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ぽかぽか春庭「名前について」

2008-10-13 18:54:00 | 日記
ニッポニアニッポン言語文化散歩「名前について」


節分・春の名を呼ぶ

at 2004 02/01 18:51
編集2月3日は、節分。
 自分の心の中にいる「邪気」を追い出し、幸福を願う日。冬の寒さを、凍える心を、冷え込む人間関係を、心の中から追い払おう。節分の次は立春。

 春を迎えよう。「鬼はそとぉ、福は内!」
 新たな春のはじまり。木々が芽吹きを待ち、花は蕾の準備を始める。私の庭も新しくなりました。

at 2004 02/02 06:48 編集
「節分・春の名を呼ぶ②」

 1月後半、陰陽五行思想の影響について話してきた。去年の夏以降「東洋思想史」を復習する必要があり、「朱子学は心学のひとつなり、といえるのはどのような理由によるか」とか、「朱子学と陽明学の違いを説明せよ」などを考えてきた。
 その過程で、陰陽五行についても読み直すことができた。

 元来、陰陽は太陽の光と陰、五行は季節の移り変わりをもとにした農耕暦の表現である。陽光と季節の推移とは、農作業にとって重要なことがらであった。
 すべてのもとになる五気「木、火、金、水、土」の相剋相生について、また、季節や色との組み合わせなどについて紹介した。(2004/01/27参照)

 木=春=青、火=夏=朱、金=秋=色、水=冬=黒、という季節と色との組み合わせ。「土」は中心をあらわし、季節の変化を司る。それぞれの季節の終わり18日間は、「土用」。そして、季節の変わり目が、「節分」

 陰陽五行思想では、陰と陽の対立は、激しい変化を生じ、人々に災いをもたらすと信じられていた。季節も陰と陽が入れ替わる。この変化による災いを祓い人々に幸いをもたらすために、節分の行事や儀式が行われた。

 本来、節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日をいう。この日を境に季節が分れる。夏の節分、秋の節分もあったのだが、季節の変わり目が特に著しい立春の前日が「節分」として大きな行事になった。
 春の節分、今年は2月3日。各地で節分行事が行われる。

 家内では一家の主が、神社などでは年男が「福は内、鬼は外」と言いながら、煎った大豆をまく。土から芽を出す豆の生命力が、邪気を払う。年の数だけ豆を食べると一年を無病息災で過ごせる。
 神社や寺院の追儺(ついな)の式。これは「鬼やらい」と呼ばれ、疫病の鬼を追い払う儀式。

 また、「門守り」と言って、鰯の頭や柊の葉を門のところにさして、鬼を追い払う。鰯の頭の悪臭や柊の葉の先のとがったところを鬼が嫌い、退散すると信じられてきた。
「鰯の頭も信心から」ということわざも、この鰯の頭によって邪気を払うという信仰から生じた。

 各地それぞれに、節分行事、鬼やらい行事がある。京都では、節分の日に北野天満宮・吉田神社・壬生寺・八坂神社・の四社寺を「四方詣り(しほうまいり)」として参詣し無病息災、招福を願う習慣が生き続けている。

 現在の節分行事「福は内、鬼は外」の豆まきは、奈良・平安時代の宮中行事「追儺式」が民間に広まったものと、されている。<続く>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
No.93(し)島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書

at 2004 02/03 06:35 編集
「節分・春の名を呼ぶ③」

 文武天皇の時代から宮中の「追儺式」が始まり、民間行事は宮中の儀式を模倣したといわれている。
 しかし実際は、民間の「邪気払い」や「春を迎える行事」を、陰陽師が儀礼化して宮中に持ち込んだのであろう。

 田起こし播種の準備を始める農耕民族にとっても、家畜繁殖の時期を迎える牧畜民族にとっても、季節の推移は生産にとって重要なことであった。世界各地の文化に「春迎えの行事」がある。
 奈良時代以前から「邪気を追い払い、福を招く」という習俗は、各地に民間習俗として存在していたものと思われる。
 宮中追儺式も、暦博士や陰陽師たちが、民間の様々な春迎えの行事に五行思想をまぶして儀礼化し、宮中の平安祈願に採用したのではないか。

 宮中の追儺式は、「続日本紀」文武天皇の頃に記載されている。奈良時代、文武天皇の御代、疫病がはやり多くの人命が失われた。そこで、陰陽の思想に基づき、土で牛の形を作り、疫病を払う行事に用いた。これが追儺の始まりとされている。
 「土牛」を使うことは、中国の「礼記」にある「土牛を作りて寒気を送る」が起源で、陰陽師たちが陰陽五行に則り、それを追儺式として完成させたのであろう。

 平安時代の宮中の追儺式は、陰陽師が祭文を読み、黄金の四つ目の面をつけた方相氏が盾と矛を持ち、その矛を地面 に打ち鳴らしながら、「鬼やらい、鬼やらい」と言って宮中を練り歩いた。
 その鬼の後に殿上人たちが、桃の弓と葦の矢を持って追いかける。桃や葦は、古来より、邪気を祓う力を備えているものと考えられていたのだ。
 桃の生命力については、2003/11/05蛇の足跡参照。葦の生命力は、この国の古名を豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)と呼ぶことでもわかる。

 古代。人々が暮らす地には自然の中に様々な神々がいた。山と里を行き来する神、海と陸を行き来する神など、八百万(やおろず=無数)の神々が人々の住む地を経巡り、幸いを与えた。

 この古代の自然神を古層とし、陰陽五行、道教などの中国からの思想、そして仏教などが重層して、私たちの精神生活ができあがっている。
神仏習合により独自のものとなった日本の神と仏。私たちの生活に残る民間習俗には、この「神仏習合」後の仏教や神道の影響を残しているものが多い。

 現在の神社神道は、明治以後の「神仏習合を分離させた新しい神道」である。古来の神道とはかけ離れている部分が大きい。現在の神社を見て「昔からの宗教」と思わない方がいい。

 博物学者、南方熊楠などが保護しようとした神社や神道は、古層を残した古来の神々なのだ。

 節分行事。人々は何を「邪気」として払い、何を福として招き入れたのだろうか。人によって「邪」と感じるものがことなり、人によって「福」と思い「幸福」と考えることが異なるのかも知れない。

 私は、私にとって「福」である存在の、いろんな人の名を呼び、心の中に招き入れる。家族の名も、友の名も。あだ名であったり、ペンネームであったり、IDネームであったりする、ひとりひとりの大切な名を呼ぶ。私の周囲のひとりひとりの名に感謝して、心のうちに招き入れる。「福はうち!」

at 2004 02/04 11:25 編集
「節分・春の名を呼ぶ④」

 季節が分れる節分の翌日は立春。
 古代、春たてば、人々は野に出て若菜を摘み、若菜摘む若い娘に声をかけた。

 万葉集の最初の歌。
「籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね  われこそは 告らめ 家をも名をも」

 丘で菜を摘む若い娘に名を問いただし、自分の名を告げている。雄略天皇の歌とされているが、伝承。おそらく、長い間伝えられてきた、歌垣(かがい、うたがき)の歌であったろう。
 歌垣とは、一ヶ所に男女が寄り集まり、歌を相手に投げ合って結婚相手を探す、というアジアの各地に残る風習。

 この歌垣の中で、「こもよ、みこもち、ふくしもよ、みふくしもち、この丘に菜つますこ、いえをきかな、なのらさね。われこそは、のらめいえをもなおも」と、歌いつがれてきたのであろう。

 男と女が、歌をうたいながら、お互いの名前を聞きあう。気に入った相手であれば、名を告げ、結ばれる。名前は自分だけの大切なもの。その一番大切な名前を相手に告げ、ささげるのである。

 その大切な儀礼の歌の作り手として比定されたのが、ワカタケルおおきみ。『古事記』では、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)と呼ばれる大王。後世になって「雄略天皇」という名で呼ばれるようになった王である。ワカタケル本人は、自分が「雄略天皇」などという名で呼ばれるようになるとは、つゆ知らなかった。

 ワカタケル大王の大后は「若日下部王わかくさかべのおおきみ」。第二の后「韓比賣」第三の后「妹若帯比賣命いもわかたらしひめのみこと」ただし、これらの后の名を、ワカタケル自身がどう読んでいたのかはわからない。昭和天皇は、后の良子(香淳皇后)を「ナガミヤ」と呼んでいたそう。

 ワカタケルが美和河へ行き、見初めた美しい娘に名を問うた。娘は答えた、「わたしの名前は赤猪子(あかいこ)」

 名を問われて、答える。これで求婚と承諾が完了。赤猪子は、ワカタケルが「迎えにくるまで待て」と言って宮廷に帰っていったあと80年間、待ち続けた。ワカタケルの方は、求婚して「待っていなさい」と言ったことなど、すっかり忘れてしまったのに。

 名を問われて答えれば、その女性は求婚を承諾したとみなされる。名を知る人は、その人自身をすべて自分のものにできるから。古代の女性は自分の名を、両親と夫以外には知らせなかった。
 紫式部も清少納言も藤原道綱の母も、今日まで読み継がれるすぐれた作品を残した女性であるが、本名はわかっていない。

 紫式部や清少納言らは、父や夫の名がわかるが、六歌仙のひとり小野小町は、小野氏の出身であることがわかっているだけ。「小町」というあだ名が歌に残されただけで、どこのだれの娘やら夫がいたのやらも、はっきりとはわかっていない。

 各地に伝説が残され、能のなかにも小野小町は「草子洗い小町」「卒塔婆小町」など、さまざまな姿で登場するが、実際は、古今集に残された歌がはっきりしているだけで、あとはすべて謎の女性なのだ。

 歴史上ではどこの誰であるやら名もわからず、詠んだ歌だけが千年の時空を越えてわたしたちにも届く。ことば、そして名前。ほんとうに不思議な気がする。

 名前、固有名はアイデンティティの基本となるもの。ウェブ上では、お互いにハンドル名、IDネームで呼び合い、どこの誰とわからなくても、お互いが夕べ何を食べたかとか、何を見たか、なんてことまで話し合う。
 パソコンの画面を見たときに、ぱっと目に入ったとたんに親しみを感じるIDネームもふえてきた。
 どんなIDの方とめぐり会い、どんなハンドル名の人とお話ができるだろうか。楽しみにしている。
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の三冊No.94~96
No.93(お)大伴家持編纂『万葉集』
No.94(せ)世阿弥(か)観阿弥『卒塔婆小町』
No.95(?)作者不詳『草子洗小町』



「at 2004 02/05 08:07 編集

本名あだ名四股名

 古代の女性は、名前を両親と夫以外には知らせなかった、と述べた。
 名前は自分自身の命ともいうべき大事なものであり、大きな意味を含んでいた。

 木の花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と 石長比売(いわながひめ)の名前。

 アマテラス大神の孫ニニギの命は、天上の高天原から地上をおさめるためにつかわされ、美しい女性に出会った。娘に名をたずねる。

 美しいその女性は、「私は大山津見の神の娘。名は、木の花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)です。」と答えた。
 女性が名前を名乗るということは、その名を持つ自分自身を明らかにすること。つまり、求婚を受け入れる意志があることを示す。

 ニニギの命はヒメの父、大山津見の神のもとを訪ねた。大山津見はこの求婚を喜び、姉の石長比売(いわながひめ)と共に、たくさんの献上物を持たせて婚礼を承諾する。しかし、姉の石長比売は大変醜かったので、ニニギノ命は妹の木の花佐久夜毘売だけを留めて、醜い姉は父のもとへ送り返してしまった

 石長比売を送り返されたのを知った大山津見の神は、「私が二人をともに送り出したのは、石長比売によって、天の神の御子の寿命が永久に石のように堅実となるため。また、木の花佐久夜毘売によって、木の花の栄えるように栄えるため。

 しかし、石長比売を返して、木の花佐久夜毘売を留めたので、天の神の御子の寿命は木の花のようにもろくなってしまうだろう」と言った。そのため、今日にいたるまでニニギノ命の子孫である天皇の寿命が人の子の寿命と同じになり、死すべき人間となった、というのが、天孫降臨神話。
 
 その後、木の花佐久夜毘売は、ニニギノ命とのたった一夜のちぎりで子をなす。ところが、ニニギノ命は往生際悪く「サクヤヒメよ、一夜ではらんだと言うが、本当に私の子供か?国の神の子ではないのか。」と咎めた。

 一夜でみごもったからといって、よその男の子ではないかと疑うなんて、ほんとにイケスカナイ男ですね。カミの風上にもおけない。あ、風上じゃなくえ雲の上にいたんだった。
 雲の上ツカタの方々、イケスカナイ方ばかりじゃないと思います。いとヤンゴトナキ不思議の国のアリス川の宮(贋)なんか、中年女性のとりまきがけっこういたというから、イケスイタんでしょう。

 いけすかないニニギに疑われても、凛として、ヒメは「私のはらんでいる子が国の神の子であれば、産む時に無事ではないでしょう。もし天の神の御子であれば、無事でしょう。」と言い、戸口のない大きな家を作るとその中に入り、産む時になって家に火をつけた。女はいつも毅然としている。

 この時に生まれた御子が火照(ほでり)の命で、隼人らの祖先になる。また、次に生まれたのが火須勢理の命(ほすせりのみこと)=海幸彦。次が火遠理の命(ほおりのみこと)、別名を、天日高日子穂穂出見の命(あまつひこひこほほでみのみこと) =山幸彦。
 海幸山幸(うみさちやまさち)のお話になる。

 以上のように、名は生命そのものであり、特に女性にとって、名を知らせることは我が身を相手にゆだねることであった。

 父親に顔も性格もそっくりな娘が、私の若い頃のアルバムながめながら「お母さん若い頃は、すごくカワイかったのにねぇ。今じゃ、ただのオバサンだけどさ。どうしてこんなかわいいころ、ちゃんと自分を売り込まなかったの。ちゃんと売り込みさえすれば、ぜったいにお父さんよりマシな人に巡りあえたと思うよ」

 はぁ、「我が名」売り込みの才覚とぼしく、売れ残ってしまい、こんな結果に、、、。
でも、娘よ、私が「自分の名前」の売り込みに成功し、もっとマシな人と結ばれていれば、あんたは、今頃、、、、

春庭今日の一冊No.96
No.96(ひ)稗田阿礼(ひえだのあれ)朗唱。民部卿・太安万侶(おおのやすまろ)編纂『古事記』


at 2004 02/06 22:35 編集
「本名あだ名四股名②」

 古事記に出てくる「葦原醜男(あしはらのしこお)」という名、「豊葦原」であるこの国土を「醜(しこ)=強さ」によって統べるという意。

 葦原醜男=葦原色許男、またの名は大国主神。出雲のかみさま。
♪大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡の白うさぎ~の大黒様。
 この神は大国主神、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原色許男神(あしわらしこをのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)、大物主命(おおものぬしのみこと)など様々な別名をもつ。

 『日本書紀』では大己貴(おおなむち)、大汝(おおなもち)、など、表記はいろいろ。「大国主神、またの名を大物主神、また国作大己貴命と号す。また葦原醜男といい、また八千戈神という。また大国玉神といい、また顕国玉神という」とある。

 豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の、もともとの支配者であった、大国主。
 たくさんの名を持っていた中の「醜男しこお」の「しこ」は、「おそれをなし、うとましく思えるくらいに強い力をもつ」という意味を含んでいた。醜男の意は、頑強、頑健な男、まがまがしいくらい強い男。

 現代の「しこ男」といえば、「しこ名」を持つおすもうさん。
 相撲界では、一人前の関取になると、幕下まではしこ名を持たず本名で土俵に上がっていた力士にも、しこ名をつけるようにする。
 昔は、相撲協会が「幕内では必ず本名を避けるように」と、指導したそうだが、最近は本名のままの力士も増えた。

 本名のままでも、強そうなお相撲さんはいる。でも、呼び出しや行司が名前を呼びあげるとき、本名の力士の名を、「鈴木」「山田」などと、声はりあげて呼んでも、あまり強い感じがしない。鈴木さん、山田さんは、しこ名を名乗ったほうが強そうだ。

 幕内力士で「鈴木さん」は思い切って変わった文字使いになって、パソコンでは出てこない。火ヘンに華とかいて、「よう」。よう司。
 「山田さん」もまた、変わったしこ名になって「若兎馬わかとば」。兎馬って、ロバのことだけど、三国志の中の赤兎馬は最強の馬の名前。一日で千里を駆け、山や河を平地のように越えるという名馬である。 三国志最強の漢、呂布や関羽が乗った馬。うん、若兎馬という四股名、「山田さん」より強そうだ。

 現在、幕内で本名を名乗っているのは「十文字」。これだと本名でもなんだか強い気がする。一度はしこ名を変えたのだが、また本名に戻した。十文字→階ヶ嶽→十文字。

 垣添(かきぞえ)は、一度もしこ名を名のったことがない。横綱二代目若乃花は、間垣親方という名になっているから、垣添も、力士の名としてよろしいのだろう。垣添が悪いのなら、間垣だってよろしくないもの。
 もっとも、親方のなかには「中村親方」がいて、これだと「中村さん」と呼べば一般の名字と区別がつかない。

 出島、一度もしこ名を名乗っていないが、山や川、島など、地名が入る名前は、もともと四股名っぽいからいいんだろう。霜鳥も本名。動物の名は、動物の強さを身に帯びることができて可。大きな鵬「大鵬」龍と虎「龍虎」、そして「麒麟児」など。

 元々、力士の四股名は、郷土の土地の魂をその身に帯び、地霊を鎮めことほぐ意味がある。
 高知出身「土佐の海」、青森県岩木町出身「岩木山」など、「そのまんま」のわかりやすい四股名。十両の五城楼。地名っぽくないが、五城楼は地元仙台の雅名(別名)で、「立派な城に守られた美しい街」という意味。郷土にちなんでいる。

 グルジア出身力士の本名トゥサグリア・メラフ・レヴァン も「黒海」としこ名がつくと、黒海の土地の魂を背負って、土地の神から力をもらう。そしてその力によって勝負に勝てば、今度は故郷の海や山に自分が新たな力を与えることができるのだ。
 十両の本名ボラーゾフ・ソスラン・フェーリクソヴィッチは、「露鵬」という四股名によって、鵬のごとく羽ばたき「露西亜」の土地をことほぐことができる。


 出雲神話の神である大国主神、またの名を大物主神が、「葦原醜男/ 葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)」という呼び名をもっていたように、「醜男=しこ名を持つ力士=強い男」である。

 強さを持つ男が土地を支配し、土地の霊魂を身につけた。
 大相撲の力士たちは、このような四股名を名乗ることによって、他の一般の人とは異なる特別な力を身におびるのである。

もんじゃ(文蛇)の足跡:豫母都志許賣・ヨモツシコメについては、またいつか