近代を駆けた女性たち
近代美術館散歩・日本彫刻の近代
2008/01/26
近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代
駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。
私の好きな「煉瓦造り近代建築」もセットにして歩き回る。
自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。
小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。
近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。
東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。
2007年11月18日は、皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。
晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。
大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。
地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。
即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。
びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。
トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。
竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」
高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。
荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。
私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。
ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。
ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。
<つづく>
近代彫刻の女性像
2008/01/27
近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像
ラグーザ玉(1861~1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。
玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。
イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。
玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。
ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。
シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。
夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。
荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年~1910(明治43)年。
「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。
近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。
しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。
「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。
しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。
黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。
相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともないのだけれど、近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。
新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。
「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。
近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、思ったこと。
近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。
しかし、彫刻の分野では現代になるまで女性作家が出なかったなあ、と思った。
体力的に、彫刻は女性には向かないと思われていたこともあるのだろう。
<つづく>
女性芸術家
2008/01/28
近代を駆けた女性たち(3)女性芸術家
西洋では、ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)の彫刻作品がある。
カミーユ18歳のとき、43歳のロダンに出会い、弟子入り。
ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもあった。やがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになる。
しかし、カミーユは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、ロダンに裏切られて、1905年、41歳のころ、精神のバランスを崩した。
カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごした。
カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまった。
精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、孤独のうちにカミーユは亡くなった。
私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に知らないので、勘違いな部分もあるだろうが、彼女が「絵画」という媒体を選んだなら、病院の庭で孤独にすごした後半生とは異なる一生もありえたかも知れないという気がする。
「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。
たとえば、高村光太郎の妻、智恵子。
光太郎自身の筆による「智恵子の半生」に描かれている智恵子の姿。。
新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。
妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになった。
光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いている。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのだろうか。
夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったのだろうか。
自分なりの歩調で、自分なりの歩幅、で歩いて行ける時代ではなかったように思うのだ。
ふたりは「事実婚」の先駆者で、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っているが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。
<つづく>
モデル智恵子
2008/01/29
近代を駆けた女性たち(4)モデル智恵子
高村光太郎の彫刻は、「手」が有名だ。モデル(?)は、自分の手。
光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。
「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。
http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455570838415506
十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。
しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。
光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。
「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。
智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。
その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。
智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。
かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」
この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。
もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。
わかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。
<つづく>
ゆっくり東京女子マラソン
2008/01/30
近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン
近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。
颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。
「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。
私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。
評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。
明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。
田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。
最初の女子留学生ふたり。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』
女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。
作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、市川房枝『自伝(戦前編)』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』
また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原子(歌人)らの生涯も深く心に残る。演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。
画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。
心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。
管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。
管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。
金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。
伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。
無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。
近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。
近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。行きづらい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。
東京国際女子マラソン。2008年の第30回大会を最後に、「東京女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。
2007年は、最後から2番目の大会だった。
大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。
最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。
それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。
今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。
みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。
現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。
「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。
さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。
<おわり>
近代美術館散歩・日本彫刻の近代
2008/01/26
近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代
駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。
私の好きな「煉瓦造り近代建築」もセットにして歩き回る。
自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。
小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。
近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。
東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。
2007年11月18日は、皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。
晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。
大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。
地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。
即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。
びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。
トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。
竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」
高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。
荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。
私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。
ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。
ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。
<つづく>
近代彫刻の女性像
2008/01/27
近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像
ラグーザ玉(1861~1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。
玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。
イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。
玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。
ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。
シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。
夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。
荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年~1910(明治43)年。
「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。
近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。
しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。
「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。
しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。
黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。
相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともないのだけれど、近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。
新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。
「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。
近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、思ったこと。
近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。
しかし、彫刻の分野では現代になるまで女性作家が出なかったなあ、と思った。
体力的に、彫刻は女性には向かないと思われていたこともあるのだろう。
<つづく>
女性芸術家
2008/01/28
近代を駆けた女性たち(3)女性芸術家
西洋では、ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)の彫刻作品がある。
カミーユ18歳のとき、43歳のロダンに出会い、弟子入り。
ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもあった。やがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになる。
しかし、カミーユは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、ロダンに裏切られて、1905年、41歳のころ、精神のバランスを崩した。
カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごした。
カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまった。
精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、孤独のうちにカミーユは亡くなった。
私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に知らないので、勘違いな部分もあるだろうが、彼女が「絵画」という媒体を選んだなら、病院の庭で孤独にすごした後半生とは異なる一生もありえたかも知れないという気がする。
「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。
たとえば、高村光太郎の妻、智恵子。
光太郎自身の筆による「智恵子の半生」に描かれている智恵子の姿。。
新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。
妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになった。
光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いている。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのだろうか。
夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったのだろうか。
自分なりの歩調で、自分なりの歩幅、で歩いて行ける時代ではなかったように思うのだ。
ふたりは「事実婚」の先駆者で、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っているが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。
<つづく>
モデル智恵子
2008/01/29
近代を駆けた女性たち(4)モデル智恵子
高村光太郎の彫刻は、「手」が有名だ。モデル(?)は、自分の手。
光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。
「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。
http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455570838415506
十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。
しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。
光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。
「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。
智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。
その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。
智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。
かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」
この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。
もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。
わかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。
<つづく>
ゆっくり東京女子マラソン
2008/01/30
近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン
近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。
颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。
「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。
私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。
評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。
明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。
田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。
最初の女子留学生ふたり。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』
女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。
作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、市川房枝『自伝(戦前編)』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』
また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原子(歌人)らの生涯も深く心に残る。演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。
画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。
心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。
管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。
管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。
金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。
伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。
無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。
近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。
近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。行きづらい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。
東京国際女子マラソン。2008年の第30回大会を最後に、「東京女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。
2007年は、最後から2番目の大会だった。
大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。
最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。
それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。
今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。
みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。
現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。
「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。
さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。
<おわり>