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日本語・日本語言語文化・日本語教育

英語教育、日本語教育1

2011-08-27 11:39:00 | 日本語教育

2006/12/09 土
ニッポアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(1)

 春庭コメント、コピー&ペーストの第3弾。

 今年の春、m*************さんから、英語教育について春庭の考え方を問うコメントがありました。
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 四ヶ月間ですが、この秋に「母親のくせに」娘をおいて単身赴任する予定の私としては、ちょっと緊張しながら興味深く読まずにはいられませんでした。ところで、小学校に英語が導入されるのでしょうか、どう思われますか?
投稿者:m************ (2006 3/27 23:32)
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 m*************さんのbbsに、春庭の回答を書き込みした文章をコピーペーストします。
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(2006-03-28 21:42:26 )
(小学校英語教育導入への考えを述べよ、というコメントに対しての返信)

 春庭へのコメントありがとうございます。
 中学生への国語教育を3年、留学生への日本語教育を20年担当してきましたが、小学校教育については門外漢で、適切なことを述べることができませんが、以下、思いついたことをコメントします。

 小学校5年生6年生に英語教育を導入していくという方針が答申されましたが、私自身は、小学校英語教育については、慎重派です。(試験導入されている現行のままのカリキュラムであるならば、という範囲ですが)

 母語の習得について、現在の国語教育が十分に基礎を固めているとはいえない情勢であり、やみくもに英語教育を取り入れても、公教育で週に1時間か2時間程度の英語教育を行っても、それほどの成果はあがりません。
 週末に塾などに行ける層とそうでない層の格差をひろげるだけのような気がしています。

 「英語に親しむ」という程度の小学校教育であるならば、教科として位置づけるのではなく、国際交流プログラムなどの充実をはかり、英語だけでなく、中国語や韓国朝鮮語、またスペイン語ポルトガル語など、多様なことばとのふれあいを体験させることのほうが意味が大きいと思います。

 また、中学校の英語教育を現在のカリキュラム指導法のまま、受験のための英語教育を続けるのなら、小学校に英語を導入しても、今とそれほど変らないのではないかと思います。小学校に英語を導入する前に、中学校英語教育の授業をもっと充実させてほしいと思います。
 大学入試のヒアリング試験も拙速の感がありました。

 語学教育にはさまざまな意見があり、さまざまな教授法が試みられていますが、子どもは教育実験の道具ではないのです。
 英語ができない大人達が、英語コンプレックスの裏返しとして「早期英語教育導入」を言い出したような気がします。

<つづく>
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2006年12月10日


ぽかぽか春庭「小学校英語教育(2)」
2006/12/10 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(2)

 子どもたちに「もっと本を読め」という前に、家の中で、大人が本を読んでいる姿を見せていれば、子どもは自然に本好きになりますし、「英語をおぼえろ」と子どもに強制する前に、大人が英語覚えたらいいのに、と考える次第です。

 早期英語教育が一概にダメというのではないのですが、私には、子どもたちの母語能力衰弱のほうが、案じられてなりません。

 春庭「いろいろあらーな」2月3月の「言語学復習」に、語学教育についてのコメントもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
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 (m***********さんbbs書き込みにつづけて考えたことをメモしておきます。)

 現在、全国の小学校で何らかの形で英語教育を導入しているところは、90%にのぼっています。しかし、英語教育を行っている小学校の指導者たちのほとんどが「現行のカリキュラムでは、十分な英語教育が実施できるとは思えない」という懸念を表明しているのだそうです。

 ひとつには、「小学校英語教育」を担当する教員養成コースが整っておらず、小学生を対象とした英語教育を行える人材が不足していること。

 これでは、よい人材をそろえられる学校とそうでない学校の英語教育に差がつくばかり。
 なんら具体的な提案はないまま、小学校英語教育が見切り発車のかたちでスタートしようとしているのです。

 日本語を母語とする人々にとって、日本語は思考の源、文化の根元です。
 しかし、大学で日本語学を教えている教師のひとりとして、昨今の日本人大学生全般の日本語能力の衰弱化は、将来を憂えるに十分だと考えています。

 「英会話ができる」、以前に、社会に対して日本語で自分の意見が述べられるのか、日本の歴史について質問を受けたときに、歴史を解説し、なおかつ自分の歴史観をふまえて相手と意見を闘わせることができるのか、日本語言語文化をどれだけ受容してきたのか。
 日本語できちんと自分の意見が言えない学生を育てておいて、「英語でディベートしましょう」と言い出しても、コミュニケーション能力は伸びない。

 日本人は1億人が英会話コンプレックスになっているけれど、日常会話程度をペラペラできたくらいでは、コミュニケーションにとって、大きな意味はありません。

 「マクドナルドへ行きたいが、どこにあるのか」なんて、アメリカ式の発音ができなくたって、絵を描いたり、身振り手ぶりでコミュニケーションできるのです。
 ロンドンのおみやげ屋の店員と「あんたのおつりの計算の仕方はまちがっている」と、ケンカしたいときは、だまって、紙に計算を書いて見せたらいい。

 日本へ来た英語圏観光客に、「英語で道案内のひとつもしてやれたら、得意な顔ができるのに」、と思っている人もいます。
 英語だけじゃなく、せめて国連公用語の、中国語、アラビア語、スペイン語、フランス語、ロシア語プラス、お隣の朝鮮韓国語で、どの町にも案内表示を出してやったらいいじゃないですか。さらに私の希望を言えば、世界共通語をめざして発明されたエスペラント語の普及を。

<つづく>
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2006年12月11日


ぽかぽか春庭「小学校英語教育(3)」
2006/12/11 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(3)

 自分の子が、隣の机に座ったラテンアメリカ人クラスメートをいじめているのを、見てみぬふりする。近所にすむアジア人の一家に対して「ゴミ出しのルールを守らなくて困るわね」と、文句だけ言って、ルールを教えてやることもしない。
 それでいて、「うちのぼくちゃんは英語塾に通っているから、英語ペラペラの国際人になれる」と思っているような人がいることも確か。

 国際人として育てたいという時代の要請にとって、日本の小学生に一番必要なこと。
 2年間早めにABCを書けたり、「ハロー」と言えるようにしてやることじゃ、ありません。

 必要なのは。
 世界中に、たくさんの国があり、たくさんの文化があり、お互いの違いを知り合いつつそれぞれを尊重できる人間に育てること。

 小学校で英語教育を行うなら、まずは「世界中の人と仲良くするにはどうしたらいいのか」という教育からはじめてほしい。
 近所に韓国の人や中国、インドなどアジアや、他の外国から来た人が住んでいる地域であるなら、交流をふかめお互いに理解を深めるところから、外国語教育もはじまると思っている。

 外国人とビジネスにおいて、英語で渡り合いたいと願って、英語を学ぶと言う人へ。
 自国の文化について語ることもできないビジネスマンは、「経済的動物エコノミックアニマル」としか遇されず、他国から人としての尊敬を得ることはできない。
 人として信頼されず、対等に渡り合えないのなら、経済的動物として扱われ、経済活動の餌食になるだけです。

 英語教育は大切です。でも、大切な教育であるからこそ、目先のカリキュラムを追うだけでなく、国家百年の計をたてて、国の大切な予算を使ってください。

 現状のままの教育基本法で具体的な問題点は何もないのに、「憲法理念にもとづく教育基本法」を変えてしまおうとする政府。

 「自主的に行動できる人間を育てる」と、うたいあげていたはずの文部科学省が率先して「タウンミーティングでやらせ質問」を行った。
 教育基本法を変えるべきだ、という政府の方針に沿った質問をするよう、あらかじめ「サクラ」役の質問者を決めておき、文部科学省側が作成した質問を行わせ、謝礼金を支払ったそうです。

 つまり、文部科学省がみずから「ウソをついてでも、自分の主義主張が通るように細工をする」ことを、子供たちに教えたことになります。
 文部科学省がウソを率先して行う国で、これから育つ子供たちは、どんな子供に育っていくのでしょうか。

 「うん、英語は得意だよ。ぼくの英語力、ハウ マッチ」と、何でもお金に価値換算して、お金があることが善、相手より武力で勝れば正義、ウソをついても自分の方針を押しつけることが「よりよい教育」ということになっていくのではないかと、不安です。

<おわり>




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2009/02/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(1)英語教育について

 伝えていきたい日本語の豊かな表現力。しかし、若い人々の日本語能力の衰えについての懸念が広がり、さまざまな論議が為されています。
 水村美苗さんも2008年に出版された著作の中で日本語の将来について独自の論を展開しました。春庭は水村さんの論にうなずくところと「いやそれは違うんでないかい」と思うところもあり、英語教育について再考してみました。

 小学校英語教育についての現場教師アンケート結果が2種類あります。ひとつは教育委員会が調査した結果。もうひとつは民間の出版社が行ったもの。結果に大きな隔たりがあります。
 教育委員会の調査では、2011年からの小学校英語必修化の準備段階アンケートで「必修化に不安を感じている」と答えた小学校は20%にとどまっていました。ところが民間の調査では抽出された500校のうち、53%、半数以上の小学校で「2011年の必修化に不安がある」と答えたのです。(2009年2月09日朝日新聞の報道による
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080137.html  )
 
 なぜこれほど大きな差がでたのでしょうか。教育委員会のアンケートでは、委員会が期待している結果が最初から決まっており、結果に適合する回答が報告されるからです。
 民間の調査(旺文社の実施)のほうこそ、気兼ねのない本音が出たと言えるでしょう。小学校の現場では半数以上が現状での英語教育導入に不安を持っている、という結果を重く見るべきだと思います。
 現状では、小学校での教育に地域格差学校格差が広がるのみです。

 この二つの調査結果の乖離は、公教育の精神的荒廃を見事に示しています。最近の義務教育の場において、校長は教育委員会の目の色をうかがい、教師は校長の顔色を読むことに汲々として保身ひとすじに動いている、という元同僚らのことばを裏付ける調査です。
 私は公立中学校国語教師を3年でやめてしまいました。校長のパワハラに負けた結果で、今も悔いが残る人生の選択でした。でも、当時の同僚たちは、さまざまな試練を越えて、仕事をつづけ、今定年を迎えつつあります。

 教員室で息を潜めるようにしてなんとか定年まで勤め上げた元教師達が伝える、教育現場のなんという荒涼とした教員室風景。私をパワハラで追いつめたS校長のような人物ばかりが出世し、生徒のためにと教育に邁進し、保身・出世を望まないような教師は「教育委員会のお達しに素直に従わないから」という理由で煙たがれる。教員室での会議は、校長からの上意下達のみで、意見をたたかわせることなど皆無。放課後、教員同士で教育について話し合うなどという光景は、もはや天然記念物並という。

 そのような公教育現場の本音の声が「現状では小学校英語教育導入に不安がある」という声が半数ある、という結果となりました。高校で「英語授業を英語だけで行う」という文科省の指導要領改定案には、もっと多くの不安が出ています。

 日本の英語教育は、これからどうなるのでしょうか。
 英語教育についてのシリーズ10回連続です。10回続けて「ああつまらんことを10回も書き続けた」と思われないよう、最初から結論を書いておくので、つまらんと思うなら、時間の無駄だから、お読みにならぬよう。

(1)現状での小学校英語教育導入は、適切な指導者を確保できた学校とそうでない学校に、明白な格差が生まれる。

(2)英語だけで英語を教える高校のコミュニケーション授業は、一部高校だけが大学推薦枠を得るために、特別進学クラスを設置して成功するが、残りの大多数は、直接法による語学授業のなんたるかを理解もしないうちに失敗する。大学入学試験に取り入れることのないスピーキング能力向上をめざしても進学率は上がらないから、名目上は指導要領にしたがう授業を設置するが、実質は受験英語力強化に向かうであろう。 

<つづく>
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2009年02月13日


ぽかぽか春庭「日本語が滅亡するとき」
2009/02/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(2)日本語が滅亡するとき

 縄文語からの長い歴史をもつ日本語も、私たちが維持する努力を放棄したら、あっという間に「死語」になります。
 現在の「世界的英語優先社会」の中で、「英語を使う人のほうが社会で有利な立場につける」ということになった場合、3代で日本語は英語にとって代わります。

 若い父と母は、子のために「出来る限り、赤ちゃんのときから英語で話しかけ、私たちも英語で会話するようにしましょうね。学校はインターナショナルスクールにいれましょう」と、考えたとする。
 英語がよくできるその子供は英語を駆使する高年収の職業につける。この子が家庭を持ったら、完全に最初から英語だけで子を養育し、3代目にして「日本語はわからない」日本人が育ちます。

 『日本語が滅びるとき』の水村美苗さんの意見には賛成していない部分もありますが、彼女の杞憂はわかります。水村説が賛否両論ある部分は。
 「英語は一部分のエリートが習得すればよい。大多数の凡人子弟は、日本語力をつけるために、近代文学の秀作を読みなさい」という水村の主張する部分です。

 高校の英語教育について「英語で英語を教える」方法を採用する、と文部科学省が言い出しました。まったく、現場を知らない役人の考えそうなことです。
 「英語は英語で教えるべきだ」とする高校の学習指導要領改訂案(2013年度から段階的に実施)は、「直接法ダイレクトメソッド」による言語教育の方法論をしっかりと考慮しているかどうか疑問に思えます。
 文科省の役人は「会話を教えるとき、英語だけで教える」のを、どの程度の教授法として考えているのやら。「Let's talk about our family!」程度の指示をだしてやれば、話せるようになるとでも思っているのでしょうか。

 現在の高校英語教育で、「日本語で説明された英語の授業」についていける高校生は半数。日本語で教えても理解できない英語を、英語で説明指示されて、ますます英語嫌いが増えないかと案じています。
 現場の英語教師からは続々と「困った指導要領改革」という声があがっています。
 文部科学省が本気で英語教育を変えたいのなら、第一に大学入試を変えなければ、現場の改革はできない。

 なぜなら、「高校の英語をコミュニケーション力」を高めるものにしようと言っても、大学入試科目に「コミュニケーション能力・会話」がないなら、高校の授業は受験英語中心にならざるを得ないからです。
 多くの高校にとって「どこそこ大学に何名受かった」ということが地元での評判を高め、受験者数を増やすための一番の方法であり、合格するためには、入試にない科目は「一応やっています」という名目的な授業だけになる。コミュニケーション英語に力を注ぐわけにはいかないという事情があるのです。

 英検の会話試験程度の簡単なスピーキング能力のテストでも、ひとりひとりの点数を出そうとすると膨大な時間と人件費がかかる。まして、一生を左右する大事な試験になるかもしれない大学入試でスピーキングなどのコミュニケーション能力をテストするなら、その手間暇はたいへんな負担です。大学側は一般入試では「コミュニケーション能力」の試験は課さないでしょう。
 AO入試や推薦枠でコミュニケーション能力を売り込もうとする一部の高校以外では、「英語で英語を教える」という文科省の指導要領は「お題目」で終わることは目に見えています。

<つづく>
00:33 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2009年02月14日


ぽかぽか春庭「40人クラスの英語」
2009/02/14
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(3)40人クラスの英語

 コミュニケーション能力、表現力のつく「生きた英語」が必要だという意見は、すでに50年以上も英語教育界で叫び続けられており、中学高校でも心ある教師達は手弁当で英語教育研究を続けています。しかし、大多数の日本人は「実生活で役に立つ英語」とは無縁です。なぜなら、実生活で英語が必要ではないからです。日本は、大学院教育まで日本語だけで受けられる。修士論文博士論文を母語で書いて提出することができる世界でも数少ない国です。母語だけで社会生活全般が不自由なく進行できる。このような国は少ないです。

 2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英(ますかわとしひで1940~ )博士は、受賞記念講演や記者会見も「私は英語ができません」と断って堂々と日本語で講演しました。通訳がつき、何の問題もありませんでした。英語ができないからといって、彼の研究「場の量子論」の価値が下がることなどありません。

 中学高校でコミュニケーション能力を高める英語教育を行いたいなら、第一に大学受験から英語をはずすこと。これでだいぶ英語環境がよくなる。しかし、現実には「受験英語」が受験生を「偏差値で振り分ける」ための重要な道具となっており、文系理系双方で、英語を受験科目からはずすことは難しいでしょう。大学は今、世界的な評価システムに耐える内容を整えるべく、生き残りに必死です。論文引用数などで評価が行われています。世界的に価値の高い研究者によって価値の高い論文を生み出す必要があるのです。

 そうでないと、世界的な高等教育戦争に負けてランクが下がり、独立行政法人大学(国立大学)でも倒産するところもでてくる。弱小私立大学の倒産はすでに始まっているという現況です。少しでも「高い能力をもつ学生」を確保することが生き残り策となる。

 大学は偏差値の高い学生がほしい。高校は少しでもランクが上の大学に生徒を合格させたい。だから、受験英語はなくならない。コミュニケーション重視の英語教育を中学高校でやりたくても、大学受験が変わらない限り無理であり、大学は現在の受験体制を強化する方向へ進むことがあっても、自分たちの首を締めるような「うちの大学の受験者レベルが下がってもいいから、高校では実生活に役立つコミュニケーション能力を身につけてほしい」とはならないのです。

 ある大学英語教育の研究者は、「少々英会話ができるくらいの中レベル学生より、文法を確実に身につけてきた高レベル学生のほうが、大学でコミュニケーションスキルの向上が著しい」と言っており、その結果を覆す研究が出てこない限り、「少しでも優秀な学生にうちの大学に呼び込みたい」という大学の方針は変わらない。大学受験が変わらなければ、高校英語の内容は変わらない。いつまでたってもいたちごっこです。

 国内の日本語教師の多くは「直接法=ダイレクトメソッド」で日本語教育を行っています。私も基本はダイレクトメソッドですが、大学院留学生クラスなので、英語が媒介語として使えます。直接法に少々の媒介語を混ぜた「中間的ダイレクトメソッド」です。日本語だけで日本語を教えるのは難しいことなので、厳密な直接法よりはだいぶ楽ができます。

 全員にわかる媒介語があるとき、その媒介語を利用せずに教えるのは効率が悪い。全員が日本語という媒介語が使える教室で英語を教えるとき、日本語を利用せずに教えるのは無駄なことなのです。

 できる限り教師の英語をクラスの学生に聞かせることが必要な時代もありました。ビデオもインターネットもない環境での教室では生の英語は教師にたよるしかなかったから、教師が英語を生徒に聞かせることは必要なことでした。しかし21世紀の今、さまざまな語学教育機器が利用できます。「英語だけで英語を教える」というのは30年前20年前にこそ必要なことだったでしょう。

 英語教材の進化も著しく、パソコンを使った教材などを見ていると、すべての公教育現場に、これらの教材を配置して、生徒が自由にオーラル訓練を行えればいいのにと思います。

 しかし、そういう教育予算はだしてくれない。第一、英語を1クラス40人で行うような無謀なことをやっていて、「コミュニケーション能力を育てましょう」などというのも錯誤はなはだしい。
 コミュニケーション重視なら、語学教育は10人以内が理想的。人数がオーバーすることがあっても、せめて15人のクラスでおこなわなければなりません。英語教師を今の2倍3倍雇う気がないなら、「コミュニケーション能力を育てる英語」だの「英語で英語を教える」だの言うべきでない。

<つづく>
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2009年02月15日


ぽかぽか春庭「直接法ダイレクトメソッド」
2008/02/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(4)直接法ダイレクトメソッド

 直接法のむずかしいところは、「学習者が知っている範囲の単語をつかって、学習者が習った範囲の文法だけをつかって教える」という点です。中学1年生相手に教えるとしたら、まだ100~300語程度の語彙しか知らないですから、その範囲の語彙を越えて話すことはできません。進行形を習う前の学習者に「食べています」という表現は使えません。日本語も同じこと。受け身形を習う前に「電車の中で財布を取られた」と教師が学生に話すことはできません。

 「英語を英語で教える」という学習指導要領を考えた文部科学省官僚や指導要領を検討してきた識者たちは、ダイレクトメソッドをどのようにとらえているのでしょうか。教室のなかで日本語をつかわず、英語だけで教えるには、教授者に高い英語能力とティーチング技術が必要です。「英語だけで英語を教える」ということを有効に活用するためには、教師がダイレクトメソッドを十分に行える技量を持っていなければなりません。

 語彙コントロール文型コントロールを行いながら英語を英語だけで教えていく技術は、簡単に身につくものではありません。自分が教える生徒が、どのレベルの語彙をどれほどの数、獲得してきているのか、どの程度の表現力をもっているのか、把握しつつコミュニケーション能力や表現力を伸ばしていくには、教える側も相当な訓練が必要です。

 これまでは、日本の英語教師の多くが「英文学」専攻によって英語教員資格を得てきました。卒論修論を自分の力だけで英語で執筆できた英語教師はどれほどいるでしょうか。「英文学の卒論を日本語で書いた教師」だと、文学を語るには有能でしょうが、中高レベルの英語教育には文学的素養が生かされません。初級中級レベルの英語教育は、文学教育ではなく、基礎語学教育だからです。

 ある生徒には「この文学的な美しいリーディング教材を与えたら、興味を持ってどんどん英語を読むようになった」とか、ある生徒は英語の歌を覚えることがきっかけになって英語を学びだした、という個々の実例ではなく、全国300万人の高校生にとって有効な教授法でなければなりません。日本全体の高校教育での指針をあげるのが指導要領ですから。

 新指導要領がめざす高校授業で「英語で英語を教え、コミュニケーション能力を高める」なら、まず第一に、現在高校の英語教師のうち、英語でディベートができる教師はどれくらいいるのか、英語の映画を見て、字幕を見ないで完全にセリフが理解できる教師がどれくらいいるのか調査をする。それもできないで英語を直接法で教えようとするのは無謀です。

 直接法を行うには、教授者はネイティブスピーカーと同程度に当該言語に習熟している必要がある。教える者がその言語でディベートもできないのに、生徒に英語でコミュニケーション方法を教えようとするなど、笑止です。海外旅行の買い物や道案内に役立つ程度の英会話なら、ダイレクトメソッドでなくても教えることができる。
 「聞く話す」が完全にできる教師を集めて「直接法」の教授法をたたき込む。今年からこの訓練を高校の英語教師に必修として課し、2013年までに高校英語教師が直接法によって授業できるようにしなければなりません。

 大事業ですが、教師の研鑽にもなることです。予算は大がかりになるでしょうが、文科省は、言い出したからには実行してほしい。まさか、教師の直接法習得予算もなしに、「英語を英語で教えましょう」などと、言い出したわけではないでしょう。国民ひとりひとりに1万なにがしかのお金をばらまく余裕があるのですから、将来を担う子どもたちの教育のためには、財源をしっかり確保し、惜しみなく教育に予算を使ってほしいです。

 ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にもさまざまな問題があります。

<つづく>
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2009年02月16日


ぽかぽか春庭「日本に来たばかりなので」
2008/02/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(5)日本に来たばかりなので

 ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にも予算はたっぷりほしいです。
 高いスキルを持ったALTを各校に配置するのはこれまた大変です。現在日本にいるALTのうち、第二言語教育としての英語教授法を学んできた人は多くない。ネイティブで英語ができるから、というだけで採用されている英語話者もいます。しかも、ある地方では、英語が母語であったアフリカ系米国人ではなく、「西洋人っぽく見えるから」と、英語が母語でないイタリア人だったかスペイン人だったかが英語教師に採用された、という話を聞いたこともある。

 イタリア人の英語がまずいということを言いたいのではありません。英語が上手なイタリア人も大勢います。でも、ALTの採用について、これまでのような「とにかく数を間に合わせる」という方法では困る、と思います。国として「学習指導要領」にのっとって教育を行うなら、それなりの予算を組んで、全国どこの地域の生徒にとっても不利にならない教育を行うべきだ、と思うのです。

 ATLが、現在の「会話授業」などで補助的にクラスで教えるならともかく、文科省が学習指導要領に明記して「英語による英語会話」授業を行うなら、第二言語教授法を身につけた教師、直接法の指導に長けた教師、第二言語教育の指導法を知っているATLを雇う必要があります。 
 文部科学省の学習指導要領の「英語で英語を教える」という方針は、現状のまま移行しても、「絵に描いた餅」に終わるでしょう。

 現在の日本の日本語学校には、英語が得意な日本語教師、中国語ができる日本語教師も多い。しかし、さまざまな国から来ている日本語学習者を相手にするとき、何かひとつの言葉で日本語の説明をしてしまったら、その言葉がわかる者以外には教師が何を言っているのかまったくわからない、という事態になります。英語ができない日本語学習者も大勢いる。だから、日本語だけで日本語を教えていきます。この「ダイレクトメソッド」教授方法の習得にはいろいろな訓練が必要です。

 直接法の教え方について、課題に取り組んでみてください。
 私の受け持っている留学生の授業は大学院進学や研究者のためのクラスなので、全員英語ができる学生ばかりですが、今期ひとりまったく英語がわからない人が在籍しています。中国内蒙古の大学教師をしている方です。彼はモンゴル語と中国語のバイリンガルですが、英語はまったくできません。直接法で教えた後、学生が文法や単語の意味についての確認の質問を英語でしてきたとき、できる限りは彼らに理解できる範囲の日本語で、補助的には英語で答えていますが、そのあと、黒板に漢字で書いておくなどの工夫をしています。理解力が高いので、積極的に質問もしてきます。

 2月12日の授業での彼の質問。
 会話のなかに、「日本に来たばかりなので、まだ日本語がよくわかりません」「食べたばかりなのでおなかがいっぱいです」という文が出てきました。彼は疑問をぶつけてきました。「『食べたばかりなので』という部分、『食べたばかり』は、食べることが終わってすぐ、です。『ので』は理由や原因、「因為~」です。この意味はわかります。『ばかり』と『ので』の間にある『な』は、何ですか」という質問でした。

 さあ、直接法で、この『な』はどんな意味をもつのかと、彼に説明してみてください。直接法で教えるというのは、日本語だけで、日本語がまだよくわかっていない人に、きちんと日本語のしくみや会話の表現を理解させてやれるということです。英語もしかり。
 「なんでもいいから、出てきた文をまるごとセンテンスとして暗記しろ」という教授スタイルの先生もいます。それもひとつの教え方です。まるごと暗記で簡単な会話なら身につきますから。しかし、内蒙古の大学でモンゴル語母語話者の学生に中国文学を講じている彼にとって、この「な」は何なのか、という疑問にひっかかると、先に進めないのです。

 私も「一度疑問をもってしまうと先にすすめない生徒」でした。「なぜ、英語は1個の林檎はアップルで2個以上はアップルズになるのか?」ということにひっかかって先に進めないまま、英語オチこぼれになりました。なぜ英語に単数複数の区別があるのかわかったのは、2度目の大学生になったとき、英語教授法の先生に教わってから。単数複数については
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongo0603b.htm
をお読みください。

<つづく>
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英語教育について再び 2010年10月

2011-08-17 08:40:00 | 日記
2010/10/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語教育2(1)英語教育について再び

 2010年8月6日付け朝日新聞朝刊「リレーおぴにおん」というコラムで、元駐日印度大使で、現在は江戸川区にあるグローバル・インディアン・インターナショナルスクール理事長であるアフターブ・セットさんが、「幼い時から毎日使う」ことが英語教育に必要だと意見を述べ、200人のインド人学校在学生のうち66人は日本人子弟であると発表していました。

 幼い子供の脳にとって、多言語教育は負担にならないということの証拠として、セット氏の孫の例を挙げています。アメリカに住む2歳になる彼の孫は、父インド人母イラン人ベビーシッターはエクアドル人という環境で育ち、ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を使い分けるようになったと主張しています。だから、幼い脳に二つ以上の言語を学ばせることは、脳に過剰な負荷をかけることにはならない、とセット氏は言うのです。

 とんでもない!日本語の基礎を知らないこのような「一見グローバル」な人が一番始末に悪い。ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語の四つの言語を同時に習得しても「脳に過剰な負担をかけない」とセット氏は主張していますが、そんなことは当然のことです。ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語は、すべて「インドヨーロッパ語」という文法(統語)を等しくする同類の言語だからです。

 日本語と英語は統語(ことばの仕組み)が異なります。世界の言語には、屈折語、膠着語、包合語、孤立語などの類型があります。英語は孤立語的屈折語であり、日本語は膠着語で、文法上の言語の性格が異なっているのです。孤立語である中国語の母語話者が英語を習うほうが、膠着語である日本語母語話者が英語を習うよりは負担が少ない。

 日本人の子供が、青森出身の母と博多出身の父と名古屋出身のベビーシッターの間で育ち、青森弁と博多弁と名古屋弁と標準語を同時に習得して、全部同じようにしゃべれる、というとき、日本人は「へぇ、たいしたもんだ」と言いますが、それほど驚きはしません。ひとつの言語、日本語のバリエーションを覚えたにすぎないからです。日本語のしくみ(文法)はどの方言を使っても同じです。沖縄方言も同じ。
 ヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を話せるというのは、青森弁と博多弁と名古屋弁と標準語を同時に覚えたという子供と条件的には同じです。(むろん、方言差よりは大きい差ですけれど)

 英語と日本語は、統語が異なります。
 グローバル・インディアン・インターナショナルスクール理事長セットさんの孫が、英語と日本語とコイ語(アフリカ、コイサンマンのことば)とホピ語(ネイティブアメリカンのことば)を同時に覚えて不自由なく使えるというなら、私も感心しますが、たぶん、それは不可能です。これらの言語は言語類型が異なり、統語がまったく違うからです。この4つの言語を幼い脳に同時に聞かせて育てたら、幼い脳は混乱し、どの言語をも使いこなすことができなくなるでしょう。

 まったく統語の異なるふたつの言語を幼いころから同時に聞いて育った子供のうち、何割かはどちらも使うようになりますが、何割かの子供は脳の発達がうまくいかず、どちらも母語として使いこなせない障害を負う、という調査結果が出されています。統語の異なるふたつの言語を同時に聞いて育った結果、バイリンガル(二言語使用者)ではなくハーフリンガル(どちらも半分しか使いこなせない)子供になることもあるのです。

<つづく>
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2010年10月02日


ぽかぽか春庭「英語と日本語は言葉の仕組みが違う」
2010/10/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(2)英語と日本語は言葉の仕組みが違う

 「ものごとを思考するための母語」というのは、人が人間らしく生きていくための最大の財産です。この財産を子供に有効に受け継いでもらうために、大人は心して言語教育を行わなければなりません。「うちの孫はヒンディ語ペルシャ語スペイン語英語を話せる」と無邪気に喜ぶような教育者に育てられたら、母語の言語文化を適切に身につけないまま成長することになりかねません。

 母語を使うというのは、その言語でものを考えるということです。言語は伝達コミュニケーションのために使う以上に、ものを考えるために使います。母語が発達させられなかった子供は、思考力を持てないのです。
 思考力が持てない子供は、ものを論理的に考えられず、数学も科学ができないのはもちろん、日常生活の合理的判断も出来なくなります。「雨が降りそうだから傘を持って家を出よう」という判断だって、母語を使って頭の中で考えた結果の行動なのです。

 これまでの事例では、国際結婚が成立して子供が同時にふたつの統語の異なる言語間で育つ場合、子供の中には、頭のなかでスイッチ切り替えをして、どちらの言語でもものを考えられる真のバイリンガルに育つ子も存在しました。
 国際結婚するのは、留学するとか、国際的なビジネスで国外に活躍の場を得るかという人が多く、親が言語に対して意識的な態度を持っている事例が多かった。適切な教育をした結果バイリンガルの子供が出現し、バイリンガルに肯定的な意見が広がりました。
 しかし、とくに言語に対して自覚的な態度を持たないまま「なんとなく、親はそれぞれが別々に自分の言語で子供に接する」という育て方をされる子供が増えました。その結果、どちらの言語でも中途半端にしか思考できないハーフリンガルが増えたのです。

 留学生教育を担当する教師としてつくづく思うことは、母語の言語キャパシティが小さいと、語学教育を行うのもたいへんになるということです。母語でのコミュニケーション能力作文能力は、外国語教育の基礎になります。母語での討論が十分にできないのに、外国語でのディベートはできません。母語で作文が書けないのに、外国語での作文が書けるはずがないのです。

 グローバル・インディアン・インターナショナルスクールに在籍しているという66人の日本人子弟が、すぐれた英語教育を受けると同時に、漢字の読み書きはもちろん、万葉集古今集源氏物語枕草子から現代に至るまでの日本語言語文化の宝庫を学び、漱石以後の近代文学を読みこなし、真のバイリンガルに育つことを心から願っています。

2009年2010年の試行期間を経て、文科省による小学校英語教育が2011年にスタートすることが決定しています。英語業界を中心とする大賛成の声のほうがはるかに大きく、また、一般国民も「英語が必要とされる社会になっているから」と、納得しています。
 言語学者、発達心理学者、脳科学者の「英語の構造は日本語と異なるから、母語が完成しないうちに中途半端な英語教育を受けて、母語教育に十分な時間をとることができなくなると、母語を鍛える機会が減る」という論はかき消されてしまいました。英語教育といっても5年生6年生に週1時間程度、英語に慣れさせるだけだから、母語教育が疎かになるほどのことはない、という論拠です。しかし、週1時間くらいのことなら、英語教育のためには、ほとんど役には立たない。

<つづく>
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2010年10月03日


ぽかぽか春庭「漢字教育と英語教育」
2010/10/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(3)漢字教育と英語教育

 2002年にやみくもに総合教育がカリキュラムに取り入れられたとき、総合教育には膨大な準備や教師の指導力が必要であるのに、こんなに簡単に導入して大丈夫なのかと危惧したのですが、たちまちのうちに「総合教育は失敗」という結論が出てしまいました。英語教育はこの失敗に学び、十分な準備を経て、教師の指導力を高めてから導入してほしいものですが、児童英語指導者などを講師として採用できる学校ばかりではなく、「今まで英語を喋ったこともない先生」が教えなければならない学校のほうが多数みたいです。英語ペラペラでなくてもいいから、せめて言語学の基礎を学んで、語学教育の基本を知って欲しいです。

 週に1時間程度の英語の時間を設けて、英語に慣れさせるのが大きな目的ということであり、他の教科時間を減らすことはないということですが、果たしてこの小学校英語教育はどうなっていくでしょうか。英語の時間をふやすためには、他の教科の時間が減らされる可能性があります。図工も体育も国語も音楽も子供の発達に大切な教科。減らしてほしくないです。

 言語学者脳科学者たちは、「英語教育に時間を割くために母語教育が不十分になるなら、日本語が十分に使いこなせない子供が増え、日本語言語文化が衰退する可能性がある」と、心配しています。
 脳科学の発達によって、認知科学的に脳の言語野の研究が発展してきました。脳科学者が、言語認知の知見によって将来の日本語について憂えているのを見聞きすると、日本語学研究者として、日本語の言語文化を愛してきた者として、心配はつのるばかり。

 お隣韓国でも英語早期教育が始まって、効果を上げている、日本も負けていられないではないか、という文科省の役人。彼らは日本語と韓国語の言語文化の差を無視しています。
 韓国は漢字文化を受け入れたとき、漢字で漢文を書く方を選び、母語をそのまま表記することを放棄しました。古代の朝鮮語韓国語は、文字に書き残されていないのです。朝鮮語韓国語表記は、15世紀にハングルが開発されるまでなされませんでした。現在の韓国語表記は、ハングル中心であり、漢字語彙もハングル書きされています。韓国の漢字には、「訓読み」に当たるものがなく、音読み(中国語読み)しかないので、漢字のことばをそのままハングルで表記しても韓国語の基本はくずれることがないのです。韓国は漢字教育を半減し次に全廃し、ハングルだけで日常生活が足りるようにした世代が成長したのち、英語の早期教育を導入しました。(現在の韓国では、漢字教育を全廃したことの損失に気づいた人々も多くなってきましたが)

 日本語はどうか。「日」には、「ニチ、ジツ」という音読み、「ひ び か」などの訓読みがあります。日本語の言語文化を特徴付け、独自の言語文化を育ててきた「ひとつの文字に多数の読み方」という方法を捨て去ることは、もはやできません。韓国語をハングルのみで表記するのと、日本語をひらがな(あるいはカタカナ)のみで表記するのではまったく事情が異なる」ということを理解しなくては、日本語言語文化の維持はできません。日本語言語表現に漢字表現は不可欠です。漢字語彙は日本語のボギャブラリーの7割を占めているのです。

<つづく>
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2010年10月05日


ぽかぽか春庭「漢字表記を全廃できるか」
2010/10/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(4)漢字表記を全廃できるか

 韓国が英語教育に成功したのを見習いたいというのであれば、まずは、韓国がしたように、漢字表記をすべて平仮名または片仮名で書き表すように表記を改め、官報も新聞も平仮名書きだけで用が足りるようにしなければなりません。日本語は漢字と仮名の交ぜ書きが文章語の中心ですから、韓国の文字表記とはまったく事情が異なるのです。
 韓国では、英語教育を強化すると同時に、子供の漢字教育を1970年に全廃しました。現在、若い世代の大半はほとんど漢字が読めない。
 かんこくが えいごきょういくに せいこうしたのを みならいたいというのであれば、まずは、かんこくが したように、かんじひょうきを すべて ひらがな または かたかなで かきあらわすように ひょうきを あらため かんぽうも しんぶんも ひらがながきだけで ようが たりるように しなければなりません。にほんごは かんじと かなの まぜがきが ぶんしょうごの ちゅうしんですから かんこくの もじひょうきとは まったく じじょうが ことなるのです。
 かんこくでは えいごきょういくを きょうかすると どうじに こどもの かんじきょういくを 1970ねんに ぜんぱいしました。げんざい かんじふっかつを のぞむ いちぶの ひとびとを のぞき、わかいせだいの たいはんは ほとんど かんじが よめない。

 韓国には、漢字全廃した結果の言語文化の損失に気づいて、漢字教育復活を望む人々もいます。漢字教育をしなくなって、韓国語「カムサハムニダ(感謝します、ありがとう)」のカムサは「感謝」という漢字熟語のことだというのを知らない世代が増えました。漢字表記があれば、たとえば、韓国語で「ニューモ」とは、「乳母」のことだとわかります。「アンジョン」は、「安全」のことだとわかれば、韓国語を習う日本人や中国人にも意味がすぐにわかって便利です。漢字文化圏(日本、韓国、ベトナム(越南)中国、)に共通する漢字語彙も数多くあるのに、言語文化の基礎をひとしくすることの利益は忘れられています。
 漢字教育復活を望む韓国の親たちは、学校教育とは別に子供を漢字塾へ通わせています。

 母語とは何か。グローバルな社会で活躍するためには、自分自身のアイデンティティを確立していなければなりません。自分自身のよって立つ文化に誇りを持ち、自分の言語でそれらを語ることができないなら、英語ペラペラしゃべってみせたところで、グローバル社会において「単なる翻訳機」以上の扱いは受けないでしょう。心ある人間としてグローバル社会で自立して生きて行くには、まずアイデンティティの確立を。そのためには、母語で自分独自の思考ができる脳を育てること。これが一番大事です。

 2011年から始まる小学校英語教育では、「英語をつかって遊ぶ」「英語に慣れる」ことが第一の目的とされるそうです。英語産業はますます発展し、英語産業の拡大政策にのって「子供のために」と英語教育にお金をかける世帯とそうでない世帯の格差は広がると思います。小学校での英語教師を増やす予算があるなら、中学校でひとつのクラスに30人も詰め込む英語教育をやめて、1クラス10人程度の少人数制英語教育をしたほうが、将来の「英語も使える日本語母語話者」を育てることになると思います。

 幼い子供に英語のDVDを見せて「うちの子、ネィティブみたいな発音が知らず知らずのうちに身についたのよ」と、自慢するのもけっこうですが、英語のDVDを30分見せたら、次の30分は、お母さんお父さんが膝の上に子供を乗せて日本語で絵本の読み聞かせをしてやってくださいね。お話はグリとグラでもあんぱんまんでも桃太郎でも何でもいいですから。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本語は滅びるのか」
2010/10/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(5)日本語は滅びるのか

 子供たちを取り囲む「言語環境」が年ごとに貧弱化しています。明らかに語彙数獲得が減っています。(春庭は、NTT語彙数調査を年に2回、授業を担当している日本人学生に実施しています。この調査で頭の中に日本語が何万語入っているのかわかるというテストです)
 現在の大学生の中にも「漢字読めないし、本を読むのはメンドー」という学生が増えています。いくら池上彰の解説がわかりやすくても、耳からニュース聞いただけでは語彙力は身につかない。日本語は書き文字文化の国ですから、日常使用語彙以上の漢字熟語は文字と共に頭の中に入っているのです。「へんしんする」と聞くと、テレビからこの言葉を覚えた幼児は「変身」のみを頭に思い浮かべて用が足ります。しかし、変身だけでは「返信」なのか「変心」なのか、漢字を知らないでは必要な「返信」ができないことになる。
 あと10年たって小学校英語教育を受けた子供が大学生になるころ、母語の読み書きも疎かになり、英語も身に付いてはいない、という学生が増えてくるのではないかと心配しています。

 水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』は、2008年の11月に発行されるや大評判になり、2009年に小林秀雄賞を受賞しています。
 近代日本語と江戸時代以前の日本語についての評価の違いなど、春庭は水村美苗の論に全面的に賛成することはできず、意見の違うところが多々あるのですが、現在の国語教育や一般社会の日本語の扱われ方を見る限り、将来の日本語言語文化が衰退していくであろうという憂いは共通しています。

 グローバル社会とは「アメリカ化社会」の謂いであり、情報社会ビジネス社会では英語ができないことには苛烈な経済競争に落ちこぼれてしまうという、日本経済界の焦りもよくわかるから、ユニクロや楽天が社内公用語を英語にするというのも、まあ、そういう会社も出てくるだろうとは思います。社内事情をよくは知らないけれど、会議を英語で行うというレベルではなく、楽天の社員食堂のメニューまでアルファベット書きで「Udon」とか書かれているのだそうで、ちょっと笑える。(ちなみに楽天社員食堂は無料だそうで、こちらは大いにうらやましい。Udonでもいいから、社員になりたい、、、、と、これはネが貧民の発想)
 
 母語で論理を組み立てられる人材より、「英語ペラペラなだけ」な人を採用するようになれば、楽天もユニクロも、これから先は海外企業に飲み込まれるだけになるでしょうけれど、まあ、私は株主でもないし、柳井正や三木谷浩史の知り合いでもないから、会社自体がどうなろうといいのだけれど、この影響で「うちの子には、小さいときからまず第一に日本語より英語を身につけさせなけりゃ」と勘違いする親が出てくるのではないかということが心配なのです。
 繰り返して言うと、母語の基礎と言語文化の体系が身についていない人間は、表面だけ何カ国語か話せても、中身はスカスカになるということです。国語教育に数々の問題があれど、義務教育期間に国語の教科書を読むだけでも、語彙と文型の習得にはなっています。「朝の10分間読書運動」など、読ませる教育に期待しています。

 明治時代の森有正や敗戦直後の志賀直哉のように「日本が西洋列強国に比べて近代化が遅れたのは日本語のせいだ」「日本がアメリカに負けたのは日本語のせいだ」と勘違いして、日本語は論理的にものごとを考えるにはふさわしくないと思い込んだ有識者がいたことを考えると、論理的に物事を考えるには日本語より英語のほうが適切と勘違いする人もいるかも知れないのでひとこと。ぜひ月本洋『日本語は論理的である』という本を読んで下さい。

 母語教育が適切に受けられなかった子供たちが、どの言語も「母語」として思考の道具にできなくなる不幸な結果になったという事例が報告されているということを述べました。日本の子供たちが、中途半端な英語教育の導入のために母語の完成期にあたる10~13歳の時期に日本語も英語も中途半端な教育しか受けられないという結果にならないように、日本語教育もしっかり行って日本語言語文化を意識的に学びアイデンティティの基礎を固めることを行いつつ、英語を教えてほしいと願っています。
 
<つづく>
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2010年10月07日


ぽかぽか春庭「母語シャワーを浴びる」
2010/10/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語レッスン(6)母語シャワーを浴びる

 胎児はおなかの中で、母親の血流の流れの音と心臓の鼓動そして、母親が発する言語音を耳にして聴覚を発達させてから生まれてきます。テレビ放送終了後のジャーという音、いわゆる砂嵐音。これは血流の音に一番近いので、この音を聞かせると赤ちゃんが寝付くと言われています。生まれて1週間くらいは砂嵐効果が続くそうです。

 1週間以上たった乳児は、胸に抱き取って、養育者の鼓動と母語の響きを聞かせてやることが一番の安心感につながります。日本語の場合、「子音プラス母音」という開音節の発音をおなかの中で聞いて育ちますから、日本語で子守歌を歌ってやれば、耳慣れた響きを聞いてすやすやと寝付きます。

 乳児から幼児になっても、この安らぎを与え続けることが、安定した情緒を育てます。母語をシャワーのように浴びる時期が子供に必要です。
 夜寝るときは子供の隣で、浦島太郎でもかぐや姫でもスーパーマンでもいいから、お話を聞かせてやって下さい。子供はお話の内容が面白くて寝付くのではありません。養育者がそばにいて、母語の響きを聞くことによって安心して寝付くのです。

 13歳は母語習得の臨界点です。13歳つまり中学校入学のころまでに、母語で思考できるように育てることを何より優先する両親であれば、その上に英語教育するもエスペラント語教育するもスワヒリ語教えるのも、お好きにしたらいい。
 母語でものごとを考えられるようになること、母語による言語文化を浴びて育つこと。人が人間らしく生きるために、基礎となるのが母語です。

 同系統の言語なら、同時にふたつの言葉を母語とすることはそれほど難しくはありません。しかし、ふたつの言語が異なる系統に属しているとき、バイリンガルではなくハーフリンガル(どちらの語も母語として活用できず、思考能力が発達できない)になる場合もあることを十分考慮した上でふたつの言語を与えて下さい。

 英語と同系統の言語は、インドヨーロッパ語系統の多くの言語があります。ことばにとっては、兄弟、おじさんおばさん、いとこくらいにあたるファミリーです。しかし日本語と同系統と認められた言語はありません。同系統に近いとされるのは韓国語朝鮮語モンゴル語トルコ語などですが、近いといっても「またいとこの息子」とか、「ひいじいさんのはとこ」くらいです。英語話者がドイツ語やスペイン語を習うのと、日本語話者が他の外国語を習うのでは、大きな学習の差があります。

 2011年度から小学5、6年で必修化される小学校の英語活動。文科省が2008年に発表した教科書に準ずる「英語ノート」では、2年間で285の単語と、中学1年レベルの50の表現を教え、6年生終了時点で英語を使って遊んだり、自己紹介ができるというのが目安になっています。文法や単語の書き取りは教えず、45分授業を年間35コマ(週1~2回)で「聞く、話す」を活動の中心にするとされています。「英語指導をしたことのない教師ばかりの学校に配慮する」と、文科省は英語ノートにプラスしてCDや教師用指導書を作成して、分刻みの指導法を指定しているのだという。

 「英語指導をしたことのない教師」が校長に命ぜられて、イヤイヤながら文科省の指導書首っ引きで子供に英語教えて、クラスのみんなが「英語の時間が楽しい」と感じられるなら、それでも教育効果があるでしょう。しかし、そうでない教室で英語は嫌いと感じる子供が増えたら、中学校での本格的英語教育に入ったとき、今よりいっそうの「英語格差」が広がるだけになります。「英語嫌いを早々に自覚させるための文科省の措置ではないか」とか「異文化理解の教育なら賛成するけれど」という足跡コメントをいただきました。異文化理解のためなら、英語だけでなくアジアアフリカの文化も取り入れて欲しいですが、文科省の「異文化」には英語しか入っていないみたいですから、おそらく「小学校のうちに英語落ちこぼれを自覚させるための措置」というのが当たっているのかも。

 中学1年のとき、担任の数学教師が英語教師不足の穴埋めを命ぜられて、「大学を出たんだから、中1の英語くらい教えられる」と、我がクラスの英語を担当しました。発音が典型的なジャパングリッシュだったのはご愛敬だとして、英語に初めて出会う生徒たちが次々に日本語との違いにとまどって質問することをすべて無視しました。
 「どうして英語は、1本のえんぴつを手に持っていますって言うんですか、一本とか一本以上とか分けて言わなければならないんですか」とか、「どうして私のときはラブなのに、彼のときはラブズって言うのですか」「私がというときはIで、私のというときはmyになるのはなぜですか。どうしていちいち私が私がと言わなくちゃならないんですか。」という疑問質問をいっさい封じて「英語はそういうんだからだまって覚えろ」一本やり。せっかく芽生えた「異文化・異言語」への興味を抑えました。私はすっかり英語嫌いになりました。

 小学生に英語を教える先生、せっかく教えるならどうか英語好きの子供たちを育てて下さい。自分たちとは違うことばの仕組みがあること、いろんな文化がそれぞれに大切であること、多様性こそが豊かさを生み出すこと、いろんな文化が交流してよいところを影響し合ってこそ新しい文化が生まれてくること、ことばを通じて教えられることは山のようにあります。

<おわり>
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