にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「雛も千年の流れのなかに 」

2008-10-19 06:15:00 | 日記
2007/03/03 土

雛も千年の流れのなかに

 日本の歴史や文化についての解説をしていくと、季節の行事や日常生活のひとつひとつが、留学生にとって、親しいものになっていきます。
 
 デパートにひな人形が飾られるようになると、毎年「雛祭り」に興味を持って質問してくる学生がいます。そんなおりには、ただ単に人形を飾って楽しむだけの行事ではないことを話します。
 節分も雛祭りも、豆をまく、雛をかざるという表面的なことだけでなく、日本の文化の奥深さを感じられるようになるのです。

 現代のような「ひな壇飾りの人形」は、一般民衆の間では、江戸時代から盛んになったもので、「一生の災厄を人形に身代りさせ、人の安全をはかる」という民間信仰の意味あいもある、などの意義を伝えます。
 
 また、家の中にひな人形を飾る「飾り雛」のほかに、人の形をした紙の人形や木ぎれの人形を川などに流し、人の無病息災を願う祈りが込められた「流し雛」は、平安時代にも行われていました。

 『源氏物語』に「人形(ひとがた)」を流して厄災を払うようすが描写されていることなどを、留学生に紹介します。
 紫式部は、『源氏物語』の中に、光源氏が、祓いをして人形(ひとがた)を舟に乗せ、須磨の海へ流した、と書いています。

 『源氏物語』の人形(ひとがた)流しの部分。
 都でいろいろと不都合なことが重なった光源氏は、京を離れて須磨に滞在しています。
 弥生上巳に海辺へ行き、精進潔斎をすることになりました。陰陽師を召して祓えを行わせ、「ひとがた」を流すのです。
(旧暦の弥生は新暦の四月にあたります。現代の雛祭は三月三日に固定されていますが、地方によって、月遅れの四月三日に雛祭りを行うところもあります。)


弥生の朔日に出で来たる巳の日、
 「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
 と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。

 舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
 「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき」
 とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
 海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
 「八百よろづ神もあはれと思ふらむ 犯せる罪のそれとなければ」
 とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。

 舟に乗って流れていく「ひとがた」を見つめて、源氏の君は和歌を詠みます。
 「見知らぬ海へ流れてきた私は、穢れをのせて遙かな海へと流れてゆくひとがたのようで、悲しいことだなあ。ヤオロズの神様も私に罪がないことを知り、あわれと思ってくれるだろう」
 流れていく人形を見つめる源氏の君の涙を思うと、遙かな大海に千年の流れが感じられ、流し雛の行く末にも「もののあはれ」が思われます。

 デパートに並んでいるひな壇を見て、「値段が高くて買えません」という感想を述べるだけだった留学生も、雛祭りにまつわる日本の文化についていろいろ感じたり、自国文化と比較したりできるようになっていきます。

 稲取温泉の「つるし飾り雛」など、地方に残るさまざまな雛祭りを巡ってみるのも、日本文化を知るチャンスですが、身近なデパートの雛飾りを見て歩くだけでも、雛祭りの意義を知ったあとでは、「Doll festival」「Girl' s day」として、留学生も楽しい雰囲気を味わえるようになります。

<つづく> 00:09 |


2007年03月01日 

桃の節句のヒメたち

 『古事記』は、約1300年前、8世紀に「日本語」で書かれた書物です。漢文(中国語)で書かれた『日本書紀』に対して、表記はすべて漢字であるものの、稗田阿礼が朗唱する日本語をもとにして記録されました。

 『古事記』の採録を命じたのは天武天皇です。天武天皇が「帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と詔したことを受けて記録されました。最初に「スメラミコト」と名乗った天武天皇の意思が深くはいっていることが推定されます。

 『古事記』の最終記録は、推古天皇(額田部皇女ぬかたべのひめみこ)でおわっており、推古女帝は、現在(明治以後)の数え方による「天皇」では「最初の女性天皇」になっています。

 しかし、実際は推古女帝の前にも女性統治者がヤマト地方に存在していました。
 記録上は「王」「天皇」というの名称を与えられなかった「女性統治者」たちがいたのです。

 飯豊青皇女(イイトヨアオのヒメミコ)は、第22代清寧天皇と第23代顕宗天皇との間の期間、5世紀ごろのヤマトを統治していたと見られています。

 17代履中天皇の皇女にあたりますが、市辺押磐皇子の娘にして履中の孫という説もあり、伝説の時代の女性だから、仁徳天皇や履中天皇が伝説的な王であるのと同様に、実在が史実としてはっきりしているわけではありません。

 平安時代の私撰歴史書『扶桑略記(ふそうりゃっき』や鎌倉時代の史書『水鏡』は、飯豊皇女を「第24代飯豊天皇」と記しているのですが、明治以後は、天皇のなかに数えられなくなりました。

 現在、公開されている『皇統譜』とは別の、非公開の『元・皇統譜』に飯豊青皇女の位を認めたものがあるといいますが、その『元・皇統譜』を見ることはできないのでので、ほんとうのところはわかりません。

 現在の『皇統譜』は、明治時代に改変されたものです。
 公開中の『皇統譜』は、宮内庁へ情報公開請求すれば、閲覧可能。公開されている『皇統譜』の一部を見たい方はこちらへ
http://www.tanken.com/kotofu.html

 江戸時代以前は天皇の位に入っていなかった天智天皇の息子、大友皇子に対して、水戸史学の影響から、現在は「弘文天皇」と、皇統譜に明示するようになりました。
 即位儀礼をおこなったかどうかは定かでないまま、第39代天皇として歴代天皇位に入れられています。

 明治以前には天皇位を認めていなかった皇子に対して、47代淳仁天皇、85代仲恭天皇、85代後村上天皇(南朝の後醍醐天皇の息子)に追号して天皇位を認めることになりました。このように、天皇位の認定は、明治以後、かわっています。
 「歴代天皇」というのが、絶対確実なものではなく、その時代その時代の考え方によって変化していることを考えると、飯豊青皇女が正式に「飯豊天皇」と認識されていた時代もあっただろうと思います。

 飯豊青皇女より前の時代に古事記に名前が出ている神功皇后、『古事記』での称号は「大后」。オホキサキ・オキナガタラシヒメ。

 明治時代以前は「第15代神功天皇」と扱われることもあった女性支配者オキナガタラシヒメを、明治以後は「仲哀天皇の皇后」として扱うのみで、最高位統治者の位にあったことを認めなくなりました。

 明治以前は神功皇后を15代の帝と数えている史書もあったのに、明治以後は天皇の位に数えないことにしてしまいました。

 あくまでも皇后であり、「摂政」として統治したとみなしたのです。
 記紀の記述から支配形態をみれば、神功皇后は、軍事に至るまでのすべてを70年近く統治していました。個人として実在していたかどうかは実証できませんが、長期間クニを支配した女性支配者が存在したという伝説は口承されていました。

 推古以後の女帝が「天皇の娘」であったことに比べると、神功皇后は、開化天皇から4代くだり、臣下となっていたオキナガスクネの娘であったとされています。

 開化天皇は、欠史9代の天皇。すなわち、系譜に名があるだけで、史的伝説もなく、架空の存在とされている天皇ですから、その5代目の孫といっても、系譜上の根拠は限りなく薄い。
 オキナガ系は、ヤマトに勢力を持っていた豪族のひとつとみられます。
 臣下であるオキナガ系の出身者をスメラミコトとすることはできない、という意識が、『古事記』採録の段階からあったのだと思います。

<つづく>
11:12 |

2007/03/02 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(4)♪お花をあげましょ桃の花

 欽明天皇の娘、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=推古天皇)が、皇位についたことを特別な存在とするためにも、天皇を父親としていない神功皇后を「スメラミコト」と呼びたくない人々が「神功天皇」という記述を記紀に採用しなかったのでしょう。

 逆に、臣下藤原氏の娘光明子が皇后になるときは、「神功皇后も臣下の出身であった」ということが、皇族の出でない光明子が皇后になる根拠とされました。

 神功皇后の統治は『日本書紀』の記述に従えば、西暦201年から269年にあたる期間68年間。(実際の年代はわかりませんが)
 長期にわたって政務をとり軍を指揮しました。

 このため、魏志倭人伝に西暦239年に中国から親魏倭王の称号を受けた卑弥呼を、神功皇后に比定する考えが古くからありました。

 というより、日本書紀編纂者が『魏志倭人伝』卑弥呼についての記述を読んだことがあり、その年代に合わせて神功皇后伝説の年代を決定したのだろうという説が有力です。

 『古事記』の割り注によると、神功皇后は101歳まで生きたことになっています。クニを統治した期間は70年。息子の摂政というには、あまりに長すぎる。
 息子のホムタワケ(応神)が即位したのは、神功皇后の死去したあとの270年から。70歳から100歳までヤマトのクニを統治しました。

 ホムタワケが100歳まで生きたというのは、あくまでも伝説ですが、伝説上のことであっても「70歳になるまで」ママに摂政をしてもらっていた、ということになります。
 こりゃあ、うちの息子が「18歳になっても自立できない」って責められないわん。

 神功皇后は、「倭の五王」伝説と同じく、さまざまな統治者、オオキミの伝説の集大成として記録され,ひとりの人物に仮託されたのでしょう。
 3~6世紀の伝説をまとめて、神功皇后の事績、倭の五王の事績としてあてはめたものと思われます。

 ヤマトタケル、その息子とされている仲哀天皇(神功皇后の夫)も、さまざまな支配者の像をあつめた伝説的存在であるとみなすべきでしょう。

 8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』に、「天皇」という称号を持っていないものの、実質的にクニを統治していた女性が存在していたと書いてあること、中国の歴史書『魏志倭人伝』に、女性統治者卑弥呼の名が書かれていること、留学生にとって男女を問わず興味を引き起こされることがらです。

 古代日本が母系(または双系)から父系へ移っていく過程で、社会のなかでの女性の姿が変化してしまいました。
 それでもなお、古い伝承のなかに、このクニにとって女性の存在が大きかったことがうかがえます。
 記紀の記録は、この島国がもともとは女性を中心とする社会であったことを物語っています。

 明治時代に最初の紙幣に神功皇后の肖像が使われたり、神功皇后顕彰が行われたのは、三韓征伐などの伝説を、日本の亜細亜進出のためのプロパガンダとして利用するためでした。国威発揚の道具にされてしまったのは気の毒でした。
 
 女性は「国家発展の道具」ではありません。ひとりの人間として、自分を生き生きと生かしていける人生を選び取る、主体的な存在です。
 女の子の初節句を祝うなら、「あなたは子供を産む機械」とか「子供をふたり持つのが健全」と言うのではなく、「あなたは、ひとりの人間として、あらゆる可能性に挑戦する人権をもっている」と、祝ってやりたい。

 桃の花は、生命力と繁栄を言祝ぐ花。古くから桃源郷や桃太郎伝説など、桃の力が信じられてきました。
 ♪あかりをつけましょ、ぼんぼりに♪お花をあげましょ桃の花。
 三月三日は桃の節句。

<つづく>
00:07 |



2007/03/04 日 

プリンス&プリンセス お妃何人?

 二人並んだ内裏雛人形、親王雛はPrince & Princes。三人官女は、Three court ladies。五人囃子はFive court musicians。
 ♪お内裏様とお雛様、二人並んですまし顔♪

 「プリンス&プリンセス」に関しては、日本事情を学んでいる留学生からさまざまに質問が出ます。
 この10年のあいだに、女帝論争などもあり、海外の新聞に報道される機会が増えたので、留学生の興味を呼び起こしたのでしょう。

 日本語学科で学ぶ2年生。ほとんどが、日本語能力試験1級に合格しているクラスでの、留学生からの質問「歴史上には女性の天皇がいたのに、なぜ、今は認めないということになったのですか」

 回答「現行の皇室典範は、1947年に成立し、皇位は男系男子皇族が継承すると書かれています。もとになった旧皇室典範は、1889(明治22)年に、薩長閥の武家出身の人々が中心になって決めました。

 江戸時代以後の儒教思想は、武士支配に合うように編集された朱子学が中心で、男尊女卑の考え方をしています。この儒教思想を持つ武家出身者によって天皇家の継承方法を決めたため、天皇は男系男子皇族がなる、と記載されました。

 歴史的には、古代にも江戸時代にも女性天皇はいて、女性の皇位継承を否定していませんでした。
 つまり、天皇は男性皇族が継承するというのは、明治以後に近代天皇制を確立しようとした人々の考え方です。」

 留学生からの質問。
「昔の天皇は妻を何人も持っていたそうですが、一夫一婦制になったのはいつからですか」

 回答。
 「古典文学の授業で源氏物語を読んだ人、古文、難しかった?源氏物語の冒頭を覚えていますか。
 いづれの御時にか、女御更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやんごとなききわにはあらねど、すぐれてときめきたもうありけり。これが源氏の書き出しです。

 女御と更衣は、天皇のおきさきのうち、皇后中宮より身分は下になります。身分の高い人もそれほど高くはない人も、たくさんの女性が天皇の妻としておつかえしていた、と紫式部は『源氏物語』を書き出しました。
 天皇家は世継ぎを得るために、正妃のほかたくさんの妻を持つ必要がありました。

 紫式部のお仕えした中宮藤原彰子は、一条天皇の妻。一条天皇には、皇后、中宮というふたりの正妃のほか、女御3人。あと定子皇后の妹も、皇后亡きのちに入内(じゅだい)していました。この6人が公式な妻。そのほか、公式の立場ではなく天皇の閨に近侍した女性はさらにたくさんいたでしょう。

 近代、明治天皇には、昭憲皇后(一条美子いちじょうはるこ)に子がなかったので、大正天皇生母(柳沢愛子)など7人の側室を持ちました。
 しかし、明治天皇の次の大正天皇は、体調が十分でないときも多く、また皇后が男子を産んだこともあって、皇后ひとりのみでした。

 大正天皇の貞明皇后が4人の男子を産み、昭和天皇の香淳皇后が2人の男子、今上天皇の美智子皇后が2人の男子を産みました。
 大正天皇、昭和天皇、現在の天皇と皇太子も、配偶者はひとりのみになっています。

 しかし、皇室のことを決めた法律である皇室典範には、一夫一婦制などの規定はありません。したがって、決まり事として何時いつから一夫一婦制になった、ということはできないですが、実際上としては、大正天皇以後は天皇一人に皇后ひとりになっています。

 日本の歴史をみると、6世紀に実在した第26代継体天皇以後の天皇99代のうち、世継ぎを生んだ皇后(中宮)は、18人のみ。(うち3代は直近の、貞明皇后香淳皇后、美智子皇后)。
 皇后(中宮)を母親として出生した男性天皇は、24人のみ。8割の天皇は皇后中宮以外の所生です。
 現在のように、三代つづけて皇后や皇太子妃があとつぎを生んだのは、実にまれなこと、歴史上になかったといえることなのです。

 昭和天皇の前に、皇后から生まれた男性の天皇は、後宇多天皇(1267~1324在位1274~1287)で、母は、90代亀山天皇中宮藤原(洞院)佶子。それ以来600年間、皇后(中宮)が男子を産んだことはありませんでした。

 江戸時代に徳川和子(後水尾天皇中宮)が生んだ明正天皇も女帝ですから、昭和天皇が1901年に皇后(出産時は皇太子妃)から生まれたのは、約600年ぶり、皇室の歴史のなかで珍しいことだったのです。

 多数の国民が、天皇皇太子皇族が側室をもつことを望んでおらず、現在のような一夫一婦制を続けるほうがいいと感じているようなので、これからも天皇制が続く間は皇位継承問題は繰り返されるでしょうね」

<つづく>
=====================
もんじゃ(文蛇)の足跡:
 皇后(中宮)所生の天皇(女帝のぞく)以下のとおり。( )内が母親。
 敏達天皇(29代欽明皇后石姫)、天智天皇と天武天皇(34代舒明天皇皇后宝皇女=皇極女帝)、平城天皇と嵯峨天皇(50代桓武天皇皇后藤原乙牟漏おとむろ)、仁明天皇(52代嵯峨天皇皇后橘嘉智子)、朱雀天皇と村上天皇(60代醍醐天皇皇后藤原穏子)、冷泉天皇と円融天皇(62代村上天皇皇后藤原安子)、後一条天皇と後朱雀天皇(66代一条天皇中宮藤原彰子)、後三条天皇(69代後朱雀天皇皇后禎子内親王)、堀河天皇(72代白河天皇中宮源賢子)、崇徳天皇と後白河天皇(74代鳥羽天皇中宮藤原璋子)、近衛天皇(74代鳥羽天皇皇后藤原得子)、安徳天皇(80代高倉天皇皇后平徳子)、仲恭天皇(84代順徳天皇中宮九条立子)、後深草天皇と亀山天皇(88代後嵯峨天皇中宮藤原吉子)、後宇多天皇(90代亀山天皇中宮藤原(洞院)佶子)

11:42 |


2007/03/05 月

箱入り

 3月3日が終わったら、お役目ごめんになって、また1年間は箱の中に押し込められ、押入や納戸ですごすおひなさまたち。
 箱入りの生活は、楽しくはないでしょうね。

 留学生からの質問「プリンセスマサコは、皇室に入ったために病気になったというのは本当ですか」

 回答「雅子妃は適応障害の療養中と発表されています。一般国民にはわからないことがたくさんあるけれど、男子の出産がなかったことでプレッシャーをうけたり、しきたりにストレスを感じて適応できずに心を痛めてしまったのなら、お気の毒なことですね。

 正妃が生んだ直系男子が3代続いたことが奇蹟的なのに、奇蹟をつづけて起こせなくても、しかたがないことなのにね。」

 オーストラリアのジャーナリスト、ベン・ヒルズ著『プリンセスマサコ・菊の玉座の囚人』(ランダム・ハウス・オーストラリア社)に対し、事実誤認の記事が多いとして、宮内庁が抗議しました。(ただし、宮内庁の抗議は天皇皇后に関する記事に対してのみ行われ、雅子妃に関する記事については無視。)

 ヒルズ氏は「我々オーストラリアは表現の自由を享受する長い伝統があり、これを誇りにしている」との説明を行い、宮内庁が要求した謝罪を拒否。
 日本語翻訳版を発行する予定だった出版社は、「発行をとりやめる」と、決定しました。

 一般の人と異なり、自分から名誉毀損の訴訟を起こすこともできない皇族について書くのであれば、事実誤認や誤解を招く内容に慎重になる必要があることは確かでしょう。
 しかし、「宮内庁が抗議 → 発行とりやめ」というのは、なんだか釈然としません。

 雅子妃のご療養についても、日本国民の間にもさまざまな意見が散見されます。
 私自身は、「外から見てもそのつらさがわかりにくい心の問題なのだから、ゆっくり気長にご療養を」と考えますが、「皇后陛下の誕生日祝いに欠席したのはけしからん」とか、「正月の皇居参賀に際し、午後のおでましがなかったのは残念」という意見を述べる人もいます。

 でも、さまざまな意見を述べることができる国であることはありがたいことだと思っています。
 自ら抗議できない皇族にかわって、宮内庁が筆者に抗議したことはわかりますが、だからってすぐに「出版とりやめ」という出版社の態度は、これから先思いやられます。
 大本営発表でなければ、出版できない社会になっていくのでしょうか。

 お雛様がしまわれている箱の中。箱の中にいれば、安全です。
 防虫剤もいれられて、外からの虫が入り込んでくることもないでしょう。冷たい風もあたらないでしょう。

 箱の中の波風を立てないことが最優先される、不自由な社会。
 「自らの信条により唄いたくない歌」の伴奏を拒否する音楽教師は、罰せられる社会。
 反対意見が出そうな本は出版とりやめる社会。
 自由なはずの社会がどんどん不自由になっていることに、皆が目をつぶって、自分自身の収入確保を最優先する社会。

 納戸の中で、じっと安全に暮らしたい者にとっては、快適でなにより安心できる暮らしでしょう。
 この箱は、目に見えないから、気にしなければ、自分が箱の中にいることは見ないでいられる。

 でも、目には見えない箱でも、感じてしまう者もいます。
 箱の中にじっと身を縮めているのは苦しいと思う者もいます。箱のなかのしきたりに自分は合わせられないと感じる人もいます。
 それでも皆が押し合いへし合い、箱の中で暮らすこの社会。

 日本事情のなかで、留学生が「現代の日本社会」の諸相を理解していくと、「金の屏風の向こうには、白酒飲んで楽しくすごすってわけにもいかない生活がある」こともわかっていきます。
 「安全で快適」な生活を望むだけでは、見えない箱に押し込められて暮らすことになってしまうことも見えてきます。

 ♪金のびょうぶにうつる灯(ひ)を かすかにゆする春の風 ♪
 あたたかい春の風が、病気療養中の人々にも、悩みを抱える人々にも吹き渡りますように。
 春の風が自由に吹き渡ることのできる天地でありますように。

<つづく>
12:45 |

 王室をもつタイの留学生からは、皇室に親近感をもちつつ日本とタイ王室のちがいに関して質問がでます。
 「日本の皇位継承権をもつ皇族で離婚した人がいますか」などの質問も。

 それというのも、現在のタイの王位継承権をもつ第一王子は離婚経験があり、離婚した王妃、愛人だった女性、再婚した別の王妃の間にそれぞれ子をなしたために、国民の間には「現在のプミポン国王に比べると、未来の国王として、、、、」という意見を持つ人もいるのだそうです。

 独身で国民福祉に奔走している王女も王位継承権を持っており、人気は高いのですが、こちらは「子をもっていない独身女性が王位を継いでも、次が、、、、」という意見もあって、タイ王室の次代もたいへんみたい。

 日本の皇族離婚については、「過去に離婚したくてもできなかった皇族がいたかどうか、日本の皇室のプライバシーは一般人にはわかりません。少なくとも、今上天皇と美智子皇后は、愛情によって結ばれ仲良く添い続けている理想的な夫婦と、国民に思われています」と説明しています。


2007/03/06 火

分去れの碑

 「お言葉ですが」の週刊文春連載を2006年夏にうち切られた高島俊男が、発表の場をウェブサイトWeb草思に移しました。『お言葉ですが』を文春で愛読してきた読者にはかえってありがたいかも。ウェブ読書は無料なので。
 
 2007年2月掲載分の『新お言葉ですが第二回』に、読売新聞のコラム「編集手帳」を引用している。引用されている編集手帳コラムは、皇后御歌を、引用しています。

 引用の源、美智子皇后の御歌はつぎの通り。
皇后御歌「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」

 この歌について、高島は「心を打たれた」と感想を述べています。

 わたしが心を打たれたのは、第一にその大胆であったが、もう一つ、この歌から感じられる強い悔いの念である。
 あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背の--これは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろう--老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。

 「民間出身の24歳の令嬢が、皇太子と結婚する」という、前例のない人生を選んだ美智子皇后に、高島は「他の人生」への悔いを読みとる。それは、高島が「家族を持たない人生」を選んだことへの悔いと共鳴して高島の胸のなかに響いています。

 同じ歌でも、読み手がことなれば、感じ方も違ってくる。荒川区立図書館公式サイトにある「日本を考える」というコラムの筆者も、この歌を引用している。(2004/07/01)
 

 美智子皇后は、幾多の苦難を乗り越えてこられたが、陛下とのご結婚を後悔することはなかった
「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」と、今ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである。
 「この国に住むうれしさよゆたかなる冬の日向に立ちて思へば」 

 ひとつの歌の解釈をめぐって、まったく相反する受け止め方が示されています。
 ひとつは「この歌から感じられる強い悔いの念である。」
 もうひとつは「今ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである。」

 荒川コラム子は、美智子皇后が、皇太子妃時代の流産後の精神的不安定の時期、神谷美恵子との交流によって魂の回復を得たことを紹介し、皇后になったのちのバッシングによって失声症になったころの「うつつにし言葉の出でず仰ぎたるこの望の月思ふ日あらむ」という御歌も引用しています。

 同じ歌をめぐって、まったく異なる感じ方がある。それは、それでよいでしょう。歌は、ことばとして発せられたあとは、受け取る側のこころしだいだから。

 さて、私にとっては、歌の解釈以前に、「分去れ(わかされ)」という単語が、「新出語彙」です。
「追分(おいわけ)」は知っていましたが、「分去れ」は知りませんでした。
 
 軽井沢のあたりは、皇室の人々にとってはゆかり深い土地。
 と、いっても、「テニスコートの恋」によって若者が集まるようになるまでは、静かな避暑地でした。さらにその前は中山道の鄙びた宿場町追分が知られているだけで、軽井沢はただの山村でした。

 中山道を追分宿までいくと、北陸街道と中山道のふたつの道に分かれていく地点があります。分かれ道の地名が「分去れ」。
 現在、その地には、「分去れの碑」という石碑が建てられているそうです。

 高島のエッセイに追分と分去れの地名は出てきませんが、御歌が、このあたりの道を散策しているときのことに仮託されているのであろう、という教唆を受けたことは、文末に述べてあります。

 つまり、この歌は、表面上は「軽井沢あたりを散歩していたとき、ふたつの道の分かれ目にでた。ひとつの道を選んで歩きつづけたが、そのとき選ばなかったもうひとつの道は、いったいどこへ向かう道なのだろう」という、「散策時の感想」と、受け取ることもできる。

 そのような表向きの解釈ができるからこそ、一般国民の目にふれるところに公表されたのでしょうが、読みとる人々は、それぞれが己の心情にひきつけて解釈できます。
 高嶋にとっては「自分の選んだ人生への強い悔いを感じる」
 また、別のコラムでは「ご自身が歩まれた道に確信を持たれているのである」

 私の受け取りかたは。
 分かれ道にきて、自分自身の過ぎ去った道を思う。悔いることはない。自分の歩んできた人生は、自分自身が選び取ったものとして、後悔はしていない。しかし、それでも、もうひとつの道が、いったいどのようなものだったのか、知りたくなる。悔やむことはない、しかし、、、
 その、人の心の微妙なたゆたいを表現できる、美智子皇后は希有な歌人だとおもいます。

 私は、美智子皇后の歌集『瀬音』は、読んだことがありません。
 1年に一度歌会始の御歌を新聞でみるだけ。
 それでも、皇后がたいへんすぐれたことばの使い手であり、もし職業を選ぶことができたなら、「プロの歌人」としても世にたっていくことができる資質をもっている人だと感じます。

 皇后は、アマチュアとして、まどみちおの詩集を英訳されていますが、分去れのもうひとつの道を選んでいたら。詩人としてあるいは英文学者としても、一家をなすことができた人であったでしょう。
 ご実家の正田家は、日清製粉創業家ですが、親族の多くが学者になっているのを見ると、皇后の二手にわかれた分かれ道のもうひとつには、学者、文学者としての道があったかもしれない、と想像してしまうのです。

 2007年3月6日、宮内庁は「皇后さま(72)は強いストレスを原因として腸壁からの出血などの症状があり、今月下旬から10日間の静養期間を設ける。精神的な疲れが原因とみられる」と、発表しました。

 72歳の年齢で、末娘も嫁ぎ、男の子の孫も誕生し、一般の家庭なら「おばあちゃん、これでもう何も心配はないですね」と、その幸福な生活をうらやましがられる人生であろうものを。
 それなのに、腸から出血するほどの強いストレスがかかる心理状態とは。宮内庁がいう「皇室の課題」、どれほど心重く苦しいものなのでしょうか。

 皇后は、第二子を「子宮外妊娠」により流産したあと、精神的なストレスを受け、葉山で夫や長男と別れて、長期間静養生活を送りました。
 また皇后位についたあと、やはりストレスから声がでなくなる時期がありました。
 50年前のふっくらまんまるの顔に微笑みをたたえていた人が、「泣きそうな顔の猫背の老女」と高島俊男に描写される姿になり、なおもまだ、ストレスで内出血をする。
 皇太子妃も、数年にわたる適応障害の精神的な苦しみからいまだ開放されたようにはみえません。

 ふたつに道が分かれていくその分去れの地で、「もうひとつの道」を歩んでいれば、72歳で強いストレスを受ける人生とは違った道があったのかもしれないと、「泣きそうな顔の老女」は、思うことはないのでしょうか。

 おおかたの人が「皇后様は、たくさんのお苦しみのなかにあっても、陛下をお支えした日々をけっして悔やむことなく、、、、」と、受け取っているなか、ひとり、「あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背のーこれは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろうー老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。」と、感想を述べる、その苦しみに同感できる感受性を持つ人として高島がいること、感じたことを率直に述べる場を提供するサイトがあること、これは、私を勇気づけてくれます。

 私もまた、自分が進んで行かなかった道をふりかえることがある。
 もしも、あのとき、役者をつづけていたら、、、、地方公務員をつづけていれば、今頃は、、、、もしも病院の内科検査士をやめないでいたら、、、、英文タイピストをつづけていたら、、、、中学校国語教師をやめなかったら、、、ケニアで1年近くすごすことがなかったら、、、、中国での単身赴任を引き受けていなかったら、、、、
 私の場合、あまりにも分かれ道が多かったので、まあ、どう分かれていっても、どうせたいしたことは出来なかったことだけは確かなのだけれど

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。