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融合文化論-オラショを中心に

2008-12-31 12:14:00 | 日本語言語文化
融合文化の歴史-日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-1

<1>融合文化の端緒

 縄文から室町までの日本列島において、最初の「文明の遭遇」と「融合」は、紀元前600年ごろから紀元後100年ごろにかけての長期間の出来事である。

 栗の実や栃の実、稗や粟などの雑穀の栽培、里芋類の焼き畑農業を行っていた縄文の土地に、稲作を中心とする農耕民がしだいに入り込み、長い年月をかけて縄文村は稲作を受け入れていき融合した。これが日本の「縄文弥生時代」である。縄文の焼き畑村と稲作の村は利用する土地が異なっていたので、競合することなく争うこともなかった。

 しかし、稲作村の人口増加率が、年3~5%で増えるのに対して、縄文の焼き畑村では年1%の人口増加にとどまる。この結果、千年の間に、稲作村の人口は焼き畑村の人口を凌駕し、列島全体が縄文弥生ハイブリッド稲作村になる。稲作村が列島ほぼ全土に渡ってひろがった、という時代が3~5世紀である。(注1)

 アジア大陸、またその突端の朝鮮半島から日本列島への人口移動は、長期間にわたって随時行われたと推測できるが、その中でも突出した出来事として中国の史書に記録されたのが、秦の始皇帝時代の「徐福」である。徐福は、始皇帝に不老不死の妙薬を手に入れよと命ぜられ、3000人の部下を引き連れて大陸から出航しそのまま戻らなかった、と司馬遷が史記に記録している。

 この伝説が歴史上の具体的事実であるかどうかはまだ不明だし、徐福一行のたどり着いた土地が日本であるというのも実証されたわけではないのだが、司馬遷が徐福の出航を記録として残したことは事実である。(注2)

 この稲作に伴う移入は、長期間にわたって進んだので、「他者との遭遇」という強い衝撃すなわち「文明の衝突」としてではなく、ゆっくりと「融合」がすすんだ。

 次の「他者の移入と融合」は、日本列島に「大和の大王」支配が確立した5~6世紀に起きた。朝鮮半島での百済国滅亡に伴う、百済国難民の日本列島流入である。このときの朝鮮半島と日本の戦いについては、高句麗王が残した石碑(AD414年に建立)に刻まれている。筆者はこの石碑を見るため、中国吉林省集安市の高句麗王遺跡を訪れ、石碑の文字を読んできた(注3)。

 この7世紀の大量移民受け入れで日本列島に起きた大変化は「文字文化の移入」であった。それまでも「護符」としての文字は入ってきていたが、言語の記録装置としての文字文化が、日本語言語文化に影響を与えるまでに大量に入ってきたのは、6~7世紀のことであった。

 このとき、文字文化を受け入れた人々にとって、文字は「異質な文化」との遭遇となった。(注4)
 文字を伝えた朝鮮半島の人々(百済人を中心とする)の言語と日本語は統語を同じくする。単語を同じ語順で並べる言語であり、当時の百済語と大和語は、かなり近いことばであったろうと推測される。マレーシアのマレー語とインドネシアのインドネシア語は、方言差がある程度の同一の言語である。デンマーク語とノルエー語スエーデン語も、方言差程度の同一言語である。日本語と百済語は、それほど近くはないものの、現在のスペイン語とポルトガル語程度に近い、すなわち通訳なしでもある程度通じあえる言語であったのではないか、とみなす言語学者もいる。

 ただし百済語は死語であり、記録も残されていないので、あくまでも推測である。高句麗語&新羅語の系統をひくとされる現代の朝鮮語は日本語とは統語は同一であるが、同系統の語彙は少ない。古代文献の研究から、百済語と倭語は開音節であったことが共通するという説もある。(注5)

 6~7世紀ごろ、日本に漢字を伝えたのは、朝鮮半島から大量に渡来して大和朝廷で一定の地位を占めていた古代朝鮮人である。初期には、文字の読み書きができるのは、ほぼ渡来人に限られていた。古代朝鮮の知識人は漢字を早くから移入し、漢字によって朝鮮語を表記する方法を開発していた。漢字を表音文字として用いて、中国語にない朝鮮語の助詞を書き表すなどしていたのである。

 日本語は、母音の数が少なく、「子音+母音」という単純な音節音韻体系を持っている。言語の構造(統語法)が朝鮮語と同じであり、漢字による朝鮮語表記法の知識のある渡来人にとって、日本語を漢字で表記することはそれほど難しいことではなかったであろう。漢字を用いた朝鮮語表記法を「吏読」という。(注6)

 名詞など自立語を漢字で、中国語にはない朝鮮語独自の助詞などを漢字の音読をあてて記録している。これと同じ方法で日本語も表記できる。古代日本人が、短期間に漢字による日本語表記ができるようになったのは、朝鮮半島渡来人の力によるものであると推測できる。この漢字による日本語表記が「万葉仮名」表記である。8世紀に成立した『万葉集』『古事記』は、万葉仮名で表記されている。

 この時の「他者との出会い」すなわち文字文化との遭遇は、統語法を同じくする言語の話者である朝鮮語話者を媒介としていたため、「衝突」はおこらず、融合のみが進み、万葉仮名はわずか100年の間に「ひらがな」を生みだし『土佐日記』『竹取物語』などのひらがな文学を創出した。
 平安時代鎌倉室町と続く時代にも、日宋貿易日明貿易など、大陸からの文化移入がつづけられた。

<2> 信仰の習合と隠れキリシタンの誕生 

 日本文化が「融合」ではなく、「衝突」を他者との間に巻き起こしたのは、室町末期の戦国期に至って、キリスト教が流入したときである。唯一神を絶対者とする一神教は、日本の社会とは異質な宗教であった。

 日本の宗教は、第一次に縄文以来の土着の神々(国つ神)であるスサノオやオオクニヌシと、大和農耕民の自然神、アマテラス(太陽神)や豊受大御神(とようけのおおみかみ=オオゲツヒメ食物神)が「八百万の神」としてまとめられた。第二波として、文字文化流入期に儒教道教仏教が習合し、日本独自の神道仏教習合が行われた。

 唯一神は、これらの習合的多神教を認めようとはしなかった。そのため豊臣秀吉や徳川将軍家は、キリスト教を排斥した。キリスト教信者は国外追放や死刑とされ、九州を中心に隠れキリシタンとして残った人々のキリスト教は、「マリア観音」信仰など、「習合的キリスト教」に変化していったのである。

 こうした隠れキリシタンの多くは、明治時代に来日したパリ外国宣教会によってカトリックに復帰したが、長崎県などには、今でもカトリックに復帰せず土俗化した信仰を保有しているキリシタンも存在する。マリア観音信仰における「オラショ(祈祷書)」を精査することによって、キリスト教が仏教の隠れ蓑を着て伝わるうちにどのように習合されていったのかを追跡できるのではないかと思う。

 オラショの原語はラテン語のOratio(祈祷書)である。(注7)
 長崎生月島のキリスト教布教史を概観する。室町末期、長崎の平戸藩主の松浦隆信は貿易を目的としてザビエルとその部下のトレリスらに布教を許可した。藩主自身は入信しなかったが、筆頭家老で生月の豪族籠手田安経が国守の名代として入信した。1557(弘治3)年のことである。天正15年(1587年)6月20日、豊臣秀吉は突如としてバテレン追放令を出した。「日本は神国であり南蛮国の邪法を拒否する。仏法の破壊者である宣教師達は20以内に日本から退去せよ」という天皇署名の勅状を発行したのである。

 秀吉死去ののち幕府を開いて全国支配を完了した徳川家康は、慶長17年(1612年)にキリスト教の布教禁止を命じた。弾圧が強まり、殉教者が続く中、キリシタンは潜伏し、明治の世まで300年間、密かにキリスト教信仰を続けた。83 隠れキリシタンにおける習合生月に伝わるオラショ『生月島サンジュワン様の歌』は以下のような歌詞である。

    前は泉水、後ろは高き岩なるやナ 
    前もうしろも汐であかするやナ
    この春は桜花かや、散るぢるやナ 
    又来るときは蕾開くる花であるぞやナ
    参ろうやナ
    参ろうやナ
    パライゾの国に参ろうやナ
    パライゾの寺と申するやナ
    広い寺と申するやナ
    広い狭いはわが胸にあるぞやナ

 サンジュアン様とは、中江島という岩礁の呼び名である。生月島と平戸島の間に浮かぶ小さな岩礁において、数々のキリシタンが命を落とした殉教の地であった。生月島キリシタンにとっては最大の聖地であり、洗礼をほどこすときはこの岩礁サンジュアン様から水を汲む。この「殉教者の聖地を神格化して祭り、そこから洗礼の水をくみ上げる」という行為は、正月行事の「正月神に供える若水を、新年最初に井戸からくみ上げる」を思わせる。

 カトリックの洗礼式において、「どこそこの聖地で汲んだ水を用いなければならない」という規定があるとは聞いたことがない。たとえば、ヨーロッパカトリックの教会で洗礼式を行うとき、「ヨルダン川またはそれに準ずる水を洗礼に用いること」というようなきまりはあるだろうか。寡聞にして知らない。

 サンジュアン(殉教地中江島の岩礁)の水を使う、という隠れキリシタンの意識は、新年行事の「若水汲み」の行事が影響が習合しているのではないかと、筆者は推測する。
 以下、300年にわたって密かに伝えられた「キリスト教信仰」は、表向き仏教徒と見えるように、マリアは「マリア観音」として画像が描かれ、今となってはヨーロッパキリスト教とはかなりかけ離れた独自の宗教となっている。たとえば、カトリックでは行わない「祖先崇拝」がある。明治期にカトリックに復帰しなかった隠れキリシタンは、その理由として「ハライソに行き、祖先に会いたい」という彼らの信仰が現代のカトリック教義によって否定されたことをあげる。

 1年のうち40の行事を行うが、カトリックと同一の行事はイエス生誕と復活行事など数種のみであり、他はほとんどが祖先崇拝行事にあたる。おおかたの行事は、「祈願、直会、宴会」がセットとなっており、これは神道における祭式と同様の進行である。ほとんどの行事は祈願、直会、宴会の順に進行され神道の行事とほぼ同じ。

<4> どちりなきりしたん(教義問答にみる隠れキリシタンの思想)

 「どちりなきりしたん」は、隠れキリシタンに伝えられたキリスト教の教義問答である。その一部を写す。「どちりなきりしたん」より、弟子と師の教義問答(天地創造について)   

弟子 ばんじかなひ玉ひてんちをつくり玉ふとはなに事ぞや。    
師  そのこと葉の心はデウスばんじかなひ玉ふによててんちまんぞうをいちもつなくしてつくりいだし玉ひ、御身の御いくはう、われらがとくのためにかかへ、おさめはからひ玉ふと申ぎなり。   
弟子 御あるじデウス一もつなくしててんちまんぞうを作り出し玉ふとある事ふんべつせず。そのゆへは御さくのものはみなデウスの御智慧、御ふんべつよりいだし玉ふと見ゆるなり。しかるときんば一もつなくしてつくり玉ふとはなに事ぞや。   
師  此ふしんをひらくために、一のこころみあり。それというはデウスの御ふんべつのうちには御さくのもののたいは一もなしといへども、それそれのしよそうこもり玉ふなり、これをイデアといふなり。此イデアといふしよそうはさくのものにあらず、ただデウスの御たいなり。然るにまんぞうをつくり玉ふとき、デウスの御ふんべつにもち玉ふイデアにおうじて御さくのものは御たいをわけてつくりいだし玉ふにはあらず、ただ一もつなくしてつくり玉ふなり。たとへばだいくはいへをたてんとするときまづそのさしづをわがふんべつのうちにもち、それにおうじていへをつくるといへども、いへはふんべつのうちのさしづのたいにはあらず、ただかくべつのものなり。そのごとくデウス御ふんべつのうちにもち玉ふ御さくのもののイデアにおうじてつくり玉ふといへども、御さくのものはそのイデアのたいにはあらず、ただばんじかなひ玉ふ御ちからをもて一もつなくしてつくり玉ふなり。「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(神と被造物との差異についての質疑)   
弟子 みぎデウスと御さくのもののしやべつはうけたまはりぬ。今又御さくのものはいづれもたがひに一たいか、べつのたいかといふ事をあらはし玉へ。   
師  御さくのものはいづれもべつたいなり。そのゆへはデウスよりつくり玉ふときそれぞれにおうじたるかくべつのせいをあたへ玉へばなり。そのせうこにはさくのものにあらはるるかつかくのせいとくあり。このぎをよくふんべつすべきためにこころうべき事あり。それといふはしきさうあるよろづのさくのものは二のこんぽんをもてわがうしたる者也。一にはマテリヤとてそのしたぢの事。二にはホルマとてそのせいこれなり。みぎのしたぢといふは四大をもてわがうし、あらはるるしきそうなり。又ホルマといふはよろづのものにしやうたいと、せいとくをほどこす者也。めに見ゆる御さくのものは四大をもてわがうしたる一のしたぢなれども、しやうたいとそのせいとくをほどこすホルマはかつかくなるによて、みなべつたいなる者也。かるがゆへにちくるいと四大わがうのそのしたぢは一なりといへども、人のしやうたいとちくるいのしやうたいかくべつなるによてべつたいなる者也。これらの事をくはしくふんべつしたくおもはば、べつのしよにのするがゆへによくどくじゆせよ。

「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(アベマリアについて)
弟子 でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや    
師   其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座ます諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也    
弟子 びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや    
師  あべまりあと云おらしよ也たゝいま教ゆ」(十九ウ)べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん    弟子 此おらしよは誰の作り玉ふぞや    
師  さんがびりゑるあんじよ貴きびるぜんまりあに御つげをなし玉ふ時の御ことばとさんたいざべるびるぜんまりあにごんじやうせられたることばに又さんたゑけれじやよのことばをそへ玉ふを」(二十オ)以てあみたて玉ふおらしよ也    
弟子 御母びるぜんは誰人にて御座ますぞや    
師  でうすの御母の爲にえらび出され給ひ天にをひて諸のあんじよの上にそなへられ給ひ諸善みち/\玉ふこうきうにて御座ます也是によて御子ぜずきりしとの御まへにをひて諸のへあとよりもずくれて御ないせうに叶玉ふ也それによて我等が申上ることはりをおほせ叶へらるゝが故にをの/\きりしたん深くしんかうし奉る也    
弟子 何によてか御母さんたまりあへ對し奉り百五十友か又は六十三友かのおらしよを申上奉るぞ」(二十ウ)    
師  六十三友のおらしよは御母びるぜんの御年の數に對し奉りて申上る也又百五十友のおらしよは十五のみすてりよとて五ヶ條は御よろこび五ヶ條は御かなしひ今五ヶ條はくらうりやの御ことはりに對して申上奉る也此十五ヶ條のだいもくははんぎにひらきたる一しにあり    
弟子 あるたるにそなわり玉ふによにんの御すがたは誰にて御座ますぞ
師   天に御座ます御母びるぜんまりあをおもひ出し奉る爲の御ゑいなればうやまひ奉るべき者也    
弟子 此びるぜんさんたまりあの御ゑい其しなおほきごとく其御體もあまた御座」(二十一オ)ますや    
師  其儀にあらずたゝ天に御座ます御ひとりのみ也    
弟子 然らば人々なんぎに及時或は御あはれみの御母或は御かうりよくのなされて或はかなしむ者の御よろこばせてなとゝ樣々によび奉る事は何事ぞや    
師  別のしさいなしたゝ御母の御とりなしでうすの御まへにてよく叶ひ給へば御おはれみの御母にて御座ます上よりしゆゝの御忍を與へ玉ふによてかくのごとくに唱へ奉る也    
弟子 あべまりあのおらしよをば誰にむかひて申上奉るぞ」(二十一才)    
師  貴きたうみなびるぜんまりあにゑかう仕る也    
弟子 何事をこひ奉るぞもし我等が科の御赦しをこひ奉るか    
師  其儀にあらず    
弟子 がらさかくらうりあをか    
師  其儀にもあらず    
弟子 然らば此等の儀をば誰にこひ奉るぞ    
師  御主でうすにこひ奉る也    
弟子 御母には何事をこひ奉るぞ    
師  此等の事を求めんかために御子にて御座ます御主ぜずきりしとの御まへにて御とりあはせを頼み奉る也」(二十二オ)  

以上のアベマリアに関するオラショのなか、
    
でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや     
其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座(おはし)ます    
諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ    御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也     
びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや また、べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん

などのオラショにみられる「諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ」「御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへ」という文言は、浄土真宗の親鸞の唱える「悪人正機説」「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」を思い出させる。隠れキリシタンが「祖先崇拝」と習合すると、父や子イエス(でうす)よりもマリア信仰が強くなるのは、母系社会の祖先崇拝を残している日本型神道仏教習合のひとつのあらわれが、キリスト教にも見られる、と感じる。

 「さるべ-れじいな」より深き御柔軟、深き御哀憐、すぐれて甘く御座(おはし)ます びるぜん-まりあかな。貴(たっと)きでうすの御母(おんはわ)きりしととの御(おん)約束を受け奉る身となる為に、頼み給へ。あめん。

 以上、日本文化が諸処から流入した文化を融合しながら形成されてきた歴史を、宗教文化を中心に概観し、ことに隠れキリシタンにみられるキリスト教と土着宗教との習合を推察した。厳密な比較対照はこれからの作業となるが、筆者の直感にすぎない「若水汲み」「悪人正機説」との習合も、検証ののち再説する意義があると思う。

<おわり>

<参考文献>
1 特別展「縄文vs弥生」カタログ(国立科学博物館2005)解説
2 司馬遷『史記』秦始皇28年の条
3 李進熙1985『好太王碑の謎―日本古代史を書きかえる』講談社文庫(原著・講談社1973)
4 沖森卓也2003『日本語の誕生 古代の文字と表記』吉川弘文館
5 犬飼隆2005「古代の言葉から探る文字の道」『古代日本 文字の来た道』大修館書店PP.74-77
6 柳尚煕2008「韓国の吏読と日本文字のカタカナ」『二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊』 38 pp.239-247
7 皆川達夫1994「隠れキリシタンの祈り(オラショ)とヨーロッパの聖歌」聖徳大学川並総合研究所論叢2 pp.242-2558 宮崎賢太郎2003『カクレキリシタン ― オラショ-魂の通奏低音』長崎新聞社