2006/12/09 土
ニッポアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(1)
春庭コメント、コピー&ペーストの第3弾。
今年の春、m*************さんから、英語教育について春庭の考え方を問うコメントがありました。
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四ヶ月間ですが、この秋に「母親のくせに」娘をおいて単身赴任する予定の私としては、ちょっと緊張しながら興味深く読まずにはいられませんでした。ところで、小学校に英語が導入されるのでしょうか、どう思われますか?
投稿者:m************ (2006 3/27 23:32)
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m*************さんのbbsに、春庭の回答を書き込みした文章をコピーペーストします。
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(2006-03-28 21:42:26 )
(小学校英語教育導入への考えを述べよ、というコメントに対しての返信)
春庭へのコメントありがとうございます。
中学生への国語教育を3年、留学生への日本語教育を20年担当してきましたが、小学校教育については門外漢で、適切なことを述べることができませんが、以下、思いついたことをコメントします。
小学校5年生6年生に英語教育を導入していくという方針が答申されましたが、私自身は、小学校英語教育については、慎重派です。(試験導入されている現行のままのカリキュラムであるならば、という範囲ですが)
母語の習得について、現在の国語教育が十分に基礎を固めているとはいえない情勢であり、やみくもに英語教育を取り入れても、公教育で週に1時間か2時間程度の英語教育を行っても、それほどの成果はあがりません。
週末に塾などに行ける層とそうでない層の格差をひろげるだけのような気がしています。
「英語に親しむ」という程度の小学校教育であるならば、教科として位置づけるのではなく、国際交流プログラムなどの充実をはかり、英語だけでなく、中国語や韓国朝鮮語、またスペイン語ポルトガル語など、多様なことばとのふれあいを体験させることのほうが意味が大きいと思います。
また、中学校の英語教育を現在のカリキュラム指導法のまま、受験のための英語教育を続けるのなら、小学校に英語を導入しても、今とそれほど変らないのではないかと思います。小学校に英語を導入する前に、中学校英語教育の授業をもっと充実させてほしいと思います。
大学入試のヒアリング試験も拙速の感がありました。
語学教育にはさまざまな意見があり、さまざまな教授法が試みられていますが、子どもは教育実験の道具ではないのです。
英語ができない大人達が、英語コンプレックスの裏返しとして「早期英語教育導入」を言い出したような気がします。
<つづく>
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2006年12月10日
ぽかぽか春庭「小学校英語教育(2)」
2006/12/10 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(2)
子どもたちに「もっと本を読め」という前に、家の中で、大人が本を読んでいる姿を見せていれば、子どもは自然に本好きになりますし、「英語をおぼえろ」と子どもに強制する前に、大人が英語覚えたらいいのに、と考える次第です。
早期英語教育が一概にダメというのではないのですが、私には、子どもたちの母語能力衰弱のほうが、案じられてなりません。
春庭「いろいろあらーな」2月3月の「言語学復習」に、語学教育についてのコメントもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。
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(m***********さんbbs書き込みにつづけて考えたことをメモしておきます。)
現在、全国の小学校で何らかの形で英語教育を導入しているところは、90%にのぼっています。しかし、英語教育を行っている小学校の指導者たちのほとんどが「現行のカリキュラムでは、十分な英語教育が実施できるとは思えない」という懸念を表明しているのだそうです。
ひとつには、「小学校英語教育」を担当する教員養成コースが整っておらず、小学生を対象とした英語教育を行える人材が不足していること。
これでは、よい人材をそろえられる学校とそうでない学校の英語教育に差がつくばかり。
なんら具体的な提案はないまま、小学校英語教育が見切り発車のかたちでスタートしようとしているのです。
日本語を母語とする人々にとって、日本語は思考の源、文化の根元です。
しかし、大学で日本語学を教えている教師のひとりとして、昨今の日本人大学生全般の日本語能力の衰弱化は、将来を憂えるに十分だと考えています。
「英会話ができる」、以前に、社会に対して日本語で自分の意見が述べられるのか、日本の歴史について質問を受けたときに、歴史を解説し、なおかつ自分の歴史観をふまえて相手と意見を闘わせることができるのか、日本語言語文化をどれだけ受容してきたのか。
日本語できちんと自分の意見が言えない学生を育てておいて、「英語でディベートしましょう」と言い出しても、コミュニケーション能力は伸びない。
日本人は1億人が英会話コンプレックスになっているけれど、日常会話程度をペラペラできたくらいでは、コミュニケーションにとって、大きな意味はありません。
「マクドナルドへ行きたいが、どこにあるのか」なんて、アメリカ式の発音ができなくたって、絵を描いたり、身振り手ぶりでコミュニケーションできるのです。
ロンドンのおみやげ屋の店員と「あんたのおつりの計算の仕方はまちがっている」と、ケンカしたいときは、だまって、紙に計算を書いて見せたらいい。
日本へ来た英語圏観光客に、「英語で道案内のひとつもしてやれたら、得意な顔ができるのに」、と思っている人もいます。
英語だけじゃなく、せめて国連公用語の、中国語、アラビア語、スペイン語、フランス語、ロシア語プラス、お隣の朝鮮韓国語で、どの町にも案内表示を出してやったらいいじゃないですか。さらに私の希望を言えば、世界共通語をめざして発明されたエスペラント語の普及を。
<つづく>
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2006年12月11日
ぽかぽか春庭「小学校英語教育(3)」
2006/12/11 月
ニッポニアニッポン語教師日誌>小学校英語教育(3)
自分の子が、隣の机に座ったラテンアメリカ人クラスメートをいじめているのを、見てみぬふりする。近所にすむアジア人の一家に対して「ゴミ出しのルールを守らなくて困るわね」と、文句だけ言って、ルールを教えてやることもしない。
それでいて、「うちのぼくちゃんは英語塾に通っているから、英語ペラペラの国際人になれる」と思っているような人がいることも確か。
国際人として育てたいという時代の要請にとって、日本の小学生に一番必要なこと。
2年間早めにABCを書けたり、「ハロー」と言えるようにしてやることじゃ、ありません。
必要なのは。
世界中に、たくさんの国があり、たくさんの文化があり、お互いの違いを知り合いつつそれぞれを尊重できる人間に育てること。
小学校で英語教育を行うなら、まずは「世界中の人と仲良くするにはどうしたらいいのか」という教育からはじめてほしい。
近所に韓国の人や中国、インドなどアジアや、他の外国から来た人が住んでいる地域であるなら、交流をふかめお互いに理解を深めるところから、外国語教育もはじまると思っている。
外国人とビジネスにおいて、英語で渡り合いたいと願って、英語を学ぶと言う人へ。
自国の文化について語ることもできないビジネスマンは、「経済的動物エコノミックアニマル」としか遇されず、他国から人としての尊敬を得ることはできない。
人として信頼されず、対等に渡り合えないのなら、経済的動物として扱われ、経済活動の餌食になるだけです。
英語教育は大切です。でも、大切な教育であるからこそ、目先のカリキュラムを追うだけでなく、国家百年の計をたてて、国の大切な予算を使ってください。
現状のままの教育基本法で具体的な問題点は何もないのに、「憲法理念にもとづく教育基本法」を変えてしまおうとする政府。
「自主的に行動できる人間を育てる」と、うたいあげていたはずの文部科学省が率先して「タウンミーティングでやらせ質問」を行った。
教育基本法を変えるべきだ、という政府の方針に沿った質問をするよう、あらかじめ「サクラ」役の質問者を決めておき、文部科学省側が作成した質問を行わせ、謝礼金を支払ったそうです。
つまり、文部科学省がみずから「ウソをついてでも、自分の主義主張が通るように細工をする」ことを、子供たちに教えたことになります。
文部科学省がウソを率先して行う国で、これから育つ子供たちは、どんな子供に育っていくのでしょうか。
「うん、英語は得意だよ。ぼくの英語力、ハウ マッチ」と、何でもお金に価値換算して、お金があることが善、相手より武力で勝れば正義、ウソをついても自分の方針を押しつけることが「よりよい教育」ということになっていくのではないかと、不安です。
<おわり>
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2009/02/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(1)英語教育について
伝えていきたい日本語の豊かな表現力。しかし、若い人々の日本語能力の衰えについての懸念が広がり、さまざまな論議が為されています。
水村美苗さんも2008年に出版された著作の中で日本語の将来について独自の論を展開しました。春庭は水村さんの論にうなずくところと「いやそれは違うんでないかい」と思うところもあり、英語教育について再考してみました。
小学校英語教育についての現場教師アンケート結果が2種類あります。ひとつは教育委員会が調査した結果。もうひとつは民間の出版社が行ったもの。結果に大きな隔たりがあります。
教育委員会の調査では、2011年からの小学校英語必修化の準備段階アンケートで「必修化に不安を感じている」と答えた小学校は20%にとどまっていました。ところが民間の調査では抽出された500校のうち、53%、半数以上の小学校で「2011年の必修化に不安がある」と答えたのです。(2009年2月09日朝日新聞の報道による
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080137.html )
なぜこれほど大きな差がでたのでしょうか。教育委員会のアンケートでは、委員会が期待している結果が最初から決まっており、結果に適合する回答が報告されるからです。
民間の調査(旺文社の実施)のほうこそ、気兼ねのない本音が出たと言えるでしょう。小学校の現場では半数以上が現状での英語教育導入に不安を持っている、という結果を重く見るべきだと思います。
現状では、小学校での教育に地域格差学校格差が広がるのみです。
この二つの調査結果の乖離は、公教育の精神的荒廃を見事に示しています。最近の義務教育の場において、校長は教育委員会の目の色をうかがい、教師は校長の顔色を読むことに汲々として保身ひとすじに動いている、という元同僚らのことばを裏付ける調査です。
私は公立中学校国語教師を3年でやめてしまいました。校長のパワハラに負けた結果で、今も悔いが残る人生の選択でした。でも、当時の同僚たちは、さまざまな試練を越えて、仕事をつづけ、今定年を迎えつつあります。
教員室で息を潜めるようにしてなんとか定年まで勤め上げた元教師達が伝える、教育現場のなんという荒涼とした教員室風景。私をパワハラで追いつめたS校長のような人物ばかりが出世し、生徒のためにと教育に邁進し、保身・出世を望まないような教師は「教育委員会のお達しに素直に従わないから」という理由で煙たがれる。教員室での会議は、校長からの上意下達のみで、意見をたたかわせることなど皆無。放課後、教員同士で教育について話し合うなどという光景は、もはや天然記念物並という。
そのような公教育現場の本音の声が「現状では小学校英語教育導入に不安がある」という声が半数ある、という結果となりました。高校で「英語授業を英語だけで行う」という文科省の指導要領改定案には、もっと多くの不安が出ています。
日本の英語教育は、これからどうなるのでしょうか。
英語教育についてのシリーズ10回連続です。10回続けて「ああつまらんことを10回も書き続けた」と思われないよう、最初から結論を書いておくので、つまらんと思うなら、時間の無駄だから、お読みにならぬよう。
(1)現状での小学校英語教育導入は、適切な指導者を確保できた学校とそうでない学校に、明白な格差が生まれる。
(2)英語だけで英語を教える高校のコミュニケーション授業は、一部高校だけが大学推薦枠を得るために、特別進学クラスを設置して成功するが、残りの大多数は、直接法による語学授業のなんたるかを理解もしないうちに失敗する。大学入学試験に取り入れることのないスピーキング能力向上をめざしても進学率は上がらないから、名目上は指導要領にしたがう授業を設置するが、実質は受験英語力強化に向かうであろう。
<つづく>
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2009年02月13日
ぽかぽか春庭「日本語が滅亡するとき」
2009/02/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(2)日本語が滅亡するとき
縄文語からの長い歴史をもつ日本語も、私たちが維持する努力を放棄したら、あっという間に「死語」になります。
現在の「世界的英語優先社会」の中で、「英語を使う人のほうが社会で有利な立場につける」ということになった場合、3代で日本語は英語にとって代わります。
若い父と母は、子のために「出来る限り、赤ちゃんのときから英語で話しかけ、私たちも英語で会話するようにしましょうね。学校はインターナショナルスクールにいれましょう」と、考えたとする。
英語がよくできるその子供は英語を駆使する高年収の職業につける。この子が家庭を持ったら、完全に最初から英語だけで子を養育し、3代目にして「日本語はわからない」日本人が育ちます。
『日本語が滅びるとき』の水村美苗さんの意見には賛成していない部分もありますが、彼女の杞憂はわかります。水村説が賛否両論ある部分は。
「英語は一部分のエリートが習得すればよい。大多数の凡人子弟は、日本語力をつけるために、近代文学の秀作を読みなさい」という水村の主張する部分です。
高校の英語教育について「英語で英語を教える」方法を採用する、と文部科学省が言い出しました。まったく、現場を知らない役人の考えそうなことです。
「英語は英語で教えるべきだ」とする高校の学習指導要領改訂案(2013年度から段階的に実施)は、「直接法ダイレクトメソッド」による言語教育の方法論をしっかりと考慮しているかどうか疑問に思えます。
文科省の役人は「会話を教えるとき、英語だけで教える」のを、どの程度の教授法として考えているのやら。「Let's talk about our family!」程度の指示をだしてやれば、話せるようになるとでも思っているのでしょうか。
現在の高校英語教育で、「日本語で説明された英語の授業」についていける高校生は半数。日本語で教えても理解できない英語を、英語で説明指示されて、ますます英語嫌いが増えないかと案じています。
現場の英語教師からは続々と「困った指導要領改革」という声があがっています。
文部科学省が本気で英語教育を変えたいのなら、第一に大学入試を変えなければ、現場の改革はできない。
なぜなら、「高校の英語をコミュニケーション力」を高めるものにしようと言っても、大学入試科目に「コミュニケーション能力・会話」がないなら、高校の授業は受験英語中心にならざるを得ないからです。
多くの高校にとって「どこそこ大学に何名受かった」ということが地元での評判を高め、受験者数を増やすための一番の方法であり、合格するためには、入試にない科目は「一応やっています」という名目的な授業だけになる。コミュニケーション英語に力を注ぐわけにはいかないという事情があるのです。
英検の会話試験程度の簡単なスピーキング能力のテストでも、ひとりひとりの点数を出そうとすると膨大な時間と人件費がかかる。まして、一生を左右する大事な試験になるかもしれない大学入試でスピーキングなどのコミュニケーション能力をテストするなら、その手間暇はたいへんな負担です。大学側は一般入試では「コミュニケーション能力」の試験は課さないでしょう。
AO入試や推薦枠でコミュニケーション能力を売り込もうとする一部の高校以外では、「英語で英語を教える」という文科省の指導要領は「お題目」で終わることは目に見えています。
<つづく>
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2009年02月14日
ぽかぽか春庭「40人クラスの英語」
2009/02/14
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(3)40人クラスの英語
コミュニケーション能力、表現力のつく「生きた英語」が必要だという意見は、すでに50年以上も英語教育界で叫び続けられており、中学高校でも心ある教師達は手弁当で英語教育研究を続けています。しかし、大多数の日本人は「実生活で役に立つ英語」とは無縁です。なぜなら、実生活で英語が必要ではないからです。日本は、大学院教育まで日本語だけで受けられる。修士論文博士論文を母語で書いて提出することができる世界でも数少ない国です。母語だけで社会生活全般が不自由なく進行できる。このような国は少ないです。
2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英(ますかわとしひで1940~ )博士は、受賞記念講演や記者会見も「私は英語ができません」と断って堂々と日本語で講演しました。通訳がつき、何の問題もありませんでした。英語ができないからといって、彼の研究「場の量子論」の価値が下がることなどありません。
中学高校でコミュニケーション能力を高める英語教育を行いたいなら、第一に大学受験から英語をはずすこと。これでだいぶ英語環境がよくなる。しかし、現実には「受験英語」が受験生を「偏差値で振り分ける」ための重要な道具となっており、文系理系双方で、英語を受験科目からはずすことは難しいでしょう。大学は今、世界的な評価システムに耐える内容を整えるべく、生き残りに必死です。論文引用数などで評価が行われています。世界的に価値の高い研究者によって価値の高い論文を生み出す必要があるのです。
そうでないと、世界的な高等教育戦争に負けてランクが下がり、独立行政法人大学(国立大学)でも倒産するところもでてくる。弱小私立大学の倒産はすでに始まっているという現況です。少しでも「高い能力をもつ学生」を確保することが生き残り策となる。
大学は偏差値の高い学生がほしい。高校は少しでもランクが上の大学に生徒を合格させたい。だから、受験英語はなくならない。コミュニケーション重視の英語教育を中学高校でやりたくても、大学受験が変わらない限り無理であり、大学は現在の受験体制を強化する方向へ進むことがあっても、自分たちの首を締めるような「うちの大学の受験者レベルが下がってもいいから、高校では実生活に役立つコミュニケーション能力を身につけてほしい」とはならないのです。
ある大学英語教育の研究者は、「少々英会話ができるくらいの中レベル学生より、文法を確実に身につけてきた高レベル学生のほうが、大学でコミュニケーションスキルの向上が著しい」と言っており、その結果を覆す研究が出てこない限り、「少しでも優秀な学生にうちの大学に呼び込みたい」という大学の方針は変わらない。大学受験が変わらなければ、高校英語の内容は変わらない。いつまでたってもいたちごっこです。
国内の日本語教師の多くは「直接法=ダイレクトメソッド」で日本語教育を行っています。私も基本はダイレクトメソッドですが、大学院留学生クラスなので、英語が媒介語として使えます。直接法に少々の媒介語を混ぜた「中間的ダイレクトメソッド」です。日本語だけで日本語を教えるのは難しいことなので、厳密な直接法よりはだいぶ楽ができます。
全員にわかる媒介語があるとき、その媒介語を利用せずに教えるのは効率が悪い。全員が日本語という媒介語が使える教室で英語を教えるとき、日本語を利用せずに教えるのは無駄なことなのです。
できる限り教師の英語をクラスの学生に聞かせることが必要な時代もありました。ビデオもインターネットもない環境での教室では生の英語は教師にたよるしかなかったから、教師が英語を生徒に聞かせることは必要なことでした。しかし21世紀の今、さまざまな語学教育機器が利用できます。「英語だけで英語を教える」というのは30年前20年前にこそ必要なことだったでしょう。
英語教材の進化も著しく、パソコンを使った教材などを見ていると、すべての公教育現場に、これらの教材を配置して、生徒が自由にオーラル訓練を行えればいいのにと思います。
しかし、そういう教育予算はだしてくれない。第一、英語を1クラス40人で行うような無謀なことをやっていて、「コミュニケーション能力を育てましょう」などというのも錯誤はなはだしい。
コミュニケーション重視なら、語学教育は10人以内が理想的。人数がオーバーすることがあっても、せめて15人のクラスでおこなわなければなりません。英語教師を今の2倍3倍雇う気がないなら、「コミュニケーション能力を育てる英語」だの「英語で英語を教える」だの言うべきでない。
<つづく>
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2009年02月15日
ぽかぽか春庭「直接法ダイレクトメソッド」
2008/02/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(4)直接法ダイレクトメソッド
直接法のむずかしいところは、「学習者が知っている範囲の単語をつかって、学習者が習った範囲の文法だけをつかって教える」という点です。中学1年生相手に教えるとしたら、まだ100~300語程度の語彙しか知らないですから、その範囲の語彙を越えて話すことはできません。進行形を習う前の学習者に「食べています」という表現は使えません。日本語も同じこと。受け身形を習う前に「電車の中で財布を取られた」と教師が学生に話すことはできません。
「英語を英語で教える」という学習指導要領を考えた文部科学省官僚や指導要領を検討してきた識者たちは、ダイレクトメソッドをどのようにとらえているのでしょうか。教室のなかで日本語をつかわず、英語だけで教えるには、教授者に高い英語能力とティーチング技術が必要です。「英語だけで英語を教える」ということを有効に活用するためには、教師がダイレクトメソッドを十分に行える技量を持っていなければなりません。
語彙コントロール文型コントロールを行いながら英語を英語だけで教えていく技術は、簡単に身につくものではありません。自分が教える生徒が、どのレベルの語彙をどれほどの数、獲得してきているのか、どの程度の表現力をもっているのか、把握しつつコミュニケーション能力や表現力を伸ばしていくには、教える側も相当な訓練が必要です。
これまでは、日本の英語教師の多くが「英文学」専攻によって英語教員資格を得てきました。卒論修論を自分の力だけで英語で執筆できた英語教師はどれほどいるでしょうか。「英文学の卒論を日本語で書いた教師」だと、文学を語るには有能でしょうが、中高レベルの英語教育には文学的素養が生かされません。初級中級レベルの英語教育は、文学教育ではなく、基礎語学教育だからです。
ある生徒には「この文学的な美しいリーディング教材を与えたら、興味を持ってどんどん英語を読むようになった」とか、ある生徒は英語の歌を覚えることがきっかけになって英語を学びだした、という個々の実例ではなく、全国300万人の高校生にとって有効な教授法でなければなりません。日本全体の高校教育での指針をあげるのが指導要領ですから。
新指導要領がめざす高校授業で「英語で英語を教え、コミュニケーション能力を高める」なら、まず第一に、現在高校の英語教師のうち、英語でディベートができる教師はどれくらいいるのか、英語の映画を見て、字幕を見ないで完全にセリフが理解できる教師がどれくらいいるのか調査をする。それもできないで英語を直接法で教えようとするのは無謀です。
直接法を行うには、教授者はネイティブスピーカーと同程度に当該言語に習熟している必要がある。教える者がその言語でディベートもできないのに、生徒に英語でコミュニケーション方法を教えようとするなど、笑止です。海外旅行の買い物や道案内に役立つ程度の英会話なら、ダイレクトメソッドでなくても教えることができる。
「聞く話す」が完全にできる教師を集めて「直接法」の教授法をたたき込む。今年からこの訓練を高校の英語教師に必修として課し、2013年までに高校英語教師が直接法によって授業できるようにしなければなりません。
大事業ですが、教師の研鑽にもなることです。予算は大がかりになるでしょうが、文科省は、言い出したからには実行してほしい。まさか、教師の直接法習得予算もなしに、「英語を英語で教えましょう」などと、言い出したわけではないでしょう。国民ひとりひとりに1万なにがしかのお金をばらまく余裕があるのですから、将来を担う子どもたちの教育のためには、財源をしっかり確保し、惜しみなく教育に予算を使ってほしいです。
ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にもさまざまな問題があります。
<つづく>
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2009年02月16日
ぽかぽか春庭「日本に来たばかりなので」
2008/02/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>英語ぺらぺら(5)日本に来たばかりなので
ATL(Assistant Language Teacher:外国語学習指導助手)の採用にも予算はたっぷりほしいです。
高いスキルを持ったALTを各校に配置するのはこれまた大変です。現在日本にいるALTのうち、第二言語教育としての英語教授法を学んできた人は多くない。ネイティブで英語ができるから、というだけで採用されている英語話者もいます。しかも、ある地方では、英語が母語であったアフリカ系米国人ではなく、「西洋人っぽく見えるから」と、英語が母語でないイタリア人だったかスペイン人だったかが英語教師に採用された、という話を聞いたこともある。
イタリア人の英語がまずいということを言いたいのではありません。英語が上手なイタリア人も大勢います。でも、ALTの採用について、これまでのような「とにかく数を間に合わせる」という方法では困る、と思います。国として「学習指導要領」にのっとって教育を行うなら、それなりの予算を組んで、全国どこの地域の生徒にとっても不利にならない教育を行うべきだ、と思うのです。
ATLが、現在の「会話授業」などで補助的にクラスで教えるならともかく、文科省が学習指導要領に明記して「英語による英語会話」授業を行うなら、第二言語教授法を身につけた教師、直接法の指導に長けた教師、第二言語教育の指導法を知っているATLを雇う必要があります。
文部科学省の学習指導要領の「英語で英語を教える」という方針は、現状のまま移行しても、「絵に描いた餅」に終わるでしょう。
現在の日本の日本語学校には、英語が得意な日本語教師、中国語ができる日本語教師も多い。しかし、さまざまな国から来ている日本語学習者を相手にするとき、何かひとつの言葉で日本語の説明をしてしまったら、その言葉がわかる者以外には教師が何を言っているのかまったくわからない、という事態になります。英語ができない日本語学習者も大勢いる。だから、日本語だけで日本語を教えていきます。この「ダイレクトメソッド」教授方法の習得にはいろいろな訓練が必要です。
直接法の教え方について、課題に取り組んでみてください。
私の受け持っている留学生の授業は大学院進学や研究者のためのクラスなので、全員英語ができる学生ばかりですが、今期ひとりまったく英語がわからない人が在籍しています。中国内蒙古の大学教師をしている方です。彼はモンゴル語と中国語のバイリンガルですが、英語はまったくできません。直接法で教えた後、学生が文法や単語の意味についての確認の質問を英語でしてきたとき、できる限りは彼らに理解できる範囲の日本語で、補助的には英語で答えていますが、そのあと、黒板に漢字で書いておくなどの工夫をしています。理解力が高いので、積極的に質問もしてきます。
2月12日の授業での彼の質問。
会話のなかに、「日本に来たばかりなので、まだ日本語がよくわかりません」「食べたばかりなのでおなかがいっぱいです」という文が出てきました。彼は疑問をぶつけてきました。「『食べたばかりなので』という部分、『食べたばかり』は、食べることが終わってすぐ、です。『ので』は理由や原因、「因為~」です。この意味はわかります。『ばかり』と『ので』の間にある『な』は、何ですか」という質問でした。
さあ、直接法で、この『な』はどんな意味をもつのかと、彼に説明してみてください。直接法で教えるというのは、日本語だけで、日本語がまだよくわかっていない人に、きちんと日本語のしくみや会話の表現を理解させてやれるということです。英語もしかり。
「なんでもいいから、出てきた文をまるごとセンテンスとして暗記しろ」という教授スタイルの先生もいます。それもひとつの教え方です。まるごと暗記で簡単な会話なら身につきますから。しかし、内蒙古の大学でモンゴル語母語話者の学生に中国文学を講じている彼にとって、この「な」は何なのか、という疑問にひっかかると、先に進めないのです。
私も「一度疑問をもってしまうと先にすすめない生徒」でした。「なぜ、英語は1個の林檎はアップルで2個以上はアップルズになるのか?」ということにひっかかって先に進めないまま、英語オチこぼれになりました。なぜ英語に単数複数の区別があるのかわかったのは、2度目の大学生になったとき、英語教授法の先生に教わってから。単数複数については
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nippongo0603b.htm
をお読みください。
<つづく>
05:20 コメント(6) 編集 ページのトップへ