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ぽかぽか春庭「月と暦」

2008-10-11 08:42:00 | 日記
月と暦
2006/10/09 月
新暦旧暦イスラム暦(3)月と暦

 10月6日は、暦の上で旧暦8月15日、中秋の満月。しかし、天文学上の実際の月齢では、10月6日の月齢は13.6、10月7日、14.6、10月8日、15.6。
 7日夜の十六夜(いざよい)こそが、実は満月でした。

 7日夜、十六夜月をながめました。8日夜の月も煌々と大きく、きれいでした。
 月の光は、人に静かにふりそそぎ、ときの流れに身をひたらせてくれます。

 月明かりをみつめていると、この夏、東京駅大丸百貨店で開催された石川賢治写真展『月光浴』を思い出しました。
 ケニアのサバンナ、ヒマラヤ、ハワイ、オーストラリアなど、世界各地を旅して、月の光だけで感光する写真を撮り続けている写真家、石川賢治さんの作品が、虫の声風の音波の音など静かな夜のバックグラウンドミュージックの中に展示されていました。

 サバンナのなかにたたずむキリンの兄弟、マダガスカルのバオバブの木、月の光のなかで撮影された光景は、不思議な魅力に満ちていました。

 時間を意識したときから、人は月の満ち欠けを見つめ、時の流れと循環を知りました。そして、暦をつくりました。
 日が昇り日が沈み、月が満ち、また欠けてゆく。
 人類が文明を手にしたときから、月は時のめぐりを人に教え、暦は人とともにありました。
 
 日本事情(日本の社会と文化・歴史)の授業で、明治の文明開化にふれます。
 「文明開化」。
 人々は、牛鍋に舌鼓をうち、ザンギリ頭をたたいて「文明開化」の音をきいた。電信電話にびっくりし、新橋横浜間鉄道開通に大騒ぎ。明治5年に新生明治政府の威信を内外にしめすために急ピッチで作り上げられた鉄道、見物客でにぎわいました。

 しかし、庶民にとって、陸蒸気(おかじょうき)=鉄道は、見物にでかけて話のタネにはなるものの、自分たちの日常生活には直接関わらなかった。新橋横浜間の乗車賃は、庶民には手の届かない高価なものでした。

 では、文明開化のなかで、全国民の毎日毎日の日常生活に最も大きな影響をあたえた大変革とは何か。

 暦です。

 生活するには、今日が何日かわかっていなければ、商売の契約もかわせないし、働きに出た賃金も正確に計算できなくなる。暦は、だれの生活にとっても、大きな関わりをもつもの。

 その大切な暦。1873年の暮れ、いきなり12月2日の翌日12月3日が正月1月1日に切り替わってしまった。月の暦、太陰暦から太陽の暦、太陽暦へと変わったのです。

<つづく>
00:22
2006/10/10 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(4)太陰暦から太陽暦へ

 江戸時代に広く使われていた太陰太陽暦(旧暦)は、暦としてよくできておりで、ひとびとは暦売りから買い求め日々の暮らしに重宝していました。
 太陰太陽暦は、農耕社会にあっている暦でした。新春といえば春のはじめ。新春=新年、農作業もここから始まります。

 太陰暦では、月の満ち欠け「29日&半日」で1ヶ月を決めるため、29.5日×12回では、1年354日になり11日が不足する。そのため、11×3=30日で、3年弱毎にうるう月をもうける。うるう年になると、1年が13ヶ月になる。

 この13ヶ月のおかげで、季節がそう大きくずれることなく、新年新春は春の季節からはじめることができました。
 現在の暦では、新年新春が1月で寒いさかり。私も子供の頃は、なぜ冬なのに新春というのかと、不思議でした。

 明治新政府は政権樹立当初から、西洋諸国との外交なども考え、太陽暦=西洋暦に切り替えようとしていました。
 しかし、反対意見も多かった。徳川時代末期に流通していた太陰太陽暦「天保壬寅暦」は、緻密な計算のうえに作られており、人々はこの暦をつかうにあたって、何の不自由もしていません。

 それをいきなり「西洋にあわせて暦を変える」と、決めたら、抵抗がおこるかもしれません。
 新政府の土台は脆弱。反対派による政府攻撃がおきたら、対処もむずかしい。
 西暦にしたいとは思うものの、踏み出せなかった。
 そんな状態のなか、なにがなんでも改暦をしなくてはならない問題がでてきました。

 明治政府は、江戸徳川幕府が所有していた財政権の引継ぎに失敗し、1872(明治4)年に廃藩置県、1874(明治6)年に地租改正が行われるまで、財政基盤が脆弱でした。政府ができたものの、お金は入ってこない、という状態だったのです。
 政府の財政は1868年の明治維新から年ごとに逼迫していきました。

 徳川幕府の武士への俸禄は年俸制。「1年に一石の米」とか、「50俵2人扶持」など、米によって支払われ、1年ごとの支給でした。
 しかし、明治新政府は、官員への給与を月給制に改めました。1年に1度、いっぺんに支払う財政がなかったので、「月賦でちまちまと支払っていく」ことにしたのです。

 1873(明治5)年、財政問題ますます悪化し、官員へ給与を支払うのも大変でした。
 太陰暦によると、1874年はうるう年。すなわち、太陰暦で1年が13ヶ月ある年にあたっていました。

 さあ、たいへん、年俸を月賦で支払うことにしたのはいいが、1974年は、月給を13ヶ月分、支払わなくてはならなくなった。
 そこに知恵者が現れました。改暦実行。

<つづく>


2006/10/11 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(5)明治の改暦

 1873(明治5)年の暮れ、12月をすっとばして、西洋暦の正月に変えてしまう、という名案。
 これなら、1874年に13回目の給与を支払わずにすむ。西洋暦なら12回だけ月給を支払えばいいのだから。おまけに、12月の給与を「これは正月分」として支給すれば、明治6(1973)年は11回の月給支給ですむ。

 1873(明治5)年12月2日。翌日は、暦が切り替わって、明治6年1月1日となりました。
 明治5年12月分の月給は、支払い停止。12月は2日間しか働かないので、この2日間の給与は1月分と合併とする。つまり、12月の2日間分はサービス残業のような扱いになってしまいました。

 1874年は、13ヶ月分支払わなくてはならなかったのに、西洋暦にしたために12回ですむ。1873年12月分は「1月と合併支払い」だから、支払わずにすんだ。つまり、2ヶ月分の月給を節約できました。

 政府の強硬な改暦に、日常生活は大混乱です。
 12月にいきなり改暦されても、すでに、次の年の太陰暦のカレンダーが売り出されて、流通したあと。

 新暦を売り出した業者は大もうけとなったが、ほとんどの商売人・社会人は、暮れに1年の支払いをすませる経済のしくみだったので12月2日の次の日が新年元日でございますと決められて、大弱りでした。

 井原西鶴の「世間胸算用」にも描かれているように、どんな阿漕な借金取りも、新年に年が改まれば、正月中は取り立てはしないのが仁義。
 取り立てるべき歳末がバッサリ切り落とされて、いきなり新年元日。
 日頃、借金取りに追い回されていた庶民には歓迎された改革だったかもしれませんが、年末がなくなって、いきなり新年では、正月のめでたさも半減した明治6年の新年となりました。

 明治の改暦で決まった西洋暦は、誤差の多いユリウス暦。
 西洋ではグレゴリウス暦が主流だったのに、なぜユリウス暦になったのか、わかりません。古い文献を参考にしてしまったのかも。
 明治31年にようやく現在のグレゴリウス暦(1年を365.2425日とする)に改正されました。

 ユリウス暦を定めたのは、古代ギリシャのユリウス・カエサル(英語読みでは、ジュリアス・シーザー)
 太古の国家形成のときから、時と暦を支配するのは、権力者為政者の重要な統治ツールでした。

 暦を支配したい為政者。多くの権力者が暦に自分の名を残そうとしました。
 しかし、権力が続くのは生きている間だけ。死後、現在まで暦にその名が残っているのは、古代ギリシャの皇帝アウグストゥス(Augustus)の名を残した、8月。英語のオーガスト(August)と、ジュリアス(Julius)シーザーの名を残した7月ジュライ(July)のみ。

<つづく>


2006/10/12 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(6)暦と支配者

2006/10/06 14:32 h**** 1日30時間くらいあればいいのに
というコメントが残されていました。

 私が独裁者だったら、簡単にかなえてあげられる。
 法律を変えて、「1日を24時間とすることを、以後廃止する。朝10時間、昼10時間、夜30時間、一日を30 時間と決定する」と、決めれば、たちまち1日は30時間となる。 もちろん、1日30時間ほしいってのは、そういう意味じゃないけれどね。

 月が暦の中心であった農耕社会では、現在の新暦2月を1年最後の月とし、春の季節がめぐってくるころ、すなわち現在の暦の3月あたりを、新年のはじまり、新春としていました。
 これは、日本だけでなく、古代ヨーロッパの農耕社会も同じ。

 ヨーロッパ社会がキリスト教社会となり、古代ギリシャローマの暦を取り入れた後も、この「春のはじめ」の行事は捨てがたく、謝肉祭カーニバル、キリスト復活イースターなどの行事に残存しました。イースターで色つき卵をかざったり、兎を祭のシンボルにするのは、春の農耕のはじめと多産を祈る行事からきているそうです。

 現在の1月が新年はじめとなったのは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の定めたユリウス暦から。
 古代ギリシャでは、新春の2ヶ月まえに、為政者による政治年度を切り替えていました。ユリウス暦にきりかわるとき、この年度切り替えの時期を新年に定めました。

 うるう年の日数調整に2月をあてるのは、春に新年をむかえる暦だったとき、年末にあたる2月に日数調整をしたから。うるう年調整の月を2月にするというのは、新年が冬に変わってからも、引き継がれました。

 西暦キリスト教社会の元年はイエス・キリストの生まれた時を基準にしている。ただし、現在の研究では、イエスが生まれたのは、紀元前2年くらいじゃないか、と考えられています。

 ミャンマー・スリランカでは、釈迦が入滅した年を紀元元年とし、今年は仏暦2550年。
 タイ、カンボジア・ラオスでは入滅1年後を紀元とするので、今年は仏暦2549年。タイでは公式文書は西暦ではなく、仏暦の年号を書く。

 それぞれの文化にそれぞれの暦。暦のなかにも、多様な文化と歴史のようすが見てとれます。
 
 日本での暦の使用、卑弥呼や倭の五王が中国へ朝貢して以後、中国から伝えられたものがあるのかもしれません。
 正規の記録に残されているのは、『日本書紀』欽明天皇14年(AD 553)のころのこととして、「医・易・暦を担当する博士を百済から派遣してもらい、大和朝廷が雇いたい」と願った、と書いてあります。
 博士とは最新の学術を学んだ技術者のこと。現代ならば最先端情報技術者にあたるでしょう。

 推古天皇の時代、AD 602年のこととして、百済から来朝した僧の観勒が暦法を教えた、とあります。推古天皇の摂政であった聖徳太子が、隋や百済の最新学術を人々に学ばせたのでしょう。暦や易の最先端の知識を仕入れることは、世の支配者にとって、大切なことでした。

<つづく>


2006/10/13 金
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(7)暦と十二支

 正式に暦が日本の統治に取り入れられたのは、持統天皇のときから。
 690年に、元嘉暦(げんかれき)を公式の暦法としてとりいれるという勅令がだされ、692年から正式な暦にしたがって、諸事万般とりおこなわれるようになりました。

 暦の計算方法によって、初代大王(おおきみ)始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと(後代につけられた諡号は神武天皇)の即位日を、紀元前六百六十年正月朔日に即位した、などと計算したのは、明治時代のこと。

 2000年は、この神武紀でいうと2660年。今年は2666年。この神武紀(皇紀)を日本の暦のもとにする、という暦に関する法律は、現代でも廃止されておらず、閏年の算定は、この暦をもとにして計算することになっている。
 暦に今年は2666年と書いて発売して、法的にはOK。

 ただし、実際に初代がいたとして、正月も朔日もだれも知っちゃあいなかったころの人のはず。
 紀元前600年ごろから、縄文文化が弥生文化へとじょじょに移り変わっていった、という最新の縄文学弥生学からいうと、このころから貧富の差が生じ、支配者が生まれたと考えることは妥当ですが、各地にいたであろう小さな村の支配者が「はつくにしらす」という名だったかどうかなんて、わかりません。

 祝日のなかで、成人の日、敬老の日、体育の日などは、週初めの月曜日に祝う移動祝祭日ということになったのに、初代の即位日を2月11日(旧暦の正月朔日)に固定するのは、何の意味もない。この日こそ移動祝祭日にして「神話と歴史を考える日」にしてほしい。

 アジアで広く使われている、十二支による12年ごとの年のめぐり。
 暦をめぐるエトセトラのなかで、十二支は今も生活に結びついており、毎年の年賀状にも十二支の動物が描かれます。
 暦にあらわれる動物たち、いずれも深く生活と結びついています。龍は架空の動物ではあるけれど、農耕と水に深く関わると信じられており、農耕社会にとっては、なくてはならない存在でした。

 日本は、子(鼠)丑(牛)寅(虎)卯(兎)辰(龍)巳(蛇)午(馬)未(羊)申(猿)戌(犬)亥(猪)。
 漢字圏の中国韓国台湾は同じですが、亥年の亥を猪とするのは、日本独自。十二支本家の中国で亥は豚。

 しかし、アジア各国、それぞれの国情にあわせて、動物にさまざまなバリエーションがあります。ひとつの国で、地方によってちがいがある場合も。

 日本語教科書に十二支の紹介をしているのもあるし、私が漢字授業で使用している「Basic Kanji」という英語圏学生用の漢字教科書にも、動物の名前の紹介と共に、1ページがあてられています。
 非漢字圏の留学生にきいた、十二支さまざま。

 ミャンマーの十二支は、ネズミ、水牛、虎、ロバ、ウサギ、イタチ、馬、ヒツジ、サル、トリ、犬、豚。
 ベトナムも、牛のかわりに 水牛、羊のかわりに山羊。モンゴルでは虎のかわりに豹。
それぞれの生活に関わり深い動物が選ばれています。

<つづく>


2006/10/14 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(8)暦と十二支・猫と牛

 おもしろいのは、チベット地方、タイ、ベトナムの十二支では、兎のかわりに「猫」が入っていること。

 猫は、リビア山猫から家畜化され、エジプトや古代ペルシャなど、北アフリカ・メソポタミア地方から世界に普及していきました。
 十二支が考えられた古代中国に、まだ猫が広く存在していなかったために、猫は十二支に入っていない、というのが、犬はいるのに猫が十二支に含まれなかった理由だとされています。

 説話では、「神様のもとへ挨拶に行く日付をたずねた猫に、鼠が嘘をおしえ、猫は間に合わなかった。恨みに思った猫は鼠をつかまえて食うことにした」というお話が広まっています。

 十二支のなかで、自分の生まれ年の動物には親しみを感じる人が多いでしょう。

 動物を主人公にした詩のなかで、「牛はのろのろと歩く」と始まって「牛は大地をふみしめて歩く/牛は平凡な大地を歩く」と結ばれる、高山光太郎(1883~1956)の詩が教科書に掲載されていて、小学生のころ、たいそう感激したものでした。

 十二支の物語でも、神様のところに挨拶にゆくとき「私は歩みが遅いから」と、他の動物よりはるか前に出発し、ゆっくりゆっくり歩いて、一番先につくところだった。しかし牛の背に隠れていっしょにやってきていた鼠が、一歩先に神様の前に進み出て一番乗り。
 牛は十二支の一番にはなれず、二番目になった、というエピソード、牛のイメージによくあっています。まじめにひたむきに努力して、しかし一等賞は他のすばしこい要領のいいやつに、かっさわれる。

2006/10/16 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>新暦旧暦イスラム暦(10)秋やすみ

 光太郎の「牛」。悠揚せまらぬゆったりとした歩みで、のんびりしっかり歩いていました。

 なにごとにもあせらずあわてず、「牛はのろのろと歩く/牛は大地をふみしめて歩く/牛は平凡な大地を歩く」
 と、いきたいのですが、実際には、毎日あわてふためいて、階段教室を走り回って、ときにこけたりする。
 一日の仕事がおわると、「♪まっちっどおしいのは~冬やすみ!」と、歌います。

 暦の不思議。休みの日は三連休だろうとあっという間に終わってしまう、仕事の日は、1日がなかなか終わらない。
 春休み夏休み秋休み冬休みがあるのに、これ以上贅沢はいえませんが、秋やすみも必要よね。

 留学生それぞれの国の暦を尊重しつつ、日本語教室は「大学暦」にしたがって、、、、あ、今年の秋、文化祭シーズンの授業なし日、11月1日から5日まで連休になるわ。らっき~!

 文化祭による授業休講は、各大学それぞれが異なる日に文化祭を行うので、とびとびになってしまうことが多い。
 今年は出講している5つの大学の文化祭が、文化の日を中心にまとまっていて、連続で休めそう。
 秋やすみは、何をしようかな。

 うちのペットは、古来月の中に住んでいると信じられてきた、兎。真っ黒くろすけのロップイヤー。ベランダで暮らす黒ウサギといっしょに、兎が餅ついている月でもぼうっとながめているうちに、なんとなく休みの夜もおわってしまうのが常ですけど、ま、ぼうっとすごすのもいい休み方でしょう。

 満月から、十六夜、立待月、居待月、寝待月、更待月と月の出はおそくなり、二十日月のあとは、夜10時をすぎなければ、月ものぼらない「宵闇」となる。10月21日には新月に。

 秋やすみの文化の日。(戦前は、明治節、明治時代は天長節だったけれど、文化の日になったのは、1946年、新憲法公布の日、という位置づけ。新憲法施行の日は5月3日)

 2006年新暦(太陽暦)11月3日は、旧暦(太陰暦)の9月13日。
 中国韓国では中秋の名月(8月15日))を寿ぎますが、旧暦9月13日の「十三夜」別名「豆名月」「栗名月」の月をめでるのは、日本だけの習慣のようです。
 俳句の季語では「後の月」とも。

 母が煮る栗あまかりし十三夜(能村登四郎)
 
 文化祭秋休みは、甘栗でもむきながら、うさぎといっしょに「後の月」をぼんやりながめることにいたしましょう。

<おわり>



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