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融合文学

2008-10-05 10:57:00 | 日記
融合文化
(1)ポンペ神社
(2)陰陽五行思想
(3)辛酉革命と建国の日
(4)独裁者の王国
(5)はやしさんのこと
(6)心の鎖国
(7)力道山
(8)ジーパン刑事松田優作
(9)マラーノ松田優作
(10)マラーノ文化
(11)融合する文化


ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>融合文化

(1)ポンペ神社

 司馬遼太郎は、『この国のかたち二』の中、「ポンペ神社」について書いています。(文春文庫77p~87p)

 四国の医者、荒瀬進氏の実家にあった祠に、江戸時代幕末期に幕府がヨーロッパから正式に招聘した唯一の医学教官、オランダ人ポンペ・ファン・メールデルフォールドがまつられていて、一家は、毎日かかさずポンペに礼拝していた、というエピソードです。

 1857年、西洋列国との差を縮めようとする幕府に招かれたポンペは、長崎で、西洋医術を学ぼうとする日本の若者たちに医学や物理学化学を教えた。
 たった一人で、5年にわたって、基礎医学の教授、長崎養生所(日本初の西洋式病院)を運営し、100人を越える日本人の「若き医学者」を養成した。

 ポンペの教えを受けた弟子たちのうち、荒瀬幾造は、結婚した若妻に恩師ポンペへの感謝を語った。妻は、夫が早世したのちも、庭に建てたポンペをまつる祠を大切にして、子孫にも繰り返しポンペへの感謝を伝えた。

 司馬は、このエピソードをもとにして『胡蝶の夢』という小説を書きました。
 「ポンペ神社」の中で、司馬は、日本古来の古神道の精神について語っています。
 クリスチャンであるポンペを神社の祠にまつって大切にする、そういう融合精神こそが、日本的「人を越えた力や心情」を大切にする心であり、古神道の神髄なのではないかと。

 司馬は、山本七平が述べている「日本人の宗教混淆」こそが、日本的寛容の現れであり、すべてを受け入れ、融合していく姿勢こそが、日本文化の源であると評している。

 私も、司馬の説に賛成である。
 縄文時代に固まってきた「日本語」も、宗教も、さまざまな時代にさまざまな地方からこの列島に流れ着いた、多様な文化を受け入れて変容してきたものであろうと。

(2)陰陽五行思想

 昨年11月、北海道にお住まいのpikkipikkiさんから陰陽五行思想についてのご質問をいただきました。
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pikkipikki (2008-11-14 22:45:59 )
賢治の「ポランの広場」の冒頭で行方不明になったのも山羊だったかも?

それと日本文化に影響を与えた中国思想についてお聞きしたいのですが・・槙佐和子さんや吉野裕子さんについてはどう思われますか?
農耕に付随して入ってきたので、これほど日本人の祭りや文化に、中国からの陰陽五行道等が浸透してるのでしょうか?
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 春庭の回答(2008-11-16 10:14:44 )
 ぴっきさんこんにちは。

 槙佐和子さんは、医学医療思想にくわしく、医療の中に入っている五行思想について言及されている方ですが、私は読んだことがありません。
 吉野裕子さんは、30年前に『古事記』で卒論を書く際に、『日本古代呪術・陰陽五行と日本原始信仰』 大和書房 1974 、『隠された神々 古代信仰と陰陽五行』 講談社現代新書 1975を意義深く読みましたが、その後つぎつぎと出版された膨大な五行思想関連について、まだ読んでおりません。

 陰陽五行思想が、農耕をもとにしているというのは、ご指摘の通りです。
 元々日本に土着していた焼き畑農耕やドングリクルミなどを栽培してきた農民思想に対して、稲作農耕にともなって、大陸に浸透していた五行思想が入り込み、稲作農耕民族としての日本の農民のものの考え方の基層に連綿と伝わっています。

 私が、「陰陽五行思想がいかに深く入り込んでいるか」ということの例としてよく取り上げるのが、「ポケットモンスター=ぽけもん」の戦闘能力役割について。
 火ポケモンは鋼(金)ポケモンに勝つが、水ポケモンには負ける。 草(木)ポケモンは土ポケモンを撃退する。ポケモンの戦闘能力にも、ちゃんと陰陽五行思想が繁栄されています。
 現代のこどもたちは、遊びながら陰陽五行の思想をしっかりと身につけている。

 もちろん、これは皮相な例にすぎませんが、無意識のなかに、陰陽五行思想は私たちのものの考え方の中に入り込んでいるのです。
 私が子供のころ楽しみにしていた村の行事。母の実家の村に行って楽しんだお祭りのひとつ「おこうしんさま」
 吉野裕子の陰陽五行思想の著作を読んで、「おこうしんさま」とは、「御庚申様」であることをようやく理解しました。

 西暦年または神武暦を60(十干十二支をかけた数)で割って割り切れる年が庚申の年です。十干十二支の57番目。庚申は十干の庚(かのえ)も、十二支の甲(さる)も、ともに金性であることから、庚申の年や日は金気が天地に充満します。ポケモンでいうと「鋼ポケモンの天下」になっている。こういうとき、人の心が冷酷になりやすく、天災事件事故が増える、と、昔の人は考えた。
 そのため、庚申の夜は、夜中飲み食いの祭りをして、冷酷無比な邪悪なものが人の世に入り込まないようにしたのです。
 庚申信仰について、さらにくわしくお話してみましょう。

(3)辛酉革命と建国の日

 庚申に続く辛酉(しんゆう・かのととり)も金性が重なり、かつ辛は陰の気なので冷酷さがより増すとされ、中国では王朝が交替する革命が起こる年とされていました。これを辛酉革命と言います。陰陽五行では、十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金です。
 日本では、推古天皇9年(601年)が辛酉革命の年に当たり、この年の1260年前であるの辛酉革命の年に「神武天皇が即位した」と、逆算されました。

 辛酉の年の元日は、西暦になおすと「西暦紀元前660年2月11日」。日本の「建国記念日」とは、アメリカの独立記念日、中国の10月1日の国慶節とはまったく意味が異なります。「建国記念日」というと、今できの新しい独立記念日を想像されてしまうから、私は「建国神話の日」「建国伝説の日」と改めるべきだと考えています。

 どうしても「建国記念日」という名称が必要なら、進駐軍支配下のUSAオキュパイドジャパンから独立した日にすべきです。日本は1952年4月28日に主権を回復し、独立 国家・日本として再スタートしました。4月28日を「独立記念日」「建国記念日」として祝うなら、ゴールデンウィークが一日増えて、あら、うれしや。

 さて、話を元に戻します。
 庚申信仰は仏教信仰が農民層に広まると、仏教と習合しました。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され、村やの共同体で「庚申講」が組織されるようになりました。庚申講の成果として「庚申塔」やその前身にあたる「庚申板碑」が造立されました。

 私は、東京白金にあるシェラトンみやこホテルの庭を散歩したとき、巨大な庚申塚の石をみかけました。武州の農民達が庚申講を無事終えたことをことほぎ、この巨大な石に講連中の名前を彫って寄進したものです。
 そのときはただああ、大きな庚申塚だなあと思っただけでしたが、こうして庚申信仰など陰陽五行思想について考えてみると、日本に入っている陰陽五行思想の広がりをしみじみ感じることができました。

 折口信夫の「まれびと」思想は、民族学・宗教学のなかに反論も多い論です。折口信夫の論に破綻もありながら、彼のつかんだ「希人、稀人、客人」が、「来訪神」として日本人のものの考え方の基層にあるという論は、今もなお魅力的な考え方だと私は思っています。

 縄文文化以来の「マレビト」思想に、稲作移入とともに、大陸から来た「五行思想」が習合し、さらに6世紀以後に伝来した仏教思想が習合し、私たちの者の考え方の基礎になっているのだと考えています。と、ここまで書いてきて、「五行思想」という一語を質問されて、質問を読んでから30分間でこれだけの回答を書くことの出来るアタシは、やはり「雑学博士」号に価すると自分を褒めています。チャンチャン。

 宮沢賢治は法華経の信者でしたが、彼の作品のなかにも、法華経思想とともに、縄文遺跡三大丸山から連綿と続く縄文的な「匂い」を感じることがあります。「鹿踊りのはじまり」その他に、マタギなどの狩猟民的な匂いもありますしね。

 賢治の『ポランの広場』の「行方不明になった山羊」のテーマは、村上春樹の『羊男』シリーズにつながっているのかもしれませんね。

「文化は世界をめぐり、世界はつながっている」というのが、前シリーズ「布をみる」のテーマでした。
 春庭コラムは「世界市民にとっての文化をテーマにこれからも展開していきますので、以後もごひいき賜りますよう、お願い申し上げます。

(4)独裁者の王国

 正義とはなにか。
 カルト集団オウムが、「自分たちの王国」の幻想を作り上げ、「王国」のためには殺人さえ引き受けたことを、特殊なまちがったことのように思っている人もいることでしょう。でも、私たちも同じことをやっているのです。

 「テロ撲滅のために戦争をしているのだから、その戦争を認めてやっておとなしく税金払うのは、国民として当然」と思うのも、「王国のために、正義のためにサリンをまく」のも、根は同じこと。どちら側から裁くか、という「立場」の違いがあるにすぎません。

 どちらの「利益」に荷担するか、というだけの違いです。カルトオウムは、殺人集団とされています。私もそう思います。でも、それならば、60年前の日本人全員が殺人集団です。第二次戦争中の日本人全員も、戦争を阻止せず認めていたという意味で、戦争に反対しなかった全員は、国家による殺人を認めていたことになる。
 自分たちの仲間が都市無差別空襲や原爆投下によって「非戦闘員100万人が殺された」ことは悲劇でしたが、他の国の「非戦闘員1000万人」を殺すことに同意していたことを忘れてはいけない。

 十字軍も、殺されたイスラム教のひとりひとりから見れば、残虐な殺人者です。
 軍部の暴走を「アジアへの進展」と受け止め、止めようとしなかった国民ひとりひとりが殺人に荷担したのだ、と、チャップリンの「独裁者」を見ればと感じます。

 このような考え方に対して、反対意見をもつ人もいることでしょう。オウムと昭和時代前半の日本を同じだとみなすなんて、とんでもないことだ、と。
 私は、「反対意見を出せない社会」こそ恐ろしい、と考えていますから、違う考え方があるのは当然と思います。

 以下の考え方にも賛否両論があることでしょう。
 都市無差別空襲などで肉親を殺された人々が、「軍人にだけ恩給がだされ、一般市民の犠牲者に何の補償もなかったのは理不尽」として裁判をおこしている人々もいます。東京大空襲訴訟第7回口頭弁論が11月13日、東京地裁103号法廷で開かれ、東京大空襲の実相について、空襲体験者で作家の早乙女勝元氏と原告6名が証言しました。

 日本国民として戦争に行き、殺人に荷担させられ、日本人兵士として戦ったのに、戦後は「日本人じゃないから軍人恩給は出せない」と言われた人々のなかに、今もなお補償を求めて裁判を戦っている人たちがいます。
 朝鮮韓国、台湾の出身者のなかで、日本国籍を失ったことによって、日本国から見捨てられた人々が大勢いたのです。

 これらの「国籍を失ったために国の補償を受けられなかった軍人」のなかに、傷痍軍人の姿で街頭に立っていた人もいました。包帯を巻いたり、松葉杖をついたりしながら街頭に立ち、ハーモニカをふいたりしながら金銭を乞うていた人を覚えているのも、私の世代が最後でしょう。
 民族と国籍について、まだまだ、さまざまな問題が残されています。 

<つづく>


(5)はやしさんのこと

 日本は、外交的に鎖国をやめても「心の鎖国」が大きい国だとされてきました。
 自分たちと異なる文化を持つ人々、異なることばを話す人を、排除しようとする社会的な圧力が強い国だ、と言われているのです。

 この傾向は、小学校幼稚園ですでに始まっています。
 子供は幼いころから「周囲から浮かないように」「自分だけ目立ったり、突出することのないように」という圧力の中で、「日本社会に生きる訓練」をされて育ちます。

 若い世代のなかで、ことさらに「KY=空気読めない」が、非難めいた言い方でクラス・グループのなかで言い立てられています。これも、「周囲に合わせよう」という社会の風潮、裏返せば「自分たちのやり方に合わない人は排除しよう」という社会意識に添ったものなのです。

 そんな「同化を求める社会」のなかで、自分が「少数派」だったら、どうするか。ひたすら周囲に同化して、自分が異端視されないようふるまうか、「カミングアウト」して周囲とは違うことを告白するか。

 2008年4~7月に見ていたドラマ『ラスト・フレンド』でも、性同一障害をかかえて悩むルカ(上野樹里)が、「女の肉体を持って生まれたことに違和感をもち、心は男性として生きることを望んでいる」ということを、家族にさえうち明けられずに悩んでいました。

 自分が「フツーと呼ばれている人とはちがうこと」をうち明けるのは、たいへん大きな心の負担となるのです。

 林良枝さんは、みなから「ヨシエさん・よっちゃん」と呼ばれていました。よしえさんの家族がそう呼んでいたから。
 元気で明るい人でした。

 高校時代、私は、夏休み、先生の勧めで「日本の高校生と在日朝鮮子弟・朝鮮学校高校生、交流キャンプ」に参加しました。北部地区県立高校生として参加した私は東部地区県立高校生のヨシエさんと同じ班になりました。

 「日本の県立高校生」として参加していたヨシエさんは、朝鮮高校の若い人々の姿を見て、自己紹介として「はやしよしえです」と、繰り返すたびに違和感を強く持つようになりました。それまで、自分自身を「はやしよしえ」と思って暮らしてきたのに、このキャンプから帰ってから「通称名を使っている在日家庭の娘」であることを意識し始めました。

 高校を卒業し大学に入ってから、ヨシエさんは、名前を「イム・ヤンジ」と呼んでほしい、と友達に言いました。本名は「イムヤンジ林良枝」だから、と。
 イムさんは、大学に入って学生運動に関わり、恋人ができました。進歩的で民主的な考え方を持つと人だと思える人でした。信頼する恋人に、国籍のこともうち明けました。

(6)心の鎖国

 結婚を約束した恋人は、家族に「国籍が違う人と結婚をするなら、将来は保証しない。財産も分けてやらないから、家を出て自活しろ」と言われて、イムさんに帰化を求めました。
 「僕は、君の国籍を愛しているんじゃない、中身の君を愛している。だから、国籍変更は、法律上の国籍を変えるだけで、中身の君は何も変わらない」と、恋人は言ったそうです。

 イムさんは、悩んだ末、「帰化しようと思えばできるけれど、ありのままの私を受け入れてくれない彼の家族とは、将来うまくやっていけないかもしれない」と考えて、恋人との結婚をあきらめました。

 彼の家族とうまくやっていけない、というのは、口実だったろうと思います。「国籍を変えるだけだし、中身の君は変わらない」と考える恋人に対し、がっかりした、というのが本当ではなかったか。
 もし私なら、「国籍がちがう人とは結婚を認めないという家族より、今のままの君を選ぶ」と、言ってほしいと思うから。

 ヨシエさんのようなエピソードは、私の周囲にたくさんありました。
 アメリカ人との「国際結婚」なら認めるけれど、在日家庭の人との結婚は許さない、という考え方の人もいました。

 当時は、「閉鎖社会」の住民が多数派でした。
 ヨシエさんが自分の国籍のことを周囲に話したころ、「テレビの人気者の中に、出身地を隠している人が多い」と、たくさんのうわさがありました。

 今でも、ネットの中に「隠れチョーセンタレントをあばく」「実は日本人じゃないタレント一覧」なんていうサイトがあるのです。
 日本国民として戦争に行き、日本人兵士として戦ったのに、戦後は「日本人じゃないから軍人恩給は出せない」と言われた人々のなかに、傷痍軍人の姿で街頭に立っていた人もいたのではないか、ということ話題にしました。
 民族と国籍について、まだまだ、さまざまな問題が残されています。 

 「本物の傷痍軍人ではない」と、言われた人々のことを述べました。
 皇軍兵士または軍属として徴用されながら、軍人恩給などからはこぼれ落ちた人々。
 1952年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって、日本が朝鮮の独立を正式に認めたことに伴い、半島出身者は、正式に日本国籍を喪失しました。
 同条約の発効日に、外国人登録法(昭和27年法律第125号)が公布・施行されました。

 1965年の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結により、日本と韓国との国交が結ばれました。したがって、韓国籍の人は、大韓民国の国籍を持っています。

 しかし、現行の外国人登録において、「朝鮮籍」とは、「旧朝鮮戸籍登載者及びその子孫(日本国籍を有する者を除く)のうち、外国人登録上の国籍表示を未だ『大韓民国』に変更していない者」を呼びます。

(7)力道山

 「日本在住朝鮮籍」の人は、法的には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と、国籍上の関わりはないという事実には、わたしもびっくり。
 韓国籍の人は大韓民国の国籍所有者。それと同じように、「朝鮮籍」の人は「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍を持っているのだと思いこんでいました。朝鮮籍の人は、「国籍を大韓民国籍に変更していない者」という扱いだったのですね。知らなかった。

 自分のパスポートに「朝鮮民主主義人民共和国への渡航はできない」と書かれていることには気づいていたけれど、日本と国交がない国の国籍を持つことはできない、ということに思い及ばずにいました。
 朝鮮籍、韓国籍の人のなかには、日本での社会生活上、日本人名を通称名として持ち、日本語を話して生活する人も多い。

 若い世代のなかで、ことさらに「KY=空気読めない」が、非難めいた言い方でクラス・グループのなかで言い立てられています。これも、「周囲に合わせよう」という社会の風潮、裏返せば「自分たちのやり方に合わない人は排除しよう」という社会意識に添ったものだと感じます。

 そんな「同化を求める社会」のなかで、自分が「少数派」だったら、どうするか。
 ひたすら周囲に同化して、自分が異端視されないようふるまうか、「カミングアウト」して周囲とは違うことを告白するか。

 2008年4~7月に見ていたドラマ『ラスト・フレンド』でも、性同一障害をかかえて悩むルカ(上野樹里)が、「女の肉体を持って生まれたことに違和感をもち、心は男性として生きることを望んでいる」ということを、家族にさえうち明けられずに悩んでいました。

 自分が「フツーと呼ばれている人とはちがうこと」をうち明けるのは、たいへん大きな心の負担となるのです。

 通称名をもつ在日朝鮮籍、在日韓国籍の人のなかに、出身を公表せずに生きた人、また、日本に帰化したあと、元は朝鮮籍・韓国籍であったことを秘密にする人もいました。
 そうせざるを得ない、日本社会の制約があったからです。
 以下、力道山と松田優作についての紹介です。

 出生地と最初の国籍を公表しなかった人。
 たとえば、力道山。
 力道山は、日本併合下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)に生まれました。出生地での名は、金信洛(キム・シルラク)。

 戦後プロレスラーとして人気者になったあと、プロレス興業の場で、力道山の出身地は「長崎」とされ、朝鮮半島生まれであったことは「タブー」としてふれられなくなりました。

(8)松田優作

 長崎県大村市の農家・百田家の養子となって日本国籍をとっており、「日本人」であるということに嘘偽りはありません。
 テレビの前の人々は、力道山の活躍に熱狂し、悪役ヒールをやっつける「日本国民のヒーロー」と、思っており、生まれ故郷の出身地を言うことはできなかった。

 力道山主演の自伝映画『力道山物語』でも、長崎の貧農出身、というシナリオになりました。
 出身地がおおやけに言われるようになったのは、力道山の死後のことです。

 実の息子ふたり、百田義浩・百田光雄(ふたりともプロレス関係者)さえ、「力道山は朝鮮半島出身者」ということを、父親の死後知ったそうです。
 実の息子にさえ出身地を秘密にした、という事実に、この問題の根深さが見えます。

 死後、国籍問題をおおやけにした人、松田優作もそのひとり。
 妻の松田美由紀が、死後7年目に公表しました。
 また、前妻の松田美智子は、著書『越境者 松田優作』(新潮社2008年)において、「優作が日本国籍にどのような想いを持っていたか」を書いています。

 優作の父親は日本人。しかし、父には、法律上の妻がいたために、韓国人の母親の私生児として、韓国籍で出生届が出されました。すったもんだがあったらしく、実際は1949年に生まれたのに、届けは1年遅れで1950年。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。

 松田美智子は、帰化申請するにあたって、優作がどのような逡巡をへて、どのような心境にあったかを記しています。

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 優作は、文学座研究生のころ美智子と出会ったが、国籍については、けっして明かさなかった。美智子が優作の国籍について何も聞かされていないうちに、美智子の両親は興信所を使って優作の国籍を調べ、結婚に反対した。
 結婚問題で国籍と直面した優作は、「日本人として生きる」ことを決意し、帰化申請をする。

 『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に、松田優作は法務大臣宛の帰化動機書を提出した。
 「番組出演が決まりました。番組は全国で放映される人気番組です。もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」と、優作は大臣に向けて書いた。
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 「太陽にほえろ」は、当時の人気番組。テレビの前の人々は、「刑事」たちについて「日本の正義を守る日本人ヒーロー」と思っていました。
 「警察のヒーロー役が韓国人であることを知ったら、日本人、とくに子供たちは失望するだろう」と、優作が本気で信じていたのかどうかはわかりません。

 法務大臣にこの切実な心情が伝わったのか、どうか、優作は1974年に日本国籍取得しました。

(9)マラーノ松田優作

 人気刑事ドラマのヒーロー松田優作を、「マラーノ文学の作家」としてとらえなおしたのが、四方田犬彦です。

 四方田犬彦『日本のマラーノ文学 ―ドゥルシネーア赤』が2007年12月に発行され、私はさっそく「2007年冬休み読書」の一冊にして読了しました。
 姉妹編の『翻訳と雑神 ―ドゥルシネーア白』は、まだ読んでいません。
 2007/11/08に、国立東京博物館のなかの一角座で『俗物図鑑』を見てきたところで、映画のなかに四方田が「俗悪評論家」として出演していたのがおもしろかったし、四方田の『月島物語』なども愛読してきました。

 「マラーノ」ということばを私はまったく知りませんでした。本屋の店頭平台で目立つ真っ赤な装丁のなかの「マラーノ」とかかれた文字に引きつけられました。知らない言葉というのは、一目をひくものですから。
 「マラーノ」とは、 スペイン語(カスティーリャ地方の古語)で「豚」の意味だという。

 「豚」とは、「豚肉を食べることを禁じられているユダヤ教徒が、ユダヤ教徒であることを隠すために、ことさら人前で豚肉を食べてみる」という意味を持ち、「かくれユダヤ教徒」のことを指す隠語でした。

 マラーノ=Marranos スペイン語、ポルトガル語。「マラノ」とも
 もともとの意味が「豚」であるマラーノとは、イベリア半島において強制改宗させられたユダヤ人。また、ユダヤ教を偽装棄教し、表面上キリスト教徒となったユダヤ人を表す言葉。

 スペイン半島のユダヤ人の多くが、14世紀から15世紀に異端審問や魔女裁判などの影響でスペインからポルトガル、オランダ、イギリスなどへ集団で亡命した。

 なぜユダヤ教徒であることを隠さなければならなかったか。
 15世紀まで、イベリア半島はイスラム教徒であるオスマントルコに支配されていました。イスラム教徒はユダヤ教徒と共生をはかっていました。

 しかし、キリスト教徒がイスラム教徒を追い払って、カソリック王国をうち立ててから、ユダヤ人への迫害がはじまった。
 キリスト教は、ユダヤ教に不寛容であり、その結果、多くのユダヤ教徒がスペインを捨てたという。
 スペイン国内に残ったユダヤ教徒は、信仰を押し隠し、豚肉を食べているふりを装って生きることになってしまった。

 マラーノ=故郷を追われたユダヤ人、出自を偽り、他者の身を窶すユダヤ人。出自を偽って生きている人のこと。

(10)マラーノ文化

 四方田の著作は、在日朝鮮・韓国人、被差別出身者、さらにはホモセクシュアリティといったマイノリティ等々をあえてマラーノと呼ぶ。

 きっすいの日本人なのに、中国人女優として満州映画に出演していた李香蘭。
 死ぬまで本名は金胤奎であることを隠し続けた立原正秋。
 そして、松田優作らが論評されています。

 四方田は、松田優作に「劇作家」としての作品やシナリオが残されていることをとりあげ、論じています。
 私は、松田優作に戯曲やシナリオ作品があることさえ知りませんでした。
 四方田は、松田の戯曲を読み解き、松田を劇作家としても大変優れた資質をもっていた、と言っています。

 癌による40歳での早世がなければ、後半生は、優れたシナリオ作家戯曲作家となっていたかもしれません。
 俳優としては、早世したために伝説神話化した松田ですが、作家としては、まだまだこれからだったのに。

 私は、最近「比較文学」「比較文化」「融合文化」などの分野を勉強しているので、このような、越境、他者性、マイノリティなどに関わっていくことが多くなっています。
 日本文化の中にある多様性は、各地から日本列島へと流れ込んだ文化を排除することなく、それまでの文化歴史と融合させることによって成り立ってきました。

 キリスト教が、イスラム教やユダヤ教を排除する文化であったことに行きづまりを覚えている西欧文化にとって、日本の融合文化は、今、もっとも注目すべき「先駆的文化」と思えるようです。

 日本文化を学ぶ人々の熱い関心を、私は日本語教育を通じても感じてきました。
 日本の古神道仏教の融合をはじめ、この列島が大陸や大海から運ばれるものをどんどんとおなかにため込む「羊水文化」のように思えます。

 体内の揺籃を経て、これから先、どのような文化を生み出していけるのか、私にとっては、これから先の列島文化は、新たな可能性を秘めているように思えるのです。

 何者をも排除することなく、すべてを取り込み認めていく揺籃文化を、育てていきたい。
 マラーノもその一部ですし、今年、ようやく先住民族、文化であることを認められたアイヌ文化もその一部でしょう。

(11)融合する文化

 ペルシャ伝来の雅楽。雅楽で使う仮面は、胡人(ペルシャ人)の姿を写したものとして中国で作られ、飛鳥奈良時代に伝来しました。
 雅楽伎楽が盛んになっても、古神道の神楽(かぐら)は滅びることはありませんでした。農民の間で演じられていた「おかぐら」と伎楽雅楽は習合し、融合して現代まで伝えられています。

 大陸では滅びてしまった、この伎楽が、日本の土地に融合して、その後田楽猿楽能狂言歌舞伎と、さまざまな芸能が生まれても、神楽も伎楽も能も歌舞伎も、日本社会のどこかで演じられ、滅びることなく伝えられてきました。

 バレエやモダンダンスが伝来しても同じ事。それらの洋舞の技法に、日本の土着の動きが加わり、舞踏(Buto)が生まれました。ブトーは、海外でも高い評価を受け、海外公演が続いています。

 ヒップホップやストリートダンスもきっと何かを刺激し、何かを生み出しているにちがいない。おかぐらがヒップホップをとりいれたとしても、それはそれでいいのだと思います。 

 何者をも排除することなく、自分たちと同等のものとして取り入れ、在来のものはそのまま残しつつ、新たな融合した文化を生み出す力。
 この融合文化の力こそが、日本文化の底力なのだろうと、私は思っています。

 加藤周一は、この日本文化を「雑種文化」と名付けました。mix=雑種または混合、というとらえ方も出来ると思います。もとの形を残したまま取り入れることも多いから。
 しかし、漢字のように「外来のもの」であることを意識しつつも、完全に自家薬籠中のものとして使いこなすようになっているものは、すでに混合ですらなく、「日本の漢字」として独自のものであると言ってよいと思う。

 表記として漢字が日本語に融合した存在となっているように、他のさまざまな文化が、日本文化として融合しつつこれからも新たに生命力を得ていくのだろうと、私は思っているのです。

<おわり>