にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「諡、しこ名、源氏名」

2008-10-14 07:25:00 | 日記
名と色のニッポニアニッポン言語文化散歩
「名前について」

at 2004 02/09 07:04 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)①」

 02/04に、雄略天皇は、自分の名を後世の人が「ユーリャクテンノー」と呼ぼうとは、まったく知らなかった、と書いた。雄略天皇という名は「諡名(おくりな)=死後に贈る名前」である。
 また、天皇=スメラミコトという称号は、後世「大王おおきみ」に代わる称号として採用されたもので、雄略天皇が実在していた頃には、スメラミコトもテンノーもなかった。

 雄略天皇は、中国の歴史書にその名が見える、倭の五王のうちの「武」と比定されており、実在の大王とされる。
 『古事記』に書かれた、大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)という名の「長谷」は、宮号。彼の宮廷の所在地の地名である。おくり名の意味は、長谷(現在の桜井市)に朝倉宮を建てた若(美称)タケさん。

 『古事記』に名を書いてある中の最後の天皇は、聖徳太子が摂政をつとめた女帝、推古天皇。
 名前は、額田部(ぬかたべ)のヒメミコ。ぬかたべヒメミコは、第30代敏達(びたつ)天皇の皇后だった。
 死んだのちの名前、漢風のおくり名は「推古天皇」和風のおくり名は、豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)。

 天皇一族、蘇我一族が殺したり殺されたり、血で血を洗う権力闘争を続けていた時代。第32代崇峻(すしゅん)天皇が592年、蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された後、日本初の女帝(第33代:在位 592~628)として即位した。

 『古事記』は、推古天皇の陵墓が、元は大野の丘(奈良県宇陀郡)にあったが、科長(しなが)に移された、という記載で全巻を閉じる。

 『古事記』最初の天皇として名があるのは、神武天皇。またの名は、「ハツクニシラススメラミコト(国をはじめて統治した天皇)」
 しかし、神代に、「ハツクニシラススメラミコト」という名をもつ天皇はもう一人いる。
 初代の神武と十代目の崇神の両者が同じ「ハツクニシラススメラミコト」の称号を持っている。どっちがほんとの「国をはじめて統治した天皇」なのか。あるいはどちらもちがうのか。

始馭天下之天皇(神武)<神武紀>
御肇国天皇=所知初国之御真木天皇(崇神)<崇神紀>

 私は『古事記ふることふみ』を文学として扱い、神話学的に学んだ。この中の記述をそっくりそのまま歴史的記述と扱うこともしない。
 もし、古事記や日本書紀の記述を「歴史学」の分野の文献として扱うなら、厳密な検討が必要だと思っている。考古学、文化人類学、民俗学、民族学、中国文献学、言語学、あらゆる手段でテキストは検討されなければならない。その中で、歴史記述として扱える部分もあるだろう。

 しかし、私にとって、『古事記』は、第一に「日本語言語文化」の「作品」である。語り部稗田阿礼一族が代々語り伝えることを家のわざとし、それを太安万侶が筆記したと伝えられるのが『古事記』
 文字として記録される際に、当時の先進文化国家中国の影響が入り込んだことは当然のことだろう。中国の文化を中心に受け入れていた時代であり、なによりも記述された文字が中国の漢字転用であったのであるから。

 自分の国の歴史を外国語(漢文)で記録した日本書紀に対して、古事記は、文字は漢字であっても、日本語を日本語そのままに表記するべく工夫して記録された。稗田阿礼の口承伝承が、文字にされるとき、どのような変換がおこったのかは、中国文献やアジア各地の伝承との比較など、さまざまな見地から研究が行われている。

 春庭は、古事記を共同作業による文学作品として、記述そのままに扱う。「うさぎがワニの背を飛んで海をわたった」と書いてあるなら、そう書かれるべき必然があったのだ。
 コノハナサクヤヒメは、火をはなった家にとじこもって出産したと書かれている。同様の伝承がアジアオセアニアなどにどのように分布しているのかという観点の研究は必要だ。

 だが、私はこの国の伝承として、阿礼がそれを言い伝えたとされていたこと、それをどのように脚色したにせよ、わが国の伝承として採用された、ということを重んじる。
 太安万侶が日本語の記録として、日本語の言語文化として編集採用したことを尊重する。

 和辻哲郎は、『日本古代文化』の中で、
 「記紀の材料となった古い記録は、たとえ官府の製作であったとしても、ただ少数の作者の頭脳からでたものではない。弥生式文化の時代からの古い伝承に加えて、3、4世紀における第2次の国家統一や、5世紀における国民の発達の間に、自然に囲まれてでた古い伝説が、6世紀を通じて無数の人々の想像力により、この時代の集団心に導かれつつ、漸次形を成していったのである。
 奈良期に至って、最後に編集される際に、特に明白な官選色彩を帯びさせられたとしても、それは、物語の中核をまで変えていない。」
と述べている。

 私はこの和辻の考えを支持するものであるが、ただ、記紀の記述を扱うには先に述べた厳密な科学的探求が必要だと思っている。

 神話や伝承は、世界各地に共通の要素がたくさんある。近年の比較神話学や文化人類学などの研究成果により、各地伝承の「国の出来はじめ」「人類のはじめ」「人間が火を使えるようになったときの話」「人が死すべき存在であるのはなぜか」などの記録や言い伝えが、比較検討され、分析されている。<つづく>

春庭今日の一冊No.98
(わ)和辻哲郎『日本古代文化』(岩波書店)


at 2004 02/10 21:34 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)②」

 「出雲の国譲り」神話。2/6に書いた「葦原醜男」の大国主命が、高天原系のカミに恭順し国を譲った話である。最近までこの出雲王朝は架空のものと言われてきた。

 出雲地方の考古学的研究が進み、多数の発掘物が出てくるに従い、現在では、出雲に大きな政治勢力が存在したことが明らかになっている。ヤマト地方や吉備地方の政権との抗争についても、さらに研究が進んでいくだろう。

 しかし、「因幡の白ウサギ」や「海幸彦山幸彦」などの神話は「神話」「伝承」「お話」として扱うことを気にしない人も、神武天皇などが登場したトタンに、それを「伝説」「おはなし」として、書かれたことを客観的に扱うことができなくなったりする。「天皇家の祖先である」という一点をもって、この記述を客観的に扱おうとすることに異議を申し立てるのだ。

 きちんとした比較検討分析の結果うちだされる結論を、私は尊重する。たとえば、大王のおくり名。
 津田左右吉は、言語学的歴史的に、初代からの天皇の名前を調べ上げ、比較分析した。

 古代の天皇の諡名は、後世になっておくられたもの。津田は、初代からの天皇おくり名を後世の天皇の名と比較し、「9代までの天皇は実在せず、後世になって名前を作り上げられた架空の天皇である」という結論を導き出した。

 天皇が神として絶対の存在であった戦前に、歴史の真実を追究しようとした津田。現在では、津田の研究方法にもさまざまな批判点や反論が出ているが、真実を追究することによって研究生命どころか、実際の命までも失いかねなかった時代に、研究の方針を曲げなかった津田の姿は評価されてよいと思う。

 津田は「天皇不親政が日本の伝統である」と考えた。この考えは「大逆思想」とみなされ、攻撃を受けた。そして津田の古代・上代史に関する著書は「皇室ノ尊厳冒涜云々」と批判され、出版を手がけた岩波茂雄とともに裁判にかけられた。

 しかし津田は裁判闘争を通じて自分の信念を披瀝し、自分は「立憲制にのっとった天皇を敬愛していること、天皇が自ら政治に関わるのは、この国の伝統的なありかたではないこと」を述べた。

 津田左右吉の研究に興味ある人は、下記の本をどうぞ。

春庭今日の一冊 No.99
(つ)津田左右吉『神代史の新しい研究』1913 (『津田左右吉全集所収』)

 津田に対する反論も様々に出されている。しかし、「神武から開化までの9代は、実在していない」という研究に対する反論が、決定的な証拠をともなって出されたことはない。
 牽強付会の「とんでも歴史学」では、いろんな説があるだろうが、科学的な、考古学民俗学民族学、比較社会学、言語学などの立場からの記紀研究、また考古学、古墳や陵墓の研究、中国文献の研究などの見地を総合して、津田左右吉の理論をくつがえしてしまえる有力な研究はない。

 「神武天皇は実在しなかった」この歴史的事実を覆すだけの科学的な根拠があるなら、おおいにその学説を世に問うべきである。根拠がないなら、とんでも学説をひっこめてほしい。

 津田が「実在しなかった」と結論づけた神武天皇。
 『古事記』での名は「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト」。神武の名として、数種類の名前が記紀中に記載されている。

若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)
豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)
神日本磐余彦天皇 カムヤマトイワレビコ 
始馭天下之天皇 ハツクニシラススメラミコト 
宇禰備能可志婆良能宮御宇天皇ウネビノカシハラノミヤニアメノシタシロシメス など。

 記紀の記述を「歴史学の基礎文献」として扱うなら、厳密な科学的分析が必要だ。
 たとえば、漢字の伝来について、古事記応神紀に百済の和邇吉師が論語や千字文を貢進した、と書かれているが、これをそのまま「漢字伝来の歴史」として扱うことはできない。 応神の時代に千字文は成立していなかったことをはじめ、検討すべきことは多い。
<つづく>

at 2004 02/12 08:16 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)③」

 2月11日を「建国記念日」という名の祝日にしたのは、ヤマトの大王カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が即位したという日本書紀の記載からである。奈良県畝傍山の橿原に宮を建て、辛酉年春正月庚辰朔の日に即位した、とある(西暦では紀元前660年)

 最新の考古学的調査では、弥生時代のはじまりはおおよそ紀元前800年くらいとされている。
縄文から弥生時代への移行を決める主な指標は、稲作が行われたことを示す遺構遺物。弥生式土器や縄文式土器を調査する。土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法で調査し、稲作の本格化、弥生時代の始まりは「紀元前800年ごろ」と測定されている。

 その意味では、紀元前660年という神武即位の年代は「縄文時代から弥生時代になったころ」の記憶の残りなのかもしれない。
 
 しかし、前回のべたように、ヤマトの統一王朝をたてた大王としては、神武は認められない。あらゆる見地の研究からいって、初代から9代までの天皇は、後世その名を作り上げた者である。

 もちろん、自国の成り立ちをそのようにして作り出さなければならなかった諸事情というのは、理解できる。

 圧倒的な力をみせる中国大陸の勢力、国内大小豪族との抗争、その中で、天皇一族が、全土を統一支配することの正当性を主張するには、記紀が書かれた年代からはるか千年以上遡って初代を想定する必要があった。

 神武即位を、具体的に前660年とはっきり年をいいきっているには理由がある。辛酉の年に大きな出来事が起こるという中国の思想にあわせて算出しているのだ。大きな出来事が起こる年(辛酉)の正月元旦(太陰暦)の即位。

 この元旦を太陽暦になおすと2月11日にあたる、として、この日を「紀元節」に定めた。この日をそのまま現代に「建国記念日」としたのが、今の祝日。

 歴史への考え方、さまざまな立場があろうが、私は、カムヤマトイワレビコ(神武)の実在が歴史上で証明されていない以上、神武天皇の即位日を「建国記念日」と定めることは、子供たちに「歴史のうそ」を教えることになると考える。

 民族の古い記憶の表現として「神武即位」を「あるひとつのお話」として伝えるのは桃太郎の話を伝えたり、浦島太郎の話を伝えるのと同じになされてよい。
 だが、私たちの祖先はヤマト族だけではない。エミシもワニ族も、ハヤト族も皆この国土に住み続け、それぞれの土地を愛してきた。

 ヤマト族の長の伝承をヤマトスメラミコト一族が「初代」として採用したからといって、それを現在の「歴史的な建国の日」として採用するのは、多様な重なりを受け入れてきたこの国の多種多様性、様々な要素が重なり合う豊かな文化の伝統を否定することにつながる。

 明治国家と学校教育が、この「神武即位神話」を「紀元節」として採用したのは、まさに多様性を否定し「国民全員がひとりの天皇の子孫として、単一民族として存在する」という意識を植え付けるためであり、国民を一丸として同じ方向に向けて行動させるための装置であった。

 わが島国、花綵(はなづな)列島は、紀元前660年を「建国の日」と限定してしまえるような、矮小なものではない。もっと広く深い国土なのである。

 どうしても戦前の「紀元節」の日を祝いたいのであれば、「神話の日」「ハツクニシラス伝説の日」とでも、名付けてほしい。祝日がほかにない2月に休める日があるのはありがたいが、子供には歴史の真実を伝えたい。

 そもそも、世界の中で、「建国の日」を定めているのは、「植民地であったが、独立した」という日を持っている国が多い。
 アメリカ独立記念日は、イギリスからの独立を決めた日。植民地の最高議決機関である大陸会議で独立宣言が採択され、議長が署名したのを記念する日が7月4日。

 また、現在の政権が樹立した日をもって建国の日とする国も多い。
 文書に記載された分だけで、4千年の歴史をたどれるという、お隣の中国で建国を祝うのは10月1日、国慶節。1949年10月1日の現政権の中華人民共和国の正式建国宣言の日。

 日本のように歴史の古い国が「建国の日時」を定めることには、そもそも無理がある。記紀以来の長い歴史を誇りたいのであるならば、むしろ、「建国の日はこの日である」などと、定めないほうがよろしかろう。
 はっきりした「建国の日」を祝いたい人におすすめ。植民地から独立した日を祝うのが世界的傾向の「建国の日」である。ゆえに、オキュパイドジャパン(占領軍支配下にある日本)が「ただのジャパン」に戻った日でも祝うがいい。

 いつが建国の日と、決定できないほど古い歴史をもっている国であることを誇るほうが、「実在しなかった人を初代天皇と決め、後世にその名を作り上げられた天皇が即位した日だから、建国記念の日」として定めるより、よほど名誉なことではないだろうか。

 私は『古事記』を卒論として最初の大学を卒業した。神話の記述や風土記の記載、祝詞のことばなどに、愛着がある。自分の母語が「記紀万葉」の言語文化を持つことを誇りに思う。
 二度目に卒業した大学では「日本語学」を専攻した。日本語、日本語言語文化を愛し、誇りに思う気持ちは他の人におくれをとらないつもりだ。

 だから、記紀も万葉も、誇るべき日本語言語文化として、大切に伝えたい。歴史の真実をねじ曲げてまで、「建国の日」と定めなくても、私は十分に古事記や万葉集をもつこの国の歴史を愛し、誇りに思っている。

「アイヌユーカラ」や「おもろそうし」などと並んで、記紀万葉も私にとって大切な言語文化のひとつである。

春庭今日の一冊No.100
(も)本居宣長『古事記伝』

at 2004 02/12 23:07 編集
「大王の諡名(おおきみのおくりな)④」

 『古事記』冒頭にイザナギイザナミ国生み神話がある。古代人にとって「祭祀(政事まつりごと)、軍事、生産」の三つは最重要事項であり、生産にとって「生む」ことは最大の関心事でもあった。

 文学としての古事記にとって、その魅力の大きな部分は「古事記歌謡」である。古事記最初の歌謡は、出雲におけるスサノオとクシナダヒメの神婚の際のうた。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 「八重」の音が繰り返され、のびやかでおおらかなことばの広がりの中で、「妻をこもらせるために」と歌い上げ、妻となるクシナダヒメを「隠所に起こして(くみどにおこして)=寝所で婚姻をなして」と、宣言する。

 結婚は生産再生産を左右する重要事項であり、世界各地の神話伝承伝説に、神の結婚は大きなエピソードをなしている。また、生産をつかさどる「大地母神」は、アジア各地の神話やエジプト、ギリシャ神話にも。ヨーロッパで出土するおなかや胸の大きな「ビーナス像」と呼ばれる像、日本の胸を強調した土偶なども、女性の生産力への信仰の現れといわれる。
 古代ヨーロッパの大地母神は、キリスト教浸透のちは聖母マリアの中にも、マグダラのマリアにもその面影が残されている。神の子を宿した聖母と、多くの男に身をまかせる世界最古の職業についていたマグダラのマリアは、大地母神の二面性の表現である。
(大王のおくり名の項、これで終わり)

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 春庭今日の一冊100冊目は、本居宣長『古事記伝』を紹介したが、古事記を卒論にしたときの基本文献は、図書館で借りたものが多いし、買った単行本は売ってしまった。
 手許に残っている本はあまりない。
 宣長も手許にあるのは1960年筑摩書房古典日本文学全集の『本居宣長』くらい。津田左右吉は『日本古典の研究』上下二冊が残るのみ。
 西郷信綱、中西進、大林太良などを参照しながら「神話学的に」書き上げたつもりの卒論は大失敗作になったけれど、今でも記紀風土記古代歌謡が好き。

 今回、昔読んだ本を読み返すことはできなかった。電車の中しか読書タイムがとれず、電車本は文庫か新書に限るから。座っているときは重い単行本でもいけるが、立って読むには文庫がいい。電車の中では、たとえば、神野志隆光『古事記と日本書紀』などを読む。

 今回、昔読んだ著者で唯一読み返したのは、直木孝次郎。『日本神話と古代国家』のみ。これは、1960年代70年代の論文をまとめたもの。昔読んだつもりでも、すっかり忘れていることも多く、再読して楽しかった。

 たとえば、初出は1969年『歴史評論』の「日本「神話」にみる作為と変形」の中に、上田秋成や山片蟠桃、安藤昌益らが『古事記』記載を「史実として扱うべきでない」と江戸時代に論じていたことが紹介されていた。秋成といえば『雨月物語』、安藤昌益は「農本思想家」と思ってしまうから、古事記への言及について、30年前はまったく気にしなかった。
 私の根っこ、根元のひとつが古事記だと思う。radicalism古事記

春庭今日の二冊No.101102
(な)直木孝次郎『日本神話と古代国家』1990講談社学術文庫
(か)神野志隆光『古事記と日本書紀』1999講談社現代新書


at 2004 02/17 09:12 編集

源氏名

 「女房」とは、房(へや)を賜って働く、宮中の女官であった。
 紫式部は中宮彰子に仕えた女房、清少納言は皇后定子に仕えた女房である。

 定子と彰子は従姉妹であり、同じ一条天皇の后。寵を競うライバルでもあった。
 紫式部は『紫式部日記』の中で、清少納言のことを「あの人、知ったかぶりで、ヤナ女よ」と悪口を書いている。女同士の悪口陰口が千年の時空を越えて記録されている。

 紫式部の時代は、女官の呼び名は夫や父方の名字と身分によってきめることが、多かった。
 少納言の身分の家族を持つ清原氏出身の女官は、清少納言。式部の身分の家族を持つ藤原氏出身の女官は、藤式部(とうのしきぶ)。藤の色の紫と「若紫の少女」の物語を書いたことからついた呼び名は「紫式部」。
 また、通称として、住んでいる部屋や邸宅の名、出身の地名をつけて呼ぶこともあった。

 古代の女性の名前は、両親や夫以外には明らかにしなかった。物語の登場人物にも名前が書いてないから、物語を読むとき、読者は登場人物に呼び名をつけた。

 読者が「紫の上」と呼んだヒロインの本名は、物語の中にも書いてない。紫式部も「女君」「上」などと書いたのみ。本名をなんというのかは書かなかった。源氏物語の中の登場人物の名前は、読者が呼び慣わした通称である。
 主人公が詠んだ和歌の中の印象的なことばによって、通称がつけられり、住んでいた部屋や屋敷の名をつけたり。

 「源氏物語」冒頭の巻。光源氏の母は、宮中の桐壺に部屋を賜っていた。身分は更衣だったから、読者は、この人を「桐壺の更衣」と呼んだ。
 光源氏の年上の恋人、六条御息所は、京の六条に住んでいた。明石の地に生い育ったので、明石の上。その母をもつ娘が入内すれば「明石中宮」

 源氏物語が平安女性の「必読の書」になって以後、物語の中にでてくる地名や巻名から宮中で女房として働く際の呼び名を付ける人もでてきた。「早蕨典侍さわらびのてんじ」「榊命婦さかきのみょうぶ」など。

 また、時代が下って、武家の家内で働く女中のうち、格式の高い女性「老女」も、源氏物語にちなんだ名前をつけるようになった。源氏物語とは無関係のものもある。老女「政岡」「瀬川」など。

 太閤様のころ。京島原・伏見撞木町・大阪新町にある公認遊郭のお部屋に付けられた名前。一部屋ごとに、桐壺・若紫・帚木と源氏物語に因んで命名されたという。

 曲亭馬琴の随筆『燕石十種』の中に、ものの名前の由来について考察した文章があり、そのひとつに「遊女の名の由来」として、この話が書いてあるそうだ。(春庭、未読です。興味ある方、確かめてほんとかどうかおしえてください)

 部屋の主である遊女を、「夕霧の間に住む太夫=夕霧太夫」「浮橋太夫」などと呼ぶようになった。
 太夫は遊女の最高位。時代によって、また、京と江戸では呼び名が異なるが、太夫の下に天神、格子、散茶、端などがある。お端(おはした)女郎といえば、あまり位の高くない遊女を呼んだ。
<つづく>

at 2004 02/18 18:43 編集
「源氏名②」

 三浦屋「高尾太夫」「薄雲太夫」「花紫太夫」「几帳格子」「采女格子」、扇屋「夕霧太夫」、大黒屋「藤野」など、高名な遊女は浮世絵、錦絵にも描かれた。今でいうグラビアアイドルである。また、「吉野太夫」「高尾太夫」などのように代々受け継がれる名前もあった。

 維新以後、明治政府は「文明開化」の明治こそ新しき御代であり、江戸風俗はすべて「古くさいだめなもの」というイメージを浸透させた。
 現在は、江戸文化がさまざまな見地から見直されている。遊女を中心にした遊里文化もまた、江戸文化の大切な一翼である。

 私のひと世代上の人たち、私と同世代の人でも、遊女ときいただけで「いやらしい、下品な」と、眉をひそめる人もいる。だが、太夫と呼ばれるほどの遊女が身につけていた教養を知れば、彼女たちが現代に生きていれば、そこらへんの女子大生など足下にも及ばない知性を持ち、さまざまな技芸を身につける努力を怠らなかったことがわかる。

 遊女最高位の「太夫」はスーパースターといってよい。ただ、容貌が美しいだけでは太夫の地位にのぼることはできない、客あしらい行儀作法はもちろん、歌舞音曲、和歌俳句、生け花茶の湯、書道など、技芸全般を身につけていたのである。

 言葉遊びも遊里では人気の遊びだった。遊女が遊びの全部を受け持つのではなく、太鼓持ちなどが受け持つ部分もあった。しかし、丁々発止の言葉遊びを好む客がきたら、その客にあわせて、ギャグもパロディも本歌とりも、俳句も和歌も川柳もこなすのが太夫だった。

 江戸吉原の技楼主、結城屋来示(ゆうきやらいじ)の著作『吉原徒然草』に登場する言葉遊びのたぐいを並べてみると。
 「なぞなぞ、咄し、日待ばなし、おとしのはなし、落としのしれた咄、おとしのよき珍しき咄。地口、わる口、こ新しきぢ口」

 おとしのはなしは、今の落語に通じる面白おかしい話であろう。日待ばなしはどのような話であったのだろうか。人の悪口を機知をきかせて言い立てるのも言葉遊びの妙。地口はギャグ。一番単純なものが駄洒落。

 客が出した三題噺に機知を生かしてしゃれのめした返答をする。それで座をもたせ、客の心をなごませる。所望があれば、はやり歌、小唄、はうたをうたう。説教節やら浄瑠璃やらを三味線とうたを披露する。何の芸も持っていない現代の芸人に比べれば、月とすっぽん。最高の芸人である。もちろん、床上手も芸のうち。

 客は遊女にあうとき、はじめてのときは「初回」。酒を飲んで食べて、チップをばらまき、大宴会で金を湯水のごとく使う。第一回目はこれだけで帰る。「裏をかえす」二回目も同じ。飲んで食べてチップ払って大盤振る舞い。
 三回目にようやく遊女と二人だけの時間がもてる。<つづく>

春庭今日の一冊No104
(ゆ)結城屋来示『吉原徒然草』(岩波文庫)


「源氏名③」

 太夫は客の好みにあわせて、客が所望するさまざまな芸を披露する。客にとっては、このような位の高い遊女を座敷にあげることが、ステイタスでさえあった。

 太夫は、どのような身分の客とも、対等に渡り合い矜持高くふるまった。もちろん結局は買う客と買われる者の関係ではあるが、太夫には気に食わぬ客をふることもできたし、むしろ金を出す客のほうが太夫の機嫌取りに汲々とせねば、初会のために金を湯水のごとくつかわされても、裏をかえす(二度目に会う)こともできなかった。

 初会は「初対面」だけ。客は太夫の姿を近くで見ることができただけで、感激。それで帰る。太夫が客を気に入れば裏をかえす。裏でもぬかりなくチップもはずみ、万事に大盤振る舞いして、三度目にようやく太夫とふたりで差し向かい。

 太夫の揚げ代は、時代によってまた京と江戸でも異なるが、おおよそ銀90匁。(銀60匁が1両)。ただし、これは公式な揚げ代で、これを払うだけではだめ。太夫のまわりで働く人々へのチップ。飲食費用などすべていれると、だいたい一晩で10両は必要。

 江戸の1両の現代通貨への換算は、ちとめんどう。時代によって変動しているのはもちろん、何を基準として換算するかで異なる。
 現代の「一杯のかけそば」の価格と比較すると、1両はおよそ12~3万円分の蕎麦が食べられた。
 1両でお米が150キロ買えた。これで計算すると現代はお米コシヒカリが1キロ500円として7万5千円くらい。
 人が働いた際の賃金で比較すると1両では30~40万円分の価値がある。職人の一日分の賃金がおよそ銀1匁から2匁。30日間働いてもらう給料が1両前後だった。

 なんとか初会で大金使い、裏をかえして大盤振る舞い、三度目にようやく太夫とふたりだけの時間をすごせる。このときも蒲団新調代として何十両も必要だったり、もろもろの金がかかる。現代でいえば、一晩に何百万円か使うことになる。
 
 落語の『紺屋高尾』では、染め物屋の久蔵が高尾太夫に会うため3年間貯金をする。染め物職人として働いた賃金からこつこつ貯金し、3年で9両を貯める。あとの1両は親方に都合してもらい親方の服も借りて「お大尽」のふりをして太夫に会う。
 太夫が客を気に入らないときは一晩で終わり。しかし太夫は久藏が気に入り、次に会うのはいつか(裏をかえす日)をたずねる。

 久蔵は泣きながら「あと3年たたないと、会いにくる費用が貯まらない」と正直にうちあける。高尾は久蔵の純情に惹かれて年期があけたら夫婦になる約束をし、久藏の揚げ代は自分持ちにしてやる。
 晴れて夫婦になったあとは、ふたりして染め物(駄染め)の店を繁盛させ、幸福にくらす。いわば、吉原の「逆シンデレラファンタジー」

 庶民にとって、太夫は手の届かない高嶺の花だったが、庶民にも太夫の姿や名前にあこがれたり、ファンになったりする手段はいろいろあった。
 
 浮世絵のモデルになるのはもちろん、絵双紙や「吉原評判記」なども出版され、今だれがトップの太夫なのか、どんな顔立ちなのかなどを、江戸庶民は「グラビアクイーン」をながめるように、楽しんでいた。

 遊女の名前が「ブランド」になっていて、遊女の名を冠した「おしろい」や「紅」が売り出されたり、新しい髪の結い方に、売れっ子太夫の名をつけて「○○髷」などの名で流行したこともある。

 遊女の格にも上から下まであり、年期があけて遊女をやめてからの処遇もさまざま。
 太夫になって上層の客の相手をつとめ、27歳の年期あけ、あるいはそれ以前に客にひかされて、遊里から抜け出せる遊女もいれば、親兄弟や夫のために苦界に身を沈めたまま、浮かび上がることもできない者もいる。

 遊里に入っても身売りの借金がへるどころか、働けば働くほど、借金が増えてしまい、27歳すぎて吉原を出されたあとは、場末の私娼窟へ鞍替えするしかない女もいた。

 なぜ、働いても借金がふえてしまうのか。遊女の着るものやかんざしの類、身の回りの調度品日用品を買う費用は遊女もち。これだけでもかなりの出費。
 遊里から外へ出られない遊女たちは、江戸の相場より割高だとわかっていても、高い枕紙、高い髪油、高い小間物を遊里に出入りを許された特定の商人から買わざるをえなかった。
 売れっ子は客に買ってもらうこともできるが、お茶っぴきは、これらを自分で買うことになり、また借金がかさむ。

 また、遊里の決まりの中で、「紋日(物日)」という「必ず客をむかえる日」がある。この日は、かならず買われなければならない決まり。だから、客を迎え入れることができず、お茶をひいてしまったら、「自分で自分を買う」金を払わなければならない。売れない遊女は、紋日のたびに自分を買う金をださなければならず、どんどん借金がふえる仕組みになっていた。

 若くして病気にでもなって死んだとき、無縁仏として葬られる者もいる。吉原の近辺には「投げ込み寺」と呼ばれる寺がある。
 私は以前、樋口一葉記念館のそばの投げ込み寺のひとつ「浄閑寺」にお参りしたことがある。

 たびたび浄閑寺を訪問していたという永井荷風の碑が門前に記されている。荷風は、吉原より玉ノ井などの庶民の街を好んだと言うが、新吉原開業以来2万5千人の無縁仏が眠ると言われる寺に深い思いがあったのだろう。

 近代に水商売をする女性の名前を「源氏名」というようになったのは、永井荷風「断腸亭日乗』あたりからだそうだが、荷風以前から用例があるかどうか、春庭には不明。

春庭今日の二冊No.105、106
(お)興津要『古典落語』
(な)永井荷風『断腸亭日乗』


「源氏名④)」

永井荷風の日記1937年(昭和12年)六月廿二日の一部

六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事なかりき。近隣のさまは変わりたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を越ゆるべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし。...


 「娼妓の墓が倒れている間に一片の石を置いて永眠したい」と願った荷風だったが、荷風の墓は雑司ヶ谷にある。
 荷風は江戸文化を好み、江戸文化の華である遊廓を好んだ。死してのちは「荷風散人」として無縁仏となった娼妓と共に眠りたかったのだろう。

 江戸から明治に時代が移り、「幕府公認遊廓の吉原」が消えても、吉原の繁昌は続いた。
 明治5年の娼妓解放令とは、外国向けの「わが国は人身売買なんかしちゃおりませぬ」という言い訳のために発令されただけで、政府は「貸座敷免許制」というのを始めた。

 遊女と呼ぶのを廃止して娼妓と変え、遊廓を「貸座敷」と変えた。名前がかわっただけで、江戸時代よりも政府公認の場所が増える結果になった。
 娼妓は、形だけ「自由意志による商行為」として働くことになったが、実態はなんら変わっていない。

 天保年間の『守貞漫稿』に出てくる全国の公許の遊廓はわずか25ヶ所だったが、大正時代に公認の貸座敷は545ヶ所、娼妓は5万2200人という調査報告がある。
 明治政府のしたことは、お墨付き遊廓の許可基準を下げたことだけだった。

 明治に入っても吉原のにぎわいは続き、樋口一葉の名作『たけくらべ』の舞台になっている。『たけくらべ』冒頭の一節に、当時の吉原大門近辺が活写されている。




廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、


 大正、昭和の「陽気の街」については、荷風の著作など、お読み下さい。

 一葉、荷風の著作に出てくる遊女娼妓たちの姿。一葉荷風は娼妓達をきちんと「一個の人間」として見つめ、対等の目線で描写した。

 廃娼運動が盛んだったころ、本気で娼妓の身の上を考えてやる人もいる一方、「堕落した商売に従事しているかわいそうな女たちを救いましょう」と唱え、「娼妓は自分たちより一段と劣った下等な人間」と見ている「有閑階級」の人も多かった。

 「一葉日記」の中に、姉貴分の一葉が酌婦をしている女のために一肌ぬぐ話もある。
 一葉の描く酌婦たちは、廃娼運動する上流夫人のような「見下げた」視線での描写ではない。一葉が現代にもなお読み継がれる作品を残せたのは、一葉が「歌塾萩の舎に集まる華族令嬢へも、場末の酌婦へも等しい視線を放つ」ことができる人であったからだと思う。

 1945年3月10日、東京大空襲の日。新吉原から続いた「陽気の街」は下町一帯を地獄と化した空襲で灰燼に帰す。10万ともそれ以上とも言われる空襲時死者の中に、吉原の花魁も芸者も茶屋の主人も若い衆もいた。

 国民には「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのび」とラジオが伝えてから半月もたたぬ8月下旬、政府は吉原再開を決定。名も「進駐軍接待所」と変わった。

 表むき「キリスト教一夫一婦制度の国」であるアメリカの軍人のため、日本政府は飢えている国民の食料をどうにかするより一早く、「進駐軍の慰安」を準備したのだった。

 現代の「陽気の町」吉原。「ソープ街」という。売り物は「石鹸洗剤」ではない。源氏名をもつ女性たちが働いている。
 この「世界最古の職業」と呼ばれる仕事に関する意見考えは、春庭、また別の機会に論じます。古代神事、生産豊壌儀礼からのつながり。

 現代に「源氏名」を名乗るのは、主として「フーゾク」と呼ばれる仕事をしている女性。本名で仕事をする女性は、たぶんいないだろう。
 昔の吉原さながらに、夫の借金のために売られてきた人もいれば、「短期間で大金をかせげる職場」として自ら望んで仕事を求めてくる人もいる。

 現代の源氏名にも、流行があって「ジュリー」「エマニュエル」「マリリン」など、横文字名前がはやったこともあるし、その時代に人気がある女性タレントの名前をそっくりまねるのがはやることも。「モモエ」「アキナ」「セイコ」「アユ」「アヤヤ」など。

 現代の吉原では、店ごとに源氏名の付け方を工夫しているところもあるとか。ある店では女の子全員が「ゆり」「すみれ」「のばら」「ひまわり」「ひなげし」「さくら」など。店のキャッチコピーは「ヒミツの花園、あなたのために満開です」
 ある店では「ポルシェ」「フェラーリ」「ロールス」など、皆、外車の名前。経営者が外車趣味なのか。キャッチコピーは「あなたを乗せて全力疾走」ではいかが。

 一軒一軒、源氏名を調査したワケじゃないから、この源氏名がほんとかどうか知らないけれど、きっとこちらの方面にくわしい方は大勢いるだろう。
 「現代吉原の源氏名研究」調査のためと称して、実地研究を行う方がいたら、研究成果をぜひご一報ください。

春庭今日の二冊No.107108
(き)喜田川守貞『守貞漫稿』天保年間に、きたがわもりさだという絵師が記した「挿し絵付き風俗案内」
(ひ)樋口一葉『たけくらべ』


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