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アボリジニアーティスト、エミリー・ウングワレー2008/07/27

2008-07-27 08:14:00 | 日記
nipponianippon
2008/07/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(7)カーメ・やむいもの魂

 画集でみたり、ときには絵葉書でみても、好きになれる絵もありますが、エミリーの絵こそは、実物を見なければ、すばらしさの一部分にしかふれることにならない。
 いや、ほんとうは、オーストラリアの砂漠地帯の中央で、砂の上に平らにキャンバスをおいて、キャンバスの四方から見るのが、もっともよい鑑賞方法なのでしょう。

 エミリー・ウングワレー展の日本側監修者である国立国際美術館館長・建畠晢(たてはたあきら)の解説を引用します。
 図録にある、建畠館長の「インポッシブル・モダニスト」というエミリーへのオマージュもとてもすばらしい文ですが、長いので、こちらを。
===============

 エミリー・カーメ・ウングワレーは、アボリジニを代表する画家であると同時に、20世紀が生んだもっとも偉大な抽象画家の一人であるというべきでしょう。オーストラリア中央部の砂漠で生涯を送った彼女の絵画が示す驚くべき近代性は、西洋美術との接点がまったくなかったことを考えるなら、奇跡的にさえ思われます。

 彼女は1970年代の後半にバティックの制作を始めますが、何といっても注目されるのは89年から96年に86歳で没するまでの8年間に描かれた3,4千点に及ぶアクリルの作品です。
 それらの画面はしばしばポロックらのアメリカ抽象表現主義との共通性を指摘されています。しかし最晩年の長さ8メートルに及ぶ大作《ビッグ・ヤム・ドリーミング》(1995年)のネット状のイメージが自生するヤムイモをモティーフにしているように、実のところはいずれも画家が住む土地の動植物などから広がった夢でもあるのです。
 砂漠が生んだ天才、エミリーの世界は私たちに大いなる感動をもたらすに違いありません。
xhttp://www.emily2008.jp/viewpoint.html
===============

 エミリー・カーメ・ウングワレーは、オーストリアを代表する画家です。
 エミリーは、英語通称名。
 ウングワレーは、地域に住むアボリジニの出自を表しており、ファミリーネームではなく、部族ネーム(スキンネーム)です。

 カーメは、アボリジニのことばで、「やむいも」を表し、エミリーの「ドリーミング」です。
 エミリーにとって、カーメとは、自分自身の存在と自然との交歓、宇宙観すべてを含めたものです。
 エミリーはヤムイモを描くことで、自分が司るドリーミングを継承し伝えようとしています。

<つづく>
2008-07-09 10:50:13 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(8)アボリジニスピリット
 「ドリーミング」といわれる儀礼は、先祖の時代の天地創造にまつわる神話や伝説を伝えるものです。神聖な儀式の中で伝えられることもあり、また大地に砂絵として示されることもあります。
 ドリーミングとはアボリジニが先祖代々受け継いできた宗教や掟、神話、伝説などと、それにまつわるすべての物事を包括した言葉です。

 ネイティブアメリカンのトーテムに通じる部分もありますが、同じではありません。
 自分の命、精神が「やむいも」と共鳴しながら存在する、というところでしょうか。
 アボリジニは、自分が守り後世に伝えるべきドリーミングを、一人一人持っています。

 点描や線で、何を描いたのか、他の人々にはわかりません。ただ、モダンな抽象がに見えます。しかし、アボリジニの部族内部の人がみれば、それがどんな神話を伝え、どんな伝説を伝えているのかわかります。
 部族の秘密を守りつつ次の世代へと、儀礼や砂絵やボディペインティングで、今後も確実に伝承が続くのです。
 
 これまでオーストラリアの大地で何万年もの間続けられてきた絵を描く行為を、エミリーは、自分の感性で続けているのです。

 西洋美術に見慣れた目には、「最先端のモダンアート」「近代的抽象絵画」に見えるとしても、エミリーにとっては、先祖代々の「ドリーミング」、すなわち大地のすべての物語を描いた絵なのです。

 「エミリー・カーメ・ウングワレー」は、エミリーが「自分の作品に関しては、この名を用いる」と、決めた名前です。

 「エミリー・ウングワレー」というカタカナ表記は、できるかぎりアボリジニの原音に近いものとして表記されていますが、「エマリー・カーメ・ングウォリー 」「エマリー・カーメ・ングオリ」という表記も見かけました。

 また、死後一定期間は死者の名をよぶことをはばかる、というアボリジニの慣習により、わざとちがうつづり表記で名をあらわすこともあります。

 ネットで検索すれば、エミリーの絵のモチーフを知ることができます。でも、そのモチーフがキャンバスに描かれた迫力はおそらくわからない。
 エミリーの絵は、2×5m、 3×8mなどという大きなサイズがほとんど。
 たぶん、図録やネットの中の紹介では、絵のすばらしさを伝えることは難しい。

 代表作の大きさを知るためのリンク。
http://www.enjoytokyo.jp/id/art_staff/149630.html

<つづく>
2008-07-09 10:50:52 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(9)エミリーのバティック(ろうけつ染め)と、カラーアクリル

 エミリー・ウングワレーは、1910年ごろ生まれました。正確な生年月日はわかりません。アボリジニ(Aborigine)の人々は、生まれた年や月日を記録する習慣を持たなかったからです。

 これは、現代でも同じで、パスポートがいる、という時に、はじめて、生年月日を書き込む必要ができ、さまざまな状況証拠から生まれ年をさぐって記載することになります。

 生まれ年がはっきりわかっている人を基準にして「Aさんがあの石くらいの背丈だったとき、あなたはどれくらいAさんより大きかったの?」などの質問をして、生まれ年を探っていくのだそうです。
 誕生日がわからない人は、全部1月1日生まれとして処理されるから、アボリジニの人の多くは、誕生日が1月1日。

 エミリーは、アボリジニの伝統に従って、砂の上に絵や模様を描き、アボリジニを守る聖なる存在に捧げてきました。
 また、女性の儀礼のために、周囲の女性たちに「儀礼のファッション」であるボディペインティングを描いてきました。

 60歳過ぎまでそうやって、エミリーはアボリジニの伝統生活の中で、静かに心豊かに暮らし続けました。エミリーは自分の言語、アマチャラ語だけを理解し、自分のドリーミングを信じて生きてきました。

 1970年ごろまで「アボリジニ隔離政策」を続けてきたオーストラリア政府は、これ以後方向転換をはかるようになりました。

 ひとくちに「アボリジニ(原住民)」と、言っても広いオーストラリア大陸です。おおまかな系統分類では30系統の部族が、300ほどの言語に分かれてそれぞれの固有の地域で暮らしてきました。文化もこまかい差があり、ひとくくりにすることはできません。

 エミリーの話すアマチャラ語は、中央のシンプソン砂漠のはしにあるアリススプリングという町からさらに奥地へ250km入った「ユートピア」と呼ばれる地域の言語です。
 
 1970年代、政府は、「アボリジニが手仕事を身につけて自立できるように」という教育プロジェクトを始めました。
 その中に、染め物工芸教育プロジェクトもありました。

 1977年、エミリーは「バティック(ろうけつ染め」の技法を習いました。69歳でした。
 それ以後、10年間、エミリーは伝統の砂絵のほかにバティックによって布にアボリジニの神聖な模様を描きました。エミリーにとっては、砂の上に描いても布に描いても、それは大自然への祈りに通じるものでした。

 1988年、79歳のエミリーは、「絵画教育プロジェクト」を受け、カラーアクリル絵の具によってキャンバスに描く方法を知りました。

 エミリーの絵は、第一作から大きな反響を呼び、またたくまにエミリーの名はアートシーンに広まりました。
 「奇跡の天才画家」として。

<つづく>
2008-07-09 10:51:58 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(10)インポッシブルモダニスト

 美術学校教育もいっさい受けず、西洋的な美術技法を知らなかった80歳のアボリジニ女性が初めて描いたアクリルペインティングの作品は、彼女にとっては「ヤムイモやトカゲ、草の実」などを、感じるままに描く「自然の魂」そのものです。

 しかし、西欧美術を知るものには、「最先端の抽象美術」の最良のものに見えました。
 「インポッシブル・モダニスト=不可能な近代芸術家」と呼ばれるのも、まったく近代西洋美術の考え方では「ありえない」飛び抜けた「モダンな抽象表現」に思えるからです。

 亡くなるまでの8年間に、エミリーは3000~4000点もの絵画作品を残しました。

 3000点から4000点というエミリーの絵画作品、正確な制作点数がわからないのは、エミリーにとって、描くことは神聖な大地への祈りであって、描く行為こそが大切であり、描かれた絵の行く末など気にとめなかったからです。砂に描いた絵は、風が吹けば神のもとへと行ってしまう。

 勝手に絵を持っていくコレクターがいても、気にしていませんでした。
 今、エミリーの絵は、コレクターの間で、1点1億円以上の値段で取り引きされています。エミリーからタダ同然で絵を受け取り、「オークション長者」になった人もいることでしょう。
 
 エミリーは砂に描いていたのと同じように、毎日キャンバスに描きました。3m×8mという大作を2日がかりで仕上げたり、1日に何枚も描き続けたり。
 そもそも、アボリジニの人々には「個人所有」という考え方がなく、「ものは、必要な人のところへいく」という考え方。
 そこに食べ物があれば、おなかがすいた人たちが分け合って食べるのです。

 靴をはきたい人がいて、そこに靴がありサイズが合えば、だれの靴でも履いて帰る。自分の靴が見あたらなければ、また別の靴を履いて帰る。最終的に大足の人に子供サイズの靴しか残らなかったら、、、、裸足で帰ればよいだけ。

 かろうじてエミリーの部族アボリジニの仲間に残された絵は、アボリジニの福祉のために使われるよう設定されていますが、エミリーも知らない間に、白人コレクターの手に渡った作品も数多くあります。
http://www.emily2008.jp/viewpoint.html

 今回のエミリー回顧展、オープニングゲストとして、オーストラリアや日本から、エミリー芸術に関わったたくさんの人が招かれました。
 その中のひとりがバーバラ・ウィア。エミリーの後継者と見なされている女性です。

 「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組で、日本の女性タレントがホームステイをした回があります。そのホームステイ先がバーバラの家でした。

<つづく>
2008-07-09 10:52:34 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(11)ミニーとバーバラ

 どうしてバーバラがホームステイ先に選ばれたかというと、彼女は英語が話せるから。
 なぜ、英語を話せるかというと、彼女も「盗まれた子供」として、寄宿学校=収容所に入り、その後20年、故郷に帰ることを許されなかったからです。英語を使うしか生きるすべがなかった。
 
 バーバラの母ミニー・プーラ(Minnie Pwerla1910~)
 ミニーは、エミリーと同じ1910年ごろ、アリススプリングス北東のユトーピアで生まれました。

 ミニーは6人兄弟の間に育ち、伝統のボディペインティングや砂絵を身につけました。
 ミニーは狩りや儀礼を采配する重要な役割を担い、中でも女性の儀礼において、部族間で長い間伝承しつづけてきたボディペイントの「語り部」でもありました。
 ボディペインティングは、ただ女性の肩・胸元・乳房・腕にかけて描かれる描かれるだけでなく、その図象に物語伝説を伴うものなのです。

 ミニーは7人の子供に恵まれました。そのひとりがアボイジニ・アーティストのバーバラ・ウイアです。

 バーバラは、1945年にアボリジニ女性と、アイルランド系白人男性との間に生まれました。10歳のとき、「混血児を収容して教育を与える」という白豪主義によって、母親ミニーと引き裂かれました。

 バーバラは、親から強制的に引き離され、その後20年間、ずっと白人社会での生活を余儀なくされてきました。
 映画『裸足の1500マイル』の中の、モリーと同じ悲劇を、バーバラも経験したのです。

 バーバラほか、白人の植民地政策白豪主義のため、つらい人生を余儀なくされた人々が多かった。

<つづく>
2008-07-09 10:53:36 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(12)受け継がれる魂エミリーからバーバラへ

 バーバラは、白人から受けた教育で英語が話せるようになりましたが、そのかわり、アボリジニとしてのアイデンティティを奪われ、地域アボリジニの言語であるアマチャラ語を忘れてしまいました。

 バーバラが故郷の砂漠地帯に戻れたのは、20年後です。
 バーバラは30歳くらいになっており、地域のことばも話せず、故郷の人々になじめませんでした。孤独にひきこもるしかなかったバーバラ。

 そんなとき、幼い頃のバーバラをはっきり覚えており、受け入れてくれたのがエミリーです。
 その後、エミリーは、バーバラの庇護者となり、バーバラに語りかけました。バーバラがアボリジニアイデンティティを取り戻すために、さまざまなことを教えました。

 バーバラは、心の育ての親であるエミリーを、生みの親のミニーと同じように慕いました。そして、バーバラはエミリーの影響のもと、アボリジニペインティングを描くようになりました。

 1999年、エミリーがなくなったあと、バーバラはミニーにも絵を描くことをすすめました。
 ミニーは、自分もボディペインティングをモチーフにした絵を描くようになりました。
 ミニーは89歳~90歳になっていました。90歳の新人画家誕生です。
 ミニーの描く絵も、エミリーの絵と同じように、強いエネルギーにみちています。
 絵を見て、90歳の女性が初めて絵の具で描いた絵と思えません。

 ミニー、93歳のときの作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/details/?ArtworkID=57&v=dt/

 バーバラは、今回の展覧会の特別ゲストとして来日し、イベントに出席しています。

 エミリーは、終生、故郷であるアルハルクラを称え、作品にアルハルクラへの賞賛と感謝を表現しました。
 儀礼や歌、踊り、絵画制作、これらを行うことが生活することであり、生きること。エミリーの描くすべては、土地に深く根ざしています。

 エミリーのことば
「ペンシル・ヤム(細長のヤムイモ)、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ(オーストラリアの在来犬)、エミュー、エミューの好きな小さな植物、緑豆、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」

<つづく>
2008-07-09 10:54:07 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(13)アルハラクラ

 ほんとうに、美術館でなんの予備知識もなくいきなりエミリーの絵にぶつかった、という鑑賞の出会いでした。

 エミリーは、故郷アルハルクラの大地に広がるカーメ(やむいも)の地下茎を描き、風にゆれる草の実を描き、女性たちのボディペインティングのストライプを描きました。

 トカゲを狩り、芋を掘って生きるアボリジニの生活は、大地の魂と響きあい、ほんとうに豊かな精神をはぐくんできたのです。
  アボリジニの人々は、大地と深く結びついて生きています。草もヤム芋も、トカゲも、豆も、すべてのものが、アボリジニの魂であり、ともに生きていくものたちです。

 エミリー・ウングワレーの絵は、この「アボリジニの魂」の表現です。
 エミリーの故郷「アルハルクラ」と呼ばれる地域。
 一帯の赤い大地は、どこまでも広がり、豆や草を這わせています。アルハルクラは、アーチ型をなす赤い岩の名前でもあります。

 エミリーは鼻の中央に穴をあけ、鼻に10cmくらいの棒を差し込んだ姿をしています。
 穴があいたアーチ型の岩「アルハルクラ」に対して、エミリーが敬意を表す正装が、この鼻ピアスです。

 エミリーの写真。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/arts/080612/art0806120802000-p1.htm

 新国立美術館でのエミリー・ウンワレー点は、最初のブースに、故郷アルハルクラをイメージした作品を何点か代表作として展示し、あとは、年代順、テーマ順に沿って展示が為されています。

 ゆったりした空間に、エミリーの大作がならび、会場にはあまり人も多くなくて、とてもいい時間が流れていました。

 1977年からはじまったバティックの布地ろうけつ染め作品。
 1988年からのカラーアクリルによるキャンバスの作品は、年代を追ってテーマが「点描」「ストライプ」などが並んでいます。

 1988年に描いた最初のカンヴァス作品「エミューの女」(1988-89、The Holmes à Court Collection蔵)は人々に大きな衝撃をもたらしました。

 「神聖な草」の章では、スピード感あふれるタッチで、すばらしい線がキャンバスを交差しつつ美しいハーモニーを奏でています。

 エミリーの最晩年にあたる1996年に制作された作品群。なくなる2週間前の3日間、エミリーは24点の作品がまたすばらしい。

 この3日の間、エミリーは幅広の刷毛を用いて、美しい色の面から成る作品を描きあげた。会場にはその中の5点が展示されています。

<つづく>
2008-07-09 10:54:47 ページのトップへ コメント削除

Re:アボリジニアーティスト・エミリー・ウングワレー
nipponianippon
2008/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(14)ユートピア


 79歳でカラーアクリルペインティングをはじめて、87歳までの8年間、あくなきエネルギーで描き続けたエミリーですが、もっと長生きしてくれたら、さらにさまざまな描写によって、より幅広い表現の世界を追求したことでしょう。

 エミリーは、キャンバスをそのまま大地の上におき、キャンバスの上に座り込んで、四方から描きました。
 「どの方向からながめてもいい」というのが、エミリーの主張です。神に捧げる砂絵、神はどの方向から見ているのかわからない。それと同じく、どの方向から見てもいいというので、作品の天地は、研究者やキュレーターが決定します。

 私も、ひとつの作品を横から見たりいろんな方法で見てみました。
 作品によっては、木の枠が取り付けられていたのですが、エミリーが「額装」ということをまったく考えていなかったことは確かだと思います。

 なぜなら、私がキャンバスにちかづいて横から眺めたとき、キャンバスは縁にまでしっかりペインティングされ、模様がつけられているものもあったからです。

 エミリーの絵が、世界のアートシーンに驚きを与えて以後、エミリーはオーストラリアを代表する画家となりました。

 1990-91年にはシドニー、メルボルン、ブリスベーンで個展が開催されました。
 1992年にオーストラリアン・アーティスツ・クリエイティヴ・フェローシップを受賞し、エミリーが亡くなったあと、1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選出されました。
 1998年にはオーストラリア国内を巡回する大規模な回顧展が開催されました。
 
 エミリー・カーメ・ウングワレー(1910年頃~1996年)
 彼女の作品は、没後12年を経て、ますます評価が高まっています。
 100を越える展覧会に出品され、世界各地の美術館、コレクションに納められている。また、ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア館で特別出品されたほか、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催されました。

 日本での紹介は、1996年、エミリーが亡くなったころに、日曜美術館で紹介したということでしたが、私はまったく彼女の絵を知ることなく2008年まできました。
 2008年6月7日にテレビ東京の「美の巨人たち」、6月22日にNHKの「新日曜美術館」でエミリー・ウングワレーを特集したというのですが、私は見なかった。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0622/index.html

 今回、エミリー・ウングワレー展には、「ユートピア」というコーナーがあり、エミリーや他のアボリジニアーティストによる、動物の彫刻や人形に伝統のペインティングをほどこした作品が出品されていました。
 ヤム芋を掘る農作業の棒にも、エミリーの祈りがこめられた点描があります。トカゲの丸焼きや芋煮をのせた器にも、伝統の模様が。

 はからずも「ユートピア」と名付けられたアボリジニの故郷。
 人々がおおらかに伝統と現代の生活を融合し、生き生きとした精神生活が送れるよう、オーストラリア政府は、しっかりとした政策をたててほしい。あとから来て我が物顔でアボリジニの人々を蹂躙した西欧人たちの義務です。

 このすばらしい芸術の魂をもつ人々が、エミリーの残した芸術遺産とともに、未来へむかっていけますように。

<おわり>

シサノ元モザンビーク大統領講演会リポート2008/07/26

2008-07-26 21:15:00 | 日記
nipponianippon
 5月28~31日、横浜で第4回アフリカ開発会議が開催され、さまざまなイベントが行われています。
 シサノ元モザンビーク大統領の講演(2008/05/29)の報告です。


2008-05-30 00:47:32 返信フォームへ 掲示板へ戻る コメント削除

1)シサノ元モザンビーク大統領講演会リポート
nipponianippon
 横浜で展開している第4回アフリカ開発会議のさまざまなイベントに参加したかったけれど、あいにく足の具合が悪くて出かけることができません。
 唯一、「モザンビーク前大統領ジョアキン・シサノ氏講演会」を聞くことができました。平和構築の人材を育成する大学院コースを設立している東京外国語大学が、学生のために企画した講演会です。

 「ポストコロニアル」について関心をもってきましたが、具体的には何も勉強していない私ですが、ミーハー気分で、シサノ氏をただ、見ておきたかった。
 シサノ氏は、まさに、ポストコロニアルを生きぬいた「生き証人」みたいな人。
 「独立闘争を戦い、独立後の不安定化内戦を勝ち抜き、モザンビーク経済をたてなおした」という「民族の英雄」です。

 雨が強く、4月の気温となった肌寒い午後でしたが、大勢の熱気あふれる若者がホールにぎっしりつめかけ、同時通訳のイヤホンも足りなくなったほどでした。
 私は比較的前のほうに空いている席を見つけて、イヤホンをつけることができました。

 モザンビーク、と聞いて、すぐに地図上の位置をあげられる人は少ないのではないでしょうか。
 日本人にとって、世界中でもっとも「なじみのない国」のひとつにあげられるでしょう。
 モザンビークは、アフリカ大陸の下のほう、インド洋に面した東側に位置する南北に長い海岸線を持つ国です。

 ♪アイアイ、アイアイお猿さ~んだよう~♪という歌にでてくるアイアイが住むマダガスカル島。こちらは、動物好きな方を中心にわりあい知られている国。アフリカで一番大きな島です。
 このマダガスカル島とインド洋モザンビーク海峡をはさんで西側、アフリカ大陸の東側にあるのがモザンビークです。

 かくいう私も、モザンビークの位置は知っていても、「じゃ、モザンビークの首都はどこ?」と、聞かれて、「マプート」と、答えられなかった。
 私がモザンビークについて知っていたことは、「ケニアの南はタンザニア、そのまた南にモザンビーク、そのまた南は南アフリカ」という位置関係と、「長い間独立戦争を戦い抜いて独立したのはケニアと同じだが、ケニアはその後順調に独立国として歩んだのに、モザンビークは、それからあとも長い間内戦が続いた」ということくらい。
2008-05-30 00:48:36 ページのトップへ コメント削除

2)シサノ元モザンビーク大統領講演会リポート
nipponianippon
 独立後のモザンビークについては、日本に伝えられるニュースも少なく、情報がほとんど知られていない国のひとつになっていました。
 唯一大きな報道となったニュースは、1986年10月19日、南アフリカ・ムブズで現役大統領の乗った飛行機が撃墜されたこと。

 モザンビーク共和国初代大統領サモラ・マシェル以下、政府高官ら35名が亡くなったという衝撃的なニュースでした。こののち、初代の遺志をうけつぎ、大統領となったのがシサノ氏です。

 講演のタイトルは、「アフリカの平和のためにできることは何か~学生へのメッセージ~」

 講演の中で、印象に残ったいくつかのこと。
 第一に、私がこれまで認識してきたモザンビークの歴史について。私は、ポルトガルの植民地にされたモザンビークが、「独立後も内戦によって疲弊した国家」と思っていた。しかしシサノ元大統領は、「内戦ではない」と、言い切った。

 「内戦、civil warとは、国内の市民同士が戦うことをいう。しかし、モザンビークでの戦いは、モザンビーク市民と、モザンビークの独立を阻止しようとする外国勢力の戦いでした」と、シサノ氏は言った。

 モザンビークの独立を快く思わないのは、宗主国であるポルトガルだけはない。モザンビークの天然資源(天然ガスなど)の利権をめぐって、モザンビーク経済と政治に介入しようとする南アフリカの存在が大きかった。

 南アフリカは当時アパルトヘイト政策の強化をすすめており、自国の「白人支配」に影響を及ぼすおそれのあるモザンビーク黒人政権を突き崩そうとしていた。
 また、南アフリカと同じくアパルトヘイトをすすめいていたモザンビークの西隣の国ローデシア(現ジンバブエ)も、モザンビークの社会主義政権サモラ・マシェル大統領を倒そうとしていた。

 社会主義によって貧困を克服しようとしていたマシェル大統領が、南アフリカ領内で飛行機撃墜という悲惨な最期をとげたあと、シサノ氏は、困難な国家建設をすすめてきた。
 ローマにおける南アフリカとの不可侵条約の締結、自由主義経済の導入、石油、天然ガスなどのエネルギー開発、つぎつぎとモザンビークの開発を成功させ、経済成長率は毎年8~10%という驚異的な伸びを示した。

 国が軌道にのったあと、シサノ氏は「権力にしがみつく」というよくある「アフリカの成功した指導者」のようにはならなかった。後進に大統領の仕事をゆずって、自身は「シサノ財団」を設立し、教育や福祉のために働くことにした。

 シサノ氏は、日本の企業(特に三菱)による、モザンビーク開発に期待を寄せており、日本との関係がもっと強くなることを望んでいました。
 講演を行った東京外国大学と、エドワルド・モンドラーネ大学(モザンビーク唯一の国立総合大学)との交流事業などをあげ、若者にどしどしモザンビークに来てほしいと、希望を述べておられました。

 モザンビークは、日本で知られていないけれど、海岸も山も川も美しい、自然の豊かな国であり、観光地としても有望である、と。

 天然資源を持つ国が、新自由主義経済によって開発を進められた場合、国民が忘れ去られ、開発による富は、結局のところ開発を請け負った企業が独占する、開発によって得られた富が国民に届かない、という事例があとをたたない。
 
 私は、シサノ氏の講演をきいて、モザンビークが、この「富の独占」をゆるさず、必ずや国民の幸福を第一義に国の発展をはかっていく平和国家としてこれから歩んでいけるのではないか、と希望を感じました。
2008-05-30 00:49:36 ページのトップへ コメント削除

3):シサノ元モザンビーク大統領講演会リポート
nipponianippon
 植民地支配、帝国主義は、新自由主義、(経済的な)新帝国主義へと衣だけを着替えるようにして存続している。
 しかし、シサノ氏は、「平等と自由こそ平和への道」と、語っていた。人間が人間としての自由と尊厳を得て生きられること、これこそを目指さなければならないと。

 学生の質問受付タイム。「大統領になって、大変だったことはなんですか、いちばんうれしかったことは何ですか」という素朴な質問に大統領がこたえた。

 「大統領になって一番困難だったことは、国内を分裂させようとする「不安定化戦争」の終結が困難をきわめたこと。平和条約をローマで締結し、国に帰って飛行機のタラップを降りる瞬間が、いちばんうれしかったこと。
 また、大統領職をおりるとき、国民にむかって、私は大統領としてすべきことを全力で果たしてきた、と、国民に向かって言えたことが一番うれしかった」

 モザンビークは現在驚異的な経済発展をすすめており、「アフリカの優等生」と呼ばれています。

 しかし、これからもまだまだ、国家建設の困難はつづくでしょう。
 国民は、困難な仕事ひとつひとつを誠実にこなしてきたシサノ氏のようなすぐれたリーダーの存在を思うとき、自国への誇りと、これからの時代への希望を感じることができるのではないかと思います。

 独立のために戦い、国家建設のために半生をささげた元大統領の姿、ほんとうに立派で、「ミーハー気分で見たかっただけ」の私にも、勇気を与えてくれる講演でした。

<おわり>


2008/08/07
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(1)遠くて遠い国

 新婚時代に「結婚10年目ごとにケニアに旅行できたらいいね」なんて語り合った夢物語は、文字通り夢に終わって、10年目も20年目も25年目も、アフリカは遠かった。

 私にとって、アフリカは特別な地域。
 いつかケニアの大地を再訪する日を夢見ているし(おひとり様でけっこう)、アフリカのニュースが新聞にでていれば気にかかる。

 日本ではアフリカは「遠い国」とされているけれど、アフリカが話題になり、アフリカに関心をもってくれる人が増えれば、うれしいことです。

 5月28~31日、横浜で第4回アフリカ開発会議が開催され、さまざまなイベントが行われました。
 アフリカ開発会議のさまざまなイベントに参加したかったけれど、あいにく5月20日に怪我をしてしまい、出かけることができませんでした。

 唯一、「モザンビーク前大統領ジョアキン・シサノ氏講演会」を聞くことができました。「平和構築の人材を育成する大学院コース」を設立している東京外国語大学が、学生のために企画した講演会です。
 私も一応学生証を持っている身だし、聞いてみることにしました。講義棟1階入り口の入場者名簿を見たら、上智とか慶応とか、他大学から聴講に来ている学生もいました。

 シサノ氏は英語で語り、同時通訳が入るということを確認した上で、会場に入りました。
 外語大大学院には「同時通訳養成コース」という専門職修士課程があり、その出身者が同時通訳を担当する、ということでした。

 「ポストコロニアル」について関心をもち、植民地後の社会がどのように存在し、その中からどのような精神が育ってきたのか、知りたいと思っていましたが、具体的には何も勉強していません。
 ミーハー気分で、シサノ氏をただ、見ておきたかった。

 シサノ氏は、まさに、植民地後のアフリカ社会を生きぬいた「生き証人」みたいな人。
 「独立闘争を戦い、独立後の不安定化戦争を勝ち抜き、モザンビーク経済をたてなおした」という「民族の英雄」です。

 雨が強く、4月の気温となった肌寒い午後でしたが、大勢の熱気あふれる若者がホールにぎっしりつめかけ、同時通訳のイヤホンも足りなくなったほどでした。
 私は比較的前のほうに空いている席を見つけて、イヤホンをつけることができました。
 以下、シサノ元モザンビーク大統領の講演(2008/05/29)の報告です。

 モザンビーク、と聞いて、すぐに地図上の位置をあげられる人は少ないのではないでしょうか。
 日本人にとって、世界中でもっとも「なじみのない国」のひとつにあげられるでしょう。
 モザンビークは、アフリカ大陸の下のほう、インド洋に面した東側に位置する南北に長い海岸線を持つ国です。

 ♪アイアイ、アイアイお猿さ~んだよう~♪という歌にでてくるアイアイが住むマダガスカル島。こちらは、動物好きな方を中心にわりあい知られている国。アフリカで一番大きな島です。
 このマダガスカル島とインド洋モザンビーク海峡をはさんで西側、アフリカ大陸の東側にあるのがモザンビークです。

 かくいう私も、モザンビークの位置は知っていても、「じゃ、モザンビークの首都はどこ?」と、聞かれても、「マプート」と、答えられなかった。


<つづく>
23:10 コメント(2) ページのトップへ
2008年08月08日


ぽかぽか春庭「シサノ」大統領
2008/08/08
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(2)シサノ大統領

 私がモザンビークについて知っていたことは、「ケニアの南はタンザニア、そのまた南にモザンビーク、そのまた南は南アフリカ」という位置関係と、「長い間独立戦争を戦い抜いて独立したのはケニアと同じだが、ケニアはその後順調に独立国として歩んだのに、モザンビークは、それからあとも長い間内戦が続いた」ということくらい。

 独立後のモザンビークについては、日本に伝えられるニュースも少なく、情報がほとんど知られていない国のひとつになっていました。
 唯一大きな報道となったニュースは、1986年10月19日、南アフリカ・ムブズで現役大統領の乗った飛行機が撃墜されたこと。

 モザンビーク共和国初代大統領サモラ・マシェル以下、政府高官ら35名が亡くなったという衝撃的なニュースでした。
 こののち、初代の遺志をうけつぎ、大統領となったのがシサノ氏です。

 講演のタイトルは、「アフリカの平和のためにできることは何か~学生へのメッセージ~」

 講演の中で、印象に残ったいくつかのこと。
 第一に、私がこれまで認識してきたモザンビークの歴史について。
 私は、ポルトガルの植民地にされたモザンビークが、「独立後も内戦によって疲弊した国家」と思っていました。しかしシサノ元大統領は、「内戦ではない」と、言い切った。

 「内戦、civil warとは、国内の市民同士が戦うことをいう。しかし、モザンビークでの戦いは、モザンビーク市民と、モザンビークの独立を阻止しようとする外国勢力の戦いでした」と、シサノ氏は断言しました。

 モザンビークの独立を快く思わないのは、宗主国であるポルトガルだけはない。モザンビークの天然資源(天然ガスなど)の利権をめぐって、モザンビーク経済と政治に介入しようとする南アフリカの存在が大きかった。

 南アフリカは当時アパルトヘイト政策の強化をすすめており、自国の「白人支配」に影響を及ぼすおそれのあるモザンビーク黒人政権を突き崩そうとしていた。
 また、南アフリカと同じくアパルトヘイトをすすめいていたモザンビークの西隣の国ローデシア(現ジンバブエ)も、モザンビークの社会主義政権サモラ・マシェル大統領を倒そうとしていた。

 社会主義によって貧困を克服しようとしていたマシェル大統領が、南アフリカ領内で飛行機撃墜という悲惨な最期をとげたあと、シサノ氏は、困難な国家建設をすすめてきました。

 ローマにおける南アフリカとの不可侵条約の締結、自由主義経済の導入、石油、天然ガスなどのエネルギー開発、つぎつぎとモザンビークの開発を成功させ、経済成長率は毎年8~10%という驚異的な伸びを示しています。

<つづく>
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2008年08月09日


ぽかぽか春庭「レクイエム長崎の鐘」
2008/08/09
ことばのYa!ちまた>レクイエム長崎の鐘

 8月8日、北京オリンピック開幕。開会式もライブで見たかったのですが、友人ミサイルママに誘われて、ホクトピアさくらホールで行われた「平和祈念コンサート」を聞きました。
 三枝万祐(さえぐさまゆ)の歌で『長崎の鐘』『一本の鉛筆』など、平和を祈る歌を聞くことができました。

 『一本の鉛筆』について、カフェ日記2004/04/02に書きました。美空ひばりの歌唱で、広島の平和音楽祭で歌われたということについて。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200404A

 美空ひばりの歌う「一本の鉛筆」は、こちらで。
http://jp.youtube.com/watch?v=vu6eWArFrao

 8月8日の三枝万祐の歌も、とても心に染みる歌声でした。
 作詞 松山善三 作曲 佐藤勝

♪あなたに聞いてもらいたい/あなたに読んでもらいたい/あなたに歌ってもらいたい/あなたに信じてもらいたい
 一本の鉛筆があれば/私はあなたへの愛を書く
 一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと 私は書く

♪あなたに愛をおくりたい/あなたに 夢をおくりたい/あなたに春をおくりたい/あなたに世界をおくりたい
 一枚のザラ紙があれば/私は子どもが欲しいと書く
 一枚のザラ紙があれば/あなたを返してと 私は書く

♪一本の鉛筆があれば/八月六日の朝と書く
 一本の鉛筆があれば/人間のいのちと 私は書く

 三枝さんは、永井博士の著書「この子を残して」を朗読しました。
 妻を長崎原爆で失い、自らも被爆しながら原爆症治療に余命を捧げた永井隆(ながいたかし1908~1951年)、「この子を残して」は、いとしい子どもたちを残して死んでいかなければならない親の気持ちがせつせつとつづられていました。
 そのあと『長崎の鐘』が歌われました。

♪こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ ♪なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る
♪召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙 ♪なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

藤山一郎歌唱http://jp.youtube.com/watch?v=3AvzqmcvgTY&feature=related

秋川雅史歌唱http://jp.youtube.com/watch?v=2ACVvZxdbDs&NR=1

 8月6日と9日に、広島と長崎から天に召された方々の、みたまの安からんことをお祈りします。
 世界中での、これまでの戦争のために命をまっとうできなかった方々をいたみ、戦争のない世界を祈念して8月6日8月9日をすごしました。

<8月10日モザンビーク(3)>へつづく
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2008年08月10日


ぽかぽか春庭「元大統領と一問一答」
2008/08/10
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(3)元大統領と一問一答

 北京オリンピックの開会式。張芸謀(チャン・イーモウ)らが演出したアトラクション・ショウは、中国5千年の歴史の厚みを世界に示す、壮大なものでした。華麗であり、そして「これでもかっ」という人海戦術の一糸乱れぬ多人数アトラクションの数々。

 入場行進では、200余りの国や地域が一国一国紹介され、日本の人にはなじみのない国の選手たちの笑顔もテレビ画面に映されました。
 私の自慢は、これらの国の人々のうち、半分の100ヶ国の留学生に出会ってきたこと。

 開会式を見ていた娘と息子は、国名漢字表記をひとつひとつ見て楽しんでいました。
 ほとんどの国名は音に漢字をあてはめる方式でしたが、アイスランド氷島や、モンテネグロ黒山など、翻訳方式での表記もあります。

 ドイツが日本では独逸、中国では徳国(意志)、フランスが日本では仏蘭西、中国語では法国、と、両国の漢字表記が異なることも、注目が集まったことと思います。

 モザンビークの中国語漢字表記は「莫桑比克」
 最初の漢字「莫」は、10画なので、四画の「日本」が前のほうだったのに比べると、だいぶ後ろの登場順でした。  

 国の運営が軌道にのったあと、シサノ氏はよくある「アフリカの成功した指導者」のようにはならなかった。すなわち、「権力にしがみついて権力者として居座り続ける」ことも「自分の一族だけに権益をふりわける」ということもしなかった。

 後進に大統領の仕事をゆずって、自身は「シサノ財団」を設立し、国民の教育や福祉のために働き続けることにしたのです。

 学生の質問受付タイム。
 「大統領になって、大変だったことはなんですか、いちばんうれしかったことは何ですか」という素朴な質問に、大統領がこたえました。

 「大統領になって一番困難だったことは、国内を分裂させようとする「不安定化戦争」の終結が困難をきわめたこと。平和条約をローマで締結し、国に帰って飛行機のタラップを降りる瞬間が、いちばんうれしかったことです。
 また、大統領職をおりるとき、私は大統領としてすべきことを全力で果たしてきた、と、国民に向かって言えたことが一番うれしかった」

 シサノ氏は、日本の政府や企業による、モザンビーク開発に期待を寄せており、日本との関係がもっと強くなることを望んでいました。
 
 「アフリカの開発」という表現にはなにがしかの「植民地」っぽい響きが含まれます。「後進国の開発」というイメージ。
 でも、シサノ氏は、「ことば云々でなく、開発後の富が国民に還元されることが大事」と言います。

<つづく>
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2008年08月11日


ぽかぽか春庭「誰のための開発か」
2008/08/11
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(4)誰のための開発か

 帝国主義・植民地主義下での開発は、どれだけ鉱山を掘ろうと、プランテーションで商品作物を作ろうと、資本家が富を独占するだけで、地域の人々・働いた労働者のもとに富が還元されなかったことが問題。
 開発自体が悪いわけじゃない、と、シサノ氏は語りました。

 天然資源を持つ国が、新自由主義経済によって開発を進めた場合、国民が忘れ去られ、開発による富は、結局のところ開発を請け負った企業が独占してしまう。
 開発によって得られた富が国民に届かない、という事例があとをたたない。シサノ氏は、利益が国民に届くような開発を望んでいました。
 
 私は、シサノ氏の講演をきいて、モザンビークが、この「富の独占」をゆるさず、国民の幸福を第一義に国の発展をはかっていく平和国家としてこれから歩んでいけるのではないか、と希望を感じました。

 もちろん、実際には希望通りにはいきません。
 モザンビークでは2007年12月から降り続いた豪雨で洪水が起きたため、コレラが蔓延し死者も出た。災害は、いつも弱者により大きな被害をもたらす。コレラ病死も、子どもやお年寄りなど、より健康に不安が大きい層にひろがりました。

 2008年3月には、インド洋から発生する熱帯低気圧サイクロン(モザンビークでの呼び方は、ジョクウェJokwe)も襲来し、大風や大雨に弱い貧しい層の家屋を直撃しました。
 今年、モザンビークでも下層貧民のデモと、それを鎮圧する側に闘争があり、100人を越える死傷者が出た、という報道もありました。

 しかし、それでもなお、「富の公平な分配」を信じて働こうとしている人が現存することも事実。

 シサノ元大統領は感謝のことばとともに、日本からの「市民レベルでの協力」例のひとつを紹介していました。
 日本の中古自転車がモザンビークに寄贈され、市民の足として有効に活用されているという事例です。

 私も、前に、ニュースで見たことがありました。日本の自転車をもらえたので、保健師さんが、地域の衛生状態の見回り、健康診断などに出向くために活用している、という新聞報道でした。

 「駅前に放置されている自転車を整備してアフリカに届ける」という活動ひとつをとっても、私は「古いもの、いらなくなったものを回すのは、失礼に当たらないか。それはどのように使われるのか、本当に国民市民の役にたつのか」ということばかり、気にしていて、古着や古自転車の供出にあまりよい感情を持っていませんでした。

 また、赤十字などを通じて北朝鮮へ送られた災害支援物資が、政府高官や軍高官の独占物となり、闇市場で売られている、というニュース報道などを見たこともあったので、支援物資を送る側は善意であっても、実際には本当に困っている人の元には届かないのではないかという疑いを持っていました。

 しかし、きちんとした管理者のもとでの分配があれば、実際にどれほど多くのアフリカの人々を助けることになるか、よくわかりました。

<つづく>
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2008年08月12日


ぽかぽか春庭「世界平和のためにできることは何か」
2008/08/12
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(5)世界平和のためにできることは何か

 植民地支配、帝国主義は、「新自由主義」、「経済的な新帝国主義」へと衣だけを着替えるようにして存続しています。
 しかし、シサノ氏は、「平等と自由こそ平和への道」と、語っていました。人間が人間としての自由と尊厳を得て生きられること、これこそを目指さなければならないと。

 モザンビークは現在驚異的な経済発展をすすめており、「アフリカの優等生」と呼ばれています。
 しかし、これからもまだまだ、国家建設の困難はつづくでしょう。

 国民は、困難な仕事ひとつひとつを誠実にこなしてきたシサノ氏のようなすぐれたリーダーの存在を思うとき、自国への誇りと、これからの時代への希望を感じることができるのではないかと思います。

 独立のために戦い、国家建設のために半生をささげた元大統領の姿、ほんとうに立派で、「ミーハー気分で見たかっただけ」の私にも、勇気を与えてくれる講演でした。

 シサノ氏は、具体的な交流活動として、講演を行ったTUFSと、エドワルド・モンドラーネ大学(モザンビーク唯一の国立総合大学)との交流事業などをあげ、若者にどしどしモザンビークに来てほしいと、希望を述べていました。

 モザンビークは、日本で知られていないけれど、海岸も山も川も美しい、自然の豊かな国であり、観光地としても有望である、と。

 講演のタイトル「アフリカの平和のためにできることは何か~学生へのメッセージ~」とは、聴衆のほとんどを占める、大学生大学院生に向けられたものですが、シサノ元モザンビーク大統領のお話は、世界の平和にとって必要なこと、これからの世界、地球に生きるもの全員にとって必要なことを語っていました。

 平和を築くのは、ブッシュJr.の思っていたような「正義のヒーローが、極悪国家と戦争して、悪いヤツをやっつける」ことではありません。
貧富や教育の格差をなくし、ひとりひとりの人間の尊厳を守ること、これこそが、平和への戦いとなること。
 テロは、貧困の拡大や思想の弾圧によっておこるからです。

 お隣の国中国で,チベット問題がおきると、テレビにはニュース映像が流れるし、中国の公害問題でも自然環境問題でも報道されます。中国の公害が「酸性雨」となって直接日本の空へくるし、黄砂もとんでくる。

 一方、アフリカの問題が報道されるのはごくわずか。アフリカの問題は私たちの生活に直接の関係がない、と、みな思っているから。
 でも、本当に関係ないのでしょうか。

<つづく>
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2008年08月13日


ぽかぽか春庭「「世界平和のために私にできること」
2008/08/13
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(6)世界平和のために私にできること

 世界のある地域で、人々が貧困にあえぎ、子供たちは学校へもいけず、水や医薬の不足でつぎつぎと死んでいく、というようなことが起きたとき、地球は丸いままでいられない。ゆがみひずんだ球は、必ず他の地域へもゆがみを及ぼします。内戦も他国へのテロも、このゆがみから起きてくるからです。

 石油利権の問題がからんで、アラビア産油地域での利権独占と富の偏在が起きました。虐げられた人々の中から、自爆テロも辞さない行動が起きてくる。
 湾岸戦争時の父ブッシュと、9/11後のブッシュJr.も、石油利権に大きく関わっていたことが、アメリカ市民にも知らされるようになりました。父子にとって、「平和を守れ=俺んちの石油利権を確保するぞ」だったわけです。

 USAで9/11テロが起きたとき、ブッシュ大統領は「テロと戦う」と言って戦争を始めました。
 9/11で亡くなったアメリカ市民の、数倍にあたるアフガニスタンとイラクの市民・非戦闘員を殺しても、まだ戦争を終わりにして平和を構築することはできていません。
 ほんとうにテロを撲滅したいのなら、戦争ではない解決方法こそが有効なのだと、アメリカ市民も気づき出しました。

 職業で、またボランティアとして直接アフリカやアジアの、貧困と闘っている国の人と関わっている方々。がんばってほしいと思います。
 また、直接関わることはできないけれど、何らかの形で応援したいと思っている方への伝言。

 ひとつは、フェアトレード(公正貿易)の店での買い物。
 フェアトレードショップ、手工芸品も多彩な品揃え。手作りバックなど、とてもすてきな製品があります。
http://www.wakachiai.com/shop/fairtrade.html

 紅茶やコーヒー、シャツ、バックなどを購入することによって、それらを作っているアジアアフリカ、南アメリカの人々を援助することができます。同じ紅茶を飲むのなら、ぜひ、フェアトレード製品を買ってください。
全国のフェアトレード店一覧
http://www.fairtradecenter.org/shops.htm

 世界の平和のために、できること。ふたつめは、貯金です。
 NPOバンクに貯金してください。

 あなたのお金を大銀行に預けるのも資産運用のひとつの手だてだということはわかりますが、平和のために役立つ活動をしている銀行もあります。
 少額融資をすることで、貧しい人々が自立して生計を立てていくための資金を貸し出しているのです。
 バングラディシュのグラミン銀行がその代表例。日本にもさまざまなNPO銀行があります。

 利子はつかなかったり、少額だったりしますが、大銀行に預けたところで利子はわずか。だったら、同じお金を預けるにしても、人々の自立を援助できるNPOバンクに預けたらどうでしょうか。

 金儲けだけを目指す銀行が、悪事に手を染めることもあるのに対して、NPO銀行は、「人々の自立」をめざします。
 (ネットでNPOバンクを検索したら、悪徳高利貸しが、規制逃れのためにNPOバンクを名乗っている例もある、と、書かれていた。要注意)

 全国NPOバンクネットに登録してあるところなら安心かと思います。
 たとえば、apバンクは、坂本龍一、小林武史、桜井和寿(ミスターチルドレン)が中心となり、発足させた金融NPO(NPO銀行)です。
http://npobank.net/

 我が家も早く借金地獄から抜け出して貯金ができるような身分になりたいのですが、ヒョータンシャチョーの「今月も赤字、運転資金がない。また借金がふえる」という経営がつづくでしょうから、当分は、「フェアトレードショップで紅茶を買う」くらいの協力になりますが。

<つづく>
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2008年08月14日


ぽかぽか春庭「市民から市民へ」
2008/08/14
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>モザンビーク(7)市民から市民へ

 シサノ氏は、「アフリカは内乱ばかりしている貧乏な人々の国」という一般のイメージに対して、はっきりと言っていました。
 「アフリカは、なぜ貧しくなったのか。西欧列強国に食い物にされたからだ」と。

 戦争する手段をもたず、武器を持たなかったために、武器を手に乗り込んできた西欧列強国によって、アフリカは分断され、植民地化されました。伝統文化を破壊され、人材を失った。

 植民地を持った国は、産業革命以後の資源獲得と市場開発のために、アフリカから資源を略奪し、人々を奴隷として扱いました。いわば、「アフリカから盗めるだけ盗んだ」

 なぜ、アフリカ諸国で内乱がおきるのか。アフリカの国境とは、西欧列国が植民地として勝手に線引きしたものであり、部族間がふたつの国に引き裂かれたり、同じ国のなかで、異なる部族が相争うような構造が残された。矛盾した国境線から、さまざまな紛争が起きた。

 そういう国境をひいておきながら、部族間に争いがおきると、西洋人は、双方に武器を売りつけて、またまた大もうけをする。アフリカ内戦の多くは、欧米の利権がからんだ、代理戦争の面も含んでいる。

 盗んだ国が、盗まれた国に「おまえたちは貧乏だ」というのは、おかしいじゃないか。
 強盗が、泥棒に入った家の人を殺し、財産を盗んだあとで「おまえの家はからっぽじゃないか」と、笑うことができるのか。

 盗まれた家の家族同士で、乏しくなった食料を分けようとして争いがおきたら。列強国は、対立者を見つけだしてあおり立て、武器を売りつける。
 戦争をはじめさせておいて、「おまえたちは、内戦している。武器をもって争っているばかりじゃないか」というのは、矛盾している。

 「アフリカの人々はおろかで争いばかりしている」というイメージを変えることからはじめよう。
 アフリカの人々は、勤勉で働くことに誇りを持っている。仕事がほしい。施しのお金ではなく、仕事を人々に与えてほしい。人としての尊厳を感じられる仕事を。

 人間の尊厳を守り、子供たちに希望ある未来を与えること。富の公平な分配を図り福祉をすすめること。これこそが平和構築に必要なことだ、と、あらためて感じた講演会でした。

 だれしも平和を願っています。しかし、、、、
 古代ギリシャのオリンピックでは、たとえ戦闘中であっても、競技中は停戦したのだという。しかし、今回の北京オリンピックでは、開会式の華やかな報道と同じ紙面に、南オセチア自治州をめぐって、グルジアとロシアが戦闘態勢に入るなど、平和とは遠い事件もありました。

 オリンピックでがんばっている選手にとっても、応援する市民にとっても、なによりも平和が一番必要なもの。

 2008年5月の第4回アフリカ開発会議は、過去3回の会議と大きく異なる点があります。
 開催地である横浜市の全面的な協力を得て、アフリカ会議を市民全体で支えたことです。
 一駅一国、一校一国運動など、会議を盛り上げるために、さまざまな団体が協力し、横浜全体がアフリカ一色に染まるように、歌やダンスなどの市民交流、アフリカ物産展や写真展など、たくさんのイベントが催されました。

 楽しげな交流のようすは、ニュースでも報道され、アフリカに関心をもつ人が増えるきっかけになったのではないか、と思います。

 日本政府はアフリカへの円借款を40億出すと発表しました。
 円借款とは、「お金をかしてやるよ」という意味。借りた国にとって、借金は負担にならないのか、そのお金で日本企業が乗り込んでいって、「開発利益」の権益を、「甘い汁」を吸うだけにならないのか。
 すでに、批判が噴出しています。

 ほんとうのアフリカ支援とは、何億貸してやるから、というものではないだろうと。
 アフリカの人々が生き生きと暮らしていくための手伝いをしたいという若者が大勢います。その人々に40億のお金の幾分でも援助してやってください。

 私にとっての「青春の地」アフリカ。
 アフリカ開発会議の大成功を喜びつつ、「アフリカの日々」が、平和と繁栄、自由と平等をめざすものであることを祈っています。

 スポーツで努力し、同胞に勇気を与える活躍をする選手たち、ほんとうにすごい、と連日の「メダル報道」に沸きかえる夏ですが、日の当たらない地域で黙々と努力を続け、人々を助ける活動を続けている若者たちにも、金メダルを贈りたい。

<おわり>

コーネル・ウェスト講演会2008/07/26

2008-07-26 20:45:00 | 日記
nipponianippon
コーネル・ウェスト講演会[青山学院大学・2008/05/10(土)pm3:00~ ]報告

 青山学院大学ガウチャー・メモリアル・ホール。
 あいにくの雨模様でしたが、広い礼拝堂満員の聴衆。入りきれない人は、二階の「立ち席」へ。

 正面に十字架、パイプ・オルガンのある礼拝堂のあるホールは、年間に150回もの講演会に出るという演説名人のウェスト教授(おじいさまは教会説教師だったとい
う)筋金入りのアジテーターにぴったりの会場だったかもしれません。
 ウエスト教授は、初来日。5月9日には東大の姜尚中教授との対談、5月10日は青山大学での講演。11日には沖縄へとんで、ライブハウスでの講演。さらに、
14日には、広島で市長との対談。体力持つのかと心配してしまうほどの精力的な日程で飛び回っています。

 青山学院大学では、文学部主催「キング牧師没後40周年」という記念のイベントとして、ウェスト教授の講演会が実現しました。
 青山の英語関連の学生かと思われる若い世代がいっぱいでした。ハハン、この講演会に出席すると、「授業ヒトコマ出席した扱いになる」ということなのかな?なん
て思いもありましたが、出席扱いにならなかったとしても、この日のウエスト教授の講演を聞いた学生にとっては、一生の思い出に残る名講演だったろうと思います。
 もちろん、学生の英語力はさまざまで、迫力のある、表情たっぷりのウエスト教授の英語を、すべて聞き取って理解した学生ばかりではないだろうと思います。で
も、私のように聞き取り能力のない「英語わからんちん」の聴衆にとっても、「聞いてよかった」という思いがする講演でした。

 「今なぜHumanity/Humanitiesか」と、題された講演。
 西本あずささんが、ウェスト教授の紹介を行った後、ウェスト教授は終始、実に「熱い」語り口で、外の雨も蒸発していくんじゃないかというくらいホットでした。
 質疑応答まで含めて、疲れを知らぬようすで、速射砲のようにことばが口からあふれていました。

 ウエスト教授は、ラップミュージシャンでもあり、3枚目のCDが発売されたところです。
 「ハーレムの絶望一歩手前の若者たちは、どんなよいことが書いてある本だとしても、読みはしない。だから、ラップで思いを伝えるのだ」と、教授はラップについ
て書いているそうです。
 日本のものまねラップは、生ぬるいどうでもいいようなダジャレことばが並んでいるだけですが、ウェスト教授にとっては、ラップも大事な伝達手段。民主主義につ
いて、差別を跳ね返すアイデンティティのあり方について、たたみかけるリズムの中に、心を揺することばを連ねていきます。

 10日の講演でも、9・11後のアメリカ市民が味わったテロへの恐怖は、400年の間アメリカ黒人が日常の恐怖として身に浴びてきたことなのだ、という持論、
ラップミュージックだけでなく、コルトレーンのジャズやビリー・ホリデイのブルースについての、ブルースは人間の悲劇を語りながら、希望を失わない黒人の魂であ
る、という話。キング牧師の意志を受け継ぐには、人間とは何か、人はどんな人間を目指すべきなのか、という話。
 また、日本の文学者や、思想家、たとえば丸山真男などを持ち出しながら、今のアメリカに必要なこと、現代の日本に必要なことを、熱い英語で語り、その熱気だけ
で、私は内容理解できなくても、もう十分胸いっぱい。

 語りにおける、声の役割、礼拝における牧師の声の調子とか声の質というものが、宗教にとって、どれほど大きなものであるか、それが一番腑に落ちた。もちろん、
教授の講演は宗教活動として行われたのではなく、英語学会や英語科の学術講演として行われたのだけれども。

 最近では、カリスマ美容師だのカリスマブティック店員だのと、だいぶ「カリスマ」という語の価値も「大衆化」してきたところだけれど、コーネル・ウェストこ
そ、文字通りの意味で「カリスマ・ラッパー」であると思いつつ、雨の青山学院チャペルを出ました。

 ああ、ホットな講演だったけれど、さすがに、日本の雨は蒸発していなかったのね、、、、、、って、私が英語理解できなかっただけなんだよね。
 以上、報告。


離見の見について2008/07/24

2008-07-24 11:00:00 | 日記
離見の見について

平安時代の「田楽」「猿楽」を、室町時代に集大成した観阿弥世阿弥親子。
足利義満の死後、庇護者を失った世阿弥は、佐渡へ流され、大成した能を演じる場を奪われた。佐渡より京都へ戻された後も、世阿弥は演者としての自身を封印し、演劇論の執筆に専念した。

その演劇論が『風姿花伝』『花鏡』などに記録され、ながらく観世家一子相伝門外不出の書であったが、明治以後、その存在が世に知られるようになり、一般人も読むことができるようになった。以後、研究書注釈書はさまざまに出版されている。

『花鏡』には、世阿弥演劇論の極地ともいえる「離見の見」ということばがある。
多くの演者、舞踊者として舞台に立つ者にとって、演技することの神髄を言い表したことばとして知られてきた。

演技者には、演じる自分と、その演者を見ている自分のふたつが必要だ、と世阿弥は論じている。演劇的身体の二元論。

舞台の演技者は自分の姿を見ることはできない。鏡で見るとしても、特に後ろ姿を同時に見ることはできない。

<目前左右までをば見れども、後ろ姿をばいまだ知らぬか。>
<舞に、目前心後といふことあり。 「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。>

  舞を舞う演者である自分は、目前や左右までは見ることができる。 それは「我見」である。 しかし、「我見」では、自分の後ろ姿まで見ることはできない。

  <見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。>

 観客が舞台上の自分を見ている視線、これに同化するようにして自ら見て、自分の眼では決して見ることのできない、自分の後ろ姿まで見よ、自分の姿の全体を捉えよ。

 離見の見、つまりあらゆる観客の目の位置に心の目を置いて、自分の完璧な舞姿を完成させる。この目とは、現代の考え方でいえば、モニターテレビによるチェックである。しかし、現代のモニターチェックをしている自分は、演じている自分ではない。見ているだけの自分である。

 世阿弥は、演じる自分とそれを客観視する自分を同時に持て、と言っている。
 これが、『花鏡(きょう)』で説かれる「離見の見」説である。

<離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく=肉眼の届かない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。>


2008-05-13 17:20:29 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 離見の見について

「立ち上がった禅」としての舞踏からチューブへ」福原哲郎
(春秋2008年2/3月号p21より)

 私は20代から舞踏家として活動し、舞踏のエッセンスを社会的に生かすために<スペースダンス・イン・ザ・チューブ>を開始したが、そもそも舞踏には仏教的な思考と感性がつよく生きている。2001年四月にニューヨーク国連本部で講演した際にも、担当のロシア人ディレクターが日本文化に詳しいことも関係していたと思うが、「日本人ダンサーの身体と空間に対する完成は仏教的なもので、素晴らしい」と評論され、関係者の間では、私が仏教徒であるかどうかが話題になった。

私は特定の仏教の信者ではないが、大乗仏教の龍樹(ナーガールジュナ)には特別の親しみを感じ、いまでも作品を構成するときには龍樹の『中論』を参考にしている。形(フォルム)に対して傾倒しつつ形への執着を脱する方法を説く教えとして、とてもおもしろいからである。私が一番好きな仏教の言葉も、「心は形をもとめ、形は心をすすめる」というもので、この言葉も表現世界の品質を端的に説明しており、その直感的な思考方法は素晴らしいと思う。道元の解説で公明な寺田透先生にも、一時期、講演に足を運んでいただき、大変お世話になった。先生の「透体脱落論」にも大きな影響を受けている。
2008-05-13 17:33:35 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 離見の見について

福原哲郎2

 舞踏を「立ち上がった禅」と批評したのは、私が知る限り、フランスのイボンヌ・テネンバウム(批評家・パリ)である。日本の舞踏は、欧米人にとっては、まさに新しい仏教の一勢力として「立ち上がった禅」に見えたようだ。舞踏には世界に立ち向かうというつよい姿勢があるため、このような動的な表現は絶妙である。

 次の文は、私の舞踏に対するイボンヌ・テネンバウムの批評であるが、ここにも人間にとって普遍的な「自我をどう脱するか?自我とどうつきあうか?」という課題に対するつよい関心が見てとれる。そして、私の場合だけではなく、多くの欧米の評論家が日本人舞踏家たちに対して、このような仏教哲学を参照したかたちでの批評を残しているのである。
=========
テネンバウム:
 日本の舞踏は欧米の支店からは異例の出来事であり、希少価値が高い。福原のダンスの特徴は、自己のダンスの経過を聞きつつダンスする、という点である。つまり、この舞踏家は、「自我としての主体」とはことなる「空間としての主体」という新しい位置を獲得している。この「空間としての主体」という観点こそ、今後の芸術や文化全般において重要な役割を形成することになる新しい哲学であるため、舞踏の重要な今日的な宝なのである。

「西欧とアジアの芸術」パリ第八大学
==========
2008-05-13 17:43:03 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 「空」の主体について

福原哲郎3

 舞踏が、1970年代後半からフランスを入り口とした欧米文化に「発見」されて「BUTOH」として再生をはたすことができたのは、ちょうど欧米文化が自らの成熟に飽き、エスニックなものを求めて板敷きに重なっている。舞踏の動きの津kる伊方や自我に対する態度や空間形成の方法は欧米の舞踊とは大きく異なるため、その点が彼らの関心をひいたわけである。欧米のほかにも、珍しい中東からの批評としてフセイン・ビン・ハムザ(アンナハール紙・べいるーと)の次の新聞記事があり、ここでも「フォルムとの距離の取り方」についてつよい関心を示している。
=========
フセイン・ビン・ハムザ
 この夜、福原がベイルート劇場で演じたダンスは、われわれアラブ人には衝撃的な体験だった。それは、この世の福原が一目でダンスの素晴らしいテクニシャンであることを感じさせながら、フォルムに対しては驚くほど淡泊で、個々の動きに感情移入することなく、明確な距離をとっていたからである。
=========

 たしかに、舞踏においっては、海外の批評家たちが非適するように、身体を客体化できるほど、つまりフォルムに対して淡泊であるほど、自由に動ける。それは、身体を抜け出して身体を自由に操っている感覚である。その身体はまさに「異物としての身体」。そして、その身体を冷静な「心」が見つめている。この冷静な「心」こそ、イボンヌ・テネンバウムが言う意味での「空間としての主体」、つまり「空間に住む私」であり、龍樹が「中論」において説く「空」を実現する主体であると、私は思う。
(中略)
2008-05-13 17:56:22 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 脳科学と「身体論」

福原哲郎4

(中略)
 脳科学者の入来篤史(理化学研究所:脳科学総合研究センター)は、「心」の発生について次のようなユニークな仮説を立てている。
============
入来篤史:
 様相が一変したのは、ヒトの祖先が、外界の事物を手に持ち、それを身体の延長として動かそうと道具の地用をはじめたときでした。このとき、道具が身体の一部になると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表徴されるようになります。自己の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能のうちに独立した地位を占める「主体」を想定せざるを得なくなります。その仮想的な主体に付けられた名称が、意志を持ち感情を抱く座である「心」というものではないでしょうか。

「脳研究の最前線」講談社2007
=========


2008-05-13 18:05:13 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 脳科学と主体

福原哲郎5

 以上は、脳にとって、客体化されていない身体を動かすためには「心」は必要でなかったが、客体化された身体を動かすためには、「心」が必要になった、という議論である。チューブの中の体験者も、自分の身体とチューブを連続させることで両者を新しい身体として客体化し、その身体を動かすために「心」を自然に増幅させる。そうしないと拡張された身体を動かせないからである。さらに入来は、他者の「心」も、客体化された身体と同様に「動かす対象」として扱われるようになり、自己の「心の理論」が形成されはじめたと推論する。このような入来の考えは、<スペースダンス・イン・ザ・チューブ>
にとっても大変におもしろい。私たちは、体験者が「心」が発生する現場を退官することを通して、その成果を多様なコミュニケーションに応用することをめざしているからである。
2008-05-13 18:22:25 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫B4
nipponianippon
> 倉庫B4 自己と他者

福原哲郎6

これからの情報社会・恒例社会・宇宙時代を生きる人々が歴史上存在しなかった「新しい他者」に次々に直面し、そのような他者との関係の親和性について、誰かに教えてもらうのではなく、自分の感覚で判断しなければならなくなることは間違いないだろう。そのときに、「身体の客体か」という体験が役立つことになる。
「心」が発生するとすれば、自分とそこに存在する「多」の間に、その「他」がチューブのような空間であれ、他者の「心」であれ、ロボットのような機械であれ、遺伝子テクノロジーによって改造される生体であれ、ネット空間の内部であれ、一つの親密な関係が誕生するということである。逆に「心」が発生しないなら、そこには親密な関係は誕生しないことがわかり、その関係は大切ではないということになる。

 イボンヌテネンバウムは、日本の舞踏に欧米の自我とは異なる「新しい心」の誕生を見たわけだが、そのような「心」による「身体の客体化」というレッスンは、広く現代人の必須のレッスンになっていく可能性がある。チューブも「立ち上がった禅」のように立ち上がり、人々が直面する「迷い」から人々を救い出すツールに成長する醸しない。チューブもまた、「立ち上がった禅」としての舞踏が忌む出したという意味で、仏教からの一つの大切な贈り物なのである。(了)

福原哲郎1943年生 スペースダンス舞踏家、ディレクター
2008-05-13 18:39:52 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫4
nipponianippon
> 倉庫4 西田哲学の場の理論

福原の文章への<感想>

西田哲学についてまだよく読みこなせていないままなのだが、西田の場の理論も、福原の舞踏についての文章と、世阿弥の離見の見と、併せて考えてみると、日本語母語話者の「空間と自己/他者の認識」「自他表現の認知」が、おぼろげながら、結びついてくる。

日本語にとっての、「場」と、自他が、どのような様相をもつのか、考えてみる必要があると思う

受験顛末2008 2008/07/21

2008-07-21 22:31:00 | 日記
受験顛末2008

2008/04/27
ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(2)カルスタ

 1988年以来、日本語教師として仕事を続け、日本語学を研究。
修士論文のテーマも「現代日本語の再帰構文」だったから、言語学研究・日本語学研究を続けている時間が長く、文学研究とは遠ざかる一方でした。
 でも20年間「いつか、文学研究にもどりたい」と、思い続けてきたのです。

 「文化研究」は「Cultural Studies」の翻訳語。
 「文化を広く研究すること」と「文化研究」は意味が異なるので、翻訳せずにカタカナ語で「カルチュラルスタディーズ」と呼ばれることも多い。

 私がカルチュラルスタディーズに興味をもったのは、1995年になってからでした。
 1996年には、カルチュラルスタディーズの大立て者スチュアート・ホールの日本講演とシンポジュームを聞きました。

 友人に「これぞ私が欲していた分野だった。どうしていままでこの分野に出会わなかったのだろう」という手紙を書きました。
 しかし、専門的に研究するチャンスはまだまだ遠かった。
 1996年から12年かかって、ようやくカルチュラルスタディにたどりつきました。

 カルチュラルスタディーズは、現代文化を扱い、サブカルチャーをテーマにすることが多いため、ひところから、「カルスタ」という揶揄を含んだ呼び方がなされるようになりました。
 新アカデミズム派の略称「ニューアカ」に、揶揄の意味を含んでいたのと同じく「一時のはやりすたりもん」と、見なされてきました。

 ウィキペディア解説によれば、
 『 通称カルスタ。しかしこの略称が用いられる時には、厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域を「お手軽に」横断してしまう研究という、若干軽蔑的なニュアンスが伴っていることも多い 』
 ですって。

 わたしは、「文化研究」という学術用語でなく、「カルスタ研究」をめざします。
「軽スタ」という揶揄的な呼び方自体が好きですし、私がやろうとしていることは、まさに「厳密な方法論的検討を経ずに多様な学問領域をお手軽に横断してしまおう」ってことですから。
 今までの「春庭の雑学研究」を、これ以後「春庭の軽スタ研究」と、呼ぶことにします。
 カフェコラムのタイトルは、「日々雑記カルスタクラブいろいろあらーな」に変更です。

 mixy日記に
さあて、何年後になるかわからんが、ハカセ号とったら、祝宴をあげるよ。
祝宴の祝い金は、結婚祝い金として私が払った額の倍返しじゃ。
貯金をしておくように。(2008年03月07日16:32 )

と、書いたら、姪から返信

蜜柑(姉の長女)2008年03月07日 17:23
博士と呼ばせて頂きやす(*^艸^) 貯金しなきゃ(笑)

りんご(妹の長女) 2008年03月07日 23:15 合格おめでとうございます
博士号か結婚か、どっちが先か競争だわね…フフフ わたしは論文いつまでに提出とかもぉいいです。わたしの場合は論文ではなく創作でしたが
==================

<つづく>

2008-05-10 13:37:03 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫B2 
nipponianippon
> 受験顛末2008

2008/04/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(3)日本語と日本思想

 息子が、3月30日の新聞書評欄を読んでいて、「これって、ハハが読みそうな本だよね」と、書評欄を目の前にかざしました。
 浅利誠『日本語と日本思想』

 「ふふふ、抜かりはないゼ、3月10日に購入済み」と、息子に本を見せました。
 「興味があるなら、貸そうか」と、私。
 「読むわけないジャン、日本語論なんて」と、豚児。

 うちの与太郎は、ゲーム攻略本か、歴史関連の本しか読まんのです。それも日本中世史のみ。この春めでたく日本史専攻2年生に進級しました。
 ハハが「なんでもアリ」の雑学興味であるのに対して、ストイックな「オンリーワン」読書主義。
 ま、私が担当している日本語教師志望の日本人学部生よりは、よぽど日本語について知っているのがせめてもの救いか。

 現代文化あるいはサブカルチャーと呼ばれる分野のなかで、「私がついていけない文化」であるコンピュータゲームについて、ソフトの面ではとりあえず息子と娘に尋ねれば答えてもらえるので心強い。

 ゲーム文化研究は、カルスタの中でも近年研究が盛んになった分野です。
 私はゲーム文化研究をしないけれど、現代文化を扱うなら、ゲームについての知識も基本的な了解事項になるだろうから、助けて貰おっと。

 息子が、「これって、ハハが読みそうな本だよね」と、書評欄にある『日本語と日本思想』を見つけだしたのは、さすがに「ダテに春庭息子をやってないねっ」と、いうところ。

 『日本語と日本文化』、奥付に2008年2日29日発行とあります。
 この本を本屋で3月10日に見つけたときは、「わぁ、やられた」と思いました。
 「日本語文法論から日本文化を考える」という内容で、「日本語と日本文化」というタイトル。
 「私が、このタイトルこの内容で本を書くつもりだったのに、先にやられた!」。

 藤原書店の季刊雑誌「環」に連載中は「日本語で思考すること」というタイトルだったから、単行本出版時に「日本語と日本思想」と、タイトル変更になるとは思っていなかった。油断した。
 商標登録しておくってことも考えつかなかったのだし、まあ、タイトルは早い者勝ち。

 本居宣長、西田幾多郎、三上章、柄谷行人の論究と、日本語教師として培った日本語文法の知識によって「日本語と日本文化」を語る、って、私がやろうとしていたのもほぼ、じ範囲だけれど、違う視点で書くからまあ、いいや。
 私は、本居春庭、西田幾多郎、山田孝雄、三上章、奥田靖雄、柄谷行人などを扱う予定。

<つづく>

2008-05-10 13:37:50 ページのトップへ コメント削除

Re:倉庫B2 
nipponianippon
> 受験顛末2008

2008/04/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン大学日記>ゴーGo!ハカセ号(4)カルチュラル・スタディーズ

 さて、今回入学の博士後期課程の専攻は。
 「異文化交流の激しい現代にあって、人類文化への深い知識と洞察力を養いつつ、未来志向の、全人類文化の調和と融合を探求する。
 全人的な学識と高度の専門知識をもち、国際性と創造性に富む研究者を育成する。
 文化及び文学を研究する」
というのが、専攻案内にある説明。

 指導教官は「比較文学」の専門家、現代文学ポストモダンフィクションを研究している女性研究者です。
 私の夫と同学年のはずだけど、はるかに若く見えます。

 先生、入試面接のときは金髪に染めていらした。先生のパートナーは、留学中に知り合った同じ研究をしているアメリカ人。お嬢さんは上海に留学中。
 大学院案内の写真でも美人ということはわかるけれど、実際に見て、人となりや雰囲気がわかりました。すてきな先生だったので、うれしく思いました。

 4月5日の開講式のあと、先生のゼミの人たちとコーヒー屋さんで顔合わせ。
 先生からは、まず、きちんとした研究計画を提出するよう、締め切り日を申し渡されました。
 9月には第一回目の研究発表。忙しくなりそうです。



「翻訳の仕事の考え方」を読んで(感想)

2008-07-18 23:41:00 | 日記
1)「母語で書くこと、翻訳の仕事の思考」の感想
Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation by Steven Ungar

 アンガーは歴史のなかで、翻訳が二次的なものとして扱われ、翻訳者の業績が、オリジナルの作者筆者に比べて、低く扱われてきたことを述べている。
英語圏の言語文化で、圧倒的に英語による言説が優位にたって社会に流通していたが、デリダなどの翻訳によって、非英語圏の言説が哲学、文化、文学に大きな影響をもつにいたって、ようやく翻訳の仕事がいかに重要で独創性のある言語文化のひとつであるかが、省みられるようになった。
インド出身のスピヴァク、北アフリカ・モロッコ出身のハティビら、バイリンガル作家の活躍によって、二重また多重に言語を使用する人々のアイデンティティについての論説も多くなった。

さて、日本ではこのようなバイリンガルな作品また、翻訳者の社会的評価はどのようであったか。
英語圏とだいぶ事情が異なる。
日本には歴史的に4度の大量外国文化移入期があった。
大陸からの漢字と中国文化仏教文化をとりいれた、大和~平安期。
ポルトガルエスパニアを中心とする西洋文化の移入とそれに引き続く江戸時代のオランダを中心とする西洋文化の選択的移入の時代。
幕末明治の急激な西洋文化移入期。そして、1945年以後のアメリカ文化移入期。
日本の文化は、次々と入ってくる文化との融合によって成り立ってきた。

平安初期までは、中国語を自由に読み書きできることが、教養人のあかしであったし、「文章を書く」といえば、漢詩文の執筆を意味した。
幕末明治期には、英語が読み書きできることがエリートへの近道であり、英語通訳や翻訳者は、社会的に高い地位を保っていた。

文学でも、二葉亭四迷のロシア文学翻訳はじめ、翻訳文学はその紹介者翻訳者は原著者と同じくらい「価値ある人」として遇された。
明治以後の日本では「学者」というのは、「西欧の学説をいち早く読みこなして翻訳できる人」の意味だった。

現在にいたっても、柴田元幸、金原瑞人ら「スター翻訳者」が「文化人」として高い社会的地位を保証され、村上春樹が新訳をだせば、それまで本を読むことの少なかった高校生が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み始める。
村上は創作家としても翻訳者としても、同等の価値を与えられている。
日本では、「翻訳者が創作家に比べて低い地位に甘んじている」ということは、少なくとも出版界、学会では欧米ほどの差がなかったと思う。

ハティビら、バイリンガル作家の問題について。
これも、日本では事情が異なる。
ひらがな普及に至るまで、日本で「文章を書くことができる」ことは、漢詩文を書くことができる、という意味だった。平安末期の歌人藤原定家。和歌の達人であっても、その日記『明月記』は、漢文で書かれている。
もちろん、奈良期までの漢詩文とことなり、ひらがな普及以後の日本人の書く漢文は日本化した漢文であって、中国語そのままではない。「和臭」と呼ばれる、日本独特の漢文となっている。
それでも日常語として母語は日本語を使用している人が、漢語の意味は同じであっても、統語構造の異なる漢文を自由に読み書きするためには、頭のなかがバイリンガルになっていることが必要だったと思う。
常に、翻訳と隣あわせで、文章を読み書きしてきた。これが日本語言語文化の出発だ。日本語言語文化は、バイリンガル思考によって基礎を固めてきた、ということの意味をもう一度考えていくべき時期になっていると思う。

現代日本語言語文化において、バイリンガルとアイデンティティの関連について、「在日文学」また、「旧植民地で日本語教育を受けた人々が残した文学」の問題がある。後者については、台湾、旧満州などで発表された日本語文学の再評価がはじまったところなので、これからどのような成果があるか、楽しみにしている。
リービ英雄、アーサー・ビナード、揚逸(ヤンイー)ら、日本語を母語としない人々の小説、詩、評論などがつぎつぎと社会的に大きく評価されるようになり、これからの「日本語文学」のさらなる広がりを考えると、この「Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation」を読むことは、大きな示唆を与えられる機会であった。
翻訳の問題、バイリンガルによる思考と執筆、などは、これからの日本語言語文化シーンにとって、日本語言語文化の広がりと受容の発展にとって、優粋な観点を与えてくれると思う。

(感想おわり)



アンガーの翻訳論感想

2008-07-16 10:24:00 | 日記
アンガー「母語で書くこと、翻訳の仕事の思考」についての感想


(1)「母語で書くこと、翻訳の仕事の思考」の感想
Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation by Steven Ungar

 アンガーは歴史のなかで、翻訳が二次的なものとして扱われ、翻訳者の業績が、オリジナルの作者筆者に比べて、低く扱われてきたことを述べている。

 英語圏の言語文化で、圧倒的に英語による言説が優位にたって社会に流通していたが、デリダなどの翻訳によって、非英語圏の言説が哲学、文化、文学に大きな影響をもつにいたって、ようやく翻訳の仕事がいかに重要で独創性のある言語文化のひとつであるかが、省みられるようになった。

 インド出身のスピヴァク、北アフリカ・モロッコ出身のハティビら、バイリンガル作家の活躍によって、二重また多重に言語を使用する人々のアイデンティティについての論説も多くなった。

 さて、日本ではこのようなバイリンガルな作品また、翻訳者の社会的評価はどのようであったか。
英語圏とだいぶ事情が異なる。

 日本には歴史的に4度の大量外国文化移入期があった。
大陸からの漢字と中国文化仏教文化をとりいれた、大和~平安期。
ポルトガルエスパニアを中心とする西洋文化の移入とそれに引き続く江戸時代のオランダを中心とする西洋文化の選択的移入の時代。
幕末明治の急激な西洋文化移入期。そして、1945年以後のアメリカ文化移入期。
日本の文化は、次々と入ってくる文化との融合によって成り立ってきた。

 平安初期までは、中国語を自由に読み書きできることが、教養人のあかしであったし、「文章を書く」といえば、漢詩文の執筆を意味した。
 幕末明治期には、英語が読み書きできることがエリートへの近道であり、英語通訳や翻訳者は、社会的に高い地位を保っていた。

 文学でも、二葉亭四迷のロシア文学翻訳はじめ、翻訳文学はその紹介者翻訳者は原著者と同じくらい「価値ある人」として遇された。
 明治以後の日本では「学者」というのは、「西欧の学説をいち早く読みこなして翻訳できる人」の意味だった。

 現在にいたっても、柴田元幸、金原瑞人ら「スター翻訳者」が「文化人」として高い社会的地位を保証され、村上春樹が新訳をだせば、それまで本を読むことの少なかった高校生が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読み始める。
村上は創作家としても翻訳者としても、同等の価値を与えられている。
 日本では、「翻訳者が創作家に比べて低い地位に甘んじている」ということは、少なくとも出版界、学会では欧米ほどの差がなかったと思う。

 ハティビら、バイリンガル作家の問題について。
これも、日本では事情が異なる。
ひらがな普及に至るまで、日本で「文章を書くことができる」ことは、漢詩文を書くことができる、という意味だった。平安末期の歌人藤原定家。和歌の達人であっても、その日記『明月記』は、漢文で書かれている。
 もちろん、奈良期までの漢詩文とことなり、ひらがな普及以後の日本人の書く漢文は日本化した漢文であって、中国語そのままではない。「和臭」と呼ばれる、日本独特の漢文となっている。
 それでも日常語として母語は日本語を使用している人が、漢語の意味は同じであっても、統語構造の異なる漢文を自由に読み書きするためには、頭のなかがバイリンガルになっていることが必要だったと思う。

 常に、翻訳と隣あわせで、文章を読み書きしてきた。これが日本語言語文化の出発だ。日本語言語文化は、バイリンガル思考によって基礎を固めてきた、ということの意味をもう一度考えていくべき時期になっていると思う。

 現代日本語言語文化において、バイリンガルとアイデンティティの関連について、「在日文学」また、「旧植民地で日本語教育を受けた人々が残した文学」の問題がある。後者については、台湾、旧満州などで発表された日本語文学の再評価がはじまったところなので、これからどのような成果があるか、楽しみにしている。

 リービ英雄、アーサー・ビナード、揚逸(ヤンイー)ら、日本語を母語としない人々の小説、詩、評論などがつぎつぎと社会的に大きく評価されるようになり、これからの「日本語文学」のさらなる広がりを考えると、この「Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation」を読むことは、大きな示唆を与えられる機会であった。
 
 翻訳の問題、バイリンガルによる思考と執筆、などは、これからの日本語言語文化シーンにとって、日本語言語文化の広がりと受容の発展にとって、優粋な観点を与えてくれると思う。

(感想おわり)

翻訳

2008-07-12 08:37:00 | 日記

Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation
Steven Ungar

p127
読書のもっとも親密な行為

これをポジションペーパー(与えられた資料や課題に関して、自分の考え方や立場を論述するもの)と考えてください。
、19世紀前半からのヨーロッパと北アメリカの世界文学モデルと同様に、翻訳は比較言語学にとって中心課題として存在し続けてきた。
文学研究の範囲で翻訳の中心的地位は、しばしば過小分析、過小理論のままであるという事実に関し争われている。
この状態をただ嘆いているよりも、むしろ、私は、25年間に、談話研究、そして比較文学研究の学科が、翻訳研究の分野を取り囲んで表れている実際のことがらに、どれほど問題を進化させることに貢献したかについて、このあと考察していきたい。
xこの考察を縁におき、私を多かれ少なかれ翻訳に引きつけるものが何であるか、そして、いかにして翻訳をなしうるのか、何をすべきなのか、ということを最初に考察したい。

翻訳の詩学はそれに付随する政治学と倫理無しにはあり得ない
   論を開始するよりよい場所について、ホーン・ソーシーは文学の翻訳に関わっては書いておらず、この仕事は、主題以外のプロセスは、生き残らないかもしれない。
世界文学の概要概述の間、諸説は、現行のACLA報告へ紹介の中、三番目の方法について生起する。
p128

それは、安定した教育学的誘惑として主題の読書への言及に先行する。そして例をあげるならカフカとカフカ作品は、世界文学緻密な比較研究のために働家内かもしれないと言うことの説明のために、はダヴィッド・ダムロッシュの論を借りている。

Saussyの文は、完全にここにある。

しかし、翻訳文学のために、プロセスを生き残る作品は何もなく、主題のほか、そこには出発するためのよりよい場所はない。
この所論において、最初に私を打ちあたったことは、文を完成する節が独立してふたつ離れている節と離れて独立している第二の節のふたつについて、語彙と文法をどのようにセットするか、ということだった。
その第二節は、点としてのカメラ・ルチダのなかにあるバルトの理論の秩序の上に私をはずませ、私の注意をひいた。
同様に、私は用語の策定に引きつけられた。そして、プロセスや生き残ることや主題、それらの収束が、間接表現、含意、判断を明らかにすること、そして翻訳のプロセスに関わることに急速に引きつけられた。
ここで使われるように、「作品」「残存」などの用語は、翻訳が付け加えること、その その残存が正当かする美的価値の仮定としての指定するまた言語の実体からそらされることに触れていく。
  幾分ことなる点を述べるために、私は、節がプロセスと作品という用語が仮定の勝ちに基づいていることを主張する。この価値とはポジティブな方法に帰する文学作品の特定の活動を犠牲にしている価値である。
私は、まず第一に、(1969年以後のバルトを再び持ち出すが、)原文の実体として文芸作品を見続けていく。その実体とは、意味の最小単位が、デテールのレベルで分析しうるという実体。そのデテールは、そのような文学性のようなものは二次的なものとして、美的価値をもつデテールのことである。

プロセスという用語も同様に翻訳作品を十分に説明することはできない。
この仕事は、全作品というよりトラヴァーユ、アルバイト、(または制作とさえ)むしろクンストヴェルク、そのために、私は主唱者でありたいと思い、そのためには、ソーシーの論述は、出発のために適切なポイントを提供する。
それが意味し伝える主題に、影響を及ぼすことができないというソーシーの主張に対してである。

反対に、私が翻訳の仕事にとって本質的なものとみなす題名の要素は、決して直接ではなく透明でもない翻訳のプロセスとしてのコミュニケーションの性質に関係する


  記録として話しておこう。私が実際ここで書くことは、翻訳理論家としてであって、アイオワ大学映画学部と比較文学部に職をもつものとしてではない。アイオワ大学は、前の同僚たち、スタブロス・ディギオルギス、ガヤトリ・スピヴァク、そして フレッド・ウィル、ダニエル・ヴァイスヴォルトたちが、ほぼ40年前の合衆国で最初に文学的な翻訳を教えた学部だった。

実際、言語と文学を教え研究する者として我々すべての者は、比較言語学者である。そして、お粗末な外国語職業人でさえも、じっさいのところ、肩書きによらないばあいであっても。

ジョージ・スタイナーは、個人としては、長く彼がバベル後の言語の多様性ということの支配の下で、翻訳の可能性と敗北に集中する比較文学のモデルの雄弁な援護者であった。
p129
すべての翻訳の側面、翻訳の歴史、語彙表、そして文法手段、一語一語の逐語訳から、もっとも自由なイミテーションまたは変形適合まで拡張されたアプローチ差異まで、絶対的に比較言語学者には重要だ。

どのような言語であっても、さらに、どのような他のアクセスの手段でもそれ以上に良質の翻訳も、不完全または失敗の緻密な聞き取りも、その通りとしての才能の輝く場所に光を投じるのを助けた。
我々がそうである労働者は、パンをまったくの痛み無くして決して完全な翻訳にしない。
なんと、英語では、フランス語またイタリア語ではHaimatであると?
  スタイナーの言説は、翻訳を囲んでいる難問を示している。活動が文化的な差異の具体的な表現力として言語とかみ合った翻訳についての難問。
用語の失敗と不完全は、力天使が性格に失敗と不完全を克服することを伴う翻訳のモデルの持続を意味する。
したがって、成功した完全な翻訳は、おそらく、なんでもすべての選択肢を除外することに成功した翻訳なのだ。
それでもたしかそのような完成の基準は、私は信じているのだが、少なくともスタイナー
にとって、興味深い。緻密な翻訳の聞き取りの失敗と、不完全さが文化的差異の性質の関わりに関して、翻訳の決して終わりのない課題として他のどこかでスタイナーが確認するところの文化差異。



Lost in Translation?

翻訳の仕事は、第二順位の表現として、文学的な生産の範囲では、しばしば退けられる。したがって、拡張の忠実な支持者または著者の独創的な仕事への貢献に不実な拡張として目に見えない翻訳者は、しばしば退けられる。
翻訳が不器用に対象言語を読み取る時だけ、翻訳者の比喩的な目、耳と手は彼らの不可視性を失います。
再読することと書き直すことが、意味カウンターの製造とかみ合う。その代わりに翻訳の仕事を作り直すことは、いつものように、すでに独創性のない翻訳に汚名をきせる偏見の形で、理解されています。

私が使用している、尊敬するリチャードはワードと、バーバラ・ライト、ラルフ・マンハイムらの翻訳をしている翻訳者たちの努力は、筆者と同等にその価値を保証されるべき存在だ。なぜなら、翻訳者は、元のテキストをもうひとつの言語で言語特性を伝達することに成功している、、、別の言語で。
そのような翻訳について特徴的であることは、翻訳者が英語の散文の意味の慣例を越えてフランス語テキストの意味を伝えることに成功する範囲です。
これらの英語翻訳が、フランス語の透明性を乱用しすぎる忠実な品質を保ってフランス語に近い感覚で読めたという事実は、第一に翻訳者が著者の代理者であること、第二に、気配りのできる読者としてのみ可能になる。
著者、翻訳者と読者の像に起因する受容的な代理者に関わる言語の優越性を主張する議論に誘い込まれているあいだ、個々の(そして、あるいは)グループのコミュニケーション行為の単純化できない性質を断定する。
xそのようなコミュニケーションは、スペインの名詞trasladoによって伝えられる転位、移動と翻訳の語源的で歴史の関連があまり互いと同等でない対になってない領域の収束を促す例でさえ行われている。
認知だけでは、同等のこの欠如を調整するために十分でありません。
認知は、翻訳の仕事があまりに簡単に、比較よりむしろ対照の面に落ちる範囲を例示します。
翻訳者の不可視性のケースの場合のように、2つの領域の間の相互作用は、しばしば等しくありません。
翻訳の仕事は、詳細がもっとも明らかにされている。そして、このことは、このような言語の意味と韻律学徒ポエシスに基づいている言語スタイルに、いかに作品を引き出すかという批評的な理解に関わる。
同時に、翻訳は完全に、力、影響と様々な種類と程度の政策と一緒に必然的に韻律学をセットする力の領域に入る。
「国際化」という用語の現在の使用法が、資本の循環の増加を含みつつ理解されるが、翻訳の輸入はそうすることができず、単純に正確さ優美さまた忠実度によって決定される。


その代わりに、ガーヤトリー・スピバクが論じたように、翻訳者によってなされる選択に集中する。
「フランス語からの英語への翻訳では、もう一つのスペースの区別の消された歴史があります 。フランス人によって作られて、イギリス人によって取り上げられて-言語の変化全体と民族は、底辺の歴史的体積にあり、我々の想像力の本当の潜在性を待っている。

スピバクの位置は、実際に最強である。私は彼女の言及した本のいくつかのページを支持してきた。「」

スピバクの位置は、実際、私が彼女が何を支持して「翻訳の単純化できない仕事(言語からのでなく言語へのでなく体からのでなく倫理記号現象(「生命であるその絶え間ないシャトル)へのでなく)。」と同じ本の初期に数ページに言及するかについて見た最も強いものの一つです。

ジャックデリダは、翻訳を伝統的な教育の価値との関連がある大学の政治制度上の問題と言います。

ローレンスベヌーティは、それを言語で文化的な違いに対する、より大きな敬意を含んでいる倫理局面に通じている文化的な政治的な実行として描写しました。



シェリーサイモンのために、翻訳はフェミニスト実践と「必然的に伝達の政策に関係する文学との関わりの方法(我々の文学的な文化を継続する価値を恒久化するか、争うことでの)」です。

ベヌーティは、翻訳の矮小化実践の倫理で政治課題を妨害する言語基礎のアプローチを越えて行動するために精力的に論争している。

スピヴァクとサイモンはベヌティを負っている。彼らは、支配の長い歴史に関連したアイデンティティの文化的な面に焦点を当てる。(スピヴァク)そして、多様な面ではっきりしてきた差異を生み出す差別構造としてのジェンダーについて。(サイモン)

サイモンが翻訳研究とフェミニスト実践を関連づけている文化的なターンというのもは、重要な展望と基礎的な問題における変更を促進する。「翻訳理論化の心を奪った伝統的な問題を尋ねるかわりに、「どのように、我々は翻訳すればよいのか、正しい翻訳とは何か、強調は描写のアプローチに置き換えられるか」とたずねる。「翻訳とは何をするのか。どのように彼らは世界を循環し、反応を引き出すか」

スピバク、サルマンラシュディと保美Vhabhaの作品を参照して、サイモンは論じている。活動としての翻訳の変化した理解、文化的なアイデンティティの不安定化のために、サイモンは論争している。そして、文化的想像の新しい様式の基礎となるために論じている。

彼女が提案するモデルは、英語に翻訳される第三世界文学が、故意の一カ国語主義の点で不公平であり、文化的な特性の伝達にまったく不適当な「一様な国際的翻訳テーゼ」に偏っていることを述べている。

スピヴァクは、彼女が書くときに起こる類似した点を述べている。「第三世界のすべての文学は、一首緒現代的な翻訳テーゼによって翻訳される。パレスチナの女性による文学が、その散文の感触で、台湾で男性によって書かれたものに似てきたように。」


サイモンが、フェミニスト実践として翻訳のために上げる問題は、彼女が描く説明が、ちょうど翻訳が行うことのできないもケーススタディになっている。(そして、もっと大きなポイントとして)例示されている。

サイモンも、スピヴァクの後を追っている。大学や大学カリキュラムでポストコロニアルな国のなかで、認知に影響を及ぼしている集成された教育学の法へ、この教育学の組織のサイトと同様に、翻訳の制作を広げることによって。

ライティングと翻訳と教育学を結ぶ論理は、伝達のうちの1つです

したがって、翻訳を新しい比較文学に必要にする見通しは、現在のモデルと実行の範囲を例示するケースに、最も明らかとなる。
このことは、彼らが比較ができないことと同様に、翻訳がなしうることを明らかにする。

サイモンは、クリスティーンBrooke-Roseの1968の新しいBetweenとエバホフマンの1989のエッセイLostに翻訳を援用すう。
「戦後国際主義の新しい形式からおきている経済損失を記録するものとしての新言語の生活。
サイモンの例の適切さを理解することなく、違いの類似した経済と伝達の論理が1962年にフランスの下で植民地化の形式的終わりの後、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの作家に直面する翻訳に関係する方法を、私は調査したい。

私は、アブデルケビルKhativi、A・ジェバール、アブドゥル 、ワッハーブMeddevらの著作がアラビア語、フランス語と他の言語の間で「中間的な」スペースを占有しながら、彼らの著者を投げ入れている文化的な階層化を明らかにするキューを出したい。


言葉遣いのレベルに、この階層化している背景を持ってくるために、私は発音と書名の特性が、他の言語と国際化との文脈のなかで翻訳に関係する方法を調査したい。

バイリンガル(カーティヴィは、バイリンガルとマルチリンガルを同等視している)の現象と、複数の言語に堪能なことを前提に断言することを区別することから始めることは、訳にたつ。

実際に二つの用語法のあいだに、違いがある。翻訳に抗する言語の格の認識的読書訓練の中で、もはや広く行われていない用法があるときなど。

したがって、バイリンガル、あるいはマルチリンガルの現象は、明らかにする。「それを書き思考するインフラリミナルなレベルは、支配されたマグレブ地方の文学的な生産を時代遅れにする二重の反対を生成する。

対象言語の透明性よりも、複数言語と文化が互いに対抗して身構え、そして「意味無しに出会うこと、合成や浸透の調停なしにつながっていくことは、翻訳の作り直しをやりにくくする。


奇妙なことに、フランスの動詞traduireの第二の意味「指定、法廷(「traduireエヌcoursデ正義」)の前に誰かを連れてくる法律現象は、この当事者対抗のインタラクションの性質を運びます。

カーティビーが二重ラングと多重ラングがいつも意味を明らかにする力として働くことを、diglossicな状態におくことで戦略的な力で高めている。


同様に英語でイタリック体にされた用語、二重ラングを保持することは「二重母語」または、「方言母語話者」の肉体的感覚と戦います、あるいは、英語のいう二重言語の標準駅な用法とは異なった用語として用いる。
30年以上の間、カティービーははっきりと書き続けた。植民地化されている間、フランス語や文化より劣っているように固定されたアラビア語と文化という階層をうち破るために。
そして、「学校で非宗教的な教育を私の宗教に押しつけて、私はむりやり3ヶ国学んだ。私は話すこともできないのに、フランス語を読まされた。私はアラビア語のいくつかの断片を書いて遊び、日常的な言語としては、方言を話した。

一貫性と連続性は、この混乱の最中にどこにあるというのか?
10年後に、彼が書くとき、Khatibeはこの状態bewteen言語と文化の間の状態に重要なくさびを加えているだろう。
hi-langueと多ラングの翻訳理論が進まない限り、特定の北アフリカのテキストは公的で機能的なアプローチを通して、固まったままになる。

母国語は、外国語の中でつかわれる。
言語と他言語の間で、永久の翻訳と説明不可能な無限の後退が起こる.
テキストの暴力が、このクロスオーバー(本当に両立しないこの交差点)とまではいかないが、どこで形をとるだろうか。

p132
先に述べたように、、複数の言語の跡と跡が源になっている対象言語のバイナリの区別に基づいている伝統的な翻訳に対して、多重ラングと二重ラングは、抵抗する文学的な生産を促進します。

サミアMehrezのために、多重ラングは、抵抗と転覆の現れとして、翻訳できないものを主張する。

「この文学の中で、我々は単に言語同等の従来の概念、または長く翻訳論の考慮であった損失と利益についての考えに、もはや関心を持つことができるだけではない。

ポストコロニアルな二カ国語によって書かれるこれらのテキストに、'in between'
を創作し、'in between' な空間をしめるだろう。

多重ラングと二重ラングの喚起は、カーティビーが有効に、不相応を不足から変えるフランス語とarabicのcalligraphiesの間でインタラクションを伴います-彼は運、エネルギーと彼の第3の耳に言及します ― enounciationの力と同等視される文書のパフォーマンスとして。

多ラングと双ラングの喚起はKhativiが有効に不相応を不足から変えるフランス語とアラビア語書道の間で、インタラクションを伴います。-彼は運、エネルギーと彼の第3の耳に言及します ― 発音の力と同等視される文書のパフォーマンスとして。
アブデルワハド メデブのタリスマノで、彼は書いている。

ここでは本は破られている。ときどき、ばらばらに爆発する。

統一された文書で話す狂気に属している何か、1つの言語からもう一つの言語まで、まで普通の関係の逆転で苦しむ人々の想像力に場をしめる:各々の言語にその異なった資産、その分離した領域とすべての翻訳に対するその抵抗を指定する関係。
x世界がいわば並列を書き込むことになっているという驚異的なことは、永久の翻訳だけであるテキストを手渡します。

前述の両方の通路は、言語と文化の本質的な違いを運ぶ。北アフリカのテキストは、たいへんに難しく、『二つの言語の愛』が、セックスと影響まで意味を広げる。
再び、翻訳は二重ラングのカティービーの配備の鍵となる要素のままです:

何が、この恋人によって翻訳されたか?
ゆっくり答えてよう。それはまだ遭遇に向かっている。実際は、それに到達することなく、それから真に立ち直っている。

予想でもなく、回帰でもない。

未決定のものの制約を維持してほしい。

他の用語であなたのことを考える際に、私は非対称的な歓喜が起こったと付け加える。

私が、私自身のものからあなたを誘いこんだので、私はあなたの自国語であなたを写した。そして、それをあなたは認めなかった。

Mahrebiテキストの解釈のための、カティービーの二重ラングの緊要性は、「ふたつの言語の愛」がその完全な複雑さで伝達する性的な違いと他の違いの感情的チャージによって高められます。
この違いは、しかし、部分の上で配置の役に立たない。
おそらく男性のナレーター(「彼女」が表面上アクセスをしなくて、匿名の女性がテキストを通して言及した配置だったとして)。

彼が、言語と文化に関して、彼とカティービーが特定の「州」を共有する点に注意する、ジャックデリダは更なる二重ラングの現象に言及を加える。


我々は、これまでに言語について話すだけです...(yes,but)

我々は、1つの言語を話すだけではありません...。

いわゆる翻訳の法律だけでなく法律そのものも、翻訳としてあります。
デリダは、植民地のアルジェリアの教育制度と文化的な複雑な距離と持続的な近くの前後関係のこれによって、青年時代に彼に課された言語階層に言及しています


Challenging Translation
挑戦的な翻訳


p134
私が携わっている翻訳の仕事のサイトは、アカデミックな学科と教育学から性的な広告用の用語まで投げかけられる克服しがたい違いの範囲を含んで実施している。
カーティビー作品の翻訳の上梓が高官と理解の試みを拡張していくものであることは、モーリスブランショーの「L'attente I'oubli(1962)」フォーマットを思い出させる。
そして、少なからず誤解に終わる無限の一連の失敗した試みを通して、完全で十分な理解を停止する。

二重ラングと多重ラングのカティービーの支持は、2種類のアラビア語(方言で古典的な)、ベルベル人、フランス語と(モロッコの地域の)スペイン語から造られる言語スペースを強要する北アフリカで、文化的政治状況に由来します。

この大多数も、それを囲んで、居住する内外の言語によって絶えず作られて、撤回されて、リメイクされる言語として、フランス語の状態に関係する。

「そして、実際、いわゆるフランスの表現のすべてのマグレブ人の文献は、翻訳の報告です。
私は、それが翻訳だけであると言っていない。口語でより以上に特別になる。

カティービーの二重ラングと多重ラングが、翻訳のために起こす挑戦は、翻訳のような賢者が伝統的な翻訳が起点言語として断定するもののプライオリティーを模倣して、置き換える混合文化の第3のスペースと関連を思い出させる。

雑種性が日常生活の事実より例外になることがより少なくて、違いに調子を合わせられる翻訳教育学は、その複数の表現において国際化の現実と同調して、新しい比較文学のモデルと実践を作り直すことに、貢献することができる。

そのモデルと実践の一部は、知識が言語の単純化できない違いで、根強いままである範囲を示すことによって、知識の非植民地化を延長しなければなりません。

Khatibi,thisのために、違いは古典アラビア語、そのローカル方言、フランス語とスペイン語の地域の言語が、それを囲んで、居住する他の言語の書名を含む状態への、それ自体で世界的なものの横断として、東洋、西洋とアフリカの間でマグレブの地勢歴史学な位置を連絡します。
p135

最もこの違いとその重要な非対称を伝達する方法は、翻訳研究が新しい比較文学がますます戦う、ローカルで、地域で、世界的な前後関係の範囲を理解することに貢献させることができるもののための主要な挑戦です。

カティービーが二重ラングと多重ラングの現象とともに起こす問題のセットによって明確に述べているように、翻訳は、源と対象言語のはっきりして安定した差異の崩壊を示していることによって言語差異を解決するよりは、むしろ、高まります:

 外国語は単純なもとの字句を消した上に字句を記せるようなものとして自国語に加えていくのでは、それを変形していくのだ。

私がフランス語をかくとき、私の全力は私自身を私の自国語から切り離すことにむけられる。自国語は私が深く自身を沈めている自国語から自分を追いやる。
私はこのように心の中で私自身と分けられる。それは言語の運命に慣れるすべての文書の条件だ。

私自身(私自身で ― 他の言語の ― 輪廻)を分けること。

ほとんど何によるHenceforth,littleもない、私の自国語は、私と無縁になります。


二ヵ国語使用は、2つの外形の間のスペースです。

私は、忘れる、そして、anamnesiaの話しを始めます。

これからは‖私が私自身に義務がある慣用語で「私は、an/otherです」発明します-この状況の点で固有の制限経験。

カティービーのために、それから、それが強要するものがうつ病と損失の急進的な経験であるとき、そのマグレブ人の特性で二重ラングの現象と戦うことの分岐点は、均一な(そして、特に)Araibicフランス語とベルベル人の間で ― 単に抵抗するだけであるよりはむしろ ― 大多数の心を引きつける変更を含みます。


違いを断言することは、この損失を読み書きするために、このように国と州の形成のこの戦いの影響の、より個人のセッティングとして、自身の形成において、言語の間で闘争す
る。

差異のこの理解を促進するかもしれない戦略の間で、カティービーが二重ラングと多重ラングに関して、主張することは、拡張によって「他の人に対する本当に情報に基づいた尊敬」に結ばれる厚い翻訳の前後関係に依存する実践の役に立つ。

カティービーが二重ラングの彼の実践を接地する、そして、言語がお互いを知らない人でない間、彼がそれを主張するとき、多重ラングがベンジャミンがとるより穏やかな位置に関して調節されていることがありえる単純化できない違い(「すべての翻訳は、言語の異質と合意するいくぶん暫定的な方法だけだ。

比較言語学者があらゆるこの違いと異質と戦うことを学んで、翻訳は言語と文化(例えばSaussyが適切に、始まるための最高の場所と呼ぶ翻訳の文学を教えること)全体で文学的な研究にとってさらに必須になります。

Challenging Translation

2008-07-09 07:20:00 | 日記
p134
The sites of translation work that I have invoked above range from academic discipline and pedagogy to insurmountable difference and otherness cast in sexual ad affective terms.
私が携わっている翻訳の仕事のサイトは、アカデミックな学科と教育学から性的な広告用の用語まで投げかけられる克服しがたい違いの範囲を含んで実施している。


Khatibi's staging of translation as an extended set of attempts at exchange and understanding recalls the format of Maurice Blanchot's L'attente I'oubli(1962)、and this not least by the suspension of full and adequate understanding through an infinite series of failed attempts that result in misunderstanding.
カーティビー作品の翻訳の上梓が高官と理解の試みを拡張していくものであることは、モーリスブランショーの「L'attente I'oubli(1962)」フォーマットを思い出させる。
そして、少なからず誤解に終わる無限の一連の失敗した試みを通して、完全で十分な理解を停止する。

Khatibi's advocacy of bi-langue and pluri-langue derives from cultural and political conditions in North Africa that impose a linguistic space constructed out of two kind of Arabic (dialectal and classical), Berber, French, and(in parts of Morocco) Spanish.
二重ラングと多重ラングのカティービーの支持は、2種類のアラビア語(方言で古典的な)、ベルベル人、フランス語と(モロッコの地域の)スペイン語から造られる言語スペースを強要する北アフリカで、文化的政治状況に由来します。


This plurality also bears on the status of French as a language continually made, unmade, and remade by the internal and external languages that surround and inhabit it:
この大多数も、それを囲んで、居住する内外の言語によって絶えず作られて、撤回されて、リメイクされる言語として、フランス語の状態に関係する。

"And in fact, all Maghrebian literature of so-called French expression is an account of translation.
「そして、実際、いわゆるフランスの表現のすべてのマグレブ人の文献は、翻訳の報告です。
I don't mean that it is only translation, but more specifically that it is an account that speaks in tongues"
私は、それが翻訳だけであると言っていない。口語でより以上に特別になる。



The challenges that Khatibi's bi-langue and pluri-langue raise for translation recall those associated with a third space of hybrid culture in which translation like wise imitates and displaces the priority of what traditional translation posits as the source language.
カティービーの二重ラングと多重ラングが、翻訳のために起こす挑戦は、翻訳のような賢者が伝統的な翻訳が起点言語として断定するもののプライオリティーを模倣して、置き換える混合文化の第3のスペースと関連を思い出させる。

As hybridity becomes less an exception than a fact of daily life, a translation pedagogy attuned to differnce can contribute to recasting the model and practices of a new comparative literature in line with the realities of globalization in its multiple expression.
雑種性が日常生活の事実より例外になることがより少なくて、違いに調子を合わせられる翻訳教育学は、その複数の表現において国際化の現実と同調して、新しい比較文学のモデルと実践を作り直すことに、貢献することができる。

Part of that model and practice should extend the decolonization of knowledge by showing the extent to which knowledge remains entrenched in the irreducible difference of language.
そのモデルと実践の一部は、知識が言語の単純化できない違いで、根強いままである範囲を示すことによって、知識の非植民地化を延長しなければなりません。

For Khatibi,this difference links the geohistorical location of the Maghreb between Orient, Occident, and Africa as a crossing of the global in itself to a condition in which the regional languages of classical Arabic, its local dialects, French, and Spanish contain the inscription of the other languages that surround and inhabit it.
Khatibi,thisのために、違いは古典アラビア語、そのローカル方言、フランス語とスペイン語の地域の言語が、それを囲んで、居住する他の言語の書名を含む状態への、それ自体で世界的なものの横断として、東洋、西洋とアフリカの間でマグレブの地勢歴史学な位置を連絡します。
p135
How best to convey this difference and its essential dissymmetry is a prime challenge for what translation studies can contribute to understanding the range of local, regional, and global contexts with which the new comparative literature increasingly contends.

最もこの違いとその重要な非対称を伝達する方法は、翻訳研究が新しい比較文学がますます戦う、ローカルで、地域で、世界的な前後関係の範囲を理解することに貢献させることができるもののための主要な挑戦です。

As formulated through the set of problems that Khatibi raises in conjunction with the pehnomenan of the bi-langue and pluri-lanue, translation enhances rather than resolves linguistic defference by pointing to the collapse of clear and stable distinctions between source and target languages:

カティービーが二重ラングと多重ラングの現象とともに起こす問題のセットによって明確に述べているように、翻訳は、源と対象言語のはっきりして安定した差異の崩壊を示していることによって言語差異を解決するよりは、むしろ、高まります:

 A foreign tongue is not added to the native tongue as a simple palimpaest, but transforms it.
 外国語は単純なもとの字句を消した上に字句を記せるようなものとして自国語に加えていくのでは、それを変形していくのだ。

When I write in French, my entire effort consists of separating myself from my native language, of relegating it to my deepest self.
私がフランス語をかくとき、私の全力は私自身を私の自国語から切り離すことにむけられる。自国語は私が深く自身を沈めている自国語から自分を追いやる。

I am thus divided from myself within myself, which is the condition for all writing inured to the destiny of languages.
私はこのように心の中で私自身と分けられる。それは言語の運命に慣れるすべての文書の条件だ。

]Dividing myself, reincarnation myself-- in the other's language.
私自身(私自身で ― 他の言語の ― 輪廻)を分けること。

Henceforth,little by little, my native tongue becomes foreign to me.
ほとんど何によるHenceforth,littleもない、私の自国語は、私と無縁になります。


Bilingualism is the space between two exteriorities.
二ヵ国語使用は、2つの外形の間のスペースです。

I enter into the telling of forgetting and of anamnesia.
私は、忘れる、そして、anamnesiaの話しを始めます。

Henceforth, "I am an/other" in an idiom that I owe it to myself to invent--a limit experience inherent in this situation.
これからは‖私が私自身に義務がある慣用語で「私は、an/otherです」発明します-この状況の点で固有の制限経験。

For Khatibi, then, the turning point in contending with the phenomenon of the bi-langue in its Magherebian specificity involves taking change of --rather than merely resisting--the plurality among Araibic French and Berber even (and especially) when what it imposes is a radical experience of melancholia and loss,.

カティービーのために、それから、それが強要するものがうつ病と損失の急進的な経験であるとき、そのマグレブ人の特性で二重ラングの現象と戦うことの分岐点は、均一な(そして、特に)Araibicフランス語とベルベル人の間で ― 単に抵抗するだけであるよりはむしろ ― 大多数の心を引きつける変更を含みます。

To assert difference, to speak and write this loss, is thus to contend with the war between languages in the formation of self as a ore personal setting of the impact of this war in the formation of nations and states.

違いを断言することは、この損失を読み書きするために、このように国と州の形成のこの戦いの影響の、より個人のセッティングとして、自身の形成において、言語の間で闘する。

Among the strategies that might promote this understanding of difference, the condition that Khatibi asserts in terms of bi-langue and pluri-langue lends itself by extention to the context-dependent practice of a thick translation linked to a "genuinely informed respect for others""

差異のこの理解を促進するかもしれない戦略の間で、カティービーが二重ラングと多重ラングに関して、主張することは、拡張によって「他の人に対する本当に情報に基づいた尊敬」に結ばれる厚い翻訳の前後関係に依存する実践の役に立つ。

The irreducible difference on which Khatibi grounds his practices of bi-langue and pluri-langue can be tempered with reference to the more moderate position that Benjamin adopts when he asserts that while languages are not strangers to one another, " all translation is only a somewhat provisional way of coming to terms with the foreignness of language."

カティービーが二重ラングの彼の実践を接地する、そして、言語がお互いを知らない人でない間、彼がそれを主張するとき、多重ラングがベンジャミンがとるより穏やかな位置に関して調節されていることがありえる単純化できない違い(「すべての翻訳は、言語の異質と合意するいくぶん暫定的な方法だけだ。

Close reading will continue to be grounded in efforts to understand linguistic specificity as well as to recognize how broader factors of differrnc bear on the linguistic choices made by the writer."

As comparatists learn to contend with the full range of this difference and foreignness, translation becomes even more essential to literary study across languages and cultures such as the teaching of literature in translation that Saussy aptly designates as the best place to start.
比較言語学者があらゆるこの違いと異質と戦うことを学んで、翻訳は言語と文化(例えばSaussyが適切に、始まるための最高の場所と呼ぶ翻訳の文学を教えること)全体で文学的な研究にとってさらに必須になります。

Lost in Translation?

2008-07-08 13:02:00 | 日記
Lost in Translation?

The work of translation is often dismissed within literary production as a second-order representation , with the translator accordingly invisible as an extension-faithful or unfaithful-of the original work attribute to the author.
翻訳の仕事は、第二順位の表現として、文学的な生産の範囲では、しばしば退けられる。したがって、拡張の忠実な支持者または著者の独創的な仕事への貢献に不実な拡張として目に見えない翻訳者は、しばしば退けられる。

Only when a translation reads clumsily in the target language do the figurative eye, ear, and hand of the translator lose their invisibility.
Recasting the work of translation instead as rereading and rewriting engaged with the production of meaning counters received understanding in the form of a prejudice that stigmatizes translation as always already derivative.
翻訳が不器用に対象言語を読み取る時だけ、翻訳者の比喩的な目、耳と手は彼らの不可視性を失います。
再読することと書き直すことが、意味カウンターの製造とかみ合う。その代わりに翻訳の仕事を作り直すことは、いつものように、すでに独創性のない翻訳に汚名をきせる偏見の形で、理解されています。

The efforts of translators whose work I use and admire-Richard Howard, Barbara Wright, and Ralph Manheim are among the names that first come to mind-fully warrant parity with that accorded to authors because they succeed in conveying the linguistic specificity of the source text... in another language.
私が使用している、尊敬するリチャードはワードと、バーバラ・ライト、ラルフ・マンハイムらの翻訳をしている翻訳者たちの努力は、筆者と同等にその価値を保証されるべき存在だ。なぜなら、翻訳者は、元のテキストをもうひとつの言語で言語特性を伝達することに成功している、、、別の言語で。

What is distinctive about such translations is the extent to which they succeed in conveying a sense of a French text in English beyond conventions of prose meaning in the latter language.
そのような翻訳について特徴的であることは、翻訳者が英語の散文の意味の慣例を越えてフランス語テキストの意味を伝えることに成功する範囲です。

The fact that these translations in English read (feel )close to the French results less from their transparency in the target language than in a quality of abusive fidelity located first in the agency of the translator and only secondarily in the attentive reader.
これらの英語翻訳が、フランス語の透明性を乱用しすぎる忠実な品質を保ってフランス語に近い感覚で読めたという事実は、第一に翻訳者が著者の代理者であること、第二に、気配りのできる読者としてのみ可能になる。

While it may be tempting for the sake of argument to assert the primacy of language over the reseptive agencies attributed to the figures of author, translator, and reader, a focus on these figures posits the irreducible nature of translation as an act of communication among individuals and/or groups.
著者、翻訳者と読者の像に起因する受容的な代理者に関わる言語の優越性を主張する議論に誘い込まれているあいだ、個々の(そして、あるいは)グループのコミュニケーション行為の単純化できない性質を断定する。
p130
Such communication obtains even in instances where etymological and historical links between transposition, transfer, and translation conveyed by the Spanish noun traslado prompt a convergence of unpaired domains seldom on a par with each other.
そのようなコミュニケーションは、スペインの名詞trasladoによって伝えられる転位、移動と翻訳の語源的で歴史の関連があまり互いと同等でない対になってない領域の収束を促す例でさえ行われている。

Recognition alone does not suffice to rectify this lack of parity.
認知だけでは、同等のこの欠如を調整するために十分でありません。

But it illustrates the extent to which the work of translation falls all too easily into aspects of contrast rather than comparison.
認知は、翻訳の仕事があまりに簡単に、比較よりむしろ対照の面に落ちる範囲を例示します。

As in the case of the translator's invisibility, interaction between the two domains is often unequal.翻訳者の不可視性のケースの場合のように、2つの領域の間の相互作用は、しばしば等しくありません。

The work of translation is most evident in detail and thus in a sensitivity to language and style grounded in poesis and poetics; that is, in the making and critical understanding of how that making occurs.
翻訳の仕事は、詳細がもっとも明らかにされている。そして、このことは、このような言語の意味と韻律学徒ポエシスに基づいている言語スタイルに、いかに作品を引き出すかという批評的な理解に関わる。

At the same time, translation enters fully into areas of force, influence, and power that set poetics by necessity alongside politics of varying kinds and degrees.
同時に、翻訳は完全に、力、影響と様々な種類と程度の政策と一緒に必然的に韻律学をセットする力の領域に入る。

To the extent that current usage of the term "globalization" can be understood as including an increase in the circulation of capital--symbolic and cultural as well as material-- the import of translation cannot determined simply by the accuracy, grace, or faithfulness of the product.
「国際化」という用語の現在の使用法が、資本の循環の増加を含みつつ理解されるが、翻訳の輸入はそうすることができず、単純に正確さ優美さまた忠実度によって決定される。

Instead, it centers, as Gayatri Spivak argues, on choices made by the translator: "In the translation from French to English lies the disappeared history of distinctions in another space - made by the French and withdrawn by the English -- full of the movement of languages and peoples still in historical sedimentation at the bottom, waiting for the real virtuality of our imagination."

その代わりに、ガーヤトリー・スピバクが論じたように、翻訳者によってなされる選択に集中する。
「フランス語からの英語への翻訳では、もう一つのスペースの区別の消された歴史があります 。フランス人によって作られて、イギリス人によって取り上げられて-言語の変化全体と民族は、底辺の歴史的体積にあり、我々の想像力の本当の潜在性を待っている。

Spivak's position is, in fact, among the strongest that I have seen in support of what she refers to several pages earlier in the same book as "the irreducible work of translation, not from language to language but from body to ethical semiosis, that incessant shuttle that is a "life."
スピバクの位置は、実際に最強である。私は彼女の言及した本のいくつかのページを支持してきた。「」

スピバクの位置は、実際、私が彼女が何を支持して「翻訳の単純化できない仕事(言語からのでなく言語へのでなく体からのでなく倫理記号現象(「生命であるその絶え間ないシャトル)へのでなく)。」と同じ本の初期に数ページに言及するかについて見た最も強いものの一つです。

Exactly what do we mean when we refer to the politics of translation?
正確に、我々が翻訳の政策に言及するとき、我々は何を意味するのか?


Jacques Derrida describes translation as a political-institutional problem of the university linked to the values of traditional teaching.
ジャックデリダは、翻訳を伝統的な教育の価値との関連がある大学の政治制度上の問題と言います。

Lawrence Venuti characterized it as a cultural political practice that opens onto ethical dimensions involving greater respect for linguistic and cultural difference.
ローレンスベヌーティは、それを言語で文化的な違いに対する、より大きな敬意を含んでいる倫理局面に通じている文化的な政治的な実行として描写しました。

For Sherry Simon, translation is a feminist practice and "a mode of engagement with literature necessarily involved in a politics of transmission, in perpetuating or contesting the values which sustain our literary culture.


シェリーサイモンのために、翻訳はフェミニスト実践と「必然的に伝達の政策に関係する文学との関わりの方法(我々の文学的な文化を継続する価値を恒久化するか、争うことでの)」です。

Spivak, Derrida, Venuti, and Simon all seem to agree on the potential of translation to contest received practices and values related to language as communication.
スピバク、デリダ、ベヌーティとサイモンは、すべて、コミュニケーションとして言語に関連した容認されている実践と価値を争うために、翻訳の可能性について同意すると思われる。

Where Derrida emphasizes teaching and the institution of the university, Venuti analyzes power relations at work in the commerce of literary translation whose academic variant he describes as "a deep unwillingness among foreign-language specialists to think about the differences introduced by moving between languages and cultures."
デリダが大学を教えることと制度を強調する所で、ベヌーティは彼がアカデミックな変形を「言語と文化の間で動くことによって持ち出される違いについて考える、外国語スペシャリストの間の深い不本意なこと」と言う、文学的な翻訳の商業的な仕事の中に、力の関係を分析します。
p131
Venuti argues forcefully for moving beyond linguistic-based approaches that block the ethical and political agenda of a minoritizing practice of translation.
ベヌーティは、翻訳の矮小化実践の倫理で政治課題を妨害する言語基礎のアプローチを越えて行動するために精力的に論争している。

Spivak and Simon follow Venuti while they focus on cultural aspects of identity related to the long history of subjugation(Spivak) and gender as a distinctive construction emerging enunciated at multiple sites(Simon)
スピヴァクとサイモンはベヌティを負っている。彼らは、支配の長い歴史に関連したアイデンティティの文化的な面に焦点を当てる。(スピヴァク)そして、多様な面ではっきりしてきた差異を生み出す差別構造としてのジェンダーについて。(サイモン)

What Simon describes as the cultural turn linking translation studeies to a feminist practice promotes a change in critical perspective and the foundational question: "Instead of asking the traditional question which has preoccupied translation theorists-- 'How should we translate, what is a correct translation?--the emphasis is placed on a descriptive approach: 'what do translations do, how do they circulate in the world and elicit response?"
サイモンが翻訳研究とフェミニスト実践を関連づけている文化的なターンというのもは、重要な展望と基礎的な問題における変更を促進する。「翻訳理論化の心を奪った伝統的な問題を尋ねるかわりに、「どのように、我々は翻訳すればよいのか、正しい翻訳とは何か、強調は描写のアプローチに置き換えられるか」とたずねる。「翻訳とは何をするのか。どのように彼らは世界を循環し、反応を引き出すか」

Referring to the writings of Spivak, Salman Rushdie, and Homi Vhabha, Simon argues for an altered understanding of translation as an activity"which destabilized cultural identities, and becomes the basis for new modes of cultural creation"(135)
スピバク、サルマンラシュディと保美Vhabhaの作品を参照して、サイモンは論じている。活動としての翻訳の変化した理解、文化的なアイデンティティの不安定化のために、サイモンは論争している。そして、文化的想像の新しい様式の基礎となるために論じている。

The model that she proposes is that of Third World literature, whose translation into English discloses imbalances inherent in a willful monolingualism and its corollary of a "flat international translatese" wholly inadequate to the transmission of literary and cultural specificity(142)
彼女が提案するモデルは、英語に翻訳される第三世界文学が、故意の一カ国語主義の点で不公平であり、文化的な特性の伝達にまったく不適当な「一様な国際的翻訳テーゼ」に偏っていることを述べている。

(Spivak makes a similar point when she writes of what happens when "all the literature of the Third World gets translated into a sort of with-it translatese,: so that the literature by a woman in Palestine begins to resemble, in the feel of its prose, something by a man in Taiwan.")
スピヴァクは、彼女が書くときに起こる類似した点を述べている。「第三世界のすべての文学は、一首緒現代的な翻訳テーゼによって翻訳される。パレスチナの女性による文学が、その散文の感触で、台湾で男性によって書かれたものに似てきたように。」

The questions that Simon raises for translation as a feminist practice and the case studies on which she draws illustrate not just what translations do, but also (and more to the point) what they fail to do.

サイモンが、フェミニスト実践として翻訳のために上げる問題は、彼女が描く説明が、ちょうど翻訳が行うことのできないもケーススタディになっている。(そして、もっと大きなポイントとして)例示されている。

Simon also follows Spivak by extending the politics of translation toward a revised pedagogy affecting the recognition of difference within the postcolonial nation as well as the institutional site of this pedagogy in college and/or university curricula.
サイモンも、スピヴァクの後を追っている。大学や大学カリキュラムでポストコロニアルな国のなかで、認知に影響を及ぼしている集成された教育学の法へ、この教育学の組織のサイトと同様に、翻訳の制作を広げることによって。

The logic that links writing, translation, and pedagogy is one of transmission.
ライティングと翻訳と教育学を結ぶ論理は、伝達のうちの1つです

Accordingly, the prospect of making translation integral to the new comparative literature is most evident in cases that illustrate the limits of current models and practices: that is when they disclose what translation does as well as what it does not do.
したがって、翻訳を新しい比較文学に必要にする見通しは、現在のモデルと実行の範囲を例示するケースに、最も明らかとなる。
このことは、彼らが比較ができないことと同様に、翻訳がなしうることを明らかにする。

Simon invokes Christine Brooke-Rose's 1968 novel Between and Eva Hoffman's 1989 essay Lost in translation: A Life in a New Language as recording an economy of difference and loss growing out of new forms of postwar internationalism.
サイモンは、クリスティーンBrooke-Roseの1968の新しいBetweenとエバホフマンの1989のエッセイLostに翻訳を援用すう。
「戦後国際主義の新しい形式からおきている経済損失を記録するものとしての新言語の生活。

Without understanding the pertinernce of Simon's examples, I want to explore how a similar economy of difference and logic of transmission bear on translation faced by Moroccan, Algerian, and Tunisian writers following the formal end of colonization under France in 1962.

サイモンの例の適切さを理解することなく、違いの類似した経済と伝達の論理が1962年にフランスの下で植民地化の形式的終わりの後、モロッコ、アルジェリア、チュニジアの作家に直面する翻訳に関係する方法を、私は調査したい。

I take my cue here especially from Abdelkebir Khativi, Assia Djebar, Abdelwahab Meddev, and otheres whose writings disclose a cultural layering that casts their authors as occupying an "in-between" space between Arabic, French, and other languages.

私は、アブデルケビルKhativi、A・ジェバール、アブドゥル 、ワッハーブMeddevらの著作がアラビア語、フランス語と他の言語の間で「中間的な」スペースを占有しながら、彼らの著者を投げ入れている文化的な階層化を明らかにするキューを出したい。


To bring this layering back to the level of language, I want to explore how the specificity of enunciation and inscription bears on translation in the context of globalization and difference.
言葉遣いのレベルに、この階層化している背景を持ってくるために、私は発音と書名の特性が、他の言語と国際化との文脈のなかで翻訳に関係する方法を調査したい。

It is helpful to start by distinguishing between the phenomenon of the bilingual (which Khaativi often equates with the pluri-lingual) and conventional usage that posits the former therm as fluency in more than one language.
バイリンガル(カーティヴィは、バイリンガルとマルチリンガルを同等視している)の現象と、複数の言語に堪能なことを前提に断言することを区別することから始めることは、訳にたつ。


Differences between the two usages emerge exactly when the assumptions grounding translation as a finite process no longer obtain in a reading practice that recognizes a core of language that resists translation,
実際に二つの用語法のあいだに、違いがある。翻訳に抗する言語の格の認識的読書訓練の中で、もはや広く行われていない用法があるときなど。


Accordingly, the phenomenon of the bi-or pluri-linual discloses an "infraliminal level of writing and thinking that renders the dualistic opposition that has dominated Maghrebi literary production obsolete.
したがって、バイリンガル、あるいはマルチリンガルの現象は、明らかにする。「それを書き思考するインフラリミナルなレベルは、支配されたマグレブ地方の文学的な生産を時代遅れにする二重の反対を生成する。


It recasts translation less as a process leading to transparency in the target language than as a confrontation in which multiple languages and cultures square off against each other and "meet without meaning...without a reconciling osmosis or synthesis."
対象言語の透明性よりも、複数言語と文化が互いに対抗して身構え、そして「意味無しに出会うこと、合成や浸透の調停なしにつながっていくことは、翻訳の作り直しをやりにくくする。


Curiously, a secondary meaning of the french verb traduire, designation the legal phenomenon of bringing someone before a court ("traduire en cours de justice")conveys the adversarial nature of this interaction.

奇妙なことに、フランスの動詞traduireの第二の意味「指定、法廷(「traduireエヌcoursデ正義」)の前に誰かを連れてくる法律現象は、この当事者対抗のインタラクションの性質を運びます。


It heightens the strategic force that Khatibi grants to the bi-langue and phri-langue as a means of disclosing the play of power that always bears on a diglossic condition whose inequality conventional translation all too often glosses over.
カーティビーが二重ラングと多重ラングがいつも意味を明らかにする力として働くことを、diglossicな状態におくことで戦略的な力で高めている。


Retaining the italicized term bi-langue in English likewise contends with the corporeal sense of "bi-tongue" or "forked tongue" apart, at a distinct remove, form standard usage of the English word bilingual.

同様に英語でイタリック体にされた用語、二重ラングを保持することは「二重母語」または、「方言母語話者」の肉体的感覚と戦います、あるいは、英語のいう二重言語の標準駅な用法とは異なった用語として用いる。

For more than thirty years, Khatibi has written decidedly between languages in order to destabilize hierarchies of the colonial period that fixed Arabic language and cultures as inferior to their French equivalents.
30年以上の間、カティービーははっきりと書き続けた。植民地化されている間、フランス語や文化より劣っているように固定されたアラビア語と文化という階層をうち破るために。

In La Memoire tatouee, he write that "at school, with a secular education imposed on my religion, I become a triglot: I read French without being able to speak it, I played wit some fragments of written Arabic, and I spoke the dialect as my everyday language.
La Memoire tatoueeに、彼はそれを書いている。
そして、「学校で非宗教的な教育を私の宗教に押しつけて、私はむりやり3ヶ国学んだ。私は話すこともできないのに、フランス語を読まされた。私はアラビア語のいくつかの断片を書いて遊び、日常的な言語としては、方言を話した。


Where in the midst of this confusion is coherence and continuity?
一貫性と連続性は、この混乱の最中にどこにあるというのか?

A decade later Khatibe transforms this condition bewteen languages and cultures into a critical wedge when he writes.
10年後に、彼が書くとき、Khatibeはこの状態bewteen言語と文化の間の状態に重要なくさびを加えているだろう。

As long as the theory of translation, the hi-langue, and the pluri-langue does not advance, certain North African texts will remain impregnable via formal and functional approaches.
hi-langueと多ラングの翻訳理論が進まない限り、特定の北アフリカのテキストは公的で機能的なアプローチを通して、固まったままになる。

The mother tongue is at work in the foreign language.
母国語は、外国語の中でつかわれる。


Between the one and the other occur a permanent translation and an interchange of infinite recession that is extremely difficult to elucidate...
言語と他言語の間で、永久の翻訳と説明不可能な無限の後退が起こる.


Where does the violence of the text take shape if not in this cross-over, this intersection that is truly irreconcilable.
テキストの暴力が、このクロスオーバー(本当に両立しないこの交差点)とまではいかないが、どこで形をとるだろうか。

p132
As described above, pluri-langue and bi-langue promote a literary production in which the marks and traces of multiple languages resist traditional translation grounded on binary distinctions between source and target languages.
先に述べたように、、複数の言語の跡と跡が源になっている対象言語のバイナリの区別に基づいている伝統的な翻訳に対して、多重ラングと二重ラングは、抵抗する文学的な生産を促進します。


For Samia Mehrez, the pluri-langue asserts the untranslatable as a mark of resistance and subversion:
サミアMehrezのために、多重ラングは、抵抗と転覆の現れとして、翻訳できないものを主張する。


"With this literature, we can no longer merely concern ourselves with conventional notions of linguistic equivalence, or ideas of loss and gain which have long been a consideration in translation theory.
「この文学の中で、我々は単に言語同等の従来の概念、または長く翻訳論の考慮であった損失と利益についての考えに、もはや関心を持つことができるだけではない。


For these texts written by postcolonial bilingual subjects create a language 'in between' and therefore come to occupy a space 'in between.
ポストコロニアルな二カ国語によって書かれるこれらのテキストに、'in between'
を創作し、'in between' な空間をしめるだろう。


The evocation of pluri-langue and bi-langue entails interaction among calligraphies of French and arabic whose incommensurability Khativi transforms from deficiency to advantage--he refers to luck, energy, and his third ear--as a performance of writing equated with the force of enunciation.

多重ラングと二重ラングの喚起は、カーティビーが有効に、不相応を不足から変えるフランス語とarabicのcalligraphiesの間でインタラクションを伴います-彼は運、エネルギーと彼の第3の耳に言及します ― enounciationの力と同等視される文書のパフォーマンスとして。

多ラングと双ラングの喚起はKhativiが有効に不相応を不足から変えるフランス語とアラビア語書道の間で、インタラクションを伴います。-彼は運、エネルギーと彼の第3の耳に言及します ― 発音の力と同等視される文書のパフォーマンスとして。


Of Abdelwahhab Meddeb's Talismano, he writes
アブデルワハド メデブのタリスマノで、彼は書いている。

Here the book is torn, sometimes bursting into pieces.
ここでは本は破られている。ときどき、ばらばらに爆発する。

Something that belongs to the madness of speaking in tongues in a unified writing, inhabits the imagination of those who suffer the inversion of the ordinary relations from one language to another: relations that specify to each language its distinct property, its separete territory, and its resistance to all translation.

統一された文書で話す狂気に属している何か、1つの言語からもう一つの言語まで、まで普通の関係の逆転で苦しむ人々の想像力に場をしめる:各々の言語にその異なった資産、その分離した領域とすべての翻訳に対するその抵抗を指定する関係。

The extraordinary thing worlld be to write so to speak in multiple hands a text that is noting but a perpetual translation.
世界がいわば並列を書き込むことになっているという驚異的なことは、永久の翻訳だけであるテキストを手渡します。

Both passages cited above convey the essential differences of language and culture bearing on North African texts whose impregnability also embodies an otherness that ’Love in Two Languages’ extends to sex and affect.
前述の両方の通路は、言語と文化の本質的な違いを運ぶ。北アフリカのテキストは、たいへんに難しく、『二つの言語の愛』が、セックスと影響まで意味を広げる。

Once again, translation remains a key element of Khatibi's deployment of bi-langue:
再び、翻訳は二重ラングのカティービーの配備の鍵となる要素のままです:

What was translated by this lover?
何が、この恋人によって翻訳されたか?

Reply slowly, it's still going toward an encounter without actually reaching it, and recovering from it in reality.
ゆっくり答えてよう。それはまだ遭遇に向かっている。実際は、それに到達することなく、それから真に立ち直っている。

Nether expectation not return:
予想でもなく、回帰でもない。

maintain the constraint of the undetermined.
未決定のものの制約を維持してほしい。

In thinking of you in other terms, I'll add that a dissymmentric rapture took place:
他の用語であなたのことを考える際に、私は非対称的な歓喜が起こったと付け加える。

I transcribed you in your native tongue as I abducted you from my own, which you didn't recognize.
私が、私自身のものからあなたを誘いこんだので、私はあなたの自国語であなたを写した。そして、それをあなたは認めなかった。



The indispensability of Khatibi's bi-langue for the interpretation of Mahrebi texts is heightened by the affective charge of sexual difference and an otherness that Love in Two Longuuages conveys in its full complexity.

Mahrebiテキストの解釈のための、カティービーの二重ラングの緊要性は、「ふたつの言語の愛」がその完全な複雑さで伝達する性的な違いと他の違いの感情的チャージによって高められます。

This otherness does not, however, lend itself to deployment on the part of the presumably male narrator, a deployment to which an anonymous female referred to throughout the text as "she" seemingly has no access.
この違いは、しかし、部分の上で配置の役に立たない。
おそらく男性のナレーター(「彼女」が表面上アクセスをしなくて、匿名の女性がテキストを通して言及した配置だったとして)。


Jacques Derrida provides an additional take on the phenomenon of bi-langue when he asserts, just before noting that he and Khatibi share a certain "state" as for as language and culture are concerned, that the double postulation.
彼が、言語と文化に関して、彼とカティービーが特定の「州」を共有する点に注意する、ジャックデリダは更なる二重ラングの現象に言及を加える。


We only ever speak on language...(yes,but)
我々は、これまでに言語について話すだけです...(yes,but)

We never only speak only one language....
我々は、1つの言語を話すだけではありません...。

is not only the law of what is called translation but also the law itself as translation.
いわゆる翻訳の法律だけでなく法律そのものも、翻訳としてあります。


Derrida is referring to the linguistic hierarchy imposed on him in his youth by the educational system in colonial Algeria, and this in the context of a cultural complex-distance and persistent proximity
デリダは、植民地のアルジェリアの教育制度と文化的な複雑な距離と持続的な近くの前後関係のこれによって、青年時代に彼に課された言語階層に言及しています







読書のもっとも親密な行為 by スティーブン・アンガー 

2008-07-06 16:00:00 | 日記
Writing in Tongues Thoughts on the Work of Translation
Steven Ungar

p127
The Most Intimate Act of Reading
読書のもっとも親密な行為

Consider this a position paper.
これをポジションペーパー(与えられた資料や課題に関して、自分の考え方や立場を論述するもの)と考えてください。

Translation has remained central to comparative philology as well as to European and North American models of world literature since the early nineteenth century.
、19世紀前半からのヨーロッパと北アメリカの世界文学モデルと同様に、翻訳は比較言語学にとって中心課題として存在し続けてきた。

Yet the centrality of translation within literary studies is at odds with the fact that it often remains under-analyzed and under-theorized.
文学研究の範囲で翻訳の中心的地位は、しばしば過小分析、過小理論のままであるという事実に関し争われている。

Rather than simply bemoan this condition, I want in what follows to consider how issues surrounding practices of an emergent field of translation studies over the past twenty-five years has contributed to the evolving discipine, discourse, and institutions of comparative literature.
この状態をただ嘆いているよりも、むしろ、私は、25年間に、談話研究、そして比較文学研究の学科が、翻訳研究の分野を取り囲んで表れている実際のことがらに、どれほど問題を進化させることに貢献したかについて、このあと考察していきたい。

To put an edge on this consideration, I want to state from the start that what draws me to translation is less a matter of what it is, and how to do it, than what it could and should be doing.
この考察を縁におき、私を多かれ少なかれ翻訳に引きつけるものが何であるか、そして、いかにして翻訳をなしうるのか、何をすべきなのか、ということを最初に考察したい。

No poetics of translation, then, without its concomitant politics and ethics.
翻訳の詩学はそれに付随する政治学と倫理無しにはあり得ない

No better place to start, writes Haun Saussy concerning literature in translation, where nothing of the work may survive of the process but the subject matter.
   論を開始するよりよい場所について、ホーン・ソーシーは文学の翻訳に関わっては書いておらず、この仕事は、主題以外のプロセスは、生き残らないかもしれない。

The assertion occurs about a third of the way into his introduction to the current ACLA report, during a brief overview of world literature.
世界文学の概要概述の間、諸説は、現行のACLA報告へ紹介の中、三番目の方法について生起する。
p128
It precedes a reference to thematic reading as a constant pedagogical temptation and examples of Kafka and the Kafkaesque borrowed from David Damrosch in order to illustrate that what works for world literature may not work for close comparative study.

それは、安定した教育学的誘惑として主題の読書への言及に先行する。そして例をあげるならカフカとカフカ作品は、世界文学緻密な比較研究のために働家内かもしれないと言うことの説明のために、はダヴィッド・ダムロッシュの論を借りている。

Here is Saussy's sentence in full:
Saussyの文は、完全にここにある。

But for literature in translation, where nothing of the work may survive the process but the subject matter, there is no better place to start.
しかし、翻訳文学のために、プロセスを生き残る作品は何もなく、主題のほか、そこには出発するためのよりよい場所はない。

what strikes me first in this assertion is how vocabulary and grammar set the second of two dependent clauses apart from the independent clause that completes the sentence.
この所論において、最初に私を打ちあたったことは、文を完成する節が独立してふたつ離れている節と離れて独立している第二の節のふたつについて、語彙と文法をどのようにセットするか、ということだった。

That second clause jumps out at me, granbing my attention on the order of what Barthes theorizes in Camera Lucida as the punctum.
その第二節は、点としてのカメラ・ルチダのなかにあるバルトの理論の秩序の上に私をはずませ、私の注意をひいた。

I am likewise drawn to the terms work, and process, survival, and subject matter, whose convergence discloses a judgment--implied, indirect, and rapid--concerning the process of translation.
同様に、私は用語の策定に引きつけられた。そして、プロセスや生き残ることや主題、それらの収束が、間接表現、含意、判断を明らかにすること、そして翻訳のプロセスに関わることに急速に引きつけられた。

As used here, the terms work and survive allude to what translation adds to or detracts from a verbal entity whose designation as work connotes an assumption of aesthetic value that presumably warrants survival.
ここで使われるように、「作品」「残存」などの用語は、翻訳が付け加えること、その その残存が正当かする美的価値の仮定としての指定するまた言語の実体からそらされることに触れていく。

To state the point somewhat differently, I propose that what the clause refers to in terms of process and work is graunded on assumptions of value ascribed in a positive way to the literary work of art at the cost of the specific activity of translation.
  幾分ことなる点を述べるために、私は、節がプロセスと作品という用語が仮定の勝ちに基づいていることを主張する。この価値とはポジティブな方法に帰する文学作品の特定の活動を犠牲にしている価値である。

For I continue to see the literary work first of all as a at textual entity (post-1969s Barthes again) whose minimal units of meaning can be analyzed at a level of detail for which aesthetic values such as literariness are secondary,
私は、まず第一に、(1969年以後のバルトを再び持ち出すが、)原文の実体として文芸作品を見続けていく。その実体とは、意味の最小単位が、デテールのレベルで分析しうるという実体。そのデテールは、そのような文学性のようなものは二次的なものとして、美的価値をもつデテールのことである。

The term process likewise also fails to account adequately for the work of the translation.
プロセスという用語も同様に翻訳作品を十分に説明することはできない。

It is this work--travail rather than oeuvre, Arbait (or even Werk) rather than Kunstwerk--for which I want to be an advocate and for which Sassy's remarks provide an apt point of departure.
この仕事は、全作品というよりトラヴァーユ、アルバイト、(または制作とさえ)むしろクンストヴェルク、そのために、私は主唱者でありたいと思い、そのためには、ソーシーの論述は、出発のために適切なポイントを提供する。

Finally, I admit to a degree of doubt concerning Saussy's contention that the process of translation fails to affect the subject matter that it purportedly conveys.
最終的に、私は、ソーシーの主張に関してある程度の疑義を認める。翻訳のプロセスは、それが意味し伝える主題に、影響を及ぼすことができないというソーシーの主張に対してである。

To the contrary, elements of inscription that I take as essential to the work of translation inevitably, bear on the nature of a communication as a process that is never derect or transparent.
反対に、私が翻訳の仕事にとって本質的なものとみなす題名の要素は、決して直接ではなく透明でもない翻訳のプロセスとしてのコミュニケーションの性質に関係する

For the record, I mean to speak--actually write--here less as a theorist of translation than as chair of the University of Iowa's Department of Cinema and Comparative Literature, in which former colleagues Stavros Dligiorgis, Gayatri Spivak, Fred Will and Daniel Weissvort were among the first to teach literary translation in the Uited States nearly forty years ago.

  記録として話しておこう。私が実際ここで書くことは、翻訳理論家としてであって、アイオワ大学映画学部と比較文学部に職をもつものとしてではない。アイオワ大学は、前の同僚たち、スタブロス・ディギオルギス、ガヤトリ・スピヴァク、そして フレッド・ウィル、ダニエル・ヴァイスヴォルトたちが、ほぼ40年前の合衆国で最初に文学的な翻訳を教えた学部だった。

In fact, all of us who study and teach language and literature are comparatists--and even professional foreigners of sorts, in deed if not always by title.
実際、言語と文学を教え研究する者として我々すべての者は、比較言語学者である。そして、お粗末な外国語職業人でさえも、じっさいのところ、肩書きによらないばあいであっても。

George Steiner, for one, has long been an eloquent advocate for a model of comparative literature centered in the eventuality and defeats of translation under the sway of what he calls the multiplicity of languages after Babel:
ジョージ・スタイナーは、個人としては、長く彼がバベル後の言語の多様性ということの支配の下で、翻訳の可能性と敗北に集中する比較文学のモデルの雄弁な援護者であった。
p129
Every facet of translation--its history, its lexical and grammatical means, the differences of approach that extend from the word-by-word interlinear to the freest imitation or metamorphic adaptation--is absolutely pivotal to the comparatist,,,
すべての翻訳の側面、翻訳の歴史、語彙表、そして文法手段、一語一語の逐語訳から、もっとも自由なイミテーションまたは変形適合まで拡張されたアプローチ差異まで、絶対的に比較言語学者には重要だ。




It is, furthermore, a close hearing of the failures or incompletions of even the finest of translations which, more than any other means of access, helps to throw light on the genius loci as it were, in any language.
どのような言語であっても、さらに、どのような他のアクセスの手段でもそれ以上に良質の翻訳も、不完全または失敗の緻密な聞き取りも、その通りとしての才能の輝く場所に光を投じるのを助けた。

Labor as we may, bread will never wholly translate pain.
我々がそうである労働者は、パンをまったくの痛み無くして決して完全な翻訳にしない。

What, in English, french or Italian is Heimat?
なんと、英語では、フランス語またイタリア語ではHaimatであると?


Steiner's remarks point to the conundrums surrounding translation as an activity engaged with language as the material expression of cultural difference.
  スタイナーの言説は、翻訳を囲んでいる難問を示している。活動が文化的な差異の具体的な表現力として言語とかみ合った翻訳についての難問。

The terms failure and incompletion imply the persistennce of a model of translation whose virtures would entail precisely overcoming failure and incompletion.
用語の失敗と不完全は、力天使が性格に失敗と不完全を克服することを伴う翻訳のモデルの持続を意味する。

Accordingly, a successful and complete translation would presumably be one that succeeded in excluding any and all alternatives.
したがって、成功した完全な翻訳は、おそらく、なんでもすべての選択肢を除外することに成功した翻訳なのだ。

Yet the criteria of such completion would, I believe, be of less interest to Steiner than what a close hearing of translation's failures and incompletions might disclose concerning the nature of cultural difference, whose interpretation Steiner identifies elsewhere as the never-ending task of the translator.
それでもたしかそのような完成の基準は、私は信じているのだが、少なくともスタイナー
にとって、興味深い。緻密な翻訳の聞き取りの失敗と、不完全さが文化的差異の性質の関わりに関して、翻訳の決して終わりのない課題として他のどこかでスタイナーが確認するところの文化差異。

文学理論を振り返る by リチャード・ローティ

2008-07-04 07:00:00 | 日記
Looking Back at Literary Theory 文学理論を振り返る
Richard Rorty

p63
 1970年代に、アメリカ文学部の教師たちは、デリダとフーコーを読み始めた。文学理論と呼ばれている新しい学問分野の下位区分が形成された。有益に理論化されうる文学テキストの概念が、文学教授たちが彼らの好きな哲学書を教えるのを簡単にすることを助け、文学専攻学生が哲学トピックによって論文を執筆するのを簡単にした。文学理論は、また、文学でよりむしろ哲学学科のために、文学学部での仕事を創出するのを助けた。

 私がプリンストン大学の哲学教授からバージニア大学の人文科学の教授に異動することは、この文学理論の進展を利用したものである。のちに、私は比較文学の教授として、スタンフォードに行った。肩書きの変更と、同僚の変化は、私の提示する内容を変更することにはならなかった。私が提示していたこととは、ストレートな哲学コース、ヴィトゲンシュタインやダビッドソン、そしてときにハイデッカーやデリダのような非分析的哲学者を扱っていたことである。彼らは、私が書くことに影響を及ぼさなかった。私は、たとえ私がプリンストンにとどまったとしても、ヴァージニア大学とスタンフォード大学に向かって書いた大部分の本の記事を書いた。

 しかしながら年を経て、私は上昇流というより、弱まっていく流れに乗っていたのだと理解してきた。文学理論(それにとって、私は、自分自身が貢献者といわれるのに気づくと困惑したものであるが)は、徐々になじんでいった。
文学部の人々は、すべての果実ジュースがニーチェ、ハイデッガー、デリダの知的伝統から絞り出されてきたと思い始めている。
フーコーはデリダの後を引き継いだ。すべての文学専攻学生が知っておくべきひとりの哲学者として、デリダのあとを引き継いだ。カルチュラルスタディ(文化研究)は、文学理論を脇に押しやった。この事実は、文学部の中の理論は、哲学教師のために使えることがより少ないということを意味する。プラトン、カント、ニーチェ、ハイデッガーについて、多くを知ることなく、デリダを理解することができない人でも、哲学的バックグラウンドなしにフーコーを理解することができる。

 私は、哲学がアメリカの文学部で短い間でも流行したという事実を利用できたことをうれしく思うが、しかし、この流行はファッション以上のものではなかった。
p64
文学研究者が哲学書を読むべきだという説得力ある理由は、存在しない。文学研究者が哲学について何かを知っていることは良いことだ、というのは確かなことだ。また、文学研究者が他のたくさんのことがら、たとえば、人類学や精神分析や宗教について知ることもまた、よいことだ。文学研究者は、理想的には、いくつかの異なるジャンルの文学を読むべきだろう。文学研究者は、いくつかの異なる言語をよく知っていなければならない。また、文学研究者は、社会政治史は現在の政治問題の十分な知識を確実にすべきだろう。

 しかし、研究者がすべての分野を研究することはできない。多くの第一級の文芸批評は、一カ国語のみ話す人々、また大量の小説を読むがほとんど詩を読まない人、政治に関心が無い人、哲学的な教養のない人、また、歴史的出来事へのセンスがほとんどない人の手によって書かれてきた。よい批評には、人が読んできた本のあるものをはずませる内容がある。読んできた大量の本、そして、さらに多様な内容について、より以上の興味を深めテイクのが批評である。しかし、優先順位の自然な順位がなく、最初に読むべき本について決定するための案内となる方法論的な指針のセットがない。自分の嗅覚に従うことがすべてである。人が文学批評をよりよく行うようになるために、特別な種類の本とか特別な哲学本を読む必要はない。

 ポストニーチェ哲学の信奉者やヨーロッパの哲学は、哲学よりむしろ文学部を通して英語話者世界の大学に入って行ったことは、弁証法的な必要からでなく、むしろ歴史的な事故といえる。それらの学部がデリダとフーコーの本のための入港の場として間に合った主な理由は、彼らの誰でも1970年代までに、新批評のマルクス主義批判そしてフロイト批判でひどく退屈していたという理由があったからだ。フレデリック・クリューズの「困惑するクマのプーさん」を読む大学院生は、クリューズがパロディ化した本の記憶を離れたものは何も書かないと決意したものだ。新しいグル(導き手)がどうしても必要となった。

 『グラマトロジー』と『言葉と物』は、まさに時を置かず英語に翻訳された。この翻訳は、まったく適切なものであった。デリダとフーコーはただ輝けるオリジナルな思想家としてだけでなく、英語使用の文学部の中で誰も知らなかった知的世界からやってきた思想家であった。(ボールドマンとジョージ スタイナーのようなヨーロッパからの亡命者を除いて)誰もデリダやフーコーについて知らなかった。デリダやフーコーの本を読むことは、人々に新しい地平が開かれるという感覚を与えた。大学院において、分析哲学のコースに退屈し当惑していた文学専攻の大学院生たちは、突然、知的な世界が向こうにあることを発見した。彼らの哲学教授が決して今まで話したことのない世界があることを。その世界を調査することは、大きな楽しみだった。

 デリダとフーコーにより(そして、ほぼ同時に発見されたニーチェとハイデッガーによって)文学部で発生する興奮は、これらの本が提供していた文学の性質についての新しい理論によるものではなかった。しかし、不運な用語としての「文学理論」は、ある不幸な大学院生たちを錯誤させ、彼らが理論をテキストに適切に適用することによって価値ある論文または本を書くことができたと思わせた。
p65
この信念は、驚くほど退屈な、かろうじて読むに耐える大量の記事と本を生み出した。幸いにも、テキスト解体は今やキリストの形やヴァギナのシンボルを見つけるの同じくらい時代遅れになっている。クリューの『ポストモダンのプー(2003)』は、『プーパープレックス(1965)』がそうであったように、うまくいけばこの時代の終わりの予兆をマークするものとなるだろう。

 マルクスとフロイトがそうであったのと同じく、デリダとフーコーは、誤用されたとしても簡単に生き残ることが出来る輝けるオリジナルな思想家である。彼らの本は哲学聖典の一部になるだろう。文学理論をマスターすることによって文学テクストについていかにうまく書き表すかを学ぶことができたという不運な考えは、徐々にすたれていった。法理論が法律実践のために存在するのと同じく、文学理論は文芸批評の実践のための随意の存在と見なされるだろう。

類似を考慮してみよう。ある数学の分野は、数学学部よりもむしろ哲学学部で、「記号論理学」という名のもとに、典型的に教えられている。これもまたひとつの偶発の歴史なのだ。1930年代の哲学専攻の英語圏学生が、リアリズム対理想主義、プラグマティズム対合理主義、そして、さまざまなそれらの間の不毛な論争。ラッセルとカルナップが発表したように、記号論理学は哲学を再び活発で興味深くしそうだった。まもなく、そうなった。しかし、1950年代半ばにヴィトゲンシュタインの『哲学探究』が出版されることによって、記号論理学は、鈍くさい時代遅れになった。

しかしながら今でも、ほどんどのアメリカの哲学学部で、博士号を取る前には、(論理学の)ゲーデルの結論について何事かを知っておく必要がある。(たとえ、キルケゴールとれびなすの関係の論文を書く予定であるとしても)これは、単にカリキュラムの惰性の問題である。同じような惰性は、確実に残るだろう。2050年の比較文学部で、博士号資格審査に関する理論セクションに、まだ存在しているであろう。多くの未来の学生たちには喜ばしいことである。彼らが理論コースを選択したまさしくそのとき、哲学専攻学生は、現在記号論理学の必修コースに要求されている多くのことをはずすことができる。残りは、もうひとつの不可解なカリキュラムのハードルを乗り越えるためにベストをつくすだろう。このハードルとは、20世紀のある地点に立てられたものであり、21世紀のある地点で解体されるであろうハードルだ。

 私がそのように見なしていることではあるが、比較文学部と哲学学部双方とも、学生がどんな種類の本を好んで読むのかということについて、豊富な提案を受け入れる場所で無ければならないし、彼らの嗅覚に従うままにしておくことが必要だ。これらの学部のメンバーは、彼らの規律の性質について心配すべきでないし、どんな特徴が作られるかについても心配しなくてよい。彼らは、集合論で定理を証明するとか、ハイデッガーとレビナスの間の意見の相違について判断を下すことが、本当に哲学をしていることとされるかどうかを心配する必要はない。真の比較言語学者としてあるために、少なくともひとつの非ヨーロッパ言語を、いくつかのヨーロッパ言語と同じくらいに知っている必要があるのかどうかについて、詮索される必要もない。
p66
専攻分野を構成する確実に準備されたものについて、気にしすぎては行
いけない。知的な好奇心をもつ学生を見いだすことと、大学院での研究を認めてやり、そのような学生が彼らの好奇心を満足させることを、今手助けするということについて、まさしく心配してやるべきなのだ。

 ホーン・ソーシーは文学性が比較文学の学科にとって主要であると示唆しているが、そのような自由放任主義の態度は、私を懐疑的にさせる。私には、概念上の明快さを探求することが哲学学科にとって主要であるという考え方についても、同じような懐疑がある。分析的哲学者がしばしば主張する、論理の研究とはそのような明快さのためになると思っているところの哲学、ということだが。たとえ、文学性という専門用語をなんらかのことに用いる必要がまったくないとしても、いくつかの異なる言語で書かれた文学的なテキストの間にあきらかに大幅な差異があると私が思っていることに関して、比較文学専攻の学生は研究をなしえることがあるだろう。意味のないマントラとしての概念上の明快さを考慮したあとでなら、あなたは、非常によい哲学論文を書くことができる。大変優れた分析哲学でさえも。

 私は、人間性の核心を確定できる何事かより以上に、大学の学科の中心として同定できうる事がこれまでにあったかと疑っている。ダニエル・デネットが言ったことであるが、それ自身は、語りの重力の中心点として最良のもとと考えられる。自分自身と同じく、大学の学科は、歴史を持っている。しかし実体はない。大学の学科は、たえず自分自身の履歴を書き換えることによって自己像を更新している。いわゆる危機とは、中心的ことがらにとってあきらかに重要でないものと、明らかに外部の闇の中心とを動かす。生物学、人類学と精神医学の重心は、これらの学問が50年前であった地点にはない。現代スコットランドの哲学の重心は、ブラジルの哲学の重心からははるかにかけ離れている。規範的存在としての、アウエルバッハとジラールの後を継いだのがスピヴァクとバーハであり、比較文学部の重心は、かなり移動した。比較文学の中心点が2050年にどこにあるかは、誰にもわからない。

  我々は、大学学科の移り気や流行の転変を喜ぶべきだろう。なぜなら、ただ一つの選択肢となるものは、衰微しているスコラ哲学だからだ。自然科学の危機が、時に粗暴な事実との遭遇によって起こるのに対して、人文科学において、そのような事実はない。
そう、古典、哲学または比較文学のような学科においてのパラダイム変動は、典型的な輝ける因習打破主義的な本に対する反応といえる。『悲劇の誕生byニーチェ』『言語・真実と論理by A.J. Ayer』『哲学的探求by ヴィトゲンシュタイン』『影響の不安by ハロルド・ブルーム』『グラマトロジーby デリダ』『歴史の詩学by H. ホワイト』などの本、、、
このような著作が書かれていく限り、流行の変化は起こりうる。私は常にそのようになるだろうと信用しているのだが。

   これらのパラダイム変動を引き起こす著作は、学科内の人がそれらの著作を翻訳する以上に、時々他の学科のメンバーによって書かれる。そして、学科Aが学科Bと学際的に協力することを必要とするということは、熱心な読者の結論のために魅力的である。
しかし、少なくとも人文科学において、学科全体の考えは、まだかなり疑わしい段階で、それは、学際性といわれる。
p67
例をあげるなら、分析研究と非分析的哲学の間の違いは、少なくとも、「おべんきょうすること」と「比較文学研究」の間の違いくらいに大きい。アウエルバッハとスピヴァクとのあいだは、ハイデッガーとカルナップの間の大きな差異くらいに違う。二つの種類のうちどの組み合わせでも両方のメンバーの著作を読むことで利益を得ることができるなら、だれであれ合理的にそうなるように頼むことができるのと同じく、あなた方はすでに学際的存在だ。

   50年時代を下った後、スピヴァクとともに書かれる比較文学の学科の性格の報告を思い浮かべてみると、現在ウェレクとともに書かれる比較文学を想像してみるのと同じくらい、風変わりに聞こえるだろう。もし、そうしないなら、スピヴァクに伴う何か悪しきものがあるという理由ではなく、何か悪いものの推移があるというのではない。そうではなくて、健全な人文学科が、かって1世代か2世代よりもっと多いなにものかとしてみなされている、ということだ。

リチャード・ローティ『文学理論を振り返って』

2008-07-03 20:52:00 | 日記
Looking Back at Literary Theory 文学理論を振り返る
Richard Rorty

p63
In the 1970s teachers in American literature department began reading Derrida and Foucault.
1970年代には、アメリカ文学部の先生は、デリダとフーコーを読み始めた。

A new subdiscipline called literary theory took shape.
文学的な理論と呼ばれている新しい学問分野の下位区分は、形になりました

The notion that a literary text could profitably be theorized helped make it easy for literature professors to teach their favorite philosophy books and for literature students to write their dissertations on philosophical topics.
有益に理論化されうる文学テキストの概念が、文学教授たちが彼らの好きな哲学書を教えるのを簡単にすることを助け、文学専攻学生が哲学トピックによって論文を執筆するのを簡単にした。

It also helped create jpbs in literature departments for people who had been trained in philosophy rather than in literature.
文学理論は、また、文学でよりむしろ哲学で訓練された人々のために、文学学部での仕事を創出するのを助けた。

It took advantage of this development to move from being Professor of Philosophy at Princeton to being University Professor of Humanities at the University of Virginia..
プリンストン大学の哲学教授からバージニア大学の人文科学の教授に異動することは、この文学理論の進展を利用したものである。

Later I went to Stanford as Professor of Comparative Literature.
のちに、私は比較文学の教授として、スタンフォードに行った。

These changes of title and of colleagues did not alter the content of my offerings which were just straight philosophy courses--sometimes on analytic philosophers like Wittgenstein and Davidson, and sometimes on non-analytic philosophers like Heidegger and Derrida..
肩書きの変更と、同僚の変化は、私の提示する内容を変更することはなかった。私が提示していたこととは、ストレートな哲学コース、ヴィトゲンシュタインやダビッドソン、そしてときにハイデッカーやデリダのような非分析的哲学者を扱っていたことである。

Nor did hey affect what I wrote.
彼らは、私が書くことに影響を及ぼさなかった。

I would have written most of the books and articles that I wrote at Virginia and Stanford even if I had stayed on at Princeton.
私は、たとえ私がプリンストンにとどまったとしても、ヴァージニア大学とスタンフォード大学に向かって書いた大部分の本の記事を書いた。

As the years have gone by, however, I have come to realize that I was riding an ebbing tide rather than a rising wave.
しかしながら年を経て、私は上昇流というより、弱まっていく流れに乗っていたのだと理解してきた。

Literary theory (to which I have been bemused to find myself described as a contributor)has gradually become old had.
文学理論(それにとって、私は、自分自身が貢献者といわれるのに気づくと困惑したものであるが)は、徐々になじんでいった。

People in literature departments are beginning to suspect that all the juice has been milked out of the Nietzsche-Heidegger-Derrida intellectual tradition.
文学部の人々は、すべての果実ジュースがニーチェ、ハイデッガー、デリダの知的伝統から絞り出されてきたと思い始めている。

Foucault has replaced Derrida as the one philosopher about whom every student of literature has to know something.
フーコーはデリダの後を引き継いだ。すべての文学専攻学生が知っておくべきひとりの哲学者として、デリダのあとを引き継いだ。

Cultural studies has shoved literary theory aside.
カルチュラルスタディ(文化研究)は、文学理論を脇に押しやった。

This means that there is less use for philosophy teachers in literature departments; although you cannot understand Derrida very well without knowing quite a lot about Plato, Kant, Nietzsche , and Heidegger, you can understand Foucault without much philosophical background.
この事実は、文学学部の中の理論は、哲学教師のために使えることがより少ないということを意味する。プラトン、カント、ニーチェ、ハイデッガーについて、多くを知ることなく、デリダを理解することができない人でも、哲学的バックグラウンドなしにフーコーを理解することができる。

I am glad that I was able to take advantage of the fact that philosophy was briefly in fashion in American literature departments, but it was never more than a fashion.
私は、哲学がアメリカの文学部で短い間でも流行したという事実を利用できたことをうれしく思うが、しかし、この流行はファッション以上のものではなかった。
p64
There is no compelling reason why students of literature should read philosophy book.
文学研究者が哲学書を読むべきだという説得力ある理由は存在しない。

It is to be sure, a good thing for students of literature to know something about philosophy.
文学研究者が哲学について何かを知っていることは良いことだ、というのは確かなことだ。

But it is also good for them to know about lots of other things-- antropology psychoanalysis, and religion, for example.
また、文学研究者が他のたくさんのことがら、たとえば、人類学や精神分析や宗教について知ることもまた、よいことだ。

They should ideally, read in several diefferent literary genres.
文学研究者は、理想的には、いくつかの異なるジャンルの文学を読むべきだろう。

They should know several different languages well.
文学研究者は、いくつかの異なる言語をよく知っていなければならない。

They would certainly profit from a good understanding of sociopolitical history and of current political issues.
また、文学研究者は、社会政治史は現在の政治問題の十分な知識を確実にすべきだろう。

But they cannot do everything .
しかし、研究者がすべての分野を研究することはできない。

Lots of first-rate literary criticism has been written by people who are monolingual, or who read lots of novels but almost no poems, or who have no political concerns, or who are philosophically illiterate, or who have little sense of what happened in history.

多くの第一級の文芸批評は、一カ国語のみ話す人々、また大量の小説を読むがほとんど詩を読まない人、政治に関心が無い人、哲学的な教養のない人、また、歴史的出来事へのセンスがほとんどない人の手によって書かれてきた。

Good criticism is a matter of bouncing some of the books you have read.
よい批評には、人が読んできた本のあるものをはずませる内容がある。

The greater number of books you have read, and the more various they are, the likelier it is that the criticism you write will be of interest.
読んできた大量の本、そして、さらに多様な内容について、より以上の興味を深めテイクのが批評である。

But there is no natural order of priority, nor is there any set of methodological precepts, that should guide your decisions about which books to read first.
しかし、優先順位の自然な順位がなく、最初に読むべき本について決定するための案内となる方法論的な指針のセットがない。

All you can do is follow your nose.
自分の嗅覚に従うことがすべてである。

There is nothing special about philosophy books, or any other sort of book, such that reading them is likely to make you a better literary critic.
人が文学批評をよりよく行うようになるために、特別な種類の本とか特別な哲学本を読む必要はない。

It was not a dialectical necessity, but rather a historical accident, that post-Nietzschean European philosophy entered the universities of the English-speaking world through literature departments rather than philosophy departments.
ポストニーチェ哲学の信奉者やヨーロッパの哲学は、哲学よりむしろ文学部を通して英語話者世界の大学に入って行ったことは、弁証法的な必要からでなく、むしろ歴史的な事故といえる。

The main reason those departments served as ports of entry for the books of Derrida and Foucault was that everybody in them had become, by 1970s, bored stiff with new Criticism, with Marxist criticism, and with Freudian criticism.
それらの学部がデリダとフーコーの本のための入港の場として間に合った主な理由は、彼らの誰でも1970年代までに、新批評のマルクス主義批判そしてフロイト批判でひどく退屈していたという理由があったからだ。

Graduate students who read Frederick Crews's The Pooh Perplex were determined never to write anything remotely reminiscent of the books that Crews had parodied.
フレデリック・クリューズの「困惑するクマのプーさん」を読む大学院生は、クリューズがパロディ化した本の記憶を離れたものは何も書かないと決意したものだ。

New gurus were desperately needed.
新しいグル(導き手)がどうしても必要となった。

De la Grammatologie and Les Mots et les Choses were translated into English at exactly the right time.
『グラマトロジー』と『言葉と物』は、まさに時を置かず英語に翻訳された。

They hit the spot.
この翻訳は、まったく適切なものであった。

Derrida and Foucault were not only brilliantly original thinkers, but they came out of an intellectual world that nobody in Anglophone literature departments (except for European emigres like Paul de Man and Georg Steine) know much about.)
デリダとフーコーはただ輝けるオリジナルな思想家としてだけでなく、英語使用の文学部の中で誰も知らなかった知的世界からやってきた思想家であった。(ボールドマンとジョージ スタイナーのようなヨーロッパからの亡命者を除いて)誰もデリダやフーコーについて知らなかった。

Reading their books gave people a sense that new horizons were opening.
デリダやフーコーの本を読むことは、人々に新しい地平が開かれるという感覚を与えた。

Graduate students of literature who had, as undergraduates, been bored or baffled by courses in analytic philosophy suddenly discovered that there was an intellectual world out there that their philosophy professors had never told them about.
大学院において、分析哲学のコースに退屈し当惑していた文学専攻の大学院生たちは、突然、知的な世界が向こうにあることを発見した。彼らの哲学教授が決して今まで話したことのない世界があることを。

Exploring that world was great fun.
その世界を調査することは、大きな楽しみだった。

The excitement generated in literature departments by Derrida and Foucault (and by Nietzsche and Heidegger, who were discovered more or less simultaneously) was not due to these books having offered a new theory about the nature of literature.

デリダとフーコーにより(そして、ほぼ同時に発見されたニーチェとハイデッガーによって)文学部で発生する興奮は、これらの本が提供していた文学の性質についての新しい理論に夜物ではなかった。

But the unhappy term literary theory decieved some hapless graduate students into thinking that they could write a worthwhile article or book just by applying theory to a text.
しかし、不運な用語としての「文学理論」は、ある不幸な大学院生たちを錯誤させ、彼らが理論をテキストに適切に適用することによって価値ある論文または本を書くことができたと思わせた。

p65
This belief generated a great mass of barely readable, amazingly boring, articles and books.
この信念は、驚くほど退屈な、かろうじて読むに耐える大量の記事と本を生み出した。

Fortunately, deconstructing texts is now as obsolete as spotting Christ-figures or vagina-symbols.
幸いにも、テキスト解体は今やキリストの形やヴァギナのシンボルを見つけるの同じくらい時代遅れになっている。

Crews's Postmodern Pooh (2003) will, with any luck, mark the beginning of the end of this epoch, just as The Pooh Perplex (1965) did of an earlier one.
クリューの『ポストモダンのプー(2003)』は、『プーパープレックス(1965)』がそうであったように、うまくいけばこの時代の終わりの予兆をマークするものとなるだろう。

Derrida and Foucalt are brilliantly original thinkers who can easily survive misuse, just as Marx and Freud have.
マルクスとフロイトがそうであったのと同じく、デリダとフーコーは、誤用されたとしても簡単に生き残ることが出来る輝けるオリジナルな思想家である。

Their books will become part of the philosophical canon.
彼らの本は哲学聖典の一部になるだろう。

In coming decades, students of literature with a taste for philosophy will still be reading them.
来るべき数十年には、哲学傾向の文学の学徒は、まだそれらを読んでいるだろう。

But the unfortunate idea that you could learn how to write well about a literary text by mastering a theory will gradually die out.
文学理論をマスターすることによって文学テクストについていかにうまく書き表すかを学ぶことができたという不運な考えは、徐々にすたれていった。

Literary theory will be seen to be as optional for the practice off literary criticism as legal theory is for the practice of law.
法理論が法律実践のために存在するのと同じく、文学理論は文芸批評の実践のための随意の存在と見なされるだろう。

Consider an analogy: A certain branch of mathematics is typically taught, under the sobriquet of symbolic logic, in philosophy departments rather than mathematics departments.
類似を考慮してみよう。ある数学の分野は、数学学部よりもむしろ哲学学部で、「記号論理学」という名のもとに、典型的に教えられている。

This too is an accident of history, having a lot to do with the fact that Anglophone students of philosophy in the 1930s were bored silly with realism vs.- idealism, pragmatism-vs- rationalism and various there drearty controversies.
これもまたひとつの偶発の歴史なのだ。1930年代の哲学専攻の英語圏学生が、リアリズム対理想主義、プラグマティズム対合理主義、そして、さまざまなそれらの間の不毛な論争。

Symbolic logic, Russell and Carnap announced, was going to make philosophy lively and interesting again.
ラッセルとカルナップが発表したように、記号論理学は哲学を再び活発で興味深くしそうだった。

So it did, for a while.
まもなく、そうなった。

But by the time Wittgenstein's Philosophical Investigations was published, in the mid -1950s, it had become vieux jeu.
しかし、1950年代半ばにヴィトゲンシュタインの『哲学探究』が出版されることによって、記号論理学は、鈍くさい時代遅れになった。

Even now, however, you have to know something about Godel's results before you can get a Ph.D. in most American philosophy departments (even though you plan to write you dissertation on, for example, the relation between Kierkegaard and Levinas).
しかしながら今でも、ほどんどのアメリカの哲学学部で、博士号を取る前には、(論理学の)ゲーデルの結論について何事かを知っておく必要がある。(たとえ、キルケゴールとれびなすの関係の論文を書く予定であるとしても)

This is simply a matter of curricular inertia.
これは、単にカリキュラムの惰性の問題である。

Similar inertia may ensure that there will still be a theory section on the Ph.D. qualifying exams in comparative literature departments in 2050.
同じような惰性は、確実に残るだろう。2050年の比較文学部で、博士号資格審査に関する理論セクションに、まだ存在しているであろう。

類似した惰性は、博士に資格を与えている試験に関する理論セクションが2050年に比較文学学部の中にまだあることを確実とするかもしれません..

Many students in that future time will be very glad they had to take a theory course, just as many philosophy students now get a lot out of the required course in symbolic logic.
多くの未来の学生たちには喜ばしいことである。彼らが理論コースを選択したまさしくそのとき、哲学専攻学生は、現在記号論理学の必修コースに要求されている多くのことをはずすことができる。

The rest will do their best to clamber over one more inexplicable curricular hurdle-- a hurdle that was erected at a certain point in the twentieth centurey and may be dismantled at a certain point in the twenty-first.
残りは、もうひとつの不可解なカリキュラムのハードルを乗り越えるためにベストをつくすだろう。このハードルとは、20世紀のある地点に立てられたものであり、21世紀のある地点で解体されるであろうハードルだ。

As I see it, both comparative literature and philosophy departments should be places in which students receive plenty of suggestions about what sorts of books they might like to read, and are then left free to follow their noses.
私がそのように見なしていることではあるが、比較文学部と哲学学部双方とも、学生がどんな種類の本を好んで読むのかということについて、豊富な提案を受け入れる場所で無ければならないし、彼らの嗅覚に従うままにしておくことが必要だ。

Members of these departments should not worry about the nature of their discipline or about what makes it distinctive.
これらの学部のメンバーは、彼らの規律の性質について心配すべきでないし、どんな特徴が作られるかについても心配しなくてよい。

They should not fret about whether proving a theorem in set theory, or adjudicating the disagreements between Heidegger and Levinas, counts as really doing philosophy.
彼らは、集合論で定理を証明するとか、ハイデッガーとレビナスの間の意見の相違について判断を下すことが、本当に哲学をしていることとされるかどうかを心配する必要はない。

Nor should they speculate about whether to be a true comparativist one needs to know the literature of at least one non-European language as well a few European ones.
真の比較言語学者としてあるために、少なくともひとつの非ヨーロッパ言語を、いくつかのヨーロッパ言語と同じくらいに知っている必要があるのかどうかについて、詮索される必要もない。

p66
They should not fuss about what a sound preparation in their field consists in.
専攻分野を構成する確実に準備されたものについて、気にしすぎては行
いけない。

They should just worry about finding intellectually curious students to admit to graduate study and about now to help such students satisfy their curiosity.
知的な好奇心をもつ学生を見いだすことと、大学院での研究を認めてやり、そのような学生が彼らの好奇心を満足させることを、今手助けするということについて、まさしく心配してやるべきなのだ。

The laissez-faire attitude makes me dubious about Haun Saussy's suggestion that literariness is central to the discipline of comparative literature.
ホーン・ソーシーは文学性が比較文学の学科にとって主要であると示唆しているが、そのような自由放任主義の態度は、私を懐疑的にさせる。

I have the same doubts about this claim as about the idea that the search for conceptual clarity is central to the discipline of philosophy--a claim often made by analytic philosophers who believe that the study of logic conduces to such clarity.
私には、概念上の明快さを探求することが哲学学科にとって主要であるという考え方についても、同じような懐疑がある。分析的哲学者がしばしば主張する、論理の研究とはそのような明快さのためになると思っているところの哲学、ということだが。

You can, I suspect, produce very illuminating comparisons between literary texts written in several different languages even if you have no use whatever for the term literariness.
たとえ、文学性という専門用語をなんらかのことに用いる必要がまったくないとしても、いくつかの異なる言語で書かれた文学的なテキストの間にあきらかに大幅な差異があると私が思っていることに関して、比較文学専攻の学生は研究をなしえることがあるだろう。

You can write very good philosophy--even very good analytic philosophy--after you have come to think of conceptual clarity as a meaningless mantra.
意味のないマントらとしての概念上の明快さを考慮したあとでなら、あなたは、非常によい哲学論文を書くことができる。大変優れた分析哲学でさえも。

I doubt that anything can ever be identified as central to an academic discipline any more than anything can be identified as the core of a human self.
私は、人間性の核心を確定できる何事かより以上に、大学の学科の中心として同定できうる事がこれまでにあったかと疑っている。

A self, Daniel Dennett has said, is best thought of as a center of narrative gravity.
ダニエル・デネットが言ったことであるが、それ自身は、語りの重力の中心点として最良のもとと考えられる。

Like selves, academic disciplines have histories, but no essences.
自分自身と同じく、大学の学科は、歴史を持っている。しかし実体はない。

They constantly update their self-image by rewriting their own histories.
大学の学科は、たえず自分自身の履歴を書き換えることによって自己像を更新している。

So-called crises move the apparently peripheral to the center and the apparently central to outer darkness..
いわゆる危機とは、中心的ことがらにとってあきらかに重要でないものと、明らかに外部の闇の中心とを動かす。

The centers of gravity of biology, anthropology, and psychiatry are not where they were fifty years ago.
生物学、人類学と精神医学の重心は、これらの学問が50年前であった地点にはない。

The center of gravity of contemporary Scottish philosophy is a long way from that of philosophy in Brazil.
現代スコットランドの哲学の重心は、ブラジルの哲学の重心からははるかにかけ離れている。

As Spivak and Bhabha replaced Auerbach and Girard as exemplars, the center of gravity of comparative literature departments moved quite a distance.
規範的存在としての、アウエルバッハとジラールの後を継いだのがスピヴァクとバーハであり、比較文学部の重心は、かなり移動した。

Where that center will be in 2050 is anybodey's guess.
比較文学の中心点が2050年にどこにあるかは、誰にもわからない。

We should rejoice in the mutability and fashion-proneness of academic disciplines, for the only alternative is decadent scholasticism.
  我々は、大学学科の移り気や流行の転変を喜ぶべきだろう。なぜなら、ただ一つの選択肢となるものは、衰微しているスコラ哲学だからだ。

Whereas crises in the natural sciences are sometimes provoked by encounters with brute facts, in the humanities there are no such facts.
自然科学の危機が、時に粗暴な事実との遭遇によって起こるのに対して、人文科学において、そのような事実はない。

So paradigm shifts in disciplines such as classics, philosophy, or comparative literature are, typically, reactions to brilliant iconoclastic books: The Birth of Tragedy; Language, Truth and Logic; Philosophical Investigation; The Anxiety of Influence;Of Grammatology; Metahistory.

そう、古典、哲学または比較文学のような学科においてのパラダイム変動は、典型的な輝ける因習打破主義的な本に対する反応といえる。『悲劇の誕生byニーチェ』『言語・真実と論理by A.J. Ayer』『哲学的探求by ヴィトゲンシュタイン』『影響の不安by ハロルド・ブルーム』『グラマトロジーby デリダ』『歴史の詩学by H. ホワイト』などの本、、、

There will be changes in fashion as long as such books are written--as I trust they always will be.
このような著作が書かれていく限り、流行の変化は起こりうる。私は常にそのようになるだろうと信用しているのだが。

These paradigm-shifting books are sometimes written by people who are members of a different discipline than the one their books help transform.
   これらのパラダイム変動を引き起こす著作は、学科内の人がそれらの著作を翻訳する以上に、時々他の学科のメンバーによって書かれる。

Then it is tempting for enthusiastic readers to conclude that what discipline A needs is more interdisciplinary cooperation with discipline B.
そして、学科Aが学科Bと学際的に協力することを必要とするということは、熱心な読者の結論のために魅力的である。

But in the humanities at least, the whole idea of disciplines is pretty dubious, and so is that of interdisciplinarity.
しかし、少なくとも人文科学において、学科全体の考えは、まだかなり疑わしい段階で、それは、学際性といわれる。

p67
The difference between studying analytic and studying non-analytic philosophy, for example, is at least as great as the difference between studying either and studying comparative literature.
例をあげるなら、分析研究と非分析的哲学の間の違いは、少なくとも、「おべんきょうすること」と「比較文学研究」の間の違いくらいに大きい。

The difference between Auerbach and Spivak is as great as the deference between Heidegger and Carnap.
アウエルバッハとスピヴァクとのあいだは、ハイデッガーとカルナップの間の大きな差異くらいに違う。

If you can profit from reading both members of either pair, you are already about as interdisciplinary as anybody could reasonably ask you to be.
二つの種類のうちどの組み合わせでも両方のメンバーの著作を読むことで利益を得ることができるなら、だれであれ合理的にそうなるように頼むことができるのと同じく、あなた方はすでに学際的存在だ。




Fifty years down the road, accounts of the nature of the discipline of comparative literature written with Spivak in mind will sound as quaint as those written with Wellek in mind do now.
   50年時代を下った後、スピヴァクとともに書かれる比較文学の学科の性格の報告を思い浮かべてみると、現在ウェレクとともに書かれる比較文学を想像してみるのと同じくらい、風変わりに聞こえるだろう。

If they do not then something will have gone wrong--not because there is anything wrong with Spivak, but because no healthy humanistic discipline ever looks the same for more than a generation or two.
もし、そうしないなら、スピヴァクに伴う何か悪しきものがあるという理由ではなく、何か悪いものの推移があるというのではない。そうではなくて、健全な人文学科が、かって1世代か2世代よりもっと多いなにものかとしてみなされている、ということだ