にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ことばを編む2009年1月

2011-04-13 08:14:00 | 社会文化
2009/01/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(1)つぎあて暮らし

 結婚以来の貧乏暮らしを続けてきた春庭。
 うちの娘息子は「ツギあて靴下」を履いて育った、今時めずらしい子どもたちです。保育園や小学校で、靴下のツギあてを悪ガキ連に見つかると「貧乏靴下ビンボー人」と囃されるのでいやだった、と、娘は今になって思い出を語るようになりました。もののない時代ならともかく、バブル真っ盛りの時代にツギあて靴下を履いた子は、たぶん、東京では珍しかったことでしょう。

 大人になって、「ツギあての一針ひと針に母の愛情とせつなさが込められている」とわかるようになって初めて「ビンボー靴下って、はやされてイヤだった」と言えるようになったけれど、子供のころは「こんな風にクラスで馬鹿にされていることを母が知ったら悲しむだろうから、ぜったいに言えない」と、娘は黙っていたのだと思います。
 今の時代なら逆に「モッタイナイ精神にのっとったエコロジー靴下」とでも自慢できたのにね。時代が悪かった。
 もう、子どもたちもふたりとも成人して、靴下にツギを当てる必要もなくなりました。「ツギをあてる」という作業が、好きだったからこそチクチクと針を動かしたのです。

 「ツギあて」という作業を「自分の本来の仕事」として黙々と続けたあるスペインの女性の話を読みました。
 マリア・モリネールにとって、第一の仕事は「息子ふたり娘ひとりの子どもたちのために靴下にツギをあてること」であり、第二の仕事は「図書館司書」でした。その仕事のあいまに、後半生の30年をかけて「スペイン語辞書」を書きあげました。3000ページ二巻の辞書を、ガルシアマルケスは絶賛しています。

 マリア・モリネールについてガルシアマルケスが1981年に書いた文章を、田澤耕さんが翻訳しました。翻訳文は「図書2008年3月号」に掲載されました。
 田澤さんが書いた翻訳をそっくりコピーした文を、「ネット上切り抜き帖」として載せておきます。

 私は読んで「いいなあ」と思った文章を切り抜きしておくのですが、整理整頓ということがまったくできない性格です。きちんとファイルしておかないので、「もう一度読みたい」と思ったときに、どこにその切り抜きがあるのかわからなくなってしまうことがしばしば起きます。これからますますボケが増えていくでしょうから、紙の切り抜きをしまっておくより、ネットに載せて見出しをつけておくほうが、探しやすいとわかりました。

 自分のための「切り抜き」コピーですが、もしマリア・モリネールの一生に興味があったら、読んでみてください。ガルシアマルケスのマリア・モリネールへの敬愛の念が伝わる文章です。
 著作権はガルシアマルケスと田澤耕さんにあるので、商用の引用はできませんが、論評の一部としての引用は可能です。(引用の目安としては、紹介文、論評の文が引用部分より長いこと、という程度で、厳密な規定ではありません)
 次回、ガルシアマルケスの文章を引用します。

<つづく>
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2009年01月27日


ぽかぽか春庭「マリア・モリネールが辞書を編んだ話」
2009/01/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(2)マリア・モリネールが辞書を編んだ話

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G・ガルシアマルケス著
 三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。

 マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。

 マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の資格を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。

 アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかが示めされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書として五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを待つばかりのカードの厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。

 息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく冷静に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎日の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞で見つけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。

 マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
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[訳者注]
 最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
 この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。
(G・Garcia Marquez・作家)

(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo
「図書2008年3月号」より

<つづく>
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2009年01月28日


ぽかぽか春庭「ことばを紡ぐ」
2009/01/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(3)ことばを紡ぐ

 小田康之さんはブログのなかで、スペイン語を専攻した上智での学生時代に「西西辞典」をよく使った、と思い出を書いています。小田さんは、現在サンフランシスコに在住し、英語関連の会社を運営している方です。有名商社で働いたあと、現在は英語を駆使したマーケティングやコンサルタントの仕事で活躍しています。小田さんはブログ中で、マリアの辞書について「マリア・モリネールという女性が編纂した少々ヒステリックな大型辞典」と評しています。

 「ヒステリック」と言いたくなる小田さんの気持ちもなんとなくわかります。子育てを終えた女性が、50代前後(アラウンド50をアラフィと呼ぶのがトレンディとか)から80歳で永眠するまで、来る日も来る日も古今東西の本や新聞雑誌からことばの用例を抜き出す作業を繰り返す。AからZまでようやく終えたとおもっても、また新しい用例が見つかるから、またAへ戻って作業を続ける。

 編み目をほどいてはまた編み続ける編み物のように、一目一目、果てしなく根気よく続ける。このような仕事は、たしかに男性の目から見たら「ヒステリック」に映るのかもしれない。

 小田さんの用語のヒステリックとは、精神医学用語の、解離性障害、身体表現性障害をさすヒステリーではなく、ヒステリーの語源となった「子宮の」つまり「女性特有の」とでも訳すべき、やや蔑視を含んだ意味において使用されていると、私は感じました。

 マリアの編んだ「息苦しいほど厳密なことばの編み目」としての辞書は、女性特有の「抑圧された女の人生の代償としての仕事」に見えるのだろうと、小田さんの「ヒステリックな辞書という見方」を解釈しました。

 でも、編み物や織物が好きな人にとって、このような細かい繰り返しの作業や、編み上がったと思ったのに、模様編みの目に間違いを見つけて、糸をほどいて編み直す、そんな作業はつきものです。編んだものを一度ほどいて編み直し、また根気よく編み続ける。

このような作業で手仕事は成り立っています。キルトやこぎん刺しなどの刺し子、刺繍、女性が主な担い手になってきた糸の仕事は、ほとんどが「同じ事の繰り返し」を丹念に続けていくものです。

 マリア・モリネールは辞書を編纂しました。文字通り、一目一目、辞書を編んでいったのだと思います。編み目模様を間違えたら、糸をほどいて編み直す。その作業がヒステリックなものに見える男性には、一日中絨毯の糸を結びつづけても5mmしか織り上がらず、二日かけてやっと1cmしか進まない絨毯織りとか、ちくちくと布に糸を刺していく刺繍や刺し子などは「女の仕事」としてつまらないものに感じられるでしょうね。

 男は、世界を相手にして駆けめぐり、ダイナミックに活動する仕事を選ぶのだ、と感じている方も多い。選挙戦に勝ち抜いて大統領まで成り上がるとか、イランやアフガンでほんとうに戦争をするとか、営業開拓に走り回って、社内NO.1の成績を勝ち取るとか、、、、

 「女特有の○○」と表現すると、そこにはなんとドメスティックなちまちまとした感覚が浮かび上がってしまうことでしょうか。一日中編んでいっては、編みほぐす。キルトの小布を一枚一枚をつないでいって、配色がうまくいかずに糸をほぐす。

「世界を相手の重要なお仕事」をなさっている男性には、このような作業が「ヒステリック」にうつるのだと思いますが、どのように評されようと、私たちはこのような「ヒステリックな作業」を紡いで、日々をすごしているのです。

<つづく>
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2009年01月29日


ぽかぽか春庭「ことばを縫う」
2009/01/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(4)ことばを縫う

 「つぎあても パッチワークと 言えば粋 (粗忽)」というコメントをもらいました。有難うございます。一目一目大切に編み上げた仕事がマリア・モリネールの辞書なら、私の仕事は、使い古しの布を縫い集めたパッチワーク。古今の日本語で表現された「織物染め物の布地のような言葉の切れ端」を集め、丹念に縫い合わせたキルトのような「日本語言語文化論考」になると思います。さあ、どんなキルト作品にしようかしら。「ヒステリックな論考」と言われるかもしれないけれど、粋に仕上げたいものです。

 私の専門は「日本語言語文化」です。
 教育面では、私立大学では日本人の学部生相手に「現代日本語論」「社会言語論」「日本語教育研究」を講じています。国立大学では留学生教育を担当し、日本語文法や漢字の授業をしています。

 あまりにも幅広い分野を受け持っているので、同僚からは「1週間に5日授業をして、授業の準備は、いつしてるの?」と言われますが、土日、夏休み冬休み春休みをつぶしてやっています。家事は今のところ、お茶碗洗いと洗濯だけになりました。料理やゴミ出しなどを娘と息子が分担するようになりましたので。それでも、自転車操業の毎日。体力勝負の日々です。
 研究面では、修士課程まで日本語文法統語論が中心でしたが、昨年から語彙論や比較文化比較文学も含めて「カルチュラルスタディ=文化研究」の幅広い分野に手を染めています。

 研究結果がどのように帰着するのか自分でも先行き不安ではありますが、論文をまとめる「生みの苦しみ」もまた楽し、といったところ。大学専任教師なら研究も仕事のうちで給与に含まれていますけれど、非常勤講師はいくら研究してもそれは自分の「勝手な趣味」。
 授業ヒトコマこなしてナンボという雀の涙のような講師料で生計をたてながら、博士論文完成へ向けてちくちくと古布を縫い合わせています。

 自分のこのような来し方に「なぜ、こんなに貧乏な暮らししかできない人生だったのだろう」と思うこともあります。でも「こつこつ自分のできることをやりとげる、それでいいじゃないか」と、反省するときもあります。
 反省するときのライフモデルのひとりがマリア・モリネールです。「ことば」をめぐって、「ああ、こんなふうにことばと関わって生きていけたらいいのになあ」と思える女性の一人、スペイン語の辞書を編纂したマリア・モリネールを、ガルシアマルケスの文によって紹介しました。

 マリアの夫はサラマンカ大学の教授でした。図書館司書という職業を持っていたのも、家計を維持するためではなく、「人生には働くことが必要だ」と感じた自分自身のために従事していた仕事でしょう。また、彼女の子どもたちは、長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師になって、マリアは母として、娘息子を立派に自立させたのだと言えます。

 マリアの生活に比べると、我が家、生活状況が違いすぎます。長女長男、どうにも育ち上がらずパラサイトしていますし、夫に収入がないため、ひたすら家計維持のために働いてきた私の労働には、経済的にも時間的にもまったく余裕というものがありませんでした。私とマリア・モリネールとでは、さまざまな条件が異なります。

 それでも、子供の成長後、「子育てのかわりとして自分のためのライフワーク」を持つという点では、マリアの一生をお手本にしたいと思っています。
 マリアはコツコツとスペイン語の用例を集めました。マリアのスペイン語辞書(西西辞典)は、日本のスペイン語学習者、翻訳者にも大いに助けになり、日本語とスペイン語をつなぐ架け橋となりました。

 私も、日本語教育を通じて、日本語と他の母語を話す人の架け橋のひとつになりたいと思っています。そして、日本語言語文化についての思索をコツコツと編み上げ、まとめていきたいと思っています。ひとりで辞書を編纂する根気は私にありませんが、日本語言語文化の真髄について考え続けてことばを縫い合わせていきたいと思っているのです。

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 春庭の「日本語言語文化論考」の論文がどんなパッチワークなのかのぞいてみたいと思う奇特な方がいらしたら、「春庭の論文倉庫」にしまってあるのをのぞき見してくださいませ。
一例として「日本語言語文化における『しろ』」というタイトルの論考は下記に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/diary/d69#comment

春庭論文の「倉庫」ページ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/bbs

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2009年01月30日


ぽかぽか春庭「ことばを織る」
2009/01/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(5)ことばを織る

 私は、これまで数十年間「ことば」に向いあってきました。これから先、これらのことばをうまくまとめていけるかどうかわかりませんが、マリアの生き方を手本として、あと30年は「靴下にツギをあてながら」書き続けていきたいと思っているのです。

 作家、文系研究や教育の仕事を選ぶ男性は、どちらかというと「世界を相手に駆けめぐる」式の人より「こつこつ言葉を紡ぎ上げる」型の方が多いように感じます。たとえば大江健三郎。「男のオバサン」と揶揄されることもあるこの作家が、「言葉を編み上げ、またほどいて編み直す」ことの重要さを語ったことがありました。

 編み物の編み目をほどいてはまた編み続けるように、学んで学びほぐし、教えては教え直す、こんな学び方「アンラーン」について、大江健三郎がコラムを書いています。大江は鶴見俊輔の新聞に載ったコラムに啓発されて同じ新聞に感想を書いたのです。
 鶴見俊輔は「ヘレン・ケラーからアンラーンという言葉を教わった」というコラムを2007年末に書きました。

 私は鶴見と大江のコラムを感銘深く読みました。
 鶴見と大江のコラムの感想を「アンラーンとアンティーチ」と題してについて、「確か、春庭も前に書いたことがあったよな」と思って、どこにあるか探しました。
 紙に書いたのを探したらたぶん、見つからなかったでしょう。整理整頓、下手ですから。でも、ありがたいネット検索。「アンラーン アンティーチ」のアンド検索で出てくるのは自分のサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobachie0611a.htm

 アンラーン、学んで学びほぐす。アンティーチ、教えて教えほどく。こんな編み物の一目ひとめのような学び目を大切にしていきたいと思っています。

 定年の時期に入った同級生はつぎつぎ「楽隠居」「孫のお世話係」を始めているという年齢なのに、私はあと10年は働くつもり。パラサイト娘と息子に寄生されているのでやむをえないことではありますが、仕事の面では「うん、私そこそこがんばってる」と、言えると思います。

 女性が、いろり端で繕い物や編み物をしながら子どもたちに童歌や昔話を語り聞かせたり、生活の技についてのことわざを伝えたりしてきたこと、織物や編み物縫い物を繰り返し繰り返しして続けてきたこと。そんなひとつひとつの手仕事を大事に思っていきたいなあ、と、来し方を振り返っています。
 次回シリーズは、糸の仕事のうち染め物と織物について。次次回シリーズは、女性と伝承について。

<おわり>


覚え直しのカタカナ語2008年3月

2011-04-07 07:16:00 | 日本語学
2009/03/01
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(3)南蛮船の加比丹

 北原白秋の『邪宗門秘曲』には、くらくらするような幻惑蠱惑的な言葉が並ぶ。
 「紅毛の加比丹」や「腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像」、、、、
 この白秋の詩に、「はっきり口に出して朗読してはいけないような」禁忌の熱いことばの響きを聞いたのでした。

 最後の行の「血の磔(はりき)脊に死すとも 惜しからじ 願ふは極秘 かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢」というあたりには、伊藤晴雨の責め絵のような、趣があります。

 あんじゃべいいる、あらきちんた、くるす、はらいそ、えれき、びいどろ、など、現代では使われなくなった外来語を用いることによって、官能的耽美的な世界を表現しています。
 外来語をもっとも効果的に使った詩であると思います。
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「邪宗門秘曲」北原白秋
われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法
黒船の加比丹を 紅毛の不可思議国を 
色赤きびいどろを 匂鋭きあんじやべいいる 
南蛮の浅留縞(さんとめじま)を はた阿刺吉珍[酉它](あらきちんた)の酒を 
目見(まみ)青きドミニカびとは 陀羅尼誦(だらにず)し 夢にも語る  
禁制の宗門神を あるはまた 血に染む聖磔(くるす)
芥子粒を林檎のごとく見すといふの欺罔(けれん)の器 
派羅葦僧(はらいそ)の空をも覗く 伸び縮む奇なる眼鏡を
屋(いへ)はまた石もて造り 大理石(なめいし)の白き血潮は 
ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火点(とも)るといふ
かの美(は)しき越歴機(えれき)の夢は 天鵝絨(びろうど)の薫(くゆり)にまじり
珍らなる月の世界の 鳥獣映像すと聞けり。
あるは聞く 化粧の料(けはいのしろ)は毒草の花よりしぼり 
腐れたる石の油に画(ゑが)くてふ麻利耶の像よ
はた羅甸(らてん)波爾杜瓦爾(ぽるとがる)らの横つづり青なる仮名は
美しき さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる 
いざさらばわれらに賜へ 幻惑の伴天連尊者 
百年を刹那(せつな)に縮め、血の磔(はりき)脊に死すとも 
惜しからじ 願ふは極秘 かの奇(く)しき紅(くれなゐ)の夢
善主麿(ぜんすまろ) 今日を祈(いのり)に身も霊も薫(くゆ)りこがるる
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でうす=天主
びいどろ=ガラス
あんじゃべいいる=カーネーション
さんとめじま=インドのサントメ地方産出の布
あらき=蒸留酒
ちんた=赤葡萄酒
だらに=祈祷文
くるす=十字架
けれんの器=顕微鏡
伸び縮む奇なる眼鏡=望遠鏡
はらいそ=天国
大理石の白き血潮=石油
ぎやまん=ガラス
えれき=電気
腐れたる石の油=油絵の具
ばてれん=神父
ぜんすまろ=イエスキリスト

<つづく>
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2009年03月02日


ぽかぽか春庭「ビルゼンマリア」
2009/03/02
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(4)ビルゼンマリア

 江戸幕府は長崎出島に海外貿易を集中し、貿易利益を独占しました。これは、江戸幕府の経済政策としては、江戸政権の長期化をもたらす効果のあるものでした。
 従来は「鎖国」と見なされていた施策ですが、近年では、「国を閉ざしたのではなく、幕府による海外貿易利益の独占化」と解釈される見方が、小中学校歴史教科書などにも反映されるようになってきました。

 さらに、江戸幕府は、海外と日本との交渉窓口を一本化するために、切支丹勢力を弾圧しました。切支丹が海外のキリスト教勢力と結びつきをもとうとするのを阻むには、切支丹禁令が必然でした。すべての人が寺の檀家の一員として幕藩体制下に組み込まれ、秩序を乱す者のないよう、管理されました。

 信者は隠れ切支丹として長崎島原を中心に信仰を守り続けました。
祈祷書は「オラショ」と呼ばれて密かに暗唱され、マリア像は「観音像」を模して作られました。
 私は、長い間「ビルゼンマリア毘留善麻利耶 」を「マグダラのマリア」と同じような意味だと思って聞いていました。「聖母マリア」と「マグダラのマリア」は別人である。「ビルゼンマリア」も「聖母マリア」とはまた別のマリアさんなのかと思いこんでいたのです。

 「聖母マリア」の「清く正しい」イメージに比べ、「マグダラのマリア」には「改心した聖娼婦」という、負から正への上昇反転が感じられます。マグダラのマリアが改心した娼婦であるとは新約聖書には書いてありません。後世に他のエピソードに出てくる娼婦と混同された結果、マグダラのマリア=元娼婦という伝承ができたのですが、キリスト教神学に詳しくない一般人にとっては、マグダラのマリア=罪を悔いた元娼婦というイメージが流布しています。

 一方「ビルゼンマリア」には、どこか「隠しておくべき秘密のにおい」がするのでした。
 「あわれ気高きビルゼンマリア」とか「清けし汚れなきビルゼンマリア」というようなマリアをたたえる詩の一節だかオラショだかが、ときどきぽっと心のなかに浮かびます。
 でも、ビルゼンの意味について考えたことがありませんでした。
 ビルゼンマリアの「ビルゼン」を枕詞のようなもんだと思って意味を考えたことがなかったのですが、突然、ビルゼンの意味がわかりました。

 「ビルゼン」が英語のバージンvirginにあたるって気づいたのは、「マリアとエリザベスと春庭の共通点」について書いていたとき。
 ビルゼンマリア=処女懐胎のマリア、ビルゼンクイーンエリザベス=処女女王エリザベス一世、ビルゼン春庭=どっかのビルの前に悄然と立つ春庭。
 そうか、「ビルゼン」は「バージン」と同じかあ。くるりとことばが反転し、意味の世界が開ける。
===============

「どちりなきりしたん」より
でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや
其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座(おはし)ます
諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ
御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也
びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや

「さるべ-れじいな」より
深き御柔軟、深き御哀憐、すぐれて甘く御座(おはし)ます びるぜん-まりあかな。
貴(たっと)きでうすの御母(おんはわ)きりしととの御(おん)約束を受け奉る身となる為に、頼み給へ。あめん。
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 「びるぜんまりあ」ということばの響きは、私にとって、どこか異国的な、そしてある種の禁忌を感じさせる言葉でした。「処女マリア」「聖母マリア」というときには感じない、「ひそやかに隠しもつことば」「表にはだせない尊いもの」という響きを聞き取っていたのでした。

 「禁忌のなかにある」ということは、とても魅力的です。もちろん、渦中にある人にとっては、苦しくつらい運命なのかもしれませんが、禁忌を犯すことが日本文学のテーマのひとつでもありました。
 亡き妻の姿を見てはいけないというのに、黄泉の国へ降りていってイザナミを見てしまったイザナギ。清浄であるべき伊勢斉宮内親王恬子(やすこ)と一夜をすごした在原業平、父帝の正妻を盗んだ光源氏、、、、。

<つづく>
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2009年03月03日


ぽかぽか春庭「タブーのウズチュウ」
2009/03/03
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(5)タブーのウズチュー

 禁忌を犯す喜びを味わった渦中の人、こちらはちょっとなあ、という渦中なんですけれど。2009年1月28日の衆院本会議で、中川昭一元財務相は「金融危機の渦中にある」の部分を「うずちゅう」と発音して、さすが漢字苦手タロウさんの盟友と言われました。
 ウズチュウの中川wさん、2月14日、ろれつが回らないほど風邪薬?を大量に飲んだくらい体調が悪かったと弁明しました。体調不良のはずだったにもかかわらず、G7後のもうろう会見をしたあと、元財務相はバチカン博物館へ見学に出かけました。ふらふらと見学を続け、入場禁止柵を乗り越えて「ラオコーン像」に触りまくり、警報機を鳴り響かせました。さぞかし「禁忌」のウズチュウにいる喜びを味わったことでしょう。

 もちろん、禁忌を犯したあとは苦しみと共に生きなければ。元財務相さんも今後はアルコール欠乏の禁断症状渦中でおすごしください。
 ひな祭り。元はといえば、紙雛を水に流して、己にまとわりついた気枯(ケガレ=穢れ)を祓って「気」再生する行事。気を取り戻すことができるかどうか、とりあえずラオコーンを象った紙雛でも流してみましょうか。

 禁忌という翻訳漢語より、タブーという外来語のほうを私たちは気軽に口にします。タブーとは、もともとはポリネシア社会での「強く標づけられた行動」を表すことば、Tabuでした。していいこと、してはいけないことの規範です。英語のTabooになると、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範を表すことばとして、広く用いられるようになりました。
 元財務相が犯したタブーとは、「一国を代表している人物」のふるまいとして人前で見せてはならない姿を「もうろう会見」で見せたことでしょう。G7会見という「ハレ」の場にもうろうとした「ケガレ」で望んだことが「タブー」に触れたのです。
 
 我々庶民は、禁忌というより「金欠」という苦しみの中に生きております。幸い私は金欠症状に免疫ができていて、「買わない生活」が身についていますが、消費依存症だった方々は、禁断症状に苦しんでいるかもしれません。

 車も家電も服も消費が落ち込んで、「売れない売れない」が業界の合い言葉。こんなに不景気といわれているのに、去年一昨年より売り上げが伸びている商品があるという。何がそんなに売れたのかというと、「ひな人形」
 今年のひな人形の総売上額は、昨年より5億円増の570億円が見込まれているそうです。すっご~!あるところにはお金あるんですねぇ。

 なぜ、ひな人形の消費は落ち込まないのか。今一番お金を持っているのは、退職金を手に入れた団塊世代。孫が続々生まれている世代です。「我が子のときは余裕がなくてひな人形を買ってやれなかったし、親からも貰ってないので、せめて孫には上等な雛飾りを」というジジババ。また、「一生懸命生きてきた自分へのご褒美に、昔ほしかった芸術品のような手作りの内裏びなを飾りたいと思って」という女性など、ひな人形業界は不況知らずとか。

 我が家、昔はテレビの上に娘が貰った小さな内裏雛を飾っていたのですが、テレビが薄くなって、雛を飾る場所がなくなった。
 昔、私の父親が「孫に段飾りのひな人形を買ってやりたい」と言ったとき、「段飾りは狭いアパートに飾る場所がないから、現金でください」と、お金と小さな内裏雛だけもらいました。雛はテレビの上に飾り、父に貰ったお金は自分の2度目の大学入学の入学金授業料にしてしまった春庭。
 今年は、手作り大好きの娘が作ったかわいいミニ内裏びながちょこんとゲームソフト収納箱の上にかざってあります。

<つづく>
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2009年03月04日


ぽかぽか春庭「プレカリアート」」
2009/03/04
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(6)プレカリアート

 今でも、「同情するなら金をくれ」と、親戚一同に我が家のビンボー暮らしを伝えているのですが、同情だけされて金はもらえません。
 「銭のためならなんでもやるズラ」と言いたいのだけれど、経済にうとい私は、経済用語というのもなかなか覚えられません。「デファクトスタンダード」とか、「デリバティブ」とか「ミューチュアルファンド」とか、もう、お金がからんでくると、何がなんだか、さっぱりです。

 労働者を表すことば。こちらのほうが、まだ私の中ではわかりやすい。
 ニートは、英語では「Not in Education, Employment or Training」の略語、「Neet」であり、直訳だと「教育を受けておらず、労働をしておらず、職業訓練もしていない」者となる。
 日本で通用している意味は、「若年代無業者」であり、政府見解は、「働いておらず、教育も訓練も受けていない者。働く意欲のある者もいる」となっている。(2005/02/07の尾辻秀久厚労相答弁による)。働く意欲はあるのに、働く場がないほうが、日本の労働市場では深刻な問題です。

 プレカリアートという言葉、私は、雨宮処凛(あまみやかりん)の発言を通じて知りました。プレカリアートは、「ニート」ということばが世に出回った次くらいに聞くようになりました。
 英語precariousは、不安定な、他者まかせの、人頼みの、根拠のあやふやな、という意味の形容詞。(イタリア語ではprecario)
 この「不安定な」から、英語precariat、仏語précariat、イタリア語precariatoという「社会的に不安定な状態にある人」という名詞ができた。

 新自由主義経済下の、正社員ではない非正規雇用者と失業者をプレカリアートと呼ぶ。
 国籍・年齢・婚姻関係に関わらず、パートタイマー、アルバイト、フリーター、派遣労働者、契約社員、委託労働者、移住労働者、失業者、ニート等を包括するのがプレカリアートで、他に貧困を強いられる零細自営業者・農業従事者等を含めることもある。零細自営業者である我が夫も、当然プレカリアートの一員である。本人にはその自覚がないのだけれど。

 プレカリアートは、日本語では、ワーキングプアとほぼ同義。
 ワーキングプアは、年齢男女にかかわらず、非正規雇用者として働いており、生活保護世帯より低年収の労働層を呼ぶ。わたしもワーキングプアです。大都市圏に住む専業非常勤講師(大学非常勤の仕事のほか収入のない人)の平均年収は290万。私の周囲の専業非常勤講師たちは、「親の家に住んで親がかりだから暮らしていけるけれど」と言っていますが、私は生活保護以下の暮らしでアパートに住みふたりの子を育ててきました。

 非常勤講師仲間に、教育者研究者として尊敬すべき人たちがいます。彼らが言うに、「昔は貧乏でも学問に生きている人は社会の尊敬を受けたけれど、お金がすべての社会になった今、年収300万にも満たないということがわかると、それだけで軽輩者と思われ、今のあんたじゃうちの娘をヨメにはやれない、と断られる」。そう、非常勤講師というプレカリアートは、大学社会の底辺層です。

 常勤職採用をめぐっては、学内政治と呼ばれる不透明な上下関係コネクションによって決定される大学も未だに多く、非常勤のままの研究者教育者も多い。学内政治でうまく立ち回れない不器用な人だからといって、決して蔑視を受けていいわけではないのだけれど、世の中そうなっています。

<つづく>
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2009年03月05日


ぽかぽか春庭「マルチチュード」
2009/03/05
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(7)マルチチュード

 プレカリアートやワーキングプアが国内状況のなかの底辺層を指すのに対して、マルチチュードは、世界的視野において、虐げられつつ国境間を移動する層を呼ぶ。
 元はラテン語で「多数」「民衆」を指し示す。

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが、共著『帝国』および『マルチチュード』に「マルチチュード」を定義しなおした。労働者、人民、大衆という従来の「プロレタリアート」の概念とは異なり、貧しく差別された階級であるが、自由に国境を移動し、移民労働者となる層を表す。

 ハートとネグリは「マルチチュード」を「社会を変える可能性を持つ層」と見なしています。移民労働者、また、不安定な身分のまま専門的な仕事に就く知的労働者も含むため、地球規模による民主主義を実現する可能性を持つ社会階層というのが、ネグリ&ハートの見解です。マルチチュードとは「社会を変える存在」であり、「主体的にアイデンティティを保ちつつ社会と関わる存在」だというのです。

 「従来のプロレタリアートは、19世紀以降の社会主義革命で主張された「聞け万国の労働者!」というひとくくりにされた概念であり、「聞け!」と命じられる側の存在として想定されていた。「労働者」が含む多様性と差異性を無視していたのに対して、マルチチュードは、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わず、同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在であり、国境を越えるネットワーク上の主体的な存在となる。」

 と、説明されても、う~ん、ようわからんけど。でも、プレカリアートワーキングプアの一員である私も、マルティチュード「社会を変える存在」となることを目指したい。

 朝三暮四という四字熟語がある。「荘子」斉物論などに書かれている故事による。宋の狙公(そこう)が、飼っている猿に餌を与えようとした。トチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つやると言うと、猿は「少ない」と怒ったため、朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう喜んだ。目先の違いに気をとられて、実際は同じであるのに気がつかないこと。また、うまい言葉や方法で人をだますことを言います。

 今、国民はこう言われています。「先にひとりずつ1万2千円やります。みんな、消費意欲を高めて買い物にはげみましょうね。でも、あとで税金を増やすよ」
 まさに朝三暮四の政策。これで国民が喜んで買い物をすると思っている為政者は、さぞかし国民を「朝トチの実のエサを多く与えれば、夜少ないことに気づかない猿と同じレベル」と見なしているのでしょう。為政者の国民への目がよくわかる政策です。

 自分自身はお金を受け取るとか受け取らないとか、発言のたびにコロコロ言うことが変わっていく総理は、「もらって大いに買い物する」そうですが。買うなら「漢字ドリル」をどうぞ。
 総理、「留学したけれど、勉強しないですごしたから単位がとれず、修了証はない」そうですが、英語力が自慢です。
 得意の(はず)の英語で、オバマ大統領とさしで英語つかって会話したら、アメリカ側の記録には「何を話したのか不明」と記録された箇所がいくつも出てしまったと発表されています。ホワイトハウスの公式記録に、一国の首相の発言が「聞き取れない」と記録されたのでは、いったい何を言ってくるつもりだったのやら、国民も不安になります。バラマキを国際的にやるような発言じゃなかったでしょうね。

 バチカン博物館で中川昭一前大臣がラオコーン像の前の柵を乗り越えるところに居合わせた財務省の役人達は「そこにいたけれど、大臣を見ていなかったので、阻止できなかった」と言い訳しました。
 総理の英語力を知っている側近が英語で話すのを阻止しなかったのも「もうじきおろされるのだから、好きなことやらせてやろう」っていう思い出ヅクリ?のためだったのでしょうか。
 思い出ヅクリで国際的な恥をかく総理を持つ国民も恥ずかしいです。

 公式の場で一国を代表する人間は、母語できちんと話すべきです。昔、日本語ぺらぺらのライシャワー駐日米国大使が、公式の場では日本語を使わなかったことを思い出しました。

 猿と思われている国民のみなさん、猿じゃないってところを示して、マルチチュードとして社会を変えていきましょうよ。

<つづく>
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2009年03月06日


ぽかぽか春庭「ゲマインシャフト」
2009/03/06
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(8)ゲマインシャフト

 1970年に「第二外国語」というのを履修したとき、私はドイツ語を選択しました。今では「グーテンモルゲン」「イッヒリーベデッヒ」ぐらいしか覚えていません。そんな私なので、ドイツ語からのある外来語の意味をまったく理解していなかったということに今頃になってやっと気づきました。

 その外来語は「ゲゼルシャフトGesellschaftとゲマインシャフトGemeinschaft」という語です。団塊の世代のある層の人たちには、仲間同士で議論をしていると誰かしらがこの二つの語を口にする、というくらい一種「人口に膾炙」した語句でした。ゲゼルシャフト!という語が会話の中にでてきたら、なんだかそれだけでそれを口にした人がエラソーな感じがして、下々の「女こども」は黙っていなければならないような雰囲気でした。

 私が読んだ本では、ゲゼルシャフトは「上部構造」、ゲマインシャフトは「下部構造」と翻訳されていました。「上部」と「下部」?ようわからんが、上と下なのだろう、と思ってわかったような気になって以来、ウン十年間、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトと聞けば反射的に上部構造と下部構造という訳語が出てきてしまうので、それ以上の意味を追求したことがなかったのです。

 「ゲマインシャフト(下部構造)=生産様式・経済状態が、ゲゼルシャフト(上部構造)=政治体制・社会文化」を規定する」というテーゼが、ありがたいお題目のように唱えられ、意味を深く考えることがなかった。

 田中克彦『言語学とは何か』を、昔読んだきり本はどこか本の山の下のほうに潜っていってしまい、読み返していなかったのですが、古本屋で百円本の中に見つけ、百円だから何冊あってもいいやと買って、電車のなかで読みました。
 その中に、エンゲルスが言語学者としてもなかなか優秀な論文を残していることや、スターリン言語学派の話がでてきました。その章のあたりだったと思うのですが、「ゲマインシャフト」という言葉がでてきたので、反射的に「下部構造」と訳語が出てきました。でも、言語学で使うゲマインシャフトには、社会科学とは異なる意味が付与されているかもしれないと思って念のために検索してみたところ。

 わぉ、ゲマインシャフトは、英語で言うと「コミュニティCommunity」日本語でいうと「共同体」ですって。言語学の意味というより、もともと社会学の概念としてもちゃんと「共同体」のことであることは、定義されていたのですね。私が知らなかっただけ。

 人の活動集団にはふたつの種類がある。
 ひとつは、ゲマインシャフトGemeinschaft=地縁や血縁で深く結びついた共同体、社会集団。信頼できるメンバーで構成され結束は固いが、自由意志による離脱が難しい。ドイツの社会学者テンニエス(Tönnies1855 - 1936)が唱えた社会類型のひとつで、血縁に基づく家族、地縁に基づく村落、友情に基づく都市中のコミュニティなどのように、人間に本来備わる本質意思によって結合した有機的統一体としての社会。共同体及び協同体。

 テンニエスの定義=ゲマインシャフトとは社会的共感に基づき、人間の内部にある言語の能力を前提としており、相互に共通な結合的な心もち(Gesinnung)は、「了解(Verst・andnis=Consensus)」と称される。
 「了解」の本質を形成し発展せしめる真の器官は、言語そのものである。言語は、自身生きた了解であり、同時に了解の内容でありその形式である。

 テンニエスの定義によって私の回らぬ脳で理解すると、ゲマインシャフトは言語を伝え合うことのできる仲間。もっとも小さな仲間は、養育者が生まれ育つ子に言葉を伝える範囲すなわち家族。その拡大版が「母語や文化を共有し、共感しあえる仲間」私自身の所属感覚を言うなら、日本語で伝えあえる範囲、ということになろうか。

 もうひとつの、ゲゼルシャフト。明確な意思と契約で結び付いた関係(たとえば企業会社組織と労働者、商工会、ゴルフクラブの会員、学術学会など)であり、個人の意志でいつでも契約を解除し離脱できる共同体。利益社会、機能集団。

 とにもかくにも、ゲマインシャフトがコミュニティと同じ「共同体」という意味だったと、今頃知りました。

<つづく>
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2009年03月07日


ぽかぽか春庭「ゲゼルシャフト」

2009/03/07
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(9)ゲゼルシャフト

 テンニエルは「交換がゲゼルシャフト的行為と考えられる限り、交換における一致せる意志は契約(Kontrakt)と名づけられる。契約においてはその内容の一部または全部について、単なる意志が遣り取りされているのである。」と、言っています。
 ゲゼルシャフトにおいては、人は契約によりあらゆるものを貨幣価値に置き換えて交換する。労働も貨幣に置き換えられ、ものの売り買いと同じように労働が時間給や年収という形で貨幣に変わる。かって「金で買えないものはない」と豪語したIT社長もいました。

 本来の労働には、仲間との共同作業の喜びや達成感、自己成長を感じる手段など、さまざまな要素が含まれています。ところが、現在の「労働」は、単なる「お金と交換の時間」という扱いにされており、労働者の「働く喜び」は収奪されています。

 コミュニティという英語由来の外来語については、「共同体」という意味で使ってきましたが、「ゲマインシャフト=コミュニティ」と思ったことがなかった。なにしろ、ゲマインシャフトは「下部構造」だったので。
 いったい誰が最初にゲマインシャフトを下部構造と翻訳したのでしょうか。ゲゼルシャフトといえば上部構造。それ以外の意味は知らなかった。

  『 人間たちは、彼らの生活のゲゼルシャフト的生産において、特定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の特定の発展段階に照応する生産諸関係を受け入れる。これらの生産諸関係の総体がそのゲゼルシャフトの経済的構造を形成するが、これが実在的土台であり、その上に法的および政治的な上部建築がそびえ立ち、そしてこの土台に特定のゲゼルシャフト的意識形態が照応する。物質的生活の生産様式が、social、政治的および精神的な生活過程一般の条件を与える。(『経済学批判』岩波文庫版、13頁) 』

 若い頃は、こんな文章を読んでスラスラ理解できないのは、こちらの頭が悪いせいだろうと思って理解するのをあきらめていましたが、要するに翻訳が悪かったのではないかしら。翻訳者は、学者としては立派な方なのでしょうが、わかりやすい文章を書くという点では、日本語の訓練をやりなおすべきです。わかりにくい日本語であるのは、専門用語がわからないからではありません。日本語翻訳がこなれていないかれではないのか。それともマルクスの原文ドイツ語がわかりにくいものなのか。

 現在の私は、日本語読解において十分な訓練を積んできた日本語の専門家です。精読も速読も得意。この「経済学批判」に書かれている日本語がスラスラとは理解できないとき、自分の頭が悪いせいではなく翻訳の日本語がひどいせいだと言い切れるくらい、日本語研究の歳月を重ねました。
 わかりにくいのは私が日本語読めないせいじゃない!

<つづく>
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2009年03月08日


ぽかぽか春庭「新緑共同体」
2009/03/08
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>カタカナ外来語覚え直し(10)新緑共同体グリーンニューコミュニティ

 日本社会では、「ムラ社会」と呼ばれる地縁血縁集団が社会の構成要素として力を保持してきました。そのため、しばしばゲゼルシャフトであるべき集団をゲマインシャフトのように扱う傾向がありました。

 たとえば、地域の自治会。明白な意思によって入退会を自分で決定すべき契約団体なのに、引っ越したら自動的に自治会に入会することになっている地域も未だに存在し、自治会費を払わないと、お隣近所から村八分になる。
 PTAもしかり。入会離脱が自由であるべき集団なのに、子供が小学校に入学したら自動的にPTAに加入することなっており、子供が卒業するまで自動継続して、自発的意志による入会退会の自由があることすら知らされない。

 戦後日本の企業組合もゲゼルシャフトではなく、「相互扶助で結びついているムラ社会」として機能してきました。高度成長期には、このムラ社会的組合活動とQC(カイゼン)運動は、日本の企業を支える柱でした。

 『蟹工船』が若い人の間でブームになって突然売れ出したり、新訳なった『罪と罰』が売れたりする時代ですから、ぜひ、『資本論』や『経済学批判』も新訳を売り出してください。って、思っていたら、新訳もいろいろ出ていました。ただし「新訳でも読みにくさが変わらないのは、もともとのマルクスの書き方がわかりにくいドイツ語なのではないか」という評をみて、新訳を読むのもあきらめました。マルクスの説も理解できず、オバマの演説もききとれない英語力の自分の頭脳であることを納得しつつ「♪きけ、万国の労働者!」でも歌ってプロレタリアート、プレカリアート、マルティチュード、なんでもいいからがんばって生きていこうと思います。敬具。(この敬具は、小林多喜二宛ネグリ宛とかいろいろ)

 それにしても、「ゲマインシャフト=下部構造」と思いこんだまま「ゲマインシャフト=コミュニティ」であったことに今のいままで気づかなかった私の頭も、とんだカブこーぞーでした。この「カブ」とは、わが頭蓋の中に詰まっているのは脳ではなくて蕪だ、という意味です。

 私がゲマインシャフトに新しい語義を加えるなら。「ゲマインシャフトとは、共感し合える共同体によって協働し、共に働き共に生活する喜びを分かち合う人と人とのつながりのなかに存在するコミュニティ」

 21世紀に、新しいコミュニティを形成するためのすばらしい道具が普及しました。インターネットです。自由に発信でき、主体的な意思発表者として存在できます。人と人を結びつけるために、大きな力を発揮します。インターネットによって結び合わされた集団を「バーチャルな」という形容詞付きで呼ばなくてもいい時代がきたと思います。

 新たな共同体の形成を夢見ています。
 オバマ大統領のグリーンニューディール政策(Green New Deal)にあやかって新緑共同体って、ネーミングを思いつきました。契約の共同体でもなく、血縁地縁だけの共同体でもなく、志を同じくしたり、趣味や興味を同じくする志縁共同体。志縁新縁新緑です。
 カタカナ外来語でいうと、グリーンニューコミュニティ。名付けが漢字になるかカタカナになるかはともかく、何もしないで1万2千円もらってつかうだけよりは、新緑共同体を夢見て動き出すほうがまだましと思っています。

<おわり>

翻訳練習マイケルジャクソン・マドンナ・徐志摩

2011-04-01 10:39:00 | 日本語言語文化

2009/09/26
ニーハオ春庭>翻訳練習(1)マイケル・ジャクソンHeal the World

世界を癒そう 日本語訳 春庭 │ Heal the World

君の心の中にある │There's a place in your heart
僕は知っている、それは愛 │And I know that it is love
愛ある所では、今このときを、│And this place could be much
明日という未来より輝く時にできる │Brighter than tomorrow
君が本気でやろうとすれば、 │And if you really try
泣く必要なんてないって、わかるだろ │You'll find there's no need to cry
愛を感じる場所で │In this place you'll feel
傷つくことも悲しみもない │There's no hurt or sorrow

そこにたどり着く道がある │There are ways to get there
もし君がもし生きぬこうとするならば │If you care enough for the living
君の小さなスペースを │Make a little space
よりよい場所にしていける │Make a better place

世界を癒そう │Heal the world
よりよい世界にしていこう │Make it a better place
君のために、僕のために │For you and for me
そして人類全てのために │And the entire human race
死んでいく人たちもいる │There are people dying
もし君が生きぬこうとするのなら │If you care enough for the living
もっとすてきな所にしようよ │Make a better place
君と僕のために │For you and for me

訳を知りたいと望むなら │If you want to know why
嘘をつかない愛がある │There's a love that cannot lie
愛は強い │Love is strong
愛は喜びを与えようとするだけじゃない │It only cares of joyful giving
もし僕らがわかろうとするなら │If we try we shall see
恐怖も脅えも感じることのない幸福の中に │In this bliss we cannot feel, fear or dread
ただ存在しているだけなのをやめ、生き生きとし始める│We stop existing and start living

いつも思っている │Then it feels that always
愛は僕らを成長させ │Love's enough for us growing
よりよい世界を作っていける │Make a better world
素敵な世界を作らせる │Make a better world

世界を癒そう │Heal the world
素晴らしい場所にしよう │Make it a better place

君にために僕のために │For you and for me
そして人類全てのために │And the entire human race
死を迎える人もいる │There are people dying
もし君が生きぬこうとするのなら │If you care enough for the living
もっとすてきな所にしようよ │Make a better place
君と僕のために │For you and for me

心に抱いている夢は │And the dream we were conceived in
僕らを笑顔にさせてくれる │Will reveal a joyful face
かつては信じていた世界が │And the world we once believed in
ふたたび優しく輝き出す │Will shine again in grace
地球を傷つけ心を苦しめ、│Then why do we keep strangling life
締め付けられて生きていくなんて │Wound this earth, crucify its soul
そんなことだめだってわかっている │Though it's plain to see
この世界は天のように │This world is heavenly
神の光に満ちあふれますよう │Be God's glow

どこまでも高く飛んで行ける │We could fly so high
魂は決してなくなりはしない │Let our spirits never die
僕は感じているんだ! │In my heart
君らみんなは僕の兄弟だ! │I feel you are all my brothers
恐れず世界を創り上げよう │Create a world with no fear
ともに幸せの涙を流そう │Together we'll cry happy tears
世界の国々が │See the nations
剣を鍬に持ちかえるのを見よう │Turn their swords into plowshares

僕らはたどり着けるだろう │We could really get there
もし君が生きぬこうとするのなら │If you cared enough for the living
もっとすてきな所にしようよ │Make a little space
君と僕のために │To make a better place

世界を癒そう │Heal the world
よりよい世界にしていこう │Make it a better place
君のために僕のために │For you and for me
そして人類全てのために │And the entire human race
死を迎える人たちもいる │There are people dying
もし君が十分に生きぬいたなら │If you care enough for the living
世界をよりよい所にしていける │Make a better place
君のために僕のために │For you and for me

世界を癒そう │Heal the world
よりよい場所にしていこう │Make it a better place
(私の友よ) │(Oh, my friends)
君のために僕のために │For you and for me
そして人類全てのために │And the entire human race
死を迎える人たちもいる │There are people dying
もし君が十分に生きぬいたなら │If you care enough for the living
世界をよりよい所にしていける │Make a better place
君のために僕のために │For you and for me

君のために僕のために │You and for me
君のために僕のために │You and for me

僕らが今生きているこの世界を癒していこう │Heal the world we live in
子どもたちを救うために │Save it for our children

マイケルのメッセージ付きの歌「世界を癒そう」
http://www.youtube.com/watch?v=qHASnlEA_WU
<つづく>
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2009年09月27日


ぽかぽか春庭「マドンナによるマイケルジャクソン トリビュートスピーチ」
2009/09/27
ニーハオ春庭>翻訳練習(2)マドンナによるマイケルジャクソン トリビュートスピーチ

 ウェブ友まっき~さんが、マドンナによるマイケルへの追悼スピーチを紹介してくれたので、翻訳練習を続けます。
 2009年09月13日ニューヨークで開催されたMTVビデオ・ミュージック・アワードのオープニング。
 ユーチューブより英語スピーチがクリアに聞こえるような気がするので、こちらもリンク
http://www.mtv.com/videos/misc/436439/madonna-pays-tribute-to-michael-jackson.jhtml

マドンナのスピーチ

「マイケル・ジャクソンは私と同じように1958年8月に生まれました。マイケル・ジャクソンは私と同じように中西部の郊外で育ちました。マイケル・ジャクソンには私と同じように8人の兄弟姉妹がいます。マイケル・ジャクソンは6歳だった時スーパースターになり、そしてたぶん世界で最も愛された子供でした。私が6歳の時は、母を亡くしました。彼は貧乏くじを引いたように思います。

私には母がいませんでしたが、彼は子供時代がありませんでした。何かが得られない時、人はそれに執着するものです。私は子供時代を母親代わりの存在を探して過ごしました。そして時にはうまく行きました。でも、生活すべてを世界中からくまなく見られている時、子供時代をどうやって再現するというのでしょうか。

言うまでもなく、マイケルジャクソンは世界がこれまでに知っていた最も大きな才能のうちの1つでした。マイケルが8歳という年齢で歌を歌ったとき、彼は聴衆に経験豊かな大人になったような気にさせることができました。みなの心臓は、彼のことばでつかみ取られました。マイケルが皆を感動させたやり方は、フレッドアステアの優雅さとモハメッドアリのパンチをきかせたものでした。彼の音楽は、不思議な魔法の幾層をも持っていました。踊りたくなるだけでなく、ほんとうに自分がなりたかったものになんでもなれて、夢に立ち向かい、飛んでいけると信じさせくれました。なぜなら、英雄とは、皆をそう信じさせてくれるものだから。そう、マイケルは英雄でした。

マイケルは世界中のサッカースタジアムでショウを行い、何億ものレコードだし、首相や大統領に食事に招かれました。少女たちは彼に恋し、少年たちも彼を愛しました。誰もが彼のように踊りたかったのです、彼はこの世の人とは思えないくらいでしたが、もちろん彼は人間でした。大部分のアーティストがそうであるように、彼は内気で、不安定で悩みを抱えていました。

「私たちは、すごく仲が良い友人だったとは言えません。でも、1991年、私は彼をもっと知りたいと思い、彼をディナーに誘いました。『私のおごりよ。私が運転する。あなたと私だけ』と言いました。彼は同意してボディガードを連れずに私の家に現れました。私の車でレストランに行きました。暗くなっていたけれど彼はまだサングラスをつけていました。私は『マイケル、私はリムジンに話しかけているような気分よ。あなたの目が見えるようにサングラスをはずしてもかまわない?』と言うと、彼はちょっと間をおいてからサングラスを窓の外に捨てました。ウィンクして私を見て微笑み、こう言いました。『これで僕が見える?これでいい?』」

「この時、彼の傷つきやすさと魅力が見て取れました。ディナーの他は、彼がこれまで自分に許していなかっただろうことをさせるのに私は躍起になっていました。フレンチフライを食べさせワインを飲ませデザートを食べさせ悪い言葉を言わせるのです。その後、私の家に行って一緒に映画を見て二人で子供のようにソファーに座っていました。映画の途中で彼は私の手を探って握ってくれました。彼はロマンスより友人を求めているようで、私は彼の願いを叶えられて幸福でした。その時の彼はスーパースターではなく自分を普通の人間として感じていたようでした。私たちはこの後数回一緒に出かけましたが、いろいろあって私たちは連絡し合わなくなりました。それから魔女狩りが始まったのです。マイケルについてのネガティブな噂が次から次に出て来ました。彼の痛みが感じられました。街を歩いていて世界中が自分に背を向けているように感じることを私は知っています。リンチを行おうとする群集の叫び声が大きすぎて、自分の声が決して届かないのだと確信する、その無力さで自己防衛もできないと感じることがどういうことか分かっています」

 マイケルと異なり、私には子供時代がありました。それに自分の間違いを許されていたし、スポットライトを避けて自分の道を探すことが許されていました。マイケルが亡くなったと知った時私はロンドンにいて自分のツアーを数日後に控えていました。マイケルは同じ会場で私の1週間後にコンサートすることになっていました。マイケルが亡くなったことを知った瞬間、私は彼を見捨てていたのだと感じました。私たち皆が彼を見捨てていたのです。かつては世界を熱狂の渦に巻き込んだ偉大な人が見過ごされていることを私たちは許していたのです。彼が家族を作りキャリアを再建しようと頑張っている一方、私たちは彼を裁こうとしていました。私たちのほとんどが彼に背を向けていました。

「彼の思い出を呼び覚まそうという必死の試みの中で、私は彼がTVやステージでダンスして歌っている古いクリップを見るためインターネットに向かいました。『なんてこと!彼はとてもユニークでオリジナリティがあって、希少な存在でした。彼のような人は二度と現れない』と思いました。
マイケルは我らの王でした。同時に彼は人間でもありました、そして、ああ、我々はみな人間です。時に、私たちは、人を真に評価する前に、失ってしまうことがある。

このスピーチをポジティブに終わらせたいと思います。私の二人の息子、9歳と4歳ですが、今、マイケル・ジャクソンに夢中です。家では(マイケルがやったように)股間掴みとムーンウォークがおおはやり。まるで新世代の子供達が彼の天才を再発見して彼に再び生命を吹き込んでいるみたいです。マイケルが今どこにいようとこれを見て微笑んでいるといいなと願っています

ええ、マイケルジャクソンは人間でした。しかし、悔しいことに彼は王でした。
王の思い出が長く生き残っていきますように。

Michael Jackson was born in August, 1958. so was I. Michael Jackson grew up in the suburbs of the Midwest. So did I. Michael Jackson had eight brothers and sisters. So do I. When Michael Jackson was 6 he became a superstar and was perhaps the world's most beloved child. When I was 6 my mother died. I think he got the shorter end of the stick.

"I never had a mother, but he never had a childhood. And when you never get to have something, you become obsessed by it. I spent my childhood searching for my mother figures; sometimes I was successful. But how do you recreate your childhood when you are under the magnifying glass of the world for your entire life?

"There is no question that Michael Jackson was one of the greatest talents the world has ever known. ... That when he sang a song at the ripe old age of 8, he could make you feel like an experienced adult was squeezing your heart with his words. ... That the way he moved had the elegance of Fred Astaire and packed the punch of Muhammad Ali. ... That his music had an extra layer of inexplicable magic that didn't just make you want to dance but actually made you believe that you could fly, dare to dream, be anything that you wanted to be. Because that is what heroes do. And Michael Jackson was a hero.

"He performed in soccer stadiums around the world, he sold hundreds of millions of records, he dined with prime ministers and presidents. Girls fell in love with him, boys fell in love with him, everyone wanted to dance like him, he seemed otherworldly, but he was also a human being. Like most performers, he was shy and plagued with insecurities.

"I can't say we were great friends, but in 1991 I decided I wanted to get to know him better. I asked him out to dinner: I said, 'My treat, I'll drive, just you and me.' He agreed and showed up to my house without any bodyguards. We drove to the restaurant in my car. It was dark out, but he was still wearing sunglasses. I said, 'Michael, I feel like I'm talking to a limousine, do you think you could take off those glasses so I could see your eyes?' He paused for a moment, then he tossed the glasses out the window, looked at me with a wink and a smile and said, 'Can you see me now, is that better?'

"In that moment, I could see both his vulnerability and his charm. The rest of the dinner, I was hell-bent on getting him to eat French fries, drink wine, have dessert and say bad words, things he never seemed to allow himself to do. Later, we went back to my house to watch a movie and we sat on the couch like two kids, and somewhere in the middle of the film, his hand snuck over and held mine. It felt like he was looking for a friend more than a romance and I was happy to oblige him. And in that moment he didn't feel like a superstar, he felt like a human being. We went out a few more times together and then for one reason or another we fell out of touch. Then, the witch hunt began and it seemed like one negative story after the other was coming out about Michael. I felt his pain. I know what it's like to walk down the street and feel like the whole world has turned against you. I know what it's like to feel helpless and unable to defend yourself because the roar of the lynch mob is so loud that you are convinced your voice can never be heard.

"But I had a childhood, and I was allowed to make mistakes and find my own way in the world without the glare of the spotlight. When I first heard that Michael had died I was in London, days away from the opening of my tour. Michael was going to perform in the same venue as me a week later. All I could think about in that moment was that I had abandoned him. That we had abandoned him. That we had allowed this magnificent creature that once set the world on fire to somehow slip through the cracks. While he was trying to build a family and rebuild his career, we were all busy passing judgment. Most of us had turned our backs on him.

"In a desperate attempt to hold onto his memory, I went on the Internet to watch old clips of him dancing and singing on TV and onstage and I thought, 'My God, he was so unique, so original, so rare. And there will never be anyone like him again.' He was a king. But he was also a human being and alas, we are all human beings and sometimes we have to lose things before we can truly appreciate them. I want to end this on a positive note and say that my sons, age 9 and 4, are obsessed with Michael Jackson. There's a whole lot of crotch-grabbing and moonwalking going on in my house, and it seems like a whole new generation of kids has discovered his genius and are bringing him to life again. I hope that wherever Michael is now, he is smiling about this.

"Yes, yes Michael Jackson was a human being, but dammit, he was a king. Long live the king."

<つづく>
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2009年09月28日


ニーハオ春庭「徐志摩さよならケンブリッジ」
2009/09/28
ニーハオ春庭>翻訳練習(3)徐志摩さよならケンブリッジ

 徐志摩は、20世紀近代中国を代表する詩人です。波希民(ボヘミアン)詩人 として、英米、日本などを放浪し、北京文壇の寵児として数々作品を発表しました。中国現代文学として、中国では「子供でも暗記している詩」のひとつが「再別康橋」なのだと、教え子のひとりに紹介してもらいました。

 伝記ドラマ『人間四月天』は、徐志摩と3人の女性、永遠の心の恋人、妻、妻を棄てて再婚した愛人、との愛の葛藤を中心とした物語。DVDを手に入れたいです。
 留学先のケンブリッジでの思い出を「再別康橋」として発表した後、36歳で飛行機事故で落命。恋多き放浪詩人の最後が飛行機事故、、、ドラマチックを絵に描いたような生涯の中、魅力溢れる詩を書き続けました。

 (大辞林より)徐志摩[1897~1931]中国の詩人。海寧(浙江(せっこう)省)の人。英、米両国で政治・経済のほかに近代詩などを学び、帰国後、「詩鐫(しせん)」「新月」を刊行し、新詩運動に尽力。新月派の代表的詩人。「志摩の詩」「翡冷翠(フイレンツエ)の一夜」など。シュイ=チーモー。

再別康橋   徐志摩
•軽軽的我走了 正如我軽軽的来
 我軽軽的招手 作別西天的雲彩
•那河畔的金柳 是夕陽裏的新娘
 波光裏的艶影 在我的心頭蕩漾
•軟泥上的青 油油的在水底招揺
 在康河的柔波裏 我甘心做一条水草!

・那楡蔭下的一潭,不是清泉,是天上虹
  揉碎在浮藻間,沈澱著彩虹似的夢  
・尋夢?撐一支長篙,向青草更青處漫溯
  滿載一船星輝,在星輝斑斕裏放歌

•但我不能放歌 悄悄是別離的笙粛
 夏虫也為我沈黙 沈黙是今晩的康橋!
•悄悄的我走了 正如我悄悄的来
 我揮一揮衣袖 不帯去一片雲彩


さよならケンブリッジ 日本語訳:春庭

•そっと静かに、私は去っていこう 
 来たときと同じように足音忍ばせ
 密やかに手を振って、西空の茜の雲に別れを告げる
•河畔に立つ金色の柳は、夕陽の中の花嫁のように 
 きらきらと輝く川波にあでやかに影を映し、
 私の心に揺れている
•柔らかな泥に生える水草は水底から葉を揺らして私を招き、
 優しい川波の中 私は一本の水草になる
・楡の木かげの渕にあるのは泉ではない、これは天空の虹なのだ
  浮き藻にこまかくもみ碎かれ、虹のように夢が沈んでいる
・夢を尋ねようか?棹をさし青草よりもさらに青いところへとゆっくり溯のぼる
  舟にはいっぱいの星の輝き きらめく星のなかで歌おうか
•いいや、私は歌うまい  密かに別れの笛を吹き
 私のために夏の虫も沈黙する この沈黙が今夜のこの橋
•密やかに、私は去ろう 来たときのようにそっと静かに 
 私は袖を振って立ち上がり 一片の茜雲さえ持たずに去っていく

詩の朗読
http://www.youtube.com/watch?v=WZWtjZeZUfA&feature=related

中国のいろいろな歌手が歌のカバーしていますが、漢字で歌詞が出る殷正洋の歌で
http://www.youtube.com/watch?v=jK4fWbhK8OU&feature=related

張清芳の歌声で。ケンブリッジ橋の景色が美しい
http://www.youtube.com/watch?v=8H8Ma8j2FYM&feature=related

<おわり>^
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