にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「まんじゅうこわい・落語でおいしい日本語食堂その4」

2008-08-31 12:23:00 | 日記
落語でおいしい日本語食堂
【10】まんじゅうこわい

(10-1)十人十色

 十人よれば、気は十色と、申します。
 顔がひとりひとり違うように、ご気性もそれぞれ。お好みもそれぞれでございます。

 家の中で人形と遊ぶのが好きな人、森へ行ってクマさんと遊ぶのが好きな人、遊びようもそれぞれ。違うところもあれば、似ているところもございます。
 まんじゅうが好きという方もいれば、甘いものを見ただけで胸焼けがして来るという方もいらっしゃいます。

 人が苦手というものも、それぞれ。
 私は、数字と計算、片づけ掃除が大の苦手。家の中は散らかり放題、足の踏み場もなく、どこに何があるのか、さっぱり分からないので、ある本が必要なときも、あるはずの家の中で見つけだすことができず、図書館で借りてきたりします。

 計算苦手で、数字に弱い。もう、お札に書いてある数字なんて、大っきらい。私を困らせようと思うなら、私の上にお札なんかをばらまかれたひには、もう、ふるえがきて、心身大弱り。

 私をいじめたいと思っている人がいたら、私の目の前に札束なんか積み上げてみたらいいんじゃないかと存じます。ああ、お金がこわい。

 「まんじゅうこわい」は、前座噺といわれていますが、この噺が前座がやれるのは、噺の台本がそれだけうまくできていて、だれがやっても、お年寄りから子どもまで、大笑いできるからでしょう。

 説明ぬきに、人にはそれぞれ、他の人がどんなに「なんであんなものが好きなのか」といぶかっても、どうしてもこれが好きでたまらないというものもあれば、大嫌い、大の苦手で、みるのもいや、というものがあることを、ひとりひとり実感しているからにちがいありません。

 それぞれ、何がこわいかということを披露しあった席で、いつも威張りくさっている熊公が「まんじゅうがこわい」と、うちあけました。へぇ~、意外なことを。

 日頃いばりくさって、えらそうな熊公をひとつ懲らしめてやろうじゃないかという相談がまとまります。
 皆でお金を出し合ってまんじゅうを山盛りに買い込み、熊公の前に置いておくと、熊さんは、「こわいこわい、目の前にあるとこわいから、全部腹のなかにいれて、見えなくしよう」と言いながら全部たいらげてしまいます。

 だまされたと気づいた面々が「ほんとうにこわいもんはなんだ」と、たずねると、熊さん、饅頭でいっぱいになった腹をなでながら、「ここらで、渋~い、お茶がこわい」
 おなじみ「まんじゅうこわい」の一席です。

(10-2)モニのくまさん

 人それぞれ、苦手なものがあるのは、ことばの発音も同じこと。「どうして、RとLが同じに聞こえるんだ」と、英語話者に言われても、聞き分けられないもんは、仕方ない。

 英語ではLとRは別々の発音で、lightとrightはちがうけれども、日本語では別のLとRの音は「ラ」の異音にすぎませんから、どちらもライトということを、「目黒のさんま」で一席うかがいました。
 また、私たちには違う音に聞こえる、DとRが、言語によっては、同じ音に聞こえるのだ、と言われると、なんでDとRが同じ音色に聞こえるのかと、不思議に思ってします。

 人間が作り出せる音はさまざまな音色があるけれど、言語は、それぞれに利用する音が異なります。
 苦手な発音も、母語のちがいによってさまざま。
 私の教え子には、NとRの音が苦手、という人たちがいました。中国南方の出身者たちです。

 それぞれの母語によって「苦手な発音があるよ」ということを日本語教師養成コースの大学生にわかってもらうために、私もいろいろな発音のはなしをいたします。

 ♪ある日、モニの中、クマさんにであった。花咲くモニの道、くまさんに出会った~♪

 日本語学のクラスで、突然教師が歌い出す。何事が起こったかと、学生注目。
 「はい、日本語聴き取りテストです。私はどこでクマさんに出会ったのでしょう」
 学生、ぽかん。

 「日本語の歌でしょうが。ちゃんと聞いてね。もう一回歌うよ。♪ある日、モニの中、クマさんに出ああったぁ♪ はい、君、どこでクマさんに会いましたか」
 学生「も、森の中?」
 「ええ?ほんと?日本語の歌だよ。何聞いてんの?もう一回ゆっくり歌うね。ちゃんと聞いて。♪あるぅひ、モニのなか、クマさんにでああったぁ♪」

 文字で読んでいる人には、私が学生に何を聞き取らせようとしているのか、もうおわかりでしょう。文字で書いているんですから。
 ためしに、この「モニのくまさん」の歌を、あなたの側にいる人に歌って聞かせ、どこで出会ったのか、質問してみてください。あるぅひ、モニの中、って、歌ってね。

 10人9人は、「森の中」と、答えると思います。
 でも、文字で見ていればわかるように、私がクマさんと出会ったのは、「モニの中」です。

 この「♪モニのくまさん」は、「N」と「R」が、似ている音であることを、日本語教師志望者に分かってもらうための、春庭考案の「日本語音声学特製歌授業」のひとつです。

 日本語ではRとNは別々の音で、単語の区別に利用しますから、ラマ(羊駝)とナマ(生)は別の意味のことばになりますが、ラマとナマとに違いはない、という言語もあるのです。

(10-2)専門は人形です

 日本語母語話者である学生たちの中には、「N」と「R」が似ているってことが感じ取れない人もいます。ナマとラマは、全然違うじゃないか、どうして聞き分けができないってことがあろうか、と思いこんでいます。

 そこで、最初に「モニのくまさん」を歌っておくのです。ほとんどの学生は「モニの中」と歌っても、「森の中」と、聞き取っています。似ている音なので、頭の中の思いこみで「森」と、聞いたのです。

 自分でも、「モニ」が「モリ」に聞こえることがあるとわかれば、「N」と「R」が調音点が同じ鼻音と口音の違いにすぎないということがわかります。
 口の中の同じ場所を、Nは閉鎖してから鼻へと息を出し、Rは、軽くはじいて口へと息を出します。

 日本語では「ナイター」は夜間の野球試合で、「ライター」は、タバコに火をつけるものですけれど、/n/ と/r/ の発音に、ことばの意味を区別する機能を負わせていない言語の人たちにとっては、同じ音に聞こえます。
日本語母語話者にとって、light もrightも同じライトに聞こえる、というのと一緒です。

 「ナ行」と「ラ行」の発音。日本人にとっても、聞き間違いやすい音です。
 隣の人に突然、♪あるうひ、モニのなか♪と、歌って聞かせるのが恥ずかしいという方は、タバコを手の指にはさんだのを突き出し「ナイター持ってない?」と、聞いてみてもいいですね。

 「え、クライマックスシリーズのチケットならあるけど」などと、答える人は、そうはいないと思います。
 「え、ライターなんか持ってないよ、ぼく、タバコ吸わないもん」とか「夕べのバーでもらったマッチならあるけど」と、答えると思います。

 日本語は鼻から息を出す(鼻音)「N」と、口から息を出す(口音)「R」との違いによって、ことばの意味を区別している言語です。

 中国での私のクラスで日本語を学ぶ学生たちは、中国各地から選抜された大学の若手教師たちでした。
 それぞれの研究のために日本へ留学するプロジェクトのクラスですから、各人それぞれの専門があります。

 最初の自己紹介のとき、あなたの専門は何ですか?と、尋ねました。
 一人の南方の出身者が「わたしの専門は、人形です」と答えたました。
 「にんぎょう?」

 中国の大学の先生たちの専門、「ナノテクノロジー」とか「大学経営学」とか、それぞれですが、「人形」が専門って、民俗芸能の人形を研究しているのか、それとも「リカちゃん」や「バービー」が現代文化に与えた影響を研究しているのか。

 「その研究はどんなことを調べるのですか」と聞いてみると「モニの木や木材について調べます」
 ああ、わかりました。「林業(りんぎょう)」だったのね。


(10-3)イオン(異音)の話

 中国南方地方出身の人、「n」と「r」の音が聞き分けられない人が多い。南方地方ではNとRは異音であり、ことばの意味の区別に利用していないからです。

 その学生にとっては、田舎(いなか)と甍(いらか)、同じ音に聞こえます。「ニス(塗料の)」と「リス栗鼠」も区別が難しい。

 彼にとっては、「人形(にんぎょう)」と、林業の区別はとてもむずかしく、おなじ音に聞こえるのです。
 彼の発音では、「森」は「モニ」になってしまいます。
 私は方言やナマリを生かした日本語でいい、という考え方です。
 それぞれのナマリがあっても、誤解されない限り、無理矢理の矯正は必要ない。
 栃木茨城福島の一部地方の無アクセントの日本語、『フラガール』で、蒼井優のセリフ、とてもいい響きでした。

 韓国の出身者が、「おはようございます」のかわりに、「おはようごじゃいます」と言っても、誤解を受けないから、無理に「ございます」を練習しなくても大丈夫、と思う。
 周囲の人が、この人は「ざ」のかわりに「じゃ」と発音すると言うことを理解していれば、「そこのジャルとって」といったら、ザルを取ってあげればいい、と思います。

 しかし、「専門は人形」の彼の場合、自分の専門を誤解されないために、「 r 」「 n 」の聞き分け使い分けに特訓が必要です。
 「専門の人形を調べるためにモニへいきます」と自己紹介したのでは、わかってもらえませんから。

 彼は、砂漠地方の緑化や森林育成が必要とされる中国の林業発展をめざして、日本の林業を学ぼうとしている意欲にあふれた学生です。

 日本への留学を目前に、いっしょうけんめい練習しました。
 使い分けについては、自分で意識して発音するので、できるようになるのですが、無意識に聞いているとき、聞き分けはむずかしい。

 NとRの聞き分けができない学習者がいたとき、どうして「n」と「r」が聞き分けられないんだ!と思ってはいけません。私たちだって、RとLの区別がむずかしいじゃないか、電気のライトと右のライトが同じ音に聞こえるじゃないか、ということを自覚していることが大切と、日本語教師養成コースの学生たちに言います。

 そのために、日本語教師志望者に、自分たちも「R」「L」の聞き分けができないことを最初に思い知らせておくのです。

 ダとナとラは、3つとも、舌先を上の歯と歯茎につけて発音します。
 音声学では、「調音点が同じ」といいます。


(10ー4)ライスは食べるがダイスは食べず、パンは食べるがバンは食べない

 ダは舌先を上歯茎にくっつけてから、舌と歯茎の間を破るように息を口からだします。閉鎖音または破裂音と呼びます。
 ラは舌先を上歯茎で軽くはじいて息を口から出します。はじき音と呼びます。
ナは、息を鼻に出します。鼻音と呼びます。
 ラとダは、息を口へだします。口音と呼びます。

 このように、ダとナとラは、調音点は同じですが、息の出し方が少しちがいます。
 この少しの違いを「ことばの意味のちがいを作るために利用する」言語と、利用しない言語があります。
 母語で異音であるばあい、このふたつの音の聞き分けはむずかしい。

 ダとナとラは、どれも舌を歯の上につけて発音します。音声学では、「調音点が同じ」といいます。
 ナは、息を鼻に出します。ラは口へだします。それだけの違いなので、似ています。
ラは舌先を歯の上の歯茎で軽くはじいて息を口から出します。
 ダは舌を強く歯の上で弾き、舌と歯茎の間を破るように息を口からだします。

 ダとナとラは、調音点は同じですが、息の出し方が少しちがいます。
 この少しの違いを「ことばの意味のちがいを作るために利用する」言語と、利用しない言語があります。

 日本語は、[d][t][n][r]を、「ことばの意味を区別するのに利用する」言語です。
 そして、[r][l]のちがいについては、ことばの意味を区別するのに利用していません。lightもrightも、どちらもライトと発音するので、日本語外来語としては、同音異義語になってしまいます。

 日本語では「ライス」と「ダイス」は別の単語。
 でも、ライスとダイスがまったく区別がつかないという言語を母語としている日本語学習者もいることを、日本語教師は知っておくことべきです。

 谷とダニが同じに聞こえる母語の人もいるし、「じゃる」と「ざる」が区別できない母語の人もいます。私たちがLとRの区別ができず、ライスliceとライスrice、注文するとき気にするのと同じです。
 「ダ」と「タ」は、有声音か無声音か(清音か濁音か)という違いです。

 日本語は清音が濁音に変われば、ことばの意味がかわります。パンとバンは別の意味になります。
 パンは食べます。バンは、車の型の「バン」、(同音異義語で「番」ほか)を意味します。

 しかし、有声音と無声音の違いを「異音」としている言語、たとえば中国語母語話者には、息を出さないで「パン」と言う日本語の音は、「バン」と同じ音にきこえます。「バカ」と「パカ」を間違えて発音します。

 中国語では有気音と無気音のちがいをことばに利用しているので、無声音と有声音は異音なのです。強く息を出すパンと、息を出さないパンを、ことばの意味の区別に利用します。


(10ー5)ひつもん(質問)に答えます

 自分たちがRとLができないことによって、英語母語話者の前ではコンプレックスを抱き、そのかわり有声音と無声音を区別できない中国人に対して、「おまえ、ぱか、ぱかあるよ」なんて言ってからかう、これはどちらも音声学を理解していない、まったくバカな態度です。
 
 音声のしくみが、言語によって少しずつことなるのですから、母語でない他の言語の中に発音しにくい音、聞き分けづらい音があるのは当然のこと。
 音声学を学べば、自分の言語を過剰に「日本語はすぐれている言語だ」と誇ることもなくなるし、英語が一番エライと思うこともなくなります。
 世界中のどの言語も、美しい調べと豊かな文化を内蔵したことばです。

 異音についてのお話をしてきました。
 どの音とどの音を「同じ音」としてとらえるかは、言語によってさまざまです。
 日本人にとっては、「la」「ra」が異音ということを話しました。わかりやすい例だったから。

「yearと言いたいのに相手にはearに聞こえてしまう。どう違うのでしょうか?」
投稿者:wxm68971 (2007 10/13 9:16)

 という質問に答えます。
 英語では言葉を区別する音である[yi]と[i]は、日本語では異音ですから、どちらも「い」に聞こえます。日本語母語話者には、区別がむずかしいから、year(年) ear(耳)が、どちらもイァーに聞こえるのです。

 [yi]と[i]の発音をいい分ける方法については、10月17日に掲載します。
 まずは、異音について復習。

 「質問に答えます」というとき、ある地域の人のことばでは、「すぃつもん」と発音したり、別のところでは「ひつもん」になったりすることがあります。

 ある地域では「し」と「す」が異音です。
 東北地方などで「すんぶんす新聞紙」とか「すす寿司」になる。

 また、別の地域では「し」と「ひ」が異音。この地域では「ひつもん質問」になったり、逆に「火箸」が「しばし」になったりします。「し」と「ひ」の区別をしないので。
 東京の下町方言がこれです。

 ご質問があったので、「yi」と「i」の音は、現在の日本語では異音であるが、大昔の日本語では区別をしていた、という話をします。
 この話は、春庭のことばエッセイ「いろは歌の成立」に書いたことがあるのですが、異音の話としてもう一度解説いたします。

(10-6)「ゑ」と「え」のちがい

 五十音図の最後の「ん」を読んで「ん」に三つの異音があることがわかった日本語教師養成コースの大学生たちに、つぎは、五十音図のザ行とダ行を読ませます。

 「ざじずぜぞ、だぢづでど」学生たちは何の疑問もなくスラスラと読みます。
 そこで教師から質問。「ほかの仮名文字は、ひとつの発音にひとつの文字なのに、なぜ、ジとヂ、ズとヅは、同じ発音なのに、ふたつの文字があるの?」

 学生たち、なぜ「じ」と「ぢ」が同じ発音であるのにかな文字ふたつあるのか、考えたこともなかったといいます。

 なぜふたつあるのかわからない方、四つ仮名「じぢずづ」の区別については、春庭のHPhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongoiroha0603b.htm

を、ごらんください。詳しい答えが書いてあります。

 室町時代に「じ」「ぢ」の区別、「ず」「づ」の区別がなくなっていき、江戸時代には、区別がまったくなくなってしまったのです。
 日本語の発音は、大昔から今まで、常に生まれ変わっているのです。「じ」と「ぢ」の区別は、江戸時代になくなったのですが、もっと古くも、いろんな発音の変化がありました。

 四つ仮名のちがいがわかったら、ワ行とヤ行に注目させます。ほかの行は、「あいうえお」「らりるれろ」まで、5つの段があるのに、なぜヤ行は3つしかないのか、ワ行は2つしかなくて、しかも「を」は「お」と同じ発音なのか。

 「じ」と「ぢ」が、昔は別の発音だったのに、今は同じになった、ということから類推させます。
 はい、その通り。「を」と「お」は、今は同じ発音ですが、昔は別でした。「お」は[o]で、「を」は[wo]でした。「ウォ」です。

 ワ行の発音、もともとは「wa wi wu we wo」でした。
 ア行のウは、唇を丸くしない(非円唇)で発音しますが、ワ行の「wu」は、唇を狭めて丸くしてから「wu」と発音したでしょう。
 日本語以外の言語で「う」の音は、ほとんどこちらの唇を丸めるほうのウです。

 旧仮名遣いの文字。
 昔の発音通りに文字を書くと、「わゐうゑを」です。
 これをみると、ひらがなが成立した平安初期には、すでに「wu」と「u」の発音の区別がなくなっていることがわかります。ワ行の「う」に相当するひらがながありませんから。

 時代が下ると、「ゐ」と「い」の区別もなくなり、「ゑ」と「え」の区別もなくなってしまいました。
 現代仮名遣いでは、ゐとゑの文字は使いません。「ちゑ知恵」は「ちえ」と書くことになっています。

(10-7)[yi]と [i]のちがい

 では、いよいよ「year」と「ear」のちがいについて。
 日本語の発音、ヤ行の「yi」とア行の「i」もともとは別の発音でした。今はヤ行のyiは「い」と同じになってしまいました。
 大昔の発音が残っていれば、日本語母語話者にもyearとearの発音の区別ができたのに。

 wxm68971さんがおたずねの、[yi][i]の違いについて。
 英語では[yi][i]は、ことばの意味を区別する音です。

 yearの「い」は英語発音ではヤ行(半母音)の「yi」です。
 earの「い」は、普通のア行の「i」です。

 日本語では、大昔はヤ行の「yi」とア行の[i]の間に区別が存在したと考えられますが、現代では失われており、同じ発音です。「アイウエオ」「ヤイユエヨ」

 ひらがなが成立した当時、すでにyi とiの区別はありませんでした。だから、ひらがなでは、ヤ行の「yi」の文字はありません。
 では、なぜ大昔には「yi」の発音もあっただろうとわかるのか。
 証拠があります。

 昔の手習い歌。日本語の音節、ひとつの文字を一回だけ使用してできる歌。
 初めて仮名文字を練習する手習いのとき、使います。

 「いろは歌」が一番有名です。「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」
 いろは歌については、http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongo0603a.htm
に書いたので、お読みいただきたく存じます。

 手習い歌のうち、いろは歌は、平安中期から後期の成立ですから、ヤ行の「yi」とア行の「i」の区別はありません。
 ワ行の「wi ゐ」とア行の「iい 」の発音の区別はありましたから、文字の区別があります。

 いろは歌以前、ひらがなができた平安初期ころに成立したと考えられる手習い歌があります。「あめつちの歌」です。

天 地 星 空 山 川 峰 谷 雲 霧 室 苔 人 犬 上 末 硫黄 猿 生ふ 為よ 榎の 枝を 馴れ 居て あめ つち ほし そら やま かは みね たに くも きり むろ こけ ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる おふ せよ えのえ*を なれ ゐて

 この古い発音を残している「あめつちの歌」では、ワ行のゑが残っているのはもちろんですが、「え」が、最後に「えのえ」と、2回でてくるのです。ひとつの文字を1回だけ使うのがきまりであるのになぜ「え」だけが2回でてくるのでしょう。

 これは、平安時代以前には、「え」の発音、「ゑ(ワ行wa)」と「え(ア行e)」のほかに、もうひとつ「え(ヤ行ye)」の区別があったことを意味しています。
 ふたつの「え」は、ア行の「eえ」と、ヤ行の「yeえ」だったと推測されるのです。

 こうして、ヤ行は「ya yi yu ye yo」「や yi ゆ ye よ」だったことがわかります。


(10-8)英語と日本語、にっぽんジャパン

 漢字の草書を利用した「ひらがな」が成立したころには、yeの音がかろうじて残り、[yi]
の発音はア行の[i]との区別はなくなっていました。
 平安時代以後の人たちは、ヤ行のyiもア行のiも、発音の区別をしていません。

 英語には「yi」と「i」の区別があります。year(年)とear(耳)は、日本人にとっては、[yi]と[i]は異音ですから、同じ「イァー」としか、きこえないし、発音の区別ができません。

 日本語母語話者が[ yi]を発音するなら、「jiじ」を発音するつもりで「iい」と言うといいです。
 舌の奥を上あごに近づけて発音すると「yi」の発音ができます。練習してください。

 ついでに言っておくと、[ji]と[yi]、[ri]「ni」は、言語によっては異音です。
 中国南方では「森もり」を「モニ」と言ったり、逆になったりすることをお話しました。「n」と「r」が異音だからです。
 現代中国語で日本を「リーベン」と言うのは、「日本」の「日」を現代北京地方発音でいえば「ri」または「ji」だからです。「リーベン」「ジーベン」と聞こえます。
 
 「ニッポン日本」は、古代の中国音では「ジツポン」「ジッポン」でした。ジツポンが欧米に伝われば、jippon となり、japanになりました。英語ではジャパンです。フランス語ではジャポネです。

 「jaジャ」 と「yaヤ」が異音の地域がありますから、ジャパンは、ヤパン、ヤーバンなどに変化します。

 なんで、ニッポンがジャパンとなったのか、ちゃんと発音変化の規則があるのです。
 こんなことも、異音について詳しくなったら、理解できます。

 異音に注意を向け、次は、「音節」という日本語の音の重要な単位について話が進んでいきます。
 音節をさらに分解して音素の別を知り、ひとつひとつの音素の調音の仕組みの勉強から始めます。

 日本語音声学を、もちっと続けて、異音の話から、音素音節調音法へと進むつもりでしたが、日本語音声学の続きを知りたい方には、2006年5月~7月の春庭カフェ日記「いろいろあらーな」をお読み願うことといたします。

 さて、十人十色で食べ物のお好みもそれぞれなあ、発音もそれぞれ、聞き分けのできる音の種類も、言語によってそれぞれであることがおわかりいただけたかと。

 さんざん食い放題、春庭亭の噺を聞いていただいたので、ここらで「こわいもの」と言ったら、はい、「しぶ~いお茶がこわい」ですよね。
 はい、パル子ネーサン、みなさまにお茶、お出しして!
 では、わたくしのお話はここらでお開きに。ごゆるりとお茶、めしあがってくださいまし。

 では次回も、よろしくお運びのほどを。
 春庭亭は、90分食い放題、飲みもの別料金。お茶はサービス。

出囃子・春庭テーマ曲「食い放題インターナショナル・ダイエットは明日から」

♪ 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 腹は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの ♪

♪ 聞け我等が雄たけび 天地轟きて 脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな) 今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの ♪

<おわり>

ぽかぽか春庭「目黒のさんま・落語でおいしい日本語食堂」

2008-08-26 10:30:00 | 日記
2007/11/08

目黒の秋刀魚


(9)目黒のサンマ (日本語の音)

(9-1)女川のさんま

 まだ真打ちにはなってないけれど、二つ目修行真っ最中の古今鼎、「ちっともおもしろくネー」というご批判もございますが、なにぶん、修行中の身、皆様からご批判ご叱責たまわりますことも成長の糧でござりますれば、なにとぞ、ご静聴のほどを。春庭、声調ととのえて、語らせていただきます。

 あの、ここはセイチョーを3回続けましたんで、ショーモネー駄洒落と思いましても、一応拍手なんかパチパチといただきますと、楽屋のそろばんがパチパチと鳴って、講師料がちょっとあがることになってるんです、、、、ってこともないか、大学の講師料、非常勤講師の講師料ってのは、非常識講師料っていうくらい、安いんです。

 まあ、パチパチの音はおいとくとしまして、まずは、「日本語の音」の一席を。

 秋になると、食べたくなるのが、秋刀魚。七厘の炭火をうちわでバタバタとあおぎ、ジュウジュウと音を立てて焼けてくる秋刀魚。美味い!

 今年の秋、春庭は特別美味しい秋刀魚をいただきました。宮城女川漁港から直送してもらった、秋刀魚です。
 秋刀魚漁の漁船に乗っている漁師Aさんが、豊漁の生産調整のため漁港に戻ったあいまをみて、東京の我が家に直送してくださった秋刀魚。
 届いたその日は、刺身にしました。寿司ネタにしてもおいしい。

 サンマは、私の授業の「おいしいネタ」でもあります。では、おいおいと調理調音をすすめましょう。ゥン?調音?
 はい、これから「日本語音声学」のおいしいお話をします。

 さて、刺身、マリネ、生姜煮、自家製ひらきと楽しみ、28日は、冷凍したものを塩焼きに。
 冷凍にしたものでも、元が新鮮ですから、ほんとうにおいしい。

 秋刀魚を昼ご飯にいただいたあと、娘・息子といっしょに、池袋のサンシャイン60ビルへ出かけました。秋になっても気温は真夏日という日なので、足にはサンダルをつっかけて。
 秋刀魚、サンダル、サンシャイン。

 60ビル、最初はワールドインポートのパスポートセンターへ。3人そろってパスポートの更新をしました。娘と息子はあと5ヶ月、私は6ヶ月の有効期間が残っていますが、国によっては「有効期間が半年以上あること」がビザ発行の条件になっているため、更新しておくことにしたのです。

 次は、サンシャイン水族館へ。
 「目黒のサンマ」でも聞かせるのかと思って我慢して読んでやったのに、話はサンシャインへすっとんでいって、いったい何の話かってぇと、ここは、まくらでして、もうちょっとで、本題へいきますんで、ちょっとがまんしてきいてやってくださいまし。
 かんかん照りのステージでアシカショウをみたあと、水族館の中を巡りました。


(9-2)サンシャインのさんごサンマの「ん」

 北の海のクリオネ、熱帯の色鮮やかな魚たち、深海の蟹、アマゾン川やアジアの大河の魚。ふわふわと水に溶けそうなクラゲ。
 銀色のうろこをひからせて、ぐるぐる回遊しているイワシ。うん、おいしそう。

 水族館に来て、第一の感想は「おいしそう」
 新鮮で、いい寿司ネタになりそうな鰯です。
 のんびりふわふわ浮かんでいるクラゲを羨みつつも、日本語教師は、10月からの日本語音声学のネタをまとめています。

 サンシャイン水族館の「ウリモノ」は、アシカショウやペンギンパレードだけじゃありません。
 日本で初めて、サンゴ礁の浅海(ラグーン)を再現した大型水槽も目玉のひとつ。
 サンゴ礁の生態系を再現し、珊瑚を育成しています。

 地球温暖化の影響なのか、本物の海では珊瑚の白化がおこり、珊瑚の大量死滅が伝えられています。
 動物園で絶滅危惧動物の繁殖がはかられているように、水族館の中でサンゴを保護育成することも、これからの水族館の大きな役割のひとつになるのでしょう。
 
 「サンゴ」地球にとっても、大切な生物。
 私の「日本語音声学」授業にとっても、重要なネタです。
 はい、ここは声を出して読みましょう。「サンマ珊瑚サンシャイン」。

 水族館回遊水槽での、魚の餌付けショウを見ました。
 水槽の中をゆうゆうと泳いでいたエイや小型の鮫が、飼育員のダイバーお姉さんに、餌をねだって、まとわりつきます。鮫もなついてくれば、かわいいもんなのでしょう。
 2m近いウミヘビも、昼寝の穴から出されて、おねえさんにだっこしていました。

 「ウミヘビは、蛇っていう名だけれど、蛇とは違います。蛇はハ虫類ですが、海蛇はうなぎやあなごと同じ。お魚です」と、ダイバーおねえさんの解説。
 うん、名前って重要ね。うなぎやあなごはおいしそうで、いい寿司ネタになりそうだけど、海蛇ってきいたら、うまそうじゃなくなる。

 「日本語音声学」って聞くと、なんだかむずかしそうで、ちっとも面白そうじゃない。 ウミヘビときくと、同じお魚でも美味しそうじゃなくなるのと同じで、どうもネーミングが退屈なんですね。でも、ほんとうはおいしいんです。面白いんです。

 海蛇だって、蛇っていう名前に惑わされずに食べてみたら、穴子と同じくらいおいしいかも。
 ゆっくり水族館を楽しんだあと、おなかがすいてきたので、アルパ3階のレストラン街へ。何たべようか、鰻?穴子?

 ここで重要なのは、鰻か穴子か海蛇か、どれを食べるかではなくて、「3階」ってことです。エレベーターの中で「行き先押しボタン」のそばに立っている人から「何階ですか」と聞かれたら「サンガイ」って行き先を告げましょう。

(9-3)さかなクンのサンマ

 夕食後は58階の展望台へ。展望台ギャラリーでは、さかなクンの「魚イラスト」が展示されていました。
 さかなクンのイラスト、魚の絵一枚一枚に、「お魚大好き」という気持ちがあふれているように思えました。

 さかなクンは、13年前の高校生のときに「テレビチャンピオン魚通選手権」に出場した頃から見ています。
 今では東京海洋大学客員准教授として後進の指導にもあたって、「お魚らいふコーディネーター」として活躍しています。好きこそもののじょうずなれ。

 みなさん、日本語すきですか。ちゃんと発音しています?

 お昼ご飯の秋刀魚から、サンシャイン水族館の魚、展望台ギャラリーのさかなくんのお魚イラストと、お魚たっぷりの一日が暮れていこうとしています。
 西の空が鮮やかな夕焼けになり、みるみるうちに展望台からのながめはきらきらした夜景になりました。

 10月からは、私も息子も後期授業が本格的に始動。のんびり親子で外出することも少なくなるでしょう。
 「だいたい、24歳の娘と18歳の息子がハハオヤなんかといっしょにお出かけをしてくれるだけでもありがたいと思え」と、オンを売られております。

 そうだよね、ありがとう。ハハは、娘息子といっしょにサンシャイン58階から眺める東京の夜景に、しみじみしております。

 はい、ここまでが「いささか長すぎて、飽きてきたマクラ」「だらだら続いた前説」です。
 これからが本題です。
 「サンマ食べて、サンダルはいて、サンシャインでサンゴを見る」


(9-4)サンマの「ん」

 日本語学授業の始めに、毎年「学生に与える練習」があります。
 カフェコラムではもう何度もこの話をしてきましたから、すぐ正解がわかる方もおいでだとは思います。

 学生だと、講義中、3回くらい同じ話を繰り返しても右耳から左耳へ話が抜けていって、少しも脳内にとどまっちゃあいないってことが多いのですが、脳力に自信をお持ちの方が多いカフェで、同じ話を繰り返したら、「つまらん!」と、一喝かも。
 でも、ま、同じ「目黒のサンマ」を何度聞いても笑えるのがほんとのハナシ家。

 同じ内容で恐縮ですが、再掲載です。アレンジは少々かえてありますが、基本は同じハナシ。
 学生は毎年新しく受講するのですから、毎年同じ練習をやらせて反応を楽しめる。
 題して、「秋刀魚、サンダル、珊瑚のサンシャイン練習」。

 「自分は日本語がよくわかっている」と、思いこんでいる日本人学生に「日本語わかっているつもりでも、わかっていないこともあるんだよ」と気づかせるために、まず、五十音を読ませます。

 「五十音図の文字、全部読める?日本語教師になりたい人、五十音図のひらがなくらい読めるよね」
 学生、「ばかにすんな」という顔で教師を見ます。
 「じゃ、読んでみましょう。ア行からひとり一行ずつ声に出してひらがなを読んでいってね」
 「あいうえお」「かきくけこ」「さしすせそ」~「わいうえお」

 「はい、じょうずにワ行まで読めましたね。じゃ、君、最後のこの文字、読んでみてね」
 「ん」の文字を指します。
 「ン」
 「え、なんて言った?もう一度」
 「ゥン」

 黒板に「さんま」「さんご」と書きます。
 「はい、君、読んでください」
 「サンマ、サンゴ」
 「はい、よく読めました。じゃ、もう一度、五十音表の最後の文字、読んでね」
 「ン」

 「え、ほんと、ほんとにそういう発音だった?もう一回言ってみて」
 学生、うんざりしながら「ウン」
  「え~、ほんとにこの字はゥンなの?確認してみようね」

 黒板に「さんま」「さんご」に続けて、「サンダル」と書きます。
 「はい、さんまっていってみましょう、みなさん、いっしょに。サンマ」


(9-5)「運」のつく練習

 次に、サンマというとき、「サン」の次に「マ」を言おうとして、でも言わないで、発音する直前で口の動きを止めてみて。
 「ん」というとき、口の形はどうなっていますか。

 隣の席の人の顔を見ながら、もう一度「さんま」の「ま」の前でストップしてね。はい、いっしょに「さん、、、」
 口はどうなっていた?
 はい、唇を閉じていましたね。
 この練習、隣の人と顔を見合って、口元を互いに見つめ合うことが肝心。
 一人で鏡を見ながらやってもできないことはありませんが、一人だと「ん」の音を意識してしまい、「サン、マ」と区切って発音してしまうことが多いです。それだと、口を閉じないで、マの音に進みます。

 「この絵は3億円」と聞き、びっくりして「えっ、サン?まあ!」と言うときには、マの前で口を閉じていません。「私は唇閉じてない!」と、おっしゃる方は、こちらの「サン、ま」の方を発音しています。

 ごく普通の速度で、魚屋さんへ言って「サンマ三匹ちょうだい」と、注文する気持ちで言ったとき、一般的な日本語母語話者の場合、マの直前の「ン」は「m」の音を発音しているのです。

 「さんま三匹」と言ってみましょう。「びき」の前でストップしてね。「さんま、さん、、、」
 ほら、やっぱり口を閉じているでしょう。

 では、次に「サンダル」と言いましょう。はい、いっしょに「サンダル」
 次は、ダルと言う直前でストップしてね。「さん、、」
 口は閉じていましたか。ほら、さっきの影響で意識すると閉じちゃう人もいるから、隣の人に「サンダル買いますか」と、言いましょう。もう一度「サンダル」と確認するつもりでいいかけて、「ダ」の前でとめます。

 「サンダル」と言いかけて、「ダ」の直前でストップしたとき、舌が口の中のどの位置にあるか、確かめてみて。
 歯の上に舌がありませんか。
 「三足といってみましょう。はい、サンゾク。ゾクの直前で止めて。ほら、やっぱり、舌は歯の上の歯茎のところにくっついているよね。

 最後に「珊瑚」といいましょう。はい、「サンゴ」
 では、サンゴと言いかけて、「ご」の直前でストップ。さっきは舌が歯の上にストップしていたのに今度はどうなっていますか。
 舌先は歯茎にくっついていなくて、舌の奥のほうが上あごに近づいていますよね。

 もう一度、「三匹の秋刀魚」「三月の珊瑚」「三足のサンダル」と言って見ましょう。
 おなじ「ん」という文字で書いているけれど、発音の仕方は3つのバージョンがあったことが、わかりましたか。


(9-6)田圃のトンボ

 「さんま」の「ん」は「samma」です。[p][b][m]の音の前の「ん」は、[m]になります。「ん」と言っているとき、唇はとじて、くっついています。

 「さんご」の「ん」は、「 sa[ng]go」です。[k][g][h]の音の前の「ん」は[ng]になります。舌は後方が盛り上がって、上あごに近くなります。

 「サンダル」は、「sandaru」ですから、「ん」は[n]です。[t][d][s][z][r]の音の前で、「ん」は[n]の発音。舌は前歯の上にくっつきます。

 この練習をしていると、みなさん、「ん」の発音がようく理解できてきて、みんなに「運」が向いてきます。
 春庭センセから日本語学を教わると、みんな「運」がよくなる。これ、ほんと。

 今まで全部おなじ「ん」と思ってきたけれど、ちがう口の形、ちがう舌の形で発音していることがわかりましたか。
 春庭の「運のつく練習」やってみた方は、もう、単語ごとの「ン」の正しい発音ができますよね。

 って、もともと無意識にちゃんとできてたんですけれど。
 日本語教師になるためには、それを意識的に理解していることが必要ということです。

 「ん」の3つの発音、「○ンコ」の「ん」は[ng]で、「○ンボ」の「ん」は「m」でしたね。よくできました。
 ン?、、、○の中に何入れたの。

 ○ンコ、甘いあんこ。お金しまう金庫。
 ○ンボ、稲実るたんぼに赤トンボですね。

 ○ンコの丸に、「う」を入れて喜んでいるのは、マジロ家のふう太くんですね。もう、お父さんそっくりですね。
 あらら、お父さん、たんぼの「た」やとんぼ「と」を、タ行のほかの音に変えて喜ばないでくださいね。

 「ん」は、カナ文字の名前としては、「ン」でよろしい。日本語は文字の名前と発音がほとんど一致していることばです。
 日本語のひらがなカナカナのような文字、ひとつの音節にひとつの文字が対応している文字を「音節文字」といいます。

 ○ンコのなかに、ウをいれたり、マにしたり、入れ替えて遊べるのも、日本語が音節文字を使っているからです。


(9-7)ん、ん、ん

 日本語の音節、「ほとんどがひとつの文字にひとつの発音」というのは、例外もあるから。
 「は」という文字は、文字の名前は「ハ」ですが、この文字を使って発音するとき「ハ」と発音するときと「ワ」と発音するときの2種類ある。「へ」も同じ。ただし、こちらは、異音ではなく、「ハ」の音と「ワ」は、別の音と、日本語母語話者もわかっています。
 助詞の表記に限って、「ワ」と読むと決めたのです。

 英語なんかだと、「A」という文字の名前「エイ」ですが、発音は、日本語に近いアと言うときもあれば、アとエの中間の音のときもあり、Apeなど、エイになることもある。ひとつの文字をいろんな発音の表記にあてて使います。

 日本語は、原則ひとつの文字は一つの音節の発音を担当しています。わかりやすいです。そのため、江戸時代、日本の識字率は世界で一番高かった。簡単便利です。おっと、文字論はまたの機会にくわしく。

 日本語の発音で「ん」は特殊拍と呼ばれ、ほかの音節とは違うところがあります。
 私たちはまったく無意識に「ん」の発音を使い分けています。単語によって、異なる発音をしていながら、同じ「ん」の発音と思って聞いています。
 このような「実際には異なる発音をしているのに、同じ音と思っている音」を『異音』といいます。

 日本語を母語とする人にとって、「ん」の三つの異音は、どれも同じだと聞こえています。発音は別々なのに、別の音とは思っていないのです。

 日本語には特殊拍と呼ばれる音節が「ん」のほか、あとふたつあります。
 長音(のばす音)と、促音(つまる音)です。長音促音については、また別の機会に述べます。今回は異音についての理解をさらにすすめます。
「運」がついたあとは、「シラミごはん」聞き分け練習。

 「ん」には3つの音「異音」があり、3種類の別々の発音をしていながら、同じ「ン」だと思ってきたことを納得した後、日本人にとって異音であるLとRのハナシにすすみます。


(9-8)シラミとごはん、どっちが食べたい?

 英語ではRとLは、ことばを区別する音ですから、「lice」はシラミで、「rice」はごはん、です。まったく別の単語になります。

 しかし、日本語母語話者にとって、RとLも「同じ音」に聞こえます。「la」と「ra」は、どちらも「ラ」。日本語では、rice もliceも同じライスです。
 日本語にとって、[la]と[ra]は、異音なので、どちらを発音しても同じ「ライス」に聞こえるのです。

 ごはんを食べるのと、シラミを食べるのと、どちらがいいか、学生に尋ねます。
 そりゃ、ごはんのほうがいいに、決まっていますよね。

 もっとも、近頃の学生はシラミを見たことも頭にわかしたこともないのですけれど。
 犬や猫を飼ったことのある人は、「ノミ」は知っているので、「ノミのようなもん」と、紹介しておきます。

 敗戦後に、頭にシラミをわかして、保健所の巡回員にDDTを振りかけられたっていう世代の人は、シラミと聞いただけで、頭をかきむしりたくなりますね。
 はい、頭をかきむしらずに、耳をすましましょう。

 ここは、アメリカのレストランです。あなたは、客から注文を受けたとき、「ごはんrice」と言われたら、手を出してOKのサインを出しましょう。こぶしの親指を上にむけてね。「シラミlice」と注文されたら、ノーのサインを出してね。親指を下に向けましょう。

 「lice」「rice」「rice」「lice」、、、、
 学生たちは、気をつけて聞き分けようと一生懸命。
 私のLとRの発音はあまりよくありませんが、学生たち、「わかんない」という人もいますが、ちゃんと聞き分ける人もいます。

 はい、よくできました。みんな聞き分けができているね。今のは模擬テストです。次が本番の英語の発音聞き分け問題です。英語の発音、LとR。もうできるものね。

 ごはんをちゃんと注文できたので、食べることにします。
 アメリカは和食ブームだとか。日本式に茶碗とおはしで食べてみるよ。

 右と左の聞き分け練習。

 お箸はどっちで持つ?右利きの人は右手だよね。左利きの人も、今だけ右手で食べてね。
 お茶碗は左手で持って食べます。お隣同士、見合って食べましょう。はい、ちょっと暗いかな、電気ついてますよね。後ろの人、お隣さんの手が見えますか。


(9-9)右手におはし、左に茶碗でいただきます

 じゃ、私が右って言ったら、右手でお箸を持つマネしましょう。指をチョキにしておはしのつもり。私が左っていったら、左手の手のひら広げてお茶碗のマネ。いいですか。右は英語でright、左は英語でleftですよ。間違えないでね。
 rightって言ってないのに、右手をお箸にしちゃいけませんよ。

 「left right left left   light  light  left  light light light light 、、、、
 はい、全員まちがってますよ。
 学生達「えーっ、ちゃんと、右と左、区別したのにぃ」

 私、右って、言ったのは、最初の1回だけです。あとは、右って言ってません。電気のライトって言ってるの。

 学生たち、「な~んだぁ」
 この聞き分けは、右と左の聞き分けではなくて、電気のlight と右のrightの聞き分け練習でした。

 ほらね、意識してシラミとごはんを聞き分けようとすればできるのに、無意識に聞いていれば、電気のライトも右のライトも区別がつきません。
 日本語母語話者にとって、LとRは「異音」だからです。

 この「右左クイズ」で、学生たちに何を意識してほしいか。
 人間が発声できる「音」は、たくさんあるけれど、それぞれの母語で「ことばの意味を区別するための音」は異なっているということです。

 日本語ではRとLは、異音であって、ことばの組み立てでは区別していません。rightと言ってもlightと言っても、同じライト。
 けれど、英語ではRとLの音のちがいは、ことばの意味の区別に役立っています。

 一方日本語で「ra」を「da」に変えるとことばの意味が変わります。「ダイス」といったら、ライスとは違う意味の単語になります。ダイスって、ほら、1から6まで目があるさいころのことです。
 日本語では「d」と「r」は、言葉の意味を区別できる音です。

 しかし、「r」と「d」は異音にすぎず、「ライス」も「ダイス」も同じ音に聞こえるという言語の人もいます。
 日本語母語話者にとってRとLが同じ音に聞こえるように、RとDが同じ音に聞こえるのです。

 日本語でも「プディン(グ)」を「プリン」と言い換えたり、花壇(かだん)をうまく言えずにカランと発音したりする子どもがいたりすることから、「r」「d」は、近い音であることがわかります。近いけれど、日本語では別の音として聞こえています。
 どの音を言語の意味の区別に用いて、どの音を区別しないで無意識に異音として使っているかは、母語によって様々です。

 日本語の発音指導をしていて、ある人にとって発音が聞き分けられず、言い分けることがむずかしいとき、「なんでこんな簡単な日本語の発音ができないんだろう」と思わないでくださいね。と、日本語の先生になりたい学生たちに念を押します。


(9-10)目黒のサンマ

 えー、『目黒のさんま』
 『目黒のさんま』は、古典落語の演目の中でも「寿限無」「時そば」などと並んで、子どもにも大いに笑えるわかりやすいお話でした。

 群馬の山中で育った私、当時はまだ冷凍車などが発達しておらず、日頃は鰺の開きや鰹なまり節、身欠きニシンなどを食しておりましたが、秋には秋刀魚を七厘の炭火で塩焼きにして食べることができました。美味しかった!
 秋刀魚は七厘の塩焼きが最高です。

 さて、目黒といいますのは、春庭の現在の本籍地であります。じゃんけんに負けて夫の姓を名乗ることになり、夫の実家が本籍地になりました。

 現在は目黒駅の周辺など、高いビルもたって、にぎやかな都会になっておりますが、江戸の昔は、芋の産地。
 芋畑が、だ~と広がるばかりの土地ですが、緑豊かで鷹狩りにはうってつけの場所でした。

 行商人は目黒で芋を仕入れて、江戸の下町へ売りにまいります。帰りには芝にありました魚市場からサンマなどを仕入れて、目黒の里で商売、一石二鳥の行商人。
 目黒から芝あたりまで、歩けば当時1時間ちょっとかかったといいます。

 芝で仕入れた秋刀魚に、塩をふって1時間後、目黒の里で炭火にて焼けば、おいしいにおいがあたりに広がります。
 この匂いをかいで、食べたくなったのが、鷹狩りに来ていたお殿様です。

 日頃は鯛などの高級魚を手の込んだ料理法で召し上がっていた殿様、当時は下魚とされていた秋刀魚を初めて食べました。
 芝で塩をふって1時間、塩加減ちょうどよし、油ものって、あまりのおいしさに殿様びっくり。

 それ以来、秋刀魚が食べたいと思い暮らすようになりました。献立に注文をつけるなどは殿様のなさることではないのですが、あまり食が進まないでいた殿様に、爺やが「何か、お好みのものを」と好物をうががいました。殿様はここぞとばかり「秋刀魚を食したい」。

 台所方はおおわらわ。大事な殿様が秋刀魚のような下魚を食べておなかをこわしたりしたら、首がとびます。
 まずは油をすっかり抜き取り、小骨にいたるまで骨をとり、秋刀魚の影も形もなくした料理をお殿様にさしあげました。

 殿様は一口食べて、あのおいしかった目黒のさんまとはまるで違う味なので、がっかり。爺に「この秋刀魚はどこで求めた」と御下問に。
 爺が「芝の魚河岸で求めてまいりました」と答えると、殿様、「そりゃ、いかん、秋刀魚は目黒にかぎる」


(9-11)秋刀魚も食い放題

 こんなふうに「日本語教師になるための日本語レッスン」がはじまります。
 「秋刀魚珊瑚サンシャイン」は、「春庭、日本語教師のための日本語学」の「おいしいネタ」です。
 さんま食べてサンダル履いて珊瑚見にいくと、日本語が光り輝いてサンシャインになるんです。

こんなふうに「日本語教師になるための日本語レッスン」がはじまります。

 「秋刀魚珊瑚サンシャイン」は、「春庭、日本語教師のための日本語学」の「おいしいネタ」です。
 さんま食べてサンダル履いて珊瑚見にいくと、日本語が光り輝いてサンシャインになるんです。

 「運のつく練習」のまとめ。
1 日本語では「ん」の音を三種類使い分けているのに、皆、無意識に使い分けていて、[m]の「ん」も、[n]の「ん」も、同じと思っていること。
2 「R」と「L」は、英語では別の音だけれど、日本語では異音なので、light rightは、どちらも「ライト」にきこえる
3 自分の母語で異音である音が、第二言語では意味の区別をしている音である場合、そのふたつの音の聞き分けはむずかしい。

 異音に注意を向け、次は、「音節」という日本語の音の重要な単位について話が進んでいきます。
 音節をさらに分解して音素の別を知り、ひとつひとつの音素の調音の仕組みの勉強から始めます。

 母語話者として、日本語を話すだけなら、もちろん調音の仕組みなんて一生知らなくても、まったく問題ありません。調音法を意識しなくても、ちゃんと発音できているのですから。
 でも、日本語を「第二言語」として教える人にとって、調音法は必要な知識です。

 私たちが英語の発音を習ったとき、歯と歯の間に舌をはさんで「th」の練習をさせられたように、日本語をゼロから学ぶ人にとって、どのような口の動きで発音するのか、知ることは大切です。教える側は、発音の方法をきちんと理解していなければなりません。

 春庭「日本語音声学」については、2006年5月4日~7月27日まで、3ヶ月間にわたって、春庭ニッポニアニッポン語教師日誌「日本語ってどんな言語?まずは発音から」に、書きましたので、ご参照くださいませ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200605A
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200606A
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200607A


(9-11)秋刀魚は目黒に限ります

 今回書いたのは、2006年5月4日から5月10日までの分のアレンジ版「運のつく話、サンシャインの秋刀魚バージョン」です。
 何度聞いても面白い「目黒のさんま」めざして書いたのですが、読み返してみると、2006年バージョンのほうが面白いような気がします。

 毎年同じネタを手を変え品を変えて、料理していますが、学生は毎年ちがうので、反応は年ごとに異なります。
 おもしろがって右手あげ左手上げに興じるクラスのときもあれば、「なに、つまんないことやらせんだよ!」って顔のときもあります。

 ま、毎回サンマをさばいて料理しても、油のノリ具合やら何やらで、出来はさまざま。でも、秋刀魚、いつも美味しいです。ニッポンの秋の味覚です。
 春庭の日本語授業、何度同じ話を聞いてもおいしい、、、、はずでしたが、、、、。

 真打ちの演じる落語、『目黒のさんま』を、何度同じ話を聞いても、いつも笑えます。そんな真打ちを目指している二つ目春庭の「サンシャインの秋刀魚」一席、おつきあいいただき、ありがとうございました。
 
 春庭の「サンシャインの秋刀魚」、お味のほどはいかほどだったでしょうか。
 高級グルメに慣れた皆様のため、口当たりをよくしようと、ちょいと日本語音声学基礎の骨をぬきすぎ、油をしぼってしまったのではないかと、心配ではあります。

 読者の声「やっぱり、サンシャインのサンマ、美味くなかった」
「秋刀魚は目黒に限ります」

<目黒のさんまおわり>


ぽかぽか春庭「酢豆腐・落語でおいしい日本語食堂その2」

2008-08-23 16:29:00 | 日記
酢豆腐


【6】酢豆腐(酢豆腐食べて死語瀕死語、今はなつかし昭和語江戸語)

(6-1)酢豆腐うまいかすっぱいか

 えー、毎度おなじみ、二つ目修行中、古今鼎東西線です。 
 日本語修行をつづけております。
 しゃべくりの技術も、アエイウエオアオ滑舌練習やら朗読練習やら、訓練おこたりませんが、毎朝毎夕のことば修行、料理人が包丁の手入れをするみたいな地道な修行もいたします。
 いろんな修行のなかで、今回ご紹介するのは、「辞書全読」という「ボキャブラリ確認テスト」について。

 そう毎日やるわけじゃありませんが、たまにやっておくと錆び付いた言葉倉庫を掃除でき、すっかり忘れていた語を思い出すこともできるし、知らなかった語もみつかります。

 前に『岩波国語辞典』の全読をやったときに「あいろ」という語、すっかり忘れていたのを拾い上げました。
 「あいろ」の出典のひとつは興津要編『古典落語(下)』に収録されていた「ガマの油売り」口上でした。
 『古典落語』読んではいましたけれど、「あいろ」なんて語は忘れてしまっていました。

 あいろは文色(あやいろ)の江戸なまり。文(あや)は、物の表面にあらわれる形や彩りのいろいろ。「ことばのあや」なんぞの使い方は今でも残っております。

 「色の名事典」とか「外来語辞典」とか、一冊きめて、「あ」から「ん」まで、語彙をチェック。阿吽のことば修行でございます。
 毎回、あれ、こんな言葉知らなかった、というのが見つかります。
 さて、今年は「江戸ことば」「落語ことば」のチェックをいたしました。

 一応「日本語」を道具にして仕事をしておりますから、八百屋が野菜にくわしいように、また、魚屋が魚にくわしい程度には、日本語について、一般の「日本語をしゃべって生活している人」よりは、文法についても少々は多くを身につけ、語彙も多めに脳内辞書に登載してある、、、、つもりでおります。

 しかしながら、「知ってるつもりは知らない証拠」、道具には磨きをかけませんと、売り物にはなりません。さびた包丁で料理する板前おらず、目立てをしてないノコギリで木を切る大工も、、、、このごろは鉋鋸を持たない大工もいるらしいですが。
 とにかく、生兵法は怪我の元、知ったかぶりは「腹下し」になりますから、ご注意が肝要。

 落語「酢豆腐」の若旦那は、知ったかぶりをして、町内のワルたちに「腐ってカビが生えた豆腐」を食べさせられました。
 春庭亭の「酢豆腐」は、腹くだしたりいたしませんから、どうぞ、ご安心の上、ご賞味くださいますように。

(6-2)ちりとてちん

 「酢豆腐」の一席。
 町内のワケーシュたち、寄り集まっての酒盛りに、肴を買う銭なんぞだれも持ち合わせておりません。「なんでもいいから、つまみになりそうな物を持ってこい」といわれて、与太郎が「夕べの残り物の豆腐を釜の中にいれてしまっておいた」と、出してきました。
 夏の暑い盛り、冷や奴の残りを釜の中になんぞ入れておいたら、悪くなるにきまっています。生ぬるい腐れ豆腐になってしまったようで、豆腐は黄色くなっていやな臭い、カビも生えております。
 
 そこへ通りかかったのが、食通ぶっている知ったかぶりの若旦那。
 いつも「珍味」やら「高級料理」やらの食道楽自慢をしている、いけ好かない男です。
 若い衆たち、日頃の自慢を逆手にとって、とっちめてやろうと企てました。

 「珍しい豆腐を手に入れたんだけど、よほどの食通でないと食べた人も少ないという珍味なので、町内の一同、食べ方も分からずよわっています。
 なんかこう臭いもいたしますが、どうやらクサヤの干物のような、臭うほど美味いってやつらしくて。これはきっと乙な味に違いないと一同楽しみにしているんですが、あいにくと、食いもんに詳しい者がおりません。

 この、ポヨンポヨンと生えているもんは、はらって食べたらいいのか、それともそのまま口に入れていいのやら、箸のつけ方もわからない始末で、ぜひ、若旦那に食べ方をおそわり、通人の端くれに名を連ねたい。若旦那のように、よっ、イキだねっなんて、言われてみたいんですが、どうもあっしら不調法でして。
 若旦那、まず、どうやって食べたらいいのか、ひとくち食べてみせてクダセーやし」と、おだて上げます。

 若旦那、知ったかぶりして、腐った豆腐を食べ、「ちょいと臭いますなぁ。それに一段と酸っぱくなってますね。ええ、これがオツな味でして。この味がいいねと君がいったから、7月6日は酢豆腐記念日。なんてね、あちきのなじみのマチ奴なんかも言ってます。これは『酢豆腐』という珍味でげすよ」と、いっぱしのことを言います。

 もう一口どうですとすすめられ、「酢豆腐はひとくちに限る」とさげます。さあてそこからは、お約束どおり。「食べてみてくだせーやし」と言われて食べて、腹、下せーやしになったんです。

 「酢豆腐」は、上方落語では「ちりとてちん」という下題になるそうで。
 NHKの「朝ドラ」では、落語修行の若い女性が主人公。

 わたくし、修行中とはいっても、もはや若くはありません。
 我々のような者を口耳講説(くじこうせつ)の徒と申しまして、聞きかじりの耳学問を、物知り顔ですぐ人に説く浅薄な学者、学識のたとえであります。

 「聞きかじり知ったかぶりが服着て歩いているような者」ではありますし、羊羹丸かじりも得意でございますが、酢豆腐はまだ、食ったことがありません。

 では、「辞書丸かじり」のお味を紹介しましょう。

 口耳講説のことば修行、江戸時代のことばについては、かって、松村明編『江戸ことば東京ことば辞典』(講談社学術文庫)というのをチェックしたことがあります。
 こちらは「現代も使われている811語」が載っていて、用例出典も江戸文学全般にわたっています。811語のうち、春庭が知らなかった語は、25語ありました。以下紹介。


(6-3)物相飯は臭い飯

 松村明編『江戸ことば東京ことば』のなかで、春庭知らなかった語、忘れていた語のリスト

(1)「あくぞもくぞ」(2)「あてずい」(3)「いさくさ」(4)「うってんばってん」(5)「うぽっぽ」(6)「うらうえ」(7)「うんつく(運尽く)」(8)「おかゆ(陸湯)」(9)「おたがじゃくし(お多賀杓子)」(10)「おめぐり」(11)「こちなし(骨なし)」(12)「さいしく(彩色く)」(13)「しだら」(14)「ずいとくじ(随徳寺)」(15)「ずくにゅう」(16)「すんぜんしゃくま(寸善尺魔)」(17)「ずんべらぼん」(18)「せちべん(世知弁)」(19)「だみそ(駄味噌)」(20)「つるはぎ(鶴脛)」(21)「べっか(別火)」(22)「まんきゅう(万久)」(23)「まんぱち(万八)」(24)「もっそうめし(物相飯)」(25)「ろっぽうもん(六法者)」

これら25語、おわかりになった方、すごい!江戸時代に生きてた方かも。
 春庭、歌舞伎の「六法を踏む」は知っていても「六法者」は知らなかったり、「当て推量」は知っていてもその簡略形「あてずい」は知らなかった、という具合。

 「食い放題インターナショナル」にちなんで、食事に関する語彙を紹介しましょう。

 (10)「おめぐり」は、江戸ことばというより、それより一時代まえの御所ことば(女房ことば)です。「おかず」と同じ「副食物をあらわす言葉」ということ、まったく知りませんでした。
 主食につける「汁もの」のほうは、「おつけ」という女房言葉が現代でも生きていて、みそ汁などを「おつけ」と呼ぶ家庭もある。しかし、「おめぐり」のほうは、地方の方言で会話するテレビのホームドラマでも聞いたことがもありませんでした。

 (21)「べっか別火」、「宗教上の汚れをきらって、一般の食事とべつの火で炊事すること」というのは、宗教学や民俗学でこのことばの意味を教わったはずなのに、すっかり忘れていました。
 また、(24)「物相飯(もっそうめし)」は牢屋で出されるごはん。現代語でいう「くさい飯」

 さて、くさい飯といったって、おかずに腐って臭う豆腐、酢豆腐が出されたってわけじゃありません。
 昔の監獄飯を食べた人は「ぼそぼそしたいやなにおいの飯だった」と、語っていますが、質の悪い米に麦などをまぜた主食が、なんだかいやな臭いがしたらしい。

 私、残念ながらクサイ飯、食べたことありませんが、現代の物相飯は、なかなか栄養バランスのいい献立が振るまわれるそうです。

 博物館網走監獄では、現在の網走刑務所で収容者が食べている食事のメニューを再現して、かっての受刑者食堂で「監獄体験ランチ」を食べることができるそうです。一食500円。網走監獄博物館のHP 下のほうにランチの写真があります。
http://www.kangoku.jp/lunch.html

 さて、今回チェックしたのは、『生かしておきたい江戸ことば450語』という幻冬舎文庫。2007年7月に文庫化されました。単行本だったときには、読まなかったのですが、文庫化で手軽になったので、さっそく「落語ことば」のチェックです。

 この本の特徴は、出典を落語にしぼった、というところです。
 落語ファンにはおなじみのことばが並んでいて、そのことばが出てくる代表的な落語演目を出典とする用例が書いてあります。


(6-4)絶滅危惧語てぬぐい七輪褒め殺し

 日本語をはじめ、ことばは生まれ変わり移り変わっていくものです。しかし、中央で新しい表現におされて廃れてしまった発音や語彙が、地方ではたいせつに温存されている、という現象もしばしば見られます。

 以前、日本語の発音についてお話したおりには、古代日本語発音で「花」をパナ、春をパルと発音していたのに、現代語では「ハナ」「ハル」という、しかし、沖縄の八重山方言にはパナパルの発音が残されている、というお話をいたしました。

 文法でも同じ。
 平安時代の「~すらむ」「~ずらん」という推量の語尾が鎌倉時代には「ん」が発音されなくなって「~ずら」になり、それが現代でも長野地方の方言として「ずら」という語尾に残されています。
 長野地方の方、「行くずら」「いいずら」なんていう語尾は、平安のゆかしき表現のなごりなんですよ。

 語彙(ごい)も同じ。地方のほうに、古典語の語彙が残っています。

 「ものしり」を「いうそく」と名古屋地方では言うらしい。a****さん、コメントありがとうございます。
 この「いうそく」は「有職故実」の「有職(ゆうそく、いうそく)=朝廷などの礼式典故、それを知っている物知り」という意味で、平安時代からの日本語です。

 現代標準語としてはあまり聞かなくなっていますが、「いうそく」を今でも名古屋岐阜あたりで、「あの人はいうそくだでーぃかんわぁー」と、日常語としてつかっている人がいるなら、うれしいことです。

 「万八まんぱち」は、江戸時代には「万のうち本当のことは八つほど。ウソ偽りが多くてあてにならないこと」という意味で使われていたことば。

 新潟の会社で「万八」を聞いたことがあるというk******さんのコメント、ありがとうございました。江戸語も生きているんですね。

 『生かしておきたい江戸ことば』の著者、澤田一矢の前書きに、この本の執筆動機が書かれていました。
 若い女性たちに講義をしていたときに、「タオル」は知っていても「てぬぐい」という語を知らない若者に出会って驚くやら嘆くやら、という経験をしたからだそうです。

 澤田センセー、「てぬぐい」知らないくらいで驚いてちゃ、キョウビの大学生相手はつとまりませんや。

 「てぬぐい」も「七厘(しちりん)」も「蚊帳(かや)」も「行燈(あんどん)」も、それを使ったことのない家庭に育った学生にとっては「死語」です。
 第一、大学生になるまで包丁をにぎったことないなんて、ざらですから。
 もうちょっとで「包丁」も「まな板」も死語になるかも。あ、まな板はともかくまな箸はすでに瀕死語かも。

 江戸語紹介の前に、昭和語の「死語、瀕死語」のお話をしておきたいと思います。

 昭和生まれにとっては、ごく当たり前につかっていたことばが、平成ではすでに死語、瀕死語となっています。
 われわれの世代のものが「江戸語」を見て、「こんなことば聞いたこともない、ホントに日本語なの?」と思うのと同じで、平成の若者は「ハイティーン」も「逢い引き」も「ほんとにそんな日本語が使われていたの?」というのです。
 死語瀕死語となっている昭和語を先にご紹介しましょう。

 9月に行った集中講義で、学生にひとりひとり課題を与えて発表させました。
「方言」「四字熟語」「難読語」「外来語」「死語瀕死語」などのなかから、興味をもてそうなお題を選び、図書館で調べてクイズを10題作って互いに出題し、正解を解説する、という課題です。  

 「死語」を選んだ学生、「江戸ことば」なんて昔むかしじゃなくて、「昭和戦後の死語」を集めてきてクイズにしました。
 なにせ、平成生まれの大学1年生、「あにはからんや」「なかんずく」なんて古語はもちろん、駅弁大学もアベックもシュミーズも、日和るも、ほめ殺しも、ぜ~んぜん、「聞いたこともない」の世代です。


(6-5)昭和語に言えろーカード

 私にとって、江戸時代のことばの多くが「死語」だというお話のついでに、平成生まれの大学生にとって多くの「昭和語」がすでに死語となっているということも紹介しておきましょう。

 私にとってはついこの間と思う1996年ごろの流行語「チョベリバ」について。
 「僕らが小学生のころ、1998年には、クラスでうっかりチョベリバと言ったら、ちょい、恥ずかしい古い言い方でした」と、学生がいうので、流行語がたちまち瀕死語になるのはわかります。

 でも、「イエローカード」とか、一般に通用することばになったと思っていた語も、思った以上に流通の寿命が短いことがわかりました。
 教師が「授業中いねむりしている君にイエローカード」なんて言うのも、学生にとっては「古くさい言い方に聞こえる」というのです。

 私が「つい最近のことば」と思うのを、学生たちは、「古いかんじがする」というし、「もはや戦後ではない」も「一億総白痴化」も、「マスオさん現象」も、みな「そんなコトバ聞いたことない、はじめて知った」と、古代語あつかいです。

 「白痴」は、ドストエフスキーと坂口安吾の小説タイトル以外でこの言葉を見ることはできなくなりました。「白痴」が差別用語とされたので。
 漢字変換しても「はくち」は、「白地」「白雉」しか出てこないので、学生が知らなくてもよしとしましょう。

 学生への春庭解説。
 「大宅壮一という戦後を代表するジャーナリストが、テレビの普及について評したことばです。初出1956年ですが、テレビが普及すると、このことばが流行語になりました。現在、白痴は放送禁止用語になっているけれど、社会時勢を表現したフレーズなので、一般常識として一億総ハクチ化という言葉は脳の片隅にでも入れときなさい」

 大宅壮一が嘆いてから、すでに半世紀。大宅の「テレビを見ていると、自分で判断し自分で考える力が失われる」という危惧は、予想以上に進んでいます。
 「アベの坊ちゃん」が投げ出した首相の座。そんな人を「選挙対策用にかついだ党」の本質などさっぱり忘れて、「次はキャラ立ち漫画好きか、石部金吉フツーの人か」と、マスコミのお祭り騒ぎにのせられる。

 日本の首相選挙は、ロンドンのブックメーカー(賭け事胴元)も、賭の対象にする題材ですけれど、チョウと出るかハンとでるか、一億総バクチ化。

 ゾロ目の丁で、変わり目もなし。春庭出身地5人目の首相誕生も、落語ほどにも面白くもなし。年末には早くも支持率急落です。さもありなん。
 と、平成ボーイたちに言っても、「さもありなん、って、何ですか?」と、わかってもらえないが。


(6-6)ハイティーンブギ

 「ハイティーン」という語を初めて聞いたという1年生に「あなた方の世代をいうコトバです」と解説しましたが、「そんなことば、聞いたこともない」。

 私は、10代のころ自分を「ハイティーンの一員」と思って育った世代です。
 私が自分をハイティーンと思っていたのも、はるか昔のことになってしまいましたが、ハイティーンということば自体はまだ使用しており、死語とは思っていませんでした。

 近藤真彦の『ハイティーンブギ』がヒットし、1982年には同名の映画も公開されたので、私にとっては「最近まで使っていたことば」でした。

 でも、1988年1989年生まれの大学1年生にとっては、「ハイティーンブギ」も、生まれる前の「歴史時代」の歌。
 「死語」について発表した18歳ハイティーン1年生は「ハイティーンとかヤングとか、なんだか『昭和のかおり』がすることばですね」と、解説しました。

 「ハイティーン」は和製英語で、英語の辞書には載っていません。
 昭和が終わったら、瀕死語。平成ハイティーンには通用しない語になってしまいました。

 ハイティーン、英語でどういうか。
 『和製英語と日常短縮英語ハンドブック』によれば、ハイティーンを英語で言うなら「late teens 」、ジーニアス和英によれば、「late teens」または「young adults」だって。

 大宅壮一の「一億総白痴化」も、近藤真彦の「ハイティーンブギ」も、平成生まれにとっては、「歴史のかなたのことば」

 では、あるコトバを若い世代の中に生き残らせる方法とは?
 「ゲーム」の中で使うしかないみたい。Game play back!

 「お前はすでに死んでいる」というせりふは、「ハイティーンブギ」と同じ頃、1984年から単行本が発行された「北斗の拳」を原作とするテレビアニメ(1984~1988放映)のなかで使われたせりふです。
 原作中には、全15巻中、4回しか登場しなかったのに、テレビアニメの影響で大流行。

 で、生まれる前のアニメであるにもかかわらず、18歳1年生も、このせりふは聞いたことがあります。
 スーファミ、プレステのゲームになり、さらにパチスロでもこの「北斗の拳」が取り上げられ、パチスロ最大のヒットとなったのだって。

 パチンコ愛好家がご夫婦でゲームとしてパチンコを楽しんでいる日記を読ませていただいていますが、楽しそうです。春庭は、パチンコ屋には25年くらい前に行ったきりなので、進化したパチンコをしたことありません。
 北斗の拳は、パチスロゲームとしてよく出来ていたのでしょう。

 それで、この「おまえはすでに死んでいる」は、死語となるのを免れて、「平成ハイティーン」も知っていることばとして残っています。


(6-7)もろびとこぞりて

 イエス誕生を祝うというクリスマスも、もともとは、ヨーロッパ農耕民の冬至祭をキリスト教が利用したものです。
 冬至は、冬にもっとも弱まった太陽が新しく生まれ変わる日でした。生まれた太陽は日に日に育って復活していく。
 太陽の復活が完全に仕上がるのが春分の日ころ。ヨーロッパ農耕民の春祭りは、キリスト教ではイースター復活祭として祝われる。

 東洋の太陰暦(旧暦)では冬至が暦の起点とされ、中国では冬至の儀式を行っていました。日本では中世から、宮中などで朔旦冬至(さくたんとうじ)という行事になっています。「かぼちゃを食べると風邪引かない」などの民間行事は、この朔旦冬至が広まったもの。

 東洋でも西洋でも、太陽の生まれ変わりを意識したのですね。
 そして、イエスの誕生日とされたクリスマスは、世界中のキリスト教信者にとって大切な日になったし、キリスト教信者ではない多くの人々にとっても、家族や友達との絆を感じる行事のひとつになりました。

 ♪も~ろびと~こぞりて♪と、歌いながら、ゥン?もろびとって、モロ人?パリサイ人?ヘブライ人?って思った方、「諸人もろびと」は、すべての人って意味ですけど、日常語としては使いませんよね。

 「こぞりて」のほうは、「挙る(こぞる)=みなでうち揃う」という意味です。
 でも、「クラス会に全員こぞりました」なんていう人は、たぶんいない。動詞「こぞる」という単語はもはや使うことがなくなっています。死語です。

 「こぞる」の連用形「こぞり」に「て」がついて、日本語教育でいうところの「テ形」になった。「こぞりて」
 動詞としては使う人が居なくなったけれど、音便形の「こぞって」は、副詞句として使われています。「みなさま、こぞってご応募ください」というように。

 ことばの世界も、太陽の生まれ変わりと同じように、生まれたり死んだり育ったり衰えたりです。
 江戸のことばは昭和には死語、昭和のことばは平成には瀕死語。でも新しいことばは次々にうまれ、古いことばも生まれ変わる。

 社会のなかで日常語として使われなくなったことばを、便宜的に「死語」まもなく絶滅しそうな語を「瀕死語」と呼ぶ。
 便宜的に、というのは、「死語」には、もうひとつ別の意味があるから。

 言語学では、古代ラテン語、古代フェニキア語、中国古代西夏語など、その言語を日常語として使う民族がいなくなってしまった言語を「死語」と定義している。
 私は、この「母語として話す人々がいなくなってしまった言語」を「話者が消えた言語」「話者滅亡語」と呼んで区別しようと思っている。

 母語として家庭のなかで話さなくなったら、その言語は「話者滅亡語」です。
 できることなら、もろびとこぞりて、母語を大切にしたいです。

 そして、できることなら、母語としては話者がいなくなってしまった言語「アイヌ語」をも、日本の大切な言語文化として復活させたいです。
 冬至の祭は復活へのまつり。

<酢豆腐おわり>


ぽかぽか春庭「落語でおいしい日本語食堂」

2008-08-22 13:34:00 | 日記
食うか食われるか【落語で美味しい日本語食堂】
 メイド喫茶に漫画喫茶、ジャグリングカフェ、マジックショウレストラン、なんでもありの日本ですが、「にほんご食堂」はいかがでしょうか。雅楽やら落語やらライブで聞きながら、日本語トリビア楽しめる、一石二鳥の美味しい話。


呼び込み口上

【1】ぱる子の呼び込み「いらっしゃいませ」

(1ー1)食前に尺八生演奏はいかが?
<おしぼりをサービス>

 いらっしゃいませ。こんにちは。席亭春庭にかわりまして、ご挨拶申し上げます。
 モギリ、めくり、お茶だし、なんでもこなすパル子です。
 職名は、ウェイトレス、メイド、コンパニオン、なんでもいいんだけど。「落語演芸ライブつきにほんご食堂の従業員」ってとこで。
 
 ぱる子といっしょに、落語をサカナに日本語トリビアで一献傾け出見るのもなかなかオツで、、、、。
 酒の肴は、サンマにうなぎ、豆腐をはじめ、おつまみ豊富。仕上げのお食事も、釜だきごはん、蕎麦もございます。デザートにはまんじゅうも羊羹も。

 「え~、日本語毎日しゃべっているし、メールもできるし、今更勉強せんでも、十分、日本語の達人だ!」と、自信たっぷりの人もどうぞ、ひとくちお味見を。
 「そりゃ、漢字とか自信ないけど、毎日の生活では不自由なし」と、思っている人、食わず嫌いをなくしましょう。日本語トリビア、おもしろいんですよ。まあひとくち食べてみてね。

 「また、日本語の正しい使い方とか、説教かよ、ことばなんて通じればいいんだよ、と、思ったあなた。
 「正しい日本語」なんて、にほんご食堂にはありません。乱れて、こわれて、いいんです。

 キャバレークラブ、略してキャバクラとかってお金のかかりそうなクラブ活動には、ご無沙汰、ふところに秋のかぜ、お出かけしないっていう真面目なあなた。そう、あなたがモテないことには変わりないから、暇つぶしにごいっしょにニホンゴを楽しみましょうよ。
 ぱる子がまじめにサービスいたします。

 ぱる子、つつとあなたのおそばににじり寄り、
 「いらっしゃいませぇ!あたしぃ、このお仕事を始めてからまだ日が浅くてぇ、あまりいろいろわかってないけど、いっしょうけんめい勤めさせていただきま~す。よろしくねっっ。

(1-2)ご来場のごあいさつ
     尺八、古楽乱声(こがくらんじょう)

 お客さん、ようすがいいわねぇ。本気でサービスしちゃうから。はいっ、まずはおしぼり。

 「ようすがいい」なんてチョウ古い日本語つかうところをみると、年は百歳越えているだろうってっ!ま、女に年齢はきかないものよっ。あとでぱる子が「おんな」か「をんな」か、教えてアゲル、、、

 お客さん、本番?生、いく? あ、うち、尺八生演奏禁止なの。ひちりきと笙の笛なら、演奏できるけど。
 はい、ひちりき演奏ね。かしこまりました、喜んで!

 では、ひちりきを演奏します。1曲目は「越天楽」でぇ~す。
 ♪ヒューヒャアラ、ヒャラヒャラリコ、ヒャアラー リィコォリー~♪。

 普段は1曲だけなんだけど、お客さん、あたしのタイプだから、特別に2曲演奏するわね。サービス、さーびす。

 あれ?何かべつのサービス期待した?
 だから、尺八生演奏はできないって言ってるでしょ。
 ぱる子のサービスでは、ひちりき笙の笛で、「雅楽」演奏聞かせるんですよぉ。
 東儀秀樹の本番生演奏じゃないのが残念だけど、CDとかで。

 日本文化の神髄の紹介ですわん。あ、神髄いらないの?随喜のほうがいいんですか。ヒゴ特産のほうの。

 では、2曲めを。あら、いらないの?せっかくのスペシャルサービスなのに。
 2曲めがすごくいいんです。
 「越天楽」ほど、知られてないんですけど、「古楽乱声(こがくらんじょう)」って曲なんです。乱声、、、すごっく乱れちゃおうと思ったのにぃ。残念!

 ほらほら、もっと飲んで乱れましょうよ。ろれつ回らなくなってもOK。
 「ろれつ」ってのは、雅楽演奏の「呂」と「律」の音階「呂律りょりつ」がなまったものだって。
 ほらね、雅楽演奏も、ちゃあんと現代日本語に生きてるの。
 楽しく乱れつつ、呂律まわったニホンゴを習得できます。斯うご期待!

 席亭春庭が懇親経営の「落語で美味しい日本語食堂」
 メイドぱる子もがんばります。

 二つ目修行中の三人が落語かたりながら、日本語トリビア伝授いたしますれば、なにとぞごひいきにお運びくださりたく、よろしくおねがいたてまつって申し上げあげあげ、、あれ、ろれつが回らなくなってきた。

 高座をあい勤めますのは、古今鼎東西線、鶴屋南北線、討究目黒線の三人でございます。いずれも修行中の身ゆえ、ろれつ回らなくなることもございますが、どうぞ、あたたかい目で応援してやってくださいまし。

 じゃ、「違いがわかるオ・ン・ナの高座」をきいていってね。


( ♪出囃は「食い放題インターナショナル・ダイエットは明日から」)
http://utagoekissa.music.coocan.jp/utagoe.php?title=inter (HPうたごえ喫茶のび)

♪ 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 腹は血に燃えて 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの

♪ 聞け我等が雄たけび 天地轟きて 脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな) 今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん いざ 奮い立て いざ あぁ インターナショナル 我等がもの

2007/01/20
突き出しチョットお味見

【2】突き出しつまみ食い(お茶を一服、日本語の音)
ハハは強し、ヲンナもオンナもみなつよし

(2-1)日本語も性転換?
    「今は昔」でどんどん変わる、昔むかし、日本の母はパパだった
<熱いお茶をご提供>

 どうも、飛びはね呼び込みモギリメイドの、ぱる子、少々やかましかったかと存じますが、ご容赦のほどを。あれでも、春庭亭をもり立てて、お客さん呼び込もうって一生懸命なんですから。
 ああみえて、パル子、一応生まれたときから「オ・ン・ナ」のようでございます。よくは知りませんが、ニューハーフとかじゃありませんで。

 女をもう、ン十年やってるから、ちょっと新鮮味が落ちてるかもしれません。出産2回のジュクじゅくのじゅく女でそうで。
 ぱる子申しますに、「アタシ、娘と息子を育て上げた、心やさしきニッポンのハハなのよ、塾で教えた経験もアリの塾女なのよ、と語っておりましたが、何を教える塾だったのやら。

 え?パル子に「古楽乱声」を強制されそうになった?もう、ほんと、失礼いたしました。乱れ声の塾だったのかもしれませんね。

 申し遅れました。鶴屋南北線と申します。
 飛びはね熟女のぱる子に代わりまして、すこしく、日本語のお話を。
 少々かための噛み心地ながら、噛めばかむほど味の出てくる、するめのようなてれすこのような、ふか~い味わいですので、どうぞ、お逃げにならず。

 まずは、お茶だし。緑茶も番茶もございます。一服どうぞ。お熱いのでお気をつけて。ぬるめがお好みなら、ふーっと、さまして召し上がってっくださいまし。

 パル子、心やさしき日本の母だと自称しておりますが、さあて、母は、昔パパだったってことをこれからお話申し上げます。

 昔、むかし、日本の母は、全員パパだった。
 昔はパパが子供に胸のおっぱい飲ませていたんです。
 えっ、母はパパから性転換したの?って、驚かれるかと存じますが、性転換ならぬ、音声転換なんです、これが。

 日本語は、昔と今とではだいぶ変わってきています。語彙も発音も変わってきました。
 「日本の母は、昔むかし、全員パパだった」というクイズのヒント→ 昔むかしの日本語は、現代のH音がP音だった。

 実はヒントがそのまま答えです。日本語H音は、室町末期ごろは、F音でした。
 現代語では、ハHa ヒHi フFu ヘHe ホHoと、フの音にF音が残っています。「ふじやま」を英語表記するとき、ヘボン式ローマ字ではFujiyamaと書いています。

 「はひふへほ」の発音、室町末期はファ・フィ・フ・フェ・フォFa Fi Fu Fe Foと発音していました。
 さらに遡ると、Fa行の音はP音だったから、は行の音は、ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ(Pa Pi Pu Pe Po)と発音していました。

 「ハハ」は、パパと発音していた。花はパナと発音し、春はパルでした。春庭は、パルニワ。

 H音とF音の違いを知る方法があります。

 口の前に手のひらをかざす。「今日は寒いですね。手を温めましょう。息を吹きかけて温めて」
 手のひらに「ハーッ」と息をかける。ハーッというと、温かい息が手にかかる。

 次に、「やかんにさわった。あ、熱い。やけどしそう。手のひらの温度を下げましょう。息を吹きかけて」というと、今度は「フーッ」と息をかける。

 どうして、寒いときは温めるために「ハーッ」といい、熱いお茶をさますときなどは「ハー」ではなく、「フーッ」というのか。

 そう、H音は、のどの奥から息を出すので、息が温かい。F音は、唇から出す息なので、寒い。ハヒフヘホのうち、「フ」だけが、唇から出るF音で、仲間はずれです。

 普段は、自分の口から出る音が、どのように作り出されているかなどということは、意識しないでことばをしゃべっています。

 「今は昔」で、どんどん変わる、昔むかし、日本の母はパパだった
 

2007/01/28

突き出しオトメの味
(2-3)突き出し乙女試食
    オンナとヲンナ、ヲトメと姥

 ハハがパパだったころの古代の発音、「わゐうゑを」は、ワ・ウィ・ウ・ウェ・ウォwa wi wu we wo という半母音であったものと思われます。

 平安時代に、ひらがなが出来て「あめつちの歌」や「いろは歌」が成立するころには、すでにwuは「う」と同じになっていて、wuに相当する仮名文字はありませんでした。
 でも、wiゐ、weゑの発音はア行の「い」「え」と別の発音でした。「woを」と「oお」も別々の発音。

 古代語で「おんなonna」は年をとった女性、「をんなwonnna」は若い女性をさし、異なる発音で区別していました。
 しかし、現代では、「お」と「を」の発音が同じになり、「おんな」は、若くても年寄りでも同じ「女」です。

 現在、「を」の文字は、助詞の「を」にのみ使用されていますが、「お」と「を」の発音は同じ。訓令式ローマ字表記ではどちらも「o」です。
 謡曲の発音では「お」と「を」を区別し、また、方言によっては、昔の発音通りにきちんと「を」は「wo」、「お」は「o」と、区別している地方もあります。

 たとえば、九州地方の方はお年寄りだけでなく高校生たちも、助詞の「を」は、今でも「をwo」だそうですし、長崎出身の福山雅治の歌を聴くと、彼は、「をwo」と発音しています。

 『ミルクティ』で♪愛される明日を夢みる~、『桜坂』♪恋をしている~、などでも「をwo」が聞き取れますが、『セーラー服と機関銃』でいちばんはっきり分かります。
♪愛した男たちwo~ ♪タダこのまま冷たい頬woあたためたいけど~ ♪いつの日にか僕のことwo 思い出すがいい~ ♪希望という名の重い荷wo~


 文字による日本語の記録が始まった飛鳥奈良時代以前に、「男」「乙女」が日本語単語として存在していました。
 「若い」という意味の「をと」。プラス「女」(め)で、「乙女」(をとめ)。

 「をとこ」は、「をと」プラス、「子」です。この「をと」に人をつけると、をと人(ヲトヒト)→弟(をとうと)。

 奈良時代に「小さいという意味の「を」と女性をあらわす「み」、人をあらわす「な」をもとに「をみな」が成立。平安時代に「をみな」の「み」が撥音便化し、「女」(をんな)に変化しました。「をんな」は、若くて小さい女性。

 「をのこ」「を人=をひと→をっと」の「を」は、若い牡。

 「大きい」という意味の「お」をもとに「おみな」が成立。撥音便によって「おんな」となる。「おんな」は、大きい女、年取った女。
 のちに、「み」がウ音便化して、「嫗(おうな)」も成立。

 古語で「み」(女を表す)に対応する言葉は、「き」(男を表す)です。イザナキは男の神、イザナミは女の神。
 ここから、「おんな」の対義語「翁」(おきな)が成立。中世になると、翁の対義語として「姥(うば)」も出現してきました。

「をとこ」「をのこ」vs「をとめ」「をんな」→若い方
「おとこ」「おきな」vs「おんな」「おうな」「うば」→年寄りのほう。

 花の「をとめ」の時代は短し。あっという間に蕾みも満開、を!という間にをとめも散りぬる。
えっという間に女盛りもゆきすぎて、おお、たちまちにして姥となる。

 一方、「産」(むす)と「子」(こ)から「息子」、「産」(むす)と「女」(め)から「娘」(むすめ)という言葉ができた。現在「娘」は、一般の若い女性をさすが、もともとは、親からみて、自分が産んだ「め」のこと。

 さて、「をんな」と「おんな」、おつきあい願うなら、どちらでしたか?
 わたくしは「女」ですが、ひらがなだと、さて、どちらやら。現代かなづかいでは、若くても古びていても「おんな」でいいんですもんね。

 あ、「姥だろう」って言った人、怒りますよ!、、、、、正解ですが。

<ハハとヲトメとオンナとヲンナ おわり>

( ♪出囃は「食い放題インターナショナル・ダイエットは明日から」)
http://utagoekissa.music.coocan.jp/utagoe.php?title=inter (HPうたごえ喫茶のび)


2007/01/28

明烏
【3】明烏 (赤飯食べて、ことばの意味の拡大縮小)

(3-1)明け方に、デレる?

 古今鼎東西線、明烏をお伺い申し上げます。

 日本語の生々流転、花がパナからファナへ、それからハナへなど音声が移り変わってきただけでなく、文法も語の意味も、日々あらたに生まれ変わっております。

 文法の変化の一例。
 年輩者が毛嫌いしていた「出れる」「見れる」の「ラ抜き可能形」。
 今、若者は99,9%こちらです。変わってしまったんですから、もう、変化は止められません。

 たまに「今朝は、6時半の新幹線で宇都宮を出られましたから、1限目の授業に間に合いました」なんて、「出られる」を使う日本人学生がいると、「おっ、ラレル派、残存だね」と、思ってしまうくらいです。

 現在、宇都宮高崎あたりは東京まで通学派が増えています。新幹線で通っても、東京に下宿するより安いんだって。でも、近頃の学生さんが明け方の電車に乗るのは、なかなかたいへんみたい。

 昔、私は親元から「でれる」とばかりに東京をめざしましたが、今の学生、「親元にいたほうが、ご飯も作ってもらえるしぃ」と、親がかりでいるほうを喜ぶっていうんですから、世も変わりました。
 パラサイトしていたほうが、楽っていうんですから。

 うちの与太郎なんぞも、親元通学派でして。大学まで自転車通学していて、ガールフレンドのひとりもできそうになく、これはこのまま一生パラサイトかな、と、、、、
 いつの世も、親というのは我が子の成長が気になり、どうにか早く世の酸いも甘いもかみ分けて、一人前になっておくれ、と育てているんですが。

 江戸の昔も、親御がセガレの成長を心待ちにすることは、おんなじでございました。
 え~、『明烏』をご紹介いたしましょう。

 堅物で、部屋にこもって本ばかり読んでいるという金持ちぼんぼんの若旦那がおりました。
 二十歳をすぎても、読書の秋とはいわず、一年中、論語だの実語教だのと、本を読んですごしております。

 たまに外へ出てまたと思うと、「お稲荷さまへ参詣いたしましたら、善兵衛さんがいらっしゃいまして、若旦那、若旦那、お赤飯をめしあがれと申しましたから、ごちそうになってまいりましたが、お煮しめのお味がまことに結構でございましたから、おかわりをいたしまして、三膳ちょうだいいたしました」と、無邪気なもので、親父さまも、「あきれたねぇ、どうも、こまった跡取りだ」と、思案顔。

 数えの21をすぎても、とんとネンネのままの息子をながめて、「世渡りにはつきあいも大事、あそびも社会勉強のひとつなのに」と、案じた親父さん、「これでは一人前の男になれないんじゃないか、息子を少し変えてやってくれまいか」と、町内のワルふたりに、吉原遊びの案内役を頼みました。

 堅物の息子に、社会勉強をさせてやりたい、少しは世の中の柔軟さを身につけさせたいという親心。まるきりの坊やですのでちょっとはオトナの男にしてやってほしい、というわけです。

 吉原遊びに使うお金は、旦那持ちだと心得て、ワルふたりは、若旦那を連れ出しました。 おいなり様への参詣だということに仕立て、吉原大門を鳥居だと言って中へ連れ込みます。
 
(3-2)若旦那生まれ変わる

 江戸が東京へと移ってからも、樋口一葉が名作『たけくらべ』で
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝(どぶ)に 燈火(ともしび)うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の 行來(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらなひて、、、、」
と、描写いたしました、吉原大門。

 現在の吉原は、ソープ街として生き残っております。ソープ街といっても、洗濯石けん卸問屋じゃ、ありません。

 さて、だまされたと知り、堅物の若旦那は逃げ帰ろうとします。「ここは悪の巣窟」なんて思っている場所ですから。
 帰してしまったら、旦那から「息子をオトナの男に変えてやってくれ」と、頼まれたことがフイになります。

 そこで、ふたりは、「三人いっしょに大門をくぐったことは、ちゃんと帳面に書いてあるから、一人で帰ったりしたら、怪しいやつと思われて、とっつかまる」と、若旦那を脅し、ようやく妓楼にあがりました。

 てんやわんやの一晩がすぎ、若旦那、敵娼(あいかた)の布団のなかで、ちゃんと世の中のお勉強を仕上げる、という一席です。

 若旦那、一皮むけて、あらたに生まれ変わったんじゃないでしょうか。
 あのですね、ここんとこの一皮むけたっていうのは、下半身のごく一部のことじゃなくて、全身新しい自分を発見できたってことですから。
 あらたに、あたらしい、ってところです。

 「若旦那の敵娼(あいかた)」と言っても、若い人には「アイカタ」といえば、「漫才ペアの相手を呼ぶ」「いつもいっしょにいる仲良し友達の片方」くらいの意味で使っていますから、廓噺など、江戸吉原の話のとき、「あいかた」といえば、客の相手をする娼妓をさすことを説明しなければなりません。

 「あいかた」などは、「ペアになる相手」とほぼ同義です。しかし、現在の使い方では「敵娼」という意味で使う人がいなくなっています。このような場合、「アイカタの意味が縮小した」といいます。

 「あいかた」の意味が縮小したのに対して、奥様は拡大しました。
 江戸時代には、ずずっと奥の間のそのまた奥に住んでいらっしゃるお屋敷の奥方を意味した奥様。

 現代では、もちろんお屋敷のおくぅ~のほうに住んでいる方もさしますが、春庭のように、玄関からずずっと奥に行こうと思うと、ベランダから下へ落っこちてしまうような2DKに住んでいていても、既婚女性にはとりあえず「おくさん」と呼びかけることになっています。
 奥様は「お屋敷の奥に住む方」から「既婚女性」へと、「意味が拡大した」

 奥様のように、意味が拡大した語もあれば、「女房」のように、「宮中へ宮仕えする女人」から「自分の妻」へと、意味が移行した語もあります。

 「房=部屋」のうち、女性が住まいする部屋が「女房」であり、宮中の部屋を賜っている女性をも「女房」と呼んだ。

 もう、意味が変わっていますから、春庭のように、自分の部屋もなく、台所にパソコンおいてキーボード打っていても「女房」です。

 意味が変われば、「女房」などの語源も忘れられてしまいます。
 かように、言葉の意味は、栄枯盛衰、常に生まれ変わるものなんです。

 女房など、「語源を知らないまま使っている」という語は山のようにあります。


(3-4)やばいセンセーと猟奇的な彼女

 昔と今と、意味が変わってしまった「あたらし」。
 変化が起きたのは平安時代のことでした。そんな昔のことは、だれも覚えちゃおりませんが、最近のことばでも意味はどんどん変わります。

 たとえば「ヤバい」
 私たちの世代では「ヤバい」は、「危ない、危険そうでよくない」という意味合いの俗語でした。「やばい薬」といえば、そんなもんに手を出したら人生ヤバくなってまいります。

 が、最近の若いもんは、「この服カッワイー。ねぇヤバくない?ちょー似合うから買おう」「ヤベェ、すげぇ美味ぇよ」なんて使い方をしており、相手に向かって「ヤバい」と言ったら、誉め言葉になるんでございます。

 「センセの授業、ちょーヤバい」と学生に言われたら、私、にんまりです。
 学生が「センセー、レポート提出の期限に出せないんです。1週間のばしてください」なんて、「ごねて」きたときも、甘いセンセで通しています。ヤバいセンセですから。

 私、「やばい」という語は、「やー様」関連の俗語と思っていたのですが、『広辞苑』には、江戸の戯作本、やじさんきたさんが登場する『東海道中膝栗毛』の用例として、「やば」をあげています。

 「おどれら、やばなこと働きくさるな」と言うせりふ。
 「やばなこと」は、けしからぬこと、奇怪なこと、危険なこと。

 語源については、「江戸時代の牢屋を意味する厄場(やば)から」と、堀井令以知が書いた岩波新書『ことばの由来』に、一説がある。
 「犯罪者を収容するところが厄場(やば)」と、書いてあります。

 このような語の印象、価値観が変わることを語彙論では「語の価値の上昇下降」といいます。 「やばい」のようなマイナスのことばがプラスの意味で使われるようになったり、「僕」という「しもべ」「召し使われる人」という言葉が「男性が使う一人称の語」に変わり、語の価値が上昇した場合もあります。

 また、「奥様」が「お屋敷の奥の方にいらっしゃる方」と、尊敬の念を含む語であったものから、「一般的に既婚女性に呼びかける語」へと、語の意味が拡大して、語の価値が下降した場合もあります。

 このような語の意味の変化と語の価値の上下は、外国のことばにもあります。
 韓国映画「猟奇的な彼女」、主人公の女子学生がかわいらしく、魅力的でした。でも、英語のタイトルは「My Sassy Girl 」。「私の生意気な女の子」でした。
 日本語できくと「猟奇的な」と「生意気な」では、ずいぶん語感がちがいますが。

 韓国語の「ヨプキジョク(猟奇的)」(怪奇・異常な)は、「普通と変わっていて、個性的でかっこいい」と、意味が拡大しているのです。
 ほかにも、韓国語では、「チュギダ」(殺す)が「かっこいい・いかす・すごい」に変わっています。

 英語でも、cool boyといえば、もとは「冷淡な、熱のない、ずうずうしい」男、だったのに、今では「冷静で理知的な、とても素敵で格好いい」男、に変わっています。


(3-5)寿司は一カンずつ食う?

 変わる言葉の意味。その大元を知ってみたいのも世の道理。
 ただし、言葉のみなもと、語源は諸説あり、どれが本当なのか、はっきりわかっている語は少のうございます。
 語源がはっきりしている語もあれば、なんだか諸説紛々でわからない語もあります。

 「どうして寿司を1カン2カンって、数えるンですか」と、好奇心のかたまり知りたがりの古今鼎がたずねると、寿司屋のおやじさん、待ってましたその質問、とばかりに「江戸前寿司は、一個を一貫の値段で売ってたから」と、蘊蓄語る人もいるし、「関西じゃ、巻き寿司を1巻2カンと数えたから」という人も。

 もっともらしい説だとつい、本気にしたくなりますが、『三枚起請文』にもありますとおり、遊女の「あんたと添い遂げられなければ死にます」なんてことばと、民間語源は、本気にしちゃいけません。

 わたくし、教わった語源を信じこんで、すぐ吹聴したくなるんですけれど、でも、日本語修行中の身だから、一応確かめてみると、はい、これ、みんな民間語源でした。

 江戸時代、屋台で売っていて、手軽な庶民の食べ物だった寿司。 
 1個が一貫文って、ほんとう?
 「一貫」、江戸300年間の時代によって貨幣価値に変動はあるけれど、現在のお金に換算すれば約1万円くらい。今でも、銀座老舗の鮨屋なら一カン1万円のあるとは思いますが、春庭御用達の回転寿司なら一皿100円200円。

 寿司ひとつが1万円もするんじゃ、春庭亭の一同、寿司屋がこわくて入れませんし、江戸の昔だって八っつあんも熊公もおいそれとは食べられません。

 そもそも、江戸時代は、寿司を1カン2カンとは数えていなかったらしい。
 この数え方が広まったのは昭和になってから、というのが、文献でたどれるところの限界みたいです。

 職人ことば、武家ことば、女房(御所)ことばなど、由来がわかっている語もございますが、たいていの「語源」は、こじつけだったり、民間語源といって、適当な話をそれらしくこしらえたものが多いんです。

 「結局、なんで1カンなのか、わからないんですねっ。ここまで真面目に読んできたのに、わかんないなら、書くな!ヘッポコ日本語教師め!」なんて、ごねる方がいたりしても、いかんともしがたく、、、、、。 


(3-5)涅槃でごねる

 江戸時代の「ごねる」
 私が今つかっている「ごねる」は、「強く主張し、文句をつけたり、いいがかりを言ったりすること」「ぐずぐずと理不尽な文句を言い続ける」という意味です。

 しかし、「ごねる」は、江戸庶民にとっての意味は違っておりました。
 意味が変化したのです。昔は「ゴネ得」のためにはつかっておりませんでした。

 ヤバイが誉め言葉になったというと、古い私たち世代はびっくりいたしますが、「ごねる」が「文句を言い続ける」という意味で使われているのを江戸の人が知ったら、驚くかもしれません。

 江戸時代には、「あいつもついに、ごねたよ」「シヌだの生きるだの騒いでたけど、やっとこ、ごねたかい。南無まいだ、ナンマイダ」なんていう会話で使っていました。
 浄瑠璃の『ひらかな盛衰記』には、「こいつ、ごねたか、しゃちばりかえって」という一節があります。

 それが、「ごてる」との混用から、「ごねる」が「理屈に合わないことを主張して文句をつける」ことに、意味が変わりました。
 今では「ごねる」を「死ぬ」意味で使う人はいません。

  「ごねる」のもとの形は「御涅槃る=ごねはんる 」という説があります。
 「ごねはんる」の省略語が、「ごねる」でした。

 涅槃(ねはん)とは、お釈迦さまが到達した静かで安らかな悟りの境地。お釈迦様は「御涅槃る」ことができたわけです。
 「ごねる」の語源が「御涅槃る」だったなんて、知りませんでした、わたくしも。

(3-6)別嬪とご涅槃る

 原義は「お釈迦様のように涅槃の境地に入る」だった「ごねる」。
 我ら凡俗は、どう逆立ちしても生きているうちはこのような安らかな涅槃の境地にいくことはありません。

 最後の最後まで世俗の欲にのたうちまわって生きるでしょうから、涅槃の境地に至るのは、死んだあとのことになってしまいます。
 そこで、凡俗江戸市民にとって「御涅槃る=ごねる」とは、「死ぬこと」でした。

 語源に諸説ある語、たとえば「べっぴん」さん。
 和風で江戸情緒のある器量よしには、美人さんというよりべっぴんさんのほうが似つかわしい。なぜ、美人を「べっぴん」と言うか。2説あります。

 一説によると。
 「特別によい品」を表すことばを「別品」と言った。
 人にも応用して美人を「別品」と呼び、二葉亭四迷は「別品」と表記しましたが、あて字好きの漱石は「別嬪」の字を使いました。

 もう一説では。大宝律令の「后」の規定から。
 古代の法律、律令のきまりでは、天皇は、公式には10人の妻を持てた。
 皇后は、皇族の娘からひとり選ばれる。「妃(きさい)」はふたり。「夫人(ぶにん)」は3人。「嬪(ひん)」は4人。

 一番下のヒンといえども、そんじょそこらの無位の家の娘じゃいけません。「嬪」に選ばれるのは、五位以上の位をもっている家柄から。
 この10人の妻は、いわば「律令に基づく公式の結婚相手」として遇される。

 もし、五位以下の家柄の娘がお気にめしたときはどうするか、「別格の嬪」として、「別嬪」が、非公式に閨(ねや)に侍(はべ)る。
 こちらの説は、もっともらしい分、こじつけのような気がしますが、もともと語源なんてのは、「ぜったいこれが正しい」というのがわかっているほうが少ない。
 
 どちらの説がいいかは、どうぞ、ご自由に。
 なんですっ?「別嬪」がどっちの説だろうとかまわないから、見目良き別嬪さんとふたりっきりで「涅槃」の境地にでも入ってみたい、ですって。
 
 はいはい、「御涅槃る」の境地で、別嬪さんに「シヌしぬ~」とでも言わせてやっておくんなさいまし。

 あ、ここで帰っちゃいけません。まだまだ、高座はつづきます。ここで読むのをやめてお帰りになるってぇと、大門で止められます。
 HP大門の門番が、ちゃんと頭数を数えていて、途中で読むのやめると、ロックかけることになっております。

 足止め食らったところで、明烏完食となりました。
 春庭・落語で美味しい日本語食堂、次回もよろしくお運びのほどを。
  お口に合うやらあわぬやら、ちょいとアブないお味かも。

<明烏 おわり>

写文ガルシア・マルケス(田澤耕:翻訳)2008/08/21

2008-08-21 13:20:00 | 日記
nipponianippon
G・ガルシアマルケス著
田澤耕:翻訳
辞書を「書いた」女性

==========
 三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。

 マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。

 マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の視覚を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。

 アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかがシメされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書都市t五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを松ばかりのカードの鯖の厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。

 息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく例背に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎tに地の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞でみつけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。

 マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
==========
[訳者注]
 最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
 この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。(G・Garcia Marquez・作家)

(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo

『アメリカ大統領選と文学的対話 』への感想2008/08/18

2008-08-18 22:08:00 | 日記
『アメリカ大統領選と文学的対話 』への感想

nipponianippon
 
 『ポール・オースターは「父親」という男性原理の危険性を自覚したところから、治癒と回復、生き延びることを模索しているように思われる。』
 『我々は、国家リーダーに「父親」イメージを重ね、男性原理の実現を求めるのが常だが、それが暴力と破壊に至る道であることは、歴史や今回取り上げた小説や戯曲が示すとおりである。今回のアメリカ大統領選に限らず、21世紀における社会的リーダーの資質と役割についての議論と考察を深める上で、文学的対話は有効であると考える。』

という松岡論の結びのことばは、文学に関わりたいと願っている私にとっては、「希望」を感じさせてくれることばでした。オバマ勝利の報をきいたオバマ支持者と同じくらいに。「文学に今、何ができるのか」という20世紀のおわりから今まで、あきるほど聞かされた文学無力論。それでも私は文学を読みたい、文学がなしえることばの力を信じたいと思って文学のしっぽにぶら下がってきました。
 21世紀の社会的リーダー論でも、人間が人間としてあるその存在のすべてについての議論でも、文学的対話の有効性を信じて、これからも読むことを続けていきたいと思います。

 11月5日。私は、出講先の大学が創立記念日全学休講になったので、午後1時すぎからのオバマ勝利演説をライブで聞くことができました。シカゴからの中継、アメリカ史にとって、これから長く語り継がれるのであろう15分の演説を聞きました。
 106歳で投票したというジョージア州アトランタ在住の黒人女性、アン・クーパーを演説にとりあげたのは、とても効果的だったと思います。(今や彼女は、アフリカ系アメリカンの中で、オバマの次に有名な人物になったそうです)

 同時通訳者の訳と同時に聞いてのことではありますが、彼の演説はとてもわかりやすく、聞きやすいと感じました。アフリカ系アジア系ヒスパニックその他の人々にもわかりやすい英語を、という配慮から練りにねった英語だったのでしょうか。上層白人英語とは縁遠い層が彼に投票し、得票のなかには、これまで一度も投票したことのない層が1割を占めたと、報道されていました。アメリカ経済をにぎっている富裕層からのからの反発に対してこれからどのような政策をしめしていくのでしょうか。狂信的白人主義者はアメリカ3億人の中の何パーセントかわかりませんが、とまれ、オバマは、今後「史上もっとも暗殺される危険性の高い大統領」として、生きていくことになるのでしょうね。オバマは、中絶法案に面と向かっては反対していないから、彼を支持しない、とする中絶反対論者もいるし、これから先、選挙勝利の熱狂がさめたあとに、どのような反発が噴出するのか、来年の1月就任演説のあとまで心配です。

 私が彼に感じたのは、ブッシュJr.にむき出しに現れていた「アメリカの父」たらんとする男性原理が、オバマの場合少し違うのではないか、という点でした。

 ブッシュJr.は、父親も大統領であった二代目ゆえ、より一層「父を超える偉大なアメリカの父」になりたいというやみくもな男性原理体現者として存在しているように見えました。一方オバマは、ケニア・ルオー族出身の実父とはすぐに離ればなれになり、インドネシア人の「母の夫」と子供時代を過ごした、という生い立ちのせいかどうかわかりませんが、ブッシュJr.のような「男性原理」一辺倒ではないように感じられたのです。

 タイ、インドネシアやマレーシアの男性は、仏教徒であれイスラム教徒であれ、キリスト教徒ユダヤ教徒的な「父」イメージとは、異なる印象を持つ男性が多い。モンスーン的アジアとでも言える、「大地の母」志向の男性達に私には思えます。留学生を通しての印象ですから、違っているかもしれません。しかし、日本もそのひとつである「母性原理」をその本来の姿としてきたアジアの人間にとって、オバマはブッシュやマケインよりははるかに親しみを感じさせる姿で勝利演説を行っていました。

 アメリカが「世界の父」であろうとすることから生じてきたゆがみに気付き、「父性」「力」「資本の力」で社会支配を続けようとする罅に気付くことが、オバマ政権下で可能になるのか、見続けたいと思います。Yes we can. たぶん、、、



オセロ考あとがき2008/08/17

2008-08-17 10:38:00 | 日記
<あとがき>
(その1)
 1974年に大学に提出した私の最初の卒業論文は『古事記』でした。
 『古事記』を、「言語人類学」「比較神話学」のふたつの方向で読み直してみようと思い、大林太良(おおばやし たりょう)の比較神話学の著作『日本神話の起源(1961)』『神話学入門(1966)』などを参考にしながら、古事記の冒頭の部分を自分なりに解釈しました。
 『古事記』の国生みの話は、アジアの各地に類話があります。
 いざなぎがいざなみを黄泉の国まで追っていく話は、ギリシア神話の『オルフェウス』によく似ている。(日本語で広まっている「オルフェウス」は、古典ギリシア語では「オルペウス」。現代フランス語では「オルフェ」)
 世界各地に伝わる民話や建国神話、国のはじまりの神話のモチーフのうち、「見るなのタブー(見てはいけないという禁忌の物語)」は、日本でも民話「鶴女房」「見るなの座敷(タンスの中の田圃)(うぐいす女房)などの類話」などとなって、伝承されてきました。
 何かをしている所を「見るな」とタブーが課せられたにもかかわらず、それを見てしまった男女に大きな悲劇(多くは離別)という運命が科せられる。
 民話の類型としては「禁室型(きんしつがた・見てはならない部屋をのぞく話)」と分類されています。
 異類の者と結婚をした男が、見るなのタブーを犯して異類の者の本当の姿を見てしまい、それが元で離別するという話は、メルシナ型(メリュジーヌ・モチーフ)とも呼ばれています。
 フランスの伝説に登場するメリュジーヌの伝承をはじめ、多くは、二人の間の子孫が王などの始祖となったという建国神話となっています。
 日本の「イザナミイザナギ」伝承も、日本建国につながる話です。
 古事記だけでなく、各地にはさまざまな神話伝承があり、比較すると似通った説話が数多く見いだされます。神話や伝説のエピソードの中に、世界各地の伝承話が似通っていることが見いだされて以後、物語の類型分類もなされてきました。
 「物語」は、時空を越えて移動します。
 古事記の歌謡や万葉集のなかにある「浦島子のはなし」は、のちにおとぎ話「浦島太郎」になるが、「浦島子」の類話は、アジア各地にあります。
 文化の伝播と受容変容は、1970年以来、40年近く、私にとって、興味の対象となりました。

(その2)
 中学校国語科教師退職後、1977年から、2度目の大学生活をはじめました。演劇史や比較芸能論について、郡司正勝教授、河竹登志夫教授らに学びました。
 1979年から1980年にかけて、「演劇人類学」「民族芸能学」を志して、東アフリカ・ケニアの芸能をフィールドワーク調査するため、ナイロビ市を中心にケニアで9ヶ月を過ごしました。アフリカ伝統舞踊にふれるなど、有益な時間をもつことができましたが、比較演劇、比較芸能論についての研究は中途断念せざるをえませんでした。日本に帰国後は、結婚出産などがあったためです。
 出産後、娘が2歳になったとき、3度目の大学生となって入学し、日本語教育へと専門をシフトしました。在学中、日本語教師資格(日本語教育能力検定試験合格)を得て、日本語教師として仕事をはじめました。
 結婚後、私が家計維持担当となったため、日本語教師として20年働きました。娘息子の育児と家事も、すべて一人だけでこなさなければならず、実に忙しい20年であり、本来学びたかった比較文化などは、封印してきました。
 2008年、4度目の学生となることができ、ようやく比較文学、比較演劇など比較文化について深く学ぶ機会を得ることができました。
 今回は川上貞奴について考察し、レポートを執筆できたこと、私自身にとって、たいへん有意義な時間となりました。



室鷲郎と鞆音の物語-オセロ変容2008/08/14

2008-08-14 09:59:00 | 日記
nipponianippon
> シェークスピア『オセロ』の翻案『正劇・オセロ』について


「室鷲郎と鞆音の物語-オセロ変容」



 本稿は、川上音次郎一座によって1903年に上演された『オセロ-室鷲郎』について、日本での受容と変容を論じる。『オセロ』の核となるストーリーの運びはシェークスピアの戯曲を用いながら、明治期日本の社会情勢によってどのように人物像が浮かび上がってくるを見ていく。
 明治中期以後の日本の帝国主義的海外進出と、産業資本主義の急激な発展期に、他者の視線によって成立する自己アイデンティティの表出、明治日本が「西洋」「遅れていて野蛮な台湾」のふたつの視線によって、日本的主体を成立させようとした過程のひとつとして、「オセロ=室鷲郎と鞆音の物語」を考察したい。
 また女性史の面から、オセロのヒロイン、デズデモーナ像を論じた言説の可否について見ていくことにする。室鷲郎の妻鞆音は、近代家族制度家父長制度のなかに押し込められた明治期の女性たちに、近代国家が要求する「貞淑でつつましやかな良妻」の規範を体現する存在だったのかどうか、当時の世相から見ていく。

1 日本演劇史
 日本演劇史は、受容と変容の歴史である。
 法隆寺などに残されている面をつけて踊ったという伎楽は、唐時代の中国に西方地域のペルシャなどから伝わった胡の舞踊だといういうし、平安の都で舞われた越天楽や青海波などの舞楽も、大陸から伝わった踊り。各地の神社に伝えられる神楽や巫女舞も伎楽・舞楽が各地の神舞と習合したものである。
 中世には大陸から伝わった散楽が農村での田楽に変容し、そこから能や狂言が成立した。
 日本に中世から伝わっている説話『百合若大臣』。
 百合若大臣の話は、幸若舞として上演された。幸若舞を愛好したという織田信長も知っている話だったであろう。
 坪内逍遥や南方熊楠が唱えた説に「百合若大臣はユリシーズの翻案」というものがある。
 主人公の百合若は、合戦から帰る途中、家来に裏切られて島に置き去りにされる。
 島を脱出し、苦労を重ねてやっと帰還。貞淑な自分の妻に言い寄っていた男たちを弓で射殺し、妻のもとに帰った、という話。
 『百合若大臣』あらすじは、ギリシアの『オデュッセイア』と、よく似ている。
 オデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」で、英語名は「ユリシーズ」。
 ユリシーズが百合若に変わることは、考えられることだが、このような類話は、各地独自に、同じような話が生み出される場合もあるし、なんらかの影響関係から、もとの話が各地に伝播していく場合もある。
 現在の研究では、ユリシーズと百合若大臣に直接に影響関係のある翻案だったかどうかは、まだ不明である。古今東西の文献を網羅して脳内にしまっておくことのできた博覧強記の学者、南方熊楠などが「ユリシーズ→百合若」説を打ち出しているなどから、今後の比較研究が深まることが期待される。
 いずれにせよ、一国の文化は、孤立したままではいない。海によって大陸と隔絶したかに見える地理的な位置を持つ日本の文化も、むしろ海が「海路」となってさまざまな分野で海外の文化がもたらされ、受容し変容する中で、列島の文化を維持発展させてきた。
 本稿では、明治期における「西洋演劇の受容と変容」をとりあげ、シェークスピアの「オセロ」がいかなる受容と変容によって上演されたのかを考察する。


2-1 正劇オセロ
 幕末から明治初期にかけて、啓蒙主義的な言説が次々に日本に移入され、近代日本の思想を作り上げるために利用された。
 欧米文学の移入も盛んに行われてきたが、一般社会に影響を及ぼすような大規模な文学紹介は、明治中期以後、欧米留学から帰国する「新帰朝人」の活躍によってである。
 二葉亭四迷のロシア文学紹介、森鴎外のドイツ語圏の文学紹介などが盛んに行われ、欧米文学の翻案移入は、日本の文化に大きな影響を与えてきた。森鴎外が翻訳した『即興詩人』などは、元の話であるアンデルセンの原作よりもよほどすぐれた作品に仕上がっている、と、評判になったほどである。
 坪内逍遙はシェークスピア劇を歌舞伎や新派のために翻案するなど、演劇分野での翻訳翻案が多い。坪内の翻案ものほか、演劇では、西欧翻案ものは人気を博した。
 日本におけるシェークスピア演劇の嚆矢は、1903(明治36)年、川上音二郎・貞奴夫妻によって上演された『オセロ』である。『オセロ(Othello)』は、5幕の悲劇。シェイクスピア四大悲劇のひとつとして、1602年に初演から、世界各地で現在まで上演が続いている。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)。
 日本初演のタイトルは、『正劇・オセロ』。オセロを演じたのは川上音二郎、デズデモーナは貞奴。舞台のセットはスコットランドでもヴェニスでもなく、台湾を舞台にした翻案劇であった。女優のいない歌舞伎が中心であった日本の演劇界において、女優がはじめて人前で演じた作品としても重要な作であり、翻案シェークスピア劇上演として演劇史に残る作品である。

2-2 貞奴と音次郎
 川上貞奴は、日本最初の「女優」として、その名が喧伝され、数種の伝記・評伝が出版されている。
 杉本苑子『マダム貞奴』、山口玲子『女優貞奴』童門冬二『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』など、著名作家による「貞奴の物語」が出され、世に知られてきた。特に、NHK大河ドラマ『春の波濤』は、貞奴と電力王と呼ばれた福澤桃介(正妻は福澤諭吉の次女、房)との恋が主要ストーリーになっている。
 私がもっとも早く貞奴について読んだのは、長谷川時雨(1936)『近代美人伝』による。
 川上貞(旧姓:小山)、1871(明治4)-1946(昭和21)年。維新明治初期の社会変動により生家が没落し、7歳で芸妓となる。容姿端麗芸事上手のためたちまち売れっ子となり、伊藤博文に水揚げされたのちは、伊藤の庇護を得たほか、西園寺公望らの贔屓を受けた。
 1894年、22歳の貞は、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と、金子堅太郎の媒酌により正式に結婚した。
 1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行し、女形の死去(または興業主からの拒否)のため急遽代役を務め、日本初の女優となった。
 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、同年、万国博覧会において会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演した。これは、日本からの正式参加ではなく、勝手に興業したものだったが、大好評を博した。この公演の後楯は、フランス駐在公使の栗野慎一郎であった。栗野が正式参加者ではない川上一座を支援したのも、貞奴に有力政治家の「贔屓」がついていたおかげと考えられる。幕末から明治時代、日本の演劇一座が海外で公演を行った例は多数あったが、日本政府側の支援を受けたのは、川上一座など、ごくわずかである。
 フランス政府はこの時、オフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与したほど、貞奴を厚遇し、パリはジャポニズム一色となった。ジャパニズムは、中国趣味(シノワズリ)を凌駕して絵画やファッションに大きな影響を残した。
 帰国後の川上一座は、いわば「凱旋公演」の趣で、各地を巡演した。
 1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立したが、3年後の1911年に川上音次郎が死去し、貞は演劇界から引退した。
 長谷川時雨が『近代美人伝』に貞奴の章を書いたときは1918(大正9)年であったため、貞奴の物語は、女優引退の部分で終わっている。
 日本初の女優、川上貞が、寡婦となり女優引退してのちの人生、さらに波乱がある。
 貞奴が、「奴」という源氏名で芸妓をしていた時代、無名の慶応大学生と出会い、恋に落ちた。だが、この恋は実らず封印された。なぜなら、このときの苦学生岩崎桃介は、洋行留学の費用を出してもらうことを条件に福澤諭吉の養子となり、留学から帰国後は約束通り、福澤の次女房と結婚したからだ。
 桃介は事業家として成功すべく奮闘し、電力王という名で呼ばれる大物に成長した。貞が寡婦となったとき、義父諭吉もすでに亡く、当時の経済界政界の大物がそうであったように、正妻以外の愛人を囲うことをはばかることはなかった。
 夫川上音次郎の死後、1920(大正7)年以後、貞は福澤桃介の愛人として同棲した。桃介50歳、貞47歳での、若き日の恋の成就であった。桃介が1938(昭和13)年に70歳で死去するまで、20年をともに暮らした。67歳で再び寡婦となった貞は、桃介なきあと8年を生き、1947(昭和21)年、75歳で死去した。
 
2-3 明治社会とオセロ
 1899(明治32)年から1900(明治34)年にかけて、川上一座は欧米諸国巡業を行った。
 アメリカでは小村寿太郎全権大使が、当時の大統領マッキンレーほかの上流人士に紹介の労をとるなど、「伊藤公」以来の「貞の贔屓筋」が生かされた。
 自由民権壮士であった音次郎は、海外公演においてはナショナリズムを打ち出し、「楠公」「児島高徳」「台湾鬼退治」などを上演した。欧米人に受けたのは、「芸者と武士」一作のみ。芸者を演じる貞奴の踊りのエキゾシズムと、武士がハラキリをするシーンのみが大受けしたのである。上演された劇の成否はともかく、「パリ万博で大受けし、勲章を授与された」というのは、他の劇団には見られない、文字通りの「洋行の勲章」となった。
 1903(明治36)年、「洋行帰り」というキャッチフレーズを全面に出した川上音二郎・貞奴夫妻によって『オセロ』が上演された。2月11日紀元節、明治座においての上演は、他の劇団では考えられないほど入場料が高かったが、公演は大成功に終えることができた。

作:シェイクスピア
訳:江見水蔭
配役:室鷲郎(オセロ)川上音二郎
    鞆音(デズデモーナ)川上貞奴(新聞予告の中では市川九女八)
    その侍女 藤間静枝
    伊屋剛蔵(イヤーゴ)高田実
    お宮(エミリア)市川九女八 守住月華
 この上演は、川上音次郎にとって一座が目指す演劇を日本の世間に示す絶好の機会ととらえられた。音次郎は、「壮士劇」「新劇」などの用語が提出されていた演劇界にあって、自分たち一座の演じるものを「正劇」と名付けたのである。
 欧米列強国の「オリエンタル趣味」の中で公演を続けた川上一座にとって、「文明社会」の一員となることが演劇上演の意義であった。西欧と同じ「帝国主義」をめざす「近代国家日本=天皇」の臣民として、演劇を「天皇のために」上演することが、川上一座を支援した明治エリート層、伊藤博文小村寿太郎金子堅太郎たちとの「共闘」を示すものと意識されたのである。
 20世紀初頭に、ヨーロッパ帝国主義、近代国家主義の「オリエンタリズム」のまなざしを受けた川上一座は、シェイクスピアの『オセロ』の上演にあたって、日清戦争後日本の植民地として領有した台湾を舞台とした。主人公「ヴェニスのムーア人オセロ」を、台湾原住民鎮圧のために台湾に送り込まれた、薩摩出身の帝国軍人に設定している。
 川上音次郎にとって、「演劇」は、「国家国民意識」を表明する手段でもあった。
 「西洋演劇、沙翁の翻案『オセロ』」の上演は、近代日本が台湾へ朝鮮半島へと「帝国主義的発展」を実践することの演劇的表現として、川上音次郎によって取り上げられたのであった。

2-4 川上一座の室鷲郎
 川上音次郎の翻案演出が、どのようにシェークスピア劇から変容しているかを見てみよう。
 シェークスピアが「オセロ」を書いた17世紀初頭のイギリスでは、まだ黒人との関わりは薄く、北アフリカのモスレム(イスラム教徒)についても特に差別の対象とされていたわけではない。オセロもキリスト教徒に改宗していると設定されているので、イスラム教や黒人差別をモチーフにして執筆された原作ではなかった。
 しかし、産業資本主義の労力として黒人奴隷が欧米社会に浸透すると、オセロの悲劇も彼の「キリスト教徒として生まれたのではない」「黒人」という出自を悲劇の要因とする解釈で上演されることも多くなった。
 オセロ自身は改宗しているが、なおヨーロッパブルジョア社会からみると、「生まれながらのキリスト者ではない人々」とは、非文明社会を代表する「他者性」のシンボルとして記号化されていた。「オセロ=ヴェニスのムーア人」とは、キリスト教社会において宗教的にも人種的にも差別排他を受ける「他者」への視線を受ける存在だった。
 川上音次郎が「正劇オセロ」を上演する以前に、アメリカまたはヨーロッパで見たことがあるかどうか、私の手元の資料ではわからないのであるが、もし見たとしたら、すでに産業化を経て、奴隷解放の時代に入ってなお、黒人への差別が深く社会に浸透していた19世紀欧米のまなざしによって上演されていたオセロであったことだろう。
 川上音次郎のオセロ(室鷲郎)は、台湾総督の地位にあり、「原住民」「土匪鎮撫」のために台湾の澎湖島へ派遣されている日本帝国軍中将である。薩摩出身者として、無骨な武人らしい人物として設定されてはいるが、宗教的人種的な差別を受ける立場ではない。
 室鷲郎は「」出身ではないか、と噂される背景を持っている。ただし、上演台本の中で、そのことが特に差別のまなざしを受けることはない。薩摩出身の軍人であるということは、当時の社会では「勝者・強者」である。
 川上がオセロに「」という出自を与えたのは、原作のオセロが身に帯びている「常に差別のまなざしを受けて生きる者」という人物像を作りたかったからであろうが、台湾総督として、軍関係者や現地の「原住民」と関わる室鷲郎には、「被差別」の状況は反映されていない。
 川上音二郎が演じたオセロは、薩摩弁を強調し、粗野だが合法な男らしさ無骨さを際だたせた人物像になっていた。
 依田学海は、1903(明治36)年3月の『歌舞伎 第34号』での劇評で、「オセロが黒人(依田の表現では「くろんぼう」)であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」と述べている。
 また、当時の演劇界の重鎮、坪内逍遙は、同じ『歌舞伎34』で、風貌を黒人とするか否かについては、「シェークスピアは、二グロとムーアの区別をよく知らなかったかもしれないので、色は黒くなくてもよい」としながらも、オセロを人種的に「黒奴、クロンボ、蛮人」などの「劣った記号」として見なす点では依田の見方と同じ立場、すなわち帝国主義的な優越感を示し「文明―野蛮」図式で「他者オセロ」を見ている。
 「オセロが黒人であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」との依田学海評。
 黒人ひいては、この舞台に登場する台湾原住民への蔑視は、依田や坪内の中で「文明人として当然」のものであった。日清戦争後10年近くがたち、台湾の併合領土化が着々と進む中で、「近代化した日本」を国民意識に定着させるためには「野蛮で遅れた台湾原住民」の存在を必要としたことの反映である。遅れてきた近代国家ニッポンに「近代的主体性」を成立させるためには、「他者の存在」「他者のまなざし」が必要であったのだ。
 「他者の視線」これは同時に、明治ジェンダーの視線でもあった。「男たちの共同体」近代国家を成立させるためには、強い支配者たる男が必要だ。
 維新期には、お化粧お歯黒をして長くひきずる衣装を身につけていた少年明治天皇は、西南戦争後は、軍服を着て馬にまたがる「男」へと身体性の変換を迫られた。
 軍服をきた「ご真影」配布は、「男性原理」で国家改造を進めなければならなかった明治国家の象徴でもある。
 軍服のオセロが薩摩武士とされていたのは、この「男性原理」象徴のひとつの表現であるが、その「軍服」が「くろんぼでもないのに部下に騙される」男であるのはイカン、という依田学海の評となるのも、「軍人のあるべき姿」が社会に浸透した日清戦争後10年、日露戦争の前年の上演であったことを知ればうなずける。
 川上音次郎は、なぜ新帰朝第一作として『オセロ』を選んだかという理由を、『歌舞伎34号』に語っている。「壮士芝居のように男性中心に舞台が推移し、女優の出番セリフが少ないこと。女優は「舞台の花」程度の扱いで主筋において重要ではないから」という理由を川上は挙げている。
 日本の演劇界での「女優」の立ち位置をまだ図りかねている川上ゆえ、出来る限り女優の重要度が低い作品、かつ、日清戦争後の「国威発揚」を損なわぬものであること、翻案演出者川上音次郎も、観客も「帝国主義側、欧米側から、非文明・野蛮人側をながめる視線によって「オセロ」を演じ、「男性原理」「天皇を頂点の父とする家父長制度」の枠組みのなかで上演された劇であったことを指摘しておかなければならない。

2-5 デズデモーナから鞆音へ
 デズデモーナは欧米社会において、長い間、貞淑さ、子どものように純真な妻として受け入れられてきた。デスデモーナとはギリシャ語で「不運な」という意味である。貞淑を貫きながら殺されてしまう運命を背負ったデズデモーナは、不運なヒロインとして、ひとつの典型的な女性像を成立させてきた。
 「御一新」以来、農業を基盤とする日本社会全体に、突如武家的な女性像が波及し始めていた明治期社会にとっても、シェークスピア劇の女性のなかで、デズデモーナは、もっとも受け入れられやすい人物像と見なされていたのであろう。
 デズデモーナは、自分よりずっと年上で勇猛な武将として知られるオセロを心から愛しており、夫に対しては、尊敬の念を抱いている。
 この「年の離れた夫への”父を慕うがごとき”尊敬と信頼」は、江戸期までの武家社会における妻の夫に対する態度として、規範的なものであり、江戸の武士家庭規範がそのまま持ち込まれた明治家庭規範における男女像にとっても、デズデモーナは「当然そうあるべき妻」の像として選ばれたのであった。
 最後の場面で、夫に逆らうイアーゴー(伊屋剛蔵)の妻エミリア(お宮)は、デズデモーナよりは積極的な発言をし、自らの信念によって行動しようとした女性であるけれど、やはり男によって殺されてしまう犠牲者「不運な女」である。
 デズデモーナ(鞆音)だけでなく、エミリア(お宮)像の日本的変容は、ムーア人から薩摩武士へと変わったオセロの変容に比べれば、見かけの変化の幅が小さいように見える。
 しかし、舞台での設定以上に、「観客の受容」が作り出す意味は大きい。それが「戯曲・役者の肉体・観客」の3者の合作である「舞台」の宿命なのだ。
 洋装写真も数多く残している貞奴であるが、この初演において、軍服姿のオセロに対して、鞆音は、着物姿で舞台に立っている。
 「夫に従順な貞淑な妻」を表徴するためには、「洋装」はふさわしくなかった時代であった。鹿鳴館時代は終わっていたが、貴顕夫人が洋装をするのは、宮中晩餐会のような特別な時だけであり、日常生活において洋装をしていたら、特別に眼をひく存在だった。貴顕夫人達も家の中のふだんの生活では和装がふつうであり、台湾赴任中の軍人の妻も和服を着ていたであろう。
 和装のデズデモーナは、夫につき従う日本女性の一典型として舞台の上にある。
 「恋愛」を受け入れようとし始めた明治社会、しかし上流では「見合い」「政略」「家のため」の結婚がほとんどだった。明治社会のデズデモーナ=鞆音は、「己の恋愛を貫き、夫に対しては最後まで愛を失わなかった女」として、「愛に生きた女性の姿」を貞奴の肉体によって具現化している。
 オセロによる妻の殺害ののち、真実が明らかになる。デズデモーナは夫を裏切っておらず、不倫の証拠となったハンカチは夫イアーゴが盗み出したものだ、という真実を、デズデモーナの侍女エミリアがオセロに告げる。そのエミリアもイアーゴによって殺される。
 夫を裏切っていない妻が、理不尽にも無実の罪で殺されるというストーリー。夫も結局は死を選ぶという物語を、舞台の上に見つめた人々はどのように反応しながら見たのであったか。
 坪内逍遙は『歌舞伎34号』の『正劇オセロ』批評のなかで、貞奴の演ずる鞆音について「夫婦別ありて行儀正しいといふよりは、斟酌分別ありすぎて冷ややかな明治式」と表している。理知を漂わせた貞奴の鞆音造形だったことが想像できる。

2-6 貞奴の身体性
 戯曲は、舞台の上の俳優の肉体と声によって完成される。観客は俳優の肉体を通して実現化したヒロインを見つめる。このときの貞奴の肉体は、32歳の洋行帰り。まだ若さをつなぎ止めている、自信に満ちあふれたころだったろう。
 『オセロ』初演の1903(明治36)年とは、日清戦争によって台湾を得、日露戦争の直前、不穏な世界情勢のなかにも、日本帝国が条約改正などの「欧米との対等」の地位をもとめて、はい上がろうと必死だった時期にあたる。
 「女優貞奴」の肉体は、「パリの勲章」「パリの香水にその名を残したヤッコ」であった。彼女が鞆音として舞台上に息絶えたとしても、観客は彼女の栄光を二重写しにしながら見つめただろう。「くろんぼうでもないのに騙されてしまった、しょうもない薩摩軍人」への非難はあっても、貞奴が演じた鞆音への非難は見あたらない。
 この「正劇オセロ」を見た観客はどのような人々であったろうか。このオセロ上演の数年前、1896(明治29)年に貧困の中に亡くなった樋口一葉は、「一ヶ月の暮らしにはどうしても8円かかる」と日記に書き残している。きりつめた生活でも一ヶ月の費用は8円がかかるのに、その8円が工面できなかった一葉。一方、オセロの桟敷席の席料は、9円50銭であった。一葉たちその日暮らしの庶民階級の者達はこの劇を見ることはまずできなかったであろう。この正劇オセロを見ることができた観客は、庶民の一ヶ月の生活費にあたる金額を一夜の観劇に蕩尽できる層であった。
 鞆音は、この9円50銭支払える層の「女性へのまなざし」にたがわぬ女性像を表現していたと言える。しかし、鞆音を演じる貞奴の現実肉体は、あまたの政府要人の贔屓を一身に集めることができ、その贔屓の力を夫に与えた内助発揮した女であり、結婚前は「男達の財力を背景にしたまなざし」を受けて生活する芸妓として生きていた女である。
 実際の生活で、貞奴が表向き夫を立てる行動を貫いたとしても、人々は川上一座の成功は、貞の功績によると見ていた。
 貞は、「夫には尽くせるだけ尽くした」という思いを持っていた。川上音次郎の壮士的女性観から言えば「二夫にまみえず」であったかもしれないのに、夫の死後は福澤桃介の愛人として同棲することに躊躇していないのだ。もちろん福澤との同棲は川上の死後のことではあるが、この鞆音の姿の表出においても、「夫を支えている」という自負のあふれる貞奴の身体が作り出す鞆音像は、決して「夫に殺されてしまうあわれな不運な妻」としてだけで観客に受容されたのではないだろうと想像されるのだ。はじめて日本の舞台に見る「女優」という好奇の目と、「洋行成功者が演じる悲劇の妻」は、輻輳し二重化された表徴となっていたのではないか、というのが、上演記録を見ただけの私の想像である。録音も映画フィルムも残されていない舞台なので、舞台評などから想像する以上のことはできない「鞆音」の身体である。
 川上音次郎が『オセロ』を選んだ理由を先にあげたが、たとえ「女優の出番が少ないものを選んで、女形に慣れている日本の演劇観客の目に違和感を残さない劇」として『オセロ』を選んだのだとしても、初めて舞台にのった「女優」は、特別な光を身に帯びていたであろうし、事実、貞奴の名声は、この舞台後も、夫をしのぐものとして定着したのである。頭のいい貞が、常に夫をたて、自分は影の存在になろうとつとめたのも、影としていようとしても夫より自分の輝きが強いことを知っていたからだ。

2-7 黒田事件
 もうひとつ、この『室鷲郎』が、明治の人々に特別な感想を与える劇内容であったといえるのは、この『正劇オセロ』の上演1903年に先立つこと13年前の事件による。
明治の高官黒田清隆は、妻を斬り殺した、と噂を立てられた人物である。1880(明治11)年3月、泥酔して帰宅し、にささいなことで腹をたてて逆上し、部屋にあった日本刀で病弱だった妻のせいを切った。この事件は、黒田の盟友大久保利通が動き、「妻は病死」という結論になったため、噂だけを残して終わりになった。大久保が腹心の警察官僚川路利良に検視を命じ、川路は夫人の墓を掘り起こした。川路は、警察側の医師に「病死との検視結果」を出させた。黒田せいが、長年肺の病を患っていたのも事実だったが、黒田が酒乱で、酔うと刀を振り回す男だったことも周知のことだった。平素は慎重な人柄だったが、酔うと人格が一変し、友人宅で日本刀を振り回すという性癖が知られていた。酔った勢いで、妻を斬り殺す結果になったとしても、あり得ない話ではない。「黒田の妻殺し」という噂は、格好の「新聞ダネ」であった。
 黒田清隆による妻の殺害が、巷間には未だ根強い噂として残っていたいたところへ、「嫉妬のあまり妻を殺す将軍」の芝居である。
 実際に舞台を見ることができず、新聞などの劇評判記を読みまわすしかない人々にとって、「妻殺し」という文字は、ただちにひとつの噂を思い出す結果と成ったことだろう。
 人々がこの「黒田の妻の死」を新聞種として好んだのは、「近代国家」「帝国の藩屏としての人民」という枠組みがどんどんと強化されていく社会の中で、江戸後期の芝居、鶴屋南北以降の歌舞伎を彷彿とさせるほど、江戸的「エログロ」に満ちた事件と受け取られたからであった。
 デズデモーナは、夫に首をしめられながら、「こんなことになったのは、私が悪いから」と、最後の瞬間まで夫を許し愛しながら「夫による自らの死」を受け入れている。現代若者用語で言えば、「究極のドM」である。己の身に痛みや苦しみを引きうけることで、愛する者の幸福や快楽を実現しようとする「ドM=超級マゾヒスト」と、現代の若い世代の人によってデズデモーナは評されるだろう。
 ヨーロッパ社会の上演ではそのような隠喩はなかったのかもしれないし、川上音次郎の上演意図には含まれていなかったかもしれないのに、ベッドの上の男女が、相手の首を絞める行為には、殺人などを目的としないある種の嗜好の表現と受け取られることもある。
 「責め絵」の代表的作家伊藤晴雨は、1903年にはまだ描き初めてはいないが、責め絵自体は、江戸末期から明治大正昭和と、密かにしかし連綿と愛好されていたのであり、この『オセロ』の妻の絞殺も、「夫の嫉妬による悲劇」という表の受け取り方の裏には、さまざまな「男と女の事情」がからまった記号として巷間に流出したであろう。責め絵によって、この嗜好は人々の知るところとなっていた。
 夫による絞殺を受け入れた鞆音の姿は、そういう人生を選び取るのもまた女の主体にかかっているのだと、メッセージを送ることにはならなかったか。
 

2-8 明治社会と鞆音のジェンダー
 私は、加野彩子(1998)の、「女優・川上貞奴が近代のジェンダー範疇の形成にも、帝国主義の再生の過程にも深く関わっている」という現代フェミニズムからの視点による言説にただちに賛成できないものを感じる。
 加野彩子の「彼女(貞奴)は海外においてはエキゾテイックなゲイシャ・ガールを演じ、それによって東洋化され女性化された日本の構図を再確認するのに貢献した。だが一方で日本に帰ると、近代の日本国家の男性主体を支えるモダン・ガールの役を演じ、帝国主義の再生に貢献したのである」
 池内靖子(2008)「したがって、貞奴が欧米から帰国して初めて演じたヒロインは、川上音二郎が見通したように、シェイクスピアの他の芝居に見られるような強烈な個性のモダンガールではないが、大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するものだったといえる。」
というようなフェミニズム視点&近代国家と文化の成立論によるジェンダー定義に対して私が違和感を覚えてしまうのも、彼女ら「女性学者」の目から漏れている姿を鞆音の身体に感じてしまうからなのだ。
 明治の女達の中には、確かに、明治近代国家成立に合わせて、「良妻賢母」教育に絡め取られ、「貞淑でつつましやかな日本女性」の規範に押し込められていった層もある。高等教育を受けるような層の女達にとって、その規範にじわじわと締め付けれれる息苦しさを感じ取り、ブルーストッキングを履いて世の締め付けを蹴っ飛ばしたいと思えたこともあろう。青鞜の女たちは、明治末の1911(明治44)年には、大正へむかって足を高くあげて歩き出す。
 貞奴の「女優」の仕事が、「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化」をなしたという一面は否定出来ないだろう。しかし、新聞で『室鷲郎』の劇評を見てあらすじを知ったら、その夜に「鞆音ごっこ」を夫に命じる女達も存在しただろうし、「女優」という職業が成立することを知って、世の中に立っていこうと決意した女もいた。
 「日本の女優」の出発点であった「鞆音」が、「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」だけでなく、女達を「自分の周囲にはない女のモデル」を示し、「女優という職業」を提示した意味において、女性を解放するひとつの窓を開けておいたことにもなるのではないかと思う。

3 オセロの変容
 『オセロ』の原典は、イタリア人作家チンツィオ(Cinthio)の『百物語』第3篇第7話にある。デスデモーナはこの話の中では、ギリシャ語で「不運な」という意味そのままに、オセロによって事故死に見せかけて殺されしまう。チンツィオの「ムーア人と結婚した女の物語」は、「ムーア人など、身分の釣り合わない結婚を親の許しを得ずにした結果、不幸になる女」の教訓話として書かれた。
 シェークスピアはその原典を戯曲『オセロ』に翻案し、原典にはなかった人間ドラマとして400年続く上演に耐える作品にまとめあげた。
 川上音次郎は、『オセロ』をさらに翻案し、『正劇・オセロ』として上演した。
  明治貴顕の後ろ盾をもつことによって、夫を何度も窮地から救い出してきた自負を持つ妻、貞。デズデモーナが軍人オセロをひたむきに尊敬しているように、帰国後の貞は音次郎と向き合っていたのだろうと思う。しかし、貞は、「帝国が植民地へと進していく軍人を支え、彼の犠牲と成って死んでいく貞淑な妻、鞆音」のような人生を歩まなかった。
 原典チンツィオのデズデモーナは、「ムーア人などという人種と、親の許可なく結婚した女のたどった不運な一生」を教訓として残すものだったことを、おそらく貞は知らなかっただろう。15歳のとき出会った芸者と、福澤の養子に選ばれた慶応大学生の恋が実らなかったことを「身分違い」としてあきらめたあと、川上音次郎の妻となったことに後悔はなかったろうと思う。
 しかし、後半生の貞は、「元女優と電力王の恋」に、臆することはなかった。47歳の貞は、電力王と呼ばれた男の愛人として堂々と同棲し、ひるむところはなかった。
 鞆音の造形が、後世のジェンダー学者に「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と、評されたことなど、貞はぽんと蹴っとばすに違いない。

4 現代のオセロ
 1995年10月堤春恵の戯曲による『正劇室鷲郎』がパナソニック・グローブ座で上演された。川上音次郎(加藤剛)川上貞奴(河津左衛子)を主人公とし、ふたりが劇中劇『室鷲郎』を演じる。その舞台や楽屋を描いた入れ子構造の演劇で、これもまた「オセロ」の変容のひとつに数えられるだろう。
 2007年10月4日(木)~10月21日(日)彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、蜷川幸雄演出『オセロ』が上演された。オセロ:吉田鋼太郎、デズデモーナ:蒼井優
 蜷川幸男の演出は、「変容」ではなく、正当なシェークスピア演劇としての「オセロ」だったということだが、劇評ではおおむね好評を得ていて、「21世紀のオセロ」もますます人の真実を描いた悲劇として人の心に足跡を残しているのである。
 最後に、オセロとデズデモーナが、嫉妬の要となるハンカチをめぐって、一語一語すれ違いのセリフを交わしながら、夫の猜疑心を呼び起こすシーンを見ておく。
 妻は夫への愛を信じ込んでいても、常にことばは行き違い、思いはすれ違う。明治政府は修身教科書のなかで「妻は夫を支え、良き家庭を作ることが、よい国家をつくるものと心得よ」と、女達を教育した。しかし、小説のひとつ、戯曲のひとつを読めば、男と女、妻と夫は、かくもすれ違い、誤解は増殖することを、女達は学んでしまう。
 言葉がすれ違っていくその場面を、見てみよう。嫉妬心の証拠となる1枚のハンカチをめぐってかわされるデズデモーナのすれちがう言葉の数々。

【エミーリア】 旦那様は嫉妬深くはございませんか?
【デズデモーナ】 誰? 主人? そんな気持はあの人が生まれた所のお日様が、
みんな吸い取ってしまったらしいのよ。
〔オセロー登場〕
【エミーリア】 あら、旦那様がいらっしゃいました。
【デズデモーナ】 もうあの人の所を離れないわ、キャッシオーが
呼び戻されるまでは。あなた、ご機嫌いかが?
【オセロー】 いいよデズデモーナ。(傍白)おお知らぬふりをする難(むずか)しさ!
君はどうだ、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 いいですわ、あなた。
【オセロー】 手を貸してごらん。これは湿ってるね。
【デズデモーナ】 まだ年もとっていませんし、悲しみも知りませんもの。
【オセロー】 これは実り豊かで、寛大な心をあらわしている。
熱い、熱い、そして湿っている。君のこの手は
自由からの隔離(かくり)、断食(だんじき)と祈祷(きとう)、
厳しい修行と敬謙な礼拝を必要としているという手だ。
それ、若い、汗だくの悪魔がここにいるからな、
よく謀叛(むほん)を起こすやつだ。これは実にいい手だ、
気前がいい手だ。
【デズデモーナ】 ほんと、そうおっしゃってもいいわ、
だって、わたしの心をさし上げたのはこの手ですもの。
【オセロー】 気が大きい手! 昔は心があって手をさし出したものだ。
ところが今の新しい流儀は手だけで、心は無い。
【デズデモーナ】 何のことをおっしゃってるのかしら。それより、例のお約束!
【オセロー】 何の約束かねお前?
【デズデモーナ】 わたしキャッシオーにここへ来るように使いを出しましたの。
【オセロー】 わしは悪い風邪をひいて鼻水が出て困っている。
お前のハンカチを貸してくれ。
【デズデモーナ】 さあ、どうぞ。
【オセロー】 わしがやったのをだ。
【デズデモーナ】 いま持っておりませんわ。
【オセロー】 持っていない?
【デズデモーナ】 ほんとうに持っていません。
【オセロー】 そりゃあいかん。
あのハンカチは、
さるエジプト女がわしの母親にくれたものだ。
その女は魔法使いで、人の心はたいていは読みとれた。
それがお袋(ふくろ)に言った、そのハンカチを身につけているあいだは、
お袋には魅力があって、親父(おやじ)の愛情を完全に
自分に惹(ひ)きつけておくことができる。だがもしそれを失くしたり、
あるいは人にやったりすると、親父の目は
お袋をうとましいものと見るようになり、親父の心は
新しい愛人を漁(あさ)るのだと。お袋は亡くなるとき、それをわしにくれた。
そしてわしが妻を娶(めと)るような巡り合わせになったときには、
それを妻にやれと言った。わしはそうした。だからくれぐれも注意して欲しい、
君のその大事な目と同じに、それを大切なものとして欲しいのだ。
それを亡くしたり、人にやったりすることはまさに身の破滅、
とりかえしのつくことではない。
【デズデモーナ】 そんなことってありますかしら?
【オセロー】 事実だ。あの布には魔法がかかっているのだ。
織ったのはさる巫女(みこ)……太陽が年ごとの軌道をめぐること二百度(たび)、
その年月をこの世の中で数え重ねたその巫女(みこ)が、
精霊乗り移り予言の力を身に受けて、それを織り上げた。
その絹を吐いた蚕(かいこ)の虫は清められて神に捧げられたものだ。
その糸を、熟達した秘法の名手が、乙女の心臓から絞った
魔の体液で染め上げたのだ。
【デズデモーナ】 まあ! ほんとうにそうなのでしょうか?
【オセロー】 正真正銘の事実だ。だからよく注意して欲しいのだ。
【デズデモーナ】 それならそのようなもの、いっそもらわなければよかった!
【オセロー】 何だと! どうしてだ?
【デズデモーナ】 どうしてそのようにぶっきらぼうに、急(せ)いておっしゃいますの?
【オセロー】 失くしたのか? もう無いのか、さあ言え、見失ってしまったのか?
【デズデモーナ】 神様、どうすればよいのでしょう!
【オセロー】 何と言った?
【デズデモーナ】 失くしはしません。でも失くしたって別に……
【オセロー】 どうだというんだ?
【デズデモーナ】 失くしはしないと言ってるのです。
【オセロー】 じゃ取って来い、見せろ。
【デズデモーナ】 そりゃ見せられますわ。でも今は駄目です。
こんなふうにして、実はわたしのお願いをはぐらかすおつもりなんでしょう。
お願いです、キャッシオーをもう一度受け入れてあげてください。
【オセロー】 あのハンカチを取ってこい! 俺(おれ)は不安になってきた。
【デズデモーナ】 ねえ、あなたったら!
あんな立派な方は、またといるものではありません。
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 お願い、キャッシオーのことをおっしゃって!
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 あの方は一生涯あなたのためを思い、
それにすべてを賭(か)けて一すじに生きてきた方です、
いつもあなたと苦楽を共にして来た……
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 ほんとうにあなたって悪い人。
【オセロー】 おのれ畜生!〔退場〕
……第三幕第三場より

 「エジプト女の魔法使いにもらった魔法のハンカチだから、これを失うと夫の愛情を失うことになる」という作り話をしているうちに、オセロは自分の心を嫉妬へと導いていく。デズデモーナは、夫の作意にはまったく気付かず、悠長にキャッシオーの復権復職をねがって、夫に迫る。
 オセロは、妻のハンカチがここにないことを確信し、キャッシオーの名が妻の口から出るたびに猜疑心を膨らませていく。
 人の心の変容を見事にシェークスピアは、一枚のハンカチをめぐって書き表している。
 このシーンで印象に残るのは、デズデモーナが夫のことばの裏にはまったく気づかず、ひたすら夫の部下キャッシオーの左遷を憂えて、彼のために役立つ人間であろうとしている点だ。デズデモーナを「日本近代国家の貞淑な妻」を体現したと見るなら、オセロに「ハンカチを失うと夫の愛を失う」という話で脅されても「失ってはいない」と、強弁しながら、自分の意見をぶつけていく妻の姿は、「貞淑な妻」「黙って夫に従う妻」とは相容れないものだ。この「夫の言葉とすれちがいながらも、自分の主張を続ける妻」の姿は、ジェンダー学者が「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と主張する姿とは異なっているように見えるのだが。

5 結論
 シェークスピア『オセロ』の翻案日本初演を考察し、『オセロ』が近代日本社会にどのように受容されてきたかを見てきた。
 翻案劇『正劇オセロ』は、日本で本格的に女優が女性を演じた劇として、ジェンダー論や近代文化論で扱われてきたが、私がそれらの言説のなかに感じた違和感を、自分なりに考察できたと思う。
 「鞆音を演じた貞奴の身体は、日本近代国家の貞淑な妻を体現した」という一面からの見方に対し、「それだけではなかったのではないか」という私の思いに、ひとつの解決を与えることができた。
 黒田事件に注がれた視線と同じ視点で「室鷲郎と鞆音」を見た人々もいるのではないか、という疑念、女優貞奴の姿によって演じられた鞆音は、「貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するもの」という現代ジェンダーの見方による規定以上に、「夫に殺されることも自分自身の運命として主体的に選びとった女」、また、「女優という職業を選んだ女の姿」を、明治社会に確固とした女性像のひとつとして表現しえたのだと、私は思う。
 「女優貞奴」は、近代女性が自己を主張し、自分自身を社会の中に押し広げていこうとするとき、「出口のひとつ」を開いておいた存在なのであり、「夫に殺される運命を、自ら肯定できる主体としての鞆音」を、男にも女にも知らしめた「コトの主体としての女」を開示したのではなかったかと、私は考えるのである。


注(1): 
 『正劇オセロ』上演から30年を経たのち、もうひとりの「さだ」が世間を賑わし、巷間の噂を独り占めにする事件がおきた。阿部定事件である。人々は新聞を読み回し、裁判記録がひそひそ声によって流通した。記録によれば、定が局所を切り取ったという相手の石田吉蔵は、特別な嗜好を持つ男だった。定は吉蔵の望むままに、首を絞めた。首を絞めると脳内の酸素が欠乏する。
 修験道の修行などでも、穴蔵籠もりなど、脳内酸素を極端に薄くする修行が行われる。このとき酸素不足によって臨死状態になり、修行者は強い光を感じ、強烈な「法悦」を感じることができる。これを修行者たちは、「仏教修行の成果」とし、「宗教的法悦を得て悟りに達した」と、修行を誇るのである。
 が、修行でなくとも、この「脳内酸素欠乏による臨死的快感」は、得ることができる。そのひとつの方法が、「死なない程度に首を絞める」方法である。石田吉蔵と阿部定は、この方法で快感を強めるという性癖を持っていた。
 絞首による絶頂感を描いた作品に大江健三郎の幻の作品がある。『政治少年死す』である。浅沼稲次郎を暗殺した山口二矢を描いた小説のうち『セヴンティーン』は現在でも読むことができるが、二矢が東京少年鑑別所の個室で首つり自殺した事件をモデルにした『政治少年死す』は、山口二矢を英雄視した右翼の抗議により、廃刊され、二度と一般読者が読むことはできなくなった。図書館などに資料があったとしても閲覧禁止措置が執られている場合がある。
 大江は、「主人公が首つりをした際に、射精していた」と、描写したために、右翼から「英雄山口二矢への冒涜」として攻撃を受けた。本は未だに公刊されていない。
 『政治少年死す』のラスト二行。
   愛しい愛しいセヴンティーン
   絞死体をひきずりおろした中年の警官は精液の匂いをかいだという‥‥
 40年前の初読時、この部分の意味がわからなかった。死の苦しみのなかでなぜ快感を得るのかわからなかったから。阿部定事件を調べること、オーム真理教の「修行」のプログラムにこの「穴蔵に籠もって脳内酸素を薄くし、強烈な光を感じる修行」があり、詳しく説明されていたものを読んで、ようやく、修験道修行と阿部定事件と『政治少年死す』の「法悦・快感」が結びついた。
 爾来、『オセロ』のデズデモーナ絞殺の場面に対して、「単なる殺人には見えない」と感じてしまう人もいるのではないかと思うようになった。


参考文献

池内靖子(2008)『女優の誕生と終焉-パフォーマンスとジェンダー』
加野彩子「日本演劇と帝国主義:ロマンスと抵抗と」(pp.19-48)[『日米女性ジャーナル』第23号、1998年、城西大学国際文化教育センター
河竹 繁俊(1966)『概説日本演劇史』岩波書店
郡司正勝 編(1977)『日本舞踊辞典』東京堂出版
杉本苑子(1975)『マダム貞奴』読売新聞社
童門冬二(1984)『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
長谷川時雨(1936)『近代美人伝』岩波文庫1985年
山口玲子(1982)『女優貞奴』新潮社
若桑みどり(2001)『皇后の肖像――昭憲皇太后の表象と女性の国民化』筑摩書房
同 (2003)『お姫様とジェンダー』ちくま新書
若林雅哉(関西大学文学部総合人文学科芸術学美術史専修準教授)『萬朝報「川上のオセロを観る」を手がかりに』京都大学大学院文学研究科「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」URLhttp://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/2_tetsugaku1/2_09.pdf


児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に2008/08/14

2008-08-13 08:49:00 | 日記
nipponianippon
> 日本児童文学における外国文学移入の受容と変容

「児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に」


1 
1-1 レミの受容

 明治時代には、子どものための物語も、欧米からの翻訳物語や翻案ものが流行しました。
 『家なき子』のお話。少年レミが、苦労の末に実の母ミリンダ夫人に巡り会う「母さがし物」です。
 原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。
 1903(明治36)年、読売新聞記者の五来素川が翻案し、「未だ見ぬ親」と題して発売されました。
 主人公レミの名は「太一」に、太一が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」。太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」と、すべて日本を舞台にしたものとして翻案されています。
 この「太一の物語」につよく心を動かされた小学生が東北にいました。
 1905年、小学校3年生だった宮澤賢治は、担任教師だった八木英三教諭が教室で読み聞かせてくれたこの物語に深い感銘を受けました。
 後年になって、賢治は八木教諭に会った時、自分の童話創作の動機を次のように語っています。(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』による)
 『 私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分、先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。 』
 翻案された欧米の児童小説が、東北花巻の小学生の心に残る。彼はその後『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、独自の作品をつぎつぎに生みだしていく。
 翻案小説が、他国に根を張り、それが新たな物語の種として育っていく、ひとつの典型がここに現れています。
 1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で、菊池幽芳が同じ物語を「家なき児」という題名で発表し、1912年に春陽堂から発売されました。以後、この「家なき子」という題が定着しました。
 現代日本の『家なき子』ファンにとっては、アニメの「家なき子、レミ」です。

1-2 ネロのアニメ化
 このような「翻案」ものの中で、近年の傑作といえるのは、『フランダースの犬』です。
 原作は、イギリスの女性児童文学者ウィーダOuida(1839~1908)の短編『フランダースの犬A dog of Flanders 』
 翻案作品は、テレビアニメ作品『フランダースの犬』、主人公は、ネロ少年です。



2-1 パトラッシュ・フランダースの犬

 1975年1月5日から同年12月28日まで、フジテレビ系列の「世界名作劇場」枠で放映されたテレビアニメシリーズ『フランダースの犬』は、短編だった原作を、日本文化にうまく適合させて、長編アニメにしてあり、翻案として成功をおさめた作品のトップクラスだと思います。
 このアニメの大きな特徴はふたつ。
 主人公ネロの年齢が、原作では15歳、アニメでは10歳であること。 
 アニメの第1話~40話は原作にはなく、アニメのオリジナルストーリーだ、という2点です。
 ウィ-ダの『フランダースの犬』とアニメ『フランダースの犬』の差は、シェークスピアの『オセロ』と、川上音次郎貞奴一座の『オセロ』の差より、はるかに大きい。
 主人公の名前や地名を翻案した『未だ見ぬ親』と『家なき子』より、ずっと大きい。
 この差を無視して、ウィーダ原作の読者受容とアニメ作品「フランダースの犬」人気を比較することはできません。

2-2
 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成しました。
 以下、読売新聞の特派員による記事(ブリュッセル=尾関航也)(2007年12月25日11時39分 読売新聞)より引用。
=============
  ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36歳)。
  制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
  物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。
  原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。
  米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。 悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。
  ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。
  プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36歳)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
  上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月(2007年12月12日)からインターネットなどで販売されている。
=============

2-3 ネロとアロア

 日本人が涙を流すほとんどは、ウィーダの原作を読んでのことではなく、アニメ「フランダースの犬」を見てのことです。
 アントワープの大聖堂でルーベンスの『キリストの降下』の絵を見て涙を流す日本人観光客の何人がウィーダの原作を読んでいるかは、不明なのです。
 私自身、原作を読んだのは小学校のころであり、それから一度も読み直さなかった。
 今回のことがあって、50年ぶりに読み返しました。
 岩波少年文庫『フランダースの犬』、すぐに読み終わった。短編だから。
 文庫95ページ分の、あっという間に読み終わる作品です。
 アニメ作品は1年間52話が放送されましたが、そのうちの原作相当部分は42~52話だけなのです。
 もし、原作通りにネロとパトラッシュの物語がアニメになったとしたら、これほど多くの人々が「もっとも心に残るクリスマスの物語は、大聖堂でルーベンスの絵を見上げてほほえんで死んでいくネロとパトラッシュ」という気持ちを持ち続けたかどうか、疑問です。
 原作ではネロは15歳になっています。
 一方、アロアは原作では12歳。
 原作が書かれた当時のヨーロッパで、15歳というのは、庶民階層の男の子が自立してしかるべき年齢です。自分の人生を自分で開拓していくべき少年期から青年期への移行期間にあたっています。
 翻訳されて日本に移入された明治の日本でも、15歳はけっして「子ども扱い」される年齢ではありません。中学校への進学率はまだ低く、12歳で小学校を卒業したあとは、一人前の労働力として期待されました。
 また、ネロが15歳だとすると、12歳のアロアとふたりだけで親しくすることを心配する親の気持ちもわかり、アロアの父親が、ネロに苦言を呈するのも頷けます。
 年頃の娘をもった父親なら、15歳の男の子が自分の娘と二人でいっしょにすごすことを快く思わず、「うちの娘とつきあうな」と言うでしょう。
 アニメでは、アロアは8歳に設定されています。ネロの年齢は、15歳ではなく、アロアより2歳年上の10歳になっている。
 この年齢設定の意味は大きい。
 10歳は、まだまだ自立するにはむずかしい年齢であるし、アロアとふたりっきりですごしていても、引き裂かれなければならない年齢には思われません。

2-3 アニメ「フランダースの犬」

 第1話から40話までの「日本のフランダースの犬、オリジナルストーリー」は、とても良くできています。
 ラストの悲劇に向かって、10歳のネロのけなげさ、パトラッシュとの絆に、涙しない人は「人」であるぞよ、これでもかっ!っていうくらいに、盛り上がっていく。
 原作でもアニメでも共通していると思われるのは、ネロが識字教育を受けているのかどうか不明である点。原作の設定では、おそらくネロは字が読めない。
 ウィーダの生きた時代19世紀、学校教育を受けて字が読める層と、読めない層の階層差は、現代では考えられないくらい大きなものでした。
 ウィーダの時代の考え方によれば、中産階級の子弟なら、学問を身につけて己の社会的地位を獲得すべきだし、土地財産をもたない下層階級の子どもなら、手に職をつけ一人前の職人になるなどの「自己形成ビウドゥングス」が必須のこととされていました。
 絵が好きなら、マイセン陶器などの絵付師に弟子入りするとか、タペストリーの下絵職人の親方の下で働くとか、なんとかツテを求めて、手に職をつけるよう家族がはかるところだったでしょう。
 しかし、原作では、15歳のネロの唯一の家族ジェハンおじいさんは、物語の最初からすでに寝たきりの老人で、ネロの将来のために何かしてやれることがでる状態ではない。
 老人は、ネロのためにコゼツ旦那に下げがたい頭でも下げるとか、教会が嫌いでも牧師に頼み込むなりして、ネロを徒弟奉公に出すよう、しておくべきだったのでしょうが、そうする前に病にたおれたのでしょう。
 この物語の舞台になっているベルギーでも、作者の国イギリスでも、この物語があまり受けなかったのは、キリスト教国において、教会コミュニティが機能せず、みなし児のネロのために周囲のコミュニティが何もしてやらないというストーリー展開に共感できない人も多いからではないでしょうか。

2-4 負け犬

 「フランダースの犬」の作者ウィーダは、ヴィクトリア王朝の時代の英国女流作家です。 ウィーダが作品を発表したころは、女性がようやく社会に進出できるようになった時代でした。
 女性の社会進出には、女性も識字教育を受けるようになったことの影響が大きい。読み書き能力(リテラシー)は、社会進出の第一の手段です。
 ヴィクトリア朝以前の英国女性の識字率はとても低かった。
 農民男性の識字率の低さより、さらに農民女性は低い識字率でしたし、貴族階級の女性は「右筆(ゆうひつ)=貴人のために読み書きをして仕える使用人」を雇うことが貴族女性の証だから、自分自身が文字の読み書きをする必要はなかった。手紙も領地の相続に関わる公文書も、信頼できる有能な右筆に口述筆記をさせれば間に合ったからです。
 例をあげるなら、イギリスの名家ライル卿夫人の娘アン・バセット。
 彼女は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(世継ぎのエドワード6世を生んで1ヶ月後に死去)に使えた女官であったけれど、「自分の名前しか書けない」と述べています。手紙は従者に口述筆記させていました。
 私はこの事実を、スーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』 (刀水歴史全書)で数年前に読み、びっくりしたものでした。貴族階級の女性は高い教育を受け、読み書きできるとばかり思いこんでいたからです。
 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、数カ国語に堪能で読み書き能力にもすぐれていたと言われていますが、そのため彼女は、「幸福で平凡な結婚生活」ではなく、「国家との結婚」を選択することになりました。
 イギリスの識字女性は、上級階級でも下層階級でも少数派でした。
 読み書き(リテラシー)能力が必要だったのは、中産階級の女性のごく一部、貴族の家に住み込んで家庭教師として働かなければならないような階級の娘に限られていました。たとえば、ジェーン・エアのような。
 ヴィクトリア朝に至って、ようやく女性たちは文字を読み書きすることで社会進出をはたすようになりました。
 『フランダースの犬』の作者ウィーダもそのひとりです。
 ただし、ウィーダは、この時代の「自立した女性」がそうであったように、生涯結婚しませんでした。
 小説家として華々しい活躍をしたあと、晩年は孤独と貧困のうちにひとりぼっちで死にました。
 『フランダースの犬』が、アメリカでは映画化のたびに「ハッピーエンド」の物語に書き換えられたことと、ヨーロッパでは「負け犬のものがたり」としか受け取られてこなかったことは、同じひとつの考え方の表裏です。

2-5 滅びの美学

 ウィーダの思想のなかには、抜きがたい階級意識が存在していたと考えられます。
 当時の中産階級の女性として、自分が「下層階級ではない」と意識することは「自分は男性ではない」と思うのと同じ、当然のアイデンティティであったことでしょう。
 下層階級の人々の生活を小説にするという場合、そこには当然「上から目線」での見方が存在します。
 下層階級のネロを主人公にした小説が書かれた時代には、「上層階級」「中産識字階級」と、「下層非識字階級」との間に、現在では想像しがたい階級差があったことを忘れることはできません。
 ウィーダの視点が「だれからの援助もうけられない運命をたどったネロ」「はい上がることを拒絶された下層民のお話」という目線のもとに執筆されたことを、現代の視線でとやかくいうことはできないでしょう。
 そして、このお話が「はい上がろうとする下層階級」からみても、「能力に応じて自力で将来を切り開けと育てられた中産階級」からも、「下のものたちを指導し援助すべきノブレスオブライジを負う上層階級」からも、共感の得られないお話だったことも理解できます。
 日本に「フランダースの犬」が翻案移入された時代、20世紀初頭の日本は「立身出世欲」が最高に盛り上がっていた時代でした。
 華族士族平民の差はあったものの、士族であれ平民であれ、学校教育において能力を発揮すれば、立身出世が望める時代でした。
 貧しい者が勉学の機会を得るには、①軍に入る、②授業料無料の師範学校に入る、③故郷出身の成功者の家に「書生」として住み込む、など、いくつかの方法がありました。
 歌人斎藤茂吉は、③を選択し、斎藤家の書生になりました。私の夫の伯父や伯母は、②を選択し、教師になりました。
 下層民出身のネロが、そのような立身出世を機会を得られなかったことに、同情こそすれ、「上から目線」で気の毒がる、という風潮ではありませんでした。
 なぜ日本で「フランダースの犬」が同情を集め、日本だけでこれほど多くの人々に愛される物語となったのかを、検証したのがベルギーのドキュメンタリー映画『パトラッシュ・フランダースの犬』です。
 映画『パトラッシュ』では、100人以上の人へのインタビューや、明治から今までの日本での「フランダースの犬」の翻訳本を検証し、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけました。
 古くは、権力争いに負け九州太宰府に流された菅原道真、諸行無常の『平家物語』に描かれた木曾義仲、判官義経などの滅び行くもののふの姿。
 天下統一に王手をかけながら、本能寺の炎の中に49歳をもって滅亡した織田信長、明治の新天地を目前にしながら、暗殺された坂本龍馬など、敗北者にこそ、自分たちの心情を託す日本文学の美学が、「アニメ・フランダースの犬」の翻案に大きな影響を与えたことは確かだと思います。

3-1 パトラッシュ昇天

 ここで、もう一度ネロの年齢を確認しておきましょう。
 日本の「パトラッシュ人気」は、あくまでも1~41話のお話がつづいたのちの、10歳のネロが死ぬラストの悲劇にあります。
 ウィーダの原作によって物語が進行し、15歳のネロが力つきたのだったら、日本人も、ここまでネロとパトラッシュの悲しいラストシーンに共感をよせなかったのではないか、と思われます。
 ネロの悲劇は、「10歳という設定」と「1~40話」のオリジナルストーリーの上に成り立っていること、ウィーダの原作と日本のアニメ「フランダースの犬」の差は、シェークスピアの「マクベス」と黒澤明の『蜘蛛の巣城』、また、黒沢の『七人の侍』とマカロニウェスタン『荒野の七人』の差以上に大きい。
 ヨーロッパで「負け犬」の物語とされてきた『フランダースの犬』が、ここまで日本人の琴線を揺るがしたのは、この翻案の年齢設定の絶妙さによると思います。
 最後に、日本のアニメの翻案で、欧米キリスト教圏の人の考え方ともっとも大きく違うところ。それは、パトラッシュの昇天です。
 アニメの、天使たちに守られながら天へ登っていくネロとパトラッシュの姿は、「負け犬」などではなく、「ちからいっぱい戦い、生き抜いた末に、力つきていくもの」の美しさを持っていました。
 その犬と少年の姿の荘厳さがあるからこそ、「アニメ名場面集」という特集が組まれれば必ず上位に「ルーベンスの絵を見て死んでいくネロとパトラッシュ」が選ばれるのです。
 パトラッシュをいっしょに連れていかないでは、ネロのラストのほほえみは考えられません。
 ここで確認しておくべきこと。
 キリスト教国では、人間と犬がいっしょに昇天することはできません。犬と人が同時に天に昇っていく図柄は、不自然なものです。
 キリスト教では、犬には霊(人格)があるとは考えません。犬に魂や「心」はあるとしても、神のみもとへ召される霊はないのです。
 日本語では「霊魂」といいますが、キリスト教では霊と魂は別概念です。
 人間は、体に現された魂と、不滅の霊の息吹が吹き込まれた体とが、一つになった「神の神殿」とみなされ、その意味で、神の霊が宿るのは人間のみ、と考えられているのです。
 日本アニメの翻案のうち、もっとも「日本的な絵」は、この最後の「パトラッシュ昇天」であり、犬の霊が人とともに天使にむかえられるというところだ、と私は思います。
 このラストシーンは、「一寸の虫にも五分の魂」の仏教思想が反映されています。一寸の虫に五分の魂ならパトラッシュには50cmの霊魂です!
 つまり、ルーベンスの『キリストの降下』の絵を見たあと、ネロは微笑みながら、パトラッシュとともに、阿弥陀様のいる極楽へ迎え入れられているのでした。

3-2 おわりに

 以上、翻案という作業が、アニメ「フランダースの犬」も、受け入れる側の社会思潮が関わりつつ受容がなされていることを概観し、翻案の成功には、それを受け入れる社会に、受け入れるための社会思想が形成されていること、受容された物語は、さらに人々の心に残り、社会思想共同幻想の形成に利用されていくことを考察しました。
<おわり>

日本語教育の視点から考える日本語言語文化論への序章2008/08/12

2008-08-12 10:53:00 | 日記
nipponianippon
> 日本語言語文化論への序章
>
> 日本語教育の視点から考える

研究テーマ:日本語・日本文学における主体の研究―「場」の形成、自他動詞文、助詞「ハ」の考察を中心に―


1 テーマ選定の理由・根拠

 人間活動のうち、言語は、もっとも「人間が人間らしくある」ための手段と考えられます。触覚を用いる点字、視覚を用いる手話も含め、認知し表現することが「人間らしさ」の表れとなっています。
 この言語活動において、人がつまずきを感じるもっとも大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」ことと思われます。

 私は、日本語を母語としない学習者に日本語と日本文化を教える、という仕事を1988年より20年続けてきました。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることが多く、専門としてきた日本語統語論に関し、語用論も含めた、表出されたコミュニケーション上の日本語を通して、日本語と日本文化について考察したいと考えるようになりました。
 本研究のテーマは、「日本語学日本語教育から得られた知見をもとに、日本語言語文化の諸相を考察する」ということに主眼をおいて進めていきたいと思います。

 「日本語は、状況を把握し、話者と聞き手の関わりを考慮しないと理解できない」とは、日本語学習者が、ある程度日本語学習が進んだ段階で言う言葉です。
 非日本語母語話者が、「主語とみなされる語を補って英語翻訳などにしてから理解する」という方法に頼らず、日本語を日本語の論理のなかで理解していくためには、何を教授し何を理解させればよいのかということは、まだ十分に日本語教育に提出されているとはいえません。
 私は、日本語の主体の問題、述語表現、題述関係などを俯瞰し、「世界のグローバルな文化の中での日本語」という観点から、日本語言語文化を考察していきたいと思います。

 本稿で「主体」というのは、「述部(属性、様態、状態、変化移動など)が実現する場として形成されている一定の範囲」、という意味での、「predicateが実現する場」という意味をさします。また、そのpredicateを実現して、現実に発話(表現)している主体を表現主体と呼びます。
(竹林2004に定義されている「主部」という呼び方について。現段階の日本語教育の場で「主部」という言い方を用いた場合、橋本文法などにいう「修飾語+主語」を主部と呼んでいることとの区別がむずかしいことを考慮して、現段階では使用しないことにします。また、predicate という用語を使うのにsubjectという語を、私が教育現場で避けているのは、英文法などでSOV,SVO、SVCなどと言う場合の「S」との同一視を学習者から遠ざけるためです。

「主体」という語は、哲学者によっても、言語学者によってもそれぞれの定義がなされていますが、本稿では、ごく単純に、日本語学習者にとって、理解できることを前提に論を進めていきたいと考えます。
「花が咲いた」という表現において、述語「咲いた」という事態は「花」という主体において実現しています。(文の主体)
また、「花が咲いた」と認識し、表現している主体もあります。(発話主体・表現主体)

「誰が文の表出視点の中心なのか」と「誰が発話しているのか」というふたつの主体について、発話主体や文の主体は、「表現の場」のなかに融合的に存在しています。
この融合された表出の場に、母語話者は、無意識に入り込んでおり、発話はそのまま理解できます。しかし、会話においても、文章読解においても、表現主体(発話者・作者)が、聞き手・読者を誘い込もうとしている「共通理解の場」はどのように準備され、どのように表出されているのか、それを読者はどのように受け取るのか。母語話者が無意識に行っている受容を、非母語話者に伝えるには、何を理解させていけばいいのか。日本言語文化の基層として存在する日本語構文の問題について、基本となる表現形式を検討するところから考察を始めたいと思います。

 日本語言語表現の理解には、話し手・聞き手の間に互いを「コミュニケーションの場にいる者同士」と認識するところから始まるということころから出発します。
福澤諭吉は「日本語では“演説”ををすることが難しい」と嘆いた、と伝えられています。立場や考え方の違いを前提にしてspeechをすることから見たら、互いの立場や関係を確認することからコミュニケーションを始める日本語環境は、福澤にとって「演説が難しい」と感じられるものであったことはりかいできます。
しかし、日本語で演説できないということはないし、見知らぬ人同士が会話できないということもありません。
非日本語母語話者が、「共通理解の言語空間」をどのように構築していくのか、どうしたら「共通理解の場」を話し手聞き手の間にとしていくのか、考察していきたいと思います。
この「コミュニケーション成立のための情報」が不足している「非日本語母語話者」には、「単語はすべて知っている語であり、文法もわかっているのに、文の意味がわからない」ということが引き起こされる、という事態に、日本語教育者は対処していかなければならないと思うのです。

 これまでの研究では、一例をあげるなら、小林典子1996は、自動詞と他動詞の使い分けのテストを行い、インドヨーロッパ語系統の母語話者は、他動詞文を主として使い、日本語母語話者が自動詞文で表現する文でも、他動詞を用いることが多いと報告されています。
 この報告は、筆者が20年間収集した作文誤用例の分析とも一致しています。
 
 日本語の「主語述語」「自動詞文他動詞文」「助詞ハ」について、研究が進められていることは事実ですが、
1、日本語教育テキストなどへの文法記述がまだ十分とはいえない。
2、日本語教師による授業で、文法記述を生かした指導が成功していない場合も多い。
3、学習者の母語干渉の強弱が、母語ごとにどのように日本語の構造の上に出てくるかの研究はまだ不十分である。
と、いう点も省みていかなければならないと思います。

 本研究では、「これまで追求が十分でなかった「主体」をめぐる日本語統語論(シンタクス)と日本的思考、日本的表現の関係をみていき、どのような解釈を伝えれば、非日本語母語話者の日本語文章理解が適切にすすめられるのか、考察していきたいと思います。



2 当該テーマに関連する先行研究の総括

 日本語の自動詞他動詞文の、主述関係・題述関係を考察するにあたって、日本語統語の基本を押さえる必要があります。
 日本語をどのような言語とみなすのか、基礎文法を教え、日本語言語文化理解を進めるために、教授者自身が、自分の中に根底となる言語観、文法観を持っていることが必要と考えます。
私自身の日本語についての土台となっている、西田幾多郎「場の理論」、助詞「ハ」の考察などについて概観しつつ、先行研究を総括していきたいと思います。

2-1  西田幾多郎1911『善の研究』
 西田幾多郎は、「意識の存在する場」としての「場の理論」をうちたちました。
日本語言語文化においても、言語活動を成立させる言語表出過程で、「場」の役割は、大きいと言えます。
 西田幾多郎が提唱した「場所の論理」では、「場所」から出発し,その場所において包み込まれる主体や客体(存在者)について論じられています。
 「場所的存在論」は、「場所」と「存在物」の相互作用から両者を統合しようとします。

 西田は「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。」と述べ、「純粋経験」とは、少しも思慮分別の加わらない、真に経験そのままの状態のことであり、言い換えれば、主観と客観とが、いまだ分離していない意識の統一的状態のことである、と、言っています。述べています。

2-2  池上嘉彦1981『「スル」と「ナル」の言語学―言語と文化のタイポロジーへの試論』

池上嘉彦は、日本語を「なる」表現を優先させている言語としてタイプ分類し、主格の行動行為の描写を優先する言語との差について述べています。主観性や主語の省略現象、複数表現、「モノ」「トコロ」を軸とした事態把握などから、「日本語らしさ」とは何かを池上は探ってきました。
さらに、言語を、発信者が中心となる「コード依存型コミュニケーション」と受信者が中心となって、聞き手の解釈に多くをゆだねる「コンテクスト依存型コミュニケーション」に分け、日本語は後者の文脈依存の言語であるとしています。
 池上によれば、すべての述語は「変化」と「状態」に分類され、変化は「移動」を、状態は「位置」を、それぞれ本来的な形式としています。そこで時間の概念もまた「移動」の知覚から派生したものとして捉えられます。
 当事者が主体的意志を持ってコトを行ったとしても、上司への報告であるならば、「結婚します」よりも「結婚することになりました」という表現が選ばれるように、主体性を薄め、行為性を縮小して「出来事の推移=なる」で表現することが好まれると、池上は指摘しています。
 英語の認知の方が、他動詞性(主客対立)「私がスル」「私がモツ」表現を指向するのに対して、日本語は、自動詞性(出来事全体把握)「出来事がある」「なる」を指向すると述べており、本研究も同様の観点から研究を進めます。

2―3  氏家洋子1996『言語文化学の視点』 

 日本語を、時枝誠記の言語過程説の分類に従って「詞=概念化の過程を経た語」と「辞=言語主体の立場を直接表現するもの」とに分けたとき、「辞」には、助詞、助動詞の一部、感動詞、接続詞、副詞のうち陳述副詞が含まれます。
 ある一定の時間にわたる認識の過程を、ただの一語で表すような性質を持つ語を、氏家は「含過程構造」の語と名付け、含過程構造の語の一例として、氏家は、副詞「やはり」をあげ、英語と対比させています。
 概念を担いつつ陳述も表す語を「含過程構造の語」と呼ぶことについては、これからも考察を続けなければならないことですが、日本語の「辞」が表す範囲を、助詞「ハ」も含めて考察することは、氏家の観点を検証することも含めて、有意義であると思います。

 また、氏家1996(p107)は、日本語が「以心伝心」に価値を置く言語として形成された理由を、「ほとんど移動することもなく、稲作農耕の共同体生活を続け、馴成単一社会となった」ゆえだとしています。
 はたして、氏家1996が、述べているように、日本社会が「大陸から隔絶された島国に、人々が高密度に生活した」ゆえに、現在の日本語表現が生じたのかどうかは、検討を要するでしょう。
 たとえば、パプアニューギニア高地で、現代まで周囲と隔絶した状況で農耕を行ってきた人々がいます。山間の孤立した環境で、周辺の島々と併せて600万人が400以上の言語に分かれて生活してきたという彼らが、隔絶した環境での共同体生活ゆえに「以心伝心」「察し」の言語表現をとるようになっているのか、など、「日本文化の特徴」と言われているものを取り上げるとき、広く対照を経なければ、ならないと思います。
 本研究は、日本語言語文化へ言及する観点として、和辻哲郎の「風土が人間に影響する」という見方を参考にしながらも、注意深く論考したいと思います。

 
4―4 岡智之2006『「主語」はない「場所」はある』

 岡は、西田の「場所の論理」に依拠して「主体」(主語)は「場所」(述語)に包摂されて存在するのだと述べています。
 また、池上嘉彦(2000)が「環境論的自己」から「<場所>としての自己」という概念を提起したことをうけ、「環境論的自己」という概念を成り立たせている視点も,<主体>と<客体>の対立を超越する契機を与える、と、岡はいいます。

 「何よりも先ず,自己は環境の中に埋め込まれた存在として捉えられる。環境の中で自らが動く時,環境において起こっていると認識される変化は,他ならぬ我が身に起こっている変化の指標である。」と池上が述べている部分に、岡は賛同しています。

 「主語中心言語」では、自己と環境とを対立したものとして措定し,自己が環境に対して働きかけ,自らの意に叶うように変えていくという図式をもつ。自己は何かを<する>主体である。しかし、日本語では、自己は何かが出来する、つまり,そこで何かが<なる>-場所である。」

 言語的には,英語のような<する>型言語に対し、日本語は<なる>型言語、それも「場所においてコトがなる」という表現を好む日本語表現となる、ということが岡論の骨子となります。
 私は、「場所においてコトがなる」という事象の推移を、述語による表現で、「自己の周囲に何かが出来し、事象が推移する」と述べる日本語文の基本を、非日本語母語話者にも日本語の基本構造として伝えることができたら、日本語の文章読解も今よりは理解しやすくなるにではないかと考えます。

 岡は、「主語はないという観点から論を展開しています。
 岡が「日本語では、自己は何かが出来する、つまりそこで何かが<なる>場所である」と述べていることと、竹林2004が「それについてある事柄の実現性の在り方が語られる対照」と定義していることと、私には同一のことを述べているように感じられるのです。
 岡の立場で、「主語・述語の二項によって成り立つ言語と比較すれば、主語ではない。何かが出来する場所である」と表現することの利点をあげれば、主語述語二項で成立するタイプの母語話者に、少なくとも、主語中心主義の主語と同じではない、と、日本語学習者に伝えられる点があげられれます。

4-5 浅利誠2007『日本語と日本思想』

 浅利は、助詞「ハ」を日本語表現の要としています。
 浅利は、日本語の「~である」を「繋辞(copuraコプラ)」と見なす和辻らの論に対して、「繋辞」にもっとも重要なのは、動詞「ある」や助詞「で」の組み合わせなのではなく、「ハ」に繋辞としての機能が備わっているとみなします。浅利は三上章(1972)の文法論によりつつ、日本語と日本思想の関係を考察しています。
 三上章は、日本語の構文的特徴を西洋語のような「主述二本立て」ではなく、「述語一本立て」だと主張しました。述語に対して、「主格補語」「対象格補語」がかかっていくというのが、三上文法です。
  浅利2007p189は、日本社会の『共同主観的性格』について述べ、「日本社会の特異性を内部に抱え込んでいる」と、主張しています。

 氏家(1996)はイギリス留学経験から日本社会についての論を引き出し、浅利はフランスを思索の場として日本社会を論じています。インドヨーロッパ語の、それも本来牧畜を生活基盤としてきた西欧社会と日本を比較しています。
 日本語がインドヨーロッパ語系統の言語とことなる面をもつことを主張するために、欧米の言語との対照が必要なこととは思います、が、これからの日本語言語文化理解のために、対照が必要であるとしたら、同じ語順の言葉をつかう言語社会についてもう少し研究をすすめる必要があります。
たとえば、「主語」の問題を考察する場合、氏家は「日本語は、同質の農耕社会を築き、狭い範囲の知り合いだけの共同体で生活しているので、文の主語を言わなくても分かり合う社会ができた」と、論じていますが、英語との対照だけでなく、さまざまなタイプの言語との対照による検証が必要だと思います。
現在、DNAやミトコンドリア解析による日本人の遺伝子的調査によると、日本人のルーツは、かなりの精度で確かめられてきています。日本語の祖語についての計量的調査も進んできました。また、日本語が、南方アジア言語と北方アジア言語のクレオールである、という説はかなり広範囲に支持されるようになっています。
 
ここで、現代において成立しつつあるクレオール言語、シングリッシュの事例を確認してみましょう。
シンガポールにおいて、地元のマレー語や客家語が英語と融合して成立しつつあるクレオール言語、シンガポールイングリッシュいわゆるシングリッシュ。
シンガポール政府は、このようなシングリッシュについて「文法を正しく使えない、劣った英語」とみなされることを嫌い、学校教育ではクイーンズイングリッシュを徹底していくとしています。
しかし、現実社会では、市場などで、自然発生的共通語としてシングリッシュが話されています。シンガポールにおいて、タミル語、マレー語、客家語、英語など、さまざまな母語話者が混在してシングリッシュが使われ、多言語社会で、独自のクレオール言語が発達している途上であるといえます。

昨夜のパーティに出席したある人が、欠席した人に「ゆうべ、何でこなかったの(姿を見せなかったの)?」と、欠席理由を聞くシーンで。
「How come never show up?」
と、たずねます。
このシングリッシュには、英語ならあるはずの「主語」がありません。主語がなくても、互いにコミュニケーションがとれるからです。
「文に主語を明示しない」のは、日本語だけの性質でもないし、「狭い共同体のなかで、互いにわかりあえる人とだけコミュニケーションをとればいい」からでもなく、言語のひとつの型として、英語などの印欧語とは異なる型の言語も存在する、というそれだけのことです。
語順が日本語と同じ韓国語(朝鮮語)でも、主語の省略は会話のなかに自然に成立します。

 本研究では、西田、池上、三上の論に依拠しつつ、日本語の動詞文は、事象の推移を叙述することが主要な機能であると考えて、日本語言語文化を考えていきます。
日本語の動詞表現を中心に、predicateの述べられ方と、主体の在り方を考察します。 

4-6  市川浩(1975)『精神としての身体』講談社学術文庫,1975/1992年,pp.141-2)
市川浩が、次のように述べていることも、西田のいう「場」の理論と通底するものだと考えられます。 市川1975は、哲学の立場から、日本語表現が出現するときの「主題化」作用について述べ、「日本語に主語が欠如している」のではなく、日本語の主題化作用のなかから、自然に出来するものだとみなしています。
市川は、前意識的な「地」が広がる意識野に「図」として分節化が行われる場合、「主語-述語」が述べられうるが、日本語の主語は「目下の主題(図)は~である」ということを示す主題化の機能を持つにすぎない」と述べている。 
市川の論は、、「主語を図として含む分節化」ということは、日本語の主語、主題を考えていく上で視点のひとつとして、有効であると思います。


3 当該テーマに関する研究史の中での発表者自身の研究(新研究)の位置づけ

私は、「述語表現のなかに、述語の主体となるものは包摂されている」と考えています。
 「行為主体がどのように行為作用を対象へ加えるのか」として主体の行動を叙述するよりも、「話し手聞き手のいる言語空間で、どのように事象が推移したのか」ということが、日本語表現の中心であるという観点で、日本語叙述を見ていこうとしています。

 言語タイポロジーでいうSOV型の範疇に入ると見なされる日本語他動詞文についても、「事態推移表現中心の、述語」と考えたほうが、理解しやすいと思うのです。
 本研究は、日本語を述語が表現の「場」を担い、述語(述部)を中心として表現が成立すると、考えた上で、個々の文章表現をみていくことにします。
 他動詞文は、行為主体が、客体に変化を与えることを表現していますが、日本語の他動詞文は、自動詞の対極にあるものだけではなく、グラデーションをもって、自動詞文から他動詞文まで連続的に存在します。
自動詞文>再帰的他動詞文>弱い他動性の他動詞文>強い他動性の他動詞文

 学習者は、文法解説書を参照するとき、どうしても母語の文法にひきずられた解釈をします。
 「綱子は餅で歯を欠いた」(向田邦子『阿修羅のごとく』)
という他動詞の形をとる文は、「歯が欠ける」という事象を、事象の主体が負うていることを表しており、「~を欠く」という「ヲ格+他動詞」は、自動詞相当になっていて、事態の推移をあらわしています。
これら、日本語学習者が知っておくべきでありながら日本語教育文法内容として提示されていない項目はまだあるといわねばなりません。
 日本文学読解を日本語学習者と共に進めていくとき、英語翻訳などで文章の内容を知っている学習者にとって、英訳がかえって「日本語としての文体」を味わうために障壁となる場合もあります。
 英訳にたよらず、日本語文章を日本語として理解していく上で、何をどう指導していけばよいのか。翻訳を考えることが、ひとつのポイントになります。
 本研究では、西田、池上、三上、市川、竹林、ら、先行研究の成果に依拠しつつ、それを日本語教育現場の現実のなかで、学習者の理解に役立つ具体的な文法記述がどのように可能となるかとさぐりつつ、日本語の「主体」のとらえ方、「自他」「陳述」など、学習者が「理解がむずかしい」という項目、誤用が多い項目について考察していきたいと思います。


4 新研究における考察視点の設定

「場」の形成
 日本語は、他の言語と比較して「文脈依存」「状況依存」性の強い言語と言われています。言語活動が成立するには、どのような「場」を設定し、共通理解として何が必要とされるのか、基本的なことから探っていきます。
 情意文「寂しいなあ」や知覚文「イタっ、痛い!」の、感情・知覚の主体「私」は、述語に内在しており,主語として明示されていなくとも,情意や知覚といった経験の「場所」となっているものとしてそこにあります。
 「ああ、悲しい」というとき、この情意を感じる場所としての私を「私は悲しい」と表現したとしても、「私」は、「場所」としての「私」であって,悲しいという情意と「私という場」は、主観も客観も未分化のなかにあります。
 この発話の出でくる「場」を「表出の場」として、発話者と聞き手が互いに了解したとき、対話が成立し、読解が可能になります。
 発話者と聞き手を互いに認知しないところでは、表出は聞き手に届きません。
 言語活動が成立するには、どのような共通理解が必要であるか、発話者の「場」を受容するために、聞き手として何を受容すればよいのか、基本的なことから探っていくことにします。

日本語他動詞文の分析
 日本語の他動詞文は基本的に「ヲ格補語」をとります。ヲ格補語の名詞は「モノ名詞」がほとんどで、「ヒト名詞」は少ない。他動詞の基本的機能は、ヲ格名詞の変化移動を、主格が加える作用行為によって成し遂げていることを叙述することにより、事象の推移を主宰するものとして、「主体」が存在する。
 「太郎は、床屋で髪を切った」という他動詞文で、太郎は「行為主体」ではなく、「事態の変化推移を所有する者・主宰する者」となっています。
では、「次郎は洋裁室で布を切った」は、どうでしょうか。これとても、次郎がハサミを持った行為者でなくても、文は成立します。トップデザイナーの次郎が、仕事を指揮して、洋裁チームの一員に布を裁断させており、自分ではハサミを持っていないとしても、仕事の推移について全体の責任者として「洋裁室で布を切った」と、表現できる。
 従来、自動詞文は、事態の推移を表現し、他動詞文は、主語による行為作業を叙述すると、文法書などに解説されてきました。
筆者は、日本語においては、他動詞文もまた、自動詞文と同じく、「事態の推移」を表すことを主とするものと考えます。他動詞の対象補語(目的語)は、動詞の補語成文として、動詞述語に含まれるものと考えています。 

助詞「ハ」の考察
 日本語と同様に題述構造の文をもつ主題優勢言語(Topic-prominent language)は、東アジアなどに分布しています。中国語・朝鮮語・ベトナム語・マレー語・タガログ語にもこの構造の文が見られますが、日本語の「ハ」を的確に使いこなす日本語学習者は少ない。
 助詞「ハ」が、日本語の文章で果たす役割は大きく、「ハ」の分析をした論はさまざまに出ていますが、日本語の表出の中に表れた「ハ」を具体的に分析し、日本語を読解していことにします。
 非日本語母語話者の誤用例を示してみます。

中国語母語話者の作文例。
「そのため、父は亡くなってから、生活がくるしくなった。そのため、私は大学を退学してしまった。」

「国の中で、老人は多くて、若者はすくないことは高齢国という」

「この問題が人によって、答えが違う」
 中国語母語話者(台湾)の作文例 「小学校のとき、友達から一匹の子猫をもらいました。生まれたばかりの子猫がまるで玉のようです。でも母が反対するとおもったから、この子猫が廊下にかくすことにしました。あの日がものすごく寒かったです」

助辞(助詞)「ハ」についてさまざまな機能が言及されているなか、竹林2004は、「ハ」に通底する基本の機能として「特立提示」をあげています。
 私の関心は、この「特立提示機能」の「ハ」と「ガ」を誤用する日本語学習者に、どのように説明すれば、「日本語の文」としてわかってもらえるのか、ということになります。
 私が続けてきた、日本語学習者の作文指導においても「ハ」と「ガ」のちがいについて「対比のハ」であるとか「主題提示のハ」であるとか、どれほど説明しても、まちがいは少なくなりませんでした。

 本研究では、日本語の言語空間において「トピック―コメント題述関係」として述べることが、日本語言語表現にとって重要であるという点に注目し、題目提示の「ハ」を「ガ格(主格)」と同じにとらえてしまいがちな、学習者に、「ハ」の働き方をどのように伝えたらよいのか、考察したいと思います。


作家の文体分析、翻訳文との比較を中心として
(芥川龍之介、太宰治、井伏鱒二、大江健三郎、村上春樹他)

 個々の作家の文体を分析し、日本語の特性がどのように表現されているのか見ていきます。
 一例として、川端康成の『骨拾い』の冒頭の統語がどのように構成されているか、直訳文と対照しながら、分析してみます。
 この直訳は、日本語中級上級学習者が理解できる範囲のものを想定し、まだ日本語理解が十分でない中級学習者が英訳文だけで理解した気になってしまうことを戒めつつ、日本語理解を補いながら読解していく作業の一例です。
 イスラエル国籍の女性(父は、イスラエル建国後イスラエル国籍になって移住したイギリス生まれのユダヤ人、母はイギリス人。成人するまで母親とともにイギリスで育った)に対して読解授業を実施した時の教材例をあげてみます。
 この女性は、千葉大学大学院で「写真」について学ぶために国費留学生として来日しました。文章を写真のフレーム内に表現してみるつもりで、絵に描きながら、読解をしていきました。テキスト「上級日本語読解」のあと、生教材として、星新一『ボッコちゃん』『おーい、出てこい』村上春樹『図書館奇譚』川端康成『骨拾い』などの読解を続けました。
(生教材=日本語学習者のためのリライトや語彙解説などを加えておらず、語彙、文型などがそのままである文章。市販の雑誌、新聞、単行本など)

川端康成『骨拾い』(翻訳は稲村)

・谷には池が二つあった。
There were two ponds in the valley.
 存在文の理解。谷を話題の中心にしていることを、学習者に理解させるには、映像表現を援用し、最初にカメラレンズは谷を映し出し、そののちに池へズームインする映像であることを伝える。The valley has two ponds.と、どちらの訳が自分の印象に近いか、言わせる。

・下の池は銀を溶かして湛えたように光っているのに、上の池はひっそり山陰を沈めて死のような緑が深い。
The pond to be located in below shines, as the pond dissolves silver, and having been full, but the pond located in the top sinks the shadow of the mountain quietly, and green such as the death is deep.
 初級で習った「対比のハ―ハ構文」を思い出させる。上空からの俯瞰カメラ映像を想定させ、ふたつの池を対比させて、日の当たっている部分と山の陰になっている部分を同時に映像化させる。

・私は顔がねばねばする。
As for me, a face is sticky.
 焦点となるのは、「私」の意識感覚であるから、「私の顔はねばねばするmy face is sticky.」とはどのように違うのか、比較させる。

・振り返ると、踏み分けてきた草むらや笹には血が落ちている。その血のしずくが動き出しそうである。
Blood declines to the grass and the bamboo grass which I pushed my way through when I look back. A drop of the blood seems to begin to move.
 ここも、「私」の意識のなかに映し出されている光景であることを考えさせる。草むらや笹にある血を意識し、「動き出しそう」と、とらえている「私」の感覚をとらえる。

・また、なまあたたかく波打って鼻血が押し出てくる。私はあわてて三尺帯を鼻につめた。仰向けに寝た。
In addition, a nosebleed overwhelms it, and waviness comes out tepidly. I filled the nose with a waistband in a hurry. I slept on my back.
 ここで、「私」の行為・動作が出てくる。「鼻に三尺帯をつめる」は、自分の動作が自分自身の身体に向けられており、他者に行為が向かう他動詞文とは異なる。「仰向けに寝る」は自動詞文。

・日光は直射しないが、日光を受けた緑の裏がまぶしい。
The sunlight does not fire directly on it, however, the green other side which caught the sunlight is dazzling.
 「まぶしい」と感じている主体は「私」であるが、この「私」は、「まぶしい」という感覚が発露する「場」である。

 翻訳しにくいと言われている日本語文が、どのように翻訳しにくいのか、ということを考察していくことは、すなわち、非日本語母語話者が、日本語学習の過程で「生教材」と呼ばれる日本語文章を読解していくときの、内容読みとりの困難な部分の考察と重なります。

翻訳の問題点 
 統語が問題になっている翻訳文の例をあげておきます。
 日本語からインドヨーロッパ語系統の言語への翻訳が難しい文学の代表例として、川端康成の『雪国』があげられます。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」
という『雪国』の冒頭
 もっとも早い時期に翻訳がなされたサイデンステッカー(Edward G. Seidensticker)による訳例を挙げてみると。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

 英語表現では、「汽車」が表現主体になっています。主体の「汽車」が「came out」という「行為」を行う文として訳されている。主述セットによって表さないと文が成立しない英語では、「する文」として表現せざるをえません。
 サイデンステッカーの英語訳を日本語に再翻訳してみると、
 「その汽車は長いトンネルから出て雪国に入った。大地は、夜空の下に白く横たわっていた。その汽車は信号所で止まった。」
となります。
 サイデンステッカー訳は、英語母語話者に、情景を感知せしめるためには、わかりやすい訳だと言えます。
 原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という日本語文が表出する、汽車と、汽車の座席に座っている主人公島村のイメージと、島村を描写する作者の視線が渾然一体となる主客合一の描写は、訳出困難です。
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という描写において、私たちは描かれざる主人公をイメージしています。ここで「主客合体」の状況が起きています。
 それでは、なぜ、このような描写が可能になり、主客合一の表現が好まれるのか、ということを問題にしていき、日本言語文化を見ていきたいと思います。

 英文翻訳の文にしたとき、日本語表現の何がこぼれ落ち、何が見えなくなるのか、その構造上のずれを比較考察することが、日本語言語文化の分析につながっていくのではないかと思います。

 翻訳の問題点2
 大江健三郎の文体は、デビュー当時「翻訳文のような文体」と評されていました。フランス文学専攻の大江が、カミュ、サルトルらの文体から直接得たものを日本語文体にしていると。
 大江の代表作である『万延元年のフットボール』冒頭文では、
 「おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。」に見られるように「手さぐりは」という「ヒト以外のモノ」を題述文のトピックとしています。『何が彼女をそうさせたか』のたぐいの「モノ」を主語とする文は、本来の日本語的表現からはずれた表現だからです。「自覚が鋭い痛みに変わっていくのを意識が認める」なども、モノ主語のひとつと言えるでしょう。
 また、関係代名詞によるような、長い修飾語の多用などがみられ、「翻訳調」とされてきました
 しかし、翻訳と対照してみると、「翻訳調」と言われる文体もまた、日本語の特徴を如実に示している文と思われます。

『万延元年のフットボール』[The Silent Cry]
<死者にみちびかれて>
 夜明けまえの暗闇に目ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内蔵を萌えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鋭い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような躰の部分において鋭く痛み、連続性を感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける。(以下略)」
“In Wake of the Dead”
  A wakening in the predawn darkness, I grope among the anguished remnants of dreams that linger in my consciousness, in search of some ardent sense of expectation. Seeking in the tremulous hope of finding eager expectancy reviving in the innermost recesses of my being unequivocally, with the impact of whisky setting one’s guts afire as it goes down - still I find  an endless nothing. I close fingers that have lost their power. And very where, in each part of my body, the several weights of flesh and bone are experienced independently, as sensations that resolve into a dull pain in my consciousness as it backs reluctantly into the light. With a   sense of resignation, I take upon me once move the heavy flesh, fully aching in every part and disintegrated though it is. I’ve been sleeping with arms and legs askew, in the posture of a  man reluctant to be reminded either of his nature or of the situation in which he finds himself.

 日本語文では、冒頭7行目に至るまで「僕」という語り手の一人称は出てこない。英文訳では、1行目からI grope~と、一人称が明示される。
 日本語文では、「目ざめる」のはだれか、感覚をもとめるのはだれか、意識を手さぐりするのはだれか、ということを不問にしたまま文章は進む。
 7行目に至ってようやく「そのような、躰の各部分においえ鋭く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける」と、「僕」が明示される。
 しかし、読み手は、最初の文から、動詞動作行為は、語り手(僕)の行為だと認識し、「僕」の視線が文章を運ばせ、小説内事態を推移させているのだと、わかって読んでいく。
「翻訳調の文体」と感じさせながら、実は、まったく「日本語文」の特徴を生かした周到な文章なのである。
 この感覚、目ざめる間際の意識と無意識を行ったり来たりしながら、自分の肉体の存在を確認し、自分が自分であることに意識を向けていく感覚は、最初から明確に「わたし」をだしてしまったのでは、伝えきれないものがある。
 7行目まで延々と、「だれがこの文の主体なのかわからないまま、明示されていない主体とともに、読者の意識が、表出された混沌とした意識を、文脈をなぞっていく。

 翻訳の文章が原文と味わいが異なってくるとしたら、それは何が減り何が加わったからなのか。非日本語母語話者が、何を理解すれば、作者の意図した表出を受容できるのか、探っていかなければなりません。

松岡1989は、「日本文学の作品を英訳する歳の困難は日本語の文章において主語の省略や語りの視点が絶えず揺れ動くことなどからきている。しかし、こうした日本語の特徴は「意識の流れ」小説の文体に非常に近い者である。この点に注目して、日本文学の英訳に「意識の流れ」小説の技法を利用する」ということを提案している。
このような、英語翻訳への考察視点を、日本語教育の「日本語文章読解」の現場で生かしていくことをめざしていきたいと思っています。


5 過去の研究成果の回顧、今後の作業遂行の展望

 私は、「する(主体の行為)」と「なる(事態の推移)」に関連して「日本語他動詞文」についての研究を続け、東京外国語大学大学院外国語学研究科へ提出した修士論文も「現代日本語他動詞文、再帰構文を中心に」(稲村1995a、1995b)をテーマとしました。
 日本大学総合社会情報研究科博士後期課程において、修士論文のテーマをさらに押し進めて、日本語言語文化とのかかわりにおいて主体の研究をすすめていきたいと考えています。
再帰的他動詞文についての論考は、今後の新研究の考察にも生かしていけると考えます。

 筆者は、基本は「事象の推移」を表し、日本語の述語文にいわゆる主語が明示されていないとしても、それは「省略されている」のではなく、そのままで日本語言語表出として成り立っているのだ、という立場から、文章分析を行っていきます。
 印欧語系の母語話者であっても、「英語翻訳をしようとして、明示されていない主語を探す(欠けている主語を補う)」ということでなく、日本語の表現は、日本語の表現として受容していけるようにしたいのです。
 
 また、日本語独自の表現があったとき、翻訳ではどう処理されてきたのか、について考察することも、日本的思考をとらえるうえで有効となると思われます。
日本語言語表現が、具体的な言語作品の上にどのように表れていくのかを検討しながら、他動詞文であっても、「主体から客体への働きかけ」という表現形式をとりながら、「事態の推移を見つめている視点の中心人物」が「事象推移の主体」として表現されているのだ、ということを非日本語母語話者に理解させることも、日本語文章読解の一助となると思います。

 竹林2007が、小松英雄のことばを引用しつつ、解釈学会季刊誌『解釈』に書いた「当該研究の到達段階を確認した上で立論する、という、研究の基本死せに野大切を改めて実感しました。個々の先行研究の内容・主張を性格に理解し、当該研究の到達水準を押さえた上で、十分なデータと筋道の立った論理に基づくオリジナルな論を提出する、というのが、研究論文のあり方だと考えます」と述べていることを、肝に銘じつつ、これから先の作業を進めていくつもりです。

 今後の作業は、
1 日本語を表現する作家の文体を分析しつつ、日本語自動詞文他動詞文が個々の作家の文体にどのように表れているかを俯瞰し、日本語的表現の表出を見ていく。
2 留学生の作文誤用例の分析 他動詞自動詞の誤用、ハとガの誤用、その他助詞の誤用例などから、日本語構造の留意点を非母語話者に伝える方法を、考えていく。
3 日本文学原文、翻訳文、再日本語訳を比較し、作家文体上への述語文の表出の仕方を分析する。

などを中心にすすめていきたいと思います。

<おわり>




<引用文献一覧>

浅利誠(2007)『日本語と日本思想』藤原書店
池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館
池上嘉彦(2000)『日本語論への招待』講談社
市川浩(1975)『精神としての身体』講談社学術文庫,1975/1992年
稲村すみ代(1995a)「再帰構文について」「東京外国語大学 日本語学科年報 第16号」
稲村すみ代(1995b)「現代日本語における再帰構文」『日本語の教育と研究(窪田冨男教授退官記念論文集)』(専門教育出版)
氏家洋子(1996)『言語文化学の視点』(おうふう)
岡智之(2006) 『「主語」はない「場所」はある』 (東京学芸大学紀要.人文社会科学系I Vol.57 p.97 -113
竹林一志(2007)『「を」「に」の謎を解く』
竹林一志(2004)『現代日本語における主部の本質と諸相』
時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店
西田幾多郎(1979)『善の研究(改版)』岩波文庫(初版:1911)
松岡直美(1989)『Japanese-English Translations and the Stream of Consciousness』 ReviewVol.19,No.1-4。(538-45)
三上章(1972)『現代語法序説―シンタクスの試み』『続現代語法序説』くろしお出版
和辻哲郎(1935)『風土』岩波文庫

<資料出典>

伊藤真紀子『シンガポールの英語』「東京外語会会報」(2008//02/01発行)
川端康成(1952)『骨拾い―掌編小説第一話』(新潮社)
川端康成(1948)『雪国』岩波文庫改版(2003)
Kawabata, Yasunari. Snow Country. Trans. Edward Seidensticker(Unesco Translatins of Contemporary Works)Charles E. Tuttle Company, 1957.
Kawabata, Yasunari. Pick up the Bone. Palm of the Hand Stories. Trans. Inamura sumiyo
大江健三郎(1970)『万延元年のフットボール』講談社
Oe, Kenzaburo. Trans. John Bester. The Silent Cry. Tokyo: Kodan-sha International, 1981.


経済学という翻訳語について2008/08/09

2008-08-09 16:11:00 | 日記
nipponianippon
> 明治時代に翻訳がなされた西欧語のなかから、「経済学」について

「経済学という翻訳語について」(最終稿)

目次
1-1 エコノミクスの翻訳者
1-2 四字熟語「経世済民」からできた「経済」
2-1 エコノミスト海保青陵
2-2 経済思想家・海保青陵
2-3 日本の経済学


1-1 エコノミクスの翻訳者
 ギリシャ語の「家=オイコスoikos」と「法や慣習(公)=ノモスnomos」が合成語となり、家計、家政を意味するオイコノミーができた。
 オイコノミーは、「オイコスの成果をポリス にふさわくしくノモス化したもの」を言い、英語のエコノミーになった。
「economy」の本来の意味は、家庭の統治における財の扱い方ということだ。

 近代産業社会では、ポリスすなわち国家の財を扱うことになり、ポリティカル・エコノミーは、近代国家運営に必須の学問となった。
ポリティカル・エコノミーは、現在の日本語では「経済」の訳語が当てられているが、エコノミーでなく「political economyポリティカル・エコノミー」の訳語としてであることに注意する必要がある。
ポリティカルエコノミーpolitical economyを「経済」と翻訳したのは福澤諭吉である。

 西周は、『百学連環』のなかに、エコノミクスに「経済学」の訳語をあてたのは津田真道であったと、記している。津田は、幕末に幕府から派遣されてオランダに留学、西洋の啓蒙的な諸学をおさめ、帰国。明治初期に西や福沢諭吉らと明六社を設立した人である。
明治期に翻訳されたエコノミクスとは、「political economyを研究する学問」の意味であった。

 「明治時代に翻訳された西洋語・和製漢語」についての私の知識は、そのほとんどを惣田正明『日本語開化物語』(朝日選書1988)と、柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書1982)の2冊に負うている。

 明治期に西洋語から翻訳された「和製新漢語」について、詳しく知るには、専門の論文も多数発表されていると思うのだが、私は、この2冊に書かれていることのほかは、これまであまり多くを知らなかった。
 
 また、思いこみでまちがった理解をしていた語もあった。

 まちがって思いこんでいた「経済」という語について。
 私は、「明治初期、西洋語の翻訳が盛んだった頃、エコノミクスを西周らが、「経済学」と翻訳した」という説を誤解し、「経世済民」が「経済」という省略語になったのも、明治期だと思いこんでいた。

1-2 中国の四字熟語「経世済民」からできた「経済」

 私は、経済にうとく、デフレスパイラルもスタグフレーションも、何がなにやらわからない経済音痴人間である。経済に興味を持たず、「貧乏暇なく働いても、楽にならざりじっと手を見る」しかなかった。
そのせいか、どうか、「経済」という用語が、江戸時代にも通用して使われていたことを知ったのは、なんとつい最近、2007年12月のこと。

 半年前まで、ずっと「経済は、もとは中国の経世済民という四字熟語であったが、西周らがエコノミーを翻訳したとき経済という省略語にして利用した」と思いこんでいた。
 エコノミクスを経済学と翻訳したのは西周ら明治の啓蒙家であったことは確かだったが、「経済」は、もともとの漢語である。

 私が「経済」という語について詳しく理解したのは、海保青陵(1755~1817年)という江戸時代の経世家について知ったことによる。
 経世家というのは、今でいう経営コンサルタントのようなもの。
 海保は、諸国の藩をめぐって、経済指南をつとめる学者だった。


2-1 エコノミスト海保青陵

 『本富談』という本の中で青陵は、自分のことを「経済を承る儒者」と言っている。
この場合の「経済」とは、現代語でいう「経済」と同じ「ものの売買、貨幣金融に関わること」を意味している。

 海保青陵は、丹後宮津藩青山氏の家老職であった角田市左衛門(青渓)の長子として生まれた。ご家老さまの長男としてそのまま過ごせば、自分も家老職をついで一生安泰に暮らし、それなりの実績も残したことだろう。

 しかし、荻生徂徠の弟子であった宇佐美潜水に儒学を学んだ後、22歳で心機一転、家督を弟に譲ってしまった。
 青山家は150石を青陵に与えて「宮津藩儒学者」として召し抱えたが、青陵は、それも返上して諸国漫遊の旅に出た。

 青陵は、曽祖父の姓である海保の姓を名乗り、生涯のほとんどを諸国漫遊にすごした。
 各地で諸侯豪農層に自らの富藩論(経済学)を啓蒙し、経営コンサルタントの役を負うて、諸般の経済改革に思想的な後ろ盾となったのだ。

 江戸時代は、武士は「金回り」のことに口を挟まない、金儲けは商人の行う卑しき家業、とされていたのを、海保は、「産業商売に関わらないでは、経世済民を行うことはできない」と説いた。


2-2 経済思想家・海保青陵
 
 「買わねばならぬ世の勢いならば、売らねばならぬはづ也。武士は物を売らぬものと云ふこと、をかしきこと也。貧になる証拠也」(『稽古談』のなかの青陵のことば)

 青陵は、荻生徂徠の「朱子学的思惟の解体」をさらに発展させ、利(経済活動)を肯定している。
 経世済民を行うためには、「君臣は売り買いである」という市道論も述べている。
 江戸時代には絶対的な価値とされた「忠君」思想だが、彼は「どのような君に使えるかは、どのような報酬を与えてくれるかで決めてよい」と考えた。

 青陵が文化期に行った経済政策助言。
 藩交易(産物マワシ)を主とした富藩政策の展開を加賀藩を例にとってみると。
 領外への産物輸出により利益を得るために、加賀米を大坂へ廻して売ることで利益を得、自国の消費米は隣国から安価に買い入ればよい、と青陵は進言した。
 たしかに、経済的にみれば、領地内で良質の加賀米を消費してしまうのはもったいない。経済効果からみれば、高く売れる加賀米はよそで売り、領地内では安い他国の米を食べればいい。

 このような経済政策は、反対派も多く、青陵の進言が功を奏するとは限らなかった。
 加賀藩でも、農民の反対により、「商品価値のある加賀米の他国輸出、領地内では安い米消費」という策は頓挫した。

 青陵の経済改革を理解する者のいた藩は、幕末の藩政改革に成功し、倒幕維新への歴史を切り開くきっかけとなった。
 土佐藩浪士坂本龍馬が、「海援隊」を組織し、貿易経済活動によって日本を作り直そうとしたのも、このような経済思想が根付いていたからだ。

 維新期に、地方の豪農たちは、倒幕の志士を援助し、明治期には自由民権運動を援助した。
 この思想背景には、安藤昌益や、この青陵らの思想が背景にあったこと、明治時代に日本が一気に近代産業化を行い得たのは、地方のすみずみまで、青陵らの思想が普及していたからである。
 「経済」という語と思想は、幕末から明治の社会を変革するひとつの力になった。


2-3 エコノミィ経済

 明治維新というと、私たちは「政治世界の変革」「政治権力者の交代」と思いがちであるが、変革の根っこには、このような経済活動の変革、思想の変革が根付いていたのだということを「経済」の一語によっても知ることができる。

 経済とは、経世済民(または経国済民)という語を略して「経済」にした語。
 経済の元になった「経世済民」は、世の中を治め(政治)、人民の暮らしを済度する、ということを意味した。

 このように、青陵が、江戸時代にすでに「経済を承る儒者」と自己規定していた、というエピソードによって、ようやく、私は「経済」が「経世済民」から略された語とはいえ、明治になってから略されたのではない、と気づいた。
 遅ればせながら、「経済」という語について調べた。

 「経世済民」という語の最も古い使用例は、東晋の葛洪(AD248~344年)の著作『抱朴子』(ほうぼくし)にある。

 葛洪は、神仙道教に理論的な基礎を築いた道教学者。丹陽句容に生まれ、字は稚川、号は抱朴子。号をそのまま著作名にしたのが『抱朴子』で、道教神仙思想の集大成である。

 時代がやや下り、隋代の王通『文中子』礼楽篇には、「皆有經濟之道、謂經世濟民」と書かれている。「経済」が、経世済民の略語として用いられていたことがわかる。

 以上、「経済」という語の成立について私がおかしていた誤解を訂正し、ようやく中国源流にまでさかのぼって理解することができた。


3-1 日本の経済学

 18世紀前半、太宰春台『経済録』(18世紀前半)は、「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經め民を濟ふ義なり」と述べている。
 江戸時代の「經世濟民(經濟)の學」は今日でいう経済学だけではなく、政治学・政策学・社会学など広範な領域をカバーし、「世を治める」ための幅広い知識を考察するものだった。

 しかし、江戸後期になると次第に貨幣経済が浸透し、「經濟」のなかでも「社会生活を営むのに必要な生産・消費・売買などの活動」という側面が強調されるようになっていった。
 19世紀前半の正司考祺『経済問答秘録』に「今世間に貨殖興利を以て經濟と云ふは謬なり」と書かれてた。
 この正司の述べる「経済」は、今日の用法に近いと思われる。

 「経済」という語の用法の変化は、明・清代の中国の俗語において、従来の古典的中国語の用法と異なったこと、金銭・財務に関連する用法が広まったゆえの社会情勢と連動している、と思われる。
 以上の説は近代日本語成立を研究している杉本つとむの説である。

3-2 エコノミクス
 
 明治期に「エコノミクス」が「経済学」と翻訳されて以来、神田孝平『経済小学』などにより、「経済」もしくは「経済学(學)」が英語の「political economy」の訳語として用いられるようになった。
 經濟(経済)は、従来からの「貨殖興利」という用法もあいまって、economyの訳語として理解されるようになり、「民を済ふ」という規範的な意味は稀薄となった。

西周は、江戸時代の「経済」という語と、ポリティカルエコノミーの意味合いの違いを考慮し、別の語としたかったので、「制産学」という訳語を案出した。
エンサイクロベディアには「百学連環」という訳語を与え、そのなかで、第 1 編は、一般教養に当たる学を「普通学」と呼び、 歴史、地理学、文章学、数学を含めている。
第2編には、殊別学と名付けた部門別の学問をあて、心理上学として、神理学、哲学、政事学・法学、制産学などをあげている。
 しかし、福澤諭吉の訳語「経済」、津田真道の訳語「経済学」が一般に浸透していき、他の訳語は、普及しなかった。

また、この新しい用法は、本来の意味の「經濟」という語を生み出した中国(清)にも翻訳を通じて逆輸出された。
このほか、中国へ逆輸出された「新漢語=和製漢語」は、哲学、社会、人民、民主など、多岐にわたっている。

1877(明治10)年,東京開成学校は,東京医学校と合併して,東京大学と改称された。
1878(明治11)年には、アメリカから弱冠25歳のフェノロサがお雇い外国人教師として東大に招かれた。フェノロサは政治学・理財学・哲学を担当した。1978年の東京大学発足当時は、経済学ではなく、理財学という科目名であった。

 井上哲次郎の談話がある。(石井研堂「明治事物起源」第七学術 による)
「経済学」といふ言葉も、経済雑誌など〉、世間では既に使つてゐましたが、大 学では、経済は余り広過ぎる、政治学も何も入つてゐるやうなものだから、「 リティカル・エコノミー」の訳としてはいかぬといふて、私は、之を理財学と訳 し、大学でも、初め「理財学」としてあり、慶応大学は、今日尚之を用ひて居り ます。理財は、支那の昔の言葉によつて定めたのでした。だが、世間では依然と して経済と言ふてるので、たう/\それに負けて、帝大の方も、経済学になつて しまひました。
井上哲治郎(いのうえ てつじろう、 1856(安政2)~ 1944(昭和19)年明治時代に活躍した日本の哲学者・東京帝国大学教授

 井上哲治郎によると、慶応大学はエコノミクスの翻訳として「理財学」を用いたのに、東京大学は「経済学」を採用し、一般の語としては「経済学」が流通するようになったと述べている。
 エコノミイを「経済」と訳した福澤諭吉の慶応大学では、エコノミクスに「理財学」をあてて使い、東京大学では初期の「理財学」から一般社会に流通するようになっていた「経済学」へと科目名を変えていたことがわかる。
 

 以上、エコノミクスという語が「経済学」と翻訳されたことについて、中国語としての「経済」、江戸時代の「経済」、明治期の「経済学」について、調査した。

<おわり>


<参照文献>
石井研堂『明治事物起源・第七学術』ちくま学芸文庫復刻1997
石塚 正英・ 柴田 隆行 監修『哲学・思想翻訳語辞典』論創社2003
杉本 つとむ『語源海』東京書籍2005
惣田正明『日本語開化物語』朝日選書1988
柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982


ミシン考(2)2008/08/04

2008-08-04 07:27:00 | 日記
1-3 世界史におけるミシンの登場
 ミシンは、産業革命期のイギリスで、1589年、ウイリアム・リーが編み機を発明したことに端を発し、1755年、ワイゼンソール(Charles Weisenthal)が新式の縫製機を発明したことから発達をとげた。
1790年、トーマス・セント(Thomas Saint)がワイゼンソールとは別の仕組みの環縫いミシンを発明したが、不完全な機械であったために、普及しなかった。

 右の図版(3)は、トーマス・セント考案のマシンをアメリカのウィルソンが復刻したものである。

 ワイゼンソールとセントのsewing machine(ソーイング・マシン)は、どちらも量産はされずに終わったが、イギリスからフランスへ舞台をうつし、フランスのティモニエ(Barthelemy Thimonnier)が1830年に特許をとり、軍服を縫う目的で1840年に80台生産された。
しかし、フランスの仕立て屋たちは、ミシンによって失業することをおそれ、生産されたミシンを破壊した。

 新大陸へ移入したミシンは、アメリカ人のハント(Walter Hunt)が改良を加えた。ハントは、1830年代はじめに、現在のミシンとほぼ同じ構造の、ミシン針の先端に穴があいていてそこに上糸を通すしくみのミシンを発明した。
 しかし、特許をとらなかったため、この後、複数の業者による特許紛争の原因になった。

 ハントとほぼ同じ構造のミシンの特許を取得したのは、アメリカのハウ(Elias Howe)であった。
 アイザック・メリット・シンガー(Isaac Merrit Singer)は、1850年にミシンを現在とほぼ同じ構造の機械(綻縫式)に改良し、翌年特許をとった。I. M. シンガー社(のちのシンガー社)を設立し、大量生産をはじめた。世界中で「シンガー」という商品名が「sewing machine(ソーイング・マシン)」の代名詞として通用したのである。

2-1 日本のミシン

 幕末のミシンについて年表にまとめてみると。

1854年 ペリーが2度目の来航をした
1855年 ハリス、初代駐日領事となる
1856年 近衛敬子(このえすみこ=島津篤子が近衛家の養女となり改名)が13代将軍徳川家定に入輿。御台所となる。
1857年 12月10日、ハリス将軍家定に謁見。米国大統領フランクリン・ピアースからの親書を提出.する。アメリカ大統領から将軍家定への献上品のなかのリストにはミシンの記録はないが、ウィーラー&ウィルソン社がハリスを通じて、献上した品のなかに、「シウイングマシネ(sewing mashine )」があった。
1858年 御台所は、タウンゼント・ハリスを通じて、ミシン献上者のウィーラー&ウィルソン社へ返礼の品を贈った。(4年後のニューヨークタイムズの記事による)
1858年 7月将軍家定死去。御台所は落飾し天璋院と称す。
1860年 咸臨丸により渡米した通訳中浜万次郎がミシンをアメリカより持ち帰る
1861年 竹口喜左衛門信義、妻子とともに、神奈川成仏寺在住のアメリカ長老教会宣教医師ベボン(james Curtis Hepburn)を訪問。ミシン縫製を見学
1862年 駐日領事ハリス、アメリカに帰国。ニューヨーク新聞に日本関連の記事が掲載された。ウィラー&ウィルソン社に対し、ミシン返礼として、金糸、銀糸で豪華な綾織の日本の織物が幕府から贈呈されたとの記事。
1862年頃 沢野辰五郎、成仏寺でブラウン夫人にミシン縫製教授を受ける
1868年  幕府開成所がミシン伝習生を募集

2-2 天璋院篤姫のミシン

 中山千代『日本婦人洋装史』の記述によると。
 1862年4月5日付け(文久2年3月7日)の『ニューヨーク新聞』第330号に以下の記事がある。その記事が我が国の『官板 海外新聞別集』に翻訳掲載された。

日本の当方延大君より、ホエールスおよびウヰルソンの組合より全対君に進上し    足る美事なる縫道具の返礼として、亜国ミニストル、トオセントハルリスに頼て、右の組合にはなはだ珍しく且つ貴むべき数多の品物を贈れり。是は種々に彩色して何れも長サ五ヤールドの天鵞絨(びろうど)五巻と、金銀の綾模様ありて種々の鳥或は花を画きたる何(いづれ)も立方一ヤードの貴き絹五巻なり、但し其鳥の中にはその色黒して異形なる鳥数十羽、並びにきれいなる牝鳥の周囲に牝鳥雛の集まれる有様を画きたり。今此織物はクラホードの作なるデンシングセンニーの華麗なる肖像とともに、ホエーレル及びウヰルソン組合の展観場の飾物としてあれり。外国珍器をミルを好む輩は、日本製造の器械も常に探索すべし。予等ハルリスの知らせにて聞きたるに、亜国夫人の如く、前大君の寡婦は右進上したる縫い道具を玩りと。(原著注:『官板 海外新聞別集 上巻』『幕末明治新聞全集3』 明治文化研究会昭和36年))

 「前大君の寡婦は右進上したる縫い道具を玩り」という記述は、「前将軍徳川家定の未亡人天彰院が、献上された縫い道具をもてあそんだ」ということになり、天璋院は、ミシンを大奥において飾っていただけでなく、実際に動かして使用してみたことがわかる。
 ただし、大奥には、ミシンを使用して縫い物ができる者はいなかったと思われる。

 また、江戸将軍へのミシン献上を行ったのが、ペリーなのか、ハリスなのかも諸説ある。
 吉田元は、『日本採訪ミシン史雑感』(日本ミシン産業100号昭和41年)『蛇の目ミシン50年史』(昭和46年)に、ペリー説を述べている。

 中山千代はハリス説をとる。ペリーは将軍に謁見していない、ペリー贈品の返礼をハリスが持ち帰るのは不自然という論拠による。
 江戸東京博物館の学芸員畑尚子も、ハリス説。(2008/06/12「ペリーとハリス」展が開催されているおりに、博物館図書室から内線電話での取材による)

 ミシンは、ときの御台所、「天璋院敬子=篤姫」の持ち物となったあと、江戸城内の火災が発生したため、大奥関連の多くの文書などとともに、燃えてしまった可能性が大きい。 この篤姫のミシンが、その後どうなったのか、明治期に「天彰院のミシン」についてふれた文書は見あたらない。

 天璋院は、江戸城明け渡しの際、大奥にあったものを「公共のもの」として、持ち出しを禁止したと、伝えられている。自分自身はわずかな身の回りのものだけもって、財宝類はそっくり西郷隆盛ひきいる官軍に引き渡したという。

 天璋院は、明治の頃は有名人であり、夏目漱石『吾輩は猫である』の一節にも登場する。
 猫の「吾輩」が、三毛子に三毛子の飼い主のことを尋ねると、三毛子は、「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行つた先の御つかさんの甥の娘なんだつて」と、飼い主を説明する。
 三毛子の飼い主が「由緒正しい」家柄であることを述べるのに、天璋院を持ち出していることでも、天璋院の存在が明治の世まで影響力を持っていたことがわかる。

 『吾輩は猫である』は1905(明治38)年に発表されている。
天璋院が亡くなって二十数年後のことで、まだ天璋院を直接記憶する人々が残っていて、ちまたの話題にもなる人物だったのである。

 私が江戸東京博物館において、『写真でみる日本洋装史』という大型の写真本を閲覧したときのこと。(2008年1月)
 皇族貴族の明治貴顕夫人たちの洋装写真がならぶなか、天璋院敬子の洋装写真があるのに、目をひかれた。ああ、明治時代になったとき、天璋院も洋装したのだな、と思った。

 天璋院のミシンがどうなったのかの記録がなく、幕末大奥関連文書の多くが火災消失という事態で、大奥でミシンをなんと読んでいたのかは、定かではない。「シウイングマシネ」だったのか、「仕掛け縫い物」であったのか。
 幕末、器械類は「仕掛け」と呼ばれていたのである。


2-3 ヘボンのミシン
 日本女性で最初にミシン縫製を習ったのは、竹口喜左衛門信義の妻である。
 伊勢の商人、竹口喜左衛門信義は、妻子を伴って、神奈川成仏寺在住のアメリカ長老教会宣教医師ベボン(James Curtis Hepburn)を訪問。家庭でのミシン縫製を見学した。
竹口の日記『横浜日記』に、妻がミシン縫いを習いたがったことが記述されている。

竹口のぶは、夫とともに、成仏寺を訪問。成仏寺に住む三家族と交流した。
ヘボン夫妻、ブラウン一家、ゴーブル夫妻は、宣教のために来日し、成仏寺を宿舎としていた。
ブラウン家の娘ジュリア(Juria Maria Brown21歳)がミシンで縫い物をするところを見て、竹口のぶは、夫に「習いたい」と申しでた。
信義は承知し、1861(万延2)年1月19日付け『横浜日記』に
「十九日 雨逗留昼後より晴」
のぶアメリカの縫いものを習わんといへる。昨日ヘボンへ咄す。同妻、教へんと いふに付、今日至る

 信義が「縫い物を教える」という返答を得たヘボンの妻クララ・ヘボン(Clara Leete Hepvurn)は、ニューヨークで女性信者のための「縫い物会」を開いていた。
伝道のために日本でも「縫い物会」が有用であるとしてミシンを携えて来日していた。

 竹口のぶにミシンの使い方を教えたことを端緒として、ヘボン夫妻は、のちの「明治学院大学」の前身となるヘボン塾を開設する。
 ヘボン塾は「ミセス・ヘボンの塾」として知られるほど、クララの力が大きく貢献していた。

 ジェームズ・カーティス・ヘボンは、日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、ヘボン式ローマ字にその名を残している。
私は、数年前、明治学院大学に立てられているヘボン胸像を見学しに、白金の明治学院へ出かけたことがあった。
 日本語学にとって、偉大な足跡を残すヘボンであったが、その妻クララが、日本の「ミシン」にとっても大きな存在だったとは知らなかった。

 成仏寺でヘボンと共にキリスト教布教の機会を待っていたブラウン。その妻エリザベス(Elizabeth Goodwin Brown)も、ミシン縫製技術を習得しており、娘のジュリアに教えただけでなく、日本人にも、ミシン技術を教えた。

日本最初の「ドレスメーカー」となった沢野辰五郎は、1861(文久2)年ころ、成仏寺で、ブラウン夫人からミシン縫製技術と女性洋装仕立てを習った。

 足袋職人であった辰五郎は、目が悪いブラウン夫人のかわりに、家内のシーツなどを縫うため、彼女の指導を受けながらミシン縫製を覚えた。
ブラウン家の裁縫仕事を引き受けての出入りであり、ミシン技術を教えてもらいながら、辰五郎は一日に700文の賃金を受け取った。一人前の大工の一日の賃金が300文、人足は一日150文の時代、教えてもらいながら賃金を受け取った辰五郎はたいへん幸運な職人であった。
 これも、「異人の家に出入りするなど、恐ろしい」と、だれもが尻込みする時代に、一介の足袋職人辰五郎が、勇気をもって「異人の宿泊所」になっていた成仏寺へ向かった成果であった。

 辰五郎は、ミシン技術を習った当時の思い出を語っている。
『横浜貿易新報』に載った辰五郎の話は『横浜開港側面史』に「女性服裁縫の始め」と題されて、1907(明治40)年の11月より2年間にわたって連載された。

 辰五郎のほか、在留西洋人にミシン技術を習い、明治初期に外国人向けの洋装仕立を業とした者に、片山喜三郎、伊藤金策、柳原伊四郎がいる。この事実を述べているのは
片山のひ孫弟子にあたる西島芳太郎(明治20~昭和56)。『洋裁師不問物語(ようさいしとわずがたり』1974年である。(西島芳太郎『明治百年洋裁随想』『西島洋裁全集』が、出版されているが、文献での確認はできていない。)


2-4 ジョン万次郎のミシン
 1860年、遣米使節団に同行した通訳:中浜万次郎(通称:ジョン万次郎)が、写真機と手回しミシンを持ち帰っている。

 遣米使節団(木村喜毅軍艦奉行が代表者)の様子を描いた随行員佐藤秀長の「米行日記」にも、アメリカで見たミシンの事柄が、刻明に記されている。

 当時、ミシンの量産がはじまったところで、アメリカ社会にとって、ミシンは「ヨーロッパに劣らないアメリカ文明」の象徴であった。
 一行は、サンフランシスコの造船局士官の家で娘がミシンで縫い物するところを見物。
 
其器きわめて簡便にして、足にて踏めば機関自然に転旋し、緩急意のごとく、其 奇巧なるに堪り(木村喜毅『奉使米利堅紀行』万延元年遣米使節資料集成所収)

 随行員勘定組頭森田岡太郎の記録によると、一行はワシントンで再度ミシン縫製を見学している。ウィラードホテル(Uillard Hotel)の縫物所における「ミシン見物」の様子は、アメリカの新聞に挿絵つきで報道された。
 森田岡太郎は、ミシンを「車仕懸ヶ之品」と表現している。

 新聞には、日本使節団ら一行が、ミシン縫をしている女性をかこんで眺めているイラストレーションが描かれている。(図版10)
 咸臨丸一行が見ているミシンも、イラストから、天彰院のミシンと同じく、ウィラー・ウィルソン社製であることがわかる。

 中浜万次郎は、自費により3台のミシンをサンフランシスコで購入。持ち帰った。これは第三者に転売されているので、「我が国初のミシンの輸入貿易」とも言える。
 買ったのは、東京愛宕下の軍服仕立業植村久五郎。

 植村は、大金120両を支払って買ったという。(『東京洋服商工同業組合沿革史』昭和17年による)
 幕末の貨幣価値に異同はあるが、幕末期には、1両=3~4千円なので、現在のお金にしても50~60万円ほどになり、高価な買い物であったことがわかる。仕立て職人が3ヶ月以上働いた手間賃に相当した値段だったのである。
 植村の一族はその後信用を得て軍服製造業の雄となったので、ミシンへの投資は大成功だったといえる。

2-5 開成所のミシン
 1864年、幕府軍は長州征伐に出陣するにあたり、軍装を洋装とすることを決定。人足2000人分の軍服が必要になった。
小伝馬町の幕府御用商人、上田治衛兵がこれを受注。
軍服の作り方も知らず職人もいない中、上田は、急遽外国人の古着を買って、糸をほぐしてばらばらにする。つてをたよりに足袋職人を集め、縫い上げたという。この時、ミシンが使用されたのかどうかは不明であるが、2000人分の軍服を短期間で縫い上げたことから、ミシンの使用も考えられる。
 以後、幕府は、軍装を整える必要に迫られた。

 幕府の開成所は、英語など西洋学問の習得・教授を目的として開設された。
 1867(慶応3)年には、「開成所物産学」教授を横浜へ派遣した。横浜に開業していた「西洋テーラー」の西洋人技術者にミシン縫製技術を習わせるためである。(「中外新聞」1968年2月)
 1868年には、ミシン講習を始めた。
 この時のミシンの呼び方は「シウインマシネ」である。

  西洋新式縫物
右機械はシウインマシネと名くる精巧簡便の品にて、近年舶来ありと雖も用法未 だ弘らす。依て去年官命を蒙り横浜において外国人より教授を受け、尚ほ又海内 為に伝習相始め候間、望の御方は開成所へ御尋ねなさるべき候。はては伝習の序 何にても注文次第廉価にて仕立物致すべく候。依て此段布告に及ぶものなり。
慶応四年二月 開成所にて 遠藤辰三郎 幕末明治新聞全集 所収』)

 開成所が輸入したのは、ドイツ製の「横引環縫ミシン」である。ドイツ語ではミシン「機械」にあたるのはmenschen(メンチェン)」であるが、開成所の機械の呼び方は「メンチェン」ではなく、「マシネ」になっている。
 明治政府も1871(明治4)年には、横浜居留地のドイツ人アーブルヒの貿易事業により、ドイツ製ミシンを輸入した。

幕府開成所以来のドイツ製輸入を踏襲したという面と、帝王像として模範とされたのがプロイセン帝国だったという事情があるのではないだろうか。践祚した当時はひ弱な16歳の少年だった明治天皇。明治元年の元服式において、お歯黒を染め、眉をそって描き眉をほどこし、白塗りの化粧していた。(武田佐知子『衣服で読み直す日本史』pp217)
力強い帝王像を明治天皇に持たせるために、模範とされたのがプロイセン帝国の軍服を着たフリードリッヒ皇帝像だった。明治政府が、軍制を整えようとしたとき、プロイセンの軍服とドイツ製ミシンを利用した。
明治天皇は、1870(明治3)年、東京駒場野における閲兵式のため、初めて宮廷外に姿をあらわしたが、この時はまだ、「直衣(のうし)と紅袴」という姿であった。(『明治天皇紀』)
明治天皇の軍服着用写真が撮影されたのは、1871(明治6)年のドイツ製ミシン輸入ののち、3年後の1873(明治6)年になってからのことだった。
天皇洋装化から、明治社会に洋装が浸透していく。

2-6 明治の洋装化とミシン
 幕末にはじめて日本へもたらされたミシンが普及をはじめるのは、明治期になってからである。

 明治初期のミシンは輸入のみであった。
江戸幕末の大砲職人、左口鉄造は、鉄を扱って大砲を作る技術を、ミシンの本体製造に応用した。しかし、国産ミシンの本格的製造は、明治後期になるまで停滞する。

 陸軍被服廠(ひふくしょう)など官による製造に転換するまで、明治期の軍服製造は「男性事業者」によって担われていた。
 また、紳士服仕立ても、横浜の居留地を中心に事業化されていったが、やはり、男性事業者、男性の仕立て職人が、制作を行った。

 明治初年に開業していた増田文吉、堰清吉、小沢惣太郎らは、いずれも横浜の外国人経営の紳士服店に徒弟として入り、ミシン縫製技術、紳士服仕立て技術を習得してきた。
 『諸工職業競・舶来仕立職』(国立史料館編『史料館叢書別巻1 明治開化期の錦絵pp16~17』(東京大学出版会1989年)の画面に描かれている仕立て職人たちは、6名全員が「和服」を着て仕事をしている。中央でミシンを踏んでいるのは、羽織を着た女性。
 こうもり傘職人、時計職人、いずれも和装であり、欧米風のものを作る側の職人たちにとって、「洋服、洋品」は、仕事上の商品であって、自分たちの日常の衣服とはなっていない。
 一方、伊勢勝から始まった靴製造や靴下制作は、武士が起こした産業であったために、職人たちは洋装している。洋装に対する武士と庶民の意識の違いが現れている。

 文明開化とは、電話や汽車など、まず欧米から取り入れた工業化製品として人々の周囲に現れ、次に生活文化のなかの欧風化として、着物を洋服に改めることが「開化」として受け取られた。

 明治の文明開化期には、東京浅草においてミシンは「西洋から来たものを縫ふ機械」として見せ物になった。庶民は、かたかたと自動的に布を縫い合わせる機械を見て驚嘆し、これぞ「文明開化」と木戸銭を惜しまなかった。

男性洋装化は、皇族華族らから、軍人・官吏、上層会社員へと広がっていった。
 警察官などの官員制服は明治初期より洋服であり、一般会社員の服も、身分が高い者から順に洋服になっていったので、男性用の洋服需要は大きくなっていった。
 女性の洋装化は、はるかにおくれた。明治天皇の皇后美子(昭憲皇后)は、天皇が軍服を着るようになった同時期に、洋服をあつらえたことが記録されているが、実際には公の場では着用しなかった。憲法発布記念の錦絵(1877年明治10年)などでは、袴と小袿(こうちぎ)姿で描かれている。
洋装して公の場にでたのは、1888(明治21)年ごろから。それまでは、和装であった。.

2-7 明治女子教育とミシン
 男性洋装は、明治末期にかけて次第に広がっていった。それに比べて、婦人服は、鹿鳴館のあと洋装は「皇室」などの女性が公式の場で着用するか、または、遊里の女性たちが、「目新しいもの」「物珍しいもの」を求めて着用するにとどまり、一般の女性には普及しなかった。

鹿鳴館時代の貴顕夫人の写真、長崎丸山の松月楼遊女の洋装写真などによって、当時の洋装を知ることができる。
 このような洋服は、仕立て職人を自宅に呼んで採寸、家庭内のミシンを使わせて仕立て上げる「入り仕事」と、呼ばれる「家庭内」の仕事にとどまっいた。

 明治中期からは女学校の「洋装制服」も広まり始め、教科として「洋裁」を取り入れるところも増えていった。
1886(明治19)年には、一関の知新女学校に洋服裁縫科ができ、翌年には東京にも、平島嘉平が「婦人洋服裁縫女学校」を開設。
 また、仕立て屋田中栄二郎は、自身の洋服屋内で洋裁教室を開いた。馬車に乗って通い、洋裁を習ったのは、貴族の子女たちであった。

 一般の女性にとって、洋裁を習うなどは、まだ遠い出来事であった。
一方、手内職としての和裁は、女性の職業として、洗濯洗い張り、髪結いなどとともに、「尊敬を受けない」分野であった。

 樋口一葉が、女所帯を支えるべく、仕立物を引き受けるようすは、一葉日記に詳しい。一葉は、歯を食いしばり屈辱に耐えつつ、内職の仕立てもの洗濯物を続けるほか収入の手段がなく、あとは借金を重ねるのみ。
 小説を書くことは、唯一、一葉にとって「誇りをもって収入を得る手段」であった。

 明治後期には、女学校での洋裁教育が始まった。 
1900(明治33)年の青森県立第一高等女学校の生徒規則(国会図書館近代文学データベース)によると、
一、ミシン使用者は、本科第三学年第四学年及ビ補習科ノ生徒とス
二、使用時限は、毎日裁縫教授時間、並ニ終業時間後一時間以内トス

とあり、貴重品のミシン使用には、イ~ホの5項目の使用細則、そしてミシン室の清掃に至るまで、細かい規定があった。

 1903(明治36)年になると、高等女学校教員資格を与える文部省検定の裁縫科試験に洋裁が取り入れられ、洋裁教育が本格化したことがわかる。
 また、女子教育界の先駆者津田梅子、鳩山春子、桜井近子も、飯島民次郎に洋裁を習っており、女子教育にとり洋裁伝習は、大きな魅力ある科目となっていた。

 私立の裁縫女学校でも、本格的な洋裁教育が始まった。
 伊沢峯子は、東伏見宮家からフランスに派遣され、万国博覧会の管理に従事した。パリで洋裁を学んだ伊沢は、共立女子職業学校、実践女学校、女子美術学校などで洋裁を教授した。

 アメリカで大きなシェアを占め、ミシンの代名詞となっていたシンガー社は、1900(明治33)年に、日本に支社を設立し、ミシン販売を始めた。1899年に外国人居留地制度が廃止され、外国人が全国どこにでも住めるようになったことを見越しての日本上陸であった。シンガー社は徐々に日本社会に入り込み、ついに、明治初期以来ドイツ製を輸入していた陸軍被服廠が、1920年頃にはシンガー社製に切り替えていった。
 しかし、一般家庭への普及をうががうシンガー社にとって、ほとんどの女性が和装である家庭には、なかなか入り込めなかった。
 洋服の普及していない日本社会で、ミシンはそうそう売れるものではない。

シンガー社は、洋服と洋裁を広めることが販路拡大の最大の方策と考え、販売店で洋裁学校を開いた。
 校主は泰敏之(シンガーミシン極東支配人)。
秦は、東京帝国大学出身でアメリカに留学したのちに、シンガーミシンに入社。
洋裁学校の校長は、校主の妻、秦利舞子であった。
 夫妻は洋裁指導者を養成し、指導者はイコールミシン販売代理業者ともなった。シンガーの販売戦略は成功したといえる。

 1907(明治40)年には、シンガーミシン裁縫女学校の新校舎設立。
 1909(明治42)年、秦利舞子はシンガーミシン裁縫女学校実業部より『みしん裁縫ひとりまなび』という独習書を出版している。(国会図書館近代日本文学データベースにて閲覧)

 アンドリュー・ゴードンの『ミシンの宣伝と利用から読み取る女性像』(『京都橘女子大歴史文化研究所紀要第14号』は、シンガーミシンの日本上陸後、「良妻賢母」「自立自活」の両面にとって、日本女性の精神的側面へ影響があったと述べている。
女子教育が、少数エリート層から中流層と広がる社会風潮とともに、ミシンは女性の良妻賢母をめざす女性というイメージをくずさないで女性の自立自活に果たすことのできる家庭内機械として、普及していった。

 1909(明治42)年発行の津永春枝『小供洋服並端物雛型説明』(国会図書館近代文学データベース)によると、
ミシン機械使用法について
ミシン機械はその使用熟練を期すべきは勿論なりと雖も、初心の間は、その運転 に無理のこと為すべからず      
と、注意を与えている。ミシンを利用しようとする人が増えてきたからゆえの注意書きであろう。

2-8 明治後期以後の女子洋装の拡大

 鹿鳴館の時代が短期で終了して以後、明治中期以後、女性の洋装化をもっとも早く取り入れたのは、看護婦制服である。
 女性の職業として、ナイチンゲールというロールモデルを持ち、機能的な動きが必要とされた看護婦に、洋装は不可欠だった。

 看護婦以外で洋装を必要としたのは、まだまだ、女優、西洋料理店女給仕など、「特殊」と見られる人々でしかなかった。

 1904(明治37)年に、飯田高島屋が売り出した「刺繍のブラウス一着4円45銭」が、我が国における「既製服」のはじめ。
 1897(明治30)年の小学校教諭給与は、尋常小学校男子正教員月俸8円、女子正教員6円、男子准教員5円、女子准教員4円という最低月俸額が決められていた。
 ブラウス一着買うには、女性教師は一ヶ月分の給与のほとんどをはたくことになる。

 明治ジャーナリズムが伝えた「貴顕夫人の洋装」「高価なミシン、高価な洋装」が、人々に与えた意識。
 まず、洋装が「お上」からの通達や「皇后のおことば」として国民に与えられたものとして出発し、「近代国家」「天皇制」と洋装が不可分に感じられたこと、近代的国家と近代的洋装が結びつき、洋装=「お国のために役立つ国民の服装」「高級な国民の衣服」という意識を刷り込んだ。

 また、洋裁技術を学ぶ女性は、「高等教育を受けた女性」として、エリート意識を持つ人々であった。伊沢峯子らは、「近代国家のための上流女性養成」をめざして洋裁教育を行った。
 和裁内職が「ほかに手に職のない女のなしうるカツカツの食い扶持稼ぎ」のイメージであったのに対し、洋裁業は、「時代の先端をいく職業」と見なされた。

 シンガーはじめ、洋裁学校が宣伝うたい文句としたのは「家庭での洋服づくりに。また、家庭内で仕立ての仕事を行えば、良妻賢母として夫につかえながら、収入を確保できる」という、「職業婦人として活躍するためにも役立つ」というキャッチコピーであった。
 実際、日清日露戦役の未亡人のなかには、看護婦学校へまた洋裁学校へと通い、自活の道をさぐる者も出てきた時代だった。
 ミシンは、「家庭婦人」「ハイカラな職業」「高級感」のイメージを同時に与える「機械」であったのだ。


2-9 大正のミシン
 ヨーロッパで、第一次世界大戦に出征した男性にかわって、女性が社会生活に進出できたことは、洋装史にとっても、大きな出来事となった。
 ヨーロッパ女性は、コルセットをはずし、機能的な仕事着としての服装を求めた。
 大正時代には、この機能的な市民的洋装が普及する。
社会の「大正デモクラシー」と、モダンボーイモダンガール(モボ・モガ)の風俗は連動して一世風靡した。

 明治後期に高等教育を受けた女性たちは、「職業婦人」と称されたキャリアウーマンとなり、続々と洋装化していった。
 読売新聞に勤務した望月ゆり子(1919(大正8)年に成女高等女学校を卒業)、大橋弘子(1919年青山女学院専門部卒業)らは、洋装がいかに職業生活に合致しているかを述べている。

 大正期の洋装の値段は。明治期の四分の一にまで下がってきており、決して「貴顕夫人」のみの持ちうる衣服ではなくなってきた。
 上記の望月ゆり子は、和装で着物長襦袢羽織一式を誂える値段の三分の二の金額で洋装一式がそろえられると述べている。(「婦人の友」大正8年11月)

 しかるに、やはり、これもエリートキャリアウーマンであるからこその弁であり、まだまだ、「銀座を洋装して歩くと、人だかりがする」時代であった。

2-10 大正から昭和へ、簡単服とミシンの普及
 一般庶民の洋装化を押し進めたのは、関東大震災であった。
 和服での避難が「動きにくく、ひらひらする袖や裾から火がつきやすかった」という観点から、一般女性の洋装が推奨される社会意識がようやくに起きてきたのである。

 震災後の1923(大正12)に、飯島婦人洋服店が既製服を売り出した。ワンピース(ギンガム地6枚はぎスカートとポプリン白襟白カフスつき)が1円の価格で売り出されたのである。うち、販売手数料30銭。飯島洋装店の卸値70銭のうち、仕立て手間賃10銭前後。

 大阪では、「アッパッパ」と通称される簡単服が売り出され、やがて全国的な流行となった。値段は、浴衣生地一着分の半値の80~90銭。
 この簡単服アッパッパは、高温多湿の日本の夏に、かなうものとして、その「スタイルわるさ」をしのいで人々に受け入れられた。浴衣よりも快適な衣服として、「アッパッパに下駄履き」というスタイルが、路地に出現した。

1924(大正13)年には、アッパッパが「流行語」として取り上げられているが、これは、ことばだけでなく、家庭着・簡単服として普及したとみなしてよいだろう。
 永井荷風は『?東綺譚』に、昭和初期のアッパッパについて記述している。
 『女子がアッパッパと賞する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤慵斎(さとうようさい)君の文集に載っている。その論に譲って、ここには言うまい』(初出1936(昭和11)年 岩波文庫改版1991年 p103)

荷風には「下着一枚」」としか見えなかった「アッパッパ」は、揶揄嘲笑を受けながらも、洋服の大衆化を実現したのであった。
 昭和期には、このアッパッパの改良型が「ホームドレス」として普及した。

 震災後のアッパッパ流行と時期を同じくしたのが、ミシンの大衆化である。ミシン需要が急増し、新品はシンガー社がシェアをのばす一方、中古ミシンの大量輸入が、ミシン需要にこたえた。

 また、大正時代からミシンの国産が大量生産に入り、1921(大正10)年、東京滝野川でパイン裁縫機械製作所(現在の蛇の目ミシン工業)が、日本製ミシンの量産をはじめた。
 1930(昭和10)年には、「蛇の目ミシン」として製造・販売を開始した。
 これ以後、ミシンは国産品も、輸入品とともに割賦販売の普及とあいまって、飛躍的に利用が延びていく。

2-11 昭和敗戦、戦後期のミシン
 戦時中そして戦後期は、女性の社会進出が進む時代である。なぜなら、男性が出征して男性労働者が不足した社会で、女性がそれまで男性が独占していた職場にも進出することができたからだ。
 いったん社会に出て活動する場を得た女性たちが、出征していた男たちが復員後、仕事を失ったままで満足することはない。さまざまな社会進出が図られるなか、家庭にとどまらなくては成らない女性にとって、最良の「家庭内でできて収入の良い仕事」は、洋裁であった。

 ここにひとつのエピソードがある。『鳥取県議会史』上巻に記録された、時代を映す記事。「ミシン税」について。
  『 インフレの高進で財政窮乏に陥った鳥取県は、法定外独立税として庭園税とミシン税を新設した。唯一の女性県議田中花子は、決定時の県会を病気で欠席していたが、後にミシンをふむことによって家計をたてようやく厚生の光明を見出している未亡人にとり精神的衝撃が大きすぎると、再考を迫った。米子市の母子会も会員の免税を陳情した。税は1950年度分から撤廃された。 』

 ミシンに税をかけることで、何ほどの税収増になるのかはわからないが、「未亡人」
「母子家庭」にとって、ミシンでの家計維持が重要であることを事由として、ミシン税撤廃を申し出て、それが議会で賛成多数をもって撤廃されたという記事から、この時代の「ミシンの社会に果たした役割」を知ることができる。

 ミシン洋裁は、家庭婦人の「たしなみ」として洋裁教室は花嫁修業の必修科目となり、家族の衣服を主婦がミシンでまかなうことは家庭生活の重要項目となったのが、戦後期であった。以後、割安の既製服が一般化するまで、ミシンは家庭の必需品となった。


3 「ミシン」ということば

 咸臨丸による遣米使節随行員、森田岡太郎は、ミシンを「車仕懸ヶ之品」と記録した。
 開成所の縫製技術者募集告示では「シウインマシネ」表現している。

 さまざまな西欧渡来の文物が明治維新期に日本に入ったとき、政府官界が導入に力を注いだもののほとんどは、翻訳がなされた。

 明治期に、製糸工業が国家事業とされたのと同じく、「裁縫」が国家事業として発展したのであったら、sewing machineも「裁縫機」「縫製機」と翻訳されて広まったであろう。
 しかし、明治政府は、群馬県富岡製糸工場などで製糸事業を「国営工場」として殖産興業の見本としたにとどまり、「縫製、裁縫」を、民間事業のままとした。

、大蔵省主税局編集による『外国貿易概覧』は1890年に刊行がはじまり、ミシン輸入状況も記録している。
 「ミシン」という語が記録されているのは、1892年報からである。
  『縫衣機ハ二十年ノ輸入ヲ以テ最多額トシ、爾来漸々逓減セシカハ自ラ其不足ヲ告ケ、本年ハ聊カ増進ヲ呈スルニ至レリ。本品ハ俗ニ「ミシン」ト称シ、洋服及ビ洋傘等ノ工場ニ使用スルモノナレハ、神戸大阪等ニ増入ヲ見ルハ、蓋シ近時輸出額ノ著進セル洋傘工場等ニ於テ使用スルモノ多キヲ加ヘシニハ非ル歟(1892年、p500)。

 この報告では、大蔵省が「縫衣機」としている輸入品を、一般には「ミシン」と称していることが明記されており、すでに1892年には世間では「ミシン」という呼称が通用していたことがわかる。

 明治時代、洋装が貴族社会に広まると、sewing machine(ソーイング・マシン)の輸入も盛んになり、新聞や雑誌にミシンの広告が載るようになった。

 『写真で見る日本洋装史』に、明治初期における輸入ミシンの広告が載っていた。
 広告のなか、ミシンは「みしん」と表示されていたのである。
『大阪買物案内』に掲載された、大阪心斎橋に開業していた神田周蔵の輸入ミシン販売広告。7台のミシンの絵に「本縫足踏、手ぐり、貫縫ミシン」などの説明があり、カタカナでミシンと書かれている。

 また、別のミシンの絵には、「足踏器械針あしぶみみしん」「手繰器械針(てぐりみしん)」のふたつのミシンがあり、「器械針」には「みしん」と、平仮名のふりがながつけられていた。
 machineマシン=器械と、針を音読みで「シン」と読むことを合わせたうまい洒落になっていると思った。
しかし、「器械針」という表記は広まらず、「ミシン」「みしん」のふりがなのほうが普及した。

 世に出回っているミシンの語源。
 ウィキペディアをはじめ多くが、「ミシン」は、英語のsewing machine(ソーイング・マシン)の、「マシン」がなまったもの、と解説を書いている。
 ミシンは、「裁縫ミシン」とも呼ばれており、時を経る中で「ソーイングマシン」が省略されてミシンと呼ばれるようになったと。

 私は、『日本洋装史』のなかに、明治初期の輸入ミシンの広告をみて、「ミシン」は人々がつかっているうちになまって「ミシン」になったのではなく、最初から「ソーイン(グ)マシン=装員美針」「装引彌針」」などと、音訳されていたのではないか、と考えるようになった。
上記の「足踏器械針」に「みしん」というふりがながあったことは、幕末明治にミシンを使用していた人々(洋装を必要とした貴族富裕階級の夫人たちや縫製技術者たち)に、最初からこの器械が「みしん」として認識されていたのではないかと考えるのである。

 ミシンが日本にもたらされてから間もない戊辰戦争さなか、幕府開成所が軍装を整える必要を知り「軍服製造」のために縫製技術者を養成しようとしたとき、ミシンは「シウインマシネ」と表記されていた。
 明治初期に「みしん広告」が出されるまでの間、「人々が使っている内に、マシネがなまってミシンになった」と、いわれてきた従来の説を採用しがたいのは、「人口に膾炙」するほど、ミシン台数が日本には存在しなかったからだ。

 ミシンが「ミシン」と呼ばれ最初から外来語として普及したのは、明治初期には縫製業が官営とならず、陸軍被服廠が設立するまで、軍服製造も民間事業であったゆえと思う。
 その後、陸軍被服廠設立時、あるいは大蔵省が「縫衣機」と記録する以前に「ミシン」という語は、外来語のまま普及していた。

 なお、昭和期に陸軍戦車隊に入隊した司馬遼太郎は、『歴史と視点』の一遍「戦車この憂鬱なる乗り物」〔新潮文庫p32〕のなか、戦車隊ではミシンを「縫穿機」と呼んでいたと書いている。
 戦時中、英語由来の外来語は言い換えがなされた。言い換えのひとつが「縫穿機」だったのか、それとも、明治期大蔵省の「縫衣機」を陸軍では「縫穿機」と独自の呼び方をしていたのか、わからないのだが、軍部は「ミシン」を使用しなかったとわかる。
 
 
4 「みしん」記号論
 もし、明治期の西周や森鴎外、福沢諭吉などが、ミシンを翻訳して「縫製器械」として世にあらしめたのなら、ミシンの「家庭文化」でありながら、「異国情緒もある器械」というイメージが変わっていたかもしれない。

 「ソーイングマシン」は、翻訳語とならずに外来語、音訳語のまま一般社会に普及した。
 電話郵便鉄道などの「国家存続」に関わる大事業としてではなく、鹿鳴館舞踏会という前後20年にも満たない徒花のような「西洋化」のシンボルが「洋装」であり、ミシンは「洋装」とともに、世に知られるようになった。

 この「婦人ドレスの系統」では、「みしん」は、女性の手習い、女学校での「良妻賢母」のイメージとともに家庭にしだいに浸透していった。
 「ミシン」ということばには、記号的なイメージが両面的に備わっていた。
ひとつには、「女性性」「家庭的」というイメージ。同時に「和装から洋装への移動を実現する異国的魔法のような器械」である、という記号的なイメージが備わっているように思う。

 一方「富国強兵」の「国家大事業」に関わる「軍装」調達に活躍したミシン。
 軍服製造に乗り出したのは、軍服仕立業植村久五郎ら、衣服関連の職人出身の事業家たちだった。
 ミシン仕立て職人は、10歳くらいのとき親方のもとに徒弟として入り、使い走りから始めて、5~7年の年季で仕立てを覚える。年季あけには、1年のお礼奉公。これは、江戸の徒弟制度と同じ「男が一人前に手に職をつける方法」であった。
 1897(明治30)年代の徒弟奉公は、衣食住は親方もち。徒弟の一ヶ月の小遣いは20銭前後。

 お礼奉公をすませて一人前とされた職人の手間賃は、一日30銭。技術が向上した上級の職人は一日1円の手間賃を稼いだ。小学校教諭の給与が、男子正教員でも一ヶ月8~10円だったことを思うと、ミシン職人は、他の職人に比べて高い賃金を得ていたことがわかる。
 女性がこのような職場に入った場合、ボタン付け、裾かがりなど、ミシンという機械には触らせてもらえない補助的な仕事を与えられるにすぎなかった。

 ここに、「ミシン」の両義性多義性が立ちあらわれる。

 ミシンが「仕掛け」「機械」と認識され、「高い技術を持つ男の仕事」のイメージを保持する一方、貴顕夫人の部屋に飾られ、子女たちが競って「洋裁」を趣味として習いにいくような明治社会にあって、ミシンは、「家庭の幸福」「上流の家財道具」のイメージも担うことになった。

 このように、ミシンはひとつには男性技術職が専門的に取り扱う「機械」としてあり、もう一方では「家庭の幸福」の象徴であり、また一方で「自立する女性」を応援する「モダン」の象徴でもある。

 ミシンを使える女性は「男性と同じように、機械を支配できる専門的技術者」でもあり、「家族のために洋服づくりにいそしむ良妻賢母」でもありえた。

 インドネシア・バリ島でミシンによる衣料製造が盛んになったのは、1970年代以後のことであるという、中谷文美の報告がある。(女性歴史文化研究所紀要14号2005年)
 もともとバリ島では、衣服の調達、縫製は女性の手仕事によって行われてきた。各家の女性たちが手織りの布を織り、それを仕立てていたのも女性だった。

 しかし、ミシンが導入され、観光客のみやげ用や輸出用に産業としての「縫製業」が始まると、「ミシン技術者」として、男性が縫製の仕事を請け負うようになった。
 ミシンは機械なので、それは男性が扱うべきものだったから。もちろん女性がミシンを使いこなす例もあるが、多くは、「職業」としてではなく、家内の衣服調達の範囲にとどまる、あるいは内職仕立ての範囲内である例が多かった。

 以上は、インドネシア・バリ島の事例報告であるが、インドネシアでもミシンが「機械=男性」イメージと「縫い物=女性」イメージの両義を担っているという点は注目される。

 女性が職業進出をおもいたったとき、明治大正期には、教師、保母、看護婦、助産婦など「女性性」「母性」の範囲から逸脱しない職業であるか、従来の髪結い、仕立物などの「女の手仕事」になるか、選択肢の幅がせまかった。

 「糸挽き女工」は、官立富岡製糸工場にあっては、「女工は士族の娘とする」など、エリートであったが、大量生産時代に入ると、『野麦峠』などに語られるように、苦汗労働の代名詞のようになってしまった。
 唯一、「機械」と関わりつつ、自立する女性の職業として社会に認識される分野は、電話交換手、ミシン使用の洋裁仕立てなど、ごく限られたものだった。

 「ミシン」は、幕末の「御台所への献上品」の時代から、昭和戦後期の大量普及時代に至るまで、「機械」でありながら「家庭用品」、女の手仕事でありながら専門的技術、という両義性を失わなかった。

 フィンランドの女性作家トーベ・ヤンソンの「ムーミン谷」シリーズに、「ムーミンパパのタイムマシン」が登場する。
足踏み式ミシンを改良したミシン・タイムマシンは、足踏みして針がコトコト上下に動き出すと、時を越えて別の時空へとムーミンやムーミンパパをつれだすのである。

 このような「今いる現実とは異なる場所へ運ぶもの」としてミシンが「タイムマシン」の役割を担うことになったのは、ミシンに「違う世界への飛翔」にふさわしいイメージが備わっていたからだと思う。



5  文学にあらわれたミシン
 明治期の文学のなかにどのようにミシンが登場したか、どのようなイメージでミシンがとらえられていたのか、みてみよう。

1910(明治43)年12月発行 
モルガン著,元田作之進訳   神戸・日本聖公会出版社(国会図書会近代文学データベースより引用)
「勉強と遊技 第八章 ミシンと人形」
(冒頭省略)
諸君のうち、誰にても、ロンドンにて、ミシン屋の前を通行したることあるもの は、ミシンの柄を回転せしめつつある如く見ゆる所の大なる蝋製人形の美服を着 けたるものを見たであらふ。予は、一少女がこの種の活人形の働けるさまを興味 多く感じたるあまり、家に帰り手後、わが人形の手を母のシンガーミシンの柄の 上に起きて、ミシンの動き始むるを待ち居たりとのことを聞いた。この少女は、 その見たる店頭のミシンが電気の力によりて回転せしめられたもとの事実を知 らなかった。而して、人形を働かしたるはミシンにして人形がミシンを動かした るにあらざるを心づかなかった。
人形にても、ミシンにても、おのれ自らを動かすことは全く不可能にして、人、 もしくば、他の力の豫、これを動かしたるものあるにあらざれば、決して動き 居るものではない。


 著者「G・Eモルガン」について、キリスト伝道関係の人物と思われるが、詳伝不明。

 この「ミシンと人形」では、ロンドンのウィンドウ飾りになっている、手回し式(手繰り)について述べている。
ミシンが電動仕掛けになっていて、手回しハンドルには人形の手がくくりつけられている。自動で動くミシンがあたかも人形によって動ごかされているかのようにしつらえてある。
筆者は、人形が本当にミシンを動かしていると思いこんだ少女の「考えたらず」の非を述べ、物事の本質を見よ、という教訓を述べている。
「人形にても、ミシンにても、おのれ自らを動かすことは全く不可能にして、人、もしくば、他の力の豫、これを動かしたるものあるにあらざれば、決して動き 居るものではない。」

 このモルガンの書いた文章からわかることは、ミシンは「人が力を加えて動かすもの」の代表として文章に登場している点である。
 男性筆者にとって、「機械を正しく使いこなすこと」これが近代文明の要であり、「近代人たる資格」である。
 機械文明によって産業を興し、人の力を人以外のもの(人形のような)に及ぼしていくこと、これが近代の推進力であった。
 ミシンは、もっとも身近な「機械文明」の道具であった。

6 おわりに
 今回のレポートは、
「英語の具体的な語が、辞書でどのような訳語となっているか。その語が実際に明治・大正記の文学や他のテキストでどのように使われているかを調査し報告する」
「apple  bicycleなどの具体的な語をとりあげる」
という課題に添うべく、「sewing machine」をとりあげ、この語が翻訳されずに、「音訳語」に近い「みしん」として日本社会に普及定着したことを考察した。

 「ミシン」は、鉄道、電話などのように国家大事業の「翻訳語」となることをまぬがれ、「家庭の幸福の象徴」という地位を得ることができたのではないだろうか。

 ミシンは、女性にとって、モノを作り出し生み出すためのもっとも親しい道具であり、かつ複雑な構造をもち、いくらながめていてもあくことのない不思議な「機械」である。
 ミシンの両義性について考察できたことは、私にとってひとつの成果であるが、もうひとつの課題、「ミシン」という語の受容について考察するという点においては、まだ資料が不足している。
 今後は、この点について、明治期大正期の文学において具体的に描写されている作品をさらに捜していきたい。

<おわり>

7 参照文献・引用文献

岩本真一『十九世紀後半~二0世紀前半の日本におけるミシン普及の趨勢と経路pp112141』
経済史研究11巻(経済史研究会)2007
岩本真一『モードの世紀』http://www.mode21.com/
遠藤武, 石山彰『写真にみる日本洋装史』文化出版局1980
武田佐知子『衣服で読み直す日本史』朝日選書1998
中谷文美『インドネシア女性にとっての縫製労働の意味』(京都橘女性歴史文化研究所紀要14号)2005
中山千代『日本婦人洋装史』吉川弘文館1986(昭61)
畑尚子『幕末の大奥 天璋院と薩摩藩』岩波新書2007
山本博文『大奥学事始め 女のネットワークと力』NHK出版2008
アンドリュー・ゴードン『ミシンの宣伝と利用から読み取る女性像』(京都橘女子大歴史文化研究所紀要第14号)2005
モルガン(元田作之進訳)神戸・日本聖公会出版社(国会図書会近代文学データベース)1910(明治43)年12月発行 



ミシン考はじめに2008/08/03

2008-08-03 11:23:00 | 日記
nipponianippon
外来語について
「ミシン考」最終提出レポート
2008-09-18 08:24:30 返信フォームへ 掲示板へ戻る コメント削除

ミシン考最終稿
nipponianippon
> 外来語について
> 「ミシン考」最終提出レポート

1-1 はじめに
1-2 ミシン、みしん、美針
1-3 世界史におけるミシンの登場

2-1 日本のミシン
2-2 天璋院のミシン
2-3 ヘボン夫妻のミシン
2-4 ジョン万次郎のミシン
2-5 開成所のミシン
2-6 明治のミシン
2-7 明治女子教育とミシン
2-8 明治期以後の女子洋装の拡大
2-9 大正のミシン
2-10 大正から昭和へ、簡単服とミシンの普及

3  「ミシン」ということば

4  「みしん」記号論

5  明治期文学の中のみしん
5-1 モルガンの「人形とミシン」

6 おわりに

7 参考図版

8 引用参考文献

~~~~~~~~~~

1-1 はじめに
 日本文化は、かって4度にわたって外国からの文化の洗礼を受けてきた。
 大和奈良時代の漢字受容、漢語の大量流入、室町戦国期の西欧文化移入についで、3度目の海外文化輸入は、幕末明治期になされた。
 4度目の海外文化受容は、1945年から高度成長期になされたアメリカ文化移入である。現代の情報化またグローバリゼーションの流入は、5度目の「大量異文化流入期」とみなすこともできよう。
 (ここでいう「日本文化」とは、日本語を母語として意志を疎通する共同体が、「自分たちの文化」と認識している文化をさす)

 これまでの文化流入を歴史的にふりかえると、我々は、自己の基礎部分、精神的根幹を覆すことなく、海外文化を受容し、従来の文化と融合させてきた。

 言語文化の面からみると、日本語は、漢字の受容以来、漢語をそのまま取り入れ、日本語語彙として定着させてきた。発音は、呉音、漢音、唐音など、その語が日本に入ってきた当時の中国発音をとりいれた。
 外来語は、西欧語のうち、翻訳されずに外来の音のまま、日本語音韻体系にあう発音になおして日本語に定着したものを言う。

 外来語のうち、室町・戦国時代末期に日本へ渡来したポルトガル人宣教師によって伝えられたポルトガル語由来の語は、もはや外来語という意識も忘れられて日本語語彙に定着している。
 「かすてら」「てんぷら」「たばこ」などが、翻訳されずに、ポルトガル語の音声のまま日本語に定着した。「天麩羅」「煙草」「合羽」など、漢字当て字が作られ、今では日本語語彙として日常的に使われるようになっていて「外来語」という意識もなくなっている。

 17世紀後半以後、オランダや中国経由でもたらされる西洋文物は、平賀源内や蘭学者たちの耳目を奪い、幕末から明治時代にかけては、大量の「西欧文化」が日本へと流入した。
 1868年以後、江戸から明治へと時代が移り変わったことを、人々の目に具体的な事物として顕現したのが、陸蒸気(おかじょうき)、電信電話などの「西洋渡来」の品々だった。
 人々をして「文明開化」の時代になったのだと知らしめる物品、制度の数々。
 陸蒸気(蒸気機関車)の煙を見て、人々は文明の威力を思い知り、電話受話器から聞こえる「はるか遠くに住む人の声」に驚嘆した。

 この時代に輸入された物品のうち、翻訳され「新漢語」として漢字表現なされるようになった語が数多くある。
 railwayは「鉄道」、post systemは「郵便制度」、post stampは「郵便切手」など、「新漢語」に翻訳された。
 当初は、国家事業でなかったtelephonは、明治期の書生小説などには、「テリホン」「テーレホン」などと、カタカナ語のまま使われている。
 のちに電信電話が国家事業とされるに及んで、telegramは電信に、telephoneは電話に翻訳された。

 柳父章『翻訳語成立事情』は、社会、近代、個人など、抽象的概念の英語(をはじめとする西欧語)からどのように翻訳されていき、人々に受容されていったかという経緯について、論じている。

 西洋語がどしどし翻訳されていった一方、室町戦国末期の「たばこ」「てんぷら」などと性格を同じくする、「明治期に英語の音のまま日本語に取り入れられた語」が、日本語語彙として定着して存在する。
 今回の小論では、その中のひとつ「ミシン」について考察する。

1-2 ミシン、みしん、美針

 ミシンは、カタカナで書かれることが多く、外来語であるという意識がなくなってはいない。しかし、radioが、「らじお」とひらがな表記されることがまれであるのにくらべて、「みしん」と、ひらがな表記されても違和感なく日本語文章の中に書き込むことができる。

 また、ネット検索では「みしん工房」「みしん倶楽部」などの会社名がヒットし、ひらがな表記の「みしん」が日常生活につかわれていることがわかる。
 「たばこ」「金平糖」などはすでに外来語であることが意識されなくなっている。それほどではないが、「みしん」は、外来語意識が薄れている語のひとつではないかと思う。

 明治政府は、殖産興業によって富国をめざしたが、また同時に、幕末江戸幕府が結んだ「不平等条約」撤廃をはかって奔走した。
 日本が国際的に西欧諸国と対等な地位を持っていることを海外に示すため、政府は、国際交流事業のひとつとして、「鹿鳴館舞踏会」を、国家的行事として開催した。
 この「国家行事としての舞踏会」を、具体的に「目に見えるもの」として支えたのが、「洋装」であった。

鹿鳴館での洋装は、現代の女性たちの「おしゃれ」や「自己表現」などという「ファッション・衣装」感覚とは大いに違っていた。
 いわば「国家の威信をかけた服装」であった。
 この「洋装」を可能ならしめたのは、西洋人に教えを請うたり、試行錯誤しながら作り上げていった「洋服づくり」の技術である。伝統的な和服和裁の技術に加え、舶来の「ミシン」が威力を発揮した。
 以下、「ミシン」の語の由来来歴を考察するとともに、「ミシン」そのものと、「ミシンのイメージ」が、日本の「近代国家」「天皇制」「資本主義社会」の形成との関わりのなかに、どのように立ち現れてくるのかを考察したい。


「収用」Eminent Domain2008/08/02

2008-08-02 12:20:00 | 日記
収用」について

「公共とプライベート」「おおやけとわたくし」というのは、私有制が始まったときからの大きく深い問題であるわけですが、「おおやけ」の中に取り込まれてしまっている者には、天動説のごとく、地球のまわりを太陽が動いているようにみえてしまっています。

 現在、先般おしらせしたアボリジニアートについてブログ連載しているところなので、アボリジニにとって公共の大地、「みなのものであってだれのものでもない」土地を、イギリス人アイルランド人たちが「法律によって正当に」公共所有物私的所有物とした経緯について考えているところでした。

今年2月に、オーストラリア政府は「アボリジニの土地に、勝手に首都キャンペラを建設した」ことを公式に謝罪しました。

 キャンペラ建設地だけでなく、オーストラリア全体がアボリジニからの収奪であるわけですが、キャンペラという「公共のための土地収用」経緯のはっきりしている土地についてだけでも、それが不正義であったことを認めただけでも一歩前進と言えるでしょう。

 先生のリポートによって、これから私たちが考えていかないことがらについて、示唆をいただきました。

 土地収用の問題だけでなく、日本中にアメーバのように増え続けている監視カメラその他、個人プライバシーと「おおやけ」とのせめぎあいの問題も含めて。


 「収用」ということばで思い出すこと。
 先日『ミリキタニの猫』というドキュメンタリー映画を見ました。

 ミリキタニは、ニューヨーク下町のホームレス画家。wwⅡ戦時下、強制収容所にいれられた広島出身者の移民を両親とするミリキタニ。本人はアメリカ生まれで市民権を持っていたのに、収容所を出る条件として、市民権のIDカードを没収されてしまいました。

 そのため、ミリキタニは「自分にはアメリカ在住権がない」という意識のままホームレス生活を続けてきました。

 収容所での市民権放棄は法的に拘束力のない不当なものであり、ミリキタニには市民として保護を受ける権利があったにもかかわらず、本人はそれを50年間も知らないままホームレス生活を続けていた。

 アイヌ、アボリジニ、強制収容所でIDカードを奪われた日系移民、、、。

「収用」ということばで連想されるのは、「結局のところ、収用ということばでプライベートな部分を侵害され、公のためにと、土地やアイデンティティを奪われるのは、マイノリティ、弱者の上にのしかかってくることだなあと感じ入りました。

『窓』の写真がネットでは見ることができないのは残念ですが、ニューヨークからのレポート、感銘深く読ませていただきました。