にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

2009/01/15

2009-01-15 06:56:00 | 日記
「融合文化論その2」-マラーノ文化を中心に-

1 マラーノとは何か
 四方田犬彦『日本のマラーノ文学 ―ドゥルシネーア赤』が2007年12月に発行され、私はさっそく「2007年冬休み読書」の一冊にして読了した。(姉妹編の『翻訳と雑神 ―ドゥルシネーア白』は、まだ読んでいない)。
 「マラーノ」とは、 スペイン語(カスティーリャ地方の古語)で「豚」の意味だという。「豚」とは、「豚肉を食べることを禁じられているユダヤ教徒が、ユダヤ教徒であることを隠すために、ことさら人前で豚肉を食べてみる」という意味を持ち、「かくれユダヤ教徒」のことを指す隠語であった。マラーノ=Marranos スペイン語、ポルトガル語。「マラノ」とも。
 もともとの意味が「豚」であるマラーノとは、イベリア半島において強制改宗させられたユダヤ人。また、ユダヤ教を偽装棄教し、表面上キリスト教徒となったユダヤ人を表す言葉。スペイン半島のユダヤ人の多くが、14世紀から15世紀に異端審問や魔女裁判などの影響でスペインからポルトガル、オランダ、イギリスなどへ集団で亡命した。なぜユダヤ教徒であることを隠さなければならなかったか。15世紀まで、イベリア半島はイスラム教徒であるオスマントルコに支配されていた。イスラム教徒はユダヤ教徒と共生をはかっていた。しかし、キリスト教徒がイスラム教徒を追い払って、カソリック王国をうち立ててから、ユダヤ人への迫害がはじまった。キリスト教は、ユダヤ教に不寛容であり、その結果、多くのユダヤ教徒がスペインを捨てた。スペイン国内に残ったユダヤ教徒は、信仰を押し隠し、豚肉を食べているふりを装って生きることになってしまった。
 マラーノ=故郷を追われたユダヤ人、出自を偽り、他者の身を窶すユダヤ人。出自を偽って生きている人のこと。四方田の著作は、在日朝鮮・韓国人、被差別出身者、さらにはホモセクシュアリティといったマイノリティ等々をあえてマラーノと呼ぶ。きっすいの日本人なのに、中国人女優として満州映画に出演していた李香蘭。死ぬまで本名は金胤奎(キムユンキュ)であることを隠し続けた小説家、立原正秋。そして、松田優作らが論評されている。立原正秋が「日本の小説家」として生きることを望み、死ぬまで本名を隠したように、松田優作も国籍を変えたことを死ぬまで自分自身では公表しなかった。妻の松田美由紀が、死後7年目に国籍問題を公表した。また、前妻の松田美智子は、著書『越境者 松田優作』(新潮社2008年)において、「優作が日本国籍にどのような想いを持っていたか」を書いている。優作の父親は日本人。しかし、父には、法律上の妻がいたために、韓国人の母親の私生児として、韓国籍で出生届が出された。複雑な出生事情により、実際は1949年に生まれたのに、届けは1年遅れで1950年。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。
 松田美智子は、帰化申請するにあたって、優作がどのような逡巡をへて、どのような心境にあったかを記している。
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 優作は、文学座研究生のころ美智子と出会ったが、国籍については、けっして明かさなかった。美智子が優作の国籍について何も聞かされていないうちに、美智子の両親は興信所を使って優作の国籍を調べ、結婚に反対した。
 結婚問題で国籍と直面した優作は、「日本人として生きる」ことを決意し、帰化申請をする。
 『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に、松田優作は法務大臣宛の帰化動機書を提出した。
 「番組出演が決まりました。番組は全国で放映される人気番組です。もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」と、優作は大臣に向けて書いた。
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 「太陽にほえろ」は、当時の人気番組。テレビの前の人々は、「刑事」たちについて「日本の正義を守る日本人ヒーロー」と思っていた。「警察のヒーロー役が韓国人であることを知ったら、日本人、とくに子供たちは失望するだろう」と、優作が本気で信じていたのかどうかはわかない。
 ことさらに幼い文体を模して書かれた松田の「日本国籍を得たい」という心情が伝わったのか、優作は1974年に日本国籍を取得した。
 人気刑事ドラマのヒーロー松田優作を、「マラーノ文学の作家」としてとらえなおしたのが、四方田犬彦である。四方田は、松田優作に「劇作家」としての作品やシナリオが残されていることをとりあげ、論じている。筆者は、松田優作に戯曲やシナリオ作品があることさえ知らなかった。四方田は、松田の戯曲を読み解き、松田を劇作家としても大変優れた資質をもっていた、と論評している。
 癌による40歳での早世がなければ、後半生は、優れたシナリオ作家戯曲作家となっていたかもしれない。俳優としては、早世したために伝説神話化した松田だが、作家としては、まだまだこれからだったのに。

2 日本の融合文化
 日本文化の中にある多様性は、各地から日本列島へと流れ込んだ文化を排除することなく、それまでの文化歴史と融合させることによって成り立ってきた。キリスト教が、イスラム教やユダヤ教を排除する文化であったことに行きづまりを覚えている西欧文化にとって、日本の融合文化は、今、もっとも注目すべき「先駆的文化」と思える。日本文化を学ぶ人々の熱い関心を、私は日本語教育を通じて感じてきた。日本の古神道仏教の融合をはじめ、この列島が大陸や大海から運ばれるものをどんどんとおなかにため込む「羊水文化」のように思える。体内の揺籃を経て、これから先、どのような文化を生み出していけるのか、私にとっては、これから先の列島文化は、新たな可能性を秘めているように思える。何者をも排除することなく、すべてを取り込み認めていく揺籃文化を、育てていきたい。マラーノもその一部であるし、2008年に、ようやく先住民族、文化であることを認められたアイヌ文化もその一部である。知里幸惠が収集編集した『アイヌ神謡集』、筆者はCDでときどき聴いている。また、社会言語学、日本語学などの受講生には、必ずアイヌ語の響きを聴かせることにしている。
 ペルシャ伝来の雅楽。雅楽で使う仮面は、胡人(ペルシャ人)の姿を写したものとして中国で作られ、飛鳥奈良時代に伝来しました。雅楽伎楽が盛んになっても、古神道の神楽(かぐら)は滅びることはなかった。農耕民の間で演じられていた「おかぐら」と伎楽雅楽は習合し、融合して現代まで伝えられている。大陸では滅びてしまったこの伎楽が、日本の土地に融合し、その後田楽猿楽能狂言歌舞伎と、さまざまな芸能が生まれても、神楽も伎楽も能も歌舞伎も、日本社会のどこかで演じられ、滅びることなく伝えられてきた。バレエやモダンダンスが伝来しても同じ事。それらの洋舞の技法に、日本の土着の動きが加わり、舞踏(Buto)が生まれた。ブトーは、海外でも高い評価を受け、海外公演が続いています。ヒップホップやストリートダンスもきっと何かを刺激し、何かを生み出しているにちがいない。おかぐらがヒップホップをとりいれたとしても、それはそれでいいのだと思う。
 私たちが個として確立し自立するためには他者との「差異」を見いだしていくことが必要である。他者との差異が「自己」である、という以外に自己の見つけようがないからである。しかし、「差異」が「差別」である必要はない。差異あるものをそのものとして認めていけばよい。私がわたしであるために、あなたと違うことをみとめつつ、私は私であり、あなたはあなたであればそれでいい。何者をも排除することなく、自分たちと同等のものとして取り入れ、在来のものはそのまま残しつつ、新たな融合した文化を生み出す力。この融合文化の力こそが、日本文化の底力なのだろうと、筆者は思う。
 加藤周一は、この日本文化を「雑種文化」と名付けた。mix=雑種または混合、というとらえ方も出来ると思う。もとの形を残したまま取り入れることも多いから。しかし、漢字のように「外来のもの」であることを意識しつつも、完全に自家薬籠中のものとして使いこなすようになっているものは、すでに混合ですらなく、「日本の漢字文化」として独自のものであると言ってよいと思う。表記として漢字が日本語に融合した存在となっているように、他のさまざまな文化が、日本文化として融合しつつこれからも新たに生命力を得ていくのだろうと、私は思っている。
 21世紀のコンピュータ解析が進んだ今でも、日本語の起源や系統ははっきりわかっていない。わかっているのは、日本語と日本民族は、周囲の多くのことばや民族が入り交じり、混交しながら形成されたものであろう、という推測だけ。日本語は、発音はアジア南方系や太平洋諸島の5母音開音節(子音+母音)と共通しています。アイヌ語は開音節の語も閉音節の語もあり、発音面では日本語との関わりが遠い。文法面では、朝鮮語韓国語、モンゴル語などと近く、主語、対象語(目的語)、述語(SOV)の順に言葉を並べていく。文脈上で話し手にわかる語を省略しても文が成立する。助詞によって語と語の関係を明らかにする、などの特徴を持っています。日本語はクレオール語(2種以上の言語が融合することによって成立する語)であったろうと、私は思っている。
 私は、日本文化を「さまざまなものを取り入れてきた融合文化」として留学生にも紹介してきた。漢字を取り入れ漢詩の強い影響を受けて文芸が発展してきた日本語言語文化。これから先、何を取り入れどんな文化が融合していくのか。あらたな地平を切り開く「他者性」こそ、融合のエネルギーであり、マラーノは「他者性」の原点となるべき存在となる。自分たちの文化にマラーノ性をとりこめるかどうかこそ、これからのローカル文化がグローバル化の大波を渡って独自性を保つ要素であろうと筆者は考える。
 リービ英雄、楊逸など、日本語を母語としなかった作家による日本語文学が、書店の一角を占めるようになり、日本語の表現力が広がりを見せている。さまざまなものを取り込み、融合しつつ、日本語と日本文化は、押し寄せるグローバル化の波の上を泳ぎ、ことばの海を渡っていくことができると信じている。
<おわり>

2009/01/14

2009-01-14 08:51:00 | 日記
融合文化の歴史-日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-

1 縄文から室町まで
 日本列島において、最初の「文明の遭遇」と「融合」は、紀元前600年ごろから紀元後100年ごろにかけての長期間の出来事である。栗の実や栃の実、稗や粟などの雑穀の栽培、里芋類の焼き畑農業を行っていた縄文の土地に、稲作を中心とする農耕民がしだいに入り込み、長い年月をかけて縄文村は稲作を受け入れていき融合した。これが日本の「縄文弥生時代」である。縄文の焼き畑村と稲作の村は利用する土地が異なっていたので、競合することなく争うこともなかった。しかし、稲作村の人口増加率が、年3~5%で増えるのに対して、縄文の焼き畑村では年1%の人口増加にとどまる。この結果、千年の間に、稲作村の人口は焼き畑村の人口を凌駕し、列島全体が縄文弥生ハイブリッド稲作村になる。稲作村が列島ほぼ全土に渡ってひろがった、という時代が3~5世紀である。
 アジア大陸、またその突端の朝鮮半島から日本列島への人口移動は、長期間にわたって随時行われたと推測できるが、その中でも突出した出来事として中国の史書に記録されたのが、秦の始皇帝時代の「徐福」である。徐福は、始皇帝に不老不死の妙薬を手に入れよと命ぜられ、3000人の部下を引き連れて大陸から出航しそのまま戻らなかった、と司馬遷が史記に記録している。この伝説が歴史上の具体的事実であるかどうかはまだ不明だし、徐福一行のたどり着いた土地が日本であるというのも実証されたわけではないのだが、司馬遷が徐福の出航を記録として残したことは事実である。この稲作に伴う移入は、長期間にわたって進んだので、「他者との遭遇」という強い衝撃すなわち「文明の衝突」としてではなく、ゆっくりと「融合」がすすんだ。
 次の「他者の移入と融合」は、日本列島に「大和の大王」支配が確立した5~6世紀に起きた。朝鮮半島での百済国滅亡に伴う、百済国難民の日本列島流入である。このときの朝鮮半島と日本の戦いについては、高句麗王が残した石碑(AD414年に建立)に刻まれている。
この7世紀の大量移民受け入れで日本列島に起きた大変化は「文字文化の移入」であった。それまでも「護符」としての文字は入ってきていたが、言語の記録装置としての文字文化が、日本語言語文化に影響を与えるまでに大量に入ってきたのは、6~7世紀のことであった。このとき、文字文化を受け入れた人々にとって、文字は「異質な文化」との遭遇となった。文字を伝えた朝鮮半島の人々(百済人を中心とする)の言語と日本語は統語を同じくする。単語を同じ語順で並べる言語であり、当時の百済語と大和語は、かなり近いことばであったろうと推測される。マレーシアのマレー語とインドネシア語は、方言差がある程度の同一の言語である。デンマーク語とノルエー語スエーデン語も、方言差程度の同一言語である。日本語と百済語は、それほど近くはないものの、現在のスペイン語とポルトガル語程度に近い、すなわち通訳なしでもアル程度通じあえる言語であったのではないか、とみなす言語学者もいる。(ただし百済語は死語であり、記録も残されていないので、あくまでも推測である。高句麗語&新羅語の系統をひくとされる現代の朝鮮語は日本語とは統語は同一であるが、同系統の語彙は少ない)。
 6~7世紀ごろ、日本に漢字を伝えたのは、朝鮮半島から大量に渡来して大和朝廷で一定の地位を占めていた古代朝鮮人である。初期には、文字の読み書きができるのは、ほぼ渡来人に限られていた。古代朝鮮の知識人は漢字を早くから移入し、漢字によって朝鮮語を表記する方法を開発していた。漢字を表音文字として用いて、中国語にない朝鮮語の助詞を書き表すなどしていたのである。
 日本語は、母音の数が少なく、「子音+母音」という単純な音節音韻体系を持っている。言語の構造(統語法)が朝鮮語と同じであり、漢字による朝鮮語表記法の知識のある渡来人にとって、日本語を漢字で表記することはそれほど難しいことではなかったであろう。漢字を用いた朝鮮語表記法を「吏読」という。名詞など自立語を漢字で、中国語にはない朝鮮語独自の助詞などを漢字の音読をあてて記録している。これと同じ方法で日本語も表記できる。古代日本人が、短期間に漢字による日本語表記ができるようになったのは、朝鮮半島渡来人の力によるものであると推測できる。この漢字による日本語表記が「万葉仮名」表記である。8世紀に成立した『万葉集』『古事記』は、万葉仮名で表記されている。
 この時の「他者との出会い」すなわち文字文化との遭遇は、統語法を同じくする言語の話者である朝鮮語話者を媒介としていたため、「衝突」はおこらず、融合のみが進み、万葉仮名はわずか100年の間に「ひらがな」を生みだし『土佐日記』『竹取物語』などのひらがな文学を創出した。
 平安時代鎌倉室町と続く時代にも、日宋貿易日明貿易など、大陸からの文化移入がつづけられた。

2 信仰の習合と隠れキリシタンの誕生
 日本文化が「融合」ではなく、「衝突」を他者との間に巻き起こしたのは、室町末期の戦国期に至って、キリスト教が流入したときである。唯一神を絶対者とする一神教は、日本の社会とは異質な宗教であった。日本の宗教は、第一次に縄文以来の土着の神々(国つ神)であるスサノオやオオクニヌシと、大和農耕民の自然神、アマテラス(太陽神)や豊受大御神(とようけのおおみかみ=オオゲツヒメ食物神)が「八百万の神」としてまとめられた。第二波として、文字文化流入期に儒教道教仏教が習合し、日本独自の神道仏教習合が行われた。唯一神は、これらの習合的多神教を認めようとはしなかった。そのため豊臣秀吉や徳川将軍家は、キリスト教を排斥した。キリスト教信者は国外追放や死刑とされ、九州を中心に隠れキリシタンとして残った人々のキリスト教は、「マリア観音」信仰など、「習合的キリスト教」に変化していったのである。こうした隠れキリシタンの多くは、明治時代に来日したパリ外国宣教会によってカトリックに復帰したが、長崎県などには、今でもカトリックに復帰せず土俗化した信仰を保有しているキリシタンも存在する。マリア観音信仰における「オラショ(祈祷書)」を精査することによって、キリスト教が仏教の隠れ蓑を着て伝わるうちにどのように習合されていったのかを追跡できるのではないかと思う。オラショの原語はラテン語のOratio(祈祷書)である。
 長崎生月島のキリスト教布教史を概観する。室町末期、長崎の平戸藩主の松浦隆信は貿易を目的としてザビエルとその部下のトレリスらに布教を許可した。藩主自身は入信しなかったが、筆頭家老で生月の豪族籠手田安経が国守の名代として入信した。1557(弘治3)年のことである。天正15年(1587年)6月20日、豊臣秀吉は突如としてバテレン追放令を出した。「日本は神国であり南蛮国の邪法を拒否する。仏法の破壊者である宣教師達は20以内に日本から退去せよ」という天皇署名の勅状を発行したのである。秀吉死去ののち幕府を開いて全国支配を完了した徳川家康は、慶長17年(1612年)にキリスト教の布教禁止を命じた。弾圧が強まり、殉教者が続く中、キリシタンは潜伏し、明治の世まで300年間、密かにキリスト教信仰を続けた。

3 隠れキリシタンにおける習合
生月に伝わるオラショ『生月島サンジュワン様の歌』は以下のような歌詞である。
    前は泉水、後ろは高き岩なるやナ 前もうしろも汐であかするやナ
    この春は桜鼻かや、散るぢるやナ 又来るときは蕾開くる花であるぞやナ
参ろうやナ参ろうやナパライゾの国に参ろうやナ パライゾの寺と申するやナ
    広い寺と申するやナ 広い狭いはわが胸にあるぞやナ

 サンジュアン様とは、中江島という岩礁の呼び名である。生月島と平戸島の間に浮かぶ小さな岩礁において、数々のキリシタンが命を落とした殉教の地であった。生月島キリシタンにとっては最大の聖地であり、洗礼をほどこすときはこの岩礁サンジュアン様から水を汲む。この「殉教者の聖地を神格化して祭り、そこから洗礼の水をくみ上げる」という行為は、正月行事の「正月神に供える若水を、新年最初に井戸からくみ上げる」を思わせる。カトリックの洗礼式において、「どこそこの聖地で汲んだ水を用いなければならない」という規定があるとは聞いたことがない。たとえば、ヨーロッパカトリックの教会で洗礼式を行うとき、「ヨルダン川またはそれに準ずる水を洗礼に用いること」というようなきまりはあるだろうか。寡聞にして知らない。サンジュアン(殉教地中江島の岩礁)の水を使う、という隠れキリシタンの意識は、新年行事の「若水汲み」の行事が影響が習合しているのではないかと、筆者は推測する。
 以下、300年にわたって密かに伝えられた「キリスト教信仰」は、表向き仏教徒と見えるように、マリアは「マリア観音」として画像が描かれ、今となってはヨーロッパキリスト教とはかなりかけ離れた独自の宗教となっている。たとえば、カトリックでは行わない「祖先崇拝」がある。明治期にカトリックに復帰しなかった隠れキリシタンは、その理由として「ハライソに行き、祖先に会いたい」という彼らの信仰が現代のカトリック教義によって否定されたことをあげる。1年のうち40の行事を行うが、カトリックと同一の行事はイエス生誕と復活行事など数種のみであり、他はほとんどが祖先崇拝行事にあたる。おおかたの行事は、「祈願、直会、宴会」がセットとなっており、これは神道における祭式と同様の進行である。
ほとんどの行事は祈願、直会、宴会の順に進行され神道の行事とほぼ同じ
4 どちりなきりしたん(教義問答にみる隠れキリシタンの思想)
 「どちりなきりしたん」は、隠れキリシタンに伝えられたキリスト教の教義問答である。その一部を写す。

「どちりなきりしたん」より、弟子と師の教義問答(天地創造について)
   弟子 ばんじかなひ玉ひてんちをつくり玉ふとはなに事ぞや。
   師  そのこと葉の心はデウスばんじかなひ玉ふによててんちまんぞうをいちもつなくしてつくりいだし玉ひ、御身の御いくはう、われらがとくのためにかかへ、おさめはからひ玉ふと申ぎなり。
   弟子 御あるじデウス一もつなくしててんちまんぞうを作り出し玉ふとある事ふんべつせず。そのゆへは御さくのものはみなデウスの御智慧、御ふんべつよりいだし玉ふと見ゆるなり。しかるときんば一もつなくしてつくり玉ふとはなに事ぞや。
   師  此ふしんをひらくために、一のこころみあり。それというはデウスの御ふんべつのうちには御さくのもののたいは一もなしといへども、それそれのしよそうこもり玉ふなり、これをイデアといふなり。此イデアといふしよそうはさくのものにあらず、ただデウスの御たいなり。然るにまんぞうをつくり玉ふとき、デウスの御ふんべつにもち玉ふイデアにおうじて御さくのものは御たいをわけてつくりいだし玉ふにはあらず、ただ一もつなくしてつくり玉ふなり。たとへばだいくはいへをたてんとするときまづそのさしづをわがふんべつのうちにもち、それにおうじていへをつくるといへども、いへはふんべつのうちのさしづのたいにはあらず、ただかくべつのものなり。そのごとくデウス御ふんべつのうちにもち玉ふ御さくのもののイデアにおうじてつくり玉ふといへども、御さくのものはそのイデアのたいにはあらず、ただばんじかなひ玉ふ御ちからをもて一もつなくしてつくり玉ふなり。

「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(神と被造物との差異についての質疑)
   弟子 みぎデウスと御さくのもののしやべつはうけたまはりぬ。今又御さくのものはいづれもたがひに一たいか、べつのたいかといふ事をあらはし玉へ。
   師  御さくのものはいづれもべつたいなり。そのゆへはデウスよりつくり玉ふときそれぞれにおうじたるかくべつのせいをあたへ玉へばなり。そのせうこにはさくのものにあらはるるかつかくのせいとくあり。このぎをよくふんべつすべきためにこころうべき事あり。それといふはしきさうあるよろづのさくのものは二のこんぽんをもてわがうしたる者也。一にはマテリヤとてそのしたぢの事。二にはホルマとてそのせいこれなり。みぎのしたぢといふは四大をもてわがうし、あらはるるしきそうなり。又ホルマといふはよろづのものにしやうたいと、せいとくをほどこす者也。めに見ゆる御さくのものは四大をもてわがうしたる一のしたぢなれども、しやうたいとそのせいとくをほどこすホルマはかつかくなるによて、みなべつたいなる者也。かるがゆへにちくるいと四大わがうのそのしたぢは一なりといへども、人のしやうたいとちくるいのしやうたいかくべつなるによてべつたいなる者也。これらの事をくはしくふんべつしたくおもはば、べつのしよにのするがゆへによくどくじゆせよ。

「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(アベマリアについて)
   弟子 でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや
   師   其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座ます諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也
   弟子 びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや
   師  あべまりあと云おらしよ也たゝいま教ゆ」(十九ウ)べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん
   弟子 此おらしよは誰の作り玉ふぞや
   師  さんがびりゑるあんじよ貴きびるぜんまりあに御つげをなし玉ふ時の御ことばとさんたいざべるびるぜんまりあにごんじやうせられたることばに又さんたゑけれじやよのことばをそへ玉ふを」(二十オ)以てあみたて玉ふおらしよ也
   弟子 御母びるぜんは誰人にて御座ますぞや
   師  でうすの御母の爲にえらび出され給ひ天にをひて諸のあんじよの上にそなへられ給ひ諸善みち/\玉ふこうきうにて御座ます也是によて御子ぜずきりしとの御まへにをひて諸のへあとよりもずくれて御ないせうに叶玉ふ也それによて我等が申上ることはりをおほせ叶へらるゝが故にをの/\きりしたん深くしんかうし奉る也
   弟子 何によてか御母さんたまりあへ對し奉り百五十友か又は六十三友かのおらしよを申上奉るぞ」(二十ウ)
   師  六十三友のおらしよは御母びるぜんの御年の數に對し奉りて申上る也又百五十友のおらしよは十五のみすてりよとて五ヶ條は御よろこび五ヶ條は御かなしひ今五ヶ條はくらうりやの御ことはりに對して申上奉る也此十五ヶ條のだいもくははんぎにひらきたる一しにあり
   弟子 あるたるにそなわり玉ふによにんの御すがたは誰にて御座ますぞ
   師   天に御座ます御母びるぜんまりあをおもひ出し奉る爲の御ゑいなればうやまひ奉るべき者也
   弟子 此びるぜんさんたまりあの御ゑい其しなおほきごとく其御體もあまた御座」(二十一オ)ますや
   師  其儀にあらずたゝ天に御座ます御ひとりのみ也
   弟子 然らば人々なんぎに及時或は御あはれみの御母或は御かうりよくのなされて或はかなしむ者の御よろこばせてなとゝ樣々によび奉る事は何事ぞや
   師  別のしさいなしたゝ御母の御とりなしでうすの御まへにてよく叶ひ給へば御おはれみの御母にて御座ます上よりしゆゝの御忍を與へ玉ふによてかくのごとくに唱へ奉る也
   弟子 あべまりあのおらしよをば誰にむかひて申上奉るぞ」(二十一ウ)
   師  貴きたうみなびるぜんまりあにゑかう仕る也
   弟子 何事をこひ奉るぞもし我等が科の御赦しをこひ奉るか
   師  其儀にあらず
   弟子 がらさかくらうりあをか
   師  其儀にもあらず
   弟子 然らば此等の儀をば誰にこひ奉るぞ
   師  御主でうすにこひ奉る也
   弟子 御母には何事をこひ奉るぞ
   師  此等の事を求めんかために御子にて御座ます御主ぜずきりしとの御まへにて御とりあはせを頼み奉る也」(二十二オ)

 以上のアベマリアに関するオラショのなか、
    でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや
    其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座(おはし)ます
    諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ
    御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也
    びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや
また、
べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん

などのオラショにみられる「諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ」「御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへ」という文言は、浄土真宗の親鸞の唱える「悪人正機説」「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」を思い出させる。
 隠れキリシタンが「祖先崇拝」と習合すると、父や子イエス(でうす)よりもマリア信仰が強くなるのは、母系社会の祖先崇拝を残している日本型神道仏教習合のひとつのあらわれが、キリスト教にも見られる、と感じる。

「さるべ-れじいな」より
深き御柔軟、深き御哀憐、すぐれて甘く御座(おはし)ます びるぜん-まりあかな。
貴(たっと)きでうすの御母(おんはわ)きりしととの御(おん)約束を受け奉る身となる為に、頼み給へ。あめん。

<おわり>


2009/01/12

2009-01-12 01:36:00 | 日記
富士には月見草がよく似合う-太宰治の父と乳

(1)富嶽百景のころの太宰
(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」
(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」
(4)富士~単一の美めざして



(1)富嶽百景のころの太宰
 『富嶽百景』は、1939(昭和14)年2月に発表された短編で、中期=安定期の佳作として評価されている。
 太宰30歳。この作品が発表される前月に、師、井伏鱒二の家で、石原美知子と結婚式をあげ、生活のうえでも文学の上でも、転機をはかった時期であった。

 『富嶽百景』は、私小説の少ない太宰の作品のなかでは、最も私小説的なもののひとつである。発表の前年1938年9月、井伏が滞在していた山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き、二ヶ月ほど滞在。
 井伏の紹介で甲府の石原美知子と見合いし、婚約が成立するまでの出来事が『私』という一人称で語られている。

 天下茶屋へ行くまでの太宰は、昭和10年11年、東京帝大は落第、都新聞の入社試験に失敗。三度目の自殺未遂。パビナール中毒。芥川賞落選。
 昭和12年、妻・初代の不定を汁。初代と心中未遂。別居後離別というように、生活も破綻し、文学にも懐疑的になり、執筆もできなくなった状態であった。

 師・井伏に招かれて天下茶屋に滞在した太宰に、精神的な転機が起こる。四度の自殺未遂ののちの、起死回生。再生への意欲。この滞在以後、太宰はかわる。文体しかり、小説の題材しかり。なによりも生活において。

 この中期=安定期の作品と生活は、戦後の社会的寵児としての太宰、そして後期の『斜陽』や『人間失格』などの作品に比べると衝撃度は少ない。後期を最も「太宰的」とみなす人からは、「非太宰的」だとさえみなされる。
 平野謙は、この時期の太宰の生活を生活者至上主義のための演技的生活だとみている。

 『この時期の太宰治はまず実生活を下降し、それにふさわしい文学を虚構することで、芸術と実生活の架空の一致を生み出した、とも眺められる。(中略)
 異常が平常で、平常が異常、というケースが、太宰治の生涯に妥当とするとすれば、もともと常識的な生活者というようなものは最初から太宰治には存在せず、中期の一見尋常なコースこそかえってフィクショナルな生活仮構の時期ともながめられるのである。(中略)
 太宰治は明るく健全な文学のために常識的な生活者を仮装しなければならなかった。』(1954 平野謙 『太宰治論』)

 平野の見方に従えば、真の太宰に対して、中期の太宰は仮構であり、ニセモノの太宰ということになる。

 私はそうは思わない。中期の太宰もまた太宰の本質である。
 太宰が自分自身の真の姿をねじ曲げて、安定した家庭生活を無理に仮構したのだとは思わない。
 「義の為あそんでゐる。地獄の思ひで遊んでゐる。(『父』)」という戦後の放蕩無頼の太宰が一方の真実なら、「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援(『富嶽百景』)としての文学を心がけた太宰もまた、真の太宰治だと思う。

 コミュニズムを裏切り、妻にも友人にも裏切られたと思い、すべてに絶望した太宰は、天下茶屋での二ヶ月の滞在の間に、過去をすべて葬り、新しく行き直そうと決意したのではないか。新生しようとした太宰、美知子との結婚生活を得て、安定した生活者として過ごした太宰もすべて「太宰治」である。
 
 政治活動に従事していたときの太宰は、コミュニズムを唯一の真理と心から信じ、活動から遠ざかったのちも、その正しさだけは疑わなかった。
 太宰は真剣にコミュニズムにかかわったのであり、中期の安定した家庭生活に関しても、決して偽装や演技ではなく、真剣に真摯に生きたのだと思う。

 玉川上水での上梓の報を聞き「なに、あれはまた小説のタネにするでしょう」と発言した者がいた。
 石川淳は『太宰治昇天(1948)』の中で、この発言を聞いて激怒し、発言者をどなりつけた、と書いているが、平野が太宰の中期の生活について、明るく健全な文学のための偽装だという仮説を立てたのに対しても、石川なら反対するのではないだろうか。

 平野の私小説と作家の実生活の理論にたいして、伊藤整は「平野に近い」と述べている(『近代日本人の発想の諸形式』p10)
 『太宰にも、葛西(善蔵)にもその傾向がある。すなわち、私小説は、それが書かれるときに、作家の生活がほろび、作家の生活が調和して落ち着くときは書けなくなる、という二律背反に陥るものである』と、している。

 伊藤の太宰観を『近代日本人の発想の諸形式』の中から抜き出してみると、
「自殺的破滅者(p38)」「妻の姦通や心中して自分だけ助かった経験によって、無や死の上に立つ生命の認識を鋭くし、また危うくもした。」
などがあり、平野のいう「私小説作家」に太宰を含めているようだ。

 これまで、太宰は無頼破滅型の作家として、ひと括りにされてきたのだが、平野や伊藤の太宰観を全面的に受け入れてしまう気になれないのは、中期の生活と作品の受け取り方が異なるせいだと思う。
 後期の破滅的な太宰のみを太宰の本質と見て、中期は虚構、偽装された太宰と見なすか、書記・中期・後期、すべて、まるごと全部が太宰だとみなすかによって異なってくるのだ。
 
 私は『富嶽百景』を、真摯に再生しようと思った太宰による「再生への決意表明とこれからの自己の芸術のあり方の模索」の報告として読んでみようと思う。


(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」

 富士の天下茶屋に太宰を招いた井伏鱒二は、『思ひ出』『東京八景』などの自伝的私小説的作品について「私の知る限りでは、小細工を抜きにして在りのままに書かれてゐる」と述べており、『富嶽百景』についても「可成り在りのままに書いてある作品」と言っている。(『太宰治のこと』(1955)
 
 ただし、井伏は『富嶽百景』に描かれた自分の姿について「一カ所だけ訂正しておきたい」とこだわっている。

 『私が三ツ峠の頂上の霧のなかで、浮かぬ顔をして放屁したといふ描写である。私は太宰君と一緒に三ツ峠に登ったが放屁した覚えはない。』
 太宰に抗議を申し込むと、「二つ放屁なさいました。」と言い、さらに「三つ放屁なさいました」と言った、という。

 井伏が「実際の出来事をほとんど在りのままに書いている」と評しているなかで、「井伏の放屁」だけが太宰の創作だったという点について、井伏のことばを信じることにすると、太宰のそのときの心理が、あぶり出されてくる。
 太宰にとって「放屁する井伏」の姿が必要だったのだ、と思える。

 せっかく峠に登ってきたのに、霧で見えない富士。
 見えない富士に向かって放屁する井伏の姿は、この作品のなかで、どことなくユーモラスであり、悠々としてこだわりなく、大人の風格を持つ。ひょうひょうとして、すべてをおおらかに受け止め、受け入れてくれる人物のイメージを感じさせる。

 貴族院議員をしていた父を失ったとき、太宰は十四歳だった。母親の影響下にいる子供時代を終えた男の子は、思春期に入ると父親へのモデリングを始める。見習うにせよ、反発するにせよ、父親の姿から受ける影響は、この年ごろの男の子にとって、大きいものである。
 しかし、太宰=津島修治の子供時代、父は不在がちであり、父の姿が必要なときには死んでしまった。太宰には、父の姿をモデリングすることができず、子ども心に、ただ大きな障壁と感じられたまま、父親像は閉じてしまった。

 そんな太宰にとって、思春期のモデリング対象は、三兄・圭治であったろう。長兄・文治が父に代わって津島家にとって父緒役割を果たすことになったが、修治にとって、見習うべき存在は、上野の美術学校彫刻科に在学していた三兄であったと思う。
 太宰が二十一歳のとき、兄の圭治ははじめて井伏に会い師事することになった。しかし、圭治は、井伏を師とあおいだその翌月に病没する。

 以後、井伏は太宰にとって三兄に変わるような存在になった。十一歳年上の師匠であり、兄である。
 他人に対してはいつも明るく気をつかって応対していたという太宰も、井伏にあてたてがみなどを見るかぎりでは、かなり自分をさらけ出してむしろ甘えているかのように感じられる。

 しかし、天下茶屋へ行くまえの太宰と井伏の関係は、ちょっと屈折したものがあったようだ。
 パピナール中毒を治すため精神病院へ入れられたことは、太宰にとってたいへんなショックであり、人間不信に陥った、ということだが、この入院手続きをし、身元引受人になったのが井伏であった。

 むろん井伏が太宰を気遣い、弟子の身体を思ってしたことである。しかし、太宰からすると、信じていた師匠にまで狂人扱いされた、と感じられた入院であった。井伏もこのころの太宰の感情について「おそらく入院中は私を恨んだことだろう」と述べている。
 太宰にとって、三ツ峠における井伏は、まだ入院中の屈折が消えきっていない。
 自分を「狂人」として扱い、強権を発動して入院させた保護者としての師匠。しかし誰よりも兄として慕わしい、二律背反的な複雑な存在であった。

 「放屁する井伏」は、こだわりなく自分を受け止め、受け入れてほしいと深層で望んでいる太宰の目に映る、兄=井伏の投影であると思うのだ。

 『富嶽百景』の中の井伏は、太宰に見合いをさせ、私生活の転機を作る。

 井伏は『山に来てもしょんぼりしてゐたのは無理もない。それがうってかわって「強く孤高でありたい」と手紙に書くやうになったのは、ときどき甲府の町へ降りて当時の婚約の相手から力づけられてゐた故だらうそれ以外の理由は私には思ひ当たらない』と、書いている。

 今回、三度目に読み返して、私はおもしろいことに気がついた。
 井伏も言っていないし、これまでの様々な『富嶽百景論』にも指摘されていないことなのだが、太宰は甲府で見合いをはかってくれた人として、師を、「井伏氏」と実名をあげて書いている。
 一方、婚約に至るまでの世話をし、結婚式をとり行ってくれた人物については「或る先輩」とのみ書いて、名前を故意に書いていない。
 実は、井伏が婚約まで世話をし、井伏の家で結婚式を行っているのである。
 なぜ見合いを世話してくれた井伏だけ実名を記し、結婚式のほうの井伏は、名を伏せるのか。ずいぶん奇妙な感じがする。

 年譜を見ないで、この作品の中だけで井伏の行動を判断すると、井伏は見合いに立ち会っただけで、その後は太宰の結婚に関わっていないように読みとれる。
 これだけ親しい井伏なのだから、見合いに立ち会ったことを実名で書くなら、婚約の世話や結婚式の世話をしたことを実名で書いても失礼には当たらないだろう。いやむしろ話の流れからいえば、わざわざ「或る先輩」などと、そこだけ匿名めいて書いているほうがよほど不自然である。

 なぜ太宰は見合いの場合だけ「井伏氏」と書き、結婚式の世話に関しては「或る先輩」などと持って回った言い方をしたのだろうか。
 井伏に対する太宰のかなり屈折した重いが現れているように思うのは、裏読みのしすぎだろうか。

 太宰にとって結婚式はかなり重要なものであったようで、実家の援助を得て「ささやかでも、厳粛な式をあげる」つもりでいた。
 しかし、実家からは援助を断ってきた。
 代わって結婚式の世話をしたのが井伏である。太宰にとって、結婚式は父→長兄に関わるもの、という意識があったのではないか。
 結婚式は「家」に属する儀式であると。

 初代との最初の結婚のときも、分家除籍という条件ながら、津島家は太宰の結婚に金を出し、一ヶ月百二十円の仕送りをしてきたのだ。
 二度目の結婚にたいして、実家はすべての助力を断ってきた。太宰ははじめて自分ひとりの才覚で経済的に自立しなければならなくなったのだ。
 二十九歳にして本当の自立である。

父は家に属するものとして太宰には意識される。
 結婚式を執り行ってくれた人は、「家に関わる父」である。儀礼を重んじ、いつも少年津島修治の前に山のように立ちはだかっていた父であるべき人だ。
 家の儀式に関わる「代理父」とも言うべき井伏のほうは、太宰にとって受け入れるスタンスができていない。
 子としての立場からどのように「代理父」に対したらよいのか、己の足下が定まっていない。
 それで、「或る先輩」と書いたのではないだろうか。

 太宰の井伏に対する感情は複雑だ。 
太宰にとって慕わしいのは、富士に向かって放屁する「兄=井伏」である。結婚式を取り仕切る「父=井伏」のほうは、感謝する気持ちの一方で、ちょっと煙たい、複雑な思いを含んでいたと思われる。自分を「狂人」とみなす保護者としての父。

 太宰にとって、「家」もまた、複雑な感情を有する記号である。
 自分の所属すべき所。しかし自分の居場所としては否定されて排除された場所。
 結婚式を取り仕切った井伏は、「家」に関わる場所に踏み込んできた「代理の父」井伏であった。

 井伏が放屁について「訂正しておきたい」と、こだわったのも、太宰が一方的な面だけの井伏を求め必要としていたことに気づいていたからではないだろうか。
 『富嶽百景』における太宰の気持ちとしては、あくまでも井伏は「放屁する兄」である。
 「富士には放屁がよく似合う」

(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」

 人間の子が生まれ、安定した人間関係を営んでいけるよう成長するためには「母子相互交渉」が重要な役割を果たす。
 たとえ生みの親でなくとも、幼児期を通して子供を全面的に受け入れ、子供が「この膝に乗ってさえいれば、何事が起ころうとも安心していられる」と、思える保育者が子供にとって絶対に必要である。

 しかし、太宰は安定した母子関係の中で成長することができなかった。
 生母が病弱だったので、乳母の乳で育ち、その乳母も一年たらずで幼い修治のもとを去ってしまった。
 小学校入学までは叔母きゑに養育され、叔母を実母と思いこんでいた。
 ところが、小学校入学に際し、生母のもとへ返される。
 実家に帰ったものの、生母には心から甘えたりなじんだりできなかった。
 この幼年期の太宰は『思ひ出』などからもうかがえる。

 心から甘えることのできる母を持たなかった故に、かえって太宰には母に対し、一種の距離を置いた憧憬とでも言えるものが残った。
 
 『富嶽百景』の中に、「母」の姿が二度出てくる。
 ひとつは見合いの相手・石原美知子の母である。実家からの金銭的な援助が得られないことを素直に述べた太宰に対して、美知子の母は、「あなたおひとり、愛情と職業に対する熱意さえお持ちならば、それで私たち、けっこうでございます」と答えて、太宰を感激させた。
「この母に孝行しようと思った」と、太宰は書いている。

太宰にとって、実家が金持ちの地主であることは、自分を縛る枷のようなものであり、しかも、それを利用せずには生活してこられなかった、二律背反の存在だった。
 コミュニストシンパ活動をしているときでも、まわりの活動家にとって、必要なのは太宰の政治力ではなく、実家から引き出してくる資金であった。
 実家から送られてくる仕送り金が、取り巻きたちの飲食に費やされることがままあったという。

 太宰のまわりには、太宰の実家の金目当ての人間も多かったのである。太宰は実家が地主であることを引け目に感じつつ、実家からの金なしには生活できない、というジレンマに常に悩まされていたはずである。
 そんな太宰にとて、「金のない自分」「職業への熱意だけ持っていればよい自分」を認めてくれる女性に出会ったことは、大きな驚きであり、自信になったことだろう。
 石原家の母娘との出会いが、太宰の再生の力になったのだと、私は思う。

 石原美知子は、東京女子高等師範学校を卒業し、県立都留高等女学校の教師をしていた才媛である。
 前妻初代は、経済的にも精神的にも太宰にたよりきっていた。
 美知子は、前の妻初代とまったく異なるタイプの女性である。太宰を受け入れ、精神的に支えになるタイプ、いわば「憧憬の母」のような女性として、美知子が現れた。

 自分自身は他の女と心中事件を起こしたりして勝手な行動をとっていながら、太宰は初代が他の男と過ちを犯したことにひどく傷つき、初代を許さなかった。
 女性の貞淑さに関しては、太宰もやはり古い観念しかもっていない。
 『富嶽百景』の中でも、花嫁があくびをしたのを見て「慣れてゐやがる。あいつは、きっと二度目、いや三度目くらゐだよ」と、悪口を言わずにはいられない。何度嫁に行こうと大きなお世話というものだが、太宰のイメージにとっては、女性は純白、貞淑な存在でなければならなかったのだ。

 美知子との見合いの席で、石原家に掛けられていた写真の富士山を見て、太宰は「まっしろい水蓮の花のようだ」と思う。これはそのまま美知子のイメージであったろう。蓮はまた、救済の象徴でもある。
 美知子は太宰にとって、水蓮の花のような富士山であり、ありのままの自分を受け入れ認めてくれる母のような存在であったろう。

 水蓮のような美知子に比べ、他の女性への太宰の点は辛い。
 ケシの花のようなタイピスト風のふたりの娘に対して、太宰は厳しい描写をしている。
 「富士にはけしの花は似合わない」

 孝行しようと決意させた石原の母のほかに、『富嶽百景』には、もうひとり母の面影をしのばせる人物が出てくる。
 太宰がバスの中で出会った老婆である。「濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、アタシの母とよく似た老婆」「胸に深い憂悶」を持つように見え、太宰をして「あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに共鳴のそぶり」をみせて「老婆にあまえかかるやうに」という態度を取らせた老婆。太宰の「母への希求」が、ここにも出ているように思う。

 太宰は、「生母や祖母からはあまりかわいがってはもらえなかった」と、自分では思っていた。
 兄弟の中で一番器量も悪く、母からの関心も薄いと思いこんでいた。しかし、それだからこそ、母に認めてもらいたい、母に共感してもらいたいという希求の思いも強かったのではないかと思う。母に似た老婆が眺めている月見草。
 「富士には月見草がよく似合う」という有名なエピグラムが生まれる。

 「生まれてすみません」や「家庭の幸福は諸悪の根元」など、太宰はエピグラムつくりの名人だが、エピグラムだけが人口に膾炙した結果、勝手な思いこみもでてくる。
 この「富士には月見草がよく似合う」にしても、今夏読み直すまで、富士山の前に月見草が咲いている、という絵葉書的な図柄を思い浮かべていた。

 三度目に読んで、やっと富士と月見草の位置の違いに気づいた。
 老婆と太宰が見ている月見草は、バスの進行方向に対し、富士の反対側の山道の断崖に咲いていたのだ。
 絵葉書的に、富士の前で可憐に揺れていたのではなく、「富士の山と立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにいすつくりと立ってゐたあの月見草」だったのである。

 あとで太宰が茶店に月見草の種をまいたときも、茶店の表に蒔いたのではなく、わざわざ背戸に蒔いている。
 月見草と富士と同時に眺めるのではなく、富士と反対側にあって、振り向いたときに見えるのでなければならないのだ。
 月見草は富士の添え物として富士の前に咲いているのではなく、富士と対峙して強くけなげに咲いているのであった。

 天下茶屋へ出かける前の意気消沈ぶりとはうって変わって、「強く、孤高でありたい」と、井伏にあてて手紙を書いた太宰。
 実家の援助や取り巻きたちから手を切り、この月見草のように、「みじんもゆるがず、けなげにすっくと立とう」と決意をしたからこそ太宰は月見草に共感を寄せ、「富士には月見草がよく似合う」と思ったのだ。月見草は、「大きくしかし俗な富士」に引けを取らず、強く孤高に咲く「かくありたい」太宰の姿の象徴である。そしてこの月見草は母にじっと見つめられる存在としてすっくと立っているのである。

 傑作を書き人から認められたいという意識、他の人からいい人だと思われたいという意識を、太宰はずっと持ち続けていた。
 『人間失格』の最後でも、バーのマダムに「葉ちゃんは神様みたいないい子でした」といわせ、『富嶽百景』のなかでもファンの青年の口をして「まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでした」と、語らせている。
 富士に対峙する月見草を見て、太宰は「人知れずひっそりと咲いていても、母はじっと見つめていてくれるのだ、俗な富士を望まなくても、強く孤高の月見草であればよいのだ」と、納得できたに違いない。

(4)富士~単一の美めざして

 梅原猛は『地獄の思想』の中で、
『富士は戦前の日本における価値のシンボルであると思う。天皇制のイメージ、あるいは地主性のイメージではないかと思う』
と、述べているが、私は違うと思う。
 もし、そのようなイメージを富士が持つとしたら、それは太宰の言う「ペンキ絵の富士」であって、『富岳百景』のなかで太宰が共感を寄せている方の富士ではないと思う。

 富士と月見草の対比についても梅原は
『巨大な富士に向かいあう小さい月見草の存在、そこに彼はおのれの存在を感じていた。巨大な地主的社会、そしてその地主的社会に相対する月見草のことく生きる、それが太宰のささやかな生の方向であった。』
と、述べている。ちがう。
 このとき太宰があえて見ようとせず、反対側を向いたときの富士は、「変哲もない三角の山」「あんな俗な山」と感じて言う富士であったことを考えなければならない。

 『富嶽百景』には、太宰が「ひとめみて狼狽し、顔を赤らめたくなる」というような俗な富士と、太宰が共感し評価する富士の両方が登場する。
 梅原の解釈は一方的にすぎる。

 太宰が富士に託したイメージは、すべてを含み込んだ社会の総体、人間生活人生の総体、芸術の総体、さらにいえば、宇宙や神をも含んだ、大きな存在だったのではないだろうか。
 社会にはさまざまな面がある。俗世間で通用している天皇制や地主制の価値観も含まれるし、コミュニズムもある。人間の生活、人生にしても、通俗的な出世や金儲けに狂奔する者もあるし、純粋に他のために生きる生き方もある。芸術もまたしかり。
 富士も、一つの山でありながら、見る場所、時、見る人の心情の違いによってさまざまな姿に映る。

 もし、富士が、梅原の言うような天皇制・地主生のシンボルなら、茶屋の二階から遊女たちのわびしい姿を眺めて、社会の矛盾に対してなんの力もな自分を苦しく思いながら「富士にたのまう。こいつらを、よろしく頼むぜ」と、富士に祈らずにいられない太宰はまったく奇妙な人物に思えてしまう。富士が太宰にとってあう一つの価値のシンボルとして見えていることは確かであるが、もし天皇制や地主制のシンボルなら、薄幸の遊女たちをみて、「富士に頼もう」と言うだろうか。太宰が天皇制地主制を肯定したとは思えない。
 戦争中、ついに戦争協力的な行動をとらなかった太宰ではないか。自分が地主の息子であるという宿命へのこだわりを終生捨てられなかった太宰ではあるが、決して地主制度を肯定したことはなかったはずである。

 梅原の言うイメージが富士にあるとしたら、それは太宰が嫌悪する「俗な富士」の方であろう。「俗な富士」は「戦前社会の通俗的価値観」の象徴であったり、あるいは「通俗的権威的文学」の象徴であったりする。
 太宰は「俗な富士」を嫌悪し、否定する。
 太宰が好意を寄せるのは、純粋な人の情けと友にある「単一の美」を見せる富士である。

 太宰は常に「自分を偉人として認めてもらいたい」「自分は尊敬される存在でなければならない」という強迫観念をもっていた。
 再婚するまでの太宰にとって、「賞の権威」が、唯一自分の存在価値を確認するよすがだったのかもしれない。だからこそ太宰は芥川賞を欲しがったのだ。

 美知子に出会った太宰は、そのような通俗的権威によって自分を飾る必要はなくなったことを知る。太宰はただありのままの太宰であり、芸術に向かって真摯でありさえすればそれでよかった。ペンキ絵の富士とは決別してよいのである。

 三ッ峠の茶屋の老婆が、霧で見えない富士のかわりに出してくれた写真の富士。石原家で見た写真の富士。雪をかぶった御阪峠の富士。

 太宰は人のなさけの美しさと共に見た富士を素直に美しいと感じる。太宰は「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援」としての芸術をめざそうと思い始める。
 「素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙出揃へて、そのままに神にうつしとること、それより他に無いと思ひ、さう思ふときには眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。」と、太宰は自分の文学を考える。

 「単一の美」と「通俗」の違いに苦しみながら、自己の文学の可能性を探っていく。
 ここで、太宰のいう「単一の美」が、どういうものを目指しているのか、私にはよく分からないのだが、天下茶屋へ行く前の『二十世紀旗手』『創世記』『HUMAN LOST』の緊張し作り上げた文体から一変し、平明でのびやかな文体になっていることは読みとれる。

 梅原も、平野と同じように
『人を愛することより、まずおのれ自身を愛すること、キリストの苦悩をまねることをやめて、昇進的な仮面をかぶって、絶望の心のなかに小市民的な仮面を定着させること、仮面が単なる仮面にとどまらず、ひとつの実体的な子こりになるほど巧みな仮面使いになるkと、それが太宰の絶望を終わらす生活の知恵であった。』
と、中期の太宰をとらえ、この時期の太宰を仮面をかぶった状態としている。

 奥野健男『太宰治論(1955)』
 人と異なっているという、ドラマティックな自己意識を一歳捨て、平凡なる小市民に、凡俗に下降しようといた。つまり彼はようやく「現世には、現世の限度といふものがある。
とあきらめ、一種の妥協を試みる三十歳の大人になったのだ。既に中日戦争が始まった社会に生きていくためのやむを得ない適応でもあったのだ。そして自己意識を捨て、「他の為」の芸術をつくる機会として生きようとする。自己の芸術を守るため、生活をフィクション化し、平凡な日常の中にかくれようとしたのだ。これが戦争へ突っ走るその当時の社会への一つの反逆でもあったのだ』
と、述べている。

 なぜ、中期の太宰を仮構・仮面の存在と言い立てるのか。おそらく、戦後再びデカダン、放蕩、無頼の生活に戻った太宰の印象が強烈であるからだろう。確かに戦後の、なにもかも一切の価値が崩壊し、すべてが空しく虚無的になった社会に太宰の無頼ぶりはピッタリ合一し、この太宰が本質的な太宰であるかのように見える。
 だがだからといって、中期の太宰が仮構・仮面の太宰であるということは、私にはできない。 
 『富嶽百景』に表れた再生の意志、井伏にあてた手紙に見える「新しい生活」への決意、これらがむりやりの、嘘で固めた仮構だとは思えない。

 通俗の富士から離れ、まっ白い水蓮のような富士を思わせる美知子と生き直そうとした太宰も、また一人の太宰なのだと、私は思う。
 
 戦後の太宰の絶望について、社会の荒廃・虚無と関わって語られることが多く、もちろんそれも無関係ではないと思うのだが、私は長男の問題がたいへん大きな原因だったのではないかと想像する。

 モデリングすべき父を失っていた太宰にとって、自身が父親として振る舞うとき、あるぎこちなさを感ぜずにはいられなかったろう。
 『おとぎ草紙』にあるように、こどもにおとぎ話を語って聞かせる太宰の姿なども「懸命によい父親として振る舞おうとしている」という印象を受ける。

 父としておのれの在り方に自信をもてないままの太宰をうちのめしたのが、知恵遅れとなった長男の問題だったのではないか。

 自分の血を分けた子供が、人並みに発育できないことがわかったとき、どのような強靱な精神の持ち主でも一度は絶望的になる。
 苦しんだ末、絶望から這い上がり、希望を見いだし、子とともに十字架を背負って生きて行こうと決意できる人もいる。大江健三郎や米谷ふみ子のように、その子と共にあることで自己の文学を新しく創造していくことのできた文学者だっている。
 しかし太宰にはその重荷を担いきれなかった。
 一度ならず絶望と戦って疲労のなかでようよう生きてきた太宰に、我が子の十字架は重すぎた。

 「子供より親が大事と、思ひたい」と、『桜桃』に繰り返し書かれているのを読むとき、私には子と共に重荷を担い切れなかった太宰のつらい悲鳴を聞く思いがする。
 太宰の実生活と引き比べて読むことをこれまでしてこなかったので、以前に『桜桃』や『ヴィヨンの妻』を読んだときは、この中にでてくる知恵遅れの子供のことは太宰の創作だと思っていた。
 太宰に本当に障害のある子がいたと知ったのは、津島佑子が兄の障害のことを何かに書いているのを読んでからだった。

 『ヴィヨンの妻』のなかで、「ああ、いかん。こはいんだ。こはいんだよ、僕は。こはい!たすけてくれ!」と言って、妻にすがりつく姿は、おそらく太宰の本当の気持ちだったろう。
 父を知らず、母の認知と愛を求めてきた太宰にとって、美知子は母のような存在だった。母の愛を得て、落ち着いた生活を営むことができたのも束の間、自分が父として振る舞わねばならなくなったとき、重荷を背負って子と共に生きるべき状態に太宰は自分自身を保つことができなかった。太宰は再びくず折れた。

 奥野健男は、太宰治の文学と生涯を「下降への指向」と規定し、
『金持ちの旧家の出身という環境から、また、自分は特別に「選ばれたもの」だというナルシズムと分裂性性格のまじりあった自己意識から下降しようとした』
 『彼は自己に潜むものへの嫌悪から、欠如感覚を心理優越ないし社会的使命感により充足して、つまりエリートになることにより、既成秩序に順応してしまう上昇感性を拒んだのだ。』
と、述べている。さらに、
『すぐに、明日の黎明などと設定しなければならない、彼の下降はすぐ未来に、上昇を予定されている、ちゃちな放物線みたいな気がするのだ。』
と、規定している。

 「下降への指向」とは太宰の文学を語るときに、もはや枕詞のようになってしまった便利な規定であるが、奥野自身「放物線」と規定し直しているように、実は決して下降指向ではない。世間的な立身出世とか、金儲けという意味での上昇志向は、確かに太宰の生涯と無縁であったといえるが、芸術・文学上の真実を目指す、という点では太宰も又、常に上昇志向を持ち続けていたのだと思う。

 まわりの人に認めてもらいたかった幼年時代や芥川賞を欲しがった初期の太宰は、明らかに上昇志向を見せている。文学は自分の存在証明であり、自分を認めてもらうための手段でもあった。
 むしろ中期の太宰は純粋に自己の芸術の可能性をさぐっていたように思うのだ。
 後期の太宰は文学上の名声も手に入れ、傑作を残したい、自己の芸術を完成させたいという上昇志向を成就したようにみえる。が、たぶん、太宰はそんな名声が空しいものであることに気づいていた。
 自分の文学は、ただ一人の自分の息子を救いはしなかったのだ。
 息子の障害に打ちのめされたとき、文学が自分の人生を救ってくれないことに、太宰は煩悶したに違いない。

 地主の子に生まれたという罪の意識と同時の誇り。
 心中相手の女だけ死なせてしまったという罪の意識と、同時に選ばれてあることの不安と誇り。
 過去のさまざまな煩悶からは抜け出することができた太宰も、障害を持つ我が子に何もしてやれぬという絶望からは逃れられなかった。
 戦後の虚無的な社会、自己の文学や名声のむなしさ、そして息子に何もしてやれぬ自分への絶望。疲労が極度に達したとき、ついに太宰は自殺に成功する。

 部屋には、美知子あての遺書と、子供たちへの玩具が残されていたという。
 「家庭の幸福は諸悪の根源」などと言ってはいるが、それは一緒の照れであって、決して太宰が家族を愛さなかったのではない。家庭を大事に思いながら、家庭の幸福におさまってしまえない自分がもどかしいのだ。

 子としてのアイデンティティをようよう確立できたものの、父としてのアイデンティティを確立しきれずに、太宰は玉川のふちに立った。

 玉川のほとりから富士は見えただろうか。小さな三角のかたちして、沈没しかけてゆく船のような富士だったろうか。
 太宰はまぶたを閉じて心のシャッターを切る。
 「さやうなら、お世話になりました。パチリ」

 ドボン、、、、、玉川や太宰飛び込む水の音。合掌。

テキスト『太宰治全集2』1975 筑摩書房  
参考  『太宰治集』 1967 集英社
    『地獄の思想』梅原猛 1967 中公新書
    『評釈 太宰治』塚越和夫  1982 葦真文社
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(あとがき)乳やりながら読む太宰(1990年1月23日)

 1989年の年末。掃除もせず、おせちも作らず、1歳を過ぎたのに、まだ乳離れできない息子に乳をやりながら『富嶽百景』を読み返した。三度目の『富嶽百景』になる。

 一度目は高校生の頃、現代国語の教科書だったか、副教材だったか、たいして面白くもなく、「なにもそんなイジワルをしなくたって、ちゃんと二人の娘を画面に入れてシャッターを押してやりゃあいいじゃないか」と思ったくらいで、特になんということもなかった。

 二度目は、国語の教員をしているとき、『走れメロス』の授業に際し「太宰を教材にするからには、一応主要作品を読み返しておこう」と思って読んだ。
 『人間失格』や『斜陽』に比べれば平板な気がして、作品それ自体のみで読むべきだと信じていたから、年譜と引き比べて読むということもしなかったので、『思い出』などに比べても、いいとは感じられなかった。

 三度目の今回は、前の二回とはまったく読み方がが変わった。
 まず、読もうとする自分自身の年齢が四十歳である。
 太宰が死んだ年を越してしまっている。(惑いっぱなしでも、人は生まれて四十年たつとちゃんと不惑の年になってしまうのだ。)

 二十代で読むのと、四十で読むのでは、他のどのジャンルの本でもいくらかは印象が変わるものだ。まして今回は何事かは言わねばならぬ、という気迫に満ちている。いわば、書いた三十歳の太宰に対して、四十歳のおばさん読者が対決するのである。
 (富士をバックに、着流し浪人風の太宰と、子連れ狼よろしく乳母車に二人の子を乗せて、けなげにも立ち向かわんとする中年女、というったシーンを思い浮かべてください。)

 これまで『近代日本人の発想の諸形式』を読んできて、ひとつ思ったことは、私小説の読み方が、今まで間違っていたのではないか、ということだった。
 いままで、小説は、作品自体を自立したものとして読むべきだ、と、思いこんでいたのだが、特に戦前の私小説というのは、読者と作者はもっと密着した狭い世界で作品を書き、読んでいたとわかった。

 純文学の読者は今よりずっと層が薄く、限られた人々であった。そのなかでも、特定の作家に特定の読者がつき、たぶん読者は、作家の実人生と世界をまったく同一視していただろう。
 読者や、作品を評価する文壇のお歴々は、その作家の私生活について隅々まで知ったうえでよんでいたはずである。

 伊藤整によれば、「真実と正義のための生活であるにしろ、調和のある理屈の通る生活であるにしろ、作家はその報告を書く」という通念を作家も読者も持っていたのが「正しい私小説の読み方」というものだった、と、やっと思い至ったわけである。

 そこで今回は、まず太宰の年譜を読み返し、年譜と小説が一体であるように読んでみた。その上で、深層心理カウンセラー的に読んでみることにした。
 (アメリカ映画などによく出てくる心理分析医にかかっているシーンを思い浮かべてください。カウンセラーの前に、横になって目をつぶっている患者=太宰。カウンセラーは、優しく、おもむろに「さあ、ラクにして、子供の頃のことを思い出してみましょう」なんていっている)

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