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八月の鯨ノベライズ(前)

2012-02-23 18:12:34 | 日記
2012/02/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>『八月の鯨』ノベライズ(1)八月の朝
 この『八月の鯨』ノベライズは、視覚障害者のために企画しました。
 この映画の鑑賞を希望している友人A子さんは、全盲のため、字幕の洋画を楽しむことができません。映画『八月の鯨』ビデオには、吹き替え版がなく、字幕版のみです。
 A子さんから私に、この映画を鑑賞したいので、セリフ字幕部分を朗読してくれないか、とリクエストがありました。
 私は図書館の朗読ボランティアとして、A子さんと長年のおつきあいをしています。図書館で一冊の本を間にし、私は朗読し、A子さんは耳を傾ける、という読書をふたりで行ってきました。
 今回は、直接朗読をするのではなく、ノベライズとして、『八月の鯨』を文章化しました。パソコンの音声対応機種を使えば、他の視覚障害者も利用できると考えたからです。

 映画の著作権関係者の方へお願い
 一般書籍のなかに、「視覚障害者のための朗読テープ作成の場合、著作権を放棄する」と、明記されたものもあります。著作権を守ることは重要だと考えますが、視覚障害者のための、声テープ作成、パソコン音声対応文章化作品に対して、ご高配たまわれば幸いです。
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ノベライズ「八月の鯨」The Whales of August

<出演>
リビー  :ベティ・デイヴィスBette Davis (Libby_Strong)
セーラ  :リリアン・ギッシュLillian Gish (Sarah_Webbr)
マラノフ :ヴィンセント・プライスVincent Price (Mr._Maranov)
ティシャ :アン・サザーン(Tisha)
ジョシュア:ハリー・ケイリー・ジュニアHarry Carey Jr. (Joshua)
<スタッフ>
監督 : Lindsay Anderson リンゼイ・アンダーソン
脚本 : David Barry デイヴィッド・バリー
撮影 : Mike Fash マイク・ファッシュ
音楽 : Alan Price アラン・プライス
編集 : Nicolas Gaster
字幕 : 進藤光太 シンドウコウタ


 凪の海にさざ波をたてて、小さなボートが入江の中をすべっていく。モノクロの光の中に60年前のなつかしい光景が浮かび上がる。
 アメリカ東海岸。ニューイングランド、メーン州の海は今日も穏やかな光に満ちている。小さな島の入江。静かな避暑地に、別荘が建っている。

 若いティシャが入江の道を、別荘へ向かって走っている。白いワンピースのフリルと髪のリボンを揺らしてティシャは叫ぶ。「来たわよ、リビー」
 別荘のポーチに座っていたリビーが立ち上がった。テイシャは二階の窓へも声を届かせる。「見えたわ、セーラ」
 声を聞きつけて、セーラも二階の窓を開けた。
 「ティシャ、見たのね」「ええ、見えたわ、むこうよ、早く、早く、行ってしまうわ。走ってよ」
 セーラが別荘から飛び出してくる。
 「さあ、早く来て」と叫ぶテイシャと手をつないで、セーラは海辺へ向かって駆け下りていく。海岸に下りる道には、ふたりの母が丹精したアジサイが咲き誇っていた。
 「リビー、早く早く!」ふたりが騒ぎ立てる中、リビーはおっとりと帽子をかぶって出てきた。

 テイシャとセーラは、ボートの青年にむかって叫ぶ。「ランドールさん、鯨が見えた?」青年は「お早う、みなさん」とボートから挨拶をおくった。「鯨は来たの?」娘達の質問に、「今見えたよ、向こうで」と青年は答えた。

 リビーは落ち着いて岬から双眼鏡をのぞいている。波の向こうに、鯨の背が見える。「ねえ、リビー、見せてよ、早くして」三人の少女達は双眼鏡を奪い合うように、かわるがわる鯨を見つめた。
 毎年八月にやってくる鯨を、今年も三人の少女たちは、見ることができた。たぶん、来年も、その次の年も、、、
 セピア色に沈む思い出の海。波は穏やかに揺れ、ときは静かに流れる。

 60年後。
 島の海辺に、夏の終わりの波がうちよせている。別荘はすっかり古びているが、60年間変わらない夏の光が、庭やポーチにふり注いでいた。
 年老いたセーラが洗濯物を干している。セーラの髪はすっかり白くなり、背は丸くなった。しかし、家事をこなす手つき、海をみつめる瞳は昔のままだ。海風に洗濯物がゆれている。

 ロープに洗濯ばさみを挟むと、セーラは浜辺に目をやった。波打ち際にボートが近づいて来る。ボートから一人の老人が降り立った。老人は、ボートの持ち主ランドール老人に礼を言っている。「ありがとう、ランドールさん」
 「お気をつけて」と声をかけ、ランドールはボートをこいで去っていった。かってリビーやセーラに鯨の訪れを告げてくれたランドールも、60年分年老いている。

 古い家具が並べられている別荘の中。少女のころから、毎年夏になるとこの島にやってきて、この別荘で過ごしてきた。サマーハウスはリビーとセーラが年老いたのといっしょに、すっかり古くなってきたけれど、夏の暮らしは同じように続いている。物干しから戻ったセーラは、居間から「朝ご飯、できてるわ」とリビーに呼びかけた。返事はない。
 海風が白いカーテンをゆらしている。
 セーラは庭に出て、バラの花を摘み始めた。赤いバラ、白いバラ。リビーとセーラ姉妹の母が丹精をこめたバラの庭。バラの花のひとつひとつ、亡き母や、若い頃の自分や、若くして亡くなった夫の思い出が香りをたてているように思え、セーラは蕾のひとつひとつにもやさしいまなざしを投げかけた。
 
 リビーは自室から出て、「セーラ」と、呼んでみる。庭にいるセーラには聞こえない。ナイトウェアのリビーは手探りでお茶のポットをさがしあて、カップにそそぐ。年老いたリビーは目が見えなくなっている。視力を失って15年間、リビーは妹セーラの献身によって支えられてきたのだ。リビーは窓際のお気に入りの揺り椅子に座り、お茶を飲んだ。

 ボートから下りてきた老人が庭でバラを切っているセーラに、「おはよう」と挨拶した。「美しい朝ですなあ」
「あら、マラノフさん、ボートでいらっしたの?」
「ええ、ランドールさんのボートでね。美しいバラですね」老人はバラを誉めた。
「ええ、きれいでしょう。いい匂いよ」セーラはマラノフ老人に、つみ取ったバラを見せた。
「ところで、お願いがあるんです」ポーチでマラノフは礼儀正しく頼み事をはじめた。
「ええ、うちの浜で釣りをしたいのね、いいですよ、いつでもどうぞ」セーラは快くマラノフの釣りを許した。
 窓辺のリビーにもマラノフの声が聞こえている。マラノフの頼み事は、リビーには不満だ。なんで他人がうちの浜に。マラノフがなれなれしくセーラと話すのも気に入らない。

「お宅の浜の魚が島じゅうで一番です」
「あら、べつにうちの魚じゃ、ありませんのに」
「釣れた魚はお分けしたいと思うのですが」
「まあ、ご親切に。喜んでいただきますとも」
「時期がいいですからね」と、マラノフ。
「そう、よく釣れるころですね。潮の変わり目だし」
「にしんが来ますよ」マラノフは釣りに自信がありそうだ。「じゃ、釣りに行ってきます」
「幸運を」セーラはポーチでマラノフを見送った。

 セーラは居間に戻り、用意した朝食がそのままになっているのを見つけた。
 「いやだわ」セーラはつぶやく。リビーは何も食べていない。このところ、リビーの気むずかしさが一段と強くなっている。
 セーラは台所で、バラを花瓶に生けた。
 「ノドがかわいたでしょ。おいしい水をあげるわ。気持ちがよくなるわよ」セーラは、いつでも、花や家具に語りかける。両親とすごした家具たちであり、母が丹精した花たち。セーラにとっては、すべてが身内と同じ存在だ。

 居間の家具をふきながら「どうしてホコリがたかるんだろう」と、セーラは語りかける。
 母親の写真にむかって「おはよう、おかあさん」と、朝の挨拶を忘れない。天国のお母さんたら、自分が死んだ時よりももっと年取っている姿の娘を想像できるかしら。ふふ、無理でしょうね。こんなおばあさんになってる娘だなんて。
 暖炉の上におかれている、夫の写真へもしみじみと語りかける。「フィリップ、あなたと結婚してから46年目よ。早いものだわ」

 ワンピースに着替えて部屋から出てきたリビーは、「ひとりごと言ってるの?」とセーラたずねた。
 「ええ、そうよ」セーラは受けながす。
 「だれか返事したの?」と、いじわるを言うリビー。
 「返事はまだよ。お茶が冷めるわ、オートミールもね」セーラは気にせず答えた。
 リビーは揺り椅子に腰をかけると「もう冷めちゃってるわ」と、冷めた声でいう。
 「でも、朝ご飯はちゃんと食べないと」セーラにはリビーの体調が気がかりだ。
 食事を気にかけるセーラを無視して、リビーはたずねた。「これ、ブルーのドレスなの?」リビーには、自分の服の色がわからない。
 「そうね、早く直さないと」セーラは、リビーのお気に入りのドレスのほつれを気にする。食事も、繕い物も、リビーの世話すべてがセーラの役目なのだ。

 「あら、靴をはいていないのね」リビーの足にセーラが目をむけた。
 「見つからなくて」リビーは、必要以上の努力はしない人だ。
 「ベッドの下じゃないの?取ってくるわ。でも、リビー、何か食べないと」
 セーラの心配をよそにリビーは言う。「ブルーはいつも私の好きな色だったわ」
 「すぐに戻るわ」と、セーラはリビーの部屋に靴を探しにいこうとする。
 「答えてくれないの?」リビーは呼び止める。
 「なあに?」
 「ブルーのドレスかどうかよ」
 「ええ、ブルーよ」
 「ちゃんと返事するの忘れないで」リビーは高調子に決めつける。
 「ええ、わかったわ」セーラはリビーの気性を心得ている。

 「何してるのよ」セーラの行動をいつも気にするリビー。
 「ホコリをはらっているの」
 「あなたはいつでもセカセカと忙しくしてる。フィラデルフィアの私の家なら、、、」そんなにセカセカしないでも暮らせるのに、とリビーの言い出しそうなことを言わせずに、穏やかにセーラは言った。「あそこは夏、暑いわ」
 リビーの減らず口は止まらない。「暑いのが好きなのよ。暑くて忙しく働く気になれないところがいいんだもの」
 「でもね、ここはメーン州のサマーハウスよ。誰かお掃除しなくちゃならないでしょ」セーラは冷めた朝食を片づけだした。

 浜ではマラノフが釣りを続けている。

 午前中の居間は静かだ。
 リビーは点字の本を読み、セーラはバザーに出すぬいぐるみ作りにせいをだした。「今度は何をしているの?」リビーはセーラがどこで何をしているか、いつも気にする。ぬいぐるみの腹に詰め物をする手を休めずに、セーラは答えた。「バザーに出す動物を作っているの」
 「遅いわね、いつも8月までに終わっているのに」リビーの言い方は、いつもセーラの仕事が遅いという皮肉を込めている。
 「今年は数が多いから」
 「毎年、町のバザーは、あんたにおんぶしているのよ。面倒なことばかり押しつけてきて」リビーの口調が辛辣なのは、若い頃からだが、目がみえなくなってから一段とことばがきつくなった。
 「慈善のためですもの」
 「この世は慈善でいっぱいだわ」
 「その通りね」セーラはリビーの皮肉を気にしない。
 「これはコアラよ。木の上で暮らしていて人が大勢いると下りてこないの」セーラはコアラのぬいぐるみの仕上げに余念がない。
 「まあ、利口な動物ね」相変わらずリビーの言い方には皮肉っぽい棘がある。リビーの皮肉をかわすように、セーラはとっておきのバザー供出品の話をはじめた。
 「わたし、いいもの見つけたの」セーラは引き出しに手を伸ばした。
 「なんなの、セーラ」
 「立体スコープよ。覚えている?スコープにいれて覗いて見る写真も出てきたの。全部、昔の家族写真。あなたに見せたいわ。あなたと私とティシャが入江にいる写真、フィラデルフィア時代のもある。テニス仲間のひとりや、すっかりおめかししたお父さんとお母さん」
 セーラはスコープに写真を入れて、眺めた。ピクニックの写真、水着を着て遊んでいる浜辺の写真。みな若く、幸福そうだ。
 リビーには、もう写真は見たくても見えない。リビーにできるのは、遠い昔を、目の中でさぐることだけなのだ。
 「これはオークションに寄付するわ。昔はとても高価なものだったけど」
 セーラの決意にリビーがまた皮肉を返した。「私たちもセリに出したら、高値がつくかもね」自分の皮肉に自分ひとりで笑いながら、リビーはセーラに頼む。「写真はオークションに出さないでね」目が見えなくとも、思い出の写真は手元におきたいのだ。
 「ええ、もちろんよ」

 「ラジオ聞かない?」セーラはリビーの楽しみを忘れない。「アーサー・ゴドフリーの時間だわ」
 セーラが入れたラジオのスイッチをリビーは、すぐに消してしまった。
 「お気に入りの番組なのに」
 「今は聴きたくないの」
 「具合でも悪いの」セーラは心配になった。
 「大丈夫よ、この時期になると骨が痛むだけ」リビーが揺り椅子から眺める海は、静かに波を寄せている。
 「今朝、誰かが来ると言わなかった?」
 リビーの質問にセーラが答えた。「ええ、ティシャが来るわ」
 「じゃ、靴をはかないと」
 「あらまあ、忘れてた、寝室からすぐ持ってくるわ」
 「サングラスもね」
 セーラはリビーのベッドの下から靴をみつけ出した。リビーのどんな要求も、セーラは黙って静かにこなしてきた。

 ティシャの訪問を前に、セーラはポーチでリビーの身だしなみをととのえてやる。
 「見苦しくないようにね」リビーはセーラに注文した。
 「いつもきちんとしてるわ」
 「あんたには迷惑をかけているわね」髪にブラシをかけてもらいながら、めずらしくリビーがしんみりと言いだした。
 「迷惑だなんておもってないわ」
 「いつか迷惑だと思うようになるわ。だれでもそう、気がかわるから」
 「わたしは大丈夫よ、あなたがいやにならなければ」セーラはリビーの銀髪をやさしくくしけずる。
 リビーの白い髪がポーチに吹き渡る海風にゆれている。
 髪をセーラにまかせながら、リビーは娘のアンナのことを話し出した。「アンナがいるのに、、、」
 セーラは「アンナは、私たちを敬遠しているのよ」と、言う。音沙汰のない姪のことで、リビーにつらい思いをさせたくないから、「母親を敬遠している」ではなく、「私たちを」と言うしかない。
 「アンナは私の娘なのにね」リビーにとっては、アンナとの疎遠は痛い。
 「アンナは娘らしくないし、あなたも母親らしくなかったわ、リビー」セーラには、リビーのつらさがわかっている。
 「仕方ないわね、あ、痛い」髪にブラシがひっかかった。
 「じっとしてないからよ」セーラはリビーの白い髪をまとめ上げた。

 「子どものころ公園で見た白鳥を覚えている?お母さんの髪は白鳥のようだった。私の髪もお母さんくらい白い?」
 「ええ、そうよ」
 「あなたの髪は今どんな色なの、セーラ」
 「色があせたわ。茶色がすっかり消えてしまった」
 「そう、すべてが消えていくわ。遅かれ早かれ」
 「いつもそんなふうに言うわね」

 「なぜ、年取った女の人は公園のベンチに座りたがると思う?」リビーのいつもの口調が戻った。
 「なぜなの」
 「若い恋人達に席をとっておくためよ。たとえ11月の木枯らしが吹いて、ベンチが消えたがったとしてもね」
 「今はまだ8月よ」
 セーラのあたりまえな答えにリビーは続ける。「時間なんて気にしないわ」
 「そうはいかないわよ」
 「そうね、人間には時間が重くのしかかってくる。マシューが亡くなったのは11月よ。言っとくけど、マシューが死んだ11月に、私も行くことになるでしょうよ」自分の老い先が不安になっているリビーにとって、11月はいやな月なのだ。

 「セーラ、雑用を片づけなさいよ、私、ベンチを確保しておくわ」リビーは8月のおわりの気配に耳をすました。
 夏の光は秋に向かって少しずつ変わっていく。

 浜辺の灌木のなかにブルーベリーが実っている。今年はあまり出来がよくない。セーラとリビーの幼なじみ、ティシャが、久しぶりにふたりの家を訪れようと、おみやげにするブルーベリーをつみ取っている。ティシャも年には勝てず、杖の助けを借りて、一歩一歩慎重に歩いて、浜にでた。

 磯浜ではマラノフが釣りを続けていた。小さな魚をつり上げた。
 「お見事!」と、ティシャが声をかける。
 「タウティさん、これはどうも」マラノフはつり上げた魚を掲げてみせた。
 「今日は一段と美しいですな」如才なく挨拶するマラノフに、ティシャは「私の遺言状をお楽しみに」と辛辣な挨拶をする。遺言状の中に、どの友人にどんな形見を残すかを指定するのは、老人達の楽しみのひとつ。マラノフのお世辞は、形見のグレードを上げた、というティシャの皮肉なのだ。
 「獲物は?」ティシャの質問に「あれやこれや、いっぱいです。ハタもつれましたよ」マラノフは得意そう。「ハタ、ここではなんと呼ぶんでしたか」
 「カナーズですわ、マラノフさん。ブルーベリーいかが」
 「いや、これはありがとう」マラノフはブルーベリーを一口つまむ。「おいしいです」
 「よかった、でもヒルダはお気の毒なことでした、あんなに突然亡くなるなんて」
 「ええ、かわいそうでした。あんな重い病気だったとは気づかなくて」マラノフは顔を曇らせて答えた。
 「これからもヒルダの家に?家は彼女の娘さんが受け継ぐけれど」
 未亡人ヒルダの家に居候しているマラノフが、これからどういう身の振り方をするのか、ティシャは野次馬気分なのだ。
 「そうですね」マラノフは口ごもる。
 「もう夏も終わりね。寂しいわ」夏が終わったあとのマラノフの身の振り方がどうなるのか、ティシャは興味津々だ。
 「私はこの島に来るとくつろげるんです」マラノフはこの島の居心地に満足している。
 「じきに落ち着き先も見つかるわ」ティシャは、行く当てのないマラノフに、適当ななぐさめを言った。「じゃ、大漁をいのるわ」

 ティシャはマラノフに別れを告げて、セーラとリビーの住む家に向かった。幼なじみのふたりであるけれど、ティシャは気むずかしいリビーのほうはちょっと苦手。同じ両親から生まれた姉妹なのに、どうしてああも性格がちがうのだろう。
 ティシャはまたブルーベリーを摘みつみ歩く。急ぐことはない、老人に時間はたっぷりある。

 セーラは庭で水彩スケッチを楽しんでいた。夏の終わりの海、何度描いても楽しいモチーフだ。ゆっくりていねいに色をつけていく、セーラの絵は、セーラの性格そのままだ。
 「セーラ!」リビーがセーラを呼びつける。「セーラ、どこにいるの?」
 「庭よ」
 「何してるの?」
 「絵を仕上げているの」セーラは絵筆をうごかしながら答える。
 「散歩にいきたいわ」リビーの要求は、待ったなしだ。
 「ええ、わかった」セーラは絵筆をしまって、リビーのいるポーチへあがっていった。

 「マラノフ男爵はうちの浜で釣りをしているわ」セーラが今朝のマラノフとの話をリビーに伝えた。
 「あんな魚、持って来なきゃいいけど」リビーは迷惑そうに言った。
 「リビーは魚がきらいね」
 「ドブにいる魚よ」
 「まさか、あそこは潮流も速いし、水はきれいだわ」セーラは入江の魚を悪く言いたくない。
 「私は、あんな魚ぜったいに食べないからね。そりゃ、あんたはあの詐欺師を喜ばすために、何でも食べるでしょうよ」
 未亡人の家に取り入り、住み込んでいるマラノフに、リビーは気を許していない。
 「まあ、詐欺師だなんて」

 日課の散歩。セーラはリビーの腕をとって、海辺の道を歩いていった。古いデザインの麦わら帽子が、二つ並んで夏のおわりの光のなかをあゆんでいく。
 「この週末には鯨が見られると思うわ」セーラは希望をもっている。
 「そんなことあるもんですか」
 「でも、鯨の季節ですもの」
 「鯨はもう来ないわよ」リビーは悲観的だ。
 「ニシンが来たのが、鯨のまえぶれよ」
 「前触れだけで終わるわね」

 海岸へ下る小径にはアジサイの花がゆれている。
 「アジサイの茂み、とてもよく育っているわ」見えないリビーに、セーラは花房を近づけてやった。
 「そうね、きれいみたい」リビーのまぶたには、若い頃の母の姿がうかぶ。
 「私たちが若いころお母さんが植えたんだったわ」リビーは遠く去った日々に心を向けた。
 「そうね、私が看護学校を出た頃だったわ」セーラも若い日を思い出した。
 リビーにとっては、アジサイの花も過ぎ去る年月に結びつく。「あなた、気がついている?私たち、ふたりとも、もうお母さんの死んだ年齢よりも上になったのよ」
 「庭が好きだったわね、お母さん」

 「あんた、子どものころ、鯨が季節を変えるって信じてたわね」リビーの思い出話はつづく。
 「ほんと?」
 「そうよ、お父さんが言ってたわ。鯨はしっぽで風をつかまえて、北極の寒気を連れてくるって」
 「そんなこと信じてた?」
 「そうよ、信じてたわ」

 家のポーチに戻ったセーラは、散歩のあとの上気した気分が続いているうちにと、リビーに話をしてみる。
 セーラがポーチから古びた窓をみながら言った。「ねぇ、いいと思わない?」
 「何がいいって?」リビーは手探りでポーチの鉢植えにじょうろの水を注ぎはじめた。
 「ここに大きな見晴らし窓をつけたいよの」セーラはポーチに面した窓の改装をしたいと思っていた。「前から欲しかったの」
 「お金がかかりすぎるわ、セーラ」リビーはいつも悲観的、何事にも否定的だ。
 「ジョシュアは作ってみたいって言ってるわよ」いつも家の修理を気軽に引き受けてくれる島の大工に、セーラは見晴らし窓のことを話しておいたのだ。
 セーラのことばに、リビーはそっけなく返す。「そりゃ、あの人は、作れば代金をもらえるもの。それにセーラ、私たち、新しいものを作るには年を取りすぎたわ」
 リビーのことばに逆らわないできたセーラだが、見晴らし窓のことでは、リビーの言うままにあきらめたくない。セーラは揺り椅子に座っているリビーの横顔を黙って見つめ、居間に入っていった。

 ティシャが裏庭で元気な声を響かせている。「こんちは、こんちは!」
 「あら、ティシャ」
 「ここまで歩いてくると、暑い、暑い」
 「まあ、車じゃなかったの?」
 「ブルーベリー摘みながら来たのよ」
 「あら、いいこと」
 ティシャは、裏口からなじみの家に入ってきた。
 「ちょっと待ってね」セーラは、ブルーベリーのバケツを台所へ運んだ。
 「浜を歩きながらブルーベリー摘んでたの、そしたら、途中でマラノフさんに会ったわ」
 「ええ、釣った魚をここに分けてくれるんですって」セーラはブルーベリーを鉢に入れてきた。

 「頑固な年寄りはどこよ」ティシャはリビーの偏屈ぶりを心得ている。
 「リビーはポーチに出てるわ」
 「それじゃ、ここで気兼ねなく話せるわ。セーラ、あなたやつれたんじゃない、心配事あるの?分るわよ。リビーはイジワルだもの」
 「別に」
 「別にですって、それじゃ、下痢でもしてるっていうの?やっぱりリビーのせいだわよ」
 ブルーベリーの鉢がおかれたテーブルを前に、ティシャのリビー批判は容赦ない。「わかってるわよ、50年来のつきあいだもの。話してみて、セーラ」
 「リビーは、最近、死ぬことを口にするのよ」セーラは、心配事をティシャに打ち明けた。
 「死ぬ、ですって。馬みたいに丈夫な人なのに」ティシャはポーチにいるリビーのほうへ顔を向けた。
 「心の問題だと思うの」
 心配顔のセーラに、ティシャは椅子を寄せて「気が弱ったってこと?」とたずねる。
 「私の思い過ごしかも知れないけど」
 「そんなことないわ、セーラ、あなた、看護婦してたじゃないの。リビーが年取ったってことよ」
 「そんな、年だなんて」
 「リビーはいつだって気むずかし屋だった。女盛りのころもそうだったわ。アンナには話したの?娘のアンナがリビーを引き取るべきなのよ」
 「アンナは引き取ったりしないわ」
 「なぜ?彼女、お金あるのに。母親の世話するの当然でしょ」ティシャは、おとなしいセーラが目の見えないリビーの世話にあけくれる日々をすごすことを気の毒に思っていた。
 でも、セーラには、ティシャの意見は見当違いに思える。リビーの世話をするのがいやなんてことはないもの。
 「セーラ、トルーマンのことば、知ってる?」
 「知らないけど」
 「お金は結局お金持ちのところに集まるものだって」
 「そんなこと言わなかったでしょ」
 「もちろん冗談よ。笑ってよ、セーラ」ティシャは自分の冗談で笑っているけれど、セーラの気分は晴れなかった。

 「セーラ、あなたこのままでやっていけるの」
 「やっていけるってどういう意味?」
 「この家を維持していくお金、あるの」
 「考えてみたことなかった」
 「考えてもいいころだわ」
 「リビーがこの家からいなくなれば、セーラ一人じゃ寂しくなるわ。ねぇ、私といっしょに住んだらどう?」
 「そんな、あなたに面倒をかけられない」
 「人生の半分は面倒なことで、あとの半分はそれを乗り切ること」ティシャは、仲良しのセーラといっしょに晩年を過ごしたいと願っているのだ。

 ガンガンと大きな物音が家中に響いた。「ジョシュア!」リビーがかんしゃくを起こす。「ジョシュア、何してんの!」
 「水道管の修理でさあ」ジョシュアが床下からどなった。

 ポーチに出てきたセーラに、リビーは「静かにするようにジョシュアに言ってよ」と命じる。
 「50年も言い続けたわ」セーラはあきらめ顔。
 「おはようリビー」ティシャが声をかける。
 「おはようティシャ」ふたりの挨拶はそっけない。

 「ジョシュア、静かにしてちょうだい」セーラは床下のジョシュアに頼む。「水漏れは浴室のパイプなのに」
 「徹底的に直しておかないと、あとがよけい大変になるんでさあ」ジョシュアは50年も出入りしているこの家のことを知り抜いている。
 「お茶にこない?」セーラがジョシュアを誘った。
 「そりゃ、どうも。いやはや大変な場所でね」ジョシュアは床下から言う。「床下に入るのに半日かかり、出るのに半日かかる」
 「6月から修理を待っていたんだもの、10分くらい待つのは平気」
 「床下はこの前来たときと、同じ。狭くてね」ジョシュアが床下から出てきた。

 「お早うジョシュア」ティシャが挨拶をする。
 「お早うございます。タウティさん」ジョシュアがポーチにあがってきた。
 「調子はどうです、ストロングさん」ジョシュアはリビーへも挨拶する。
 「もっと静かにできないの?」というのがリビーの返事。
 「ええ、気をつけますよ。わたしにできるかぎりはね」
 「リビー、いっしょにお茶をどう?」ティシャの誘いにも、リビーは「いいえ、ジョシュアの仕事が済むまで待つわ」と、揺り椅子から動かない。

 「救いがたい人ねジョシュアって」と、ティシャはあきれ顔をしてみせた。ジョシュアは騒々しく動き回ることにかけては、島一番の男だ。
 「いやあ、お元気でしたかな」と、ジョシュアは気にしない。
 「もう少し静かにしてよ」ティシャの頼みも、リビーのようすを気遣ってのこととわかっているジョシュアは「リビーさんは神経質だからね」と、長年のつきあいで心得ているから、という調子をみせる。
 「そうよ、リビーは偏屈だわ。セーラ、お手伝いしましょうか」ティシャは台所へ向かった。ティシャがジョシュアに言う。「仕事忙しかった?」
 「ええ、大忙しで、休むヒマもありゃしない」
 「近頃、この島にも新しい人達が増えたわ」
 「ちょっと増えすぎですなあ」

 台所ではセーラがお茶の準備をしていた。イレブンシス(11時のお茶)にはちょっと早いけれど、
 「このクッキー、しけてるじゃない」ティシャは遠慮なしにお茶菓子の品評をする。
 「車も増えちゃって、困ったもんだ」ジョシュアがお茶の手伝いをしながら言う。ジョシュアは、お茶道具をトレイに乗せて運び、新しい避暑客を批判する。「車を2台も持ち込む避暑客もいるありさまで。1キロ歩けば海に出るってのに」
「ほんとにね」ティシャも近頃の避暑客は気に入らない。

 居間でモーニングティータイムが始まった。最高級の茶道具はとっておきのときにしか出さないと知ってるけれど、この家で2番目のティーセットが使われていることで、ティシャは満足している。ティシャは、自分がセーラにとってもリビーにとっても、50年来の友達としてこの家になくてはならない人物だということを、お茶の味にかみしめていた。
 「あなた、またマートルと会ってるんですってね」ティシャはジョシュアに問いただす。狭い島の中での行動は、すべてお互いお見通しだ。
 「たまにはね」
 「あら、すてきじゃない」
 「マートルはレディだから、はしたない格好じゃ歩かない、ピチピチのバミューダパンツなんかんか履いてるやつらとはちがうよ。」
 「ふふっ」ティシャは、島の人のうわさ話は聞き逃さない。

 「先週、仕事先の家に道具を忘れてね」ジョシュアは島中の家に出入りしている。
 「取りに戻ったの?」と、ティシャはたずねた。
 「いや、道具はたくさんあるんで、もう戻る気にならなくて。ああいう家の奥方は願い下げですよ。お茶、もう一杯よろしいかな。ああいう家がこの島をだめにしていくんだ」
 「何があったの?」セーラがジョシュアにたずねる。
 「その奥方、わしのこと、のろまだと言ったんだ」
 「まあ、ひどい言い方」ティシャが相づちをうった。昔に比べて動作の機敏さが減ってきたジョシュアだけれど、新参者がジョシュアを批判するなんておこがましい、とティシャもセーラも憤慨した。
 ジョシュアも、昔なじみの気軽さで「だから、そんならほかの人を雇えって、言ってやった。二度と行かないよ」とぼやいてみせる。
 「当然よ」セーラもうなずいた。
 「思い知るわよ」ティシャも同意。
 「だけどさ、何のあてもなくて。もう引退どきかな」がらにもなくジョシュアは弱気なことを言ってみる。
 「あら、引退なんてしないで。あんたがいないと困るわ」ティシャのことばに「ええ、お宅じゃ、気持ちよくやらせて貰ってますがね」
 「あんたは、親切な人よ、ジョシュア」
 「ええ、でも理解してくれない人も多いんです。これからこの島も住みにくくなる。さて、こころのこもったおいしいお茶をごちそうさました」
 「ジョシュア、お世辞がうまいわね」お茶をほめられて、セーラもうれしい。
 「さてと、あの、大きな見晴らし窓作る話、どうなりました」
 「気が進まないのよ、こんな年寄りに新しいものはいらないわ」セーラは、リビーが反対してるから、とは言えなかった。
 「新しいものを作るのは、悪いことじゃない」ジョシュアの意見に、ティシャも「その通り」とうなずく。
 「それじゃ、奥様がた、失礼」ジョシュアは仕事に戻っていった。
 「かれの言うとおりよセーラ」ティシャはセーラに言った。

 「鯨は、またやってくるわよね。もう一度見たいわ」セーラが窓から海を見つめる。カーテンが海からの風に静かに揺れていた。鯨は今年来ないかも知れない。でも、50年前のように、来るかも知れないのだ。
 「それじゃ、見にいきましょうよ」ティシャが誘った。

 「岬まで行ってくるわ」セーラがポーチの揺り椅子にいるリビーに声をかけた。
 「鯨を見にいくんでしょ」と、リビーはふたりへことばを返す。ティシャが、セーラとふたりだけですごしたがることは知っている。ティシャがリビーを煙たがるのは子どもの頃からだから、今さらどうということもない。

 ティシャとセーラは岬からじっと海をみつめた。
 「向こうを見て、セーラ、イルカじゃない?」ティシャは双眼鏡を覗いている。
 「ええ、この夏、初めて見たわ。戦争前は何頭いたか、覚えている?」セーラはティシャに問いかけた。
 「どの戦争ですって」
 「この間のドイツとの戦争よ」
 「ああ、あれね、潜水艦がイルカを追い払っちゃったわ」
 「また、あなたの潜水艦の話、、、」
 「でも、確かに見たんだもの、特に42年にはね」戦争中、潜水艦が入江に入り込んだのを見た話は、ティシャのお得意の思い出話だ。ただし、ティシャ以外には誰もみていないのだ。
 「たぶん、幻を見たのよ」
 「あれは、ぜったいにロシアの潜水艦だったわ、なんでここに来たのかはわかんないけど」

 「わたしたちが、最初に鯨を見つけたときのこと、覚えてる?」
 「リビーったら、双眼鏡を放さないで独り占めしていたわね」
 「あなたこそ放さなかったわ」
 ティシャとセーラの散歩は、若い頃の浜のなつかしさに満ちている。
 「まだ、この浜で竜ゼン香が見つかるかしら」
 「竜ゼン香ね、覚えてるわよ」
 「竜ゼン香探すのを何十年も忘れてたわ」
 「見つけてたら、ひと財産作れたのに」
 「そうね、1オンスが10ドルだった」
 「新しい香水の女王ね」
 「私たち、名コンビね」
 あんなに性格のちがうリビーじゃなくて、セーラにとっては、私のほうこそ姉妹以上の仲なのに、と、ティシャは思う。ほんとは、セーラは、リビーとじゃなくて私といっしょに暮らした方が幸せになれるのよ。

<つづく>

言語学復習1-14

2012-02-11 11:56:10 | 日記
2006/02/09 木
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(1)語学劣等生春庭のための言語学

 日本に暮らす/在日本生活/イルボネ ソ サンダ/Living in Japan / Nakatira sa Bansang Hapones / Vivir en Japon / Morau no Japao / Vivre au Japon / Hidup di Jepang / Song o Nhat / Das Leben Japan / Vivere in Giappone / Traiesc in Japonia / Me te Japan / Japonya'da Yasamak / ЖИЗНЬ В Ялонии / Ялонд амЬдрах 

 残念ながら私のパソコンでハングル文字やヒンディ文字タイ文字の出し方がわからないし、アルファベットのアクセント符号もどうやって表記するのか知らないので、ラテン文字アルファベット(アクセント符号省略)で出せるだけと、ロシア文字(キリル文字)で、各国語の「日本に暮らす」を書き写してみました。

 アルクが出している「JーLife 日本に暮らす外国人向けのフリーペーパー」の表紙に出ている各国語での「日本に暮らす」の訳語をコピーしただけです。

 私にも、どの国での「日本」なのか、わからないものもあります。日本語、中国語、韓国語、英語の次から、どれが何語にあたるか、興味のある方、調べてみてくださいね。

 「φ」の文字から、国際音声記号( International Phonetic Alphabet =IPA)を思いだし、久しぶりに言語学の教科書など開きました。

 私、中学校から語学劣等生。英語、ずっと苦手でした。
 しかし、言語学はとても面白く学び、言語学を知ってから、語学アレルギーが薄らぎました。かじるだけなら、ドイツ語、アラビア語、タイ語、韓国語、中国語を習いました。今でも会話能力がちょびっとだけでも残っているのは、スワヒリ語だけです。

 言語学、おもしろいですよ。
 言語学には、理論言語学(音声学、音韻論、統語論、形態論、意味論、語用論など)と、社会言語学、認知言語学、比較言語学(言語のファミリー、語族などの研究)、対照言語学(同じ語族ではない、系統の異なる言語ふたつの異同を研究する)、など、さまざまな分野があります。日本語学は、言語学の一分野である個別言語学のなかのひとつ。

 語源の研究も言語学に含まれます。英語やフランス語などのある語の語源をたどって元になったラテン語をさぐる、などの研究が行われてきました。

 日本語でも、「語源さがし」は、厳密な学術書から「面白語源学」「とんでも本」まで、さまざまな種類の本があります。日本語の語源本、問題点がたくさんあるので、要注意。

 一般に流布している「語源」は、「猫はネずみをとる子だからネコという」という類の「民間語源説」や、「師匠が走り回るほど忙しい年末だから師走」のような「語源俗解」が多く、古い文献をあたっても、なかなか本当の語源を調べ尽くせません。

 語源と「言語の系統」についてのお話、しばらくおつきあいください。
<つづく>
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2006年02月10日


ぽかぽか春庭「言語学復習(2)孤児、日本語」
2006/02/10 金
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(2)孤児、日本語

 a*****さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
 「 平安時代の発音には興味が湧きます。沖縄に日本の古語が多く残っているというのも面白いです。元のひとつの言葉が民族・地域・時間を経て変わっていくのも面白いですね。「日本」の語源は、なんでしょう?北京語:リーペン、広東語:ヤップン、・・・ヤーパン、ハポン、ジャポン、ジャパンJapan・・・
ポリネシア語の意味や発音が原日本語に近いという説が興味深いです。
投稿者:a****** (2006 1/28 1:15) 」

 「沖縄方言には、日本語の古語が残っている」というa*****さんのご指摘はその通りです。が、他の方言にも、古語の語彙や発音文法が残っています。

 ことばのファミリー論(言語系統)の中で、日本語に関して確実にわかっていることは、「アイヌ語は日本語とは異なる言語である」「琉球語(沖縄方言)は、日本語と同系統の言語である」ということくらい。沖縄方言を「完全な日本語の一方言」と言ってしまってよいかどうかは、また別問題。

 琉球語首里方言「u音」は、ほぼ規則的に東京方言の「o音」と対応し変化しています。このように、ほとんどの語が規則的な音韻変化をする関係にある言語を「同じ系統の語」とみなすのです。

 「身体部位の語など基礎語に、南方系のオーストロネシア語族(ポリネシア語など)との共通点がある。」
 「アジア北方系言語(アルタイ語系)と、共通する文法がある」
などこれまでの研究によってわかったことは、ごくわずかなてがかりであり、言語学的に定説となるような決定的な「日本語の系統」論はまだありません。

 「日本語の源流は○○である」「○○語と日本語は祖先が同じ」という説を見かけたら、とりあえず言語学的には「マユツバ」説だとおもってください。
 日本語は、言語学的にはファミリーに所属していない孤児なのです。

 去年、国立科学博物館で開催された「縄文vs弥生」展を見にいきました。
 このことについては、カフェ日記「いろいろあらーな」2005/08/26、27、28に書きましたので、ご参照ください。
 縄文人、弥生人、周辺民族との関係について、出土人骨のDNA研究などで、知見が増えました。

 しかし、言語については、文献資料が残された時代についてはわかることも多いのですが、縄文語復元などは、言語学的な所見に基づいているとはいえ、あくまでも推測復元なのです。
 古代のことば、周辺民族の言語のうち、文献資料が豊富に残っているのは、中国語だけです。中国語は日本語とはまったく系統の異なる言語です。

 a*****さんからの「日本の語源はなんでしょう」というおたずねについて。
 「日本」の語源も諸説あります。

 対外的には、聖徳太子が「日のいずる国、日の本である国」と、随に対して自国を称揚したのが最初といわれていますが、国内で「ひの国」「日のいずる国」「日のもと」などと言われ出したのがいつなのかは、わかりません。
 「自分たちの住む国が、大国中国に対して、東側に存在する」という意識をヤマトの人々が持ち出してからの呼び名であることは確かでしょう。

 それまで中国は、この大陸の東はしに位置する島国を「倭国(わこく)=ちっぽけな国」そこに住む人々を「倭人=チビ」と呼んでいたのですから、「日の本に位置する国」とは、気宇壮大な呼び名だったことがわかります。

 「日本」という国号が、文献に初出するのは701年の大宝律令において。また、国外での初出は736年の長安で亡くなった留学生「井真成」の墓誌の中。

 明日は「ジツボン、ジッポン、ジャパン、リーベン」について
<つづく>

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2006年02月11日


ぽかぽか春庭「言語学復習(3)ジツボン、ジッポン、ジャパン、リーベン」
2006/02/11 土
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(3)ジツボン、ジッポン、ジャパン、リーベン

 「日」の発音、呉音では「ニチ」、日曜(にちよう)の日は「にち」です。漢音では「ジツ」で、平日(へいじつ)の日は「じつ」。

 井真成の墓誌が書かれた当時の唐の発音では、「ヂツボン」だった、のではないかと私は推測しています。言語学の古代中国語音声研究をきちんとやってのことではないので、古代中国語音声学を研究している人に確かめたいと思っています。
 (漢字の読み方発音のうち唐音というのは、唐の時代の発音ではなく、鎌倉室町期に中国と交易していたころの「宋」を中心とした発音です。唐の時代の音声は、漢音)

 現代中国語の発音では「日」はリーです。ヂ[di]と、リ[ri]の発音は似ている(調音点が同じ)ゆえ、日本語でも「di」と[ri]は、ときどき交替します。(英語のプディン(グ)→プリンなど)

 ヂツボン→ヂッボン→ヂャッボン→ジャポン→ジャパン(英語Japan)
 ヂツボン→ヂーボン→ヂーベン→リーベン(中国語のリーベン)

 留学生から「ニッポンですか、ニホンですか」という質問があったときには、単独で使うときは「ニッポン」が主流、「日本語」「日本文学」など、他のことばと複合語をつくったときは、「ニホン」が主流、と答えていますが、実は一国の国号でありながら、厳密な規定はないらしいです。
 「どっちでもいい」という曖昧テキトーなところが、私は好きです。ニッポンちゃちゃちゃ!

 古い古い日本の姿、曖昧な部分もあります。歴史上の出来事のはっきりした日付がわかるようになったのは、6世紀くらいからでしかありません。
 日本の建国の日が2月11日だなんて!
 日本の建国はUSAのような新出来の国の独立記念日みたいに、はっきりわかっていないのです。

 長い歴史が続く中で、日本が「何月何日」とはっきりわかるような建国の日を持ってこなかったのは当然でしょう。「日本」という国号でさえ、いつ出来上がったかははっきりしておらず、ニッポンなのかニホンなのかも「テキトー」でいいのに。

 それなのに、2月11日を「建国の日」と区切ってしまうのは、旧石器時代縄文時代以来の私たちの先祖がはぐぐんだ長い長い歴史に対して、申し訳ない思いです。

 伝説上の初代天皇(神武天皇)は、現在の歴史研究では実在したことが確認されていません。言語学の命名法研究からみて、神武の和名は、後世に作り上げられた名であることがはっきりしています。神武から9代の天皇は実在しておらず、その名は後世の創作です。

 架空の神武天皇が即位した日を、切りがいいからと1月1日(太陰暦)とし、それを太陽暦になおすと2月11日になるという計算です。こういう「伝説上」の日付で建国の日を決めてもらっては、人文科学としての歴史が泣きます。
 2月11日を祝日にしたいのなら、「神話の日」としてほしいです。

 明日は、「神話の日」について
<つづく>
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2006年02月12日


ぽかぽか春庭「言語学復習(4)神話の日」 
2006/02/12 日
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(4)神話の日 

 旧「紀元節」が決められたのは、「近代国家」として、建国の日を内外に示すべきだという国家観によります。
 戦後いちどは廃止された「紀元節」が「建国記念の日」として復活したのも、この国家思想のためです。

 「国民のために国家がある」のか、「国家のために国民がある」のか、という2つの考え方が拮抗するなかで、「国家のために国民がある」と考える人々にとって、「建国記念の日」は、よりどころのひとつになっています。

 「建国記念の日奉祝」派の人々にとって、初代天皇が即位した日を祝うことが、この国にの建国を祝うことになる、と考えられているようなのです。
 しかし、『日本書紀』の記述を見ていけば、この国を最初に統治した天皇(スメラミコト)という名乗りを与えられている人はふたりいます。

 始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)=神武、と、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)=崇神です。

 スメラミコト(天皇)という称号を考え出した人は、天武天皇です。天武以前は「おおきみ(大王)」という称号を名乗っていました。

 a*****さんからのコメント。ありがとうございます。
 「 昨日のNHK,「その時 時代は動いた」壬申の乱 で、天武天皇(大海人皇子)が大友皇子を破った後、それまでの大王をやめて、初めて自らを天皇と名乗り、それ以前の大王を天皇と呼び直した、という話でした。神話の日というのもいいですね。。
投稿者:a***** (2006 2/11 0:20)

 NHK『その時歴史が動いた』、天武天皇の事績を広く伝えてタイムリーな企画でした。NHK番組では伝えていない天武朝9代と明治以後3代の天皇の関係について、のちほど今シリーズの中でお話ししていきたいと思っています。

 『古事記』での神武天皇の和名は「かむやまといわれひこ(神倭伊波禮毘古命)」。
 初代神武だけがさまざまエピソードを持ち、2代から9代まで、第2代綏靖、第3代安寧第4代懿徳第5代孝昭第6代孝安第7代孝霊、第8代孝元、第9代開化、までは、后の名子供の名を羅列するのみですっとばしています。

 次に詳しいエピソードが出てくるのは、10代目の崇神天皇から。
 初代と同じく10代目も、「ハツクニシラス(はじめてこの国を統治した)」という和名を持っています。歴史的には、崇神からが実在の「ヤマトの大君(おおきみ)」であろうとみられています。

 2月11日を祝うなら、自国の長い長い歴史を振り返り、日本語が豊かな言語文化を築いてきたことを、一同そろって寿ぐ日としてほしい。

 「神話と伝承の日」とし、アイヌのユーカラや沖縄のおもろそうしなどといっしょにことばの豊かさを味わうと共に、日本語の長い歴史と言語文化の変遷をふりかえる一日として、祝いたいなあ。

 明日は大王の名について。
<つづく>
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2006年02月13日


ぽかぽか春庭「大王の名前」
2006/02/13 月
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(5)大王の名前と言語学

 日本の言語文化にとっても言語学にとっても、アイヌ語と琉球語(沖縄方言)を日本が保持していることは、とても喜ばしいこと。
 私は、縄文文化あるいはそれ以前の旧石器時代も含めて自分たちの長い歴史を誇りたいと思います。日本語の豊かな響きを寿ぎたいと思います。

 「日本」という国号にこだわるのなら、大宝律令に「日本」の文字が記載された701年に注目したらいいのかもしれないし、「帝国日本」ではない、新生の現在の日本を寿ぎたいなら、大日本帝国から「日本国」へと生まれ変わったときを「建国の日」としたらよかろうと思います。

 世界的には、占領下や、植民地状態にあった国が独立した日を「建国の日」と呼ぶのが大半ですから、日本が「オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)」でなくなった日(1952/04/28)を「建国の日」とするのが、世界的、歴史的には納得の記念日かもしれない。4月29日と連休になるのでいいかも。

 日本語を母語として読み書きしてきた者として、ことばの使い方には気をつけたい。
 歴史を無視して、今から2666年前(紀元前660年)という伝説上のある一日を記念して「建国記念の日」と呼ぶのは、無理がある。その日に即位したという伝説上の人は実在しないのですから。
 歴史学考古学から考えても、言語学命名法からいっても、「2月11日は建国記念の日」とするのは、誇るべき日本文化日本歴史に対して、不誠実なことです。

 天皇の和名や陵墓の研究によって、初代~9代の天皇名は、後世に作り上げられたものであると判明しています。
 天皇の中国風の名、神武とか、応神とかの名は、天武以後につけられた、新しい名前です。

 中国式天皇名より古い時代につけられたはずの天皇和名を、命名法(ネーミング、命名法は言語学の一分野です)によって、言語学的に調べると、いつごろその名がつけられたのか推定できます。

 10代以後の天皇和名よりも、新しい方式の名がつけられているのが、初代から9代までの名前です。
 初代から9代までの和名は、天武天皇持統天皇の時代以後につけられたことが判明しています。すなわち、初代~9代の天皇は、天武朝になってさまざまな伝承をもとに作られたのです。

 『古事記』や大王(おおきみ)の名に関しては、
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0402a.htm
に書きましたので、ご参照くださいませ。

 明日は、古事記口承
<つづく>

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2006年02月14日


ぽかぽか春庭「古事記口承」
2005/02/14 月
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(6)古事記口承

 実在の神武天皇は存在しなかったけれど、神話伝説上の神武天皇は、後世作り上げられました。
 「きっと最初の天皇はこんな人だったのだろう」と、さまざまな伝承、地方に存在していた伝説を混ぜ合わせ、中国の思想などを取り入れながら、ハツクニシラス伝説が確立して出来上がっていきました。

 12日に書いたように、天武天皇(大海人皇子)は、「大王(おおきみ)」の称号を「天皇」という称号に変え、天武以前の大王にも中国風の名と天皇の称号を与えました。

 各地の伝承を取捨選択し、統一王朝の記録として「古事記」や「日本書紀」の編纂を意図したのも天武天皇です。
 中国に対して、また地方の豪族に対して、統一王朝の正当性と権威を知らしめるため、天武天皇は稗田阿礼に命じて、各地に伝わる伝承を暗唱させました。

 「稗田阿礼」とは、一個人ではなく、阿礼を長とする朗唱職能集団の一族であったと私は思っています。
 「伝説」や「神話」を集めたものを稗田阿礼が朗唱し、太安万侶が編纂したものとして私は「古事記」を受け止め、20代から30年以上にわたって読んできました。

 1974年に『古事記』を卒論として提出して以後も、おりにふれて読み直すたびに、万葉仮名の発明と工夫に感嘆し、世界各地の伝承神話との異同が次々に見つかるなど、新しい発見が増えてきました。
 古事記編纂の過程でどのような取捨選択、あるいはもっと踏み込んだ改竄が行われたかについては、ここでは論議を置いておきます。

 漢字漢文は伝来していたけれど、まだ日本語表記法が出来上がっていなかったので、暗唱する以外に伝える方法はありませんでした。

 口承は、文字がある地域にとっても、そうでない地域にとっても、言語文化の重要な伝承方法です。
 『ユーカラ』はアイヌ神謡集、『おもろそうし』沖縄の古代歌謡集。日本の言語文化にとって、たいせつな宝物です。

 口承の伝統は、アイヌユーカラや琉球おもろそうし、日本語文芸でも将門記、平家物語、仏教説話などで続いてきました。
 文字ではなく、口移しで物語を覚えていく方法を残していたのが越後瞽女(えちご ごぜ)。最後のごぜさんだった小林ハルさんは2005年に105歳で亡くなり、耳からの情報だけで伝えていく口承の保持者はいなくなりました。

 口承文芸の伝承者、現在もいますが、皆、文字記録も利用しつつ口承を伝えていて、耳からだけで受け継いだ人はいなくなったのです。

 稗田阿礼の口承を文章表記にうつすに当たって、漢文で書くか漢字によって日本語を記述するか、ふたつの方法が考えられました。
 漢文方式が『日本書紀』となり、漢字を日本語の音節にあてはめる「万葉仮名」方式で『古事記』が書かれました。

 日本の神話についてはさまざまな論がありますが、『古事記』や『日本書紀』に書かれた、古い神話を持つことは、日本語言語文化にとって、とても心豊かなことです。

 明日は、歴史ファンタジーについて
<つづく>
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2006年02月15日


ぽかぽか春庭「歴史ファンタジー」
2006/02/15 水
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(7)歴史ファンタジー

 「古事記」「日本書紀」などにに書かれていることを吟味せず、天皇についての歴史的事実を知りもしないで、明治以降の国家神道だけを奉じて「日本は神の国だ」とか発言する政治家が出てきてしまうのは、わが国の歴史に対して不遜なこと。

 千年の伝統を破壊する形で急ごしらえでつくりあげられ、まとめられた明治以後の国家神道は、南方熊楠が案じたように、自然のなかに息づいていた素朴な神々を破壊し、おろそかにしてしまいました。

 各種の「歴史」というのは、ファンタジーの一種であり、ある社会が一致して信じたいと思うことが記述されていきます。
 歴史がファンタジーであることを認識せず、書かれていることがそのままそっくり事実と思いこんだり、歴史事実への検証なしに「これが『国民の歴史』である」という態度で主張するのは、「科学としての歴史」ではありません。
 人文科学としての歴史記述は、冷厳な目で検証を行っていくべきです。

 一般に流布している「日本の原像」、天照大神アマテラスオオミカミが皇室の祖先神であり、神武天皇以来万世一系の皇室が存在している、というのも、そう信じたいひとが信じているファンタジーです。

 伊勢神宮天照大神と天皇家を結びつけたのは、天武天皇です。アマテラスを「祖先神」として祀るのは、天武朝から始まったこと。
 聖徳太子の時代まで、「やおろずの神々の中の有力なひとつ」ではあったけれど、「皇室祖先神」という扱いではありませんでした。

 「天皇は神の子孫であり、自らも神である」という思想を積極的に政治利用し、自分たちの権威を高めるために周囲への宣伝材料として行動した天皇は、天武天皇からはじまる9代と、明治以後の3代のみ。
 125代の天皇の中の実在した116人のうち、天武朝の9代(8人)と、明治以後の3人の合計12人だけが、日本史の中で、特殊な天皇だったのです。

 他の歴代天皇は、周囲に対して「天皇は神と同じように権威あるもの」として押し出さなくても存在理由があったし、アマテラス神の子孫を強調する必要もありませんでした。
 明治以後の天皇とことなり、他の歴代天皇は仏教を信仰し、聖徳太子以来の仏教に基づく教えを守って行動してきました。

 天武朝の天皇も、天武自ら仏教者として出家したし、聖武天皇は深く仏教を信仰し、東大寺大仏を建立しました。
 聖徳太子時代以後で、仏教と切り離された天皇は、明治以後の4代だけ。

 周囲内外の競争勢力に対して、積極的に「自らの権威」を作り上げなければならない存在だった天皇が、歴史上ふたりいます。
 天智天皇系統の大友皇子(弘文天皇)と対抗しなければならなかった大海人皇子(天武天皇)と、旧幕府徳川将軍を圧倒する権威を、大急ぎで持たなければならなかった明治天皇です。

 内での権威確立と同様に、外国勢力へも自身のよって立つ威信を誇示しなければならなかったのが、天武帝と明治帝。

 天武天皇は、圧倒的な大国中国に対抗していかなければならず、明治天皇は弱冠16歳での即位後、これまた圧倒的な力で開国を迫り、すきあらば植民地化の機会をうかがう欧米諸国と対抗しなければなりませんでした。

 天武天皇と明治天皇は、「自分たちは祖先神アマテラス神の子孫である」ことを強調して自らの統治者としての権威をうち立てた、という共通点を持っています。他の天皇には見られない特異なことでした。他の天皇は、「神の子孫」なんてことは強調せずに、仏教思想のなかで一生をすごしたのです。
<つづく>

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2006年02月16日


ぽかぽか春庭「蝦夷共和国」
2006/02/16 木
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(8)蝦夷共和国総裁選挙

 明治以降、皇室は「国家神道」のみに関わって、仏教信仰から離れました。
 国家神道の思想とは、明治期、急ごしらえで作り上げられた「中央集権型国家のための新思想」でした。
 源流は水戸史学などに求められるものの、国家的な思想として、天皇が「神道」一辺倒になったのは、明治からです。

 「皇室は、アマテラス神の子孫であり万世一系」と考えることは、歴史ファンタジーとして信じたい人が信じていけばいいのであって、「天皇家は125代続いたというが、それなら、「我が命も、岩宿遺跡の先祖以来200代だか300代だか続いた末の命である」と、考える人がいてもよい。
 125代連続だろうと、私みたいな「どこの馬の骨やら」の者だろうと、命の価値は等しい。

 天武帝が自家の正当性を主張し、各地の豪族を圧倒する威信を確立しようと懸命だったのは、壬申の乱後もすぐには支配権が確立せず、天智系の子孫をかつぐ勢力の豪族を圧倒しなければならなかったから。

 明治維新期に天皇の権威を認めたのは、一部の人間であり、他を圧倒する確たる力を持っていなかったからこそ、威信の表示が必要でした。
 明治初年の民衆にとって、「テンノー?ミカド?いったい何それ?」という程度の存在でしかなかったのです。

 明治維新を押しすすめた人たちも、倒幕後の構想はまちまちでした。公家の三条や岩倉は天皇中心にしようと考えていたでしょうが、他の人々はそれぞれの考えでまとまってはいませんでした。

 坂本竜馬が「入れ札(選挙)」によって「国の代表」を決める共和国を構想していたこともあったようだし、短期間ではあったけれど、榎本武揚が「函館政庁(蝦夷共和国)」を樹立し、入れ札によって総裁を決めていたことなどを考え合わせると、歴史の「もしも」が少しずれていれば、日本が138年前に共和国へ移行していた可能性もありました。

 明治10年の政変(西南戦争)終結まで、明治新政府は存続できるかどうか、薄氷ふむようなあやうい政権でした。
 近代社会の確立にあたって、天皇が政治権力に直接関わることになったことは、強力な中央集権を作り上げた半面、近代の破綻にも繋がる要因ともなりました。

 近代以後の共同体のありかたと近代制度の枠組みが、今、大きくきしんでいます。国民統合のシンボルとは一体どのようなものであるべきなのか、そこまで立ち返って考えたいのです。
 
 「私にとっての共同体とは何か」を、もう一度考えてみたいと思っています。
 共同体と自分自身を結びつける手がかりのひとつが、私にとっては「日本語」です。
 日本語を母語としない人との共同体形成はどう行っていったらいいのか、についても含めて、日本語について考えてみること、母語、共通語としての日本語についてあれこれ考えること。私のアイデンティティのひとつの源泉です。
<つづく>
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2006年02月17日


ぽかぽか春庭「語源散歩・ひいな」
2006/02/17 金
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(9)語源散歩・ひいな

 「日本語を考える」つづけます。
 言語学の研究成果を無視して牽強付会し、「○○語と日本語は同系統」と断定してしまうのは、こじつけです。日本語の系統、まだわかっていません。
 「日本語の系統」はどこに属するのか、研究を深めていっても、わからないことはたくさんあります。」
 また、基礎的な和語の語源、わからないことだらけです。

 月初めの「一日」をなぜ「ついたち」と言うかについては、春庭いろいろあらーな2005/12/01に紹介しました。「月立ち」が「ついたち」に音便変化したものでしたね。
 でも、「月」をなぜ「つき」と言うか、「日」をなぜ「ひ」というか、語源は、はっきりとはわかりません。

 平安末期に成立した辞書「色葉字類抄」に書かれている「師走」の語源からして、すでに民間語源を記していることを、2005年12月1日に紹介しました。
 言語科学の知識によって語源を調べるのは、限界があります。

 「語源探索」は、とても楽しい「言語学の散歩」のひとつなのですが、学問として「日本語の語源学には手を出すな」というのは、語源を厳密に調べるのは難しいからです。
 日本語の語源に関して、さまざまなアプローチの本が出版されています。
 どれが一番よいなどということはできないのですが、一番新しい出版で一番大部の本をひとつだけ紹介するなら、小学館『日本語源大辞典』2005年発行、6000語について、出典を出して語源説を併記しています。

 どのような形式で語源が記されているか、「日本語源大辞典」より、一語のみ例を示してみます。
 有力な説だけでなく、諸説併記してあるところが誠実な編集方針だと思います。

 天皇の住まいを「内裏(だいり)」と呼びます。お内裏さま、とは、「内裏にすむ天皇」のこと。「おひなさま」の「ひな」は何でしょうか。まもなく雛祭りなので。「ひいな(雛)」の語源を、「日本語源大辞典」から引用してみます。
 もう、部屋の中に「お内裏さまおひなさま」を飾り付けたご家庭もあるでしょうね。

「雛(ひいな)」語源(小学館『日本語源大辞典』より)
・雛ひいな(ひひな)
(語意)紙や木などでこしらえ、着物をきせたりする小型の人形で、女児の玩具、またひな祭りに飾る人形。
<語源>(三つの説を併記)
1)ヒメヒナ(姫雛)の略。雛は、小さい意(大言海)
2)とりの雛の鳴き声から出た語で、ヒヒナキの略。鳥の子をいう雛の転義(擁書漫筆・雅言考)
3)ヒヒナアソビに用いる道具であるところから。ヒヒナアソビはヒメノアソビの転(安斉随筆)

<つづく>
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2006年02月18日


ぽかぽか春庭「あげくのはてにわからない」
2006/02/18 土
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(10)あげくのはてにわからない

 ここで言っている「語源をさがすのは難しい」とは、平安以後に新しく出来上がった比較的新しい単語について言っているのではありません。
 「武家用語」「職人用語」「御所女房ことば」などから出来上がった「新出来の語」の語源は、比較的たやすく知ることができます。
 たとば、「あげく」。

 例文「旅行パンフレットを比べていろいろ迷ったあげく、結局どこへも行かないことになった」

 連歌や俳諧連句(57の句と577の句を36句つなげると歌仙巻、100句つなげると百韻)の用語。
 一番終わり、最終の句を「挙げ句」といいます。この「挙げ句」で座が終わりになるので、「あげく」「あげくのはて」は、「ものごとのいちばんのおわり」の意味になりました。
 出所がわかっている「挙げ句」の語源はわかります。

 しかし、「あげ」や他動詞「あげる」自動詞「あがる」の語源、何故「上方への移動」が「あがる」や「あげ」であり、下方への移動が「さがる」「さげ」であるのかは、わからない。
 「あ」が上方へ「さ」が下方へ、この違いは、どこから生まれたのか、わかりません。

 「離る(さかる)」「裂く(さく)」「去る」の「さ」とはどうなのか。「下がる」の「さ」と共通しているのだろうか。
 曲線を描く「まげる」は、「まるい」の「ま」と共通の語源があるのだろうか。
 興味はわくけれど、わかりません。

 動詞「あげる」名詞「あげ」の語源を調べようとしたら、たぶん、一生かかってもわからないでしょう。
 ソシュールが一般言語学で述べたように、ことばの音は「恣意的」に出来ているのですから。「恣意的」ってきくと難しそうですが、私の好きな「きまぐれにテキトー」ってことです。

 「月つき」、も「日ひ」も、語源はわかりません。
 どこかの言語に「ヒ」という発音で「日」を表現していることばがあるかもしれませんが、その「ヒ」が日本語の語源だと断定することもできません。日本語の系統は、わかっていないのですから。

 明日は「ひ」の語源
<つづく>
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2006年02月19日


ぽかぽか春庭)「ひ」の語源
2006/02/19 日
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(11)「ひ」の語源

 「日本」という漢字、和語では「ひのもと」と読んだと思われますが、和語の「ヒ」の語源は何か、わかりません。

 「日」の語源説、諸説ありますが、決定的なものは出ていません。
 昨日(キノフ)今日(ケフ)の「フ」と同根の語だという説、霊(ヒ)と共通しているという説、ヒカリのヒと共通するという説など。

 「火」と同義という説もありました。燃える太陽を「火」と見て、「日のもと」は「火=太陽=日」であり、「日のもと」は「太陽(燃える火)のもと」だったという説です。しかし、この説は現在は否定されています。火と日は違う語です。

 上代特殊仮名遣い(母音が8つあった)時代の発音では、「日」は甲類の[fi]、「火」は乙類の[fi]で、別の発音だったのです。
 「火」の古い形のひとつは「ホ」です。炎(火の穂=ホノホ)。焔(火群=ホムラ)
 ですが、「日」のほうに「ホ」という形はありません。

 この先、源日本語、アイヌ語、古代朝鮮語などの研究も進んでいくと思いますが、すべての語にあてはまる確実な音韻交替を含む系統はなかなかわからないと思います。
 古代語を復元する資料が少ないからです。
 韓国朝鮮語をハングルで表記できるようになり、会話内容を表記できるようになったのは、15世紀以後です。それより古い朝鮮語の文献はありません。

 15世紀のハングル発明以前は、朝鮮の文献は漢文によって表記されていました。漢文で書かれた歴史書や日本の古事記日本書紀などから古代朝鮮語を推測復元しても、単語のいくつかが復元できるだけで、文章・会話文の復元はできない。つまり、古代日本語と比較すべき古代朝鮮語は残されていません。

 考古学や古代史から推測して、源日本語に大きな影響を与えたと思われる言語のひとつに古代朝鮮の百済語(くだらご)が想定されています。
 しかし、百済の国は滅ぼされ、百済語は死語になってしまいました。百済語を話せる人は、朝鮮半島にも残っていません。

 「とんでも日本語系統本」のいくつかは、現代韓国語現代朝鮮語、古く遡ったとしても、せいぜい中期朝鮮語と、古代日本語を並べて論じています。
 古代日本語は古代朝鮮語と比較すべきですが、その古代朝鮮語の復元はできていないのですから、比べようがないのです。

 明日は、言語の系統図について
<つづく>

2006/02/20 月
言海漂流葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(12)言語系統図

 m***さんからのコメント、ありがとうございます。ことばへの関心をもっていただき、うれしいです。
 「 日本語は様々な言語の影響を受けてきたのでしょうね。チョッと前に「人麻呂の暗号」と言う本でカゴメカゴメが朝鮮の言葉だと意味が通るとか。大和王朝の成立の頃から朝鮮からの渡来人がいたことを思えば、頷けるかな。また色々教えてください。
投稿者:m*** (2006 1/28 23:51) 」

 いくつかの語を拾い上げて、「似た発音の語が両方の言語にある」という程度では、「日本語は○○語が起源だ」などと言い切れません。
 恣意的に似た語を集めるなら、英語の「I think so ! 」の「so」と日本語の「私そう思う」は、「そう」が同じ意味を表わしているから、日本語と英語のもとは同じ、と言うことも可能です。
 
 「万葉集は韓国朝鮮語で読み解ける」というトンデモ本がでたとき、日本語学者金田一春彦は、皮肉をこめて、万葉集はすべて英語で読み解けると述べました。
 タイトルの万葉集は、「マンヨーシュー=many +ood+shew(showの英語古語)」であり、many=たくさんの、ood=頌歌、shew=見せる、陳列、と解釈でき、万葉集は、英語で「たくさんの頌歌の陳列」と解釈できると言うのです。こじつければ、日本語を何語とも結びつけることができると喝破しました。

 しかし、言語学でいう「語族=ことばのファミリー」は、もっと厳密です。
 親子関係鑑定でいうなら、DNA鑑定にあたる調査をしてからでないと、ふたつの言語がファミリーかどうか、判断できないのです。
「AさんとBさん、ちょっと似たとこがあるね、ほら眉毛の形そっくりだ」などという理由でAさんとBさんが親子だ、と断定することはできません。

 言語学の一分野に「比較言語学」があります。
 インド・ヨーロッパ語族と呼ばれる言語のファミリーについては、比較研究が広く行われて、言語系統図ができあがっています。
 サンスクリット語の研究から始まった、インドからヨーロッパに広がる同系統の言語ファミリーの研究です。

 インド・ヨーロッパ語族のほか、オーストロネシア語族、アフロ・アジア(ハムセム)語族などの「ことばのファミリー」についての研究があります。

 一方、日本語は。アルタイ語族のトルコ語やモンゴル語と、ことばの並べ順が同じであることはわかっていますが、では日本語が確として「ウラル語族」「アルタイ語族」であるかと言えるかというと、確実なことはわからない。

 お隣の韓国朝鮮語とは、文法面に似ている部分が多く、古代日本語には、朝鮮語のような「母音調和」があったということなどはわかっていますが、ファミリーと言えるような近縁関係、親戚関係が証明されたかというと、わかっていないことのほうが多いのです。

 明日は、比較言語学について
<つづく>
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2006年02月21日


ぽかぽか春庭「比較言語学」
2006/02/21  火
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(13)比較言語学・言語のタイプ

 日本語は、中国語の漢字と漢語語彙借入の恩恵をうけました。
 また、古代朝鮮で行われていた「漢字を自国語におきかえて読む訓読みの方法」を取り入れました。

 山という文字は、サンという発音。(現代中国語普通話ではシャン)。山という文字は、日本語にあてはめると「やま」のことだから、この文字を「やま」と読むようする、という「訓読み」の方法を取り入れたことで、日本語の文章表現や表記は発達しました。中国語(漢文)を書き下し文(翻訳読解)で読みこなすことにより、文章表現の方法を学ぶことができたのです。

 飛鳥奈良時代、漢字の発音を日本語の音節表記に利用した「万葉仮名」によって、日本語表記ができるようになりました。
 平安時代には、漢字をくずした平仮名と、漢字の一部分だけ取り出したカタカナで、日本語の音節を表記できるようになりました。

 (この音節文字の習得に関しては、2006/01/27~31「いろは歌」をご参照下さい。)

 中国語、古代朝鮮語など、近隣諸語と「おつきあいは深かったのですが、語族としての親戚関係があるかどうかについては、「孤立語である中国語とは別系統」ということは確実ですが、「ウラル・アルタイ語族との関係はまだわかっていない」というのが、言語学の考え方。

 日本語は「膠着語(こうちゃくご)=名詞に格助詞がくっつくことで、文中の機能を示す」のひとつですが、言語ファミリーがどこに属すかはわかっていません。

 言語の主なタイプ分類について
1、ことばの並べ方(S=主語・主題 O=対象語・目的語 V=述語)
 SOV(日本語はこのタイプ。私は(S)ペンを(O)買う(V))
SVO(英語はこのタイプ I buy a pen.) そのほか、VSO  VOS  OSV  OVS

2、修飾のしかた(形容語と被形容語の語順)
 形容語--被形容語(日本語 青い空)
 被形容語--形容語(フランス語 空あおいle ciel blue)  

3 単語の形態
 A,B,C,Dの代表的タイプに分類してあるが、単一のタイプにきれいに分けられるわけではない。
 日本語は、屈折語の要素も含む膠着語であり、英語は屈折語の要素を残しつつ孤立語へ移行した言語である。

A)膠着語=日本語、韓国朝鮮語、満州語、モンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語など。
 膠着語の「膠」は、「にかわ」のこと。にかわでくっつけたように、基本の語(自立語)に附属の語(非自立語・付属語)がついて、文法上の機能を表わす。

 フィンランド語、ハンガリー語は、アジアからヨーロッパへ大移動していったフィン族の言語がもとになっているが、インド・ヨーロッパ語の影響を大きく受けているため、アジアの膠着語とは異なっている面もある。
 エスペラント語なども、膠着語の特徴を含む部分がある。

 日本語は、名詞に格助詞や副助詞がくっついて、文中の機能をしめす。
 「私」「ねずみ」という基本の自立語に格助詞「が」がつけば、「私が」「ねずみが」と、主格を表わし、「の」がくっつけば、「私の」「ねずみの」と所有をあらわす。対象格(目的格)は、「私を」「ねずみを」

B)屈折語=ラテン語、ギリシア語、アラビア語など。
 名詞が格変化する。英語の例。わたしが=I わたしの=my わたしを=me
 動詞の屈折変化(活用)の例。(わたしが)言う=( I ) say (彼が)言う=(he) says
 彼が言った(he)said
 ただし、英語は、名詞の屈折変化が減少し、孤立語の特徴を併せ持つようになっている。

 日本語は名詞は膠着するが、動詞は屈折(活用)によって文法的機能を示す。すなわち、文法機能によって、語形が変る。
読む= よま--ナイ  よみ--マス  よん--ダ  よめ--バ  

C)孤立語=中国チベット語族(中国語、チベット語、ビルマ語、ベトナム語、ラオス語、クメール語)、サモア語、タイ語。

 英語は、屈折語の特徴が減少し、孤立語の要素が多くなっている。単語自体の形の変化ではなく、語順によって文法的機能を示す。語頭に置かれると主語を表示し、動詞の後ろに置かれると、対象語(目的語)となるのが基本。

 The cat eats a rat.(ネコがネズミを食べる) The rat eats cheeses.(ネズミがチーズを食べる)
 最初の「ratねずみ」は目的語で「ねずみを」、次の「ratねずみ」は主語であり「ねずみが」を表わす。単語の形はかわらずに、語順で文法機能が変わる。

D)抱合語(包合語、複合統語)=シベリアからアメリカ一帯のネィティブ住民のことば(エスキモー語、グリーンランド語、コーカサス語など)
 アイヌ語もこの特徴を持つ。

 抱合語では、意味の最小要素である形態素がくっついて、一文をつくりあげ、ひとつひとつの要素をわけることができない。

 日本語の複合統語的表現を例にとろう。
 自分の書いた作文を順に読み上げていくという学校の宿題発表のシーンで。先生から宿題を読まなくてもいいと言われた子が、自分の動作立場を次のように表現したとする。
 「(今日は、)読み上げさせられませんでした」

 この表現の中で、「読む」「あげる」のふたつの動詞が複合して「読み上げる」という新たな動詞を作っているほか、「させ=使役」「られ=受け身」「ません=丁寧・否定」「でし=丁寧・断定」「た=過去」という複雑な接辞がすべてくっついて、ひとつの述語表現になっている。
 この中の「させ」とか「ません」だけを取り出しても、独立した意味を表現できず、全体でひとつの述語表現になっている。

 抱合語とは、このように、ひとつひとつの意味要素が分かちがたく総合的にくっついて全体の意味を表現する。

 バントゥ諸語のひとつ、スワヒリ語の例。
「ナクペンダ=わたしはあなたを愛している」
 n(一人称接辞)a(現在)ku(あなたを)pend(愛する(語幹))a(動詞現在)

 明日は、言語ファミリーについて。
<つづく>
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2006年02月22日


ぽかぽか春庭「言語ファミリーとクレオール言語」
2006/02/22 水
言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>言語学復習(14)言語ファミリーとクレオール言語

 古代朝鮮語と古代日本語、アイヌ語との関係、日本語と韓国朝鮮語の起源について、まだまだ、研究の途上です。
 自分の家のご近所さんと、親しくおつきあいしていても、その家が必ず親戚であるというわけではないのと同様です。日本語についてのファミリーさがしは、むずかしい。 

 おおもとになった言語がだんだん枝分かれして言語ファミリーを増やしていく、という系統や語族のほか、言語の成り立ちに特徴のあるもうひとつのものが「クレオール言語」です。

 ふたつの言語が接触して、両言語が混じり合ったり融合したりした新しい言語が話されるようになることがあります。この新しい言語をピジン言語pidgin language)と呼びます。

 このピジン言語を母語として話す集団が現れたとき、この言語を「クレオール言語」と呼びます。生まれたときからこの言語を聞いて育ち、家のなかでこの言語を使って育つ子供がでてくると、「ふたつのことばが混じり合った言語」から「一人前の言語」として定着するのです。

 今期わたしが受け持った留学生のひとりは、英語クレオール語のひとつ「ピジンイングリッシュ」を話しました。
 ピジンイングリッシュは、太平洋の島の言語と英語が接触することによって新たに出現した言語です。パプアニューギニア、ソロモン諸島などで共通語として用いられ、バヌアツでは公用語「ビスラマ語」と呼ばれています。

 カリブ海の島では、フランス語と島のことばが接触して新たな言語「フランスクレオール語」が出来上がりました。ハイチクレオール語、マルティニククレオール語などが有名です。
 そのほか、ロシア語クレオール(ロシア語とノルエー語の融合によるルソノースク語)ポルトガル語、オランダ語、などのクレオールもあり、アフリカの言語のなかでふたつのことばが融合したクレオールが生まれた例もあります(南アフリカのファロカナ語)。

 このシリーズでは、「建国記念の日」にまつわる日本の原像と日本語について考えてきました。その中で、アイヌ語、縄文語などについても少しふれました。
 昨年、国立科学博物館で開催された「縄文vs弥生」展で、人口統計や人骨の研究から、「縄文人から弥生人への移行がどのように浸透していったのか」についての、最新科学の知見を報告しました。

 縄文語の復元について「復元は試みられているけれど、文献が残っていないので、あくまで推測復元であり、全貌はわからない」と述べました。わからないのではあるけれど、自分たちの言語のルーツを知りたいという「ロマン」を追い求めたい人は多いようです。
 日本語の源流説、諸説あります。

 オーストロネシア諸語を基礎として、他の言語が加わったという説。
 アルタイ系の言語を基礎として他の言語が加わった、という説などなど。

 そのうちのひとつに「日本語は縄文人の言語であった原アイヌ語と、弥生人のもとになった大陸系言語のクレオール」という説があります。

 言語タイプからみた現在のアイヌ語は、現代日本語と異なる面が多いですが、古代アイヌ語の復元など、文献資料が少ない言語についても研究が進んでいき、これから多様な研究が深まれば、日本語の起源についても、今の「わからない」状態から少しは進歩していくかもしれません。

明日は、恋のマイアヒについて
<つづく>

英語教育について再び 2010年10月

2011-08-17 08:40:00 | 日記
2010/10/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語教育2(1)英語教育について再び

 2010年8月6日付け朝日新聞朝刊「リレーおぴにおん」というコラムで、元駐日印度大使で、現在は江戸川区にあるグローバル・インディアン・インターナショナルスクール理事長であるアフターブ・セットさんが、「幼い時から毎日使う」ことが英語教育に必要だと意見を述べ、200人のインド人学校在学生のうち66人は日本人子弟であると発表していました。

 幼い子供の脳にとって、多言語教育は負担にならないということの証拠として、セット氏の孫の例を挙げています。アメリカに住む2歳になる彼の孫は、父インド人母イラン人ベビーシッターはエクアドル人という環境で育ち、ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を使い分けるようになったと主張しています。だから、幼い脳に二つ以上の言語を学ばせることは、脳に過剰な負荷をかけることにはならない、とセット氏は言うのです。

 とんでもない!日本語の基礎を知らないこのような「一見グローバル」な人が一番始末に悪い。ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語の四つの言語を同時に習得しても「脳に過剰な負担をかけない」とセット氏は主張していますが、そんなことは当然のことです。ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語は、すべて「インドヨーロッパ語」という文法(統語)を等しくする同類の言語だからです。

 日本語と英語は統語(ことばの仕組み)が異なります。世界の言語には、屈折語、膠着語、包合語、孤立語などの類型があります。英語は孤立語的屈折語であり、日本語は膠着語で、文法上の言語の性格が異なっているのです。孤立語である中国語の母語話者が英語を習うほうが、膠着語である日本語母語話者が英語を習うよりは負担が少ない。

 日本人の子供が、青森出身の母と博多出身の父と名古屋出身のベビーシッターの間で育ち、青森弁と博多弁と名古屋弁と標準語を同時に習得して、全部同じようにしゃべれる、というとき、日本人は「へぇ、たいしたもんだ」と言いますが、それほど驚きはしません。ひとつの言語、日本語のバリエーションを覚えたにすぎないからです。日本語のしくみ(文法)はどの方言を使っても同じです。沖縄方言も同じ。
 ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を話せるというのは、青森弁と博多弁と名古屋弁と標準語を同時に覚えたという子供と条件的には同じです。(むろん、方言差よりは大きい差ですけれど)

 英語と日本語は、統語が異なります。
 グローバル・インディアン・インターナショナルスクール理事長セットさんの孫が、英語と日本語とコイ語(アフリカ、コイサンマンのことば)とホピ語(ネイティブアメリカンのことば)を同時に覚えて不自由なく使えるというなら、私も感心しますが、たぶん、それは不可能です。これらの言語は言語類型が異なり、統語がまったく違うからです。この4つの言語を幼い脳に同時に聞かせて育てたら、幼い脳は混乱し、どの言語をも使いこなすことができなくなるでしょう。

 まったく統語の異なるふたつの言語を幼いころから同時に聞いて育った子供のうち、何割かはどちらも使うようになりますが、何割かの子供は脳の発達がうまくいかず、どちらも母語として使いこなせない障害を負う、という調査結果が出されています。統語の異なるふたつの言語を同時に聞いて育った結果、バイリンガル(二言語使用者)ではなくハーフリンガル(どちらも半分しか使いこなせない)子供になることもあるのです。

<つづく>
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2010年10月02日


ぽかぽか春庭「英語と日本語は言葉の仕組みが違う」
2010/10/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(2)英語と日本語は言葉の仕組みが違う

 「ものごとを思考するための母語」というのは、人が人間らしく生きていくための最大の財産です。この財産を子供に有効に受け継いでもらうために、大人は心して言語教育を行わなければなりません。「うちの孫はヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を話せる」と無邪気に喜ぶような教育者に育てられたら、母語の言語文化を適切に身につけないまま成長することになりかねません。

 母語を使うというのは、その言語でものを考えるということです。言語は伝達コミュニケーションのために使う以上に、ものを考えるために使います。母語が発達させられなかった子供は、思考力を持てないのです。
 思考力が持てない子供は、ものを論理的に考えられず、数学も科学ができないのはもちろん、日常生活の合理的判断も出来なくなります。「雨が降りそうだから傘を持って家を出よう」という判断だって、母語を使って頭の中で考えた結果の行動なのです。

 これまでの事例では、国際結婚が成立して子供が同時にふたつの統語の異なる言語間で育つ場合、子供の中には、頭のなかでスイッチ切り替えをして、どちらの言語でもものを考えられる真のバイリンガルに育つ子も存在しました。
 国際結婚するのは、留学するとか、国際的なビジネスで国外に活躍の場を得るかという人が多く、親が言語に対して意識的な態度を持っている事例が多かった。適切な教育をした結果バイリンガルの子供が出現し、バイリンガルに肯定的な意見が広がりました。
 しかし、とくに言語に対して自覚的な態度を持たないまま「なんとなく、親はそれぞれが別々に自分の言語で子供に接する」という育て方をされる子供が増えました。その結果、どちらの言語でも中途半端にしか思考できないハーフリンガルが増えたのです。

 留学生教育を担当する教師としてつくづく思うことは、母語の言語キャパシティが小さいと、語学教育を行うのもたいへんになるということです。母語でのコミュニケーション能力作文能力は、外国語教育の基礎になります。母語での討論が十分にできないのに、外国語でのディベートはできません。母語で作文が書けないのに、外国語での作文が書けるはずがないのです。

 グローバル・インディアン・インターナショナルスクールに在籍しているという66人の日本人子弟が、すぐれた英語教育を受けると同時に、漢字の読み書きはもちろん、万葉集古今集源氏物語枕草子から現代に至るまでの日本語言語文化の宝庫を学び、漱石以後の近代文学を読みこなし、真のバイリンガルに育つことを心から願っています。

2009年2010年の試行期間を経て、文科省による小学校英語教育が2011年にスタートすることが決定しています。英語業界を中心とする大賛成の声のほうがはるかに大きく、また、一般国民も「英語が必要とされる社会になっているから」と、納得しています。
 言語学者、発達心理学者、脳科学者の「英語の構造は日本語と異なるから、母語が完成しないうちに中途半端な英語教育を受けて、母語教育に十分な時間をとることができなくなると、母語を鍛える機会が減る」という論はかき消されてしまいました。英語教育といっても5年生6年生に週1時間程度、英語に慣れさせるだけだから、母語教育が疎かになるほどのことはない、という論拠です。しかし、週1時間くらいのことなら、英語教育のためには、ほとんど役には立たない。

<つづく>
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2010年10月03日


ぽかぽか春庭「漢字教育と英語教育」
2010/10/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(3)漢字教育と英語教育

 2002年にやみくもに総合教育がカリキュラムに取り入れられたとき、総合教育には膨大な準備や教師の指導力が必要であるのに、こんなに簡単に導入して大丈夫なのかと危惧したのですが、たちまちのうちに「総合教育は失敗」という結論が出てしまいました。英語教育はこの失敗に学び、十分な準備を経て、教師の指導力を高めてから導入してほしいものですが、児童英語指導者などを講師として採用できる学校ばかりではなく、「今まで英語を喋ったこともない先生」が教えなければならない学校のほうが多数みたいです。英語ペラペラでなくてもいいから、せめて言語学の基礎を学んで、語学教育の基本を知って欲しいです。

 週に1時間程度の英語の時間を設けて、英語に慣れさせるのが大きな目的ということであり、他の教科時間を減らすことはないということですが、果たしてこの小学校英語教育はどうなっていくでしょうか。英語の時間をふやすためには、他の教科の時間が減らされる可能性があります。図工も体育も国語も音楽も子供の発達に大切な教科。減らしてほしくないです。

 言語学者脳科学者たちは、「英語教育に時間を割くために母語教育が不十分になるなら、日本語が十分に使いこなせない子供が増え、日本語言語文化が衰退する可能性がある」と、心配しています。
 脳科学の発達によって、認知科学的に脳の言語野の研究が発展してきました。脳科学者が、言語認知の知見によって将来の日本語について憂えているのを見聞きすると、日本語学研究者として、日本語の言語文化を愛してきた者として、心配はつのるばかり。

 お隣韓国でも英語早期教育が始まって、効果を上げている、日本も負けていられないではないか、という文科省の役人。彼らは日本語と韓国語の言語文化の差を無視しています。
 韓国は漢字文化を受け入れたとき、漢字で漢文を書く方を選び、母語をそのまま表記することを放棄しました。古代の朝鮮語韓国語は、文字に書き残されていないのです。朝鮮語韓国語表記は、15世紀にハングルが開発されるまでなされませんでした。現在の韓国語表記は、ハングル中心であり、漢字語彙もハングル書きされています。韓国の漢字には、「訓読み」に当たるものがなく、音読み(中国語読み)しかないので、漢字のことばをそのままハングルで表記しても韓国語の基本はくずれることがないのです。韓国は漢字教育を半減し次に全廃し、ハングルだけで日常生活が足りるようにした世代が成長したのち、英語の早期教育を導入しました。(現在の韓国では、漢字教育を全廃したことの損失に気づいた人々も多くなってきましたが)

 日本語はどうか。「日」には、「ニチ、ジツ」という音読み、「ひ び か」などの訓読みがあります。日本語の言語文化を特徴付け、独自の言語文化を育ててきた「ひとつの文字に多数の読み方」という方法を捨て去ることは、もはやできません。韓国語をハングルのみで表記するのと、日本語をひらがな(あるいはカタカナ)のみで表記するのではまったく事情が異なる」ということを理解しなくては、日本語言語文化の維持はできません。日本語言語表現に漢字表現は不可欠です。漢字語彙は日本語のボギャブラリーの7割を占めているのです。

<つづく>
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2010年10月05日


ぽかぽか春庭「漢字表記を全廃できるか」
2010/10/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(4)漢字表記を全廃できるか

 韓国が英語教育に成功したのを見習いたいというのであれば、まずは、韓国がしたように、漢字表記をすべて平仮名または片仮名で書き表すように表記を改め、官報も新聞も平仮名書きだけで用が足りるようにしなければなりません。日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが文章語の中心ですから、韓国の文字表記とはまったく事情が異なるのです。
 韓国では、英語教育を強化すると同時に、子供の漢字教育を1970年に全廃しました。現在、若い世代の大半はほとんど漢字が読めない。
 かんこくが えいごきょういくに せいこうしたのを みならいたいというのであれば、まずは、かんこくが したように、かんじひょうきを すべて ひらがな または かたかなで かきあらわすように ひょうきを あらため かんぽうも しんぶんも ひらがながきだけで ようが たりるように しなければなりません。にほんごは かんじと かなの まぜがきが ぶんしょうごの ちゅうしんですから かんこくの もじひょうきとは まったく じじょうが ことなるのです。
 かんこくでは えいごきょういくを きょうかすると どうじに こどもの かんじきょういくを 1970ねんに ぜんぱいしました。げんざい かんじふっかつを のぞむ いちぶの ひとびとを のぞき、わかいせだいの たいはんは ほとんど かんじが よめない。

 韓国には、漢字全廃した結果の言語文化の損失に気づいて、漢字教育復活を望む人々もいます。漢字教育をしなくなって、韓国語「カムサハムニダ(感謝します、ありがとう)」のカムサは「感謝」という漢字熟語のことだというのを知らない世代が増えました。漢字表記があれば、たとえば、韓国語で「ニューモ」とは、「乳母」のことだとわかります。「アンジョン」は、「安全」のことだとわかれば、韓国語を習う日本人や中国人にも意味がすぐにわかって便利です。漢字文化圏(日本、韓国、ベトナム(越南)中国、)に共通する漢字語彙も数多くあるのに、言語文化の基礎をひとしくすることの利益は忘れられています。
 漢字教育復活を望む韓国の親たちは、学校教育とは別に子供を漢字塾へ通わせています。

 母語とは何か。グローバルな社会で活躍するためには、自分自身のアイデンティティを確立していなければなりません。自分自身のよって立つ文化に誇りを持ち、自分の言語でそれらを語ることができないなら、英語ペラペラしゃべってみせたところで、グローバル社会において「単なる翻訳機」以上の扱いは受けないでしょう。心ある人間としてグローバル社会で自立して生きて行くには、まずアイデンティティの確立を。そのためには、母語で自分独自の思考ができる脳を育てること。これが一番大事です。

 2011年から始まる小学校英語教育では、「英語をつかって遊ぶ」「英語に慣れる」ことが第一の目的とされるそうです。英語産業はますます発展し、英語産業の拡大政策にのって「子供のために」と英語教育にお金をかける世帯とそうでない世帯の格差は広がると思います。小学校での英語教師を増やす予算があるなら、中学校でひとつのクラスに30人も詰め込む英語教育をやめて、1クラス10人程度の少人数制英語教育をしたほうが、将来の「英語も使える日本語母語話者」を育てることになると思います。

 幼い子供に英語のDVDを見せて「うちの子、ネィティブみたいな発音が知らず知らずのうちに身についたのよ」と、自慢するのもけっこうですが、英語のDVDを30分見せたら、次の30分は、お母さんお父さんが膝の上に子供を乗せて日本語で絵本の読み聞かせをしてやってくださいね。お話はグリとグラでもあんぱんまんでも桃太郎でも何でもいいですから。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本語は滅びるのか」
2010/10/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(5)日本語は滅びるのか

 子供たちを取り囲む「言語環境」が年ごとに貧弱化しています。明らかに語彙数獲得が減っています。(春庭は、NTT語彙数調査を年に2回、授業を担当している日本人学生に実施しています。この調査で頭の中に日本語が何万語入っているのかわかるというテストです)
 現在の大学生の中にも「漢字読めないし、本を読むのはメンドー」という学生が増えています。いくら池上彰の解説がわかりやすくても、耳からニュース聞いただけでは語彙力は身につかない。日本語は書き文字文化の国ですから、日常使用語彙以上の漢字熟語は文字と共に頭の中に入っているのです。「へんしんする」と聞くと、テレビからこの言葉を覚えた幼児は「変身」のみを頭に思い浮かべて用が足ります。しかし、変身だけでは「返信」なのか「変心」なのか、漢字を知らないでは必要な「返信」ができないことになる。
 あと10年たって小学校英語教育を受けた子供が大学生になるころ、母語の読み書きも疎かになり、英語も身に付いてはいない、という学生が増えてくるのではないかと心配しています。

 水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』は、2008年の11月に発行されるや大評判になり、2009年に小林秀雄賞を受賞しています。
 近代日本語と江戸時代以前の日本語についての評価の違いなど、春庭は水村美苗の論に全面的に賛成することはできず、意見の違うところが多々あるのですが、現在の国語教育や一般社会の日本語の扱われ方を見る限り、将来の日本語言語文化が衰退していくであろうという憂いは共通しています。

 グローバル社会とは「アメリカ化社会」の謂いであり、情報社会ビジネス社会では英語ができないことには苛烈な経済競争に落ちこぼれてしまうという、日本経済界の焦りもよくわかるから、ユニクロや楽天が社内公用語を英語にするというのも、まあ、そういう会社も出てくるだろうとは思います。社内事情をよくは知らないけれど、会議を英語で行うというレベルではなく、楽天の社員食堂のメニューまでアルファベット書きで「Udon」とか書かれているのだそうで、ちょっと笑える。(ちなみに楽天社員食堂は無料だそうで、こちらは大いにうらやましい。Udonでもいいから、社員になりたい、、、、と、これはネが貧民の発想)
 
 母語で論理を組み立てられる人材より、「英語ペラペラなだけ」な人を採用するようになれば、楽天もユニクロも、これから先は海外企業に飲み込まれるだけになるでしょうけれど、まあ、私は株主でもないし、柳井正や三木谷浩史の知り合いでもないから、会社自体がどうなろうといいのだけれど、この影響で「うちの子には、小さいときからまず第一に日本語より英語を身につけさせなけりゃ」と勘違いする親が出てくるのではないかということが心配なのです。
 繰り返して言うと、母語の基礎と言語文化の体系が身についていない人間は、表面だけ何カ国語か話せても、中身はスカスカになるということです。国語教育に数々の問題があれど、義務教育期間に国語の教科書を読むだけでも、語彙と文型の習得にはなっています。「朝の10分間読書運動」など、読ませる教育に期待しています。

 明治時代の森有正や敗戦直後の志賀直哉のように「日本が西洋列強国に比べて近代化が遅れたのは日本語のせいだ」「日本がアメリカに負けたのは日本語のせいだ」と勘違いして、日本語は論理的にものごとを考えるにはふさわしくないと思い込んだ有識者がいたことを考えると、論理的に物事を考えるには日本語より英語のほうが適切と勘違いする人もいるかも知れないのでひとこと。ぜひ月本洋『日本語は論理的である』という本を読んで下さい。

 母語教育が適切に受けられなかった子供たちが、どの言語も「母語」として思考の道具にできなくなる不幸な結果になったという事例が報告されているということを述べました。日本の子供たちが、中途半端な英語教育の導入のために母語の完成期にあたる10~13歳の時期に日本語も英語も中途半端な教育しか受けられないという結果にならないように、日本語教育もしっかり行って日本語言語文化を意識的に学びアイデンティティの基礎を固めることを行いつつ、英語を教えてほしいと願っています。
 
<つづく>
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2010年10月07日


ぽかぽか春庭「母語シャワーを浴びる」
2010/10/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(6)母語シャワーを浴びる

 胎児はおなかの中で、母親の血流の流れの音と心臓の鼓動そして、母親が発する言語音を耳にして聴覚を発達させてから生まれてきます。テレビ放送終了後のジャーという音、いわゆる砂嵐音。これは血流の音に一番近いので、この音を聞かせると赤ちゃんが寝付くと言われています。生まれて1週間くらいは砂嵐効果が続くそうです。

 1週間以上たった乳児は、胸に抱き取って、養育者の鼓動と母語の響きを聞かせてやることが一番の安心感につながります。日本語の場合、「子音プラス母音」という開音節の発音をおなかの中で聞いて育ちますから、日本語で子守歌を歌ってやれば、耳慣れた響きを聞いてすやすやと寝付きます。

 乳児から幼児になっても、この安らぎを与え続けることが、安定した情緒を育てます。母語をシャワーのように浴びる時期が子供に必要です。
 夜寝るときは子供の隣で、浦島太郎でもかぐや姫でもスーパーマンでもいいから、お話を聞かせてやって下さい。子供はお話の内容が面白くて寝付くのではありません。養育者がそばにいて、母語の響きを聞くことによって安心して寝付くのです。

 13歳は母語習得の臨界点です。13歳つまり中学校入学のころまでに、母語で思考できるように育てることを何より優先する両親であれば、その上に英語教育するもエスペラント語教育するもスワヒリ語教えるのも、お好きにしたらいい。
 母語でものごとを考えられるようになること、母語による言語文化を浴びて育つこと。人が人間らしく生きるために、基礎となるのが母語です。

 同系統の言語なら、同時にふたつの言葉を母語とすることはそれほど難しくはありません。しかし、ふたつの言語が異なる系統に属しているとき、バイリンガルではなくハーフリンガル(どちらの語も母語として活用できず、思考能力が発達できない)になる場合もあることを十分考慮した上でふたつの言語を与えて下さい。

 英語と同系統の言語は、インドヨーロッパ語系統の多くの言語があります。ことばにとっては、兄弟、おじさんおばさん、いとこくらいにあたるファミリーです。しかし日本語と同系統と認められた言語はありません。同系統に近いとされるのは韓国語朝鮮語モンゴル語トルコ語などですが、近いといっても「またいとこの息子」とか、「ひいじいさんのはとこ」くらいです。英語話者がドイツ語やスペイン語を習うのと、日本語話者が他の外国語を習うのでは、大きな学習の差があります。

 2011年度から小学5、6年で必修化される小学校の英語活動。文科省が2008年に発表した教科書に準ずる「英語ノート」では、2年間で285の単語と、中学1年レベルの50の表現を教え、6年生終了時点で英語を使って遊んだり、自己紹介ができるというのが目安になっています。文法や単語の書き取りは教えず、45分授業を年間35コマ(週1~2回)で「聞く、話す」を活動の中心にするとされています。「英語指導をしたことのない教師ばかりの学校に配慮する」と、文科省は英語ノートにプラスしてCDや教師用指導書を作成して、分刻みの指導法を指定しているのだという。

 「英語指導をしたことのない教師」が校長に命ぜられて、イヤイヤながら文科省の指導書首っ引きで子供に英語教えて、クラスのみんなが「英語の時間が楽しい」と感じられるなら、それでも教育効果があるでしょう。しかし、そうでない教室で英語は嫌いと感じる子供が増えたら、中学校での本格的英語教育に入ったとき、今よりいっそうの「英語格差」が広がるだけになります。「英語嫌いを早々に自覚させるための文科省の措置ではないか」とか「異文化理解の教育なら賛成するけれど」という足跡コメントをいただきました。異文化理解のためなら、英語だけでなくアジアアフリカの文化も取り入れて欲しいですが、文科省の「異文化」には英語しか入っていないみたいですから、おそらく「小学校のうちに英語落ちこぼれを自覚させるための措置」というのが当たっているのかも。

 中学1年のとき、担任の数学教師が英語教師不足の穴埋めを命ぜられて、「大学を出たんだから、中1の英語くらい教えられる」と、我がクラスの英語を担当しました。発音が典型的なジャパングリッシュだったのはご愛敬だとして、英語に初めて出会う生徒たちが次々に日本語との違いにとまどって質問することをすべて無視しました。
 「どうして英語は、1本のえんぴつを手に持っていますって言うんですか、一本とか一本以上とか分けて言わなければならないんですか」とか、「どうして私のときはラブなのに、彼のときはラブズって言うのですか」「私がというときはIで、私のというときはmyになるのはなぜですか。どうしていちいち私が私がと言わなくちゃならないんですか。」という疑問質問をいっさい封じて「英語はそういうんだからだまって覚えろ」一本やり。せっかく芽生えた「異文化・異言語」への興味を抑えました。私はすっかり英語嫌いになりました。

 小学生に英語を教える先生、せっかく教えるならどうか英語好きの子供たちを育てて下さい。自分たちとは違うことばの仕組みがあること、いろんな文化がそれぞれに大切であること、多様性こそが豊かさを生み出すこと、いろんな文化が交流してよいところを影響し合ってこそ新しい文化が生まれてくること、ことばを通じて教えられることは山のようにあります。

<おわり>
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日本文学イントロクイズ

2011-03-22 13:12:00 | 日記
2009/12/19
ぽかぽか春庭ニッポニア日本語教師日記>イントロクイズ(1)○○は激怒した

 さて、これからの時代、「時代とともにある言葉」といえば、商品のキャッチコピー以外になくなってしまうのでしょうか。
 大学生の読書離れも深刻で、授業の参考書をあげても、「教科書」として購入を義務づけない限り、学生は本を買わないし読まない。

 1ヶ月に1冊も本を読まない人が増えたというアンケート調査結果が出ていました。
 ネットマイルという会社が読書について行った調査の結果です。10代から60代以上の男性、女性各300名を対象に、8月27日から28日にかけて行われた調査では、20代・30代では読書量が二極化しており、月に1冊も読まない人は20代で42%、30代で48%。
 http://research.netmile.co.jp/voluntary/2009/pdf/200909_2.pdf

 著名作品の冒頭、全文を読んだことはなくても、冒頭だけは教科書に載っていたりして、人口に膾炙しています。冒頭の一文がキャッチコピーの役目を果たしています。
 以下、教科書採択率の高い作品の冒頭部分のイントロクイズ。作品名、みなさん言えると思います。

 近代文学の冒頭。作者の名と共に有名。中学高校の国語教科書に掲載された作品を中心にタイトルと作者名、クイズです。
レベル1 「メロスは激怒した。必ず, かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した」

レベル2 「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る。小学校に居る時分 学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある」

レベル3 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」

レベル4 木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である」

レベル5 「漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜障トを発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁沙漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い」

 レベル4のヒント。木曽の馬籠宿に記念館があります。5は、文中にタイトルロールが出てきます。

 古典文学も教科書に載ると、冒頭だけは読んでもらえる。
イントロクイズ古典編

レベル1 「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる」

レベル2 「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」

レベル3 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 」

レベル4 「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

レベル5「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」

 というわけで、学生の前で名作の冒頭を諳んじてみせるのも、教師の芸のひとつなのです。日本語言語文化が衰退していくのを、ことばの教師としては黙って見過ごしていることはできません。「春庭は激怒した」とまではいきませんが、春庭は激不安。あ、激不安なんていう語、まだ「人口に膾炙」とはなっていませんね。

 近代編。走れメロス 坊ちゃん 雪国 夜明け前 李陵  
 古典編解答。枕草子 源氏物語 平家物語 徒然草 方丈記
 次回イントロクイズ第2弾。

<つづく>
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2009年12月20日


ぽかぽか春庭「我が輩は○○である」
2009/12/20
ぽかぽか春庭ニッポニア日本語教師日記>イントロクイズ(2)我が輩は○○である

 イントロクイズのつづき。近代文学編

レベル1「我が輩は猫である。名前はまだない」

レベル2「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來(ゆきゝ)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前(だいおんじまへ)と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き」

レベル3 「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」二人はデッキの手すりに寄りかかって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱(かか)え込んでいる函館(はこだて)の街を見ていた。――漁夫は指元まで吸いつくした煙草(たばこ)を唾(つば)と一緒に捨てた」
 
レベル4 「あわただしく、玄関をあける音が聞えて、私はその音で、眼をさましましたが、それは泥酔の夫の、深夜の帰宅にきまっているのでございますから、そのまま黙って寝ていました」

レベル5「さようでございます。あの死骸を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝いつもの通り、裏山の杉を伐りに参りました」

 レベル3の作品は、不況つづきを逆手にとってヒットさせ、職のない若者に大受け。最近作者の恋人とされていた女性が逝去したことがニュースになっていました。
 レベル4は、今年公開の映画原作、ということで出題。ヒント松たか子。「メロスは激怒した」はレベル1でしたが、こちらは認知度がぐんと低くなる。
 レベル5もちょっと前に公開になった映画の原作。ただし、映画は芥川龍之介の原作ともそれをアレンジした黒澤明の『羅生門』とも別の作品と言ってもいい。でも小栗旬主演の『多襄丸』によって芥川の原作ということが若い人に知られて、原作読んでみようかという人が少しでも増えればいいのですが。

 古典編第2弾。
レベル1 今は昔、竹取の翁といふものありけり。 野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことに使ひけり。 名をば、さぬきのみやつことなむいひける

レベル2  男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。 それの年のしはすの二十日あまり一日の戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく

レベル3 昔、男、初冠して、奈良の京、春日の里に、知るよしゝて、狩りにいにけり。

レベル4 月日は百代の過客にして行ふ 年も又旅人也。舟のうへに生涯 をうかべ馬の口とらへて老をむかふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。

レベル5 實にや安樂世界より、今此娑婆に示現して、我等が爲の觀世音、仰ぐも高し高き屋に、登りて民の賑ひを、契りおきてし難波津や、三ツづつ十ウと三ツの里、札所々々の靈地靈佛、廻れば罪も夏の雲、熱くろしとて駕籠をはや、をりはの乞目三六の、十八九なる顏世花、今咲出しの初花に、傘は被ずとも召さずとも、照日の神も男神、除けて日負はよもあらじ。

 レベル5は、この冒頭を諳んじている人はまずいないと思う。いたとしたら、相当な人形浄瑠璃文楽好き。でも冒頭を知らなくても、さわりの部分は聞き覚えある方もいるかも。
「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えて行く夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め寂滅為楽と響くなり」
 近松門左衛門の原作。出会って以来40年のおつきあいになる友人に観劇にさそってもらい、暮れの26日に見に行くのを楽しみにしています。文楽の曽根崎心中ではなく、人が演じるバージョンを下北沢の劇場で。

近代編。吾輩は猫である たけくらべ 蟹工船 ヴィヨンの妻 藪の中。
古典編解答。竹取物語 土佐日記 伊勢物語 奥の細道 曾根崎心中

 貧乏暇なしの暮れに、日本語言語文化のさわりでちょっと遊んで、しばしの休憩でした。
 仕事はあと二日。老骨むち打ってがんばります。

<おわり>

ニッポニアニッポン語教師日誌 2011年2月

2011-02-11 08:24:00 | 日記
2011/02/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(1)バレンタイン・チョコセール

 春庭の授業、いよいよ後期のラストスパート。出講先の私立も国立(独立行政法人)のうちの一校も授業が終了し、あとはもうひとつの国立大学留学生日本語教育センターの2クラスの授業のみ。初級ゼロスタートクラスと初級後半スタートクラスです。

 初級ゼロスタートクラス、今期は16人在籍していたので、最初はどうなるかと思いました。初級ゼロスタートは、ひらがなカタカナもまったく知らないで日本にやってきた人たちのクラスです。手がかかるため、クラススケールはせいぜい10人まで。10人を超すと、教師はしんどい思いをします。

 今期、ゼロスタートクラスは、国籍もカメルーン、ベネズエラ、スペイン、フランス、ドイツ、スイス、カナダ、中国、台湾、カンボジア、インドネシア、モンゴル。実に個性豊かな学生が集まったクラスでした。温泉ファンになった学生がいたり、漢字オタクになったり、いっしょに日本に留学した双子姉妹で、一人は私立、一人は国立の大学に離ればなれになってしまったけれど、休みの日にはいっしょに銀座や渋谷へ遊びに行くという姉妹がいたり、、、、、背がすらりと高く、美人の双子姉妹が同じ顔で銀座をのし歩いたらさぞかし目立つだろうと思います。

 クラスのフランス人ハンサムボーイ。最近、授業を休みがちになってきたと思ったら、渋谷のデパートでバレンタインデーへ向けたスイーツショップの販促モデルとなっていて、夕方のテレビニュースに彼の姿が映し出されのだそうです。同僚先生のメール報告によると、「ここでお茶すると(チョコを買うと)、すてきなミシェル君と一緒に写真が撮れます、、、、とかナレーションが入っていました」だって。ほんとにかわいい顔立ちの「すてきなミシェル君」と写真が撮れるなら、私だってチョコ買っちゃうかも。

 そう思ったら即実行の春庭、同僚のA先生と渋谷にいっしょに立ち寄り、デパート7階へ行ってみました。バレンタインイベントとして、7階フロアにさまざまなチョコレートメーカーが店を出しています。その中のひとつのショップ、カフェコーナー併設で、コーヒー、ココアなどの飲み物を飲めて、ケースの中のチョコをその場で食べることもできるし、持ち帰ることもできる。
 、小さく切ったチョコに爪楊枝をさしてお皿に載せ、ミシェル君は「いらっしゃいませ!いかがですか~」と、お客にチョコを勧めています。

 生トリフチョコが一粒200円、という普段なら買うことはない値段ですが、A先生がトリフチョコを買ったので、私もフルーツチョコを買いました。「チョコ買ったら、ミシェル君と記念撮影できるんでしょ」と申し入れ、撮影しようとしたら、なんとケータイカメラはバッテリー切れ。ミシェル君との写真はできず、残念でした。でも、ミシェル君は、「これからもモデルのアルバイトを続けて行きます。来月発売されるメンズファッション雑誌に、ラコステのモデルとして出ます。アルバイトは日本語の勉強になります」だ、そうです。
 まあ、それじゃ、早速雑誌を買わなくては。

 今日学習した日本語文型のひとつは、「~したばかりのとき~」という表現の練習でした。クラスメートが「日本に来たばかりのとき、日本の料理が食べられませんでした」とか「日本に来たばかりのとき、日本語がわかりませんでした」という発表をした中、ミシェル君は「日本に来たばかりのとき、日本のブランドの服を買いました」と発表していました。ミシェル君、普段着のファッションもばっちり決まっています。
 
 ミシェル君が「バレンタイン・チョコ、いかがですか~」と勧めてくれるのは2月14日までみたいですけれど、14日と15日に行われる初級クラスの期末試験は大丈夫でしょうか。抜群に頭もいいミシェル君ですから、徹夜で猛勉強すれば合格点は間違いないでしょうけれど。

<つづく>
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2011年02月12日


ぽかぽか春庭「カナダの国民的プーチン」
2011/02/12
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(2)カナダの国民的プーチン

 2月9日、東京ははみぞれ雪でしたが、11日、朝から雪が降りました。夕方にはうっすら積もって、久しぶりの雪景色。南国から留学してきた留学生たちは、雪景色をみるのを楽しみにしていたから、東京の雪景色に大喜びしていることでしょう。ビルの上から降ってくる雪。「都会的」な光景です。
 2月7日の日本語初級後半クラスの授業で、「~的な」という言葉の練習をしました。最近は、「ワタシ的には~」なんていう若者言葉もありますが、「的」が付くのは、漢字2字の熟語です。近代的な、健康的な、権威的な、表面的な、などの例を挙げ、「代表的な」という教科書に出ている語を使って、短い文を作るように学生に指示しました。

 スペイン4人。ポルトガルひとり、アメリカふたり、カナダひとり、フィリピンひとり、モンゴルひとり、中国ひとりというクラス構成。スペインの留学生が4人いるので、教師からの例文として「スペインの代表的なスポーツはサッカーです」と言いました。2010年ワールドカップ世界一になったので。スペイン留学生は納得してうなずいていました。

 「日本で一番人気のあるスポーツは野球です。日本の代表的なスポーツは柔道と相撲です」さらに「カナダの代表的なスポーツはアイスホッケーですか」と、カナダの留学生に振りました。日本の相撲は「国技」を自称していますが、法的に決まったことではありません。一方、カナダは法律で「アイスホッケーとラクロスを国技とする」と公的に決めている国です。しかし、せっかく話をふったのに、ロックバンド活動に夢中の彼は「さあ、スポーツに興味がないから、わかりません」という気のない返事。そこで代表的な食べ物について聞いてみました。

 カナダの留学生が「カナダの代表的なたべものはプチンです」という文を作りました。私はプチンという食べ物を知らなかったので、え?と聞き返しました。「ロシアのプーチン」ならわかるのですが。私が飲み込めないでいると、「poutin」と、つづりを教えてくれたのですが、それでもどんな食べ物かわかりません。 
 「国の代表的な花について説明する」という説明文400字の作文宿題を、「代表的な食べ物」「代表的な芸術」など、なんでもいいから国のものをひとつあげ、それを他の国の人にもどんなものかわかるように説明する作文を書くように指示しました。

 プチン(プーティン)はカナダのフランス語地域ケベック州発祥の食べ物で、ジャガ芋を細く切って揚げたものやジャガ芋をすり下ろして団子にしたものを揚げ、その上にグレイビーソースをかけて食べる。ファストフード店や学生食堂で、もっとも手軽な食べ物として「国民的」ファーストフードになっているそうです。フライドポテトも「フレンチフライ」というから、フランス由来の料理法なのかもしれませんが、アメリカのファストフードはすぐに流行るのに、カナダのプーチン、日本で見たことがありません。
 新しい食品名をひとつおぼえました。

 留学生もそろそろコースの終わりに近づいて、試験のために猛勉強する一派がいると思うと、もうコースが終わった気分でデートやアルバイトに精を出す一派もいます。
 7日の月曜日の授業を終えて留学生センターから出て行くと、欠席した女子学生が通路にいて、ボーイフレンドと「情熱的」なキスシーンを演じていました。なんだ、風邪引いて欠席したのかなあと、同情してソンした。(うらやましいゾ、おばさんは!)
 まったく、近頃の留学生、日本に来ても、勉強より恋やアルバイトのほうが忙しいみたい。

<つづく>

2011/02/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(6)アフリカ料理

 北アフリカは、イスラム料理や地中海料理の影響を受けているので、エジプト、チュニジア、モロッコなどがひとつの料理圏を作っています。東京にあるアフリカ料理店はほとんどがこの北アフリカの料理です。
 西アフリカ料理は、フランス料理の影響を受けたものもあります。東アジアは、イギリス統治下で連れてこられたインド人が残留したこともあり、サモサなどインド料理がミックスしている。

 今まで私が教えたことのある留学生のうち、アフリカ出身の学生がいた国は。エジプト、リビア、チュニジア、モロッコ、セネガル、マリ、ガーナ、ナイジェリア、カメルーン、ウガンダ、ケニア。赤道以南では南アフリカ共和国のみ。赤道以南の留学生にはほとんど会っていません。南アフリカからの留学生もボーア系の白人だったのです。4月から教える留学生に、初めて黒人の南ア出身者がいるとわかって、どんな学生か、どんな出会いかと期待しています。エチオピアからの留学生も4月から担当します。
 教え子出身国の料理店を順に検索してみました。

 中央線沿線、または池袋、新宿、渋谷の駅から歩いて5分以内という条件で絞り込んで、セネガル料理、カメルーン料理などがヒットしました。
 カメルーン、2010年ワールドカップで日本と同じE組になったことなどで、その国名が日本人にも浸透しました。有力選手の名のうち。エトオというのも、江藤のようで、親しみがわきます。2月7日に、池袋のカメルーン料理店へ行って来ました。

 1995年からイギリス連邦に加入しているカメルーン共和国。独立前はヨーロッパの植民地として複雑な歴史をたどってきた国です。
 1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人が、エビの多いことからカマラウン(camarão,ポルトガル語で「小エビ」)と名付けました。しかし、ポルトガルがカメルーンを植民地にすることはなく、1870年代に、ドイツ帝国からの入植者が入り、保護領としました。第一次大戦後、敗戦国からの割譲を受け、1922年には西部がイギリスの「西カメルーン」、東部がフランスの「東カメルーン」として委任統治領となりました。ヨーロッパ帝国主義によるアフリカの毟り合いです。

 カメルーンは、政治的にはフランスの植民地だった地域とイギリスの植民地だった地域に分けられましたが、もともとは、遊牧民、農耕民の暮らす北部と、熱帯雨林の農耕民が暮らす南部とに大きく分かれていました。

 食文化は北部では、羊肉や牛肉のほか、とうもろこしなどの穀類が主食。南部の海岸地方では、キャッサバやプランテーン(調理用バナナ)、魚などをパームオイルを使って調理して食べてきました。
 カメルーンの国民食にあたるもっともポピュラーな料理は、ドーレ(ンドレ)と呼ばれるほうれん草などの野菜やスパイスをミンチしたおかずをご飯とまぜて食べるもの。ピーナッツシチューなどのシチューと一緒に食べるフーフー(ヤム芋の粉をこねたアフリカのおもちのような食べ物)、鶏やマトンなどの肉類、魚などの煮込みやグリル。

<つづく>
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2011年02月19日


ぽかぽか春庭「オーヴィレッジ」
2011/02/19
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(7)オーヴィレッジ

 ともあれ、カメルーン料理の味を知るために、「都内では唯一のカメルーン料理店」という池袋の「オーヴィレッジ」という店にいきました。ネットで地図を検索し、池袋東急ハンズのひとつ手前の角を曲がる、と頭に入れて歩いたのですが、生来の方向音痴、見事に間違えて、ぐるぐるとあたりを経巡っても見つからない。ブログのレストラン評でも、「わかりにくい場所にあるので、コンビニを目印に行くとよい」とか、いろいろアドバイスが書いてあったのですが。エスニック料理店は浮沈が激しく、ちょっと見ないでいると閉店してしまっていた、なんてことも多い。

 しかたないので、洋品を売っているらしい店の前に数人たむろしていた黒人ニイちゃんのひとりに尋ねました。たぶん、池袋のアフリカ関係のことを知っているだろうと思ったので。
 すると「その交差点を左にまがって、ゲームセンターのそば」と教えてくれました。そのニイちゃんはガーナから来たと言ってました。ガーナはカメルーンのお隣すじだから、たぶんその情報は正しいだろうと信じて、またぐるぐるあたりをまわります。にいちゃんの情報通り、ゲームセンターの先に店がありました。雑居ビルの3階。道路に看板がでているのですが、見落とします。ほんとうにわかりにくい。
 
 店内はとても狭くて、10人以上が集まると思われる講師打ち上げ会の会場としてはどうかな、と思いましたが、カメルーンから来日して5年になるというママさんは「10人、OK。OK」と請け合っていました。「ここに10人座るよ」とママさんが言うコーナーは、どう見ても4人掛けくらいのスペース。ここに10人詰め込まれたら、隣の人と袖がぶつかりそう。しかも貸し切りにはせず、「ここ、10人。ほかのお客さん、ここ」と、他の客も入れるつもりらしいので、ちょっと考えてしまいました。

 私は、どれでも一品500円、というランチメニューから、「鮭のキッシュ」と「ワニのなべ」を選びました。キッシュは、あまり味付けがしてなくて、別添えの辛いタレをかけて食べます。「なべ」というのは、煮込み料理のことのようで、別段鍋仕立てにしてあるのではなく、お皿半分にクスクスを盛り、半分に野菜の煮込んだものが入れてある。「ワニ肉」は、ひときれ小さめのがポンと上にのせられていて、あまり味はわからなかった。ウサギ肉、ヤギ肉など、日本ではあまり食べない肉をグリルにしたり、煮込んだ料理がメインのようです。

 シェフもサービスもひとりで受け持っているママさんの話によると、食材はカメルーンとの間を行き来して、自分自身で運んでくる。自分が行けないときは、カメルーンにいるお母さんに運んでもらう。「この店の野菜、全部カメルーンのヤセイね」と解説してくれました。野生の野菜?まあ、30年前にケニアの田舎にホームステイしたとき、畑というより野っ原に出て、そこらの葉っぱを摘み取って煮て食べた家庭料理がありましたから、わからないでもない。

 池袋に店を出してから5年たち、ようやく学校の入学費用もできたので、現在渋谷の長沼スクールに日本語を習いに行っている、と話していました。私は1990年に短期間でしたが、長沼スクールで日本語を教えたことがあったので、そんなことから話がすすみました。
 5年の在日期間にだいぶ日本語の会話は上達したようですが、系統的に学習した人の日本語に比べて、耳から覚えた日本語は通じるけれど、やや表現が乱暴になります。
 通じることは通じるけれど、接客用語としてそれはドーヨという表現も「通じれば文句ないでしょ」式。フランクな日本語と言えるけれど、長沼スクールで「客に対して失礼のない日本語表現」が学べるといいのだけれど。

<つづく>
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2011年02月20日


ぽかぽか春庭「カメルーン料理」
2011/02/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(8)カメルーン料理

 いまオーヴィレッジのママさんがいっしょうけんめい制作中という自作メニューを見せてもらいました。
 「パン」が「バン」と書いてあったり、促音の小さい「っ」や長音の「ー」がなかったり。初級日本語学習者が間違えることの多い仮名遣いの見本のようなメニューになっていました。メニューの字体も自由で、かえって手作りらしい味を出しています。アフリカ流の「こまかいことは気にしない」マインドとでも言いましょうか。

 さすがにメニューに誤字はまずいだろうと思って、ママさんに許可をもらって、少々誤字をなおしました。「ウサギニクシチコ」。カタカナ「コ」は「ユ」の書き間違いでしょう。「うさぎ肉シチュー」の意味だろうとわかったのですが、「ヤサイタフリニクシチュ」というメニューの意味がわからず、「たふり肉って、何の肉ですか」と質問したところ、「野菜たっぷり肉シチュー」でした。
 デジカメで撮った写真が貼ってあるので、日本語の説明が少々わかりにくくても、どんな食べ物かはわかるからいいのですが。

 「フフ、やむのこなおもち」は、ヤム芋を粉にしたものを蒸しパン状にしたもので、ケニアのウガリ(とうもろこし粉の蒸しパン)のようなものだということがわかりました。カメルーンでは、ヤムの粉やキャッサバの粉を練ってオモチ状にして主食とし、野菜煮込みやピーナツスープにつけて食べるそうです。

 ママさんは、カメルーン料理教室も実施しており、近々カメルーン料理レシピ本を出版するのだと、息巻いていました。大使館の仕事のために来日してから、カメルーン料理店を切り盛りするようになるまで、とてもたくましく生き抜いてきたという感じがするジュディさんです。
 「本を売るパーティ、みんな来るよ、あなたもくるね」と、誘われましたけれど、、、、
 「オー・ビレッジ」みんなでワイワイ日頃食べたことのないカメルーン料理をつっつけば、狭さは気にならないかも、とも思いましたが、やはり一番のネックは10人ではゆったり座れそうにない、という点です。

 今期受け持った初級ゼロスタートクラスにカメルーン出身の留学生がいます。私がカメルーンからの留学生を受け持つのは、彼が二人目です。アフリカからの留学生は他の地域に比べて人数が少ない。アフリカの学生はアメリカか旧宗主国のヨーロッパに留学したがるので、日本に留学する学生は稀少です。
 今期のカメルーン留学生、ゼロスタートであいうえおの書き方から日本語学習を始めましたが、とても熱心で努力家。よく漢字の練習もしています。文法の飲み込みも早く、ほんとうに頭のいい学生です。

 「知る」という動詞を教えていたときのこと。
 「知る」は他の動詞とちょっと文法的に異なる部分があります。質問の時には「~を知っていますか」と「テイル形」で聞かなければなりません。「あなたは、○○を知りますか」と質問したら、日本語が下手な外国人と思われてしまいます。しかし返事をするときは「はい」なら「ええ、知っています」と、「テイル形」でいいのに、「いいえ」のときは「いいえ、知っていません」と答えたらダメ。「いいえ、知りません」と答えなければならない。
 留学生はよく間違えます。文法学でいうとアスペクトの問題なのですが、留学生にはアスペクトなんていう文法用語を使わずに説明し、とにかく習うより慣れろ。

 ペア練習をさせたところ、カメルーンからの留学生ヘンリー君は「エトオを知っていますか」と、隣の席の留学生に質問していました。隣のリェンフォンさんは、サッカーに興味のない中国人女性だったので答えは「いいえ、知りません」でした。私がリェンフォンさんに「劉暁波リューシャオボーを知っていますか」と尋ねたときも、「いいえ、知りません」でした。関心のない分野の人の名はわからないものです。たぶん、劉暁波の名、中国国内ではほとんど報道されなかったのだろうと思います。リェンフォンさん、2010年10月に来日するまで知らされてこなかったこの名を「知っています」と言えるようになってほしいけれど。

<つづく>
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2011年02月22日


ぽかぽか春庭「楽しクラス」
2011/02/22
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(9)楽しクラス

 カメルーン料理、店の広さに難点があったので、打ち上げの会場には不向きでしたが、2月18日、初級クラスのカメルーン出身ヘンリー君とA先生を誘ってもう一度ランチを食べに行きました。

 中国や韓国など、留学生仲間も多く、すぐに友人が作れる国の留学生と異なり、カメルーン出身の留学生は同国人の友達を見つけるのもなかなかたいへん。留学が成功するかどうかは、いろいろな国の人と友達になる柔軟さを持っていることと同時に、気軽に母語でおしゃべりできる友人を持てるかどうかにかかっています。
 カメルーンの海辺の出身か北部遊牧地帯の出身かで、だいぶ「ママの味」にも差があるようですが、出身地の名をつけたレストランを一軒くらい知っておくのもいいのではないかと考え、ヘンリー君がカメルーン料理店を知ることで友達が増えればいいなと思ったのです。

 ヘンリー君の在籍するクラスの最後の授業で、私はいつものお得意の「日本文化紹介授業」を実施しました。「手順の説明」というタスクで「最初に・まず、次に、それから・そして」など、順序立てて作り方などを説明する読解文を読みました。読解文では「図書館カードの作り方」というあまり面白くない内容だったので、さっと読み、次に「手順の説明が聞き取れるかどうかの応用問題」と称して、折り紙のカブトの作り方を説明しました。

 説明しながら皆でいっしょに折っていきます。どうしても角と角をぴしっと合わせられない学生や、なぜか上下を逆さまにしてしまう学生もいて、教師が折り直しをして、A3裏紙利用の練習用カブトを折りあげました。次に、大型広告チラシ(マンションの販売広告)を正方形に切ったものを利用して、大きなカブトを作りました。出来上がったのをかぶって大喜び。ケータイで写真を取り合って、「サムライハットだ!」とはしゃいでいました。

 授業が終わったあと、事務官にシャッターを頼んで全員で記念撮影。学生がケータイで撮った写真も「私のメールに送ってね」とメールアドレスを伝えたところ、オリバ君が日本語のメール文とともに皆の笑顔の写真を送ってくれました。

「私たちはすべての先生からすごいいじゅぎょうをもらいました。どうもありがとうございました。楽しですね!」

 「すごいい授業」とは「すごく良い授業」の意味でしょう。「楽しですね!」の気持ちは、写真の笑顔からも伝わってきましたよ。

 100クラスは、16日水曜日の試験終了後、クラス全員で集まり「おわかれクラスランチ」の会を行いました。「しゃぶしゃぶ食べ放題パーティ」へ、私にも参加を募るメールが届いたのですが、残念ながら他大学での試験実施があり、参加できませんでした。
 参加なさった先生から「楽しい会でした」とうかがい、学生からのメールでランチパーティの写真も届きました。

 試験の結果、よい成績で進級する学生もおり、わずかに点数が足りずにもう一度初級後半からやり直しという学生も居ます。クラス皆が、それぞれの春に向かって新しい第一歩を踏み出せるよう、応援していきたいと思いました。

<つづく>
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2011年02月23日


ぽかぽか春庭「お別れランチ」
2011/02/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(10)お別れランチ

 そんな「楽しクラス」での授業を終え、ヘンリー君は別の大学の大学院へ行きます。これでクラスメートともお別れになってしまうので、カメルーン料理店で新しい出会いがあるといいなと思いつつ、料理を頼みました。
 ビーナツシシュー、オクラシチュー、キャッサバのフフ、ヤムのフフなどがテーブルに並べられました。

 ヘンリー君がこれから日本で作物学を研究すれば、故郷のキャッサバやヤムの収穫量が向上する研究成果が出るかも知れません。大学院の指導教官は「トウモロコシの収量成立過程の解明」や「水稲冷害早期警戒システムの構築」を研究してきた「生涯、アグロノミストを目指したい」と書いていらっしゃる方です。アグロノミストというのは、土壌分析や植物の樹液分析によって肥料設計などの、「よりよい作物収穫」を目指す科学者のこと。宮沢賢治が目指していた研究者です。きっとヘンリー君の研究にとって、よい指導者となってくれることと期待しています。

 18日のオーヴィレッジで、ヘンリー君はママさんと英語で話していたところを見ると、カメルーンに村ごとに250もの言語があるという中で、同じ言語で話が通じる相手ではなかったみたい。
 でも出会いの収穫もありました。店内で食事をしていた大学院生、これからカメルーンの大学へ行き、現地調査をしてくるというのです。その人はカメルーンでカカオの流通を中心に農業経済の研究をしているそうです。ヘンリー君もカメルーンでは収穫経済学cropeconomicsを研究してきて、日本では作物学の研究室に所属して研究を続けるので、話が合いそうでした。

 名刺をもらったので、これからヘンリー君と知り合いになれればいいなあと思います。カメルーンをフィールドに選んでいる研究者と知り合いになれば、そこから人の輪が広がるかも知れません。日本での最大の収穫は、無論研究がまとまって博士号を取得することですが、その過程でいろいろな人と出会うことも日本留学の成果になると思います。

 ヘンリー君からお礼メールが届きました。
  こんばんはせんせい、
  私はとても元気で、うれしいです。先週木曜日に、昼ごはんはおいしかったです。私 はいろいろな料理を食べ過ぎましたですから、晩御飯を食べられませんでした。先生も う一度、ありがとうございます。

 私も、ヘンリー君とカメルーン料理を食べたこと、とてもうれしく楽しいひとときでした。私からもありがとう。




ニッポニアニッポン語教師日誌2010年年頭

2011-02-01 05:41:00 | 日記
2010/01/07
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(7)留学生新年会

 2008年正月のこと。2007年に中国で担任した博士課程国費留学生のクラス「博士2班」の日本での新年クラス会を姑の家で行いました。古家を改築したばかりの姑が家を見てもらいたがっているのに便乗して「庶民の家を見る会」として留学生を招待したところ、姑にも留学生にも喜んでもらえたので、2009年に半年間赴任したときの担任クラスの新年会も姑の家で行うことにしました。

 姑には「材料を買って持っていき、料理は留学生が自分で行うので、何も準備しなくていいですから、台所を貸してください」と頼んでおきました。それでも姑は張り切って家の掃除をしたり椅子を3階から1階のリビングへ降ろして留学生が9人来訪するというのに備えてくれました。

 2007年の博士2班のときは、留学先が北海道大学東北大学など地方にばらけていたので、東京に寮のある5人+中国人担任のリグン先生の6人での来訪でしたが、2009年の担任クラス博士3班は、18人のうち半数が東京に集中したので、東京に寮やアパートがある学生のほとんどが来られることになりました。研究室の行事があって来られない学生からは「残念」というメールが来ました。

 「留学生さんのお口に合うかどうか、甘酒を作ってみたの。味見してね。あと、ちょっとしたおせち風の食べ物と食後にどうかと思って寒天ゼリーを作って見たのだけれど」と、姑の準備万端。
 寿司やすき焼き、天ぷらなど和風の料理を並べるという案もかんがえたのだけれど、寿司やすき焼きなどの和食も、今ではどこでも食べることができるので、今回はむしろ「なつかしい故郷の味」を自分たちでワイワイと作るのを楽しもうというコンセプト。
 私は、前もって煮込んでおけばよいおでんを作ることにして、待っていました。

 2007年と2009年の受け持ち留学生の質に違いがあります。2007年の学生は、クラスのほとんどが大学の若手教師たちで、数人を除いて結婚しており共働きなので、「妻より料理が上手です」というような学生が多かった。幼いころから働く母親の手伝いをよくしてきた層です。このときの独身の一人は1980年生まれで、一人っ子政策の最初の年の生まれでした。

 ところが、2009年の赴日本国留学生は、中国政府の方針で大学修士課程在学中の学生のなかから優秀者を選抜する方式に変わりました。修士在学中の学生、年上の1980年ころの生まれの学生では兄や姉がいるのですが、1983年、1984年生まれの学生になると、ほとんどが一人っ子です。幼いときから、両親と父方の祖父母、母方の祖父母の6人が手塩にかけて大事に育ててきた一人っ子が多く、「一度も料理をしたことがありません」という学生も多かった。

 そんな小皇帝、小公主の彼らも、留学後は「日本のレストランは高いから、中国料理を作って食べています」というメールが入って来ていて、日本に来て初めて料理をしたという学生も、「上手になりました」というので、料理はお任せすることになりました。

 駅の改札で待ち合わせるというメールのやりとりをして、午後1時に駅前へ。

<つづく>
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2010年01月08日


ぽかぽか春庭「自慢料理を作って食べよう会」
2010/01/08
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(8)自慢料理を作って食べよう会

 留学生寮と大学研究室の往復と、街のスーパーでの買い物はしてきたけれど、日本人の家の中に入るのは初めて、という学生がほとんどなので、まず、玄関で靴をそろえて脱ぐというところから「日本的生活」のレクチャーを始めました。

 姑の家のリビングで甘酒で乾杯。姑が用意した数の子、昆布巻き、黒豆、柿なます、栗きんとんなどのおせち料理の説明から「日本的正月」の解説。数の子は魚の卵のように子孫が増えていくように。昆布は「よろこぶ」豆は「マメに働く」など、年の初めには縁起のよい言葉を並べて、祝うのだと話しました。お節をつまみながら、日本語での自己紹介のあと、さっそく料理に取りかかる組と、食材買い出しの組みに別れました。

 姑宅から徒歩5分のスーパーで、学生といっしょに魚や海老など食材を買いました。道々、日本での生活や研究のことなど聞きました。
 「先生の日本語はよく聞き取れるのだけれど、研究室の先輩の話は半分もわからない」と、これは留学当初に日本語学習者皆が感じること。日本語教室で教師は学生が未習の文型は使わないようにするし、学生が知らない単語は使わず語彙コントロールをしながら、役者以上に滑舌良くはっきりした発音で話します。でも、研究室では若者言葉も飛び交うし、専門用語も知らない単語が遠慮無しに使われます。

 日本語を1年習って来日したというのに、研究室仲間の日本語がほとんどわからない、という状態に不安になる学生もいます。「心配ないよ。わからない部分があっても積極的に話していれば、1年後には必ず聞き取れるようになるから、どんどん話したほうがいいよ、わからないからといって会話しないでいると、どんどん下手になっちゃうよ」と、アドバイス。

 台所が狭いので、おしゃべりしつつ交代で料理を作りました。カショさんは「炸[虫下]仁」という海老の炒め物。ルールーは「可楽鶏[支羽]」という、鶏手羽のコーラ煮、ソウさんは「油炸花生米」これは油で揚げた落花生。シンラン&ケツさんはいつものようにふたりペアで「豆腐干炸肉」厚揚げと肉の炒め物。コウキさんは「清蒸海魚」鯖の酢菜蒸。博士3班クラスで唯一の既婚者だったソさんは、手慣れたようすで四川料理の水煮肉片(豚肉ともやしの唐辛子煮)と「手撕餅」という小麦粉を練って青葱を加えて延ばす中華餅をそれぞれ作ってくれました。レイショウさんは、下ごしらえなどのお手伝い。

 できあがった料理は「日本に来てから料理を始めました」とは思えないおいしい本格的中華料理で、さすが料理大国の国で親が料理しているのを見て育ったのだろうなあと感心する味でした。それぞれレシピの紹介し合いましたが、私のおでんの紹介ときたら「おでんの材料をそろえて、市販のおでんの素を入れて煮込みます。おわり」というしろもの。それでも皆「おでんはおいしいです」と言ってくれました。おでんの一番人気は大根でした。

 おなかがいっぱいになったあと、新年会のメインイベントである「お宅拝見」です。

<つづく>
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2010年01月09日


ぽかぽか春庭「日本人の家を見よう会」
2010/01/09
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(10)日本人の家を見よう会

 今回の留学生新年会は、日本人の家に行ったとしてもなかなか見せてはもらえない、押入の奥までのぞきましょう、というのがコンセプトです。特に経済学専攻の3人の学生には、「日本人の一般的生活は、どのような布団で寝てどのような食器を使って、どのように暮らしているのか、全部知っておくのは大切ですよ」と話しました。マクロ経済や「農村経済構築」を専門とする学生にとっても、「一般庶民の生活」を具体的に知っているのと抽象的理論だけ知っているのでは、研究の質も変わってくるでしょう。

 お風呂場や階段下収納などもすべて公開。東京の狭い敷地にひょろっと3階建てになっているので、階段下は物入れに有効利用されています。このイベントは、姑が整理整頓掃除大好き主婦だからできること。

 3階の畳の間では、「日本式の正座とおじぎ」の練習をしました。もし、指導教官のお宅などにうかがう機会があって日本間に案内されて、「どうぞお楽に」とか「足を崩してください」と言われたら、男性はあぐらをかいて座る、女性は横座りになる、というのも実演しました。今のところの日本作法では、和室で女性があぐらで座ってはいけない、ということも教えておく。留学生が茶室に招かれて立て膝で座ったという例もあるので、「韓国では女性がこのように膝をたてて座るのが作法ですが、郷に入っては郷に従えです。日本では若い人だけの集まりならいいですが、年寄りがいる場では女性のあぐらや立て膝はだめです」など伝えておきました。
 
 デザートは、娘が作ってくれたアップルパイを持参したのを切り分けて、姑が作った胡桃牛乳寒天といっしょに出しました。
 学生たちはほんとうに楽しんでくれたし、姑も学生達の気持ちが伝わってうれしそうでした。
 
 それぞれのお礼メールを送ってくれました。そのうちの2通です。(誤用もありますが、意味はよくわかると思います)

 「今日は先生の家族にご招待をしてくれて、本当にありがとうございました。今回は初めて日本人の家に行って、日本人の生活を見学できました。私とケツさんにとって、珍しいチャンスでした。おばあちゃんの料理と先生のおでんと娘さんのお菓子がすべて美味しかったんです。機会があれば、ぜひ教えてください。なお、先生のお陰で、私たちの9人が集めて、皆さんの研究生活を聞いたり、いろいろ話を話たりしていた、楽しかったです。おばあちゃんにご感謝を伝えてください。」

 「今日先生とゆき子さん(姑のこと)からご馳走を招待していただいてどうもありがとうございました!本当に楽しかったです!3月に皆さんの入学試験が終わったら、も一度先生と会いたいです。よければ、私たちの会館で餃子を作りましょう、いかがですか?」

 学生のひとりが日本語ブログに掲載した「先生の家で食べた料理」の写真と日記。
http://blogs.yahoo.co.jp/iamahappysong/11134918.html

 私のほうこそ、おいしい中華料理をありがとう。またいっしょに楽しくすごしましょうね。
 次回は、大学院入試後にぜひ会いましょう。餃子パーティもいいしお花見ピクニックというのもいいね。また会う日を楽しみにしていますよ。

 学生達は正月休みが明けると、研究室で猛烈社員のような夜遅くまでの実験に追われたり、2月に迫った大学院博士課程の入試の準備があり、忙しくなります。それぞれたいへんでしょうが、希望に輝く笑顔で日本での留学生活を送っていくことでしょう。

<おわり> 

にっぽにあにっぽんゴ教師日誌2008年1月

2011-01-16 11:38:00 | 日記
01/01 新年快楽(1)教え子の寄せ書き読んで寝正月
01/02 新年快楽(2)学生からのうれしいことば

01/03 クラス会(1)ハカセ2班クラス会
01/04 クラス会(2)楽観的先生のクラス
01/05 クラス会(3)餃子パーティ
01/06 クラス会(4)思い出のアルバム
01/07 クラス会(5)「いかがお過ごしますか」メール
01/08 クラス会(6)ハカセ2班担任リグン先生
01/09 クラス会(7)日本庶民の家
01/10 クラス会(8)持ち寄り新年会
01/11 クラス会(9)ハカセたちと日本のおばあさん


2008/01/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>新年快楽!(1)教え子の寄せ書き読んで寝正月

 正月番組をBGMに、昨年中国で担任した教え子からもらった「クラスアルバム」をゆっくりとながめています。
 2007年12月15日に行われたクラス会で、留学生のみなからもらった記念の写真集です。

 最初のページには、クラス一同からの「寄せ書き」が書いてありました。

 寄せ書きに悪いことは書かないから話半分でしょうが、みな、心のこもった言葉を、日本語と中国語で書いてくれています。

 美術史研究者シンさんは「毎日先生の笑顔を見ると、忙しくて辛い日本語の勉強も楽しくなり、我々も生気を取り戻しました」と書いてくれました。

 ママさん学生フーさんのことば
「人生の特別な、重要な時期に先生と知りあいました。親切的楽観的先生のおかげて、日本語の能力が進歩するだけでなく、子どもを生産、教育にたいするの緊張情緒もだんだんすくなくなて、自信がふえました。もういちどうありがとうございます。」

 日本語学習期間、出産で授業を休んでいる間も、毎日宿題プリントを友達に届けてもらって自宅で勉強を続けていたフーさん、13年前、私が9歳の娘と4歳の息子を実家に預けて中国に赴任した時の話をしました。

 「お子さんのことは心配しないで。離れていても、子どもは母の愛情をちゃんと受け止めて成長しているからね。きっとだいじょうぶ、うまくいきます。再会したときの子どもの成長を楽しみにして、安心して日本に留学してね」と、励ましてきたことを、心に受け止めてくれていました。

 うん、子どもは、生産するより出産したほうがいいんだけど、出産後4ヶ月で子どもと離れたフーさんが、元気ですごしている姿を、年末の同窓会で見ることができて、うれしかったです。

<つづく>

2008/01/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>新年快楽(2)学生からのうれしいことば

 シルクロードの町からやってきたカイハクさんのことば
 「私は教室へ行くとき、よく先生の親切な顔を思い出します。ありがとうございました」 私も、アルバムを見ながらみんなの顔を思い出していますよ。
 東大大学院で情報工学の研究をするカイハクさん、がんばってね。

 名古屋で情報処理技術研究をしているチョウさんのことば
 「先生から日本語を習うことだけでなく、親切でいろいろな生活にも助けている。私たちもお母さんのように関心をあげていた真心に感謝いたします」

 う~ん、チョウさ~ん、私が力をいれて教えたつもりの「やりもらい」が、、、、
 試験が終わったら、ソッコー忘れるのが学生の仕事、いいですいいです。チョウさんの気持ちは伝わりましたよ。「お母さんのように関心をあげていた」って、私のこと、お母さんのように感じてくれたのね。

 190cm、クラスで一番のノッポさんのマンさんのことば。マンさんは、コンピュータ苦手な私に代わって、教室コンピュータ管理をしてくれました。
 「だいずきなせんせい、私をわすれないでください」

 ハイ、忘れませんとも。だいすきよりももっと好きな「だいずき」な、マンさんの気持ち、伝わりました。

 日本語は、ふたつの語をくっつけると、後ろの語頭は、清音が濁音になります。私は中国が好きです。ふたつをくっつけると「ちゅうごくすきな先生」じゃなくて「ちゅうごくずきな先生」になります。女が好きな人は「女ずきな人」ですよ。って、教えたのをちゃんと覚えていたのね。だから、「大」と好きをくっつけると、「だいずき」になるって考えたのは、日本語の原則にあっているんだけど、、、、
 マンさんは、早大大学院で教育工学の研究をします。

 日本語会話と聴き取りが最後まで苦手で、最終試験に合格するかどうか、はらはらしていたふたり、ファンミンさんとリュウさんは、やっぱり中国語での寄せ書きでした。中国語となると、ふたりとも達筆です。

 最後まで受け入れ先大学が決まらずに、何度も日本の大学にアプローチしたチョウエンさんと、班長のリンさんも中国語でのメッセージ。リンさんは最後まで「英語のほうが日本語より達者」でした。

 リュウさんのことば
 「衷心感謝 悠対我心関心和幇助 悠(〓)耐(〓)細致(〓)我感動 悠(〓)話語也将激励我不断奮闘 祝老師永遠幸福!」
 ( )のところは、達筆な簡体字だったので、私には読めなかったのですが、気持ちは分かりました。

 名大のチョウさんの話によると、リュウさんの指導教官は中国語が得意な先生なので、授業では問題ないし、日常生活会話も慣れてきたから大丈夫ということでした。そう、聴解試験は合格ぎりぎり点だって、日本で生活する間に日常会話はこなしていけます。
 「大学経営論」を研究して、「将来は学長」希望のリュウさん、研究、きっとうまくいくでしょう。

 ひとりひとりの心からの寄せ書きを眺めて、「さあ、私も今年1年がんばるぞ!」と、元気が出てきました。

<クラス寄せ書きおわり>


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2008年01月03日


ぽかぽか春庭「クラス会」
2008/01/03
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(1)ハカセ2班クラス会

 年末年始、いろいろな集まりで飲んで食べて、みなさん、おいしい毎日をたのしんでいらっしゃるだことでしょう。まさか、酢豆腐食べておなかこわした人いないでしょうね。
 春庭、正月はいつもの寝正月ですが、今年は、年末の教え子クラス会に招かれたときにもらったクラスアルバムなどながめながら、のんびりすごしています。

 教え子たちのなつかしい顔をアルバムでたどりながら、昨年の中国滞在を思い出し、年末に行われた「赴日本国中国留学生」たちの同窓会を思い出しています。

 2007年、3月から8月まで中国で教えた教え子たちは、2007年10月に元気に日本へやってきました。

 昨年末12月15日に、日本での第一回目のクラス会が行われ、私もお招きにあずかりました。

 私が担当した「博士二班」の20名のうち、東京組は半数近くの9名。東大、東工大、一橋大、早大に在学中。
 北大、東北大、名大、岐阜大などの遠方の大学に在籍組で東京に集まれなかった人とは、またの機会にということで、今回は東京在住者中心の「クラス会」になりました。

 教え子たちは、2006年9月まで、中国の大学の教師として働いていました。
 中国全土の大学若手教師のなかから、優秀な百人が選ばれ、1年近く日本語を猛勉強しました。
 彼らは、2006年10月に日本語学習をスタートし、アイウエオから学びはじめました。

 彼らのコースは、日本の中学生高校生が6年間かけて学ぶ分量の英語(英検2級合格レベル)に相当する日本語を、わずか11ヶ月間で修得するという集中プログラムです。

 教え子たちは、11ヶ月の日本語学習を経て、2007年8月に修了証書をもらっています。
 この修了証書は、中国教育部(日本の文部科学省にあたる)が、公式に「日本への留学を認める」と、お墨付きを与えるものです。

 中国で国費留学するためには、「国費留学生試験」に合格する必要があります。この試験に合格するのは、昔の科挙試験に合格するよりむずかしい、と言われています。
 「現代の科挙」に合格せんとする彼らの猛勉強ぶりは、ものすごいものがありました。
 教えるほうもヘトヘトになるくらい。

 彼らが受けた修了証書は、この「国費留学試験に合格したと同等の資格を認める」というお墨付きなのです。
 彼らは、最終試験に合格して留学切符を手にしました。
 文部科学省の招聘国費留学生。学費は無料で、返済不要の奨学金も給与されます。

 この日本語教育機関は、日本の学校教育法に記載された中国で唯一の、「中日両国政府合弁」教育施設です。中国と文部科学省が合同で維持運営していく教育機関なのです。
 中国側の教師と日本の文部科学省から派遣された教師が、協力して日本語教育にあたっています。

<つづく>



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2008年01月04日


ぽかぽかはるにわ「楽観的先生のクラス」
2008/01/04
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(2)楽観的先生のクラス

 私は2007年3月から7月まで、初級後半から中級の基礎日本語授業を担当しました。
 日本から派遣された教師団は、「中国最高の頭脳の持ち主たちに、短期集中で最高の日本語教育を授ける」という使命を負って、「神経衰弱」になるくらい緊張しながら授業を続けました。

 学生たちはクラス記念アルバムの寄せ書きに「先生はいつも明るく笑顔で、楽観的だったので、自分たちもリラックスして授業を受けることができた」と、書いてくれていたので、ほっとしたのですが、実をいえば、楽観的どころか、毎日冷や汗三斗、薄氷踏む思いの連続でした。

 この「必死の日本語教師」ぶりは、いっしょに派遣されていたアグアフレスコ先生もまったく同じ思いだったと、母校の大学院研究雑誌の中で述懐しています。
 「中国で大学教師をしていた人々にとって、自分のつたない授業がどのように映っているのか、日々緊張し、反省しながらの授業だった」と。

 私がいつもニコニコ、「脳天気な楽観的先生」でいたのは、そうでもしなければ、自分のダメさかげんがイヤになるし、一度落ちこんでしまったら、どん底からはい上がれそうになかったから。
 
 毎朝、せいいっぱい元気な声で「おはようございます」とクラスに呼びかけ、学生がまちがっても、「うん、この間違え方はとてもいいよ、上達する前提だ!」と、景気づけ、とんちんかんな解答がでても笑い飛ばして、「だいじょうぶだいじょうぶ」と、安心させていたので、学生には「いつも楽観的な先生」にみえていたのでしょう。

 能力不足の私、いろんな面で同僚や学生たちに助けてもらっていました。
 教室コンピュータ管理は、教育工学専攻のマンさんにまかせてしまったし。

 この「教育工学」のマンさんは、実にいい人で、落ち込みそうになる私に「先生は、授業がとても上手です。先生のおかげで、私たちの日本語は上達しています」と、励ましてくれました。

 私の授業は、ぜんぜん上手じゃなかったのに、マンさんに「上手です」と言われると落ち込みから回復できました。
 「教育学」の専門家で、教員養成も手がけていた人なので、「よい教師を育てる方法」を知っていたのでしょう。わたくし、育ててもらいました。

 彼らは、「基礎日本語」授業のあと、国際金融用語とか情報工学用語とか、それぞれの研究に必要な専門用語を修得し、日本での研究生活に臨める学習を積んできました。
 私は8月に日本へ帰国してしまい、修了式にはでていませんので、「みなさんが来日したら、必ず会いましょう」と、約束していました。

 教え子たちは、2007年9月の一ヶ月間、それぞれの故郷で留学準備をして、2007年10月に来日。
 現在は、日本各地の大学で博士号を目指す大学院研究生です。

 ほとんどの学生が1月か2月に博士課程進学試験をひかえ、留学したばかりといっても、のんびり日本の生活に慣れるヒマもなく勉学に励んでいます。

 日本の生活を楽しむ間も惜しんで勉強してきた彼らですが、忘年会シーズン、クラス会をして鋭気を養おうということになりました。

<つづく>
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2008年01月05日


ぽかぽか春庭「餃子パーティ」
2008/01/05
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(3)餃子パーティ
 
 中国の人たちは、みんなで集まってごはんを食べるのが大好きです。

 12月15日、11時前に、国際交流会館のキッチンに集合。餃子パーティの開始。
 スーパーへ食材の買い出しに行く者、近くの「ダイソー」に行って、紙コップ、麺棒、「おろし金」など調理器具を買いに行く者、手分けして、料理スタート。

 教え子たちが住む国際交流会館は、国費留学生のための寮で、世田谷区にあります。
 世界各国から集まった留学生が、ここからそれぞれの大学に通学しています。

 最初の1、2年間は、この「国費留学生用の寮」に、そのあと民間アパートに、という住生活プランの学生が多い。
 地方の大学ではずっと大学留学生寮に住めるのですが、東京は留学生数も多く、留学生寮に入居できる期間が制限されているので、いろいろたいへんです。

 私が教えたクラスの学生、東大理系2人文系1人一橋大1人が、この寮に住んでいます。ほかの東京組、、早大2人と東大文系ひとりは、駒場東大前の留学生会館に入居しました。
 昨年7月に出産し、赤ちゃんをおばあちゃんに託して留学してきた「国際金融」研究のママさん学生も元気な顔を見せています。彼女は大学キャンパス内の留学生寮に入居できました。

 そのほか、横浜からふたり、京都からひとり、名古屋からひとり、遠路はるばる駆けつけてきました。
 名古屋から来たチョウさんが言いました。
 「先生は私に、日本では、ぜひ青春18切符をつかって旅行しなさいと教えてもらいました。だから、私は、昨日の夜、青春18切符で電車に乗りました。今朝、東京駅に着きました」

 うん、私が雑談で言ったことをしっかり覚えていて、青春18切符を使いこなしているんだね。私が教えたことが役にたってうれしいよ。

 でも、私が授業中あれほど口をすっぱくして教えたつもりの「やりもらい」の使い方、「先生は私に教えてもらいました」じゃなくて、「先生は私に教えてくださいました」って教えたのに、、、
 ん、まあいいよ、いいよ、間違えても、気持ちが伝わりました。みんなと会えてうれしい気持ち。 

 にぎやかに会話しながら、餃子や中国料理ができあがっていきます。それぞれの大学事情や寮のようす、この2ヶ月半の日本での体験、みな、話がいっぱいあります。

 中国では餃子の皮を手作りするのは、日本で自宅の炊飯器で米を炊くのと同じ感覚。餃子の皮を買うのは、「パック入りレトルトごはん」を買うのと同じで、手抜き料理の感じになる。
 男性も器用に餃子の粉をこね、皮を丸く仕上げることができます。

<つづく>
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2008年01月06日


ぽかぽか春庭「思い出のアルバム」
2008/01/06
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(4)思い出のアルバム
 
 中国の男性は、もともと料理が得意な人が多いですが「日本に来て、ひとり暮らしですから、料理がじょうずになりました」と、皆言っています。
 生活費をおさえるために、皆、朝晩料理を作り、大学へもお弁当を持っていって、研究室の電子レンジでチンして食べているのだって。

 ほとんどの学生が結婚していて、「博士課程に進学して落ち着いたら、妻子を日本に呼び寄せたい」と、希望しているので、そのために出費は極力おさえて、家族を呼びよせる準備に貯金しているのです。

 みな、おなか空いてきたので、ぜんぶが仕上がらないうち「味見」と言いながら、ひとくちずつ頬張っています。
 私も、「海老とニラと卵の餃子」「豚肉と白菜と葱の餃子」「牛肉と椎茸と葱の餃子」など、ゆであがるたびにつまみながら、肉餡を皮につつむお手伝いをしました。

 私が包むと、肉餡をいれすぎてはみ出てしまい、失敗多数。失敗したものはふたつあわせてUFO型に作りなおせばOK。いつでも「失敗は次のステップのためにある!」と、クラスで言っていたことの料理実践編です。

 料理がひととおりできあがり、みなが席につきました。
 リンさんの挨拶から「餃子食べ放題」パーティ本番です。

 クラス代表だったリンさんは、英語のほうが日本語より流暢なので、いつも会話は英語と日本語のチャンポンで「クラス代表」として働いてくれました。専門は「国際関係」です。
 ふるさとに奥さんと生まれたばかりのお子さんを残してきています。

 乾杯音頭をとろうとして、リンさんが口を開こうとすると、すかさず、悪友たちは「レディス、アンド、ジェントルメン」と、冗談を言ってからかいました。英語で話し始めようとして、口ごもってから日本語を話すリンさんのくせを、皆は笑いながらもクラス代表として信頼してきました。

 料理を作っている間は、中国語のおしゃべりが飛び交っていましたが、食べながらひとりずつの挨拶は、日本語で上手にできました。
 うん、みんな日本語じょうずですよ。いろいろ間違いはあっても、ヘーキヘーキだいじょうぶ。

 修了式で私に渡したかったという「クラス卒業記念アルバム」の贈呈式がありました。
 「日本の南画、中国との影響関係」というテーマで美術史研究するシンさんが代表になって、上手に編集されているアルバムを渡してくれました。
 アルバムをひらくと、なかには、なつかしい顔がいっぱい。
 
 餃子忘年会に出席できなかった人たちの顔を思い浮かべました。学生同士はメール連絡取り合っているので、みなが元気良く留学生活をおくっているようすを確認できました。

 食べながらのひとりひとりの日本語挨拶。
 東大でメディア研究をする予定の上海出身のカツさんは、
「理系の人は、特に問題はなく博士課程に進学でき、研究生からほぼ自動的に博士課程の院生になれます。でも、文系の学生は、厳しく論文や日本語力を審査されるのでたいへんです。去年、東大情報学環博士課程に入学希望した中国人受験生13人のうち、進学できたのは一人だけだったそうです」
と、心配そう。

 だいじょうぶ、カツさんは、高校時代にも日本に留学したことがあり、とてもこなれた日本語を話せますし、研究もしっかりしているので、きっと博士課程の院生になれるでしょう。

 日本留学経験のあるカツさんや大学で日本語を学んでいたフーさんは、初級前半の授業は免除されていて、半年だけの2班クラスメートだったのですが、クラスによくとけ込んでいました。

<つづく>
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2008年01月07日


ぽかぽか春庭「いかがお過ごしますか」メール
2008/01/07
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(5)「いかがお過ごしますか」メール

 名古屋から来た青春18切符のチョウさんは、中国でも女性にモテモテでしたが、名古屋でも
「女の留学生が、毎日かわるがわる私の部屋に来て料理を作ります。毎日違う女性なので、どの人が奥さんですか、と、友達が質問します。だれも私の妻ではありません。私の妻は、今、韓国に留学しています」
と、笑わせていました。

 留学直前に「駆け込み結婚」した、チョウさんとカツさん、短い新婚生活のあと、すぐ留学してしまって、さぞかし奥さんが恋しいことでしょう。

 チョウさんは、名古屋と岐阜の学生連名のサインがある「年末年始ごあいさつカード」を渡してくれました。

 学生たちにとって、2007年はほんとうに「忙しかったけれど充実した1年」だったと思います。
 2008年は、いよいよ博士課程進学。みな、充実した研究生活がおくれるよう、祈っています。

 クラス会に来ることができなかった遠方の学生からはメールが届きました。
 仙台に留学し、ナノテクノロジーを研究する予定のリエンさんからの年末ご挨拶メールをご紹介しましょう。

 原文のままですので、日本語表現間違えているところもありますが、今は日本語の復習より、押し迫った「博士課程入試」のことで頭がいっぱいなのでしょうから、私としては添削するより、ただただ「入試がんばって」と、応援するばかりです。

(リエンさんのメール)
 先生、お久しぶりですね。いかがお過ごしますか。
先生とクラスメート一緒に日本語を勉強しているうちに、美しい思い出になってきて、ほんとうにありがとうございます。遠いから、クラスのパーティーが参加できなくて、すごくおしいです。

 仙台に着いてからもう三ヶ月間ですね。生活もだんだん慣れました。来年(2008)の二月末入学試験がありますから、今は数学と力学を勉強しています。休みがあるのに、遊ぶことはまだダメだと思います。

 お正月までいくつの日か、前にお祝いを送りたいです。
Happy New Year and Best Wishes.
リエン

 リエンさん、メールありがとう。
 ものすごい努力家で、日本語の勉強も熱心だったリエンさん、「いかがお過ごしますか」は、私の「日本語ゆかいな誤用リスト」に登録です!

 大学院入試、理系の人たちは、ほとんどがストレートで博士課程進学にできるから心配ないそうですが、がんばりやのリエンさん、きっと睡眠時間を減らして勉強しているだろうと想像しています。体に気をつけてね。未来はあなたの前に輝いています。

<つづく>
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2008年01月08日


ぽかぽか春庭「リグン先生」
2008/01/08
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(6)ハカセ2班担任リグン先生

 年末の「クラス会その1忘年餃子パーティ」につづき、新年は、1月5日、博士2班の新年クラス会をしました。

 2007年12月15日に、国際交流会館での年末餃子パーティクラス会にお招きいただいた返礼、というほどのものじゃありませんが、クラスの新年会がわりに、「日本の庶民の家を見る会」に、博士2班の留学生をお招きしたのです。

 「庶民の家」というのは、私の住んでいる団地2DKじゃありません。こちらは「日本のワーキングプアの家」で、とても人様に見せられません。

 第一、ヒトサマが来ても、部屋の中に入って立っている場所がない。足の踏み場がないので、床に散らばった本だの靴下だのの間に、片足ずつ交代で立たなければならず、それではあまりにも疲れるでしょうから、我がすみかへのお招きは、ちと無理なこと。

 かわりに、姑の住まい、緑が丘の「庶民の家」へのお招きです。
 年末、姑に連絡して「ご年始にうかがうとき、中国でお世話になった方といっしょにうかがってもいいでしょうか。みな、中国の大学で先生をしていた方々です」と、たのんでおきました。
 姑は「大学のセンセにお世話になった」と聞いて、即OK。

 「お世話になった大学の先生たち」のうち、「同僚」は、リグン先生ただひとり。あとは「教え子」ですが、クラス班長のリンさんにも、コンピュータ係をしてもらったマンさんにも、いろいろお世話になりました。

 中国での同僚、リグン先生は、私とペアをくんで博士2班を担任していました。若いけれど大変有能なママさん先生です。

 勤務先の大学から派遣され、2007年10月から1年間、私の母校で「中日漢字教育比較」というテーマで研究します。
 中学1年生の息子さんの世話は、高校副校長のご主人と、隣の市に住むお姉さんに頼み、単身での日本研修。

 2007年の中国滞在中に市内高層マンションにあるリグン先生のお宅に招いていただき、息子さんにも会いました。

 リグン先生と、子育てや仕事との両立についてなどいろいろ話をしました。
 リグン先生と私の共通の悩みは、「うちのムスコ、ゲームに夢中でちっとも勉強しない」です。
 リグン先生の息子さんがゲームに夢中なのは、まあ中学生としてそういう年頃かな、と思うけれど、うちの与太郎、大学生になってもゲーム漬けの毎日です。

 中学生になって最初の1年間、母親がいない状態になることについて、心配もあったことでしょう。
 わたしが最初に中国単身赴任をしたとき、息子は4歳、娘は9歳だったこともたびたび話しました。

 「大丈夫、母がいなくも子は育つ。しばらく離れていることで、一人っ子の息子さん、きっとたくましく育ちますよ」と。

 2月の春節休暇には、中国へ一時帰国をするそうです。それまで半年間、息子さんに会えない不安も、私の「大丈夫大丈夫」で、気楽になれたかも。

<つづく>
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2008年01月09日


ぽかぽか春庭「庶民の家」
2008/01/09
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(7)日本庶民の家

 リグン先生にとっても、博士2班の留学生にとっても、「2班の先生と学生がいっしょに日本へやってきた」という状態。お互いに頼りになります。
 日本語でこまったとき、学生たちはすぐに中国語でリグン先生に相談できます。すると適切な日本語表現などを教えてもらえます。

 私も「日本で日本語がわからないとき、頼りにしてね」と、学生たちには言ってありましたが、実際にはリグン先生がいらっしゃる間は、私の出番はありません。中国語ができない私より、中国語日本語両方できるリグン先生のほうが、頼りになります。

 リグン先生が日本語教育について発表するときは、私がリグン先生のアドバイザーになります。

 日本語ではあまりお役にたたない私なので、そのかわりに「日本の庶民の家を見学しようクラス会」にお招きすることにしたのです。

 留学生たちには、年末に言っておきました。
 「これから指導教官の家を訪問する機会があると思いますが、そういう「上層ピープルの家」ではない、ごく普通の庶民の家というのが、どんな感じか、見ておくことも日本留学のひとつの経験になるでしょう。
 私の姑の家、とても狭い家ですけれど、まあ、日本人はこんなウサギ小屋に住んでいるのだと知るのも勉強のうちと思うので、ぜひ、おいでください」

 リグン先生も「教科書に、日本間の説明が書いてありましたが、実際の押入を見たことがなかったので、日本人が布団をどのように畳んでしまうものなのか、よくわからないまま学生に説明していました。そういう細かいところをぜひ見せていただきたいです。知りあいの家に招かれても、まさか押入を開けたりできませんから」と言います。

 今、姑は、家をヒトサマに見せたくてたまらない時期なので、ちょうどいい。
 築37年の古家を、姑ひとりの差配で改築したばかりなのです。

 1月5日は、「日本人の生活はどんなものか覗いてみるのが主目的で、食べるのはメインじゃないから、食べ物は各自持ち寄りです。みな、自分の食べたいものは自腹で買って、それをおみやげにしてね」と、言っておきました。
 姑には、「すぐ食べられるものをスーパーで買っていくので、お茶と漬け物でも用意しておいて」と、頼んでおきました。

<つづく>
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2008年01月10日


ぽかぽか春庭「持ち寄り新年会」
2008/01/10
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(8)持ち寄り新年会

 家にお招きしておきながら、「食べ物は各自でもってこい」とは、なんていう招待なんだというところですが、「今回は食文化ではなく、住文化の見学です。よその日本人のお宅に招かれても、押入の中まで全部見る機会は少ないです。今回は、押入のなかだろうと床下だろうと、全部みせます。

 今までビデオなどでみたことのある日本人の住まいの、見えなかった部分の実際を知ってください。わからないところを質問してください」と話しておきました。

 冬休みに関西へ旅行していたり、ゼミの旅行がある学生もいるので、集まれたのは、班長リンさん、マンさん、カツさん、チョウエンさん、ママさん留学生フーさんです。
 私とペアを組んで2班の担任をして日本語を教えてきたリグン先生をいれて6人が集まりました。

 駅前で待ち合わせをして、スーパーで、日本のスーパーで売っているものでこれまで食べて「これなら食べられる」と、思ったものを各自買い出し。海苔巻きとかいなり寿司とか、みかんとか、適当にカートに放り込みます。

 姑は、まだかまだかと待ちくたびれたのか、曲がり角のところまで、迎えに出ていました。

 玄関で靴を脱ぎ、部屋側にむけて靴をそろえるところから「日本の住文化の学習」をはじめました。
 部屋のなかの仏壇や舅の位牌なども紹介し、庶民レベルの仏教文化についても話しました。

 「日本の庶民の普段の食事を紹介する」ということで、姑が用意していてくれたのは、おでん、豆腐とわかめのみそ汁、つけものと、お節料理の残りの昆布巻き、黒豆など。
 各自が買ってきた焼き鳥、揚げ物などをテーブルにならべて、食べながら、おしゃべり。

 そのあとは、台所の床下収納から、階段下収納、和室洋室、トイレおふろから押入まで全部公開しました。
 「質問に答えますコーナー」では、「ウォシュレットトイレを単独で買うならいくらくらいするか」とか、「改築にはどれくら費用がかかったか」など、「日本の経済、物価の高さ」に関心が集中しました。

 日本では、食品物価が中国に比べて10倍くらい高い、ということは、3ヶ月間の日本生活で実感しているのですが、それ以外の住環境の値段は、買い物をしていないので、まだ実感していません。トイレを借りることはあっても、買うことはありませんから。
 何を見ても、「これと同じ物を買うとしたらいくらか」というのは、一番大きな関心事です。

<つづく>

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2008年01月11日


ぽかぽか春庭「日本のおばあさんとハカセの卵たち」
2008/01/11
春庭のニッポニアニッポン語教師日誌>クラス会(9)日本のおばあさんとハカセの卵たち

 姑は、今習っている詩吟の、李白の詩などを紹介しました。留学生たちは、中国語で唐詩を朗読し、中国読みでは、脚韻を踏んでいることなどを、姑に説明していました。
 「にほんのおばあちゃん」は、留学生たちに故郷のおばあちゃんのように思えたようで、仲良くなっていました。

 2階の窓際に出してあるミシン。
 姑は改築にあたって、古い家具のほとんどを処分しました。留学生のためのリサイクルバザーなどにも出品したのだそう。
 でも、新婚時代の思い出の品である足踏み式ミシンと、小中学校で音楽教師をしていた実姉が使っていた足踏み式オルガンのふたつだけはどうしても捨てらなかった。

 古いけれど、ミシンはまだ現役で、雑巾縫いなどに活躍しています。
 マンさんは、「ああ、私の故郷でも、母がこれと同じ形のミシンを踏んでいました」と、なつかしそうに言っていました。

 「また遊びに来てくださいね」「今日は、楽しかったです」というご挨拶をかわして、お開きになりました。
 「日本庶民の家見学会」は、まずは大成功でした。

 リグン先生から「ごちそうさまでした」メールをいただきました。

「 とても楽しい一日でした。
 日本人の家庭を見物させていただき、肌で日本文化を感じました。
 それに、おばあさんも優しくて、とても感じのいいお人でした。
 今日のために、いろいろ準備していただいて、誠にありがとうございました。

 おばあさんは本当に可愛いです。
 もう80歳ですが、話も頭もはきはきしていて、ぜんぜん80歳には見えません。
 それに、おばあさん一人にいろいろ日本料理をご馳走していただいて、お礼を伝えてくださいね。 」

 姑のおかげで、「日本の生活文化を知る会」は「日本のおばあさん触れあう会」にもなって、留学生たちにもよい一日を過ごしてもらえました。
 
<おわり>

日本語教師養成1-7

2011-01-07 08:15:00 | 日記
2006/09/20 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語教師養成(1)模擬授業

 私の「日本語教育研究」の授業では、日本語学を復習しつつ、さまざまな第二言語教授法も学び、日本語教授法を考えていけるよう指導しています。

 学生たちが、一人前とはいかなくても、半人前くらいの日本語教師として通用するように、1年間ふたつの学期で授業を続けます。
 半人前めざして、四分の一人前くらいでおわるのが関の山なんですが。

 半年コースの最後の2回は、一人10分程度の模擬授業を実施します。
 50分授業の指導案を書き、指導案に基づいて10分間、教師として授業をやってみます。

 今日20日は、日本語教育研究のクラスの模擬授業発表後半をおこないます。先週の水曜日にクラスの半分が発表を終えています。

 クラスを4つの班に分けてあります。発表班のひとりが日本語教師の役を演じます。
 モデル授業案をもとに、自分が割り当てられた文型の教え方、ドリルの仕方を「50分授業の教案」としてまとめ提出します。

 そのなかの10分間分を「授業シナリオ」にします。映画のシナリオのように、場面、時を設定します。どれくらいの人数のクラスなのか、生徒の国籍、レベル、これまでにどのくらいの時間日本語授業を受けてきた学生なのかを自分たちで設定して、教室の準備をします。コースデザインをするのです。

 この設定によって、教師役のセリフ、生徒が答えるであろうことばを予想し、教室でやりとりされるすべてのセリフを書き込みます。
 現実の教室では「アドリブ続出」となり、シナリオどおりに授業が進むことなどないのですが、はじめて教師役を体験する学生には、まずは、シナリオ執筆と、シナリオにそった授業展開を体験してみることが必要です。

 授業を行う先生は、「シナリオライターであり、演出家であり、俳優であり、生徒という出演者の演技指導係であり、プロデューサーでもあり、いわば、教室という劇場のすべてをとりしきる、統括者なのだ」と、学生に話しています。

 教室の主人公は日本語学習者ですから、脇役の教師は、主役の日本語学習者のよい表情、よいセリフをひきださなければなりません。

 発表班の学生は、ひとりが先生役を演じ、他の学生は生徒役になります。同じ班なので、お助けの「よくできる生徒役」を演じます。
 他の班の学生は、何人かが「まったく日本語ができなくて、理解もおそいし、リピートのおうむがえし練習も口がまわらない役」を演じます。

 残りの学生は、コメンテーター役。です。模擬授業をじっと観察して、よい点と改善点をみつけ、コメント表にかきこみます。この書き込みも「第3レポート」として、成績評価の対象になりますから、学生たち、コメントもいっしょうけんめい書き込みます。

<つづく>
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2006年12月21日


ぽかぽか春庭「日本語教師の役を演じる」
2006/09/21 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語教師養成(2)日本語教師の役を演じる

 日本語教師養成コースの「教育実習」では、ほんとうの日本語教室へ出向き、さまざまな外国人に教えるところもありますが、私の模擬授業では、教える相手は留学生ではなく、学習者の役を与えられた日本人学生なので、実際の日本語授業とは異なります。

 しかし、学生達はかなり緊張しながら、それぞれ苦心して授業案を書き上げ、皆の前で「日本語の先生役」を演じます。
 
 10人前後の「学習者役」になった学生へは、「あなたたちは、はじめて日本語を習う学習者の役なんですから、中学一年生のときはじめて英語をならったときのことを思い出してね」といってあります。

 しかし、みんな自分が不出来な中学生だったことを忘れて(いや、彼らはきっと優秀な生徒だったのかもしれないが)、スラスラと先生のあとについてリピート練習をしたり、初級なのに難しい漢字が読めたり、どうも優秀すぎます。

 学習者役の日本人学生たち、日本語を母語としているのだから、日本語ができるのは、当然なんだけれど、実際の日本語をはじめて習う学習者に教えるときは、そんなスラスラと授業は進まないのが現実です。

 私ひとりが「不出来な学習者」の役を引き受け、先生がいっしょうけんめい教えても、発音を間違えたり、先生のことばが理解できなかったりのふりをします。
 初級の学習者に新しい文型(新出文法事項)を教えるのに、日本語で説明してはいけないと、何度言っても、日本語で説明をしてしまうのです。

 「ここにいます。そこにあります」という「こそあど」表現と、「ある、いる」の文型を教える授業。
 「私の周りは、ここ、といいます」と、日本語先生役の学生が授業をはじめました。
 出来の悪い生徒役がたずねます。
 「先生、マワリ、なんですか?トイイます、なんですか?トイイます、わかりません」

 「ここにあります」という基本の文型を習う初級者には、日本語で「周り」という言葉を聞いても理解出来ない。「と、いいます」などの引用の言い方を習うのも、初級の後半になるので、「トイイマス」がわかりません。
 多くの先生役のミスは、日本語だけで日本語を教える際、学習者がまだ習っていない日本語をつかってしまうことです。

 「では、わたしが言ったとおりのまねしてください」なんて、学習者に呼びかけても、「わたし」はわかるけれど、「では」も「言ったとおりに」も「まね」も、まだ習っていないことばですから、わからないのです。
 「先生のいうのをくりかえす練習をする、リピート練習をする」ということを、学習者にわからせるところから授業がはじまります。
 
<つづく>
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2006年12月22日


ぽかぽか春庭「直接法」
2006/12/15 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語教師養成(3)直接法

 クラスの全員が英語を知っていれば、「リピート アフター ミィ」と言ってしまえば簡単。クラス皆がわかる言葉を補助的につかって教えられます。クラス全員が韓国人なら、韓国語を使っておしえてよい。
 この教え方を「媒介語を用いる教授法」と言います。

 日本国内の日本語教室のように、様々な国から集まった学習者がいるクラスで、クラス全員が共通して理解している言語がないばあい、日本語だけで日本語を教える方法をとらなければなりません。この方法を「直接法」といいます。

 なかには、「そうそう、うちの中学校に英語のアシスタント・ティーチャーが英会話のクラスを受け持っていて、英語だけで教えてくれたなあ」と、思い出す学生もいるけれど、その学生も、英会話を英語だけで教わったのであって、文法を教わるときには日本人の先生が、「エー、三単現のSというのはだねえ」とか「不定詞のtoには、三つの用法があって」など、日本語で説明を受けてきています。

 日本の中学校で、日本人の先生が日本語をつかって説明し英語を教えている方法が、この「媒介語を使う語学授業」です。
 日本人が英語をはじめて習うとき、ほとんどの中学校では、日本人教師が日本語を使って英語を教えます。このやり方でのみ英語を教わってきた日本人学生には、「日本語だけで日本語を教える」というやり方が、なかなか理解できません。

 クラス全員が同じことばを理解していれば、媒介語をつかってもOK。
 しかし、クラスのなかに、英語も韓国語も中国語もわからないロシア人とモンゴル人がいたら、どうします?
 ロシア語とモンゴル語の本を探し出して「私のあとにつづけて言ってください」という教室指示用語だけでも丸暗記しようか。ま、それでもいいでしょう。
 じゃ、ボスニアヘルツェゴビナ人とコスタリカ人がいたらどうします?

 えっと、コスタリカはスペイン語だから、なんとかなるかもしれないとして、えっ、ボスニアヘルツェゴビナって、いったい何語を話している国なんだ?
 イランと、ベトナムとハンガリーとベルギーとクエートとモロッコだったら、、、、ってことになって、すべての言語をカバーするとなったら、、、、不可能ではないけれど、たいへんです。

 教室指示用語だけなら、教室にいる学生の国の数だけ準備することも、たいへんではあっても不可能ではありません。
 しかし、、日本語を初めて習う人に、新出項目を理解させるために、すべての文法説明を、すべての言語で行うことなど、少なくとも私には不可能です。

 「私は、英語得意だから、英語を媒介語として使うなら日本語教師できるだろう」っていう人、英語で日本語の「受け身形」を教えてみてください。
 「猫が鼠を食う」を「鼠が猫に食われる」という受身形にするのは、説明できるかも。
 では、次に、「雨にふられる」は?

 「雨がふる」という英語自動詞文は、受動態に翻訳できません。
 英語では、受身形にできるのは目的格が存在する他動詞文だけ。自動詞は受身形にできません。

 英語で文法解説(文型の構造)を理解させていく方法もありますが、英語にたよると、英語式の発想から抜け出さず、なんでも英語に翻訳して理解してしまう学生も出てきて、「雨にふられる」のような、英語にない表現が出てきたとき、理解できなくなることも起こります。

 「赤ん坊が泣いた」を「赤ん坊に泣かれた」という受身形にできる言語の人にはすぐ理解できることですが、「翻訳式」に他の言語を覚えようとすると、自分の母語にない概念を理解することがむずかしくなります。
 さあ、どうしましょうか?

 日本語のことばのルールを日本語だけでわからせていく方法がさまざまに工夫されています。

<つづく>
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2006年12月23日


ぽかぽか春庭「ダイレクトメソッド」
2006/12/23 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語教師養成(4)ダイレクトメソッド

 この教授法「直接法」、日本語を日本語だけで教えるダイレクトメソッド、各段階の文法項目、「文型」を教えるテクニックが工夫されてきました。
 教師達は工夫を重ねて、日本語だけで日本語を教える教授法を開発してきました。

 日本語教授法には、いろいろなやり方があるけれど、学生達に身につけてほしいのは、まず、この「直接法」です。が、なかなか理解してもらえません。

 日本語教師として仕事につく場合、まずキャリアのスタートは、日本国内の日本語学校で教える、という場合が多い。
 多国籍の学生がクラスにいたら、ほとんどが直接法の授業となるので、この教授法の習得が大切になります。

 外国で教えるなら、媒介語が使えます。
 たとえばブラジル・サンパウロにある日系子弟のための日本語学校で教えるなら、ポルトガル語を習得した日本人が教えるか、日本語を習得したブラジル人が教えることが多い。
 韓国で教えるなら、韓国語を習得した日本人か、日本語を習得した韓国人その他の国の人が教えるほうが、効率がいいでしょう。

 日本国内の日本語学校には、在籍者が中国人のみ、という学校、韓国人のみと言う学校もありますが、いくつかの国の人が混じったクラスになったとき、ひとつの言葉を媒介語にすることはできません。

 中国人が多数のクラスにひとりでもタイ人がまざっていたら、中国語で説明したら、タイの人は置いてけぼりになってしまいます。韓国人が多いクラスにひとりインドネシア人がまじっていたら、韓国語で教えることはできません。
 全員に等しく理解させるために、直接法と言う教授法が重要になるのです。

 外国語教授法として、文法訳読法やら、オーディオリンガル法、VT法TPR法など、さまざまな教授法を教えます。
 「直接法」を、ことばでは理解できても、実際の模擬授業になると、直接法で教えますと言いながら、日本語を初めて習うはずの学習者に対して、日本語で説明をはじめてしまう学生も多いのです。

 模擬授業をするのも、適当な準備で適当な授業をやって終わろうとする者もいるし、本格的に教材を準備し、しっかりと教材研究をして模擬授業を行う学生もいます。
 最初は「緊張する。やりたくない」と、しぶっていた学生も、10分間の発表をおえ、他学生からのコメントをもらうと、「やってよかった」と、晴々した表情になります。

 真剣に取り組んだ発表なら、教え方が下手でも、うまく授業が進行しなくても、それなりの達成感が残るのです。

 教育実習の模擬授業や研究授業ではなく、あくまでも日本語教育研究の一環としての模擬授業ですから、明日からすぐにでも日本語教師ができるほど完成されている授業でなくてもかまいません。
 なかには、「できの悪い生徒役」の私がおかしな答えを繰り返すので、わらいころげてしまう教師役もいます。

 でも、とにかく、日本語の授業はこんな感じ、というイメージをつかみ、「日本語をおしえるのって、思ったより難しいことだったんだな、でも、教えてみるのはたのしいなあ」と、思ってもらうことが私の目的です。
 だから、私からは「ここがわるかった、この点もまずかった」という論評はあまりしないようにしています。

 「日本語を教えることは、むずかしいけれど、楽しい」ってことがわかってもらえれば、私の授業目的のひとつは達成できます。
 日本語教師養成コースには、日本語の音声、文法、語彙、日本の歴史や文化、学ぶべきことはたくさんあります。
でも、知識を得ることはむろんのこととして、まずは、「ことばを通じて人と関わることは楽しい」という気持ちを味わってほしいと思っています。
 
<つづく>
12:07 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2006年12月24日


ぽかぽか春庭「模擬授業コメント」
2006/12/24 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本語教師養成(5)模擬授業コメント

 模擬授業のコメンテーターは、授業を観察し、感想をコメント表に書き込みます。
 自分で先生役をする以上に、他の学生が先生を演じているのを観察することが、多くの「気づき」をもたらします。

 先生役をしているときは、夢中でシナリオの内容をこなそうとして気づかなかったことを、観察者の学生は冷静に見つめています。
 コメンテーターには、よかった点をひとつ以上、改善点をひとつ以上書くことを義務づけている。

 「ちょっと声が小さく、自信がなさそうでした。先生が不安に感じていると、生徒も不安になってしまうので、もっと大きな声を自信をもってだしたほうがいいと思います」

 「スムーズに予定の授業はおわったところは、良かったと思います。しかし、順調に予定をこなすことにいっしょうけんめいだったせいか、顔がこわかったです。生徒にはもっと笑顔をむけたほうが、教室の雰囲気がなごやかになりますよ」

 「自分で作った絵カード、文字カードを準備したことは、とてもよかったです。でも、カードをつかうことでせいいっぱいになってしまい、あまり生徒を見ていなかったように感じました」

 など、かなり手厳しくも的確なコメントを書いてくれます。
 先生役、生徒役、コメンテーター役の3つをこなすと、だいぶ日本語授業のイメージがわかってきます。

 教育実習の他クラスでのことですが、模擬授業を終えた女子学生が、指導教師からこてんぱんな批評を受けて泣き出してしまうこともあった、という話をを耳にしました。熱心なあまりの厳しさとは思いますが、私はそうしたくない。
 学生ははじめての先生役体験で、緊張しています。不出来ではあってもいっしょうけんめいやった学生には、できるだけよい点をみつけて、ほめてあげたい。

 私の方針では「楽しく続けていきたいという気持ちを醸し出すことが第一。よい点をほめれば、続けているうちに悪い点は必ず自分できづき、直せる」
 悪い点をあれもこれもと指摘すると、指摘された悪い点にはその場で気づき、対症療法でその部分は改良できるかもしれません。が、たぶん、楽しく日本語授業を続けていこうという気分は損なわれてしまうでしょう。

 これは、日本語学習者を相手にしたときも同じ。
 日本語の発音がまずい学生がいたとき、悪い発音を直そうとして、きつく訂正させてもあまり効果がありません。少しでもうまくできたときをとらえて、「うん、いまの言い方、よかった」とほめると、だんだんよくなっていくものです。

 日本語の授業も、日本語教師養成の授業も、たぶん、ほかのすべての教育も同じ。わたしの信念。「ほめて育てる」「悪い点をしかるだけでは育たない」

 「教」という字の旁(つくり)の「攵(のぶん)」は、鞭を象形化した文字です。老人が子をムチでたたきながら教えるのが「教」
 漢語の「教育」を和語でいうと、「教え、育てる」です。大人が持っている知識を子供に詰め込むイメージが「教える」にあります。それも、教育のもつ機能のひとつだといえるでしょう。

 もうひとつ、教育に関する語の語源を。
 英語の「education」
 語源はラテン語で 、e(out外へ)+doctus(引き出す) = 子供の資質を引き出す行為
なのだそうです。
 子供・生徒は、本来さまざまなよい資質を持っています。その鉱脈を探り出して、引き出してやることが教師の役目。

 学生たちが心の中にもっている鉱脈を今年、どれだけ探り出し掘り出すことができたかしら、と、自問自答しながら、1年を振り返る年末です。

<おわり>