2006/09/18 月
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(3)
レオとシンバ
アニメーション映画『ライオンキング』について。
手塚プロダクションのアニメ『ジャングル大帝レオ』は、アメリカ放映用『Kimba the White Lion』としてNBCテレビから配信された。
ディズニーのアニメ『ライオンキング』が、手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』にそっくりなことは、見た人だれもが気づく。翻案以上のそっくりさん。
しかし、手塚側は「手塚作品が、あの大ディズニー社に模倣されるほどになったのは、名誉なこと」として、著作権侵害を申し立てなかった。
黒澤明が、自作の『七人の侍』への著作権侵害として『荒野の七人』を訴えたのに比べると、手塚はなぜこれほどの「パクリ」に対して「まねされて光栄」なんてことばでおしまいにしたのか。このこと、私は長い間納得できないでいた。
2006年6月3日に、「千葉大学で発見されたディズニー・アニメーションオリジナル画」という講演会が、日本写真学会創立80周年の催しとして行われた。
スタジオジブリのプロデュサー田中千義氏、手塚治虫の弟子にして東京工芸大学アニメーション学科教授月岡貞夫氏、絵画修復の専門家岩井希久子氏の講演を聞くことができた。
千葉大学けやき会館での講演、それぞれの話がとても面白かった。
その中での月岡氏が、手塚治虫とディズニーアニメの「模倣とオリジナル」の関係についてのエピソードを語っていた。
手塚の漫画執筆を身近に知り、手塚から学び続けた月岡氏の語るエピソード、面白かった。
月岡氏は、小学生のころから手塚に自作アニメを送り続け、高校2年生で、手塚の助手となった。
アシスタントを続けながら手塚から学び取ったことを消化し、自分のオリジナル作品をうみだしてきた。月岡のアニメーターとしての代表作は、NHKみんなの歌『北風小僧の寒太郎』の歌とともに流れるアニメーション。
初期の手塚作品についての、月岡の語るエピソード。
戦後すぐに出版され、長い間絶版となっていた手塚漫画の中には、ディズニー社の初期アニメーションを、そっくり翻案した作品が含まれている。
月岡氏の講演を聞いて、びっくり。手塚治虫が、ディズニーアニメのストーリー展開やキャラクターの付け方、画面構成などから、多くを学んで自分の作品に消化したことは、研究者が指摘してきたことだが、直接の翻案作品があることは、意外だった。
長く封印され、絶版のままだったのだから、一部の研究者以外には、知られていないことだったのだろう。
<つづく>
10:11 |
2006/09/19 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(4)
アトムとミッキー
あの、鉄腕アトムにしてからが、ミッキーマウスを手塚流にアレンジした結果生まれたキャラクターなのだ、と、月岡は解説する。
ロボットの頭部として不必要な形、あのアトムの黒く突き出た耳。あれはミッキーマウスの耳の変形なのだって。
「ライオンキング」について、手塚治虫は著作権侵害を申し立てなかった。
そのことへの謝意によるのかどうかはわからないが、ライオンキング以後、ディズニー社は、ディズニーアニメからの翻案による手塚の初期作品を復刻出版することに対して、異議申し立てをしなかった。
子供が描いたミッキーマウスを広告チラシに使っても、「著作権侵害」の訴訟を起こしてきたディズニー社が、手塚のディズニー翻案作品の復刻出版に何も言わないということは、異例のこと。
手塚はウォルト・ディズニーの初期アニメーションに学んだ。ディズニー社は手塚治虫のアニメーション『鉄腕アトム』が、『アストロボーイ』として放映されたり、『ジャングル大帝レオ』がアニメ化された「ホワイトライオン・キンバ」に触発された。両者は互いに影響し合ってきた。
「そうか、手塚がライオンキングを訴えなかったのは、互いに影響を与え合った関係として、認め合う部分があったからなのか」と、これまでの疑問が氷解した。
手塚にとって、ライオンキング原作料を裁判で勝ち取る以上のもの、漫画やアニメーション制作の方法をディズニーから得ており、「まねされるのは光栄なこと」という手塚の気持ちは本当だったのだ。
ディズニー側からの日本側関係者へのことば。「ライオンキングが『Kimba the White Lion』からの直接の模倣」という点に関しては否定しつつも、手塚治虫の業績を認め、手塚へ敬意を表する旨が発表されたという。
オマージュの交換!互いの作品の価値を認め合い、たたえ合うこと。
創作者にとって、自分自身のオリジナリティを確認し、それが価値あるものとたたえられることは、なにより大切なこと。
昨今マスコミをにぎわした「盗作」騒動。画家の和田義彦氏。
日本ではまったく無名であったイタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品から盗作をしたとして、文部科学省の芸術選奨や東郷青児美術館大賞の受賞を取り消された。
和田氏は、「これは盗作ではない、オマージュである」と、主張した。
牧野光永氏の『文化史検証 オマージュとパクリの境界線』を興味深く読んだ。
「和田義彦氏によるアルベルト・スギ氏絵画作品の盗作問題」に関し、牧野bbsに投稿したことをきっかけとして、思いめぐらしたことを、メモしておく。
<つづく>
08:05 |
2006/09/20 水
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(5)
ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ
牧野光永氏がOCNカフェサイトに発表した『再考・オマージュとパクリ 同じ盗でも』(2006/06/11)http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary/200606#11
への感想として、牧野サイトbbs「女神を追い求めて」へ投稿した春庭コメント再録する。
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3682.ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ
名前:HAL 日付:6月11日(日) 14時9分
「ダビンチコード」のルーブル。
モナリザのまわりに群がる観光客たち、展示されているのが複製であっても、いっこうに気づかず、見続けるだろう。
本物かどうか、なんてことより、有名なルーブルにやってきて、有名なモナリザやミロのビーナスといっしょの空間にいるってことが大事なんだもんね。
マルセル・デュシャンはモナリザに髭を書き加えて「髭をはやしたモナリザ」と題し、自分の「オリジナル作品」として発表した。
さらに元のモナリザ複製画に「髭を剃ったモナリザ」と題して発表。これは、まあ、パロディ精神だろうね。
R・Mutという署名した便器に「泉」とタイトルをつけて展覧会に出品しようとしたデュシャン。R・Mutとは、便器メーカーの会社名なのだ。
デュシャンの「泉」は、「20世紀にもっともインパクトがあった作品」の一位に選ばれた。二位はピカソ。
(後注:立体派の巨匠を押さえて、便器にサインしただけの「泉」が一位!
「泉」が提起した「創作とオリジナリティ」への衝撃がいかに大きかったか。
20世紀から21世紀が「創造」「模倣とコピー」を再考すべき時代になったことを、皆感じ取っていたからこその一位であろう。)
昨年のゴッホ展で見たゴッホによる浮世絵の模写、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵。これは、まさしくゴッホのタッチでゴッホの作品になっていた。これは盗作と呼ばない。浮世絵への「愛」がたっぷり感じられました。
まっき~さんの語る、作品への愛、オマージュです。
和田氏の作品、新聞雑誌にスギ氏の作品とふたつ並べてあったものには、このような「愛」が感じられなかった。
23点もの「まったく同じ構図、同じような色彩とタッチ」で描かれたものを「オリジナルについての考え方が異なる」と、和田氏が弁明するのは、無理があった。
スギ氏側の談話。
「和田氏は、自己紹介で自分はスギ作品のファンであると述べたのみで、自分も画家であると、ひとことも言わなかった」
これが、事実であるなら、絵画のオリジナリティうんぬんの談義以前の問題があると言えるでしょうね。
スギ氏側の一方的な談話であり、スギ氏の発言に対して、和田氏がどういう弁明をしたのかは不明だが、「自分は画家として自己紹介した」という和田氏の弁明が報道されないままであることからみて、やはり芸術家の態度として和田氏がとった行動はフェアではないと感じる。
自分自身が画家である人が、他の画家のアトリエを訪問して、自分が画家であることを一言も言わずに他者の作品の写真撮影をしたというのは、どう考えてもおかしい。
<つづく>
07:59 |
2006/09/21 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(6)
盗作と盗撮と盗塁
(まっき~bbsつづき)
これほど和田氏ひとりを叩いてよい問題か、と言う部分。
美術のプロが審査をして文部科学省が賞を与えた。しかも「盗作である」という投書が続いていた人物の作品に賞をあたえた文部科学省側の関係者を守るためには、彼ひとりを悪人にするしかないわけで。
でも、これで、音楽コンクールの入賞も、絵画工芸の入賞も、所詮、人間関係で決まるということ、作品に賞のハクをつけるには、コネクションがなにより大事、ということを世間が知ったのなら、今回の騒動よかったのかも。
二科展などの有名公募展に初入選するには、有力役員の弟子として長年忠節に励むか、芸能人有名人になって名前を売ってから絵を発表するか、どちらかだと言われていますしね。
2チャンネルとか、インターネットのネタは、玉石混淆ではあるけれど、一般市民のわれわれが、マスコミ発表やら大本営発表やらだけの報道ではなく、さまざまなソースから情報を選べるようになったのは、ありがたいことです。
日本ではまったく無名だったスギ氏の作品と和田作品が酷似していることに気づいた人がいたのも、スギ氏がホームページを公開していたからでしょうかね。
まっき~さんの力作「オマージュとパクリの境界線」を読んできて、和田騒動をどう見たか、知りたかった。
和田作品に関して
「その愛を表現する術が、あまりにも直接的に過ぎた、ということでしょうか。」
というまっき~さんの受け取りかた、私には寛容すぎるように思えます。表現をめざす者としてのまっき~さんのやさしさとは思いますが。
和田作品、オマージュというには、毒がありすぎた。
私は、「盗作である」と指摘した投書をだれが把握し、だれがにぎりつぶし、だれが「賞を与えた責任」をとるのか、興味があります。
マスコミがたたくなら、賞を出したほうを追求してほしいけれど、たぶんそうはならないでしょう。
裸にさせられた王様和田義彦をたたくのはかんたんだけど、文部科学省やらその他の「まだ権威と権力を保持している」側をたたく気力は、マスコミにはない。
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盗作も、盗撮も許されません。
盗撮で逮捕有罪となった大学教授が今月13日には痴漢でまた逮捕されましたが、もう、どうしようもないセンセがいたもんです。
ま、盗んでいいのは、野球の塁だけってことですね。
<つづく>
00:10 |
2006/09/22 金
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(7)
模写とオリジナル
まっき~bbsに書いたように、昨年2005年のゴッホ展、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵を見た。
模写しているはずが、まぎれもなくゴッホ自身のタッチによって、独自の絵になっている。
今年2006年の「若冲と江戸絵画展」でみた若冲の「猛虎図」。
若冲が虎の絵の中に「ほんとうは写生すべきだが、虎は今日本で見ることができないので、中国の絵を見て描いた」と、ことわり書きを書き込んでいる絵があった。
若冲画「猛虎図」
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060514084133
江戸の絵師たちは、せっせと先輩たちの絵を模写し、また、中国渡来の絵を模写して腕をみがいた。
若冲が模写した中国絵画は、5000点にのぼるという。
中国・明時代の画家、文正の鶴の絵を模写した若冲の絵。また、猛虎図のもとになった中国絵画の虎の絵と、若冲の虎の絵2点を見比べてみると。
http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/variety/mosha.html
絵の技法の細かいところは私にはわからないが、毛並みの描き方や顔の描写、全体の輪郭が、模写を抜け出て、若冲自身の表現になっているという解説を読むと、ほう、なるほどと思う。
和田氏が、「オリジナルについての考え方がちがう」と主張しているのは、このような「模倣からオリジナルへ」という伝統的な絵画技法をふまえて述べているのだろう。
たしかにスギ作品と和田作品は、そっくりではあるが、模写ではない。構図はほとんど同じだが、色彩やタッチは似てはいるがすべて同じではない。
しかし、和田が「オマージュ作品」というなら、オマージュのもとになった人の名や作品を公表すべきではなかったのか。
「オマージュ」は自らが尊敬する人に対するもの。その尊敬する画家の名を伏せ、「スギ作品をもとにして書いた」ことを隠し続けた、それがオマージュの態度であろうか。
「オマージュ」とはうらはらに、スギ氏の名を隠し続けたこと、どんな弁明をされても理解できない。
5000点の中国絵画を模写した若冲が、中国の虎図をもとにして虎を描いた絵を世間に出すとき、「写生すべきだが、虎がいないので、中国の絵を見て描いた」と、きちんと自分の絵の中に書き残しているのだ。
和田氏に「これは、盗作ではなく、自分なりにオリジナルを加えた絵」という自負があるなら、若冲が書き込んだことばのように「これは、イタリアのスギ氏の絵をもとにしている」と、最初から正直に公表しておけば、よかったではないか。
それをせず、ましてやモチーフのもとになったスギ氏に対して、自分も画家であることや、スギ氏の絵のモチーフを利用して絵を描いたことを一言もことわらなかったことは、200年前の若冲に比べて、「絵師の良心」に劣ると感じられてしまう。
以上、「和田スギ問題」について、思ったことのメモでした。
ゴッホが渓斎英泉の模写をした作品は「ゴッホの作品」として認められるのに対して、元モーニング娘。の安倍なつみの作詞盗作は、アイドル生命おわりかという糾弾を受けたし、オレンジレンジの楽曲コラージュは、「似てる曲をさがせ」のお祭さわぎになった。
絵画、音楽、言語作品などジャンルによって盗作、パロディ、オマージュへのとらえ方がそれぞれが異なる。
音楽のオリジナリティとパロディ、文学のオリジナリティとパロディは同一平面上では語れないし、漫画と映画も同じ土俵で「パロディかオマージュか」と解釈できない。
<つづく>
00:00 |
2006/09/23 土
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(8)
本歌取り
日本語言語文化の中で、特に短詩文、短歌俳句川柳などは、先行作品を自作の中に取り込んで、新しい作品を作ることが、行われてきた。「本歌取り」という。
平安時代、日常会話の中にも、先行和歌作品の引用をちりばめる「引き歌」が行われ、元の和歌を知らなければ、会話が成り立たなかった。
引用によって自分の気持ちを表現したり、依頼をしたり、「先行作品によって会話する」という日常生活。
発話する側は、相手が自分の引用した和歌や漢詩の一節を理解する力があるかどうかを吟味しながら、いいかえれば相手の教養のレベルをはかりながら会話を続ける能力を要求された。
相手に理解できない引用をしても無駄であり、相手に恥をかかせることになってしまう。引用の手腕がその人自身の会話能力や人格さえも示し、本歌取りができないなら、手紙で用件を伝えることも難しかった。
(あらま、こんな時代に生まれていたら、わたしなぞ、手紙もメールもできないわっ、って、紫式部はメールは出さなかったよね。絵文字メールですませられる時代でよかった)
「本歌取り」は、短歌から短歌への本歌取りもあるし、初期俳諧は、短歌の本歌取りパロディの百花繚乱だった。
若いころの芭蕉も、短歌の本歌取り俳諧を作ってきた。
芭蕉の句「うかれける人や初瀬の山桜(続山の井)」は、「憂かりける人を初瀬の山颪激しかれとは祈らぬものを」をもじった俳諧である。
文学の場合、オリジナル作品と比較して、新しいと感じられる部分が確立できているかどうか、が、判断の分かれ目になるだろう。
日本語言語作品のうち、演劇の場合も、先行作品をもとにして新しい作品を作ることが行われてきた。
能狂言、歌舞伎では、先行作品を取り入れるのは、当然の劇作方法。
その一例をあげれば、能の『安宅』を歌舞伎作品にしたのが『勧進帳』。
近代演劇、現代演劇でも、翻案劇はたくさんある。
作者死後50年以上たっているなら、著作権は消滅する。引用も翻案も自由に使える。
死期50年たっていなくても、ストーリーを借用することは、可能だろう。
ただし、借用したストーリーでオリジナル作品として認められるものを書き上げるには相当な力量を必要とする。
この論の冒頭に紹介した田口アヤコの「オセロ」翻案の劇、またそのまえに紹介した「女中たち」の翻案劇は、たいへん才気あふれる作品となっていたと思う。
<つづく>
00:31 |
2006/09/24 日
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(9)
狂歌とパロディ
日本語の言語文化として「本歌取り」をあげた。
本歌取りが行われた初期の作品、紀貫之(注1)の歌の例。
「三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集)
この歌は、額田王(注2)の歌を本歌にしている。
「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなもかくさふべしや」(万葉集巻一)
古今集以後、本歌取りは和歌の修辞のひとつとして発展をとげ、鎌倉初期成立の『新古今和歌集』になると、本歌取りの見本帳のようになっている。
藤原定家(注3)は、本歌取りの心得として、「本歌を利用する場合、本歌がだれにもわかるように使うこと」「本歌に自分独自のアレンジを加えた作になっていること」をあげている。(毎月抄)
定家の考え方は、現代における「知的著作物の著作権」「引用と、コピー・盗用の境界線」の法的考え方と、一致している。
狂歌や川柳は、本歌をおもしろおかしく改作する「パロディ精神」にあふれている。
庶民はこのパロディで溜飲を下げたり、「お上」への批判をうまくやりとげたりしてきた。
『関ヶ原軍記大成(注4)』という書に見える、狂歌。
「関ヶ原八十島かけてにげ出でぬと 人には告げよあまり憎さに」
これは、百人一首にある参議篁(さんぎたかむら注5)「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」を本歌にしている。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際、石田三成(注6)は、二千石の士・八十島助右衛門を島津勢への使者として派遣した。乱戦となっても動かない島津へ、三成の言葉を伝える役目であったが、八十島は島津を見下した無礼な言い方で伝言した。怒った島津豊久は、八十島を追い返した。
八十島は西軍石田方が敗勢になるや、ひとり馬に乗って本陣から逃げ去ってしまった。
磯野平三郎という者が、八十島の行動に呆れ果てて、戦いのさなかに詠んだ歌が上記のわたのはら~のパロディ。
戦国武将島津義久(注7)の老中、井上覚兼が書いた武士の心得の第一として、和歌と連歌が挙げられている。『古今集』を筆頭として学んでおくことが、武士たる資質の第一番であった。
二番目は、礼儀作法に関する「有職」と、手紙の書き方「書札礼(しょさつれい)」
今の人々が武士たる心得の一番目に思い浮かべる武術(馬術、弓術、剣術、鷹狩りなど)は、第三番目にすぎない。
戦中にあっても、古今集を本歌取りして歌を詠む心得がなければ、ならなかった。
同じく百人一首の右近の和歌「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」を、パロディにし、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(注8)を皮肉った幕末の狂歌
「 殺さるる身をば思わず登城せし首の別れの惜しくもあるかな 」
むろん、「笑い」を目的とする狂歌も江戸時代を中心に盛んに作られた。江戸期、書院の間にカルタ取りがはやると、パロディも盛んに作られた。
百人一首の第一首「秋の田の 刈り穂の 庵の苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」(天智天皇 注8)のパロディもたくさんあるが、紹介するのは、本歌の秋の光景を碁仇とのやりとりして笑わせる作。
「あきれたのかれこれ囲碁の友を集め我がだまし手はつひに知れつつを(作・鈍智てんほう)
狂歌の作者名までパロディになっている。
近年では、狂歌が大勢の人の口にのぼることは少なくなった。標語やコピーライトのパロディは生き残っているのだが。
60年前の大戦中、「贅沢は敵だ」という標語が掲げられた。すると「敵」の前に「素」と書き加えて「贅沢は素敵だ」とたちまちパロディが作られた。「
足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語は「工」の字に×をつけて、「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」と、男性が出征して男手が足りない現実を皮肉った。
パロディは、もとの作品を素材としつつ、批判精神を発揮して新たな視点で作り替える作品である。狂歌や川柳、標語などのパロディのほか、絵画写真映像など、既出の作品はすべてパロディの対象になりうる。
現代は、ことばのパロディが成立しにくい時代だといわれる。
夕刊に、阿部家おぼっちゃまくん版「坊ちゃん」が載っていた。(2006/09/21)
「親譲りの七光りで得ばかりしてきた」という書き出しで、新総裁を風刺した文、これも、漱石(注10)「坊ちゃん」の「親譲りの無鉄砲で損ばかりしている」という元の文章を知らずに読めば、笑うに笑えない。
確かに政界、どちらを見ても「七光りで得をしてきた」ぼっちゃまばかりなのだもの、パロディとは思わず、そのものズバリの評言に受け取られてしまうだろう。
阿部家のおぼっちゃま(注11)は、「美しい国」を作りたいそうです。
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注:
1 紀貫之:平安前期の歌人。「土佐日記」作者。古今集の編纂にあたった。
2 額田王:斉明朝から持統朝の歌人。大海人皇子(天武天皇)との間に十市皇女をもうけた
3 藤原定家:鎌倉初期の歌人。冷泉家の祖。藤原道長の玄孫。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進。後世の文学、文化に大きな影響を残した。
4 参議篁(小野篁):平安前期の学者、歌人。先祖は最初の遣隋使小野妹子。孫は書道の三筆小野道風。
5 関ヶ原軍記大成:江戸時代の歴史物語。歴史資料として扱うには注意が必要だが、おもしろいエピソードが多い。
6 石田三成:豊臣秀吉子飼の武将のひとり。近江出身のため、側室淀の方に接近し、正室北の政所派と不仲であったとされている。
7 島津義久:安土桃山期の武将。島津家17代目当主とされている。(異説あり)
8 井伊直弼:幕末期の江戸幕府大老。開国期の政権を担ったが、桜田門外で水戸浪士に暗殺された。
9 天智天皇:38代天皇。中大兄皇子時代にクーデターを起こし、天皇家を上回る勢力を持っていた蘇我入鹿を暗殺。うまく殺人ができたから天皇になれた。殺せなかったら、殺人未遂者として蘇我王朝への謀反者として処刑されていた。上記額田王を大海人皇子(天武天皇)から奪った、という伝説を残した。
10 夏目漱石:明治~大正期の小説家、学者。現代日本語文章表現の基礎を築いた。代表作に「こころ」「我が輩は猫である」「門」「それから」など。
11 阿部家のおぼっちゃまくん:旧満州国国務院実業部総務司長として暗躍した人の孫。満州に残った兵と民を放棄し、A級戦犯として巣鴨に収容されながら、米国の共産国対抗政策変換のおかげで釈放され、首相になった人の孫であるおぼっちゃまくんは、祖父を尊敬し、祖父の悲願でもあった、憲法9条と教育基本法を変える事業にとりかかるそうです。
<つづく>
00:04
2006/09/25 月
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(10)
パロディ裁判
パロディが成立するには、元の作品をだれもが知っている必要がある。みんなが知っている作品の持つ、まじめな教訓の部分や表面に現れている言説の背景をひっくり返したりちゃかしたりするおかしさを、パロディ享受者が受け止められることが前提になる。
現代では、「誰もが知っていて~」という部分が成り立たないのだ。若者も子供もいっしょに笑うには、せいぜい、テレビのCMをパロディにする程度でないと、理解してもらえない。
写真の世界で有名なパロディー裁判があった。
山岳フォトグラファー白川義員(しらかわ・よしのり)氏が撮った白い雪山とスキヤーの写真。数人のスキーヤーがスキーの軌跡をジグザグに描いて降下する白川の写真をもとに、マッドアマノ氏が、大きなタイヤを合成した写真を作った。
これに対して、白川氏が著作者人格権の侵害だとしてアマノ氏を訴えた。
1972年から1987年まで16年間裁判が続き、最終的には和解による裁判取り下げとなったが、実質アマノ氏の敗訴。
他者の撮影した写真作品をそのまま使用すれば、盗作にあたることは裁判をするまでもなくわかるのだが、アマノ作品がパロディであったのか、白川写真利用が、「引用でなく盗用であった」とみなされたのか、わかりにくい結末だった。
白川の写真を「パロディ」として用いる必然性がなかった、というような、よくわからない結論であったように思う。
この論の最初に紹介したシェークスピアの翻案作品を、現代の「著作権」の考え方で裁判にかけたら、どうなるか。
シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のタネ本となったの作品がいくつかある。
1554年、イタリアのマッテオ・バンデッロが書いた小説がフランス語訳され、1562年に英語訳された。アーサー・ブルックはこの英語訳をもとに、長編詩「ロミアスとジュリエットの悲劇物語」を完成。
シェイクスピアは、これらの先行作品をもとに「ロミオとジュリエット」を1595年頃に書きあげた。
さて、現代の著作権の視点で裁判したならば、判決はどうなるか。
ブルックが「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』は、ブルックの長編詩『ロミアスとジュリエットの悲劇物語』の盗作にあたる」と、訴え出たとする。
原告側被告側丁々発止にやりとりはあるだろうが、裁判長の著作権判断は?
現行著作権法を細かくあてはめていくと、「文体のみならず、主題が全く違うから盗作にはならない」という結論になるみたい。
ブルックの詩は、「大人の分別を聞き入れなかった、軽率な若い二人の行為に対する警告」を主題としている。一方、シェークスピアの劇は「共同体内の対立と、愛する者たちの犠牲による共同体の救済」が主題。
シェークスピアの勝訴。おめでとう、印税はウィリアム君のもの。
<つづく>
2006/09/26 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(11)
原作・原案、資料引用」とオリジナル
複製技術、コピー技術の革新によって、本物と寸分たがわぬ「複製品」は、いくらでも作れる世の中になってきた。
本物とは何なのか、コピーと本物はどう異なるのか、デュシャンの「泉」が提起した美術の問題だけでなく、文学、音楽、演劇、すべてのジャンルに渡って、盗作、贋作、翻案、パロディなどはこれからもさまざまな問題を引き起こしていくだろう。
「おじいさんとおばあさんが偶然ひろった赤ん坊を育てたら、絶世の美女に育った。求婚者が続々と現れたが、美女は求婚をあきらめさせるために難題を要求した。結局求婚者はみな失敗し、美女は異世界へ去ってしまった」
という物語を、だれかが書いたとしても、即「なんだよ、これ、かぐや姫と同じストーリーじゃないか、盗作だよ!!」と、非難されることはない。
芥川龍之介も、太宰治も、『今昔物語』や「御伽草子』を翻案した作品を多数書いた。あまり翻案が成功したとは言えない作もあるが、おもしろい作品が多い。
「物理学校を卒業した理科教師が田舎の学校に赴任しておこる騒動」を、『坊ちゃん』以上に面白く書いてあるなら、私は楽しんで読むだろう。
同じストーリー展開で、元の作とは趣向をかえ、SF風の作品に仕立てようとSM風だろうと、ようは読者が作品を読んでおもしろがったり、感銘を受けたりすればいいのだ。
文学作品の場合。
小説の要素は、
1 ストーリー展開と構成
2 時代や場面などの背景シチュエーション
3 登場人物のキャラクター
4 文体
このうち、「ストーリー展開と構成」がそっくり同じだけれど、他の要素はまったく異なるふたつの作品AとBがある場合。どちらかが、どちらかのストーリーをまねしたとしても、他の要素がすべて違うなら、それは、翻案であって、盗作とは言えない。
ただし、そっくり同じストーリーを読んで、それをおもしろいと感じるかどうかは、読者の受け取りかた次第。
日記などの資料をもとに作られた作品の例をあげよう。
井伏鱒二の『黒い雨』は、広島の原爆を描いた作品として、1966年新潮社より刊行された。
被爆日記と小説部分が重層するする構成。
『黒い雨』作中で、主人公(日記の筆者)は「閑間重松(しずましげまつ)」である。
この作中日記は、重松静馬(しげまつしずま)の書いた被爆日記を資料としている。
重松は、広島市内横川駅で被爆し、古市の勤め先に避難した過程を日記に残した。
日記は重松側から井伏に「資料として使用し、原爆の悲惨さについて世に知らせてほしい」と、託されたものであった。
原水爆禁止を願った重松氏の遺志をうけ、遺族にあたる重松文宏氏(重松静馬の養女の夫・広島県三和町教育長などを歴任)も、原水爆禁止運動に取り組んでおられる。
<つづく>
00:09 |
2006/09/27 水
ことばのYa!ちまた>盗作翻案パロディオマージュ(12)
『黒い雨』創作か盗作か
井伏作品の資料として「重松日記」が存在することは、もとより知られていた。ただ、重松自身の意思により、日記の刊行公表は、重松の死後までなされなかった。
「重松日記」は、重松が1977年に原爆症で亡くなった後24年を経て、遺族の手によって出版された。(筑摩書房2001年)
元になった資料『重松日記・火焔の日(1945年8月6日)』『重松日記・被爆の記(同8月8日~13日」『重松日記・続被爆の記(同8月14日~15日』と、井伏重松往復書簡が収録されている。
重松日記刊行の当初、「黒い雨」は、日記の盗作ではないか、と難じる論が発表された。
猪瀬直樹は『ピカレスク太宰治伝』のなかで、井伏作品を「他者の文章をリライトしただけ」と断じている。
猪瀬は、
「『黒い雨』と『重松日記』の関係を検証した。井伏は他人の文章をリライトする安易な作品作りをしている 」
と書いた。(「文學界」2001年8月号)
猪瀬は
「(井伏作品を盗作とした論に対して)文壇から一向に反応がない。文壇は沈黙している。無視しているのだ。井伏鱒二という権威に萎縮しているとしか思えない。権威の前に萎縮し、真実を言えないとしたら、文学とは一体何なのだ、と言いたい」
と憤っている。(「猪瀬流 現代を考える視点」第10回2001年07月)
猪瀬直樹が「資料にある文章がそのまま使われている部分があるから、『黒い雨』は盗作」、と断じたのと、文学研究者文芸評論家が、両作品の文体を比べて、「黒い雨と被爆日記は別の作品」と考えたことの間には、創作方法論・文体論の違いがある。
猪瀬は、自分自身の関わっている雑誌などが行っているリライト、すなわち、リライターが雑誌などへの素人投稿文を「読める文章」に手直しするリライティングを念頭において、「井伏は重松日記をリライトしたにすぎない」と判断したのであろう。
しかし、井伏による重松被爆日記小説化は、単なるリライトではない。
単なるリライトであるなら、井伏は「とても私の手におえない」と、託された日記を重松に返却しようとまで思い詰めなかったろう。
重松氏の遺族によって、井伏と重松の間にかわされた書簡が公表され、日記をもとに小説作品が執筆されていく過程が明らかになった。
日記を託された井伏は、最初、事実のあまりの重さ大きさに作品化をためらい、日記を返却しようとした。
1963年3月29日付けの重松あて書簡で、井伏は
「このまま預かっても宝のもちぐされ、犬がおあづけを食ったようなもの、返したい」
と、重松に日記を返却したい旨、書き送っている。
重松はあくまでも井伏による作品化を望んだ。
重松の懇請を受け、重松とふたりで日記の事実を吟味しがら、井伏は小説を執筆していった。
<つづく>
00:00 |
2006/09/28 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(13)
オマージュ
井伏重松往復書簡によって、「『黒い雨』を重松との共作として発表したい」と井伏から申し入れていること、などもわかった。
「共作としたい」という井伏の誠実さを理解しつつも、重松は「小説作品としての作者は井伏鱒二」であると考え、著者名は「井伏鱒二」単独で発行された。
ただ、重松は、「資料提供者」として本に署名することの了解を井伏に頼んだ。
遺族の重松文宏氏は「父は、原爆の悲劇を後世に伝えたいという悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、本に“重松静馬”と署名して友人知己に贈ることを無上の愉しみにしていた」と語っている。
『黒い雨』に「重松静馬」と署名するとき、重松は「資料提供者」の誇りをもってサインしたことだろう。
「重松被爆日記」は、直接体験を書き留めた貴重な記録であるが、文学作品『黒い雨』は、「重松被爆日記」とは別の、独自な文学的価値をもつ、と私は思う。
資料をそのまま引き写すのと、作品として昇華させるのとでは次元が異なることを、この『黒い雨』は、よく示している。
「文芸のオリジナルについての考え方が異なる」という以上に、猪瀬の論は即断にすぎたと感じられる。
『黒い雨』に重松氏が「重松静馬」とサインするとき、重松の心にはいつも井伏へのオマージュの気持ちがわき起こっていただろう。
また、「重松と井伏の名を共に表に出し、共作として出版したい」と申し出た井伏鱒二は、重松への尊敬の気持ちを十分に表現していた。
井伏鱒二作品として単独の名で出版することになって以後も、重松へのオマージュの気持ちを持ち続けたであろう。
和田義彦氏はアルベルト・スギ氏の作品をもとにして描いたことについて、口を閉ざし続け、スギ氏に自分が画家であることすら告げなかった。それはオマージュの態度ではない。
「オマージュ」になるのか、本歌取りのような「アレンジ」「翻案」「パロディ」になるのか、それとも「盗用」として断罪すべきなのか、という境界線は、論議の的になってきた。
まずは、「本歌」「元作品」をはっきりさせること、本歌への親愛や尊敬の気持ちがわかること。
元作品を批判的に扱い、パロディ化するとしても、その作品をとりあげることによって、作品への認証をおこなっている。パロディもまた、作品を認めているという表現になるだろう。
和田氏のように「元作品の存在を隠す」のでは、盗作とみなされる。
以上、オリジナリティとは何か、考察を続けてきた。
「創作」には、常に先行作品が下敷きとして存在する。どんなに独創的画期的革命的作品であろうと、その底流には、現世人類1万年の文化の歴史が累々と重なっている。
その意味では、「創作」「新作」というのは存在せず、常に「翻案」であったり、「パロディ」であったりするのかもしれない。
模倣からはじめるもよし、パロディもよし。マネしたい尊敬すべき人があるなら、その名をかくしたりせず、堂々とオマージュをささげつつ、まねしたい。
(えー、春庭は、本居春庭を尊敬しつつ、その名をマネしておりますが、借用は名前だけでして、本居春庭の国学、国文法のマネは、したくてもできません)
<翻案盗作パロディオマージュ おわり>
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(3)
レオとシンバ
アニメーション映画『ライオンキング』について。
手塚プロダクションのアニメ『ジャングル大帝レオ』は、アメリカ放映用『Kimba the White Lion』としてNBCテレビから配信された。
ディズニーのアニメ『ライオンキング』が、手塚治虫の『ジャングル大帝レオ』にそっくりなことは、見た人だれもが気づく。翻案以上のそっくりさん。
しかし、手塚側は「手塚作品が、あの大ディズニー社に模倣されるほどになったのは、名誉なこと」として、著作権侵害を申し立てなかった。
黒澤明が、自作の『七人の侍』への著作権侵害として『荒野の七人』を訴えたのに比べると、手塚はなぜこれほどの「パクリ」に対して「まねされて光栄」なんてことばでおしまいにしたのか。このこと、私は長い間納得できないでいた。
2006年6月3日に、「千葉大学で発見されたディズニー・アニメーションオリジナル画」という講演会が、日本写真学会創立80周年の催しとして行われた。
スタジオジブリのプロデュサー田中千義氏、手塚治虫の弟子にして東京工芸大学アニメーション学科教授月岡貞夫氏、絵画修復の専門家岩井希久子氏の講演を聞くことができた。
千葉大学けやき会館での講演、それぞれの話がとても面白かった。
その中での月岡氏が、手塚治虫とディズニーアニメの「模倣とオリジナル」の関係についてのエピソードを語っていた。
手塚の漫画執筆を身近に知り、手塚から学び続けた月岡氏の語るエピソード、面白かった。
月岡氏は、小学生のころから手塚に自作アニメを送り続け、高校2年生で、手塚の助手となった。
アシスタントを続けながら手塚から学び取ったことを消化し、自分のオリジナル作品をうみだしてきた。月岡のアニメーターとしての代表作は、NHKみんなの歌『北風小僧の寒太郎』の歌とともに流れるアニメーション。
初期の手塚作品についての、月岡の語るエピソード。
戦後すぐに出版され、長い間絶版となっていた手塚漫画の中には、ディズニー社の初期アニメーションを、そっくり翻案した作品が含まれている。
月岡氏の講演を聞いて、びっくり。手塚治虫が、ディズニーアニメのストーリー展開やキャラクターの付け方、画面構成などから、多くを学んで自分の作品に消化したことは、研究者が指摘してきたことだが、直接の翻案作品があることは、意外だった。
長く封印され、絶版のままだったのだから、一部の研究者以外には、知られていないことだったのだろう。
<つづく>
10:11 |
2006/09/19 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(4)
アトムとミッキー
あの、鉄腕アトムにしてからが、ミッキーマウスを手塚流にアレンジした結果生まれたキャラクターなのだ、と、月岡は解説する。
ロボットの頭部として不必要な形、あのアトムの黒く突き出た耳。あれはミッキーマウスの耳の変形なのだって。
「ライオンキング」について、手塚治虫は著作権侵害を申し立てなかった。
そのことへの謝意によるのかどうかはわからないが、ライオンキング以後、ディズニー社は、ディズニーアニメからの翻案による手塚の初期作品を復刻出版することに対して、異議申し立てをしなかった。
子供が描いたミッキーマウスを広告チラシに使っても、「著作権侵害」の訴訟を起こしてきたディズニー社が、手塚のディズニー翻案作品の復刻出版に何も言わないということは、異例のこと。
手塚はウォルト・ディズニーの初期アニメーションに学んだ。ディズニー社は手塚治虫のアニメーション『鉄腕アトム』が、『アストロボーイ』として放映されたり、『ジャングル大帝レオ』がアニメ化された「ホワイトライオン・キンバ」に触発された。両者は互いに影響し合ってきた。
「そうか、手塚がライオンキングを訴えなかったのは、互いに影響を与え合った関係として、認め合う部分があったからなのか」と、これまでの疑問が氷解した。
手塚にとって、ライオンキング原作料を裁判で勝ち取る以上のもの、漫画やアニメーション制作の方法をディズニーから得ており、「まねされるのは光栄なこと」という手塚の気持ちは本当だったのだ。
ディズニー側からの日本側関係者へのことば。「ライオンキングが『Kimba the White Lion』からの直接の模倣」という点に関しては否定しつつも、手塚治虫の業績を認め、手塚へ敬意を表する旨が発表されたという。
オマージュの交換!互いの作品の価値を認め合い、たたえ合うこと。
創作者にとって、自分自身のオリジナリティを確認し、それが価値あるものとたたえられることは、なにより大切なこと。
昨今マスコミをにぎわした「盗作」騒動。画家の和田義彦氏。
日本ではまったく無名であったイタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品から盗作をしたとして、文部科学省の芸術選奨や東郷青児美術館大賞の受賞を取り消された。
和田氏は、「これは盗作ではない、オマージュである」と、主張した。
牧野光永氏の『文化史検証 オマージュとパクリの境界線』を興味深く読んだ。
「和田義彦氏によるアルベルト・スギ氏絵画作品の盗作問題」に関し、牧野bbsに投稿したことをきっかけとして、思いめぐらしたことを、メモしておく。
<つづく>
08:05 |
2006/09/20 水
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(5)
ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ
牧野光永氏がOCNカフェサイトに発表した『再考・オマージュとパクリ 同じ盗でも』(2006/06/11)http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/mackychan/diary/200606#11
への感想として、牧野サイトbbs「女神を追い求めて」へ投稿した春庭コメント再録する。
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3682.ひげをつけたモナリザと髭をそったモナリザ
名前:HAL 日付:6月11日(日) 14時9分
「ダビンチコード」のルーブル。
モナリザのまわりに群がる観光客たち、展示されているのが複製であっても、いっこうに気づかず、見続けるだろう。
本物かどうか、なんてことより、有名なルーブルにやってきて、有名なモナリザやミロのビーナスといっしょの空間にいるってことが大事なんだもんね。
マルセル・デュシャンはモナリザに髭を書き加えて「髭をはやしたモナリザ」と題し、自分の「オリジナル作品」として発表した。
さらに元のモナリザ複製画に「髭を剃ったモナリザ」と題して発表。これは、まあ、パロディ精神だろうね。
R・Mutという署名した便器に「泉」とタイトルをつけて展覧会に出品しようとしたデュシャン。R・Mutとは、便器メーカーの会社名なのだ。
デュシャンの「泉」は、「20世紀にもっともインパクトがあった作品」の一位に選ばれた。二位はピカソ。
(後注:立体派の巨匠を押さえて、便器にサインしただけの「泉」が一位!
「泉」が提起した「創作とオリジナリティ」への衝撃がいかに大きかったか。
20世紀から21世紀が「創造」「模倣とコピー」を再考すべき時代になったことを、皆感じ取っていたからこその一位であろう。)
昨年のゴッホ展で見たゴッホによる浮世絵の模写、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵。これは、まさしくゴッホのタッチでゴッホの作品になっていた。これは盗作と呼ばない。浮世絵への「愛」がたっぷり感じられました。
まっき~さんの語る、作品への愛、オマージュです。
和田氏の作品、新聞雑誌にスギ氏の作品とふたつ並べてあったものには、このような「愛」が感じられなかった。
23点もの「まったく同じ構図、同じような色彩とタッチ」で描かれたものを「オリジナルについての考え方が異なる」と、和田氏が弁明するのは、無理があった。
スギ氏側の談話。
「和田氏は、自己紹介で自分はスギ作品のファンであると述べたのみで、自分も画家であると、ひとことも言わなかった」
これが、事実であるなら、絵画のオリジナリティうんぬんの談義以前の問題があると言えるでしょうね。
スギ氏側の一方的な談話であり、スギ氏の発言に対して、和田氏がどういう弁明をしたのかは不明だが、「自分は画家として自己紹介した」という和田氏の弁明が報道されないままであることからみて、やはり芸術家の態度として和田氏がとった行動はフェアではないと感じる。
自分自身が画家である人が、他の画家のアトリエを訪問して、自分が画家であることを一言も言わずに他者の作品の写真撮影をしたというのは、どう考えてもおかしい。
<つづく>
07:59 |
2006/09/21 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(6)
盗作と盗撮と盗塁
(まっき~bbsつづき)
これほど和田氏ひとりを叩いてよい問題か、と言う部分。
美術のプロが審査をして文部科学省が賞を与えた。しかも「盗作である」という投書が続いていた人物の作品に賞をあたえた文部科学省側の関係者を守るためには、彼ひとりを悪人にするしかないわけで。
でも、これで、音楽コンクールの入賞も、絵画工芸の入賞も、所詮、人間関係で決まるということ、作品に賞のハクをつけるには、コネクションがなにより大事、ということを世間が知ったのなら、今回の騒動よかったのかも。
二科展などの有名公募展に初入選するには、有力役員の弟子として長年忠節に励むか、芸能人有名人になって名前を売ってから絵を発表するか、どちらかだと言われていますしね。
2チャンネルとか、インターネットのネタは、玉石混淆ではあるけれど、一般市民のわれわれが、マスコミ発表やら大本営発表やらだけの報道ではなく、さまざまなソースから情報を選べるようになったのは、ありがたいことです。
日本ではまったく無名だったスギ氏の作品と和田作品が酷似していることに気づいた人がいたのも、スギ氏がホームページを公開していたからでしょうかね。
まっき~さんの力作「オマージュとパクリの境界線」を読んできて、和田騒動をどう見たか、知りたかった。
和田作品に関して
「その愛を表現する術が、あまりにも直接的に過ぎた、ということでしょうか。」
というまっき~さんの受け取りかた、私には寛容すぎるように思えます。表現をめざす者としてのまっき~さんのやさしさとは思いますが。
和田作品、オマージュというには、毒がありすぎた。
私は、「盗作である」と指摘した投書をだれが把握し、だれがにぎりつぶし、だれが「賞を与えた責任」をとるのか、興味があります。
マスコミがたたくなら、賞を出したほうを追求してほしいけれど、たぶんそうはならないでしょう。
裸にさせられた王様和田義彦をたたくのはかんたんだけど、文部科学省やらその他の「まだ権威と権力を保持している」側をたたく気力は、マスコミにはない。
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盗作も、盗撮も許されません。
盗撮で逮捕有罪となった大学教授が今月13日には痴漢でまた逮捕されましたが、もう、どうしようもないセンセがいたもんです。
ま、盗んでいいのは、野球の塁だけってことですね。
<つづく>
00:10 |
2006/09/22 金
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(7)
模写とオリジナル
まっき~bbsに書いたように、昨年2005年のゴッホ展、渓斎英泉の『花魁おいらん)』を同じ構図でえがいた油絵を見た。
模写しているはずが、まぎれもなくゴッホ自身のタッチによって、独自の絵になっている。
今年2006年の「若冲と江戸絵画展」でみた若冲の「猛虎図」。
若冲が虎の絵の中に「ほんとうは写生すべきだが、虎は今日本で見ることができないので、中国の絵を見て描いた」と、ことわり書きを書き込んでいる絵があった。
若冲画「猛虎図」
http://f.hatena.ne.jp/jakuchu/20060514084133
江戸の絵師たちは、せっせと先輩たちの絵を模写し、また、中国渡来の絵を模写して腕をみがいた。
若冲が模写した中国絵画は、5000点にのぼるという。
中国・明時代の画家、文正の鶴の絵を模写した若冲の絵。また、猛虎図のもとになった中国絵画の虎の絵と、若冲の虎の絵2点を見比べてみると。
http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/variety/mosha.html
絵の技法の細かいところは私にはわからないが、毛並みの描き方や顔の描写、全体の輪郭が、模写を抜け出て、若冲自身の表現になっているという解説を読むと、ほう、なるほどと思う。
和田氏が、「オリジナルについての考え方がちがう」と主張しているのは、このような「模倣からオリジナルへ」という伝統的な絵画技法をふまえて述べているのだろう。
たしかにスギ作品と和田作品は、そっくりではあるが、模写ではない。構図はほとんど同じだが、色彩やタッチは似てはいるがすべて同じではない。
しかし、和田が「オマージュ作品」というなら、オマージュのもとになった人の名や作品を公表すべきではなかったのか。
「オマージュ」は自らが尊敬する人に対するもの。その尊敬する画家の名を伏せ、「スギ作品をもとにして書いた」ことを隠し続けた、それがオマージュの態度であろうか。
「オマージュ」とはうらはらに、スギ氏の名を隠し続けたこと、どんな弁明をされても理解できない。
5000点の中国絵画を模写した若冲が、中国の虎図をもとにして虎を描いた絵を世間に出すとき、「写生すべきだが、虎がいないので、中国の絵を見て描いた」と、きちんと自分の絵の中に書き残しているのだ。
和田氏に「これは、盗作ではなく、自分なりにオリジナルを加えた絵」という自負があるなら、若冲が書き込んだことばのように「これは、イタリアのスギ氏の絵をもとにしている」と、最初から正直に公表しておけば、よかったではないか。
それをせず、ましてやモチーフのもとになったスギ氏に対して、自分も画家であることや、スギ氏の絵のモチーフを利用して絵を描いたことを一言もことわらなかったことは、200年前の若冲に比べて、「絵師の良心」に劣ると感じられてしまう。
以上、「和田スギ問題」について、思ったことのメモでした。
ゴッホが渓斎英泉の模写をした作品は「ゴッホの作品」として認められるのに対して、元モーニング娘。の安倍なつみの作詞盗作は、アイドル生命おわりかという糾弾を受けたし、オレンジレンジの楽曲コラージュは、「似てる曲をさがせ」のお祭さわぎになった。
絵画、音楽、言語作品などジャンルによって盗作、パロディ、オマージュへのとらえ方がそれぞれが異なる。
音楽のオリジナリティとパロディ、文学のオリジナリティとパロディは同一平面上では語れないし、漫画と映画も同じ土俵で「パロディかオマージュか」と解釈できない。
<つづく>
00:00 |
2006/09/23 土
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(8)
本歌取り
日本語言語文化の中で、特に短詩文、短歌俳句川柳などは、先行作品を自作の中に取り込んで、新しい作品を作ることが、行われてきた。「本歌取り」という。
平安時代、日常会話の中にも、先行和歌作品の引用をちりばめる「引き歌」が行われ、元の和歌を知らなければ、会話が成り立たなかった。
引用によって自分の気持ちを表現したり、依頼をしたり、「先行作品によって会話する」という日常生活。
発話する側は、相手が自分の引用した和歌や漢詩の一節を理解する力があるかどうかを吟味しながら、いいかえれば相手の教養のレベルをはかりながら会話を続ける能力を要求された。
相手に理解できない引用をしても無駄であり、相手に恥をかかせることになってしまう。引用の手腕がその人自身の会話能力や人格さえも示し、本歌取りができないなら、手紙で用件を伝えることも難しかった。
(あらま、こんな時代に生まれていたら、わたしなぞ、手紙もメールもできないわっ、って、紫式部はメールは出さなかったよね。絵文字メールですませられる時代でよかった)
「本歌取り」は、短歌から短歌への本歌取りもあるし、初期俳諧は、短歌の本歌取りパロディの百花繚乱だった。
若いころの芭蕉も、短歌の本歌取り俳諧を作ってきた。
芭蕉の句「うかれける人や初瀬の山桜(続山の井)」は、「憂かりける人を初瀬の山颪激しかれとは祈らぬものを」をもじった俳諧である。
文学の場合、オリジナル作品と比較して、新しいと感じられる部分が確立できているかどうか、が、判断の分かれ目になるだろう。
日本語言語作品のうち、演劇の場合も、先行作品をもとにして新しい作品を作ることが行われてきた。
能狂言、歌舞伎では、先行作品を取り入れるのは、当然の劇作方法。
その一例をあげれば、能の『安宅』を歌舞伎作品にしたのが『勧進帳』。
近代演劇、現代演劇でも、翻案劇はたくさんある。
作者死後50年以上たっているなら、著作権は消滅する。引用も翻案も自由に使える。
死期50年たっていなくても、ストーリーを借用することは、可能だろう。
ただし、借用したストーリーでオリジナル作品として認められるものを書き上げるには相当な力量を必要とする。
この論の冒頭に紹介した田口アヤコの「オセロ」翻案の劇、またそのまえに紹介した「女中たち」の翻案劇は、たいへん才気あふれる作品となっていたと思う。
<つづく>
00:31 |
2006/09/24 日
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(9)
狂歌とパロディ
日本語の言語文化として「本歌取り」をあげた。
本歌取りが行われた初期の作品、紀貫之(注1)の歌の例。
「三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ」(古今和歌集)
この歌は、額田王(注2)の歌を本歌にしている。
「三輪山をしかも隠すか雲だにも 心あらなもかくさふべしや」(万葉集巻一)
古今集以後、本歌取りは和歌の修辞のひとつとして発展をとげ、鎌倉初期成立の『新古今和歌集』になると、本歌取りの見本帳のようになっている。
藤原定家(注3)は、本歌取りの心得として、「本歌を利用する場合、本歌がだれにもわかるように使うこと」「本歌に自分独自のアレンジを加えた作になっていること」をあげている。(毎月抄)
定家の考え方は、現代における「知的著作物の著作権」「引用と、コピー・盗用の境界線」の法的考え方と、一致している。
狂歌や川柳は、本歌をおもしろおかしく改作する「パロディ精神」にあふれている。
庶民はこのパロディで溜飲を下げたり、「お上」への批判をうまくやりとげたりしてきた。
『関ヶ原軍記大成(注4)』という書に見える、狂歌。
「関ヶ原八十島かけてにげ出でぬと 人には告げよあまり憎さに」
これは、百人一首にある参議篁(さんぎたかむら注5)「わたの原 八十島かけて こぎいでぬと 人には告げよ あまのつり舟」を本歌にしている。
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの際、石田三成(注6)は、二千石の士・八十島助右衛門を島津勢への使者として派遣した。乱戦となっても動かない島津へ、三成の言葉を伝える役目であったが、八十島は島津を見下した無礼な言い方で伝言した。怒った島津豊久は、八十島を追い返した。
八十島は西軍石田方が敗勢になるや、ひとり馬に乗って本陣から逃げ去ってしまった。
磯野平三郎という者が、八十島の行動に呆れ果てて、戦いのさなかに詠んだ歌が上記のわたのはら~のパロディ。
戦国武将島津義久(注7)の老中、井上覚兼が書いた武士の心得の第一として、和歌と連歌が挙げられている。『古今集』を筆頭として学んでおくことが、武士たる資質の第一番であった。
二番目は、礼儀作法に関する「有職」と、手紙の書き方「書札礼(しょさつれい)」
今の人々が武士たる心得の一番目に思い浮かべる武術(馬術、弓術、剣術、鷹狩りなど)は、第三番目にすぎない。
戦中にあっても、古今集を本歌取りして歌を詠む心得がなければ、ならなかった。
同じく百人一首の右近の和歌「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」を、パロディにし、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(注8)を皮肉った幕末の狂歌
「 殺さるる身をば思わず登城せし首の別れの惜しくもあるかな 」
むろん、「笑い」を目的とする狂歌も江戸時代を中心に盛んに作られた。江戸期、書院の間にカルタ取りがはやると、パロディも盛んに作られた。
百人一首の第一首「秋の田の 刈り穂の 庵の苫をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ」(天智天皇 注8)のパロディもたくさんあるが、紹介するのは、本歌の秋の光景を碁仇とのやりとりして笑わせる作。
「あきれたのかれこれ囲碁の友を集め我がだまし手はつひに知れつつを(作・鈍智てんほう)
狂歌の作者名までパロディになっている。
近年では、狂歌が大勢の人の口にのぼることは少なくなった。標語やコピーライトのパロディは生き残っているのだが。
60年前の大戦中、「贅沢は敵だ」という標語が掲げられた。すると「敵」の前に「素」と書き加えて「贅沢は素敵だ」とたちまちパロディが作られた。「
足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」という標語は「工」の字に×をつけて、「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」と、男性が出征して男手が足りない現実を皮肉った。
パロディは、もとの作品を素材としつつ、批判精神を発揮して新たな視点で作り替える作品である。狂歌や川柳、標語などのパロディのほか、絵画写真映像など、既出の作品はすべてパロディの対象になりうる。
現代は、ことばのパロディが成立しにくい時代だといわれる。
夕刊に、阿部家おぼっちゃまくん版「坊ちゃん」が載っていた。(2006/09/21)
「親譲りの七光りで得ばかりしてきた」という書き出しで、新総裁を風刺した文、これも、漱石(注10)「坊ちゃん」の「親譲りの無鉄砲で損ばかりしている」という元の文章を知らずに読めば、笑うに笑えない。
確かに政界、どちらを見ても「七光りで得をしてきた」ぼっちゃまばかりなのだもの、パロディとは思わず、そのものズバリの評言に受け取られてしまうだろう。
阿部家のおぼっちゃま(注11)は、「美しい国」を作りたいそうです。
============
注:
1 紀貫之:平安前期の歌人。「土佐日記」作者。古今集の編纂にあたった。
2 額田王:斉明朝から持統朝の歌人。大海人皇子(天武天皇)との間に十市皇女をもうけた
3 藤原定家:鎌倉初期の歌人。冷泉家の祖。藤原道長の玄孫。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進。後世の文学、文化に大きな影響を残した。
4 参議篁(小野篁):平安前期の学者、歌人。先祖は最初の遣隋使小野妹子。孫は書道の三筆小野道風。
5 関ヶ原軍記大成:江戸時代の歴史物語。歴史資料として扱うには注意が必要だが、おもしろいエピソードが多い。
6 石田三成:豊臣秀吉子飼の武将のひとり。近江出身のため、側室淀の方に接近し、正室北の政所派と不仲であったとされている。
7 島津義久:安土桃山期の武将。島津家17代目当主とされている。(異説あり)
8 井伊直弼:幕末期の江戸幕府大老。開国期の政権を担ったが、桜田門外で水戸浪士に暗殺された。
9 天智天皇:38代天皇。中大兄皇子時代にクーデターを起こし、天皇家を上回る勢力を持っていた蘇我入鹿を暗殺。うまく殺人ができたから天皇になれた。殺せなかったら、殺人未遂者として蘇我王朝への謀反者として処刑されていた。上記額田王を大海人皇子(天武天皇)から奪った、という伝説を残した。
10 夏目漱石:明治~大正期の小説家、学者。現代日本語文章表現の基礎を築いた。代表作に「こころ」「我が輩は猫である」「門」「それから」など。
11 阿部家のおぼっちゃまくん:旧満州国国務院実業部総務司長として暗躍した人の孫。満州に残った兵と民を放棄し、A級戦犯として巣鴨に収容されながら、米国の共産国対抗政策変換のおかげで釈放され、首相になった人の孫であるおぼっちゃまくんは、祖父を尊敬し、祖父の悲願でもあった、憲法9条と教育基本法を変える事業にとりかかるそうです。
<つづく>
00:04
2006/09/25 月
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(10)
パロディ裁判
パロディが成立するには、元の作品をだれもが知っている必要がある。みんなが知っている作品の持つ、まじめな教訓の部分や表面に現れている言説の背景をひっくり返したりちゃかしたりするおかしさを、パロディ享受者が受け止められることが前提になる。
現代では、「誰もが知っていて~」という部分が成り立たないのだ。若者も子供もいっしょに笑うには、せいぜい、テレビのCMをパロディにする程度でないと、理解してもらえない。
写真の世界で有名なパロディー裁判があった。
山岳フォトグラファー白川義員(しらかわ・よしのり)氏が撮った白い雪山とスキヤーの写真。数人のスキーヤーがスキーの軌跡をジグザグに描いて降下する白川の写真をもとに、マッドアマノ氏が、大きなタイヤを合成した写真を作った。
これに対して、白川氏が著作者人格権の侵害だとしてアマノ氏を訴えた。
1972年から1987年まで16年間裁判が続き、最終的には和解による裁判取り下げとなったが、実質アマノ氏の敗訴。
他者の撮影した写真作品をそのまま使用すれば、盗作にあたることは裁判をするまでもなくわかるのだが、アマノ作品がパロディであったのか、白川写真利用が、「引用でなく盗用であった」とみなされたのか、わかりにくい結末だった。
白川の写真を「パロディ」として用いる必然性がなかった、というような、よくわからない結論であったように思う。
この論の最初に紹介したシェークスピアの翻案作品を、現代の「著作権」の考え方で裁判にかけたら、どうなるか。
シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のタネ本となったの作品がいくつかある。
1554年、イタリアのマッテオ・バンデッロが書いた小説がフランス語訳され、1562年に英語訳された。アーサー・ブルックはこの英語訳をもとに、長編詩「ロミアスとジュリエットの悲劇物語」を完成。
シェイクスピアは、これらの先行作品をもとに「ロミオとジュリエット」を1595年頃に書きあげた。
さて、現代の著作権の視点で裁判したならば、判決はどうなるか。
ブルックが「シェークスピアの『ロミオとジュリエット』は、ブルックの長編詩『ロミアスとジュリエットの悲劇物語』の盗作にあたる」と、訴え出たとする。
原告側被告側丁々発止にやりとりはあるだろうが、裁判長の著作権判断は?
現行著作権法を細かくあてはめていくと、「文体のみならず、主題が全く違うから盗作にはならない」という結論になるみたい。
ブルックの詩は、「大人の分別を聞き入れなかった、軽率な若い二人の行為に対する警告」を主題としている。一方、シェークスピアの劇は「共同体内の対立と、愛する者たちの犠牲による共同体の救済」が主題。
シェークスピアの勝訴。おめでとう、印税はウィリアム君のもの。
<つづく>
2006/09/26 火
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(11)
原作・原案、資料引用」とオリジナル
複製技術、コピー技術の革新によって、本物と寸分たがわぬ「複製品」は、いくらでも作れる世の中になってきた。
本物とは何なのか、コピーと本物はどう異なるのか、デュシャンの「泉」が提起した美術の問題だけでなく、文学、音楽、演劇、すべてのジャンルに渡って、盗作、贋作、翻案、パロディなどはこれからもさまざまな問題を引き起こしていくだろう。
「おじいさんとおばあさんが偶然ひろった赤ん坊を育てたら、絶世の美女に育った。求婚者が続々と現れたが、美女は求婚をあきらめさせるために難題を要求した。結局求婚者はみな失敗し、美女は異世界へ去ってしまった」
という物語を、だれかが書いたとしても、即「なんだよ、これ、かぐや姫と同じストーリーじゃないか、盗作だよ!!」と、非難されることはない。
芥川龍之介も、太宰治も、『今昔物語』や「御伽草子』を翻案した作品を多数書いた。あまり翻案が成功したとは言えない作もあるが、おもしろい作品が多い。
「物理学校を卒業した理科教師が田舎の学校に赴任しておこる騒動」を、『坊ちゃん』以上に面白く書いてあるなら、私は楽しんで読むだろう。
同じストーリー展開で、元の作とは趣向をかえ、SF風の作品に仕立てようとSM風だろうと、ようは読者が作品を読んでおもしろがったり、感銘を受けたりすればいいのだ。
文学作品の場合。
小説の要素は、
1 ストーリー展開と構成
2 時代や場面などの背景シチュエーション
3 登場人物のキャラクター
4 文体
このうち、「ストーリー展開と構成」がそっくり同じだけれど、他の要素はまったく異なるふたつの作品AとBがある場合。どちらかが、どちらかのストーリーをまねしたとしても、他の要素がすべて違うなら、それは、翻案であって、盗作とは言えない。
ただし、そっくり同じストーリーを読んで、それをおもしろいと感じるかどうかは、読者の受け取りかた次第。
日記などの資料をもとに作られた作品の例をあげよう。
井伏鱒二の『黒い雨』は、広島の原爆を描いた作品として、1966年新潮社より刊行された。
被爆日記と小説部分が重層するする構成。
『黒い雨』作中で、主人公(日記の筆者)は「閑間重松(しずましげまつ)」である。
この作中日記は、重松静馬(しげまつしずま)の書いた被爆日記を資料としている。
重松は、広島市内横川駅で被爆し、古市の勤め先に避難した過程を日記に残した。
日記は重松側から井伏に「資料として使用し、原爆の悲惨さについて世に知らせてほしい」と、託されたものであった。
原水爆禁止を願った重松氏の遺志をうけ、遺族にあたる重松文宏氏(重松静馬の養女の夫・広島県三和町教育長などを歴任)も、原水爆禁止運動に取り組んでおられる。
<つづく>
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2006/09/27 水
ことばのYa!ちまた>盗作翻案パロディオマージュ(12)
『黒い雨』創作か盗作か
井伏作品の資料として「重松日記」が存在することは、もとより知られていた。ただ、重松自身の意思により、日記の刊行公表は、重松の死後までなされなかった。
「重松日記」は、重松が1977年に原爆症で亡くなった後24年を経て、遺族の手によって出版された。(筑摩書房2001年)
元になった資料『重松日記・火焔の日(1945年8月6日)』『重松日記・被爆の記(同8月8日~13日」『重松日記・続被爆の記(同8月14日~15日』と、井伏重松往復書簡が収録されている。
重松日記刊行の当初、「黒い雨」は、日記の盗作ではないか、と難じる論が発表された。
猪瀬直樹は『ピカレスク太宰治伝』のなかで、井伏作品を「他者の文章をリライトしただけ」と断じている。
猪瀬は、
「『黒い雨』と『重松日記』の関係を検証した。井伏は他人の文章をリライトする安易な作品作りをしている 」
と書いた。(「文學界」2001年8月号)
猪瀬は
「(井伏作品を盗作とした論に対して)文壇から一向に反応がない。文壇は沈黙している。無視しているのだ。井伏鱒二という権威に萎縮しているとしか思えない。権威の前に萎縮し、真実を言えないとしたら、文学とは一体何なのだ、と言いたい」
と憤っている。(「猪瀬流 現代を考える視点」第10回2001年07月)
猪瀬直樹が「資料にある文章がそのまま使われている部分があるから、『黒い雨』は盗作」、と断じたのと、文学研究者文芸評論家が、両作品の文体を比べて、「黒い雨と被爆日記は別の作品」と考えたことの間には、創作方法論・文体論の違いがある。
猪瀬は、自分自身の関わっている雑誌などが行っているリライト、すなわち、リライターが雑誌などへの素人投稿文を「読める文章」に手直しするリライティングを念頭において、「井伏は重松日記をリライトしたにすぎない」と判断したのであろう。
しかし、井伏による重松被爆日記小説化は、単なるリライトではない。
単なるリライトであるなら、井伏は「とても私の手におえない」と、託された日記を重松に返却しようとまで思い詰めなかったろう。
重松氏の遺族によって、井伏と重松の間にかわされた書簡が公表され、日記をもとに小説作品が執筆されていく過程が明らかになった。
日記を託された井伏は、最初、事実のあまりの重さ大きさに作品化をためらい、日記を返却しようとした。
1963年3月29日付けの重松あて書簡で、井伏は
「このまま預かっても宝のもちぐされ、犬がおあづけを食ったようなもの、返したい」
と、重松に日記を返却したい旨、書き送っている。
重松はあくまでも井伏による作品化を望んだ。
重松の懇請を受け、重松とふたりで日記の事実を吟味しがら、井伏は小説を執筆していった。
<つづく>
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2006/09/28 木
ことばのYa!ちまた>翻案盗作パロディオマージュ(13)
オマージュ
井伏重松往復書簡によって、「『黒い雨』を重松との共作として発表したい」と井伏から申し入れていること、などもわかった。
「共作としたい」という井伏の誠実さを理解しつつも、重松は「小説作品としての作者は井伏鱒二」であると考え、著者名は「井伏鱒二」単独で発行された。
ただ、重松は、「資料提供者」として本に署名することの了解を井伏に頼んだ。
遺族の重松文宏氏は「父は、原爆の悲劇を後世に伝えたいという悲願を叶えてくれた井伏を生涯尊敬し、本に“重松静馬”と署名して友人知己に贈ることを無上の愉しみにしていた」と語っている。
『黒い雨』に「重松静馬」と署名するとき、重松は「資料提供者」の誇りをもってサインしたことだろう。
「重松被爆日記」は、直接体験を書き留めた貴重な記録であるが、文学作品『黒い雨』は、「重松被爆日記」とは別の、独自な文学的価値をもつ、と私は思う。
資料をそのまま引き写すのと、作品として昇華させるのとでは次元が異なることを、この『黒い雨』は、よく示している。
「文芸のオリジナルについての考え方が異なる」という以上に、猪瀬の論は即断にすぎたと感じられる。
『黒い雨』に重松氏が「重松静馬」とサインするとき、重松の心にはいつも井伏へのオマージュの気持ちがわき起こっていただろう。
また、「重松と井伏の名を共に表に出し、共作として出版したい」と申し出た井伏鱒二は、重松への尊敬の気持ちを十分に表現していた。
井伏鱒二作品として単独の名で出版することになって以後も、重松へのオマージュの気持ちを持ち続けたであろう。
和田義彦氏はアルベルト・スギ氏の作品をもとにして描いたことについて、口を閉ざし続け、スギ氏に自分が画家であることすら告げなかった。それはオマージュの態度ではない。
「オマージュ」になるのか、本歌取りのような「アレンジ」「翻案」「パロディ」になるのか、それとも「盗用」として断罪すべきなのか、という境界線は、論議の的になってきた。
まずは、「本歌」「元作品」をはっきりさせること、本歌への親愛や尊敬の気持ちがわかること。
元作品を批判的に扱い、パロディ化するとしても、その作品をとりあげることによって、作品への認証をおこなっている。パロディもまた、作品を認めているという表現になるだろう。
和田氏のように「元作品の存在を隠す」のでは、盗作とみなされる。
以上、オリジナリティとは何か、考察を続けてきた。
「創作」には、常に先行作品が下敷きとして存在する。どんなに独創的画期的革命的作品であろうと、その底流には、現世人類1万年の文化の歴史が累々と重なっている。
その意味では、「創作」「新作」というのは存在せず、常に「翻案」であったり、「パロディ」であったりするのかもしれない。
模倣からはじめるもよし、パロディもよし。マネしたい尊敬すべき人があるなら、その名をかくしたりせず、堂々とオマージュをささげつつ、まねしたい。
(えー、春庭は、本居春庭を尊敬しつつ、その名をマネしておりますが、借用は名前だけでして、本居春庭の国学、国文法のマネは、したくてもできません)
<翻案盗作パロディオマージュ おわり>