2009/01/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(1)つぎあて暮らし
結婚以来の貧乏暮らしを続けてきた春庭。
うちの娘息子は「ツギあて靴下」を履いて育った、今時めずらしい子どもたちです。保育園や小学校で、靴下のツギあてを悪ガキ連に見つかると「貧乏靴下ビンボー人」と囃されるのでいやだった、と、娘は今になって思い出を語るようになりました。もののない時代ならともかく、バブル真っ盛りの時代にツギあて靴下を履いた子は、たぶん、東京では珍しかったことでしょう。
大人になって、「ツギあての一針ひと針に母の愛情とせつなさが込められている」とわかるようになって初めて「ビンボー靴下って、はやされてイヤだった」と言えるようになったけれど、子供のころは「こんな風にクラスで馬鹿にされていることを母が知ったら悲しむだろうから、ぜったいに言えない」と、娘は黙っていたのだと思います。
今の時代なら逆に「モッタイナイ精神にのっとったエコロジー靴下」とでも自慢できたのにね。時代が悪かった。
もう、子どもたちもふたりとも成人して、靴下にツギを当てる必要もなくなりました。「ツギをあてる」という作業が、好きだったからこそチクチクと針を動かしたのです。
「ツギあて」という作業を「自分の本来の仕事」として黙々と続けたあるスペインの女性の話を読みました。
マリア・モリネールにとって、第一の仕事は「息子ふたり娘ひとりの子どもたちのために靴下にツギをあてること」であり、第二の仕事は「図書館司書」でした。その仕事のあいまに、後半生の30年をかけて「スペイン語辞書」を書きあげました。3000ページ二巻の辞書を、ガルシアマルケスは絶賛しています。
マリア・モリネールについてガルシアマルケスが1981年に書いた文章を、田澤耕さんが翻訳しました。翻訳文は「図書2008年3月号」に掲載されました。
田澤さんが書いた翻訳をそっくりコピーした文を、「ネット上切り抜き帖」として載せておきます。
私は読んで「いいなあ」と思った文章を切り抜きしておくのですが、整理整頓ということがまったくできない性格です。きちんとファイルしておかないので、「もう一度読みたい」と思ったときに、どこにその切り抜きがあるのかわからなくなってしまうことがしばしば起きます。これからますますボケが増えていくでしょうから、紙の切り抜きをしまっておくより、ネットに載せて見出しをつけておくほうが、探しやすいとわかりました。
自分のための「切り抜き」コピーですが、もしマリア・モリネールの一生に興味があったら、読んでみてください。ガルシアマルケスのマリア・モリネールへの敬愛の念が伝わる文章です。
著作権はガルシアマルケスと田澤耕さんにあるので、商用の引用はできませんが、論評の一部としての引用は可能です。(引用の目安としては、紹介文、論評の文が引用部分より長いこと、という程度で、厳密な規定ではありません)
次回、ガルシアマルケスの文章を引用します。
<つづく>
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2009年01月27日
ぽかぽか春庭「マリア・モリネールが辞書を編んだ話」
2009/01/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(2)マリア・モリネールが辞書を編んだ話
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G・ガルシアマルケス著
三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。
マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。
マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の資格を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。
アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかが示めされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書として五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを待つばかりのカードの厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。
息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく冷静に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎日の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞で見つけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。
マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
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[訳者注]
最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。
(G・Garcia Marquez・作家)
(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo
「図書2008年3月号」より
<つづく>
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2009年01月28日
ぽかぽか春庭「ことばを紡ぐ」
2009/01/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(3)ことばを紡ぐ
小田康之さんはブログのなかで、スペイン語を専攻した上智での学生時代に「西西辞典」をよく使った、と思い出を書いています。小田さんは、現在サンフランシスコに在住し、英語関連の会社を運営している方です。有名商社で働いたあと、現在は英語を駆使したマーケティングやコンサルタントの仕事で活躍しています。小田さんはブログ中で、マリアの辞書について「マリア・モリネールという女性が編纂した少々ヒステリックな大型辞典」と評しています。
「ヒステリック」と言いたくなる小田さんの気持ちもなんとなくわかります。子育てを終えた女性が、50代前後(アラウンド50をアラフィと呼ぶのがトレンディとか)から80歳で永眠するまで、来る日も来る日も古今東西の本や新聞雑誌からことばの用例を抜き出す作業を繰り返す。AからZまでようやく終えたとおもっても、また新しい用例が見つかるから、またAへ戻って作業を続ける。
編み目をほどいてはまた編み続ける編み物のように、一目一目、果てしなく根気よく続ける。このような仕事は、たしかに男性の目から見たら「ヒステリック」に映るのかもしれない。
小田さんの用語のヒステリックとは、精神医学用語の、解離性障害、身体表現性障害をさすヒステリーではなく、ヒステリーの語源となった「子宮の」つまり「女性特有の」とでも訳すべき、やや蔑視を含んだ意味において使用されていると、私は感じました。
マリアの編んだ「息苦しいほど厳密なことばの編み目」としての辞書は、女性特有の「抑圧された女の人生の代償としての仕事」に見えるのだろうと、小田さんの「ヒステリックな辞書という見方」を解釈しました。
でも、編み物や織物が好きな人にとって、このような細かい繰り返しの作業や、編み上がったと思ったのに、模様編みの目に間違いを見つけて、糸をほどいて編み直す、そんな作業はつきものです。編んだものを一度ほどいて編み直し、また根気よく編み続ける。
このような作業で手仕事は成り立っています。キルトやこぎん刺しなどの刺し子、刺繍、女性が主な担い手になってきた糸の仕事は、ほとんどが「同じ事の繰り返し」を丹念に続けていくものです。
マリア・モリネールは辞書を編纂しました。文字通り、一目一目、辞書を編んでいったのだと思います。編み目模様を間違えたら、糸をほどいて編み直す。その作業がヒステリックなものに見える男性には、一日中絨毯の糸を結びつづけても5mmしか織り上がらず、二日かけてやっと1cmしか進まない絨毯織りとか、ちくちくと布に糸を刺していく刺繍や刺し子などは「女の仕事」としてつまらないものに感じられるでしょうね。
男は、世界を相手にして駆けめぐり、ダイナミックに活動する仕事を選ぶのだ、と感じている方も多い。選挙戦に勝ち抜いて大統領まで成り上がるとか、イランやアフガンでほんとうに戦争をするとか、営業開拓に走り回って、社内NO.1の成績を勝ち取るとか、、、、
「女特有の○○」と表現すると、そこにはなんとドメスティックなちまちまとした感覚が浮かび上がってしまうことでしょうか。一日中編んでいっては、編みほぐす。キルトの小布を一枚一枚をつないでいって、配色がうまくいかずに糸をほぐす。
「世界を相手の重要なお仕事」をなさっている男性には、このような作業が「ヒステリック」にうつるのだと思いますが、どのように評されようと、私たちはこのような「ヒステリックな作業」を紡いで、日々をすごしているのです。
<つづく>
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2009年01月29日
ぽかぽか春庭「ことばを縫う」
2009/01/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(4)ことばを縫う
「つぎあても パッチワークと 言えば粋 (粗忽)」というコメントをもらいました。有難うございます。一目一目大切に編み上げた仕事がマリア・モリネールの辞書なら、私の仕事は、使い古しの布を縫い集めたパッチワーク。古今の日本語で表現された「織物染め物の布地のような言葉の切れ端」を集め、丹念に縫い合わせたキルトのような「日本語言語文化論考」になると思います。さあ、どんなキルト作品にしようかしら。「ヒステリックな論考」と言われるかもしれないけれど、粋に仕上げたいものです。
私の専門は「日本語言語文化」です。
教育面では、私立大学では日本人の学部生相手に「現代日本語論」「社会言語論」「日本語教育研究」を講じています。国立大学では留学生教育を担当し、日本語文法や漢字の授業をしています。
あまりにも幅広い分野を受け持っているので、同僚からは「1週間に5日授業をして、授業の準備は、いつしてるの?」と言われますが、土日、夏休み冬休み春休みをつぶしてやっています。家事は今のところ、お茶碗洗いと洗濯だけになりました。料理やゴミ出しなどを娘と息子が分担するようになりましたので。それでも、自転車操業の毎日。体力勝負の日々です。
研究面では、修士課程まで日本語文法統語論が中心でしたが、昨年から語彙論や比較文化比較文学も含めて「カルチュラルスタディ=文化研究」の幅広い分野に手を染めています。
研究結果がどのように帰着するのか自分でも先行き不安ではありますが、論文をまとめる「生みの苦しみ」もまた楽し、といったところ。大学専任教師なら研究も仕事のうちで給与に含まれていますけれど、非常勤講師はいくら研究してもそれは自分の「勝手な趣味」。
授業ヒトコマこなしてナンボという雀の涙のような講師料で生計をたてながら、博士論文完成へ向けてちくちくと古布を縫い合わせています。
自分のこのような来し方に「なぜ、こんなに貧乏な暮らししかできない人生だったのだろう」と思うこともあります。でも「こつこつ自分のできることをやりとげる、それでいいじゃないか」と、反省するときもあります。
反省するときのライフモデルのひとりがマリア・モリネールです。「ことば」をめぐって、「ああ、こんなふうにことばと関わって生きていけたらいいのになあ」と思える女性の一人、スペイン語の辞書を編纂したマリア・モリネールを、ガルシアマルケスの文によって紹介しました。
マリアの夫はサラマンカ大学の教授でした。図書館司書という職業を持っていたのも、家計を維持するためではなく、「人生には働くことが必要だ」と感じた自分自身のために従事していた仕事でしょう。また、彼女の子どもたちは、長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師になって、マリアは母として、娘息子を立派に自立させたのだと言えます。
マリアの生活に比べると、我が家、生活状況が違いすぎます。長女長男、どうにも育ち上がらずパラサイトしていますし、夫に収入がないため、ひたすら家計維持のために働いてきた私の労働には、経済的にも時間的にもまったく余裕というものがありませんでした。私とマリア・モリネールとでは、さまざまな条件が異なります。
それでも、子供の成長後、「子育てのかわりとして自分のためのライフワーク」を持つという点では、マリアの一生をお手本にしたいと思っています。
マリアはコツコツとスペイン語の用例を集めました。マリアのスペイン語辞書(西西辞典)は、日本のスペイン語学習者、翻訳者にも大いに助けになり、日本語とスペイン語をつなぐ架け橋となりました。
私も、日本語教育を通じて、日本語と他の母語を話す人の架け橋のひとつになりたいと思っています。そして、日本語言語文化についての思索をコツコツと編み上げ、まとめていきたいと思っています。ひとりで辞書を編纂する根気は私にありませんが、日本語言語文化の真髄について考え続けてことばを縫い合わせていきたいと思っているのです。
<つづく>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
春庭の「日本語言語文化論考」の論文がどんなパッチワークなのかのぞいてみたいと思う奇特な方がいらしたら、「春庭の論文倉庫」にしまってあるのをのぞき見してくださいませ。
一例として「日本語言語文化における『しろ』」というタイトルの論考は下記に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/diary/d69#comment
春庭論文の「倉庫」ページ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/bbs
04:48 コメント(4) ページのトップへ
2009年01月30日
ぽかぽか春庭「ことばを織る」
2009/01/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(5)ことばを織る
私は、これまで数十年間「ことば」に向いあってきました。これから先、これらのことばをうまくまとめていけるかどうかわかりませんが、マリアの生き方を手本として、あと30年は「靴下にツギをあてながら」書き続けていきたいと思っているのです。
作家、文系研究や教育の仕事を選ぶ男性は、どちらかというと「世界を相手に駆けめぐる」式の人より「こつこつ言葉を紡ぎ上げる」型の方が多いように感じます。たとえば大江健三郎。「男のオバサン」と揶揄されることもあるこの作家が、「言葉を編み上げ、またほどいて編み直す」ことの重要さを語ったことがありました。
編み物の編み目をほどいてはまた編み続けるように、学んで学びほぐし、教えては教え直す、こんな学び方「アンラーン」について、大江健三郎がコラムを書いています。大江は鶴見俊輔の新聞に載ったコラムに啓発されて同じ新聞に感想を書いたのです。
鶴見俊輔は「ヘレン・ケラーからアンラーンという言葉を教わった」というコラムを2007年末に書きました。
私は鶴見と大江のコラムを感銘深く読みました。
鶴見と大江のコラムの感想を「アンラーンとアンティーチ」と題してについて、「確か、春庭も前に書いたことがあったよな」と思って、どこにあるか探しました。
紙に書いたのを探したらたぶん、見つからなかったでしょう。整理整頓、下手ですから。でも、ありがたいネット検索。「アンラーン アンティーチ」のアンド検索で出てくるのは自分のサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobachie0611a.htm
アンラーン、学んで学びほぐす。アンティーチ、教えて教えほどく。こんな編み物の一目ひとめのような学び目を大切にしていきたいと思っています。
定年の時期に入った同級生はつぎつぎ「楽隠居」「孫のお世話係」を始めているという年齢なのに、私はあと10年は働くつもり。パラサイト娘と息子に寄生されているのでやむをえないことではありますが、仕事の面では「うん、私そこそこがんばってる」と、言えると思います。
女性が、いろり端で繕い物や編み物をしながら子どもたちに童歌や昔話を語り聞かせたり、生活の技についてのことわざを伝えたりしてきたこと、織物や編み物縫い物を繰り返し繰り返しして続けてきたこと。そんなひとつひとつの手仕事を大事に思っていきたいなあ、と、来し方を振り返っています。
次回シリーズは、糸の仕事のうち染め物と織物について。次次回シリーズは、女性と伝承について。
<おわり>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(1)つぎあて暮らし
結婚以来の貧乏暮らしを続けてきた春庭。
うちの娘息子は「ツギあて靴下」を履いて育った、今時めずらしい子どもたちです。保育園や小学校で、靴下のツギあてを悪ガキ連に見つかると「貧乏靴下ビンボー人」と囃されるのでいやだった、と、娘は今になって思い出を語るようになりました。もののない時代ならともかく、バブル真っ盛りの時代にツギあて靴下を履いた子は、たぶん、東京では珍しかったことでしょう。
大人になって、「ツギあての一針ひと針に母の愛情とせつなさが込められている」とわかるようになって初めて「ビンボー靴下って、はやされてイヤだった」と言えるようになったけれど、子供のころは「こんな風にクラスで馬鹿にされていることを母が知ったら悲しむだろうから、ぜったいに言えない」と、娘は黙っていたのだと思います。
今の時代なら逆に「モッタイナイ精神にのっとったエコロジー靴下」とでも自慢できたのにね。時代が悪かった。
もう、子どもたちもふたりとも成人して、靴下にツギを当てる必要もなくなりました。「ツギをあてる」という作業が、好きだったからこそチクチクと針を動かしたのです。
「ツギあて」という作業を「自分の本来の仕事」として黙々と続けたあるスペインの女性の話を読みました。
マリア・モリネールにとって、第一の仕事は「息子ふたり娘ひとりの子どもたちのために靴下にツギをあてること」であり、第二の仕事は「図書館司書」でした。その仕事のあいまに、後半生の30年をかけて「スペイン語辞書」を書きあげました。3000ページ二巻の辞書を、ガルシアマルケスは絶賛しています。
マリア・モリネールについてガルシアマルケスが1981年に書いた文章を、田澤耕さんが翻訳しました。翻訳文は「図書2008年3月号」に掲載されました。
田澤さんが書いた翻訳をそっくりコピーした文を、「ネット上切り抜き帖」として載せておきます。
私は読んで「いいなあ」と思った文章を切り抜きしておくのですが、整理整頓ということがまったくできない性格です。きちんとファイルしておかないので、「もう一度読みたい」と思ったときに、どこにその切り抜きがあるのかわからなくなってしまうことがしばしば起きます。これからますますボケが増えていくでしょうから、紙の切り抜きをしまっておくより、ネットに載せて見出しをつけておくほうが、探しやすいとわかりました。
自分のための「切り抜き」コピーですが、もしマリア・モリネールの一生に興味があったら、読んでみてください。ガルシアマルケスのマリア・モリネールへの敬愛の念が伝わる文章です。
著作権はガルシアマルケスと田澤耕さんにあるので、商用の引用はできませんが、論評の一部としての引用は可能です。(引用の目安としては、紹介文、論評の文が引用部分より長いこと、という程度で、厳密な規定ではありません)
次回、ガルシアマルケスの文章を引用します。
<つづく>
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2009年01月27日
ぽかぽか春庭「マリア・モリネールが辞書を編んだ話」
2009/01/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(2)マリア・モリネールが辞書を編んだ話
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G・ガルシアマルケス著
三週間ほど前、マドリードに立ち寄る用事があったので、マリア・モリネールさんをたずねようと思った。しかし、彼女を見つけることは思っていたほど簡単ではなかった。知っていて当然のような立場にある人でも彼女が誰だか知らない人は少なくなかったし、彼女を有名な映画女優と混同する者まであった。苦労の末やっと、バルセロナで設計技師をしている彼女の末の息子と連絡を取ることができた。彼によれば、体調がすぐれないので、会うのは無理だということだった。私は、一持的な病気だろうから、こんどマドリードに来たときには会えるだろうと踏んだ。しかし、先週、ボゴダでマリア・モリネールさんが亡くなったという電話を受け取ったのだ。私は、自分が知らないところで永年にわたって私のために働いてくれた人をなくしたような気持ちだった。
マリア・モリネール--この夫人は、ひと言でいうならば、ほとんど未曾有と入っていいほどの功績を残した。たった一人で、自宅で、自分自身の手を使って、もっとも完全で役に立つ、もっとも神経の行き届いた、もしてもっとも楽しい、カスティーリャ語(スペイン語)の辞書を「書いた」のである。その名を「スペイン語実用辞典」という。合計三千ページにおよぶ二巻の辞書で、重さは三キロもある。スペイン王立言語アカデミーの辞書の倍以上の亮を持つ、私の意見では、倍以上すぐれた辞書だ。マリア・モリネールは、図書館司書の仕事と、彼女が自分の本来の仕事だと考えていた靴下にツギをあてることの合間にこの辞書を書いた。その息子の一人に、最近、「君たちの兄弟の内訳は?」とたずねた人があった。すると彼は「男が二人、女が一人、それと辞書が一冊」と答えたそうだ。この答えにどれほどの真実がこめられているかを理解するためには、その辞書がどのようにして書かれたかを見てみなければならない。
マリア・モリネールは1900年(彼女は「0年生まれ」という独特の表現を使っていた)、アラゴン地方の小村ベニサで生まれた。つまり亡くなったときには八十歳になっていたことになる。サラゴサで文献学を学び、国家試験に合格して司書の資格を得た。その後、彼女は、「人間の精神の物理的基礎」という奇妙な分野を専門とするサラマンカ大学の著名教授フェルナンド・ラモン・イ・フェランドと結婚した。マリア・モリネールは、子供たちを、他の多くのスペインの母と同じように育てた。つまり、十分に手をかけ、多すぎるくらい食べ物を与えて育てたのである。スペイン内戦の、物資が不足していた時代でもそれに変わりはなかった。長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師となった。次男が大学へ行き始めた頃、マリア・モリネールは、図書館で日に五時間働いた後もなお、自分の時間が余っていると感じるようになった。そして辞書を書くことでその時間を埋めることにした。
アイデアのもとは、彼女が英語を学ぶときにつかったLearner's Dictionaryにあった。これは実用辞典である。つまりことばの定義だけでなく、どのようにそれがつかわれるのかが示めされている。また、他のどんなことばで置き換え可能であるかということも書かれている。「この辞書は、文章を書く人のための辞書です」--マリア・モリネールは自分の辞書をさしてこう言ったことがある。もっともなことである。それに引き替え、スペイン王立アカデミーの辞書では、ことばは使い古され、まさに死のうとしているときなってやっと登録される。また、その定義は、釘にひっかけられた干物のように融通が利かないものだ。1951年、マリア・モリネールが辞書の執筆を始めたのは、まさに、そのような死化粧職人たちのやり方に異議を唱えるためだったのだ。彼女は二年で脱稿するするつもりだった。しかし、その十年後、作業はまだ半分しか終わっていなかった。「いつ聞いても母は『あと二年』と言っていました」と次男が話してくれた。最初は、日に二,三時間机に向かっていた。しかし、子供たちが次々に結婚して家を出ていくにつれて、自由な時間が増え、ついには日に十時間も辞書の執筆にかけるようになった。もちろん司書として五時間働く以外にである。1967年、彼女は、辞書が一応、完成したことを認めた。五年も前から待ち続けていた出版者グレードス社がついにしびれを切らしたのがその主因だった。しかし、彼女はカードをとり続けた。そして亡くなったときには辞書に追加されることを待つばかりのカードの厚みは数メートルに達していた。この奇跡のような女性は、じつは人生の時間の流れを相手に、速度と持久力を同時に競っていたのである。
息子のペドロが彼女の働きぶりを語ってくれた。朝五時に起き、四つ切の紙をさらに四等分し、なんの用意もなくいきなり単語カードを作り始める。道具は二つの書見台と最期まで使い続けたタイプライターだけ。まず、部屋の真ん中の机の上で仕事を始めるが、本やメモの山ができると、二脚の椅子の背もたれに立てかけた画板を使い始める。夫は学者らしく冷静に距離を置いているように見せかけてはいたが、じつは、ときどき忍び込んで、カードの束の厚みをメジャーで計りその結果を息子たちに伝えるのだった。あるとき、夫は彼らに、もう辞書はZまで到達している、と報告した。しかし、それから三ヶ月後に、またAに戻ってしまったと、がっかりして言ったのだった。それも当然のことだった。マリア・モリネールには独特のやり方があったからだ。つまり、毎日の生活で飛び交うことばを空中で捕らえるのである。「とくに新聞で見つけることばね」とある雑誌のインタビューに答えて彼女は言っている。「なぜなら、新聞には生きたことばが載っているんですもの。今、使われていることば、必要があって創り出されていることばが載っているの」。例外は一つだけ。いわゆる俗語である。いつの時代にもスペインでは、たぶんもっともよく使われてきた類のことばである。これは彼女の辞書の最も大きな欠点だ。彼女もそれに気付くのに十分なだけ長く生きたが、それを正す時間はなかった。
マリア・モリネールは晩年をマドリード北部のアパートで過ごした。植木鉢でいっぱいの広いテラスがあり、あたかもことばを育てているかのように育てた。辞書が判を笠ね、彼女が目標としていた一万部を突破したというニュースは彼女を喜ばせた。王立言語アカデミー会員の中にも、恥じることなく彼女の辞書を引く者が出てきていた。ときに彼女のもとに新聞記者が迷い込むこともあった。そのうちの一人がたくさん手紙を受け取っているのに何故返事を書かないのかとたずねると、涼しい顔をしてこう言ったそうだ。「だって、私って怠け者だから」。1972年、彼女はスペイン王立言語アカデミー会員候補に女性として初めて推挙された。しかし誇り高きアカデミー会員諸氏には、男性優位の犯さざるべき伝統を買える勇気はなかった。今から二年前、やっと重い腰を上げて女性会員を受け入れたが、それはマリア・モリネールではなかった。マリア・モリネールはそれを聞いて大変喜んだ。入会記念講演をしなければならないと考えるだけでdぞっとしていたからだ。「私、いったいなんて言えばいいの。靴下にツギを当てることしかしてこなかったのに」と彼女は言ったのである。
1981年2月10日 「エル・バイル」紙
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[訳者注]
最近の状況からは想像つきにくいことかもしれないが、1990年代に入るまで、我が国では西和辞典といえば、故・高橋正武が1958年に著したものしかなかった。(1978年に増補)スペイン語を学ぶ人、教える人、そして翻訳をする人が皆、これを使っていたのである。もちろん、貴重な辞書ではあったが、限界もあり、時の経過と共にそれが目立つようになって行った。いきおい専門家や上級学習者は、スペインで出版されている西西辞典に頼ることになるが、じつは彼の地にもそう優れたものがあるわけではなかった。そこに現れたのがこのマリア・モリネールの実用辞典である。正確な語義はもちろんのこと、例文、慣用句が豊富なうえ、用法に関する、痒いところに手が届くような丁寧な記述まで盛り込まれたこの辞書の出現はまさに僥倖であった。スペインには現在よい辞書が少なくないが、いずれも多かれ少なかれ、マリー・モリネールの辞書に負っている。
この記事は大学院の授業の準備をしているときに資料の中から出てきた。四半世紀前のものだが、興味深いので訳出した。
(G・Garcia Marquez・作家)
(たざわ こう・法政大学・辞書学・カタルーニャ文化研究)
" La mujer que escribio un diccionario" by Gabriel Garcia Marquez. C1981 Gabriel Garcia Marquez. By permission of Agencia Literaria Carmen Balcells,S.A., Barcelona, through Tuttle-Mori Agency,Tokyo
「図書2008年3月号」より
<つづく>
06:02 コメント(5) ページのトップへ
2009年01月28日
ぽかぽか春庭「ことばを紡ぐ」
2009/01/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(3)ことばを紡ぐ
小田康之さんはブログのなかで、スペイン語を専攻した上智での学生時代に「西西辞典」をよく使った、と思い出を書いています。小田さんは、現在サンフランシスコに在住し、英語関連の会社を運営している方です。有名商社で働いたあと、現在は英語を駆使したマーケティングやコンサルタントの仕事で活躍しています。小田さんはブログ中で、マリアの辞書について「マリア・モリネールという女性が編纂した少々ヒステリックな大型辞典」と評しています。
「ヒステリック」と言いたくなる小田さんの気持ちもなんとなくわかります。子育てを終えた女性が、50代前後(アラウンド50をアラフィと呼ぶのがトレンディとか)から80歳で永眠するまで、来る日も来る日も古今東西の本や新聞雑誌からことばの用例を抜き出す作業を繰り返す。AからZまでようやく終えたとおもっても、また新しい用例が見つかるから、またAへ戻って作業を続ける。
編み目をほどいてはまた編み続ける編み物のように、一目一目、果てしなく根気よく続ける。このような仕事は、たしかに男性の目から見たら「ヒステリック」に映るのかもしれない。
小田さんの用語のヒステリックとは、精神医学用語の、解離性障害、身体表現性障害をさすヒステリーではなく、ヒステリーの語源となった「子宮の」つまり「女性特有の」とでも訳すべき、やや蔑視を含んだ意味において使用されていると、私は感じました。
マリアの編んだ「息苦しいほど厳密なことばの編み目」としての辞書は、女性特有の「抑圧された女の人生の代償としての仕事」に見えるのだろうと、小田さんの「ヒステリックな辞書という見方」を解釈しました。
でも、編み物や織物が好きな人にとって、このような細かい繰り返しの作業や、編み上がったと思ったのに、模様編みの目に間違いを見つけて、糸をほどいて編み直す、そんな作業はつきものです。編んだものを一度ほどいて編み直し、また根気よく編み続ける。
このような作業で手仕事は成り立っています。キルトやこぎん刺しなどの刺し子、刺繍、女性が主な担い手になってきた糸の仕事は、ほとんどが「同じ事の繰り返し」を丹念に続けていくものです。
マリア・モリネールは辞書を編纂しました。文字通り、一目一目、辞書を編んでいったのだと思います。編み目模様を間違えたら、糸をほどいて編み直す。その作業がヒステリックなものに見える男性には、一日中絨毯の糸を結びつづけても5mmしか織り上がらず、二日かけてやっと1cmしか進まない絨毯織りとか、ちくちくと布に糸を刺していく刺繍や刺し子などは「女の仕事」としてつまらないものに感じられるでしょうね。
男は、世界を相手にして駆けめぐり、ダイナミックに活動する仕事を選ぶのだ、と感じている方も多い。選挙戦に勝ち抜いて大統領まで成り上がるとか、イランやアフガンでほんとうに戦争をするとか、営業開拓に走り回って、社内NO.1の成績を勝ち取るとか、、、、
「女特有の○○」と表現すると、そこにはなんとドメスティックなちまちまとした感覚が浮かび上がってしまうことでしょうか。一日中編んでいっては、編みほぐす。キルトの小布を一枚一枚をつないでいって、配色がうまくいかずに糸をほぐす。
「世界を相手の重要なお仕事」をなさっている男性には、このような作業が「ヒステリック」にうつるのだと思いますが、どのように評されようと、私たちはこのような「ヒステリックな作業」を紡いで、日々をすごしているのです。
<つづく>
03:31 コメント(6) ページのトップへ
2009年01月29日
ぽかぽか春庭「ことばを縫う」
2009/01/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(4)ことばを縫う
「つぎあても パッチワークと 言えば粋 (粗忽)」というコメントをもらいました。有難うございます。一目一目大切に編み上げた仕事がマリア・モリネールの辞書なら、私の仕事は、使い古しの布を縫い集めたパッチワーク。古今の日本語で表現された「織物染め物の布地のような言葉の切れ端」を集め、丹念に縫い合わせたキルトのような「日本語言語文化論考」になると思います。さあ、どんなキルト作品にしようかしら。「ヒステリックな論考」と言われるかもしれないけれど、粋に仕上げたいものです。
私の専門は「日本語言語文化」です。
教育面では、私立大学では日本人の学部生相手に「現代日本語論」「社会言語論」「日本語教育研究」を講じています。国立大学では留学生教育を担当し、日本語文法や漢字の授業をしています。
あまりにも幅広い分野を受け持っているので、同僚からは「1週間に5日授業をして、授業の準備は、いつしてるの?」と言われますが、土日、夏休み冬休み春休みをつぶしてやっています。家事は今のところ、お茶碗洗いと洗濯だけになりました。料理やゴミ出しなどを娘と息子が分担するようになりましたので。それでも、自転車操業の毎日。体力勝負の日々です。
研究面では、修士課程まで日本語文法統語論が中心でしたが、昨年から語彙論や比較文化比較文学も含めて「カルチュラルスタディ=文化研究」の幅広い分野に手を染めています。
研究結果がどのように帰着するのか自分でも先行き不安ではありますが、論文をまとめる「生みの苦しみ」もまた楽し、といったところ。大学専任教師なら研究も仕事のうちで給与に含まれていますけれど、非常勤講師はいくら研究してもそれは自分の「勝手な趣味」。
授業ヒトコマこなしてナンボという雀の涙のような講師料で生計をたてながら、博士論文完成へ向けてちくちくと古布を縫い合わせています。
自分のこのような来し方に「なぜ、こんなに貧乏な暮らししかできない人生だったのだろう」と思うこともあります。でも「こつこつ自分のできることをやりとげる、それでいいじゃないか」と、反省するときもあります。
反省するときのライフモデルのひとりがマリア・モリネールです。「ことば」をめぐって、「ああ、こんなふうにことばと関わって生きていけたらいいのになあ」と思える女性の一人、スペイン語の辞書を編纂したマリア・モリネールを、ガルシアマルケスの文によって紹介しました。
マリアの夫はサラマンカ大学の教授でした。図書館司書という職業を持っていたのも、家計を維持するためではなく、「人生には働くことが必要だ」と感じた自分自身のために従事していた仕事でしょう。また、彼女の子どもたちは、長男は医学者、次男は設計技師、長女は教師になって、マリアは母として、娘息子を立派に自立させたのだと言えます。
マリアの生活に比べると、我が家、生活状況が違いすぎます。長女長男、どうにも育ち上がらずパラサイトしていますし、夫に収入がないため、ひたすら家計維持のために働いてきた私の労働には、経済的にも時間的にもまったく余裕というものがありませんでした。私とマリア・モリネールとでは、さまざまな条件が異なります。
それでも、子供の成長後、「子育てのかわりとして自分のためのライフワーク」を持つという点では、マリアの一生をお手本にしたいと思っています。
マリアはコツコツとスペイン語の用例を集めました。マリアのスペイン語辞書(西西辞典)は、日本のスペイン語学習者、翻訳者にも大いに助けになり、日本語とスペイン語をつなぐ架け橋となりました。
私も、日本語教育を通じて、日本語と他の母語を話す人の架け橋のひとつになりたいと思っています。そして、日本語言語文化についての思索をコツコツと編み上げ、まとめていきたいと思っています。ひとりで辞書を編纂する根気は私にありませんが、日本語言語文化の真髄について考え続けてことばを縫い合わせていきたいと思っているのです。
<つづく>
もんじゃ(文蛇)の足跡:
春庭の「日本語言語文化論考」の論文がどんなパッチワークなのかのぞいてみたいと思う奇特な方がいらしたら、「春庭の論文倉庫」にしまってあるのをのぞき見してくださいませ。
一例として「日本語言語文化における『しろ』」というタイトルの論考は下記に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/diary/d69#comment
春庭論文の「倉庫」ページ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/nipponianippon/bbs
04:48 コメント(4) ページのトップへ
2009年01月30日
ぽかぽか春庭「ことばを織る」
2009/01/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばを編む(5)ことばを織る
私は、これまで数十年間「ことば」に向いあってきました。これから先、これらのことばをうまくまとめていけるかどうかわかりませんが、マリアの生き方を手本として、あと30年は「靴下にツギをあてながら」書き続けていきたいと思っているのです。
作家、文系研究や教育の仕事を選ぶ男性は、どちらかというと「世界を相手に駆けめぐる」式の人より「こつこつ言葉を紡ぎ上げる」型の方が多いように感じます。たとえば大江健三郎。「男のオバサン」と揶揄されることもあるこの作家が、「言葉を編み上げ、またほどいて編み直す」ことの重要さを語ったことがありました。
編み物の編み目をほどいてはまた編み続けるように、学んで学びほぐし、教えては教え直す、こんな学び方「アンラーン」について、大江健三郎がコラムを書いています。大江は鶴見俊輔の新聞に載ったコラムに啓発されて同じ新聞に感想を書いたのです。
鶴見俊輔は「ヘレン・ケラーからアンラーンという言葉を教わった」というコラムを2007年末に書きました。
私は鶴見と大江のコラムを感銘深く読みました。
鶴見と大江のコラムの感想を「アンラーンとアンティーチ」と題してについて、「確か、春庭も前に書いたことがあったよな」と思って、どこにあるか探しました。
紙に書いたのを探したらたぶん、見つからなかったでしょう。整理整頓、下手ですから。でも、ありがたいネット検索。「アンラーン アンティーチ」のアンド検索で出てくるのは自分のサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobachie0611a.htm
アンラーン、学んで学びほぐす。アンティーチ、教えて教えほどく。こんな編み物の一目ひとめのような学び目を大切にしていきたいと思っています。
定年の時期に入った同級生はつぎつぎ「楽隠居」「孫のお世話係」を始めているという年齢なのに、私はあと10年は働くつもり。パラサイト娘と息子に寄生されているのでやむをえないことではありますが、仕事の面では「うん、私そこそこがんばってる」と、言えると思います。
女性が、いろり端で繕い物や編み物をしながら子どもたちに童歌や昔話を語り聞かせたり、生活の技についてのことわざを伝えたりしてきたこと、織物や編み物縫い物を繰り返し繰り返しして続けてきたこと。そんなひとつひとつの手仕事を大事に思っていきたいなあ、と、来し方を振り返っています。
次回シリーズは、糸の仕事のうち染め物と織物について。次次回シリーズは、女性と伝承について。
<おわり>