にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ブランコをめぐって

2011-02-26 19:03:00 | 日本語言語文化
2010/04/01
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(1)ブランコ

 sumitomoさんコラムで「なぜ鞦韆(しゅうせん)は春の季語なのか」という疑問があったのを見て、ここはひとつ知ったかぶりを発揮したいと思います。これが私の持ち味なので。「ことばにかけては専門家」という気概なしには日本人学生のワカランチン達に日本語学教えるのも留学生に日本語を教えるのもやってられない。日本語について、何かしら疑問質問を見つけたら答えるのが春庭の日常生活復活です。

 参考資料のひとつは青空文庫より原勝郎『鞦韆考』です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001037/files/24387_15654.html
 ウィキペディアの「ブランコ」についての記述など、多くの「ブランコ」の解説は、この原の著作からの引用孫引きコピーペーストでできあがっていますが、春庭の解説は、本日の記述の一部には原の考察を参考にしていますが、そのほか、民俗学民族学文化人類学などで学んできた雑学一般を動員して5回ほど連載します。春の復活祭蘊蓄自慢を、春庭といっしょにブランコに乗って、上がったり下がったりお楽しみください。

 民俗学や文化人類学では、「ブランコ乗り」は、広く世界に分布する「行事・遊び」であるとされています。古代ギリシアの行事という説明をしている辞書類もありますが、ぶらんこ乗り行事は、ギリシアからオリエント地方、アジア地域を含む広い地域に分布していたのではないかと思います。

 インドでは紀元前1000年ころのヒンドゥ教ヴェーダの記録としてブランコが登場しているそうです。(日本国語大辞典による「日国フォーラム季節のことば」には「紀元前2000年」ごろのヴェーダにブランコの記載がある、と書いてありますが、ヴェーダの成立は最も古い『リグ・ヴェーダ』が紀元前1,200年から1,000年頃、インド北西部で書かれていますから、「今から2000年くらい前に」の意味で紀元前2000年と書いたのではないかと思います。辞書辞典の記述でも疑ってかかれ、という見本です。)

 古代ギリシャやローマで、春に「ぶらんこ祭」が行われました。木の枝に縄を吊るし、女性達が命の誕生(子孫繁栄や作物の豊穣)を祈ってブランコを漕いだ祭です。古代ギリシャではバッカス神の祭りすなわちブドウの収穫祭「アイオラ祭」でもブランコを漕いだといいます。

 アジアでも、たとえばタイの山岳少数民族アカ族の伝統行事「ブランコ祭り」。収穫の恵みを乞う儀式であり、農作業を行う女性をねぎらう労働感謝祭でもあります。タイ山岳地帯の雨期乾期の2季の中では、毎年雨期が終わる9月初旬から中旬にかけて、ブランコ祭りが行われるそうです。

 韓国では、旧暦4月8日(釈迦誕辰日)から5月5日(端午の節句)まで、春の行事としてクネトゥィギ(長ブランコ乗り)が行われてきました。春の祭りとして男性はシルム(韓国相撲)で強さを競い、女性は特設の長いブランコ(クネ)でどれだけ高く上がれるかを競います。村の入り口や広場の木にぶら下げたり、足場を組んで作った長いブランコをどこまで高く漕げるか。女性が外に出て運動をする機会が少なかった韓国社会では、春の空気を思い切り吸って、身体を解放できる行事だったことでしょう。

 次回は中国と日本での 鞦韆について。

<つづく>
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2010年04月02日


ぽかぽか春庭「ゆさはり」
2010/04/02
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(2)由佐波利ゆさはり

 「鞦韆」は音読みでは「しゅうせん」ですが、俳句や短歌では「鞦韆」と書いて「ふらここ」または「ぶらんこ」などの振り仮名がついている場合もあります。現代中国語ではブランコを「秋千」と表記します。台湾の繁体字では「鞦韆」です。

 中国では冬至後105日目を「寒食節」と呼び、この日に女性が「ぶらんこ」をする行事が成立しました。元はギリシアやインドと同じように農耕儀礼の予祝行事(農耕開始前に秋の豊作を祈ってまえもって祝うのが予祝)だったのでしょう。
 寒食節の翌日が、二十四節季のひとつ清明節です。2009年に赴任したときの中国では、清明節は国家の休日とされ、3日連休となりました。

 ぶらんこは北狄(ほくてき北方の異民族。南蛮、東夷、西戎と共に、漢民族から見て文化が低いと見なされた異民族の呼び名)から中国にわたったという説があります。
 古代中国では、北狄が古くから行ってきた民族行事「シューセン(元の北狄のことばでどのように発音したかわかりませんが)」が伝わり、唐時代には公的な行事になりました。
 唐の玄宗皇帝は、ブランコに乗るとまるで羽化登仙(人間に羽が生えて仙人となり天に登ること)の感じを味わうことができるというので、これに「半仙戯」の名を与えました。

 春の行事「寒食節」のひとつとして、春の農耕を始める予祝行事として取り入れられたブランコ、シューセンという発音に漢字を当てはめて、秋千、秋遷、鞦韆などと表記されました。鞦韆という表記をしたのは、ブランコの紐が革製だったのかも知れません。

 日本でも、古くからアジア地域と同じようなブランコ乗りの行事はあったと思われます。倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)には「由佐波利ゆさはり」という語が記されており、これがブランコの古語です。現代語の「ゆさぶる」や、オノマトペ(擬態語)「ゆさゆさ」などと同根の語と思われます。

 また、漢字で鞦韆と書かれた最初の記録は、平安初期に編纂された『経国集第11巻』の嵯峨太上天皇の漢詩とそれに和した滋野貞主の詩が本邦初です。

 『鞦韆考』を著した原勝郎は、もともと我が国にあった「ゆさはり」に鞦韆の漢字をあてはめたものなのか、鞦韆が唐から我が国に伝えられたのちに「ゆさはり」という和名ができたのか、あきらかではない、と慎重な記載をしているけれど、私は我が国にもともと由佐波利があった、と考える方が自然だろうと思います。農耕儀礼が稲作とともに日本列島に伝わったのは、漢字が定着するより前のことであり、唐から我が国に伝えられるまで、ブランコが存在しなかったとは思えません。広くアジア一帯でブランコ乗りがあったのですから、農耕とともに農耕儀礼も伝わったと見た方がいいように思います。

 唐でブランコ乗りが春の行事とされたのを受けて、日本でもブランコは宮中の春の行事となり、時代が下って俳句の季語が整えられたときに「ふらここ」「ふらんど」「鞦韆」は春の季語とされました。

 以上の解説が、sumitomoさんの「どうして、鞦韆が春の季語なのかしら~~と、気になっています」へのお答えですが、この後、ブランコ話は、延々続きます。

 「ゆさはり」のほかに、ふらここ、ぶらんこ、ふらんど、などの異称があります。現代の児童遊具としては、ブランコの名が浸透しています。
 児童の遊具として学校教育に取り入れられ、ほとんどの幼稚園や小学校に体育器具として設置されたのは、明治時代「富国強兵」の「強兵」を育てるべく体育教育が重視された頃からです。ドイツに留学していた「帰朝者」が「ドイツでは子供達がブランコを漕ぐことによって足腰鍛えている」と進言したと伝えられており、最初は西洋式のブランコが輸入されたそうです。体育教育史などにこのあたりの経緯は詳しく書かれているのかもしれません。

 全国各地どこの小学校にもあったブランコ。児童公園にも第一に設置されたのがブランコでした。私が幼かった頃も、園庭校庭にブランコはありました。幼稚園の庭や小学校校庭で、どれほどブランコを漕いだことでしょう。空へ吸い込まれるかと思うほど、高く漕ぐのが大好きでした。

 子供達が小さかった頃、団地の「仲良し広場」にあるブランコは順番待ちをしなければならないほど大人気。小さかった娘や息子をブランコに座らせてそっと背中を押してやる。さいしょは大きく揺れるのを怖がっていた子がキャッキャと喜ぶようになり、「もっともっと」と高く揺すってほしいとせがむ。やがて自分の足で漕ぐことを覚えて、もう背中を押さなくてもいいと言われるとき、親は子の成長を喜ぶとともに、ちょっと寂しい気もしたことでした。
 今は、、、、、娘息子をお花見に誘ったら「一人で行ってきなよ」と、背中を押されました。

<つづく>
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2010年04月03日


ぽかぽか春庭「春宵一刻値千金」
2010/04/03
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(3)春宵一刻値千金

 ブランコ文芸その1 蘇軾(1036~1101)「春夜」
 北宋時代の詩人、蘇軾(そしょく 別名:蘇東坡そとうば)にブランコを詠んだ有名な漢詩「春夜」があります。その第一句「春宵一刻値千金」はよく知られていますが、第4句に「鞦韆」が出てきます。蘇東坡は、食い気第一の私にとっては、大好物のトンポーロー(東坡肉:豚三枚肉の煮込み)の名前の由来になった人です。

春宵一刻値千金 花有清香月有陰 歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈
シュンショウ イッコク アタイ センキン
ハナニ セイコウ アリ ツキニ カゲアリ
カカンロウダイ コエサイサイ
シュウセンインラク ヨル シンシン
(春庭拙訳)
 春の夜はほんのひとときでも千金のねうちがある
 花には清らかなかおりがあり、月には光がある
 楼台(高殿)から歌声と笛の音が微かに聞こえてくる
 ぶらんこのある中庭に、夜は静かに更けていく

 昼の間、少女達が笑いさざめきながら遊んでいたブランコが、誰もいなくなった中庭にひっそりとある。中庭に満ちていた春昼の光が目に残り、笑い声が残響として耳にある中、春の夜の密かに甘い花の香りと月の光が満ちている。かすかに聞こえる笛の音。春の夜は静かに時を刻む。

 ブランコ文芸その2 李商隠(812~858)「無題」(読み下しは、加藤徹明治大学教授による)
八歳偸照鏡、長眉已能畫。八歳 偸みて鏡に照らし、長眉 已に能く画く。
十歳去踏、芙蓉作裙衩。十歳 去りて青を踏み、芙蓉 裙衩と作す。
十二學彈箏、銀甲不曾卸。十二 箏を弾くを学び、銀甲 曽て卸さず。
十四藏六親、懸知猶未嫁。十四 六親に蔵る、懸めて知る 猶ほ未だ嫁せざるを。
十五泣春風、背面鞦韆下。十五 春風に泣き、面を背く 鞦韆の下。
(春庭拙訳)
八歳のころ、こっそり鏡をのぞいて大人のような長い眉を描いてみた
十歳のころ、芙蓉の花のスカートをはいて春の野原に出かけ、青草を踏んだ
十二のころ、お箏のおけいこをして、銀の爪をいつもはめてた
十四のころ、まだ嫁入りできない身を羞じ、家族の目を避けて暮らした
十五のころ、ブランコの下で顔を隠し、春風の中でひとりで泣いた
=======
 玄宗皇帝もブランコを愛好した唐の時代の詩人李商隠の作品。「春宵一刻値千金」のようには有名ではありませんが、少女の成長を描いた詩です。
 15歳で「オールドミス」となってしまったことを泣くなんで、唐時代の少女の乙女心が偲ばれます。私なんて、24歳過ぎたら「いきおくれ」と言われた時代に30すぎまで独身でした。

 姉の家の二階に住んでいて、中学校の国語教師をやめたあとは、姪の子守にあけくれました。姪をブランコにのせ、背中を押してやる。勢いがなくなって高く上がらなくなると「おばちゃん、押して」と催促する。「おばちゃんじゃなく、おねえちゃんと呼んだら押すから」というと、「おねえちゃん、押して!」「美人のおねえちゃんって呼んだら押す」「美人のおねえちゃん、押して」
 春の一日、ブランコは高く上がり後ろにとんでいき、ひねもす行ったり来たりかな。

 美人のオネーサン、32歳でようよう結婚。
 ブランコ大好きだった姪も、いつしか結婚離婚。今はシングルマザーで4人の子を育てています。姪の長女はこの4月に公立高校入学、長男中三。次女は中学入学、三女は小学六年生。ひとりでよくがんばっているなあと思います。

<つづく>
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2010年04月04日


ぽかぽか春庭「嵯峨天皇のブランコ」
2010/04/04
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(4)嵯峨天皇のブランコ

ブランコ文芸その3 嵯峨天皇雜言102,鞦韆篇一首『経国集巻11』より
 春庭、試訳。嵯峨天皇のブランコの漢詩「鞦韆篇」の現代語訳というのを、探したけれど見つけられなかったので、勝手に訳してみました。漢文授業をさぼったので、たぶん、間違いがたくさんあると思うので、乞う御指南。

 嵯峨天皇(786~842年)御製
幽閉人、粧梳早、正是寒食節,共憐鞦韆好、長縄高懸芳枝。
窈窕翻翻仙客姿。玉手争来互相推。繊腰結束如鳥飛。初疑巫嶺行雲度、漸似洛川廻雪帰。
春風吹休体自軽。飄飄空裡無厭情。佳麗以鞦韆為造作、古来唯惜春光過清明。
踏雲双履透樹差、曳地長裾掃花却。数挙不知香気尽、頻低寧顧金釵落。嬋妍嬌態今欲休。
攀縄未下好風流。数人把著忽飛去、空使伴儔暫淹留。
西日斜,未還家。此節猶伝禁火,遂無灯月為灯。鞦韆樹下心難歇、欲去踟躇竟不能。
(春庭試訳)
幽閉人:(冬の間)閉じ込められていた人々よ、
粧梳早:朝早くから化粧をし髪を梳いて、
正是寒食節:今ちょうど寒食節の日に、
共憐鞦韆好:共に鞦韆を楽しもう、
長縄高懸芳枝:良い枝に長い縄を高く懸けて。
窈窕翻翻仙客姿:仙女のような姿で美しくしとやかに翻って、
玉手争来互相推:玉のような手は互に鞦韆を押すことを競いあう。
繊腰結束如鳥飛:腰に結わえた布の紐は鳥のように飛びたち、
初疑巫嶺行雲度:初めは峰の雲を渡る巫女かと疑うほどだったが、
漸似洛川廻雪帰:ようよう洛川に似て雪が帰るところへ戻る。
春風吹休体自軽:春風はおのれの身体が軽くなるように吹き、
飄飄空裡無厭情:飽きもせず心を無にして空を漂う。
佳麗以鞦韆為造作:美しい女たちは鞦韆を作りあげ、
古来唯惜春光過清明:古来、ただ春光が清くあきらかに通り過ぎる。
踏雲双履透樹差:木々の間を突き通って、両足の履きものが行き来する、
曳地長裾掃花却:長い裳裾は、花を掃くようにひきずり、
数挙不知香気尽:香気は尽きることなく薫ってくる、
頻低寧顧金釵落:(鞦韆の上下につれて)金のかんざしがしばしば落ちてくる
嬋妍嬌態今欲休:女達がキャーキャーいう嬌声も少しは休んだらよいのに。
攀縄未下好風流:縄はまだ風流に上へ登り、
数人把著忽飛去:何人かはたちまち飛び去っていったが、
空使伴儔暫淹留:ともに長逗留することもある。
西日斜:陽が西に傾く頃になっても、
未還家:まだ家へ還らない者もいる。
此節猶伝禁火:禁じられた火が伝わっていくように、
遂無灯月為灯:月明かりになるまでこぎ続ける。
鞦韆樹下心難歇:まことに鞦韆の樹下の心は休む間もなく、
欲去踟躇竟不能:去っていくことをためらうばかり。
==========
 嵯峨天皇御製の「鞦韆篇」は、春の一日をブランコに乗って高々と漕ぐ女達の嬌声と、それを愛でる平安貴公子たちの雅な姿が彷彿としてくる漢詩です。春の光のきらきらしさや春風が見え、裳裾を翻してブランコを漕ぐ女官たちの楽しそうな声が聞こえてきます。

 漢詩のカの字も知らない私が下手な訳を試みましたが、どこかに名だたる漢学者たちの翻訳が出ていたら、教えてください。私の下手な現代語訳でも、この嵯峨天皇の一首がすばらしい出来の漢詩であることがよくわかりましたけれど、きちんと漢詩漢文を習った訳ではありませんので、テキトー訳です。

 私の訳はいいかげんですが、日本の漢詩について辛口の批評をすることの多い中国人も、嵯峨天皇ら『経国集』などの作品、空海の漢文などは高く評価しているそうです。中国語として読んでもよく意味がわかり、詩の形式をきちんと備えているということです。時代が下った日本の漢詩は、「和臭」があると言われ、中国語としては「中国人、そなこと言わないあるよ」みたいな語感になるそうです。私としては、日本の漢詩は日本の文芸なのだから、中国語として完璧でなくてもいいという考え方ですけれど。

<つづく>
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2010年04月05日


ぽかぽか春庭「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」
2010/04/05
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(5)ゆあーんゆよーんゆやゆよん

 日本の口語詩の中にうたわれたブランコ。学校のブランコ、サーカスの空中ブランコ、いろんなブランコがさまざまな詩情をゆらします。

ブランコ文芸その4 中原中也「サーカス」詩集『山羊の歌』より
幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒(さか)さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が 安値(やす)いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら) 夜は劫々(こうこう)と更けまする
落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

友川かずきによるギターと歌語り
http://www.youtube.com/watch?v=cAr4lC7hTv8&feature=related

ブランコ文芸その5 高見順「揺れるブランコ」『詩集 死の淵より』
  夕暮れの空地で
  ブランコが揺れている
  今し方まで子供が乗っていたのだろうが
  駈け去った子供の姿はもう見えない
  それはほんとは子供ではなくて
  すべてを心得ている
  しかし人の眼には見えない何物かなのだ
  そうだ ブランコだってその何物かと一緒に
  ほんとはここから消えたいのだ
  揺れているのはそのせいだ
  夜がその姿を隠してくれる前に
  自分からここを立ち去りたいのだ
  ここ 人がきっと立ちどまって
  暗い眼つきでブランコを見るここ

 ブランコ文芸その6 工藤直子「ブランコ」詩集『こどものころにみた空は』より
  さいしょに ゆりちゃんが ぶらんこしました
  ゆりちゃんは ようふくを おしりのしたに しいて
  そよそよ のりました
  わたしは ようふくを ひろげてのると
  かぜが すかすか きもちがいいのにと おもいました
  ゆりちゃんは おにんぎょうのように わらって
  ぶらんこから おりました
  つぎに そうちゃんが のりました
  そうちゃんがのると
  ぶらんこは ぎこんぎこんと うるさいのです
  つぎは わたしなので かおが わらえてきました
  ゆれている ぶらんこを おいかけて つかみました
  いち にの さんで ぶらんこを こいで
  あしを まげたり のばしたりしますと
  ぶらんこが どんどん たかくなります
  かぜが まえと うしろから ふきます
  すかーとが うみの なみみたいです
  ゆりちゃんも そうちゃんも ちいさくなりました
==========
 ブランコには、だれでも甘くなつかしい郷愁を感じます。詩のほか、テレビドラマや映画でも、ブランコというのは印象深いシーンを作るのに欠かせないアイテムとなっています。
 日本の映画で一番有名なシーンは黒澤明『生きる』でしょうか。死期をさとった市役所課長が、最後の作品として公園とブランコを作るというストーリー。公開時のポスターも、主人公の志村喬がブランコに座っている図柄です。
 デミル『史上最大のショウ』や、キャロル・リード『空中ブランコ』など、サーカスのブランコを前面に出した映画もありますが、ワンシーン、主人公がひとり寂しくブランコに座っていたり、恋人同士が恋を得た喜びを身体いっぱいに表してふたりで漕ぐシーンなど、ブランコは使い勝手がよい。
 新しいところでは、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』の冒頭に、夕方の公園でハリーがひとりブランコに乗って、仲良さそうに帰って行く親子を見送るシーンとか。
 まっき~さん、「ブランコシーン・ベストテン」を「テーブル」に載せてください。

 ひところネットで話題にされていたテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』のオープニング(CMでもよく登場します)。ハイジが乗っているチョー長い紐のブランコは、計算によると最高速度は時速60 km/hを超えるそう。ジェットコースターの落下速度でも50km/hなので、握力がそう強くもなさそうなハイジは、ぶっちぎれて落ちるんじゃないか、というのですが、、、、私たちはメルヘンの中に生き、信じたいことを信じ見たいものを見ているので、ハイジアルプスの空の中、時速60km/hのスピードで楽しそうに漕いでいます。

 そう、少々の危険はあるかもしれないけれど、ブランコを漕ぐ楽しみを子供から奪うのは悪しき安全政策だと思います。各地の公園からブランコ撤去が続くのは、事故があった場合の訴訟リスクを避けるための行政措置だそうですが、、、、
  いち にの さんで ぶらんこを こいで
  あしを まげたり のばしたりしますと
  ぶらんこが どんどん たかくなります
  かぜが まえと うしろから ふきます
  すかーとが うみの なみみたいです

こんな爽快感を知らずに成長するのは、安全ではあっても寂しいんじゃないかしら。


<つづく>
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2010年04月06日


ぽかぽか春庭「をとめすさび音読のすすめ」
2010/04/06
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(6)をとめすさび

 4月3日掲載の李商陰「無題」のブランコ漢詩に、春庭の下手な直訳をつけましたが、佐藤春夫(1892(明治25)~1964)が「をとめすさび」というタイトルの訳詩を作っていたことがわかりました。漢詩「無題」が「をとめすさび」というタイトルになっていて、「ブランコ」というタイトルではなかったので、サーチ網からこぼれました。

ブランコ文芸その7 佐藤春夫「をとめすさび」
  八つの歳人目をしのび
  まそ鏡とりてぞかける
  三日月の眉引ながく

  十の歳よき衣(きぬ)このみ
  若草の野べにあそぶと
  花芙蓉裳に縫ひとりぬ

  十二には琴をまなびて
  おもしろのしらべゆかしく
  琴爪もはづす間なしに

  十四には人目はぢらひ
  まゆごもり母の飼ふ子は
  嫁ぎゆく日をぞしのべる

  十五には春風に泣き
  うなだれてひとり立ちにき
  鞦韆(ふらここ)を背面(そがい)にしつつ
=========
 佐藤春夫による李商陰の訳詞は、五七調で整えられ、朗読すると心地よくことばが進んでいきます。十五過ぎても嫁に行けない寂しさをブランコの下で泣くという乙女心をうたった詩ですが、五七調で読んでいるうち、ブランコが往復するリズムにも似て、春風のなかで泣く乙女の姿はなんとも言えぬ高揚感に満ちてきます。
 そして、ブランコには高く上がる高揚感とともに、落ちて死ぬかも知れない落下へと向かう負の高揚もあるのです。(カイヨワの「遊びの四原則」のなかの「めまい」の感覚)
 ブランコは生命の高揚を生み出すとともに落下への負の高揚を繰り返す、そのリズムが死と再生の祭りとなるのです。

 ことばのリズムは大きな効果を生んでいます。
 留学生のための日本語授業を担当するようになってから22年。日本人学生のための日本語教育学や日本語学の授業を担当して10年になります。最近とみに、「意味がわからなくても、ことばのリズムや音響として音声を身体的に脳裏に刻みつけることの効果」を知らせる必要もあるのではないかと感じるようになりました。しかしながら、授業で扱うべき項目も多く、なかなか朗読の時間をゆっくりとることができないでいます。

 「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」も、「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいくわりんもふきとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」も、身体で感じてほしい日本語の響きです。ことばの音の楽しさを子供達に身体で感じ取ってほしい。

 昔は毎週1回やっていたのですが、最近は視覚障害者のための朗読ボランティアをする時間がなくなり、人に聞かせる音読の機会がないのですが、時々ひとりで本や新聞を音読しています。
 声を出すことは健康法のひとつなので、読経、詩吟、コーラス、カラオケ、音読、何でもよいから、一日のうち意識して集中的に声を出す時間をとるとよい。

 声を出そう今日の課題その1「をとめすさび」を音読してください。
 声を出そう今日の課題その2「サーカス」「揺れるブランコ」「ブランコ」を音読してください。

<つづく>
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2010年04月07日


ぽかぽか春庭「白いブランコ」
2010/04/07
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(7)白いブランコ

 声を出そう今日の課題その3「白いブランコ」を歌ってください。

ブランコ文芸その8 「白いブランコ」詞:小平なほみ 曲:菅原進 歌:ビリー・バンバン 1969年)

 ♪君はおぼえて いるかしら あの白いブランコ
 風に吹かれて 二人でゆれた あの白いブランコ
 日暮はいつも 淋しいと 小さな肩をふるわせた
 君にくちづけ した時に 優しくゆれた 白い白いブランコ

歌詞つきユーチューブ。
http://www.youtube.com/watch?v=pNn1kb1HUEM&feature=related

 「白いブランコ」は、歌っていても心地よい人畜無害な歌だと思います。
 そんな大甘のブランコに対して、以下の柳美里は、きりきりと切り刻まれるような、ひりつく思いに満ちています。
 柳美里 が最初に作詞した作品として、コアなゆうみりファンには知られているのでしょうけれど、私などブランコ文芸渉猟までぜんぜん知らなかった歌です。
 柳美里の本領発揮というか、椎名林檎やコッコと共通する尖鋭的な生と死のセンスが光っています。ブランコの落下が内包する死へと向かう感覚、生と死のあわいを行ったり来たりする感覚をブランコに乗せて揺れている感覚

 ブランコ文芸その9 「ブランコに揺れて」 作詞 柳美里 作曲 コイケタカヒロ  唄 奥田美和子

♪だれもいない11月の公園で ブランコに揺れて
剥き出しの夜のなか 月明かりでわたしの影が揺れた
わたしは目を閉じて揺れた
ポケットには剃刀 手首を切った
ブランコに揺られながら 行ったり来たり
ゆらぁり ゆら ゆら ゆらぁり
生きているの? 死んでいるの? 生きてたいの? 死にたいの? 
ゆらぁり ゆら ゆらぁり ゆら ゆら ゆらぁり ゆらぁり ゆら ゆらぁり、、、、、
♪だれもいない3月の海で 波に足を浸して 剥き出しの夜のなか
波にわたしの影が呑み込まれた わたしは目を閉じて揺れた
ポケットには薬 噛み砕いた 波に足を浸しながら 寄せては返す
ゆらぁり ゆら ゆら ゆらぁり
生きているの? 死んでいるの? 生きてたいの? 死にたいの?
ゆらぁり ゆら ゆらぁり ゆら ゆら ゆらぁり ゆらぁり ゆら ゆらぁり
生きているの? 死んでいるの? 生きてたいの? 死にたいの?
ゆらぁり ゆら ゆらぁり ゆら ゆら ゆらぁり ゆらぁり ゆら ゆらぁり、、、、
============

 奥田美和子の歌唱を聴いてみたい人はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=KwU9Ynqx_CU

 ついでに「夜のブランコ」若い女性が夜のブランコで不倫相手を待っているって歌。
歌:谷山浩子歌詞付き(作詞・作曲:谷山浩子)
http://www.youtube.com/watch?v=wezTSNnHLGE&feature=related
歌:斉藤由貴
http://www.youtube.com/watch?v=20EVSXVScjk&feature=related

 「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」という三橋鷹女の高らかな「奪うべし」宣言に比べて、「夜のブランコ」ははかなげで、不倫相手を揺れながら待っている若い女性。「(結婚)指輪ははずして来て」なんて、弱気なことを言いながらひたすら相手を待つ姿勢に、「もっとしっかりしいや!と背中をドツキたくなる気分。ま、不倫にも強気も弱気も「いろいろあらーな」がいいってことでしょう。

<つづく>
06:42 コメント(3) ページのトップへ
2010年04月08日


ぽかぽか春庭「春の祭典」
2010/04/08
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(8)春の祭典

 4月7日は姑のお供で墓参り。ランチはシビックセンター25階の椿山荘で、上から後楽園のお庭の桜を見下ろしながら。昼ご飯は「さくら天ぷら御膳」ってのを頼みました。さくら天ぷら御膳とは、何のことはない、桜エビのかき揚げでした。
 昼食後は、後楽園の中を散歩しようかと思っていたのですが、雨も止まないし、お庭の中は雨ですべるだろうから、85歳の姑の足下を心配して桜散歩は中止。午後の時間があいたので、飯田橋で映画2本立てを見ました。

 1本は『ココ&イゴール』。恋多き女であったココ・シャネルが一時期イゴール・ストラビンスキーのパトロンになり、イゴールの妻と4人の子供ぐるみ自分の別荘に住まわせていた、というストーリー。

 バレエ・リュスの「春の祭典」初演シーンからお話しが始まります。初演当時、20世紀初頭に「新しい芸術」を打ち出したバレエ・リュス(ロシアバレエ団)の団長ディアギレフ、天才ダンサーで振り付け師のニジンスキー、作曲のストラビンスキー。
 ストラビンスキーの「春の祭典」大好きです。私も35年前に「春の祭典」を発表会で踊ったことがありました。あの強烈なリズムと不協和音、私の青春の音楽です。

 子供達がココの別荘のブランコに興じるシーンが何度が出てきました。イゴールはブランコに乗る子供の背を押し、形はよき父を演じていますが、心はココへの情念に沸き立っています。ワンカットだけであるけれど、ストラビンスキー夫人のカーチャが、ブランコに座っているというシーンがありました。

 幼なじみの従妹カーチャと結婚したイゴール。ロシア革命によって財産を失ったストラビンスキー夫妻は、ココの経済援助に感謝しながらも、カーチャは夫の心が自分から離れてしまうことに気づき、別荘を出て行く決意をします。経済的な苦労をかけ通しだった病弱な妻への呵責に苦しみつつ、ココの魅力から離れられないイゴールは、イメージの中で、カーチャがブランコに座っている幻影を見ます。夫とココの不倫関係に悩みながらブランコに揺れているカーチャ。

 強くて自立していて夫を奪おうとしているココの別荘に住まわせてもらっている境遇に我慢できない妻カーチャがじっとブランコに座っている姿は、「弱い妻のほうが強い」という感じを受けました。自立した女であったココは、シャネルNo.5の開発と発売に情熱を注ぐ生活の中、ブランコには乗るシーンはありませんでしたけれど、ブランコを一瞥したなら、「ブランコは漕ぐべし愛は奪うべし」と言ったに違いありません。

 イゴールは結局のところ、病弱な糟糠の妻を捨ててしまうことはできなかったし、イゴールと別れたあと、ココには新しい恋人も存在したのだけれど、偶然なのか神のはからいなのか、1971年1月にに87歳でココが亡くなると、その3ヶ月後、1971年4月に89歳でイゴールが死去しています。

 映画は、エンドロールが延々続いて、エンドロールに興味のない客が席を立って出て行ったあと、まだシーンが続きました。ワンカット、ココが登場しています。だから、エンドロールで席を立っちゃいけないのよね。

 ブランコは春の初め「寒食節」に「春の祭典」として高く漕ぎ競うものでした。どちらのブランコがより高く空の中へと吸い込まれていくのか、春の祭りは愛を揺らし続けます。

 映画館へ行く前、夫の事務所に寄ったのですが、夫の「話がある」は、私が身を削ってようやく貯めた「息子の学費」を、会社の運転資金に回したいから、来月まで貸してくれ、という「ご相談」でした。

 娘と息子は、「昔のテレビドラマでは、子供の給食費をとりあげてギャンブルに使ってしまうってのが典型的なダメ親父だったけれど、うちの父、息子の学費取り上げて趣味の会社経営に使っているのと、給食費をギャンブルにつぎ込むのと同じだってこと、自分じゃわかってないところがより一層ダメだよね。利益を生まない会社経営なんて、ギャンブルと同じ、消費するだけじゃん」と、評しています。辛辣な評価ができるところは父親似ですが、だからと言って母を助けてアルバイトのひとつもしようかとならないところ、いったい誰に似たのやら。

 服も買わず、靴も買わず、百円ショップの化粧品ですごしてきた妻は、「貸すべきか貸さざるべきか」揺れています。妻のブランコはただ揺れ続けるだけ、、、、「ブランコは漕ぐべし愛は奪われるばかり、、、、」

<つづく>
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2010年04月09日


ぽかぽか春庭「ふらここ」
2010/04/09
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(9)ふらここ

 歳時記に載っている春の季語、「ふらここ」「ブランコ」「ふらんど」。私は「ふらここ」という響きが好き。「鞦韆」は「ふらここ」または「ぶらんこ」などのルビがついていない場合、「しゅうせん」という音読でよい。

 BSの「俳句王国」の中で ブランコの兼題で句会をしてましたと、ろくじょうさんからのコメントありがとうございました。番組の中で紹介された句は「ふらここや ぐんぐん漕げば 無敵なり」「ふらここや 影も日向も 風の中」などだったそうです。
 私はこの番組を見逃してしまいましたが、数種類の歳時記を繰ってネット検索もすると、江戸の小林一茶、炭太祗から、現代の句まで「ブランコ俳句」「ブランコ短歌」が集まりました。

ブランコ文芸その10 俳句
・ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭太祗
・ふらここや隣みこさぬ御身代 炭太祗
・ふらんどや桜の花を持ちながら 小林一茶
・ふらここのきりこきりこときんぽうげ 鈴木詮子
・ふらここや花を洩れ来るわらひ声 三宅嘯山
・日の暮れのぶらんこ一つ泣き軋る 渡邊白泉
・ぶらんこや坪万金の土の上 鷹羽狩行
・夜のぶらんこ都がひとつ足の下 肥あき子
・ぶらんこを漕ぐまたひとり敵ふやし 谷口智行
・鞦韆に腰掛けて読む手紙かな 星野立子
・鞦韆の十勝の子等に呼ばれ過ぐ 加藤楸邨
・鞦韆の綱垂る雨の糸に沿い 堀葦男
・鞦韆を父へ漕ぎ寄り母へしりぞき 橋本多佳子
・鞦韆に夜も青き空ありにけり 安住敦
・鞦韆にしばし遊ぶや小商人 前田普羅
・鞦韆の月に散じぬ同窓会 芝不器男
・鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
・鞦韆は垂れ罠はいま狭められ 藤田湘子
・鞦韆は垂るオリオンの星座より 山口青邨
・鞦韆や舞子の駅の汽車発ちぬ 山口誓子

ブランコ文芸その11 短歌
・月光の中より垂れて鞦韆がわが前にあり 死後もあらむ 塚本邦雄『驟雨修辞学』より
・カシミールカレーにしびる舌をだし鞦韆のごと垂らしあぬ午(ひる) 加藤孝男『十九世紀亭』より
・生きてこし生命かすかに揺らしつつ鞦韆に細き月をみてをり 志垣澄幸
・さっきまでムーミンがいたように揺れ鞦韆のあわき影もゆれたり 江戸雪『駒鳥ロビン』より
==========
 俳句も短歌も音読したとてたいして時間がかかるわけでもなし。大きな声だして読みましょう。「ふらんどや桜の花を持ちながら」「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」

<つづく>

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2010年04月10日


ぽかぽか春庭「秋千」
2010/04/10
ぽかぽか春庭言海漂流ことばの海をただようて>鞦韆考(10)秋千

 現代、短歌を趣味とする人々は多いので、万葉集も古今集もよく読まれていますけれど、漢詩つくりを趣味とする人は、明治以後極端に少なくなってしまいました。漢詩漢文を味わう能力を培うことをしなくなって、日本語言語文化の一端を私たちは失ってしまったのではないかと思います。

 李白杜甫の詩は高校教科書に載っていますが、嵯峨天皇はじめ平安の漢詩人たち。また江戸の漢詩人、たとえば女流詩人の江馬細香(大垣藩侍医江馬蘭齋の娘、多保)の詩など、教科書でなじんだ、ということはありませんでした。江馬細香の漢詩を読みたいと30年来思っているし、現代語訳がついた漢詩集も出版されているのに、なかなか手にとることもしないでいるのは、漢詩文に幼い頃から親しむ機会のなかった者の悲しさ。
 江馬細香と日本の漢詩文については2003/11/12の春庭コラム「おい老い笈の小文」に書きましたので、興味があったらどうぞ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d44#comment

 漢詩文は日本語言語文化のひとつとして復権すべき時期だと思います。漢文を旧制高校などで学んだ世代がいなくなってしまい、戦後教育を受けて漢文を敬遠してしまった私たち以後の世代になると、和歌連歌、俳句にも影響を深く残している漢詩漢文を「自分たちの文芸」として味わうことのできる人々がいなくなってしまうでしょう。
 論語の素読とか、意味もわからず漢詩文を暗唱する、という教育を、私の世代は「封建的な形だけの教育」と考えて敬遠してしまいました。しかしながら、千年の日本語文芸史を考えるとき、漢詩文は日本語文芸の大きな部分を占めているのです。

 「春宵一刻値千金」も「春は曙やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」も、も声に出して柔らかい脳にしみこませておけば、日本語の響きや意味をおろそかにしない子供が育つという齋藤孝らの主張。
 この主張に批判も多いですが、まずは音として日本語を身につけるというのは、日本語の豊かさを知るひとつの方法と思います。

 「読む」という言葉を聞いたとき、多くは目で活字を追うことをイメージします。明治期までは「読む」といえば、声を出して音読することを意味しました。私は3.歳ころ文字が読めるようになって音読していましたが、あるとき、声を出さないと早くストーリーが追えることに気づき4歳では黙読になってしまいました。確かに黙読は早く読めるので速読には向くので、必要はあります。同時に音読、朗読、子供のための読み聞かせ、ということの必要も考えるべきです。

 英語優勢のグローバル化社会の中で、自分のアイデンティティを保ちつつ国際的に存在感を持って生きるには、母語の豊かな感性を受け継ぐことを成長の基本に置きたい。そのためには、母語による表現の多様性を味わって育つことが必要です。
 下手でもいいから、俳句でも短歌でも詩でもカラオケで歌うのでも、ことばに親しんですごすこと。その見本として下手な短歌を作ってみます。春庭ブランコ文芸。

ブランコ文芸その12 
・アカ族の秋千(しゅうせん)祭りの子供らは蒸かし餅米食いながら漕ぐ 春庭
・平安の春昼の風を裳にはらみ宮女鞦韆雲間へと跳ぶ(嵯峨天皇御製によせて)春庭
・公園にブランコひとつ建ててきて市役所課長の一生を漕ぐ(「生きる」によせて)春庭
・行ったり来たり宙ぶらりんの一生だったブランブランとブランコを漕ぐ 春庭
・「もっと高く!」我子の叫びし公園に、今一人来て思秋期を漕ぐ 春庭
・ふらここの頂より見るビルの間にスカイツリーは天めざし建つ 春庭
・ふらここや「今ここ私」の現在形未来へ向かって飛んでいけ今 春庭

 以上、日本語言語文化のブランコに揺られつつ、春庭は、1漢詩文の復権 2朗読の復権、声を出して読む時間を作ろう 3下手でもいいから言葉で表現しよう、この3つを主張いたしました。
 ハイジの時速60キロのブランコにはかなわないものの、あがったり下がったりお楽しみいただけたでしょうか。最後の春庭駄歌で、だいぶ気分が下がってしまったことと思いますが、これから高く漕ぎ上げるのは、それぞれの足で、空へ向かって蹴り上がってくださいまし。

<おわり>



女偏をめぐって

2011-02-15 13:22:00 | 日本語言語文化
2010/04/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(1)女とホウキ

 掃除と片づけに追われた3月。大嫌いな掃除をこれほど集中して連続してした毎日は、結婚以来初めてかも。好きなことをやり続けるのに何の努力もいらないけれど、嫌いなことをやり続けるのはたいへんでしたが、なんとか洪水水浸しの部屋も足の踏み場が見えてきました。
 今の生活で、私自身は掃除が大の苦手ですが、掃除を「つまらない家事」と思って嫌いな訳じゃないのです。洗濯とお茶碗洗いはちゃんとやってます。掃除好きな人がうらやましいですし、松居棒などを考案したりする掃除名人を尊敬しています。
 それにしても掃除が苦手です。

 私と同世代と思われる月曜日の講師室でごいっしょするK先生が、留学生の漢字クラスの話をしていて「私、婦人の婦って漢字、大嫌いなのよ。左側が女偏で、右側はホウキって意味なわけでしょ。なんで女とホウキをくっつけると婦なのかしらって、腹が立つじゃないの。留学生に教えるとき、私はこの字は大嫌い、って言ってから教えるの。女だからってホウキ持って掃除していなさいとか、家事は女がするものって、決めつけるの古いじゃないの。女を掃除婦と思わないでほしいわ」と憤慨口調でおっしゃった。
 あ、それって違うんじゃないの、と思ったけれど、講師室ではいつも黙っている私が急に口を挟んでもよろしくなかろうと思って黙っていました。

 家事は女がするもの、なんて確かに古すぎます。宇宙飛行士山崎直子さんのご主人は、高収入の勤務先を退職して、妻を支えて子育てと家事を引き受ける主夫になりました。(専業主夫じゃなくて、ベンチャー企業を立ち上げた兼業主夫なんですけれど)
 イマドキ、「家事は女がするもの」なんて発言したら、セクハラ・パワハラ発言としてで総攻撃を受けます。

 私が「違うんじゃないの」と思ったのは、「家事=女がする」の部分ではなくて、「女と掃除を結びつけた語が婦人の婦」という部分です。「帚」は、掃除のホウキの意味だけではないのです。
 帚は、箒(ほうき)の異体字であるのはその通りですが、ほうき=掃除ではありません。
 K先生の口調には、掃除は「つまらない女の仕事=家事」で、大学で教えることは「つまらなくない女の高級な仕事」というように聞こえてしまうニュアンスが感じられました。「大学で言葉を教えることは、大学の教室を掃除する仕事より上等」というように言われたと感じて、私の考え方とは相容れない、と感じてしまいました。ちょいと過剰反応だったのかもしれませんが、これは、母が私に厳しく躾たことのひとつに関係しています。

 子供の頃、「屑拾い」という不要物を集めて回る人が我が家に「くず~い、おはらい」と言ってときどき回ってきました。あるとき幼い私は「屑拾いになりたくない、ぼろや屑はきたないもん」と言ってしまった。母は「屑拾いもごフジョウの汲み取り屋も、世の中をきれいにしてくれる尊い仕事なのに、おまえのように人を見下す者の心が一番汚い」と怒った。「百姓家のもんが会社員の妻になって、よかったじゃないの」と農家出身の母を見下す人もいた町の暮らしの中で、「仕事に貴賤はない、百姓生まれで何が悪かろう」と心に繰り返して、なにくそと思っていたころのことだったのでしょう。

 私が掃除嫌いなのは、「女のつまらない仕事」と思っているからではなく、向き不向きの問題。私に「一日中茶碗洗いをしていれば生活していけるようにしてあげる」と言って雇ってくれる人がいれば、私は喜んで一日中お茶碗を洗っている。私は洗濯や茶碗洗いなどの水をジャブジャブする仕事を、移動せずに一か所でしているのが好きなのです。掃除は、部屋の中をあちこち動き回らなければならず、私の好きな「頭をぼうっとしたまま手を動かす」という作業になりません。

 さて、ホウキとは、「掃除の道具」の意味だけではないだろうと私が感じていたのは、子供のころのおマジナイに関係しています。
 帚はなぜ女偏と結びついて「婦」になったのか、次回解説。

<つづく>
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2010年04月27日


ぽかぽか春庭「女と母木」
2010/04/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(2)女と母木

 母は世話好き人好きな性格で、いつもよそ様の相談に乗ったり、愚痴を聞いてやったり、午後のひとときは、近所の人と「お茶のみ」をして話し込むか、知り合いの相談に乗って就職を世話したりもめ事を解決したり、子供のころ私が育った家には来客が絶えませんでした。(今、妹がそっくりその性格を受け継いでいて、「ファミリーサポート」いうNPO活動に参加し、コーディネーターとして、人様の世話をしています)

 いつまでも帰ろうとしない「長っ尻」の客がいると、私と姉は客座敷の裏手に座敷ホウキを逆さまに立てかけておきました。姉が「こうしておけば、お客さんはすぐ帰る」というのです。姉は、母方の実家の祖母やアヤ伯母に教わったにちがいありません。
 今ではすっかり廃れてしまったこのマジナイ、うちの田舎の風習というだけでなく、全国的なものだったようです。東京山の手暮らしのサザエさん一家もやってました。

 なぜホウキなのかさっぱりわかりませんでしたが、バケツでもなく、ぞうきんでもなく、ホウキってことがミソのようでした。姉は「客を掃き出すため」と言っていましたが、だったら、掃き出す形にして置いたほうが効果がありそうなのに、なぜ逆さまに置くのかがわかりませんでした。

 箒は古くから神聖なものとして考えられ、箒神(ははきがみ)という神様が宿ると思われていました。ホウキの古語ハハキが「母木」と見なされたり、「掃き出し清める」ことが「母から子を出す」こととつながるとして、箒神は、産神(うぶがみ=出産に関する神)の一つと考えられていました。出産と結びつき、妊婦のおなかを新しい箒でなでると安産になると言われたり、ホウキをまたぐと罰が当たるという言い伝えもありました。

 茶道では、蕨の茎葉や棕櫚の葉を束ねて作る葉箒を露地にかけておくそうです。実際の掃除には用いられないこの葉箒は、「箒神」に通じるものがあるのかどうか。茶道の奥義を極めた人なら、葉箒の故事来歴をご存じなのかもしれません。教えてください。

 日本最古の箒は、2004年2月に出土した奈良県橿原市の西新堂遺跡の出土品。河川跡から5世紀後半の小枝を束ねたほうきが見つかりました。発掘を行った橿原市教育委員会の発表によると、霊魂を運ぶ鳥形木製品や雨ごいのため殺した馬の歯など祭祀具と一緒に出土していることから、掃除用ではなく、祭祀用と見られています。
 奈良市の平城宮跡からも3本の箒が出土しています。これは8世紀中ごろのもの。
 奈良時代の御物が保存されている正倉院には、孝謙天皇が神事で蚕室を掃くため使ったという箒が2本収蔵されています。

 文献で「ハハキ」の語が出てくる最初の語には、古事記の「帚持ハハキモチ」「玉箒タマハハキ」があります。「玉」とは人間の魂(霊魂タマ)のことを指し、「帚持」とは、葬列を組む際に祭具の箒を持って加わった人を呼び、その役目を指しました。
 万葉集にも帚の神事について詠んだ歌があります。万葉仮名では「多麻婆波伎たまばはき」と表記されています。

・玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため(長忌寸意吉麻呂 巻十六 国歌大鑑番号3830)
(鎌麻呂よ、玉箒につかう箒草を刈り取っておいで。むろの木とナツメの木の下を掃かなければならないから)
・初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒(大伴家持 巻二十4493)
(初春のそのはじめのめでたい今日、美しいほうきを手にとって年魂を掃き集めようとしている。その箒の飾りの玉の緒がきらめいて揺れている)。 

 758(天平宝宇2)年の正月の宴会で、時の権力者藤原仲麻呂が勅命によって宮廷の人々に歌を詠ませたとき、万葉集編者でもあった大伴家持は、揺れる玉の緒を読み上げました。時の天皇は孝謙女帝ですが、実際には女帝の母、光明皇太后の命令であったと想像しています。表面は年初を言祝ぎ、年魂を集める箒を詠んでいるのですが、言葉の奥には、権力者仲麻呂によって九州へ左遷させられるという運命を予感して年魂のゆらぎを詠んだのかも知れず、、、と、これは深読み。

 奈良時代における箒は、祭祀用の道具として用いられるなど宗教的な意味があったものが、平安時代には掃除の道具としての記録も出てきて、室町の文献では「箒売り」が職業として成り立っていることがわかります。ホウキが日常的な生活用品になったあとも、ホウキに宿る神への民俗意識は残り、長居の客にホウキを立てかけるような習俗も、私が子供のころまで実際に行っていました。今では電気掃除機やモップはあっても、ホウキで座敷を掃く家が少なくなってきたから、ホウキの民俗も忘れられていく運命にあるでしょう。

 漢字が作られた古代中国では、棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けて箒状にしたものを「帚(そう)」といい、酒をふりかけるなどして、廟(びょう)の中を祓い清めるのに使用していました。この帚の形を竹で作れば「箒」、「草」で作れば「菷」。「帚」を「手」にとって廟の中を祓い清めることを「掃」という。掃き清めて汚れを除くことが「掃除」。この「帚」の仕事を行うのが巫女などであることから、「帚」を付帯した「婦」の字ができ、女性全般を表すことになりました。

<つづく>
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2010年04月29日


ぽかぽか春庭「かかあ天下」
2010/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(3)かかあ天下

 故郷群馬県は、「上州名物、嬶天下(かかあでんか)と空っ風」と言われています。「群馬で強いもん、3雷(ライ)、2風、1かかあ」とか。夏の雷冬の空っ風は、ともにたいへん強い自然現象で、夏は赤城山と榛名山の間に毎夕雷が走るし、冬は谷川武尊から強い北風が吹いてきます。でも、それ以上に強かったのは、上州のカカアたち。
 女偏に鼻をつけて嬶(かかあ)。嫁とか姑とか姉妹とか、女偏をつけた家族関係語は多々あるものの、「嬶」は国字(日本で作られた漢字)だったということを、今頃知りました。
 これまたなぜ故に「かかあ」または「かか」は、女の横に「鼻」がくるのやら、かかあともなるといびきでもかくのかと、由来がわかりません。顔の真ん中にあるのが鼻で、一家の中心にいるのが嬶なのかも。

 一家のなか、嬶座(かかざ)と言えば、家内を取り仕切る「主婦権」を持つ者の座るところを意味し、いろりに面した横座(主人の座席)のわきで、台所に近い席が主婦の座席として定められていました。「北の方」とか「北の政所」に倣って北座と呼ぶ地域もあったし、食べ物を分配する鍋の前に位置することから鍋座(なべざ)鍋代(なべしろ)と呼ぶ地方もありました。

 主婦権の象徴として、「しゃもじ」を受け渡す地方もあり、姑が嫁に家政をまかせることにしたときを、しゃもじ渡し、へら渡し、飯匙渡(いがいわたし)などと呼び慣わしてきました。一家の家長である主(あるじ)の法的な権限は、明治民法で法文化されましたが、一家の家政を取り仕切り、食べ物の分配を司る主婦権は、民俗研究の対象になり柳田国男などが調査したのですが、法的な権限とはなっていませんでした。家庭内のことを取り決める裁量権が主婦にあり、家庭内の事は妻が決定権を持ち、夫は妻に従わなければならない、ということを「嬶天下」の語で表してきたのです。

 群馬県が伝統的にこの権利を強く保持してきたのは、江戸時代から養蚕業、織物業が盛んとなり、家庭内手工業を女性が取り仕切り、現金収入を女性の手で得てきたことが大きいと言われています。上州の女性は、家庭社会において家長に従属的な位置に甘んじることなく、養蚕織物業による自立をはたしていた、ということ。

 私の母の実家も、私が子供のころは桑畑を持ち、屋敷内に蚕棚を作っていました。私は上州で蚕がシャワシャワと桑をはむ音を聞いて育った最後の世代にあたるでしょう。また、家の中で、出荷した繭の残りを使って、祖母たちが屑繭を煮て家族の衣装のための絹糸を紡ぐのを見ていた最後の世代。蚕が育つ時期、「おこさま」というのは「お子様」ではなく、「お蚕さま」を指すことばでした。

 現代は女性も現金収入を持ち、家政を取り仕切るのは当然になっています。父は会社のから給料をもらうと月給袋を未開封で母に渡すのを「男の甲斐性」と思っていたようです。母は、その中から父の小遣いを渡していました。母の世代は「主婦は自分の思い通りの人生を過ごせなくてつまらない」という一方、「嬶座」「主婦権」がきちんと残っていた世代だったとも言えます。

 私?家に寄りつかない瘋癲夫(フーテンヅマ)を持ったために、最初から天下もへったくれもなく、自分で稼いで食べ物の采配をするほかなかったのだけれど、自分の人生、自分で決定してきました。愚痴は言うけれど、それは誰のせいでもなく、自分で決めた人生だからしょうがない、という「嬶天下」の覚悟は受け継いでいました。

 ひたすらナヨナヨと「あなただけが頼りなの」と、しなだれかかる風情を見せながら、結局はしっかりと夫を支配している女性のほうが「生き方上手」だ、と諭されたこともあったけれど、まあ私にはできない芸当だったので、私は私で、空っ風に立ち向かっていくしかありません。

 世間様は空っ風が吹き終わった後、春だかなんだかわからない寒い四月になりました。40年ぶりだかの四月の遅い雪もありましたが、ようやく、五月の薫風を迎えようとしています。しかるに、私の懐具合はいまだ寒風のなか。寒いです。私はカカア天下の地元出身だけど、嬶しているだけで、ちっとも「天下様」にはなれないんです。

<つづく>
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2010年04月30日


ぽかぽか春庭「女性と婦人」
2010/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(4)女性と婦人

 自分の妻を「うちのカカァ」と呼ぶ人、なんとなく昔風の職人気質の人を連想します。「ボクのワイフがねぇ」なんて言う人のイメージもわかります。同じ内容を表していても、時代によって語のイメージはかわります。K先生が「婦」という文字を嫌ったように、現代の一般社会では、「婦人」という表現は、古くさい女性のイメージを持ってしまい、「婦人○○」と呼ばれていた言葉のほとんどは「女性○○」に代わりました。

 「婦」という文字に違和感を感じる層が多くなったことを理由としたのか、「婦人」という語は次々に「女性」に変えられていきました。
 1994(平成6)年に国連「世界婦人会議」の名称が「世界女性会議」に変わり、近年では雑誌などで「婦人」よりも「女性」という表現が目立つようになりました。労働省は1996年度に「婦人局」の名称を「女性局」に変えました。「婦人」が残っているのは、中央公論新社の雑誌「婦人公論」や、雑誌社「婦人之友社」、病院の婦人科くらいのものかもしれません。

1949年から1997まで婦人週間というイベントがありました。女性が参政権を得た記念の行事です。1949年から続けられてきた4月10日からの一週間も「婦人週間」から1994(平成10)年に「女性週間」と変えました。しかし、婦人週間を女性週間と名称変更したものの、「女性週間があるなら、男性週間があってしかるべき」という意見が出されたのかどうか、女性週間は2000年には廃止されました。男女均等法も成立し、21世紀の今、女性のためだけのイベント週刊は不必要という判断だったのかも知れず、事業仕分けにひっかかる前に消滅。

 というわけで、漢字の成り立ちからいうと「女だからって、掃除婦と思われてこの漢字ができた」とK先生が憤慨するのは、少々事情が異なっていたことがわかりましたが、K先生の怒りを聞いていて、昔のウーマンリブの主張を思い出しました。
 ウーマンリブの人たちが、「社内掃除を女だけが当番として早出してまでするのは差別だ」とか「ミスコンテストは女性を顔やスタイルだけで見ようとするから反対」と主張したこともありました。

 確かに「女性だけが○○しなければならない」ということはないと思います。でも、ミスコンテストがあるなら、ミスターコンテストもしたらいいだけのことであって、ミスコンテストを批判してもミスコンがなくなりはしなかった。需要があれば供給がある。ミスターコンテスト、たとえば人気俳優を輩出してきた「ジュノンスーパーボーイコンテスト」。きれいな男の子を見るのは、HALオバハンも大好きです。

 今や家事ができない男など結婚相手として見向きもされない、、、といわれていますが、 現実の女性の地位は、果たしてどれほど男性に追いついたのでしょうか。
 現実はともかく、理念たてまえとしては男女差別をしている企業があったら批判されてしまうし、同一の仕事をしていて女性だけが給料が低いレベルや昇進に不利だったら、法律違反です。でも、現実にはシングルマザーの家庭の収入や生活水準はGNP上位国のなかで最貧ですし、女性の国会議員数や会社役員数でもまだまだ「後進国」です。

 春庭は「ウーマンリブ世代」です。いまやウーマンリブってのも死語の世界に行ってしまいましたが、昨今の論壇界ではフェミニズムバッシングも一段落したらしい。

 ウーマンリブというのは、女性解放運動Women's Liberationの省略外来語。1970年11月14日に第一回ウーマンリブ大会が東京都渋谷区で開催され、アメリカなど世界各地での女性解放運動は、1979年に国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなどの成果をあげました。

 日本での運動は男女雇用機会均等法の制定など一定の役割を果たしましたが、ウーマンリブという言葉そのものは、1980年代に入ると急速に廃れて揶揄の対象になってしまいました。ミスコンテストに反対して各地のミスコンを中止させようとしたり、ウーマンリブの活動家としてマスコミで名前を売っていた榎美沙子(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合、略称「中ピ連」代表)が日本女性党という政党党首として選挙活動を始めるなどして、心あるフェミニストたちが「ウーマンリブ」という言葉に拒否反応を示したためと思います。
 
 一時期、フェミニズムバッシングということが巷に氾濫し、「女は家に戻って子育てしていればいいんだ」とわめくオッサン方やら「子を産めなくなったババァは用なしだから、早いとこひっこめ」という知事とか出ました。

 女性が子育てと両立しながら仕事を続けようにも、夫は会社のサービス残業で帰ってこないし保育園は満杯で待機状態、という具合で、まだまだ女性が生きて行きやすい世の中にはなっていません。

<つづく>


2010/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(5)ウーマン

 最近の男女問題に関して、2010年1月に放送されたNHK「ためしてガッテン」の中で放送された「男女の脳構造の違い」ということが、講師室で話題になったことがあります。男性と女性では脳の構造に違いがあり(個人差はあるものの)女性の多くが脳梁が男性より大きい。女性の脳は「コミュニケーション言語野」「模倣あそび」「他者への共感能力」などの脳部位が発達していて「井戸端会議おしゃべり」「ままごと」などが女性に好まれることがわかった、という内容でした。男性の脳は「空間認識」「理論構築」などが女性より発達することがわかっているそうです。

 この「ためしてガッテン」は、2009年1月に放送されたNHKスペシャル「女と男シリーズ」の内容を焼き直しながら「女性に不得意なダイエット方法」と「女性にもできるダイエット」として放送していました。私も「ダイエット」というキャッチコピーに惹かれて見たのです。
 
 女性ホルモンや男性ホルモン、そして脳の発達部位の違いから、平均的な男女の間の平均的な差というのがあることはわかる。しかし、個人差というのはどうしても残るから、男性的女性がいても女性的男性がいても、男性になりたい女性がいても女性になりたい男性がいてもいっこうにかまわない。
 姉の夫の従妹は、前は従妹であったけれど、性同一障害の診断と手術を受けて戸籍も作り直し、男性として人生を生きていくことにしました。

 留学生に日本語ディベートの話題として「次に生まれるなら女性がいいか男性がいいか」というのを出すことがあります。最近の傾向として「女性がいい」という留学生が男女を問わず増えているので、日本以外でも昔とは男女問題の質が違っているのだろうと思います。
 私?もう一度女性がいいのだけれど、次は「生活力のある男性と結婚して、男にたよって生きることのできる女性」に生まれたい。あれ、これって、「女性は男性に依存して生きる」ってこと?いえいえ、子供の食い扶持を女の細腕で稼いできた経年疲労で疲れているだけの弱気発言ですから、お目こぼしを。

 女も男も、女になりたい男も男になりたい女も、女のような男も男のような女も、男が好きな男も女が好きな女も、そして私も、自分らしく自分の人生を歩いて行けるなら、それが一番。

 自分自身の選択で生きてきて、今は「女偏」の漢字、嫁も姑も、妹や姉と同じ感覚で受け入れることができるようになりました。女が古びたのが「姑」ですって?と眉つり上げずに、「古」には、女性が長い間身につけた経験への尊敬が込められている、と解釈すればいいのです。年老いた女性の子育てや家事の経験が生かせたから、人類は類人猿よりちょっと脳が発達した、という話は2009年2月5日~11日に連載しました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200902A

 「婦」という文字も、別段「女に掃除を押しつけるな」というように肩肘はらずとも、ホウキの持つ呪力を支配して家庭内を納めることのできる人が「婦人」というふうに解釈しておけばいいんじゃないかと思います。

<つづく>
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2010年05月02日


ぽかぽか春庭「女と密約」
2010/05/02 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>おんな偏(6)女と密約

 妙齢とか妖姚とか争妍とか娟々とか、嬌姿とか、艶っぽいほうの女偏の文字にはこれまでとんと縁がなかったのですが、女偏の文字、婦も嬶も妃も姫も姉も妹も姪も娘も嫁も姑も姥、人を表す文字だけでもたくさんあります。今回は、婦と嬶を中心に字面をながめ、あれこれよしなし事を並べてみました。

 私は母にとっては娘で、姉には妹で妹には姉で伯母には姪で、姑には嫁で、いろんな女偏をやってきましたが、「男女問題」になるような艶めいた人生模様には縁遠くて、、、健康オタクで元気な姑に比べると少々くたびれている嫁の私、おつむの方もだいぶくたびれていて、昨今の難しい社会情勢にもついていけずに遅れがちです。

 「女こどもにはわからない話だ」なんて大上段に言われると、キッとなってしまうのですが、実際難しい話はわからない私。世の中のこと、真剣に考えようとしても「男女問題」ということに話をすり替えると、なんだか下世話な下半身問題にしてしまえて、ワイドショウネタというか、私のような難しいことはワカランチンの類にとっては手っ取り早い話になるのです。これって実は危険なのだということ、40年前に身にしみたはずがまだまだ要注意の手法なんですね。

 1971年におきた沖縄返還協定締結時に起こった外務省機密漏洩事件もその典型的な例でした。
 沖縄基地をめぐる密約を佐藤元首相がアメリカ側と取り交わしていた、という事実を「国民の知る権利」として報道した西山記者に対して、検察側は「西山記者は国家公務員である女性事務官と「ひそかに情を通じこれに外務機密文書を持ち出させ」情報を得た、と追求し、報道や世論はいっせいに「国民の知る権利」「政府が国民を欺き、秘密裏に行っている行為」を追求することから「男女問題」にすり替える検察側政府側の思惑通りに動きました。当時学生だった私にとって、報道や世論というのは、このようにコロリと態度を変えるものなのだ、と目を見張る事件でした。

 この問題を追及したのが澤地久枝のルポ『密約 外務省機密漏洩事件』です。千野皓司監督によってテレビドラマ化され、1978年に朝日テレビ開局40周年記念として放映されました。
 原作者澤地久枝は、私が何度か「ものかきとして尊敬する女性」のひとりとして、石牟礼道子とともにその名をあげてきた人です。澤地の著作はどれも、綿密な取材、資料の掘り起こしにより、国民が知るべきでありながら知らされてこなかった歴史の断面を描き出してきました。
 最近澤地の著作を読む機会がなく、動静も見聞きしてこなかったので、持病の心臓病が悪くなっていはしないかと案じていました。
 しかし、80歳になる澤地さんはお元気で活躍しておられました。

 2010年4月9日、東京地裁(杉原則彦裁判長)は密約問題に関して、「国民の知る権利を蔑ろにする外務省の対応は不誠実と言わざるを得ない」として「外務省の非開示処分を取り消す」という判決を言い渡しました。外務省は未だに「ないものは開示できない」と言っているのですが、それならあったはずの文書をいつ誰が処分してしまったのか、外務省自身が追求する義務があります。外務省がないと言い張っても、アメリカ側では25年たった外交文書を公開するという法に基づいて、種々の沖縄関連文書が公開されています。

 私たちはひとりひとり働いた所得から税金を払い、また消費をするときに税金を払っています。この税金の使い道に関して、国民はそれを知る権利があり、政府はウソをついてはならない。当然のことです。国民の税金を、国民にないしょのままアメリカ軍基地のために一億千二百万ドル (当時のレートでは4兆円を超す金額。大卒者初任給が4~5万円くらいの時代です)の米国預託を行い、核持ち込みも容認していた。この隠蔽された政府の事実を報道した西山記者は職を失い、情報を流した女性事務官は離婚に至りました。その陰で、嘘をつき国民を欺いた側はのうのうと沖縄返還の功労によりノーベル平和賞までうけています。

 これら一連の報道を受けて、「密約 外務省機密漏洩事件」が、22年振りに劇場でリバイバル上映されることになりました。4月10日の劇場公開に先立ち、3月30日、東京・新宿の新宿武蔵野館で原作著者である澤地久枝がトークショーを行いました。久しぶりに澤地さんが公の席で語ったことを知って、いつまでもお元気で私の心の灯台になっていてほしいと思っています。

 「9条の会」呼びかけ人のうち、すでに小田実と加藤周一が故人となり、4月9日には井上ひさしも亡くなりました。澤地は持病をもつ人ですが、この問題に関しては、並々ならぬ意欲で語り続けています。以下は、映画公開に先立って澤地がトークショウで語ったことばのコピペです。

 「『密約』は私の2冊目の本なのですが、戦争で負けたことのツケがどう回るのか、本当に罪に問われるべきは誰なのか、主権者に考えてほしいという思いで書き上げました。国家機密がまんまと男女の関係にすり替えられたのです。今後の歴史のためにも政治責任を裁く法律が必要だと思います。主権者に知る権利ではなく、政府に知らせる義務があるのです。(略)昨年、我々は政権交代を達成しました。民主党がヨロヨロしているとしても、岡田(克也)外務大臣が表明した本事件に対する真相解明の姿勢を、きちんと見守らないといけない。弱体な政府は、弱体した主権者のもとにあるんです。私たちが強くなる以外に道は開かれていかないと思います。(略)私はいまだ何10年も怒り続けています。沖縄返還、つまりは第2次世界大戦の財務整理がどういう形で終始したかを私たちが追求できる唯一の争点が、日本政府が肩代わりした400万ドルの『密約』なんです。自分でも執念深いなと思いますが、私はこの『密約』にこだわり続けます」

 澤地は病身をかかえながら、さまざまな活動をしてきました。「こだわり続けます」と執念を語る澤地久枝には国民を欺く者への強い怒りと追求する姿勢を持ち続ける迫力があります。

 ひとりひとりの人間は弱く、権力に刃向かおうとするとたちまち「男女問題」なぞにすり替えられ、追い込まれてしまう存在です。でも、澤地さんらの真実を追究する姿勢を私たちも見習っている限りは、望まない流れに巻き込まれてしまわない覚悟を持ち続けていけるのではないかと思います。

 女偏に弱いと書いて「嫋」。なよなよと美しい様を表すのですが、国字で女偏に鼻をつけて「嬶」を作ったのなら、女偏に強いで[女強]という国字があってもいいでしょう。
 さて、この世知辛い世をもうちょっと生きていくだけの強さを持てるといいのですが、、、、がんばりましょう。

<おわり>

ニッポニアニッポン語教師日誌 2011年2月

2011-02-11 08:24:00 | 日記
2011/02/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(1)バレンタイン・チョコセール

 春庭の授業、いよいよ後期のラストスパート。出講先の私立も国立(独立行政法人)のうちの一校も授業が終了し、あとはもうひとつの国立大学留学生日本語教育センターの2クラスの授業のみ。初級ゼロスタートクラスと初級後半スタートクラスです。

 初級ゼロスタートクラス、今期は16人在籍していたので、最初はどうなるかと思いました。初級ゼロスタートは、ひらがなカタカナもまったく知らないで日本にやってきた人たちのクラスです。手がかかるため、クラススケールはせいぜい10人まで。10人を超すと、教師はしんどい思いをします。

 今期、ゼロスタートクラスは、国籍もカメルーン、ベネズエラ、スペイン、フランス、ドイツ、スイス、カナダ、中国、台湾、カンボジア、インドネシア、モンゴル。実に個性豊かな学生が集まったクラスでした。温泉ファンになった学生がいたり、漢字オタクになったり、いっしょに日本に留学した双子姉妹で、一人は私立、一人は国立の大学に離ればなれになってしまったけれど、休みの日にはいっしょに銀座や渋谷へ遊びに行くという姉妹がいたり、、、、、背がすらりと高く、美人の双子姉妹が同じ顔で銀座をのし歩いたらさぞかし目立つだろうと思います。

 クラスのフランス人ハンサムボーイ。最近、授業を休みがちになってきたと思ったら、渋谷のデパートでバレンタインデーへ向けたスイーツショップの販促モデルとなっていて、夕方のテレビニュースに彼の姿が映し出されのだそうです。同僚先生のメール報告によると、「ここでお茶すると(チョコを買うと)、すてきなミシェル君と一緒に写真が撮れます、、、、とかナレーションが入っていました」だって。ほんとにかわいい顔立ちの「すてきなミシェル君」と写真が撮れるなら、私だってチョコ買っちゃうかも。

 そう思ったら即実行の春庭、同僚のA先生と渋谷にいっしょに立ち寄り、デパート7階へ行ってみました。バレンタインイベントとして、7階フロアにさまざまなチョコレートメーカーが店を出しています。その中のひとつのショップ、カフェコーナー併設で、コーヒー、ココアなどの飲み物を飲めて、ケースの中のチョコをその場で食べることもできるし、持ち帰ることもできる。
 、小さく切ったチョコに爪楊枝をさしてお皿に載せ、ミシェル君は「いらっしゃいませ!いかがですか~」と、お客にチョコを勧めています。

 生トリフチョコが一粒200円、という普段なら買うことはない値段ですが、A先生がトリフチョコを買ったので、私もフルーツチョコを買いました。「チョコ買ったら、ミシェル君と記念撮影できるんでしょ」と申し入れ、撮影しようとしたら、なんとケータイカメラはバッテリー切れ。ミシェル君との写真はできず、残念でした。でも、ミシェル君は、「これからもモデルのアルバイトを続けて行きます。来月発売されるメンズファッション雑誌に、ラコステのモデルとして出ます。アルバイトは日本語の勉強になります」だ、そうです。
 まあ、それじゃ、早速雑誌を買わなくては。

 今日学習した日本語文型のひとつは、「~したばかりのとき~」という表現の練習でした。クラスメートが「日本に来たばかりのとき、日本の料理が食べられませんでした」とか「日本に来たばかりのとき、日本語がわかりませんでした」という発表をした中、ミシェル君は「日本に来たばかりのとき、日本のブランドの服を買いました」と発表していました。ミシェル君、普段着のファッションもばっちり決まっています。
 
 ミシェル君が「バレンタイン・チョコ、いかがですか~」と勧めてくれるのは2月14日までみたいですけれど、14日と15日に行われる初級クラスの期末試験は大丈夫でしょうか。抜群に頭もいいミシェル君ですから、徹夜で猛勉強すれば合格点は間違いないでしょうけれど。

<つづく>
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2011年02月12日


ぽかぽか春庭「カナダの国民的プーチン」
2011/02/12
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(2)カナダの国民的プーチン

 2月9日、東京ははみぞれ雪でしたが、11日、朝から雪が降りました。夕方にはうっすら積もって、久しぶりの雪景色。南国から留学してきた留学生たちは、雪景色をみるのを楽しみにしていたから、東京の雪景色に大喜びしていることでしょう。ビルの上から降ってくる雪。「都会的」な光景です。
 2月7日の日本語初級後半クラスの授業で、「~的な」という言葉の練習をしました。最近は、「ワタシ的には~」なんていう若者言葉もありますが、「的」が付くのは、漢字2字の熟語です。近代的な、健康的な、権威的な、表面的な、などの例を挙げ、「代表的な」という教科書に出ている語を使って、短い文を作るように学生に指示しました。

 スペイン4人。ポルトガルひとり、アメリカふたり、カナダひとり、フィリピンひとり、モンゴルひとり、中国ひとりというクラス構成。スペインの留学生が4人いるので、教師からの例文として「スペインの代表的なスポーツはサッカーです」と言いました。2010年ワールドカップ世界一になったので。スペイン留学生は納得してうなずいていました。

 「日本で一番人気のあるスポーツは野球です。日本の代表的なスポーツは柔道と相撲です」さらに「カナダの代表的なスポーツはアイスホッケーですか」と、カナダの留学生に振りました。日本の相撲は「国技」を自称していますが、法的に決まったことではありません。一方、カナダは法律で「アイスホッケーとラクロスを国技とする」と公的に決めている国です。しかし、せっかく話をふったのに、ロックバンド活動に夢中の彼は「さあ、スポーツに興味がないから、わかりません」という気のない返事。そこで代表的な食べ物について聞いてみました。

 カナダの留学生が「カナダの代表的なたべものはプチンです」という文を作りました。私はプチンという食べ物を知らなかったので、え?と聞き返しました。「ロシアのプーチン」ならわかるのですが。私が飲み込めないでいると、「poutin」と、つづりを教えてくれたのですが、それでもどんな食べ物かわかりません。 
 「国の代表的な花について説明する」という説明文400字の作文宿題を、「代表的な食べ物」「代表的な芸術」など、なんでもいいから国のものをひとつあげ、それを他の国の人にもどんなものかわかるように説明する作文を書くように指示しました。

 プチン(プーティン)はカナダのフランス語地域ケベック州発祥の食べ物で、ジャガ芋を細く切って揚げたものやジャガ芋をすり下ろして団子にしたものを揚げ、その上にグレイビーソースをかけて食べる。ファストフード店や学生食堂で、もっとも手軽な食べ物として「国民的」ファーストフードになっているそうです。フライドポテトも「フレンチフライ」というから、フランス由来の料理法なのかもしれませんが、アメリカのファストフードはすぐに流行るのに、カナダのプーチン、日本で見たことがありません。
 新しい食品名をひとつおぼえました。

 留学生もそろそろコースの終わりに近づいて、試験のために猛勉強する一派がいると思うと、もうコースが終わった気分でデートやアルバイトに精を出す一派もいます。
 7日の月曜日の授業を終えて留学生センターから出て行くと、欠席した女子学生が通路にいて、ボーイフレンドと「情熱的」なキスシーンを演じていました。なんだ、風邪引いて欠席したのかなあと、同情してソンした。(うらやましいゾ、おばさんは!)
 まったく、近頃の留学生、日本に来ても、勉強より恋やアルバイトのほうが忙しいみたい。

<つづく>

2011/02/18
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(6)アフリカ料理

 北アフリカは、イスラム料理や地中海料理の影響を受けているので、エジプト、チュニジア、モロッコなどがひとつの料理圏を作っています。東京にあるアフリカ料理店はほとんどがこの北アフリカの料理です。
 西アフリカ料理は、フランス料理の影響を受けたものもあります。東アジアは、イギリス統治下で連れてこられたインド人が残留したこともあり、サモサなどインド料理がミックスしている。

 今まで私が教えたことのある留学生のうち、アフリカ出身の学生がいた国は。エジプト、リビア、チュニジア、モロッコ、セネガル、マリ、ガーナ、ナイジェリア、カメルーン、ウガンダ、ケニア。赤道以南では南アフリカ共和国のみ。赤道以南の留学生にはほとんど会っていません。南アフリカからの留学生もボーア系の白人だったのです。4月から教える留学生に、初めて黒人の南ア出身者がいるとわかって、どんな学生か、どんな出会いかと期待しています。エチオピアからの留学生も4月から担当します。
 教え子出身国の料理店を順に検索してみました。

 中央線沿線、または池袋、新宿、渋谷の駅から歩いて5分以内という条件で絞り込んで、セネガル料理、カメルーン料理などがヒットしました。
 カメルーン、2010年ワールドカップで日本と同じE組になったことなどで、その国名が日本人にも浸透しました。有力選手の名のうち。エトオというのも、江藤のようで、親しみがわきます。2月7日に、池袋のカメルーン料理店へ行って来ました。

 1995年からイギリス連邦に加入しているカメルーン共和国。独立前はヨーロッパの植民地として複雑な歴史をたどってきた国です。
 1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人が、エビの多いことからカマラウン(camarão,ポルトガル語で「小エビ」)と名付けました。しかし、ポルトガルがカメルーンを植民地にすることはなく、1870年代に、ドイツ帝国からの入植者が入り、保護領としました。第一次大戦後、敗戦国からの割譲を受け、1922年には西部がイギリスの「西カメルーン」、東部がフランスの「東カメルーン」として委任統治領となりました。ヨーロッパ帝国主義によるアフリカの毟り合いです。

 カメルーンは、政治的にはフランスの植民地だった地域とイギリスの植民地だった地域に分けられましたが、もともとは、遊牧民、農耕民の暮らす北部と、熱帯雨林の農耕民が暮らす南部とに大きく分かれていました。

 食文化は北部では、羊肉や牛肉のほか、とうもろこしなどの穀類が主食。南部の海岸地方では、キャッサバやプランテーン(調理用バナナ)、魚などをパームオイルを使って調理して食べてきました。
 カメルーンの国民食にあたるもっともポピュラーな料理は、ドーレ(ンドレ)と呼ばれるほうれん草などの野菜やスパイスをミンチしたおかずをご飯とまぜて食べるもの。ピーナッツシチューなどのシチューと一緒に食べるフーフー(ヤム芋の粉をこねたアフリカのおもちのような食べ物)、鶏やマトンなどの肉類、魚などの煮込みやグリル。

<つづく>
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2011年02月19日


ぽかぽか春庭「オーヴィレッジ」
2011/02/19
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(7)オーヴィレッジ

 ともあれ、カメルーン料理の味を知るために、「都内では唯一のカメルーン料理店」という池袋の「オーヴィレッジ」という店にいきました。ネットで地図を検索し、池袋東急ハンズのひとつ手前の角を曲がる、と頭に入れて歩いたのですが、生来の方向音痴、見事に間違えて、ぐるぐるとあたりを経巡っても見つからない。ブログのレストラン評でも、「わかりにくい場所にあるので、コンビニを目印に行くとよい」とか、いろいろアドバイスが書いてあったのですが。エスニック料理店は浮沈が激しく、ちょっと見ないでいると閉店してしまっていた、なんてことも多い。

 しかたないので、洋品を売っているらしい店の前に数人たむろしていた黒人ニイちゃんのひとりに尋ねました。たぶん、池袋のアフリカ関係のことを知っているだろうと思ったので。
 すると「その交差点を左にまがって、ゲームセンターのそば」と教えてくれました。そのニイちゃんはガーナから来たと言ってました。ガーナはカメルーンのお隣すじだから、たぶんその情報は正しいだろうと信じて、またぐるぐるあたりをまわります。にいちゃんの情報通り、ゲームセンターの先に店がありました。雑居ビルの3階。道路に看板がでているのですが、見落とします。ほんとうにわかりにくい。
 
 店内はとても狭くて、10人以上が集まると思われる講師打ち上げ会の会場としてはどうかな、と思いましたが、カメルーンから来日して5年になるというママさんは「10人、OK。OK」と請け合っていました。「ここに10人座るよ」とママさんが言うコーナーは、どう見ても4人掛けくらいのスペース。ここに10人詰め込まれたら、隣の人と袖がぶつかりそう。しかも貸し切りにはせず、「ここ、10人。ほかのお客さん、ここ」と、他の客も入れるつもりらしいので、ちょっと考えてしまいました。

 私は、どれでも一品500円、というランチメニューから、「鮭のキッシュ」と「ワニのなべ」を選びました。キッシュは、あまり味付けがしてなくて、別添えの辛いタレをかけて食べます。「なべ」というのは、煮込み料理のことのようで、別段鍋仕立てにしてあるのではなく、お皿半分にクスクスを盛り、半分に野菜の煮込んだものが入れてある。「ワニ肉」は、ひときれ小さめのがポンと上にのせられていて、あまり味はわからなかった。ウサギ肉、ヤギ肉など、日本ではあまり食べない肉をグリルにしたり、煮込んだ料理がメインのようです。

 シェフもサービスもひとりで受け持っているママさんの話によると、食材はカメルーンとの間を行き来して、自分自身で運んでくる。自分が行けないときは、カメルーンにいるお母さんに運んでもらう。「この店の野菜、全部カメルーンのヤセイね」と解説してくれました。野生の野菜?まあ、30年前にケニアの田舎にホームステイしたとき、畑というより野っ原に出て、そこらの葉っぱを摘み取って煮て食べた家庭料理がありましたから、わからないでもない。

 池袋に店を出してから5年たち、ようやく学校の入学費用もできたので、現在渋谷の長沼スクールに日本語を習いに行っている、と話していました。私は1990年に短期間でしたが、長沼スクールで日本語を教えたことがあったので、そんなことから話がすすみました。
 5年の在日期間にだいぶ日本語の会話は上達したようですが、系統的に学習した人の日本語に比べて、耳から覚えた日本語は通じるけれど、やや表現が乱暴になります。
 通じることは通じるけれど、接客用語としてそれはドーヨという表現も「通じれば文句ないでしょ」式。フランクな日本語と言えるけれど、長沼スクールで「客に対して失礼のない日本語表現」が学べるといいのだけれど。

<つづく>
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2011年02月20日


ぽかぽか春庭「カメルーン料理」
2011/02/20
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(8)カメルーン料理

 いまオーヴィレッジのママさんがいっしょうけんめい制作中という自作メニューを見せてもらいました。
 「パン」が「バン」と書いてあったり、促音の小さい「っ」や長音の「ー」がなかったり。初級日本語学習者が間違えることの多い仮名遣いの見本のようなメニューになっていました。メニューの字体も自由で、かえって手作りらしい味を出しています。アフリカ流の「こまかいことは気にしない」マインドとでも言いましょうか。

 さすがにメニューに誤字はまずいだろうと思って、ママさんに許可をもらって、少々誤字をなおしました。「ウサギニクシチコ」。カタカナ「コ」は「ユ」の書き間違いでしょう。「うさぎ肉シチュー」の意味だろうとわかったのですが、「ヤサイタフリニクシチュ」というメニューの意味がわからず、「たふり肉って、何の肉ですか」と質問したところ、「野菜たっぷり肉シチュー」でした。
 デジカメで撮った写真が貼ってあるので、日本語の説明が少々わかりにくくても、どんな食べ物かはわかるからいいのですが。

 「フフ、やむのこなおもち」は、ヤム芋を粉にしたものを蒸しパン状にしたもので、ケニアのウガリ(とうもろこし粉の蒸しパン)のようなものだということがわかりました。カメルーンでは、ヤムの粉やキャッサバの粉を練ってオモチ状にして主食とし、野菜煮込みやピーナツスープにつけて食べるそうです。

 ママさんは、カメルーン料理教室も実施しており、近々カメルーン料理レシピ本を出版するのだと、息巻いていました。大使館の仕事のために来日してから、カメルーン料理店を切り盛りするようになるまで、とてもたくましく生き抜いてきたという感じがするジュディさんです。
 「本を売るパーティ、みんな来るよ、あなたもくるね」と、誘われましたけれど、、、、
 「オー・ビレッジ」みんなでワイワイ日頃食べたことのないカメルーン料理をつっつけば、狭さは気にならないかも、とも思いましたが、やはり一番のネックは10人ではゆったり座れそうにない、という点です。

 今期受け持った初級ゼロスタートクラスにカメルーン出身の留学生がいます。私がカメルーンからの留学生を受け持つのは、彼が二人目です。アフリカからの留学生は他の地域に比べて人数が少ない。アフリカの学生はアメリカか旧宗主国のヨーロッパに留学したがるので、日本に留学する学生は稀少です。
 今期のカメルーン留学生、ゼロスタートであいうえおの書き方から日本語学習を始めましたが、とても熱心で努力家。よく漢字の練習もしています。文法の飲み込みも早く、ほんとうに頭のいい学生です。

 「知る」という動詞を教えていたときのこと。
 「知る」は他の動詞とちょっと文法的に異なる部分があります。質問の時には「~を知っていますか」と「テイル形」で聞かなければなりません。「あなたは、○○を知りますか」と質問したら、日本語が下手な外国人と思われてしまいます。しかし返事をするときは「はい」なら「ええ、知っています」と、「テイル形」でいいのに、「いいえ」のときは「いいえ、知っていません」と答えたらダメ。「いいえ、知りません」と答えなければならない。
 留学生はよく間違えます。文法学でいうとアスペクトの問題なのですが、留学生にはアスペクトなんていう文法用語を使わずに説明し、とにかく習うより慣れろ。

 ペア練習をさせたところ、カメルーンからの留学生ヘンリー君は「エトオを知っていますか」と、隣の席の留学生に質問していました。隣のリェンフォンさんは、サッカーに興味のない中国人女性だったので答えは「いいえ、知りません」でした。私がリェンフォンさんに「劉暁波リューシャオボーを知っていますか」と尋ねたときも、「いいえ、知りません」でした。関心のない分野の人の名はわからないものです。たぶん、劉暁波の名、中国国内ではほとんど報道されなかったのだろうと思います。リェンフォンさん、2010年10月に来日するまで知らされてこなかったこの名を「知っています」と言えるようになってほしいけれど。

<つづく>
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2011年02月22日


ぽかぽか春庭「楽しクラス」
2011/02/22
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(9)楽しクラス

 カメルーン料理、店の広さに難点があったので、打ち上げの会場には不向きでしたが、2月18日、初級クラスのカメルーン出身ヘンリー君とA先生を誘ってもう一度ランチを食べに行きました。

 中国や韓国など、留学生仲間も多く、すぐに友人が作れる国の留学生と異なり、カメルーン出身の留学生は同国人の友達を見つけるのもなかなかたいへん。留学が成功するかどうかは、いろいろな国の人と友達になる柔軟さを持っていることと同時に、気軽に母語でおしゃべりできる友人を持てるかどうかにかかっています。
 カメルーンの海辺の出身か北部遊牧地帯の出身かで、だいぶ「ママの味」にも差があるようですが、出身地の名をつけたレストランを一軒くらい知っておくのもいいのではないかと考え、ヘンリー君がカメルーン料理店を知ることで友達が増えればいいなと思ったのです。

 ヘンリー君の在籍するクラスの最後の授業で、私はいつものお得意の「日本文化紹介授業」を実施しました。「手順の説明」というタスクで「最初に・まず、次に、それから・そして」など、順序立てて作り方などを説明する読解文を読みました。読解文では「図書館カードの作り方」というあまり面白くない内容だったので、さっと読み、次に「手順の説明が聞き取れるかどうかの応用問題」と称して、折り紙のカブトの作り方を説明しました。

 説明しながら皆でいっしょに折っていきます。どうしても角と角をぴしっと合わせられない学生や、なぜか上下を逆さまにしてしまう学生もいて、教師が折り直しをして、A3裏紙利用の練習用カブトを折りあげました。次に、大型広告チラシ(マンションの販売広告)を正方形に切ったものを利用して、大きなカブトを作りました。出来上がったのをかぶって大喜び。ケータイで写真を取り合って、「サムライハットだ!」とはしゃいでいました。

 授業が終わったあと、事務官にシャッターを頼んで全員で記念撮影。学生がケータイで撮った写真も「私のメールに送ってね」とメールアドレスを伝えたところ、オリバ君が日本語のメール文とともに皆の笑顔の写真を送ってくれました。

「私たちはすべての先生からすごいいじゅぎょうをもらいました。どうもありがとうございました。楽しですね!」

 「すごいい授業」とは「すごく良い授業」の意味でしょう。「楽しですね!」の気持ちは、写真の笑顔からも伝わってきましたよ。

 100クラスは、16日水曜日の試験終了後、クラス全員で集まり「おわかれクラスランチ」の会を行いました。「しゃぶしゃぶ食べ放題パーティ」へ、私にも参加を募るメールが届いたのですが、残念ながら他大学での試験実施があり、参加できませんでした。
 参加なさった先生から「楽しい会でした」とうかがい、学生からのメールでランチパーティの写真も届きました。

 試験の結果、よい成績で進級する学生もおり、わずかに点数が足りずにもう一度初級後半からやり直しという学生も居ます。クラス皆が、それぞれの春に向かって新しい第一歩を踏み出せるよう、応援していきたいと思いました。

<つづく>
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2011年02月23日


ぽかぽか春庭「お別れランチ」
2011/02/23
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(10)お別れランチ

 そんな「楽しクラス」での授業を終え、ヘンリー君は別の大学の大学院へ行きます。これでクラスメートともお別れになってしまうので、カメルーン料理店で新しい出会いがあるといいなと思いつつ、料理を頼みました。
 ビーナツシシュー、オクラシチュー、キャッサバのフフ、ヤムのフフなどがテーブルに並べられました。

 ヘンリー君がこれから日本で作物学を研究すれば、故郷のキャッサバやヤムの収穫量が向上する研究成果が出るかも知れません。大学院の指導教官は「トウモロコシの収量成立過程の解明」や「水稲冷害早期警戒システムの構築」を研究してきた「生涯、アグロノミストを目指したい」と書いていらっしゃる方です。アグロノミストというのは、土壌分析や植物の樹液分析によって肥料設計などの、「よりよい作物収穫」を目指す科学者のこと。宮沢賢治が目指していた研究者です。きっとヘンリー君の研究にとって、よい指導者となってくれることと期待しています。

 18日のオーヴィレッジで、ヘンリー君はママさんと英語で話していたところを見ると、カメルーンに村ごとに250もの言語があるという中で、同じ言語で話が通じる相手ではなかったみたい。
 でも出会いの収穫もありました。店内で食事をしていた大学院生、これからカメルーンの大学へ行き、現地調査をしてくるというのです。その人はカメルーンでカカオの流通を中心に農業経済の研究をしているそうです。ヘンリー君もカメルーンでは収穫経済学cropeconomicsを研究してきて、日本では作物学の研究室に所属して研究を続けるので、話が合いそうでした。

 名刺をもらったので、これからヘンリー君と知り合いになれればいいなあと思います。カメルーンをフィールドに選んでいる研究者と知り合いになれば、そこから人の輪が広がるかも知れません。日本での最大の収穫は、無論研究がまとまって博士号を取得することですが、その過程でいろいろな人と出会うことも日本留学の成果になると思います。

 ヘンリー君からお礼メールが届きました。
  こんばんはせんせい、
  私はとても元気で、うれしいです。先週木曜日に、昼ごはんはおいしかったです。私 はいろいろな料理を食べ過ぎましたですから、晩御飯を食べられませんでした。先生も う一度、ありがとうございます。

 私も、ヘンリー君とカメルーン料理を食べたこと、とてもうれしく楽しいひとときでした。私からもありがとう。




ニッポニアニッポンご教師日誌2010年大学院合格祝い

2011-02-09 20:24:00 | 日本語教育
2010/09/26
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(1)合格祝いのつどい

 尖閣諸島の漁船問題から、日中関係がこじれています。両国の関係の悪化、とても残念です。春庭は、1994年に最初に中国に滞在して以来、2007年2009年と中国で仕事をしてきて、中国四千年の文化の深さと現代中国のエネルギー爆発のような成長ぶりに驚嘆してきました。両国が互いの長所を認め合いつつアジアの平和と繁栄のために協力していけるよう祈っています。

 日本から中国への協力のひとつが、文科省による「中国大学院修士課程修了生の招聘、日本の大学での博士号取得をめざし博士後期課程に在学する期間の学費免除と奨学金給費」の制度です。私の仕事は、この招聘国費留学生が来日前に中国で1年間の集中日本語教育を受ける際の後半の日本語教育担当でした。

 1994年に担当した学生のうち、日本で博士号を取得した後、中国に帰国して中国の大学で研究者教育者として活躍している人も大勢いるし、日本の大学で教授となっている教え子もいます。日本での留学経験を生かし日中の架け橋となっており、意義深い留学制度だと思います。
 しかし、この留学制度も、昨今の日中関係の変化により中止に追い込まれる可能性もあります。これまで日本と中国を結ぶ人材の育成に貢献してきた制度が廃止されると、将来、日本をよく知り日本を愛する中国の人材が減ってしまうかも知れません。アメリカのフルブライト奨学金が、日米関係を取り結ぶ人材を育てたように、文科省国費留学生の制度が残るよう希望しています。

 中国人留学生が日本を理解し日本文化を愛してくれるよう、春庭は教え子との交流を続けて、ささやかながらも日本と中国が仲良くすごせる将来にしていきたいと思っています。
 昨年10月に中国から来た教え子たち、2009年3月から7月まで初級後半から中級レベルを教えた国費留学生です。来日して1年の間に、それぞれ大学院入学試験を受けてきました。文系理系とも2月入試が多かったのですが、理系の一部の学生は、夏休み中に入試が行われるため、この夏は受験勉強にあけくれました。英語と専門のペーパーテスト、英語による専門のプレゼンテーション、日本語と英語の面接試験など、ハードな試験をクリアして、9月合格、10月入学が決まった学生、これから3年後の博士号取得をめざして研究を続けます。

 9月に合格通知を受け、晴れて博士後期課程の大学院学生となった学生から「合格しました」という知らせを受けました。10月5日の秋期入学式は、安田講堂で行われるそうで、「家族も参加できるので、先生は日本のお母さんですからぜひ来て下さい」と誘われたのですが、平日で後期授業が始まっているため参加できません。

 理系の学生のほとんどは英語で博士論文を書くことになっており、研究室内も英語が公用語になっているところが多い。しかし文系で博士論文を日本語で書くことを要求される専攻の場合、日本人学生と同等の高度な日本語力が要求されます。中国で1年、日本で半年日本語を学習したとはいえ、博士論文を日本語で書く程の日本語力獲得は至難の業です。
 まだ、経済学部博士課程に進学する予定の2人の結果がまだ出ていないので、担任学生全員合格ではありません。かっての教え子のうち、教育学専攻の博士課程入試に合格せず失意の帰国をした女性がいました。しかし、彼女はどうしても日本で生活したいからと日本企業に就職し、再来日を果たしました。このような例から、不合格になったからといって、人生おしまいではないと学生たちには言いましたが、合格できるにこしたことはありません。

 今年2月の入試に合格して4月から院生になっている学生たちは、夏休みに故郷へ帰って錦を飾り、久しぶりに家族と過ごしているというメールをもらっています。一方、9月入試組は夏休み中は勉強ひとすじで帰国もできませんでした。そこで、春庭老師は23日秋分の日、合格祝いのつどいを行いました。

<つづく>
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2010年09月27日


ぽかぽか春庭「寿司屋ランチと東京狭小住宅見物」
2010/09/27
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(2)寿司屋ランチと東京狭小住宅見物

 秋分の日の博士課程合格祝いのつどいは、「すし、茶の湯、すきやき」がテーマです。日本の代表的食文化と喫茶文化の体験。要するに食べたり飲んだりするだけ、という春庭お得意の分野です。招待した9月合格組のスージーさんは、2009年のクラスでは文芸委員として、教師歓迎学芸会などで活躍していました。ご主人のヒョウさんは、スージーさんより先に来日して日本の企業で働いています。もうひとり9月に合格したソウさんは薬学専攻。2009年のクラスでは「生活委員」になってクラスをまとめていました。2月入試で合格していたけれど、4月に合格祝いとしてお花見会をしたときにいっしょに過ごすことができなかった医学専攻のウーさんもお招きしました。ウーさんは、中国でお医者さんの経験をつんでから留学生になったので、クラスで一番年上のお姉さんでした。今は大学の癌研究所に所属してガンの遺伝子研究を続けています。

 9月23日はあいにくのお天気でした。ときどき雷鳴ひびく強雨、ときに小雨。雨なので心配しましたが、皆、約束の11時半に遅れませんでした。日本人は集合時間に厳しいから決して遅刻するなと中国での授業でしっかり教えたのを守って、全員時間より前に集合場所に来ていました。

 30分地下鉄に乗り、姑と時々行ったことのあるお寿司屋へ。回転寿司以外の「回らない寿司屋」というのは、ここくらいしか知らないのです。あいにくスージーさんは、生魚は苦手というので、穴子とか海老などの火が通っているネタを選んで握ってもらいました。生魚はダメでも、日本の寿司屋の雰囲気を知ってもらう目的は果たせます。あとはランチセットを頼みました。

 ランチは、お任せ握り15貫と茶碗蒸し、アラ味噌汁、西瓜のセットです。中国の人は、火の通らない肉や魚を食べることはほとんどないので、日本の新鮮な魚を生で食べるという食文化を知ってほしいというお寿司屋ランチ。江戸前のなかなか評判のいいすし屋で、近所の人はもちろん、遠くから食べに来てネットに評判記を載せたりするファンもいる店なのですが、おりからの強雨のため、それほど店が混むこともなくゆっくり過ごせました。その日の朝に築地で仕入れたというネタが客の目の前のガラス箱に並べてあること、流れるような手さばきで寿司飯を握って、目利きの店主が選んで仕入れたネタを合わせること、これは蒸したり油でちゃっちゃっと炒めたりする中華料理とはまた違う食文化のひとつです。
 雨が止むまで雨宿りしていて、というお店の人の勧めだったのですが、姑が家で待っているので、少し雨脚が弱くなったころ、店を出ました。

 秋分の日の大雨の中、留学生たち、びしょびしょになって姑の家に着きました。タオルで拭いたり姑の服を借りて着替えたりして、濡れた服は風呂場へ。風呂場全体が乾燥機になっていて洗濯物を干せるようになっているのですが、姑は「洗濯物はお日様に当てたいから、これまで風呂場乾燥機は使ったことなかったのだけれど、設備があればこういうとき便利ねぇ」と、留学生たちの世話をしてくれました。

 トイレが暖房便座、ウォシュレットつきになっていること、風呂場全体が乾燥機として機能すること、これだけでも日本の現代住居文化の体験であり、日本の家庭生活の一端を知ることになります。マドンナやデカプリオら海外スターたちも日本のウォシュレットトイレがすっかり気に入り、購入したそうですが、日本のトイレ設備は世界最高水準。今は大学内のトイレもどんどん改装されてウォシュレット付きが増えています。トイレがよくないと入学志願者が減ってしまうのだとか。姑のトイレも、人が近づくと自動でトイレのふたが開き、立ち上がると自動で水が流れます。自動装置好きというのも現代日本文化のひとつかも。韓国の歌手がテレビ番組で「来日して驚いたことのひとつ」として、「タクシーのドアが自動ドア」であることを上げていました。日本では日常生活であたりまえになっていることが、来日する外国人には驚きであるということはたくさんあります。タクシーの自動ドアも、日本以外では見られない独特のサービスです。私は自動ドアとか「何でも自動」にする必要はないと思って暮らしているのですが、電動歯ブラシから工場の自動ロボットによる工作機械まで、自動化は現代日本の象徴かもしれません。

<つづく>
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2010年09月28日


ぽかぽか春庭「なんちゃって茶道」
2010/09/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(3)なんちゃって茶道

 本当は「茅葺き屋根に囲炉裏の居間」などを日本の伝統的住まいとして紹介できればいいのですが、「東京の狭小現代家屋」の見物も、それはそれで現代住居文化の参考になります。狭い土地に容積率いっぱいの3階建てと猫の額ほどの庭。東京23区内では大富豪でもない限りこんな狭い家に住むしかないのだ、というのも日本の現状を示すことになるでしょう。大邸宅見物がしたければ、隣の駅の田園調布にでも行って見てきてね、と留学生に解説。

 姑は家事の中で料理よりも掃除が好きなので、2007年の夏に大改築してからもせっせと掃除を続けています。「留学生に日本の家のありのままを見せる約束だから、特別掃除なんてしなくてもいいよ」と話しておいたのですが、きれい好きの姑は階段も拭き掃除をし、留学生を迎える準備をしてくれました。

 前回、お正月のつどいでは、「みんなで中華料理を作って食べよう」がテーマでしたが、今回は「日本の茶道を体験してみよう」がメインテーマです。
 家の中を見物して一休みしたあと、合格祝いのつどいの午後のひとときは「茶の湯体験」になりました。3階の和室に移動し、床の間の前にしつらえた「なんちゃって茶道教室」の始まり。

 表千家の茶道を修行し、稽古用の茶道具を一通り揃えたという姑に比べ、私は若い頃、袱紗の畳み方を習っただけで嫌気がさしてお茶の稽古をやめてしまった横着者です。
 本当は留学生に見せるお手前などとてもできないので、茶道具の紹介だけにとどめてもいいかなと思ったのですけれど、今回は「茶道のまねっこをしてみよう」をコンセプトにして、「棗から茶杓で抹茶をすくい、茶碗に湯を注いでかき混ぜる。ほどよく泡をたてて客に供する」という一連の動作をみせることにしました。また、「客は、茶碗を手の上で回し、正面を避けて茶を飲み、味わう」という作法を体験することとしました。

 ウン十年前の若い頃は、袱紗をひと作業ごとにいちいち畳みなおすのも、それでなつめや茶杓を拭くのも、とても形式的で意味のない動作に思えました。
 一杯のお茶を飲むというただそれだけのことを習うのに十年も修行して免許を貰うというのが、ばかばかしく思えました。それに「家元制度」という権威のお化けのような仕組みが気に入らなかった。

 (家元制度については今でもおかしいと思っています。授業料はどんな先生にも教えを受ける対価として払うのは当然でしょうが、それ以外にお稽古の次の段階に進む度に「許状」なるものを取得する必要があり、そのたびに家元と直接の先生へのお礼を支払う、この仕組みは納得できません。明示されている金額は裏千家の准教授で20万円くらいのものだというのだけれど、そのほかの謝礼やなにやらで、教授資格ともなれば、何百万かが必要になるのだそう。どこの流派も金額は不明瞭会計ですが。学校教育に例えれば、入学金授業料のほかに、学年の最終試験に合格した後、上の学年に行きたい場合に、進級料金を払え、というようなもの。お金を払わなければ進級できないなんて納得できません。そういえば剣道7段になった従弟が、8段になるためには審査料登録料がけっこうかかるから、当分進級はしないつもりだと言っていたのだけれど、剣道も同じ仕組みなのかしら)

 この許状制度を別にすれば、今は伝統を習うことの意義が少しはわかってきました。ひとつの空間を主人と客とが共有し、時間の流れと空間を満たす美の世界を共感するために、さまざまな動作と美への見方の基礎教養というのが必要なこともわかります。茶道具の扱い方にひとつひとつ動作の決まりがあるのも、「客に茶をもてなす」の遂行を何ひとつ疎かにせず、時間の流れの中で滞りなく自然体で茶をたてるための修行だということも理解しました。

 何度も何度も繰り返して基本を身体にしみこませることの大切さは、習字でも剣道でも舞踊や語学修行でも、皆、極意はおなじことです。型をひととおり身につけたのち、そこから型をやぶっていく。囲碁将棋でも定石を身につけてこそ新しい一手を生み出せる。伝統文化は一からの基礎修行が大切。袱紗の畳み方を繰り返し習うのも意味があることでした。

 留学生には、風炉、風炉に入れた炭、茶釜、茶碗、柄杓、茶杓、棗、水差し、湯こぼしなど茶道具の紹介を一通りしたのち、盆点前で、見よう見まねで覚えたやり方でお茶をたてて見せました。

<つづく>
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2010年09月29日


ぽかぽか春庭「すき焼き」
2010/09/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>日本食文化体験(4)すき焼き

 私のお点前は、「各流派のやり方をyoutubeで見て、自分にやりやすいようにアレンジした春庭流」というテキトーお点前です。たとえば、茶釜から湯を汲むにも柄杓のあしらい方が各流派ことなっていますから、その中で一番自分にやりやすい方法を選ぶ、という「無手勝流」で、「各流派いろいろなやり方があります。私のは自己流ですから、本当の茶道ではありません」と解説を入れながら、一通りやって見せました。留学生はお菓子を食べてから、順に薄茶を飲みました。留学生たちは私の「なんちゃって茶道」のお点前でも日本の喫茶文化の一端を知った気分です。

 和室での「なんちゃって茶道」練習は飲むだけにして、1階のリビングに戻りました。次は、テーブルで立礼盆点前の方法で、お茶を点てる練習。
 袱紗をたたむのに手こずっても、順番を取り違えても、笑いながらの略式盆点前の茶道、皆おもしろがりながらのお稽古体験です。「袱紗で棗をこの字に拭いてください」と言っても、「このじって何ですか」と、意味が伝わらない。「こ」という平仮名を書くように袱紗を動かすのだと、解説しました。

 スージーさんもウーさんもは「私の研究室は英語が公用語です。教授も日本人学生もみな英語で話しますから、私は日本語が下手になりました」と言います。スージーさんの夫のヒョウさんは、日本の企業で働き、日本と中国を行き来しています。日本の社内では会議も日常会話もすべて日本語でのやりとりですから、2年間日本で働いて日本語が上達し、一番よく日本語ができます。私が日本語でしゃべったことを、中国語でスージーさんに通訳してくれたりしながら、皆でわいわいと略式の盆点前をして、茶道体験を楽しみました。

 茶道体験のあとは、すき焼きを作って、夕食。姑は「私はもう年寄りだから、何もおもてなしができなくて」と言いつつ、気を配ってくれました。
 すき焼きは日本の代表的な家庭料理として紹介したのですが、あいにくの大雨のため、予定の精肉専門店へ買い出しに行けず、近所のスーパーで買った肉だったので、ちょっとグレードダウンだったのが残念。松阪牛は買えず宮崎牛でした。口蹄疫収束後の宮崎応援と思えばいいか。

 白滝、椎茸、葱焼き豆腐などを鍋にいれ、わいわいと食べる鍋文化を楽しみ、生卵は苦手というヒョウさんやウーさんにも、「絶対に卵をつけた方がおいしいから、ダメならやめることにして、ちょっとだけ卵をつけてみて」と、日本の生卵を体験してもらいました。おいしいと感じたかどうかは別として、日本の生卵は新鮮なら安全に食べられることはわかったみたい。
 姑は、デザートにピオーネ、巨峰などの3種類のぶどうをテーブルに並べました。食後のお茶を飲みながら、ぶどうをつまみ、しばしおしゃべり。

 おひらきにして外へ出るとまだ小雨が降っていましたが、「食べてお茶飲む日本食文化体験教室」は、無事終了しました。85歳の姑が留学生交流会を手伝ってなにくれと世話をしてくれたこと、ありがたいことだと思います。
 日本と中国の関係がよくなることを祈りつつ帰宅しました。

<おわり>

ニッポニアニッポン語教師日誌2010年年頭

2011-02-01 05:41:00 | 日記
2010/01/07
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(7)留学生新年会

 2008年正月のこと。2007年に中国で担任した博士課程国費留学生のクラス「博士2班」の日本での新年クラス会を姑の家で行いました。古家を改築したばかりの姑が家を見てもらいたがっているのに便乗して「庶民の家を見る会」として留学生を招待したところ、姑にも留学生にも喜んでもらえたので、2009年に半年間赴任したときの担任クラスの新年会も姑の家で行うことにしました。

 姑には「材料を買って持っていき、料理は留学生が自分で行うので、何も準備しなくていいですから、台所を貸してください」と頼んでおきました。それでも姑は張り切って家の掃除をしたり椅子を3階から1階のリビングへ降ろして留学生が9人来訪するというのに備えてくれました。

 2007年の博士2班のときは、留学先が北海道大学東北大学など地方にばらけていたので、東京に寮のある5人+中国人担任のリグン先生の6人での来訪でしたが、2009年の担任クラス博士3班は、18人のうち半数が東京に集中したので、東京に寮やアパートがある学生のほとんどが来られることになりました。研究室の行事があって来られない学生からは「残念」というメールが来ました。

 「留学生さんのお口に合うかどうか、甘酒を作ってみたの。味見してね。あと、ちょっとしたおせち風の食べ物と食後にどうかと思って寒天ゼリーを作って見たのだけれど」と、姑の準備万端。
 寿司やすき焼き、天ぷらなど和風の料理を並べるという案もかんがえたのだけれど、寿司やすき焼きなどの和食も、今ではどこでも食べることができるので、今回はむしろ「なつかしい故郷の味」を自分たちでワイワイと作るのを楽しもうというコンセプト。
 私は、前もって煮込んでおけばよいおでんを作ることにして、待っていました。

 2007年と2009年の受け持ち留学生の質に違いがあります。2007年の学生は、クラスのほとんどが大学の若手教師たちで、数人を除いて結婚しており共働きなので、「妻より料理が上手です」というような学生が多かった。幼いころから働く母親の手伝いをよくしてきた層です。このときの独身の一人は1980年生まれで、一人っ子政策の最初の年の生まれでした。

 ところが、2009年の赴日本国留学生は、中国政府の方針で大学修士課程在学中の学生のなかから優秀者を選抜する方式に変わりました。修士在学中の学生、年上の1980年ころの生まれの学生では兄や姉がいるのですが、1983年、1984年生まれの学生になると、ほとんどが一人っ子です。幼いときから、両親と父方の祖父母、母方の祖父母の6人が手塩にかけて大事に育ててきた一人っ子が多く、「一度も料理をしたことがありません」という学生も多かった。

 そんな小皇帝、小公主の彼らも、留学後は「日本のレストランは高いから、中国料理を作って食べています」というメールが入って来ていて、日本に来て初めて料理をしたという学生も、「上手になりました」というので、料理はお任せすることになりました。

 駅の改札で待ち合わせるというメールのやりとりをして、午後1時に駅前へ。

<つづく>
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2010年01月08日


ぽかぽか春庭「自慢料理を作って食べよう会」
2010/01/08
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(8)自慢料理を作って食べよう会

 留学生寮と大学研究室の往復と、街のスーパーでの買い物はしてきたけれど、日本人の家の中に入るのは初めて、という学生がほとんどなので、まず、玄関で靴をそろえて脱ぐというところから「日本的生活」のレクチャーを始めました。

 姑の家のリビングで甘酒で乾杯。姑が用意した数の子、昆布巻き、黒豆、柿なます、栗きんとんなどのおせち料理の説明から「日本的正月」の解説。数の子は魚の卵のように子孫が増えていくように。昆布は「よろこぶ」豆は「マメに働く」など、年の初めには縁起のよい言葉を並べて、祝うのだと話しました。お節をつまみながら、日本語での自己紹介のあと、さっそく料理に取りかかる組と、食材買い出しの組みに別れました。

 姑宅から徒歩5分のスーパーで、学生といっしょに魚や海老など食材を買いました。道々、日本での生活や研究のことなど聞きました。
 「先生の日本語はよく聞き取れるのだけれど、研究室の先輩の話は半分もわからない」と、これは留学当初に日本語学習者皆が感じること。日本語教室で教師は学生が未習の文型は使わないようにするし、学生が知らない単語は使わず語彙コントロールをしながら、役者以上に滑舌良くはっきりした発音で話します。でも、研究室では若者言葉も飛び交うし、専門用語も知らない単語が遠慮無しに使われます。

 日本語を1年習って来日したというのに、研究室仲間の日本語がほとんどわからない、という状態に不安になる学生もいます。「心配ないよ。わからない部分があっても積極的に話していれば、1年後には必ず聞き取れるようになるから、どんどん話したほうがいいよ、わからないからといって会話しないでいると、どんどん下手になっちゃうよ」と、アドバイス。

 台所が狭いので、おしゃべりしつつ交代で料理を作りました。カショさんは「炸[虫下]仁」という海老の炒め物。ルールーは「可楽鶏[支羽]」という、鶏手羽のコーラ煮、ソウさんは「油炸花生米」これは油で揚げた落花生。シンラン&ケツさんはいつものようにふたりペアで「豆腐干炸肉」厚揚げと肉の炒め物。コウキさんは「清蒸海魚」鯖の酢菜蒸。博士3班クラスで唯一の既婚者だったソさんは、手慣れたようすで四川料理の水煮肉片(豚肉ともやしの唐辛子煮)と「手撕餅」という小麦粉を練って青葱を加えて延ばす中華餅をそれぞれ作ってくれました。レイショウさんは、下ごしらえなどのお手伝い。

 できあがった料理は「日本に来てから料理を始めました」とは思えないおいしい本格的中華料理で、さすが料理大国の国で親が料理しているのを見て育ったのだろうなあと感心する味でした。それぞれレシピの紹介し合いましたが、私のおでんの紹介ときたら「おでんの材料をそろえて、市販のおでんの素を入れて煮込みます。おわり」というしろもの。それでも皆「おでんはおいしいです」と言ってくれました。おでんの一番人気は大根でした。

 おなかがいっぱいになったあと、新年会のメインイベントである「お宅拝見」です。

<つづく>
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2010年01月09日


ぽかぽか春庭「日本人の家を見よう会」
2010/01/09
ぽかぽか春庭十人十色日記01>新年寅年(10)日本人の家を見よう会

 今回の留学生新年会は、日本人の家に行ったとしてもなかなか見せてはもらえない、押入の奥までのぞきましょう、というのがコンセプトです。特に経済学専攻の3人の学生には、「日本人の一般的生活は、どのような布団で寝てどのような食器を使って、どのように暮らしているのか、全部知っておくのは大切ですよ」と話しました。マクロ経済や「農村経済構築」を専門とする学生にとっても、「一般庶民の生活」を具体的に知っているのと抽象的理論だけ知っているのでは、研究の質も変わってくるでしょう。

 お風呂場や階段下収納などもすべて公開。東京の狭い敷地にひょろっと3階建てになっているので、階段下は物入れに有効利用されています。このイベントは、姑が整理整頓掃除大好き主婦だからできること。

 3階の畳の間では、「日本式の正座とおじぎ」の練習をしました。もし、指導教官のお宅などにうかがう機会があって日本間に案内されて、「どうぞお楽に」とか「足を崩してください」と言われたら、男性はあぐらをかいて座る、女性は横座りになる、というのも実演しました。今のところの日本作法では、和室で女性があぐらで座ってはいけない、ということも教えておく。留学生が茶室に招かれて立て膝で座ったという例もあるので、「韓国では女性がこのように膝をたてて座るのが作法ですが、郷に入っては郷に従えです。日本では若い人だけの集まりならいいですが、年寄りがいる場では女性のあぐらや立て膝はだめです」など伝えておきました。
 
 デザートは、娘が作ってくれたアップルパイを持参したのを切り分けて、姑が作った胡桃牛乳寒天といっしょに出しました。
 学生たちはほんとうに楽しんでくれたし、姑も学生達の気持ちが伝わってうれしそうでした。
 
 それぞれのお礼メールを送ってくれました。そのうちの2通です。(誤用もありますが、意味はよくわかると思います)

 「今日は先生の家族にご招待をしてくれて、本当にありがとうございました。今回は初めて日本人の家に行って、日本人の生活を見学できました。私とケツさんにとって、珍しいチャンスでした。おばあちゃんの料理と先生のおでんと娘さんのお菓子がすべて美味しかったんです。機会があれば、ぜひ教えてください。なお、先生のお陰で、私たちの9人が集めて、皆さんの研究生活を聞いたり、いろいろ話を話たりしていた、楽しかったです。おばあちゃんにご感謝を伝えてください。」

 「今日先生とゆき子さん(姑のこと)からご馳走を招待していただいてどうもありがとうございました!本当に楽しかったです!3月に皆さんの入学試験が終わったら、も一度先生と会いたいです。よければ、私たちの会館で餃子を作りましょう、いかがですか?」

 学生のひとりが日本語ブログに掲載した「先生の家で食べた料理」の写真と日記。
http://blogs.yahoo.co.jp/iamahappysong/11134918.html

 私のほうこそ、おいしい中華料理をありがとう。またいっしょに楽しくすごしましょうね。
 次回は、大学院入試後にぜひ会いましょう。餃子パーティもいいしお花見ピクニックというのもいいね。また会う日を楽しみにしていますよ。

 学生達は正月休みが明けると、研究室で猛烈社員のような夜遅くまでの実験に追われたり、2月に迫った大学院博士課程の入試の準備があり、忙しくなります。それぞれたいへんでしょうが、希望に輝く笑顔で日本での留学生活を送っていくことでしょう。

<おわり>