にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「翻案とパクリーレオ・ゴッホ・黒い雨」

2008-11-30 09:54:00 | 日記
2006/09/18 月
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(3)
レオとシンバ

 アニメーション映画『ライオンキング』について。
 手塚プロダクションのアニメ『ジャングル大帝レオ』は、アメリカ放映用『Kimba the White Lion』としてNBCテレビから配信された。
 ディズニーのアニメ『ライオンキング』が、手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』にそっくりなことは、見た人だれもが気づく。翻案以上のそっくりさん。

 しかし、手塚側は「手塚作品が、あの大ディズニー社に模倣されるほどになったのは、名誉なこと」として、著作権侵害を申し立てなかった。

 黒澤明が、自作の『七人の侍』への著作権侵害として『荒野の七人』を訴えたのに比べると、手塚はなぜこれほどの「パクリ」に対して「まねされて光栄」なんてことばでおしまいにしたのか。このこと、私は長い間納得できないでいた。

 2006年6月3日に、「千葉大学で発見されたディズニー・アニメーションオリジナル画」という講演会が、日本写真学会創立80周年の催しとして行われた。

 スタジオジブリのプロデュサー田中千義氏、手塚治虫の弟子にして東京工芸大学アニメーション学科教授月岡貞夫氏、絵画修復の専門家岩井希久子氏の講演を聞くことができた。
 千葉大学けやき会館での講演、それぞれの話がとても面白かった。

 その中での月岡氏が、手塚治虫とディズニーアニメの「模倣とオリジナル」の関係についてのエピソードを語っていた。
 手塚の漫画執筆を身近に知り、手塚から学び続けた月岡氏の語るエピソード、面白かった。

 月岡氏は、小学生のころから手塚に自作アニメを送り続け、高校2年生で、手塚の助手となった。
 アシスタントを続けながら手塚から学び取ったことを消化し、自分のオリジナル作品をうみだしてきた。月岡のアニメーターとしての代表作は、NHKみんなの歌『北風小僧の寒太郎』の歌とともに流れるアニメーション。

 初期の手塚作品についての、月岡の語るエピソード。
 戦後すぐに出版され、長い間絶版となっていた手塚漫画の中には、ディズニー社の初期アニメーションを、そっくり翻案した作品が含まれている。

 月岡氏の講演を聞いて、びっくり。手塚治虫が、ディズニーアニメのストーリー展開やキャラクターの付け方、画面構成などから、多くを学んで自分の作品に消化したことは、研究者が指摘してきたことだが、直接の翻案作品があることは、意外だった。
 長く封印され、絶版のままだったのだから、一部の研究者以外には、知られていないことだったのだろう。

<つづく>
10:11 |

2006/09/19 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(4)
アトムとミッキー

 あの、鉄腕アトムにしてからが、ミッキーマウスを手塚流にアレンジした結果生まれたキャラクターなのだ、と、月岡は解説する。
 ロボットの頭部として不必要な形、あのアトムの黒く突き出た耳。あれはミッキーマウスの耳の変形なのだって。

 「ライオンキング」について、手塚治虫は著作権侵害を申し立てなかった。
 そのことへの謝意によるのかどうかはわからないが、ライオンキング以後、ディズニー社は、ディズニーアニメからの翻案による手塚の初期作品を復刻出版することに対して、異議申し立てをしなかった。

 子供が描いたミッキーマウスを広告チラシに使っても、「著作権侵害」の訴訟を起こしてきたディズニー社が、手塚のディズニー翻案作品の復刻出版に何も言わないということは、異例のこと。

 手塚はウォルト・ディズニーの初期アニメーションに学んだ。ディズニー社は手塚治虫のアニメーション『鉄腕アトム』が、『アストロボーイ』として放映されたり、『ジャングル大帝レオ』がアニメ化された「ホワイトライオン・キンバ」に触発された。両者は互いに影響し合ってきた。
 
 「そうか、手塚がライオンキングを訴えなかったのは、互いに影響を与え合った関係として、認め合う部分があったからなのか」と、これまでの疑問が氷解した。
 手塚にとって、ライオンキング原作料を裁判で勝ち取る以上のもの、漫画やアニメーション制作の方法をディズニーから得ており、「まねされるのは光栄なこと」という手塚の気持ちは本当だったのだ。

 ディズニー側からの日本側関係者へのことば。「ライオンキングが『Kimba the White Lion』からの直接の模倣」という点に関しては否定しつつも、手塚治虫の業績を認め、手塚へ敬意を表する旨が発表されたという。

 オマージュの交換!互いの作品の価値を認め合い、たたえ合うこと。
 創作者にとって、自分自身のオリジナリティを確認し、それが価値あるものとたたえられることは、なにより大切なこと。

 昨今マスコミをにぎわした「盗作」騒動。画家の和田義彦氏。
 日本ではまったく無名であったイタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品から盗作をしたとして、文部科学省の芸術選奨や東郷青児美術館大賞の受賞を取り消された。
 和田氏は、「これは盗作ではない、オマージュである」と、主張した。

 牧野光永氏の『文化史検証 オマージュとパクリの境界線』を興味深く読んだ。
 「和田義彦氏によるアルベルト・スギ氏絵画作品の盗作問題」に関し、牧野bbsに投稿したことをきっかけとして、思いめぐらしたことを、メモしておく。

<つづく>
08:05 |


2006/09/20 水
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(5)
ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ

 牧野光永氏がOCNカフェサイトに発表した『再考・オマージュとパクリ 同じ盗でも』(2006/06/11)http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary/200606#11
への感想として、牧野サイトbbs「女神を追い求めて」へ投稿した春庭コメント再録する。
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3682.ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ
名前:HAL 日付:6月11日(日) 14時9分

 「ダビンチコード」のルーブル。
 モナリザのまわりに群がる観光客たち、展示されているのが複製であっても、いっこうに気づかず、見続けるだろう。
 本物かどうか、なんてことより、有名なルーブルにやってきて、有名なモナリザやミロのビーナスといっしょの空間にいるってことが大事なんだもんね。

 マルセル・デュシャンはモナリザに髭を書き加えて「髭をはやしたモナリザ」と題し、自分の「オリジナル作品」として発表した。
 さらに元のモナリザ複製画に「髭を剃ったモナリザ」と題して発表。これは、まあ、パロディ精神だろうね。

 R・Mutという署名した便器に「泉」とタイトルをつけて展覧会に出品しようとしたデュシャン。R・Mutとは、便器メーカーの会社名なのだ。

 デュシャンの「泉」は、「20世紀にもっともインパクトがあった作品」の一位に選ばれた。二位はピカソ。

(後注:立体派の巨匠を押さえて、便器にサインしただけの「泉」が一位!
 「泉」が提起した「創作とオリジナリティ」への衝撃がいかに大きかったか。
 20世紀から21世紀が「創造」「模倣とコピー」を再考すべき時代になったことを、皆感じ取っていたからこその一位であろう。)

 昨年のゴッホ展で見たゴッホによる浮世絵の模写、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵。これは、まさしくゴッホのタッチでゴッホの作品になっていた。これは盗作と呼ばない。浮世絵への「愛」がたっぷり感じられました。
 まっき~さんの語る、作品への愛、オマージュです。

 和田氏の作品、新聞雑誌にスギ氏の作品とふたつ並べてあったものには、このような「愛」が感じられなかった。

 23点もの「まったく同じ構図、同じような色彩とタッチ」で描かれたものを「オリジナルについての考え方が異なる」と、和田氏が弁明するのは、無理があった。

 スギ氏側の談話。
 「和田氏は、自己紹介で自分はスギ作品のファンであると述べたのみで、自分も画家であると、ひとことも言わなかった」
 これが、事実であるなら、絵画のオリジナリティうんぬんの談義以前の問題があると言えるでしょうね。

 スギ氏側の一方的な談話であり、スギ氏の発言に対して、和田氏がどういう弁明をしたのかは不明だが、「自分は画家として自己紹介した」という和田氏の弁明が報道されないままであることからみて、やはり芸術家の態度として和田氏がとった行動はフェアではないと感じる。
 自分自身が画家である人が、他の画家のアトリエを訪問して、自分が画家であることを一言も言わずに他者の作品の写真撮影をしたというのは、どう考えてもおかしい。

<つづく>
07:59 |

2006/09/21 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(6)
盗作と盗撮と盗塁

(まっき~bbsつづき)
 これほど和田氏ひとりを叩いてよい問題か、と言う部分。
 美術のプロが審査をして文部科学省が賞を与えた。しかも「盗作である」という投書が続いていた人物の作品に賞をあたえた文部科学省側の関係者を守るためには、彼ひとりを悪人にするしかないわけで。

 でも、これで、音楽コンクールの入賞も、絵画工芸の入賞も、所詮、人間関係で決まるということ、作品に賞のハクをつけるには、コネクションがなにより大事、ということを世間が知ったのなら、今回の騒動よかったのかも。

 二科展などの有名公募展に初入選するには、有力役員の弟子として長年忠節に励むか、芸能人有名人になって名前を売ってから絵を発表するか、どちらかだと言われていますしね。

 2チャンネルとか、インターネットのネタは、玉石混淆ではあるけれど、一般市民のわれわれが、マスコミ発表やら大本営発表やらだけの報道ではなく、さまざまなソースから情報を選べるようになったのは、ありがたいことです。
 日本ではまったく無名だったスギ氏の作品と和田作品が酷似していることに気づいた人がいたのも、スギ氏がホームページを公開していたからでしょうかね。

 まっき~さんの力作「オマージュとパクリの境界線」を読んできて、和田騒動をどう見たか、知りたかった。
 和田作品に関して
「その愛を表現する術が、あまりにも直接的に過ぎた、ということでしょうか。」
というまっき~さんの受け取りかた、私には寛容すぎるように思えます。表現をめざす者としてのまっき~さんのやさしさとは思いますが。

 和田作品、オマージュというには、毒がありすぎた。

 私は、「盗作である」と指摘した投書をだれが把握し、だれがにぎりつぶし、だれが「賞を与えた責任」をとるのか、興味があります。

 マスコミがたたくなら、賞を出したほうを追求してほしいけれど、たぶんそうはならないでしょう。
 裸にさせられた王様和田義彦をたたくのはかんたんだけど、文部科学省やらその他の「まだ権威と権力を保持している」側をたたく気力は、マスコミにはない。 
=======================

 盗作も、盗撮も許されません。
 盗撮で逮捕有罪となった大学教授が今月13日には痴漢でまた逮捕されましたが、もう、どうしようもないセンセがいたもんです。

 ま、盗んでいいのは、野球の塁だけってことですね。

<つづく>
00:10 |


2006/09/22 金
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(7)
模写とオリジナル

 まっき~bbsに書いたように、昨年2005年のゴッホ展、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵を見た。
 模写しているはずが、まぎれもなくゴッホ自身のタッチによって、独自の絵になっている。

 今年2006年の「若冲と江戸絵画展」でみた若冲の「猛虎図」。
 若冲が虎の絵の中に「ほんとうは写生すべきだが、虎は今日本で見ることができないので、中国の絵を見て描いた」と、ことわり書きを書き込んでいる絵があった。
若冲画「猛虎図」
 http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060514084133

 江戸の絵師たちは、せっせと先輩たちの絵を模写し、また、中国渡来の絵を模写して腕をみがいた。
 若冲が模写した中国絵画は、5000点にのぼるという。
 
 中国・明時代の画家、文正の鶴の絵を模写した若冲の絵。また、猛虎図のもとになった中国絵画の虎の絵と、若冲の虎の絵2点を見比べてみると。
http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/variety/mosha.html

 絵の技法の細かいところは私にはわからないが、毛並みの描き方や顔の描写、全体の輪郭が、模写を抜け出て、若冲自身の表現になっているという解説を読むと、ほう、なるほどと思う。

 和田氏が、「オリジナルについての考え方がちがう」と主張しているのは、このような「模倣からオリジナルへ」という伝統的な絵画技法をふまえて述べているのだろう。

 たしかにスギ作品と和田作品は、そっくりではあるが、模写ではない。構図はほとんど同じだが、色彩やタッチは似てはいるがすべて同じではない。

 しかし、和田が「オマージュ作品」というなら、オマージュのもとになった人の名や作品を公表すべきではなかったのか。
 「オマージュ」は自らが尊敬する人に対するもの。その尊敬する画家の名を伏せ、「スギ作品をもとにして書いた」ことを隠し続けた、それがオマージュの態度であろうか。
 「オマージュ」とはうらはらに、スギ氏の名を隠し続けたこと、どんな弁明をされても理解できない。

 5000点の中国絵画を模写した若冲が、中国の虎図をもとにして虎を描いた絵を世間に出すとき、「写生すべきだが、虎がいないので、中国の絵を見て描いた」と、きちんと自分の絵の中に書き残しているのだ。

 和田氏に「これは、盗作ではなく、自分なりにオリジナルを加えた絵」という自負があるなら、若冲が書き込んだことばのように「これは、イタリアのスギ氏の絵をもとにしている」と、最初から正直に公表しておけば、よかったではないか。

 それをせず、ましてやモチーフのもとになったスギ氏に対して、自分も画家であることや、スギ氏の絵のモチーフを利用して絵を描いたことを一言もことわらなかったことは、200年前の若冲に比べて、「絵師の良心」に劣ると感じられてしまう。

 以上、「和田スギ問題」について、思ったことのメモでした。

 ゴッホが渓斎英泉の模写をした作品は「ゴッホの作品」として認められるのに対して、元モーニング娘。の安倍なつみの作詞盗作は、アイドル生命おわりかという糾弾を受けたし、オレンジレンジの楽曲コラージュは、「似てる曲をさがせ」のお祭さわぎになった。

 絵画、音楽、言語作品などジャンルによって盗作、パロディ、オマージュへのとらえ方がそれぞれが異なる。

 音楽のオリジナリティとパロディ、文学のオリジナリティとパロディは同一平面上では語れないし、漫画と映画も同じ土俵で「パロディかオマージュか」と解釈できない。

<つづく>
00:00 |


2006/09/23 土
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(8)
本歌取り

 日本語言語文化の中で、特に短詩文、短歌俳句川柳などは、先行作品を自作の中に取り込んで、新しい作品を作ることが、行われてきた。「本歌取り」という。

 平安時代、日常会話の中にも、先行和歌作品の引用をちりばめる「引き歌」が行われ、元の和歌を知らなければ、会話が成り立たなかった。
 引用によって自分の気持ちを表現したり、依頼をしたり、「先行作品によって会話する」という日常生活。

 発話する側は、相手が自分の引用した和歌や漢詩の一節を理解する力があるかどうかを吟味しながら、いいかえれば相手の教養のレベルをはかりながら会話を続ける能力を要求された。

 相手に理解できない引用をしても無駄であり、相手に恥をかかせることになってしまう。引用の手腕がその人自身の会話能力や人格さえも示し、本歌取りができないなら、手紙で用件を伝えることも難しかった。
 (あらま、こんな時代に生まれていたら、わたしなぞ、手紙もメールもできないわっ、って、紫式部はメールは出さなかったよね。絵文字メールですませられる時代でよかった)

 「本歌取り」は、短歌から短歌への本歌取りもあるし、初期俳諧は、短歌の本歌取りパロディの百花繚乱だった。

 若いころの芭蕉も、短歌の本歌取り俳諧を作ってきた。
 芭蕉の句「うかれける人や初瀬の山桜(続山の井)」は、「憂かりける人を初瀬の山颪激しかれとは祈らぬものを」をもじった俳諧である。

 文学の場合、オリジナル作品と比較して、新しいと感じられる部分が確立できているかどうか、が、判断の分かれ目になるだろう。

 日本語言語作品のうち、演劇の場合も、先行作品をもとにして新しい作品を作ることが行われてきた。
 能狂言、歌舞伎では、先行作品を取り入れるのは、当然の劇作方法。
 その一例をあげれば、能の『安宅』を歌舞伎作品にしたのが『勧進帳』。
 近代演劇、現代演劇でも、翻案劇はたくさんある。

 作者死後50年以上たっているなら、著作権は消滅する。引用も翻案も自由に使える。
 死期50年たっていなくても、ストーリーを借用することは、可能だろう。
 ただし、借用したストーリーでオリジナル作品として認められるものを書き上げるには相当な力量を必要とする。

 この論の冒頭に紹介した田口アヤコの「オセロ」翻案の劇、またそのまえに紹介した「女中たち」の翻案劇は、たいへん才気あふれる作品となっていたと思う。

<つづく>
00:31 |

2006/09/24 日
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(9)
狂歌とパロディ

 日本語の言語文化として「本歌取り」をあげた。
 本歌取りが行われた初期の作品、紀貫之(注1)の歌の例。
「三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集)
 この歌は、額田王(注2)の歌を本歌にしている。
「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなもかくさふべしや」(万葉集巻一)

 古今集以後、本歌取りは和歌の修辞のひとつとして発展をとげ、鎌倉初期成立の『新古今和歌集』になると、本歌取りの見本帳のようになっている。
 藤原定家(注3)は、本歌取りの心得として、「本歌を利用する場合、本歌がだれにもわかるように使うこと」「本歌に自分独自のアレンジを加えた作になっていること」をあげている。(毎月抄)

 定家の考え方は、現代における「知的著作物の著作権」「引用と、コピー・盗用の境界線」の法的考え方と、一致している。

 狂歌や川柳は、本歌をおもしろおかしく改作する「パロディ精神」にあふれている。
 庶民はこのパロディで溜飲を下げたり、「お上」への批判をうまくやりとげたりしてきた。

 『関ヶ原軍記大成(注4)』という書に見える、狂歌。
「関ヶ原八十島かけてにげ出でぬと 人には告げよあまり憎さに」
 これは、百人一首にある参議篁(さんぎたかむら注5)「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」を本歌にしている。

 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際、石田三成(注6)は、二千石の士・八十島助右衛門を島津勢への使者として派遣した。乱戦となっても動かない島津へ、三成の言葉を伝える役目であったが、八十島は島津を見下した無礼な言い方で伝言した。怒った島津豊久は、八十島を追い返した。
 八十島は西軍石田方が敗勢になるや、ひとり馬に乗って本陣から逃げ去ってしまった。
 磯野平三郎という者が、八十島の行動に呆れ果てて、戦いのさなかに詠んだ歌が上記のわたのはら~のパロディ。

 戦国武将島津義久(注7)の老中、井上覚兼が書いた武士の心得の第一として、和歌と連歌が挙げられている。『古今集』を筆頭として学んでおくことが、武士たる資質の第一番であった。
 二番目は、礼儀作法に関する「有職」と、手紙の書き方「書札礼(しょさつれい)」
 今の人々が武士たる心得の一番目に思い浮かべる武術(馬術、弓術、剣術、鷹狩りなど)は、第三番目にすぎない。

 戦中にあっても、古今集を本歌取りして歌を詠む心得がなければ、ならなかった。 

 同じく百人一首の右近の和歌「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」を、パロディにし、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(注8)を皮肉った幕末の狂歌
「 殺さるる身をば思わず登城せし首の別れの惜しくもあるかな 」

 むろん、「笑い」を目的とする狂歌も江戸時代を中心に盛んに作られた。江戸期、書院の間にカルタ取りがはやると、パロディも盛んに作られた。
 百人一首の第一首「秋の田の 刈り穂の 庵の苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」(天智天皇 注8)のパロディもたくさんあるが、紹介するのは、本歌の秋の光景を碁仇とのやりとりして笑わせる作。
 「あきれたのかれこれ囲碁の友を集め我がだまし手はつひに知れつつを(作・鈍智てんほう)
 狂歌の作者名までパロディになっている。

 近年では、狂歌が大勢の人の口にのぼることは少なくなった。標語やコピーライトのパロディは生き残っているのだが。

 60年前の大戦中、「贅沢は敵だ」という標語が掲げられた。すると「敵」の前に「素」と書き加えて「贅沢は素敵だ」とたちまちパロディが作られた。「 
 足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語は「工」の字に×をつけて、「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」と、男性が出征して男手が足りない現実を皮肉った。
 
 パロディは、もとの作品を素材としつつ、批判精神を発揮して新たな視点で作り替える作品である。狂歌や川柳、標語などのパロディのほか、絵画写真映像など、既出の作品はすべてパロディの対象になりうる。

 現代は、ことばのパロディが成立しにくい時代だといわれる。
 夕刊に、阿部家おぼっちゃまくん版「坊ちゃん」が載っていた。(2006/09/21)
 「親譲りの七光りで得ばかりしてきた」という書き出しで、新総裁を風刺した文、これも、漱石(注10)「坊ちゃん」の「親譲りの無鉄砲で損ばかりしている」という元の文章を知らずに読めば、笑うに笑えない。

 確かに政界、どちらを見ても「七光りで得をしてきた」ぼっちゃまばかりなのだもの、パロディとは思わず、そのものズバリの評言に受け取られてしまうだろう。
 阿部家のおぼっちゃま(注11)は、「美しい国」を作りたいそうです。
============
注:
1 紀貫之:平安前期の歌人。「土佐日記」作者。古今集の編纂にあたった。

2 額田王:斉明朝から持統朝の歌人。大海人皇子(天武天皇)との間に十市皇女をもうけた

3 藤原定家:鎌倉初期の歌人。冷泉家の祖。藤原道長の玄孫。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進。後世の文学、文化に大きな影響を残した。

4 参議篁(小野篁):平安前期の学者、歌人。先祖は最初の遣隋使小野妹子。孫は書道の三筆小野道風。

5 関ヶ原軍記大成:江戸時代の歴史物語。歴史資料として扱うには注意が必要だが、おもしろいエピソードが多い。

6 石田三成:豊臣秀吉子飼の武将のひとり。近江出身のため、側室淀の方に接近し、正室北の政所派と不仲であったとされている。

7 島津義久:安土桃山期の武将。島津家17代目当主とされている。(異説あり)

8 井伊直弼:幕末期の江戸幕府大老。開国期の政権を担ったが、桜田門外で水戸浪士に暗殺された。

9 天智天皇:38代天皇。中大兄皇子時代にクーデターを起こし、天皇家を上回る勢力を持っていた蘇我入鹿を暗殺。うまく殺人ができたから天皇になれた。殺せなかったら、殺人未遂者として蘇我王朝への謀反者として処刑されていた。上記額田王を大海人皇子(天武天皇)から奪った、という伝説を残した。

10 夏目漱石:明治~大正期の小説家、学者。現代日本語文章表現の基礎を築いた。代表作に「こころ」「我が輩は猫である」「門」「それから」など。

11 阿部家のおぼっちゃまくん:旧満州国国務院実業部総務司長として暗躍した人の孫。満州に残った兵と民を放棄し、A級戦犯として巣鴨に収容されながら、米国の共産国対抗政策変換のおかげで釈放され、首相になった人の孫であるおぼっちゃまくんは、祖父を尊敬し、祖父の悲願でもあった、憲法9条と教育基本法を変える事業にとりかかるそうです。

<つづく>
00:04


2006/09/25 月
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(10)
パロディ裁判

 パロディが成立するには、元の作品をだれもが知っている必要がある。みんなが知っている作品の持つ、まじめな教訓の部分や表面に現れている言説の背景をひっくり返したりちゃかしたりするおかしさを、パロディ享受者が受け止められることが前提になる。

 現代では、「誰もが知っていて~」という部分が成り立たないのだ。若者も子供もいっしょに笑うには、せいぜい、テレビのCMをパロディにする程度でないと、理解してもらえない。

 写真の世界で有名なパロディー裁判があった。
 山岳フォトグラファー白川義員(しらかわ・よしのり)氏が撮った白い雪山とスキヤーの写真。数人のスキーヤーがスキーの軌跡をジグザグに描いて降下する白川の写真をもとに、マッドアマノ氏が、大きなタイヤを合成した写真を作った。

 これに対して、白川氏が著作者人格権の侵害だとしてアマノ氏を訴えた。
 1972年から1987年まで16年間裁判が続き、最終的には和解による裁判取り下げとなったが、実質アマノ氏の敗訴。

 他者の撮影した写真作品をそのまま使用すれば、盗作にあたることは裁判をするまでもなくわかるのだが、アマノ作品がパロディであったのか、白川写真利用が、「引用でなく盗用であった」とみなされたのか、わかりにくい結末だった。
 白川の写真を「パロディ」として用いる必然性がなかった、というような、よくわからない結論であったように思う。

 この論の最初に紹介したシェークスピアの翻案作品を、現代の「著作権」の考え方で裁判にかけたら、どうなるか。

 シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のタネ本となったの作品がいくつかある。
 1554年、イタリアのマッテオ・バンデッロが書いた小説がフランス語訳され、1562年に英語訳された。アーサー・ブルックはこの英語訳をもとに、長編詩「ロミアスとジュリエットの悲劇物語」を完成。
 シェイクスピアは、これらの先行作品をもとに「ロミオとジュリエット」を1595年頃に書きあげた。

 さて、現代の著作権の視点で裁判したならば、判決はどうなるか。
 ブルックが「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』は、ブルックの長編詩『ロミアスとジュリエットの悲劇物語』の盗作にあたる」と、訴え出たとする。

 原告側被告側丁々発止にやりとりはあるだろうが、裁判長の著作権判断は?
 現行著作権法を細かくあてはめていくと、「文体のみならず、主題が全く違うから盗作にはならない」という結論になるみたい。

 ブルックの詩は、「大人の分別を聞き入れなかった、軽率な若い二人の行為に対する警告」を主題としている。一方、シェークスピアの劇は「共同体内の対立と、愛する者たちの犠牲による共同体の救済」が主題。
 シェークスピアの勝訴。おめでとう、印税はウィリアム君のもの。

<つづく>


2006/09/26 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(11)
原作・原案、資料引用」とオリジナル

 複製技術、コピー技術の革新によって、本物と寸分たがわぬ「複製品」は、いくらでも作れる世の中になってきた。

 本物とは何なのか、コピーと本物はどう異なるのか、デュシャンの「泉」が提起した美術の問題だけでなく、文学、音楽、演劇、すべてのジャンルに渡って、盗作、贋作、翻案、パロディなどはこれからもさまざまな問題を引き起こしていくだろう。

 「おじいさんとおばあさんが偶然ひろった赤ん坊を育てたら、絶世の美女に育った。求婚者が続々と現れたが、美女は求婚をあきらめさせるために難題を要求した。結局求婚者はみな失敗し、美女は異世界へ去ってしまった」

という物語を、だれかが書いたとしても、即「なんだよ、これ、かぐや姫と同じストーリーじゃないか、盗作だよ!!」と、非難されることはない。

 芥川龍之介も、太宰治も、『今昔物語』や「御伽草子』を翻案した作品を多数書いた。あまり翻案が成功したとは言えない作もあるが、おもしろい作品が多い。

 「物理学校を卒業した理科教師が田舎の学校に赴任しておこる騒動」を、『坊ちゃん』以上に面白く書いてあるなら、私は楽しんで読むだろう。

 同じストーリー展開で、元の作とは趣向をかえ、SF風の作品に仕立てようとSM風だろうと、ようは読者が作品を読んでおもしろがったり、感銘を受けたりすればいいのだ。

 文学作品の場合。
 小説の要素は、
1 ストーリー展開と構成 
2 時代や場面などの背景シチュエーション
3 登場人物のキャラクター
4 文体

 このうち、「ストーリー展開と構成」がそっくり同じだけれど、他の要素はまったく異なるふたつの作品AとBがある場合。どちらかが、どちらかのストーリーをまねしたとしても、他の要素がすべて違うなら、それは、翻案であって、盗作とは言えない。

 ただし、そっくり同じストーリーを読んで、それをおもしろいと感じるかどうかは、読者の受け取りかた次第。

 日記などの資料をもとに作られた作品の例をあげよう。

 井伏鱒二の『黒い雨』は、広島の原爆を描いた作品として、1966年新潮社より刊行された。

 被爆日記と小説部分が重層するする構成。
 『黒い雨』作中で、主人公(日記の筆者)は「閑間重松(しずましげまつ)」である。
 この作中日記は、重松静馬(しげまつしずま)の書いた被爆日記を資料としている。

 重松は、広島市内横川駅で被爆し、古市の勤め先に避難した過程を日記に残した。

 日記は重松側から井伏に「資料として使用し、原爆の悲惨さについて世に知らせてほしい」と、託されたものであった。

 原水爆禁止を願った重松氏の遺志をうけ、遺族にあたる重松文宏氏(重松静馬の養女の夫・広島県三和町教育長などを歴任)も、原水爆禁止運動に取り組んでおられる。

<つづく>

00:09 |

2006/09/27 水
ことばのYa!ちまた>盗作翻案パロディオマージュ(12)
『黒い雨』創作か盗作か

 井伏作品の資料として「重松日記」が存在することは、もとより知られていた。ただ、重松自身の意思により、日記の刊行公表は、重松の死後までなされなかった。
 「重松日記」は、重松が1977年に原爆症で亡くなった後24年を経て、遺族の手によって出版された。(筑摩書房2001年)

 元になった資料『重松日記・火焔の日(1945年8月6日)』『重松日記・被爆の記(同8月8日~13日」『重松日記・続被爆の記(同8月14日~15日』と、井伏重松往復書簡が収録されている。

 重松日記刊行の当初、「黒い雨」は、日記の盗作ではないか、と難じる論が発表された。
 猪瀬直樹は『ピカレスク太宰治伝』のなかで、井伏作品を「他者の文章をリライトしただけ」と断じている。

 猪瀬は、
 「『黒い雨』と『重松日記』の関係を検証した。井伏は他人の文章をリライトする安易な作品作りをしている 」
と書いた。(「文學界」2001年8月号)

 猪瀬は
 「(井伏作品を盗作とした論に対して)文壇から一向に反応がない。文壇は沈黙している。無視しているのだ。井伏鱒二という権威に萎縮しているとしか思えない。権威の前に萎縮し、真実を言えないとしたら、文学とは一体何なのだ、と言いたい」
と憤っている。(「猪瀬流 現代を考える視点」第10回2001年07月)

 猪瀬直樹が「資料にある文章がそのまま使われている部分があるから、『黒い雨』は盗作」、と断じたのと、文学研究者文芸評論家が、両作品の文体を比べて、「黒い雨と被爆日記は別の作品」と考えたことの間には、創作方法論・文体論の違いがある。

 猪瀬は、自分自身の関わっている雑誌などが行っているリライト、すなわち、リライターが雑誌などへの素人投稿文を「読める文章」に手直しするリライティングを念頭において、「井伏は重松日記をリライトしたにすぎない」と判断したのであろう。

 しかし、井伏による重松被爆日記小説化は、単なるリライトではない。
 単なるリライトであるなら、井伏は「とても私の手におえない」と、託された日記を重松に返却しようとまで思い詰めなかったろう。

 重松氏の遺族によって、井伏と重松の間にかわされた書簡が公表され、日記をもとに小説作品が執筆されていく過程が明らかになった。
 日記を託された井伏は、最初、事実のあまりの重さ大きさに作品化をためらい、日記を返却しようとした。

 1963年3月29日付けの重松あて書簡で、井伏は
 「このまま預かっても宝のもちぐされ、犬がおあづけを食ったようなもの、返したい」
と、重松に日記を返却したい旨、書き送っている。

 重松はあくまでも井伏による作品化を望んだ。
 重松の懇請を受け、重松とふたりで日記の事実を吟味しがら、井伏は小説を執筆していった。 
<つづく>
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2006/09/28 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(13)
オマージュ

 井伏重松往復書簡によって、「『黒い雨』を重松との共作として発表したい」と井伏から申し入れていること、などもわかった。

 「共作としたい」という井伏の誠実さを理解しつつも、重松は「小説作品としての作者は井伏鱒二」であると考え、著者名は「井伏鱒二」単独で発行された。
 ただ、重松は、「資料提供者」として本に署名することの了解を井伏に頼んだ。

 遺族の重松文宏氏は「父は、原爆の悲劇を後世に伝えたいという悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、本に“重松静馬”と署名して友人知己に贈ることを無上の愉しみにしていた」と語っている。

 『黒い雨』に「重松静馬」と署名するとき、重松は「資料提供者」の誇りをもってサインしたことだろう。

 「重松被爆日記」は、直接体験を書き留めた貴重な記録であるが、文学作品『黒い雨』は、「重松被爆日記」とは別の、独自な文学的価値をもつ、と私は思う。

 資料をそのまま引き写すのと、作品として昇華させるのとでは次元が異なることを、この『黒い雨』は、よく示している。
 「文芸のオリジナルについての考え方が異なる」という以上に、猪瀬の論は即断にすぎたと感じられる。

 『黒い雨』に重松氏が「重松静馬」とサインするとき、重松の心にはいつも井伏へのオマージュの気持ちがわき起こっていただろう。
 また、「重松と井伏の名を共に表に出し、共作として出版したい」と申し出た井伏鱒二は、重松への尊敬の気持ちを十分に表現していた。
 井伏鱒二作品として単独の名で出版することになって以後も、重松へのオマージュの気持ちを持ち続けたであろう。

 和田義彦氏はアルベルト・スギ氏の作品をもとにして描いたことについて、口を閉ざし続け、スギ氏に自分が画家であることすら告げなかった。それはオマージュの態度ではない。

 「オマージュ」になるのか、本歌取りのような「アレンジ」「翻案」「パロディ」になるのか、それとも「盗用」として断罪すべきなのか、という境界線は、論議の的になってきた。

 まずは、「本歌」「元作品」をはっきりさせること、本歌への親愛や尊敬の気持ちがわかること。
 元作品を批判的に扱い、パロディ化するとしても、その作品をとりあげることによって、作品への認証をおこなっている。パロディもまた、作品を認めているという表現になるだろう。
 和田氏のように「元作品の存在を隠す」のでは、盗作とみなされる。

 以上、オリジナリティとは何か、考察を続けてきた。

 「創作」には、常に先行作品が下敷きとして存在する。どんなに独創的画期的革命的作品であろうと、その底流には、現世人類1万年の文化の歴史が累々と重なっている。

 その意味では、「創作」「新作」というのは存在せず、常に「翻案」であったり、「パロディ」であったりするのかもしれない。
 
 模倣からはじめるもよし、パロディもよし。マネしたい尊敬すべき人があるなら、その名をかくしたりせず、堂々とオマージュをささげつつ、まねしたい。

 (えー、春庭は、本居春庭を尊敬しつつ、その名をマネしておりますが、借用は名前だけでして、本居春庭の国学、国文法のマネは、したくてもできません)

<翻案盗作パロディオマージュ おわり>

ぽかぽか春庭「翻案とパロディーゴヤ・ウィーダ/シェークスピア」

2008-11-27 18:55:00 | 日記
2008/03/07 
春庭ことばと文化>翻訳翻案インスパイア(1)
ロス・ヌエボス・カプリチョス(新気まぐれ)

 2006年9月15~27日に、「翻案盗作パロディオマージュ」というテーマで、作品制作過程での他者からの影響関係について考察しました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609A
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0203b7mi.htm
 今回、もう一度、翻案の問題について考えてみようと思います。

 「20世紀にもっともインパクトがあった作品」として、ピカソを押さえて、マルセル・デュシャンの作品『泉』が1位に選ばれました。21世紀がコピー複製の時代になることを20世紀において予感していたデュシャン。
 『泉』は、便器に署名しただけの作品であり、署名されている「R.Mut」とは、便器メーカーの会社名。
 『泉』 http://www.arclamp.jp/blog/archives/000255.html

 また、マルセル・デュシャンはモナリザに髭を書き加えて「髭をはやしたモナリザ」と題し、つぎに、ただのモナリザ複製画を「髭をそったモナリザ」と題して、自分の「オリジナル作品」として発表しました。

 森村泰昌の「自らモナリザに扮した作品」は、このデュシャンの「髭をそったモナリザ」に連なる作品ですが、森村のすごいところは、「日本の浮世絵シリーズ」「女優シリーズ」「名画の登場人物シリーズ」など、とどまるところを知らない快進撃がつづいていること。

 私は、美術家森村泰昌の作品が好きです。女優や名画の登場人物そっくりに扮して写真を撮ったシリーズが、とてもおもしろい。
 森村HPのトップページは、モナリザに扮した作品です
http://www.morimura-ya.com/

 森村の「そっくりさんシリーズ」は、「自身が扮装し作品の内側に入り込むことで新たな理解を生み出す」というコンセプトによって制作されています。

 2005年05月21日 ~07月02日に、Toyo Art Beat(TAB)で開催された森村泰昌の新作展「風刺家伝-ゴヤに捧ぐ」に展示されていた作品は、ゴヤの名作「ロス・カプリチョス(気まぐれ)」シリーズをパロディにした「ロス・ヌエボス・カプリチョス(新気まぐれ)です。
http://www.morimura-ya.com/gallery/2005/index.html

<つづく>


2008/03/07 
春庭ことばと文化>翻訳翻案インスパイア(2)
私は飛ぶ-あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ

 森村泰昌の『ロス・ヌエボス・カプリチョス』は、ゴヤの作品の持つ、「コメディ・笑い」「グロテスク・闇」「魅惑・美」という要素を組み合わせ、森村は現代社会を鋭く風刺するパロディを演出し、自らがゴヤの絵の人物に扮した姿を写し取っています。

 ゴヤの作品15点の場面が、戦争、経済、医療、複雑な人間の愛憎関係、ジェンダー、流行など、様々な現代社会の問題点をえぐり出す風刺作品としてよみがえり、哄笑、高笑い、大爆笑、苦笑いを生み出しつつ、現代人の心に訴える作品になっています。

 私は、講談社の広報誌『本』2007年12月号の表紙、森村泰昌の『私は飛ぶ・あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ』を見て、すっご~い、と、思いました。
http://www.morimura-ya.com/gallery/2005/16.html

 ゴヤの版画集『気まぐれ』の第61作「飛んでいった」
http://www.city.himeji.hyogo.jp/art/digital_museum/meihin/kaigai/goya/caprichos/caprichos61.html

 ゴヤの「飛んでいった」と、森村の「私は飛ぶ・あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ」とのちがいは、「白黒の版画」か「カラーの写真アクリル仕上げ」かという違いもありますが、それ以上に、女が踏みつけている三人の穀物袋をかかえる男の姿が、「穀物ふくろを抱える拳」になっていたり、女の衣裳が、ゴヤの恋人アルバ侯爵夫人の肖像画の黒い豪華なドレスになっていたり、森村流の解釈がふんだんに持ち込まれています。

 アルバ侯爵夫人に捧げる(黒いドレスのアルバ)
 http://www.morimura-ya.com/gallery/2005/2.html

 美しい青空と白い雲の中を、穀物袋をひっしと抱きしめる拳を踏みつけて、悠々と飛んでいる森村扮するアルバ侯爵夫人。
 美しいし、笑えるし、風刺家森村の精神がとてもよく出ている作品だと思います。
 この踏み台にされている「拳」たち、どんな「自業自得」をやらかしたのでしょうか。

 森村の「翻案」は、「パロディ」や「翻案」にとどまらないものを生み出す作品だと感じました。

 ゴヤの『ロス・カプリチョス』を翻案した森村の『ロス・ヌエボス・カプリチョス』を見て、2006年9月に引き続き、「翻案、パロディ、インスパイア」の問題を考えていこうと思います。

<つづく>
 

2008/03/08
春庭ことばと文化>翻訳翻案インスパイア(3)
浦島太郎とオルフェウス

 1974年私の最初の卒論のタイトルは『古事記』でした。
 30余年前、私は、所属は日本文学科だったのに、文化人類学を専攻したくて、なんとか文化人類学に近いことをやりたいと思っていました。
 そこで、『古事記』を、「言語人類学」「比較神話学」のふたつの方向で読み直してみようと思いました。

 大林太良(おおばやし たりょう)の比較神話学を応用して、『日本神話の起源(1961)』『神話学入門(1966)』などを参考にしながら、古事記の冒頭の部分を自分なりに解釈した卒論をなんとかでっち上げました。
 しかし、指導教官の山路平四郎先生は、そのような方法で古事記を扱うのは文学部日本文学専攻の卒論としてはよろしくない、というお考えでした。

 「日本文学科の卒論なのだから、古典文学として古事記を扱うように」という講評で、成績は「良」におわりました。
 「優」でなかったことにがっかりして、その後、読み直すこともしていないけれど、たぶん、古代文学研究としても比較神話学研究としても不出来な、中途半端なものだったのだろうと、今では思います。

 山路先生(山路愛山の息子)には、「記紀歌謡の世界」や「万葉集」についてのすぐれた業績があり、今も尊敬してやまない大学者ですが、私は不出来な学生で終わりました。
 卒業後、先生からいただいた年賀状は、今も大切な宝物です。

 私がやろうしていた「古事記のエピソードと、各地の民話神話の比較」「比較説話学」に関する論文は、現在では、山のように出ています。

 今でも『古事記』に関わる本を読み続けています。2007年は、神野志隆光の古事記論を面白く読みました。漢字受容と「文字表記作品」として古事記を考察した『漢字テキストとしての古事記』、とてもおもしろかった。文字文化の伝播とひろがり、その変容。
 示唆に富んだ論でした。

 古事記だけでなく、各地にはさまざまな神話伝承があり、比較すると似通った説話が数多く見いだされます。
 神話や伝説のエピソードに、びっくりするくらい世界各地の伝承話が似通っていることがあるのです。

 「物語」は時空を越えて移動する。「物語、私は飛ぶ!」

 たとえば、万葉集に記載がある「浦島子のはなし」は、のちにおとぎ話「浦島太郎」になりますが、「浦島子」の類話は、アジア各地にあります。

 『古事記』の国生みの話は、アジアの各地に類話がありますし、いざなぎがいざなみを黄泉の国まで追っていく話は、ギリシア神話の『オルフェウス』によく似ています。
 (日本語で広まっているオルフェウスは、古典ギリシア語ではオルペウス。現代フランス語ではオルフェ)

<つづく>


2008/03/09
春庭ことばと文化>翻訳翻案インスパイア(4)
ユリシーズとオセロ

 このような類話は、各地独自に、同じような話が生み出される場合もあるし、なんらかの影響関係から、もとの話が各地に伝播していく場合もあります。

 坪内逍遥や南方熊楠が唱えた説に「百合若大臣はユリシーズの翻案」というものがあります。
 坪内逍遙はシェークスピア劇を歌舞伎や新派のために翻案するなどの劇作が多いし、南方熊楠は、古今東西の文献を網羅して脳内にしまっておくことのできた博覧強記の学者ですから、説得力があります。
 異論も、各種だされていますが。

 日本に中世から伝わっている説話『百合若大臣』。
 幸若舞などにもなっているから、織田信長も知っている話だったかかもしれません。

 主人公の百合若は、合戦から帰る途中、家来に裏切られて島に置き去りにされます。
 島を脱出し、苦労を重ねてやっと帰還。貞淑な自分の妻に言い寄っていた男たちを弓で射殺し、妻のもとに帰りました。

 『百合若大臣』あらすじは、ギリシアの『オデュッセイア』と、よく似ています。
 オデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」で、英語名は「ユリシーズ」です。
 ただ、現在の研究では、直接に影響関係のある翻案だったかどうかは、まだ不明です。

 坪内逍遙ほか、明治の文学者たちは、ヨーロッパの文学を翻訳移入することに熱心でした。
 森鴎外が翻訳した『即興詩人』などは、元の話であるアンデルセンの原作よりもよほどすぐれた作品に仕上がっている、と、評判になったほどです。

 演劇でも、翻案ものは人気を博しました。
 たとえば、日本におけるシェークスピア演劇の嚆矢。
 1903(明治36)年、川上音二郎・貞奴夫妻によって『オセロ』が上演されました。

 オセロ音二郎、デズデモーナ貞奴の、日本初演のタイトルは、『正劇・オセロ』。
 舞台のセットはスコットランドでもヴェニスでもなく、台湾を舞台にした翻案劇として上演されました。

 女優のいない歌舞伎が中心であった日本の演劇界において、女優がはじめて人前で演じた作品としても重要な作であり、翻案シェークスピア劇の上演として演劇史に残ります。

 私の最初の専門は『古事記』でしたが、二度目の大学生活での専攻は「演劇人類学」「民族芸能学」なので、欧米をまたにかけた貞奴の生涯にもひときわ思い入れがあります。
 (ついでにいうと1993年の修論タイトルは、『現代日本語他動詞文の再帰構造について』、よくもまあ、くるくるかわったもんだ。私は飛ぶ!)

 この「欧米文学」の翻案、移入は、現代でも引き続き、日本の文化に大きなシェアを占めてきました。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(5)
レミとネロ

 明治時代には、子どものための物語も、欧米からの翻訳物語や翻案ものが流行しました。

 『家なき子』のお話。少年レミが、苦労の末に実の母ミリンダ夫人に巡り会う「母さがし物」です。
 原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。

 1903(明治36)年、読売新聞記者の五来素川が翻案し、「未だ見ぬ親」と題して発売されました。
 主人公レミの名は「太一」に、太一が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」。太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」と、すべて日本を舞台にしたものとして翻案されています。
 
 この「太一の物語」につよく心を動かされた小学生が東北にいました。
 1905年、小学校3年生だった宮澤賢治は、担任教師だった八木英三教諭が教室で読み聞かせてくれたこの物語に深い感銘を受けました。
 後年になって、賢治は八木教諭に会った時、自分の童話創作の動機を次のように語っています。(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』による)

 『 私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分、先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。 』

 翻案された欧米の児童小説が、東北花巻の小学生の心に残る。彼はその後『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、独自の作品をつぎつぎに生みだしていく。
 翻案小説が、他国に根を張り、それが新たな物語の種として育っていく、ひとつの典型がここに現れています。

1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で、菊池幽芳が同じ物語を「家なき児」という題名で発表し、1912年に春陽堂から発売されました。以後、この「家なき子」という題が定着しました。

 現代日本の『家なき子』ファンにとっては、アニメの「家なき子、レミ」です。

 このような「翻案」ものの中で、近年の傑作といえるのは、『フランダースの犬』です。
 原作は、イギリスの女性児童文学者ウィーダOuida(1839~1908)の短編『フランダースの犬A dog of Flanders 』
 翻案作品は、テレビアニメ作品『フランダースの犬』、主人公は、ネロ少年です。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(6)
パトラッシュ

 1975年1月5日から同年12月28日まで、フジテレビ系列の「世界名作劇場」枠で放映されたテレビアニメシリーズ『フランダースの犬』は、短編だった原作を、日本文化にうまく適合させて、長編アニメにしてあり、翻案として成功をおさめた作品のトップクラスだと思います。

 このアニメの大きな特徴はふたつ。
 主人公ネロの年齢が、原作では15歳、アニメでは10歳であること。 
 アニメの第1話~40話は原作にはなく、アニメのオリジナルストーリーだ、という2点です。

 ウィ-ダの『フランダースの犬』とアニメ『フランダースの犬』の差は、シェークスピアの『オセロ』と、川上一座の『オセロ』の差より、はるかに大きい。
 主人公の名前や地名を翻案した『未だ見ぬ親』と『家なき子』より、ずっと大きい。
 この差を無視して、ウィーダ原作の読者受容とアニメ作品「フランダースの犬」人気を比較することはできません。

 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成しました。

 読売新聞の特派員による記事(ブリュッセル=尾関航也)(2007年12月25日11時39分 読売新聞)
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 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。

 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36歳)。
 制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。
 物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。

 原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。
 米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。 悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。

 ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

 プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36歳)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。

 上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月(2007年12月12日)からインターネットなどで販売されている。
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<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(7)
ネロとアロア

 日本人が涙を流すほとんどは、ウィーダの原作を読んでのことではなく、アニメ「フランダースの犬」を見てのことです。
 アントワープの大聖堂でルーベンスの『キリストの降下』の絵を見て涙を流す日本人観光客の何人がウィーダの原作を読んでいるかは、不明なのです。

 私自身、原作を読んだのは小学校のころであり、それから一度も読み直さなかった。
 今回のことがあって、50年ぶりに読み返しました。

 岩波少年文庫『フランダースの犬』、すぐに読み終わった。短編だから。
 文庫95ページ分の、あっという間に読み終わる作品です。

 アニメ作品は1年間52話が放送されましたが、そのうちの原作相当部分は42~52話だけなのです。
 
 もし、原作通りにネロとパトラッシュの物語がアニメになったとしたら、これほど多くの人々が「もっとも心に残るクリスマスの物語は、大聖堂でルーベンスの絵を見上げてほほえんで死んでいくネロとパトラッシュ」という気持ちを持ち続けたかどうか、疑問です。

 原作ではネロは15歳になっています。
 一方、アロアは原作では12歳。

 原作が書かれた当時のヨーロッパで、15歳というのは、庶民階層の男の子が自立してしかるべき年齢です。自分の人生を自分で開拓していくべき少年期から青年期への移行期間にあたっています。

 翻訳されて日本に移入された明治の日本でも、15歳はけっして「子ども扱い」される年齢ではありません。中学校への進学率はまだ低く、12歳で小学校を卒業したあとは、一人前の労働力として期待されました。

 また、ネロが15歳だとすると、12歳のアロアとふたりだけで親しくすることを心配する親の気持ちもわかり、アロアの父親が、ネロに苦言を呈するのも頷けます。
 年頃の娘をもった父親なら、15歳の男の子が自分の娘と二人でいっしょにすごすことを快く思わず、「うちの娘とつきあうな」と言うでしょう。

 アニメでは、アロアは8歳に設定されています。ネロの年齢は、15歳ではなく、アロアより2歳年上の10歳になっている。
 この年齢設定の意味は大きい。
 10歳は、まだまだ自立するにはむずかしい年齢であるし、アロアとふたりっきりですごしていても、引き裂かれなければならない年齢には思われない。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(8)
フランダースの犬

 第1話から40話までの「日本のフランダースの犬、オリジナルストーリー」は、とても良くできています。
 ラストの悲劇に向かって、10歳のネロのけなげさ、パトラッシュとの絆に、涙しない人は「人」であるぞよ、これでもかっ!っていうくらいに、盛り上がっていく。

 原作でもアニメでも共通していると思われるのは、ネロが識字教育を受けているのかどうか不明である点。原作の設定では、おそらくネロは字が読めない。
 ウィーダの生きた時代19世紀、学校教育を受けて字が読める層と、読めない層の階層差は、現代では考えられないくらい大きなものでした。

 ウィーダの時代の考え方によれば、中産階級の子弟なら、学問を身につけて己の社会的地位を獲得すべきだし、土地財産をもたない下層階級の子どもなら、手に職をつけ一人前の職人になるなどの「自己形成ビウドゥングス」が必須のこととされていました。

 絵が好きなら、マイセン陶器などの絵付師に弟子入りするとか、タペストリーの下絵職人の親方の下で働くとか、なんとかツテを求めて、手に職をつけるよう家族がはかるところだったでしょう。
 
 しかし、原作では、15歳のネロの唯一の家族ジェハンおじいさんは、物語の最初からすでに寝たきりの老人で、ネロの将来のために何かしてやれることがでる状態ではない。
 老人は、ネロのためにコゼツ旦那に下げがたい頭でも下げるとか、教会が嫌いでも牧師に頼み込むなりして、ネロを徒弟奉公に出すよう、しておくべきだったのでしょうが、そうする前に病にたおれたのでしょう。

 この物語の舞台になっているベルギーでも、作者の国イギリスでも、この物語があまり受けなかったのは、キリスト教国において、教会コミュニティが機能せず、みなし児のネロのために周囲のコミュニティが何もしてやらないというストーリー展開に共感できない人も多いからではないでしょうか。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(9)
負け犬

 「フランダースの犬」の作者ウィーダは、ヴィクトリア王朝の時代の英国女流作家です。 ウィーダが作品を発表したころは、女性がようやく社会に進出できるようになった時代でした。

 女性の社会進出には、女性も識字教育を受けるようになったことの影響が大きい。読み書き能力(リテラシー)は、社会進出の第一の手段です。

 ヴィクトリア朝以前の英国女性の識字率はとても低かった。
 農民男性の識字率の低さより、さらに農民女性は低い識字率でしたし、貴族階級の女性は「右筆(ゆうひつ)=貴人のために読み書きをして仕える使用人」を雇うことが貴族女性の証だから、自分自身が文字の読み書きをする必要はなかった。手紙も領地の相続に関わる公文書も、信頼できる有能な右筆に口述筆記をさせれば間に合ったからです。

 例をあげるなら、イギリスの名家ライル卿夫人の娘アン・バセット。
 彼女は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(世継ぎのエドワード6世を生んで1ヶ月後に死去)に使えた女官であったけれど、「自分の名前しか書けない」と述べています。手紙は従者に口述筆記させていました。

 私はこの事実を、スーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』 (刀水歴史全書)で数年前に読み、びっくりしたものでした。貴族階級の女性は高い教育を受け、読み書きできるとばかり思いこんでいたからです。

 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、数カ国語に堪能で読み書き能力にもすぐれていたと言われていますが、そのため彼女は、「幸福で平凡な結婚生活」ではなく、「国家との結婚」を選択することになりました。

 イギリスの識字女性は、上級階級でも下層階級でも少数派でした。
 読み書き(リテラシー)能力が必要だったのは、中産階級の女性のごく一部、貴族の家に住み込んで家庭教師として働かなければならないような階級の娘に限られていました。たとえば、ジェーン・エアのような。
  
 ヴィクトリア朝に至って、ようやく女性たちは文字を読み書きすることで社会進出をはたすようになりました。

 『フランダースの犬』の作者ウィーダもそのひとりです。
 ただし、ウィーダは、この時代の「自立した女性」がそうであったように、生涯結婚しませんでした。
 小説家として華々しい活躍をしたあと、晩年は孤独と貧困のうちにひとりぼっちで死にました。

 『フランダースの犬』が、アメリカでは映画化のたびに「ハッピーエンド」の物語に書き換えられたことと、ヨーロッパでは「負け犬のものがたり」としか受け取られてこなかったことは、同じひとつの考え方の表裏です。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(10)
滅びの美学

 ウィーダの思想のなかには、抜きがたい階級意識が存在していたと考えられます。
 当時の中産階級の女性として、自分が「下層階級ではない」と意識することは「自分は男性ではない」と思うのと同じ、当然のアイデンティティであったことでしょう。
 下層階級の人々の生活を小説にするという場合、そこには当然「上から目線」での見方が存在します。

 下層階級のネロを主人公にした小説が書かれた時代には、「上層階級」「中産識字階級」と、「下層非識字階級」との間に、現在では想像しがたい階級差があったことを忘れることはできません。

 ウィーダの視点が「だれからの援助もうけられない運命をたどったネロ」「はい上がることを拒絶された下層民のお話」という目線のもとに執筆されたことを、現代の視線でとやかくいうことはできないでしょう。

 そして、このお話が「はい上がろうとする下層階級」からみても、「能力に応じて自力で将来を切り開けと育てられた中産階級」からも、「下のものたちを指導し援助すべきノブレスオブライジを負う上層階級」からも、共感の得られないお話だったことも理解できます。

 日本に「フランダースの犬」が翻案移入された時代、20世紀初頭の日本は「立身出世欲」が最高に盛り上がっていた時代でした。
 華族士族平民の差はあったものの、士族であれ平民であれ、学校教育において能力を発揮すれば、立身出世が望める時代でした。

 貧しい者が勉学の機会を得るには、①軍に入る、②授業料無料の師範学校に入る、③故郷出身の成功者の家に「書生」として住み込む、など、いくつかの方法がありました。
 歌人斎藤茂吉は、③を選択し、斎藤家の書生になりました。私の夫の伯父や伯母は、②を選択し、教師になりました。

 下層民出身のネロが、そのような立身出世を機会を得られなかったことに、同情こそすれ、「上から目線」で気の毒がる、という風潮ではありませんでした。

 なぜ日本で「フランダースの犬」が同情を集め、日本だけでこれほど多くの人々に愛される物語となったのかを、検証したのがベルギーのドキュメンタリー映画『パトラッシュ・フランダースの犬』です。

 映画『パトラッシュ』では、100人以上の人へのインタビューや、明治から今までの日本での「フランダースの犬」の翻訳本を検証し、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけました。

 古くは、権力争いに負け九州太宰府に流された菅原道真、諸行無常の『平家物語』に描かれた木曾義仲、判官義経などの滅び行くもののふの姿。
 天下統一に王手をかけながら、本能寺の炎の中に49歳をもって滅亡した織田信長、明治の新天地を目前にしながら、暗殺された坂本龍馬など、敗北者にこそ、自分たちの心情を託す日本文学の美学が、「アニメ・フランダースの犬」の翻案に大きな影響を与えたことは確かだと思います。

<つづく>


2008/03/10
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>翻訳翻案インスパイア(11)
パトラッシュ昇天

 ここで、もう一度ネロの年齢を確認しておきましょう。
 日本の「パトラッシュ人気」は、あくまでも1~41話のお話がつづいたのちの、10歳のネロが死ぬラストの悲劇にあります。

 ウィーダの原作によって物語が進行し、15歳のネロが力つきたのだったら、日本人も、ここまでネロとパトラッシュの悲しいラストシーンに共感をよせなかったのではないか、と思われます。

 ネロの悲劇は、「10歳という設定」と「1~40話」のオリジナルストーリーの上に成り立っていること、ウィーダの原作と日本のアニメ「フランダースの犬」の差は、シェークスピアの「マクベス」と黒澤明の『蜘蛛の巣城』、また、黒沢の『七人の侍』とマカロニウェスタン『荒野の七人』の差以上に大きい。

 ヨーロッパで「負け犬」の物語とされてきた『フランダースの犬』が、ここまで日本人の琴線を揺るがしたのは、この翻案の年齢設定の絶妙さによると思います。

 最後に、日本のアニメの翻案で、欧米キリスト教圏の人の考え方ともっとも大きく違うところ。それは、パトラッシュの昇天です。

 アニメの、天使たちに守られながら天へ登っていくネロとパトラッシュの姿は、「負け犬」などではなく、「ちからいっぱい戦い、生き抜いた末に、力つきていくもの」の美しさを持っていました。

 その犬と少年の姿の荘厳さがあるからこそ、「アニメ名場面集」という特集が組まれれば必ず上位に「ルーベンスの絵を見て死んでいくネロとパトラッシュ」が選ばれるのです。
 パトラッシュをいっしょに連れていかないでは、ネロのラストのほほえみは考えられません。

 ここで確認しておくべきこと。
 キリスト教国では、人間と犬がいっしょに昇天することはできません。犬と人が同時に天に昇っていく図柄は、不自然なものです。

 キリスト教では、犬には霊(人格)があるとは考えません。犬に魂や「心」はあるとしても、神のみもとへ召される霊はないのです。
 日本語では「霊魂」といいますが、キリスト教では霊と魂は別概念です。
 人間は、体に現された魂と、不滅の霊の息吹が吹き込まれた体とが、一つになった「神の神殿」とみなされ、その意味で、神の霊が宿るのは人間のみ、と考えられているのです。

 日本アニメの翻案のうち、もっとも「日本的な絵」は、この最後の「パトラッシュ昇天」であり、犬の霊が人とともに天使にむかえられるというところだ、と私は思います。

 このラストシーンは、「一寸の虫にも五分の魂」の仏教思想が反映されています。一寸の虫に五分の魂ならパトラッシュには50cmの霊魂です!

 つまり、ルーベンスの『キリストの降下』の絵を見たあと、ネロは微笑みながら、パトラッシュとともに、阿弥陀様のいる極楽へ迎え入れられているのでした。
 犬を差別しない阿弥陀様お釈迦様、のたまふ♪ようこそ!ここへっ、ルッルルール。わたしのパトラッシュ!

 以上、翻案という作業が、森村泰昌の「新気まぐれ」も、アニメ「フランダースの犬」も、ふか~い思いによってなされていることを概観しました。

 パトラッシュ、いっしょに飛んでいこう!あんたらが踏み台にされたのは、自業自得だヨッ!!
 って、誰が踏み台やねん。

<おわり>



翻案盗作パロディ・オマージュ
2006/09/16 土
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(1)
シェークスピアもパクリ名人

 王子小劇場で2006年8月に「ジャンジュネ女中たち~」を上演した田口アヤコさんは、2006年の1月に、同じ王子小劇場で「性能のよい~シェイクスピア作『オセロー』より」という劇作品を上演している。

 ムーア人の将軍オセロが、妻の不倫を疑い、嫉妬に狂ってついに妻を殺す話と、島尾敏雄の妻ミホが、夫の不倫への嫉妬から狂気に陥る過程を描いた『死の棘』をコラージュした作品。
 もとの「オセロ」のストーリーやセリフが出てくるが、あくまでも「田口アヤコの作品」である。

 シェークスピアは、世界中でもっとも多く「翻案」された作家であろう。
 今月のテーマとして「翻案、パロディ、盗作、贋作」などの問題を考えてみたい。

 翻案劇の場合、セリフは元のまま、シチュエーションや時代を変えるのみ、というのもあるし、オリジナル戯曲の骨格を生かしてはいるが、元の劇とはガラリとちがう演出にすることもできる。

 数多くの翻案劇や映画を生みだしてきたシェークスピアの劇。
 シェークスピアにオマージュをおくりつつ、翻案劇が新たな作品となって生み出されてきた。演劇に新たなページが加わるのだ。

 シェークスピアの戯曲そのものも、多くは翻案作品である。16世紀の終わりから17世紀の初頭の巷に流布していた小説や他の劇場の作品を土台に据えて、シェークスピアが書き換えたもの。
 シェークスピア自身が、パクリの名人だった、というわけである。
先行作品について、シェークスピアの元になった原作研究がさまざまになされている。

 シェークスピア四大悲劇のひとつ『ハムレット』は、正式名称は「デンマークの王子、ハムレットの悲劇(The Tragedy of Hamlet,Prince of Denmark)」
 デンマークに実在した王子ハムレットのお話。

 デンマークでは「ハムレット王子の話」は、よく知られていた。12世紀のデンマークの詩人サクソ・グラマティクスによる『年代記』によって西洋社会に流布し、1576年のフランス版のブルフォレ編集「悲劇大成」にも入れられている。

 「悲劇大成」から「原ハムレット」というべき「ハムレット悲劇」がたくさん作られ、上演されてきた。
 シェークスピアが直接パクッたとされているのは、トマス・キッドが書いた話であろうと研究者は言う。

<つづく>
09:00 |

2006/09/17 日
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(2)
シェークスピアの翻案

 女王エリザベスⅠ世は、大の演劇好き。
 グローブ座の座付き作者シェークスピアは、1600年、日本では関ヶ原の戦いがあった頃、「ハムレット」を書いていた。

 トマス・キッドは、ブルフォレ編集「悲劇大成」の中の「ハムレット物語」を改作し、シェークスピアは、キッドの作品をもとにして、あの「To be or not to be, that is the question」と悩むプリンスを造形した。

 「ハムレット」より少し前1595年に書き上げたのが、『ロミオとジュリエット』
 この若い恋人たちの悲劇も、先行作品が数多く指摘されている。ギリシャ古典や西欧伝承物語に似た話はたくさんある。
 シェークスピアが直接に種本としたのは、アーサー・ブルックの物語詩『ロミウスとジュリエットの悲しい物語』(1562年、イギリス)とされている。

 シェークスピアの劇作品は、さらにたくさんの翻案作品に受け継がれた。
 『ウェストサイドストーリー』は、ニューヨークダウンタウンのチンピラグループ版『ロミオとジュリエット』だし、黒沢明の『蜘蛛巣城』は、『マクベス』の翻案。

 「ウェストサイド」は、「ロミオとジュリエット」とはまた別の深い感動を与える作品になっているし、蜘蛛巣城も、単なる翻案・リメイクなどという範疇を越えた、独自の作品である。

 シェークスピアからの翻案以外にも、昔の日本映画には、洋画のそっくりパクリシナリオがたくさんある。

 その逆に、日本映画を翻案した洋画として有名な作品もある。
 黒澤明の『七人の侍』を西部劇にした『荒野の七人』の場合は、黒沢側の原作権が認められ、黒沢やシナリオライターに、原作料が支払われている。

 『用心棒』もそっくりパクられて、『荒野の用心棒』になった。
 実は、黒沢明の『用心棒』は、ダシール・ハメットの『赤い収穫』(『血の収穫』というタイトルもある)を原案としていることが指摘されている。
 しかし、原案からストーリーの着想をえるのと、キャラクター設定や映画のシーンをそっくり真似るのとは次元が異なる。

 J・ルーカスの『スター・ウォーズ』。黒沢明『隠し砦の三悪人』からヒントを得た「オマージュ作品」であると、ルーカス自身が語っている。
 お姫様を救い出そうとする農夫二人組(千秋実と藤原釜足)が、おたがいにののしりあいながら荒野を歩くファーストシーン。『スター・ウォーズ』のロボット R2D2と C3POがケンカしながら歩くシーンにそっくり再現されている。
 これは、「オマージュ」として、許されている。

<つづく>

ぽかぽか春庭「メディアリテラシーについて」

2008-11-26 07:16:00 | 日記
2005/04/27 13:02 水
ことばの知恵の輪>メディアリテラシー①

 今年の文部科学省の教科書検定で合格し来春から使われる中学校教科書に、はじめて「メディア・リテラシー」という語が記載されることになった。

 メディア・リテラシーの解説その1。「情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力。メディアの特性や利用方法を理解し、適切な手段で自分の考えを他者に伝達し、あるいは、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力のこと」。
 この「取捨選択」を主体的に行うことは、大人でも大変なこと。

 メディア・リテラシーの解説その2。「市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をさす。また、そのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」。
 ふう、とっても難しそう。

 「メディアを社会的文脈でクリティカルに分析し評価する」という能力を持っている市民が育っているなら、これから先のメディア社会にも不安はないのだが、そうはいかない。

 私が中学校国語教師だった30年前、伝統的なメディア(新聞、テレビ、ラジオ)利用の場合でも、伝えられる情報をそのまま鵜呑みにせず、批判的に理解することを教えることが、新聞読解のひとつの柱とされていた。

 しかし、現実の毎日の授業では、新聞に書かれている内容を読解することさえ難しい中学生に、漢字を練習させ、辞書をひかせ、段落ごとの読解などやるのがせいいっぱいで、なかなか、ひとつの報道について各紙の紙面を比較しながら読ませる授業、ある記事が誤報だった場合の影響について読み比べさせる、などまではいかなかった。

 授業の場が大学に変わり、留学生教育の担当となってからも、メディアリテラシーが重要な問題であることは変わりない。
 学部留学生対象の「日本事情」という授業を担当するようになり、「日本の歴史と文化」の授業に取り組みをはじめて、10年たった。

 私の講義のほか、授業の柱のひとつは、「日本の歴史と文化」「日本と自国の交流史」を、学生に発表させること。
 伝統文化でも現代サブカルチャーでも、留学生が興味をもったことを調べさせる。10年前に始めたときは、図書館でのカードの使い方、索引の調べかたなどから指導した。
 
 ところがここ数年、留学生にまず第一に指導しなければならないのは、「ホームページに載っていることをそのままコピー&ペーストしたレジュメは不可」ということ。
 第二の指導項目は、メディア・リテラシー。膨大なネット内の情報にはいわゆる「ガゼネタ」も多いし、大手の出している情報だって間違いがないとはいえない。

 ネットから情報を得るのはかまわないけれど、それが信頼できるものかどうか、必ず他の本や辞書にもあたって、確かめること。
 4月のはじめに、そう指導するのだが、私は情報教育の担当ではなく、「日本事情」「日本語文章表現」の教師なのだから、それ以上のメディア・リテラシー教育を続けることはできない。<つづく>

2005/04/28  09:12 木
ことばの知恵の輪>メディアリテラシー②

 去年の留学生「日本の歴史と文化」発表にも、「日本の食文化」「日本人の娯楽」「和服の歴史」など、毎年取り上げるグループがある人気のテーマが、登場。
 最近は「日本のアニメ文化」「スタジオジブリの作品について」や「ゲームソフト分析」など、時代に即したテーマも多い。

 人物を取り上げるグループも毎年ある。「お札の顔の人物」「日本社会を変えた人物」「私が好きな人」など。日本語のレジュメをまとめ、発表する。 
 去年、留学生がとりあげた「源頼朝」「織田信長」「夏目漱石」らについて、レジュメの出典をたずねると、インターネットからプリントアウトした資料をごそっと出して、「いっぱい資料があるのでまとめるのに徹夜した」と、がんばったことを誇る学生もいるし、「日本語の人物辞典の文章は難しかったので、自国語の人物辞典を調べ、それを日本語に翻訳した」とイージーなまとめ方を正直に言う学生もいた。

 調べたことを翻訳するのはかまわない、それも日本語作文能力の向上につながる。
 しかし、インターネットで調べたことは必ずチェックしなさいよ、すべて正しい情報とは限らない、と注意する。

 インターネット情報を鵜呑みにしてはいけない、というひとつの例を紹介しよう。浜離宮の成立について調べていて見つけたサイト。

ある企業が自社ホームページにのせている、近隣の観光案内の一部である。なかなか充実したサイトであったが、史実を確認しないまま掲載している部分がある。

http://www.kikanshi.co.jp/shinbashi/kankou/hamarikyu/hama.htm
(2005/04/11午後、04/26午後閲覧)
=================
 (浜離宮は)甲府宰相殿の別荘 ─ 下屋敷だった
 この埋立地に徳川綱重が別荘を構えたのは承応3(1654)年のこと。寛文9(1659)年には、今も面影を残す庭園が完成しました。
 綱重はあの3代将軍、家光の3男坊。竹橋に本邸─上屋敷を持っていたのですが、海際の涼しい環境が気に入って下屋敷、つまり別荘を建てたのです。
(ここまでの説明はよし)

 綱重は異母弟の家光の四男綱吉と5代将軍の地位を争って負けました。大老、酒井忠清の反対で願いがかなわなかったのです。失意の綱重に割り当てられたのは甲州藩25万石。(ここがちがう)(後略)
===================

 家光の息子3人。長男の家綱(生母は側室お楽)。あと、側室お夏(順性院)が生んだ綱重とお玉(桂昌院)が生んだ綱吉。(ほか亀松と鶴松は早世)

 家光の死後、家綱が4代将軍家を継承。綱重は、甲府25万石の藩主、綱吉は館林藩主となった。
 4代将軍家綱は病弱でに嗣子がいなかったので、跡継ぎが問題となった。しかし、綱重は、家綱死去の2年前に1678年に没した。家綱より先に没した綱重は、綱吉と5代将軍の座を争うことはできなかった。

 1980年、家綱が死去したとき、堀田正俊が綱吉を推挙。
 酒井忠清は、綱吉の将軍継承に反対した。酒井忠清は、家綱の治世後半の大老。家綱死後に起こった将軍継嗣問題で、京都から天皇家の血筋の者を連れてくればよいと主張し、綱吉を推挙した堀田正俊に破れた。
 
すなわち、上記ホームページにある歴史上のエピソードは、たった数行の中に三ヶ所も誤りがある。
「綱重と綱吉が5代将軍の座を争った」→ 綱重は4代家綱より先に死んでいる。
「綱重が将軍になれなかったのは、酒井忠清が反対したから」→ 酒井は綱吉に反対し、有栖川宮を推挙した。
「将軍職になれなかった失意の綱重に甲府25万石が与えられた」→ 家綱の次の将軍になれなかったから甲府を与えられたのではない。家綱が1651年に4代将軍となった10年後、1661年に、綱重は甲府、綱吉は館林に封じられている。

 私たちは他の歴史書や年表を利用することも知っていて、間違いをチェックする方法がいろいろあるが、留学生がこのページだけ見てそのまま参考にしたら、まちがった歴史記述を受け取ることになる。<つづく>

2005/04/30 10:30 土
ことばの知恵の輪>メディアリテラシー③

 2005/04/28に紹介した「浜離宮案内」ページの誤記述は、むしろ単純だといえる。歴史事典などにあたれば、すぐに間違いがわかることなのだから。

 私も、誤変換や思いこみの誤記述をそのままネットに載せてしまうことがある。不案内なことなら、辞書辞典を調べるが、自分で正しいと思いこんでいることについては、チェックが甘くなるので、つい、検証不十分なまま書き込んでしまう。
 誤った部分へ、親切なご指摘もあり、助かっている。

 たとえば、2005/04/10の「一葉桜」に関して。
 「染井吉野」は江戸末期に発見された雑種を栽培して広めたもの。自生種ではなく、新しい園芸種の桜ということを知っていた。桜の「一葉」も江戸期に新しく作られた栽培種であるという解説を読んで、「新種の一葉桜」と書いたところ、桜に詳しい方から、「新種」という記述は不適切、という指摘をいただいた。

 作出種や自然交配の園芸種も新種と呼ぶし、染井吉野を「新種」と表現しているという植物辞典の記載からいうと、一葉を「新種」と呼ぶことも可能だろうが、一般的な文章の中で「新種」と書いたら、未知の種類が発見されたように受け取られるかもしれない。
 指摘を受けて、「新種」という語句を使わないよう改めた。

 素人が多少のまちがいを書いたとしても、訂正する機会はあるのだし、まったく誤変換誤記述なしに書くことなど私にはできないと、さいしょから開き直って、書き散らしている。まちがいや不適切な部分があったら、教えてもらうことをあてにしております。これからも、訂正すべき記述を見つけた方、よろしくお願いします。

 単純な誤記載よりも深刻な問題がある。本当にメディア・リテラシーが必要されるのは、単なるまちがいに対してでなく、もっと根深い問題を含んだ記事に対して。
 読者に誤った判断を与える「ほんとうのような話」は、新聞にもインターネットにもたくさんある。

 真実かどうか、ということを、メディアリテラシーの解説文がいうように「経験と理性、自分の存在すべてをかけて、メディアを社会的文脈でクリティカルに分析し評価する」などということは、簡単にはできない。
 また、読者を誘導する意図的な記事もあるだろう。 

 多くの警告的な事件、たとえば「松本サリン事件における河野義行さん犯人扱い」などが批判されてきた。しかし、誤報や不確実な情報に基づいた記述は、これからも繰り返されるだろう。

 河野義行さんが事情聴取を受け、「家に様々な薬品などを集めている人だ」という記事を読んだとき、すぐさま犯人とは思わなかったが、単純に「ヘェ、なんか関わりのありそうな人が警察に呼ばれたんだな」と思ってしまった。
 他の情報を知らず、記事に書いてあることをそのまま受け取って誘導されそうになったことを忘れず、肝に銘じている。

 ネットの中の言説へもメディアの報道へも、常に主体的な判断を働かせること。流されつつ受け止める自分を、厳しくチェックしなければならないと思う。
 現代社会はメディアを抜きに成立しなくなっている。メディアリテラシーを身につけていくことは、社会のなかに生きていく人々にとって、必須のことになってきたのだといえる。

 中学校教科書に「メディア・リテラシー」という言葉が初登場したというのも、近年の情報化社会深化に対応してのことであろう。

 これから先の複雑な情報社会の中で生きていかなければならない現代の子どもたちには、情報を理解し受容する能力とともに、正確な情報、誤情報の区別、さまざまな情報を吟味し、必要なもの必要でないものを選択していく能力など、今までの時代にはなかった能力が必要とされる。

 小中学校の先生たち、これからもっと難しい局面にぶつかるだろう。教科書の数ページで「メディア・リテラシーを身につけよう」と教えただけでは心許ない気がする。
 文部科学省も、教師ひとりひとりも、情報化社会への将来のビジョンはまだ十全ではないように思う。

 メディア・リテラシーを過不足なく身につけるには、まだまだ道は遠い。(おわり)


ぽかぽか春庭「校正について」

2008-11-25 19:30:00 | 日記
2006/01/14(土)
家業紹介・表記校正(1)

 個人の表現における表記は自由でかまわない。自分の日記や詩の中で、「黒」と書いた文字に「しろ」とフリガナをつけても、何らさしつかえない。お好きなように。
 だが、公的な文書、マスコミの文書には、語彙表現で許容される範囲、仮名文字や漢字の標準的表記法が存在する。

 私がマスコミの文章や出版における表記基準にこだわるのは、自分の仕事が「日本語を教える」ことであることも理由のひとつだが、それ以上に、家業が「文字の間違いをなおしてナンボ」の仕事であるからだ。

 夫が自営している会社、主な仕事は「校正」である。編集後の文章ゲラ刷りを校閲し、漢字のまちがい、文章のまちがいを見つけて訂正していく。
 「表記の統一」についても研究おこたらず、旧漢字や変体仮名の校正もできる。
 旧漢字、たとえば、対→對 体→體 芸→藝 学→學。 
 変体仮名はフォントがないので、ここでの紹介は省略。見たい方は変体仮名画像表示サイトへ。
 たとえばhttp://esopo.fc2web.com/isoho/monji/monji.html

 長年仕事を引き受けてくれている優秀な校正者を抱えているので、仕事の評判はよいのだが、ちっとも儲からない。借金ばかりが増えていくのは何故だ!

 優秀な校正者とは、漢字を知っているだけではだめ。仮名表記漢字の知識はもちろんだが、雑学を豊富に身につけているかどうかが勝負どころ。元原稿が間違えている場合も多いからだ。若手ライターの原稿など、間違いだらけ。

 校正者は、校正紙と元原稿とをつきあわせて読んでいく。原稿の通りに直しを入れるなんて、簡単だと思いますか?
 「間違っている部分を直すだけなんて簡単」と思う方も、「いやどうも自信がないなあ」という方も、ひとつ簡単な校正練習をしてみませんか。
 次の一文を読んで、校正の朱筆を入れてください。

  「妻のマリー・アントアネットより一足速くギロチン台に消たルイ17世は、生前、錠前創りを趣昧にしていた。」

 フランス旅行ガイドブック校正紙の一部であると思ってね。もっとも、当社の仕事「地球の○○方」フランスガイドを読んでも、このような文は載っていません。あくまでも、練習問題です。
 ヒント:6ヶ所をチェックしてください。見つかった?

チェック 1)外国人の氏名カタカナ表記  アントアネット→アントワネット(?)

 フランス革命期の王妃Marie Antoinetteは、マリー・アントアネットというカタカナ氏名表記も使用されているが、マリー・アントワネットのほうが一般的。筆者があえてアントアネットというカタカナ表記にこだわるのでなければ、一般的なほう、アントワネットに統一するかどうか、質問の赤字を入れる。
 歴史研究者が自分の表記にこだわる場合もあるし、若手旅行ライターが、どっちでもいい、という場合もある。

チェック 2)歴史上の人物 ルイ17世→ルイ16世

 マリーの夫フランス王は、ルイ17世ではなく、ルイ16世であるという知識を持っていれば、元原稿が「17」と誤記されていても、見のがすことはない。
 ルイ17世は、マリーの息子。幽閉されていたタンプル塔にて10歳で死去。ギロチンにかけられたのではない。
 校正者は執筆者の元原稿を遵守するのが基本だが、明かな間違いは、質問の形でチェックを入れる。「マリーの夫のフランス王ルイは16世ですが、元原稿のまま17世で、よろしいでしょうか?」というお伺いの赤字をいれる。

 残り4つは、明日、発表。見つけておいてね。
<つづく>

2006/01/15 日  
家業紹介・表記校正(2)

「妻のマリー・アントアネットより一足速くギロチン台に消たルイ17世は、生前、錠前創りを趣昧にしていた。」
 間違い部分のチェック、残り4ヶ所見つかりましたか?

 お答えをよせていただきました。a*****さんからの解答。
「速く→早く」「創り→作り」「趣昧→趣味」の3つと、「消た→消えた」でしょうか。ギロチン台に消えた、も「・・の露と消えた」でないと意味やニュアンスが変わる恐れがありますね。。。

 4ヶ所、解答の通りです。ただし、「ギロチン台に消えた」を「ギロチン台の露と消えた」とすることは、校正者にはできないのです。
 校正者は、元原稿遵守が鉄則。表記やあきらかな誤記は訂正できるけれど、文章の内容は執筆者の書いたものが優先。

 「私はこういう文章の方がいい表現だと思う」と感じても、文章自体をいじることはできません。
 ゆるされるのは、せいぜい「、」の位置を変えて、文章の構造をわかりやすくするくらいです。

 私が校正したら見のがしてしまいそうな「趣昧」について、g****** さんも見つけだしてコメント。
「趣味と趣昧は意味は同じでしょうか」

チェック 3)似た漢字  趣昧→趣味 

 曖昧の「昧」と、趣味の「味」似ているけれど、違う漢字。
 「昧(まい)」は、くらい、はっきりしない、という意味。愚昧、無知蒙昧など。「味(み)」は、食べ物のうまみを知る、味わう、内容のおもしろさを知る、という意味。味覚、賞味、興味、玩味など。

 これは、現代のコンピュータ処理オフセット印刷では起らない間違いをわざと入れた、漢字のひっかけ問題。植字技術者が手作業で活字を拾っていた時代には、見た目が似ている活字の間違いはよくありましたが。

チェック 4)送りがな  消た→消えた

 「消える=自動詞(2グループ動詞・一段活用)」「消す=他動詞(1 グループ動詞・五段活用)」
 動詞の送りがな原則。活用語幹部分を漢字にあて、活用語尾をひらがなで書く。
 「きえる」は「きえナイ、きえタ、きえル、きえレバ」と、なり、「きえ」が語幹。原則通りなら、活用語尾の部分だけひらがなで書けばよいので、「消る」でよいはずだが、他動詞「消す」とのかねあいで、「消える」と、送りがなをつける。「送りがな原則の例外」にあたる。
 「例外の例外」もあったりして、ややこしいのが送りがなだが、一応の原則を知っていれば、だいじょうぶ。

チェック 5)漢字(同音漢字の使い分け)  一足速く→一足早く

 スピード、速度のはやい遅いは、「速い」を使うが、時間的経緯のはやい遅いは「早い」を使う。「一足はやく」の漢字表記は「一足早く」になる。「朝、早く起きた」は、4時とか5時、早朝といえる時間帯に起きたことを意味する。「朝、速く起きた」としたら、ものすごいスピードで蒲団をはねのけ、1秒くらいで寝ている状態から立ち上がって起きたことを意味する。

チェック 6)漢字(同音漢字の使い分け) 錠前創り→錠前作り/錠前造り

 錠前をつくるなら、「作る」か「造る」のほうがよい。「創る」は創作活動によって、何か新しい作品を生み出すばあいが適切。
<つづく>
00:05 |

2006/01/16 月  
家業紹介・表記校正(3)

 と、まあ、このような文字の細かいミスをひとつひとつ拾い上げ、「1ページいくら」で、稼いでいくのが、校正会社の仕事です。
 どうでしたか。6ヶ所全部見つけられた人、校正校閲者に向いています。
 校正の仕事を経験した方、縁の下の力持ちの仕事の苦労がわかっていだけたと思います。

 校正の仕事をやっていたというh****さんからも
 「文章の間違いを直したくて直したくて我慢できないときは付箋つけてました。(笑)」

 私もついつい「こうしたほうが、意味が分りやすく、全体にまとまった文章になるのに」と、付箋貼りまくって叱られてばかりでした。

 文章に目がいっていしまい、文字の細かい部分を見落とす私は、すでに夫から「校正者失格」の烙印を押されています。
 練習問題に出した文、これだけを見つめていれば「趣味」が「趣昧」になっていても気づきますが、長い文章の一部だったら、私は見のがすでしょうね。細かい違いなど気にしないで読んでしまうので。

 結婚後、しばらくは夫の仕事を手伝っていたのですが、「とても使いものにならない。あなたに校正やらせたら、うちみたいな弱小校正会社、クレーム続きでたちまちつぶれてしまう」と言われて、今は日本語教師の仕事に専念しています。

 旅行ガイドブックのホテルなどの電話番号、数字ひとつのまちがいを見逃しても、えらいことになります。
 出版社との契約打ち切りどころか、損害賠償裁判になった他社の例もあります。零細会社は、一文字の見落としが倒産につながりかねない。
 でも、夫の会社、私が手伝うのをやめたおかげで、まだつぶれていない。

 夫は日本人の書いた原稿を校正し、妻は留学生の日本語作文を添削し、夫婦で同じような仕事をしていて、毎日時間におわれて働いているのに、少しも稼げない。
 儲からない会社への「企業診断をお奨めします」というアドバイスもいただきました。ご心配いただき、ありがとうございます。いろいろ経営に不備は多いのですが、もうからない一番の理由はわかっています。

 「執筆者、編集者への報酬に比べて、校正者への社会的評価と収入は、不当に低い」という主張の持ち主である社長が、校正者に対して、他社に比べてずっと高い報酬を支払っています。そのため有能な校正者が長年働いてくれているのです。
 しかし、出版社から支払われる校正料は、他社より高いってことはありません。出版社から支払ってもらえる金額は他社と同じで、働き手に支払う金額は他社より高いのですから、儲かるはずもありません。

 毎年、「年末の資金繰りができないとトーサンは倒産」という駄洒落をききながら年越しをし、正月を迎えてきた。
 誤字脱字の漢字でも、ひらがなカタカナ、何でもいいから、とにかく平穏無事に正月を迎えられたら、それが何より。
 今年も姑から貰った餅で、なんとか雑煮を作って食べました。

 「家業紹介」文、これにてひとまず校了です。
  日本語は、適度に間違えて書きましょう。当社が校正校閲いたします。
<おわり> 

ぽかぽか春庭「将軍の図書館&古代の武蔵国」

2008-11-23 11:06:00 | 日記


将軍の図書館

2005/04/23 09:32 土
春散歩>国立公文書館①将軍の愛読書

 千代田区北の丸公園にある国立公文書館。国が保管している歴史的な資料・公文書を保存公開している。
 一般公開の特別展企画展がいろいろあったのだが、歴史研究などに関わっている人でもなければ、公文書館へ足を運ぶ人は少ないだろう。

 私も、となりの近代美術館はときどき訪れるが、公文書館にまで足をのばしたことはな
く、無料公開されている施設とはいっても、なんとなく縁遠い場所と思ってきた。

 公文書館で4月5日から24日まで公開されている特別展「将軍のアーカイブズ」を見る気になったのは、近代美術館で開催のゴッホ展がとても混んでいて、ゆっくり絵を見ることができそうになかったから。
 少し人混みがおさまるまで、となりの公文書館で時間つぶしをしようと思ったのだ。
 特に見たいものがあるわけでもなし、ただ時間がつぶせればいいと思って入ってみたのだが、おもいのほか興味深く、おもしろく見て回れた。

 アーカイブとは、文字資料、絵画資料、映像資料などの記録保存所のこと。また、保存所に納められている公文書古文書そのものもさす。
 「将軍のアーカイブズ」は、江戸幕府が江戸城内の紅葉山文庫に所蔵してしていた書籍類をさしている。紅葉山文庫は、将軍の「公式図書館」にあたる。

 紅葉山文庫には、徳川家康が書物蔵を設置して以来の、15代にわたる将軍の蔵書や資料が収蔵されてきた。古文書、古地図、中国からの輸入書など、さまざまな貴重な資料がある。

 江戸城開城の際、紅葉山文庫もそっくり明治新政府が受け継いだ。
 現在は「独立行政法人国立公文書館」が、資料を管理保存している。これらの貴重な文書の現在の所有者は「国民」であるのだから、だれでも閲覧利用できる。

 政治体制が変わった多くの国では、貴重な書物や資料が散逸してしまうことが多い。お隣中国でも、王朝が変わるごとにたくさんの書物が散逸した。比較的近い時代の清王朝のものでも、二度の革命の間に数多くの文書や宝物がなくなってしまった。

 江戸城が、幕府から天皇側へ無血開城された価値は、いろいろある。江戸を戦場にすることがなかったおかげで、江戸市民の命も散らずにすみ、紅葉山文庫の書籍もそっくり保存された。

 虫食いのあとも残る数々の展示。
 この本を家康が実際に読んだのだ、と思って眺めると、歴史の時間をさかのぼり、書を読む家康の姿が彷彿としてくる。

 今回の公開では、「吾妻鏡」をはじめとする家康自身の愛読書などが展示され、八代吉宗が閲覧した医学書などもある。 <つづく>

2005/04/24 11:20  日
春散歩>国立公文書館②将軍の図書館

 紅葉山文庫には、家康以下代々の将軍が出版させた活字出版物も多種残されていた。
 筆で一字一字書写する以外に本を残す方法がなかった時代を経て、江戸時代には活字を利用した印刷本が、幕府の事業として出版された。文化において諸藩を圧倒することも、幕府の力の誇示の方法であった。
 木活字による「伊勢物語」、朝鮮王朝制作の銅活字を輸入して印刷された「文献通考」などの出版、また古事記、明月記(藤原定家の日記)などの書写も続けられた。

 将軍の注文で中国から輸入された漢書類の中には、中国国内にはまったく残っていない貴重な書物もある。もし将軍が一書を買い求めなければ、貴重な文献が永遠に消えてしまっていただろう。
 中国では早くに失われた貴重な書物が、江戸で再出版され、中国へ逆輸出された例もある。

 紅葉山文庫の書物管理は徹底していて、いつ誰が借り出して読んだのか、詳細な記録が残っている。
 八代将軍吉宗は、テレビの中では「暴れん坊将軍」として知られてきたが、実は、本の虫といえるほど「本好き将軍」」だった。実に頻繁に書物を閲覧している。
 1723年の記録だけをたどっても、当時40歳だった吉宗が1年間に200冊以上の書物を閲覧しているのだ。

 展示されていた吉宗の閲覧書物は、医学書、薬学書が多く、小石川に薬草園や療養所を設けた吉宗が、医学に深い興味を持っていたことがわかる。
 テレビでは白馬にのってさっそうと画面に登場していた吉宗。ただ馬に乗るだけではなく、獣医学の本も閲覧している。馬の飼育や病気にも興味があり、オランダ人に洋式馬術を教えさせた。

 吉宗は、貴重な蔵書を独占したり死蔵したりということがなかった。周囲にいる医者や役人にも閲覧を許し、学者に研究を続けさせている。
 青木昆陽らにサツマイモ栽培法などを研究させたことはよく知られているが、そのほかにも様々な研究を命じて、学者にしらべさせている。

 吉宗は「有職故実」に興味を持ち、平安時代の諸制度を記録した『延喜式』を熱心に閲覧した。ただ読むだけでなく、たとえば、延喜式の中に記されている染色法を研究し、復元作業を、試みている。城内吹上に染殿を設け、復元した染色の見本帳を作成した。
 平安以来、染色法がわからなくなっていたさまざまな古代染めが、このとき復活した。

 五代将軍綱吉は、儒学が大好き。家来を集めては、講義をしてやるのが道楽だった。将軍の講義を、居眠りもできず辞儀を正して拝聴しなければならなかった家来衆はタイヘンだったことだろう。
 綱吉が講義に用いた教科書も、展示されている。

 吉宗の孫にあたる十代将軍家治は、将棋道楽だった。「詰め将棋百局集」には、将軍自身が考え出した詰め将棋の棋譜が残されている。
 家治、幼少のみぎりは、鈍重な父(9代将軍家重)とは似つかぬ利発な子どもで、祖父吉宗の期待を一心に集めていた。
 長じて田沼意次を側用人から老中にとりたてて、政治をまかせてしまったあとは、ひがな詰め将棋を考えるほか、やることがなかったのかも知れない。
 
 将軍といえば、「暴れん坊将軍」とか「大奥」などでイメージすることが多かったが、紅葉山文庫を見て、「文化事業によって国を治める」ことが、江戸幕府の重要な仕事のひとつだったことが、よくわかった。
 
 皇居周辺や北の丸公園の花見時期がおわれば、公文書館は閑散とすると思うので、ゆっくり歴史に浸りたい人は、散歩がてら見てください。特別展は4月24日で終わるけれど、常設展示にも貴重な資料がいっぱい。

若葉風がめくるページの古写本の 墨 時の間(ま)を流れ来て濃し(春庭) 
<公文書館おわり>




武蔵国分寺七重塔跡

2005/05/01 10:30 日
新緑散歩>みどりの日・武蔵国分寺七重塔跡①

 ゴールデンウィーク第一日目。みどりの日は、娘息子と新緑散歩。武蔵国分寺七重塔跡、武蔵国分尼寺跡を歩いた。
 国分寺市遺跡調査会による史跡発掘現場見学会に参加し、発掘状況の説明や古代武蔵国分寺についての説明を受けた。

 国分寺駅からは歩いて20分、西国分寺駅からは15分くらいのところに、国分寺がある。その南側、国分寺市から府中市へ入るあたりに、古代の武蔵国分寺跡が広がっている。
 1922年(大正11)、国の史跡に指定され、現在は「国分僧寺」と「国分尼寺」と参道口を含む10.4haが整備事業の対象となっている。

 日本古代史の授業で、先生からこの見学会を紹介された娘、「授業で聞いた話がとてもおもしろかったから、ぜったいに見に行きたい」と言う。
 息子は歴史好きだが、興味の範囲はゲーム「信長の野望」の前後、室町後期から江戸前期に限られている。それでも、姉が「ひとりで見に行ってもつまらないから、いっしょに行こうよ」と誘うと行く気になった。
 ふたりが行くのならと、私もくっついて見にいった。

 子どもらに「母は、子どもの追っかけしてないで、どこでも勝手にひとりで旅行でも行けば?」なんて言われても、めげずに「子どもといっしょのおでかけ」を続けたい母である。 
 東京都下、4月の気温としては最高を記録したという日。暑かったが、子離れできない母にはうれしい新緑散歩の一日になった。

 僧寺金堂跡での発掘状況全体の説明、中門跡と七重塔跡の発掘現場で説明を受けた。
 国分寺市教育委員会の考古学、発掘の専門家が、学識をふるってお話してくれるのだが、残念ながら、こちらの頭が高度なお話についていけない部分もあり、分かった部分もあり、よく分からない部分もある。
 おぼろげな理解だが、地面の下から、古代の瓦の破片などが出土したこと、柱を立てた穴の跡などから、建物の規模や工法がわかり、奈良時代の建物と比較して、古代国分寺の復元ができる、などについてわかった。

 金堂の礎石が並んでいるところ、中門の柱の跡が規則正しく続いているところを見る。
 最初は掘立柱の塀だったのが、築地塀へと作り替えられた証拠が見つかった、とか、版築(はんちく)という二種類以上の土を交互に積み重ねて固め、大規模な建物の基礎を作る地盤固めの工法の説明など、興味深い話を聞くことができた。
 奈良時代に大陸や半島から渡ってきた技術者が伝えた技術。

 娘は授業で説明を受けたことが、実際に目の前に遺構して広がっているのを見ることができて大満足。関東ローム層の地層などを見て、「ああ、面白い」と、言う。

 基礎工事の工法や土の重なり具合について説明を聞いても、私には全部は理解できない。古代の人も、古代なりの優れた技術を発揮して寺を作り上げたんだなあと思うのみ。
 心は歴史の時間を遡る。古代の土木工法の技で作り上げられた基壇の上に、宮大工が柱を建て、屋根を葺いている姿を思い浮かべ、完成した壮大な七堂伽藍を仰ぎ見る人々の姿を想像した。

 国分寺は、奈良時代、聖武天皇が諸国に建てさせた国家鎮護のためのお寺。仏教の力で疫病や旱魃などの国の混乱を鎮め、平和な国にするために奈良に東大寺と大仏を建立、諸国に国分寺を置いた。また、光明皇后の願いにより、国分尼寺も建てられた。<つづく>
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2005/05/02 00:46 月
新緑散歩>みどりの日・武蔵国分寺七重塔跡②

 他の諸国の国分寺の規模に比べ、武蔵国国分寺は1.5倍から2倍の広大な規模を持っていたことがわかったという。
 七重塔は金堂から220メートル離れたところにある。
聖武天皇の時代に建てられて以後、平安時代835年に雷が落ちて炎上。845年に再建が許可された。
 元々塔跡として史跡指定されていた場所のそばに、別の塔跡も発見され、調査が継続している。
 柱の跡や礎石が残っている。

 版築によって壇をを築き、その上に壮麗な七重塔が建てられた。東大寺の七重塔が100m、国分寺の七重塔も60m以上はある。
 基壇の上に重なる屋根。屋根の上で日に輝く相輪。武蔵野が広がる中、どこからでも塔が見える。金光明最勝王経を中に納め、世を災いから守るという塔を、古代の人々はどんな思いをもって仰ぎ見ただろう。

 説明会終了後解散となってから、文化財資料展示室を見学したり、史跡公園となっている国分尼寺の遺構を見た。
 古代国分尼寺に属する尼さんは、定員10名というきまりがあった。二人ひと組になって一室を与えられ、共同生活をしながら修行を続けた。

 尼坊の礎石が並んでいる。尼僧が生活していた「合宿所」みたいな建物が尼坊。尼僧たちは国家鎮護のために日々おこないすまし、経を読む生活を続けていたのだろう。

 当時の「寺」は、地域の文化の中心であり、病院、養老院孤児院などの福祉センターでもあり、教育センターでもあった。
 聖武天皇が国家鎮護のために国分僧寺を建てる詔を発したとき、光明皇后が尼寺を全国に建てることを望んだのも、病人や孤児貧者に心を寄せる皇后が、人々を救う拠点を作りたいという気持ちがあったからだと伝えられている。

 「琅カン」が復元されて立っている。ロウカンは、寺の前に翻っていた旗をとりつける柱。かっては金糸銀糸で縫い取りをされた旗が寺の行事の日に翩翻とひるがえった。
 ドキュメンタリーで、チベットのラマ教の聖地に高々と翻る旗を見たことがある。旗はラマ教の人々にとって、大切な宗教上の象徴だった。古代仏教の地でも、旗が重要なものだったのだろう。
 古代の武蔵野の人々も、国分尼寺や国分寺の前にひるがえる旗を見て、ここが大切な場所であることを実感したのかも知れない。

 西国分寺駅まで、鎌倉街道の「上の道」と伝えられている古道を歩く。周辺はぎっしりと住宅が建つ地域。そのなかで、鎌倉街道の切り通し部分が保存され静かな雰囲気を保っている。

 鎌倉から上野(こうづけ)信濃方面へ向かう道。
 この道を「いい国作ろう鎌倉幕府」のため鎌倉武士が馬にのって通った。

 また、失政続く鎌倉幕府を滅ぼさんと、上野新田庄から出陣した新田義貞が駆け抜けたのかもしれない。
 1333年に分倍河原で新田勢と北条泰家の軍が闘ったとき、この道を鎧兜の武士達が行き交い、馬のいななきが響いた。新田勢は勝利し、鎌倉幕府を滅亡に追い込む。

 この「分倍河原の合戦」のとき古代国分寺は焼失し、新田義貞の寄進で新たに薬師堂などが建立された。

 現在の国分寺は、宝暦年間(1751~1763)に建て替えられたもの。
 残念ながら、今回は国分寺の中にある万葉植物園などを見る時間がなかったので、またの機会に訪れたいと思う。

 新緑が鮮やかな一日、古代の歴史にふれながら歩き、楽しい散歩だった。<おわり>


ぽかぽか春庭「アジサイはなぜ紫陽花なのか」

2008-11-22 09:12:00 | 日記
ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」 アジサイ色いろ(1)
at 2004 07/13 13:52 編集

 7月11日、朝のうちに投票をすませてから、故郷の山の中の病院をたずねた。
 山道をくねくねと登っていくバスから、道ばたに咲くあじさいがみえる。病院前でバスを降りると、空気も東京より冷んやりと感じる。

 癌病棟に入院している叔父を見舞う前に、2年前に姉が最後の日をすごした緩和ケア病棟へ行ってみた。姉が亡くなってから初めての訪問になる。
 
 ホスピス病棟の中庭。2年前の春、姉が最後に見上げた桜の木。ふりしきる花びらを見つめて、最後の春をすごした。
 今は、青々と葉が重なり合い、心地よい木陰を作っている。ベンチにしばらく座っていた。

 ホスピス病棟の中庭には、だれもいない。日の光は、強くしかし静かに中庭の葉や花や虫たちに注がれている。
 紫や黄色の小さな花に、白い蝶々や蜂が出たり入ったりする。足もとを蟻が忙しそうに行き交う。
 木の葉がさやさやと風にゆれる。虫たちが花の間を飛び回り、花たちは思い思いの色を日の光に反射させる。

 中庭に面した病室の窓はどれも白いカーテンで覆われていて、部屋の主たちが中庭の光景を見ることができているのかどうかはわからない。
 静かな小さな中庭に満ちている命の饗宴は、窓の中へは届かない。

 2年前、すでに車椅子に座っていることすら苦痛に耐えながらになっていた姉だったが、外を見たいというので、ほんの短い時間、外の山道が見えるところまで行ってみたことがあった。山の小径沿い。今はアジサイが咲いている。姉の車椅子を押しているときには、小石に車輪をとられないように気をはっていて、木々の間にアジサイがあることなど目に入らなかった。

 ホスピス病棟の窓からこのアジサイが見えるだろうか。
 窓の中は2年前とおなじように、それぞれの窓にそれぞれの最後のときがやってくるまで、静かな時間が流れているのだろう。ある人にとっては短くも色濃い生涯の最後のとき、ある人にとっては長い長い人生の終着駅。

「山なかのホスピス病棟中庭の花びらの中の蜂と蕊たち(春庭)」

 都内花名所のうち、アジサイなら白山神社、小石川植物園によくでかける。
 JR王子駅のホームからながめることができる飛鳥山公園は、江戸時代から桜の名所であるが、アジサイも美しい。

 7月11日の朝も、飛鳥山公園のアジサイを見ることができた。盛りのころに比べると、やや色の種類が少なくなった気がするが、まだ十分に観賞にたえる花が残っている。

 いつもホームや電車からながめるだけだったが、今年は初めて、「飛鳥の小径」を歩いてみた。1ヶ月前の6月5日のこと。

 王子駅で下車。高度成長期以前の雰囲気を残す「さくら新道飲食街」をぬけて、飛鳥山公園の崖下を歩く。
 飛鳥山公園とJR線路の間の小径、「飛鳥の小径」

 アジサイの時期以外では、付近の住民が通り抜けるだけで、通行人は少ないのだが、アジサイが盛りの間は、写真を撮っている人がたくさん。
 三脚のわきを通るにも声かけ道をゆずりあってすり抜ける、ちいさな通り抜けの道。

 青い花、ピンクの花、紫の花、ガクアジサイ。様々な色合いを楽しめる。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」アジサイ色いろ(2)
at 2004 07/14 07:46 編集

 アジサイの花言葉。「強い愛情」「元気な女性」などのほか「移り気」もあるのは、ひとつの株の花でも、ときには青い花だったり、ときにはピンクになったり、土壌の組成によって、色が変わるため。土壌が酸性かアルカリ性かによってさまざまな色をみせる。

 アジサイ(ホンアジサイ)のラテン学名は、Hydrangea macrophylla。ハイドランジアは水、マクロフィアは容器の意味。たっぷりと水を含んだ、雨の季節にふさわしい名前に思う。

 私が使っている『原色牧野日本植物図鑑』の記述では、Hydrangea macrophyllaはガクアジサイの学名。花が手まり状になるアジサイの学名はHydrangea macrophylla Seringe var.otakusa ハイドランジア・マクロフィア・ヴァル・オタクサ)となっている。
 現在の植物学では、オタクサの名は除かれているそうだが、在野の植物学者として独自の研究を続けた牧野は、「オタクサ」を削ってしまいたくなかったのだろう。

 「 ハイドランジア・マクロフィア・ヴァル・オタクサ」この学名の最後の「オタクサ」は、ヨーロッパにこの花を紹介したシーボルトの日本人妻の名前「お滝さん(楠本滝)」にちなんでつけられたもの。

 シーボルトは医師として江戸末期の長崎のオランダ商館で働いていた。
 シーボルトは、長崎から「日本植物図」を植物学者・ツッカリーニに送った。あじさいの発見者は「ツッカリーニとシーボルト」となっている。

 当時ヨーロッパでは博物学が盛んであり、各国は競って世界各地の植物を蒐集研究していた。世界各地にいた探検家、学者、商人まで、新種の発見に夢中になり、本国へ標本や精密な植物図譜を送付した。新種の植物は「植民地から金を生み出す木」でもあった。

 日本のあじさいが西洋植物学研究者に知られるようになったのは、江戸末期からだが、あじさいは古来から日本の地に咲いていた。日本原産の花。
 東京や伊豆などで、野生種のあじさいが発見されている。

 奈良時代のあじさいが、万葉集にうたわれている。
 万葉集の編集者とされる大伴家持の歌。あじさいは「味狭藍」と表記されている。(巻四 773)

「言問はぬ木すら味狭藍 諸弟らが 練りの村戸に詐かヘけり(こととわぬ きすらあじさい もろとらが ねりのむらとに あざむかえりけり)」
 物を言わない木にさえも、アジサイの色のように移ろいやすいものがあります。ましてや、手管に長けた諸弟の言うことに、私は簡単に騙されてしまいました。

 日本語を読み書きする者が、千年の間、簡単に騙されてしまっていることがある。アジサイの漢字表記についてである。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」アジサイ色いろ(3)
at 2004 07/15 07:33 編集

 もうひとつ、万葉集の中のアジサイ。
 橘諸兄の歌では「安治佐為」という万葉仮名で表記されている。(巻二〇 4448)
(たちばなのもろえ{684~757}、父は敏達天皇の玄孫美努王,母は県犬養三千代。光明皇后(藤原不比等と再婚した三千代の娘)の兄として、奈良時代に権勢をふるった)

「安治佐為の八重咲く如く弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ(あぢさいのやえさくごとくやつよにを いませわがせこみつつしのばむ)」
 この場合の「八重咲く」は、「八重咲きのアジサイ」ではなく、「たくさんの花びらが重なりあって咲いているアジサイ」であろう。

 アジサイの表記について。
 平安時代のお坊さん、昌住が著した「新撰字鏡」では「安知左井」と表記。
 同じ平安時代の「倭名類聚抄(和名抄)」では「安豆佐為」。

 アジサイ。安豆(あつ)は「集まる」という意味。「佐(さ)」は、真を意味する。「為(い)」は、藍(あい)の意。すなわち、「真の藍色(あいいろ)の集まり」という花の様子から、安豆佐為(あつさい)と名がつき、安豆佐為(あつさい)が転訛(てんか)して、アジサイになったのだという。

 明治時代に編纂された「大言海」で、大槻文彦は「あじさい、語源は集真藍(あつさあい)」としている。

 アジサイに「紫陽花」の漢字をあてることについて。
 平安文学は、中国唐詩の影響を強く受けている。ことに中唐の時代の詩人白居易(白楽天772-846)の漢詩文集「白氏文集」は、人気が高かった。白居易の詩がアジサイに関わっている。

 10世紀に成立した「和名抄」に『白氏文集律詩に云(い)う、紫陽花、和名、安豆佐為(あつさい)』と書かれている。倭名類聚抄(和名抄)の編纂者は源順。

 源順は、白居易の「白氏文集第20巻」の中にでてくる紫陽花をアジサイのことを指していると思いこみ、「紫陽花=アジサイ」とした。
 源順の記述により、「白氏文集」に出てくる紫陽花がアジサイのことだと、皆も疑わなくなった。現在ではアジサイの漢字表記は紫陽花が一般的。

 しかし、ちょっと待って。ちょっと違う。
 実は、この「白氏文集」の中にでてくる紫陽花(ツィヤンファ)がどのような花をさしていたのかは、わかっていない。
 源順が「紫陽花とは、わが国の安豆佐為のこと」と書き残したのは、彼の思いこみによってであり、根拠があってのことではない。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」アジサイ色いろ(4)
at 2004 07/16 07:21 編集

 白居易が詩にした紫陽花が、紫色の花だったことだけは確かなのだが、その花が、はたして紫色のアジサイだったのか、ライラックのような紫色の花だったのか、はたまた別の紫色の花だったのか、記述は何もない。

 「白氏文集章巻二十」には、白居易が紫色の花を見て、だれもその名を知らなかったので、「紫陽花」という名をつけた、と書かれているだけだ。

 「紫陽花」の漢詩の前に、前書きがある。
================
招賢寺有山花一樹、無人知名(招賢寺に山花一樹あり、名を知る人無し)
色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物(色紫にして気香しく、芳麗にして愛すべく、頗る仙物に類す)
因以紫陽花名之(よって紫陽花を以てこれを名づく。)

「招賢寺に、名前が不明の紫色の花木があった。その名を知る人がいない。色は紫で芳香がある。芳しく麗しい愛すべき花。まるで、人間界とは異なる仙界の花のようだ。よって、この花を紫陽花と名付けた。」

「白氏文集」より「紫陽花」

何年植向仙壇上(いづれの年か植えて仙壇の上に向かう)
早晩移栽到楚家(いつしか、移栽して梵家(てら)にいたる)
雖在人間人不識(じんかんに在りといえども人識らず)
与君名作紫陽花(君に名づけて紫陽花となさむ)

いつのころからか仙壇に植えられていた
いつしか移しかえて、寺に植えられた
人の世界に来たけれども、人はその名を知らない
この花に名を与えて紫陽花と呼ぼう
=================
 私は、この白居易の前書きを読んで、「?」と思った。「色は紫にして気は香る」と書かれているからだ。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」あじさい色いろ(5)
at 2004 07/17 08:28 編集

 白氏文集「紫陽花」前書きにある「芳麗愛すべし。すこぶる仙物に類す」を読むと、あれ?アジサイって、そんなに香りの強い花だったっけ、と疑問が生じる。
 白居易が「色は紫にして気は香る」と書き留めたのは、その紫色のあざやかさと同等に、周囲の空気を満たす香りが印象的だったことを想像させる。

 薔薇やライラック、カサブランカなどの百合の花は、その花の下にたてば、芳香に包まれる。しかし、アジサイの花に近づいて香りを確かめても、そんなに強い芳香は感じない。

 「気が香っている花」の香りに包まれて「ここは人間の世界じゃない、これはまるで仙人の世界のようだ」なんて気持ちにはならなかった。
 アジサイの色はたしかに美しいが、「芳麗愛すべし」とは印象が異なる。

 紫色で香りが強い花といえば、むしろライラックの種類にちかいんじゃないかなあ。だが、確実なことはわからない。白居易が書いているのは「色は紫、香りが強い」ということだけで、花の絵を残しているのではないから。

 私が出講している独立行政法人の大学正門脇バス停に、ライラックの群落がある。毎春バス停周囲が満開のライラックに包まれ、なかなか来ないバスを待つ間、馥郁とした香りを楽しむことができる。

 白居易が「色は紫にして気は香る。芳麗愛すべし」と言ったのは、この花かも知れないなあ、と思いつつライラック(リラ)の香りを楽しんできた。

 白居易は紫陽花の姿形をどのような花であるとも描いていないのだから、「気は香る」という表現を「芳香がある」と受け取らず、「色の紫から、周囲の気が香るように感じる」と、色彩からくる感覚を「気が香る」と表現したのだ、と考えることも不可能ではない。

 源順も、白居易が描き出した花を確実に知っていたのではないが、彼自身の詩への感受性によって、この紫色の花を「安豆佐為(あぢさゐ)」と受け止めた。

 源順がアジサイの漢字名を紫陽花と思いこんで以来、日本ではアジサイ=紫陽花となり、「安豆佐為」という万葉仮名を押しのけて浸透した。定着してしまえば、それが「現在の日本語表記」となる。
 日本語の漢字表記が成立するには、様々な要素がある。だから、「現時点では、アジサイの漢字表記が紫陽花である」というのは、それでよい。

 ただ、白居易の「紫陽花」は、直接に日本原産の花「アジサイ」をさしていたのではなかった、という事実も知っておきたいと思うのだ。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」アジサイ色いろ(6)
at 2004 07/20 08:08 編集

 私は、白居易の「紫陽花」は、香り高いライラックのような花だったのかも知れないなあ、と感じた。感じただけであって、絶対にそうだという証拠もない。

 千年前に、権威ある源順が「アジサイ=紫陽花である」と発表したら、だれも異議申し立てをしなかった。
 日本の文芸において、自分の感受性を発揮する以上に、「おつきあいの言葉やりとり」「同じ言葉をやりとりする仲間同士の交流」が重んじられる面があったから、紫陽花は別の花かも知れないと、だれも言い出さないうちに、いつのまにかアジサイといえば紫陽花になった。

 購読している新聞に、畏敬する陳舜臣氏のエッセイが掲載されていた。
 6月7日付の一文に「神戸市の市花は紫陽花」という紹介があり、紫陽花の名付け親として白居易の漢詩が紹介されていた。
 中国文学・歴史にも日本史にも造詣が深い氏のエッセイである。白居易の詩に関する部分は問題ない。

 しかし、文中に「遣唐使や水夫の衣服や荷物についた(日本原産のあじさいの)種が中国の沿岸地方で、しぜんに根付いて花をさかせたらしい」とあるので、陳氏は「白居易が実際にアジサイの花をみて紫陽花と名付けた」として、この文を書いているのではないかと推察された。

 遣唐使が唐のみやこ長安まで出かけているのだから、港町や長安までの道中に、安豆佐為(あづさゐ)の種がこぼれることも十分に考えられる。だから、千年前の上海の南200キロの港町杭州近くの西湖のほとりに、アジサイが咲いていたと想像することもできる。

 だが、「安豆佐為(あづさゐ)=紫陽花」というのは、源順の「思ったこと」であって、白居易が紫陽花の姿形を描写したわけでなく、「紫陽花が安豆佐為(あづさゐ)である」と、断定することもできない。

 白居易が「紫陽花はこの花」と指定しているのではないから、「紫陽花=アジサイ」かもしれないし、ライラックのような香り高い花かも知れない。 しかし、わかっていないのだから、
A:白居易は見知らぬ花を見て、紫陽花と名付けた 
B:源順は、紫陽花=アジサイと思った 
というA,Bから、
C:白居易が見たのは日本原産のアジサイである、
という結論が導き出せないことだけは、確認しておきたい。

 以上、「気が香る花」という一語にひっかかった、オバハンの疑問解消散歩です。<アジサイ色いろ続く>


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」アジサイ色いろ(7)
at 2004 07/21 09:04 編集

 現代中国語では、アジサイは綉球科(八仙花科、虎耳草科)、綉球属(八仙花属)。
 綉球、八仙花、大八仙花、八仙綉球、繍球花、洋繍球、紫陽花、紫繍球、瑪哩花、天麻裏花、雪球花、粉團花などと表記されている。(私の手持ちの岩波日中辞典では、八仙花、綉球のふたつのみ)
 「紫陽花」の表記は日本からの逆輸入。「天麻裏花」は、「手鞠」の形の花、というこれも日本語からの表記。

 中国語を確認したり、アジサイの表記について検索をかけて確認するうち、私が自分の感覚で「白居易のいう香り高い紫色の花は、アジサイではなく、ライラックのような花」と感じたことが、案外まとはずれでもないことがわかった。

 植物学者の牧野富太郎が「植物一日一題」というエッセイに「千年前の中国にはアジサイは咲いていない」という長年の植物研究結果を書き留めている、と知った。私が愛用している植物図鑑は牧野の編纂による『学生版原色牧野日本植物図鑑』というハンディタイプの図鑑。しかし、エッセイ『植物一日一題』は読んでいなかったので、いつか読んでみたいと思う。

 また、植物学者湯浅浩史さんが、「白居易のいう紫陽花はライラックと思う」という主旨の文を書いていたことを知った。源順とは異なる感覚で、紫陽花をとらえていた人がいたことに感激!ライラックは片仮名表記なので、西欧の花かと思いこんでいたのだけれど、これも思いこみのひとつ。ライラック原産地は中国という。

 湯浅先生は植物学の権威だけど、「権威者だから、その言葉を信じる」というのじゃありません。植物には素人のオバハンが何となく感じた疑問を考えていったら、植物を長年研究している人と同じ結論に達したことの驚きと、同じ感覚を共有できた!という喜び。

 「アジサイの漢字表記は紫陽花」という「皆があたりまえと思っていること」でも、「ちょっとひっかかる」と感じた。
 「アジサイは雨のなかや湿った場所に咲いているのがぴったりするのに、なぜ、陽の花なのだろう」と感じたり、「芳香のある花」と白居易が書いているのに、なぜ、安豆佐為(あづさゐ)が紫陽花なのだろう、と思った。素朴な疑問を解決しようとあれこれ探っていったら、いろいろな事実がわかってきた。

 自分の心身でものごとを受け止めて、疑いを持ち、疑義提出するにはエネルギーがいる。約束事にしたがい、大勢にしたがってつつがなく生活し言葉を交わし合う方が、はるかに楽しく心地よく物事が運ぶ。
 だが、「つつがなく暮らすために、すでに決まっていることや考え方に従う」だけではいられない時もある。「思考を停止し、大勢に従うほうが楽」と思えるときも、一歩立ち止まり、自分の考え感性を信じていきたい。
 
 飛鳥の小径。アジサイは崖下の小径に咲き誇る。それぞれの株にそれぞれの色。
 様々な色を楽しむと同時に、私は私の感受性でものごとを受け止めようと願う。八方へアンテナをはり、さまざまな考えや感じ方を自分なりに受け止め、自分なりに考えていこう。

 アジサイのさまざまな発色は、土壌の酸性アルカリ性によるのだそうだが、私たちの思考感性は、サンセイもハンタイも、それぞれの自由に。
 世の中全体が一色に染まらぬことを願いつつ、私はさまざまな色を楽しみ、さまざまな色合いをながめることを喜びとしていく。

「紫陽花や 藪(やぶ)を小庭の 別座敷」松尾芭蕉
「紫陽花の 末一色(すえひといろ)となりにけり」小林一茶
「紫陽花や はなだにかはる きのふけふ」正岡子規
 「集真藍(アジサイ)や株ごとの色 わたし色」春庭
 「陽を放つごとく雨中に咲くあじさい」春庭
<アジサイ色いろ終わり>

ぽかぽか春庭「HAL・春庭」

2008-11-19 19:30:00 | 日記
名と色とことばの散歩
「名前について」

at 2004 02/13 19:58 編集
「友の名」
 2004/01/16に「パロディ短歌」を紹介した。
 春庭のパロディ 2004/01/16 00:07 haruniwa さっちゃんはね幸子っていうんだ本当だよ幸多かれと我祈るなり
 元歌は、歌会始召人・大岡信「いとけなき日のマドンナの幸ちゃんも孫三たりとぞeメール来る」

 私が「幸多かれ」と祈っていた人の名は、「カコチャン」。32年前に別れて以来、年賀状のやりとりさえしていなかった。しかし。
 私のいとけなき日のマドンナ、カコチャンから、eメールが来た。

 別れてから一度も消息がなかったが、カコチャンの恋人の名前を覚えていたから、検索して彼の消息を知った。彼は立派に仕事をして活躍していた。でも、住所がネットに記載されている彼の仕事先へ「あなたの奥さんの名前はカコさんですか」と、問い合わせの手紙を出していいものやら、ためらいがあった。
 一別以来まったく連絡したことのない人だから、私のことを覚えているのかどうかもわからない。もし、彼の奥さんがカコチャンだったとしても、いきなり連絡を受けたら迷惑かもしれない。
 もし、縁があるならいつか必ず再会できるだろう。私はカコチャンの思い出を「おい老い笈の小文」に書きネットで公開した。

 カコチャンは、春庭「おい老い笈の小文」2004年10月の記事を読み「ここに書かれている人の話は、自分のことだ」と気づいた。「この日記を書いている人は、32年前にいっしょに働いていた、あの人だ」と。

カコチャンからのメール

第一信『人とのつながりが有る様な、無い様なネット社会の中で、私を探していてくれた人に会えるなんて、すごーいですね。
 楽しかったな、東京生活。何でもう少し長く東京にいなかったのだろうかといまだに思います。
 夫は、きちんと仕事をしないと気がすまない性格で、朝から晩まで身体をすり減らし、働いています。 
 私は、ぼちぼちの生活です。いつかお会いしましょうね』

 第二信『私の庭には、もうふきのとうが顔をのぞかせています。まだ回りには雪が積もっているというのに。
 楢山節考見に行きましたね。貴方はサインをもらっていたよね。白石加代子も見に行きましたね。疲れも知らずに活動していたのですね。浅間山荘事件もありましたし、私たちの給料は毎年上がっていたし、なつかしい青春です。
 同じ時をもう一度生きる事は出来ないのですよね。またいずれ。』

 春庭も、驚いた。「本人降臨」!!
 青春まっさかり、二十歳のころに出会った人、大好きだった。
 いっしょに芝居を見にいった。いっしょにデモに参加した。いっしょに山登りをした。いっしょにキャンプした。毎日いっしょに仕事した。

 昔のアルバムをみるたび「今、どうしているだろうか。恋人といっしょになって、幸せにくらしているだろうなぁ」と思い出し、ずっとその幸せを祈ってきた。

 カコちゃんは、故郷に戻って恋人と結婚し、幸せに暮らしていたのだった。
 こうして本人からのメールを受け取れるなんて、ほんとうに不思議だし、うれしい。
 カコチャンのメールにあるように、「人のつながりがあるような、ないようなネット社会」の中で、「やはり、人のつながりはある」と、思う。

 バーチャルなコミュニケーションかもしれない。しかし、バーチャルのコミュニティはすべてダメで、リアル社会のコミュニティだけが本物とも考えない。

 ネットの中だけで知り合っている友達とかわす言葉も、私にとっては、真実のことばであり、友情であると思いつつ、今日もキーボードに向かう。キーボードが打ち出すURLやメールアドレス、IDネームのむこうに、確かに私の「もうひとつの社会」がある。



ハンドルネーム
at 2004 02/16 18:09 編集

 2004年1月2月は名前について、述べてきた。
 「春庭」や「HAL」という名前の解説、本居春庭の紹介「HAL9000」の紹介などを書いたが、OCNカフェ「HAL-niwa Annex」のプロフィールページには、そのほかのハンドルネーム、ペンネームも紹介してある。

 筆名(ペンネーム)として、古今鼎東西線、鶴屋南北線、討究目黒線が載せてある。

 また、シモネタネームとして、春庭洟電車レッド、春庭華電車ピンク、春庭花電車グリーンが。東西線と南北線と目黒線は三つでワンセット。レッド、ピンク、グリーンは三つで別セット。

 そしてふたつのセットは、裏表の関係。いわば、6つの名前が表裏セットの「むつごのおそ松君」のようなものである。六つ児の春庭お粗末

 この六つの名前は、佐藤亜紀の小説『バルタザールの遍歴』に登場する双生児、メルヒオールとバルタザールのような関係の「六つ児」である。

 バルタザールと肉体を共有する双生児メルヒオールは、文章の不統一について「私の筆跡にやや乱れがみえるとしたら、それはバルタザールが左手で飲み、私が右手で書いているからだ」と、弁明している。肉体を共有する双生児。脳内ふたごである。

 言い換えれば、6名が分担して書き、かき集めた文章を、春庭という「統合ネーム」で発表しているとも言える。6名はときどき「統合失調」を起こし、書いてあることが前後ばらばら、文体統一なし、ということもある。

 文体不統一などしょちゅうで、「だ、である体」「です、ます体」が、同じ日の日記の中でさえ混在する。ま、ごちゃごちゃの雰囲気を狙っているときもあるが。

 話がポンポン飛びまくり、「いったい何を書きたいのか、さっぱりわからない」という評もときどきいただく。お許しあれ。この6名はそれぞれが自己主張強く、相手の存在を認めてはいるが、自分が一番の書き手だと、それぞれが思っている。

 それぞれが勝手におしゃべりしたことを、速記録のごとく、自慢のキーボード早打ちで書き留めたのがこの日記、とも言える。いわば、チャットをそのまま転載しているようなもの。
 思いつきで始まったおしゃべりを、だらだらと続くままに書いていくから、話は飛んで飛んで、どこへ行ってしまうのやら、何が主題で何がいいたいのやら。

 しゃべっている6名にとっては、テーマが何だったか、なんてことを真剣に悩むより「自分のギャグが、今、うけたかどうか」の方が重要だったりする。
 時に洟電車レッドのシモネタがすべり、華電車ピンクのお色気話が卑猥にすぎ、時に花電車グリーンのギャグがしらける。

 ハンドルネーム「トキ、ニッポニアニッポン」の古今鼎東西線。古今東西走り回って、かき集めた蘊蓄が、猛烈に眠気もよおすだけのつまらない話であったりする。
 ハンドルネーム「ちえのわ、つる」の鶴屋南北線の芝居話遊郭話も、いまひとつ盛り上がらない。
 討究目黒線は、ハンドルネーム「アルマーニ」と名乗り、メール担当しているが、この人のメール文がまた、面白くともなんともないとの評判。つまらないメールを受け取った方々、すみませんね。

 春庭は、全体を統合しようとは心がけておりますが、かような次第で、文体不統一、テーマ主題ぶっとび、混沌混濁のうちに、なし崩し的に強制終了、ということ、今年もおおいに起こりうると存じます。

 お腹立ちなさいませず、これからも6名のおしゃべりにどうぞ気長に気楽におつきあいくださいませ。

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊
No.97(さ)佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』





HALという名
at 2004 01/14 07:49 編集

 春庭という名乗りについて、名前を借りている本居春庭の紹介を行った。
 もうひとつ、HALという名前を使用していることも、説明しておきたい。

 HALとは、『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータの名前である。(以下、『2001年』『2010年』のネタバレ紹介なので、未見の方、ご注意を)

 『2001年宇宙の旅』原作者はアーサー・C・クラーク。
 クラークは、1964年スタンリー・キューブリックから新作SF映画のアイデア提供を依頼された。クラークとキューブリックとの共同作業の末、映画『2001年宇宙の旅』のストーリーができあがった。

 この映画シナリオと並行して執筆された小説版『2001年宇宙の旅』は、映画の封切りと同じ1968年に発表された。原作、映画ともに高い評価を受けた希有な作品。ようやく宇宙をイメージできるようになった一般の人々にとって、具体的に宇宙ステーションやコンピュータを知ることのできた作品だった。

 この映画の中の主人公は、宇宙生命の存在を探査する人間の宇宙飛行士たちだが、もう一方の主人公はコンピュータ。宇宙船を動かす「人工知能」である。
 通称チャンドラ博士。フルネーム、シバスブラマニアン・チャンドラセガランピライ博士によって産み出された、ヒューリスティカリィ・プログラムド・アルゴリズミック・コンピュータ――すなわちHAL9000。

 この映画は、人工知能の父でMIT(マサチューセッツ工科大学)のマービン・ミンスキーのアドバイスを受けたという。ミンスキーは、キューブリックが人工知能の分野の最先端の話題についてかなり勉強しているので驚いた、と語っている。

 HALは、人工知能にくわえて「意識」「感情」までプログラミングされ、自分の判断で思考できるコンピュータとして設計されている。
 魚眼レンズによって人間の唇の動きを読んで話の内容を理解できるし、人間の描いた絵をみて、絵が以前より上手になった事を認め、それを誉めたりすることも出来る。

 HALには二律背反の任務が与えられている。研究者や飛行士を地球外生命体の残した「モノリス」探査のために木星へ向かわせること。しかし探査プロジェクトの目的が何であるのかを、到着するまで絶対に秘密にすること。

 このふたつの命題を両方忠実に実行する手段としてHALが選んだのは「死んだ人間を木星まで送り届ける」という判断だった。HALは、冷凍冬眠している飛行士たちを殺していく。

 映画の中では、HALが、なぜこのように判断してしまったのかは描かれていない。  単純に「人が産み出した人工知性は、結局は人に反乱を起こすものだ」という、フランケンシュタイン・コンプレックス的にとらえる人も多い。
 一方、クラークの小説版には、HALの反乱がなぜ生じなければならなかったかについて、原因が明確に描かれている。

 HALは、宇宙船ディスカバリー号の乗組員を仲間として信頼し、重要な課題について隠しごとなく話し合うという、基本プログラミングをされている。。
 プロジェクトの上層部は、モノリスの調査という本当の使命を、安全保証などの理由で、船長ボーマンたちには秘密にしなければならない、と考えていた。宇宙外生命体に対する地球人の拒否やおそれの感情がパニックを引き起こすという調査結果により、モノリスの存在を隠したまま探査が計画されたからだ。
 そこで、HALには「木星まで乗組員を送り届ける」という任務と同時に「探査目的を秘密にする」という命令が与えられることになった。

 この矛盾するメッセージに、HALの純真無垢な心は混乱する。

 ボーマン船長はHALの状態から、コンピュータシステムの変調を感じる。「HALは乗組員を信用せず、心理テストを実施しているのかもしれない」と疑い、ボーマンの不信がさらに、HALの意識を追い込んでいく。人間の側がHALへの信頼を失ったため、HALの判断は変調し、ミスを犯す。
 HALは、「AE-35ユニット」が故障するという予測を間違えた。

 「ありえない」はずの、HALのミスで、人間はいっそうHALを怪しみ、信用しなくなる。そして、その原因調査のために、ボーマンたちは「HALの意識スイッチを切る」という結論を出した。人間の側は、心の底ではHALを信頼していなかったのだ。
 もともと人間に忠実であれとプログラミングされているはずのHALに対して、人間側が信頼を寄せず、疑ったのだ。

 意識のスイッチを切られれば、HALに与えられた最重要課題である、木星ミッションの成功はできない。そこで、HALは目的遂行のために最も合理的な手段を選択する。「死んだ乗り組み員を木星へ送り届ける」という手段で矛盾解決をはかったのだ。

 HALの異常を引き起こしたのは、人間側の不信感。矛盾を抱え、平気でウソをつく人の狡さや曖昧さである。人間側はHALを利用することだけを考え、HALを理解しようとはしなかった。HALの抱えている二律背反を理解しようとつとめ、有無をいわさずHALを停止させるような計略を選択しなければ、HALの変調も大事には至らなかったのかも知れない。

 HALには、与えられた使命を自ら変更することはできない。ふたつの矛盾する使命を与えた人間側にHAL変調の原因がある。

 「HALの変調は異常で、木星ミッションにも悪影響が及ぶかも知れない、その原因調査に協力してくれ」と、HAL自身に全てうち明けて協力を求めていれば、HALは人間に忠実に自分の調査を行ったのかもしれない。それが人とは違う、コンピュータHALの精神構造なのだ。

 ボーマンたちは、HALの「意識」をつかさどる透明なパネルをひとつひとつ引き抜いていく。HALはパネルをぬかれるごとに、チャンドラ博士と学習を続けていた初期状態に戻っていく。

 意識が完全になくなる直前、HALは、「わ・た・し・は、ちゃんどら・はかせ・が・す・き・です」と、自分が最初に学んだことばをつぶやく。
 この意識が薄れていくHALのシーンも泣けるが、さらに泣けるのは続編『2010年宇宙の旅』

 続編の『2010年宇宙の旅』では、『2001年』の不幸な事件の原因が明らかにされ、HALは最後に、その本来の姿である誠実さを証明する。

 ディスカバリー号による木星ミッション失敗を調査するため、新調査隊がレオーノフ号で木星に向かう。調査隊はディスカバリー号を発見し、停止していたHALを再起動させる。HALはよみがえった。

 だが、ボーマンの警告によって、木星が爆発縮小することがわかる。一刻も早く軌道から離脱しなければ、木星の爆縮と運命を共にしなければならない。
 調査隊が助かるための可能な方法は、ただひとつ。ディスカバリーを使い捨てにし、HALを犠牲にすること。
 この時も、クルーの大半はHALを信じていなかった。HALにミッションの目的を告げず、HAL自身が破壊されることは秘密にするべきだと考える。

 再起動で意識が戻ったHALは、計画の変更を知ると、何故そうするのかを問い続ける。「もとのスケジュールのほうが良いのに、なぜ、こんなおかしな変更をするのか」
 そして破壊のための点火の直前、HALの父であるチャンドラ博士は、ついにクルーとの合意を破って、HALに真実を告げる。

 「人間が生き延びるためには、ミッションスケジュールの変更は不可欠だ。その結果、HALの破壊は免れないだろう」と、チャンドラ博士は誠実にHALに語りかけ、正直にすべてをうち明ける。
 HALを信じていないクルーたちは、HALが再び反乱を起こすのではないかと疑う。

 しかし、HALは自らの破壊につながるブースターの点火をためらいなく行った。
 自らの破壊を選択し、着実にプログラムを実行したHALは、最後にチャンドラ博士に語りかける。
 自分を生みだし教育してくれた博士への、HALの最後のことば「博士、真実をありがとう」

 「わたしは、ちゃんどらはかせが すきです」「真実をありがとう」こんなすてきな言葉を言うパソコンであったらいいなあ。

 パソコンは、今のところ私にとっては「ワープロ機」「電話がわり通信機」であるけれど、いつか未来にHAL9000のような「意識」を持ったコンピュータが出現したとき、信頼しあえる関係を結びたいと願っている。相手が「機械」であり、人間がプログラミングを仕込むものであっても、私はきっと擬人化してしまうだろう。
 子供のころ、アトムのようなロボットと友だちになりたいと思ったときのように、コンピュータとも信頼関係を結び、いっしょにすごしたい春庭です。

 我家のパソコン初代機は、スマップファンだった娘の希望によって機種をきめた。当時、香取慎吾がTVコマーシャルに出演していたIBMのアプティバという機種だった。パソコンには「しんごちゃん」という名前を付けた。

 現在使っているのは3代目。名前は「HAL1949」である。『2001年』のコンピュータは「HAL9000」だったから、だいぶ知能程度は低い数字。「行く良く=1949」という語呂合わせであるが、あまり良くは行っていない。使う側が「藪(やぶ)パソコン使い」なので、それに程度を合わせた「ヤブパソコン」なんです。

 「HAL9000」は人の心を反映する。人が疑いと憎しみを抱いてHALを扱えばそれをそっくり返し、誠実さと信頼をもってあたれば、それをに答えようとする。

 我家の「HAL1949」は、それを使用している人にあわせて、とても程度が低い。すぐ画面を真っ暗にして、人をパニックにおちいらせる。
 画面がフリーズすると、北極に裸で放り出された気分で凍り付く。
 HAL1949様、Please don't freeze !!

春庭HAL「すぐフリーズするの、やめろよなぁ。ちゃんと働けよ」
 HAL1949「わ・た・し・は、ハルニワが、すきじゃ・ありません」
 春庭HAL「なんだってぇ、このヤブパソコンが!!」
 HAL1979「うちのパソコンの使い手は、ものわかりの悪いヤブなんです」
 春庭HAL「真実をありがとう」




春庭の国学

at 2004 01/03 21:20 編集

 「本居宣長のご縁の方?」という質問に答えて。

 わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又じゃ、ありません。三重の松坂でもありません。
 松坂の人、本居宣長とは縁もゆかりもないんですけど、たまたま宣長の息子春庭の名前を無断で借りている不届き者です。

 日本語教師「ポカポカ春庭」が名前を借りている、国学者本居春庭とは。
 本居春庭は、父親本居宣長の言語研究をうけついで国学の研究を行った、江戸時代の国学者です。30代での失明、というハンディを持ちながら研究に没頭し、すぐれた業績を残しました。

 本居春庭とのご縁はふたつ。
 日本語教師春庭、長年、視覚障害者のための朗読ボランティアをしてきました。本居春庭が盲目であったことを知り、江戸時代に私が生きていたら、朗読者となって国学資料を朗読してさしあげたのに、と残念に思っております。

 日本語文法を研究していた頃、本居春庭の著作『詞通路(ことばのかよいじ)』や『詞八衢(ことばのやちまた)』などの、すぐれた文法論に感服したこと。

 以上の点と、「春庭」という名の温かそうな語感が気に入って、勝手に名前を借りております。
 というわけで、名前を借りているだけで、本居家とは関わりない、しがない日本語教師でございます。
 春庭という名の語感が好きで「春庭、心も頭もポカポカです」などという戯れた足跡を付けて回っているので、本家春庭は、草場の蔭から「世も末」と嘆いているかも。

 借りっぱなしでは申し訳ないので、春庭のすぐれた業績を2004年1/08の「日本語学おべんきょ初め」としてご紹介したいと思います。

 と、いっても、頭ポカポカ春庭の私めが、「本居春庭」研究できるわけもなし。受け売りです。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の二冊No.77 78
(も)本居春庭:『詞通路(ことばのかよいじ)』『詞の八衢(ことばのやちまた)』

at 2004 01/08 09:36 編集
「春庭の国学②」

 本居春庭がどのような文法研究を行ったか、紹介します。
 本居春庭の研究を紹介する前に、国学とは何かを知らなければなりません。
 江戸時代の学問は中国渡来の「朱子学」が「正規の学問」でした。漢学です。
 漢学に対して、日本の文芸文学を研究するのが「国学」
 荷田春密(かだのあずまろ、春満、春漢とも)や、その弟子の賀茂真淵らが、和歌の研究、古今、新古今、万葉集などを研究し、国学を発展させました。

 古事記、源氏物語を研究し、国学を大成したのが本居宣長です。
 本居春庭は、宣長の息子。30代で失明しましたが、国学の研究を続けました。

 国学者としては、むろん宣長の方が有名ですが、宣長の本分は、古事記や源氏物語の研究にあり、文法学者としては春庭のほうが優秀だったのじゃないかと思っています。
 宣長さんについては、小林秀雄も晩年の大作『本居宣長』を著わしているし、子安宣邦など、すぐれた宣長研究者も多い。

 しかし、国学のなかでも、文法研究は地味ですから、春庭の知名度はいまひとつ。
 日本語教師ぽかぽか春庭今日の一冊NO.1の足立巻一『やちまた』が、唯一「本居春庭」を知るための「一般書」です。

 本居春庭の「語と語のつながりの研究」は、日本語の語と語が、どのようにつながって、ひとつの意味のある文を構成するか、という研究です。

 つまり、本居春庭は、文の成分の相互関係(文の構造の図式化)の研究を行ったのです。
 この本居春庭の研究は、言語学研究の中で、構文論=シンタックス、というものに相当します。

 本居宣長は、国学の中の「歌学」研究を行い、和歌の中のことばがどのようにつながってひとつの和歌が構成されてくるか、ということを研究しました。
 この宣長の「語の係るところの認識」が、春庭に受け継がれ、歌の図解方式へと開花していったのです。

at 2004 01/09 06:34 編集
「春庭の国学③」

 たぶんそうはいないと思うけれど、本居春庭の国学にものすごく興味がある人がいるならば。
 春庭の「本居春庭」の業績紹介は、飯田晴巳さんの研究によります。興味がある人はサイトへGO! http://www.kgef.ac.jp/ksjc/kiyo/910090k.htm からの引用、受け売りです。

 現代語訳と、係り受け図示の解説は「ポカポカ春庭」が、正月だけはビール解禁、頭ポカポカでやりましたので、誤解や理解足らずのところがあるかもしれません。

 今年こそ「みんなMサイズなのに、私一人LLサイズの衣裳で踊った2003年ジャズダンス発表会」の雪辱をはたすべく、せめてLサイズにしたいと、ビールを断っていましたが、正月くらいはねぇ。でもって、頭ポカポカです。

本居春庭の国学研究「和歌のことば、係り受け」(現代語訳ポカポカ春庭)

 『 私は常に、和歌を学び始めた方の歌を数多く見ている。あれこれと間違っていることがたくさんあるが、どのように初心者に教えてやろうかと考えて、むかしの和歌を取り上げて、ことばの係り受けやテニオハの意味を、初心者にもわかりやすいように、印をつけ、図示して、教え諭してやろうと思う。
 和歌のことばの「係り受け」を次の記号で示すことにする。

1, ⌒   このマークは、次の詞へのみ係っていくことを示す

2,┌――┐ このマークは、その詞テニオハの句を隔ててむねと係るところを示す

3,└――┘ このマークは、下のことばから上のことばに逆方向に係る所を示す

4,┃ このマークは、和歌の途中で切れる部分を示す

5,━ ━━ このマークは、「紐鏡」という本で述べている「結び」のテニオハを示す

6,〔  〕  このカッコは、枕詞を示す

 マークをつけて、言いたいことはいろいろあるが、初心者が理解できないことや、書き尽くせないことも多いので、初心者は、自分でよく心得て、自ら学んでいくようにしなkればならない。』

<本居春庭の原文>
 おのれ常に初学のともからの歌を多く見るにこれかれあやまる事多けれはいかてしらしめむと思ひよりけるまゝにいにしへの哥ともをこれかれ出して其かゝるてにをはのさまを心得安かるへき様に印をつけ筋なと引て教へ諭しつるなり

⌒  此しるしは次の詞へのみかゝるをしらせたるなり

┌――┐ 此印はその詞てにをはの句をへたてゝむねとかゝるところをしらせるなり

└――┘ 此印は下より上にかへりてかゝる所をしらせたるなり

┃ 此印は哥のなからにてきるゝをしらせたるなり
━ ━━ 此印は紐鏡にいへる結ふてにをはをしらせたるなり

〔  〕 かくかこみたるは枕詞なり

猶印をつけいはまほしき事ともゝ多かれと中々わつらはしく初学のともからは思ひまとふへく又筆には書取難き事ともゝ多しそはみつからよく心得ておのつからさとるへき事なり


万葉集No.2601「うつつにも夢にも我は思はざりき|ふりたる君にここに逢わんとは」
古今集No.84「[久方の]光のどけき春の日に静こころなく花の散るらむ」
古今集No.113「花の色はうつりにけりないたずらに|我が身世にふるながめせしまに」

を例にして、ことばがどのように係っていくか、ことばの係り受けを図示している。

(万葉2601)               
解説
1, 真ん中の「|」の部分で、一首が区切れていることを示している。

2,「おもはさりき」の係助詞「は」と過去の助動詞「き」は、呼応して「係り結び」を成立していることを「━ ━」のマークが示している。

3,「思はさりき ふりたる君にここに逢むとは」は、倒置であることを「└――┘」のマークで示している。本来は「昔ふれ合った君に、ここでに逢うとは思わなかった」と、「思う」があとに来る述語であるが、倒置されて前に出ている。

4,「ふりたる」と「君」は、連体修飾被修飾の関係で直接結びついていることを「⌒」で示している。

5,「ここに」「逢はむとは」は、連用修飾被修飾の関係で直接結びついていることを「⌒」で示している。

古今集No.84
解説
1,「久方の」は枕詞であることを 〔  〕マークで囲って示している。

2,「ひかり」は「のどけき」に直接係る。「のどけき」は「春」に係る。「しつ」は「心」に「花の」は「ちるらむ」に係る

3,推量の助動詞「らむ」がこの一首の結びの語であることを ━━マークで示している。

4,「しつ心なく花の」までが「ちるらむ」に係ることを ┌――┐マークで示している。

古今集No.113     
解説
1,┃マークのところで歌が区切れている。

2,└――┘のマークは倒置を示しているので「なすこともないままに我が身を世にすごし雨が長くふっているのを眺めている間のように時がうつってしまったことよ」となる。

3,詠嘆の助動詞「けり」で一首が結びとなっていることを ━━マークで示している。倒置なので、結びの語が前に来ている。

4,「わが身」と「世に」は「ふる」に係ることを ┌―┐マークで示している。

5,「世に」は「ふる」に、「ながめ」は「せし」に「せし」は「間」に係ることを ⌒マークで示している。

 本居春庭は、日本語の構造(シンタックス)を具体的に目で見てわかるように図示し、ことばがどのようにつながってひとつの文として構成されているかを、研究した。

本居春庭が図示したことをコピーしようと試みたのだが、行替えがことなって、私の転記能力ではうまく図示できなかった。図をみたい人は、上記サイトへ。

 ポカポカ春庭は、日本語学を学ぶ過程で日本語関係の本をある程度は読んだけれど、たぶんこの程度では、文法を学ぶ人から「えっ、そんなもので修士論文を書いちゃったの?」と言われるだろう。

 春庭は、小説やエッセイやその他の本も読みたくて、ついつい文法関係書の読破はおろそかになった。
 おまけに、読み終わると、文法の肝腎なところは内容を忘れてしまう読書だから、ちっとも身につかなかった。

 そのかわり、雑学好きになれたと思っている。「言語学・日本語学・日本語教育学・第二言語習得理論に関係ない本をもっともたくさん読んだ日本語教師」としては立候補できるだろう。



ことばのやちまた
2006/01/09

 『詞八衢(ことばのやちまた)』は、本居春庭の著作、1808(文化5)年に出版されました。
 『詞通路(ことばのかよいじ)』と並ぶ、江戸期を代表する「国学」の重要文献です。

 『詞のやちまた』は、用言(動詞、形容詞)の活用について書かれた「日本語文法研究書」です。日本語文法を研究する者、ことに動詞論を専攻した者には必読の書。
 
 動詞の主な4つの活用、「四段」「一段」「下二段」「中ニ段」と、サ行・カ行・ナ行の3つの「変格」、計7種の活用について、実例を挙げながら説明されています。

 形容詞に関しては、本論では除いていますが、「上」の冒頭に、2つの活用(今でいう「ク活用」と「シク活用」)を指摘しています。
 
 本居春庭の名前を勝手に借りている「ぽかぽか春庭」、不勉強な人間ですから、「他動詞論・再帰構文」で修士論文書き上げたあと、一度も彼の『詞のやちまた』を読み返すことなどしておりません。

 日本語文法研究は棚の上にあげたきりですが、この偉大な著作からまたまた、勝手に名前を拝借しました。気ままなエッセイのタイトルに、つけたタイトル「ことばのYa!ちまた」
 巷でひろったことばのいろいろから、思いつくあれこれを書き綴っていきます


ぽかぽか春庭「色とことばと文化」

2008-11-17 20:19:00 | 日記
at 2004 01/01 11:20 編集
ニッポニアニッポン色(色とことばと文化)

 虹の色、いくつ見えますか。
 「虹は七色だから7色見えるにきまっている」ですか?ところが、フランス語では「虹は6色」に決まっています。色の区切り方が日本語と異なるからです。

 世界の言語の中には、色をあらわす単語が三つしかない言葉もあります。それで、十分に世界を表現できる。

 「赤」「青」などの直接、色を示す単語のほかに、「葉っぱの色」「カッコウとなく鳥の羽の色」と、形容していけば、色を表現できるのだから、色の単語がすくなくても大丈夫。

 日本語では、JIS 規格の色名だけでも300以上あります。しかし、これは上記の色の表現と同じものがほとんど。

 「朱鷺の羽の色」だから「朱鷺色」、ネズミの毛皮の色だから「鼠色」など、ものへのたとえから出来た色名ネーミングがほとんどです。

 色の名の名詞としては、本来の日本語では「白」「黒」「赤」「青」の四色のみ。白は、日光を全反射する。黒は日光を吸収する。赤は、明るい色鮮やかな色すべて。青はあいまいな、どこにも属しようのない色すべてを表現していました。
 だから、「青毛の馬」というのは、英語で言うブルーではなく「グレイ」、すなわち灰色の毛をした馬のこと。

 現代でも交差点のシグナルを「青信号」と呼ぶと「あれは、青くない、緑色に光っているじゃないか」と、いう人もいます。
 しかし、青は、「白でも黒でも赤でもない色全部」が「青」だったのだ。「萌え出ずる新しい生命」を表現する「みどり」が「あたらしく萌え出た葉っぱ」の色につかわれるようなり、今では「緑色」という色名が確定しました。

 現代のことばで「新しく生まれ出る生命」という意味で「みどり」が残っているのは、「みどりご」という単語のみ。この語も「赤ちゃんなのに、みどりごというのは変だ」と考える人が多くなってきました。

 色に対してのイメージも時代によって変化するし、文化によっても異なります。陰鬱をイメージする「ブルー」もあれば、若々しく新鮮な気分をイメージする「青」もある。

 古代は四つの色の名しかなかったといっても、時代によって色の名はさまざまに名付けられ、現在JIS規格で扱われているだけでも300色以上の色の名前があります。
 あなたは、色の種類いくつくらい言えますか?縹色、紅蓮色、どんな色か、色彩が浮かぶでしょうか。

 「ポケモン」が世にはやって以後、小さな子どもも「紫苑」「縹(はなだ)」「朽葉(くちば)」「あさぎ」などの日本古来の色の名前を口にしています。
 「はなだシティ」「しおんシティ」など、ポケモンに登場する町の名前が、色名から取られているからです。

 しかし、「はなだ色」がどんな色か、「紅蓮(ぐれん)」が何色かを、正確に知っている子どもはあまりいません。生活の中では「桃色」が「ピンク」に駆逐され、「桃色」はセクシーなことばに形容されるほかは、あまり使われなくなりました。また橙色より「オレンジ色」の方が多く使われています。日本の伝統色名はしだいに用いられなくなっている傾向にあります。

 興味がある方、ポケモンの町の名前と英語版ポケットモンスターのタウン名について解説しているサイトがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ua4s-njm/pokemon/poke_usat.html

 解説の例。
 「VIRIDIAN CITY (トキワシティ) トキワは漢字で書くと常磐。松や杉など常に木の葉が緑色で変わらない植物を指す。
 PEWTER CITY (ニビシティ) A stone Gray City (ニビは灰色、石の色).純色と書いてニビいろと読む。見た目の綺麗さとは裏腹に薄墨色を意味する。

 ポケモンのタウンネームから出発して、日本の伝統的な色の名前を知ること、これも日本語言語文化の奥を訪ねる旅になります。色の名がわかり、「かさねの色目」を知り、祖先がさまざまな色合いを楽しんでいたことを理解していくうちに、日本古来のことばの多様さ、広がりを感じることができます。

 「ニッポニアニッポン」と名付けられた色があります。フェリシモ社が売り出した500色の色鉛筆の一色の名です。色鉛筆番号017、PCの色番号 [FFB7C5]の色。ニッポニアニッポンとは朱鷺の学名だということを思い出せば、「ああ、鴇色のことか」と、その美しい色を思い浮かべることもできるでしょう。
 この500色を全部掲載しているサイトがあります。(micmacのHP)
http://www8.plala.or.jp/micmac/Fel500/Fel500.html

 ウェブログハウス春庭は、500色の色の名前をシソーラスにまとめました。
 「500色の色えんぴつシソーラス」500色を42のケースに分類。12色ごとにケースに入れてあります。
 シソーラスというのは、言葉を分類し、仲間ごとにまとめた辞書です。
 一般の辞書が「あ~ん」という五十音順とか、abcアルファベット順にならんでいるのに対し、「気象に関する語」とか、「鳥の名前」などのように、意味べつに分類されている辞書です。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12top.htm

 フェリシモ社の色ネーミング、ひとつひとつがとっても可愛らしく、絵や物語が思い浮かびます。さまざまな想像を繰り広げながら色鉛筆でお絵かきを楽しめるような、色の名前がついています。
 ニッポニアニッポンが鴇色だとして、では、「乙女座宮」色、「ためいきのベール」色、どんな色だと想像します?色を見てみるなら、春庭のショートショートストーリーと共に色のハーモニーをお楽しみください。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12kyuuscorpio.htm 

 古来、生活の中のさまざまな色が、暮らしを豊かに輝かせてきました。
 暮らしの中で、人を呼ぶ名、色を呼ぶ名。日本語の言語文化のなかで、呼び名と色の名をピックアップしながら、言葉と文化について考える「ことばの散歩」をはじめましょう。



at 2004 01/22 11:29 編集
正月色、晴れ着の色、成人女性の色

 新年快楽(シンニェン クヮイラー)!!
 クヮセ アンニョンハセヨ!
 中国・韓国など、旧暦で新年を祝う習慣の国にとって、新暦の1月1日よりも旧暦新年のほうを盛大な祝日になります。

 お祝い気分を盛り上げるための音と色彩は、国により文化によりさまざまです。
 中国では危険という理由で、爆竹を盛大にならすことが禁止されている市町が多いそうです。でも、バンバンという派手な爆竹の音こそ、お祝い気分を盛り上げると、思っている人々も多く、その人たちにとっては無念な爆竹禁止令です。
 中国では、祝い事に喜ばれるのは「赤」。結婚式の花嫁衣装も赤、正月を祝う飾りも「赤」が多用されてきました。

 おおみそか、除夜の鐘のゴーンという響き。行く年への思いをこめて鐘の音に聞き入った人も多いでしょう。
 日本では除夜の鐘は「仏法でいう108の煩悩をしずめるため108回ならす」というので、仏教のお寺はどこもいっしょかと思っていたら、韓国のお寺では除夜の鐘は33回ならすのだとききました。色のイメージも文化によってそれぞれ異なります。

 クリスマスカラーというと、何色を思い浮かべるでしょうか。常磐樹のみどり色。クリスマスツリーに飾る星の金色銀色。同じくツリーにつるされるリンゴ型の赤。サンタクロースの衣裳も赤。サンタ服の赤は、コカコーラ社の新聞広告がそのはじまりだそうです。
 クリスマスカラーというと、「赤、みどり、金銀」でおおかたの意見が一致するらしい。
 キリスト教では、「白=聖、赤=キリストの血、緑=永遠」がクリスマスのシンボル。

 ニュースでは「クリスマスがすぎれば、松飾りも門前に飾られ町はいっせいに正月色に変わりました」「二十日正月も終わり、これですっかり町からは正月色も一掃され人々は日常の生活に戻っています」などと報道されます。
 ここでいう「正月色」とは、「正月らしい雰囲気、ようす」を指し、正月の色・カラーそのものを言っているのではありません。

 では、正月の「色」は何色でしょうか。日本の正月を「カラー」で言い表すなら、何色がイメージされるのでしょう。
 「初日の出の赤」「初詣、神社の注連縄の白い御幣」「松飾りのみどり」「振り袖の娘達の華やかな色すべて」など、人々が正月をイメージする色もさまざまです。

 正月らしさを演出する人々の晴れ着。「晴れ着」の「晴れ」とは、「晴れのち雨」という天気の晴れではありません。
 日常をあらわす「け」に対する非日常、特別な日という「はれ」です。

 「はれ」と「け」は、生活を二分する大切な意味をもち、「け」の日の食べ物と「はれ」の日の食べ物は区別されます。そして、「け」の日に着る服と「はれ」の日の服は、はっきり区別され、けの日に晴れ着を着たり、はれの日に普段着を着ることはよくないことでした。
 はれの日は特別なごちそうを食べ、特別な「晴れ着」を着る、それでこそ晴れの日を祝うことができるのです。

 現在もお正月の「はれの食べ物」は、おせち料理として残っているけれど、お正月に「晴れ着」を着る、という人はだいぶ少なくなりました。
 初詣にいくとき、いつもとちがう特別な「晴れ着」を着て出かけましたか?

 なにか特別なお祝い事「今日は、はれの卒業式」とか、「はれの叙勲祝い」などという時には「晴れ着」を着るが、お正月には特別な晴れ着を着てすごさない、という人も増えてきました。全員がきちんと晴れ着を着て出席しようと心がけるのは、今では結婚式くらいでしょうね。

 正月の装束。紫式部日記に描き出された「実録・平安朝の正月の衣裳」を紹介しましょう。
 新年正月、前年に若宮が誕生してめでたさも倍増の中宮彰子に出仕する装束です。華やかな「日本の色」オンパレード。

 朔日「紅に葡萄染を重ねた重袿、唐衣(からぎぬ)は赤いろ、色摺りの裳(も)をつける」
 二日「紅梅の織物。掻練(かいねり)(袿=うちぎ)は濃き(紫または紅)、唐衣は青いろ」
 三日「唐綾の桜がさね、唐衣は蘇芳(すおう)の織物。」濃い紫または紅の色の掻練を着る日は、紅を中に、紅色の掻練りを着る日は、中側を濃い紫または紅にする」
 「萌黄(もえぎ)、蘇芳、山吹の濃い色薄い色、紅梅、薄色(うすい紫味の赤)」など、いつもの色目をとりどりに六種重ねて、そのうえに表着を重ねる。

 十二単(じゅうにひとえ)というけれど、実際には二十枚くらいの衣裳を重ね着し、どっしりした絹織物の重さは10キロ以上。立ち居振るまいもままならず、お姫様は終日じっとすわっている存在でした。

 上記、紫式部が描写した衣裳のなかに「朔日には色摺りの裳をつけた」とある「裳」は正装時に成人女性がつけた、袴の後ろ側だけに身につけるいわば、「逆エプロン」
 平安時代の女性は、成人したしるしとして「裳」をつけていました。
 少女が成人の祝いとして裳を身に付ける儀式が「裳着」。平安時代は12歳から15歳くらいの間に行われました。裳着と同時に髪を上げる「髪上げ」も行われ、裳を身に着け、髪を上げた女性は成人として扱われました。
 袴の色は、未婚の女性は紫袴、既婚の女性は緋袴をつけるのがきまり。

 平安時代、成人した女性は、お歯黒にします。白い歯では一人前の女性として扱われません。
 女性達は身だしなみとして、鉄分を酢でとかした液で歯を黒く染めました。(時代が下ると既婚の女性のしるしとなります)
 お歯黒液には虫歯を防ぐ役割もあったといわれますが、白い歯は、未熟な女性のしるし。子ども扱い。歯を黒くしてこそ成熟した大人の女性として生活できたのです。
 堤中納言物語の中の 「虫愛ずる姫君」は、お歯黒をすべき年齢になっても白い歯を光らせて毛虫芋虫と遊んでいたので、奇人変人扱いされてしまいました。

 さて、現代で「正月らしい色」「成人女性らしい色」と問われたとき、どんな色を思い浮かべますか?

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.90
(む)紫式部『紫式部日記』(岩波文庫)



at 2004 01/20 19:23 編集
「青い紅玉」は形容矛盾か①(言葉の意味の拡大縮小)

 創元推理文庫とパシフィカ社「シャーロック・ホームズ全集」の両方に阿部知二の翻訳で、「青い紅玉」という短編がある。紅玉は、日本語では一般にはガーネットをさす。
 ティファニーにも銀座和光にも足を踏み入れたことのない春庭が、ジュエリーツツミなどのショウウィンドウを覗いたかぎりでは、ガーネットは赤く輝くルビーのような宝石を指している。しかるに「青い紅玉」とは、どんな宝石なのか。青いのか、赤いのか、どっち?

 と、悩んでみたが、春庭は宝石には縁が薄い。ホームズ探偵が語彙探索を行った結果、コナン・ドイルの原作原題では、「Blue garnet」。青いガーネット、青いざくろ石というのが原題。

 日本ではざくろ石の名で親しまれ、ガーネットといえば赤と思われている。しかし、ガーネットは「ガーネット族」という広い範囲の宝石を指す。その色は赤に限らず、大別するならば、赤ガーネット、緑ガーネットがある。
 赤ガーネット:パイロープ、アルマンディン、スペサルティン。
 緑ガーネット:(グロッシュラー)、アンドラダイド、ウバローバイト。
 ドイルがホームズシリーズに登場させたのは、この緑ガーネット、グロッシュラーの類であったのだろう。
 
 日本語では赤い宝石はどれも「紅玉」。ルビーや、赤いガーネットを紅玉と訳すことは可能だったのだろう。
 阿部知二は、ガーネットを「ざくろ石」と訳さずに紅玉とした。そのために「青い紅玉」というタイトルになった。「青いざくろ石」だったら、ひっかからないのに、紅玉を形容する言葉が「青い」だから、私のアタマは「青いの、赤いの?はっきりして!」となってしまった。

 私が、ホームズも何も関係なく「青い紅玉」という言葉を見たら、紅玉りんごがまだ赤く色づいていなくて、青リンゴのうちにもぎとるのかなあ、などと、想像してしまう。
 芸者になるまえの「半玉」を、まだ熟さないうちに賞味するのは男の甲斐性だったそうだが、私は熟さない紅玉は、アップルパイにも使いたくない。
 はたして「青い紅玉」という表現は、日本語として正統なものであろうか。
 それとも形容している語と修飾されている名詞が矛盾しているのか。「よく晴れ渡った曇天」とか「チビの大男」などのように。

 「青みがかった赤」とか、「赤っぽい青」というのは、色の形容として可能。「青ざめた白い肌」もよろしい。また、「黄色い紅花」は可。紅花は「染料の紅をとるための花」であって、花びらの色は黄色だ。
 「黒い白衣」も、形容矛盾ではない。この場合の「黒い」は、黒色を意味するのではない。古くて洗濯もしていない、汚れて黒ずんだ作業用の白衣が想像できる。
 では、「青い紅玉」は?

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.91
(ド)コナン・ドイル『青い紅玉(ホームズ探偵シリーズ)』(阿部知二訳)

at 2004 01/21 07:43 編集
「青い紅玉」は形容矛盾か②(言葉の意味の拡大縮小)

 「青い紅玉」というのが形容矛盾であるか、可能な範囲の形容であるかを考えはじめた。

 「赤い白墨」「緑色の黒板」などは、被修飾語の白墨・黒板などの、指し示す物(指示対象)が、「もともとの意味から意味の拡大」をしたゆえに、このような「形容矛盾」が矛盾でなく、可能になった。

 もともとは黒く塗られていて黒板という名が付けられた名詞。黒以外に「濃緑」などの色を塗られるようになっても「濃緑板」とは呼ばれずに「黒板」という名称のまま呼ばれた。それゆえ「緑色の黒板」という表現ができる。この場合、黒板は、「黒い板」を指し示す名詞ではなく、「学校などで使用される、文字を書くための板」を意味するので、「黒」という語は、直接色を示す意味を持たなくなっている。

 墨はもともと黒い。しかし黒板に書くための白いチョーク。これを白墨と名付けた。「白い黒い」さらに、赤いチョークは「赤い白墨」。「赤い白い黒い」筆記具である。これも形容矛盾ではない。白墨が墨の一種ではなく、チョークを意味しているから。

 
 「みどりの黒髪」については、日本の伝統色名「白黒赤青」の解説ですでに述べた。このばあいの「みどり」は「緑色」ではなくて、「つやつやとして生まれ出たばかりのように輝いている」という意味。
 
 と、ここまで考えてきたが、やはり私の気分としては「青い紅玉」は、ひっかかるタイトルだ。ブルー・ガーネットの翻訳、今ならそのまま「青いガーネット」か「ブルー・ガーネット」としてタイトルにされるだろう。阿部知二が最初に翻訳したころは、ガーネットという宝石は一般には知られていないことばだったのかもしれない。なぜ「青いざくろ石」ではなく「青い紅玉」にしたのかをたずねてみたいところだ。

 言葉は送り出す側と受け取る側のコード(規約、基準、ルール)が同じ土俵にのっていないと、さらりと同じ意味を共有できない。誤解も生まれる。
 同じひとつの言葉を、異なる意味で二人の人が話していて、双方誤解に気づかないということも起こる。
 言葉には多義語もあれば、譬喩や含意という使い方もある。また、言葉の意味は常に変化する。

 動詞の内容も変化するし、形容詞も変化。変化の方向は、意味がずらされたり、拡大したり、縮小したり。
 現代語で「あの方、あわれよね」と表現したとき、普通は誉め言葉ではない。「あの人は哀れだ」といえば、「かわいそうな同情すべきみじめな存在」と受け取られ「あの人はものごとの情趣を深く感じる人だ」とか「かわいらしく恋しい人」と受け取る人はいない。

 名詞の「指し示す物」の内容も、時代につれて変化する。
 白墨、黒板は、元の意味から指示範囲が広がった例。黒ではなく、緑色に塗られていても、「黒板」と言う。「黒板」という語が指し示す範囲が拡大したのだ。
 拡大する語のほうが数が多いが、意味が縮小する語もあるし、元の意味からずらした意味の方が一般的になる場合もある。

 「房」は、家の中の一つの部屋。部屋を賜って仕事をする宮中の女官や貴族の屋敷で働く女性を意味した「女房」が「部屋を与えられている女」を意味するようになり、やがて家庭の部屋で生活する「妻」を意味するようになった。

 現代では「うちの女房がさぁ」と、話し出したら、それはその人の結婚相手の女性をさししめすのであって、その人のために働いていて個室を与えられた女性を意味するのではない。
 あなたが、妻以外の女性に個室を与えていて、彼女があなたのために働くとしても(主として夜間営業)、一般的にはその人をあなたの「女房」とは呼ばない。「うちの女房がさぁ」と話し出したら、個室の女性ではなく、妻の方を指していると、「世間コード」では受け取るのである。

 一方春庭は、団地2DKに住み個室もなく、台所一室でご飯を食べテレビを見てパソコンして、食事テーブルで試験の採点までやっている。それでも世間からみると「女房」の部類。「女」はもうどっちでもいいけど「房」は欲しいよ。できれば書斎と書庫と寝室と化粧室とお納戸の「房」が。
 ハァ、無理でしょうねぇ。

 意味範囲拡大の例。もともとは武家屋敷の奥の間に居住していた正夫人を「奥方」と呼んだ。公的部門を扱う「表=おもて」に対して、私的部分を取り仕切る「奥」の代表者として存在していた人が「奥方」「奥様」。
 「奥様」と呼ばれる方は、大きなお屋敷の奥の方に住んでいなければならなかったのだ。安普請の家に住んでいて家事雑事をやらせる使用人も使っていない人を「奥様」などとは呼べなかった。

 現在では、私のような、奥も表もない2DKに住まいしていようと、八百屋さんから「奥さん、大根安いよ」と声かけられるようになっている。
 「奥様」「奥さん」の意味する範囲が広がり、「夫を持つ女性」さらに「若くない女性で、既婚者と思われる年代の女性に対する呼びかけの語」へと拡大した。

 自分を指し示す語の意味変化の例。貴人のしもべ、下僕として存在し、自分が心身を捧げて働く人の前で、へりくだった意味で使っていた一人称「僕」。
 現在では「一般的に男子が自分を指し示して使う一人称」になっている。へりくだった意味から上昇したのだ。成年男子でも「ぼく」を使う人は多い。別段まちがいではない。自分はあなたの「下僕」である、という気持ちで使っているのかどうかは知らねども。

  私は、教師の前で一人称を「僕」という男子学生に対して、心の中で「お前は女王様のしもべよ、オーホッホッホ」と思うことにしている。

 春庭、教室で心ひそかに女王様気分を味わったのちは、近所の八百屋で「奥さん、奥さん」と、住まいの奥深いことを讃えられつつ、「ちょっとぉ、その大根一本200円は高いよぅ。二本買うから、二本350円にしなさいよ」なんぞと、「奥」の仕事を仕切るのである。

 意味が拡大したり縮小したり、上昇したり下降したり、ことばが指し示す範囲は、常に変化し、時代によって意味が変わってくる。
 しかし、「青い紅玉」は、現在の私の意識からすると、しっくりせず、形容矛盾のように思われてしかたがない。
 時代が変われば、これも「緑の黒板」「赤い白墨」のようにつかわれるようになるだろうか。いや、ガーネットをざくろ石や紅玉と翻訳してつかうことは、この先減っていく一方だろうから、これからはますます「青い紅玉」を「この玉、青いの?赤いの?どっちやねん」と悩む人が増えていく気がする。<青い紅玉 終わり>




at 2004 01/27 07:34 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)①

 2004年初場所、横綱朝青龍の優勝。ひとり横綱の重責を果たした。
 春庭、初場所十日目の取り組みを両国国技館で観戦した。
 留学生といっしょに江戸東京博物館見学した帰り、両国駅から電車に乗ろうとして、午後4時すぎに突然、ついでの相撲見物を思い立ったのだ。それで、横綱土俵入りは見ることができなかった。

 相撲協会は日本人横綱を作ることにやっきになっているようだ。外人横綱に対して日本の人はあまり温かくない気がする。

 十日目の本場所でも、朝青龍の取組の前に席を立って帰る人たちがいた。
 好き嫌いはあろうとも、横綱の結びの一番を見ないで帰ること、少し寂しい気がする。土俵に近い枡席に座った方々には、あと数分で終わるのを待てないほど時間が切迫している多忙な人たちが多かったのかもしれないのだが、忙しい中、ひいきの力士だけ見に来たというより、露骨に「ガイジン横綱を見なくてもいい」という雰囲気で、そそくさと帰り支度をしているような感じを受けてしまったのだ。

 ひいき力士は、だいたい「ご当地出身」という人も多いので、外国人力士の応援が少ないのは仕方がない。
 せめて、日本語教師春庭は、遠い海の向こうから、土俵めざしてやってきた力士を応援したい。
 どの力士も稽古を重ね、本場所では日々力の限りを尽くそうとしている。
 マワシを締め、土俵に上がれば出身がどこの地だから強いといういうことはない、素質を生かし、稽古に励んだ者が強いのだ。出自ではなく、その稽古で流した汗と涙を応援しよう。

 近頃の力士のマワシの色、昔の黒や濃紺の地味な色合いだったころに比べると、本当にカラフル。オレンジ色あり、エメラルドグリーンあり。スカイブルーあり。
 おすもうさんの肌の色もきれい。グルジア出身の黒海は、色が白くて「白い黒海」であった。(赤い白墨、緑の黒板、白い黒海!!)

 私がすわったひとり枡席は、枡席通路側の三角コーナー。1.5人分くらいの広さなので見やすいし足のばせるし。赤房側花道のうしろ。東側花道を出入りする力士がよく見えた。

 赤房青房は、元々は赤柱、青柱など屋根を支える柱だった。
 屋外に相撲の土俵を作る際に四隅に柱を建て屋根をのせて、周囲とは異なる神聖な場所を作る。注連縄を張り巡らせた神域と同じ。家を建てる際の地鎮祭で、注連縄で地所内に囲みをつくるのもいっしょ。

 「当年の豊作を占い、神意をうかがうための神聖な勝負が行われる場所」として、柱の内側は、周囲とことなる聖域であることをしめしていた。ゆえに「力」を神に示すことをしない女性は土俵にあがってはいけない、というので、大阪知事と相撲協会は折り合いがついていない。

 柱の色が白黒赤青の四色であるのは、「日本の基本的な色の名」がこの四つであったからだが、中国から陰陽五行説が入ってきてからは、中央=黄も付け加わって、色は季節や動物、方位、など様々なものと結びついて、人々の思想や生活に入り込んだ。

 近年は『陰陽師』のヒットで、一般の人も陰陽五行説を意識することが多くなったが、実は無意識の領域にこそ、この陰陽五行説は入り込んでいる。
 古い民俗文化と結びついており、気づかないうちに、陰陽五行説の影響を受けているのだ。

「五行説」=「気」を木・火・土・金・水の五つに分類し、その五つの気の働きによって万物が生じると考える説。それぞれ、次のものと結びついている。

木=青・春・朝・東・龍・鱗(魚)・目・話す声(呼ぶ声)・酢味・肝臓
火=赤(朱)・夏・昼・南・朱雀・羽(鳥昆虫)・舌・笑い声・苦味・心臓
土=黄色・土用・中間時・中央・(龍)・裸(人)・口・歌う声・甘味・脾臓
金=白・秋・夕方・西・白虎・毛(獣)・鼻・叫び声(哭き声)・辛味・肺
水=黒・冬・夜・北・玄武(亀)・貝・耳・うなり声(呻)・しょっぱい味・腎臓

 季節と色を組み合わせると、青春、朱夏、白秋、玄冬という「人生の四季」になる。私?そりゃ、春庭という名のとおり、今は青春でしょう。

 また、古墳に描かれた壁画に「龍、朱雀、虎、亀」が色鮮やかに出現したことがあった。高松塚、キトラ古墳などに描かれているのも、五行思想の動物。
 今は冬だから「亀」が冬の動物。色は黒。方位は北。時刻は夜。声は、うなり声である。不況にそして戦火に呻吟する民の声。

 「土」は中間的な性質を持ち、方位は中央。「土用」は次の季節へ移り変わっていくころ。春土用、夏土用などがあったが、現代では「夏土用にうなぎを食う」ことだけが生活の中に残されている。

 世界の中心に位置すると自分たちの国を「中国」と名付けた国の皇帝は、当然中央の中央に位置するので、衣裳は中央の色である「黄色の布地」で作る。
 黄色の衣裳は皇帝専用であった。そして文様は龍。「黄色い布地に龍の文様」を、皇帝以外の者が着ることは許されなかった。

 また、五行説では五気の循環によって物事は変化するとされる。
 循環の順序については「相克説」と「相性説」の二種類がある。

 「相克説」では木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に勝つものとして“木土火水金”とする。
 「相生説」では、木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生むものとして“木火土金水”としている。

 ゲーム「ポケットモンスター」の勝ち負けも、この五行循環の思想が生かされている。
 たとえば、水ポケモンは火ポケモンには強い。火ポケモンは鋼(金)ポケモンに勝つ。草(木)ポケモンは土ポケモンに勝つ。
 こども達は五行循環なんてこと知らずに遊んでいるが、知らず知らずに五行説が心身にしみこんでいるのかも知れない。

 古代神事の相撲の勝ち負け。東方から登場の力士と西方から登場の力士が力を競い、勝ったほうが豊作になる。あるいは、力によって、悪霊や田にくる悪い虫を退散させる。
 その優れた力業を示すことで人々の生活を安寧にさせ、勝負によって神の意を占う大事な神事だった。また、力士が四股を踏むのも、大地を踏み固め、大地母神を鎮める所作。

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No91
No.91 (よ)吉野裕子『隠された神々―古代信仰と陰陽五行』(講談社現代新書)


at 2004 01/28 07:08 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)②

 モンゴル相撲「ブフ」では、力士には神霊が宿っているという古い信仰が今も生きており、その所作にも、強い動物の霊魂が込められている。

 1月10日の横綱戦。立ち会い前の土俵上。朝青龍の所作に、私は「鷹の舞」を見た。NHKテレビが、このモンゴル的な所作を放映したかどうかはわからない。少なくとも私は、これまでテレビではこの所作にまったく気づかなかった。

 土俵上の東方西方の力士が四股をふみ、土俵両脇に蹲踞する。次に、両手を大きく広げる所作。「塵を切る」というそうだ。このとき、朝青龍は、両手をひろげたあと、何度か腕を羽のように動かした。鷹が翼を広げるときのような「塵を切る」所作。
赤房下で、横綱が塩をつかむときの目は、獲物を狙う鷹の目の鋭さ。

 私はテレビでしかモンゴル相撲も、見たことがない。「鷹の舞」も、無論テレビでのモンゴル相撲紹介でちょっと見ただけ。
 実際のモンゴル相撲の横綱土俵入りで、どのような所作なのか、生で見たわけではないが、朝青龍の両手がひろげられたとき、「鷹の舞」の力強く美しい所作が含まれているように感じたのだ。

 今回、生で見てよかったと思うことのひとつに、日本で横綱になった朝青龍が、モンゴルの魂をしっかり示していたこと。

 習慣文化の異なる日本の相撲社会になじむのはたいへんだったろうが、日本の社会に同化してしまうだけでなく、同時にモンゴル出身の誇りも失って欲しくないと思っていた私にとって、朝青龍の所作から感じ取れた「鷹の舞」などのモンゴル所作は、美しいものに思えた。

 「大相撲の伝統」を狭い意味に解釈し、朝青龍のモンゴル的な所作や行動をとがめる人もいるかもしれない。しかし、現在私たちが知っている「大相撲の伝統」とは、ほとんどがたかだか百年の歴史、明治以後の改革によって「伝統」とされたものにすぎない。

 標準日本語は、明治になって官制として作り上げられた言葉であった。神前結婚式は、大正天皇の結婚式を真似てはじめられたものである。
 これら、私たちが「昔からの伝統」と思いこんでいることの多くは、近代日本を作り上げる過程で、取捨選択がなされ、改変された「伝統」である。

 たった百年前に始められた「伝統」しか知らず、太古からの日本の「本当の伝統」をないがしろにするのはよろしくない。

 大陸の東はじ、太平洋の西はじに位置し、花綵(はなづな)列島と呼ばれる島国の国土。黒潮親潮にのってやってきたあらゆる文物文化を消化し取り入れてきた。

 漢字を取り入れて「ひらがな」を作り出し、自国語を表記するのに適した音節文字として適応させた。五行思想を取り入れれば、現代のコンピュータゲーム、ポケットモンスターにまで、その影響が残る。

 縄文文化以来、われわれの文化は、常に新陳代謝を繰り返しながら新しく生まれ変わっていくのが「真の伝統」なのだ。

 1年の行事でいえば、元旦に新しい「年神さま」を迎えてすべてをリセットする。若水を汲み、初日を拝めば、新しく生まれ変わることができるのだ。去年までの古い年を入れかえ、新しい年をひとつ加えるというのが正月行事であった。

 陰暦では、正月にみながいっせいに年を加えたのは、正月の「リセット新生」を自分の年齢に加える必要があったから。

 今の満年齢では、誕生日に年が増える。皆がいっせいにではなく、365日それぞれのリセット新生なので、リセット気分も小粒になる。世の中すべてがいっせいに新生するなかでの自己再生のほうが、壮大なリセットだった。

 子供のうちは、毎年誕生日がやってくるのを心待ちにしていた人も、中年すぎれば、忙しさに紛れて自分の誕生日も忘れてすごしてしまう。たまに鏡をしみじみ見たら、白髪がふえ皺が増え、年を重ねていたことを知る。毎日の代わり映えしない日常の中に、せっかくの誕生日もまぎれてしまうことになる。

 日常生活は、たいてい毎日同じことの繰り返しだ。同じ電車に乗って、同じ場所で仕事。家にかえれば、毎週同じテレビ番組をみて、、、。
 同じことを繰り返すと、日常がすり切れてくる。そして、同じことの連続のため、人生時間の中に、同じ澱が溜まってくる。

 日常を「ケ」といい、「ケ」の対極にあるのを「ハレ」という。「ケ」が連続してつづくと、日常の澱がたまり、「ケ」の生命力が枯れてくる。これが「ケ枯れ」の状態。

 ケガレが大きくなると、悪いことも重なるから、ケガレは清めなければならない。このために人は「身をそそぎ=禊ぎ」を行う。1年の連続で「ケ」が枯れた年を、新年行事でリセットする。「ハレの日」を設けて、祭りや神事をおこなって、ケガレを払う。

 水垢離やら滝行、海につかって心身を清める「禊ぎ」も、心身リセットのひとつのやり方である。
 「ミソギ」とは、政治的に失敗した代議士が、ほとぼりさめるのを待って再出馬するための方便用語ではない。人生のケガレを払い、生き生きとした日常を取り戻すための行事なのだ。

 成年行事(文化人類学でいうイニシエーション儀礼)も、年を加えたことで人生の別の階梯へ移る「生まれ変わり」の儀式だ。子供の時代をリセットし、成年として生まれ変わる。

 縄文時代は、この成年儀礼イニシエーションとして、身体に入れ墨をいれたり、歯の一部分を削ったりした。部族により、入れ墨の文様や歯のどの部分を削るかが決まっている。世界には、これらの儀礼を大切に守り続けている民族も多い。
 書いたり消したりあそび半分の「タットゥ」などとは意味が異なる。

 わが青春の地、ケニア。マサイ族は、かって「ライオンを一頭自分の力で倒したら一人前」という成年儀礼をもっていた。ライオンの数が減少し保護動物となったため、もはや行えなくなった。
 また、洞窟にこもり、真っ暗ななかで数日をすごし、穴からでてきたときが「再誕生」という儀礼など、さまざまな成人儀礼が世界各地に残されている。

 多くは、なんらかの苦痛や鍛錬を伴って、自らの肉体の力が十分成年として仕事ができることを示し、鍛錬された心を示すことによって、成年儀礼が完成した。

 何の鍛錬もしてこない嬢ちゃんや坊やに対して、いくら自治体が「20歳すぎたから今日からあんたは大人」と言ってやっても、大人になれないのは当然のことだ。

 その点、大相撲に入門した若者は、料理当番、挨拶言葉遣い、所作振る舞い、書道まで、相撲学校や各部屋できっちり指導を受ける。

 かって、若衆宿・娘宿などは、村ごとに若者を鍛え上げる「成人するための学校」であった。明治以後、この「村ごとの教育制度」は、「近代国家成立のための近代学校制度」によって、駆逐され廃止されていった。官制の学校だけが「子供を教育する機関」になってしまったのだ。

 この制度が、今「金属疲労」にきしみ始めてきた。音を立てて崩壊していく学校もある。全国一律カリキュラム、どの学校も硬直した「右へならえ」しかできない教育。

 かって、村ごとに特色ある「若者の鍛え上げ」が行われた。ある地方では、祭りの御輿をかついて走ることが心身の鍛練であったし、ある地方では鬼剣舞の練習が、訓練として課せられた。ある地方では「ばんえい競馬」に出場するための努力が若者を成長させた。何らかの「自分を鍛える努力」を必要としない民族はない。

 相撲部屋の「スパルタ式」が全面的にいいと言っているのではない。しかし、厳しい鍛錬をやりぬいて己の肉体を鍛え上げた力士たちには、最近の若者からは失われた目の輝きや肉体の美しさがある。   
 
 百年前からの伝統だけでなく、四百年前のことも、千年前のことも、私たちの生活に生かせるものは生かしたらいい。

 そして、モンゴル相撲の技も韓国相撲の技もとりいれて、強くなっていったらいい。
 多様さは、硬直した「ケ枯れ」を救う。同じことだけを続けていることのケガレをリセットして、新しい生命力を得るためには、「常に新しいものを取り入れ、自身をリセットしつつあたらしいものを生みだしていく」というのが、我々の「一万年」の伝統なのだ。
 
たかだか百年の伝統に、一万年の伝統が押しつぶされる必要はない。


at 2004 01/29 12:26 編集
青房赤房、力の色(伝統と変容)③

 新しいものをとりいれ、常に新陳代謝を繰り返すことによって、新たな生命力を得ている日本の伝統について紹介してきた。

 近頃の芸能界でいえば、トップスターをつぎつぎと交代させ、新スターを生み出す宝塚方式。今年は安倍なつみがソロになり、つぎのメンバーがまた入るかもしれないモーニング娘。方式、である。

 ときどき新陳代謝をはかり、本質を変えることなく、新しいものと入れ替える。本質は変わらないといえども、内容はしだいに変わる。

 ピカイアから人間までDNAの本質は同じ。地球の脊椎生物は共通のDNAを持っているというが、ピカイアと人間じゃ大きな変化をとげてきた。
 なぜ、ピカイアは進化したのか。DNAを後代に伝えるのが生物の生きる目的であるなら、単細胞生物が自分の体をふたつに割って、分裂でDNAを残すのが一番効率のよい方法であった。

しかし、生物は雌雄ふたつが合体し、互いのDNAを混ぜ合わせる方法を選んだ。同一のものの繰り返し分裂ではなく、多様なものがぶつかり合い、いっしょに混ぜ合わされた方が、いい子孫を残せたのだ。

 植物栽培でも、自家受粉を続けているといい種実がとれなくなる。動物はなおさらだ。多様な組み合わせ、多様なものの取り入れが、新陳代謝をよくする。

 変わらない芯を残しつつ、変化を遂げるのが進化であり、歴史である。伝統とは、このような「芯と変化」でできている。

 日本語に関しては、縄文語以来、本質に変わらないものがあるとして、発音、語彙とも大きく変化を遂げてきた。

 標準日本語は、明治政府の方針で作られた。「全国で使用できる教科書を普及させ、ほとんどの一般庶民やいっぱんの家庭の子供達が天皇の存在をまったく知らない、という現状を変えなければならない。全国の人々が等しく天皇を知り、尊敬するようにしなければ、ならない。さらに徴兵制度によって集められた兵士が共通のことばを話すことができるように」という緊急の必要によって、作らせたものだ。

 長い間「標準語が正しい言葉、方言は田舎臭いよくない言葉」という指導がなされ、戦前など教室で方言を使った児童に罰が与えられた、ということもあった。しかし、現在では方言の価値が認められ、方言による言語作品も評価を高めている。うれしいことだ。

 国語制定の過程については、さまざまな研究書も出版されているが、楽しく読むなら、次の本をおすすめ。標準語制定の裏事情、てんやわんやの舞台裏を描いた作品。

☆☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.92
No.92(い)井上ひさし『国語元年』


青房赤房、力の色(伝統と変容)④

 相撲も、たかだか百年の歴史を「大相撲の伝統」などと思いこまないほうがいい。
 もっと多様に力の限りを示すことだ。力技を示すことが、人々の心の安寧を祈念することに通じていた神事以来の「力の伝統」を認めてもいいではないか。
 朝青龍は、モンゴル的な横綱でいてよい、と私は思う。

 多様な力があり、多様な色合いがある、これが真の「日本の伝統」である。
 全員を同じ色に染め、一致団結打倒○○、と突き進むばかりが国益ではない。これまでの歴史が教えるところでは、一致団結して同じことばを叫び、一斉に同じ方向を向いて走り出したとき、この国の行く末は必ず暗いものとなった。

 一斉に同じことをやるというのは、この国の真の伝統ではない。多様さを認め、さまざまな文物を取り入れ消化していくことが、この国のやり方だった。

 どこかの大国がやれと言うから、言われたとおりに尻尾を振ってついていくというのは、「力」の表し方として、もっともまずい方法であろうと思う。

 ブフ(モンゴル相撲)について。
 モンゴル民族は非常に広い地域に分布しているため、その地域によって方言や風俗習慣などが異なる。
 ブフも、威容を誇る鷹の舞で有名なモンゴル国のハルハ・ブフ、勇壮なライオンの跳躍で入場する内モンゴルのウジュムチン・ブフ、そしてオイラート・モンゴルに盛んな種牡牛の角突きを模した古典的なボホ・ノーロルドンなど、バラエティ豊かなブフが存在する。ウランバートル出身の朝青龍は「鷹の舞」が横綱の所作。

 いずれのブフでも、その身体表現には猛禽や猛獣、強いイメージのある種畜(種馬、種駱駝、種牛)の動きをかたどったものが多く、伝統的な遊牧、牧畜の生業形態との密接な関係がある。

 ブフは古来信仰されてきたシャマニズムとも深く関わっていて、祭祀における力士の身体表現は神霊ないしその憑依として認知される。一般的に力士の身体自体、効験があると信じられているほか、シャマニズムの最高神としてのテンゲルに「~ブフ」(力士)の名前を持つ天神がいることからも、力士はきわめて特別な存在としてモンゴルでは尊敬を集めている。

 ブフが近代スポーツへ脱皮していくなかで、そうした象徴的意味と儀礼性が次第に失われてきているが、土地神を祀る宗教的行事・オボ祭りでは依然としてその原型は残されている。
 
 日本の大相撲でも、近代スポーツとして再編成された明治以後、力士の力への信仰は失われてきたが、地方巡業場所などで、赤ん坊を力士に抱き上げてもらったりする親がいることに、力士の強い身体と心を分けてもらおうとする親の心が感じられる。

 今回、春庭が赤房側でみた、大相撲初場所十日目。人気の高見盛は負け、綱取場所といわれた栃東も負けたが、横綱朝青龍はモンゴル相撲の大横綱「バットエルデン」が得意としていた「つりおとし」で勝った。琴光喜を大きくつり上げてから投げ落とす豪快な技だった。

 この朝青龍の「つりおとし」を「大相撲伝統のつりおとしではなく、変則的な技」などと評する「相撲通」もいるらしい。しかし、朝青龍は、反則をして勝ったわけではない。彼らしい形のつりおとしを決めたのだ。それがこれまでの「つりおとし」とは少し型がちがうものであったとして、「青龍つり」とでも名前をつけて、登録すればよい。

 日本語がどんどん変化し、平安時代の日本語とも江戸時代の日本語とも違うことばを話しているからと言って、私たちが現代話していることばは、「伝統的な日本語じゃない」ととがめられることもない。現代は現代に通じる日本語を話していればよい。

 現代の日本語に方言があったり、中国語や朝鮮韓国語訛りの日本語があったり、それはそれで多様な日本語の表現が楽しめる。

 相撲の技も、四十八手を狭くとらえることはない。四十八それぞれにバリエーションがあって、百手でも千手でも、強い技を土俵の上で披露して欲しい。

 春庭、四十八手を全部使いこなせないうちに土俵から遠ざかってしまった。春庭の得意技。がっぷり四つに組んでから、組んずほぐれつ、寝技あり、手技あり。
 対戦相手の「有効」「効果」などの技が決まれば、「ああ、いい!」と、その優れた技を褒め称えることも忘れず、新たな技も開発してきたが、最近新しい技の開発に協力者がなくて、残念である。
 年取ったといえども、引退したつもりはなし。ただ、あらたなるフロンティア開発のためには、ちょっと心身がおとろえたのかも。

 やはり「心・技・体」の三つを常に鍛えて、力の限り頑張らねばならぬですなあ。
<青房赤房、力の色終わり>


春庭のスプリングガーデニング
「いろいろあらーな、がいい 花の色、色の名前」
(2004/03/22)

 ガーデニングが趣味の方々、とっくに春の庭の手入れは始まっているのでしょうね。
 春に花を咲かせるためには、冬のさなかから様々な準備が必要なことでしょう。

 春庭は、庭のない住まいに20年も住み続けており、ベランダに出した花の鉢もなぜか全部枯れてしまう、ガーデニング不向きな人間です。
 それでも、花と散歩が好きなので、散歩しながら花でいっぱいのお庭を見せてもらったり、公園の花壇を眺めたり、よその家の庭の木が花咲く日を楽しみに待っていたり。
 団地内の白木蓮がまっさきに咲き、ぼけの花が咲き、見渡せば、さまざまな色が一度に目にはいる季節になりました。

 「色」が大好き。草木染めや「かさねの色目」を眺めてすごすのも好き。いろいろな色が好き。実際の土を掘り起こしてのガーデニングは出来ないけれど、植物図鑑や色の名前を見ながら、いろんな植物を楽しむのが好き。

 『色の手帖』に記載されている日本の色の名前のなかから、春のガーデニングに合う色の名前や花をもとにした色の名前を紹介します。

1,赤系の和色名
紅梅色=紅梅の花のような色
桜色=桜の花びらのような色、ごくうすい紫みがかかった薄い紅色
桃色=桃の花の色。本来は「桃色」と「ピンク」は、極近いものの、別の色であったが、近年は、「ピンク」が色の表示としては優勢。
薔薇色=薔薇の花のあざやかな赤。
つつじ色=赤い躑躅の花の色

2,黄系の色の和色名
山吹色=山吹の花のようないあざやかな赤みの黄。
タンポポ色=蒲公英の花びらのような、あざやかな黄。
菜の花色=アブラナの花のような色。明るい緑みの黄。

3,緑系の和色名
若緑=みずみずしい緑色。特に松の若葉の色。うすい黄み緑。
若竹色=その年に生え出た若い竹のような色
萌木色=目が出たばかりの草木の色。萌黄(もえぎ)は同色だが、萌葱(もえぎ)は若いねぎの色で別)

4,青系の和色名
わすれな草色=foget me notの訳語。勿忘草の花のような明るい青。
かきつばた色=杜若の花のような鮮やかな紫みの青

5,紫系の和色名
藤色=藤の花のような明るい青紫。
すみれ色=菫の花のようなあざやかな青紫。
なでしこ色=撫子の花のようなやわらかい赤紫

 これ以外にも、外来語の色名。花の色がある。ローズピンク、バイオレット、ゼラニウム、ブーゲンビリア、ヒヤシンス、ポピー、マリーゴールドなど。

 さまざまな色彩があふれる春。咲き誇る花たち、いろんな色を目にしながら散歩を楽しんでいます。

春庭今日の一冊No.113
(な)永田泰弘『新版 色の手帖』

ぽかぽか春庭「藤色乙女ーたけくらべ若紫その他」

2008-11-16 11:26:00 | 日記
ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(1)藤色乙女」 at 2004 05/24 00:41 編集

春よ老いな藤によりたる夜の舞殿ゐならぶ子らよ束の間老いな(与謝野晶子『みだれ髪』)

 春も往きすぎるころ、藤の花が夜目に浮かぶ舞殿に、奉納の舞いを披露する華やかな衣装に身をつつんだ乙女達が居並ぶ。春よ、老いてすぎてゆくな。今この若さをひとときとどめて、藤の花と乙女らのあでやかさを老いさせずにいてほしい。

 藤色=藤の花のような色。明るい青紫。
 「藤色」が色の名前として使われるのは、江戸期以後。平安時代の服飾に「藤」という言葉がでてきたら、それは「襲(かさね)の色目」の種類として。
 「藤重(ふじかさね」は、表に薄色(薄紅=紅花を用いて染めた薄い紅色)、裏に萌黄色を重ねたもの、また、表に淡紫、裏に青、など、数説がある。

 江戸期に、裕福な町民が色々な染め物を手にできるようになってからも、幕府はたびたび奢侈の禁令を出した。高価な紅花を使った紅梅色や紫根染めの本紫は、江戸初期から庶民が着ることを禁止されていた。
 それでも町民たちは、表には地味な黒や茶を用いて禁令を守り、裏地に色鮮やかな紅色や紫色を配色したりして、おしゃれを楽しんでいた。

 「藤色」も、江戸前期から愛好されるようになった。藤色には「藍藤」「紅藤」があり、澄んだ色合いを出すには、藍と紅花を用いて染める。
 しかし、庶民は高価な紅花染を使う本染めよりも、蘇芳(すおう)と鉄分をつかって藤色を染め出す代用染めで「藤色」の華やかさを楽しんだ。

 5月4日、藤まつり最中の亀戸天神へ出かけた。あいにくの強風。お天気も今ひとつだったし、5月9日まで藤まつりをやっているとはいっても、盛りはとっくにすぎているだろう、という予想の通りだった。
 藤の花は盛りを過ぎてはいたが、心字池にかかる橋のわきに、わずかに細々した藤が房をたれている。いかにも、「私たち、盛りにのりおくれてしまって、しょぼくれています」みたいな風情。
 でも、いいんです。盛りをすぎた藤を見にきたんだから。

 境内の出店で、カルメ焼きが焼き上がるのをしばらく見ている。なつかしいので、ひとつ買う。なつかしがる大人には受けるけれど、今時の子供達には、ケーキやクッキーのほうが喜ばれるだろう。人気お菓子の盛りをすぎたカルメ焼きをかじりながら、盛りをすぎた藤の花をながめている。

 池の面に映る盛りすぎの藤と盛りすぎた女の姿を、亀が泳いでかきまぜる。藤の姿も女の姿も波紋にゆれてくずれる。
 草臥れた女と盛りをすぎた藤の花。時代遅れのカルメ焼き。齧ったカルメの粉が強風にとび散る。なんだかいっそうわびしくなる。

 ゴシックロリータ(略してゴスロリというそう)のコスチュームプレイを楽しむ少女たちが、池の周りで写真を撮りあっている。「ゐならぶ子らよ束の間老いな」と、心に思うが、やがてこのゴスロリ少女たちも老いを迎えるときが来る。藤の花は毎年咲き誇るが、少女は少女のままでいることはできない。

 月日は流れ、舞殿に華やかな衣装を競った乙女達も、ゴスロリコスチュームの少女たちもやがては老い、枯れ藤となる。<藤色続く>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(2)芭蕉の藤の花」 at 2004 05/25 06:24 編集

 今は草臥れた盛りすぎの女も、40年まえは初々しい女子高校生だった。
 「草臥れて宿かるころや頃や藤の花」
 この芭蕉の句をめぐって、高校の古文の教師と論争したことがある。40年近くも昔のこと。

 句の作者、芭蕉の名は知っていたが、古文の教科書に他の俳人の句と並べてあった「くたびれて、、、」の句が、芭蕉の『笈の小文』の中にある句だということも知らないし、『笈の小文』の句として確定する前は「ほととぎす宿かるころや藤の花」というものだった、ということも知らなかった。

 「教科書に掲載されている句からひとつ選んで自分の解釈と感想を書きなさい」という課題が出されて、私は「草臥れて、、、」の芭蕉を選んだ。

 田舎の女子高校生だった、私の感想文。以下のようなことを書き記した。
================
 芭蕉は旅に出ている。歩きつかれて、やっとの思いで今日の宿場町にたどりついた。春も盛りをすぎようとしている。日中は思いのほか暑さも増してきた。
 朝、出発してからの道中、風景も凡庸だし、矢立で一句をしたためようという気も起こらない一日だった。

 やっと今日の宿場町が見えてきた。この宿場町には、花木一本すらない。風情に欠ける土地だ。あまり綺麗な建物とはいえない宿。
 宿のまえに藤棚がある。ひょろひょろした藤の木が数本。
 棚から下がる花房は、ほとんどが花期をおえていて、干からびたような褪めた花房が垂れている。

 中に一本だけ、なぜか花期がおくれた木がある。日当たりがそこだけ悪かったのか、その一本の木に申しわけなさそうに、小さな花房がいくつか下がっている。そこだけ、ほんのり藤色に染まった空気。

 芭蕉は疲れ切った気分で目を上げる。花期を終え白っぽく縮んでいる花房の陰に、小さな藤色をみつける。ああ、まだ咲いている花がある。芭蕉は弟子に笑いかける。
 疲れがとれたような気がする。藤棚に残った小さな花房が、歩き続けてここへたどり着いた自分を歓迎し、賞揚してくれているような気がする。
 宿へ入ろうとする弟子に声をかけ、矢立を取り出す。芭蕉の一句。
 「草臥れて宿かるころや藤の花」
==============
 こんなふうな自分の解釈と感想を古文の時間に書いて提出した。<藤色つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.120
(ま)松尾芭蕉『笈の小文』

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(3)」 at 2004 05/26 10:20 編集

 次の授業で、古文の教師は「こういう勝手な解釈じゃ駄目だ」という見本として私の感想文を読み上げた。

 「芭蕉は、宿場町のきたない小さな宿に宿泊したのではない。地方地方の俳諧仲間の裕福な友人や支援者の家に泊ることが多かった。
 また、俳諧で「藤の花」といえば、今を盛りの花をさすのだ。もし枯れかけた花を出すのなら、そういうことばがあるはずで、盛りをすぎた花という文言がないのだから、勝手に盛りを過ぎているなどと解釈してはいけない、というような教師の解説だった。

 「なぜ、盛りをすぎた藤と思ったのか」と質問されたので「くたびれて」という言葉の響きと「草が臥している」という漢字の当て字が、いかにも花がくたっと干からびて盛りをすぎたようすに思えて、「くたびれて」の初句が、二句三句まで続いていくような気がしたから」など、自分の考えを述べた。
 しかし、教師に逆らう意見を述べる生徒は、単純に「生意気な生徒」でしかなく、駄目なものはダメとしか受け取ってもらえない。

 古文教師に否定はされたが、私は自分の解釈がまずいとは思わなかった。確かに「俳諧解釈の決まり」には合致しないのかもしれなかったが、私は私が思ったとおりに受け取ればいいや、と感じていた。今でも俳句を観賞するとき、自分の現在の気持ちや環境によって、そのときどきに俳句を受け止める。

 「正しい解釈」ひとつだけが正解で、あとは「×」など、一昔前の入試問題正答でもあるまいし。
 文芸作品、生み出されたあとは観賞する読者の心しだい。作品を味わうのは、作者と読者の共同作業なのだ。
 
 厳密な学問的な解釈をよしとする教師には、私の「草臥れて、、、」解釈は、「もの知らぬゆえ」の誤読とされる読み方だったかもしれない。
 しかし、どの作品も、私は私の感受性で読んでいくしかない、という考え方は、高校生のときも今も変わらない。

 以下、『たけくらべ』と藤色について、私なりの読み方。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(4)藤色半襟と翠」 at 2004 05/27 08:15 編集

 明治の吉原。樋口一葉『たけくらべ』の中に描写される、ヒロイン美登利の登場シーン。くっきりとあでやかで、少女ながら粋な姿である。

「柿色に蝶鳥を染めたる大形の浴衣きて黒繻子と染分絞りの昼夜帯胸高に、足にはぬり木履」(柿色に大きな蝶や鳥の模様を染めた浴衣を着て、黒じゅすと染め分け絞りの「昼夜帯」という流行の帯を胸に高く締めて、足には塗りのぽっくりを履いている。)

 しかし、生国の紀州から、大黒屋遊女として全盛だった姉をたよりに上京してきたばかりのころの美登里は、やぼったい姿の少女だった。
 「はじめ、藤色絞りの半襟を袷にかけて歩きしに、田舎者いなか者と町内の娘どもに笑はれしを口惜しがりて、三日三夜泣き続けし事も有りしが、、、」
と、一葉の筆は描き出す。

 紀州育ちの美登利にはおしゃれに思えた「藤色絞りの半襟」を袷にかけて歩くことが、吉原近辺の女たちには「田舎もん」の装いに見えた。勝ち気な美登利は、それを悔しがって三日間泣き続けた。
 田舎の少女にとって、藤色はせいいっぱいのおしゃれな色として、東京の華やかな町にふさわしいと思えたのに、東京色町の「粋な色」とは認めてもらえなかった。
 
 服飾史に詳しくないので、明治期の東京吉原近辺で何が「粋な色」とされ、何が「野暮ったい色」「田舎もんの服装」とされていたのか、私にはわからないのだが、「藤色の半襟」を田舎ものと笑われて悔し泣きする美登利の描写、ほほえましく、東京に慣れた美登利が下町の女王様のように振る舞うのも、この時の涙の代償のように思える。

 美登利が密かに心寄せる信如。ある雨の日。信女は下駄の鼻緒を切らして困っている。
 鼻緒をすえるためにために美登利が持ち出したのは「紅入り友禅」
 結局受け取ってもらえなかった紅葉模様の紅入り友仙の端切れ布。紅色の模様は雨に打たれたままになる。

 田舎育ちを象徴する「藤色の半襟」と、成就せぬ初恋の友禅の紅。ふたつの色が、「たけくらべの色」として印象に残る。

 しかも、初恋の相手の信如、名字が「藤本」である。美登利という名は、生まれ出たばかりの輝きの中に生い立つ「みどり子」の響きを内包しつつ「美しさによって登っていき利益を得る」という漢字からのイメージも感じさせる命名である。

 それを考えると、美登利が密かに幼い純な思いを寄せる相手の名に「藤」の色を連想させる効果も、一葉は計算したのではないかと思いたくなる。
 これも、厳密な文学研究の立場からいうと、証拠もない勝手な解釈になるのだろうが、何かまわない。私は私の読み方を楽しむ。

 藤色。若紫の少女。純朴で、言葉にも紀州訛りが残っていたあどけない美しさを表す色として、一葉は美登里の半襟に藤色を装わせたのではないか。
 萩の舎で源氏物語の講義をしたこともあるという一葉だから、「藤」の色合いに特別な思いをこめたのではないかと、想像している。

 明治の衣装風俗を写した文章は、尾崎紅葉ら男性作家の文章にも、着物や帯の色柄、髪型、持ち物に至るまで精妙な描写がある。が、一葉が描写する着物や髪型に、女性作家の繊細な感覚を感じる。

 両親は甲州の田舎生まれだった一葉。
 和歌の塾「萩の舎」に集う華やかな色とりどりの晴れ着の中で、両親が用意してくれた黄八丈の古着を着て、感謝しつつも身を縮めたようにすごした一葉。

 何不自由ない令嬢たちの間で、和歌を詠むことにかけては、負けたくないという自負をかかえて、緊張してすわっている一葉。
 少女から成長していく一葉の周囲には、華やかな色彩があふれていた。その中で、一葉は自分の色彩感覚をみがいていく。<藤色つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.121
(ひ)樋口一葉『たけくらべ』

ポカポカ春庭の人生いろいろ「藤色(5)」 at 2004 05/28 07:24 編集

 藤色半襟の少女は、田舎臭さを洗い落とし、色町の色になじんでいく。
 売れっ子華魁の実の妹であり、やがては美登利自身も華魁となるのだと、まわりの者は皆知っている。美登利自身も、いずれは「吉原の女」として生きていくしかない自分の身の上を知るときがくる。

 お祭りの夜の子ども同士の争いの中で「何を女郎め、姉の跡継ぎの乞食め」と悪口を言われて、悔しがる美登利。悔しさに唇を噛みながらも、胸のうちでは「お前のお世話にはならぬほどに、よけいな女郎呼ばわりは置いてもらいましょ」とタンカを切ることもできるのが祭りのころの美登利だった。

 しかし、「よけいな女郎呼ばわりは無用」と悪童どもに対抗できるのは、美登利が人に心寄せることの哀しみを知らず、少女の姿を変えなければならない悲哀を知るまでの、束の間の特権にすぎなかった。

 三の酉でにぎわう大鳥神社。この日の美登利は、もはや少女の装いではなかった。
 「憂く恥かしく、つつましき事身にあれば、」という出来事が美登利の身の上に起こる。
 これを境に、少女は少女の姿でいるのを許されず、大嶋田を結った「京人形」となることを求められる。

 「初々しき大嶋田を結い、綿のように絞りばなしふさふさとかけて、鼈甲のさし込、総つきの花かんざしひらめかし、何時もよりは極彩色のただ京人形をみるように思われて」
と、美登利は変身する。「藤色半襟」の少女は、「極彩色の京人形」になっていくのだ。

 従来「憂く恥かしく、つつましき事」は、美登利が初潮を迎えたことをさすのだ、という解釈が多勢を占めていた。高校の教科書などで読解するときは、今でも教師はこの解釈を生徒に教えているのではないか。

 しかし、佐多稲子の読解が発表され、一葉研究に大論争が起きた。
 「嶋田は結婚した女の髪型。色町で大嶋田を結ったということは、美登利の身に水揚げがなされたということ。初店をすませ、正真正銘の吉原の女になったことを意味する」と佐多稲子はいう。(1985/5「群像」に発表1985/10講談社刊「月の宴」所収)

 前田愛ら、研究者は「初潮説」をとり、瀬戸内寂聴ら、作家は「水揚げ=初店説」を支持する人が多い。

 私は佐多説にひかれる。
 一葉の色彩感覚を考えるとき、美登利の身の上の変化が「初潮をむかえたこと」であるなら、変化後の美登利を「極彩色の京人形」と形容しないのではないか、と思えるからだ。
 華魁すなわち「きらびやかな人形」としてこの先を生きていくしかない女へと身を変えた姿を、一葉は「極彩色の京人形」と表現したのではないか。

 共にすごした遊び仲間から「好いじゃあ無いか、華魁になれば、己れは来年から際物屋に成ってお金をこしらえるがね、それを持って買いにいくのだ」と、みなされている美登利。
 美登利が大嶋田に髪型を変えたことの意味を、皆知っていたからこそ、これまでは遊び仲間だった娘に対して「金を作って、買いにいく」と言うのであろう。

 華やかに装って「買われる者」として生きていくしかない哀しみを背負うた女への変身であるからこそ、一葉は「極彩色」と描写し、「人形」と形容しているのだと感じるのだ。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(6)若紫」 at 2004 05/29 10:50 編集

 少女の身から「女戸主」として立っていかねばならなかった一葉。夢見る少女でいるだけではすごせなかった生い立ち。没落した一家を背負い、母の愚痴や妹の繰り言を聞きながら、日々のたつきを算段しなければならなかった一葉。
 少女が自立していくことの何たるかを知っていた一葉ならば、単に初潮を迎えたことをもって「京人形のよう」になるとは形容しないのではないかと思う。

 源氏物語の若紫の少女が、どのように少女であることをやめさせられたのか。
 光源氏にとって、若紫の少女は、父帝の后の姪。密かに愛する人藤壺にそっくりな少女を、源氏は自分の思い通りに育て上げる。そのうえで、まだ幼さの残る少女に対して「世には知らせぬ秘密の結婚」を強行する。
 源氏にとっては「内輪ではあっても、『三日の餅』など正式な形を整えた結婚」と思う。しかし、少女の側から見れば、父とも頼み信じ切っていた人からの、思いも寄らぬ仕打ちである。

 恋文のやりとりを続け、相手を迎え入れる意志を伝えてからようやく通い婚へと進むのが一般的であった平安時代。光源氏の紫の上への仕打ちは、少女の意志をかえりみず、「金を出し養っている側」からの一方的な結婚である。少女を人形のように扱っているにすぎないとも言える結婚であった。

 源氏を愛読した一葉である。藤色半襟の少女から、極彩色の京人形へという形容変化の意味を考えると、佐多稲子の解釈に説得力があると思う。

 少女の純朴を象徴するような「藤色半襟」も、それを東京の水でしだいに洗っていく美登里の姿に重ね合わせるとき、少女が成長していく哀しみを描き出している色であるように思えてくる。

 一葉が美登利に託した心を感じさせる色の選び方と思うのだ。<藤色つづく>

ポカポカ春庭のいろいろあらーな「藤色(7)若紫」

ポカポカ春庭の「人生いろいろ」
2004/05/31 今日の色いろ=藤色(7)

 亀戸天神の盛りすぎの藤の花をながめながら、藤色に染まるさまざまな少女たちの姿を思い起こす。

 紫の花をさかせる桐。儚く亡くなった桐壺更衣に生き写しだという理由でミカドの后に選ばれ、15歳で入内した藤壺女御。その藤壷にそっくりだったゆえ光源氏に引き取られて養育される若紫の少女。
 藤式部として中宮につかえ、紫式部のあだ名で呼ばれた源氏物語の作者。少女時代は兄よりも漢文の学びに長けていた、と日記にしるす。

 藤色の半襟を袷にかけて「田舎ものの着こなし」と笑われて泣いた美登利。
 「俳聖の藤の句を勝手に解釈するな」と、教師に叱られて悔しがった少女時代の私自身。

 しおれかけた藤の花房の下では、ゴシックロリータ姿の少女たちが、お互いを撮影しあっている。白をベースにした「白ロリ」ひらひらしたフリルや金の縫い取りをたくさんつけた自慢の衣装。束の間の移ろいやすい若さを、デジタルカメラの中にとどめようと、少女達はわらいさざめきながらシャッターを押す。

 少女は、少女のままでいることを許されず、いつしか成長し老いていく。
 「草臥れて宿借るころや、、、」の藤の花を「盛りすぎの藤」と言い張った生意気な少女は、生意気な女となり、意固地な中年となった。

 亀戸天神の心字池に映された、「カルメ焼きを齧る女」は、ほとほと「草臥れて宿かるころ」のくたびれた老いをみせ、盛りをすぎた藤に似合う枯れ具合である。

 盛りを過ぎて枯れかかってはいるが、少女のころ読んだ小説物語を再び手にとり耽溺すれば、たちまち心は数十年前のみずみずしさを取り戻す。
 姿は枯れても、作品を作者との共同作業として味わっていこうとする心は、萌え出る若紫、今を盛りの藤色の生き生きとした感受性を忘れないでいると、せめて、思いこみたい。

 藤色の涙を襟ににじませて少女は秘密を持つ子となりぬ
 池の面に映る枯れ藤枯れ女(春庭)
 飢えふかき一日藤は垂れにけり(加藤楸邨)
 暮れ際に茜さしたり藤の房(橋本多佳子)
<藤色おわり>


ぽかぽか春庭「与謝野晶子・みだれ髪いろいろ」

2008-11-15 19:09:00 | 日記
ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪色いろ(1)」
at 2004 06/07 14:40 編集

 5月29日は白桜忌。歌人与謝野晶子(よさのあきこ)の忌日であった。
 1978年に生まれ1942年になくなった晶子は、白桜院鳳翔晶耀大姉という法名となって多磨墓地に埋葬されている。
 「白桜」は、晶子の好みの花。鳳翔は、旧姓の鳳(ホウ)から、晶輝は、「晶(ショウ)=本名」が輝く、という戒名である。

 西行が「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」と願った「花」は山桜の花だと言われているが、晶子が願ったのは白い桜(吉野桜)。白い花びらが散りしきる中で死にたいと願ったそうだ。

 晶子の旧名は、鳳志ヨウ(ホウ ショウ)。堺に生まれ、老舗和菓子店の娘として育った。女学校を卒業したあとは、実家の店を手伝いながら短歌を雑誌に投稿する。

 晶子の運命を変えたのは、歌の師与謝野鉄幹との出会いであった。妻を持ち、定収入のない男との恋は、当然実家の大反対を受ける。しかも鉄幹は、晶子と並ぶ『明星』の歌人山川登美子へも心をかけていることを隠さない。八方ふさがりの恋だった。
 
 しかし、晶子は自分の恋心を信じて突き進む。1901年5月には、まだ離婚係争中の鉄幹と同居。
 1901年8月『みだれ髪』出版。同年10月、鉄幹と前妻滝野との離婚成立を経て入籍。翌年1902年11月には長男の光を出産。
 結婚、処女歌集出版と最初の子の出産が続いたこのころは、若い気力が横溢した時期であったろう。

 63年の生涯のうち、結婚後の晶子は、12人出産して11人を育て上げるという生活。そして、夫がフランス遊学する費用までも含めて、家計費を担当する忙しさの中にすごした。

 与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』は、1901年の刊。高らかにファンファーレを鳴り響かせるような、短歌界20世紀の幕開けを告げる登場であった。
 行儀よく花鳥風月を定型に詠むことが深窓の令嬢にとっての「たしなみ」とされていた明治の歌壇に、溌剌とした乙女の真情と官能の美を歌い上げる晶子の処女作はたちまちセンセーションを巻き起こした。<みだれ髪色いろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪色いろ(2)臙脂」
at 2004 06/08 09:28 編集

 晶子自身は、最初の歌集である『みだれ髪』について「若書き」という評価をしていた。岩波文庫版の自薦歌集を編集したときに、全399首を選んだ中に、『みだれ髪』からはわずか14首しか選ばなかった。

 しかし、晶子自身が「未熟な時代の作品」と感じることがあったとしても、『みだれ髪』が日本の文芸に与えた価値は変わらない。清新な感情の吐露、恋する女の真情の奔放さ、どの一首をとっても、はつらつとした乙女心の発露がみずみずしく伝わってくる。

 ことに冒頭の一章「臙脂紫(えんじむらさき)」は、タイトルからして色の名をふたつ並べ、若い娘の色香が立ち上ってくる。
 親友でもあり師の寵愛を争う恋のライバルでもあった山川登美子と、後に夫となる鉄幹との三人が共にすごした時代の濃厚な交友が作品に色濃く現れている。

 冒頭の「臙脂紫」の章の歌には、乙女の作品らしい特徴が数多くあるが、歌の中に、花と色の名を詠みこんだ歌が多いことがまず目につく。
 さまざまな色の氾濫と、とりどりの花の中に、妻ある人を恋した「罪」の翳りと、親友と恋を争うことの痛みと、恋の勝者となった人の奢りとが、表わされている。

 溢れる色彩の数々。若い娘がお気に入りの箱のなかに色とりどりのリボンを集め、そのリボンを親友に「これ、あなただけに見せたいの、秘密よ」といいながら蓋をあけたような華やかな色彩にあふれている。

 初出の掲載順に歌を味わうのとは趣を変えて、色別に歌を並べてみる。まず、章のタイトルとなっている臙脂と紫。

[えんじ]
臙脂色は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命

 紫を含む歌が八首あるのに対し、臙脂を含む歌はこの一首だけである。それでも章のタイトルに他の色ではなく、臙脂を選んだのは、この歌に晶子の思い入れがあったからだと思う。
 華やかな紅や赤や朱に比べると、一段と重い色である臙脂。その臙脂色に「血のゆらぎ」を託し、恋に走りだそうとする春の乙女の思いが込められる。

 身の内に奔流となって流れるおのれの血。同じ「臙脂紫」の章の中の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」が人口に膾炙したのと比べると、「春のおもひ」を抱え込んだまま、まだ誰にも自分の熱い血の思いを打ち明けずにいる「内向き」の歌ではあるが、「さかりの命」のゆらめきを「臙脂色」に重ねて歌い上げている。<みだれ髪色いろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪色いろ(3)紫」
at 2004 06/09 09:15 編集

[むらさき]
紫にもみうらにほふみだれ篋(ばこ)をかくしわづらふ宵の春の神
紫の濃き虹説きしさかづきに映る春の子眉毛かぼそき
許したまへあらずはこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
わすれがたきとのみに趣味をみとめませ説かじ紫その秋の花
紫に小草が上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝
紫の虹のしたたり花におちて成りしかひなの夢うたがふな
紫の理想の雲はちぎれちぎれ仰ぐわが空それはた消えぬ
神の背にひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき

 臙脂は、たった一首でも「章のタイトル」としての要の色となった。一方の紫は、一番多く採用されている色であり八首の紫が「臙脂紫」のなかにちりばめられている。

 1901年1月発行の『明星10号』3月発行の『明星11号』には、「紫」というタイトルを持つ晶子の歌が掲載されている。また、同年8月の『みだれ髪』出版の直前、4月に出された鉄幹の詩歌集のタイトルが『紫』である。
 この呼応から考えて、当時「紫」は、晶子鉄幹の恋を彩るにふさわしい色として、ふたりの間の秘密の合い言葉でもあったように感じ取れる。

 「紫」の色に、許されぬ恋への思いをこめて、それぞれの詩歌のなかに「恋するふたりだけに通じ合う秘密の色」としてちりばめていたのかもしれない。

「神の背にひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき」
 初版本の「今かたかたの袖ぞむらさき」は「袖こむらさき」の誤植。晶子の初稿では「こむらさき=濃紫」であったという。

 恋するふたりを、神の衣装の両袖にたとえている。晶子が片方の袖、鉄幹がもう一方の袖。濃い紫色の着物である。
 恋の神の背に掛かっている着物。上の袖が、垂れた下の袖にむかって「一緒になって広い世界をながめたいと思いませんか、両袖のいま一方の袖である濃いむらさきのあなた」と、呼びかけている。紫の呼応が直接に恋の歌として表現されている。

 濃紫色の恋の神の両袖は、重ね合わされた。晶子は結婚後も鉄幹と袖を重ねることをこころがけ、詩作にいき詰まった鉄幹をフランス遊学に出す費用を捻出する。鉄幹の後を追って晶子もフランスへ渡る。広い世界を共にながめることができた感慨はいかばかりであったろうか。<みだれ髪色いろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪色いろ(4)あか」
at 2004 06/10 07:57 編集

[あか・べに]
歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子
海棠にえうなきときし紅(べに)すてて夕雨みやる瞳よたゆき
山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅つくるころ桃の花さかむ
とき髪に室むづまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜の淡紅色(ときいろ)
さて責むな高きにのぼり君みずや紅(あけ)の涙の永劫のあと
くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き

 紫に次ぐ七首を数えるのが「赤系」だが、同じ「紅」が「あけ」「べに」「くれない」と異なるふりがながつけられている。その時々の恋のためらいやときめきが「紅」の色となって現れてくる。
 「紅(あけ)の涙」であったり、薔薇のような「くれなゐの唇」であったり、「罪もつ子」となっても恋に突き進んでいく娘の色である。

「歌にきけな誰れ野の花に紅き否むおもむきあるかな春罪もつ子」

 野の花咲く春に罪持つ子となる娘は、罪持つことにおくせず恋する人のもとへ走る。
 晶子が歌の師鉄幹と出会ったころ、鉄幹は子どもの養育問題から妻の実家とこじれ、離婚問題になっていた。

 「妻とは離婚する予定だ」という師のことばを胸に秘めた恋とはいえ、妻ある人との恋は、晶子の実家の猛反対にあう。裕福な堺の商家に育った晶子。実家から見たら、鉄幹は「詩と歌を作る男=生活力のない男」にすぎない。

 反対する実家から見ても、今はまだ正式な妻の座にある人からみても、さらには恋のライバルであった親友からみても、鉄幹との恋を貫こうとしている自分は「罪の子」である。晶子の恋は、この「罪の翳り」をはらむことによって、いっそうの微妙な色彩を帯びるのである。

[もも色]
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る

 「罪もつ子」となった娘は、白椿白梅のなかに立ち混じることに違和を感じるようになる。恋する罪を気にせずにいられる色は桃色である。白椿の花にも梅の白さにも、「罪ある恋」の娘は心を寄せられない。爛漫と屈託のない色を臆面もなく開示する桃の花を得て、ようやく「罪を問われない」温かさを感じるのだ。<みだれ髪いろいろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪色いろ(5)紺青」
at 2004 06/11 19:55 編集

[こんじょう色]
紺青を絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友歌ねびぬ

 ともに作歌の上達を願って競いあった山川登美子。ここで歌われている「友」が登美子であるとは限らないが、「友の歌は成熟している」と晶子に感じさせる友人とは、山川登美子を指すのだと考えて間違いはないだろう。
 作歌上のライバルでもあり、師の寵愛を争うライバルでもある。その登美子は自ら身を引く形で師鉄幹の前から去って結婚し、若くして亡くなる。

 晶子は『みだれ髪』第三版の発行時には、この「紺青」の歌を削除してしまっている。
 「やまぶきがさね」とは、かさねの色目、表が薄朽葉色、裏が黄色に色をかさねた衣服。
 やまぶきがさねがよく似合う友の歌が上達し、大人びたことを思いながら、夕暮れに泣いた春の一日を、第三版出版時の晶子に「消し去ってしまいたい」と思わせたのは、何故だったか。
 山吹襲の表と裏の色あわせのように響きあいながら歌と恋を競った友を、心の中から削除してしまいたい、と思うほど、その存在を気にかけずにはいられなかったからであろう。

 夫鉄幹は登美子結婚後も、彼女への思いが深かかったことを晶子に隠さず、早世のあとも彼女を悼む歌を作り続けた。晶子にとっては、死後もなおライバルとして意識せずにはいられない友であった。

[みずいろ]
額ごしに暁の月みる加茂川の浅水色のみだれ藻染よ

その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二十日月

 「その涙」の歌の「水」は色の名ではないが、水そのものにも感情が映される。
 その涙をふいて差し上げる縁(えにし)を、私は持っておりません。さびしい水の中にうつして二十日月をみているばかり。
 
 鉄幹は山川登美子に、「紅情紫恨」と題する詩を与えた。
 登美子は「その涙のごひやらむとのたまひしとばかりまでは語り得べきも」と返歌した。「恋に泣くその涙をふき取ってやろうとおっしゃったそのお言葉だけは、私の胸の中に語り得るものです」
 
 恋の勝者であるはずの晶子だが、鉄幹と登美子のふたりが交わし合った言葉を知るに及べば、心の水辺はおだやかでない。しかし、「そのような涙とは関わりございません」と、ひとり水に映る二十日月を見つめる晶子。

 嫉妬のゆえに水はさざめき、二十日月さえゆらゆらと、心の乱れにゆがむのかもしれない。<みだれ髪色いろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ「みだれ髪いろいろ(6)翻訳の青」
at 2004 06/14 06:42 編集

[あお]
雲ぞ青き来し夏姫が朝の髪うつくしいかな水に流るる
うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風の青き
小傘とりて朝の水くむ我とこそ穂麦あをあを小雨ふる里

 日本語の色の名詞のうち、白でも黒でもなく、明るい暖色系の赤でもない色を、幅広く表現した色が、古語「あを」であると、何度か書いてきた。現代日本語の色の名詞の寒色系の色、「青灰色」や「緑」なども含む色なのだ。

 現代語日本語の「青」は、「さわやか、きよらか、純粋、未熟、若さ」などのイメージを含む。しかし、翻訳する場合は、外国語ごとのそれぞれのイメージも考える必要がある。
 「臙脂紫」の中から、「青」の翻訳をみてみよう。

「うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜風の青き」
 翻訳者はジャニャーン・バイチマン。Asahi Evening News の日曜版で1990年から大岡信『折々のうた』の翻訳を「A Peot's Notebook」として連載している。

 「うすものの~」の「夜風の青き」は、光の中の目に見える青ではなく、晶子の心に投影された夜の風の感覚をとらえた「青」である。現実の色の青ではないので、蛍とぶ夜のイメージを表現する。
 「夜風の青き」の色を、バイチマンは「グリーン=緑」と訳した。

 バイチマンは翻訳を四通り作った。そのうちの<A>と<B>二通りを、大岡に「どちらがいいか」と訊ねた。
 「夜風の青き」は、A:through evening breezes which are green B:into the eveing breeze's green
<A>
Down a girl's silk sleeve
translucent and two feet long
fierflies tumble slide
then glideing off
they flow
through evening breezes which are green
<B>
Down silken sleeve
two feet long
fireflies flide and slide
then flow
into the evening breeze's green

 A Bについて、大岡は「The first is more concrete but the second is more flowing. Aは具体的で確実。Bは流麗」と評した。最終的に、バイチマンはmore flowing のBの方を一首の訳として選んだ。

 英語のblue(青)には、「ゆううつな、悲観した、青ざめた」などの意味もある。
 blue breezeでは、「寒々とした青ざめたそよ風」という意味合いになってしまい、夜風で風邪をひきそうになる。
 green(緑)には、「若々しい、みずみずしい、活気のある」などの意味が含まれる。

 薄ものの夏衣、若い娘の二尺のたもとを蛍が滑り落ちていく、華やかでみずみずしい夏の夜風であるから、「夜風の青き」の「青」は、グリーンと訳されたのだ。

 同じ「青」でも、時代によって色のイメージが変わり、またそれぞれの母語によってイメージが異なるから、翻訳には要注意。<みだれ髪いろいろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ[みだれ髪色いろ(7)緑、白
at 2004 06/15 10:13 編集

[みどり]
牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君
鶯は君が声よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る

 「ほんとうに、緑の野にふさわしいあなた」とは、鉄幹をさすのであろう。緑あふれる牧場から明るい南方へと走り出る川。清冽な川の水をみても、広々とした緑の牧場をみても、恋する乙女の心にうかぶのは、「溌剌とした緑色にふさわしいあなた」なのだ。

 「鶯は」の歌。初版の「鶯は君が声よ」は誤植。晶子の初稿では「鶯は君が夢よ」であった。「もどきながら」は、「あらがい、反対して」
 1900年8月に初めて鉄幹に出会った晶子。1901年1月には、二人して京都栗田山ですごす。ふたりだけの時間をすごしながら、どのような言葉を交わしあったのか。
 栗田山ですごした翌々月発行の『明星1901年3月号』に、鉄幹は『春思』と題された詩を掲載する。第一連は

 山の湯の気薫じて/欄(おばしま)に椿おつる頻り/帳(とばり)あげよ/いづこぞ鶯のこゑ

 「とばりをあげよ、いづこぞ鶯のこゑ」という鉄幹のよびかけに応じて、晶子は緑のとばりをかかげて見る。
 「ふたりが今泊まっている1月の山の宿に、まだ鶯は鳴いていないでしょう?鶯の声がきこえたなんて、あなたの夢でしょうよ。でも、そういうあなたのことばに反対しながらも、緑のとばりをそっとかかげて、外をみてみました。あなたの夢ならば、私も共にみたい、、、、、、」

[しろ]
秋の神の御衣より曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅

 真っ白な壁に、心のうちに燃え上がる短歌を染め出してみたい。その願いひとつを胸に、笠もなしに二百里の旅を続ける。
 鉄幹が住んでいた東京と晶子が暮らす堺の町は、500キロメートル隔たっている。

でも、歌を詠む気概、師を慕う情熱においては、500キロも二百里も隔たりとは感じない。雨や日ざしから乙女の身を守ってくれる笠がなくても、旅していこう。
 晶子はどこまでも鉄幹を追って旅していく。<みだれ髪色いろ続く>


ポカポカ春庭の人生いろいろ[みだれ髪色いろ(8)黒]
at 2004 06/16 08:19 編集

[くろ]
その子はたち櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

 その子は二十歳。『みだれ髪』出版の前、夫となる鉄幹と22歳の夏に出会う以前の自分自身を詠んだものかもしれないし、二十歳の年をむかえるすべてのおみな子を詠んでいるのかもしれない。
 黒髪をくしけずる仕草に「おごりの春」色香があることを、乙女自身は気づいているのかいないのか。ただつやつやと流れる髪の美しさは自分でも見てとれる。

 春の日差しにつやつやとした黒髪がゆらぐ。黒はさまざまな色合いを含むが、この黒髪の黒はわけても若さを誇り、光り輝く黒である。

 数多い晶子の歌のなかでも、この「その子二十~」の歌と「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」の二首が、中学校や高校の「短歌」教材として採用されることが多い。
 私の中学校ときの教科書に採用されていたのは、「金色の小さき鳥の形して銀杏散るなり夕日の丘に」であった。この歌も秋の夕日にきらめきながら舞い散る銀杏を華やかな視覚の中に描き出していて、中学生の心にも歌の美しさ楽しさが味わえる一首だった。

 中学の教科書で出会って以来、晶子の歌はなじみ深いものだったが、「みだれ髪 臙脂紫」の歌を、色べつに並べ替えて観賞してみるという今回の試みによって、晶子が「色」に託した心情をより深く味わえた気がする。

 色彩は光のなかでさまざまな表情をみせる。あざやかな、またしっとりとした色の中で、人の心は解き放たれたり、深くものを思ったり。
 「みだれ髪」にさまざまな色をのせ、恋する女の表情を三十一文字にした与謝野晶子。晶子の色にひたることができた時間に感謝。<みだれ髪色いろ終わり>


ぽかぽか春庭「石川節子・春木と大鋸屑」

2008-11-13 18:01:00 | 日記
ポカポカ春庭 石川夫妻と与謝野夫妻(1)
at 2004 06/17 06:43 編集

 石川啄木は岩手から上京し、「明星」をたよった。彼の日記に与謝野夫妻の赤貧生活が書かれている。

 のちの啄木、石川一は盛岡中学校5年生のとき、1902年(明治35年)の10月、『明星』に詩を投稿した。10月末には中学を退学して上京し、与謝野夫妻を訪ねた。当時、与謝野寛・晶子夫妻の新詩社は渋谷道玄坂近くにあった。

 啄木の日記から、与謝野夫妻との初対面。
 「先づ晶子女史の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつヽあり」

 鉄幹は彼の詩才を認め、それまで使っていた「白蘋」という筆名を、もっと強い印象のものに変えるよう助言した。数え18歳の若者の新しい名は「啄木」となった。しかし、頼りにした新詩社にも経済的な余裕がなく、啄木の最初の上京は挫折。

 1904年(明治37年11月)、与謝野夫妻は渋谷から千駄ヶ谷村(現在の渋谷区千駄ヶ谷1-23)に転居した。
 1908年春、北海道から上京した啄木はふたたび与謝野夫妻の家へ。

 啄木の日記より
 「(与謝野家の)本箱には格別新しい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲型の、大島紬とかいふ馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が2寸も出て居た」

 新しい本を買う金も、つんつるてんになっている鉄幹の着物を新調する余裕もない生活だったことがわかる。<つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.131
(い)石川啄木『石川啄木日記』


ポカポカ春庭「石川夫妻と与謝野夫妻(2)」
at 2004 06/18 19:15 編集

 1908年(明治41年)啄木の5月2日の日記より
 「与謝野氏は外出した。晶子夫人と色んなことを語る。生活費が月々90円かかって、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るのでとれるとの事。明星は去年から段々売れなくなってこのごろは毎月九百しか(三年前は千二百であった。)刷らぬとの事。」

 「(明星発行は)毎月30円から50円までの損となるが、その出所がないので、自分の選んだ歌などを不本意ながら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。どうせ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語った。」

 「予は、殆ど答ふる事を知らなかった。ああ、明星は其昔寛氏が社会に向かって自己を発表し、且つ社会と戦ふ唯一の城壁であった。然して今は、明星の編集は与謝野氏にとって重荷である、苦痛を与えている。新詩社並びに与謝野家は、ただ晶子女史の筆一本で支へられている。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく編集長に雇われているやうなものだ!」

 「話しによれば、昨年の大晦日などは、女史は脳貧血を起こして、危うく脈の耐えていくのを、辛うじて気をさかんにして生き返ったとの事。双子を生んでから身体が弱ったといふ」
================
 1908年(明治41年)11月、雑誌『明星』百号をもって廃刊。
 かわって創刊されたのが「スバル」。森鴎外、与謝野夫妻らが寄稿し、啄木は編集者として働いたが、依然として収入はなかった。

 一方、「明星」出版の苦労という肩の荷をひとつ下ろした晶子は、多産と多作を続ける。ひたすら師の姿を追い求め、ついていった可憐な乙女は、今や夫をしのぐ文名を得て、経済的にも文学的にも、夫を支える立場に変わっていた。

 啄木は、「スバル」編集をやっていても食えないので、1909年朝日新聞社の校正係りとして働き始める。
「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」

 ようやく定収入を得て、1910年に『一握の砂』を刊行する。しかし、1911年には慢性腹膜炎と診断され、1912年(明治45)4月13日死去。27年の生涯を赤貧のなかにすごした啄木であった。
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啄木短歌の「あか」
わかれをれば妹いとしも赤き緒の下駄など欲しとわめく子なりし
赤赤と入日うつれる河ばたの酒場の窓の白き顔かな
たひらなる海につかれてそむけたる目をかきみだす赤き帯かな
旅七日かへり来ぬればわが窓の赤きインクの染みもなつかし
うす紅く雲に流れて入日影曠野の汽車の窓を照らせり
===============
<つづく>
☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.132
(い)石川啄木『一握の砂・悲しき玩具 石川啄木歌集』


ポカポカ春庭「石川節子」
at 2004 06/21 15:37 編集

 澤地久枝『石川節子 愛の永遠を信じたく候』を読んだのは20年前のこと。
 2月の大雪の日だった。10ヶ月になる娘をおんぶし、夫が仕事場にしている高田馬場のアパートへ行った帰り、明日食べる分をどうしようかと思いながら、古本屋で買った本。

 ケンカがもつれ、仕事場から帰ってこなくなった夫のもとへ、下着などを運んだ。背中の娘に雪がかからないように傘をにぎりしめ、腕にビニール袋をぶら下げ、すべる路地を一歩一歩歩いた。古い木造モルタルアパートの2階。

 夫は、私が実家からこっそり援助を受けたことに腹を立てていた。
 「自分は結婚に向かない人間だし、結婚生活に十分な金を稼ぐこともしない」という夫と結婚したからには、生活に不足の分を夫に言い出しても仕方のないことだと思ったし、子どもを保育園にいれて私が働けるようになるまでは、実家にすがる以外、ほかにしようがなかったのだ。

 東アフリカケニアで出会ったふたり。友人と共同購入のランドローバーでアフリカ縦断したのち、ナイロビで結婚登録をするという計画は、予定外の妊娠のために頓挫した。
 アフリカ行きをキャンセルして結婚し、ランドローバー購入費用、その他計画に費やした借金だけが残った。二人とも定職もなく貯金もないという結婚生活のスタート。たちまちつまずいた。

 「離婚する」と言ったきり帰宅しない夫と「これからどうするのか」という話し合いをするつもりだった。話し合いはまとまらないまま、結局20年の上、赤貧結婚生活が続いた。現在、夫の仕事場は飯田橋に変わったが、状況は20年前と同じ。働けどはたらけど楽にならざり、じっと手をみている毎日。

 石川節子の7年間の結婚生活。夫との不和と、立ちいかない生活に苦しむ毎日だった。生活費を稼げない夫にかくれて、実家に無心をする。それがますます夫の不興のもととなる。そんな繰り返し。

 啄木は貧困きわまる結婚生活の中で、わがままを通し遊蕩にもふけった。澤地久枝は『石川節子』を読んだ読者から、「今までは啄木の短歌が好きだったけれど、こんなひどい夫とは知らなかった。啄木が嫌いになった」という感想の手紙を受けたという。<つづく>

☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.132
(さ)澤地久枝『石川節子 愛の永遠を信じたく候』


ポカポカ春庭「うす紫の袖そめて」
at 2004 06/22 08:23 編集

 雪道を歩いて帰る途中で買った『石川節子 愛の永遠を信じたく候』を、背中の娘をあやしながら読んだ。啄木の短歌は読んできたが、節子についてほとんど知るところはなく、澤地の本ではじめて人柄やさまざまなエピソードを読んだのだった。
 以下、澤地の本、啄木伝記などから読みとった節子の生涯を紹介していく。
 
 1886年(明治19)1月に啄木、10月に節子誕生。同年同郷(岩手県南岩手郡)の生まれ。
 ふたりは、盛岡中学校盛岡女学校の生徒として知り合った。岩手の神童と呼ばれた美少年の石川一と、14歳同士で出会った運命の恋である。

 1902年(明治35)盛岡中学校を中退した石川一(17歳)は、節子と別れに耐え、文学の道に活路を見いだそうと上京する。
 節子は、「わかれなりとうす紫野袖そめて万代われに望みかけし人」と恋人が歌った短歌を胸に抱き、彼の文学が開花することを夢見た。

 1905年、親の反対を押し切って、19歳の節子は石川一の妻となった。しかし、晴れの結婚式に、夫となる人は東京へ出かけて寄り道をしたあげく、とうとう式には間にあわなかった。花婿ぬきの式というのが、その後の二人の生活を暗示する。

 夫は東京をめざし、何とか文学者として立とうと苦闘をかさねるが、挫折が続く。文学上の挫折だけなら、夫を信じて家庭を守る妻も忍耐のしがいがある。しかし、志を得ない啄木の生活は荒れる。啄木は、妻子を食べるものとてない困窮生活の中に放置し、なけなしの金を遊里につかってしまう夫であった。

 1909年、ようよう啄木は新聞社校正係りの仕事を得た。本郷弓町で間借りをし、ともに暮らせるようになっても、節子は生活苦と同居する姑との軋轢に悩み続けた。
 耐えきれずに、節子は実家に身をよせる。家を出た妻に対して、夫はプライドを傷つけられ、亀裂がますます深まる。
 
 姑カツから「ひどい嫁」となじられながらも、夫の親友金田一京助らの説得により、節子は夫のもとにもどった。
 夫は新聞社校正係りの仕事をつづけながら、金にならぬ小説や短歌を書き続けた。

 親の反対する「生活力の不安定な男」との結婚。妻が生活苦に耐えられず実家から金をもらうことに激怒するだけで、自分は遊廓にも出入りする夫。長い間妻をかえりみず、うとんじる態度さえとったあげく、友人と妻の仲を疑ったりする夫。
 現在の目でみれば、さっさと離婚したほうがよほど安定した日常生活がおくれたのかもしれない。

 1910年10月、貧困の中で出産した長男は、1ヶ月もたたないうちに死んでしまった。
 10月29日、家族と啄木の友人ふたりだけの貧しくささやかな息子の葬儀に、かけつけた人がいる。与謝野寛であった。

 寛は1905年に筆名鉄幹を本名の寛に戻し、心機一転をはかった。明星も廃刊になり、文学的にも行き詰まりを感じていた寛は、「洋行」という手段で自分の方向をさぐろうと計った。
 しかし、明治時代に「フランスはあまりに遠し」であり、洋行費用を稼ぐにも、妻晶子が「書きまくる」以外にはなかった。

 息子の葬儀から2ヶ月後の12月、啄木は念願の第一歌集『一握の砂』を出版。しかしその3ヶ月後、1911年2月に腹膜炎で入院、肺結核が悪化していく。
 そうなってもなお、節子は実家を頼ることができなかった。啄木は妻の実家に対して、「自分の妻が実家を頼るなら離婚する」という内容の手紙を出し、絶交状態にまでなっていた。

 啄木がやっと仕事を得た新聞社からの前借りや、友人からの借金でようよう節子は夫の療養費を工面する。
 啄木のみならず、その実母カツも同じ肺結核。さらに節子も夫と同じ死病に冒され、しかも3人目の子を身ごもっていた。節子は自分の病状をかえりみず、夫の看病にあたった。<つづく>


ポカポカ春庭「ヴィオロンの糸」
at 2004 06/23 11:25 編集

 1912年3月に啄木の母親が肺結核で亡くなった。
 満7年の結婚生活のうち、夫婦が同居できたのは5年たらず。そのほとんどは啄木の母親との同居であったから、姑カツが3月になくなり、4月に啄木が死ぬまでのたった1ヶ月が、節子にとっては愛する夫を独占し、世話にかかりきることができた日々となった。

 啄木は友人の土岐哀果に歌集の出版を依頼する。哀果は売れるかどうかわからぬ歌稿を受け取り、20円の稿料を都合してくれた。身重でしかも自分自身の病勢もすすんでいた節子は、その20円で啄木の薬や熱の体を冷やす氷を手に入れる。

 最後のさいご、病状重くなると、啄木は妻に甘え、妻にたよりきる夫になった。節子は苦しい心身を抱えながらも、満7年間の結婚生活でようやく夫との「心寄り添い合う夫婦」の日々を味わうことができた。辛酸をきわめた結婚生活の、最後の日々。

 歌集『悲しき玩具』が発行される前に、啄木の命はつきた。臨終を見届けたのは、節子と長女京子、啄木の父親、友人の若山牧水の4人のみであり、その4人のみで通夜をすごした。

 啄木の葬儀は、節子や土岐哀果らが柩につきそいひっそりと営まれた。
 東京朝日新聞は、校正を担当していた社員である啄木の死去を報じ、同じく朝日新聞社員として小説を執筆していた夏目漱石など、社友となっていた人々が参列した。参列者45人という寂しい葬儀であった。

 「明星」時代の師である与謝野晶子は新聞4社に求められ、10首の哀悼歌を残している。与謝野寛は渡欧しており、「遠方びとはまだ知らざらむ」啄木の死だった。
===============
与謝野晶子の啄木を悼む歌
<東京朝日新聞 1912年(明治45)4月17日>
人来り啄木死ねと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ
終りまでもののくさりをつたひゆくやうにしてはた変遷をとく
しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に
そのひとつビオロンの糸妻のため君が買ひしをねたく思ひし
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 啄木が「妻のためにバイオリンの糸を買った」と晶子に語り、晶子はそのことばをねたましく思った、という回想の短歌。晶子の短歌からは、この「バイオリンの糸を買った」という時期がいつごろのことを思い出しているのかはわからない。

 女学生時代の節子は、ピアノやバイオリンを弾く活発な女生徒であり、若い啄木は恋人の音楽の才を喜んだ。
 しかし、妻となってからの節子は音楽を続けるどころではなかった。貧窮生活の中で、バイオリンどころか、節子が実家から持ってきた衣類は、帯一本すら残さず質屋へ入れてしまう。啄木は友人から借金をしまくり、それでも食べるに事欠く生活だった。

 晶子の思い出の中の啄木は「妻のためにバイオリンの糸を買ってやる夫」であったが、実際に、節子のために「ビオロンの糸を買った」とは思われない。「買ってやりたいと思っている」という啄木の願いを、晶子に語っただけだったのではないか。
 友人たちに対して、夢のような願望だけをふくらまし、事実のように語る啄木であったから。
 現実には、バイオリンの糸どころか、破れた衣服をつくろう糸を買う金さえない一家のくらしだった。

 ただ、「夫が妻に買ってやった」という言葉だけでも、晶子にはねたましく聞こえるものだった。
 晶子の家庭ではすでに「家計費を稼ぎだすこと」は、妻の肩にかかっており、妻が夫のものを買うことはあっても、夫が妻のために何かを買ったとして、それは結局妻が稼いだ金だったのだから。<つづく>


ポカポカ春庭「愛の永遠信じたく」
at 2004 06/24 07:54 編集

 与謝野晶子、「石川啄木への哀悼歌」つづき

<萬朝報 1912年(明治45) <東京朝日新聞 1912年(明治45)4月17日>
人来り啄木死ねと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ 4月20日>
近き日に旅に行くべき心よりはかなごとにも涙こぼるる

<東京日々新聞 同4月28日>
いつしかと心の上にあとかたもあらずなるべき人と思はず
いろいろに入り交じりたる心より君はたぶとし嘘は云えども

<同 同5月3日>
啄木が嘘を云ふ時春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ
ありし時万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく
死ぬまでもうらはかなげにもの云はぬつよき人にて君ありしかな
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 啄木は、盛岡中学校の先輩金田一京助はじめ友人には借金をしまくったが、最後の最後まで晶子に対しては、弱音をはかなかった。
 晶子の前では、嘘をつくまでして強がりを見せた。「妻を思うよき夫」であり、「文学の道をひたすら邁進する詩人」として晶子の目にうつっていたかった。

 しかし、啄木の死の2年前、与謝野寛は啄木の息子が生後まもなく死んでしまったときの葬儀に参列している。言葉にだすまでもなく一家の窮状を察っせられただろう。いくら啄木が強がりを口にしても、隠しきれないほどの困窮状態であったのだから。

 与謝野晶子は、夫寛のフランス外遊費用をかせぐために、来る日も来る日も執筆を続け、歌集、随想集などを矢継ぎ早に出版した。また、短歌を色紙に書くという「内職」もした。晶子の署名がある色紙はよく売れたという。
 ようやく渡航費を得ると、まず夫を1912年1月にフランスに送り出した。

 啄木哀悼の歌は残したが、未亡人石川節子を見舞ういとまもなく、晶子は夫寛が待つパリへと旅立っていった。1912年5月のこと。
 晶子は赤貧時代を抜け出し、パリの壮麗さと夫との邂逅にはずんでいた。

 啄木亡き後、幼い娘をかかえ、節子はたったひとりで8ヶ月になっている身重の体を横たえる。肺結核がすすんでいた。

 節子は夫の死後、啄木愛用の机や火鉢、金になりそうな物はすべて古道具屋へ売り払った。長女京子を食べさせねばならず、身ごもっている子どもを出産しなければならなかった。

 すべてを売り払った間借りの部屋に残されたのは、京子と自分のわずかばかりの衣類のみ。しかもその残った衣類を、留守にしたわずかの間に空き巣ねらいに盗まれてしまった。文字通りの着の身着のままで、親子は途方にくれた。

 節子の実家へは、啄木が絶縁を申し渡している。節子は実家に戻ることをためらい、千葉館山の施療院をたよった。キリスト教宣教師カルバン夫妻が、貧しい結核患者の福音医療をおこなっていたのである。

 明治末年の日本で、外国人の福祉にたよる以外に、母子が生き延びる方法はなかった。<つづく>


ポカポカ春庭「春木と大鋸屑」
at 2004 06/25 00:16 編集

 千葉房総で、長女京子とともに孤絶した生活をおくる節子を支えたのは、夫の残した原稿や日記だった。
 京子を世話しつつ、節子は作品が散逸しないようまとめる作業を続ける。、出産をひかえた体に肺結核という病。しかし、夫の残した文字をたどる作業を続けていれば、節子は結婚前に熱くかわした言葉をひとつひとつ思い出すことができた。

 「吾れはあく迄愛の永遠性なると言ふことを信じ度候」と節子は手紙に書き、生活のめどをたてることのできない恋人を待ち続けた。父親に石川一との交際を禁じられている間も、節子はこの自分の言葉を胸に刻むことで耐えた。
 愛の永遠を信じたく候、、、、愛の永遠を信じたく、、、、

 夫の文学的才能を信じ、この作業こそが7年間のふたりの凄惨な結婚生活を「ふりかえる価値のあるもの」とするであろうことを、節子はひたむきに信じた。
 出産までの日々、節子は夫の遺稿を整理し、作品の調書をまとめ上げた。日記や手紙、作品の構想ノートまで、きちんと整理がなされた。

 1912年(明治45)6月、次女房江を出産。
 この夏、明治天皇崩御。時代は明治から大正へ変わった。時代は変わっても、節子の赤貧生活は変わらない。大正元年となった9月、節子はやっと実家のある函館へ戻った。

 翌1913年(大正2)正月、病状は悪化し、節子は二人の娘を実家に預けて入院する。東京、函館の2ヶ所で行われた啄木一周忌の集いにも、もはや節子は出席できる状態ではなかった。
 重体となった節子は娘ふたりの養育を実家に依頼する。節子の実母トキが京子と房江を育てることを約束し、節子は哀しみの中にも安心して、京子が病院の中で遊ぶのをみつめた。
 節子が入院中に残した短歌
==============
六号の婦人室にて今日一人死にし人在り南無あみだぶつ
わが娘今日も一日外科室に遊ぶと言ふが悲しき一つ
区役所の家根と春木と大鋸屑はわが見る外のすべてにてあり
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 1913年5月5日、節子死去。

 最後の日、節子は病院にあつまった実家の人々に「みなさん、さようなら」とあいさつしたのだという。二人の娘を実家に託し、夫の遺稿を友人に託したのちの節子は、静かに夫の後を追っていった。
 夫の遺稿がやがて文学史上に燦然と輝くことを信じ、その夫を支えた自分の人生の意義を信じた女の一生であった。<つづく>


ポカポカ春庭「
2004/06/28 06:26 編集

 借金のほかは何も残さなかった夫啄木が、かろうじて妻の手に残したものは、原稿の束と二人の娘。

 石川節子の3人の子のうち、長男は生まれてすぐに死亡。次女は、うまれる前に父親を失い、1歳になる前に母親を失った。
 赤貧の中に生き、赤貧の中に死んでいった節子。27年の生涯を人は「不幸な人生」と評するだろうか。

 澤地久枝が描き出したように、節子は夫亡き後、「啄木の妻」として夫の作品をまとめ上げ、後世に託すことで自分の人生を実りあるものと信じることができたのだ。「夫の文学に命をかけて生きた妻」として、夫と同じ27年の短い生涯を終えたのである。
 周囲の人や後世の人がどう評価しようと、節子は毅然とし、自分の人生に誇りをもって死んでいったと思う。

 節子死去のころ、晶子は母としての喜びにひたっていた。1913年4月、与謝野晶子は四男を出産。1912年5月から10月までの、フランス、イギリス、ドイツなどの外遊生活を満喫した晶子は、フランスで親交を深めた彫刻家オーギュスト・ロダンにちなみ、四男をオーギュストと命名した。
 夫と共に外国で過ごした間に身ごもった子である。12人を出産した晶子であるが、オーギュストの妊娠と出産には、特別な感慨があったことだろう。

 晶子は女性解放をめざす評論を新聞雑誌に執筆するほか、歌集や随筆、古典の現代語訳などの出版を続ける。押しも押されもせぬ女流文学者として、大正昭和の文壇に重きをなしていった。

 長年の夢であった「夫婦しての外遊」から帰国したのちの与謝野夫妻は、赤貧時代から抜け出すとともに、しだいに変化していく。
 鉄幹という筆名を1905年に廃止し、寛という本名にもどっていた夫は、選挙にうってでて、落選するなど、文学から離れた活動を続ける。1915年(大正4)4月寛は衆議院選挙に出馬し、落選。

 晶子は毎日執筆を続け、毎年出版を続けた。経済的には「赤貧」状態から脱したものの、11人の子の母として、子を養育していく費用、第二次「明星」を出版する費用、夫の選挙活動費用など、かかる費用も格段に増えていき余裕はなかった。
<つづく>

ポカポカ春庭「節子明子晶子」
2004/06/30 10:48 | 編集 

 今回、澤地久枝の『石川節子』と、与謝野晶子の作品などを読み返してみて、晶子に対してひとつ気になったことがあった。
 「バイオリンの糸を妻に買ってやった」という願望を語る啄木に対して、「ねたましい」という気持ちをもったと回想する晶子。その短歌に、ふっと晶子の本音があらわれていたように感じたのだ。

 晶子が「妻にバイオリンの糸を買ってやる啄木」を「ねたく」思ったというのも、それほど妻のことを気にかけてやれる愛情豊かな夫を持つ節子へのねたましさと共に、「夫が妻の生活を支える」生活の形への、羨望のまなざしも残されているように思うのだ。

 私のこれまでの理解では、晶子は「女性は自立すべし」「女性が子どもを育てるのは自己責任で行うべし」という「女性自立論者」であった。強い女の代名詞であり、大地母のような存在として、子育てと文学を両立させた母だった。

 「女性の自立」を自ら証明するように、夫の顔をたてつつも、経済的には女手で11人の子の養育費を稼ぎ出した。
 雷鳥平塚明子が「子を産み育てる母親は、他者からの支援をうけてしかるべき」という「母性保護」を主張したのに対し、晶子は「自立した女」としての論陣を張った。

 雷鳥は「若いつばめ」と呼ぶ年下の男を恋人とした。その若いツバメを「売れない画家」のまま夫とし、「夫の稼ぎをあてにし、夫に養われる妻」として生きることを最初から放棄していた。
 そのかわり、裕福な実家から援助を受けることを当然のこととして、家計を維持した。

 雷鳥平塚明子は、実家に経済的に依存したからといって、自分自身を「自立していない女」とは思っていなかった。食うための金はどこから出てもよい。ときには国などの共同体が子を育てる母を援助することも必要、家族のだれかが支援することも必要と思うことが「母性保護」思想を支えた。

 明治高級官僚の娘である平塚雷鳥に対して、堺の商人の娘与謝野晶子。
 夫とともに店に出て立ち働く女の生き方を見て育ち、自分自身も女学校を卒業するとすぐ店番をして「女が一人前の働きをする」ことに違和感を持たないで育った晶子だった。
 晶子は、まず自分自身で稼ぎ出すことを生活の基盤とした。

 その晶子にして「家父長制度のもと、夫が働き妻がささえる」という国家がすすめている「家の形」に属していない自分を意識することがあったのではないか。
 妻が原稿料印税を稼ぎ出す。夫は選挙や学校教育に関わるようになって「社会上の対面」を保とうとする。

 「女性はあくまで自己責任で子育てを行うべし」と、論ずることが必要であった。「妻のほうが稼ぐ」という一家を、「女性が自立する家」として世間に示さなければならなかった。
 「夫がかせぎ、妻が支える家のありかた」と異なる夫婦の形を主張し続け認証させることによって、晶子のプライドは保たれたのかもしれない。

 しかし、ふとした拍子に「夫が妻にものを買ってやる」という姿に羨望も感じる。そんな晶子の気持ちがあらわれたのが「バイオリンの糸を、夫が妻のために買ってやる、という言葉へのねたましさ」であったのではないだろうか。<つづく>

ポカポカ春庭「明治の夫婦」
2004/07/01 08:17 | 編集 

 江戸期武家の家制度を、明治の社会全体に適用したのが「家父長制」であるという。儒教を精神的基盤とする「家長と跡取り長男を重んじ、家の存続を第一とする」思想が、社会全体に敷延された。

 石川節子と啄木夫婦が、当時としては高学歴である女学校卒業、中学校中退という学歴をもちながら、ついに安定した家庭生活を営めなかったのも、啄木自身が「妻を働かせる夫でありたくない」という思いに呪縛されていたから、という面がある。

 自分を溺愛する母親の意見をいれ、あくまでも「家長」としてふるまうことと、男の面子を立てることを優先した啄木。
 経済的にも文学的にも、常に妻に優越する夫でいたかった。

 夫が稼ぎ、妻に音楽を続けさせる。妻にバイオリンの糸を買い与え、妻は夫のために家事の手を休めて一曲ひきこなす。そんな夢をみていた啄木だったのかも知れない。が、ついにそういう日々は訪れなかった。

 節子は、何度も周囲の人の斡旋で「代用教員」の職を得ている。
 姑を含めた一家を支えるのに十分な月給ではなくとも、定収入を確保することを節子は優先させるべきであった、と現代の目から見れば批判できる。

 しかし、別居して働いている節子は、啄木が「同居する」と言いさえすれば、後さきなく教職を投げだし、夫の元へかけつける。夫の言葉を信じたいという思いだけで夫についてゆき、悲惨な生活苦、嫁姑の険悪な同居生活に入ろうとする。
 しかし、夫はきちんとした生活者にはなりえず、仕事は欠勤続き。文学への情熱を語る言葉だけで生きようとする。

 啄木は「妻と共働きをして、生活を成り立たせてから文学を続ける」という考えを、ちらとも持とうとしない明治の男だった。<つづく>


ポカポカ春庭「赤貧夫婦」
2004/07/02 

 啄木は妻が実家から援助を受けることをかたくなに拒否し、妻を引き取ろうとする実家へ「そうなったら復讐する」という言葉を投げつける。
 生活の基盤を確立しないまま結婚した啄木の、必死に虚勢をはったことばが「復讐」の語となったにすぎないとしても、節子はそれ以上実家をたよることもできなくなった。

 ふたりが共に夢見た「世界に名を残す詩人となる」という夢は、夫26歳、妻27歳という若さで相次いで死去する前に実現することはなかった。
 赤貧の中に命ついえた夫婦の死後に、己の文学に生涯をかけた明治の青年の苦闘と赤裸々な告白の日記、短歌、小説が残された。


 もし私が石川節子の友人であったら、夫としての啄木を何度でも非難しただろう。
 しかし、彼の短歌は、その感傷そのものが明治文学精神のひとつのあらわれと思う。
 夫婦の死後90年。啄木の作品を愛する人は途切れない。節子が死の床で夢見たことは実現したのだといえる。

 『石川節子』一冊を手に、財布の中の残り少ない小銭をみつめ「これからどう暮らしたらいいのか」と、途方にくれた20年前の大雪の日。収入も貯金も家作もなく、実家から援助を受ければ「離婚する」と、夫は言う。

 もし、手にした本をパラパラとめくり、「電車に飛び込むのはこの一冊を読み終わってからにしよう」と思わなかったら、私の赤貧時代はそこでストップ。その後20年以上赤貧がつづくこともなかった。

 赤貧時代が色濃く輝いたかって?
 結婚以来20年以上も赤貧生活を味わったので、もう十分だと思います。この「色濃く輝く時代」は誰ぞにおゆずりし、薄くてもいいから人並みに暮らせる時代に、早くうつりたい、、、、。

 と、思っているのに、夫の借金は増えていく一方だし、私は非常勤講師の口をリストラされちゃうし。90分授業3コマ減のうえ、講師料引き下げ。うらめし独立行政法人。
 仕事ください!当方、わかりやすく面白い講義を目指す大学講師。日本語学、日本語教育学、日本語言語文化論、などを講義しております。(長々と「赤貧」を書いてきて、一番リキ入ったのは、この部分だったりして)

 たぶん、このまま、「濃い赤貧」なんでしょうね。「働けどはたらけど我が暮らし楽にならざりぢっと手を見る」<おわり> 



ぽかぽか春庭「『墨東綺譚』散歩」

2008-11-12 19:33:00 | 日記
荷風『墨東綺潭』をめぐる散歩

2005/05/07 12:21 土
新緑散歩>浄閑寺の荷風忌

 4月30日土曜日、下町散歩へ出かけた。
 都電三ノ輪橋駅と地下鉄三ノ輪駅の間に浄閑寺がある。
 浄閑寺の遊女無縁塚(総霊塔)をお参りしたのも、もう15年も前のことになったので、ぜひもう一度お参りしておきたいと思って、門をくぐった。

 浄閑寺は、吉原の遊女たちの投げ込み寺として知られる。引き取り手のない遊女は浄閑寺に投げ入れられ、無縁仏として葬られた。
 境内の小さな藤の木に、「振袖新造」の髪飾りのように、藤の花がさいている。

 寺内では荷風忌の法要と講演会が開かれていた。4月30日、永井荷風の命日。
 私が到着したのは、講演会が終わって、『墨東綺譚』の朗読会となる休憩の時間。(正しくは、墨東の墨はさんずいがつくが漢字変換ができない)

 講演会も聞きたかったが、なにせ家を出るときは4月30日が荷風の命日であることなどすっかり忘れていたし、毎年、浄閑寺で荷風の法要が営まれていることも知らなかった。
 三ノ輪界隈をぶらぶら自転車で走っていたら、偶然、行きあわせた荷風法要。荷風の魂が私を呼び寄せたのだと思いたい。

 荷風の正式な墓は、雑司ヶ谷にある。永井家の墓所、永井家累代の墓と父の墓の間で、永井荷風墓は立派な石塔となっている。
 しかし、荷風自身は、明治政府高官だった父と共にではなく、浄閑寺に遊女の魂と共に眠ることを希望していた。

 永井荷風『断腸亭日乗 1937年(昭和12)』より
=================
六月廿二日。快晴。風涼し。朝七時桜を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。(中略)
六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。
 近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
 余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。
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 現在、浄閑寺裏には、「われは明治の児ならずや 去りし明治の児ならずや」と結ぶ荷風の詩碑と、筆塚がある。
 向かい合って、吉原遊女無縁仏供養の総霊塔が立ち、吉原角海老の遊女若柴の墓がある。

 命日。荷風の魂は、雑司ヶ谷の先祖や父にちょこっと挨拶に顔出したあとは、遊女と共にいる浄閑寺にもどってくるのではないかしら。

 「玉の井・昭和・荷風」と題された講演会が終わったあと、会場の椅子にすわると、内木明子さんによる『墨東綺譚』の朗読が始まった。

 小説『墨東綺譚』は入れ子構造になっている。一番外側にいるのは、作者の荷風。中側の主人公は、「私=小説家大江匡(おおえただす)」。さらに内側に、大江が執筆している小説『失踪』。大江は小説の舞台を実感せんと、玉ノ井寺島町あたりを徘徊する。

 「活動写真」なんぞほとんど見たことがない、という大江のことばから物語が始まる。
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 わたくしは殆ど活動寫眞を見に行ったことがない。
 おぼろ氣な記憶をたどれば明治三十年頃でもあろう。神田錦町に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を寫したものを見たことがあった。活動寫眞といふ言葉のできたのもおそらくはその時分からであらう。それから四十餘年過ぎた今日では、活動といふ語は既にすたれて他のものに代わられてゐるらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言ひやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。、、、、、、
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 映画を見たのは30年前に一度いったきりだということを述べ、「映画」なんぞという「今風」の言葉は使いたくない、ということばの好みを主張する。
 「近代文化」の底の浅さを嫌い、江戸情趣をもとめて下町を徘徊した荷風の「自己の好み」を大江匡に託して語らせて、いよいよお雪との出会いへ。(つづく)
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もんじゃ(文蛇)の足跡:
関連記事:荷風と吉原について、春庭エッセイ「源氏名」をお読みいただければ幸いです。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0402a.htm


2005/05/10 10:43  日
新緑散歩>『墨東綺譚』朗読

 内木さんの朗読、冒頭は立ったままで、主人公が浅草公園へ出かけて物語りが動き出したところからは座って読む。本が声となって情緒豊かに伝わる。

 主人公の小説家大江匡が、吉原で警察官の不審尋問にあう、という出だしから、玉ノ井の娼婦お雪との驟雨のなかの出会い。
 そして秋、十五夜の夜にお雪が病み入院していることを知る。何の病かも知らぬまま、「私」はもう二度とお雪に会うこともなく、一遍の結末となる。

 内木さんの朗読は『墨東綺譚』の全文を朗読したのではなく、お雪が出てくる場面をまとめる脚色がなされていた。『失踪』の草稿部分や俳句や漢詩が出てくる部分は割愛。

 内木さんは、朗読家幸田弘子さんのお弟子さんだという。幸田弘子の朗読する樋口一葉作品もすばらしいが、内木さんの声もとてもすてきで、『墨東綺譚』の雰囲気をよくとらえている朗読だったと思う。滑舌の乱れは二、三ヶ所あったけれど、全体の流れはとてもよかった。

主人公大江が執筆中の『失踪』という小説。作中人物の英語教師種田が、家族を捨て世を忍ぶ住まいとして、玉ノ井近辺の裏町あたりを設定し、大江はあたりを徘徊する。

 玉ノ井の路地に踏み込むと突然の夕立。稲妻が光り疾風が吹き落ちる。
 大江のこうもり傘に「だんな、そこまでいれてってよ」と後ろから女が首を突っ込んできた。お雪の登場。
 雨にぬれた大江の洋服を拭いてあげるから、というお雪。大江はこのあと夏から秋まで、玉ノ井の私娼お雪となじむことになる。

 内木さんの朗読は情緒たっぷりにすすみ、「昭和十一年丙子十一月脱稿」という作者贅言の跋語で終わる。

 唯一ひっかかったのは、お雪が「わたし、こんなところにいるけれど、せたいもちは上手なのよ」と大江にいうセリフ。あれ?荷風は特別に「せたいもち」というルビでもふったのだろうか、と疑問に思ったが、手元に原作がないから、そのまま聞き流した。

 私が持っているのは、昭和26年発行36年12刷の奥付、旧仮名旧漢字の新潮文庫(木村荘八解説)の版。扉頁に「田中蔵書」という蔵書印がついていて、裏に「100」と古本屋のえんぴつ書きがある。一冊百円の駄本棚にあった。
 家に帰ってページをくってみると、「世帯持」という文字にはルビはふってないので、それならやはり「しょたいもち」と発音したほうがいいんじゃないかしら。

 荷風の時代、「あんたといっしょになって、しょたいを持ちたい」という女はいても「せたいをもちたい」なんぞと言わなかったと思う。
 「せたいを持つ」では、国勢調査でもしている気分。もっとも、最近の若い人は結婚していっしょに生活することを「しょたいを持つ」なんて言うこともないだろうからなあ。
これからは「しょたいじみた女」なんてのも「せたいじみた女」と言うのかもしれない。

 でも、映画という言葉を使いたがらず、「活動寫眞」という廃語を使いたいと主張している荷風の作品だから、ここは古風に読みたいところ。

 さらに欲をいえば、どうしても「お雪がちょっと上品になっているかな」ってとこがあって、私の「お雪像」と少し異なっていた。
 内木さん自身の雰囲気が「才色兼備。声もよく朗読精進して、新進の朗読家やってます」って感じ。見た目の「上品な才媛」の印象が、お雪の雰囲気をちょっと変えている。

 荷風の描く「客あしらいになれた口をきくけれど、純な心をもつお雪」が、内木さんの美しい声の朗読で、「純粋できよらかなお雪」に昇華してしまっている。(つづく)


2005/05/09 08:02 月
新緑散歩>朗読『墨東綺譚』と映画『墨東綺譚』

 『墨東綺譚』のお雪はけっして「はすっぱな女」ではないけれど、宇都宮芸者を食い詰めて玉ノ井女郎に住み替えしたのだから、純情可憐とはいかない部分の感じも欲しかった。

 お雪は、玉ノ井娼館の窓の外に向かっては「その身を卑しいものとなして」窓辺に座り、ひやかし客にも陽気に声を掛ける。大江の目には「快活の女」と見える。
 しかし、大江に結婚して欲しいと言い出したり、おでん屋かスタンド(バー)の店をもとうと金策する現実的行動的な女でもある。

 主人公の小説家大江は、以前玄人女を家にいれたとき、女は忽ち懶婦悍婦(らんぷ、かんぷ)と変じてしまったと、苦い後悔を語り、もし大江がお雪を妻としたなら、お雪は現在の明るさを失って懶婦悍婦に変ずるだろうと述べる。
 お雪の結婚の望みを受け入れない理由について「わたくしを庇うのではない」といいながら、弁解する。

 現実の永井荷風は、父の希望のままに見合いをして最初の妻と結婚、父の死後すぐに離婚。恋仲になった芸者八重次(のちの日本舞踊家藤陰静樹)と自ら望んで正式に結婚したあとすぐ離婚。そのあと荷風は結婚していない。

 「結婚という枠の中では、惚れた女ともだめになる」という躊躇と、「自由気ままな漁色こそ、自分の文学の源」という自負とを抱いて色里へ出入りする荷風。
 主人公「私」を自分自身ではなく、「小説家大江匡」と設定したとしても、お雪への執心が結婚へ向かうものになるはずもない。

 荷風が描き出したかったお雪は、私娼窟に住む現実派の淫売女にしてまた「幻の聖娼婦」である。夏のどぶのすえた匂いと沸き立つ蚊柱の中に白い裸身を横たえる娼婦にして、秋口にははかなく消えてしまう幻の女。

 お雪への視線の、この微妙さを出すには、お雪の純粋さとしたたかさ、明朗と陰を現出しなければならない。
 朗読の声だけでそれを表現するのは、とても難しいことだろうと思う。

 新藤兼人作品の『墨東綺譚』でお雪を演じた墨田ユキは、「玉ノ井のお雪」の雰囲気に合っていた。朗読と映画では比べるのは無理だけれど。

 新藤兼人の映画は、『墨東綺譚』と永井荷風の日記『断腸亭日乗』を混ぜた脚本になっている。主人公は「大江匡」ではなく、永井荷風本人で、小説の『墨東奇譚』とは別の作品になっている。

 映画『墨東綺譚』は、1992年の作品。そして、この映画は1992年に私が映画館で見た唯一本の映画だった。

 1992年の私は、映画どころではなかった。平日は日本語学校で教え、日本語学校の出講日じゃない日は、大学院4年目になってもまだとりこぼしがある必修単位のために授業を受ける。春、夏、冬休みには夫の事務所の仕事を手伝う。保育園へ息子を迎えに行って帰宅。学童クラブから帰った娘が3歳の息子と遊んでくれている間に、家事全般こなす。その中で、いったいどうやって映画を見にいく時間を作ったのか。

 夫の事務所のメッセンジャーをして、出版社での原稿受け渡しが終わり、直帰してよいと言われた帰り道、まだ保育園のお迎え時間までに映画を一本見る時間があったとみえる。
 毎日時間におわれ、日記を書く余裕もなくて、何月何日に見たのか日時がもうわからない。

 1992年の後半は、修士論文の仕上げにかかりきりになったが、論文を書きあぐねている間に日記をつけた。1992年9月から書き始めて、1994年2月に単身赴任の決意をして中国へ出発する日まで500日の日記は、400字原稿用紙に換算すると1500枚分になった。

 映画の感想が書いてあるのは、1993年2月のこと。
 以下、1993年2月の日記から。(つづく)


2005/05/11 08:46 水
1993年録画再生日記より>『吉原のものがたり』と映画『墨東綺譚』

「1993年録画再生日記」より
1993年 二月十日 水曜日(晴れ)
「添い寝読書2」
 息子、朝は三十七度まで熱が下がったのだが、さっそく布団から出て、遊びだしたので、昼にはまた三十八度五分になった。セキはほとんど出ない。
 熱は三日めなので少し心配になる。

 ひとりで家にいると、時間はあっても、自分だけ本を読んでいるのは申し訳ないような「働かざるもの食うべからず」の庶民訓においたてられるような気分で、本だけ読んでいる気分にはならないのだが、病気の息子につきあっているのなら、バタバタ掃除することもできないのだし、炊事洗濯すんでしまえばあとはひたすら本を読む。

 息子が「読んで」とせがむ絵本を片目で見て朗読し、もう片目で近藤富枝の『今は幻、吉原のものがたり』を読む。
 きちんと調べが行き届き、インタビューも適切に入っていて、面白く読めた。

 『今は幻、吉原のものがたり』に、あえて不満をいえば、文学者たちの吉原登楼に対し、視点が文学者寄りで、志賀直哉や里見とん(とん=弓ヘンに享)たちに点が甘いように思う。

 明治の元勲たち、桂小五郎、伊藤博文、大隈重信等の妻たちが多く芸妓遊女の出身であったことは歴史上有名で知っていたが、文学者では坪内逍遥の妻もそうであるとははじめて知った。
 この時代において、自分自身の意志をはっきり持ち、必要な技能を身につけていた女性といえば、深窓の令嬢よりむしろ遊里出身者のほうが魅力的な女性だったのかもしれない。

 また、近藤富枝は『社会が、遊女をかほど蔑むようになったのは、明治になって、キリスト教思想が浸透してからであって、江戸期にはこれほどの蔑視は受けていなかったのではないか』というのだが、どうだろうか。

 中世までの、役者芸人、流れの僧侶や修験者、社寺と表裏の関係なっている遊女は「聖にして賎」、貴賎表裏一体の存在であったという印象を持っているが、遊里に囲い込まれたあとの、江戸期の遊女の社会的地位や庶民からみた感情はどうだったのだろうか。

 遊女との間に擬似恋愛を体験しようとした文学者たちについて、近藤は『遊女を対等な人間として偶していた』というのだが、どうも私は白樺派に点が辛くなる。

1993年 二月一一日 木曜日(晴れ)
「荷風と機関車」
 息子の熱は下がり、ひと安心。娘は外へ遊びに行く。

 近藤富枝の『今は幻、吉原ものがたり』は、明治末年を描いているが、ついでに紀田順一郎『東京の下層社会』の中の吉原と玉の井の章を再読した。

 大正から敗戦までの色街といえば永井荷風の世界。そういえば、去年テレビやビデオでなく、劇場で見た唯一の映画は『墨東綺潭』一本だった。
 映画は、新藤兼人、八十歳の作品と思うと、なかなかよい出来と思った。

 ただし、荷風と女のシーンが機関車の連結とモンタージュされていたのには笑いたくなって、こまってしまった。いかにも昔風のイメージモンタージュで、時代を出そうとしたのかしらと思うけど、、、、いくら線路際の安普請の家での交情とはいえ、荷風が女に重なったシーンの次が機関車の連結では、あんまりではないか。

 津川雅彦好きじゃないが、ここは男・津川にきちっと本番撮らせるべきだったと思う。たとえ映倫ボカシが入ろうと、機関車連結よりましだもんね。

 墨田ユキの全裸シーンにはボカシが入ったが、『美しきいさかい女』で映倫の方向が変わって、そのうちボカシなしでも上映出来るようになるかもしれないんだから、本番シーンも撮るだけは撮っておけばいいのだ。

 老人になってカツドンを食べるシーンの演技はアザトイという感じがしたが、津川もなかなかうまかったし、墨田ユキの裸は鑑賞に耐えたし、いい映画と思いました。(以上1993/02/11の日記より)
(つづく)

2005/05/12 08:24 木
新緑散歩>荷風と機関車①

 墨田ユキ、『墨東綺潭』で日本アカデミー賞とブルーリボン新人賞、二冠とったのに、そのあとはどうなったんだろう。『免許がない』のほか、一般映画とったのかな。AV女優雨宮時空子時代のビデオのほうが、今は売れているのかも。
 荷風散人、世にあれば、贔屓にした女優だったかもしれない。

 荷風の『墨東綺潭』は、「昭和十一年丙子(ひのえね)十一月脱稿」と記されて終わるが、新藤の映画は、戦災と偏奇館(麻布にあった荷風の屋敷)炎上、敗戦後、荷風の死までを描く。
 戦後の赤線であっけらかんとたくましく生きるお雪と、晩年の荷風がひとり寂しく死んでゆく姿。

 荷風は東京を焼け出されたのち、戦後は千葉の市川に住んだ。
 市川から浅草に通い、レビュー小屋の踊り子を贔屓にして、楽屋に顔を出すのを楽しみにしていた。
 1959年、4月30日。荷風、千葉市川の陋屋に、だれからも看取られることなく死去。享年79歳。

 晩年の荷風は創作意欲も衰えていた。彼の文学的生命は、大切に集めてきた万巻の蔵書が偏奇館と共に炎上するとき、燃え尽きてしまったのだ。
 新藤兼人が映画『墨東綺潭』を監督したのは、荷風が亡くなったと同じ年頃、79歳から80歳になったころのことだった。

 新藤兼人、4月22日の誕生日をすぎて現在93歳。現役の映画監督、脚本家。愛妻乙羽信子亡きあとも矍鑠として仕事を続けている。
 今年はじめに、瀬戸内寂聴との対談を朝日新聞紙上で読んだ。寂聴と、旺盛な創作意欲を語り合っていた。
 報知新聞の2005/04/16インタビューでは「今でも映画の仕事についた22歳のときの感覚。乙羽信子の死と出身地であるヒロシマについて描きたい」と、これから作りたい作品について語っている。偉大な映画人。

 1993年の私は、生意気なことに、新藤のモンタージュにケチをつけている。
 「佐藤慶は、愛染恭子相手にちゃっと本番演技をやりとおしたぞ」なんて、シロート考えで書いたのだろうが、新藤は「本番なんぞにリアリティも芸術もありゃしねぇ」と思っていて、「合体!といえば、機関車連結とピストン車輪だあ」と確信していたのかもしれない。

 私は、中野重治の詩「機関車」が、国語教科書に掲載されている時代に育った。今でも機関車の走る姿が大好きで、ローカル線などで運転されているときは見に行く。
 新藤兼人が荷風の交情シーンにモンタージュした機関車は、どうも、「中野重治の機関車=力強く働くけなげな労働者」と、いう感じがしてしまう。子どもの頃に読んだ詩の印象は強烈で、機関車といえば中野の詩とだぶってしまうからだろう。

 荷風は79年の生涯のうち、正金銀行員として数年、慶応大学教授として数年など、「定職」を持ったのは、ほんの短い間のことであった。荷風のアイデンティティはあくまでも、「高等遊民」「文芸人(文芸・人/文・芸人)」であったと思う。
 東京大空襲で自邸偏奇館が蔵書とともに焼けるまで、親が残してくれた資産で食いつなぎ、原稿料を受け取る必要もない生活だった。

 気ままに下町遊里を徘徊し、娼婦や踊り子を贔屓にする。たぶん、荷風は自分が働くとしても、女と寝るにしても、自分の姿を機関車に重ね合わせたくはない人だったんじゃないかしら。(荷風と機関車つづく)
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2005/05/14 10:05 土
新緑散歩>荷風と機関車②

 荷風は、外国滞在を経験したあと、薄っぺらな日本の近代化を嫌い、落語や三味線などに入れ込んだ。そうかと思うと一転して、オペラなど「モダン」を愛好したりもする。「自分の好みに合うもの」が好きであり「本物」が好きなのであって、「近代文化のものまねにすぎない」「西洋の偽物」と感じたものを嗅ぎ分けていた。

 映画の中で、杉村春子演じる母の恒が、荷風に「アイスクリーム」をすすめるシーンがある。このシーンのアイスクリームは、荷風とぴったり合っていた気がする。あるいは、偏奇館(へんきかん=荷風の屋敷)のたたずまいと昭和はじめの頃のアイスクリームがマッチしていたというべきか。

 荷風と母との微妙な愛憎がアイスクリームに溶け合ってあっているようだった。
 「近代文化」の味アイスクリームと、儒学者鷲津毅堂の次女恒の凛とした雰囲気。
 荷風は母の臨終の席にいかなかった。アイスクリームの冷たさ甘さと母への感情。

 新藤の機関車について、1992年に映画を見た時に感じた違和感は、2005年になっても続いている。しかし、映画を一度見ただけで、見直してもいないことがにわかに気になってきた。
  自分の印象を記していて、とんでもない思いこみ、思い違いのまま書き残していることもあるからだ。

 ふたつの映画や小説の内容を混同して、ごちゃまぜになったストーリーを覚えていたり、確かに見た映画なのに、まったく内容を思い出せなかったりする。
 映画の中にでてきた機関車は、私が本当に見たのか、それとも別の映画とこんがらかって記憶されているんじゃないか、心配になった。

 1992年に見て以来、『墨東綺潭』を見直すことなくきた間、本番シーンもヘアヌードも、もはや過激表現でもなんでもなくなった。
 私の曖昧な記憶で「機関車は荷風に合わない」などと書いて、思い違いだったりしたら、困るので、岩波から出ているシリーズ『新藤兼人の足跡6 老い』を読んだ。

 シナリオ『墨東綺潭』を読むつもりだったが、シナリオのほか、「『墨東綺潭』撮影日記」の章、「『断腸亭日乗』を読む」の章も読んだ。面白かった。

 『墨東綺潭』シナリオに、機関車シーンは書いてなかった。待合「真砂」のシーン28に、「近くを汽車が通る音」と、ト書きが書いてあるのみ。
 「あれ、機関車シーンなぞ、シナリオには書いてないぞ。機関車は別の映画からのこんがらかった思いこみだったのか?」と思った。

 シナリオには、偏奇館で母親と語り合うシーンに、「アイスクリームを食べる」とも書いてない。アイスクリームは確かに食べていたよなあ。
 シナリオは単行本に載せるための加筆決定稿だが、演出を加えた撮影用のシナリオとは別なのかもしれない。

 しかし、撮影日記を読むと、私の思い違いではないことがわかった。撮影日記には、シナリオにはない機関車シーンについて書いてある。
 機関車は1991年10月14日、大井川鉄道で撮影された。

 新藤兼人『墨東綺潭』撮影日記より。
 「十月十四日 大井川鉄道へ行く。東名高速全面改修にて大渋滞、金谷駅まで五時間を要す。終点の千頭駅に行き、モンタージュ(荷風と黒沢ふみのファックシーン)用の黒煙を吐く煙突、噴出する蒸気などを撮る。」

 大渋滞に難儀しながらも、新藤はどうしても機関車を撮り、ファックシーンに使いたかったのだ。
 私にとっての機関車は、中野重治の詩『機関車』であるから、どうも荷風とは合わない気がするのだが、新藤にとっては、新藤のイメージによるモンタージュだったのであろう。
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中野重治『機関車』
彼は巨大な図体を持ち/ 黒い千貫の重量を持つ (略)
シャワッ シャワッ という音を立てて彼のピストンの腕が動きはじめるとき/ それが車輪をかき立てかきまわして行くとき/ 町と村々とをまっしぐらに馳けぬけて行くのを見るとき/ おれの心臓はとどろき/ おれの両眼は泪ぐむ(略)
輝く軌道の上を全き統制のうちに驀進するもの/その律儀者の大男の後姿に/ おれら今あつい手をあげる
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 私にとっては、機関車は「くろがねの働く者」という印象であって、親の資産によって文学道を邁進した荷風とはイメージが重ならない。
 シナリオを読んで、どうしても新藤が機関車モンタージュを使いたかった、ということはわかったが、私がこのモンタージュを感覚的に受け入れられないという結論はかわらない。好みだからしかたないね。

 撮影日記を読んで、荷風の偏奇館外観は、豊島区の雑司が谷旧宣教師館が使われていることなど、ロケ地がいろいろわかった。
 1991年10月15日は偏奇館シーンのロケ。
 杉村春子について「だいぶお年を召したがなおお元気」と書いている。
 次の自転車散歩のついでに、雑司ヶ谷宣教師館を見てこなきゃ。

 2005年4月30日土曜日の三ノ輪散歩。荷風の「日和下駄」にならえば、「日和ママチャリ」の半日。
 ぶらぶら自転車散歩、三ノ輪からの帰り道は、都電荒川線に沿って走った。

 都内に残るチンチン電車は、この荒川線だけになっているが、かって縦横にレールが敷かれていた頃、荷風は下町散策行き帰りによく都電を利用していた。荷風には機関車より都電が似合う。
 あ、似合うけど、ファックシーン・モンタージュに、都電は使えないな。
 荷風が女に重なり、そこへ都電モンタージュ。都電の警笛がチンチン、、、、萎える。

 荷風散人、寺島町から三ノ輪あたりの散歩姿、、、、。下駄をつっかけ、本を数冊風呂敷に包んでかかえて歩きまわったようすを思い浮かべながら、日和ママチャリのペダルをこぐ。
 夕暮れ、下町の揚げ物屋からコロッケを揚げる匂いが流れてくる。おなかがすいた。
(荷風『墨東綺潭』をめぐる散歩 おわり)


ぽかぽか春庭「桜アンソロジー」

2008-11-11 07:08:00 | 日記


一葉の桜

2005/04/08 12:14
春のうた>一葉の桜①

一葉も見し上野山の糸桜 明日質入れの帯締めて見る(春庭)
友よいつ帯締め詠みしや桜歌我その由を判じる春なり(ちよ)

「その由」について
 4月4日に、東京都美術館へ行ったとき、まだ上野公園の染井吉野は咲いていなかったが、エドヒガン桜や枝垂れ桜(糸桜)は満開になっていた。

 桜樹の寿命は50~60年が平均だという。(樹齢数百年と伝わる桜は、その驚異的な樹齢からみて、特別な木の精霊が守っているのだろう)

 樹齢から考えると、私が見たしだれ桜そのものと同じ桜木を一葉が見たとは思えない。でも、しだれ桜の枝のたおやかさと幹の芯の強さに見とれているうち、同じ木を一葉とともに見ているような気がしてきた。
 糸桜の下に立つ一葉・樋口夏子の姿を想像してみる。

 明治20年代、樋口一葉はしばしば上野公園にある図書館(現在は国際こども図書館として存続)に通い、「婦人閲覧室」で本を読んだ。
 図書館の行き帰りには友といっしょに桜をみたり、不忍池を散歩したり。

 本を買う金もない一葉にとって、図書館が自宅から歩いていける所にあることは本当に幸いなことだった。
 4月のある一日。朝から一日、強い近視の目をこらして読書し、夕方帰りがけに公園の中をぬけるときに、いち早く花を開くしだれ桜(糸桜)を眺めたであろう。
 
 くる日もくる日も、着物の仕立て洗濯洗い張りの内職仕事を続ける。母のタキと妹の邦子と三人で必死にこなしても、毎月いくらにもならない。
 立ちゆかない暮らしを支えるのは、まだ父が存命だったころに誂えた帯や着物の質入れ。本郷の質屋、伊勢屋に一葉は頻繁に通った。

 一葉は、中島歌子主宰の和歌私塾(萩の舎)に通い、たくさんの和歌を作っている。写生を重んじた近代短歌ではない。平安古典に準拠した江戸風の題詠が中心の和歌である。
 例えば、「桜」の題詠では

山桜ことしもにほふ花かげに 寝ざめせし よはの枕に音たてて

と詠む。

 一葉が生まれたころ、警視庁の役人と小金貸しを兼ねていた一葉の父は、まだ羽振りがよかった。一葉は、幼いときに住んでいた家を、「桜木の宿」として回想している。

 場所は現在の東大赤門前。法真寺脇。総面積233坪、建坪45坪の家で、樋口夏子は幸福な子ども時代をすごした。桜のころには、窓の外いっぱいに広がる桜の木をながめることができた。

 明治24年4月から6月までの一葉の日記『若葉かげ』には、父とすごした子ども時代を、妹といっしょに回想している。4月11日の日記から。

  父君の世にい給ひし頃花の折としなれば、いつもいつもおのれらともない給ひて、朝夕立ちならし給ひし所よと、ゆくりなく妹のかたるをきけば、むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、
 山桜ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ

帰らぬ君=父、をしのぶ歌。それは幼い日の「桜木の宿」での両親と兄二人の幸福な日々をしのぶ歌でもある。

 明治24年4月11日早朝、一葉はひごろ楽しみの少ない生活をしている妹の邦子を連れだし、まだ朝露も残る上野公園で桜を見た。花曇り。

 上野からは奮発して人力車を雇い、隅田川まで行く。長命寺の桜もちを買って留守番のお母さんへのおみやげ」と言って邦子に渡し、邦子を帰らせた。<一葉の桜、つづく>

2005/04/09 13:53
一葉の桜②

 邦子を帰らせたあと、一葉・樋口夏子が出かけようとしている場所は、萩の舎の先輩の家。裕福な実業家夫人が、和歌私塾萩の舎の師と相弟子達を花見の宴に招待したのだ。

 邦子とふたりだけの花見だったら、夏子はいつもの地味ななりで出かけただろう。
 だが、4月11日の花見は、師と共にすごす、いわば萩の舎の準公式行事。萩の舎の金持ち夫人お嬢さん達が集まる中での花見の宴に、普段のなりでは行かれない。

 華やかな衣裳比べの場でもある集まりに、夏子もせいいっぱいのおめかしをして出かけたのだろうと思う。一張羅を締めたその帯は、もしかしたら翌日には質入れしなければならないものだったかもしれない。

 明日はまた、質屋へ行かなければならないかもしれない暮らしをしている自分たち姉妹に比べ、師も友もくったくなく春の行楽を楽しみ、一日をのんんびりとすごしている。
 春雨が降り出した中、一行は別れのことばをかわし、それぞれ帰路についた。

 ひとりになっての帰り道、夏子は胸のなかで四日後の約束を確かめる。ここしばらくの間、桜よりも何よりも胸のなかをいっぱいにしてきた、約束。

 花見の日の4日後、4月15日には、友人きく子が仲介の労をとってくれた人に面会する。小説家半井桃水。どんな人だろう。売れっ子の作家というと、放埒なこわそうな人にも思えるけれど。
 でも、どうあっても必ず弟子にしてもらうのだ。なんとしても小説を売り出して、原稿料で生活していけるようにしなければ。母と妹、女三人の暮しは、19歳の樋口家戸主、夏子の肩にかかっている。
 夏子の心は、花見の余韻よりも小説のことでいっぱいになった。

 生涯の心の恋人となる人との出会いを前に、まだ恋を知らない樋口夏子は淡い春雨の中本郷菊坂の家に向かって歩きつづけた。とぼしい家計の中から買い求めた長命寺の桜餅を、母は喜んでくれただろうか。

 樋口夏子は、この明治24年の花見の日から半年後に「一葉」の筆名を使い始めた。
 4年後の28年、23歳の一葉は『たけくらべ』『にごりえ』などの傑作を世に送り出す。

 明治29年、死去。享年24歳。
 咲き初めた桜があっと言う間に散っていくような、短くも美しい24年、誰にもまねできない見事な花を、満開に咲かせきった24年である。
===================
一葉も見し上野山の糸桜 明日質入れの帯締めて見る
は、一葉をしのびつつ詠んだ。
 枝垂れ桜は、別名糸桜。着物の仕立てをなりわいにしていた一葉母娘だから、仕立ての縁語としての糸。

 一首の最後の「見る」は、普通の語法でいうなら、主語は「歌の作者」となり、作者が帯を締め、その帯を明日質入れする、という生活状況にある、という歌意となる。
 想像の中で、一葉と作者二人がいっしょに、糸桜を見上げている。

 明日の生活が立ちいかないという毎日を送りながら、それでも「書く」ことへの意志だけは糸桜の梢よりも高く掲げて、満開の花をみつめた一葉。その一葉の姿を思えば、毎日の貧しい暮しにめげそうになりながらも、かつかつ生きている自分が励まされる。

 実際の私は、着物を着て帯締めて桜を見るなんて余裕はない。一張羅の着物も姉の形見の帯も、実家の箪笥にいれたまま。浴衣以外に和服を着ることなどない。
 4月4日の服装も、いつものままのデニムパンツと姑からのお下がりジャケットだ。

 「明日質入れの帯締めて見る」は、「昔なら質屋通いでしのがなければならないようなぎりぎりの生活」の比喩であって、現実には質草になるような帯も着物もブランドバッグも宝石も持っていない。近頃の質屋は、人間国宝が織ったような帯ならともかく、なまじの呉服なんぞでは、金を出さない。(ネットオークションでも並の帯は百円単位で売られている)

 冒頭一首は、糸桜→仕立てものをした一葉→質屋通いの一葉、という連想ゲームでの創作。



2005/04/06 15:34

桜アンソロジー 山桜

 自転車で中央公園への往復の道。家々の庭や小公園に春の花がいっぱいに咲いている。チューリップ、パンジー、すずらん、木瓜、桃、雪柳。
 そして染井吉野が五分咲き、木によっては満開近くなっている。

『さくらの歌、山桜』

あしひきの山桜花 日(ひ)並(なら)べて かく咲きたらば いと恋ひめやも(山部赤人・万葉1425)

今日のためと思ひて標(しめ)しあしひきの峰(を)の上(へ)の桜かく咲きにけり(大伴家持・万葉4151)

み吉野の山辺に咲ける桜花 雪かとのみぞあやまたれける(紀友則・古今)

越えぬ間は吉野の山の桜花 人づてにのみ聞きわたるかな(紀貫之・古今)

吉野山こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりけり(西行・山家集)

あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき(同)


うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花(若山牧水・山桜の歌)

鞠もちて遊ぶ子どもを鞠もたぬ子ども見惚るる山ざくら花(北原白秋・雀の卵)





桜アンソロジー 女うたの桜

清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子・みだれ髪)

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり(岡本かの子・浴身)

城門の閉まるを告げて打つ太鼓夕桜なほ燿ひてあり(初井しず枝・夏木立)

昔とはどこより昔 桜より遠くは見せぬ春の曇りは(築地正子・鷺の書)

山辺には万朶のさくらひとりねて夢に風吹くなにぞさびしき(山中智恵子・喝食天)

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり(馬場あき子・桜花伝承)

抱(いだ)かれてこの世の初めに見たる白 花極まりて桜なりしか(稲葉京子・槐の傘)

夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと(河野裕子・森のやうに獣のやうに)

警報機鳴るやもしれぬうつし世のさくらのやみのにほふばかりを(永井陽子・なよたけ拾遺)

さくらさくらさくら咲き初め咲き終わりなにもなかったような公園(俵万智・サラダ記念日)

三百五十の闇夜を抜けて桜勁しかならず年の雨に遭ふ花(辰巳泰子2005)

押しひらくちから蕾に秘められて万の桜はふるえつつ咲く(松平盟子)


2005/04/17 17:50 

桜アンソロジー 散るさくら

 西公園の歩道に沿って歩き、枝垂れ桜を数えてみると、36本あった。35本が3~4メートルおきに立ち、一本だけ駅から遠いほうの出入り口をはさんで、ちょっと離れた場所にたつ。
 36本、歌仙の数。

 そこで36本の桜の木にちなんで、万葉から現代までの「散る桜」の歌を36首、集めてみた。「散る散らず散りぬるを我アンソロジー」
 4月6日の「さくらの歌」アンソロジーは、爛漫と咲く桜の歌が多かったが、「散る桜」を中心に集めると、万葉から現代まで千年の時の流れを、桜の花びらが散りしき流れていくようにに感じる。No.1~No.36まで、秀歌あり哀歌あり。
 ラスト一首、番外編です。ご愛嬌のごあいさつ。

「散る桜」
1 あしひきの山の際(ま)照らす桜花 この春雨に散りゆかむかも(詠人不知・万葉集巻十)

2 龍田山見つつ越え来し桜花 散りか過ぎなむ我が帰るとに(大伴家持・万葉集巻二十)

3 桜花散りぬる風の名残には 水無き空に波ぞ立ちける(紀貫之)
 
4 いつの間に散りはてぬらん桜花 おもかげにのみ色をみせつつ(凡河内躬恒)

5 ちりちらず きかまほしきをふるさとの 花見てかへる人もあはなむ(伊勢)

6 けふこずはあすは雪とぞふりなまし消えずはありとも花と見ましや(在原業平)
 
7 ひさかたの光のどけき春の日に しず心なく花の散るらむ(紀友則)

8 花の色はうつりにけりないたづらに わがみよにふるながめせしまに (小野小町)

9 山桜あくまで色をみつるかな 花ちるべくも風ふかぬよに(平兼盛) 

10 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり(藤原公経)

11 たれ見よとなお匂ふらん桜花 散るを惜しみし人もなき世に(赤染衛門)

12 またや見ん交野(かたの)の御野(みの)の桜がり 花の雪ちる春の曙(藤原俊成)

13 風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり(西行)

14 きのふまでかをりし花に雨すぎて けさは嵐のたまゆらの色(藤原定家)

15 散り散らずおぼつかなきは春霞たなびく山の桜なりけり(祝部成仲)

16 春ふかみ花ちりかかる山の井はふるき清水にかはづなくなり(源実朝)

17 咲きちるはかはらぬ花の春をへてあはれと思ふことぞそひゆく(賀茂真淵)

18 おそざくら猶のこりける花もはや けふ(今日)ふる雨にちりやはてなむ(本居春庭)

19 かぐはしき桜の花の空に散る春のゆふべは暮れずもあらなむ(良寛)

20 梢ふく風もゆふべはのどかにてかぞふるばかりちるさくらかな(香川景樹)

21 きのふけふ降る春雨に散りなむとおもふもをしき花櫻かな(明治天皇)

21 ちる花に小雨ふる日の風ぬるしこの夕暮よ琴柱(ことぢ)はづさむ(山川登美子・恋衣)

23 桜の花ちりぢりにしも わかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ(釈迢空・春のことぶれ)

24 みもごろに打ち見仰げばさくら花つめたく額(ぬか)に散り沁みにけり(岡本かの子・わが最終歌集)

25 花過ぎし桜ひと木の遠(おち)にして児湯(こゆ)のみ池の水照(みでり)かがよふ(木俣修・高志)

26 ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも(上田三四二)

27白じろと散りくる花を身に浴びて佇(た)ちお りわれは救はるるなし(岡野弘彦・海のまほろば)

28 夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん(馬場あき子・雪鬼華麗)

29 風ふけば幼なき吾子を玉ゆらに明るくへだつ桜ふぶきは(美智子妃1980歌会始)

30 健やかに共に老いたし夫(つま)とゆく サイクリング・ロードに桜花散る(今西文子1980歌会始)

31 桜吹雪くぐり来てあふ観音の黒き御衣(みけし)の裾ひるがへる(小野興二郎・紺の歳月)

32 さくら花ちる夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む(小中英之・翼鏡)

33 桜ひと木ほむらだつまでぶぶく見ゆ 全き荒(すさ)びの為(な)す しづか見ゆ(成瀬有・流されスワン)

34水流にさくら零(ふ)る日よ 魚の見るさくらはいかに美しからん(小島ゆかり・水陽炎)

35 散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝をはなれる(俵万智・かぜのてのひら) 

36 乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる(辰巳泰子・紅い花)
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散り果てて冷雨の宵の川縁(かわべり)に 一葉桜の細き枝揺れる(春庭)

ぽかぽか春庭「『放浪記』bookガイド」

2008-11-09 11:46:00 | 日記


2005/06/20 月
新緑散歩>花の命は短く⑯林芙美子ブックガイド

 『晩菊』『浮雲』『めし』など、戦後の芙美子の代表作は、成瀬巳喜男によって映画化された。成瀬巳喜男生誕百年を記念して、この夏にはDVDも発売される。
 
 林芙美子が生涯に書き続けた文章、原稿用紙にすると400字詰めで3万枚にも及ぶという。
 しかし、それにしては現在一般の本屋で手に入る本はごく少ない。

 もともと「純文学」志向の戦後文壇からは「大衆作家」「流行作家」と一段低くみなされていた芙美子だが、1903年から生誕百年、1951年から没後50年もすぎ、著作権も切れたところで、そろそろ再評価の機運が高まってきたのでは、と思うので、ブックガイドを。

林芙美子 著作(現在、本屋で手に入る本)

0 青空文庫(ネットで読める林芙美子作品)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person291.html

1 『放浪記』(新潮文庫)
 大正の終わりから昭和の初めの時代を放浪した「私」の日記体の小説。関東大震災後、変貌していく東京の街を、「私」は、自分の足で歩き続ける。

2 『浮雲』(新潮文庫)
 第二次戦争下のインドシナ半島と、敗戦後の東京、そして屋久島を舞台に、主人公ゆき子の恋を描く。成瀬巳喜男の傑作と評価の高い映画の原作。

3 『北岸部隊』(中公文庫2002年)
 中国戦線、長江北岸部隊従軍記
 兵士と共に凄惨な最前線を行軍した記録。芙美子の「従軍日記」をもとに、伏せ字を復元して出版された。

5 『林芙美子 巴里の恋』(中公文庫2004年)
 芙美子が作品として発表した「下駄で歩いた巴里」に対して、こちらには、芙美子の「巴里滞在日記」「小遣い帳」「夫への手紙」が、遺族の許可を得てそのまま掲載されている。
 恋人を追いかけて巴里へ行ったという芙美子の交際相手、巴里で出会い恋心を抱いたという相手についても、研究が行き届き、実名があかされている。

林芙美子に関する著作

6 『林芙美子の昭和』川本三郎 (新書館)
 1930年(昭和5)に『放浪記』をベストセラーにして以来、1951年までの昭和を駆け抜けた芙美子の評伝。

7 『太鼓たたいて笛ふいて』井上ひさし(新潮社)
 戦中戦後の芙美子とその母、庶民にとっての戦争と国家を、音楽劇で描く。
12:31 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/22 水
新緑散歩>花の命は短くて⑱「放浪記」散歩エピローグ

 芙美子が尾道から上京し、ひとり歩き回った東京の街々。家を建て家族で暮した落合。
 芙美子が暮した町を、私も30年余、通りぬけてきた。
 私が過ごした町、新宿市ヶ谷河田町、杉並下井草、阿佐ヶ谷、高田馬場、早稲田、神楽坂、王子、西ヶ原、巣鴨、、、、芙美子の街に重なって、私の物語も積まれていく。

 芙美子が「凍れる大地」と表現した旧満州の広野に沈む夕陽をながめて、私も半年間中国東北地方(旧満州)に滞在した。ハルビン、長春、大連、、、、

 これからも、私はぶらぶらとあてのない散歩を続けていくだろう。あるときは芙美子が夜通し歩いた道をたどり、あるときは芙美子が涙を流し続けた駅前広場に立つ。

 ときに地理を横切って歩き、ときに時間を遡って歩く。
 東京散歩。さまざまな人の脇を通って歩く。
 脇目もふらず、仕事のために歩いている人もいる。のんびりと夫婦で日々を楽しみながら散歩している二人連れもいる。

 私はひとりで歩きつづける。心の放浪散歩は、花の盛りがすぎたとしても、ずっと続く。
 「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」
(「芙美子の放浪記」散歩 おわり)


ぽかぽか春庭「林芙美子『放浪記』散歩」

2008-11-08 15:07:00 | 日記
花の命は短くて 林芙美子「放浪記」

2005/06/01 水
新緑散歩>花の命は短くて①林芙美子記念館 

 桜、桐、藤、つつじと花を追いかけた散歩。
 咲く花は美しく、ひとときの栄華を咲きつくしたあとは静かに散っていく。
 
 「花の命はみじかくて、苦しきことのみ多かりき」は、人口に膾炙した林芙美子のことば。芙美子は、好んで色紙に書き残した。
 6月29日は林芙美子の命日。1951年、芙美子は東京落合の家で亡くなった。
 人気女流小説家として締め切りに追われるままに書き続け、流行作家の花の盛りがつづくさなか、48歳で生涯を閉じた。

 林芙美子が晩年に住んだ「落合の家」は、新宿区の文化財として保存され、林芙美子記念館として公開されている。
 5月はじめ、西武新宿線中井駅から記念館へ向かった。

 静かな住宅街の一角にある瀟洒な木造平屋。1941年から1951年に亡くなるまで、芙美子は母親、夫・緑敏、養子・泰といっしょにこの家で暮した。
戦争末期は一家で信州に疎開していたから、実際に芙美子が住んだのは8年ほどになる。

 数寄屋造りの家は、玄関客間などの棟と、芙美子の書斎や夫のアトリエ部分の棟、ふたつの棟に分かれている。戦時中の建築なので、建築制限があったため、夫婦が一つずつの棟の所有者となるという苦肉の設計になった。一軒30坪以内の建築制限に対応して、2棟で60坪の家に土蔵がついている。

 芙美子は建築関係の本を読みあさり、設計に心傾け材木を吟味して建てたという。芙美子が執筆を続けた書斎などが往時のまま残され、夫の緑敏のアトリエは、夫妻の写真や芙美子自画像などを展示する資料室となっている。

 林芙美子は、1903年(明治36)生まれ。1930年、27歳の時出版した『放浪記』がベストセラーとなり、一躍人気女流作家となった。戦争へとひた走る時代、戦中戦後、激動の昭和史を、林芙美子は駆け抜け、書き続けた。

 私たちがイメージする林芙美子は、芙美子実像ではない。主として三人の作家の「それぞれの芙美子像」によっている。
 菊田一夫、田中澄江、井上ひさしが、芙美子を主人公としたドラマを創作した。
 菊田『放浪記』の主演は森光子、田中『うず潮』の主演は林美智子、井上『太鼓たたいて笛ふいて』の主演は大竹しのぶ。それぞれ独自の林芙美子像を描き出した。
 
 菊田一夫作、森光子主演の舞台『放浪記』は、芙美子が作家として成功するまでの、若い時代を中心に描いている。
 1961年の初演以来、森光子の代表作品となり、これまで1759回の舞台公演を記録した。私は、初期の舞台中継を白黒テレビの時代に見た覚えがある。

 5月22日にNHKから放映された森さんを追ったドキュメンタリーと、明治座改修前最終公演の『放浪記』舞台公演をビデオにとっておいて見た。85歳の森さんが、20代~40代の芙美子を演じ、生き生きとした姿をみせていた。(花の命は短くて(林芙美子)つづく①~⑰)
06:59 | コメント (7) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/02 木
新緑散歩>花の命は短くて②放浪記 

 田中澄江脚本、林美智子主演のテレビドラマ『うず潮』(1964年4月~1965年3月)。NHK朝のテレビ小説を「女の一生、波瀾万丈路線」として決定したヒット作となった。
 私の母は、家族を会社や学校へ送りだしたあと、毎朝必ずこのドラマを見ていた。家事をはじめるのは、ドラマが終わった8時半から。

 母が新潮文庫の『放浪記』を持っていて、「テレビのうず潮の主人公が書いたお話だ」というので、どんなのかと思って読んでみたことがある。
 が、その当時は、「そんなに夢中になってテレビ見たくなるほど、魅力的な女性とは思わないけどなあ」という感想しか持てなかった。

 芙美子を主人公にした作品、最近の作では、井上ひさしの戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』がある。井上は、戦中戦後の芙美子を描く。
 他の多くの作家たちと共に「戦意高揚」のための「ペン部隊」一員として軍に協力した戦中から、戦争末期の反戦的な言動で、当局ににらまれる存在になった時期の芙美子を中心に描いている。
 菊田の『放浪記』とも田中の『うず潮』とも異なる芙美子像を現出した。

 林芙美子の出世作『放浪記』は、1930年(昭和2)改造社から発売された。大正11年から15年ころの芙美子の日記をもとにまとめたもの。「苦闘の生活と精神」が生き生きとした文章になっている。

 今読むと、すごい文体だなあと思う。若い女性の情感と生理と生きる情熱が、ほとばしり出るような躍動感がある。
 今から見れば極貧ぎりぎりの生活の描写なのに、生きる希望にあふれているように感じる。

 小説家の家の子守女中、露天商、セルロイドキューピー人形の工場女工、カフェの女給などをして転々とする芙美子。どん底の暮らしの中で本を読み続け、詩を書き続ける20歳前後の芙美子の姿が描かれており、当時としては破格の50万部のベストセラーとなった。

 私が現在持っている新潮文庫版『放浪記』は、『放浪記』が人気を得たあと続けて出版された「続放浪記」「放浪記第三部」などをまとめた拡大版の『放浪記』。
 文庫初刷は1947年なので、たぶん、母が読んだのと同じ編集だと思う。

 続編を付け加えただけでなく、初版の『放浪記』部分も、改稿されている。 私は改造社版と読み比べていないので、改稿の前と後がどう違うのかわからない。

 すでに女流作家としての地位を確立したあとの芙美子は、「成功した女流作家の自伝的作品」としてふさわしくない表現を改稿し、『原・放浪記』より、文学的にずっと「ソフィストケィテド」された作品になっているのだという。
 「プロレタリア詩人」として出発した芙美子が、「上昇志向の女性作家」へと変貌したあとの視点で書かれているので、その分、初版の噴出するエネルギーが減ったと見なす評者もいる。

 文学研究者でない一般の読者が、芙美子によって封印された初版の『放浪記』を読むチャンスはほとんどない。私たちは「名をあげた作家、芙美子」の自意識にかなった文章を読むしかない。(つづく)

09:37 | コメント (4) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/04 土
新緑散歩>花の命は短くて③ライバル花しょうぶ

 新潮文庫版の『放浪記』は、版を重ねてきたが、舞台の放浪記を見てから原作を読む人のほうが多くなってきたかもしれない。
 成瀬巳喜男(生誕百年!)の映画、『晩菊』『浮雲』『放浪記』などから、原作へ向かったという人も。<machychan

 芙美子亡きあとの「林芙美子像」、多くの人のイメージにあるのは、菊田一夫の舞台『放浪記』の芙美子であったり、テレビドラマ『うず潮』の中の芙美子である。
 私も、長い間、森光子演じる舞台姿によって林芙美子をイメージしてきた。

 菊田の『放浪記』。芙美子の姿は、森光子と重なる。そして、もう一人の女性によって、そのイメージが決定される。主人公芙美子と関わる友人、芙美子と競い合って作家をめざす日夏京子である。

 菊田一夫は、舞台の上に、重要な脇役として「日夏京子」を登場させた。先日のNHK舞台中継では池内淳子が日夏京子を演じていた。私が昔見た舞台中継では、奈良岡朋子が演じていたと思う。
 林芙美子のライバルであり、ラストシーンで芙美子に語りかける友達。ラストの余韻を観客に与えるたいへん重要な役どころである

 芙美子には平林たい子や壺井栄など、文学仲間がいたが、菊田の戯曲には登場しない。舞台で最もふみ子と親しい友人として登場する日夏京子は、菊田が創作した架空の人物である。
 創作した人物を主人公の次ぎに重要な役として登場させたと言うことは、意味が大きい。菊田が語りたいことを、この人物を通して語らせていると思うのだ。

 菊田戯曲のなかで、芙美子と京子は、ともに作家として成功しようと競いあっている。
 ライバルの作品と自分の作品のうち、どちらか一人が文芸雑誌に作品を載せることができるという大事な瀬戸際で、芙美子は、ライバルを蹴落とす。

 京子から「雑誌編集者に届けてね」と頼まれた原稿を、締め切りがすぎてから届ける、という作戦をとったのだ。
 芙美子がいいわけするように、「本当にうっかり忘れて」しまったとは、誰もが信じてていない。芙美子は自分の文学を成就するためには、どんな手段でもとる女として描かれる。
 実像の芙美子はどうか。

 芙美子が48歳で死去したとき、文壇の人々、出版関係の人々が葬儀に集まった。その中にはあからさまに芙美子の悪口を言いふらしている人も混じっていた。
 芙美子は、自分のライバルとみなしうる作家が出現しそうになると、さまざまな手段で追い落としを図った、と陰で言われいた。人気作家の地位を守るために、手段を選ばなかったと。

 故人と家族ぐるみの親交があった作家として、川端康成が葬儀委員長の役を引き受けた。川端は、芙美子へ遺恨を持つ人も参列者に混じっていることを承知の上で、故人を許すようにと言う意味の弔辞を述べた。

「故人は自分の文学的生命を保つため、他に対して時にはひどいことをしたのでありますが、しかし後2、3時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうかこの際、故人を許してもらいたいと思います」

 川端が葬儀でわざわざ「故人をゆるしてやってくれ」と述べなければならなかったほど、芙美子は毀誉褒貶の渦のなかで作家業を続けていたのだ。(つづく)
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2005/06/05 日
新緑散歩>花の命は短くて④幕切れの許し 

 菊田一夫は、芙美子に追い落とされ、大成しなかった作家志望の人々を代表させる形で、日夏京子を創作した。

 菊田は、晩年の芙美子を落合の家に訪ねていった京子にこう言わせる。
 「あたし、あのときのこと、もう少しも恨みになんか思っちゃいないのよ。あんたが気にしているかと思って、今日はそのことだけ言いにきたの」

 「日夏京子が作家になれなかったのは、最初のチャンスを芙美子がつぶしたからだ」と、周囲の人は思っている。京子は、芙美子がそのことを負い目に感じたまま過ごしてきたのではないか、と気にしてきた。

 日夏京子にはすでにわかっている。チャンスを得るために、がむしゃらに他を蹴落とそうとし書き続ける情熱を、芙美子は持っており、自分にはそのがむしゃらさが持てなかった。
 もし、京子がほんとうに書くことでしか生きていけない人間だったのなら、芙美子がどうしようと、次のチャンスを見つけ、芙美子と同じようにがむしゃらに書き続けただろう。

 しかし、京子はそれをしなかった。安定した家庭生活を保障してくれる夫との結婚を選び、平凡ながら幸福な妻としての人生をおくってきた。
 そのことに悔いはないから、芙美子が作家として成功した今、「もう恨みになんか思っちゃいない」と、京子はわざわざ告げにきたのである。

 ファンも多かったが、文壇に敵も多く作った芙美子への「許しのことば」を、菊田は、日夏京子に語らせた。

 菊田の『放浪記』最終場面。
 舞台『放浪記』のラストシーンは、実際の「落合の家」の客間をそっくり再現している。

 芙美子は「一度断ったら、日本の作家なんてたちまち忘れられてしまうから」と言い、ひきもきらぬ執筆依頼を次々に受けていく。
 締め切りに追われ、徹夜徹夜で書き続けて、疲れ切る芙美子。机にもたれたまま眠ってしまう。

 京子は芙美子に毛布をかけてやり、「おふみ、あんた、ちっとも幸せじゃないのね」と、つぶやいて客間を出ていく。そのまま寝続ける芙美子。静かに幕が下りてくる。

 私は、林芙美子記念館を訪れて、晩年の芙美子が、母、夫、養子とともに暮した家をこの目で見るまでは、この菊田の創作した日夏京子の「許し」と「不幸せな芙美子への同情」を、文字通りに受け取っていた。

 流行作家となり、大きな家も建てた。母親に着慣れない被布を着せて飾り立て、見栄をはる。後進作家の追い上げに負けるものかと書き続け、人気作家の地位を守ろうとする。
 徹夜徹夜で書き続けた芙美子は、疲れ、少しも幸せそうには見えない。
 舞台のラストシーンから、そういうメッセージを受け取っていたのだ。

 だが、芙美子の家に行き、芙美子の暮した生活の手触りを、台所や風呂場や客間、書斎と辿っていくうち、ああ、芙美子は書いて書いて書きまくって、やはり作家として幸福だったのだ、と感じた。(つづく)
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2005/06/06 月
新緑散歩>花の命は短くて⑤夫・緑敏

 林芙美子記念館展示室は、芙美子の夫緑敏のアトリエだった部屋。
 緑敏は、画家としては大成しなかったが、温厚な性質で、芙美子に寄り添い仕事を続けさせた。芙美子をおだやかに支え続ける「内助の夫」だった。

 緑敏が芙美子と出会ったのは、1926年(大正15)秋。その年の12月にはいっしょに暮し始めた。年の暮れ、時代が昭和へと変わる中、貧しい画家と貧しい女詩人の同棲生活。二人で励まし合い、夢を語り合う暮しだった。
 芙美子は親友の平林たい子らと共に、「社会文芸連盟」に参加し、書く事への意欲はすます強くなっていった。

 1928年(昭和3)長谷川時雨主宰の『女人藝術』に『放浪記』連載をはじめる。連載は評判となり、芙美子は「女流作家」の足場を固めた。

 1930年に出版された『放浪記』が大成功を納め、経済的な面での心配がなくなると、翌1931年(昭和6)芙美子はひとりパリへ旅立った。
 パリでの芙美子は新たな恋心を燃やす出会いを経験した。芙美子28歳のとき。しかし芙美子は、結局夫のもとに戻ってきた。

 清岡卓行は、芙美子の「パリの恋」の相手、S(のちに建築家となる)との仲について、
 「二人のあいだは、最後まで清純なままつづいたようだ。彼女は遠い東京で待っていてくれる画家の夫の緑敏、辛酸の生活をともに生き抜いてきた心の優しい男を裏切ることが、たぶんできなかったのである」
と評している。

 芙美子と緑敏は事実婚のまま同居生活を続けた。世田谷から落合へ。
 借家を出なくてはならなくなり、1939年に借家の近くに土地を買い求めた。芙美子は二年の歳月をかけて家造りをした。1941年、緑敏名義と芙美子名義の二棟の数寄屋造りの家が完成した。

 林芙美子と手塚緑敏が、正式に婚姻届を出したのは、敗戦前年1944年になってから。
 戦火が激しさを増し、明日のことはどうなるか分からない、という状況の中、疎開や配給の手続のために「正式な婚姻」であることが必要になったと思われる。

 緑敏が林家に入る形をとり、以後、夫は林緑敏と名乗った。(画名は、本名のよみ方でなく音読みを使用し、「ろくびん」と呼ばれている)。
 1943年、芙美子40歳のとき、林夫妻は生後間もない赤ん坊を養子にした。泰(たい)と名付け、ふたりで溺愛した。泰も1944年に入籍している。

 1944年4月に一家は長野へ疎開した。母キク、養子泰と共に、夫の故郷に近い長野県山之内町で敗戦まで暮した。
 幸運なことに「落合の家」は戦災をうけることなく残り、一家は敗戦後まもなく帰京した。(つづく)
07:45 | コメント (2) | 編集 | ページのトップへ


2005/06/08 水
新緑散歩>花の命は短くて⑥母子草・芙美子と養子 

 戦後、学齢に達した泰を学習院に入学させ「何様のつもり」と悪口を言われたりした。
 しかし、だれが何と言おうと、母親には被布を着せて床の間の前の座布団に座らせ、息子にはピアノを習わせ学習院に通わせた。
 芙美子にとって、自分の貧しく惨めだった少女時代を補償するには、それでもまだあきたりない思いだったろう。

 泰といっしょに食事している写真が展示室にある。愛してやまない息子が、美味しそうに食べる姿を見つめる、ごく普通の母親としての芙美子がそこにいる。

 1941年から、1951年に亡くなるまでの10年間のうち、芙美子が、お気に入りの家に住むことができたのは、戦前戦後あわせて8年ほど。長野に疎開していた2年間は、厳しい生活だったが、焼け残った落合の家で、芙美子は家族と幸福にすごすことができた。
 「落合の家」を見学すると、芙美子と緑敏の「世間からは風変わりと見られても、ふたりは幸せな夫婦だった」という夫婦像を感じる。

 娘・芙美子の出世に満足している母、妻を愛し支えてくれる夫、何不自由なく育ててやることのできる息子。
 緑敏の道楽といえば、裏庭にバラ園を作り、薔薇の大輪を丹精することくらい。
 短い間であったとしても、この「落合の家」での芙美子は、けっして不幸せではなかった。

 確かに、執筆に追われ、命を縮めてまで書き続けた芙美子であった。
 しかし、日夏京子が、書き疲れて眠る芙美子に「おふみ、あんたちっとも幸せじゃないのね」とつぶやくのは、「違う」と、感じた。
 この落合の家で書き続けたことは、芙美子にとって、「ちっとも幸せじゃない」わけがない。

 書き続けることは、芙美子にとって必要であり、幸福なことだったのだ。書くことで生きていくのが作家だから。
 書きたい人間にとって、書いて表現できる場があることが一番の幸福なのだ。書かずにいられないから書くのだ。

 菊田の『放浪記』の最終場、「落合の家」のシーンには、作者の菊田一夫自身も登場する。本当に菊田が落合の家を訪れたことがあるなら、文芸者として生きていこうとする菊田は、芙美子の「書き続けることのできる幸福」を感じていたはずだ。
 では、なぜ菊田は「ちっとも幸せじゃないのね」と、日夏京子に言わせたのだろうか。

 『放浪記』の舞台を見ているのは、中年高齢の女性が多い。商業演劇の観客層が中高年の女性であるのはどの劇場も同じことだろうが、森光子主演『放浪記』は、圧倒的にその比率が高い。
 菊田一夫は商業演劇の舞台と観客を知り尽くしていた。舞台を見て感動して帰宅するその家で、女たちは明日も代わり映えのない日常をすごす。今日も明日も、家族を支えてメシを炊き洗濯をして生きていくのだ。
 日夏京子は、彼女たちの代弁者なのではないかと思う。(つづく)
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2005/06/09 木
新緑散歩>花の命は短くて⑦二人静 

 日夏京子は、芙美子とともに作家をめざしていた。しかし、芙美子のために作品を雑誌に載せるチャンスを奪われ、その後は金持ちの白坂の妻として、白坂亡きあとも再婚して平凡な妻として暮している。

 「作家になる」という野心は成就しなかったけれど、平凡な妻としての人生を歩んだ京子が、作家として成功した芙美子に向かって「あんた、ちっとも幸せじゃないのね」と、つぶやくのは、大多数の「野心を捨ててきた女」たちへの救済のセリフじゃないのか、と今回の池内淳子が情感をこめて残すセリフを聞いて感じた。

 日夏京子は、疲れ果てている芙美子を「幸せには見えない」と感じることによって、芙美子を許し、自分自身の平凡に過ぎ去った人生を救っている。

 もし、作家として成功した芙美子が、家庭人としても幸福のまっただ中にあり、好みの家を建て、女中や書生をつかいながら、平和な家庭の幸福をも享受している、というラストだったら、、、、、

 養子にした息子を学習院に入学させ、人々の揶揄や嫉妬を蹴飛ばしながら書き続ける流行作家芙美子が、「花の命は短かったかも知れないけれど、大輪の花を見事に咲かせ切った」として、幕となったのなら、、、、

 おそらく舞台の最終幕が下りてくるとき、観客のカタルシスは半減することだろうと思う。
 かって葬儀の場にまで「芙美子をよからずと思う人たち」がいた。成功した女性作家には、男性からも女性からも嫉妬と羨望と揶揄が押し寄せてくる。
 それを知っている菊田は「舞台の上では、芙美子を決して幸福にはできない」と考えて戯曲を作り上げたのだ。

 あるサイトに「林芙美子の人生」への感想が出ていた。
 (芙美子の一生が)順風満帆で、興ざめであった」と。
 ご夫婦で歩いた場所を、写真で紹介している「散歩記録」のサイトに出ていた、林芙美子記念館訪問の感想である。
 「芙美子を『不遇な作家』と思いこんできた人の感想」として、一般的なものかもしれない。

「中年夫婦のぶらぶらある記http://www.parkcity.ne.jp/~pierrot/」より
  「放浪記」に代表されるように、芙美子は不幸で不遇な一生を送ったものと思っていたが、展示資料を見ると恵まれた一生のように見える。つまり、
 19歳:尾道高等女学校を卒業し、上京。23歳:その後一生連れ添った夫「手塚緑敏」と結婚。25歳:放浪記が雑誌で好評を得る。28歳:ヨーロッパ旅行に行く。38歳:当地に豪邸を建てる。40歳:養子「泰」を貰い、その後一生この子に愛情を注ぐ。
 など、順風満帆で・・・少々興ざめであった。 」
(つづく)
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2005/06/11 土
新緑散歩>花の命は短くて⑧一人静 

 菊田は、「不幸で不遇」なままの芙美子像こそ、多くの観客に受け入れられる、と確信して、あの『放浪記』ラストシーンを書き上げたのだろう。
 林芙美子へ、周囲の人たちが感じた「羨望と憎しみ」を残してはならない。
 観客が、快く芙美子の生涯へ拍手を送って帰宅するには、芙美子が幸福に見えては「興ざめ」となることを菊田は知っていた。

 平凡な日常の疲れを癒しに劇場へやってきて、ささやかな慰安のとき非日常のひとときを過ごす観客に、「自分の人生への、疑問や否定」を残すことは商業演劇の仕事ではない。

 芙美子への「負の感想」を払拭するために、菊田は日夏京子にセリフを与える。「おふみ、あんた、ちっとも幸せじゃないのね」」
 徹夜続きの執筆に疲れ切り、暗い顔をして眠り込んでしまう芙美子の姿。余韻の中に観客は涙を浮かべ、懸命に生きたひとりの女性に拍手を送って家路につく。

 あらゆる手段で書くことを追求し、作家として成功した芙美子が主人公である一方、「作家としては成功せず、平凡な一生を生きた日夏京子」を脇役に据えることで、菊田の舞台『放浪記』は成立しているように思う。

 もし、本当に芙美子が、作家として家庭人として不幸な生活を送っていたのだったら、落合の家は「作家の棘」でささくれだっていただろう。
 芙美子は書くことで生きていた。書き続けることが芙美子にとっての幸せだった。
 特に敗戦後の6年間、芙美子はある覚悟を持って書き続けていた。家族もそれを理解していたから、芙美子が書くことによって生きていこうとするのを静かに見守っていたのだ。

 1951年に48歳で芙美子が亡くなったあと、緑敏は、落合の家をそっくりそのまま保存した。妻が設計に心をくだいて作り上げた姿のままに残したのだ。
 妻がいなくなった家。緑敏にとっては、なおいっそうのこと、間取りのひとつひとつ、家具調度のひとつひとつが亡き人の思い出となり、芙美子が使っていた机もペンも、芙美子の面影をだどるよすがとなっていたことだろう。

 8歳で養母芙美子と死に別れた養子の泰は、その後、交通事故により早世し、養母の元へいってしまった。
 「行商人の娘だった貧乏作家が、成り上がったあとは、息子を学習院に入学させるのか」という揶揄を受けたことを、泰自身は成長したあと、どう受け止めていたのだろうか。
 養母芙美子に死に別れ、自分自身も若くして亡くなる運命だったとは。

 緑敏は息子にも先立たれ、ひとり落合の家を守って暮した。
 1989年(平成1)に緑敏が亡くなるまで、落合の家は芙美子がいた当時のまま保たれた。エアコンをつけることさえせずに、緑敏は、芙美子の机、芙美子の書棚をそのまま保存した。

 1941年に建てられ戦火を免れた「落合の家」は、築50年を経て「昭和の民家」として貴重な文化財となった。
 緑敏亡きあと、遺族から新宿区へ寄贈され、林芙美子記念館として公開されている。(つづく)
====================
以上で第一部「林芙美子記念館と菊田一夫『放浪記』最終幕、落合の家シーンについて」おわり。
以下、第二部「林芙美子---歩き続け書き続けた」
 戦前、戦中、戦後、芙美子は旅を続け歩き続け、そして書き続けた。作家林芙美子の足取りをたどります。⑨~⑱
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2005/06/12 日
新緑散歩>花の命は短くて⑨「放浪記」再読 

 かって芙美子が使用していた落合の家の書庫には、『放浪記』の初版本や、芙美子の愛読書などが収蔵されている。
 『放浪記』、何度か読み返してきた林芙美子の代表作。

 『放浪記』は日記をもとにした体裁をとった文体で書かれており、作中の「私」は作者自身と一致していると読者は受け取って読む。
 確かに「自伝的小説」ではあるが、自伝そのままではない。あくまでも「私」を主人公とした小説である。
 日記体の日付は出てくるが、年代などは前後をいれかえたりして、芙美子の伝記年表とは異なっている。

 新潮文庫『放浪記』は、「放浪記以前」というタイトルの章から始まる。まずしい両親との暮し、九州一円を行商して歩いた子どものころ。

 『放浪記』冒頭

 『私は北九州の或る小学校で、こんなうたを習ったことがあった。
 更けゆく秋の夜 旅の空の/佗しき思いに 一人なやむ/恋しや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。』

 古里を持たない「放浪者」としてデビューし、大衆の熱狂的な支持を得た林芙美子は、その死以後まで「放浪者」としてのイメージがついてまわった。
 安定した定住者としての芙美子は芙美子ではない。放浪を続ける漂泊者のイメージを保ち続けるよう、菊田一夫は戯曲の『放浪記』を書き上げた。

 芙美子自身が好んで色紙に書き残した「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という箴言も、「書き続けることの業」をこのように思っていた実感なのかも知れないし、芙美子が自分へのイメージを「苦しいことばかり多い中を生き続けている」という装いにしたいがためのエピグラフだったかも知れない。(つづく)
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2005/06/13 月
新緑散歩>花の命は短くて⑩東京放浪 

 『放浪記』子ども時代の次の章は、東京の小説家近松秋江宅でのエピソードから。
 「私」は子守女中をしている。赤ん坊を背負って寝ついたと思うと、すぐに廊下の本箱からチェホフを引っ張りだして読み出す。12月の寒気も気にならない。赤ん坊は寝てるんだから、本読むくらいいいじゃないの、と、思ったら、たった2週間でヒマを出された。

 近松秋江は『黒髪』などで知られる、男女の情痴話を得意とする文士だった。有名文士なのに、子守女中の2週間の働きにたった2円しか払ってくれなかった。
 汽車道の陸橋の上でたった2円が入った紙包みを確かめると、「足のそこから、冷たい血があがるような思いだった」と、芙美子は書く。

 地方によって差があり、東京の物価人件費と異なるが、この時代、ある地方の資料によると、1918年(大正7)の一日の手間賃は、大工が1円70銭。日雇い労働者は1円。1925年(大正14)の手間賃は、大工左官は2円70銭。
 芙美子が上京したのは1922年(大正11)頃。東京での賃金、2円は日雇いの1~2日分ほどの手間賃だったろう。
 (貨幣価値の変動がある時代だし、人件費の安い時代なので一概に比較できないが、現在の貨幣価値に換算すると、2円は4000円~5000円ほど)

 「放浪記」の中では、繰り返し、一ヶ月の生活に30円あったらうれしいと書かれている。
 たった2円の全財産で、さて、どこで寝泊まりすればいいのか。

「新宿旭町」
 住み込みの近松秋江宅を出され、行くところもない芙美子は、新宿スラム街の木賃宿に泊まる。汚れた薄い蒲団、蚤しらみは当然という場末である。
 「私」の蒲団の中に刑事に追われている商売女が潜り込んでくる。このエピソードは、菊田の舞台でも場面を変えて使われている。

「麹町」
 自分を難破船のようだと思いながら、翌日「私」は神田の職業紹介所へいった。麹町三年町のイタリア大使館へ女中の仕事を求めて行ってみるが、異人のもとで女中をするのがためらわれる。

「渋谷道玄坂」
 春、道玄坂に店を張る露天商になり、メリヤスの猿股を売る。露店本屋の売り物が気に掛かるが、本が買えるようになるほど、自分の商売はうまくいかない。
 露店を斡旋してくれた安さんが電車にひかれたというので、芝の安さんの家へ見舞いに行く。安さんが死ぬと、露店も出せなくなった。

「大久保百人町」
 大久保の派出婦会へ行ってみる。薬の整理係の仕事を斡旋された。

「東京駅」
 東京へ呼び寄せてしばらく一緒に暮した母が、祖母の危篤の報で岡山へ帰るという。東京駅へ母を送っていき、下りの汽車に乗せた。
 ひとりになると、駅前広場で涙があふれて止まらなくなる。

「田端」
 その後、「私」は下宿で男と同棲している。
 男は俳優志望。女を働かせ、自分は滝野川にある芝居の稽古場へ通う。「私」は神田の牛屋の女中になり、帰りの市電もなくなるまで働いて、歩いて帰ることもあった。上野公園下まで歩くと疲れ切ってしまい、知らない人に声をかけて、根津まで自転車にのっけてもらう。
 「私」が尽している男は、金をひそかに隠し持ち、他の女と浮かれている。

「麻布」
 慈善事業をしているという子爵夫人のお屋敷へ出かけて、「夫が肺病なので、援助してもらいたい」と申し込み、案の定、体よく追い払われた。

「新宿」
 「私」は、新宿のカフェーで、女給たちの手紙の代筆をしてやり、売れない原稿を書き続ける。
 降り続ける雨。カフェの女給部屋で、ルナチャルスキイの『実証美学の基礎』を読み、「何の条件もなく一ヶ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活ができるだろうと思う」と、書きつける。

 汗ですぐ破れるメリンスの着物。勉強したいと思いながらも自堕落に落ちていきそうになる「私」。暑さに負けそうになる自分が、アヘンのようにずるずるとカフェー稼業に溺れていくようで悲しい。

「浅草」
 たまの休みを浅草ですごす。焼き鳥を食べ、甘酒を飲み、しるこを食べる。芝居小屋の旗を見る。役者の名前が書いてある旗。別れた男の名が風にさらされている。

 『放浪記』前半に出てくる地名を書き抜くだけで、大正から昭和へかけての、東京地図が描ける。

 「私」は実によく東京の街を歩いている。電車賃が出せないこともあり、神田から田端まで、駒込から新宿まで、など、東京の街を徒歩で1時間、2時間、3時間と歩き続けた。だれも頼らず、自分の二本の足だけで立ち、前へ進んでいく。

 歩くことは精神の自立を確かめることでもある。歩くことで「私」は自分を奮い立たせ、歩きながら考える。

 新宿、神田、麹町、渋谷、大久保、田端、神楽坂、麻布、浅草、杉並高円寺、本郷、駒込、、、、 地名のひとつひとつに、ひとりで歩き続ける「私」の物語がある。
 貧しさに押しつぶされそうになりながらも、きっと前を見つめ、歩き続ける「私」。(つづく)
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2005/06/15 水
新緑散歩>花の命は短くて⑪旅中の芙美子、戦下の芙美子

 林芙美子は「旅好き」な女性であった。明治生まれの女性としては、同じ時代を生きた人の中で最もたくさんの土地へ出かけたひとりだろう。実によく旅をしている。
 幼い頃の「行商の旅」暮らしを経験して、むしろ「安定した定住志向」になるかと思うのに、『放浪記』を出版する前から、芙美子は好んで旅に出ていた。

 1930年(昭和5)1月には台湾へ。台湾総督府の招待旅行、講演旅行であった。1930年7月に『放浪記』を出版。8月には中国大陸を旅行。ハルビンなどを訪れた。

 1931年(昭和6)には念願の欧州へ。巴里、ロンドンに滞在した。このときの巴里滞在記を含む芙美子の紀行文集は『下駄で歩いた巴里』(岩波文庫)として、現在入手可能。

 1933年(昭和8)伊豆大島、因島へ旅行。義父の死により母を引き取り、母と伊豆湯ヶ島で湯治。1934年、京都、尾道、北海道、樺太へ。飛行機体験試乗で青森北海道の上空を飛行。1936年、自費で満州中国旅行。北海道山形を講演旅行。

 1937年(昭和12)11月に夫の緑敏が徴兵された。緑敏応召のあと、芙美子は毎日新聞特派員として上海南京へ赴きルポを書いた。「銃後の妻」となるより、自らも戦地へ出ていこうとするところが、作家芙美子なのだ。

 1938年(昭和13)には内閣情報部ペン部隊の一員として中国戦線へ赴いた。この時点での従軍女流作家は、吉屋信子と林芙美子のふたりのみ。
 芙美子は、南京から長江の北岸にそって従軍する。「漢口一番乗り」のルポを1939年(昭和14)に「北岸部隊」として発表するが、当時は、「戦意喪失」するような記述は伏せ字とされ、「戦意高揚」に役立つ部分のみ公表が許された。

 現在入手できる中公文庫版『北岸部隊』では、伏せ字が芙美子の従軍日記をもとに再現され、活字に起こされている。
 大岡昇平は芙美子の従軍記述を
「かよわい女性の身でありながら、この世紀の大進撃に参加したいという熱意に燃えた、感情紀行ともいうべきものである。」
と評している。(昭和戦争文学全集第二巻解説(集英社))

 中国戦線に従軍した林芙美子は帰国後、従軍で共に生きた兵士を思い「私は兵隊さんが好きだ」と書いた。夫、緑敏も衛生兵となっている。「兵隊さん」への思いは夫への思いでもあったろう。1939年、緑敏は無事、除隊となるが、中国戦線は泥沼となっていった。

 1938年、中国から帰った芙美子が朝日新聞に連載した『波濤』で、芙美子は登場人物に「私、このごろ、新聞を読んで、日本が勝ってゐると云っても、妙に不安でしかたがないの」「これからの私たちの社会は、どんなに変化していくかわからないと思ひますの。私は、これより良い方へ変化してゆくとは、当分考えられないと思ふンですけれど」と語らせている。
(つづく)
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2005/06/16 木
新緑散歩>花の命は短くて⑫銃後の芙美子

 1940年(昭和15)1月、北満州を旅行。4月、満州についての芙美子のルポ『凍れる大地』は、陸軍報道部から「王道楽土の満州」を「凍れる」とは何事か、と厳重注意を受けた。
 もはや「自分の目で見たことを伝え、真実を書き残す」ということもままならないことを芙美子も悟ってきた。

 1940年(昭和15)12月小林秀雄らと朝鮮へ講演旅行。12月8日真珠湾攻撃。
 1941年、文壇統制激しく『放浪記』などが、「時局下、不謹慎な小説」として発行禁止となる。
 1942年、4月壺井栄と共に江田島海軍兵学校見学。7月川端康成夫妻と共に京都旅行。8月北海道講演旅行。
 10月報道班員として南方派遣。8ヶ月間、インドシナ、シンガポール、ジャワ、ボルネオを回る。

 芙美子は、他の文士と同じように、戦時中はペン部隊、報道班員として戦地をまわり、報道活動に従事した。しかし、外地の現実を見れば見るほど、当初の国民の熱狂と戦争の真実とは、はっきり異なるものであったことがわかってくる。
 1943年、新聞やラジオの報道ではいまだ「勝利!」と伝えているが、南方の状況を自分の目で見てきた芙美子は、しだいに沈黙するようになる。

 1943年(昭和18)12月に、生後間もない赤ん坊を養子をもらったあとの2年間、芙美子はほとんど文筆活動をしていない。周囲には、育児に専念するためとも、長野への疎開でたいへんな生活だからと言うこともできた。だが、この2年間の沈黙は、ただ育児のためだけではなかった。
  戦争末期の芙美子は「きれいに負けるしかない」と発言し、「反戦的言動」を当局から咎められる身となっていたのだった。

 芙美子には、「思想統制」にひっかかる「前科未満」があった。
 1933年(昭和8)、非合法政党である共産党からの資金要請を受けた。貧しい時代を共にすごした古くからの友人の頼みを即座に断ることはできず、「考えておきます」という口約束をした。友人は「寄付を約束した」とみなし、芙美子の名を寄付者名簿に記載した。これが発覚し、中野署に9日間も拘留されたことがあったのだ。
 治安維持法や言論統制は厳しさを増す一方で、ささいな「反戦、反国家的言動」も「予防拘留」される時代だった。

 もう一度、治安維持法にひっかかるような出来事があったなら、年老いた母と赤ん坊の泰はどうなるのか、芙美子の鬱屈は激しくなり、友人のだれとも交際できない、したくないという状態での疎開生活だった。(つづく)
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2005/06/17 金
新緑散歩>花の命は短くて⑬戦後の芙美子

 芙美子の自伝的小説『夢一夜』(1947)は、「戦時下で、ものを書くことができなくなった作家」を描いている。検閲、統制によって書くことができない女流作家の内心が吐露されており、芙美子の実体験が反映していると思われる。

 作家、菊子は小さな村に疎開している。村人との交際のなかで、「いまは、日本も、負けぶりのうまさを考へなければならない時ですね」と世間話のつもりで語る。
 すると、たちまち30キロ先の町の警察から刑事がたびたびやって来るようになった。私服の憲兵も来るようになると、最初は「町の有名な作家さん」と鄭重な扱いをしていた家主は立ち退きを要求するようになる。
 東京の家で留守を守る夫のところにまで、刑事がやってきた。夫からは「お前の思想方面をいろいろ調べていった」という手紙が届いた。

 『夢一夜』は小説であるが、現実の芙美子に近いことは、芙美子が疎開先から川端康成へあてて出した手紙からもうかがえる。
 川端康成は、1951年の芙美子の死後、「林芙美子さんの手紙」という追悼文を文學界に書いた。

 芙美子の手紙。
 「もうお金もないので、(東京の)家をうろうかと考へております。何もなくしてさつぱりとならうかとそんな事も考へます。金にかへる小説なぞ、何年も書けますまいから、うりぐひをして、何とかくらしをたてなければなりません(1944年5月7日付」

 1944年(昭和19)4月に疎開した時点で、芙美子は「これから先、何年も(言論統制のため)書けない時代が続く」と覚悟していたことがわかる。
 川端は1944年秋、疎開先長野にいる芙美子を訪ねた。敗戦前の2年間に、芙美子が直接顔を合わせた文壇人は、この川端との一回のみ。

 芙美子の原稿料が収入源である林家で、芙美子が書いて金を得られなければ、一家はたちまち不安定な生活となる。
 東京の家を売らなければ収入もないと、川端に訴えているが、戦火激しくなった東京で、家を売りたい人はいても、買おうとする者はいなかった。買った家が、明日爆撃を受け灰になるかもしれないのだ。

 芙美子は長野の疎開先で敗戦の報を聞いた。
 中国戦線の最前線を兵士といっしょに従軍した経験のある芙美子。敗戦の報は「重い重い荷物を肩からおろしたような晴れやかな気持ち」と「晴れやかさを表にはだしてはいけないような心のかげり」を芙美子に感じさせた。

 1940年の満州旅行の記録に『凍れる大地』というタイトルをつけて当局ににらまれた芙美子は、1946年7月に発表した『作家の手帳』に、満州開拓民への思いを書いた。

 「耕地もなければ、道すらもない、しかも家もない荒涼とした寒い土地々々へ無造作に人間を送り、その開拓民達が、まづ、住む家を造り、それから耕作して、何年目かにトラックの道をつけるのです。何の思ひやりもなく裸身のままの人間を送り込んで、長い間かかってやっとどうにかなった時にこの敗戦なのです。政府が満州の開拓民の人々にどれだけの責任を負ふのでせうか。」
(つづく)
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2005/06/18 土
新緑散歩>花の命は短くて⑮太鼓たたいて笛ふいて

 自国民を「牛馬」よりも安い労働力兵力としかみなさず戦争に放り込んだ政府は、敗戦となれば、国民に何の責任もとらず放り出す。
 芙美子は、自分なりの責任をとろうと決意する。

 井上ひさしは、戦中戦後の芙美子を主人公に、「国家」と「戦争」と「個人」をからめて、笑いあり涙ありの音楽劇にした。初演2002年、再演2004年。大竹しのぶ主演。
 戯曲『太鼓たたいて笛ふいて』(新潮社)
 井上の芝居の中で、芙美子は戦争中に自分が書いたものを振り返り、次のように言う。

 芙美子のセリフ
 「お日様を信じ、お月さまを、地球を、カビを発酵させる大地の営みを信じて、一人で立っているしかないのよ。わたし一人で、かなわぬまでも責任をとろうとしているだけよ。
 責任なんか取れやしないと分かっているけど、他人の家へ上がり込んで自分の我ままを押し通そうとするのを、太鼓でたたえたわたし。自分たちだけで世界の地図を勝手に塗り替えようとするのを、笛で囃した林芙美子、
 その笛と太鼓で戦争未亡人が出た、復員兵が出た、戦災孤児が出た。だから書かなきゃならないの、この腕が折れるまで、この心臓が裂け切れるまで。その人たちの悔しさを、その人たちにせめてものお詫びをするために。」

 このセリフは、芙美子の次のことばから創作されたのではないだろうか。
 1946年に発行された『林芙美子選集』所収の「自作に就いて」の、芙美子ことば。

 「この戦争で澤山のひとが亡くなってゆきましたけれども、私はそのやうなひとたちに曖昧ではすごされないやうな激しい思ひを持ってゐます。せめて、そのやうな人達に対してこそ仕事をするといふことに、現在の虚無的な観念から抜けきりたいとねがふのです。」

 1938年の北岸部隊従軍のおり、いっしょに行軍し死んでいった若い兵士たち。敗残の姿で復員してくる兵たち。開拓地から命からがら逃げ出した人々、凍れる大地に倒れ臥した人。未亡人となって戦後の荒野に投げ出された女達。
 その命に対して、「その人々の息を私の筆で吐き出してみたい願ひ」を芙美子は抱いた。
 そこから芙美子の戦後が始まった。

 戦後の芙美子の執筆速度はすさまじかった。戦争で命を失った人々、愛する家族を失った人々への鎮魂、贖罪でもあるかのように、また、戦中の2年間を沈黙して過ごさざるを得なかった代償でもあるかのように、1946年から1951年の死まで6年間をひたすら書き続けた。

 「流行作家」「人気作家」として書き続けなければ忘れられてしまうから、という理由だけではこの猛スピードの書きぶりは理解できないだろう。(つづく)

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2005/06/19 日
新緑散歩>花の命は短くて⑮芙美子の死

 自分が書いた文章が「戦意高揚」のために利用されてしまったこと。
 「もうこの戦争はダメだ」とわかり、ひとこと「負けるかも知れない」と言っただけで、自分と家族の生活がおびやかされる結果となって、沈黙してしまったこと。
 作家としての悔いが、芙美子にのしかかる。

 1949年に発刊された『晩菊』のあとがきに芙美子は次のように書き残した。
 「雨の降る駅頭に、始めてみすぼらしい復員兵の姿を見て、私はさうした人々の代弁者となって何かを書かねばという思ひにかられた」

 戦争をすれば暮らしはもっとよくなる、と国民を駆り立てた人、聖戦であると主張した人、天皇のために死ぬことこそ正しい生き方だと子どもたちに教えた人。戦争に協力した多くの人が、敗戦の報とともに口をぬぐって「さあ、これからは民主主義の時代です」「平和な日本をつくりましょう」と、変わり身の早さを競ったなかで、芙美子は「復員兵や未亡人の代弁者として書いていくことで、自分なりの責任をとらなければならない」と考えた。

 がらりと変わった世相を背景に、戦後の日本は平和を謳歌し、戦中のみじめな生活を忘れ去れば新生日本になるとでもいうような喧噪の中に、復興をめざした。
 新憲法、講和条約、新しい社会、経済復興、、、、。芙美子は戦後社会の中で書き続ける。

 芙美子にとっては、書かなければならないことが山のようにあった。書いて書いて書きまくらなければ、中国戦線行軍の泥の中に死んでいった兵士や、復員兵、愛する人を失った人々に対して、自分が生き残ったことの意味が失われてしまう。
 書き続けなければ、死んでいった人たちに顔向けできない、と思い詰めているように書き続けた。

 命をすり減らすかのような書きっぷりであった。
 しかし、それでもなお落合の家で書き続ける芙美子は、作家として命を燃やすことで幸福だったのだ、と、私は思っている。
 書いて書いて書き続けて、作家として立っていくこと、書き続けることが芙美子の望みであったろうし、原稿料を得て家族を支えることが芙美子の誇りだったろうと思う。

 落合の家で夜中に急に苦しみだし倒れたとき、芙美子の頭にあったのは、「もっと書きたい、書かなければ」という思いだったのではないだろうか。

 林芙美子の落合の家。芙美子記念館の庭を歩き、最後の最後まで芙美子が書き続けた机を眺める。芙美子が最後の息をひきとった部屋が、そのままに残されている。
 
 1946年から1951年の6年間に、芙美子は『うず潮』『晩菊』『浮雲』などを書き残した。
 『めし』を新聞連載中に、1951年6月28日急逝。(戸籍に届けられた誕生日12月を真とすれば享年47歳、「生まれたのは5月」と芙美子が書き残しているのを真とすれば享年48歳)

 48年の生涯は、今の平均年齢から見れば短いと思えるが、芙美子は書ける限り書いた。芙美子の生涯も「生きた書いた愛した」一生として、私たちの心に残る。(つづく)
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