庭ニッポニアニッポン事情>中国の労働教養制度

2012-05-16 07:00:00 | 社会文化
労働教養制度
haruniwa
 中国では政府が報道統制を行っているので、一般の人々が世界の情勢を自由に見聞きすることはできません。
 尖閣諸島問題についても、一方的な報道が為されているであろうことは想像に難くありません。

 また、外国人記者が中国国内の情勢を取材するためにも、様々な規制があります。
 ですから、中国に関して、知らないことは数限りなくあります。
 高倉健主演の『単騎千里を走る』の撮影で中国の刑務所内の撮影が許されたのも、例外的な出来事だったのだとか。刑務所内の近代化も進んで、撮影されても問題がでないと当局が考えたのでしょうし、問題ない部分だけ撮影が許されたのでしょう。
 刑務所はどこの国にもありますが、中国には「労働教養制度」というのがあると、2010年09月24日付けの朝日新聞が報道していました。

 労働教養制度について、早稲田大学の但見亮さんが2004年に早稲田比較法学の紀要に論文を書いていますが、一般にはほとんど知らされることはありませんでした。私もまったく知りませんでした。
 比較法学の論文が出ているくらいですから、報道関係者はあるいは知っていたのかもしれません。しかし、報道はされなかった。中国政府に都合の悪いことを報道して、政府の怒りを買い、その後の取材が不自由になると困るからです。報道関係者も何を報道するかについては、自社の利益との兼ね合いで取捨選択しているのですから。

 中国に関しては、報道されていることといないことが多々あります。
 朝日新聞2010年9月24日10面 中国「労働教養制度」意のまま批判者勾留、裁判抜きで強制労働
という記事が掲載されました。
 おそらく、一般の人がこの労働教養制度という民主国家ならありえない制度を始めて知ったことでしょう。

 政府に反対する国民を拘束し、裁判など経ず、刑務所よりひどい状態で最長4年。継続逮捕有りで労働させ、「国民としてふさわしい教養を身につけさせるための矯正施設」
 民主化運動、チベットや新疆ウイグル地区の独立運動家、ファルンゴン法輪功ほうりんこう、などの新興宗教信者が拘束されています。
 中国ではこの制度の廃止を求める運動が続いていますが、民主化闘争の弾圧が北京オリンピック前も後も強化されこそすれ、廃止への道は遠い。

 中国政府がこのように民主化への要求を押さえつけ、経済の自由化は認めても政治の民主化を決して認めようとしないのには、山のように理由があるのですが、理由はなんであれ、13億人を統治するには、現状が崩されることは当分ないでしょう。
2010-09-27 11:31:24 ページのトップへ

グローバル世界の中での中国
haruniwa
 中国13億人のなかでパソコンなどを使ってグローバルな活動ができる人々はまだ1割程度にすぎません。
 しかし、1割でも日本の人口以上の中国人が世界と直接つながるようになった点は大きい。

 私が2009年に滞在している間、youtubeは閲覧が禁止されていました。リンクしても、妨害電波のためにつながらなかった。学校でtoutubeがつながらない、と学生に言っても信じてもらえなかった。中国はすべての情報は自由ですと学生たちは主張していました。今、井の中から飛び出た学生たちは、世界を知り、中国の現状を外から眺める目を養っています。私が教えた学生たちは頭のいい子たちですから、日本滞在中に必ず自国を冷静に見る目を養うと思います。

 これからの中国が13億人をどのように率いていくのか、13億人特に少数民族がそれぞれの主張を始めたとき、どうするのか、チベット問題、新疆ウイグル問題のほか、課題は山のようです。
2010-09-27 11:38:21 ページのトップへ

尖閣諸島問題
haruniwa
 今、中国政府が尖閣諸島、釣魚島問題を国内外の大きな争点としていることには、私はひとつの意図を感じます。
 中国政府はこれまでも、国内問題で抑えられないような大問題が起こると、国民の目を外に向けさせ、国内の問題から目をそらさせるという措置を執ってきたからです。

 1950年代の「大躍進運動」が大失敗に終わり、国民が飢えかかったとき、毛沢東は、台湾との国境問題金門島で連日軍事活動を行って、領土問題へと国民の目を向けさせました。

 尖閣諸島問題で中国が強気に出ているのを見ると、私は逆に「国内問題の何を隠そうとしているのだろうか」と疑ってしまうのです。

 日本国民は冷静に事態をながめ、中国の挑発に乗らないようにしてほしい。
 カフェブログをながめても、「中国との徹底抗戦を」「弱腰外交の菅政府」を憤る声が圧倒的です。
 ちょっと待って。このように日本国民が慌てふためき怒りをあらわにするほど、中国政府は「日本を憎め」と自国民をあおり立てる材料にする。
 経済格差の増大による中国国民の怒りが政府にむく前に、日本への憎悪にかえさせようとしているのかもしれず、決して挑発にのってはいけません。

 春庭が、中国人留学生とのんきに交流しているようすをUPすると「そんな場合じゃないでしょう」と、怒り出す人もいるかなと思いつつ、月末のトピックとして選びました。

ちよさんのようにこの交流の意味をわかってくれる人ばかりではないことは承知の上ですが、まあ、火の粉がとんできたときは、ばたばたと慌てて火消ししましょう。
2010-09-27 11:55:46 ページのトップへ

タモリの弔辞

2012-02-27 12:23:56 | 社会文化
 以下は、2009年1月に書いたまま放置していた一文です。

2009/01/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>挨拶はむずかしい(1)これでいいのだ

 日本語言語文化の上で、人があらたまった席で思いのたけを述べなければならない場というのが、いくつかある。卒業式総代の式辞とか、結婚式の終わり頃に「父親として出席者に挨拶する」とか。
 弔辞というのは、もっともむずかしいと言われている「公のことば」のひとつ。亡き人と読む人の関係もさることながら、読む人のお人柄があらわれます。

 「文の芸」の達人は、弔辞をまとめた本なども出版しています。たとえば丸谷才一『挨拶はたいへんだ』
 丸谷によると、弔辞は「伝記」だそうです。この世を離れて旅立つ人の生涯をまとめて聴衆に語り聞かせることが、旅立ちへの餞になるわけです。

 2008年になくなった方のひとり、漫画家の赤塚不二夫。
 赤塚さんは、たくさんのギャグマンガを残しました。おそ松くんもヒミツのアッコちゃんも、人々が長く楽しんだマンガでした。でもその死は長い闘病を経ての死でしたから、私にとってはそれほどの衝撃はありませんでした。
 赤塚の葬儀でのタモリの弔辞が評判だったことを、講師室のよもやま話で知りました。 タモリによる赤塚不二夫への弔辞。タモリにとっては、人生で初めての弔辞だそうです。弔辞といっても書かれた文章を読んだのではありません。白紙を広げて、亡き人へ語りかけたのだそうです。
 以下、引用します。
==============
弔辞 
8月の2日にあなたの訃報(ふほう)に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第一世代と言っていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。

 私がお笑いの世界を目指して、九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきりと覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
 終わって私のところにやってきたあなたは「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。

 自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。 それから長いつきあいが始まりました。しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。 赤塚先生はほんとうに優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。

 その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
 あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。すなわち、「これでいいのだ」と。

 いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月。伊豆での正月。そして海外へのあの珍道中。どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたはいまこの会場のどこか片隅で、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、ひじをつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。

 私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかしいまお礼を言わさしていただきます。
 赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。 私もあなたの数多くの作品のひとつです。合掌。
 平成20年8月7日  森田一義
==================== 

 「ギャグによって物事を無化する」とは、これから「タモリの名言」として伝えられるだろうと思います。赤塚マンガの本質をひとことでズバッと言いきった鋭い批評性を持つ言葉。「ことば」をつかって商売をしているすべての人間にとって、核心をつかれた思いのすることばです。

 実に見事な赤塚の伝記でもあり、タモリとの長い交友の歴史回顧でもあり、両者の人柄も彷彿とさせる弔辞だと思います。
 ひとつだけ、「現代」を感じさせる部分をあげるなら、旧世代の人間なら「お礼を言わせていただきます」と言うべきところを、日本語変化の最前線に身を置くタモリなので「お礼を言わさせていただきます」と、「サ入れ敬語」をつかったこと。

 講師室で「タモリの弔辞」が話題になったのも、「言わさせていただきます」が、このような「人前での正式な言辞」に登場した例として、これから例文に取り上げられるだろう、という話の流れでのことでした。テレビのバラエティ番組などでは、もうだいぶ前から「サ入れ敬語」は頻出していましたけれど。

 学生達が「明日の授業やすまさせていただきます」と言うたびに、「それ、サ入れ敬語っていって間違いだから、休ませていただきます、と訂正しておかないと、就職試験で落ちるよ」と、現在のところは注意していますけれど、もうすぐ「まちがいです」と言わなくてもよくなるかも。

 日本語は時の流れのなかで変化してやまず。 去りゆくものへの「餞(はなむけ)」が弔辞であるなら、私の中に去っていった暦ひとまわりの歳月に対して、私もこう言いたい気がする。「これでいいのだ」
 たいした半生でもなかった春庭も、臆面もなく自己肯定を「言わさせていただきました」

ことばを編む2009年1月

2011-04-13 08:14:00 | 社会文化
2009/01/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(1)つぎあて暮らし

 結婚以来の貧乏暮らしを続けてきた春庭。
 うちの娘息子は「ツギあて靴下」を履いて育った、今時めずらしい子どもたちです。保育園や小学校で、靴下のツギあてを悪ガキ連に見つかると「貧乏靴下ビンボー人」と囃されるのでいやだった、と、娘は今になって思い出を語るようになりました。もののない時代ならともかく、バブル真っ盛りの時代にツギあて靴下を履いた子は、たぶん、東京では珍しかったことでしょう。

 大人になって、「ツギあての一針ひと針に母の愛情とせつなさが込められている」とわかるようになって初めて「ビンボー靴下って、はやされてイヤだった」と言えるようになったけれど、子供のころは「こんな風にクラスで馬鹿にされていることを母が知ったら悲しむだろうから、ぜったいに言えない」と、娘は黙っていたのだと思います。
 今の時代なら逆に「モッタイナイ精神にのっとったエコロジー靴下」とでも自慢できたのにね。時代が悪かった。
 もう、子どもたちもふたりとも成人して、靴下にツギを当てる必要もなくなりました。「ツギをあてる」という作業が、好きだったからこそチクチクと針を動かしたのです。

 「ツギあて」という作業を「自分の本来の仕事」として黙々と続けたあるスペインの女性の話を読みました。
 マリア・モリネールにとって、第一の仕事は「息子ふたり娘ひとりの子どもたちのために靴下にツギをあてること」であり、第二の仕事は「図書館司書」でした。その仕事のあいまに、後半生の30年をかけて「スペイン語辞書」を書きあげました。3000ページ二巻の辞書を、ガルシアマルケスは絶賛しています。

 マリア・モリネールについてガルシアマルケスが1981年に書いた文章を、田澤耕さんが翻訳しました。翻訳文は「図書2008年3月号」に掲載されました。
 田澤さんが書いた翻訳をそっくりコピーした文を、「ネット上切り抜き帖」として載せておきます。

 私は読んで「いいなあ」と思った文章を切り抜きしておくのですが、整理整頓ということがまったくできない性格です。きちんとファイルしておかないので、「もう一度読みたい」と思ったときに、どこにその切り抜きがあるのかわからなくなってしまうことがしばしば起きます。これからますますボケが増えていくでしょうから、紙の切り抜きをしまっておくより、ネットに載せて見出しをつけておくほうが、探しやすいとわかりました。

 自分のための「切り抜き」コピーですが、もしマリア・モリネールの一生に興味があったら、読んでみてください。ガルシアマルケスのマリア・モリネールへの敬愛の念が伝わる文章です。
 著作権はガルシアマルケスと田澤耕さんにあるので、商用の引用はできませんが、論評の一部としての引用は可能です。(引用の目安としては、紹介文、論評の文が引用部分より長いこと、という程度で、厳密な規定ではありません)
 次回、ガルシアマルケスの文章を引用します。

<つづく>
02:08 コメント(7) ページのトップへ
2009年01月27日


ぽかぽか春庭「マリア・モリネールが辞書を編んだ話」
2009/01/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(2)マリア・モリネールが辞書を編んだ話

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G・ガルシアマルケス著
 三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。

 マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。

 マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の資格を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。

 アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかが示めされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書として五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを待つばかりのカードの厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。

 息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく冷静に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎日の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞で見つけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。

 マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
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[訳者注]
 最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
 この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。
(G・Garcia Marquez・作家)

(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo
「図書2008年3月号」より

<つづく>
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2009年01月28日


ぽかぽか春庭「ことばを紡ぐ」
2009/01/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(3)ことばを紡ぐ

 小田康之さんはブログのなかで、スペイン語を専攻した上智での学生時代に「西西辞典」をよく使った、と思い出を書いています。小田さんは、現在サンフランシスコに在住し、英語関連の会社を運営している方です。有名商社で働いたあと、現在は英語を駆使したマーケティングやコンサルタントの仕事で活躍しています。小田さんはブログ中で、マリアの辞書について「マリア・モリネールという女性が編纂した少々ヒステリックな大型辞典」と評しています。

 「ヒステリック」と言いたくなる小田さんの気持ちもなんとなくわかります。子育てを終えた女性が、50代前後(アラウンド50をアラフィと呼ぶのがトレンディとか)から80歳で永眠するまで、来る日も来る日も古今東西の本や新聞雑誌からことばの用例を抜き出す作業を繰り返す。AからZまでようやく終えたとおもっても、また新しい用例が見つかるから、またAへ戻って作業を続ける。

 編み目をほどいてはまた編み続ける編み物のように、一目一目、果てしなく根気よく続ける。このような仕事は、たしかに男性の目から見たら「ヒステリック」に映るのかもしれない。

 小田さんの用語のヒステリックとは、精神医学用語の、解離性障害、身体表現性障害をさすヒステリーではなく、ヒステリーの語源となった「子宮の」つまり「女性特有の」とでも訳すべき、やや蔑視を含んだ意味において使用されていると、私は感じました。

 マリアの編んだ「息苦しいほど厳密なことばの編み目」としての辞書は、女性特有の「抑圧された女の人生の代償としての仕事」に見えるのだろうと、小田さんの「ヒステリックな辞書という見方」を解釈しました。

 でも、編み物や織物が好きな人にとって、このような細かい繰り返しの作業や、編み上がったと思ったのに、模様編みの目に間違いを見つけて、糸をほどいて編み直す、そんな作業はつきものです。編んだものを一度ほどいて編み直し、また根気よく編み続ける。

このような作業で手仕事は成り立っています。キルトやこぎん刺しなどの刺し子、刺繍、女性が主な担い手になってきた糸の仕事は、ほとんどが「同じ事の繰り返し」を丹念に続けていくものです。

 マリア・モリネールは辞書を編纂しました。文字通り、一目一目、辞書を編んでいったのだと思います。編み目模様を間違えたら、糸をほどいて編み直す。その作業がヒステリックなものに見える男性には、一日中絨毯の糸を結びつづけても5mmしか織り上がらず、二日かけてやっと1cmしか進まない絨毯織りとか、ちくちくと布に糸を刺していく刺繍や刺し子などは「女の仕事」としてつまらないものに感じられるでしょうね。

 男は、世界を相手にして駆けめぐり、ダイナミックに活動する仕事を選ぶのだ、と感じている方も多い。選挙戦に勝ち抜いて大統領まで成り上がるとか、イランやアフガンでほんとうに戦争をするとか、営業開拓に走り回って、社内NO.1の成績を勝ち取るとか、、、、

 「女特有の○○」と表現すると、そこにはなんとドメスティックなちまちまとした感覚が浮かび上がってしまうことでしょうか。一日中編んでいっては、編みほぐす。キルトの小布を一枚一枚をつないでいって、配色がうまくいかずに糸をほぐす。

「世界を相手の重要なお仕事」をなさっている男性には、このような作業が「ヒステリック」にうつるのだと思いますが、どのように評されようと、私たちはこのような「ヒステリックな作業」を紡いで、日々をすごしているのです。

<つづく>
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2009年01月29日


ぽかぽか春庭「ことばを縫う」
2009/01/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(4)ことばを縫う

 「つぎあても パッチワークと 言えば粋 (粗忽)」というコメントをもらいました。有難うございます。一目一目大切に編み上げた仕事がマリア・モリネールの辞書なら、私の仕事は、使い古しの布を縫い集めたパッチワーク。古今の日本語で表現された「織物染め物の布地のような言葉の切れ端」を集め、丹念に縫い合わせたキルトのような「日本語言語文化論考」になると思います。さあ、どんなキルト作品にしようかしら。「ヒステリックな論考」と言われるかもしれないけれど、粋に仕上げたいものです。

 私の専門は「日本語言語文化」です。
 教育面では、私立大学では日本人の学部生相手に「現代日本語論」「社会言語論」「日本語教育研究」を講じています。国立大学では留学生教育を担当し、日本語文法や漢字の授業をしています。

 あまりにも幅広い分野を受け持っているので、同僚からは「1週間に5日授業をして、授業の準備は、いつしてるの?」と言われますが、土日、夏休み冬休み春休みをつぶしてやっています。家事は今のところ、お茶碗洗いと洗濯だけになりました。料理やゴミ出しなどを娘と息子が分担するようになりましたので。それでも、自転車操業の毎日。体力勝負の日々です。
 研究面では、修士課程まで日本語文法統語論が中心でしたが、昨年から語彙論や比較文化比較文学も含めて「カルチュラルスタディ=文化研究」の幅広い分野に手を染めています。

 研究結果がどのように帰着するのか自分でも先行き不安ではありますが、論文をまとめる「生みの苦しみ」もまた楽し、といったところ。大学専任教師なら研究も仕事のうちで給与に含まれていますけれど、非常勤講師はいくら研究してもそれは自分の「勝手な趣味」。
 授業ヒトコマこなしてナンボという雀の涙のような講師料で生計をたてながら、博士論文完成へ向けてちくちくと古布を縫い合わせています。

 自分のこのような来し方に「なぜ、こんなに貧乏な暮らししかできない人生だったのだろう」と思うこともあります。でも「こつこつ自分のできることをやりとげる、それでいいじゃないか」と、反省するときもあります。
 反省するときのライフモデルのひとりがマリア・モリネールです。「ことば」をめぐって、「ああ、こんなふうにことばと関わって生きていけたらいいのになあ」と思える女性の一人、スペイン語の辞書を編纂したマリア・モリネールを、ガルシアマルケスの文によって紹介しました。

 マリアの夫はサラマンカ大学の教授でした。図書館司書という職業を持っていたのも、家計を維持するためではなく、「人生には働くことが必要だ」と感じた自分自身のために従事していた仕事でしょう。また、彼女の子どもたちは、長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師になって、マリアは母として、娘息子を立派に自立させたのだと言えます。

 マリアの生活に比べると、我が家、生活状況が違いすぎます。長女長男、どうにも育ち上がらずパラサイトしていますし、夫に収入がないため、ひたすら家計維持のために働いてきた私の労働には、経済的にも時間的にもまったく余裕というものがありませんでした。私とマリア・モリネールとでは、さまざまな条件が異なります。

 それでも、子供の成長後、「子育てのかわりとして自分のためのライフワーク」を持つという点では、マリアの一生をお手本にしたいと思っています。
 マリアはコツコツとスペイン語の用例を集めました。マリアのスペイン語辞書(西西辞典)は、日本のスペイン語学習者、翻訳者にも大いに助けになり、日本語とスペイン語をつなぐ架け橋となりました。

 私も、日本語教育を通じて、日本語と他の母語を話す人の架け橋のひとつになりたいと思っています。そして、日本語言語文化についての思索をコツコツと編み上げ、まとめていきたいと思っています。ひとりで辞書を編纂する根気は私にありませんが、日本語言語文化の真髄について考え続けてことばを縫い合わせていきたいと思っているのです。

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 春庭の「日本語言語文化論考」の論文がどんなパッチワークなのかのぞいてみたいと思う奇特な方がいらしたら、「春庭の論文倉庫」にしまってあるのをのぞき見してくださいませ。
一例として「日本語言語文化における『しろ』」というタイトルの論考は下記に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/diary/d69#comment

春庭論文の「倉庫」ページ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/bbs

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2009年01月30日


ぽかぽか春庭「ことばを織る」
2009/01/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(5)ことばを織る

 私は、これまで数十年間「ことば」に向いあってきました。これから先、これらのことばをうまくまとめていけるかどうかわかりませんが、マリアの生き方を手本として、あと30年は「靴下にツギをあてながら」書き続けていきたいと思っているのです。

 作家、文系研究や教育の仕事を選ぶ男性は、どちらかというと「世界を相手に駆けめぐる」式の人より「こつこつ言葉を紡ぎ上げる」型の方が多いように感じます。たとえば大江健三郎。「男のオバサン」と揶揄されることもあるこの作家が、「言葉を編み上げ、またほどいて編み直す」ことの重要さを語ったことがありました。

 編み物の編み目をほどいてはまた編み続けるように、学んで学びほぐし、教えては教え直す、こんな学び方「アンラーン」について、大江健三郎がコラムを書いています。大江は鶴見俊輔の新聞に載ったコラムに啓発されて同じ新聞に感想を書いたのです。
 鶴見俊輔は「ヘレン・ケラーからアンラーンという言葉を教わった」というコラムを2007年末に書きました。

 私は鶴見と大江のコラムを感銘深く読みました。
 鶴見と大江のコラムの感想を「アンラーンとアンティーチ」と題してについて、「確か、春庭も前に書いたことがあったよな」と思って、どこにあるか探しました。
 紙に書いたのを探したらたぶん、見つからなかったでしょう。整理整頓、下手ですから。でも、ありがたいネット検索。「アンラーン アンティーチ」のアンド検索で出てくるのは自分のサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobachie0611a.htm

 アンラーン、学んで学びほぐす。アンティーチ、教えて教えほどく。こんな編み物の一目ひとめのような学び目を大切にしていきたいと思っています。

 定年の時期に入った同級生はつぎつぎ「楽隠居」「孫のお世話係」を始めているという年齢なのに、私はあと10年は働くつもり。パラサイト娘と息子に寄生されているのでやむをえないことではありますが、仕事の面では「うん、私そこそこがんばってる」と、言えると思います。

 女性が、いろり端で繕い物や編み物をしながら子どもたちに童歌や昔話を語り聞かせたり、生活の技についてのことわざを伝えたりしてきたこと、織物や編み物縫い物を繰り返し繰り返しして続けてきたこと。そんなひとつひとつの手仕事を大事に思っていきたいなあ、と、来し方を振り返っています。
 次回シリーズは、糸の仕事のうち染め物と織物について。次次回シリーズは、女性と伝承について。

<おわり>


編集とコピペ

2010-09-21 16:38:00 | 社会文化
2010/12/11 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(1)編集とコピペ

 私は、松岡正剛の「編集」という概念に賛同しています。「世の中のあらゆる文化は、先人が達成した文化の再編集によって、新たな装いをもって成立する」というのが「編集」の考え方です。新発見、新発明ということも、先人の知恵を利用して発見するものだからです。

 「編集」されたものには新たに「編集権」が備わります。単純な例でいえば、短歌集。短歌を作った人には創作著作権がありますが、それは著作者死亡後、50年で消滅します。万葉集の作者はもう1200年以上も前に死んでいますから、ひとつひとつの歌に著作権はありません。しかし、ある編集者が独自の観点で万葉集アンソロジーを編集して発行したら、編集した者には編集権が発生するのです。

 文章の中身が既存の知識で構成されているとしても、独自の観点から新たに書かれたものなら、書いた人に編集著作権があります。
 私が書く日本語についての文章、あちこちの文献を調べ、自分なりに納得したことを自分自身の文章で再編集します。

 春庭は、さまざまな文献を調べ、以下のような「海海海海海をアイウエオと読むことについて」の文章を書きました。書いた事実自体は、いろいろな文献に出ていることですから、春庭のオリジナルではありません。しかし、文章そのものは、春庭が自分の頭で編集し、書き上げたものです。春庭に著作権があります。
 他人が書いた文章を、自分の名前で発表したら、それは盗作です。

 春庭の文章がそっくりそのままコピペされていたサイトに出くわし、びっくりしました。ネットの中で、質問者に回答を寄せるとポイントが貯まる、というサイトの中に、あれ、どこかで読んだ気がする文章があるな、と思ったら、下記の2008/12/23付けの春庭コラムがそっくりコピペされていたのでした。

 下記のカフェコラムの元の文章は、春庭BBSに、2008-12-21 09:30:13 にUPしたものです。ネットのUPは、何月何日に書いたものなのか、確実に記録が残るのでありがたいです。
================
2008/12/23 (03:01にUP)
t******(2008-12-17 11:35:06)さんからのご質問に回答しました。
質問その1:海海海海海をアイウエオと読むということですが>

回答 「海海海海海と書いてアイウエオと読む」言葉遊びのひとつです。
「海」音読みは「カイ」訓読みは「うみ」ですが、当て字に用いた場合、さまざまな読み方にあてられる。ただし、この当て字は熟字訓というもので、アマという言葉に「海女」を当てたからといって、海に「ア」という読み方があるわけではありません。あくまでも「海女」という二字の熟語の読み方が「あま」なのです。

あ─海女(アマ)、
い─海豚(イルカ)、
う─海胆(ウニ)、
え─海老(エビ)、
お─海髪(オゴ)または海藻(オゴノリ)をあわせたもの。

 「海松」と書いて「みる」と読む。海草の一首の「ミル」に当てた漢字です。こちらの場合、海を「み」と読むのは人名地名にも当てられていますね。青海の読みは「おうみ」「あおうみ」「せいかい」などあり。
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 上記の文章をそっくりそのままコピーペーストした文が、別サイトに別人の名前でUPされていました。

 myth21hide氏によるコピーペースト、私がカフェコラムをUPした6時間後に「教えてgoo」というサイトにUPされていました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1758086.html
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回答者:myth21hide 回答日時:2008/12/23 09:26
 「海海海海海と書いてアイウエオと読む」言葉遊びのひとつです。
「海」音読みは「カイ」訓読みは「うみ」ですが、当て字に用いた場合、さまざまな読み方にあてられる。ただし、この当て字は熟字訓というもので、アマという言葉に「海女」を当てたからといって、海に「ア」という読み方があるわけではありません。あくまでも「海女」という二字の熟語の読み方が「あま」なのです。

あ─海女(アマ)、
い─海豚(イルカ)、
う─海胆(ウニ)、
え─海老(エビ)、
お─海髪(オゴ)または海藻(オゴノリ)をあわせたもの。

 「海松」と書いて「みる」と読む。海草の一首の「ミル」に当てた漢字です。こちらの場合、海を「み」と読むのは人名地名にも当てられていますね。青海の読みは「おうみ」「あおうみ」「せいかい」などあり。

 「海海海海海あいうえお」の言葉遊び、出典は「万葉集」という説もあるのですが、何巻の第何番の歌なのか、確認できておりません。

 逆に天智天皇、天武天皇の父の歌だとわかりました。
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 春庭が「海海海海海アイウエオ」について書いたコラムのコメント欄にmyth21hide氏からのコメントが書かれていましたから、myth21hide氏が春庭のコラムを読んだことは間違いありません。
 おそらく、myth21hide氏は、春庭とて独自の見解や発見を書いたわけではなく、いろいろなところに出ていることがらを寄せ集めているだけなのだから、myth21hide氏が春庭の文章をコピーしたところでたいした問題ではない、と考えての速攻コピーだったのでしょう。また、「教えてgoo」は大勢の人の目にふれるサイトですが、OCNカフェの春庭コラムなど、一日に10人も読む人がいれば上々のマイナーサイトだから、コピペが発覚することもないと考えてのことだったかもしれません。

 確かに、「海海海海海」を「アイウエオ」と読むことば遊びそのものは、昔から行われてきた当て字、熟字訓を元にしたもので、春庭が発見したことではありません。しかし、この文章を書いたのは春庭であり、春庭がさまざまな文献をもとにまとめたものなのです。編集権と執筆の著作権は春庭にあります。

 春庭は、ネットの中の文章をコピーすることについて反対しているのではありません。引用するなら、引用元について、きちんと執筆者名を書き引用元のURLを書くことでネットからの引用も許されると考えます。問題なのは、他者が書いた文章を自分の名で、自分が書いたようにしてコピーすることです。これは泥棒です。

 引用する場合の出所の明示については、著作権法の第48条に規定されています。myth21hide氏のコピーペーストは、春庭の文章であることを明示せず、myth21hide氏独自の文章の付け加えは、最後の一行のみなので、引用の範囲を超えています。
 なお、myth21hide氏の文の最後の一行は事実誤認です。万葉集原典にあたっていないことが、このことからもわかります。欽明天皇は「海海海海海」に関する歌を残していません。

 某私立大学中国人学生の作文コピペに悩んで、どうしようかとサイト検索しているうち、思いがけず、自分の文章もコピペされて、私の知らないところで勝手にUPされていることに気づいて、あれま、日本人でさえコピペに対してこの程度の意識しかないのだから、中国人学生が著作権を理解していかないのも、仕方ないのか、と暗然としています。

<つづく>
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2010年12月12日


ぽかぽか春庭「作文コピペ」
2010/12/12 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(2)作文コピペ

 北京で行われたフィギュアスケートグランプリファイナル。女子は新星村上村上佳菜子が3位、男子は織田信成が2位、小塚崇彦が3位。日本勢で金銀銅独占という欲張りな夢は成りませんでしたが、フリーでは安藤美姫が最高点になるなど、見所が多く、はらはらしながらも楽しめました。

 春庭創作「名前で回文」フィギュアスケート篇に、織田信成が抜けてしまっていた。付け足しです。昨日のフリースケーティングでは、4回転だけでなく2回転でも負けにつながる転倒があった織田信成でしたが、次回は無理な倒れ方をしないように、そしてチャンピオンに成れと願って。
 良し!成れ、織田信成、無理な負の倒れ無しよ。「よしなれおたのふなりむりなふのたおれなしよ」

 自作回文を作ったあと、必ず検索を入れて、同じものがこの世にUPされていないか確かめます。俳句やキャッチコピーなど短いフレーズのものは、意図しなくても同じものが作られてしまっている可能性があるからです。一文まるごとの検索と、一語ずつに分けてアンド検索をします。一文は、平仮名だけのと、漢字仮名交じりと両方確認します。良し、成れ。同じ回文は無しよ。それで、ようやくUP、OKになります。

 今年4月から担当している某私立大学の留学生クラス、一つのクラスに40人も詰め込まれているのが、二クラス。「文章表現」「口頭表現」の指導をせよ、ということで、春庭なりに、精一杯指導はしたつもりですが、なにせ人数が多すぎて、これまでの国立大学留学生クラスのような授業ができませんでした。十分な指導ができず、「学生の日本語力が4月から伸びた」という実感が得られずに年末を迎えたこと、近年にないことで、たいへん強いストレスになりました。

 ひとクラス40人の作文を提出させて添削し指導することは、かって他の私立大学留学生クラスでも行ってきたことだから、と思ってこの仕事を引き受けたのですが、どっこい、時代が違い、学生の意識が異なりました。インターネット時代の落とし子たち、それも、コピペを当然と考える国からの留学生です。ネットからコピペした文章を当然のように「作文の宿題」として提出し、「ばれなきゃOK」という意識なのです。

 「あなた方が現在書ける作文能力は、一番最初に授業中に書かせた自己紹介作文で把握しています。コピーペーストしても、ぜったいに教師は本人が書いた作文かどうか見破ることができるからね。コピペは必ず発覚しますよ」と、毎時間作文を書く度に言っているのに、コピペ作文があとをたちませんでした。

 仕方のないことかもしれません。中国に著作権意識はまだ浸透していないのです。
 「クレヨンしんちゃん」は、中国で中国人が取得した「蠟筆小新(ラービィシャオシン)」の商標が登録され、登録者は今も、この商標を「正式」に使用し続け、日本の原作者と出版社は、中国における権利を認められなかったという問題がありました。
 上海万博では、PRソングに選ばれた歌が、日本の岡本真夜のヒット曲「そのままの君でいて」(97年発売)にそっくりであることがわかり、中国政府側も認めました。岡本側に「楽曲使用願い」を出し、岡本が許可を出したことで一件落着となりましたが、これはあまりにも明白な盗作であり、世間にも広く知られてしまったため、上海万博を恙なく成功させたいという中国政府の意向から正当な処置になったのであり、おそらくおおかたの「中国パクリ天国」は、これからも当分の間横行することでしょう。

 「中国人は泥棒になることを良いことだと思っているのですか」そう尋ねると、学生たちは「人のものを盗むのは悪いことです」と答えます。でも、彼らの意識では、泥棒とは「物」や「お金」を盗むことに限られています。アイディアとか意匠登録とか著作物など、形のないものについては別なのです。
 学術論文、博士論文ですら、コピペ横行であることは、中国語の論文を読んだ人の多くが指摘しています。

 一般の中国人に「著作権」という概念はありません。日本語教師春庭は、「人の文章をそっくりそのままコピーしたら、それは泥棒です。人の文章をそっくりコピーしたら犯罪ですよ」と、教えるところから授業を始めました。

 それでも、コピペは続出しました。作文の一部、またキーワードをいくつか検索に掛けると、コピー元の文章が割り出せます。ネットをコピーしたものを学生に見せて、「あなたの文章は、ここからコピーしたのですね」と、突きつければ、しぶしぶ認めますが、「見つからなければOK」の精神は、続いています。コピー元がわからないとしても、普段自分の力で書いている文章とあまりの落差のため、すぐにコピーだとわかるのですけれど、証拠がないと言えないのが弱みです。

 経営上の問題で、日本語力が低い人たちもどんどん入学させている大学であることは承知の上だったのですが、「自分の力で日本語力を向上させたい」という意識が皆無の学生、「他の人の文章をコピペしてもバレさえしなければ、単位がもらえる」という考えの人に出くわすと、毎度毎度がっかりの連続です。

<つづく>
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2010年12月14日


ぽかぽか春庭「コピーとインスピレーションとオマージュ」
2010/12/14 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(3)コピーとインスピレーションとオマージュ

 春庭のカフェコラムで、何度か「コピー」「盗作」「インスピレーションを受けての再創作」「パロディ」「オマージュ」等の問題について述べてきました。
(2006年9月16~28日 翻案盗作パロディオマージュ(1)~(13)。シェークスピアの元ネタについて、また手塚治虫とディズニーアニメの影響関係など、作品中のコピーやオマージュについて述べました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609A
 
 あるモチーフを元にして新しい文化を創り上げることは、どの文化でも芸術や産業のどの分野でも行われてきたことです。言語作品の影響関係について、とても興味深い話をききました。題して「本歌どり・賢治とアメリカ郵便局スローガン」byアーサー・ビナード

 12月9日木曜日の夜、詩人アーサー・ビナードさんの講演がありました。
 ビナードさんはニューヨーク州のコルゲート大学卒業後、1990年に来日。池袋の日本語学校で日本語を学びました。英語日本語相互の翻訳や日本語での詩や俳句の創作をはじめ、2001年に日本語の詩集『釣り上げては』を出版し、中原中也賞を受賞。外国人でこの賞を受けたのはビナードさんただ一人です。

 現在は、青森放送や文化放送のパーソナリティとして活躍し、詩集、絵本、エッセイなど多彩な作品を日本語社会に送り出しています。

 非日本語母語話者による日本語言語作品、リービ英雄や楊逸など「越境文学」を守備範囲に入れたい春庭、講演があることを昼休みに知り、仕事を終えてから講演をききました。師走のひとときを有意義にすごすことができました。

 ビナードさんが発見した、「インスピレーションを受けての再創作」についての話を採録します。

 ビナードさんが来日して、池袋にある日本語学校に通い始めたころのこと。ビナードさんは日本語クラスの市川先生に本を借りて読んでみることにしました。文庫本の日本語の詩を読み出してみると、以前に確かに読んだような、なつかしい感じを受けました。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ、、、、
 ビナードさんが宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を読み出したのは、最初の漢字「雨」を見て、「おお、知ってる漢字だ、これなら読めそうだ」と思ったからだそうですが、すぐに辞書を引いてもわからないところにぶつかりました。「イツモシヅカニワラッテヰル」
 日本語学校で片仮名は習ったけれど、「ヰ」は何だ?習ったことがない。「?」のような記号なのか。それならそのあとに片仮名の「ル」がつくのはおかしい。

 「ヰ」はひらがな「ゐ」のカタカナであることなどを知らなかった、日本語初級のころですから、一遍の詩を読み上げるにもいろいろな苦労がありましたが『雨にもまけず』は、ビナードさんにとって大きな印象を残した日本語詩になりました。

<つづく>
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2010年12月15日


ぽかぽか春庭「王の道と雨ニモマケズ」
2010/12/15 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(4)王の道と雨ニモマケズ

 知らない文字も出てきてたいへんだったけれど、ビナードさんは、「雨ニモマケズ」の最初の数行を読んで「どこかで出会った詩句のような、なつかしい感じのすることば」と感じたのだそうです。
 どこでこの「雨にも負けず」というフレーズを見かけたのだったか記憶をたどると、、、、。それは、大学があったニューヨーク州の郵便局の壁に掲げられている「郵便配達員のモットー」でした。

 「郵便配達員たちの信条 Postal Service Mission and "Motto”」として有名なスローガンなのだそうです。こんな詩句。
"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night, stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds"

 雪も、雨も、暑さも夜の暗がりも、配達人の配達区域で迅速な任務の完遂をおしとどめることは出来ない(春庭の訳なので、違っている部分があるかも知れません。たぶん、ビナードさんによる日本語訳がどこかの本に載っていることでしょう)
 ほんと、ビナードさんが「なんだかなじみのある詩句」と感じたこともうなずけます。
「雪にも負けず、雨にも夜の暗がりにも負けず、黙々と担当地区の郵便を運び続ける、、、、」そんな郵便局員に私はなりたい、、、、という郵便局のスローガン。

 アメリカ郵便局員のモットー、出だしのところは「雨にも負けず」の雰囲気にそっくりです。ビナードさんも最初は「あれれ、アメリカの郵便局は、宮沢賢治をパクッたのか?」と思ったそうです。でも、「雨ニモマケズ」を辞書をひきひき読み進めていくと、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負イ」、、、おやおや、郵便局員の仕事とは違うようだなあ、、、、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」あれまあ、郵便局員をデクノボー呼ばわりしたら叱られるだろう。
 
 それで、アメリカ郵便局が「雨にも負けず」をパクッたのではないか、という疑いを捨てて、"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night,のほうを調べてみると。コピー元がわかりました。
 郵便局がパクッたのは、宮沢賢治からではありませんでした。
 賢治より2350年前のギリシャに生きた歴史家、ヘロドトスの詩句からでした。ギリシャ時代の歴史家ヘロドトスが書いた『歴史』の中の一節に、このスローガンの元ネタがありました。

 「この郵便局員のモットーは、ヘロドトスの『歴史』からのコピー、いや、コピーというより、本歌取りと言ったほうがいいでしょう」と、ビナードさんの説明。

 春庭は、ヘロドトスの『歴史』については、あまり知りません。学生時代にところどころを授業で読まされただけで、通読したこともなく、このヘロドトスによる「配達者の使命」についてまったく知らなかったので、ウィキペディアなどで調べました。

 ヘロドトスが書き記したのは「ペルシャ王の公道」という逸話です。ペルシャ帝国は、広大な領土に公道が整備されていました。王の道(Persian Royal Road)は、アケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオス1世によって、紀元前5世紀に建造されました。王都スーサからサルディスに至る拠点ごとに宿駅が設けられ、守備隊が置かれていました。この公道によって帝国は交通と通信を迅速に行うことができ、領土を保全することができたのです。

<つづく>
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2010年12月17日


ぽかぽか春庭「ヘロドトスと宮沢賢治」
2010/12/17 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(5)ヘロドトスと宮沢賢治

 ヘロドトスはダレイオス1世が死んだBC486年の1年前BC485年ころの生まれですから、大王が建設した王の道がもっとも盛んだった時代に生きていたことになります。
 ヘロドトスが『歴史』を書いた当時、王都スーサから帝国遠隔の地サルディスまでの 2,699キロメートル(1,677マイル)を7日間で旅することができたと言われています。

 ヘロドトスは、「この公道を利用したペルシアの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と記録しました。王都から地方へ王の命令を伝える伝達使たちは使命感を持ってこの王道を行き来しました。

 ヘロドトスは、『歴史』の中に、ペルシャの伝達使についてこう書いています。
 「雨、雪、暑熱、夜の暗さであろうと、託された任務を伝達使が最高の速度で達成することを妨げることはできない」
 このヘロドトスの言葉が、今日、郵便配送者の(非公式ではありますが)モットーとして使用されています。それが、ビナードさんが紹介したPostal Service Mission and“Motto”です。

 ここから、ビナードさんは、「宮沢賢治もヘロドトスを読んだことがあったのかも知れない」と感じました。賢治の蔵書目録や読書メモの類をすべて研究している人もいるだろうから、そのリストを見たり、賢治が生きていた時代に日本で入手できたヘロドトスの本を調べると、賢治がヘロドトスからインスピレーションを得たのかどうか、わかるかも知れない、と、ビナードさんは考えました。

 賢治の時代、ヘロドトスの『歴史』全訳は出版されていなかったけれど、「英語名言集」「独語名言集」の形でヘロドトスの著作からも抄訳が出されていたので、賢治が読んだことがある、という想像はまったくの見当違いとも言えない。

http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Postal_Service_creed
 以上のページを参照して、ビナードさんが朗読した「郵便局ノモットー」をもう一度UPします。
"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night, stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds"
(雪も、雨も、暑さも夜の暗がりも、われら配達人たちが配達区域に与えられた素早い任務の完遂をおしとどめることは出来ない)

 宮沢賢治の研究書は、ビナードさんに言わせると「馬に喰わせるほどある」そうですが、「雨ニモマケズ」とヘロドトスに関連した研究は見当たらず、おそらくビナードさんの「発見」だろう、ということです。

 賢治がヘロドトスの「ペルシャの配達人の使命」の詩句を知っていたかは、今後の研究で影響関係にあったかどうか、わかるかもしれません。もし、影響インスピレーションを受けたことがあったとして、賢治の「雨ニモマケズ」は賢治独自の創作としてすばらしいものです。ビナードさんは「ある文化の影響から再創造される文化」の例として、賢治と郵便局スローガンとヘロドトスを紹介したのです。

<つづく>
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2010年12月18日


ぽかぽか春庭「インスピレーションと再創造」
2010/12/18 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(6)インスピレーションと再創造

 ビナードさんが語る「ある言語からの再創造」に関する話題を、以前、春庭もカフェ日記に書いたことがあります。アーサー・ビナードの訳詞に関するコラム「大平洋の発見は何度でも」です。以下のページにあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702a.htm

 もし、賢治が「英語名言集」というような本の中でヘロドトスに出会っていたとして、それから直接インスピレーションを受けたというより、心の中にNeither snow nor rain nor heat nor gloom of night というフレーズが印象づけられ、後年にその一節が「雨ニモマケズ」という詩句に結晶したことは考えられると思います。

 春庭は、2010年7月に掲載した「日本児童文学における外国文学移入の受容と変容・児童文学の変形譚レミとネロの物語を中心に」(それにしても長いタイトル!)シリーズの第一回目に、宮沢賢治が担任教師から『家なき子』を翻案した「未だ見ぬ親」という物語の読み聞かせをしてもらい、そこから賢治童話への道が開けていったというエピソードについて書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d2246#comment
 宮沢賢治が「太一の物語」に翻案された「家なき子ネロ」を読み、それが後年の賢治童話の世界につながっていく。ひとつの言語文化が世界に広がり、インスピレーションの元となる。

 どうして、あまたの宮沢賢治研究者が気づかなかった「雨ニモマケズ」とヘロドトスの「王の道」の類似について、ビナードさんが気づくことができたのか。ビナードさんが日本語と英語の間の橋を渡ることのできる人だったからにちがいありません。

 ひとつの言葉が他の言葉と出会う。「ことばメガネ」のレンズによって、世界が広がることを、ビナードさんは講演で語りました。
 二つの言語の間を行き来するビナードさんによる「ことばと文字のおもしろさ」を伝える講演の要旨は、次回シリーズで紹介します。

<おわり>


アーサー・ビナード講演会2010年12月

2010-09-21 09:59:00 | 社会文化
2010/12/19 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(1)ビナードという名の発音

 12月9日に開催されたアーサー・ビナード(Arthur Binard)講演会。
 講演はとても面白く有意義なものでしたが、501人収容数がある東京外国語大学プロメテウス・ホールに聴衆は半分くらいで、もうちょっと宣伝をしてたくさんの人に聞いて欲しかったと思う講演でした。聴衆は、若い人はほとんどが外語大の学生でしょう。あとは中高年が多かった。ポスターなどで講演会を知った生涯学習マイブームといったふうな中高年と、「アーサー・ビナード大好き、おっかけオバサン」みたいな人たち。

 私も「アーサー・ビナード大好きオバハン」ですけれど、これまで講演を聴いたことはなく、本は『日本語ぽこりぽこり』と『日々の非常口』、『出世ミミズ』の三冊のエッセイ集を読んだくらいで、詩や絵本など他の作品を読んだことはありません。だから、熱心な読者というわけにはいかないのでしょうが、コラムの題材にしたくらいですから、大好きなことは他のおっかけオバサンにひけを取らない。
 春庭コラムを再度ご紹介。このサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702a.htm
 
 本の扉の写真などで、イケメンであることはわかっていましたが、講演会場の前から2番目の席に座って眺めるビナードさん、想像していた以上にステキな方でした。9歳年上の姉さん女房、詩人の木坂涼さん、うらやましいな。ビナードさん、白いフリースのジップアップジャケットを着て、少年のような雰囲気を保っていて、43歳という実際の年齢よりずっと若い印象を受けました。

 舞台上手にホワイトボードがあって、それに書き込み、ボードを見ながら話したので、ずっと客席上手のほうを向いていました。客席上手側、前から2番目の私としては、私を見て話していてくれるような気がしました。キャ!
 正面を向いてキッと観客を見据えながらグイグイと押し込むようなスタイルがアメリカ人の講演っていう先入観があったせいか、なんだが、ハニカミ王子のように見えました。

 ビナードさんは、ミシガン州デトロイト出身。親戚一同みなデトロイトで自動車産業に関わって生活していた、と自身のバックグラウンドを紹介していました。
 講演の最初は、名前のスペルの紹介から。先祖はフランスから来たということです。フランスで15~16世紀に建てられた教会の、立て直しのための寄付者名簿が残されていて、その中にS・Binardの名が書かれていたので、Binardがフランスの名であることは確かだけれど、アーサー・ビナードさんの出自には、フランスやアイルランドなどさまざまな土地が関わっているそうです。

 Binardという姓がアメリカ人に「ビナード」と発音してもらえることは少なく、たいていは「バイナード?」「ビナール?」などとと呼ばれてしまう。英語では、発音と文字に一貫性がないから、いろいろな発音に読めるのです。

 英語(アングロサクソンの言語)はもともと文字を持たない言語で、ラテン文字であるアルファベットを当てはめて綴ることになったので、表音文字とは言っても、英語の文字と発音に乖離があります。一方、ラテン語の子孫イタリア語やスペイン語は、ラテン文字(アルファベット)の綴りと発音が一致しており、アルファベットをローマ字式に読んでいけばよい。
 ビナードさんの表現によれば、イタリア語や中国語は整然と切石で舗装された道に思えるのに対し、ひらがなとカタカナと漢字が使われる日本語や、発音と文字が一致していない英語の表記はデコボコ道を行くがごとし。

 ビナードさんは、デコボコ道を一歩一歩自分の足で歩くことがお好きなのだとお見受けしました。現実生活でも、日常愛用の交通手段は自転車と歩くこと。車や電車は必要最低限にしか使わないのだそうです。

<つづく>
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2010年12月21日


ぽかぽか春庭「英語と日本語ふたつの言葉で」
2010/12/21 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(2)英語と日本語ふたつの言葉で

 ビナードさんは、1967年生まれ、1990年に来日してから20年になります。
 大学では英米文学を専攻し、在学中にイタリアに留学してイタリア語を、そしてインドに行ってタミル語を学びました。卒業論文執筆中に「漢字」と出会い、表意文字のおもしろさに惹かれました。中国か日本へ行ってみたいと、中国語や日本語のクラスに参加してみました。

 ビナードさんの印象では。文字表記の面で、自前の文字を使う中国語はラテン文字を使うイタリア語に近い。日本語は中国の文字を取り入れて自国語の表記にした点で、ラテン語の文字を借用してアングロサクソンのことばを表記した英語に似ている。それで日本語のほうを学ぶことにしました。

 一般のアメリカ人は英語以外の言語を学ぼうとしない人が多く、日本語に出会うと母語とまったく違う言語に戸惑います。でも、ビナードさんは日本語に出会う前にイタリア語を学んだことがあった。これは、日本語と同じ5母音で開音節の発音体系を身につけていたということです。タミル語を学んだ経験は、日本語の統語法(詞の並べ方シンタクス)になじみができていたということ。タミル語の文法と日本語は両方ともSOVの語順で、似ているからです。ビナードさんにとって、日本語は「なじみの言語」に感じられただろうと思います。

 ちなみに、日本語と似ていることばの並べ方をするのは、朝鮮韓国語、モンゴル語、トルコ語、タミル語など、世界の言語の半分は、日本語と同じタイプ。英語は世界の中でもかなり特殊な文法を持つ言語であり、世界共通語にするには向かない言語です。しかしながら、現実は英語が世界共通語に成ってしまっており、会議などでは英語が使用されています。19世紀の産業革命におけるイギリス覇権、20世紀の軍事と情報におけるアメリカ覇権により、言語の上では英語が世界の覇権言語となってしまった。

 世界の言語は、SOV、SVO、OSV、VSOなどの語順をとる言語がありますが、日本語と同じSOVの語順がもっとも多い。でも日本人は外国語として欧米語を習う人が多いので、日本語以外はほとんどSVO「私は食べるパンを」方式が多いと思い込んでいますが、実は日本語と同じ「私はパンを食べる」方式のほうが主流派です。

 「日本語を勉強するのってたいへんでしょう?漢字や仮名があって、とよく日本人にたずねられますが、全然!もっとお願いします!と言いたいくらい。なんなら、第三のかなを作ってもいいくらい」というのが、ビナードさんの日本語観。
 「雨ニモマケズ」を読んでいて「イツモシヅカニワラッテヰル」の「ヰ」が読めなくて困ったというビナードさん。第3の仮名を作らずとも、変体仮名はいかがでしょうか。現代では変体仮名をすらすら読める日本人は少ないので、ビナードさんには変体仮名の影印本や古文書をスラスラ読める人になってほしいな。

 私?スラスラなんて読めませんとも。先日卒論執筆中の息子に歴史資料の中の変体仮名の読み方を聞かれました。数字の「5」の左側の縦棒を下まで長く伸ばした文字。「文脈から言うとヨリと読むはずなんだけど、確信ないんだ」というので、変体仮名サイトを開いて見たら、「ヨリ」で正解でした。

 ビナードさんがアメリカの大学で、卒論執筆から日本語に興味を持ち日本語を学ぶことにしたと述べると、ある教授から反対されました。大学院入試を受けた後、C教授から「今から日本語を学んでもモノになるはずがない、日本へ行ってもにムダになるだけだから、やめておけ」と、言われ、「それなら絶対に日本語をモノにしてみせる」と決意。ビナードさんは、大学院には行かずに日本へ行くことにしました。
 このC教授はエズラ・パウンドの研究者で、今では、日本へ行く決意を固めさせてくれたこの先生の感謝している、と付け加えていました。

<つづく>
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2010年12月22日


ぽかぽか春庭「スパイダープラントと折り鶴蘭」
2010/12/22 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(2)スパイダープラントと折り鶴蘭

 名前の話。ビナードさんの友人の一人はBowlesという姓です。でも電話で「ボウルズです」と名乗ると、相手は同じ発音の「bowels」をイメージして、クスリと笑う。「bowels」は、「大腸&大腸の中にあるうんこ」を意味するから。

 そんな笑い話を枕に振って、ビナードさんの講演が続きます。落語家三遊亭円窓の元に「一日弟子」として入門して稽古をつけてもらった経験もあるというビナードさん、話術も巧みでした。とても誠実な話しぶりで「日本語が上手なことをイヤミに感じさせることのない話し方」がよかった。
 名前の文字と発音について話し、英語の表音文字はスペイン語やイタリア語とは異なり「発音と文字の結びつきがゆるい言語であり、出来の悪い言語である」ことを聴衆に伝えるにも、うまく笑いにのせて語っていました。

 さらに、自分の先祖はフランスの出であり、ルーツはヨーロッパであることなどをさりげなく伝える。日本人聴衆は、「自動車産業の申し子であるデトロイト生まれのアメリカ人」には機械産業の勢いを感じ、「古い伝統を持つ家系」には古い文化が背景にあると思い安心するメンタリティを保持しているってことを、計算済みとみえました。ここらへんは、木坂涼さんのアイディアも入っているかしら。

 通路を隔てた隣の席のオバサンは、私より年期の入ったビナードファンらしく、歌舞伎の大向こうよろしく、ここぞというときに大声で笑っていました。ビナードさんのユーモアのある語り口、隣のオバサンといっしょに、遠慮無く笑いながら聞きました。あれ?、私のほうを見ていてくれると感じたのは、実はこの笑い声の大きさに注意が向いてこっち見てたのかな。
 
 ビナードという名前紹介の次が、「コピペ」シリーズで紹介したとヘロドトスと「雨ニモマケズ」の類似についての話です。
 雨ニモマケズの次に、ビナードさんは「言語にはコミュニケーションツールとしての役割もあるが、それ以上に、世界をみるレンズとして言語の存在がある」という話を続けました。

 母語と異なる言葉を知ることは、異なる見方に出会うこと。ビナードさんは、いくつかの言葉を例にあげて、異なる表現方法を知ることにより、同じひとつのものを表すそのものへの見方が変わることを紹介しました。

 スパイダープラント(spider plant クモの植物)という観葉植物があります。(学名はChlorophytum comosum)。

 ビナードさんは、この葉っぱ四方八方に足を伸ばしているような葉を見ると蜘蛛をイメージしてきました。ところが、日本に来て、花屋の店先でこの観葉植物に「折鶴蘭オリヅルラン」という名がつけられているのを知って、この観葉植物への見方がすっかり変わった。ほんとうに折り鶴の姿のように思えたのだそうです。


<つづく>
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2010年12月23日


ぽかぽか春庭「泥のイメージ」
2010/12/23 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ビナード講演会(4)泥のイメージ

 ビナードさんの講演の中で、その他印象に残ったことば。
 「泥」という語のイメージについて話が続きました。泥まみれ、顔に泥を塗る、泥棒,,,,,泥が付く言葉によいイメージの言葉は少ない。しかし、ある体験で「泥」へのイメージが一変した、とビナードさんは語ります。

 ビナードさんは、日本びいきの外国人に多いように、和食を偏愛しています。毎朝ご飯。でも、20年も日本に住んでいて一度も田植えをしたことがなかった。
 機会があって、ビナードさんは、知人といっしょに「完全手植えの田植え」を体験することができました。

 泥田に入って、用意の苗を泥の中に植え付けていく。植える前の苗は「物体」であったのに、泥の中に差し込んで苗が自力で立つようにしてやった途端、苗は「モノ」ではなく、「生き物」になる、それがとても不思議な感覚だった、とビナードさんの田植えの感想。

 ああ、いいな。こういう感覚を持っているから詩人をやっていられるんだなあと思います。そうだよね。田の中に立つ苗は最初はひょろひょろと頼りなさげに見えますが、ちゃんと「稲の赤ちゃん」になり、水を飲み、根を張る。お日様を吸い込み、ぐんぐん育つ。泥は、稲の赤ちゃんを優しく育むゆりかごです。

 苗が「モノ」から「生き物」に変わったように、「泥」のイメージがすっかり変わったことにも驚いた、と、ビナードさんは語りました。
 「泥」は決して汚いものではありません。田の泥は稲の赤ちゃんのベッドだし、人の足をやさしく包む。お日様の光を含み、どじょうやザリガニを含む生き物の床なのです。実際に田植えをしてみることで、いままで「汚れもの」であった「泥」という一語のイメージがすっかり変わった、とビナードさんは言います。

 そう、言葉は観念でイメージしたらその本質はわからない。自分で触り、自分で味わい、自分で手の中に包み込まなければ、言葉のほんとうの意味は実感できません。現代の人々がパソコンの情報やケータイだけで物事を済ませようとするなら、いつか言葉たちは私たちの手の中からこぼれ落ちてしまうでしょう。

 ビナードさんは、この「ことばの実感」を持つには、「言葉に依存しないことだ」と言います。「泥」という一語を、言葉として知るだけでなく、泥の中に足を入れ、実感として泥を味わうこと。幼稚園保育園などでどろんこ遊びや泥団子作りを大切な保育活動にしている園があります。私も公園で砂遊びやどろんこ遊びを子供といっしょに楽しみましたが、泥や砂と戯れることは子供の成長にとって大切なことだったんだなあ、と今になって振り返っています。

 さまざまな出来事を言葉や文字、本の中で知るのもひとつの経験です。しかし、それは実体験、実際の経験に裏打ちされるべきもので、泥というのものを見たこともなくさわったこともないのに、「泥」をことばだけで「泥まみれ」「泥水稼業」「泥仕合」「泥臭い」などと使ったのでは、「泥」がかわいそう。

<つづく>
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2010年12月24日


ぽかぽか春庭「ホットケーキできあがり」
2010/12/24 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(5)ホットケーキできあがり

 実際にものにふれ、物事の成り立ちを実感させなければならないということは、ビナードさんの信念です。これを子供に教えなければならないと考え、ビナードさんはエリックカールの「ホットケーキできあがり」を紹介しました。1970年のエリック・カール作品を2009年にビナードさんが初邦訳として出版した絵本です。

 出版社の絵本紹介によると、こんなお話。
==========
 朝一番に「きょうは、でっかいホットケーキがたべたいなぁ」と思ったジャック。でも、すぐには食べられません。ホットケーキにありつくまでには、たくさんの仕事が待っていました。まずは小麦を刈りとり、脱穀して粉にして、卵をとってきて、牛乳をしぼって、、、、身近な食べ物が口に入るまでの過程を、エリック・カール独特の色あざやかな絵で生き生きと描いた絵本。
==========
 ビナードさんは、エリックカールの絵本を紹介しながら、「これだとホットケーキ食べたいと思ってから食べられるまでに1ヶ月以上はかかります」と、笑わせます。
 すべてのことを自給自足で何でも自分でやらなければいけない、となったら、現代社会では生きていけないかも知れないけれど、食べ物がどうやって口に入るのかという基本を全く知らない子ばかりになったら、社会が変容してしまうのもわかる。「ホットケーキ食べたい」とママに一言いえば、すぐにバターをたっぷりのせたホットケーキが出てくるのは幸せな子供のようでいて、実はそうじゃない。

 「ホットケーキ」という言葉を簡単に操るのではなく、ひとつひとつを実感しながら、粉をふるい、鶏小屋から集めてきた卵や乳搾りをして牛さんに分けて貰った牛乳と混ぜ、いろんな人がいろんな形で一枚のホットケーキに関わっていることを知って食べる子がいたら、その子は「お手軽簡単ホットケーキ」をチンして食べる子よりずっと幸福です。自分で小麦の刈り取りやバター作りを汗水流して体験してから食べられるなら、どれほど幸福な子供でしょう。

 「言葉に依存しない」と、ビナードさんが言う内容、よくわかりました。実体験実感を伴わない言葉は空疎になるばかりです。
 詩人ビナードさんは、ことばの本質を見事にすくい取って私たちに教えてくれました。


 モノは言葉を持ち、言葉はイメージを作り上げる。
 ビナードさんは、これら、母語とは異なる言葉のイメージ転換を子供の目を通して描いた絵本を出版したところです(2010年11月刊)。ビナード講演の中盤は、この絵本の紹介が続きました。『ことばメガネ』という絵本です。

 ビナードさんの経験した英語から日本語への「ものの見方の転換」をモデルに、日本語を母語とする少年が英語を知ることによって、語へのイメージを変えていく、というお話です。アーサー君の分身のリュージ少年がことばを見直します。日本語を話す少年が「えいごメガネ」という不思議なメガネをかけることによって、物の見方を広げていくようすを絵本で表現している作品です。八百屋の店先で、ナスが卵に変身してしまうのは、ナスは英語では「eggplant卵植物」と呼ぶから。横断歩道は縞馬になってしまいます。英語ではzebra zone, zebra crossingというので、zebraシマウマの身体の上を渡っていくイメージになります。

 最後のページでは、リュージ少年は、英語メガネだけでなく、イタリア語、タミル語、スワヒリ語、トルコ語、、、、、、、さまざまなメガネの中にいて、いろんな言葉のいろんな見方を知ることが出来そうだ、というところで絵本は終わります。


<つづく>
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2010年12月25日


ぽかぽか春庭「所有格「の」ハッピーホリデイ」
2010/12/25 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(6)所有格「の」ハッピーホリデイ

 私は、ポワポワと綿毛が飛んでいく「たんぽぽ」というかわいらしい名前の花が、英語では「dandelionダンデライオン=ライオンの歯」といういかめしく強そうな名になってしまうことを知り、「英語を使う人は、どうしてこんなかわいい花からライオンをイメージするのだろう」と、不思議に思ったことがありました。もともとdandelionというのはフランス語からの直訳なのだそうですが。それともフランス語だと「ライオン」というのは日本語の獅子とは異なるイメージなのかしら。

 今までの自分が気づかなかった見方、考え方を知ることは、世界を広げ、自分を広げていくこと。母語ではない言葉を知るのは、「コミュニケーションの実用」だけを目的としてしまったら、「母語話者から見たらしょせん二流の話し手」に過ぎない自分を発見するだけに終わります。

 「そうじゃない。異言語を知ることは、自分を知ることなんだ、世界を知ることなんだ。」「多言語教育」のメッカのような外語大総合文化研究所と図書館との共催講演会だから言葉の大切さについて強調したのだということではなく、ビナードさんのいつもの信条をかたってくれたのでしょうが、ビナードさんからの「言語教育を仕事とする者へのエール」のような言葉を聞くことができました。

ビナードさんは、講演の最後にふたつの詩を読んでくれました。「摩天楼の建設」という英語の詩と「の」というビナード作の日本語の詩。「摩天楼の建設」は、またのちほど紹介したいと思います。今回は「の」という詩について。

 ビナード作の「の」という詩は、所有を表す言葉について。英語の「’アポストロフィ」と日本語の「の」を比べて、ビナードさんはこう感じました。
 「’」は「鉤」なので、所有物を引っかけたら決して落とさずに所有し続ける。個人のものは個人のもの。一方、日本語の所有格「の」は所有物を所有者につなぐけれど、ころころと丸まって転げていってしまうイメージ。

 所有格についてのイメージは、春庭も同じような感覚を持っていました。私のものはひとつ転がればあなたのもの。ころころと転がっていけばみんなのもの。

個人と所有物をかっちりと結びつけるアポロストフィS。Obama's carといえば、オバマが所有する車。一方、ゆるい所有の「の」。オバマが所有している車は「オバマの車」ですが、所有以外の意味にも使われます。アメリカで製造された車は「アメリカの車」、「車を製造する」は「車の製造」、大統領であるオバマは「大統領のオバマ」。「の」は、所有だけでなく、なんでも結びつける。
 しかし、「の」についてころころ転がっていくなんて発想をしたことはなかったので、日本語についてのイメージが広がった気分がして、とても嬉しい。

 所有することを表す所有の格助詞「の」
 「の」は、ころころ転がっていく。私のものはみんなのもの。みんなのものは私のもの。分かち合えば、「の」はどんどん転がっていって、人々をつなぐに違いない。

 私のアナタの彼のビナードのホットケーキの牛乳の牛の首のベルの音の響きの流れの時間の中の私。
 アーサー・ビナードに感謝。

 25日はクリスマス。「クリスマス」という外来語は、すでに日本語であり、多くの人にとってこの語にまつわる思い出やイメージが共有されています。言葉も誰のものでもなく、誰もが所有でき、誰もが独自のイメージを抱くことができます。

 クリスチャンにとってはイエスの降誕を祝う日ですし、キリスト教布教以前のヨーロッパ社会や、アジアその他の地域にとっては、太陽がもっとも衰えた後、復活していくのを祝う「冬至祭り」の日です。北半球のほとんどの地域がこの「太陽の復活」を農耕の祭りに取り入れています。冬至祭りのキリスト教的変形がイエス降誕祭。もともとは冬至の祭なのです。(今年の冬至は22日でした)

 皆々さまに「太陽の復活祝い」の喜びの気持ちを送ります。ハッピィホリデイ!メリークリスマス。祝!おひさま復活。おひさまの光と暖かさは誰のものでもなくて、誰でもが所有できます。

<おわり>



アンゼリカとスタルヒン

2010-09-09 12:51:00 | 社会文化
2010/07/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アンゼリカ(1)蕗とスタルヒン

 去る5月、夫が知人から蕗をもらいました。夫は事務所から電話してきて「食べるなら取りに来ること」と言う。「煮てあるならもらうけれど、生なら皮を剥いたりするのが面倒だからどうしようかなあ」と返事をすると、「煮てあるなら、すぐここで食べてしまう。タイ語のクラスに来ている人が、庭にたくさん生えたってクラスの皆に配ったんだよ。奥さんには面倒かけますが、と言っていた。いらないなら、捨てるけど」という。

 確かに蕗の皮むきは面倒だ。子供の頃、さやいんげんの筋をとるのと、蕗、とうもろこし、筍などの皮むきはテレビをみながらの子供の仕事だったのだけれど、考えてみると、料理する母も面倒だったので子供のお手伝い項目にしていたのかも知れない。
 捨ててしまうと言うのももったいないので、事務所まで出向いて蕗の束を受け取りました。なにせ夫は事務所に住みついているので、家に戻ってきませんから。

 4月にタケノコを煮るにあたって、しばらく生のタケノコを煮たことがなかったので、ゆでた後、糠入りの湯にさめるまで浸けておくというひと手間を忘れてしまい、エグミが残ってしまい、娘もむすこも食べてくれませんでした。失敗の巻。

 今回は、「蕗の下ごしらえ」とか「おいしいふきの煮方」などのサイトやユーチューブで「蕗を煮るおっさん」というビデオ投稿までチェックしてから、慎重に下ごしらえしました。
 蕗は、まな板の上で塩をふって板ずりしてからゆでる、という手順どおりに茹で、皮むきは「伝説の投手スタルヒン」という番組を「ながら見」しながら皮剥きしました。酒醤油砂糖鰹節で煮て、今度はおいしく煮上がったので、息子は「おいしい」と食べました。娘は元々山菜は嫌いなので食べません。

 私は蕗の甘露煮が好きです。この甘露煮アンゼリカは、日本の蕗でもおいしいのですが、西洋フキの蜜煮が本来のアンゼリカ。本来のアンゼリカはクッキーやケーキの中にちょびっと入っている程度で、私が欲するように「おなかいっぱい食べたい」という欲望には不向き。日本の蕗の甘露煮はアンゼリカの代用品にしかすぎません。でも、ちょっぴりじゃなく、バクバク食べたい人には、蕗の甘露煮で十分です。

 英語でバターバー(Butterbur)と呼ばれる西洋フキは、日本の蕗とは別種のハーブ。夏にバターをフキの大きな葉で包んで保存していた事から、この名前がついたそうです。フキにはいろいろな薬効があるので、バターも酸化せずに保存が効いたのでしょう。ヨーロッパでは昔、頭痛、熱、咳に効果のある薬草として使用していましたが、バターバーには「ペタシン」という抗炎症作用抑制の効果をもつ物質が含まれていることが判明しています。ペタシンは強い炎症反応を起こす物質「ロイコトリエン」の分泌を抑制し、花粉症やアレルギーによる鼻づまりの緩和にも効果があり、脳血管の状態を整えてくれる働きにより、偏頭痛予防効果もあるそうです。
 
 日本の蕗は西洋フキとは別種で全国に生えていますが、中でも秋田の蕗は2メートルの高さになり、葉は雨の傘代わりに使えるといいます。

 蕗を味見して、テレビで見たスタルヒン投手と家族についてグーグルチェック。スタルヒンとフキのつながりは、彼のお墓がフキの産地秋田のお寺にあるというだけですけれど。
 秋田に住む人のブログやウィキペディアなどで、スタルヒン一家の物語を知ることができました。私が物心ついたときには、スタルヒンは現役引退後40歳で交通事故死(一説には自殺的交通事故)しており、すでに「伝説の投手」でしたから、その名は知っていても一家の話までは知りませんでした。彼は日本人となることを望んでいたのに、どうして最後の最後まで日本国籍を与えられなかったのかなど、知ることができました。

<つづく>
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2010年07月13日


ぽかぽか春庭「スタルヒン一家のお話」
2010/07/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アンゼリカ(2)スタルヒン一家のお話

 スタルヒンのお墓は、秋田の雄物川町今宿の崇念寺に建立されています。スタルヒンの後妻高橋久仁恵さんの弟高橋大我さんが住職を務めている寺です。

 ヴィクトル・スタルヒンは、1916(大正5)年、ロシア生まれ旭川育ちのプロ野球投手。戦前戦後の通算303勝。そのうちの完封勝利83勝は、今も塗り替えられておらず、この先も残るであろう大記録です。

 ヴィクトルの出生地はモスクワから東に1800キロ離れたウラル山脈東側のニージニタギールというところ。モスクワから飛行機で2時間半で着くエカテリンブルグ。そこから更に車で北に2時間走ったところです。
 1919(大正8)年のロシア革命後、ヴィクトルの両親は迫害を逃れて流浪し、最終的には幼いヴィクトルを連れて日本に亡命。1929(昭和4)年ヴィクトル9歳のとき旭川に移住しました。旭川の小学校時代から野球に才能を見せ、旭川市は、スタルヒンを郷土の誇りとして球場に彼の名をつけています。

 スタルヒンの生涯は、私が見たNHKBSの番組「野球がパスポートだった」のほか、2009年2月にはテレビ朝日でも『心の中の国境~無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折』として放映されており、さまざまな情報を得ることができます。

 スタルヒンが軽井沢に「敵性外国人」として幽閉され、食べるにも事欠いた時代に不仲となり離婚した最初の妻レナ。レナの生んだジョージは再婚した久仁恵が育てたそうですが、ジョージの消息は検索しても「テレビ関係の仕事をしている」という以外には、わかりませんでした。娘のナターシャは父についての本も書いているし、ホリスティック栄養学の事業を手広く展開している人で、マスコミに登場することもあるのですが(NHKBSの番組にも登場)、ジョージについては番組でも触れられていませんでした。

 高橋久仁恵さんは、ロシア名はターシャ。秋田出身の日本人と亡命ロシア女性の間にハルビンで生まれました。
 後妻ターシャは、スタルヒンの晩年を支え、夫の死後、懸命に働き子供を育てていましたが、働きづめだった末に不治の病に倒れ、働くことのできない自分に絶望して自殺したそうです。ナターシャは日本航空のスチュワーデスという恵まれた職を得て働いていましたが、母の死に衝撃を受け、西洋医学では乗り越えられない病と向き合う中で、ホリステック栄養学という分野に進出します。栄養補助食品の販売や鍼灸院、エステサロン、日焼けサロンなどを経営し、自社ビルを建てるほどになりましたが、バブル後には銀行の貸しはがしにあいビルも手放しました。4億円を銀行から借り入れて手に入れたビルは、売却したときは4千万円。浮沈の末、借金を返しながら栄養学の研究を続け、今は講演活動などを行っています。
http://www.nstimes.info/natasha_profile.html

 さて、蕗とスタルヒン。つながりは「秋田」のみですけれど、私の「検索遊び」の一日、蕗とスタルヒンはほどきがたく結びつきました。もしもスタルヒンのお墓にお参りする機会があったら、蕗の甘露煮をお供えします。スタルヒンがアンゼリカを好きだったかどうかはわかりませんが、私が好きなので。

<つづく>
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2010年07月14日


ぽかぽか春庭「二人静」
2010/07/14
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>アンゼリカ(2)二人静

 新聞に出ていた短歌数首。タイトルに「Chloranthus serratus」とある。中の一首「半日をすごしたころの白色の二人静の花を見ている」
 知らない言葉があるとすぐに検索したくなる。「Chloranthus serratus」とは何じゃいな、と、さっそく検索する。
 「二人静」のラテン語学術名でした。英語名はなし。二人静はセンリョウ科の多年草。日本の山の暗がりにひっそりと咲く白い花です。緑の葉の中央に花穗が二手に分かれて伸びるので、この名がついたのでしょう。
 私がよく利用しているウェブ花図鑑に出ている「二人静」。
http://www.hana300.com/futari.html

 能に『二人静』という名作があります。世阿弥の作と伝えられている作品のひとつです。
 能の『二人静』の見所は、義経記などに名高い逸話を元にしています。捉えられた静御前が、頼朝の前で臆せず義経を慕う心を歌い舞った、という伝説をもとにしています。
 吉野の山里に住む菜摘女(なつみおんな)に静御前の霊がとりつき、女は静の亡霊が言ったことばを里の神職に伝えようとします。神官がただならぬ様子となった菜摘女に問いただすと、女は「自分は静だ」と告げます。静御前が神社に奉納した衣装を神官が女に与えると、女は舞い始めます。そこへ静御前の霊が現れ、吉野山奥での義経との逃避行、頼朝に舞を強要され心ならずも舞を披露しなければならなくなったときの苦しさを語り、菜摘女と静が二人してぴったりと形をそろえて「相舞い」を見せます。

 地謡:「それのみならず憂かりしは、頼朝に召し出だされ、静は舞の上手なり、とくとくとありしかば、心も解けぬ舞の袖、返す返すも恨めしく、昔恋しき時の和歌」
 静「しずやしず しずのおだまき繰り返し むかしを今になすよしもがな」
「物事に憂き世のならいなればと、思うばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風、静が跡を弔いたまへ」

 和名の「ふたりしずか」という名、能の作品から命名されたのでしょうが、それでは、二人静という名を得る中世以前には、どんな名で呼ばれていたのかしら。それとも名前もなかった花だったのか。「名も無き花」として咲くにふさわしい地味な花です。ただの「野の花」で、名もない花だったというのが当たっているような気もします。たいていの野の花は、薬草にでも使われる草花以外は、特に名付けもされずに「野の花」であったのでしょうから。

 今、「何でもない雑草が生えている何でもない野原」や「見栄えのしない草ぼうぼうの河原」など、見た目はあまりパッとしない草っぱらの価値が見直されています。手入れのされた花壇が人目を引くのと異なり、名もない草花が生い茂る野原や河原。しかし、野っぱらや空き地の雑草も、実は環境を維持するためには大切な「生態系」のひとつに組み込まれていたことが環境学の研究進展によって一般の人にも理解されてきたのです。

 ネジバナ、ノアザミ、チガヤ、ススキなどの「何でもない草花」を復活させて在来種の草原を保全する取り組みも始まりました。品種改良を重ねた牡丹や薔薇や菊などの園芸種も見事な美しさを見せ、私たちを楽しませてくれますが、茅萱や野薊の生い茂る素朴な光景もいいものです。

 二人静も、目立たないひっそりした花ですが、いい名前がついたおかげで、歳時記にも採用されました。晩春の花で、5月6月まで花を見ることができます。
 花薊も二人静もなき野にて ひとひ昼寝の独り身の幸(春庭)

<おわり>