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日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「近代を駆けた女たち」

2008-09-28 08:31:00 | 日記
近代を駆けた女性たち


近代美術館散歩・日本彫刻の近代
2008/01/26 
近代を駆けた女性たち(1)近代美術館散歩・日本彫刻の近代

 駒込六義園、小石川植物園、白金の自然教育園、竹橋の近代美術館周辺は、私のお気に入りの「お散歩スポット」。四季折々に園内の散歩を楽しんでいる。
 私の好きな「煉瓦造り近代建築」もセットにして歩き回る。

 自然教育園の隣の庭園美術館は、元朝香宮邸だし、白金医科研の古い校舎のまわりを歩くと、伝染病研究所時代の古い物語が浮かんでくるようなたたずまいを味わえる。
 小石川植物園には、東大現存最古の学校建築である旧東京医学校本館が、総合研究博物館分館として公開されている。

 近代美術館別館の工芸館は、元近衛師団司令部の煉瓦建築が美しいし、お堀端の水の光景もよい。
 東御苑で江戸城天守閣跡に立つのも、「殿中でござる」の松の廊下の跡をながめるのも、大奥の跡をたどるのも、楽しい歴史散歩になるし、往時の武蔵野風景を残す東御苑の木々の間を歩くのも好き。

 2007年11月18日は、皇居東御苑と近代美術館散歩を思い立った。
 晩秋のぽかぽか陽気、小春日の一日。
 大手門から東御苑に入り、三の丸尚蔵館を見て平河門にぬけるコースを歩くことにした。

 地下鉄の駅を出ると、大手門の前を東京国際女子マラソンの選手たちが走り抜けているところに出あった。
 即席応援団になって、選手団のラストを走る女性を応援した。というか、ラストの選手が走り終えるまで交通規制で、大手門側へ渡ることができなかったので。

 びりから3番と2番の人は、苦しげに顔をゆがめて走っていたが、びりっけつの人は、にこにこして「応援ありがとう、ありがとう」と、手を振りながら走っていた。マラソンを楽しむ市民ランナーなのだろう。招待選手以外の市民ランナーは450人。
 トップランナーたちは、はるか先を走っている。優勝は、野口みずきだった。

 竹橋の近代美術館の企画展は、「日本彫刻の近代」
 高村光雲の「老猿」や息子の光太郎の「手」、荻原守衛「女」など、美術の教科書に必ず載っている彫刻作品や、日本の近代彫刻に大きな影響を与えたロダン、ブールデル、マイヨールなどの作品が展示されていた。

 荻原守衛「坑夫」朝倉文夫の「墓守」や、佐藤忠良「群馬の人」など、近代彫刻の代表作が並べられている。
 私の彫刻鑑賞は、美術鑑賞というより、「勝手な物語を作りながら、彫刻の顔をながめる」というミーハー鑑賞法。

 ラグーザの「日本婦人」の前では、「このモデルはお玉だろうなあ」と、思って、お玉がラグーザとともにすごした明治の東京やイタリアを想像する。
 ラグーザは日本滞在中に玉をモデルとした「清原玉女像」も制作している。

<つづく>


近代彫刻の女性像
2008/01/27 
近代を駆けた女性たち(2)近代彫刻の女性像

 ラグーザ玉(1861~1939)は、明治日本で最初に「女性洋画家」となった人。
 玉の夫、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、明治の「お雇い外国人」のひとりである。
 イタリアで新進彫刻家として高い評価を得たあと、1876(明治9)年に来日。1882(明治15)年まで工部美術学校(東京芸術大学の前身)で、洋画や彫刻指導にあたった。

 玉は、芝に生まれ、ラグーザに弟子入りした。
 ラグーザの本国帰国の際には周囲の反対を押し切って、20歳年長の「先生」に同行し、イタリアのシチリア島へ渡った。
 シチリア島のパレルモでラグーザと結婚し、夫とともにパレルモ芸術学校で後進を指導した。
 夫と死別した後、日本に戻り、洋画家として活躍した。

 荻原守衛、号は碌山ろくざん。1879(明治12)年~1910(明治43)年。
 「女」は、近代彫刻のなかで最初に重要文化財の指定を受けた作品。

 近代美術館の所蔵品であるから、美術館を訪れるたびに毎回見ている。いつもは絵画を中心に見ていて、この「女」の前は横目で見てタッタッと駆け足ですぎる。
 しかし、近代彫刻が歴史的に並んでいるこのような彫刻展のなかにあると、やはりそこだけ光を放つような存在感が際だつ。

 「女」の直接のモデルは、素人モデルの岡田みどりという女性。
 しかし、守衛がそこに表現したのは、彼がひそかに思いを寄せていた新宿中村屋の相馬黒光の姿だったと伝えられている。

 黒光のこどもたちも、この像を一目見て「かあさんがいる」と思ったといい、黒光自身も、自分の内面を守衛が形にした像であることを確信した。しかし、その時、すでに守衛は30歳の若さで不帰の人となっていた。

 相馬黒光について、私は臼井吉見の『安曇野』全5巻のなかに表現された黒光を知っているだけで、自伝を読んだこともないのだけれど、近代女性のなかでは実に希有な「自己実現と実業と夫との家庭生活」を鼎立してやり遂げた人に思う。
 新宿中村屋の創業者にして、文化サロンの主宰者として芸術家たちのパトロンになった女性。

 「女」が、近代女性の毅然とした美しさを表現し得ているのは、黒光の人間性を荻原守衛が深く理解し、黒光の内面に共鳴していたからだろうと思う。

 近代彫刻の傑作群のなかを歩きながら、思ったこと。
 近代日本美術の黎明期。江戸のなごりをつなぐ南画の奥原晴湖は別格として、ロシアイコン作家の山下りん、洋画の清原ラグーザ玉などの女性芸術家が近代の揺籃から輩出した。

 しかし、彫刻の分野では現代になるまで女性作家が出なかったなあ、と思った。
 体力的に、彫刻は女性には向かないと思われていたこともあるのだろう。

<つづく>


女性芸術家
2008/01/28 
近代を駆けた女性たち(3)女性芸術家

 西洋では、ロダンの弟子にして愛人だったカミーユ・クローデル(1864~1943年)の彫刻作品がある。
 カミーユ18歳のとき、43歳のロダンに出会い、弟子入り。

 ロダンの代表作のひとつ「パンセ(想い)」は、カミーユがモデルとなった作品。カミーユは、ロダンの彫刻へ強い影響を与えた存在でもあった。やがて師を圧倒するほどの作品を生み出すようになる。

 しかし、カミーユは、女性であるがゆえに芸術家として認められないことへのストレスに加え、ロダンに裏切られて、1905年、41歳のころ、精神のバランスを崩した。
 カミーユの80年の生涯のうち、1905年以後、亡くなるまでの38年は、精神病院に閉じこめられてすごした。

 カミーユを案じていた母は、1920年に亡くなり、姉カミーユを支えていた弟、詩人のポール・クローデルは、1921年に日本駐在フランス大使として赴任し、遠く隔たってしまった。
 精神病院ですごすカミーユを支える人はいなくなり、孤独のうちにカミーユは亡くなった。

 私のカミーユへの理解はイザベル・アジャーニ主演の映画『カミーユ・クローデル』の内容以外に知らないので、勘違いな部分もあるだろうが、彼女が「絵画」という媒体を選んだなら、病院の庭で孤独にすごした後半生とは異なる一生もありえたかも知れないという気がする。

 「女だから」と、芸術へ向かうことを押さえ込まれ、自らの芸術への志向を押し曲げねばならなかった近代の女性たち。

 たとえば、高村光太郎の妻、智恵子。
 光太郎自身の筆による「智恵子の半生」に描かれている智恵子の姿。。
 新婚の夫と妻がふたりして油絵に取り組んでいる。しかし、女中をおく余裕のない家で、腹が減ればどちらかがご飯を作らなければならない。

 妻はしだいに自分の絵をあきらめ、夫が制作に費やす時間を確保すること、夫を支えて家事いっさいを引き受けることに生活の満足を見いだすようになった。
 光太郎は、それを智恵子の自発的な決断だった、と書いている。そうなのだろうか。智恵子の本心からの選択だったのだろうか。

 夫を支えるのが良妻でありそれ以外の人生はないと教え込んだ明治の「良妻賢母養成教育」を受けた女性が、家事を優先させて欲しいという夫の要求を押しのけて芸術の道を走り続ける方法があったのだろうか。
 自分なりの歩調で、自分なりの歩幅、で歩いて行ける時代ではなかったように思うのだ。

 ふたりは「事実婚」の先駆者で、1911年に出会い、結婚披露宴は1914年に行っているが、入籍したのはそれから22年後の1933年。智恵子に統合失調の症状があらわれはじめ、自殺未遂をおこした翌年のこと。

<つづく>


モデル智恵子
2008/01/29 
近代を駆けた女性たち(4)モデル智恵子

 高村光太郎の彫刻は、「手」が有名だ。モデル(?)は、自分の手。
 光太郎の作品というとき、詩はいろいろ思い浮かぶのに、彫刻作品では、「手」以外に、さあ、何を見たことがあったんだっけ。と、思っていたら「日本彫刻の近代」に光太郎の裸婦座像が出品されていた。

「裸婦座像」は、30cmほどの小さな像で、「手」と同じ年の制作、1917(大正)年。智恵子と結婚して3年後のことだ。
http://picasaweb.google.com/jknudes/JapaneseNudes/photo#5080455570838415506

 十和田湖畔にたつ「乙女像」は、晩年の光太郎が情熱を傾けた作品であり、亡き智恵子の面影を追いながら制作されたという逸話がよく知られている。
 しかし、若い頃の作品「裸婦座像」のモデルがだれであったのか、調べてみても、記録がみつからない。

 光太郎72歳になって、「モデルいろいろ」というエッセイに書いていること。

 「日本に帰ってきてから四、五年は乱暴な、めちゃくちゃな迷妄生活を送っていたが、そのうちに智恵子と知るようになり、大正3年結婚したので、あんまりぐうたらなモデルは雇わなくなった。

 智恵子との結婚によって経済上の不如意はますますひどくなった。父からの補助はなくなり、彫刻を金銭にかえる道がうまくつかず、原稿かせぎもあわれなものだし、身をつめるほかなかった。モデルも極くたまにしか使えなかったのである。

 その上、あれほど聡明な女性であった智恵子でも、私がモデルを使うことを内心喜ばなかった傾きのあることを知ってから、尚更モデルを雇うことが少なくなった。

 智恵子も進んでモデルになった。智恵子の体は実に均整のいい、美しい比例を持っていたので、私は喜んでそれによって彫刻の勉強をした。智恵子の肉体によって人体の美の秘密を初めて知ったと思った。

 かなりの数を作っている。全身だの、部分だの、トルソだの、クロッキーだの、それもみな今度の戦災で焼けてしまった」

 この記述から見るかぎりでは、結婚3年目の裸婦座像のモデルは、「とぼしい稼ぎのなかから、智恵子が喜ばないのを承知で雇ったモデル」の女性であったのか、智恵子なのか、わからない。

 もし、裸婦座像のモデルが智恵子であるのなら、光太郎がひとこと言い残していてもよさそうなのに、と、思う。裸婦座像の均整のとれた美しい肢体は「智恵子の体は実に均整のいい美しい比例を持っていた」と、光太郎が書き残したとおりなのだが、像の顔は、写真に残る智恵子とは別人のようにも思える。

 わかるのは、たくさん描いたスケッチやクロッキー、制作したトルソなど、智恵子をモデルとした作品が、戦災ですべて焼けてしまった、ということだけ。

<つづく>



ゆっくり東京女子マラソン
2008/01/30 
近代を駆けた女性たち(5)ゆっくり東京女子マラソン

 近代という時代を、黙々と走り抜けていった女性たち。
 颯爽と走った者もいただろう。最後尾を苦痛で顔をゆがめながら、一歩一歩と足を運んだ者もいただろう。
 「日本彫刻の近代」展、さまざまな思いを抱きながら、彫刻の間を歩いた。

 私は、近代史を駆け抜けた女性たちに思いを寄せてすごすことを好んでいる。
 評伝や自伝、小説の主人公として彼女たちの物語を読んできた。

 明治の女性作家。『樋口一葉日記』ほか、数々の一葉を主人公にした小説、伝記。
 田沢稲舟については2冊のみ。伊藤聖子の評伝『田沢稲舟』大野茂男の『論攷 田沢稲舟』。
 最初の女子留学生ふたり。大庭みな子の『津田梅子』、久野明子の『大山捨松-鹿鳴館の貴婦人』
 女性画家、大下智一の『山下りん―明治を生きたイコン画家』。
 作家、教育者、社会運動家。林真理子の『ミカドの女(下田歌子)』、臼井吉見の『安曇野(相馬黒光)』、高群逸枝『火の国の女の日記』、平塚雷鳥『元始、女性は太陽であった らいてう自伝』、市川房枝『自伝(戦前編)』、永畑道子の『華の乱(与謝野晶子)』

 また、長谷川時雨『近代美人伝』に描かれた、川上貞奴(女優)、松井須磨子(女優)、九条武子(歌人)、柳原子(歌人)らの生涯も深く心に残る。演劇、短歌などの自己表現と人生における自己実現に命を賭けた女性たち。
 画家では、江戸から明治初期に活躍した南画の奥原晴湖も忘れがたい。

 心に残る女性たちとは、何らかの功績を残し顕彰されている人だけではない。
 管野すが、金子ふみこ、伊藤野枝ら、近代国家権力にあらがった女性も好きだ。
 管野すがについて、岩波新書『管野すが・平民社の婦人革命家像』や、瀬戸内寂聴の『遠い声』を読んだ。
 金子ふみ子『何が私をこうさせたか』、瀬戸内寂聴の『余白の春』。
 伊藤野枝については、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を読んだだけで、彼女自身の著作を読んだことはない。

 無名の女性たちの名を知ることができるのは、多くの場合、裁判記録や新聞の犯罪事件報道によるので、おおかたは悲しい一生をおくった女性の人生を知ることになる。

 近代女性史の登場人物のなかで、子育ても順調で、自己実現も果たしてという「両立組」は、相馬黒光、与謝野晶子、平塚雷鳥くらいかな。

 近代という時代は、女性にとっては、とても厳しい時代だった。行きづらい時代のなかを、懸命に走り抜けた女性たち、ひとりひとりの人生が、私は好きだ。

 東京国際女子マラソン。2008年の第30回大会を最後に、「東京女子マラソンレース」の開催は幕を閉じるという。
 2007年は、最後から2番目の大会だった。

 大手門前のマラソンコースを、颯爽と走り抜けたトップランナーたち。
 最後尾、苦しげにラストを走っていた人、楽しげにびりっけつで走った人。
 それぞれの走り方はあっただろうが、彼女たちは「女性がマラソンに挑戦するなど無謀だ」と言われた時代もあったことなど、まったく感じさせもしないで、お堀端を駆け抜けていった。

 今、マラソンの分野でも芸術の分野でも「女だからダメ」といわれることはない。
 みな、のびのびと走り、芸術表現にたちむかう。
 現代彫刻の分野では、たくさんの女性たちが活躍している。
 
 「表現者」としての女性がおらず、「モデル」としてしか女性がいなかった近代彫刻の数々をみながら、近代美術のトップランナーとなった女性たちを思った。
 さまざまなドラマを抱えて、自己表現に生涯をかけた人々、もくもくと走り続けたのだろうなあ。

<おわり>

ぽかぽか春庭「田園賛歌・近代美術」

2008-09-28 08:29:00 | 日記

田園讃歌


近代絵画にみる自然と人間
2008/01/21
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(1)埼玉県立近代美術館・近代絵画にみる自然と人間

 各地の県立美術館には、その地方出身の画家の絵などが集められていたり、県展、市民絵画展など、地方の特色を生かした展覧会が開かれることが多い。
 目玉となる「客が集まる絵」は、だいたい一館に一作くらい。

 山梨県立美術館には、ミレーの『落ち葉拾い』がある。
 埼玉県立近代美術館には、モネの「積み藁・夕日」がある。

 だが、最近はどこも地方財政緊縮のあおりを受けて、「今年度の新作購入は予算ゼロ」という美術館も多い。

 埼玉県立近代美術館で「田園讃歌」というテーマの展覧会を見た。北九州市立美術館、ひろしま美術館、山梨県立美術館の4館共同企画だ。
 「田園讃歌・近代絵画に見る自然と人間」

 4館の所蔵絵画・写真を集めた企画で、近代絵画のなかで、「田園風景」をテーマにしている。 キュレーターのセンスが展覧会の善し悪しを左右する最近の美術展のなかでも、とてもまとまりのよい、すぐれた作品の集め方がなされていると感じた。
 山梨県立美術館所蔵のミレー「落ち穂拾い」と、埼玉県立近代美術館所蔵のモネ「ジベルニーの積み藁・夕日」の2点を核に構成されている。

 「田園風景の美」は、近代になって発見された。
 「田舎のけしき」なんて、大昔からそこにあったものだ。農業がはじまったときから、農村風景というものは、存在したし、農耕儀礼の絵や耕作収穫の絵は豊饒祈願の宗教絵画として、メソポタミアの時代から残されている。

 しかし、その景色を「美の対象」として画家が意識して眺めるようになったのは、農村の時代から産業都市の時代へと移り変わって以後のことである。

 マリーアントアネットがベルサイユ宮殿のなかに「プティトリアノン」と呼ばれる「農村のままごと」を行う場所をつくり、自ら農婦の衣裳を着て農村ごっごをした、というころから、ブルジョア層に田園趣味が広まった。
 近代国民国家が成立して以後、市民層が絵画を買うようになってからは、かっての宗教画にかわって風景画の購入が喜ばれるようになってきた。

 近代とは、「田舎を美の対象として眺める目をもった時代」でもある。
 ミレーたちがバルビゾン村へ移り住んだのも、世が「産業都市の時代」へとなっていたからこそ、意味のあることだった。

 日本の美術愛好者にとって、ミレーの「落ち穂拾い」は、図工や美術の教科書で眺めてきた「絵画の代表作品」のように感じる作品のひとつだ。
リンクは、オルセー美術館所蔵のもっとも有名な作品
http://www.asahi-net.or.jp/~hw8m-mrkm/kate/gallery/11.gathering.grain.html

<つづく>


積み藁と落ち穂拾い
 
2008/01/22
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(2)積み藁と落ち穂拾い

 ミレーの「落ち穂拾い夏」を、一地方都市の山梨県立美術館が購入したと知ったときから、ぜひ見にいこうとと思っていた。
 でも、なかなか甲府まで足を伸ばすことはできなかった。
 やっと今回見ることができた。
http://www.rere.net/museum/yamanashi-museum.html

 「落ち穂拾い夏」は四季連作の中のひとつ。四季4連作とは、「ぶどう畑にて春」「落穂拾い夏」「りんごの収穫秋」「薪集めの女たち冬」から成り、いずれも貧しい農民たちのささやかな収穫を描いている。

 また、ミレーの「種まく人」は、絵に興味がない人にとってもなじみ深い。岩波書店のロゴマークデザインのもとになったので、多くの人に親しまれている。
「種まく人」http://www.pref.yamanashi.jp/barrier/html/kigyo/34955923008.html

 バルビゾン派から印象派、ポスト印象派(Post-impressioists)へと時代が移っていっても、「外光による自然描写、田園光景」は、主要なモチーフとして絵画を彩った。

 ゴッホもミレーの「種まく人」や「一日のおわり」を模写しており、「田園風景」は、この時代の画家たちにとって、大きなモチーフだった。

 ミレーが農民を描いた絵も、ゴッホの絵も、私には「宗教画」のような印象がある。
 複製画をみるたびに、農作業を行う農民の一日も、それを絵に描く画家の一日も強い宗教心のなかにあるように感じた。
 今回の展示の解説プレートで、ミレーの「落ち穂拾い」も、旧約聖書の「ルツ記」の中の詩篇にもとずいたモチーフなのだと知った。

 フランスへ渡って近代絵画を学んでいた日本の若い画家たちは、ミレーたちバビルゾン派の絵を、よく模写した。
 今回の展覧会でも、和田英作や高田力蔵が、ミレーの「落ち穂拾い」を模写した作品が展示されていた。黒田清輝によるミレーの「小便小僧」の模写もあった。

 日本の近代絵画における「農村風景」は、南画など伝統的な日本の絵画の「農村風景」に西洋の視線を取り込んできたもの、という特徴をもつ。
 浅井忠らの描く農村風景には、「神への敬虔な祈り」というより、ノスタルジーを呼び起こされる。

 明治の画家たちがバルビゾン派にならって描いた農村風景を、いま日本のなかでさがすのはむずかしい。藁屋根の家、小川にうたう水車、夕暮れのあぜ道。目籠を背負う農婦、母に背負われて畑から戻る赤ん坊、みんな日本の光景から消えたもの。

 明治の農村はすでに「農本主義」をぶちあげても追いつかない「産業国家に組み込まれる農業」になっており、「失われゆく農村」の悲哀を帯びていた光景に見える。
 画家たちのなかには、最初からノスタルジーがモチーフとしてあったのではないだろうか。

<つづく>


藁塚放浪記
2008/01/23
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(3)藁塚放浪記

 今、ヨーローッパにも、日本にも、近代絵画がよきモチーフとした農村光景は残されていない。フランスにモネの描いた夕日に映える「積み藁」はないし、日本に浅井忠が描いた農村風景はない。

 展覧会の最後のコーナーは、藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』の中に納められた写真が並んでいる。
 日本各地の農村の藁塚を撮影した美しい写真の数々。

 ワラヅト、ワラニョ、ボウガケ、ワラニゴ、ワラススキ、ワラホギ、チョッポイ、ヨズク、ワラグロ、ワラコヅミなどの、各地方で刈り取った稲藁を束ねて積み上げた塚の呼び名がさまざまある。

 名前がさまざまであるとともに、各地方独特の藁の積み上げ方がなされている。
リンクは、「ニョウ」と呼ばれていた長野県の藁塚の写真。(撮影者は藤田洋三ではない)
http://www.5884atease.com/kanko/nyou/nyou.htm

 今、農村地帯でも、刈り取った稲はすぐに人工乾燥工場へ運ばれてしまい、天日干しされるのは、自家消費分のごくわずかなものだけなので、写真のモチーフになるような光景は、めったに見ることができない。

 この秋、私が出身地の田舎で目にした「稲架(ハサ)」も、ごくわずかだった。
 田圃や稲架の光景、これからは「保存地区」に「観光」で行かない限り、日常風景として見ることはできないのだろうと思う。

 太田道灌は現在の東京をながめたら、「家康入府以前の江戸は葦原の武蔵野が広がる光景だったのに」と、嘆くかも知れない。しかし、もはや東京を武蔵野の原野にもどすことはできない。
 それと同じように、日本の田園風景が失われたことを嘆いても、では、300年前の日本に戻そうといっても不可能だ。

 私たちは「近代」という時代の中に入ったときから、多くのものを失ってきたのだ。
 「落ち穂拾い」は、貧しい人々のために小麦畑に麦穂を残しておくようにと書かれた旧約聖書の「ルツ記」の実践風景が描かれている。
 落ち穂を拾わなければならない貧しさからの脱却は、「近代産業社会」によって実現された。

 今、ヨーロッパで落ち穂拾いをする人を見かけることはむずかしいだろう。
 落ち穂拾いの貧しい農民はいなくなった。同時に、落ち穂を分け与えあう人々のつながりもなくなった。

<つづく>


「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」

2008/01/24
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(4)「ジヴェルニーの積み藁夕日」と「三丁目の夕日」

 モネが「美しいフランスの田舎」の光景として愛してやまなかった「村の農民たちが総出で積み上げた積み藁に夕日が映える景色」も、フランスの田舎で見ることが少なくなっている。
リンクはジヴェルニーの積み藁夕日
http://www.saihakuren.org/recommend/oi.php?id=53

 映画「続三丁目の夕日」を見た若い女性が「人情があふれていた。人々が夢を抱いて目を輝かせていた。(中略)こまやかで、隣近所のつきあいがあたたかかったあの時代の失われた何かを取り戻したい。経済大国での便利や自由を否定するわけでもない。でも、お金じゃない何かを置き忘れてきたのではないか」と、投書したのを読んだ。

 それを読み、実際に昭和30年代に子どもだった私は「今の便利さや快適さを捨てて、あんたらがあのころの生活に耐えられるなら、30年代に戻ってみたらいいやんか」と、思ってしまった。

 置き忘れたんじゃない。「経済大国での便利や自由」が欲しかった人たちは、「こまやかな人情や隣近所のあたたかい交流」を犠牲にすることによって、便利さや自由を手に入れたのだ。

 「経済成長の代償なのだろうか」と、投書の女性は自問する。
 その通りだよ。社会が経済的に豊かになって、社会構造が変化すれば、共同体(コミュニティ)が変化せずにはいられない。

 捨ててきたことの痛みを自覚することなしに、「こまやかな人情やあたたかい隣近所」だけ取り戻すことはおそらくできないだろう。
 「経済大国での便利や自由」を既得権として確保したまま、「あたたかい人情がほしい」なんて、虫のいい願いはむずかしいのだ。

 映画青年牧野光永氏は、「魔女の宅急便」のラストシーンを見て「成長とは何かを失うことなのだ」と、感じ取ったと書いていた。私は、その鋭敏な感受性をよしとする。

 所沢に住む投書女性が「隣に住む人の顔も名前も知らず、人とかかわることを避ける時代」を残念に思い、「わすれてしまった『何か』を取り戻したいものだ」と、いうのなら、まずは、ケータイとコンビニとテレビエアコンなしに、西武線も池袋からの地下鉄もなしに1年間暮らしてみて、それから行動を起こしたらいい。
 武蔵野の原野はとりもどせないが、人の心は、自分の働きかけによって変わるだろうから。

 ムラの農耕共同体は、共同作業で田植えや稲刈りを行い、藁塚を積み上げてきた。
 近代産業社会に突入したとき、日本は、その共同体のあり方を変化させつつ継承した。
 「ムラ社会」と呼ばれた共同体(コミュニティ)をそのまま産業工場の労働者に応用したのだ。

 日本の組合組織は、欧米の「ユニオン」とは、異なる面がある。
 ユニオンは、、同業労働者の権利を守るために結成された「資本家との闘争」の組織である。その機能に加えて、日本の「クミアイ」は、「ムラ社会コミュニティ」の代替機能をもっていた。だから、クミアイ主催の運動会に、「家族会」はこぞって参加したのだ。

<つづく>


志によって築く藁塚
2008/01/25
ぽかぽか春庭ことばと文化>田園讃歌(5)志によって築く藁塚

 世界各国で取り組まれたQC(品質改善・企業改善)運動。だが、欧米で成功した会社は少ない。日本の会社においてのみ、QC(カイゼン)活動が大成功をおさめたのも、「労働者組合ムラ社会」が背景にあったからだと、私は思っている。

 「カイゼン運動に費やされる時間も労働時間だから、ボランティアとして行うのではなく、カイゼン運動を行った時間にも賃金を支払うべきだ」という考え方が、カイゼン運動の雄トヨタなどでも言われ出した。企業組合が「ムラ社会コミュニティ」でなくなってくれば、当然出てくる要求だろう。

 産業構造が変化し、「企業別単組」のようなクミアイ共同体も機能不全となり、かろうじて残されてきた地方の「ムラ社会共同体」の残滓も、過疎化とともに失われた。

 江戸下町の「長屋共同体」的なコミュニティをそっくり移入したのが、高度成長期における新興宗教団体だった。
 宗教団体コミュニティは、農村部から都市に流入した「根をそがれたムラ社会住人」にとって、かっこうの共同体となった。今現在、日本で最大のコミュニティは、「学会員一千万人」を擁する宗教団体である。

 「ムラ社会」から連続してきた共同体のあたたかさ細やかさが変化したのを嘆いても、はじまらない。
 変化した社会を戻したければ、近代社会が築きあげてきたものをくつがえさなければならないということになる。

 近代産業社会が作り上げた、教育制度と国防と税によって成りたつ「近代国民国家」共同体が機能不全におちいり、あたたかさとこまやかさを失っているのは確かだが、国民国家共同体にかわるものは、まだ機能をはたしていない。

 近代産業社会は、いま、たそがれ。
 日中輝きわたっていた太陽を一日の終わりには、だれも止めることができない。日が沈むように、近代社会もポスト近代社会も沈みつつある。

 明日、別の新しい太陽は出てくるのだろうが、どのような社会を照らすどのような太陽なのか、わからない。経済学者も情報工学最先端を行く人も、いろんなことを言っているが、わたしにはとんと未来が見えない。 

 ポスト近代社会を生きていく私たちは、失われた共同体を懐かしがっているよりも、「ポスト近代社会の共同体」を新たに作り上げていくべきなのだ。

 地縁血縁によっていた「ムラ社会」の共同体でなく、地縁によっていた「長屋共同体」「労働組合共同体」でもなく、志と希望をともにして歩んでいけるような、志縁共同体。と、いってしまうと、これまでゴマンと出されてきたユートピアになってしまうのだが。
 志を等しくしてともに働き収穫し、収穫を分け合って藁塚を積み上げていける志縁共同体を成立させたいと、私は願っている。
 
 藤田洋三の写真集『藁塚放浪記』には、さまざまな形の藁塚の姿とともに、農作業に精を出す人々の笑顔が写されている。
 今、日本中でこの収穫の笑顔を見いだす機会は少ない。
 「観光農業」や「保存農地」でもなければ、千枚田に藁塚が点々と残される風景など見ることができなくなったのだ。

 近代が風景画に描き出してきた農村光景は、近代の終焉とともに消えた。
 私たちに「ポスト近代の次」はあるのだろうか。

 私は、夕日に輝く積み藁の風景を見たい。
 タイやバリ島の田舎あたりにまだ、藁塚の風景が残されているときくが、かの地でもやがては失われていくのだろう。失われる前に見に行こうか。

<おわり>

ぽかぽか春庭「古代めぐり・オリエント博物館国立博物館」

2008-09-25 08:00:00 | 日記
2006年08月10日 

古代オリエント博物館
ペルシャ文明展と古代オリエント博物館

 夏の好きなものめぐり。古代オリエント文明。
 8/08にサンシャイン60ビル文化会館の中の古代オリエント美術館、8/10に東京都美術館で開催のペルシャ文明を見ました。
 紀元前6000年ごろから紀元後7世紀ごろまで、現在のイランを中心とする地に花開いた文明、ペルシャ文明。

 去年私大で受け持ったイランからの私費留学生ナミ、今年4月から国立大で受け持ったイランからの国費留学生サラ。
ふたりとも、自国の文化に誇りを持ち、ナミは「日本と自国の交流史」という発表のとき、ペルシャ文化がシルクロードを通って、正倉院まで伝わった歴史について発表しました。

 ペルシャ文明展はイラン国立博物館の200点の作品を展示。
黄金のリュトス(酒杯)やダレイオス1世の銀製定礎碑文など、イランで発掘された貴重な出土品に見入っている観客たち。

 なかには、「夏休みこどもカルチャーツアーズ・ワークブック」という冊子を手に、熱心にエンピツで書き込みをしている子供の姿もありました。
 きっと夏休みの自由研究のひとつなのでしょう。

 古代オリエント博物館も、こどものための自由研究向けの企画がいろいろありました。
 古代オリエント文明の経済的な基礎となった小麦栽培。その麦を古代の石臼でひいてみる体験コーナーがある。

 古代の印章のレプリカを作り、自分自身でデザインした印章を完成させるコーナー、古代のオリエント風衣装を着て写真を撮ってもらうコーナーなどがありました。

 私は、くさび形文字のコーナーで、「自分の名前のくさび形文字のスタンプを選び、名前を書いてみる」というのをやってみました。
 新アッシリア時代(紀元前9~7世紀)のくさび形です。日本語五十音にあてはめた母音のうち、「う」と「お」は、古代アッシリアの発音は区別がないので、両方とも「く」の形のくさび形です。
 
 古代オリエント博物館はビルの中のこじんまりした展示ですが、エジプトからトルコ、アフガニスタンまで、オリエント文明の広がりを地域と時代によって幅広く知ることができます。

 古代オリエント博物館とペルシャ文明展の両方に同じような「こぶ牛型土器」が展示されていました。
 こぶ牛は今でもイランで家畜として飼われているそうです。

 オリエント世界は、マケドニアのアレキサンダー大王の征服によって、ギリシア文明と融合し、ヘレニズム文化が生まれました。
 世界の文化が影響しあい、文明がぶつかったり、融合したりしながら広がっているようすを見ると、文化は独自の発展をとげながらも、決して孤立した存在ではなく、関わりあいながらあることが、感じられます。

 ペルシャで生まれた切り子のガラス椀が、正倉院の中に宝物として納められ、ガラスの透明感を残して保存されているのを知ると、はるばるシルクロードをこえて、アジアの東端まで文化が旅してきたはるかな道のりに思いがとびます。

 夏休みの親子連れ、楽しそうにワークブックのクイズの答えを考えています。
 切り子ガラスの作り方がワークブックにのっています。

 「分厚いガラスのおわんをつくり、それから、外側をグラインダーという回転する砥石で削ってつくります。カット(切り子)された部分が反射しあうデザインはとてもきれいで、奈良時代の日本にまでやってきたものもあります」

 親子で歴史クイズに挑戦して、これから先、小さな歴史学者や考古学者が育っていくかもしれません。
 夏休みの自由研究、がんばってね。

<夏休みおでかけリポートつづく>

 

2006/08/11

法隆寺宝物館
東京国立博物館 法隆寺館・伎楽面

 8/01に東京国立博物館へ息子といっしょにでかけ、法隆寺館、本館、平成館、を見ました。
 今回は、最初に「法隆寺宝物館」を見ました。
 
 法隆寺館1階は、法隆寺にあった観音像や菩薩像が、たくさん並んでいます。仏像の専門家や見巧者なら、ひとつひとつの違いについてわかり、興味深い展示だろうと思いますが、私には、尊い仏様には申し訳ないけれど、「同じような仏像がいっぱい!」に、見えてしまいます。

 「レプリカをひとつ作っておいて、この仏像とそっくり同じ形のものは、何番の仏像ででしょう」というクイズを出題しておいたら、ひとつひとつ違いを探して熱心に見るかも、なんて、「夏休み親子ワークショップ」の企画を考えながら、仏像の間を歩きました。

 2階には、法隆寺の宝物の数々。
 いつもは閉じられている第3室の伎楽面を、運良く見ることができました。
 飛鳥奈良時代に、朝鮮半島経由で伝わったり、遣隋使遣唐使が持ち帰ったりしたのであろう伎楽の面。その手本をもとに日本でも伎楽面が作られました。

 伎楽は、呉楽(くれのがく)ともいい、百済人味摩之(みまし)が、呉国(くれのくに=中国)で学んだものを、推古天皇の時代(612年頃)に伝えました。
 伎楽師の指導のもと、楽戸から集められた伎楽生が踊りを修得し、寺院の法会で奉納されました。聖徳太子もこの伎楽を見たことでしょう。

 法隆寺や、正倉院に、後頭部まで覆うおおぶりな面が残っていて、法隆寺所蔵の面が東博法隆寺館に展示されています。
 
 伎楽面の、「酔胡王」や「酔胡従」は、中国の都に来ていたペルシャ人の姿を面にしたものと言われています。高い鼻や唇に、ペルシャ人の特徴があります。
 古代オリエントとのつながりが、伎楽の面にも感じられました。

 法隆寺館の展示、伎楽面の3室がいつも開室されているわけではないし、展示替えがあるので、その時その時で何が見られるか、わかりません。

 本館の展示も、入れ替えがなされるので、毎回、初めて見る国宝や重要文化財、重要美術品があります。

 数年前に、息子と本館を見たときは、信長や秀吉の書簡を見て、「信長の野望」とか「太閤伝」というゲームで知った逸話にでてくる手紙の本物を見ることができ、息子はいっそう歴史に興味を持ったようでした。

 秀吉の妻おね(ねね)が、秀吉の女好きを嘆き、上司の信長に「秀吉をたしなめてほしい」と訴えたのに対して、信長は「悋気もほどほどに」などと返事を書いている手紙が残されているのです。

 今回、本館、書状の展示は、上杉謙信のものを見ることができました。また、三好長慶の肖像画もあり、本館の武将の甲冑刀剣や、茶道具を見ました。
 「戦国時代ゲーム」フリークの息子には、これらの展示も「ゲーム」に結びつきます。


2006/08/12

東京国立博物館 本館
東京国立博物館 本館

 東京国立博物館本館に展示の茶碗を見て、私が「お城ひとつもらうより、お茶碗をもらったほうがいいって信長に言った人いたよね」と聞くと、戦国時代フリークの息子は「あ、それ滝川一益ね。でも、実際はお茶碗、もらい損ねたんだ」と解説してくれます。

 滝川一益が、恩賞として珠光小茄子(しゅこうこなす)という茶碗を望んだが、信長は与えず、この名器は信長とともに、本能寺の変で焼失してしまったそう。
 ほしがった人に惜しみなく与えておけば、家宝として伝わったかもしれないのに。

 「信長の野望」では、家宝の茶道具のやりとりも大事な要素なので、「九十九髪茄子つくもなす」とか、「上杉瓢箪うえすぎひょうたん」「新田肩衝にったかたつき」など、茶碗の名前もゲームの要です。

 「新田肩衝」は、村田珠光が所有したのち、三好政長、大友宗麟、織田信長、豊臣秀吉らに渡り、大坂城の落城後は徳川家の家宝となった茶入。
 淀の方や秀頼とともに大阪城で焼失しなかったということは、千姫といっしょにお城から運び出されたのかしらね、なんて、茶道具の美しさを「芸術鑑賞」するより、歴史トリビアに興味シンシンの親子です。

 息子の歴史興味は、戦国時代に集中しています。鎌倉時代や江戸後期、幕末にはあまり興味が広がらず、戦国ひとすじ。ま、ゲームのためだけですけど。
 JR電車の中で、息子が上野駅まで読んでいた文庫本は、『フロイスの見た戦国日本』でした。
 
 東博・平成館は、企画展のほか、常設展示に「考古学展示室」があります。
 縄文土器や土偶、弥生土器、古墳時代の埴輪や銅鐸、平安時代の瓦など、考古学出土品が展示されています。授業で歴史を学ぶ子供たちに、ぜひ本物を見せてやりたい品が並んでいます。

 また、平成館1階には、「親子ギャラリー」のコーナーがあり、親子で絵を楽しむためのさまざまな工夫によって、日本画の技法や構図について学べるようになっていました。
 美術は好きじゃない息子も、割合熱心にのぞいていました。
 近頃の博物館は、小学生から楽しめるイベントをたくさん用意しています。

 東博本館にも、「親と子のギャラリー 博物館の動物園」が、夏休みいっぱい9月3日まで展示されています。
 原始から現代までつづく日本の工芸品の中から、縄文時代の猪型土製品、奈良時代の獅子(ライオン)の形の香炉、江戸時代の兎や亀の形の水滴など、さまざまな動物をモチーフにしたものが並べられており、小さな子供も、「あ、ゾウさんだ」などと楽しんでいました。

 小学校卒業するころから、特に男の子は、母親と出かけたがらなくなるし、いっしょに行っても、うちみたいに「いやいやお義理で」になります。幼稚園小学生の夏休みが「親子おでかけの季節」です。
 夏の一日を親子いっしょに博物館ですごすのも楽しいですよ。

東京国立博物館HPトップ
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=X00&processId=00

8/10に、もう1度東京国立博物館本館を見ました。8/01に出かけたときと、展示が入れ替えになっているものがあったからです。8/08から、「新たな国民のたから」が展示されています。(2005年の購入品展示)

 同じく8/08から、重要文化財の、酒井抱一『夏秋草図屏風』と、国宝の、久隅守景「納涼図屏風」 が展示されています。これらの国宝は、1度展示されたあと展示替えになると、次にいつ見られるかわからないから、見ておこうと思ったのです。

 東博でボランティアをしたことのある娘に言わせると、「展示すると作品が劣化するから、できれば展示などせずに、収蔵庫の奥深く隠しておきたいって、研究者たちは思っているんだよ」だそうです。作品を大切に保存したい研究者や学芸員たちの気持ちはわかるけれど、シロートだって、見たいよ。 
 ライトを当てたりするので、絵の具その他が劣化することも多いだろうなあと、思います。でも、国の宝なのだから、国民にも、外国から来た人にも、見せてほしい。見たい。

 「夏秋草図」も、「納涼図」も、とてもすばらしい絵でした。

 国宝「納涼図」。
 画面左上には、夏の月。
 画面右下にあばら家が建っています。

 この絵です。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=01&col_id=A11878&img_id=C0017658&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=&Q5=&F1=&F2=

 http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=D01&processId=01&colid=A11878


 ひなびた屋根の前に、夕顔の棚がしつらえてあります。棚にぶら下がっているのが、ひょうたんなのか、夕顔なのか、私には区別つかないのだけれど、この絵は和歌をもとにして描かれており、和歌に出てくるのは夕顔。

 木下長嘯子の
 「夕顔のさける軒端の下涼み男はててれ女はふたの物」
という和歌をそのまま絵にしたのだという。(ててれ=襦袢、ふたの物=腰巻)

 画面にいる三人は、夫婦親子と思います。
 棚の下にござを敷き、親子水入らずで夕涼みをしています。 

 父親はござの上に寝ころび、足をのびのび伸ばしています。母親は上半身もろ肌脱ぎになり、なんの遠慮もなくくつろいでいます。やんちゃ盛りの年頃のこどもは、ゆたっりくつろぐ両親の姿をみて、やわらかな表情で、涼風を感じているようです。

 月の光も涼しげに、夕顔棚を照らしています。
 親子三人の納涼のひととき。平凡な親子の一日の情景から、一家の情愛が伝わり、なんともいえずほのぼのとした気持ちになる絵でした。
 江戸時代の平和な夕暮れ。

 金持ちではないけれど、親子そろってのどかに夕涼みできることが、何よりの幸せなのだと、見入りました。


2006/08/13

国立博物館平成館 プライス・コレクション
プライス・コレクション「若冲と江戸絵画展」

 アメリカのコレクター、悦子&ジョー・プライス夫妻による、伊藤若冲(1716~1800)を中心とする江戸絵画コレクションが、東京国立博物館・平成館に展示されています。
 8月1日、「若冲と江戸絵画展」を観覧しました。

 プライス氏が江戸絵画の収集を始めのは、50年前のこと。
 伊藤若冲や長沢芦雪などの江戸絵画は、一般の人々にはもちろん、研究者にもあまり知られていない存在でした。

 川島織物(京都市左京区静市市原町)は、約100年前、若冲の「動植綵絵」(宮内庁所蔵)30枚のうち15枚を、原寸大の綴織で再現しました。
 1904年、セントルイス万国博覧会に、この綴織の「動植綵絵」を出品し、評判を博したそうですからが、一部の人には知られていたのかもしれません。
 しかし、私が学んできた昔の美術教科書には、江戸時代絵画として、狩野派、円山派、琳派、などが掲載されていたけれど、伊藤若冲の名を見たことがありませんでした。

 プライスが最初に収集したのは伊藤若冲の「葡萄図」。
 友人の建築家ライト(旧帝国ホテル、自由学園明日館などを設計)といっしょにいたとき、若冲の絵に出会ったそうです。
http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/

 プライスはそれが日本画であることも何も知らないまま気に入り、大学の卒業記念に車を買おうと思っていたお金をつぎ込んで、「葡萄図」を買いました。
 ニューヨークの美術品店。何十年も店ざらしになっていて、「とうてい売れそうにない」と思われていた作品を買おうとする若者がいたことに、店の人も驚いたのだそうです。

 それ以来収集をはじめ、「画家の名前や落款ではなく、自分の目で見ていいと思った絵」を集める、という方針で収集して、コレクションを充実させてきました。
 結婚後、悦子夫人とともにコレクションを続け、プライスのコレクションは、日本では忘れられていた江戸絵画が再評価されるきっかけとなりました。

 夫妻は、若冲の画号「心遠館」からとり、自宅を「心遠館」と名付けました。
 夫妻の自宅「心遠館」を飾るだけではなく、一般の人に見てもらうため、ロサンゼルス・カウンディ美術館に日本美術展示館を寄贈し、作品を公開しています。

 京都画壇円山派の祖・円山応挙や、江戸琳派の雄・酒井抱一の作品は、これまであちこちの美術館で見てきましたが、長沢芦雪(ながさわろせつ)、鈴木守一(すずきしゅいつ)、葛蛇玉(かつじゃぎゃく)らの作品、私は、このプライスコレクション展で初めて見ました。

 鈴木守一「扇面流図屏風」の大胆な構図と色の取り合わせ、葛蛇玉「雪中松に兎・梅に鴉図屏風」、長沢芦雪「白象黒牛図屏風」など、墨絵で描かれているのに、鮮やかな印象を残す絵。

 また、源氏物語図屏風、酒井抱一「佐野渡図屏風」などが展示されているコーナーでは、光のかげんで、印象が変わる演出が試みられていました。
 日本家屋では、朝の光、夕方の光、それぞれの光によって、絵が違った印象に見える、ということを、観客にわかったもらうための試みなのだそうです。

若冲と江戸絵画展

 平日(火曜日午後)に出かけたにもかかわらず、若冲展会場はすごい混みようで、伊藤若冲の「花鳥人物図屏風」の前には二重三重の人垣。
 8万個の方眼モザイクに、ひとつひとつ色を塗り分けて完成したという絵。列に沿って進み、近づいて方眼の塗り目を見ることができましたが、遠くから全体を見ることはとうていかないません。

 8/01に「若冲と江戸絵画展」をいっしょに見ていた息子は「テレビのイベント紹介とか、日曜美術館とかで、放送したんじゃないの?伊藤若冲ってこんなにいっぱい人が押し寄せる画家だったっけ」と、言います。
 はい、私も、今回の展覧会開催まで、若冲の絵をまとめて見たことなどなかった、にわかファンです。

 1973年に国際文通週間に若冲の「群鶏」が記念切手となったときも、「皇室の名宝」展が東京国立博物館で1999/12/14~2000/02/13に開催され、若冲の作品が展示されたときも、私は無関心でした。

 2000年に「若冲没後200年」の大きな展覧会が京都国立博物館で開催されたとき、大ブームがおきましたが、私が京都まで出かけて見ることもありませんでした。
 また、2002年1月2日のお正月特番として、若冲の生涯の再現ドラマ「神の手を持つ絵師」がNHK総合で再放送(制作は2001年)されたときも、見なかった。(若冲役:岸部一徳)

 今回、若冲の動物植物の絵、その他の絵を見て、大ブームが起こったという理由もわかりました。ほんとうにすごい画家です。
 ひとつひとつの作品については、東博のブログでどうぞ。
若冲と江戸絵画展、作品解説ブログURL
http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/200606

 酒井抱一は、もともと好きでした。
 酒井抱一の『四季草花図・三十六歌仙図色貼交屏風』.
ひとつひとつの色紙をじっくり見ました。混んでいて、観覧の列が先にすすまないので、じっくり見る結果になったのですけれど。

 私は、「変体仮名一覧表」と照らし合わせながらでないと、昔の変体仮名をすらすらとは読めません。
 えっと、これが、「は」で、これは「な」で、これは「の」だよね、と苦心惨憺で変体仮名でかかれた色紙の和歌をたどたどと読んでみました。
 あ、だれの和歌か、わかったかも。

 列を離れ、混雑をかき分けて、母と離れていたい息子のそばまでいって、袖をひっぱり 「ねぇ、ね、あれって小野小町じゃないの?」と言うと、息子は「ちがうよ、小野小町はこっち」と、別の色紙を指さします。
 「あれ?どうしてわかるの?」

 「和歌の前に、小町って名前が書いてあるよ。これくらいの草書なら読めるでしょ」
 「あれま、和歌のほうを読もうとしていて、はなって字が読めたから、はなのいろはうつりにけりな、だと思っちゃった。アハハ、じゃ、あの女の人はだれだろう」と、オバカな会話をしながら、ともかくも会場ひとまわりしました。
 息子に知ったかぶりをしようと思ったのに、どうも分が悪いようです。

 円山応震の『麦稲図屏風』を見た息子が「この麦や稲の間に渡っている白い帯は何?」と質問をしてきました。
 「さあ、なんだろう、道が通っているみたいだけど、麦の穂の間にも通っているので、道じゃないよね。日本画では、こういう風に描かれていたら何を表しているっていう決まりごとがあるんだろうけどね」と、答えたのみで、何を表現しているのか、わかりませんでした。
 わかったのは、息子が一足先に帰ったあと。

 「若冲と江戸絵画展」チケットは、「当日にかぎり再入場可能」とあったので、ちょっとすいてからもう一度見ればよいと、ささっと一回りしたあと、東洋館の中にあるレストランでランチ。ここも混んでいて名前を呼ばれるまで、30分くらい待った。

 息子はランチをすますと「これで、母親につきあう義務は果たした」と、帰りましたが、私は若冲展に再入場しました。
 再入場後の会場もやっぱり混んでいました。混んでいたけれど、こんどは作品音声ガイドを借りて、説明を聞きながらまわったので、また別の楽しみ方ができました。

 息子が「何を描いたのかわからない」と、疑問に思った白い帯。
 音声ガイドを聞いて、この白い帯がなんであるのか、判明しました。「霞」がただよっている、という表現でした。

 向かって右側の青い麦の穂の図と、左側の穂を垂れている黄金に実った稲の図、この二双をひとつにまとめる視覚的な働きもしているのが、右側と左側の屏風を貫いている「霞」の帯です。
 
 家に帰って、さっそく受け売りで、「ふたつの屏風をつなぐ白い帯」の正体を息子に語りました。受け売りは得意中の得意です。
 「やっぱり、あの白い帯はいったい何?って疑問に感じる人が多いみたいね。イヤホンガイドがちゃんと説明してくれたよ」
 受け売りのネタモトも付け加えました。

 「若冲と江戸絵画展」東京国立博物館での展示は8月27日(日)まで。
 京都国立博物館での展示は2006年9月23日(土)~11月5日(日)


2006/08/17

三の丸尚蔵館・花鳥「動植綵絵」展
三の丸尚蔵館「花鳥」

 8/01に国立東京博物館の「若冲と江戸絵画展」を見ていたとき。とても混雑していたので列を作って少しずつ移動しながら絵をみている間、隣に並んでいるふたり組の話し声が聞こえてきました。
 「今、三の丸尚蔵館でやっている若冲の展示も、いい絵があるし、こんなに混んでないよ」

 8/02夕刊に出ていた高階秀爾の「若冲展」についての紹介のなかでも、三の丸尚蔵館での「花鳥・愛でる心彩る技 若冲を中心に」がとりあげられていたので、ミーハーファンとしては、見にいかなくちゃ、と思ったしだい。
 8/06(第4期展示最終日)と、8/12(第5期展示初日)に、三の丸尚蔵館を見ました。

 皇居東御苑は、竹橋の近代美術館を訪れたついでなどに、散歩したことがあるのですが、三の丸尚蔵館は、初めて拝観しました。立ち寄るたびに「展示替えのため休館中」だったりして、間が悪く、観覧したことがありませんでした。

 昭和天皇崩御(1989年)に伴う皇室財産整理で、皇室の私有財産と国家財産が分けられた結果、国家財産になったうちの芸術美術品は、三の丸尚蔵館で保存研究がなされることとなりました。

 1993年に開館。これまでの40回ほどの展示替えが行われてきました。大手門を入るとすぐ尚蔵館があり、無料で観覧できます。
 三の丸尚蔵館は、地下鉄東西線大手門から徒歩3分。

 国立文書館や近代美術館を回るお堀端を歩く散歩コース、また皇居東御苑を散歩するコースも、私の足で歩くのにちょうどいい距離です。
 私は、自転車で走り回るのなら1時間でも2時間でも平気なのですが、歩くと15分でいやになる。でも、このコースなら、55分は歩いていられます。60分すぎたら、疲れてしまうだろうけれど。

 「混んでない」と聞いていたのに、8月6日は、日曜日だし若冲ブームだし、「花鳥」の第4期展示の最終日なので、ものすごく混んでいました。
 展示スペースは狭い一室。
 あとで、知ったのだけれど、テレビ『たけしのだれでもピカソ』という美術紹介の番組でも、若冲特集があったのだって。
 混むはずです。

三の丸尚蔵館「動植綵絵」

 若冲など江戸絵画の修復が行われ、2006年3月の第1期から展示されてきました。7月から展示されている第四期の展示、8/06は第四期の最終日。
 研究修復の過程で、若冲が紙の裏側から彩色している技法などが新たにわかりました。

 若冲の「動植綵絵(どうしょくさいえ)」と、酒井抱一『十二ヶ月花鳥図』の展示。
 「十二ヶ月花鳥図」は、東博でプライスのコレクションの「十二ヶ月花鳥図」を見て、尚蔵館で皇室コレクションを見て、ふたつを見比べることができます。

 展示替えがあり、8/12から「花鳥・愛でる心彩る技 若冲を中心に 第5期」の展示がはじまったので、再び尚蔵館へでかけました。

 8/12、家をでるときに、ごろごろと雷鳴が聞こえ、ぽつぽつと雨が落ち始めていました。
 地下鉄内に「埼玉に落雷があり停電になった影響で、地下鉄のダイヤが乱れています」というアナウンスがあったので、JRに乗り換えた。東京駅のホームに降り立ったとたんにものすごい雷鳴。あとで新聞を読んだら、秋葉原への落雷でした。私が降りたあと、都内JRは止まってしまった。

 大手町まで歩き、大手門から三の丸尚蔵館へ。皇居東御苑散歩の人たちの雨宿り場所にもちょうどいいので、中はこの前とおなじくらい混んでいました。
 お目当ての若冲「動植綵絵」の、最後の6枚の展示。8/06に見た分と併せて、12枚の「動植綵絵」を見ることができました。

 丸山応挙の「牡丹孔雀図」なども見事でしたが、なんと言っても、8/06に見た若冲「旭日鳳凰図」と「老松白鳳図」、8/12に見た「老松孔雀図」、若冲の絵に、圧倒されました。

 享保年間に、将軍吉宗の命で日本にやってきて、江戸絵画に強い影響を残した沈南蘋(シェン ナンピン)の「餐香宿艶図巻」の草花と昆虫の絵も見ることができました。
 三の丸尚蔵館が1993年に開館して以来、修復が成った絵画からこうして展示されるのは、とてもうれしいこと。

「動植綵絵」を掲載しているHP紹介。30枚を全部掲載しているサイトは見つかりませんでしたが、一部ずつ、ブロガーが掲載しているサイトをひとめぐりすると、30枚のうちの何枚かはどのような絵かわかると思います。
 もちろん、一番いいのは尚蔵館へ行って、自分で見ること。

http://park5.wakwak.com/~birdy/jakuchu/trip/gallery01.html
http://blog.livedoor.jp/inumayu/archives/50781883.html
http://blog.livedoor.jp/inumayu/archives/50827830.html


 プライスコレクションも、尚蔵館の動植綵絵も、圧倒されるすばらしい絵を堪能できた、夏の美術散歩になりました。

ぽかぽか春庭「ふたりのアイヌ人花守信吉と山辺安之助」

2008-09-24 21:19:00 | 日記
ふたりのアイヌ人花守信吉と山辺安之助

 観測隊は、開南丸を拠点に、さまざまな南極調査に従事し、白瀬隊長ほか5名の突進隊は、犬ぞりで極点をめざしました。
 1912年1月16日出発。1月28日、南緯80度5分の地点に到達。
 極点は目前でした。しかし、過酷な天候が行く手をはばみました。

 南極展の展示写真。白瀬隊を撮影した記念写真のなかに、アイヌの風貌の人がいました。
 「あれ?アイヌの人みたいだけど」と思いましたが、詳しい説明は展示写真についていませんでした。

 南極探検隊にアイヌの人が加わっていたことを、これまで知りませんでしたが、白瀬隊が犬ぞりを使用したのなら、アイヌの人が参加したのは考えられると思いました。
 しかし、犬ぞりの説明のところにも、「犬ぞりを担当した人」の解説はみあたりません。

 墨絵を遺した三宅幸彦と野村船長の名は掲示してありましたが、南極展にふたりのアイヌ人の名は、どこにも書いてありませんでした。
 名前は、ネット検索でみつけました。

 樺太アイヌの花守信吉(はなもりしんきち)と山辺安之助(やまべやすのすけ)です。
 山辺と花守、ふたりがカラフト犬の統率と犬ぞり走行を受け持ちました。

 私が40余年前に読んだ子供向けの「南極探検記」に、花守と山辺がアイヌ人であるという記述が加えられていなかったのは、当時でもまだアイヌの人が、その出自を隠して生きなければならないような社会情勢があったからかもしれません。

 アイヌの人たちが、その文化を誇りとして生きられる社会になったのは、萱野茂さんらの長い努力があってのち、つい最近のことです。
 アイヌ文化振興法(「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及び啓発に関する法律」)が制定されたのは、今から9年前の1997年のこと。

 アイヌの民族性とその文化の価値を国として初めて公認し、アイヌ文化の振興とアイヌ民族としての誇りが尊重される社会への歩みがやっと実現したのです。
 それまではなんと、「旧土人法」でした!
 アイヌが自由にかけめぐっていた大地を勝手に奪っておいて、アイヌの人たちを「旧土人」であると差別したのです。

 花守信吉(アイヌ名シシラトカ 生没年不詳)樺太のアイヌ。樺太最大のアイヌ出身。
 山辺安之助(アイヌ名ヤヨマネク)(1867~1976)。
 花守と山辺は、「南極で死ぬかもしれないけれど、南極行で実績をあげ、アイヌ民族の地位向上をはかりたい」と願って、あえて危険な探検隊に志願しました。

 白瀬隊の南極走行に、犬ぞりはもっとも大切なものでした。
 馬そりを使ったスコット隊は全滅しています。寒さに強い犬ぞりこそは、南極輸送の要でした。
 白瀬隊が一人の死者もださず、全員無事南極から帰還できたのも、カラフト犬の優秀さがあり、犬を的確に取り扱い、犬ぞりの進路を確保したふたりのアイヌ人の優秀さがあったからだと思います。

 明治時代のアイヌは、強い差別をうけており、もし、「官製の南極探検」だったら、アイヌが隊員になることは難しかったのかもしれません。しかし、白瀬は、偏見なく「もっとも的確な技術を持った者」として、アイヌ人を正式な隊員として迎え入れ、犬ぞりの係りとして信頼しました。

<つづく>2006/09/04 月

 白瀬の「南極探検隊・隊員募集」の条件として「係累をもたないこと」という一条がありました。これは、南極で死ぬ可能性を考え、あえて、家族係累がいない者を選んだのです。花守も山辺も独身、山辺は両親を早くに亡くし、係累はいませんでした。

 山辺安之助は、1967年、樺太島(現ロシア・サハリン州)弥満別(ヤマンベツ)に生まれました。
 樺太千島交換条約によって樺太がロシア領になったため、841人の樺太アイヌとともに北海道へ移住。両親がすでに亡くなっていたヤヨマネク(山辺)は、親戚につれられて北海道へ着きました。

 1904年の日露戦争のとき、山辺ら樺太アイヌは、日本軍の物資輸送に協力しました。
 日露戦争後、1906年、樺太が日本領に編入。北海道に強制移住されられていた山辺は、生まれ故郷の樺太へ帰りました。

 山辺は、樺太アイヌにとって最初の学校を樺太落帆村(現サハリン州レスノエ村)に建設したほか、樺太・富内村(現サハリン州オホーツコエ)の村長として、終生アイヌ民族の誇りをもって、同胞のために働きました。
 1910年、山辺と花守は白瀬の「南極隊員募集」を知り、村内のカラフト犬を無償で提供。ともに、自ら犬の係として働くことを申し出ました。

 後年、山辺は、アイヌ人として初めて日本政府から勲八等瑞宝章に叙せられました。
 日露戦争のときの功績をあらためて認める、というのが叙勲の理由であって、アイヌのために学校を建てたり村のために働いたりという功績を認めてのことでもなく、「南極での功績を認める」でもありません。

 このとき受けた金一封をアイヌのために寄付したのをはじめ、山辺はアイヌの生活向上のために生涯つくしました。

 花守と山辺の名を探してネット検索中、
「 山辺安之助氏(1867~1923)の子孫を探している。山辺氏は、そりを引く樺太犬の担当として、白瀬中尉の探検を支えた。自叙伝「あいぬ物語」や、言語学者金田一京助氏による著作で、アイヌ民族の生活向上に尽くした人生が広く知られている。今年6月にサハリンで行う追悼行事を前に、同会では「ぜひ名乗り出てほしい」と願っている(20014.16)」

という「たずね人掲示板」のコメントをみつけたのですが、花守と山辺の顕彰碑落成に、子孫が立ち会ったという記事は見あたりませんでした。

 花守と山辺の功績を称えた慰霊碑が、稚内市サハリン課などの協力により、サハリン州レスノエ村(旧落帆村)に建立されました。
 建立者は、白瀬南極探検隊慰霊碑再興会。

 2000年に功績を記録した木碑が建てられ、2004年に御影石にステンレス板をはめ込んだ顕彰碑がたてられました。

碑文。
『 1910年 この地より山辺安之助と花守信吉と犬達は南極探検に発つ。
彼らを偲びつつ日露友好の記念としてこれを建立する
2004/7/7 白瀬南極探検隊慰霊碑再興会 』

サハリン島コルサコフ地区レスノエ村(旧樺太・落帆村)。サハリンの南東部、トゥナイチャ湖の北岸にある小さな集落です。
 ふたりの墓のありかは、もはやレスノエ村の人にもわからなくなっているそうです。

<つづく>2006/09/05 火


大和雪原

 山辺安之助と花守信吉が大切にしたカラフト犬26匹。
 ふたりにとっては、「家族」の犬たちでしたが、白瀬隊にとっては「南極を走る足」。
 白瀬隊が船から降ろしたカラフト犬26匹のうち、23匹が氷原の走行に耐えられるとされ、10匹ずつが2台の犬ぞりを牽きました。

 2台の犬ぞり、一台は花守、一台は山辺が操縦します。
 白瀬隊長らを乗せて、犬ぞりは白い氷原を疾駆しました。
 激しい寒さ。吹き付ける風。走っても走っても、極点は白い氷原のさき。
 犬ぞりは限界まで走り続けました。

 悪天候が突進隊の走行をはばみました。
 白瀬の胸中「一歩を進むあたわず。進まんか、死せんのみ。使命は死よりも重し」
 しかし、ついに1912年、2月28日、極点到達を断念。

 白瀬隊は、西経156度37分・南緯80度5分の地に日章旗をうちたて、一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名しました。

 大和雪原に建てた旗を囲む突進隊の写真が、南極展に展示されていました。
 深く首をうなだれた姿、南極に日章旗をたてた晴れがましさよりも、まるで半旗をかかげた通夜のような雰囲気です。

 このうつむく姿、どれほどこの地点での退却が無念きわまりないものであったか、白瀬のくやし涙が見えるようです。
 直線距離にしてあと極点まで千百キロでした。

 「使命は死よりも重し」しかし、白瀬は、南極点に立つ栄光よりも隊員の命を優先しました。
 探検に必要な食料がつきかけたのです。
 「隊員の命をまっとうしてこそ、探検の成功である」白瀬は、千島での教訓を忘れませんでした。

 南極点一番乗りのアムンゼン隊から遅れること1ヶ月。スコット隊は白瀬隊に先んじて極点に到達しました。しかし、馬そりを使ったスコット隊は、馬が氷原に耐えられず食料もつき、帰路全滅していました。
 
 白瀬隊が到達した大和雪原は、南極の大陸上ではなく、氷原が海に押し出されてできた棚氷の上にあります。大和雪原は、ロス棚氷の上の地点です。
 地球温暖化の影響が南極にも押し寄せています。ロス棚氷も、どんどん溶けて、大きな氷の固まりが海に崩落していっているそうです。
 大和雪原が、溶けて無くなってしまうなどということがないように、、、、

下記HPの中程に大和雪原に立つ白瀬の写真があります。(著作権の切れた写真画像を集めているサイトです)
http://www.tanken.com/nankyoku.html

<つづく>2006/09/06 水

花守と犬たちとの別れ

 花守信吉と山辺安之助、歴史に残る快挙にたずさわり、犬ぞりによって隊員の命を預かる重要な働きをしたのに、帰国後の花守は不遇な一生をおえました。

 すでに天候悪化の時期をむかえた南極を去り、開南丸で無事戻るために、探検に要した荷物はできる限り少なくしなければなりませんでした。
 隊長が下した決断は、「犬26匹のうち、連れ戻ることができるのは6匹のみ」。
 20匹の犬は船に乗ることを許されませんでした。

 犬たちは悲しげに泣き続け、船が離れていくのを見送りました。
 「南極を離れる際に犬との別れに耐えられず、花守は泣き続けた」と、白瀬は書き残しています。

 故郷に戻った花守と山辺は、仲間のアイヌから「アイヌ・チャランケ(査問)」を受けました。チャランケは、アイヌの裁判のようなものです。
 必ず連れ戻ると約束した犬を置き去りにしたことへの査問。

 犬を南極においてきたのは山辺や花守の責任ではありません。隊員の命を優先し、南極暴風域から生きて戻るためのやむを得ない措置でした。
 しかし、犬を家族同様に思うアイヌにとっては、家族をおいてきたのと同じ、許されないことだったのです。

 山辺はアイヌ同胞のために一身を投げ出すことで、後半生をすごしました。
 山辺安之助は、南極から帰国後、アイヌ語研究者金田一京助の求めに応じて自伝を語り、「あいぬ物語」として博文館から出版されました。『金田一京助全集』に所収。

 花守は、犬を置き去りにしたことの呵責から立ちなおれないまま、不遇な生涯をおえたそうです。

 探検記に興味をもってきた私なのに、これまで知らなかった花守と山辺の名。南極探検の壮挙に、花守と山辺のふたりのアイヌ人が加わったことを誇りに思い、ふたりの功績を忘れないようにしたいと思います。

<山辺と花守についてくわしく知りたい方の参考として> 
佐藤忠悦「南極に立った樺太アイヌ―白瀬南極探検隊秘話」東洋書店2004
金田一京助翻訳編集、山辺安之助著「あいぬ物語」金田一京助全集所収

下記HPのページ一番上に佐藤忠悦の著作紹介、下の方に花守と山辺の写真があります
http://homepage1.nifty.com/~hassy/Ochiho.html

 白瀬隊からのち44年後の南極観測隊。第1次南極観測隊撤退の際に置き去りにされたタロとジロのお話はよく知られています。(タロジロ物語は9/09に記載)
 タロとジロが自力で生き延びたことを考えると、白瀬隊が南極の地においてきて、花守信吉を嘆かせた20匹のカラフト犬たち、おそらくは協力して狩りをして、何匹かは南極で生き続けたのではないかと思います。

 白瀬隊が犬を南極に放ったこと、花守には痛恨の悲しみとなりましたが、犬への扱いとして、次の例とも比較すべき。
 南極点に一番乗りをしたアムンゼン隊は、用済みになった犬を、遠慮無く食料としていた、、、、

 花守信吉にとって「アイヌの家族」を南極から連れ帰らなかったことは、一生の悲しみであったろうけれど、20匹のカラフト犬に野生の大地が与えられたのだ、と、私は思っています。

<つづく>2006/09/07 木



白瀬探検隊がのこしたもの

 南極展の展示物のなかに、白瀬から大隈重信あての書状がありました。巻紙に筆で記された立派な書です。探検隊援助への感謝の手紙です。
 白瀬探検隊を支えた大隈のため、白瀬は開南丸の接岸した湾を「大隈湾」と名付けました。

 早稲田大学には、探検隊同行カメラマン田泉保直技師が撮影した映画フィルムが遺されています。白瀬隊長以下27名の姿が15分間の映像に刻まれている映像、図書館AV室にて閲覧可能。
 そのほか、極地研究所にもこの映像フィルムがダビング保存されています。

 のこされた記録映像も、私たちにとって、貴重な宝です。映画というメディアが誕生したばかり、明治45年の映像記録そのものが、映画史ドキュメンタリー史の上でも貴重です。

 写真や映像のなかにのこされた白瀬探検隊の姿。また、白瀬の著書『南極探検記』も、大切な記録のひとつです。
 さきにのべたように、白瀬矗がのこした物品は多くありません。「寝袋」「防寒手袋」「南極でつかったすりこぎ」、、、、
 だが、何より、彼は私たちに「探検精神」「未知の世界へ挑戦する心」をのこしてくれました。

 白瀬京子は、秋田県金浦町に設立された白瀬南極探検隊博物館初代館長となりました。
 京子は白瀬矗の孫にあたり、「雪原へ行く」という白瀬の伝記を執筆出版しました。
 白瀬の妻の胸中など、家族子孫でなければ知りえないことなども書かれており、白瀬自身の探検記録とともに、貴重な伝記です。

 白瀬京子は、1970年34歳のとき、3人乗り小型ヨットによる日本初の世界一周航海を成し遂げた女性です。
 白瀬はコック長。長といっても、コックはひとり。船長と機関長の男性ふたりとともに、3人のチームで、堂々世界一周に成功しました。
1969年5月5日~1970年8月22日までの、475日の西周り一周でした。

 窮乏生活の中で一生を終えた白瀬矗でしたが、孫娘が小型ヨット世界一周航海を成し遂げたのを知って、なんだか、とてもうれしい気がします。矗の探検精神がしっかりと受け継がれた、と感じるのです。

 南極展は、1956年第一次南極観測から50周年を記念する展示が中心なので、白瀬隊についての話は、ごく簡単な説明しかなかったため、南極展を見たあと、白瀬矗について調べはじめました。

 多くの探検ファンと同じく、これまでは、昔読んだ伝記でしか「白瀬中尉」の姿を知りませんでした。
 今回、白瀬の生涯を知り、想像以上の波瀾万丈の一生であったことがわかりました。

 以上、春庭コラム「白瀬矗の南極探検・未知への挑戦」は、「南極展」に展示してあった「白瀬矗のすりこぎ」「野村直吉の航海日誌」「三浦幸彦の南極光景墨絵」「開南丸の模型と命名書」「白瀬隊の写真」などの展示物を見た感想から発展し、春庭が下記図書やリンクをつけたHPを参照しながら構成執筆いたしました。

@参考
白瀬矗「私の南極探検記」日本図書センター
白瀬京子「雪原へ行く」秋田書房

 また、稚内市役所に「サハリン課」がある、というようなことも、今までまったく知らなかった。調べ出すと、興味深いことが次々に見つかります。
 書きはじめたときは、「極地研究所」「南極物語」「南極展」の3回で終了の予定だったのですが、21回連載となりました。

 南極展は9月3日で終了しましたが、春庭の「南極展」紹介、エピローグとして、タロジロの話、砕氷船の話が続きます。

<つづく>2006/09/08 木


未知の世界

 南極展、南極から運ばれた氷にさわってみるコーナーもありました。
 月から南極へと届いた隕石と火星からの隕石にも「さわってみよう」というコーナーがあり、隕石にタッチできました。

 もちろん、私は好奇心丸だしで、自由研究のメモをかかえた小学生といっしょにさわってみました。
 南極の氷は、雪が圧縮されて固まってできたものなので、不透明です。

 タッチしてみて、楽しかったけれど、これ、小さく割って、「南極の氷入りジュース」
とか、「南極氷のオンザロック」とか作って、南極展おみやげ販売コーナーで飲めたらいいのに、って思いました。「ペンギンぬいぐるみ」とか、「南極まんじゅう」とかより、お金出す気になるのになあ。
 南極の氷、「未知の味」への挑戦!してみたかった。

 「未知の世界」への挑戦。宇宙や深海や極地だけが「未知の世界」ではありません。

 先日偶然見たドキュメンタリー(日本テレビ放映8/27日)も、感動的な未知への挑戦でした。
 ヨーロッパアルプス・ブライトホルン(標高4164m)登山を行った、隊長・野口健さんと隊員30人の記録。

 筑波大学で開発された2倍の力を出せるロボットスーツ、このロボットスーツの名前はHALです!
 HALを着た理学療養士松本武志さんが、交通事故後下半身麻痺の内田清司さんをおぶい、隊長野口さんの指導によりアルプスを一歩一歩登っていきます。
 他の隊員は、筋ジストロフィの高校生・井出今日我(きょうが)さんをそりに乗せてひいて上ります。

 不自由な体でもアルプスに登ってみたいと望んだ内田さん井出さんにとっても、アルピニスト野口さんにとっても、ロボットスーツを開発した山海教授にとっても、大きな「未知への挑戦」でした。

 大切な文化への「未知への挑戦」を取りやめた例もあります。
 まだ全巻が完成していないアイヌユーカラ。
 金成まつ(1875~1961)が語り、ローマ字で記述されたノートの日本語訳、金田一京助が9話を翻訳したあと、アイヌ文化継承をめざす萱野茂さんが日本語訳を続けてきました。

 しかし、萱野さんが2006年5月に亡くなると、文化庁は予算がないからと、翻訳の中途打ち切り決定、未知への挑戦を放棄しました。
 米軍へは3兆円の「思いやり予算」を出すのに、アイヌ語翻訳の予算百万円は出せないという。

 中間子という未知の存在の探求をつづけ、後半生は世界平和のために尽くした湯川博士のことばです。
『 未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探求の結果として、できるのである。目的地がどこにあるか、まだわからない。もちろん、目的地へ向かってのまっすぐな道など、できてはいない。

 目の前にあるのは、先人がある所まで切り開いた道だけである。この道を真直ぐに切り開いて行けば、目的地に到達できるのか、あるいは途中で、別の方向へ枝道をつけねばならないのか。「ずいぶんまわり道をしたものだ」と言うのは、目的地を見つけた後の話である。 』湯川秀樹「旅人」より

 さまざまな「未知への挑戦」
 私も、わたしなりに「未知への挑戦」を 続けます。

@参照パンフレット(極地研究所で8/11にもらったもの)
「Japanese Anterctic Activities  日本の南極観測」
「南極 地球を考える情報ポケット 環境の鍵を握る氷の大陸」南極地域観測50周年
「昭和基地の生活(南極地域観測隊設営部門)」

<南極展 おわり>


ぽかぽか春庭「しらせ南極物語」

2008-09-23 17:32:00 | 日記


南極・極地研究所

 夏休み好きなことめぐり。「未知の世界へのあこがれ」。
 8/11に、偶然「国立極地研究所」の前を通りかかりました。自転車で「王子新道」を走っていて、見つけたのです。
 板橋区加賀にある、極地研究所。ここで極地の研究が行われていること、知る人ぞ知る存在ではあるのでしょうが、私はぜんぜん知りませんでした。

 科学博物館で開催中の「南極展」を見に行こうと思っていたところだったので、「おや、こんなところに極地研究所なんてのがあったんだ」と思って、中に入ってみました。
 好奇心のおもむくまま、「知らないこと」を知りたがるのは、こどものころから変わりません。

 こどものころ、「探検家になりたい」という夢を持っていました。
 スコットやアムンゼンの極地探検記を読み、リビングストンの「アフリカ探検」やスウェン・ヘディン「さまよえる湖ロブノール」を読み、とにかく「探検家」になって、未知の世界へ行くのだ、と決めました。

 行方不明になったリビングストンを探し出したスタンレーが新聞記者だったことから、小学校卒業文集の「将来の希望」には「ジャーナリストになる」と書きました。
 20世紀後半には、もう、探検家が地理的探検する土地は残されていないってわかってきたこともあって、ジャーナリストとして、未知の世界へ飛び出そうと思いました。
 本多勝一の『極限の民族』(1967)など、ジャーナリストによる「知られざる土地」の記録は、お手本に思えました。 

 泉靖一、石田英一郎、川田順三、クロ-ド・レヴィ・ストロ-ス、トール・ハイエルダールらの仕事を知ってからは、「文化人類学者になって、未知の文化を知ろう」と、思いました。
 文化人類学のなかでも神話と演劇芸能に焦点をあてた演劇人類学を志し、フィールドワークの地として東アフリカ・ナイロビで9ヶ月すごしました。

 ナイロビでは、民族舞踊の練習などもしましたが、サファリツアーで動物を見たり、マサイ族やキクユ族ソマリ族の家にホームステイさせてもらって、楽しくすごして終わりました。

 結局、最終的な専攻は日本語言語文化・日本語学になり、今日に至っています。
 世界中から日本の大学・大学院へやってくる留学生とふれあうことが楽しいです。
 知らなかった土地や文化について、たくさん教えてもらえました。今でも未知の世界への探求心は、消えたことがありません。

 現在、人類に残されている未知の世界は、「宇宙」「深海」「地底」そして「極地」
 極点に立つことができた人間は、まだ少数です。極地はまだまだ「未知の世界」の魅力に富んでいます。

<つづく>
00:25 |2006/08/23 水


南極物語と隕石

 極地研究所、管理資料棟の1階は展示ホールとして公開されています。
 極地で採集された隕石や南極探検に使った雪上車が展示してありました。
 しかし、「白瀬中尉の遺品」などは、プレートのみで、展示品は「南極展」のために、上野の科学博物館で展示中ということでした。

 「極地研究所」は、極地に関する総合的な研究をしている大学共同利用機関であり、大学院大学として、博士課程で研究者を育てています。
 また、南極の昭和基地、みずほ基地、飛鳥基地を使う南極観測隊の統括を行っています。

 管理資料棟の1階で、極地研究所発行のパンフレットをもらいました。南極展を見る前の予習によさそうです。

 去年の暮れにフランス映画『皇帝ペンギン』を見ました。野生のペンギンを追いかけた記録映画です。
 今年6月にディズニーの『南極物語』を見ました。

 1958年、昭和基地に起き去りにされた15匹のカラフト犬。その中でタロとジロの2匹が生き残りました。
 タロとジロの実話をもとにして、高倉健主演の日本版「南極物語」が制作され、1983年公開。
 さらにをディズニーがリメイクした動物ものがディズニー版「「南極物語」。
 こちらには、8匹のシベリアンハスキーが登場します。

 「皇帝ペンギン」も「南極物語」もどちらも、南極がとても美しく撮影されていました。
 実際には美しいばかりではない、過酷なブリザードと夜ばかりの極寒の季節もあるのだけれど、映画で見る限りでは、一度は行ってペンギンの姿やオーロラを見たいと思える映像でした。

 南極、北極へは、近年観光ツアーも出ています。「探検」ではなく、ツアーのイージーな観光旅行でもいいから、飛行機や船で近づける場所まで行って、南極、行ってみたいなあ。

 ディズニー版『南極物語』で、主人公の「極地ガイド」ジェリーが案内を引き受けたのは、隕石学者デイビス・マクラーレン博士の探索行。
 死にかけるような苦労をして採集した隕石は、学術的に貴重なものでした。
 博士の学会での発表は大成功をおさめました。

 映画を見て、はじめて「へぇ、南極で隕石を採集できるんだ」と思ったのでしたが、実は、日本の南極研究は、隕石研究の分野で世界有数の採集数を誇っているということを、極地研究所のパンフレットで知りました。
 極地研究所の展示ホールに隕石が並んでいます。

 宇宙から地球へやってくる、「宇宙の秘密を解き明かすための手紙」とも言える隕石。他の地域に落ちた石は、ほとんどが風化してしまうのですが、南極へ落ちた隕石は氷によって包まれ、そのまま保存されます。天然の冷凍庫。

 極地研究所南極隕石センターは1万7千個もの隕石を保管しており、世界最高水準の研究が行われています。
 しかも、研究者はどの国の学者でも、極地研究所の資料をつかうことができるよう、オープンにされているってところがすばらしい。太っ腹です。

 月から来た隕石の写真など、こちらで見ることができます。
 http://yamato.nipr.ac.jp/AMRC/collection/index.html

<つづく>
00:01 |2006/08/24 木


タロとジロ

 南極ときいて思い出す名前が、「タロとジロ」。
 私が子供の頃、日本中にその名が知られたカラフト犬、日本版『南極物語』の主人公です。
 ディズニー『南極物語』のもととなった映画、高倉健主演『南極物語』(1983)。
 南極でロケが行われ、本物のオーロラが映画画面に映されたのは、はじめてのことでした。

 8/24、夏休みの親子連れでにぎわう科学博物館を観覧しました。科博と極地研究所の共同主催による「極地観測50周年記念」のイベントです。
 南極展の第4コーナー。
 剥製のタロジロが向き合って立っています。
 ジロの胸の下には、白い毛があります。タロにはありません。同じカラフト犬の母から生まれた兄弟で、よく似ている2匹ですが、この白い毛で見分けがつきます。

 ジロは、1960年に南極で病気のため死にました。剥製になって科博に展示されていたので、見たことがありました。
 タロは、南極から日本へ帰ったあと、北海道大学植物園で15歳まで余生を送り、1970年に死にました。
 タロ剥製は北海道大学に展示されていて、私は見たことがありませんでした。

 展示のわきでは、南極記録映像のなかから、カラフト犬が映っている場面を編集した「タロ、ジロ物語」が数分のビデオになって上映されていました。

 タロとジロは、北海道生まれのカラフト犬の兄弟です。犬ぞりをひくため、1957(昭和32)年、第一次南極観測隊とともに南極昭和基地へ。
 しかし、天候悪化のため隊員はヘリコプターで脱出。15匹の犬は、当座分のエサを与えられて、つながれたまま残されました。

<つづく>

白い大地のカラフト犬

 天候回復次第、第2次隊員が犬のところへ来る予定だったので、戻ったらすぐにも犬ぞりが使用できるよう、犬ぞりの係留鎖につないだままにしておかれました。
 しかし砕氷船宗谷は氷に囲まれて動けず、第2次隊は南極に上陸することなく撤退。
 第3次隊員が昭和基地に戻れたのは1年後でした。

 放置された15匹のカラフト犬たち。
 7匹は首輪がはずれず、そのまま死んでいました。犬の遺体には損傷がなく、どんなに飢えても、犬たちが共食いをしなかったことがわかったそうです。

 首輪がはずれた8匹のうち、一番若かったタロとジロの2匹のみが、昭和基地に残っていました。1年間の過酷な南極の月日を、自分たちの力だけで生き続けたのです。
 1958年2月から1959年1月までの1年間、2匹は助け合って狩りをし、野生の暮らしを続けました。

 南極の冬(6~8月)は、一日中太陽がでない夜だけの世界。そんな中をよくも生き延びたものです。
 タロとジロは、ペンギンやあざらしのフンなどをエサにしていました。
 兄弟が2匹で連携しながらペンギンを狩っているようすが第3次越冬隊により、目撃されました。

 1958年、「タロとジロ生存!」というニュースは、日本中で歓迎されました。
 1952年のサンフランシスコ条約発効により独立を回復して6年、ようやく復興が見えてきた時代、タロとジロは、日本の人々に「どん底からのサバイバル」への勇気と元気をあたえてくれました。

 1960年のジロの死から別々の場所に分かれ、剥製になってからも、2匹は別々に展示されていたので、2匹がいっしょにすごすのは、8年ぶりなのだそうです。
 ひさしぶりの対面。

 きっと、南極の白い大地、南極の氷原をともに駆けめぐったこと、ペンギンやあざらしのこと、天を彩ったオーロラや満点の星、さまざまなことを語りあっていることでしょう。

タロジロの写真など、稚内市のHP
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/main/gaiyo/tarojiro/index.htm

 タロとジロにとっては、南極で「野生の日々」をすごしたこと、彼らの一生にとって、決してつらいばかりの日々ではなかったのだと思います。
 自らの力で生き抜いた1年間は、一日一日が貴重なものであったことでしょう。

<つづく>
2006/09/09 土


白瀬矗のすりこぎ

 南極展、展示の最初のコーナーは、1912(明治45)年日本人として最初に南極探検を行った白瀬隊について。
 隊長、陸軍中尉白瀬矗(しらせ のぶ1861~1946)。
 白瀬は、開南丸という漁船を改造したにすぎない帆船で南極へ行き、苦難の末、南緯80度まで達し、日章旗をうちたてました。

 他国の南極探検隊が、イギリスのスコット隊全滅をはじめ、多くの犠牲のうえに行われたのに対し、白瀬は貧弱な装備にもかかわらず、ひとりの死者もださず、全員無事に帰国をはたしました。

 8月11日に訪れた極地研究所の展示ホール、白瀬中尉遺品とかかれたパネルの中は、からっぽでした。科博の南極展で展示中というので、どんな遺品があるのかと思って、興味をもって科博の展示を見ました。

 白瀬の遺品として展示されているのは、白瀬の生地にある記念館に保存されていた寝袋ひとつ。極地研究所所蔵の遺品というのは、「防寒手袋一組」「金槌ひとつ」「すりこぎひとつ」
これで全部だった。ほかに何もない。

 「えっ、すりこぎ?なんで、よりによってすりこぎを展示してあるの?」
 最初、遺品として「すりこぎ」をみたとき、「これ、南極と関わる特別な用途があったの?」と思いました。

 展示室に立っていた係りの女性に「このすりこぎ、何のために使ったのですか」と、質問したが、用途はわからないといい、極地研究所の担当者に電話で聞いてくれました。

 担当者が来て、説明してくれたところでは「ただのすりこぎです。料理に使っただけです」
 南極で料理につかったすりこぎ。これ以外に、白瀬が南極でつかった品物が遺されていない。
 そのためにすりこぎも大事な白瀬の遺品なのです。

 白瀬は、1912年に成功した南極探検行の借金を、一生かかって返済し続け、85歳で死んだときには、すりこぎがひとつ遺されたのみ。 

 国家事業として取り組むべきだった南極探検。議会は白瀬の探検に3万円を支給すると決議しながら、結局実際にはお金を1円もだしませんでした。

 探検には12万円(現在で1億2千万~2億円)の費用がかかりました。大隈重信が中心となって、民間の寄付によって集められたのは、7万円。
 
 帰国後、南極までを往復した開南丸を2万円で売却したものの、それでもなお4万円(現在のお金で4~5000万円)の借金が残り、白瀬ひとりが背負うことになりました。

 白瀬の後半生は、借金返済に苦しみながらの生活となりました。
 全国各地を講演して歩いたのも、帰国後2年ほど。大正時代になると、人々は南極探検競争の熱気も忘れてしまったのです。

 売れるものは全部売りはらいました。探検に使った品を所望されれば、幾分かの謝礼とひきかえに手放さざるを得ませんでした。こうして栄光の白瀬探検隊の品は散逸し、白瀬が亡くなったとき手元に残されていた品はいくつもありませんでした。

 白瀬は、魚屋の2階に間借りした小さな部屋で、すりこぎ1本を「ともに南極ですごした記念の品」として一生を終えました。
 すりこぎは、南極での料理に使った思い出の品。しかし、他の記念の品とちがい、ほしがる人もいなかったために最後まで白瀬の手元に残ったのでしょう。

 1946年、敗戦後の荒れた世相の中、明治の探検家の偉業は忘れ去られており、白瀬の葬儀は寂しい限りだったといいます。
 遺族の生活は困窮し、ある寺の住職の世話によって、かろうじて遺された家族が露命をつなぎました。

<つづく>
01:18 | 2006/08/25 金


白瀬矗の探検志願

 こどものころ、私が夢中になって読み続けてきた「探検もの」の主人公として、白瀬矗は数少ない日本人のひとり。
 私が読んだ白瀬中尉の伝記は、南極から無事帰国したところまでの記述でおわり。そのあとの白瀬について、何も知りませんでした。

 偉業を成し遂げたあとは、陸軍軍人でもあり、栄光につつまれて余生を送ったのだろうと思っていました。
 まさか、すりこぎ一本しか手元に残らないほどの苦しい生活をおくって世を去ったとは、思いもよりませんでした。

 白瀬は、1861年秋田県(旧金浦町)で、寺の住職の子として生まれました。11歳のときに北極探検の話を聞いて「探検家」を志しました。

 1879(明治12)年、東京浅草にある僧侶のための学校に入学したのですが、探検家になる夢をあきらめられず、当時探検を行うのに一番近い職業、軍人になることにしました。
 西欧の国々は「帝国主義の時代」、新たな土地の領有権を主張するために、軍人探検家を前人未踏の地へ派遣していました。

 僧侶になるために名付けられた知教という名を、一存で矗(のぶ)に改名。「矗」は、「直」が三つ重なって立つ。いつの日か、極点に直立することを心に誓い、陸軍教導団騎兵科での勉学に励みました。1881(明治14)年、騎兵科を卒業し、下士官伍長となりました。

 矗は、兵士としては、「軍隊」にふさわしくない軍人でした。上官の命令はどんな理不尽なことでも従うのが「よい軍人」だったからです。矗は、上司にも率直に意見を述べ、自分が納得するまで命令に従わない異端者でした。

 たとえば、当時「支給の軍服は、軍のものだから、直接名前を書き入れてはいけない」とされていたのに、矗は「軍のものであっても、支給されている間は、所有権使用権は与えられた者にあるはず。他の軍服とまちがえずに責任を持って管理するためには、名前があったほうがよい」と、軍服軍帽に名前を書き込み、上官との対立を辞さない、そんな兵士でした。

 また、当時の軍には、「結婚に際しては、保証金を軍に納める」という軍事法がありました。(この軍事法については、『軍事史学』通巻26号(1971年9月号)日本軍事史雑話(二)松下芳男「結婚の保証金」などに論究されている)

 矗は、仙台赴任中の1886(明治20)年に、やすと所帯をもったのですが、これは非公式なものでした。保証金を用意できず、子供がふたり生まれても、妻の私生児として戸籍にのせていました。

 他にも結婚保証金が払えずに、法律上の結婚ができないまま子供を私生児にしている軍人が多いことを知り、このような保証金制度は廃止すべきだ、という意見を投書し、大問題をひきおこしました。軍の法律に逆らうなど、前代未聞のことでした。

 軍隊内では問題児であった白瀬でしたが、そんな白瀬の人柄を認めてくれる人もいました。
 「戦争をするためでなく、探検をするために軍隊に入った」という白瀬のまっすぐな気持ちを、陸軍の雄、児玉源太郎が認めてくれたのです。
 1890(明治23)年 児玉源太郎は、白瀬に樺太・千島の探検をすすめました。

<つづく>
00:05 | 2006/08/26 土



千島探検

 児玉源太郎の知己を得たおかげで、白瀬は問題をおこしながらも軍務を負われることもなく、1893(明治26)年、白瀬32歳のとき、郡司成忠海軍大尉(文学者幸田露伴の兄)を隊長とする千島探検隊に隊員として参加することができました。

 しかし、この千島探検は、郡司の指揮の不備と暴風による船の沈没などの不運が重なり、悲惨な探検行となってしまいました。
 隊員の多くが死亡する中、白瀬が誓ったのは、「探検のためにひとりも犠牲者をだしたくない」という思いでした。
 このときの強い思いは、後年の南極で生かされます。

 政府は1893年、郡司大尉の千島探検には10万円の資金を提供しました。しかし、官費でのこの探検は、隊員の多くが死亡する結果となりました。
 船が暴風雨にあって沈没、隊員19名がこの沈没で死ぬという不運のほか、越冬の島で、寒さや野菜不足など食料準備不足から、15名の隊員が死亡しました。

 生き残った隊員は、白瀬矗のほか、1名のみ。
 しかも、隊長の郡司大尉は、白瀬矗に千島越冬を命じて自分は父親の幸田成延(こうだしげのぶ・幸田露伴の父)が乗船していた軍艦に乗って、内地へ帰ってしまったのです。

 日清戦争へ向かう時節、海軍士官予備役郡司大尉には、いつ召集があるかわからない。お国のため軍人としての職務をまっとうさせるため、郡司を連れ戻す、というのが、幸田老人の論拠でした。
 しかし、それなら、白瀬矗も陸軍予備役。白瀬にも召集令状がくるはずだ、という考えは、老人にはありません。

 実際、日清戦争中、白瀬宅には7度も召集令状が届けられ、留守宅は、「のぶさんは、戦争に行きたくないから、千島から帰らないでいるそうだ」という中傷にみまわれたのでした。

 死んだ隊員のかわりに、幸田成延が連れてきた5人の新しい越冬隊員が白瀬に託されました。
 郡司の主宰する報効義会の会員で、なんの準備も訓練も受けたことのないまったくの素人です。

 新入り5人を、白瀬はよく指導し訓練し、暴風吹きすさぶ厳寒の島での2度目の越冬に耐えました。食料は自分たちでアザラシなどを狩るほかなく、洞窟をみつけての穴居生活でした。

 しかし、食糧不足からくる体力低下、野菜不足からくる壊血病と千島の風土病(水腫病)のため、3人が死亡。白瀬自身も水腫病にかかりましたが、かろうじて生き残りました。

 生き残ったのは、白瀬のほか、2名。しかも、越冬の島から救出されて乗船した船が暴風にあい、せっかく生き残った1名が死亡。

 白瀬の留守宅には、「千島越冬隊全滅」の連絡が来ており、白瀬が帰宅したときは、自分自身の葬式の真っ最中でした。

 後年、白瀬は、このときの郡司大尉の指揮命令に疑問をもち、郡司とは生涯不仲になりました。
 幸田成延は、我が息子郡司成忠を厳寒の島から連れ戻すことに成功したかわりに、彼が連れてきた越冬隊員5名のうち生きて帰れたのは1名だった。いわば、息子の命を、青年4人の命とひきかえにした、と白瀬には感じられたのです。

<つづく>
00:36 | 2006/08/28 月

千島の教訓

 郡司が組織した千島探検隊は、彼の主宰による「報效義会」が資金繰りや連絡を取り仕切っていました。千島を日本領土として確立し、千島への移住開拓することを目的とした集まりでした。

 しかし、「意気に感じて集まった」集団によくあるように、主宰者と事務担当責任などがはっきりしないまま、指揮系統がどうなっているのか曖昧なままの集団でした。

 郡司は日清戦争に従軍するに際して、千島占守島に残してきた越冬隊員について、報效義会に何も指示しないまま出征してしまったのです。
 郡司にしてみれば、すでに島から退去した自分は越冬隊の責任者ではなく、越冬隊への処置は自分からの命令ではなく、報效義会が自主的に行うものと思っていたのでしょう。

 郡司と報效義会のどちらに責任があったのか、という「ことの真相」はわかりませんが、とにかく、島に置き去りにされた6名のうち半分の3名は死んでしまったのです。
 日清戦争の開戦も終戦も、白瀬は知りませんでした。6名の越冬隊員を千島にのこしたのに、郡司が何の処置もとらずに出征したことも知らず、白瀬は、連絡の途絶えた厳寒の島で飢えと闘い続けました。

 後年、この事実を知った白瀬は、自分の目の前で死んでいった隊員を思い、慚愧の念に沈みました。白瀬にとっては、「郡司に置き去りにされ見殺しにされた」と感じられ、裏切られたという思いでした。

 隊長が、隊員の生き死ににかかわる連絡をとることもせずに、自分自身の出征を優先させたなどということは、白瀬には信じがたいことでした。隊長とは、何よりも隊員の生命を尊重すべき存在であるからです。

 郡司大尉が有能な軍人であることは認めつつも、隊長が隊員の命を守る処置をとらなかったこと、白瀬には許すことができませんでした。

 千島探検は、34名もの犠牲者をだして終わりました。
 しかし、白瀬にとっては、千島での越冬は得難い経験となりました。零下30度の寒さとはどういうものか、ブリザードとはどんなものか、食料はどうすべきか、すべてが教訓となりました。
 何より白瀬が肝に銘じたのは、「探検のためにひとりの犠牲者も出してはならない」ということでした。

 白瀬は、千島探検から帰ったあと、1904年、日露戦争に弘前第八師団陸軍少尉として従軍、左手と胸部に負傷。
 しかし、命は助かり、この戦功により、中尉に昇進しました。

 白瀬中尉が探検の準備にとりかかるまで、まだなお5年がかかりました。
 日露戦争から凱旋した児玉源太郎(1852~1906)が、次期首相との期待がかかる中、54歳で病死してしまったからです。
 児玉は、直属の部下になったわけでもない白瀬を暖かく見守り、極点探検への志を常に励ましてくれました。

 最大の精神的支援者を失ってしまった白瀬を、さらに打ちのめすニュースが重なりました。
 1909年4月6日、白瀬が生涯の目標としていた「北極点」にビアリー大佐ら6名が到達。北極点には、アメリカの星条旗が掲げられました。

 白瀬は、このニュースを知ると、まるで死んだように憔悴し、うつろな日々をすごすようになりました。
 これまでの全生涯をかけて邁進してきた目標がすべて失われてしまったと感じ、生きている意味がなくなってしまったのです。

<つづく>
10:34 | 2006/08/29 火


極点はふたつある

 「ビアリー北極点一番乗り」の報で落ち込んだ白瀬が再び立ち上がることができたのは、「極点はふたつある」と考えついたからでした。
 白瀬は、目標を「北極点到達」から、前人未踏の南極にかえました。

 「南極へ行く」と決めた日から、白瀬は資金調達と南極へ航海する船探しに奔走しました。
 議会へ嘆願書を提出し、当初は千島探検と同じ10万円の資金が与えられると決定したのに、いつのまにか、3万円に減額。
 しかも、文部省大蔵省の両省のあいだで、金をどちらが出すかでたらいまわしにされました。

 「学術探検は文部省の管轄」という大蔵省と「お金を出すのは大蔵省」という文部省の両省の間で、「千島の失敗は糊塗されたが、失敗が2度目になったら、責任を追及されるだろう。南極の失敗をいったいだれがとるのだ」という思惑が、いきかっただけで、結局、どちらも、1円の資金も出さなかったのです。

 日本最初の南極探検は、資金の面でも人材の面でも、完全なる「民間事業」でした。白瀬は軍務を退き、「予備役」となり、自身に借金を負って探検を行ったのです。

 しかしながら、資金をもらえなかったかわりに国からの口出しもされずに、白瀬は自分自身で探検計画をたて、実行することができました。
 もっとも難航したのは船探し。

 大型船を買うには資金が不足し、手持ちの資金で買えそうな船は、報效義会の所有する第二報效丸、ただひとつでした。報効義会の主宰者は郡司大尉。白瀬にとっては、千島探検の因縁がからむ船です。
 過酷な厳寒の千島で命を落とした34名の隊員。白瀬はたった2名生き残ったうちのひとりです。白瀬にとって、第二報効丸は、千島で命を落とした隊員の無念をはらすための、供養の船でもありました。

 積年の恩讐を越えて、白瀬は郡司に頭を下げ、船を譲ってくれるよう頼みました。
 白瀬は千島探検の一部始終を本にして出版し、「郡司大尉が隊員を見捨てた」と、断じました。
 むろん、郡司は白瀬を快く思っていません。千島探検記の中で「隊長の資格なし」と書かれたのですから、白瀬の頼みもがんとして聞き入れませんでした。
 膠着状態の交渉の間に入ってくれたのは、郡司の実弟、幸田露伴でした。

 2万5千円で船を譲渡。船は開南丸と改名されました。
 名付け親を引き受けたのは、東郷平八郎。南極展に、この命名の書が展示されていました。

 白瀬が南極探検に出発できたのは、49歳になってからでした。
 平均寿命50歳の時代に、49歳での南極行きは、精神的にも肉体的にもたいへんなことだったでしょう。

 しかし、白瀬にとっては、11歳のときから38年ものあいだ、願い続けた極地探検がようやく実現するのです。年など感じている暇はありませんでした。

 資金繰り、船の準備、隊員の選出。どれもこれも難航しました。
 大隈重信が中心となって集めた民間からの寄付金が7万円。
 一方、白瀬、アムンゼンと南極一番乗りを争ったイギリスのスコット隊は、40万円の資金を国家から支給されていました。

 アムンゼン隊の南極船フラム号はノルウェーの国家威信をかけて建造された船で、資金資材の準備において、白瀬隊とは比べものになりません。
 しかし、万全の装備を誇ったアムンゼン隊ですら、クレバスやブリザードの難所で、隊員が命をおとしたのです。

 白瀬隊の隊員27人が全員無事に帰国できたことは、極地探検史のなかでも、壮挙といえます。
 南緯80度を越えたのは、世界史上4組目。アジアでは最初のことです。何のデータも経験もない中、手探りでの探検でした。

 白瀬隊の開南丸。
 白瀬が南極探検に使った船は,1910(明治43)に三重県大湊で進水した3本マストのスクーナー型木造漁船(当初199トン)です。たった200トンの木造船でした。

 開南丸の帆だけでは南極の氷海暴風域での航海に耐えられないために、18馬力の中古蒸気機関を購入し、かろうじて補助エンジンとして装備しました。

 南極で白瀬隊と出会ったアムンゼンが、「そんな船でよくも南極までやってきたものだ」と、驚きをかくさなかったという貧弱な船でした。

 南極展に展示されている開南丸の模型。いっしょに並べられている砕氷船に比べると、ほんとうにおもちゃのような、小さな帆船です。

<つづく>
09:45 | 2006/08/30 水

 やっとの思いで手に入れた船でしたが、また問題が起こりました。
 200トン足らずの船で出航すると知り、それまで「記者同行で独占報道」を条件に援助を約束していた朝日新聞社は、手のひらをかえして「失敗するとわかっている暴挙に対して、これ以上支援できない」と、手をひきました。

 資金集めの苦しさは倍加しました。なにもかも不足のまま、出発せざるを得ませんでした。これ以上出航を遅らせたら、朝日以外の支援者も手をひいてしまうかもしれない、というギリギリの選択でした。

 資金の面では不足でしたが、南極から全員生還の壮挙は、国や軍の意向に関係なく白瀬が自分自身で緻密な計画を立て、自分の目で隊員を選ぶことができた結果だと思います。
 隊員の人物を知ると、白瀬の「人間を見る目のたしかさ」が感じられます。

 「探検に必要なのは、船や装備、資材だけではない、一番大事なのは人間だ」と考え、300人の応募者のなかから、白瀬がひとりひとり面接して26人を自らの目で選びました。

 南極展に展示されていた船長の航海日誌や絵、隊員の墨絵による南極風景を見ても、白瀬隊のメンバーが、豊かな感性を持つすぐれた人物であったことが感じられます。

<つづく>
00:08 |


船長野村直吉

 白瀬は、開南丸船長に野村直吉を選出しました。
 野村は、300人の応募者中、まっさきに応募してきたうちのひとりです。
 野村船長は探検隊の右腕として、資金募集の演説もするなど、もっとも重要な人物となりました。

野村直吉の写真と年譜
http://www.city.hakui.ishikawa.jp/bunkazai/rekimin/o_rekimintop/rekishitanhou/ijin/nomuranaokichi.htm

 南極への往復を果たした野村直吉は、詳しい航海日誌と南極の風景画を残しています。
 南極展の展示第2コーナーに、野村船長の細かい字で克明に記録された日誌と絵がありました。

 南極の澄み切った空の青い色が94年後もそのまま残っている美しい絵、心うたれました。
 1912年に描かれた南極の光景、まだ、南極を見た人が世界にわずかだったころの絵です。

 たった200トンの、もともとは漁船であった船で南極までを往復できたのは、野村直吉が卓越した航海術をもっていたからです。
 野村は、緻密な計算とするどい感と技術で、南極の海を渡りきりました。

 1910年11月28日開南丸は東京芝浦埠頭から出港。1911年2月11日ニュージーランド・ウェリントン港から南極へ向かいました。

 しかし、1度目の南極行きは、さすがに失敗でした。
 氷の海を航海するなどということは、まったく経験のないこと。200トンの小さな帆船は氷に阻まれ、シドニーに引き返しました。
 一行は、シドニー近くの海岸キャンプ地(現ウラーラ市)で再起をはかることになりました。

 再度の南極行きをめざし、船長・野村直吉は、多田書記長と一時帰国しました。責任者としてシドニーに残った白瀬に代わり、探検行への寄付をつのるためです。野村は大隈重信へふたたびの資金調達を要請し、演説会を開いて支援を訴えました。

 野村のことば。「今にして我々が帰国すれば、必ずや列国の物笑いを招くであろうと思う。なんとかして再挙を決行して帰還したいから、それだけの資金の調達をお願いしたい」

 しかし、二度目の資金集めなかなかうまくいきません。キャンプ地での足止め待機は半年にもおよびました。

<つづく>
00:05 |2006/08/31 木


27番目の隊員 

 船長野村直吉の航海日誌の絵とともに、隊員三宅幸彦(1884-1965)の墨絵が、94年前の南極の姿を私たちに伝えてくれます。

 三宅は紀州の材木商の家に生まれました。祖父について渡米し、英語を身につけたのち、職を転々としながら世界を放浪しました。
 1911年、貿易商会番頭としてシドニーで働いているとき、白瀬と出会い、通訳兼見習運転士として南極探検隊に参加することになりました。白瀬隊27番目の隊員です。
 三宅が中途採用になったのには、理由があります。欠員があったからです。

 白瀬が探検隊員を募集したとき、次のような条件が新聞広告に載りました。
 募集は、船員十五名。50トン以上の帆船に3年以上乗り組んだ経験が条件。
 陸上隊十名。「身体強壮にしてよく摂氏氷点下四十度の寒気に堪うべき者」

 探検隊員の資格
一、身体強壮にして、身長五尺二寸(一五七・六センチ)以上。
二、年齢二十五歳以上、四十歳未満の者にて、堅忍不抜の精神を有し、かつ多量の飲酒をせず、歯力強健にして梅干の核(たね )をくだき得るもの。
三、家族の係累なく、あらかじめ関係者の承諾を得、さらに後顧の患いなき者。
四、現に兵役に関係なき者。
五、所要の隊員は五名とす。内理学専攻者一名、天文学専攻者一名、労働者一名、大工・鍛冶各一名とす。

 氷点下40度の寒さに耐える条件として、「酒を飲むものはだめ」はわかるとして、「梅干しのタネをくだき得るもの」とは、なにか。これは、白瀬が千島で体験したことがもとになっています。
 氷点下では、はき出す息も食べ物も何もかも凍りつく。凍って固まった食べ物をのどにとおすには、梅干しのタネをかみ砕く強い歯を持っていないと、栄養を補給できないから。

 また、「現に兵役に関係なき者」とは、郡司大尉が日清戦争に召集されるかもしれないからと、さっさと帰ってしまった苦い経験からきたこと。
 この厳しい条件を通って採用された隊員は27名。

 船員の選出は順調にいきましたが、学術要員の人選は難航しました。
 「民間事業」である白瀬の探検に、学術界は冷ややな対応をとりました。そのために、探検に必要な気象天文に通じた者がなかなか決まらなかったのです。

 武田輝太郎(たけだてるたろう)(32歳)福岡県出身、日本気象学会会員。五高教授の助手として天文・気象・動植物を研究した経験をもっています。
 もう一人は、粟根鉄蔵(44歳)広島県出身、測量と天文学、写真記録を担当予定でした。

 しかし、粟根は出航直前になって参加をとりやめまてしまいました。
 新聞社さえ「失敗するとわかっている暴挙」と断じた、たった200トンの船を見て、「こりゃダメだ」と逃げ出したのか、「家族の係累なく後顧のうれいなき者」という条件をのんだはずなのに、後顧のうれいができたのか。

 三宅がシドニーで中途採用となったのは、この「ひとり抜けた穴」があったからであり、また、シドニーの生活には英語が話せる者が必要だったからです。

<つづく>
2006/09/01 金


スパイ嫌疑

 シドニー市から100km離れた海岸のテントで白瀬隊は心細く暮らし、野村が資金を得て戻ってくるのを、待ちました。「テントでの待機生活」というものの、要するに野宿です。
 地元のオーストラリア市民からみれば、「得たいの知れない野宿者集団」にすぎません。
 英語がわからない隊員たちの生活を、三宅幸彦が通訳として支えました。

 南極探検から日本へ帰国後も、三宅は日本には落ち着かず、ボルネオなどで事業に従事しました。
 子孫の消息などはわかっていませんが、彼の遺した南極の墨絵は、今も静かに南極の美しさを伝えています。

 シドニー待機中も波乱の日々が続きました。
 シドニー・パースリー湾に面したキャンプ地の近くに海軍基地があったことから、「彼らは日本のスパイではないか」と、地元の新聞に書きたてられ、疑惑の目を向けられてしましました。

 苦境におちいった白瀬隊を救ってくれたのは、シドニー大学の地質学研究者デビット博士。博士は白瀬隊に出会う2年前の1909年に極地帯を探検し、南緯72度2分東経155度16分に南磁極があることを発見した人です。

 デビッド博士との出会いは、白瀬の「南極探検の理念」に大きな影響を与えました。博士の南磁極発見を知り、「極点一番のりだけが価値があるのではない。南極での学術調査すべてが人類にとって大きな貢献となる」という考えが、白瀬隊に理解されるようになりました。

 このキャンプ地跡(現・ウラーラ市)の記念碑には次のように記されています。
「 白瀬隊の最南地点到達90周年と日本とオーストラリアの初期の友情を記念し、両国の永遠の友好の証しとして、この記念銘板を設置します。」

 オーストラリア大使館のHP、デビット博士と白瀬の写真など
http://www.australia.or.jp/gaiyou/japanese_resources/pdf/06_shirase.pdf

 さて、一時帰国組の野村船長らが奔走したものの、南極再挑戦の資金はなかなか集まりませんでした。
 後年、白瀬はこの時の不足資金(船員の給与、食料、資材その他)を借金として背負い、後半生すべてを借金返済のためについやすことになります。

 積み込んだ資材食料は十分とはいえませんでした。しかし、南極の天候を考え、1911年11月、再度の挑戦がはじまりました。
2006/09/02 土


氷山の海

 再びの南氷洋暴風域では、日本の海では出会ったこともない高さの波が開南丸をおそいました。帰国後の新聞談話で、白瀬は「40尺(約120m)の高波」と表現しています。
 暴風域をぬければ、流氷と氷山の海です。
 氷山にぶつかったら、ひとたまりもない200トンの開南丸。

 白瀬たちが南極に達した3ヶ月後の1912年4月14日、豪華客船タイタニック号が北極海の氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没。
 総トン数4万6千328トンのタイタニックでさえ、氷山に接触しただけで沈没してしまったのです。

 200トンの船での氷海航行を「暴挙」と言われたけれど、白瀬には、「大きな船だから大丈夫というわけではない」という確信がありました。これも千島越冬の体験からきています。凍りついたオホーツクの海を、小さな「ロシア密漁船」が航行しているのを目撃していたからです。

 大きな船でも大丈夫ではない、というのはタイタニックの沈没をみればわかりますが、それにしても、氷山の海を、たった200トンの開南丸が航海したこと、今考えても、驚嘆に値します。
 最新の設備を整えた現代の砕氷船でさえ、南極海暴風域と氷山浮かぶ海は危険きまわりないものであり、毎回何がおきるかわからない緊張の航海だといいます。

 野村船長と白瀬は意見をぶつけ合いながら氷塊の海をきりぬけ、1912年1月15日、南緯78度30分に至りました。
 もはや船では進めない氷原までたどり着いたのです。
 探検隊は「観測隊」「突進隊」に分けられ、突進隊は極点めざして氷海から氷原へと進みました。

 白瀬たちが南極にたどり着く前に すでにアムンゼン隊は、1911年12月14日、南極点到達をなしとげたことを知り、白瀬は「極点一番乗り」という目標を、「極地学術調査」に切り替えました。

 デビット博士と知り合ったことによって、白瀬は「一番乗りだけを目標とすべきではない、南極を知ることは、人類にとって、計り知れない価値をもたらす」と、悟りました。
 白瀬は北極一番乗りを逃したときのような落ちこみをすることなく、極地探検を続行できたのです。

<つづく>

ぽかぽか春庭「ビルマのダディンジュ祭り」

2008-09-21 14:38:00 | 日記
日本事情・交流史>

実り豊かな交流のために
2005/05/23

 個人の精神的な活動、宗教活動は、憲法20条に保証されている。
 私は、神社があれば柏手うち、お寺があれば御本尊さんゴセンゾさんにお参りするという程度の、神仏習合、ごく一般的な仏教徒にすぎないが、『鑑真展』で鑑真像を前にすれば、,鑑真さんにも、いっしょうけんめいお祈りし、お願いする。
 「どうぞ、国と国が仲良く平和におつきあいできますように」「為政者の恣意によって、国と国との友好が損なわれませんように」 

 憲法20条には信教の自由の保証とともに、政治と宗教の分離が明示されている。「憲法20条 国及びその機関はいかなる宗教活動もしてはならない」

 宗教法人格を持つ宗教施設に参拝することは、宗教活動である。
 「これは個人的な精神活動であって、国の機関による宗教活動ではない」と、本人が思ったとしても、一国の代表者が宗教施設に出かけ参拝すれば、対外的に見て宗教行為のひとつとみなされるだろう。
 公人の立場を下りないまま、特定の目的をもって、宗教施設に参拝することは、内外に大きな影響を与える。

 「どのような追悼をするかに口出しするのは内政干渉」とまで言い募ることが、どれほど国益をそこね、これまで多くの人が積み上げてきた国と国との交流の歴史を踏みにじるものであるか。

 個人的な精神活動と、公人の活動は異なる。「内閣総理大臣」という役職を下りないまま参拝すれば、軋轢を生む。
 いくら「個人的行動」と言っても、ニュース報道などで「首相の参拝」として報道されるのだから、「首相という役職を持ったまま、国を代表する人として参拝している」と、受け取られる。それほど参拝にこだわるのならば、さっさと公人の立場をすべて引退し、一私人として、毎日でも参拝したらよかろう。

 個人的に亡き人々を追悼することと、国を代表する公人としての立場ふるまいの違いもわからず、憲法20条を踏みにじり続ける人の言動が、これからも災いの種になりそうで、心配はつきない。

 参拝、教科書、島領有、経済摩擦など、さまざまな問題が未解決のまま残されている。が、それでも「研究を深めたい」「仕事を覚えたい」「日本の文化をもっと知りたい」と、日本へ、学問や先端技術を学びに留学してくる世界各国からの学生たち。
 今年4月の新学期に、また新しい学生と出会った。

 私立大では、中国、韓国、マレーシア、タイ、イランからの私費留学生が在籍しているクラスを受け持っている。
 国立大の国費留学生、4月からの前期に受け持つのは、ネパール、モンゴル、インドネシア、フィリピン、アルジェリア、ホンジュラス、アメリカ、スペイン、イタリア、ポーランドから。

 毎年、これまで私には遠い国だったところからの学生を迎えることができる。今年はホンジュラスが、「この国の人とはじめて出会った」という国になった。
 中南米では、これまでメキシコ、ドミニカ共和国、グアテマラ、パナマ、コスタリカ、ベネズエラ、ペルー、コロンビア、ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイの学生を受け持ったことがあるが、ホンジュラスからの留学生と出会うのは今年はじめて。
 それぞれの国と日本の交流を大事にしてほしいと思っている。

 アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの発展のために、海外協力隊その他の交流事業で出かけていく日本の人々。今年もさまざまな国との交流活動が行われるだろう。

 国と国、人と人との交流のために、ひとりひとりが心を砕いている。不幸な社会情勢から、せっかくの交流を台無しにするような動きがあっても、冷静にこれから先の交流を考えて、よりよい方向をさぐっていきたい。

 私にできることは、誠心誠意留学生に対応し、日本の歴史や文化について、また、各国との交流史について、共に学び共に考えていくこと。
 ひとりひとりの留学生の心にのこる授業ができたら、きっとその小さな積み重ねが交流の大河となって世界をつなく海に広がるだろうと、信じている。(交流史おわり)
14:58 |



八田ダム
2005/05/16 月

 「留学生出身国と日本の交流史」という授業の発表で、印象に残った台湾からの留学生のレポートがある。「八田與一」について。
 台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている人物である。5月8日は、八田與一の命日だった。

 八田與一は司馬遼太郎の『街道をゆく40台湾紀行』にも紹介されている。台湾紀行の初出は1993年週刊朝日の連載で、1994年には単行本が出ている。私は文庫化された1997年に買ったのだが、ツン読にしておいたままだった。
 2003年に台湾からの留学生が八田與一について発表するまで、まったくこの人のことを知らなかった。

 2004年春休みに娘と台北を歩いたあと、「台湾紀行」を読み、「あれ、司馬遼太郎がもうずっと以前に八田與一を紹介していたんだなあ」と、気づいたのだ。

 留学生は、台湾の南部の町、台南市の出身で、地元では八田與一を皆が尊敬していると話していた。
 台南市と嘉義市の間に広がる嘉南平野は、20世紀まで不毛の大地だった。中国清朝も、この地を「化外の地」としており、不毛の地を変えるための手だては、なにひとつ行わなかった。

 台湾が日本領になって、この地にひとりの土木技師が赴任してきた。八田與一。東京大学土木科を卒業してほどなく、台湾総督府土木局に勤務した。
 八田は台湾の地を愛し、土木技術のすべてを傾けてダムを築いた。1920年から10年をかけた水利事業が完成し、嘉南平野は沃野に変わった。不毛の地は、有数の農業地域になったのだ。

 八田與一を知る台湾の人々は、日本人と台湾の人を差別することなく平等に対した彼の人柄を愛した。しかし、戦争の激化により、八田は台湾からの移動を命じられた。
 1942年、陸軍の徴用によりフィリピンへ向かう途中、乗船していた大洋丸が米軍に撃沈され、死去。56歳だった。

 八田與一の夫人は、夫と同じ金沢市の出身だったが、與一死後も、夫が愛した台湾の地を離れようとしなかった。夫が台湾に骨を埋めたいと思っていた心をくんでのこと。
 8月15日、敗戦。夫人は身辺整理をすませると、1945年9月1日、夫が築いた烏山頭ダムの底に身を投じた。遺書で、夫の魂と共に台湾の地に葬られることを望んだ。

 夫妻の墓は、ダムによってできた湖「珊瑚潭」のほとりにある。
 八田與一の事績を感謝する地元の人々によって、毎年5月8日の與一命日に墓前祭がいとなまれているという。

 さらに詳しく八田與一について知りたい人は、司馬遼太郎『台湾紀行』「八田與一のこと」と「珊瑚潭のほとり」の章を。また、古川勝三『台湾を愛した日本人--八田與一の生涯』という本をどうぞ。(交流史つづく)
09:34 |




お雇い外国人モレル
2005/05/18 水
(1)

 授業で使っている『留学生のための日本史』のなかで、一番最初に登場する固有名をもった人物はだれだと思いますか?ヒミコ?聖徳太子?いいえ。
 日本歴史の教科書であるけれど、ページを開いた学生が最初に目にする人物は、モース。原始時代の人が焚き火のまわりに集まっている絵の次ぎに、モースの写真が載っている。

 教科書は、アメリカ人学者モースが大森貝塚を発見し、日本の原始時代の研究が発展したことを述べている。モースの貝塚発見は1977年(明治10)。
 これ以後、日本原始時代研究が「近代科学」として行われるようになった、という教科書最初の原始時代のページの記述から、授業が始まる。

 モースは、明治初期に日本へやってきて、日本近代化に力を貸してくれた「お雇い外国人」のひとりである。
 モースのほかにものべ590人にのぼる外国人が近代国家を作り上げるため、日本へやってきた。医学、工学、美術、さまざまな分野で近代技術が必要とされた。

 鉄道技師エドモンド・モレルも、明治のお雇い外国人のひとり。明治初期に日本ですぐれた仕事を成し遂げた。

 春の東京散歩、汐留高層ビル街(シオサイト)を歩いていたときに、「FM東京公開放送収録」というイベントをやっている場所があった。そこは復元された旧新橋停車場のホーム上だった。
 ディスクジョッキーやゲストの歌手が軽やかなトークを繰り広げているその場所が、かって「♪汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり~」の旧新橋駅ホームだったこと、公開放送を見ている人たちは、気づいていたかしら。

 旧ホームの反対側に回れば、新橋ステーションを復元した建物があり、小さな博物館となっている。出土した旧新橋停車場の礎石などを展示している。
 モレルについて、私はほとんど知らなかったので、しばし、モレルが携わった鉄道工事のようすなどをビデオで見てすごした。

 1868年に明治新政府が発足して以来、日本の近代化は急ピッチで行われた。あまりにも急激に「富国強兵」をはかったため、その後の歴史にゆがみが出た部分もあった。
 しかし、近代化の一翼を担ったお雇い外国人の中には、心から日本を愛し、日本の発展に心血を注いだ人も少なくない。

 明治初期に政府が雇った外国人は、1870~1885年の間に、約600人。最も多かった1874年(明治7年)の1年間で、鉄道関係を中心に290名の外国人が日本政府の「お雇い」になった。

 エドモンド・モレルは、鉄道関係お雇い外国人の、イギリス人鉄道技師。
 イギリスでは、明治維新の50年ほど前1814年にスティーブンソンが蒸気機関車を発明し、鉄道馬車の技術から発展した鉄道技術が進んでいた。

 明治新政府は、近代化の最初の事業として、何がなんでも「鉄道」を完成したかった。
 早くも1870年(明治3)には、鉄道建設のための最初の測量杭が東京汐留の地に打ち込まれ、そのわずか2年後には新橋横浜間に鉄道が開通した。

 旧新橋駅は、のち汐留貨物駅となり、現在は汐留高層ビル街となっている場所にあった。旧横浜駅は、現在は桜木町駅となっている。

 桜木町駅構内に、モレルの肖像レリーフがある。レリーフを見たいと思って、5月10日仕事のあと、京浜東北線に延々と乗って桜木町駅まで行った。
 モレルのレリーフは京浜東北線の下り方面ホームから階段を下りたところにあった。レリーフの両脇には、明治時代の旧横浜駅の古い写真などが並んでいる。

 レリーフはガラスで保護されているので、とても見づらい。天井の照明が反射するので、どの角度から見ても、モレルの顔はあまりはっきり見えないのが残念だった。
 「初代鉄道建設師長エドモンド・モレル」と名が書いてあるが、業績などの説明はない。
(つづく)
08:35 |

2005/05/19 木
日本事情・交流史>お雇い外国人モレル(2)

 1870年に来日して以来、モレルは、大勢の外国人技術者と日本人作業員を率いて働き続けた。海の中に土手を築き、橋をかけ、当時の土木技術を結集して鉄道を敷設した。

 モレルを手伝う日本人は、陣笠をかぶり、だぶだぶの「だんぶくろ」と呼ばれている股引をはいて、刀を腰に二本指していた。
 測量器械についている方位磁石が、大小の刀の鉄分のため誤作動する。「鉄道のため、刀は腰からはずしてほしい」という命令が測量助手に下された。1875年(明治9)に廃刀令が出される前のことだから、抵抗を感じる人もいたことだろう。

 鉄道工事には賛否両論沸騰した。「鉄道より軍備」と主張する陸軍の反対にあい、当初の鉄道予定地だった高輪を測量することもできない。高輪の陸軍用地を避けて田町~品川間は、海の中に堤防を築いて、堤防の上に線路を敷くなど、工事はさまざな困難を解決しながら進められた。

 1872年(明治5)旧暦9月12日、「鉄道開通式」が、行われた。(1873年正月から新暦に切り替わったため、現在の「鉄道の日」は新暦10月14日)
 天皇臨席を得た、晴れの式典であり、「近代国家」の威信を内外に示す場でもあった。
 
 桜木町駅構内の、明治時代旧横浜駅の写真展示の中に、開通式の日の新聞写真がある。中央の明治天皇の前に居並ぶ式典参加者達。天皇の前にかしこまる人々、左側の燕尾服は、外国人たちであろう。右側の人々は裃袴で、辞儀を正している。廃刀令が出る前であるから、かみしもに刀をさした姿が正装であった。

 しかし、晴れの開通式にモレルの姿はない。
 病身をおして日本にやってきたモレル。日本の鉄道開通に渾身をかたむけ、あまりに働きすぎたせいか胸の病が悪化していた。
 開通式の1年前の1871年9月23日、エドモンド・モレル、30歳の若さで死去。

 日本人に対して威張るばかりで、まじめに仕事をしなかったお雇い外国人もいた中で、モレルは、懇切丁寧に鉄道技術を日本人に教え、鉄道開通のために働いた。日本人女性の梅と結婚し、仲むつまじい夫婦だった。 
 だが、妻、梅の懸命な看病も、病の回復には届かなかった。

 モレルの妻、梅も、看病疲れか夫を失ったショックからか、夫の死の12時間あとに、なくなってしまったという。夫妻は共に横浜外人墓地に眠っている。

 モレルは、イギリスの鉄道技術を惜しみなく日本人に伝えただけでなく、「外国人を雇うだけではいけない、学校を建てて日本人に技術を教え、技術者を養成するように」と政府に提言した。この提言を受けて、工学、医学など各分野の学校教育が充実していく。

 20年後の1890年代には、ほとんどの学術技術の分野で、外国人の助けが必要なくなった。モレルの提言が実り、養成された学者技術者たちが活躍していくようになったのである。

 明治初期に日本へやってきた約600人ものお雇い外国人。なかには高給だけが目当ての人もいただろう。しかし、モレルをはじめ、日本近代化に骨身を削り、日本との交流につくした外国人も大勢いた。
 また、八田與一のように植民地時代に赴任した地で懸命に仕事をして、死後も長く慕われ顕彰されている人物もいる。

 国と国との交流の長い歴史。
 たくさんの人々が営々と努力して築いてきた信頼関係が、一部の人々の行動や言説でマイナスになってしまうことも起きる。
 これまでの外交や民間交流の蓄積が、このようなことでマイナスになるとしたら、残念なことだ。
(つづく)
08:37 |








ビルマのダディンジュ祭り
2005/11/02 水
(1)

 私が世間とつながっているのは、仕事の場と、カフェ。
 カフェでは、こうやって、自分の思いや意見を発信する場がある。これだけでも私には、ありがたいこと。

 意見が同じ人ばかりでなく、異なる思想信条の人ともコメントのことばをかわす。
 ときには、言葉の不備によって思わぬ誤解を招いたり、私の不適切な表現によって、読んだ方に不愉快な思いをさせてしまったり。

 いろいろな失敗はあっても、自由に書くことができる。また、自由に読むことができるカフェ散歩、さまざまな意見を幅広く読めて、自分と異なる意見の方の主張を知ることができる。
 しかし、世界の中には、自由な言論を許されていない国も多い。

 仕事の場では、毎年、世界中から来日する留学生に会える。
 私費留学生は、中国、韓国、台湾、タイ、マレーシア、シンガポールなど、アジアからの留学生が多いが、国費留学生(日本国文部科学省給費奨学金授与者)は、これまでに世界中の100ヵ国以上の国からの留学生と出会えてきた。国連加盟国191ヵ国の中の100ヵ国。あと半分の国の人とも、ぜひ出逢いたい。

 今の仕事をしていなければ、その国が地図上のどこに存在するのかさえ知らなかったような小国や日本になじみの薄い国の学生とも出会えた。新しい国の人と会うのが、楽しみのひとつ。

 今期も、ボリビア出身の留学生、ソロモン諸島出身の留学生など、「お初」の国の人と出会えた。
 地図みないで、どのあたりの国か、ぱっと思い浮かびます?
 ボリビア、南米の真ん中あたり。ソロモン、オーストラリアの斜め上の太平洋の島。

 10月から受け持つ、四つのクラスの国籍。近いほうから世界一周してみよう。韓国、中国、フィリピン、インドネシア、タイ、ミャンマー、バングラディシュ、スリランカ、パキスタン、ネパール、イラン、ドイツ、スエーデン、アメリカ、ボリビア、コロンビア、ブラジル、オーストラリア、ソロモン。
 実にさまざまな国から日本へ勉学の意欲に燃えてやってくる。

 また、東京にはたくさんのエスニック料理店があるので、私は町歩きの楽しみのひとつとして、エスニック料理のお試しをすることが多い。
 8月9月はアフリカ料理、モロッコ料理、10月はイラン&トルコ料理、モンゴル料理、タイ料理などの店に行ってみた。
 そのほか、東京に住んでいると、さまざまな国の人を知るチャンスは多い。

 10月9日、公園からにぎやかな歌声が聞こえてきた。「ビルマのダディンジュ祭り」だった。
 公園野外ステージには、ビルマ文字と日本語で「ビルマ ダディンジュ祭り」という大きな看板が掲げられ、文字の横にはアウン・サン・スー・チーさんを思わせる女性の肖像画が描いてある。

 ビルマは、軍事独裁政権となってから、国名をミャンマーと変えた。軍事政権に反対する人達は、今でも自分の国をビルマと呼び続けている。 <つづく>
00:20 |

2005/11/03 木
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(2)

 絵が、スーチーさんそっくりの似顔絵じゃないのは、何か問題が起きたときに、「いや、これは別段スーチーの顔じゃなくて、一般的なビルマ女性のひとりだ」と、言い逃れをするためかと思われる。スーチーさんは、ノーベル平和賞受賞者であるが、本国では政治犯として幽閉中の身だ。

 これまで私が受け持ったクラスにも、何名かのミャンマーからの国費留学生がいた。今期もひとりいる。
 かれらは、本国から軍事政権によって選抜されて来日した学生であるから、現政権に従う考え方の人が多い。

 しかし、今、日本に在留しているビルマ系の人々は、軍事政権のために本国では生活していけなくなった方が多い。軍事政権に反対して政治犯とされた人、留学してから民主化運動を行ったために、帰国できなくなった人など。

 10月に東京近辺の在留者が集まって行ったビルマのお祭り「ダディンジュ祭り」
 ダディンジュ祭りとは、ビルマの月の名であるダディンジュ月(太陽暦9月~10月上旬頃)の満月の日に行われる。

 仏教徒が戒律を普段より厳しく守る 『雨安居(うあんご)』 (6月の満月から9月の満月まで)明けを迎え、この日から3日間、人々はパゴダ(仏教寺院)にお参りをして花や灯明を供える。また、家に僧侶を招き、食事を差し上げ法話を聞き、その後、友人・知人とともにご馳走と談笑を楽しむ。

 10月9日は、イスラム教徒(モスレム)の人々が、一ヶ月間のラマダン(断食)に入る日だった。ラマダンの期間中は、飲食その他日常生活に戒律を設け、ラマダン明けには、友人親戚集まって、盛大なパーティをする。

 同じように、ビルマの仏教も、雨安居(うあんご)の期間は、仏教の戒律を厳しく守り、雨安居が終わる解夏(げげ)となる日には、集まってお祭りをする。
 ことしは、雨安居明け(解夏)とラマダン入りの時期が、同じころになった。

 10月9日に東京で開催された、ビルマの雨安居明けを祝うダディンジュ祭り。
 ビルマの歌や踊り、本格的ビルマ料理が楽しめる屋台、などのイベントがあった。

 催し物は17時で終わりになったが、私が公園についたときは、名残を惜しんでいる人々がステージを囲んで、歌をうたっていた時間だった。
 ステージのマイクを持った人は、ビルマ語の人気の歌を歌っている。ステージ前の人は、いっしょに踊ったりうたったり。

 主催者は、「国民民主連盟(NLD)日本支部」。在日ビルマ人民主化団体である。
 NLD書記長のアウンサンスーチーさんは、ノーベル平和賞を受賞後も、本国で長期間、幽閉生活を余儀なくされている。<つづく>
00:02 |

2005/11/04 金
ニッポニアニッポン事情>ビルマのダディンジュ祭り(3)

 私が受け持ったミャンマー留学生たちは、現政権側の人が多いので、NLDに対しては距離をおいている。そうしなかったら、留学を取り消され奨学金も受けられなくなる。
 現政権の範囲内で、自国の発展のために尽くそうといっしょうけんめい勉学を続ける留学生たちもいれば、また、NLDに心を寄せ、民主化運動を続けるビルマ人もいる。

 私は、ビルマ又はミャンマーの政治的な背景にたちいるほど、ビルマについて知ってはいない。私になじみがあるのは『ビルマのたて琴』ぐらい。
 ただ、現政権がどれほど一生懸命国家の建設をやっているのであろうと、現政権に反対する側の勢力に対して、代表者を幽閉し、反対意見の人が帰国できないような状況であるのは、やはり心が痛む。

 いろんな立場さまざまな意見があって、それを全部認めていたならカンボジアのような内乱となり、国家建設ができない、という立場から、現政権は反対勢力の活動を認めないのであろうことは推測するが。
 一日も早く、国民が安定した生活をおくれるようになり、さまざまな意見も採り入れて議論ができる余裕が生まれるように願っている。

 名残を惜しむ人々が、歌い続ける中、ビルマの若者たちが、けんめいにイベント片づけに取り組んでいた。
 イベントに使用した機材、道具を運び、腰をかがめてもくもくとゴミを拾っている姿が印象的だった。

 歌って踊って楽しむ人達もいる。縁の下の力持ちとなって、黙ってゴミを拾い集め、片づけに励む若者もいる。
 きちんと片づけをしようとしている若者の姿をみて、未来に向かって祖国のために働こうとしている人々はどこにもいる、という気分になった。

 もちろん、内情はそんな単純なものじゃない。アウンサンスーチーさんの軟禁状態はこれからも続きそうだし、NLDの活動をしている人は祖国に帰れそうにない。
 軍事政権側にも言い分はあるのはわかっている。

 「いっしょうけんめいイベントを行い、片づけに励む若者がいるから大丈夫」と思ってしまうほど簡単なものじゃないのはわかっているけれど、自国の現状をひたすら嘆いて暗い亡命生活をするより、こうやって歌ったり踊ったり、おいしい祖国の料理を食べたり、そんなお祭りを楽しむのも、いいんじゃないかなあと感じた、秋の夕暮れでした。

解夏(げげ)祭るビルマパゴダの金色(こんじき)の屋根をかすめて飛ぶ白き鳥
<おわり>

ぽかぽか春庭「留学生出身国と日本の交流史」

2008-09-20 10:46:00 | 日記
<日本事情・交流史>

留学生出身国と日本の交流史
2005/05/15 日

 1996年から、学部留学生の「日本事情」という教科を受け持っている。
 「日本事情」という科目は、「日本に関する内容」であるなら、何を扱ってもいい。学校により、「日本の社会と習慣」もあるし、「年中行事」やら「日本地理、全国の特徴と名産」もある。また教師の専門によって、「文学」あり、「現代サブカルチャーからみた日本社会」あり。

 私はオーソドックスに「日本の歴史と文化」を、広く浅く扱っている。深く教えるほどこちらの知識がないので。

 「日本の歴史と文化」について、留学生が興味をもって取り組むことと、自国と日本が作り上げてきた交流の歴史を調べて発表することを授業のメインにしており、10年の間には、さまざまな人物・文物の交流について知ることができた。

 学生達は、交流史の課題の取り組むとき、まず何をとりあげたらいいのか、誰について調べたらいいのか考える。自国の人物、文物がどのように日本と関わり合ってきたか、日本のだれが自国にやってきて交流の足跡を残したか、それぞれ調べてレジュメを書き上げる。

 「将棋」の交流について、古代に中国から日本へ将棋が伝わった歴史や、日中のルールのちがい、日本で活躍している中国の棋士などについて発表した学生もいたし、琵琶や琴がどのようなルートで伝播し、日本の正倉院に残されたか、また琴の糸の数や奏法のちがいを比較してレポートした学生もいた。
 「饅頭伝来記」というレポートで、中国の饅頭が日本へ伝わった経緯や、饅頭に関わった人物の報告も面白かった。

 タイの学生は、過去何人かが「山田長政」を取り上げた。ほかにもタイで活躍した日本人はいるが、一番資料が集まりやすく、とりあげやすい人物であるのだろう。

 韓国からの留学生。安重根を取り上げた学生もいたし、従軍慰安婦問題を論じた学生もいた。
 去年はヨン様ブームの影響か、ふたりの学生が「韓日映画の交流」というテーマで発表したいと言うので、テーマを分けた。ひとりには、日本の映画がどのように韓国で紹介上映されてきたかを主に発表させ、もうひとりには、韓国映画の日本での上映とその反響について調べるようにアドバイスした。
 「先生の好きな韓国映画がありますか」という質問には『西便制』と『八月のクリスマス』と答えた。

 日本民芸館創始者の柳宗悦をとりあげた韓国の学生に「なぜ彼を選んだのか」と質問したら、「朝鮮陶器や民芸品の芸術性について、彼が評価してくれたおかげで、韓国の人も自国の芸術のすばらしさに気づいたからです。柳宗悦は、芸術において朝鮮韓国を高く評価しただけでなく、植民地時代であっても、韓国の人を差別しない思想をもって活動をしていた」と、理由を説明した。

 1919年に起きた朝鮮独立運動の際、多くの日本人有識者が沈黙した中で、柳は「朝鮮人を想う」という文を発表し、朝鮮の人々へ寄せる思いを述べている。

 それぞれの国の人物がどのように日本へ来て活動したか、また、日本の人が自国へきてどんな事績を残したか、交流の歴史を調べていく学生は、「私も両国の交流のために役にたちたい」という気持ちを新たにする。

 しかし、最近の中国情勢で「中国人は中国に帰れ」という心ない言葉を投げかけられた留学生がいるし、「どんなことが起るかわからないので、電車のなかでは友達とも中国語で話さないようにしている」と、気をつかいながら通学している学生の話もきいた。

 文京区の日中学院に石が投げこまれた事件もあった。
 どのような主義主張があろうとも、他国の領事館に石をなげたり塗料を壁にぶつけたりする破壊行為は、その主張をよい方向へ進展させることができない方法だ。同じように、中国語を学ぶ日本人学生と日本語を学ぶ中国人学生が集まっている学校に石を投げるなど、何の主張にもならない卑劣な行為だ。

 意欲を持って留学してきている彼らの、「両国の交流に携わっていきたい」という志を潰すような出来事が、これ以上続かないように、願っている。<つづく>
14:04 |




鑑真和上
2005/05/21 土
(1)

 武蔵国分寺の史跡を訪れたみどりの日、国分寺国分尼寺建立を命じた聖武天皇の事績を復習した。
 聖武天皇は東大寺と大仏の建立、国分寺建立のほか、日本の仏教史に残る事業として、「戒律を伝えることのできる僧」の招聘をおこなった。この招聘に応じて渡海してきたのが、鑑真である。

 例年、中国の学生に人気の「交流史上の人物」は、古代なら鑑真和上、近代は孫文、魯迅。
 鑑真和上は、中国から日本へ来た人のなかで、「尊敬する人物」として、中国人学生がよく選択する人物のひとり。

 日本へ仏教戒律を伝えることを請われ、さまざまな不幸な出来事を乗り越えて来日した意志の強さ、日本に残した足跡の大きさは、人々の心をうつ。
 5度の渡航失敗、度重なる遭難で失明するに至ったなどのエピソードはすでに知られている。

 よく知られた事績を手際よくまとめることも交流史の基礎として大切なことだが、できれば、日本の資料になく、中国でのみ知られていたようなエピソードや資料を教えてくれたら、花丸の「優」をあげるのだけど。
 鑑真が生まれた江陽県のこと、最初に修行していた寺、長安時代のようすなどは、日本の研究も進んでいるだろうが、まだ埋もれている資料などが中国にあるかも知れない。

 鑑真は、唐時代688年楊州江陽県で生まれた。鑑真が江陽県から長安(現在の西安市)へ赴いたのは707年のこと。
 753年に日本へ渡航するまで、鑑真は長安で40年以上の仏道修行を続けた。唐の高僧として育てた弟子は4万人に上る。

 私が昨年、留学生に紹介した人物は、井真成。日本から唐へ留学した学生のひとり。
 717年、19才のとき吉備真備、阿倍仲麻呂らと共に唐に渡り、734年一月に36歳で急病により長安で死去。真成はたいへん優秀で、皇帝にも期待されていた人物だった。その死を悼んだ玄宗皇帝より尚衣奉御(尚衣局の責任者・従五品上)を追贈されたことが墓誌に残っている。

 日本への帰国後、奈良で活躍した吉備真備や、望郷の思いを和歌に残しながら唐に骨を埋めた阿倍仲麻呂らは知られてきたが、井真成は2004年10月に墓誌が発見されるまで、歴史の中にうもれていた。

 717年に唐へ渡った井真成は、亡くなるまで17年の間、鑑真が暮していた同じ長安で勉学を続けていた。ふたりは長安のどこかで出会っていたかも知れない。
 長安は当時世界最大の都だったが、いかに人口が多くても、皇帝の期待を受けた日本からの留学生と、高名な大徳の鑑真は有名人同士。出会ったことがない、とはいえない、と想像している。
 井真成が鑑真の寺を訪れた記録など、探し出す学生はいないものだろうか。(つづく)
08:48 |

2005/05/22 日
日本事情・交流史>鑑真和上(2)

 奈良時代の日本、仏教が盛んになっていたが、正式な仏教戒律を教えられる僧はいなかった。日本から唐へ渡った留学僧の普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)は、戒を授けることのできる高徳の僧を日本へ招聘する役目を負って長安に赴いた。

 普照と栄叡に来日を請われたとき、鑑真は弟子達に「日本の仏教のために海を越える気持ちのある者がいるか」とたずねた。
 弟子達はだれも返事をしなかった。当時の渡航技術で海を渡るのは、命をかけて行う危険な行為。小さな新興の島国から「来て欲しい」と請われても、だれもためらうことだった。

 630年から894年までに約20回渡航した遣唐使船は、平底で不安定な上、天候の悪さや重量過剰などで、遭難しやすいものだった。乗り組むには、決死の覚悟が必要だった。
 誰も進んで日本へ行こうとはしないことがわかり、鑑真は、「それなら私が日本へ行こう」と言った。

 唐の皇帝は、鑑真の徳を惜しみ、渡航を禁止した。鑑真の渡航は「密航」となった。
 禁をおかして出航したことを密告されて連れ戻されたり、海賊に追われたり、嵐に船をこわされたり、5度の渡航失敗の末、63歳の鑑真は失明した。

 753年、6度目の渡航で、ようやく九州薩摩の国、阿多郡秋妻屋の浦(現在の坊津秋目)に着いた。来日を発願してから11年目のこと。
 奈良の都へ着いて以後、聖武天皇光明皇后はじめ僧たちへ戒を授け、奈良仏教のために尽した。(授戒とは、正式な僧となるための戒律(四分律)を与えること。これを受けていないものは俗僧とされた。)

 鑑真は759年72歳のとき、律学の根本道場として唐招提寺を創建。多くの僧が教えを受けた。 
 763年5月6日に76歳で結跏趺坐(けっかふざ)のまま入滅。

 この日付の5月6日は旧暦だと思うが、若葉は鑑真によく似合う気がする。
 芭蕉が唐招提寺の鑑真和上像を拝観した時期も若葉のころ。紀行『笈の小文』のなかに芭蕉が鑑真の生涯に感銘を受けて作った句がある。

 若葉して御目の雫 ぬぐはばや(芭蕉)

 鑑真像は、たいへん写実的な像と言われている。鑑真の病がもはや回復しないだろうと思われたとき、弟子達は和上のお姿を残そうとし、和上の入滅後、早い時期に像が造られた。
 私は鑑真像を2度拝観することができた。20年ほど前と、今年はじめ。

 鑑真像をはじめて見たのは、20年くらい前のこと。
 上野の国立博物館で公開された鑑真像をみつめたとき、私は深い宗教的な感銘を受けた。
 もし鑑真が1200年前になくなったお坊さんでなく、現代の人だったら即座に帰依して出家したいと思うほど、感激した。この世で苦しむ者悲しむ者すべての悲哀を受け止めてくれる人のように思えた。(つづく)
12:31 |

2005/05/23 月
日本事情・交流史>鑑真和上(3)

 2005年1月12日から3月6日まで、国立東京博物館で鑑真像が公開された。
 現在、奈良の唐招提寺が改修中であるため、ご本尊の国宝・盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像はじめ、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像、四天王像と、鑑真和上像が巡回展示されているのだ。
 今回は、金堂と御影堂を再現する展示方法がとられ、ご本尊は金堂を模した空間に配置されている。ご本尊はこれまで寺の外にでたことはなく、寺外初公開。

 唐招提寺で拝観するときと異なることは、仏様の裏側にまで回って全身を観ることができること。後ろ姿まで全部見られるのは貴重な機会でもあるが、なんだか仏様に申し訳ないような気もする。すみませんね、おさわがせして、と思いながらもしっかり裏側へ回って見てきた。

 鑑真像がある御影堂の再現。東山魁夷(ひがしやまかいい)の畢生の大作である障壁画を合わせてみることができた。鑑真誕生の楊州江陽県の風景など、迫力ある絵、また静謐な絵、すばらしいものだった。
 ガラスの箱におさめられた鑑真像、今回、私は「すぐれた芸術品」という気分で観賞した。前回のような宗教的な気分というのは、一生のうち、そうちょくちょくあるものではなかったのだろう。

 そして、今年の鑑真像は、私にはなぜかとても悲しそうなお顔にみえた。伏せられたまぶたの奥に、悲しみが宿っているように思えたのだ。その悲しみをおひとりで背負わずに、私たちにも引き受けさせて欲しいと思えるような、寂しげなお姿だった。
「若葉しておん目をぬぐいたい」と、芭蕉が感じたのもこのようなお顔だったろうか。

 私が東博で唐招提寺展を見たときは、まだ日中間の軋轢が表層には出ていないときだったのだが、今思うと、鑑真さんは、なかなかスムーズに仲良くできない両国の状態を見通し、悲しんでいたのではないかという気さえしてくる。

 次ぎに鑑真像に出会えるのはいつのことになるだろう。奈良に旅行できたとしても、鑑真像の公開は年に一度のご開帳のときだけ。
 鑑真和上。この次ぎお目にかかるときは、両国のあいだの誤解やわだかまりが氷解していますように。(交流史つづく)
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井真成墓誌
2005/09/19 月
(1)

 2005年の中秋の名月、十五夜は9月18日夜。昨夜のお月様、きれいでした。
 さまざまな人がさまざまな思いをいだいて、この十五夜の月、望月(もちづき)を見上げたことでしょう。

 1300年以上の昔、「望月望郷の歌」を中国の地で詠んだのは、阿倍仲麻呂。
 古今和歌集巻第九羇旅哥より

 『天の原 ふりさけ見れは 春日なる み笠の山に 出し月かも

 この歌は昔安倍仲麿といひける人は、唐土(もろこし)に、物ならはしに、遣しけるに、あまたの年を経て、え帰りまうでこざりけるを、此の国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、明州といふ所の海べにて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜になりて月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる』

 西暦753年(天平勝宝5)、仲麻呂は717年から37年間に及んだ中国での生活を終えて帰国しようと、遣唐使藤原清河と共に遣唐使船に乗り込んだ。
 しかし、船は嵐にあい、仲麻呂の船はベトナムへ漂着した。こののち、仲麻呂は帰国することあたわず、中国の玄宗皇帝に仕えて一生を終えた。

 遣唐使船は4隻が船団となって海を渡る。
 仲麻呂の乗った船と別の一隻には、鑑真が乗っていた。仲麻呂が「日本へ来て仏教を教えてください」と懇願し、共に日本へ向かうことになったのだ。
 鑑真の船は嵐に翻弄されながらも九州にたどり着いた。日本への渡航を試みて、5度失敗し、6度目の日本到着だった。

 今年5月の「いろいろあらーな」に、留学生の授業「日本と自国の交流史」の紹介や、鑑真の話を書いた。
 阿部仲麻呂といっしょの遣唐使船で717年に中国へ渡った留学生の中で、日本へ帰国できなかったもうひとりの人物、井真成(セイシンセイ、いのまなり)の墓誌を見てきた。

 後期の授業「日本と自国の交流史」では、人物、文物がどのように交流してきたか、往来の歴史とおつきあいの内容をレポートにまとめて発表する。
 また、毎年、夏休み前に「博物館見学」を宿題にしている。日本各地のどの博物館でもいいから見学し、見た中のひとつの物、またはひとつの事柄を選んでレポートを書いて9月に提出。

 今年は、「地方の郷土博物館や歴史博物館でもかまわないが、特に予定のない人は、上野の東京国立博物館へ行き、日本から遣唐使と共に留学した井真成の墓誌を見てください」と、注文しておいた。
 今年の「日本事情」のクラスは、イランや韓国の留学生もいるが、中国からの留学生が多い。留学生として来日した人にとって、1300年も昔に日本から海を越えて留学した人の事績を知ることも興味深いだろうと思い、井真成について知る機会を作ったのだ。

 東京国立博物館平成館の2Fで9月11日まで開催されてきた「遣唐使と唐の美術」展。私は、最終日の一日前、9月10日に見学してきた。
 目玉は、「おかえり」というコピーがつけられた「井真成墓誌」の展示。

 井真成は、8世紀前半(717年~718年の第9回遣唐使派遣のとき)に、遣唐使船で大陸へ渡り、唐の都長安で亡くなった。
 体は中国の土になったが、魂は墓誌とともに帰ってきたであろうか。
 「おかえり真成さん」
<つづく>

12:40 |

ぽかぽか春庭「井真成墓誌(2)」
2005/09/20 火
日本事情・交流史>井真成墓誌(2)

井真成は、699年に生まれ、18歳の時に阿倍仲麻呂や吉備真備とともに唐へ向かった。736年に長安で亡くなり、従五位にあたる「皇帝の衣服を用意する官職」を贈位された。

 墓誌は40cmx40cmの石で、16文字12行の文字が刻まれている。上辺に欠字がある。
 墓誌の拓本、文字パネル、日本語訳パネルなどが展示してあった。わが国の国号が「日本」であることを書き記した最古の記録としても貴重な発見である。

(以下■は不明字、欠字)
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能 
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■?以其年二月四日?于萬年縣?水
■原禮也嗚呼素車曉引丹■行哀嗟遠
■兮?暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形?埋于異土魂庶
歸于故コ

(概訳)
『公、姓は井、あざなは真成。国号は日本。才能があり、命じられて遠方に赴き、馬で入国した。礼儀作法をわきまえ、衣冠を整えて朝廷に出仕し、並ぶ者がないほど活躍した。怠ることなく学問に励んでいたが、思いもかけず、道半ばにして、志を遂げることなく終わった。玄宗皇帝の開元12年(西暦736年)の正月に36歳で亡くなった。

 皇帝は彼の死を惜しみ、「尚衣奉御」という官位を贈り、唐の費用で2月4日に礼式によって埋葬した。(略)
 体の形は異土に埋葬されたが、魂は故郷に帰ることを願っている。』

 墓誌のほか、遣唐使船の模型や、吉備真備の入唐絵巻模写などと共に、唐時代の工芸品がたくさん展示してあった。
 その中で、中国洛陽博物館が所蔵している恭陵哀皇后墓から出土した文物は、井真成より少し早い時代に埋葬された皇后の墓に陪葬されたもの。去年見た「唐三彩展」でも、哀皇后墓出土の陶磁器が展示されていた。

 井真成は、このような文物を毎日の生活で使ったり見たりしながらいっしょうけんめい勉強していたのだろうなあ。いっしょに唐へ渡ったうち、吉備真備は帰国でき、阿倍仲麻呂は帰国を試みて失敗し、死ぬまで中国の高官として皇帝につかえた。

 真成は、生前には位も与えられていなかったところを見ると、科挙試験に合格した阿倍仲麻呂ほどの出世頭ではなかったのかもしれない。が、唐への留学生として選ばれたのだから、秀才であり、将来を嘱望されていた人材であったろう。

 墓誌は西安市内の工事現場から出土したというが、その工事現場がどこなのか、はっきりしていない。お墓の所在地もまだ解明されていないが、これからさまざまに研究が深まっていくことだろう。

 「井」という姓は、藤井寺と関わりを持つ葛井(ふじい)氏なのか、井上氏なのか、ということも、これからの研究ではっきりしていくのだろう。中国文献学や考古学の学者たちの研究成果を待ちたい。

 こうして墓誌だけでも帰国できた。
 1300年前に、新しい文化、異国の文化を学ぼうと志し、海を渡っていった人がいたこと、志を果たして帰国することはできなかったが、その人の実在を裏付けるものを目の当たりにして、彼の心は伝わってくること。
 見学した留学生達、どのような感想を話してくれるだろうか。後期授業で聞きたいと思う。
<おわり>

ぽかぽか春庭「自国と日本の交流史発表」

2008-09-19 08:04:00 | 日記
2006年12月24日 

日本事情交流編 期末試験2006

 主要教材『留学生のための日本史』に書かれていることと、学生による発表「自国と日本の交流史」をもとに作成されたテストです。


2006年度 「自国と日本の交流史から知る日本の歴史と文化」
番号)    氏名)            


(Ⅰ)日本と自国の交流史(選択・記号の解答はひとつ1点 ひらがなの解答は1点 計71点)

① 以下の文を読み、質問に答えなさい。記述の答えはすべてひらがな で 書きなさい。
② 選択問題は、記号を選び○をつけなさい。
③ ☆ 関連地名の場所を番号で書いてください。(地図省略。日本地図都道府県北海道が1番~沖縄47番  東アジア東南アジア地域図、国ごとに50~70の番号)


[古代以前の交流]

 紀元前600~300年のあいだに、日本列島には、中国大陸や朝鮮半島から、
1< A)稲 B)小麦 C)大麦 D じゃがいも >を作る農耕文化が伝わった。

 紀元57年ごろ、日本の北九州にできた小さな国のひとつが中国に使節を送り、中国の皇帝から「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と書かれた金印をうけた。
 この時の中国は
2< A)夏王朝 B)商王朝 C)漢王朝 D)唐王朝 >の時代だった。
 ☆ 北九州はどこか    
3 地図の番号 (        )         

 3世紀頃、日本の「国」が、互いに争っていた。有力な「クニ」の中でも、邪馬台国の女王
4 < A)与謝野晶子 B)紫式部 B)持統天皇 C)卑弥呼 >は、中国の「魏(ぎ)」に使節をおくり紀元239年、「親魏倭王」の称号を得た。
 邪馬台国 女王の名前は?  
5 解答 ひらがな(                 )

 近畿地方の大和にいた王が大王となって、ひろい地域を支配した。権力の象徴として大きな
6< A)土偶 B)銅鐸 C)家 D)墓>である古墳を作った。一番おおきい古墳は大阪府にある。
☆大阪府はどこか
7 地図の番号 (         )    

 5人の大和の大王が、中国と交流した記録が、中国文献に残されている。 この古墳には
8< A)土偶 B)埴輪 C)貝 D)お金>がたくさん残されている。


[古代の交流]

 古代、青銅などで作られた鏡が日本に伝わった。日本の各地から、中国伝来の鏡が出土している。 鏡には、
9< A)漢字 B)ひらがな C)カタカナ D)ハングル >が書かれているものもあり、日本人はこれらの鏡から、文字の存在を知っていった。

 日本国内で銅製の鏡が作られるようになったのは、
10< A)紀元前3~4世紀ごろ B)紀元後3~4世紀ごろ C)紀元後14~15世紀ごろ >とみられている。

 飛鳥時代(大和時代)に、女帝推古天皇の摂政(天皇を補佐し政治を実際に行う人)として
11< A)蘇我馬子 B)鞍作鳥 C)聖徳太子 D)王仁> がいた。この摂政は、17条の憲法を作り、政治を行った。
 この摂政はだれか         
12 解答(ひらがな)(                )
      
 この摂政は、
13<A)遣唐使 B)遣隋使 C)遣漢使 >を派遣して、大陸の文化を導入した。
 高句麗の僧・慧慈(けいじ)を招いて、
14< A)儒教 B)仏教 C)イスラム教 D)キリスト教)を学び、(14)の普及にも力を入れた。)
☆ 高句麗は、現在の地図でみると、どのあたりか      
15 地図の番号 (        ) 

 このころ、大陸や朝鮮半島から医学が伝わり、
16< A)抗生物質 B)蘭方薬 C)漢方薬>が使われるようになった。

 7世紀から9世紀のおわりごろまで、日本は中国の進んだ文化を学ぶために、使節と留学生・留学僧を派遣した。留学生として、阿倍仲麻呂や、
17< A)清少納言 B)井真成 C)森鴎外 D)福沢諭吉 >が、知られている。

 また、留学僧として中国へ渡り、日本に密教を伝えた
18< A)山海 B)山川 C)空海 D)山空 >は、別名・弘法大師として知られている。
 この留学僧はだれか 
19 解答(ひらがな) (                ) 

 このときの中国は
20 <A)唐 B)宋 C)元 E)清 >であった。阿倍仲麻呂は中国で高官となり、玄宗皇帝に仕えた。
 百人一首にも入っている、阿倍仲麻呂が故郷日本をしのんでつくった和歌は、どれか、選びなさい。
21       A)わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海女の釣舟  
        B)あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
        C)みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ

 また、仏教を教えるために中国から日本へやってきた高僧もいた。聖武天皇らに仏教の戒律を教えた、
22< A)魯迅 B)巴金 C)江青 D)鑑真 >である。

 この高僧は、日本に砂糖を伝えた人という説もある。この当時、砂糖は、調味料ではなく、貴重な薬として用いられており、東大寺の大仏に献上されていたという記録が正倉院に残っている。
 日本で砂糖がサトウキビから生産されるようになったのは、時代が下って、18世紀の将軍23< A)源頼朝 B)豊臣秀吉 C)徳川家康 D)徳川吉宗 >の時代である。

 聖武天皇は、仏教を深く信仰し、東大寺に、大仏を建立した。 この大仏は
24<A)鎌倉 B)京都 C)奈良 D)東京 >にあり、今も人々に親しまれている。
 ☆ 東大寺がある場所はどこか      
25   地図の番号 (           )

 さまざまな仏教の経典が中国大陸、朝鮮半島を経由して日本に伝わった。すべての宗派に共通して使われている教典に、唐からインドまで仏典を探しにいった玄奘(西遊記に出てくる三蔵法師のモデル)が、伝えたとされる
26<A般若湯 B)般若面 C般若心経 D般若坊>がある。

 8世紀、中国から伝わった漢字をしだいに使いこなすようになった日本人は、漢字を日本の発音にあてはめて、万葉仮名によって日本語を書き表すようになった。万葉仮名で書かれている本として、日本の最も古い「歴史や神話の本」と、「和歌(短歌長歌など)の本」がある。そのふたつの組み合わせとして正しいものはどれか、選びなさい。
27< A)日本書紀・古今和歌集 B)枕草子・源氏物語 ・ C)お伽草子・竹取物語 D)古事記・万葉集 > 

 この後、漢字からひらがなとカタカナが作られ、日本語を自由に書き表すことができるようになった。10世紀~11世紀に、女性がひらがなを書くことで、文学作品を書き表した。代表的な文学作品と作者の組み合わせを選びなさい。

28< A)紫式部の「竹取物語」と吉田兼好の「徒然草」 B)紫式部の「源氏物語」と清少納言の「枕草子」 C)清少納言の「源氏物語」と紫式部の「伊勢物語」D)和泉式部の「源氏物語」と道綱母の「蜻蛉日記」 >


[中世の交流]

 お茶は、奈良時代に朝廷で飲用されていたという記録があるが、貴族が薬として飲んでいたにとどまる。庶民にお茶の飲用が広まったのは、13世紀の僧侶(お坊さん)、栄西がお茶を日本に持ち帰って以後であるという。栄西は、中国で
29<A)禅宗 B)律法 C)喫茶店経営 D)農業 >を学び、人々に伝えた。

この時代の幕府の最初の将軍は
30<A)源頼朝 B)豊臣秀吉 C)織田信長 D)徳川家康>である。

 1206年、モンゴルのテムジンは、大モンゴル国の初代の王チンギス・ハーンとなった。 今年はモンゴル国建国800年にあたる。
 チンギスの孫の
31< A)フビライ B)フセイン C)ブッシュ C)朝青龍> は、中国に入って、現在の北京に「元王朝」(大元蒙古国)を開いた。
☆ 現在のモンゴルは地図上のどこか           
32 地図の記号 (            )

 モンゴルは日本に通使を送ったが、無視されたために、日本の北九州に攻め寄せた。しかし、台風のために、2度とも退却した。この戦争のため、幕府の財政は悪化した。
 このときの幕府は
33< A)江戸 B)室町 C)鎌倉 D)大和 >幕府である。

 14世紀、中国の林浄因は、モンゴル王朝を嫌った人々とともに中国から亡命し、日本へ渡った。日本で、饅頭を日本の禅僧におくったことから、肉ではなく、小豆の餡をいれた饅頭が広まっていった。足利将軍家から天皇家へ献上されたあと、一般の人も食べるようになっていった。 足利尊氏からはじまった足利将軍家は、
34<A)室町 B)大和 C)江戸 D)鎌倉 >時代に政治を担当した家である。

 足利将軍が立てた建物を選びなさい。
35<A)金閣寺と銀閣寺 B)東大寺と法隆寺 C)平等院と広隆寺 D)浅草寺と東照宮>

 このころ、日本へ伝えられたもののひとつに算盤がある。「清明上河図」という絵に、算盤を使っているところが描かれている。このころ中国との貿易に従事していた、
36<A)唐の兵士 B)宋の商人 C)明の職人 D)清の画家>が伝えたのではないか、と考えられている。

 テンプラは、元はポルトガルの揚げ物料理であったが、いまでは、「天麩羅」という漢字も使われるくらい、日本になじんだ料理になっている。
 戦国時代の終わりに、ポルトガル人宣教師らによって日本へ伝わったことばのうち、食品の名前として使用されていることばは、テンプラのほかに
37< A)パン B)ギョウザ C)キムチチャーハン D)コカコーラ E)アイスクリーム >がある。

 この時代に、最初に日本へキリスト教を伝えようとした宣教師のひとりに、スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルがいる。彼は日本に
38<A)ガラス製のコップ B)ガラス製の皿 C)ガラス製のくつ D)ガラス製の鏡>を伝えた人という説もある。

 戦国時代の終わり頃に、「ポルトガル人から伝えられた」と、されているものを選びなさい。戦争のやり方を大きく変え、戦国時代を終らせるきっかけとなった武器である。
39< A)刀(かたな) B)槍(やり)C)弓矢(ゆみや) D)鉄砲(てっぽう)>

 1573年に織田信長は全国を統一へ向かったが、統一の途中殺された。信長のあとをついだ豊臣秀吉は
40< A)ベトナム B)タイ C)台湾 D)朝鮮>に出兵し、中国を征服しようとしたが、失敗した。


[近世の交流]

 16世紀のおわりごろから17世紀にかけて、日本人のなかには、日本を出て海外で活躍した人もいた。山田長政は、シャム(現在のタイ)の
41< A)バンコック B)チェンマイ C)アユタヤ D)ハノイ >に日本人町を作り、税をとる権利を得て知事となった。
☆ シャムは、地図上のどこか (            )   
41  地図         

 17世紀から19世紀の後半まで、日本は、他国との貿易を制限し、幕府が 
42< A)広島  B)長崎 C)横浜 D)横須賀 >の港に出島(貿易港)を作り、外国との貿易を独占した。この制度を
43< A)輸出制度 B)朱印船貿易 C)鎖国 D)勘合貿易 >と、いう。
 ☆ この貿易を行った港はどこか         
44 地図上の記号            

 この時代の海外貿易の相手国は
45< A)アメリカ・イギリス・中国 B)タイ・朝鮮・オランダ C)朝鮮・中国・オランダ D)朝鮮・中国・ロシア>であった。

 1853年に
46< A)アメリカ B)イギリス C)ロシア D)オランダ >の ペリーが日本へ来た。このときペリーが乗っていた軍艦は、
47< A)赤船 B)黒船 C)大船 D)鉄船 >と呼ばれた。この時結ばれた通商条約は不平等条約だった。


[近代の交流]
 
 近代にはいると、日本は西洋との交流をさかんにし、西洋の文物がたくさん入ってきた。この時代を
48< A)文化開放 B)文明開化 C)文明発達 D)文芸復興 >と呼ぶ。

 この時代に日本にもたらされた普及したものを選びなさい。
49<A)炊飯器・飛行機・ラーメン B)テレビ・新幹線・ハンバーガー C)砂時計・車・カステラ  D)ミシン・鉄道・カレーライス>  

 西洋の制度や学術を学ぶために、たくさんの留学生を欧米に送り出し、また、1870年代を中心として、たくさんの欧米の学者や技術者を日本に招いた。この人々を
50<A)お雇い外国人 B)近代外国人 C)外国使節団 D)異人 >と呼んだ。

 19世紀の末から20世紀にかけて、日本は外国との不平等条約をなくすことに成功した。同時に、アジア地域への
51< A)政治進出 B)武力進出 C)貿易進出 )を、ともなった。
 このような日本政府のやり方に対して、反対した人のなかに、夏目漱石、与謝野晶子などの文学者がいる。
 
52 不平等条約とは、どんな内容であったか。正しいものをふたつ 選びなさい。(ひとつ1点)
A)日本は、鎖国をしなければならないという条約
B)貿易をするときに、関税(貿易税)を日本の法律で決めることができないという条約
C)貿易をするときに、日本は輸出はしてはならず、輸入だけをするという条約
D)外国人の犯罪を日本でさばくことができない(裁判できない)という条約
E)外国人は、日本のどこに居住してもよいという条約

 夏目漱石の文学作品として「こころ」「それから」などが知られています。夏目漱石は英文学、英語学者でもありましたが、その教養の基礎を作ったのは、
53< A)漢詩などの漢文学 B)朝鮮・韓国語とハングル文字 C)オランダ語と医学 )であることが知られています。

「夏目漱石」を、ひらがなでかきなさい。    
54 ひらがな   (              )

漱石の文学作品を選びなさい。
55   A)吾輩は馬である B)吾輩は猫である C)吾輩は犬である

 1931年、
56 <A)中国南西部 B)中国南東部 C)中国東北部 >は、清朝最後の皇帝だった溥儀を満州国皇帝として独立したが、実態は日本の傀儡国家であった。

 満州の輸送や産業を担っていたのは南満州鉄道株式会社である。鉄道の中心となった特急列車に、
57< A)アジア号 B)アメリカ号 C)ロシア号 >がある。

 1940年、日本は戦争を拡大し、
58< A)太平洋 B)大西洋 C)インド洋 D)黄海 >での戦争を開始した。1945年8月、
59< A)東京 B)大阪 C)広島 D)福岡 >と長崎に原爆が落とされ、一瞬のうちに数十万人がなくなり、敗戦となった。
 ☆ 長崎のほか、原爆が落とされた都市はどこか  
60 地図            


[現代の交流]

 中国は、1972年に国交回復した日本に、友好のしるしとして、
61< A)麒麟 B)象 C)大熊猫 D)虎 >を贈った。2頭が上野動物園に到着し、カンカン、ランランと名付けられた。

 マレーシア政府は、欧米追随ではない経済発展をめざし、
62 < A)  Look West 西洋政策 B)Look East 東方政策 C) Look me 自己政策 >プロジェクトを開始した。
 この政策の中心となったのは、
63< A)ガンジー B)タクシン C)マハティール D)キム・デ・ジュン >である。

 マレーシア政府の日本語教員養成プログラムで、養成プログラム修了者は、7年間以上、64<A)日本国内 B)マレーシア国内 C)アジア各国 >の学校で、日本語を教えることになっている。
☆ マレーシアは地図上のどこか          
65地図          

 日本による朝鮮・韓国の併合(植民地化)という不幸な時代は、
66< A)1868年から1904年まで B)1900年から1936年まで C)1910年から1945年まで D)1929年から1965年まで>30年以上つづき、日本の第二次世界大戦敗戦によって、ようやく光復(独立)となった。

 1898年、日本人女性と韓国人ウボムソンとの間に生まれたウジャンチュン(禹長春)は、、育種学者として研究を続け東京大学から博士号を得た。ウー博士は、52歳までの前半生、日本で研究生活をつづけたのち、1950年、政府の招きで韓国へ帰国し、亡くなるまでの後半生は、韓国農業発展のために働いた。
 1959年に
67< A)日本国文化勲章 B)大韓民国文化褒賞 C)ノーベル平和賞 D)マグサイサイ賞 >を受賞後、62歳で亡くなった。

 1965年に韓国と日本は国交回復をしたが、長い間、両国のあいだにわだかまりが残った。
 文化交流もなかなか進まなかったが、1998年に第1回の日本大衆文化開放があり、
68< A)日本語の映画やビデオを韓国内でみること B)韓国語の映画やビデオを日本国内で見ること C)英語や中国語の映画やビデオを韓国内でみること >ができるようになった。

 2000年に韓国と日本の間で、文化交流が完全に開放となった。スポーツなどの交流が盛んになり、 2002年の
69< A)オリンピック大会 B)アジア大会 C)ワールドカップ・サッカー大会 >の前には、日韓の間を行き来する人は、年間2万人の往来に過ぎなかったが、以後は、一日に1万人以上が往来している。
 2004年の「冬ソナ(冬のソナタ)」は、社会現象にまでなり、韓国に親しみを感じる日本人が70< A)激減した B)やや減った C)激増した D)やや増えた>。

 日本と中国の文化交流のひとつに、漫画・アニメによる交流がある。日本のアニメ作品71< A)スーパーマン・スパイダーマン B)ドラえもん・ドラゴンボール C)シンデレラ・不思議の国のアリス D)ピーターパン・ミッキーマウス>などが中国で放映され、人気を得た。中国文化部は、アニメ漫画・ゲーム産業の健全な発展のために、上海で「中国国際アニメ漫画・ゲーム博覧会」を開催した。
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(Ⅱ)日本の時代区分 (ひとつ1点) 11点
① 時代をあらわす語を、古い順に並べてください。(答えはひらがなで書くこと)

A)鎌倉 B)古墳 C)縄文 D)平安 E)奈良 F)江戸 G)大和 H)昭和 I)弥生 J)明治 K)大正 L)室町 M)戦国 N)平成 O)安土桃山 P)南北朝


原始 1)じょうもん   2)      ・           ・ ・            ・
古代 3) 4)やまと 5)           6)           
中世 7) 8)なんぼくちょう 9) 10)
近世 11)あづちももやま 12) ・ ・
近代 13) 14)たいしょう 15) 16)


② A,D,E,F,J,L、の時代に、政治の中心地があった都市について答えなさい(13点)
 (例)のように、現在 の都市名をひらがなで書きなさい。地図上の位置について記号で答えなさい。

時代 中心都市 地図番号
鎌倉 ・ ・
平安 ・ ・
奈良 ・ ・
江戸 ・ ・
明治 ・ ・
室町 ・ ・
平成 例)とうきょう ・


(Ⅲ)
次の人物をひらがなでかきなさい。(5点)

(1)紫式部(                       )
(2)源頼朝(                       )
(3)徳川家康(                      )
(4)福沢諭吉(                      )
(5)樋口一葉(                      )



2006/07/20

日本語と日本の歴史と文化 確認クイズ
2006年前期  日本事情
日本語と日本の歴史と文化 確認クイズ        100点満点

番号 氏名:            


<Ⅰ> 番号の左側に、○ か × を書きなさい。3点×15=45
例1) ( × )日本のお札(紙幣)の肖像に女性が使われたことはない

1)日本では、陶磁器を生産していないので、中国の景徳鎮 やヨーロッパのマイセンなどから輸入した陶磁器が使われている。

2)日本の食事マナーで気を付けることは、食べる前に「いただきます」食べ終わったら「ごちそうさま」とあいさつすることが最も重要で、あとは、特にマナーはないので、どのように箸をつかい、どのように食べるのも自由でよい。 

3)和食の作り方。忘れてならないことは、料理の最後に必ず「味の素」をいれることである。

4)日本で犬と共にペットとして親しまれている猫、日本で飼われるようになったのは、近代(明治時代)以後である。

5)現在の千円札の肖像になっている野口英世は、医学博士として黄熱病の研究をしている途上、自分自身が黄熱病に感染し、なくなった。

6)現代、海外での翻訳が盛んに行われている作家として村上春樹が知られ、代表作に『ノルウェーの森』などがある。

7)伊集院静は、明治時代を代表する作家である。

8)日本の5月6月は、「梅雨」の時期にあたり、沖縄から北海道まで、雨がふりつづく。

9)桜は日本の春を代表する花の咲く樹木である。日本全国で染井吉野という種類が最もたくさん植えられている。

10)日本の冬、人々がお寺に集まる行事には、大晦日の除夜の鐘、正月の初詣、などがある。

11)日本の秋は、暦のうえでは立秋からをいう。立秋は、太陽暦では8月7日~8日にあたる。
 すなわち、暦のうえで秋とは、8月9月10月をいう。

12)現在、東京都内や埼玉県には、路面電車は走っていない。

13)東京の交通を担っている東京地下鉄株式会社(通称東京メトロ)は、丸の内線・有楽町線など8路線を運営している。

14)明治時代に輸入されたとき、庶民にとって自転車は手軽で安価な乗り物として、おおいに利用された。

15)平安時代、庶民の娯楽として花火が盛んになった。


<Ⅱ> 選択肢 A・B・C の中から、ひとつ選びなさい。 3点×5=15
例2)聖武天皇の命によって建立されたのは、A:奈良の大仏 B:鎌倉の大仏 C牛久の大仏

16)江戸時代、日本が交流を続けていたのは(A;中国・朝鮮・オランダ/B:百済・英国・アメリカ/C:琉球・印度・フランス)である。

17) 明治時代の「文明開化」で人々の生活文化にとりいれられたのは、A:新幹線・洗濯機・冷蔵庫・刺身/ B:鉄道・太陽暦・洋服・牛肉 /C:ヘリコプター・テレビ・パソコン・スパゲティ/ である。

18) 日本の食文化のなかで、日本で開発された調味料としてもっとも親しまれ、国際的にも使われるようになったのは、(A:砂糖 B:醤油 C:みそ )である。  

19) 日本の言語文化のうち、短歌は、57577の音節(ひらがな31文字)によって短詩を構成する。また、俳句は、(A:575の17音節ひらがな17文字 /B:577の19音節ひらがな19文字/C:757の19音節ひらがな19文字) によって短詩を構成する。

20)明治時代、(A:開国交流・吉本興業・国籍改正/B:大国出兵・国際工業・法律改正/
C:富国強兵・殖産興業・地租改正)などの近代化政策が押し進められた。

21)江戸時代の文化を代表するもの(A:土偶・貝塚・古墳/B:金閣寺・能狂言・御伽草子/
  C:浮世絵・歌舞伎・人形浄瑠璃)

<Ⅲ>選択肢の中から答えを選び、ひらがなで書きなさい。(漢字で書くと減点)
例)平安時代に随筆「枕草紙」を書いた人は、(紫式部/和泉式部/清少納言)である。
 答( せいしょうなごん )

21)現在、2千円札の表は、世界遺産「沖縄の首里門(守礼門)」であるが、裏には( 源氏物語/平家物語/伊勢物語 )の絵が描かれている。
答(                 )

22) 1603年に江戸幕府を開いたのは( 織田信長/豊臣秀吉/徳川家康)である。
 答(                   )

23)江戸期を代表する俳人(俳句をつくる人)として、(喜多川歌麿/十返舎一九/松尾芭蕉)が有名である。
答(                  )

26)江戸時代、武士は藩校で、庶民は初等教育を(小学校/寺子屋/芝居小屋)で、高等教育を私塾で受けていた。幕末期の識字率は世界で一番高い水準だった。
答(                  )

27)開国を要求するペリーを乗せて、アメリカの軍艦( 赤船/黒船/白船 )が江戸湾にやってきて以後、日本は鎖国政策を変えることになった。
答(                )

28)現在、1万円札の肖像になっているのは(夏目漱石/岩倉具視/福沢諭吉)である。かれは「学問のすすめ」を著わし、また慶応大学を創始した。
答(                )

27)現在、5千円さつの肖像になっている(卑弥呼/静御前/樋口一葉)は、明治時代、24年の短い生涯のあいだに、「たけくらべ」「にごりえ」などのすぐれた小説を書き表した。
答(                )

28)日本の文学者でノーベル文学賞を得たのは、川端康成のほか(大江健三郎/三島由紀夫/夏目漱石)である。
答(                 )

29)明治時代から大正時代に活躍した文学者、(紫式部/小林一茶/森鴎外)の代表作に『山椒大夫』『舞姫』がある。彼は、軍医でもあった。
答(                   )



留学生の発表
 以上の日本と自国の交流史クイズ、日本文化確認クイズ、は、次の「学生発表」に基づいて作成した「発表確認のクイズ」です。
 学生は、班ごとにテーマを決め、個人の興味に応じてタイトルにある内容を発表しました。


2006年度 日本事情 前期発表テーマ

班 日本の文化・テーマ タイトル
韓流 日本の交通 東京の地下鉄
日本の電車
日本の自転車文化史

文学 日本の作家 森鴎外
大江健三郎
村上春樹
伊集院静

お札 日本のお札の顔 一万円福沢諭吉
五千円樋口一葉
二千円紫式部
千円野口英世

娯楽 日本の娯楽 花火
ペット・猫

食文化 食材 日本料理の食材
食器 日本の陶磁器
料理法 和食の作り方
食べ方 和食のマナー

四季 日本の天気と四季 日本の春
日本の梅雨と夏の気候
日本の秋
日本の冬


班 自国と日本の交流史 タイトル
韓流 韓国と日本の交流史 聖徳太子が招聘した百済の僧「慧慈(けいじ)」
韓国と日本の交流史 育種学者・禹長春(日本と韓国、ふたつの祖国)
韓国と日本の交流史 日韓文化開放
韓国と日本の交流史 日本と韓国の音楽交流

文学 漢文の影響 夏目漱石と漢詩

遣唐使 遣唐使と仏教 留学僧・空海
遣唐使と仏教 阿倍仲麻呂
遣唐使と仏教 玄奘と般若心経

食文化 中日・食文化往来 饅頭の伝来
中日・食文化往来 日中食文化比較
中日・食文化往来 砂糖の歴史
中日・食文化往来 喫茶文化

物の交流 中日・モノの往来 鏡・青銅鏡、ガラスの鏡
中日・モノの往来 漢方薬の歴史
中日・モノの往来 算盤の歴史
中日・モノの往来 南満州鉄道の歴史
中日・モノの往来 パンダ外交
中日・モノの往来 日本から来たアニメと漫画

アジア交流 モンゴルと日本 元寇とモンゴル建国800年
東方政策と日本 マレーシアの東方政策とマハティール
東方政策と日本 東方政策・日本語教師養成プログラム
タイと日本 アユタヤの日本人町


ぽかぽか春庭「フラガール語・方言とアクセント」

2008-09-18 07:34:00 | 日記
2008/03/05
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(1)フラガール語

 春庭、国立大学では留学生の日本語教育を担当し、私立大学では、学部日本人学生の日本語学、社会言語学、日本語教育学の授業を受け持っています。

 2006年4月に、社会言語学の授業を始めるときはドキドキでした。
 私は「日本語学・現代日本語統語論」で修士論文を執筆し、社会言語学はシロートなのです。
 「日本語教育」に必要な社会言語学を勉強しただけであり、社会言語学の専門家ではありません。

 しかし、「一般学生教養科目と、日本語教師養成コースの学生の必修科目、ふたつの共通科目として設置されているので、日本語教育からみた社会言語学を講義することでかまわない。科目名は社会言語学ではなく、社会言語論になっていますから」という講義目的をお聞きして、自分なりに「社会とことば」ということを考えてみるチャンスだと思いました。

 社会言語「学」ではなく、「社会と言語」論でよい、ということだったので、にわか勉強をかさね、私なりに「日本語と日本語を用いる社会と文化」について、学生に興味をもってもらえる授業を工夫してきました。

 15回の授業の前半は「地域言語(方言)の豊かさ」を中心に話します。後半は、「社会位相と言語、待遇表現(敬語)」「社会における言語と文化」を中心に話しします。「社会階層と言語」「文化と言語イメージ」などが、授業の中心です。

 言語政策、ネーミング、言語教育、などについて触れるのは、ごくわずかな時間配分になってしまい、学問としての社会言語学にふれられるのは、ごく一部です。
 しかし、受講生のほとんどは「一般科目」として授業を受ける学生なので、学問としての社会言語「学」らしい講義よりも、「卒業して一般社会のなかで十分に活用できる日本語能力、運用力、日本語の言語文化を享受できる能力」の養成を第一にしています。

 2007年のある日の授業。
 最初に、映画『フラガール』の冒頭シーンを学生にみせます。
 二人のかわいらしい女子高生が、ボタ山で自分たちの未来について話し合っています。蒼井優ちゃんが福島浜通り方言(いわき弁)で「フラダンス、やってみっぺ」と決意する会話を聞かせました。

 教師からの指示。
 「ふたりの会話を聞いて、自分たちのふだんの会話とちがう感じがするところを聞き取りましょう」という課題を出しました。
 学生たち、耳をこらし「~してくんちぇ」という依頼表現などを聞き取って発表します。

 「話し方の、なんていうか、リズムっつうか、なんかオレらのと違う」と、うまく言い表せないけれど、「なんとなく違うところがある」ということを聞き取る学生もいます。

<つづく>
 
2008/01/14
高低アクセントと無アクセント

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(2)高低アクセントと無アクセント

 フラガールたちの会話は、福島県浜通り地方のことばです。
 日本語地域言語の発音アクセントにおいて、フラガールの舞台になっている福島の一部、そして栃木茨城の一部は、「無アクセント地帯」として、特徴的な地域です。

 日本語標準語および、多くの地域言語(方言)では、単語と分節が「高低アクセント」を持っています。文にはイントネーションがあります。
 しかし、無アクセント地帯では、このような高低アクセントがなく、文の最後が尻上がりになっておわるイントネーションを持つ点で特徴的です。

 学生には、フラガールたちが、このような「無アクセント」で会話していることに注意をむけさせ、次に、「雨」「飴」「箸橋端」など、アクセントの高低によって単語の意味が変わるペア単語を探させます。

 「蒼井優ちゃん、かわいいですね。優ちゃんの話し方もチョーかわいい。いい響きですね。このような、語尾までずっと平らなままことばを続けて、最後に尻上がりになる話し方、無アクセントといいます」
 「フラガールアクセント」を褒めちぎり、この地方のことばの特徴をいくつか取り出します。

 日本語は、高低アクセントを用いる言語であるけれど、地域によっては、フラガールの地元のように、そうではない方言もあり、日本語の多様さを確認させます。

 フラガールの映画の次に、斎藤孝編集のCD『声に出して読みたい方言』から、いくつかの地方の方言を聞かせます。
 私が強調するのは、これらの方言は日本の言語文化の宝物だ、ということです。

 今、各地の方言が消えつつあります。テレビマスコミの発達によって、地方の若い人にも、お年寄りの話す方言を理解できなくなっていたりします。
 「新方言」と呼ばれる「標準語」とのミックス方言を話す若者もいますが、純粋方言が話せるのはお年寄りに限られてきつつあります。

 ことばは生まれ変わるのが常なので、「新方言」が旧来の方言を駆逐するのは、歴史の必然でもあるのだけれど、歴史の中に生き残ってきた方言がまったく消え去ってしまうのだとすると、さびしくもあります。

 岩手県気仙地方の方言を集大成した「ケセン語」辞書の編纂など、方言の文化を残そうとする試みも続いています。

 大道芸の保存収集を続けていた小沢昭一は「保存会ってのができたら、もうその芸能はおしまいなんだよ。地元で生きた生活文化としての芸能は死んで、干物になった保存用の芸能が残る」という意味の発言をしています。

 同じように、保存会ができて記録されていく方言は、地方の生活のなかでは「生きていることば」ではなくなっています。

<つづく>
 

2008/01/15

バイリンガル

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(3)バイリンガル

 春庭の「社会言語論」の授業、各地の方言の次には、『アイヌ語』のCDで、アイヌユーカラやアイヌの歌を聞かせます。

 アイヌ語は、日本語とは別系統の言語ですが、母語話者が消えてしまった「話者滅亡言語」です。

 近年、アイヌ語を学習している人が増えてはいるけれど、母語として、家庭の中で日常語として使用する人は、現代の日本にはいなくなっています。
 ひとつの家の中で、家族全員が日常の生活語として話す人がいなくなってしまったのは、残念なことです。

 アイヌ語が、すばらしい響きと豊かな言語文化の歴史を持っていることを学生に伝えて、「アイヌ語はすばらしい言語文化なので、ぜひ残していきたいと私は思うけれど、言語は社会の中で使われてこそ生きた言語なのであり、一度ほろんだ言語を社会の中で復活させるのはとてもむずかしい」ということを話します。

 「日本語の中でも、各地の方言を大切にしてほしい。自分が現在方言を話せないとしても、田舎のおじいちゃんおばあちゃんが方言を話せる人だったら、ぜひ夏休みでも冬休みでも、方言を習っておいてね。」と、学生に言っています。
 しかし、学生は「え~、方言わざわざ習うの?」と、あまり乗り気でないようす。

 そこで「じゃ、この中で、自分がバイリンガルだったらよかったのに、って思っている人、どのくらいいる?」と、聞いてみる。

 「英語と日本語バイリンガル」とか、「フランス語と中国語バイリンガル」なんて友達をみて、「ふたつのことばを両方つかいこなせたらいいなあ」と、うらやましく思ってきた学生も多い。
 「じゃ、これから私がみなさんをバイリンガルにしてあげます。よく聞いていてね」

 「みんなは、ノルウェー語とデンマーク語の両方を話せる人がいたら、その人はバイリンガルだと思うんじゃないかな。ふたつの国のことばだから。
 マレーシアのことばと、インドネシアのコトバだったらどうですか。バイリンガルと思う?
 学生たち、「うん、うん」と、うなずいている。

 でもね。
 ノルウェー語とデンマーク語は、近い親戚同士のことばで、名古屋弁と博多弁の違いくらいしか違いがありません。スペイン語とポルトガル語だって、青森弁と薩摩弁のちがいくらい。マレーシアのマレー語とインドネシア語など、京都弁と大阪弁のちがいくらいです。

<つづく>

 

2008/01/16

マイアヒ語

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン教師日誌>社会とことば(4)マイアヒ語

 バイリンガルの話のついでに。
 「モルドバ語って聞いたことある人、手をあげて」と学生にたずねる。
 だれも手をあげません。

 「モルドバって国、どこにあるか、知っている人、いる?」
 だれも答えません。
 独立して17年のまだ知名度が低い。東欧のルーマニアとウクライナに挟まれた、旧ソ連から独立した国家。

 「じゃ、次にかける曲を聴いたことある人は手をあげてね」
YouTubeより www.youtube.com/watch?v=jJALPCK0T7Q

 「空耳フラッシュ」として「のまネコ」のフラッシュアニメで有名になったオゾンの『恋のマイアヒ』という曲を聞かせます。
 教師、のってくると、曲にあわせてパラパラ風ダンスを踊るので、学生、唖然。スマスマで♪マイアヒー♪と踊っていたパラパラ風ダンス)

 2004年のヒット曲、学生たちも中学校小学校時代に大流行だったので、よく覚えています。

 曲をききながら、「この曲を歌っているオゾンというグループは、モルドバという国の出身です。でも、ミュージシャンとして成功するために、モルドバからまずルーマニアに進出しました。なぜルーマニアへ行ったか。ルーマニアはモルドバの隣の国です。
 
 モルドバ語とルーマニア語は、ほとんど同じ。大阪弁と船場言葉のちがいくらいです。
 でも、モルドバの人たちは、「自分たちのことばはルーマニア語である」とは、決して言わない。「モルドバ語だ」という。

 だから、ルーマニア語とモルドバ語というのは、二カ国語ではあるけれど、ほとんど差はない。同じひとつの言語といっていい。

 つまり、二カ国語が話せる、といっても、その二ヶ国語とは方言のちがいにすぎないことも多い。国がちがってもことばは同じ、という例のひとつ。
 また、ひとつの国のなかでも、インドのように系統のちがう言語が地方ごとに話されている国家もあって、隣町の人とは、通訳がいないと話しが通じない、という場合もある。

 「方言と標準語の両方が話せたら、自分はバイリンガルだと言って、誇っていいですよ」と学生にいい、方言習得のススメを強調しておきます。

<つづく>
 

2008/01/17

パル、パナ、わゐうゑを

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(5)パル、パナ、わゐうゑを(方言周圏論)

 授業コメントを学生に書いてもらったとき、こんなメッセージがありました。

 「 自分は埼玉で、親といっしょに住んでいます。小さいときから自分は標準語を話してきました。父は埼玉出身ですが、母親は青森の出身です。普段は、母も標準語を話しているのですが、ナマリがきつくて、友達が家に遊びに来ても、母親の話し方が恥ずかしくてならなかった。

 でも、先生の授業をきいて、方言は誇りにしていい言語文化なのだとわかりました。母親の発音を恥じていた自分こそ恥ずかしいです。これからは、母に青森方言を習おうと思います。 」

 私が意図している授業の目的のひとつを、きちんと受け止めてくれる学生のメッセージ、うれしく読みました。

 方言について話すとき、方言周圏論についても触れます。
 柳田国男が提唱した社会言語の理論です。異論もあるなか、現在、検証がなされ、定説として認められています。

 「中央の発音や文法が他の新来のものに変わってしまったあとも、地方に古来の発音や文法が残存する。中世までは京都、近世以後は江戸東京を中心にした円周を描いて、言語の移り変わりを図に表示できる」というのが、方言周圏論の骨子。

 柳田国男は「かたつむり・でんでんむし・まいまい・なめくじ」という語が、ひとつのものを指し示しながら多様な表現で各地に現れることに注目し、京都を中心に円周上に古い言い方がならんでいることに着目しました。

 現代のラジオ放送番組が調査した「全国アホバカ調査」では、アホ、バカ、ダラなど、誹謗中傷語を投書によって集め、方言周圏論の説どおりに、円周上に「悪口ことば」が並んでいることを証明しました。

 また現代語のハヒフヘホの発音が、奈良以前の古代語では「パピプペポ」であったということも、この方言周圏論によって説明できます。
 「花、春」を、沖縄八重山地方では「パナ・パル」と発音しているからです。

 現代語では「ワ行」の発音のうち「いうえお」は「ア行」の発音と同じになっているけれど、平安期までは「わゐうゑを」は、「wa wi u we wo」でした。最後までア行とは異なる発音を保っていた「をwo」も、室町期から江戸初期にはア行の「お」の発音と同じになりました。

 しかし、地方には「を」と「お」の発音区別が残っているのです。

<つづく>
 

2008/01/18

ガリレオ先生のwo

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(6)ガリレオ先生のwo(
助詞の「を」)

 2007年10月の「目黒のさんま」で、日本語発音のうち、昔と現在では発音が変わってきていることをお話しました。
 10/14~17日には、ワ行ヤ行の発音について書きました。

 現在の発音では「わいうえを」の発音は「wa i u e o 」であり、「ワwa」以外の発音は「ア行」の「いうえお」の発音と同じです。しかし、平安期には「わゐうゑを」というひらがな表記と「あいうえお」というひらがな表記があり、表記通りに別々の発音をしていました。

 ワ行の発音は、「ワwa ウィwi ウゥwu ウェwe ウォwo」という発音だった。しかし、平安初期以前にすでに「ウゥwu」の発音はア行の「ウu」と同じ発音になってしまい、その後、しだいに「ウィwi ゐ ウェweゑ ウォwoを」の発音も、ア行の「い、え、お」と同じになっていきました。

 同じように、ヤ行の現在の発音は、「ya i yu e yo」であるけれど、昔むかしは「ya yi yu ye yo」であったろう、ということが、残された文献から推測されます。

 ワ行、ヤ行の発音変化について、以上のことを述べたら、コメントをいただきました。

 謡曲のお稽古をつづけていらっしゃるrokujyouさんからいただいたコメント

 『 「お」と「を(ウオ)」は、謡曲では使い分けています。耳を澄ませて油断無く聞き分ける習慣をつけることにします  投稿者:rokujyou (2007 10/14 14:5) 』

 また、長崎出身のphilatelyjp さんからは、下記のようなコメントをいただきました。

 『 長崎県出身の長春在住者です。助詞の「を」は九州では今でも「wo」と発音します。年配者だけかも知れないと思っていたら高校生もそうでした。長崎出身の福山雅治の歌を聞いてみてください。 投稿者:philatelyjp (2007 10/20 22:24 ) 』

 検証!!
 福山雅治の歌をきいてみました。
 2007年10~12月には、テレビドラマ『ガリレオ』を楽しみに見ていたのですが、福山雅治の「をwo」について特別気にせずに見てしまいました。

 娘が「第1話第2話は同じドラマティストだけれど、3話はドラマのティストがちょっとちがう」というので、月刊誌『ドラマ』でシナリオ『ガリレオ1~3話』を読みました。
 たしかに、1話2話の脚本は福田靖で、第3話は古家和尚。脚本家が異なっていました。

 娘の「ドラマ鑑賞」の鋭い感覚に感心しましたが、わたしは、この「ティスト」のちがいも、福山の「をwo」も、ぜんぜん気づきませんでした。ただ、ぼうっと、「福山ガリレオセンセ、かっこいい」と思ってみていました。

<つづく>
 

2008/01/19

福山雅治のセーラー服と機関銃

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(6)福山雅治のセーラー服と機関銃(日本語の発音変化と地域位相)

 ユーチューブを聞いて確認。
 福山雅治『セーラー服と機関銃』YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eal.Y_QMyTz0

 『ミルクティ』の中で♪愛される明日を夢みる~、『桜坂』♪恋をしている~、などでも「をwo」が聞き取れますが、『セーラー服と機関銃』を聞くと、いちばんはっきり分かります。

 長崎出身の方は、高校生など若者も、助詞の「を」の発音は「wo」なのだそうですが、福山の「を」は、実にはっきりと「ウォwo」になっています。

♪愛した男たちwo~ ♪タダこのまま冷たい頬woあたためたいけど~ ♪いつの日にか僕のことwo 思い出すがいい~ ♪希望という名の重い荷wo~

 長崎地方の助詞の「を」は、古来の日本語発音が残り、「ウォwo」であることが検証できました。

 顔見知りの人、とくに日本語教育関係の方には秘密にしている春庭のカフェコラム「いろいろあらーな」
 秘密の理由は「プライベートの趣味と仕事をかっちりと分ける」ということで、とくに、直接、仕事をごいっしょにしている方には、URLを教えたことありませんでした。
 顔を知っていた方からのコメントをもらえるとびっくり!です。

 長崎地方の「を」と「お」について、また福山雅治の発音についてコメントをくださったphilatelyjp さん、知りあいだった人とわかってびっくり仰天。

 philatelyjpさんは、2007年に私が赴任していた中国の大学の、他学部にいた先生。長崎から県の派遣で赴任していた方でした。

 キャンパスが別なので仕事での交流はなかったのですが、宿舎は同じ場所。
 philatelyjp 先生は旧館1号館で、私は2号館でした。

 私の同僚のひとりがphilatelyjp先生と最初に顔見知りになり、私たちにも紹介してくださるというのでいっしょに「北国の春」という名の和食屋さんでお食事をしました。
 そのあと、カラオケにいきました。
 philatelyjp先生は、福山雅治の『桜坂』や中島みゆき『地上の星』を熱唱なさっていました。

 そのおり、長崎のご出身だとうかがっていたし、郵便切手コレクターとしては日本有数の方なのだと聞かされていたのに、10月15日付けの春庭コラムにコメントを寄せてくださったハンドルネーム、philatelyjp(郵便切手愛好家日本)に、何も思い当たることがなかった。

<つづく>


2008/01/20

セーラー服と機関銃カラオケ余話

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>社会とことば(7)セーラー服と機関銃カラオケ余話

 おおみそかに、これまでコメントをくださった方へ、ごあいさつ足跡をつけていたとき、突然気づきました。

 「長崎出身、切手愛好家、長春在中」という三つのキーワードで、「あれ、このphilatelyjp さんは、旧館1号館にいらっしたI先生だ」と。

 リンクをたどると、philatelyjp本館HP掲示板には、私が書き込んだ「カラオケ、楽しかった」という書き込みが残っていました。

 philatelyjp 先生、コメントをありがとうございました。
 春庭が「日本語教師・某」であること、まだ秘密にしておいてくださいね。
 日記中には、いろいろ「ヒ・ミ・ツ」の話も書いてあるので、、、、、、私のダイエット2007年も不可で、いまだ体重増量中であるとか、夫は、「年中トーサンは倒産」のハナシ夫であることとか、、、、、、
 
 ちなみに、『石狩挽歌』『氷雨』『六本木ララバイ』『中島みゆきメドレー』などとならんで『セーラー服と機関銃』も、春庭のカラオケ持ち歌です。

 philatelyjp 先生たちとごいっしょに桂林路のカラオケ店へ行ったとき、私は半分眠りながら『六本木ララバイ』を歌いました。

 ハカセ3班の学生のクラスパーティに呼ばれて、ダンチョー先生といっしょにカラオケへいったときは『セーラー服と機関銃』をソロで、ダンチョー先生といっしょに『北国の春』を、トウ先生といっしょにテレサテンの『つぐない』を歌いました。
 日本語で歌える歌がその3曲しかなかった。

 というわけで、社会のなかでことばをつかって暮らしていれば、さまざまなコミュニケーションが蜘蛛の網目のように絡まり合い、人と人をつないでいきます。
 philatelyjp 先生との思いがけない邂逅も、社会のなかで生きて、ことばを交わしあっていればこその、蜘蛛の網目(Web)が絡み合ってのつながりでした。

 「社会言語論」受講の学生たちと、今年はどんな出会いがあるでしょうか。

<おわり>  


授動詞分の受益者格

2008-09-16 10:39:00 | 日記
授動詞文の受益者格』      


要旨
 授動詞(やる・あげる)は、他者のために何らかの行為を行なうことを示す補助動詞として用いられる。
 本稿の目的は、だれのために行為が行なわれているのかを示す、受益者のマーキングを明かにすることである。
(1) 元の文の補語と受益者が同一の場合は、受益者を新たに示す必要はない。補語が受益 者を兼ねる。補語の所有者が受益者である場合も同様。
(2)受益者を新たに付け加える場合、受益者にものの移動があるときは、受益者は「に格  で示す。ものの移動がないときは、「のために」で示す。



0・はじめに
日本語には、誰にむけて動作が行なわれたかを明示する形式がある。動詞(~て形)に
補助動詞としての「やる」「くれる」「もらう」がついた、いわゆる「授受文(やりもらい文)」である。

 授受文は、動作主体・話者の視点・待遇の面から体系をなしているが「やる・くれる」と「もらう」は構文的に異なっている。「やる・くれる」文は、元になる文の構造をかえずに、動詞に補助動詞をプラスした形を基本とするが、「もらう」文は、元になる文と主語・補語の位置が異なる。「もらう」文は、構造の面からは、受け身文につながるといえる。

  (元の文)先生が 太郎を ほめた。(動作主体ー対象ー述語)
  (受け身)太郎が 先生に ほめられた。(対象ー動作主体ー述語)
  (もらう)太郎が 先生に ほめてもらった。(対象ー動作主体ー述語)

 本稿では、元の文と格の構造が変わらない「やる」「くれる」文を中心に、誰に向けて動作が行なわれたのかを明示する格マークが何になるのかを見ていくことにする。


 日本語教育における授受文

 日本語初級の学習者に、次のような例文が「やる・くれる」文として与えられる。

   チンさんは わたしたちのために 記念写真をとって くれました。
   田中さんは わたしに 英語を 教えて くれました。
   わたしは こどもたちを しょうたいして あげました。
   わたしは 山田さんのくつを みがいて あげました。
                                   『日本語初歩29課』

 これらの文において、動詞で表わされた動作・行為の受益者(利益・恩恵を受ける人)は、わたしたち、わたし、こどもたち、山田さん、であるが、名詞についている助詞(または複合助詞)は「のために」「に」「を」「の」などさまざまである。

 授受文において日本語学習者がとまどうことの一つは、誰が誰にしてやっているのかという関係がよくわからないことだという。確かに上の例文を見る限りでは、受益者はさまざまな格でしめされ、何を用いたらよいのか、わかりにくい。

 「先生が私達に日本語を教えてあげました。」など、話者の視点とやりもらいの方向を間違うもの、「夫は私に結婚してくれました」など、受益者の格を間違えるものなど、誤用の性質はいろいろあるが、授受文が学習者にとって、習得しにくいものの一つであることはいえるだろう。

 しかし、これまで、学習者に対し、わかりやすい教示は少なかったように思う。例えば
Naomi Hanaoka McGloin (『 A student's guide to Japanese grammar』)は動詞テ形に「やる」「あげる」がついたときの格マークについて、次のように説明している。

  ① 授受動詞(あげる・やる・くれる)の間接目的語(恩恵の受益者)は「に格」で    マークされる。例文「道子に英語を教えてあげた。」

  ② 直接目的語が人に所属している場合には「に格」は適切でなく「の格」が用いら    れる例文「道子の部屋を掃除してあげた。」

 恩恵の受益者は「に格」で示すという説明を、学習者が応用すれば「私は 太郎に 駅へ 案内してやった」などの誤用がでてくるのは当然だろう。

 また、「太郎」の幼い娘「花子」が、彼女の所有物である絵本を持ってきて、読んでほしいと「太郎」に頼んだとしよう。絵本は明らかに花子の所属物だから「太郎は花子の絵本を読んでやった。」とするのが適切で、「太郎は花子に絵本を読んでやった。」といったら不適切なのだろうか、という疑問も、学習者は感じるだろう。
 授受文の受益者を適切に示すために、もう少し詳しい説明を試みたい。


2・1 話者の視点と表現意図

 「やる・くれる・もらう」は動詞で表わされる内容について、話し手の視点によって、話者が主観的に表現したものである。実際の受給関係のあるなしに関わらず、話者の視点からの受給関係を表わす。

  (1) お兼さんは自分の声を聞くや否や、上り口まで駆け出してきて、「このお暑いの    によくまあ」と驚いてくれた。『行人』

 この「驚いてくれる」の行為の主体(お兼さん)は、相手の利益を考えて「驚く」という行為を行なったわけではない。しかし、「自分」は主観的に、お兼さんの「驚く」という行為が自分に向けて行なわれたと受け止め、自分にとってプラスの利益を感じさせるものとして「くれる」を用いている。授受文は、話し手の視点からみて主観的に「行為が行なわれる方向」「誰の為に行為が行なわれたか」を示すのである。

 授受文の補助動詞「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」は、本動詞の動作行為がだれに向かって行なわれるかを示すのであって、利益の受給そのものを示すのではない。

 行為を向けられた相手にとって、その行為が受け入れられるものであれば、プラスの利益になるし、受け入れられないものならばマイナスの利益と受け止められる。「やりもらい」が文法的に表わすのは行為を向ける方向であって、話し手や聞き手の主観によって、その行為がプラスにもマイナスにも受け止められる。本稿でいう「受益者」とは、あくまでも話し手の主観の中での利益・恩恵の受け手であって、現実に行為の受け手が利益を得るとは限らない。「軽蔑する」「ぶつ」「いやがらせをする」など、語彙的にマイナスの利益と受け取られることが多い語もあるが、文脈によっては、プラスの利益にもなり、話し手の表現意図によって変わってくる。

  (2) 花子をいじめたくなって、太郎は花子に石をぶつけてやった。(マイナスの利益  
  (3) 境内の石を病気の部分にぶつけると治るという話を聞き、太郎は花子に石をぶつ    けてやった。(プラスの利益)
  (4) あとにも先にも一度の小言をあんなにくやしがって泣いてくれなくともよさそう     なものを『野菊の墓』(マイナスの利益)
  (5) 外の場合なら彼女の手をとって、ともに泣いてやりたかった。『行人』(プラス      の利益)
  (6) 私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。『放浪記」(マイナスの利益    (7) 彼と一度仕合いして化けの皮をひんむいてやりたいと思った。『風林火山』(マ    イナスの利益)

2・2 「のために」

 「のために」は、授受文でない場合も、動作・行為の恩恵・利益を受ける存在を表わすことができる。「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作った。」という文は

、動作主体(おかあさん)がヒサの利益を目的として動作を行なったことをあらわす客観的な描写である。「ヒサのために」は客観的に受益者がヒサであることを示している 一方「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作ってくれた。」という文は、視点がヒサの側にあり、ヒサの側からおかあさんの行為を主観的に述べたことになる。話し手(文の作者)の意識がヒサの立場に置かれておりヒサの側から表現されているのである。このように、授受文は、ある立場からの視点による動作・行為の方向の表現であり、一つの視点からみて主観的に恩恵を受ける存在を示す文である。

2・3 意志を表わす「~てやる」

 「~てやる」文の動詞は本来、意志動詞である。「~てやる」文に、非意志動詞が用いられる場合、「わざと驚いてやった」「家族のために死んでやろう」などのように意志的な意味が加わる。意志を加えられない動詞を「~てやる」文にすることはできない。

 「*はっきりと見えてやった」「*うっかり落してやった。」

 本動詞としての「やる」には「一方から他方へ移らせる」という行為の方向を示す用法のほかに、「積極的にみずから行なう、する」という意味もある。

  (8)  若し、そなたが、このわたしの命令をきかぬならば、わたしは、それを自分で     やります。」『風林火山』

 「~てやる」という補助動詞としての用法にも、動作・行為の方向を示すのではなく、「積極的に行なう」という意味を表わす場合がある。この場合は、動作・行為主体の意志や希望を表わしている。

  (9)  ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。『走れメロス』
  (10) 畜生、この仇はきっととってやる。『邪宗門』

2・4 受益者の格マーク

 「~てもらう」は、動作・行為を向けられる側を主語とし、動作の主体を補語として、表現した文であるが、「~てやる」「~てくれる」は、動作・行為を他者に向かって行なう側を主語とし、動作・行為を向けられる側を補語とする表現である。

 「~てやる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」を行為の受け手にすることはできない。「~てくれる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」が行為の受け手になる。逆にすると非文になる。「*太郎は私をかわいがってやった。」「*私は太郎をほめてくれた。」

 「~てやる」「~てくれる」文は元の文と格の構造を変えず、動詞に補助動詞「やる」「くれる」を付け加えて、動作を向ける相手、利益・恩恵を受ける相手(受益者)を示す 受益者はもとの文の補語と別の存在として付け加えられることもあるし、もとの文の補語(動作客体など)が受益者を兼ねる場合もある。

 もとの文に新たに受益者格を付け加える場合、「のために」という複合助詞で受益者を明示することもあり、「に格」で受益者を示すときもある。

 一般的な会話や小説などの文章中では、行為者や、行為を向けられる人は自明のこととして省略される場合が多い。文脈によって、誰がその動作・行為を行なうのか、誰に向かって行為が向けられているのか、推察できるからである。しかし日本語学習者にとって、これを推察するのは上級者になってもなかなか難しい。

 主語(行為者)については、なんとか推察できる学習者でも、誰に向けた行為なのか、という点はなかなか理解できない。新聞・小説などの読解に進んだとき混乱する原因のひとつとして、初級段階で、受益者がどのように示されているのかを確実に把握していないこともあげることができるだろう。

 何によって受益者の格マークが決定されるのであろうか。「やり・もらい」によって、動作・行為の方向を表わした結果、その動作によって、相手との関わりが直接的なものとなるかどうか(相手へ移動するものがあるかないか)ということが、関係してくる。
 動作の結果、相手へ移動するものには、具体的なものもあるし、抽象的な物の場合もある。動作・行為の結果、相手への授受・移動があるかないかが、格マークにかかわってくるのである。

 大曽美恵子(1983)は、国立国語研究所『動詞の意味・用法の記述的研究』をもとに、「~てやる」の受益者格について、次の法則をまとめている。
『具体的な物、または抽象的な物(情報・知識など)あるいは五感に訴える何か(声・音・香りなど)が、好意とともに受け手にむかって移動すると考えられるときにのみ、ニ名詞句を使って行為、およびに上記の物の受け手をしめすことができる。』

 本稿はこの指摘をもとに、さらに検討を加え、受益者を「のために」で示す場合、「に格名詞句」で示す場合、受益者が元の文の補語(動作客体)と同一の場合、異なる場合、あらたに受益者を付け加える場合などの条件を考えていきたい。

3 受益者格を新たに付け加える場合

 授受文の受益者が動作の直接の客体ではなく、利益・恩恵の受け手としてのみ存在している場合がある。すなわち授受文にした結果、利益の受け手としての補語を付け加える場合である。物の授受・移動がない場合とある場合によって、受益者の示し方が異なる

3・1 物の授受、移動がないとき
 動作・行為が相手や対象(アニメイト・組織・機関)を必要とせず、動作の結果、受益者へ向かって、物の授受、移動が行なわれない場合、受益者を明示するときには「のために」を用いる。物の移動がないのに「に格」を用いると、不適切になる。行為者は、受益者の利益を目的として動作・行為を行なうが、その動作・行為は、相手が存在しなくとも完結する。

  (11) 太郎は家族のために、一日中 働いてやった。(家族=受益者)
    *太郎は家族に、一日中 働いてやった。
    (太郎は、一日中働いた。)
  (12) 万更の他人が受賞したではなし、さだめし瀬川君だって私の為に喜んでいてく     れるだろう、とこう貴方なぞは御考えでしょう。『破戒』(私=受益者)
    *瀬川君だって私に喜んでいてくれるだろう。
  (13) 津田はこの二人づれのために早く出て遣りたくなった。『明暗』(二人づれ=     受益者)

 小説などでは文脈上、受益者が省略されていることが多いが、学習者に受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動がないときは、受益者を「~のために」で示す。

( )は省略されている語を筆者が補ったもの。)
  (14) つうがもどってきて、汁が冷えとってはかわいそうだけに、(おらが、つうの     ために)火に掛けといてやった。『夕鶴』
  (15) やっぱりあんた、(おれのために)これを警察にもっていってくれないか。『空     洞星雲』

 機械的に『受益者は「に格」』と覚え込んでしまった学習者は、「あたしが代りに行って、断わってきてあげましょうか『明暗』」の受益者を明示しようとすると、『*あたしが代りに行って、あなたに断わってきてあげましょうか』というような誤用をしてしまうことになる。(あたし=お延  あなた=津田)

3・2 物の授受・移動がある場合

 本動詞が「に格の相手対象」の補語をとらないときでも、授受文にすると、動作・行為の結果、相手に物を授受することになったり、ものが移動する場合がある。
 動作・行為を向ける相手(受益者)は移動するものの着点であるので、このときは受益者を「に格」で示す。移動するものは、具体的な物の場合もあるし、抽象的なもの(情報・知識など)や、感覚的なもの(声・匂い)などの場合もある。

 学習者に、省略された受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動があるときは、受益者を「に格」で示す。

  (16) いいもの、八津にこしらえてやろう。『二十四の瞳』(八津=「いいもの」の着     点・動作を向ける相手・受益者)

 動作主体が「こしらえる」動作を、八津の利益を目的として八津に向かって行なう、ということを動作主体(話者)の立場から述べている。「こしらえる」動作の結果、「いいもの」は八津に移動することをふくみ(implicature) として表現している。

  (17) さっそく、富岡はゆき子の枕元に座り込んで、ナイフで(ゆき子に)林檎をむ     いてやった。『浮雲』(ゆき子=林檎の着点・動作を向ける相手・受益者)

 動詞によっては、補助動詞「~てやる・くれる」を加えた結果、物の移動が生じるときと移動がないときの、二つの条件に別れる場合がある。
 「読む」は「を格」の補語(非アニメイト)を必要とし、本動詞は「に格」を必要としない。しかし「~てやる・くれる」を加えて、受益者を示す必要ができたとき、受益者への声の移動のあるなしによって受益者格が異なる。省略された受益者を明示するときも、注意が必要である。

 「太郎が本を読んだ。」という文の「読む」は、黙読したのか朗読したのかは、前後の文脈がなければ、この一文だけでは決定できない。しかし「~てやる」文にすると、動作を向ける相手や、受益者を示す必要がでてくる。朗読して相手に聞かせたときは、「声」が相手に移動すると考えられ、受益者は「に格」で示される。(動作を向ける相手=声の着点)

  (18) 太郎は花子に絵本を読んでやった。(花子=受益者・動作を向ける相手・声の着     点)

 「に格名詞句」は、動作を向ける相手になり、「読んでやる」は「朗読する」に限られる。「に格名詞句」は、動作主体が動作を向ける相手・声の着点であり、受益者となる。 朗読したときは、声の着点の「に格」がなければならないので、たとえ「絵本」が「花子」の所有物であっても、「太郎は花子に(花子の)絵本を読んでやった」という文にすべきである。
  (19) 童話指導上の大切な点は、子どもに読んでやったにしても、また自分で読ませ     るにしても、あとで子どもと話し合うということです。(坪田譲治)
     (子ども=受益者・動作を向ける相手・声の着点)

 黙読したときには動作・行為を向ける相手は必要ない。着点名詞句がないので、受益者を「に格」で表わすことはできない。

  (20) 卒論の添削を頼まれたので、太郎は花子のために論文を読んでやった。
     (花子=受益者)
  (21) 「(夏崎は)上京すると、必ず私の所に寄りまして、読んでくれと大量の原稿     をおいていきます」『空洞星雲』
  (22) 私は夏崎のために原稿を読んでやった。(夏崎=受益者)

 (22)を「私は夏崎に原稿を読んでやった。」とすると、夏崎に向かって朗読を聞かせていることになってしまう。
 「歌う」も、声の着点が受益者を兼ねていれば、「に格」で、そうでなければ「のために」で受益者を示す。(省略された受益者を明示するときも同様。)

  (23) 太郎は花子に子守歌を歌ってやった。(花子=受益者・声の着点)
  (24) 太郎はいまは亡き作曲者のために彼の遺作曲を歌ってやった。
     (作曲者=受益者)

  動作の結果、物の授受・移動がないときは「のために」を「に格」に変えて受益者を示すことはできないが、移動がある場合には、受益者を強調して表現したいとき「に格」を「のために」に変えて受益者を示すことができる。このときは「のために名詞句」がふくみとして着点を表わす。(25)は、受益者「彼(晴信)」は「のために」で示されているが授受の後、「城」の着点であることをふくんでいる。

  (25) そして晴信という若い武将と一緒に合戦に出掛け、彼のために次々に城をとっ     てやることが、ひどく楽しいことのように思われた。『風林火山』(彼=受益     者・城の着点)

  (26) 太郎は花子のために絵本を読んでやった。(花子=受益者・声の着点)

 (26)は、朗読、黙読の両方の可能性がある文になるが、この場合は、前後の文脈で判断するしかない。

4 元の文の補語が受益者を兼ねる場合

 動作・行為を向ける相手が、元の文の動作客体と同じ場合、元の補語が受益者を兼ねるため、特別な場合以外、受益者をあらためて示す必要はない。(受益者を特に強調する場合、元の補語に重ねて受益者をあらためて示すことがある。)

4・1 「に格」の補語が存在する動詞文
 元の文に「動作の相手」が存在している場合、「動作の相手」が「授受の相手」と同一なら、「に格の相手対象」がそのまま受益者になる。使役文のうち、「に格の相手対象」をとる文も同様である。

 省略された受益者を明示する場合も、元の文の「動作の相手」が受益者のときは「に格」によって表わす。

  (27) ほんにおとっつァまも貧乏人で、その頭巾のほかにゃ、何をひとつおめえに残     してやることもできなんだわけだ。『聴耳頭巾』(おめえ=相手対象・受益者  (28) でも、あのときのきみは、たしかに何か貴重なものをぼくに与えてくれた。
     『夜の仮面』(ぼく=相手対象・受益者)

  (29) あたいの会長を(あんたに)紹介してやろうか。『空洞星雲』
  (30) お医者さんは、とても治らぬというし、それなら好きな雑誌を好きなだけ(お     まえに)読ませてやろうと思ったのが、親の慈悲というものだよ。『雑誌記者
  (31) 東洋新聞記者の名刺の威力で、係員はすぐに登記の写しを(矢部に)見せてく     れた。『夜の仮面』』
  (32) それを中座して真佐子に会い、(真佐子に)靴を買ってやってからホテルへ。
     『彼方へ』

 受益者が元の文の「に格の相手対象」と同一でなく、別に存在するときは、受益者は「のために」で示される。ただし、「に格の相手対象」も、行為を向けられる結果、恩恵・利益を受けることができる。省略を補うときも同様。

  (33) 津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明け     てくださるでしょう。『明暗』(津田=受益者)(あたし=相手対象)
  (34) だが、なにか知っているならば、教えてくれないか」『夜の仮面』
     だが、なにか知っているならば、(君の妹さんのために、ぼくに)教えてくれな     いか(君の妹さん=受益者)(ぼく=相手対象)

 受益者と「に格の相手対象」が同一の場合、受益者であることを強調して示したいときは、受益者を「に格」でなく、「のために」で示すことができる。「のために名詞句」はふくみとして「相手」を兼ねて表わす。(35)は、受益者を「のために」で示しているが、受益者(あなた)が「贈る」動作の相手対象でもあることをふくんでいる。

  (35) あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってく     れたんですよ。『明暗』(あなた=相手対象(ふくみ) ・受益者)
  (36) 真佐子に靴を買ってやった。(真佐子=相手対象・受益者)
  (37) 真佐子のために靴を買ってやった。(真佐子=相手対象(ふくみ) ・受益者)
  (38) 真佐子のために靴を買った。(真佐子=受益者)

 (36)と(37)は、「買う」という動作が真佐子に向かってなされている。真佐子は靴の着点であり、靴が真佐子に与えられることをふくんでいるが、(38)は靴が真佐子の手に届いたかどうかは表現していない。文脈の断続の適不適からいうと、「真佐子のために靴を買った。だが、真佐子にやらなかった。」とはいえるが、「真佐子に靴を買ってやった。だが真佐子にやらなかった。」というのは不自然である。

4・2 「に格」以外のとき

 「に格の相手対象」をとる動詞でないときも、「を格の直接対象」「と格の相手対象」「から格の相手対象」などに動作・行為を向けているとき、受益者と動作を向ける相手が同一なら、受益者をあらためて示す必要はない。受益者と対象が異なる場合は、受益者は「のために」で表わす。省略されている受益者を明示するときも、同様である。

  (39) 矢部さんは心のやさしい方なのね。そういって、わたしを慰めてくださるのね     『夜の仮面』(わたし=直接対象・受益者)
  (40) あのとき、力ずくでもいいから、この人はわたしを奪ってくれればよかったの     だ、と寿美子は思った。『夜の仮面』(わたし=直接対象・受益者)
  (41) 三尾は、瑛子の父が自分を思い出してくれたのが、嬉しかった。『空洞星雲』     (自分=直接対象・受益者)
  (42) 勘助は、二年前自分を召し抱えてくれた若い武将が好きだった。『風林火山』     (自分=直接対象・受益者)
  (43) 何もお前が岡田なんぞからそれを借りてあげるだけの義理はなかろうじゃない     か。『行人』(岡田=相手対象・受益者)
  (44) だが、ゆき子だけは、病気と闘いながらも、ここまで、自分と行をともにして     きてくれたのだ。『浮雲』(自分=相手対象・受益者)
  (45) 太郎は花子と結婚してやった。(花子=相手対象・受益者)
  (46) 太郎は花子といっしょに図書館へ行ってやった。(花子=共同者・受益者)
 受益者と対象・相手が同一でないときは、「のために」を用いて受益者を示す。
  (47) 母が「早く結婚して親を安心させろ」というので、太郎は母のために花子と結     婚してやった。(母=受益者)(花子=相手対象)

 例文(35)などのように「に格名詞句」が受益者を兼ねているときは、受益者を「のために名詞句」で示し、ふくみとして、物の着点を表わすことができた。これに対し、「を格」「から格」「と格」など、「に格」以外の格の場合は、「のために名詞句」が、ふくみとして他の意味を表わすことはない。

 「太郎は 花子のために 図書館へ 行ってやった。」という文は、太郎が花子といっしょに行ったことをふくみとして表わさないし、「母のために結婚してやった。」という文は、結婚相手が誰であるか表わしていない。
 「おれは真佐子のために靴を買ってやった。」という文が、受益者格の「のために」によって、靴を受け取る相手をふくみとして表わすことができるのは、物の移動があるからである。「に格の相手対象」がものの移動の着点になっているときに、「のために」を「に格相手対象」をふくんで用いることができる。

5 受益者が「の格」で表わされるとき
 人の体の部分、心情、所有物、所属物などが補語になっている場合、補語の所有者が受益者と同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。「の格名詞句」が、受益者を表わす。補語の所有者と受益者が異なるときは受益者を「のために」で示す。

  (48) 寿美子は、すぐには答えず、ハンカチーフを出すと、希代子の汗を拭ってやっ     た。『夜の仮面』(希代子=汗の所有者・受益者)
  (49) 大友はカチリとライターを鳴らして、矢部のくわえたままのたばこに火をつけ     てくれた。『夜の仮面』(矢部=タバコの所有者・受益者)
  (50) 太郎は花子の部屋を掃除してやった。(花子=部屋の所有者・受益者)
  (51) 母は上京するといつも花子の部屋に泊まるので、太郎は母のために花子の部屋を掃除してやった。(母=受益者)(花子=部屋の所有者)

 物の授受(移動)がある場合、「の格」で示される受益者は、ふくみとして物の着点を表わす。逆に、「に格」で受益者を示したとき、移動する物は授受の後に受益者の所有物になることをふくんでいる。(50)は授受の相手を示す「に格名詞句」がない文だが、「の格所有者」である花子が授受の相手であることをふくんでいる。(51)は服の所有者を示す「の格名詞句」がない文だが、授受の相手である花子が、授受行為の後、服の所有者になることをふくんでいる。

  (50) 太郎は花子の服を縫ってやった。(花子=授受後の所有者・ 受益者(ふくみ))
  (51) 太郎は花子に服を縫ってやった。(花子=相手・受益者・授受後の所有者(ふくみ

6 まとめ

 授動詞文の受益者は、次のように示すことができる。

① 元の文の補語と受益者が同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。元の文の「に格相手対象」「を格直接対象」「と格相手対象」などの補語が受益者を兼ねる
  補語の所有者と受益者が同一のときも同様で「の格所有者」が受益者を表わす。
  補語と受益者が同一で無いときは受益者を「のために」で示す。

② 授受文にしたため、元の文にはなかった受益者を付け加える場合、具体的・抽象的な物の移動(授受)がある場合、物の着点と受益者が同一のときは、受益者を「に格」  で示すことができる。物の授受・移動がないときは、受益者を「のために」で示す。
  動作・行為を向ける相手(授受後の物の着点)と受益者が異なるときは、受益者を「のために」によって示す。

③ 物の移動があるとき、「のために」で受益者をしめし、ふくみとして動作・行為をむ  ける相手・物の着点を表わすことができる。物の授受・移動がない場合は、できない


<参考文献>
大曽美恵子(1983) 「授動詞文とニ名詞句」『日本語教育50』
奥津敬一郎(1983) 「授受表現の対照研究」『日本語学2-4』
奥津敬一郎(1986) 「やりもらい動詞」『国文学解釈と研究51-1』
柴谷方良 (1978) 『日本語の分析』
鈴木重幸 (1972) 『日本語文法・形態論」
豊田豊子 (1974) 「補助動詞・やる・くれる・もらうについて」『日本語学校論集1』堀口純子 (1983) 「授受表現にかかわる誤りの分析」『日本語教育52』
益岡隆志 (1987) 『命題の文法』
宮地 裕 (1965) 「やる・くれる・もらうを述語とする文の構造について」『国語学63宮島達夫 (1972) 『動詞の意味・用法の記述的研究』
村上三寿 (1986) 「やりもらい構造の文」『教育国語84』



Verbs of Giving and  the recipient of  a favour                    

The verbs of giving YARU,AGERU can be used as auxiliary verbs to describe anaction done by someone as a favour to someone else.
The aim of this paper is to clarify how the usage of the particle for the
recipient of a favour.  

 (1) In cace the object is the same as the recipient of a favour, we have
nothing patcular to add. The object (NP-ni,NP-wo,NP-to,....) holds the
recipient of favour concurrently. And when the possessor of the object is the same as the recipient of a favour, the possessor (NP-no) holds the
recipient of a favour concurrently. But in case the object is not same as the recipient of a favour, the recipient of a favour is marked by NP-nota   meni.

 (2) When the recipient of a favour is made an additional remark, an NP-ni can   be used to indicate the recipient of a favour only when some object besides is presented to the recipient for his possession, enjoyment, information, use,etc.. An NP-notameni can be used to indicate the recipient of a favour   when nothing is presented to the recipient.

ぽかぽか春庭「千早振る・落語でおいしい日本語食堂」

2008-09-11 11:34:00 | 日記
千早振る


【4】千早ふる(おからを肴に語源探索)
   毎月の1日目をついたちっていうのはなぜ?

(4-1)豆腐屋のおから食べたい、でも、くれないとは

 討究目黒線、留学生に日本語を教えております。よろしくお願い申し上げます。
 日本語わかっていてもわからなくても、とにかく、アイウエオも知らなかった留学生が一人前に日本語を読み書きできるまで教えることで、日々生活しております。

 留学生、日本語について、日本の文化や歴史について、さまざまな質問をぶつけてきます。歩く百科事典じゃありませんから、すぐに答えられないこともままありますが、とにかくどっかから調べてきて、できる限り答えてやりませんと、留学生にとっては、日本語教える日本語教師は、日本への窓なんです。
 昨日聞きかじったことを、今日、教えるってな生活を続けております。

わたくしどものような、一知半解のくせにすぐしゃべりたがる者を、口耳講説(くじこうせつ)の徒と申しまして、聞きかじりの耳学問を、物知り顔ですぐ人に説く浅薄な者のたとえであります。

 落語のなかにも、よく分かってもいないのに、知ったかぶりで解説したがるご隠居とかセンセーという手合いがよく登場いたします。
 
 百人一首にあります、在原業平の歌。
 「千早振る 神代も聞かず竜田川 からくれないに 水くくるとは」の一首。
 横町の八っつあん、業平の歌をきいても意味がわからず、センセイーにたずねにやってまいりました。

 「センセーひとつ教えてやってくださいな、どうもあっちら、こういう味噌づけには不調法でして」
 「これこれ、みそ漬けではあるまい。31の文字、すなわち、みそひと文字を用いて歌を詠む、古来ゆかしきモソヒトですぞ」
 「ああ、さようで。みそでも醤油でも、味付けはお任せしますんで、とにかく、教えておくんなさい」

 意味を聞かれたセンセーの解釈。これがいやはや、こじつけのいいかげんなものでした。

 千早振る=相撲取りの竜田川が花魁(おいらん)の千早に惚れたが、振られてしまった。

 神代も聞かず竜田川=仕方がないから、千早によく似た神代という妹女郎に乗り換えたが、神代だって、そうは簡単に言うことを聞かず、こちらにも振られてしまった。

 からくれないに=ふたりに振られてすっかり気落ちした竜田川は、力士を廃業、国もどって家業のとうふ屋をついだ。そこへ、年をとって落ちぶれた千早が女乞食になって豆腐屋の裏口にやってきた。

 どうぞ、豆腐のおからでもいいから、めぐんでおくんなさいまし。
 竜田川がその顔を見ると、千早ではないか。おまえに振られたせいで、相撲の世界で大成できなかった、おからなんぞ、やるもんか。「おから、くれない」千早は、「からくれないに」と、悲観した。

水くぐる=悲観した千早は、豆腐屋の裏にあった井戸にどぶんと身投げ。水くぐる。

 「へぇ、そういう歌だったんスか。いやぁ、先生、学がある方はちがいますねぇ。ところで、センセー。水くぐるまでは、教えていただいたんですけど、最後の、水くぐるとはのトハってのは何でしょう」
 「おやまあ、そんなのが残っていましたか、まあ、気にしなさんな」
 「そんなぁ、先生。味噌が残っちゃ古漬けになっちまいますから、全部教えてくださいな 

 最後に残った「とは」は何ですかと聞かれたセンセー、「とは」は、おいらんになる前の千早の本名。

 こんなこじつけも、落語で名人が語ると、何度きいても、おかしい。
 もっとも、最近の若者は正月に百人一首などで遊ばなくなっていますから、落語のご隠居が一席ぶったこじつけ解釈を聞いて、本気にしてしまう者もでるしまつ。

 落語、演者によっていろいろマクラもかわりますが、「千早振る」の頭には、「つごもり」をマクラにすることもございます。

 「センセーなんで晦日(みそか)をつごもりっていうんですか」
 「ばかだね、おまえ、そんなことも知らないのかい。つごが漏れてくるから、つごもりじゃないか」
 「えー、つごがどこから漏れるんですかい」
 「味噌からに決まってるだろう。みそ蔵のみそから、つごがタラーッと漏るんだよ」
 「ほほう、それで、みそか、つごもり、、、」

(4-2)みそか、つごもり

 晦日(みそか)とは「三十日」のこと、「三十路の女」なんてのを、「みそじの女」「三十一文字」を「みそひともじ」というたぐい。

 「つごもり」とは、一ヶ月の最後、月がこもる(月がかけていって、みえなくなって、天にこもってしまう」からです。
 カレンダーが今のように、太陽暦ではなく、月の満ち欠けをもとにした太陰暦の時代には、月がどのようにみえるか、が、カレンダーのもとになっていました。
 月がみえなくなって、こもってしまうのが、月ごもり、省略してつごもり。

 では、ついたち、ふつか。
 カレンダーの一番最初の日を「ついたち」っていうのは何故?

 日本語を習っている日本語学習者。おはよう、こんにちは、の挨拶が覚えられたら、次は数の言い方を練習します。

 数の応用で、日時の言い方を練習。これはなかなかむずかしい。
 最初は月の言い方。
 「よんがつじゃありません。しがつですよ。9月はきゅうがつでなくて、くがつ」
と、練習れんしゅう。

 次ぎに日付の言い方。学生にとっては、物の数え方が「ひとつ、ふたつ~」の和語と「いち、に、さん~」の、中国語由来の数え方の二種類あるのだけでも、たいへん。それに、日付の特別な言い方が加わります。

 英語圏の学生や、外国語教育としてインドヨーロッパ語系の言語しか習ったことがない学生。英語では、「one two three~ 」の基数と「first second third~」の序数を覚えれば、日付もOK。

 ところが、日本語では日付は特別な言い方を用いる。「12月いちにち、12月ににち、12月さんにち」と言えません。
 まず「ひとつ、ふたつ、みっつ~」の言い方を復習する。「1=ひ、2=ふ、3=み、4=よ~」を思い出させて、「日」を「か」と読む読み方をインストール。
 2日は、「ふつ+か→ふつか」3日は、みつ+か→みっか。4日は「よつ+か→よっか」5日「いつ+か→いつか」、促音(つまる音)、小さい「っ」になるところ、注意。

 でも、6日は「むつ+か」が「むつか」にならず、「むいか」に変化するし、「なな+か」は「ななか」ではなくて「なのか」、「やつ+か」は「ようか」になるので、ややこしい。

 「ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、ここのか、とおか」お経のように唱えて暗記させる。

 あるとき、言葉の規則、音のルールに注意深い留学生が、日付のルール違反に気づきました。
 「二日から十日までは、ひづけに『か』がつくのに、1日目は、『か』がつかない。どうして?『ひとか』か『ひつか』になるはずなのに」

(4-3)ついたち、ふつか

 この疑問を、日本語教育研究の日本人学生に、出題しました。日本語教師をめざしている日本語教師養成コースの学生たちです。

 こういう質問が留学生から出たとき、答えられますか?
 「なんでもいいから、とにかく覚えろ」という返事をする先生もいますし、「さあ、なんでついたちだけ、ちがうんでしょうね。日本語はいろいろだわね」という先生もいます。
 でも、正解を答えてあげられれば、留学生は日本語によりいっそう興味を感じて、勉強に熱がはいると思うよ。

 正解。「ついたち」は「つきたち」から変化したことば。つきたちは、「月+立ち」
 新しい月が、この日に立ち上がる。
 「つき→つい」に変わるのは、日本語音声ルールでいうイ音便です。

 月が満ちていって15日に満月になり、また月が欠けていく。月の満ち欠けで月日の移りゆきを知った時代、旧暦(太陰暦)のこよみでは、文字通りに、この日、新しい月、新月(朔月)が空に立ち上がるのが見えた。

 「This first day , the new month stands up. Month は、つき→つい、Standing up は、たち」と、言ってあげると、留学生の印象にも残り、覚えやすくなりますよ。

 日本人学生たち、たいていは「なんで、ついたちっていうか、初めて知った」と言う。
 どんなトリビアも、日本語教師の知恵袋に入れておこうね。どういう思いがけない質問が日本語学習者から飛び出てくるかわからない。
 なんでもかんでも知っておいてソンはありません。

 さて、師走ついたち、ふつかと過ぎ去りまして、十日(とおか)二十日(はつか)三十日(みそか)もすぐに。大三十日(大晦日)まで、カレンダーは駆け足です。

 はあ、知らなかった。「ついたち」が「月立ち」だった、とは!
 おや、その最後の「とは」は、なんだい?
 「え、この、とはってぇのは、千早の本名です」

<千早振る おわり>


ぽかぽか春庭「釜がえり落語でおいしい日本語食堂その5」

2008-09-10 13:04:00 | 日記
2007/11/23

釜盗人

【3】釜盗人(炊きたてご飯で日本語 語彙論)
   日本語の単語いくつ知ってる?

(3-1)釜泥

 にほんごをかみ砕いて楽しもうという春庭亭の「落語でおいしい日本語食堂」、お味のほうはともかくとして、笑って召し上がってくださいますよう、おねがいたてまつります。

 え~、わたくし、古今鼎東西線でございます。
 日本語教師になりたいという若者に日本語の教え方を教えているんですけれど、「日本語の教え方」を教える教え方について日夜頭をひねりすぎて、日本語の教え方の教え方の教え方はいかにあるべきかとか、もう、わけわかんなくなっております。
 
 こんなワケ分からなくなっている私どもの噺なんぞは、食わずともすみますが、暮れも正月も毎日の生活には、おまんま食わずにはおられません。
 おいしいご飯のためには、お釜が必需。昨今は「ハイテク釜炊きおごけもできる電気釜」なんてのも売り出されております。

 釜がテーマの落語といえば、「釜泥」またの外題「釜盗人」
 豆腐屋など、大きな釜を備えている店屋から釜を盗む泥棒が横行したという江戸時代の噺。大きな鉄釜は、売ればいい値になったとみえます。

 豆腐屋のおじいさん、何度も釜泥棒の被害にあって、怒り心頭、今夜は自ら釜の中に入って番をし、泥棒がやってきたら、とっちめてやろうと待ちかまえておりました。
 ところが、釜のなかでお酒をちびりちびりとやるうちに、いつのまにか寝入ってしまい、二人組の泥棒が釜を家から運び出しても、とんと気づかず寝続けました。

 二人組はいつもより重い釜を運ぶのにも、「こりゃ、いい鉄つかってるねぇ、値もいいにちがいない」と、ふんばって運びます。
 しかし、釜の中から聞こえてくるいびきに、気味が悪くなった泥棒たち、「さては釜ゆでにされた石川五右衛門のたたりか」と、釜を放り出して逃げ出してしまいます。

 釜から出てきたおじいさん、あたりを見回して、豆腐屋の店がまえがないのに気づいて、「おや、たいへんだ、今夜は家を盗まれちまった」

 わたくし、毎日のごはんも、かかさずおいしくいただいておりますが、ことばを食い尽くすのも、趣味と実益を兼ねて欠かしませず、新聞は毎日、朝刊も夕刊も全紙面読み、1週間に1冊は単行本を読み、1年に1度は辞書をまるごと一冊読む。
 それでも知らない語はまだまだでてくる。

 新語はスクールバスの中にいる学生の会話から拾うこともあります。
 知らなかった古語や方言には本の中やネットブログで出会うし、ボギャブラリー倉庫に入れる新しく仕入れたことばは、どんどん増えております。

 学生からは若者ことばの新語を学ぶほか、あまり教わることはないと思っていましたが、今期、学生から教わった言葉をひとつ紹介しましょう。
 若者から教わったのを盗んで、あたかも自分が調べたかのように、次のクラスで吹聴するわけで、「釜盗人」もいれば、「ことばどろぼう」もいる、といってことで。


(3-2)NTTの釜がえり

 日本語教師養成コースの学生に対し、毎回、「ワークショップ・自分の脳内辞書に日本語いくつある?」というコーナーを設けています。

 日本語学習者、初級者は1500~2000語の日本語語彙を覚え、上級者になると1万語の語彙を覚える、と、紹介したあと、教師からの質問「みなさんの頭のなかの辞書に、どのくらいの数の日本語があると思う?数えたことある?」
 学生「??」「数えられません」などの反応。

 そこで、NTTコミュニケーション科学基礎研究所が発表している「語彙数推定テスト」をやってみる。
 簡単な方法で、自分の語彙数を推定することができます。

 日本語学言語学にもとずいて抽出された50個の単語のどこまでわかるかをチェックしていき、ひっかかって分からなくなったら、そこでストップ。
 30番までわかった人は、30000語の語彙数を持っていることが推定できる。50番までわかった人は70000語までわかっている、と推定できます。
 
 私はテスト1を練習用とし、テスト2とテスト3を本番にして、二つの平均をとって「脳内辞書にある語彙数」を推定させています。

 最初にこのテストをやってみたとき、私自身は10万語くらいは脳内にあると思っていたのに、46番の「懸軍」がわからずにひっかかり、脳内辞書語彙数は60000語と推定された。思っていたより少なかったのでちょっと不満。たいていの人は、思っていたより少ない数字がでるらしい。

 井上ひさしも「懸軍」でひっかかったそう。
 48番の「泥濘」や50番の頑迷不霊はわかったのに、46番と47番49番の語が「意味がわからない語」でした。

 46番「懸軍」47番「陣鐘」49「釜がえり」の3語。48番や50番がわかったとしても、46番でひっかかったら、そこでストップするのがルール。

 私が使っている古いバージョンのテスト1には、49番目の語として「釜がえり」がのっていました。


(3-3)「新明解」の釜がえり

 自分が知らない語は、辞書で調べてみるのが日課。

 しかし、小型辞書、広辞苑、はては20巻の日本国語大辞典まで調べたが「釜がえり」だけは出ていなかった。
 私がこのテストを学生に実施するようになった当時、インターネットで調べても、この語は、NTTの語彙テストサイト以外にどこにも出ていなかった。

 20万語を登載している国語大辞典にも出ていないとすると、「釜がえり」は、どこかの業界の専門用語か、地方の方言だろうと思って、調べるのをあきらめました。ところが、、、、

 ところが、今期10月31日の授業で、このテストを実施し、「釜がえり」の意味がわからないと学生に言ったところ、電子辞書をいじっていた学生が、あっさり「先生、ちゃんと辞書に載っています」という。

 「炊飯のあと、混ぜておくことをしないままお釜にいれておき、ふっくらせずにご飯が固まってしまったこと、って出てますよ」
「えっ、どの辞書ですか」
 「新明解」

 わぁ、うかつだった。日本国語大辞典まで調べたのに、新明解は、日頃手にとらない辞書のひとつ。なぜなら、個性が強すぎるから。
 読み物にはいいけれど、卓上辞書として使うには、ちょっと使いにくい辞書の筆頭が新明解。「新解さんの謎」というこの辞書の個性的な語義語釈を解剖する本まで出版されているくらいです。

 はたして、「釜がえり」とは、日本で新明解だけが辞書に登載している語でした。ほかのどの辞書もこの語の意味をのせていない。

 学生の指摘を受けて、インターネット検索をしてみると、数年前には「釜がえり」について書いてあるサイトはひとつもなかったのに、今回この語に言及しているサイトが250もみつかりました。

 多くは、NTTの語彙テストに、「意味のわからない語があった」という日記。
 たとえば、風野春樹の  http://homepage3.nifty.com/kazano/diary9911a.html
 『 迂曲」「告諭」などなら字面でなんとなくわかるが、「ライニング」「懸軍」「釜がえり」「頑冥不霊」などに至っては、なんとなくすらわからない』
 と、あります。

 「次は「新明解」だけにこの語の意味が載っている」というコラム。
 3番目が「うちの地方では普段よく使う語」というコラム。


(3-4)「山田忠雄」の釜がえり

 たとえば、http://adukot.exblog.jp/m2005-09-01/ (2005/09/14)には、
 「釜がえり【かまがえり】という言葉を知っているひとはどれくらいいるだろう?
たぶんほとんどの人は知らないだろうと思う。
 釜で炊いたご飯を蒸らした後、そのまま釜に入れっぱなしにしたために、ふっくらとせずにマズ?くなってしまった状態を言うのだが、実家のある能登では、当たり前のように「釜がえらないうちに混ぜておきなさ?い」などとお母さんに言われたりする。ごくごく日常の言葉だ。」
 と、書かれていました。

 「新明解」編集子のだれかが、富山地方、能登地方の出身者だったのかもしれません。あるいは、お米や料理関係に詳しい人だったか、と思って調べてみると。はたしてその通りでした。

 新明解の編集者、山田忠雄は、富山県出身の国語学者山田孝雄の息子。
 山田孝雄(やまだよしお)は、1875年(明治8)に生まれ、1958年(昭和33)に没した文化勲章受賞者。私たち国語学専攻のものにとっては、神様みたいな人。

 忠雄の弟で新明解のライバル「」の編集者山田俊雄は、俵万智との対談で、暴露話を公開している。(『波』2000年2月)
「山田:実は、この言葉は、僕の母親がよく使っていたんです。「釜がえるから早くご飯を混ぜておいてね」というふうに。『新明解』の主幹である僕の兄(山田忠雄)は普通の言葉だと思って載せたんじゃないかな。僕は、あっ、これは字引の編者が非常に特殊な言葉であることを知らずに載せた例だと思いました。~
 ~そういう例は『大言海』にもあります。「こばかくさい」という言葉が載っていますが、これは仙台か一関の方言で、殆どの字引には載っていません。」

 辞書編集者の母親が日常よく使っていたコトバだったので、方言である「釜がえり」が辞書に載り、NTTの語彙数調査で使われたので、一躍有名になりました。
 今では、お米のサイトや「おいしいご飯の炊き方」などのサイトにも、この語が全国区になって出ています。

 NTTは、「釜がえり」という語は、「新明解」以外の辞書に載っていない語である、という指摘を受けて、この語を語彙調査テストからはずし、今では49番の語として「パララックス」が掲載されています。

 これで、「釜がえり」は、もう話題にされずに、「方言のひとつ」というこれまでの地位に落ち着くのか。
 方言から出発して全国的に使われるようになる語はけっこうあるのだし、「新明解」に辞書登載された「釜がえり」、これからもおいしいご飯を食べるために、お米業界が広めてほしいと思うのですが。

 「釜盗人」やら「釜がえり」やら、いろんな釜がありますが、皆様の食卓ではおいしいごはんがお釜のなかでふっくら炊きあがっていることを念じつつ。「釜がえり」しないよう、しゃもじをいれておいてくださいね。
 ではこれにて「大きな釜で炊きたてごはん完食」

<釜がえり おわり> 


富士には月見草がよく似合う-太宰治の父と乳

2008-09-09 07:48:00 | 日記
富士には月見草がよく似合う-太宰治の父と乳

(1)富嶽百景のころの太宰
(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」
(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」
(4)富士~単一の美めざして



(1)富嶽百景のころの太宰
 『富嶽百景』は、1939(昭和14)年2月に発表された短編で、中期=安定期の佳作として評価されている。
 太宰30歳。この作品が発表される前月に、師、井伏鱒二の家で、石原美知子と結婚式をあげ、生活のうえでも文学の上でも、転機をはかった時期であった。

 『富嶽百景』は、私小説の少ない太宰の作品のなかでは、最も私小説的なもののひとつである。発表の前年1938年9月、井伏が滞在していた山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き、二ヶ月ほど滞在。
 井伏の紹介で甲府の石原美知子と見合いし、婚約が成立するまでの出来事が『私』という一人称で語られている。

 天下茶屋へ行くまでの太宰は、昭和10年11年、東京帝大は落第、都新聞の入社試験に失敗。三度目の自殺未遂。パビナール中毒。芥川賞落選。
 昭和12年、妻・初代の不定を汁。初代と心中未遂。別居後離別というように、生活も破綻し、文学にも懐疑的になり、執筆もできなくなった状態であった。

 師・井伏に招かれて天下茶屋に滞在した太宰に、精神的な転機が起こる。四度の自殺未遂ののちの、起死回生。再生への意欲。この滞在以後、太宰はかわる。文体しかり、小説の題材しかり。なによりも生活において。

 この中期=安定期の作品と生活は、戦後の社会的寵児としての太宰、そして後期の『斜陽』や『人間失格』などの作品に比べると衝撃度は少ない。後期を最も「太宰的」とみなす人からは、「非太宰的」だとさえみなされる。
 平野謙は、この時期の太宰の生活を生活者至上主義のための演技的生活だとみている。

 『この時期の太宰治はまず実生活を下降し、それにふさわしい文学を虚構することで、芸術と実生活の架空の一致を生み出した、とも眺められる。(中略)
 異常が平常で、平常が異常、というケースが、太宰治の生涯に妥当とするとすれば、もともと常識的な生活者というようなものは最初から太宰治には存在せず、中期の一見尋常なコースこそかえってフィクショナルな生活仮構の時期ともながめられるのである。(中略)
 太宰治は明るく健全な文学のために常識的な生活者を仮装しなければならなかった。』(1954 平野謙 『太宰治論』)

 平野の見方に従えば、真の太宰に対して、中期の太宰は仮構であり、ニセモノの太宰ということになる。

 私はそうは思わない。中期の太宰もまた太宰の本質である。
 太宰が自分自身の真の姿をねじ曲げて、安定した家庭生活を無理に仮構したのだとは思わない。
 「義の為あそんでゐる。地獄の思ひで遊んでゐる。(『父』)」という戦後の放蕩無頼の太宰が一方の真実なら、「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援(『富嶽百景』)としての文学を心がけた太宰もまた、真の太宰治だと思う。

 コミュニズムを裏切り、妻にも友人にも裏切られたと思い、すべてに絶望した太宰は、天下茶屋での二ヶ月の滞在の間に、過去をすべて葬り、新しく行き直そうと決意したのではないか。新生しようとした太宰、美知子との結婚生活を得て、安定した生活者として過ごした太宰もすべて「太宰治」である。
 
 政治活動に従事していたときの太宰は、コミュニズムを唯一の真理と心から信じ、活動から遠ざかったのちも、その正しさだけは疑わなかった。
 太宰は真剣にコミュニズムにかかわったのであり、中期の安定した家庭生活に関しても、決して偽装や演技ではなく、真剣に真摯に生きたのだと思う。

 玉川上水での上梓の報を聞き「なに、あれはまた小説のタネにするでしょう」と発言した者がいた。
 石川淳は『太宰治昇天(1948)』の中で、この発言を聞いて激怒し、発言者をどなりつけた、と書いているが、平野が太宰の中期の生活について、明るく健全な文学のための偽装だという仮説を立てたのに対しても、石川なら反対するのではないだろうか。

 平野の私小説と作家の実生活の理論にたいして、伊藤整は「平野に近い」と述べている(『近代日本人の発想の諸形式』p10)
 『太宰にも、葛西(善蔵)にもその傾向がある。すなわち、私小説は、それが書かれるときに、作家の生活がほろび、作家の生活が調和して落ち着くときは書けなくなる、という二律背反に陥るものである』と、している。

 伊藤の太宰観を『近代日本人の発想の諸形式』の中から抜き出してみると、
「自殺的破滅者(p38)」「妻の姦通や心中して自分だけ助かった経験によって、無や死の上に立つ生命の認識を鋭くし、また危うくもした。」
などがあり、平野のいう「私小説作家」に太宰を含めているようだ。

 これまで、太宰は無頼破滅型の作家として、ひと括りにされてきたのだが、平野や伊藤の太宰観を全面的に受け入れてしまう気になれないのは、中期の生活と作品の受け取り方が異なるせいだと思う。
 後期の破滅的な太宰のみを太宰の本質と見て、中期は虚構、偽装された太宰と見なすか、書記・中期・後期、すべて、まるごと全部が太宰だとみなすかによって異なってくるのだ。
 
 私は『富嶽百景』を、真摯に再生しようと思った太宰による「再生への決意表明とこれからの自己の芸術のあり方の模索」の報告として読んでみようと思う。


(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」

 富士の天下茶屋に太宰を招いた井伏鱒二は、『思ひ出』『東京八景』などの自伝的私小説的作品について「私の知る限りでは、小細工を抜きにして在りのままに書かれてゐる」と述べており、『富嶽百景』についても「可成り在りのままに書いてある作品」と言っている。(『太宰治のこと』(1955)
 
 ただし、井伏は『富嶽百景』に描かれた自分の姿について「一カ所だけ訂正しておきたい」とこだわっている。

 『私が三ツ峠の頂上の霧のなかで、浮かぬ顔をして放屁したといふ描写である。私は太宰君と一緒に三ツ峠に登ったが放屁した覚えはない。』
 太宰に抗議を申し込むと、「二つ放屁なさいました。」と言い、さらに「三つ放屁なさいました」と言った、という。

 井伏が「実際の出来事をほとんど在りのままに書いている」と評しているなかで、「井伏の放屁」だけが太宰の創作だったという点について、井伏のことばを信じることにすると、太宰のそのときの心理が、あぶり出されてくる。
 太宰にとって「放屁する井伏」の姿が必要だったのだ、と思える。

 せっかく峠に登ってきたのに、霧で見えない富士。
 見えない富士に向かって放屁する井伏の姿は、この作品のなかで、どことなくユーモラスであり、悠々としてこだわりなく、大人の風格を持つ。ひょうひょうとして、すべてをおおらかに受け止め、受け入れてくれる人物のイメージを感じさせる。

 貴族院議員をしていた父を失ったとき、太宰は十四歳だった。母親の影響下にいる子供時代を終えた男の子は、思春期に入ると父親へのモデリングを始める。見習うにせよ、反発するにせよ、父親の姿から受ける影響は、この年ごろの男の子にとって、大きいものである。
 しかし、太宰=津島修治の子供時代、父は不在がちであり、父の姿が必要なときには死んでしまった。太宰には、父の姿をモデリングすることができず、子ども心に、ただ大きな障壁と感じられたまま、父親像は閉じてしまった。

 そんな太宰にとって、思春期のモデリング対象は、三兄・圭治であったろう。長兄・文治が父に代わって津島家にとって父緒役割を果たすことになったが、修治にとって、見習うべき存在は、上野の美術学校彫刻科に在学していた三兄であったと思う。
 太宰が二十一歳のとき、兄の圭治ははじめて井伏に会い師事することになった。しかし、圭治は、井伏を師とあおいだその翌月に病没する。

 以後、井伏は太宰にとって三兄に変わるような存在になった。十一歳年上の師匠であり、兄である。
 他人に対してはいつも明るく気をつかって応対していたという太宰も、井伏にあてたてがみなどを見るかぎりでは、かなり自分をさらけ出してむしろ甘えているかのように感じられる。

 しかし、天下茶屋へ行くまえの太宰と井伏の関係は、ちょっと屈折したものがあったようだ。
 パピナール中毒を治すため精神病院へ入れられたことは、太宰にとってたいへんなショックであり、人間不信に陥った、ということだが、この入院手続きをし、身元引受人になったのが井伏であった。

 むろん井伏が太宰を気遣い、弟子の身体を思ってしたことである。しかし、太宰からすると、信じていた師匠にまで狂人扱いされた、と感じられた入院であった。井伏もこのころの太宰の感情について「おそらく入院中は私を恨んだことだろう」と述べている。
 太宰にとって、三ツ峠における井伏は、まだ入院中の屈折が消えきっていない。
 自分を「狂人」として扱い、強権を発動して入院させた保護者としての師匠。しかし誰よりも兄として慕わしい、二律背反的な複雑な存在であった。

 「放屁する井伏」は、こだわりなく自分を受け止め、受け入れてほしいと深層で望んでいる太宰の目に映る、兄=井伏の投影であると思うのだ。

 『富嶽百景』の中の井伏は、太宰に見合いをさせ、私生活の転機を作る。

 井伏は『山に来てもしょんぼりしてゐたのは無理もない。それがうってかわって「強く孤高でありたい」と手紙に書くやうになったのは、ときどき甲府の町へ降りて当時の婚約の相手から力づけられてゐた故だらうそれ以外の理由は私には思ひ当たらない』と、書いている。

 今回、三度目に読み返して、私はおもしろいことに気がついた。
 井伏も言っていないし、これまでの様々な『富嶽百景論』にも指摘されていないことなのだが、太宰は甲府で見合いをはかってくれた人として、師を、「井伏氏」と実名をあげて書いている。
 一方、婚約に至るまでの世話をし、結婚式をとり行ってくれた人物については「或る先輩」とのみ書いて、名前を故意に書いていない。
 実は、井伏が婚約まで世話をし、井伏の家で結婚式を行っているのである。
 なぜ見合いを世話してくれた井伏だけ実名を記し、結婚式のほうの井伏は、名を伏せるのか。ずいぶん奇妙な感じがする。

 年譜を見ないで、この作品の中だけで井伏の行動を判断すると、井伏は見合いに立ち会っただけで、その後は太宰の結婚に関わっていないように読みとれる。
 これだけ親しい井伏なのだから、見合いに立ち会ったことを実名で書くなら、婚約の世話や結婚式の世話をしたことを実名で書いても失礼には当たらないだろう。いやむしろ話の流れからいえば、わざわざ「或る先輩」などと、そこだけ匿名めいて書いているほうがよほど不自然である。

 なぜ太宰は見合いの場合だけ「井伏氏」と書き、結婚式の世話に関しては「或る先輩」などと持って回った言い方をしたのだろうか。
 井伏に対する太宰のかなり屈折した重いが現れているように思うのは、裏読みのしすぎだろうか。

 太宰にとって結婚式はかなり重要なものであったようで、実家の援助を得て「ささやかでも、厳粛な式をあげる」つもりでいた。
 しかし、実家からは援助を断ってきた。
 代わって結婚式の世話をしたのが井伏である。太宰にとって、結婚式は父→長兄に関わるもの、という意識があったのではないか。
 結婚式は「家」に属する儀式であると。

 初代との最初の結婚のときも、分家除籍という条件ながら、津島家は太宰の結婚に金を出し、一ヶ月百二十円の仕送りをしてきたのだ。
 二度目の結婚にたいして、実家はすべての助力を断ってきた。太宰ははじめて自分ひとりの才覚で経済的に自立しなければならなくなったのだ。
 二十九歳にして本当の自立である。

父は家に属するものとして太宰には意識される。
 結婚式を執り行ってくれた人は、「家に関わる父」である。儀礼を重んじ、いつも少年津島修治の前に山のように立ちはだかっていた父であるべき人だ。
 家の儀式に関わる「代理父」とも言うべき井伏のほうは、太宰にとって受け入れるスタンスができていない。
 子としての立場からどのように「代理父」に対したらよいのか、己の足下が定まっていない。
 それで、「或る先輩」と書いたのではないだろうか。

 太宰の井伏に対する感情は複雑だ。 
太宰にとって慕わしいのは、富士に向かって放屁する「兄=井伏」である。結婚式を取り仕切る「父=井伏」のほうは、感謝する気持ちの一方で、ちょっと煙たい、複雑な思いを含んでいたと思われる。自分を「狂人」とみなす保護者としての父。

 太宰にとって、「家」もまた、複雑な感情を有する記号である。
 自分の所属すべき所。しかし自分の居場所としては否定されて排除された場所。
 結婚式を取り仕切った井伏は、「家」に関わる場所に踏み込んできた「代理の父」井伏であった。

 井伏が放屁について「訂正しておきたい」と、こだわったのも、太宰が一方的な面だけの井伏を求め必要としていたことに気づいていたからではないだろうか。
 『富嶽百景』における太宰の気持ちとしては、あくまでも井伏は「放屁する兄」である。
 「富士には放屁がよく似合う」

(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」

 人間の子が生まれ、安定した人間関係を営んでいけるよう成長するためには「母子相互交渉」が重要な役割を果たす。
 たとえ生みの親でなくとも、幼児期を通して子供を全面的に受け入れ、子供が「この膝に乗ってさえいれば、何事が起ころうとも安心していられる」と、思える保育者が子供にとって絶対に必要である。

 しかし、太宰は安定した母子関係の中で成長することができなかった。
 生母が病弱だったので、乳母の乳で育ち、その乳母も一年たらずで幼い修治のもとを去ってしまった。
 小学校入学までは叔母きゑに養育され、叔母を実母と思いこんでいた。
 ところが、小学校入学に際し、生母のもとへ返される。
 実家に帰ったものの、生母には心から甘えたりなじんだりできなかった。
 この幼年期の太宰は『思ひ出』などからもうかがえる。

 心から甘えることのできる母を持たなかった故に、かえって太宰には母に対し、一種の距離を置いた憧憬とでも言えるものが残った。
 
 『富嶽百景』の中に、「母」の姿が二度出てくる。
 ひとつは見合いの相手・石原美知子の母である。実家からの金銭的な援助が得られないことを素直に述べた太宰に対して、美知子の母は、「あなたおひとり、愛情と職業に対する熱意さえお持ちならば、それで私たち、けっこうでございます」と答えて、太宰を感激させた。
「この母に孝行しようと思った」と、太宰は書いている。

太宰にとって、実家が金持ちの地主であることは、自分を縛る枷のようなものであり、しかも、それを利用せずには生活してこられなかった、二律背反の存在だった。
 コミュニストシンパ活動をしているときでも、まわりの活動家にとって、必要なのは太宰の政治力ではなく、実家から引き出してくる資金であった。
 実家から送られてくる仕送り金が、取り巻きたちの飲食に費やされることがままあったという。

 太宰のまわりには、太宰の実家の金目当ての人間も多かったのである。太宰は実家が地主であることを引け目に感じつつ、実家からの金なしには生活できない、というジレンマに常に悩まされていたはずである。
 そんな太宰にとて、「金のない自分」「職業への熱意だけ持っていればよい自分」を認めてくれる女性に出会ったことは、大きな驚きであり、自信になったことだろう。
 石原家の母娘との出会いが、太宰の再生の力になったのだと、私は思う。

 石原美知子は、東京女子高等師範学校を卒業し、県立都留高等女学校の教師をしていた才媛である。
 前妻初代は、経済的にも精神的にも太宰にたよりきっていた。
 美知子は、前の妻初代とまったく異なるタイプの女性である。太宰を受け入れ、精神的に支えになるタイプ、いわば「憧憬の母」のような女性として、美知子が現れた。

 自分自身は他の女と心中事件を起こしたりして勝手な行動をとっていながら、太宰は初代が他の男と過ちを犯したことにひどく傷つき、初代を許さなかった。
 女性の貞淑さに関しては、太宰もやはり古い観念しかもっていない。
 『富嶽百景』の中でも、花嫁があくびをしたのを見て「慣れてゐやがる。あいつは、きっと二度目、いや三度目くらゐだよ」と、悪口を言わずにはいられない。何度嫁に行こうと大きなお世話というものだが、太宰のイメージにとっては、女性は純白、貞淑な存在でなければならなかったのだ。

 美知子との見合いの席で、石原家に掛けられていた写真の富士山を見て、太宰は「まっしろい水蓮の花のようだ」と思う。これはそのまま美知子のイメージであったろう。蓮はまた、救済の象徴でもある。
 美知子は太宰にとって、水蓮の花のような富士山であり、ありのままの自分を受け入れ認めてくれる母のような存在であったろう。

 水蓮のような美知子に比べ、他の女性への太宰の点は辛い。
 ケシの花のようなタイピスト風のふたりの娘に対して、太宰は厳しい描写をしている。
 「富士にはけしの花は似合わない」

 孝行しようと決意させた石原の母のほかに、『富嶽百景』には、もうひとり母の面影をしのばせる人物が出てくる。
 太宰がバスの中で出会った老婆である。「濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、アタシの母とよく似た老婆」「胸に深い憂悶」を持つように見え、太宰をして「あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに共鳴のそぶり」をみせて「老婆にあまえかかるやうに」という態度を取らせた老婆。太宰の「母への希求」が、ここにも出ているように思う。

 太宰は、「生母や祖母からはあまりかわいがってはもらえなかった」と、自分では思っていた。
 兄弟の中で一番器量も悪く、母からの関心も薄いと思いこんでいた。しかし、それだからこそ、母に認めてもらいたい、母に共感してもらいたいという希求の思いも強かったのではないかと思う。母に似た老婆が眺めている月見草。
 「富士には月見草がよく似合う」という有名なエピグラムが生まれる。

 「生まれてすみません」や「家庭の幸福は諸悪の根元」など、太宰はエピグラムつくりの名人だが、エピグラムだけが人口に膾炙した結果、勝手な思いこみもでてくる。
 この「富士には月見草がよく似合う」にしても、今夏読み直すまで、富士山の前に月見草が咲いている、という絵葉書的な図柄を思い浮かべていた。

 三度目に読んで、やっと富士と月見草の位置の違いに気づいた。
 老婆と太宰が見ている月見草は、バスの進行方向に対し、富士の反対側の山道の断崖に咲いていたのだ。
 絵葉書的に、富士の前で可憐に揺れていたのではなく、「富士の山と立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにいすつくりと立ってゐたあの月見草」だったのである。

 あとで太宰が茶店に月見草の種をまいたときも、茶店の表に蒔いたのではなく、わざわざ背戸に蒔いている。
 月見草と富士と同時に眺めるのではなく、富士と反対側にあって、振り向いたときに見えるのでなければならないのだ。
 月見草は富士の添え物として富士の前に咲いているのではなく、富士と対峙して強くけなげに咲いているのであった。

 天下茶屋へ出かける前の意気消沈ぶりとはうって変わって、「強く、孤高でありたい」と、井伏にあてて手紙を書いた太宰。
 実家の援助や取り巻きたちから手を切り、この月見草のように、「みじんもゆるがず、けなげにすっくと立とう」と決意をしたからこそ太宰は月見草に共感を寄せ、「富士には月見草がよく似合う」と思ったのだ。月見草は、「大きくしかし俗な富士」に引けを取らず、強く孤高に咲く「かくありたい」太宰の姿の象徴である。そしてこの月見草は母にじっと見つめられる存在としてすっくと立っているのである。

 傑作を書き人から認められたいという意識、他の人からいい人だと思われたいという意識を、太宰はずっと持ち続けていた。
 『人間失格』の最後でも、バーのマダムに「葉ちゃんは神様みたいないい子でした」といわせ、『富嶽百景』のなかでもファンの青年の口をして「まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでした」と、語らせている。
 富士に対峙する月見草を見て、太宰は「人知れずひっそりと咲いていても、母はじっと見つめていてくれるのだ、俗な富士を望まなくても、強く孤高の月見草であればよいのだ」と、納得できたに違いない。

(4)富士~単一の美めざして

 梅原猛は『地獄の思想』の中で、
『富士は戦前の日本における価値のシンボルであると思う。天皇制のイメージ、あるいは地主性のイメージではないかと思う』
と、述べているが、私は違うと思う。
 もし、そのようなイメージを富士が持つとしたら、それは太宰の言う「ペンキ絵の富士」であって、『富岳百景』のなかで太宰が共感を寄せている方の富士ではないと思う。

 富士と月見草の対比についても梅原は
『巨大な富士に向かいあう小さい月見草の存在、そこに彼はおのれの存在を感じていた。巨大な地主的社会、そしてその地主的社会に相対する月見草のことく生きる、それが太宰のささやかな生の方向であった。』
と、述べている。ちがう。
 このとき太宰があえて見ようとせず、反対側を向いたときの富士は、「変哲もない三角の山」「あんな俗な山」と感じて言う富士であったことを考えなければならない。

 『富嶽百景』には、太宰が「ひとめみて狼狽し、顔を赤らめたくなる」というような俗な富士と、太宰が共感し評価する富士の両方が登場する。
 梅原の解釈は一方的にすぎる。

 太宰が富士に託したイメージは、すべてを含み込んだ社会の総体、人間生活人生の総体、芸術の総体、さらにいえば、宇宙や神をも含んだ、大きな存在だったのではないだろうか。
 社会にはさまざまな面がある。俗世間で通用している天皇制や地主制の価値観も含まれるし、コミュニズムもある。人間の生活、人生にしても、通俗的な出世や金儲けに狂奔する者もあるし、純粋に他のために生きる生き方もある。芸術もまたしかり。
 富士も、一つの山でありながら、見る場所、時、見る人の心情の違いによってさまざまな姿に映る。

 もし、富士が、梅原の言うような天皇制・地主生のシンボルなら、茶屋の二階から遊女たちのわびしい姿を眺めて、社会の矛盾に対してなんの力もな自分を苦しく思いながら「富士にたのまう。こいつらを、よろしく頼むぜ」と、富士に祈らずにいられない太宰はまったく奇妙な人物に思えてしまう。富士が太宰にとってあう一つの価値のシンボルとして見えていることは確かであるが、もし天皇制や地主制のシンボルなら、薄幸の遊女たちをみて、「富士に頼もう」と言うだろうか。太宰が天皇制地主制を肯定したとは思えない。
 戦争中、ついに戦争協力的な行動をとらなかった太宰ではないか。自分が地主の息子であるという宿命へのこだわりを終生捨てられなかった太宰ではあるが、決して地主制度を肯定したことはなかったはずである。

 梅原の言うイメージが富士にあるとしたら、それは太宰が嫌悪する「俗な富士」の方であろう。「俗な富士」は「戦前社会の通俗的価値観」の象徴であったり、あるいは「通俗的権威的文学」の象徴であったりする。
 太宰は「俗な富士」を嫌悪し、否定する。
 太宰が好意を寄せるのは、純粋な人の情けと友にある「単一の美」を見せる富士である。

 太宰は常に「自分を偉人として認めてもらいたい」「自分は尊敬される存在でなければならない」という強迫観念をもっていた。
 再婚するまでの太宰にとって、「賞の権威」が、唯一自分の存在価値を確認するよすがだったのかもしれない。だからこそ太宰は芥川賞を欲しがったのだ。

 美知子に出会った太宰は、そのような通俗的権威によって自分を飾る必要はなくなったことを知る。太宰はただありのままの太宰であり、芸術に向かって真摯でありさえすればそれでよかった。ペンキ絵の富士とは決別してよいのである。

 三ッ峠の茶屋の老婆が、霧で見えない富士のかわりに出してくれた写真の富士。石原家で見た写真の富士。雪をかぶった御阪峠の富士。

 太宰は人のなさけの美しさと共に見た富士を素直に美しいと感じる。太宰は「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援」としての芸術をめざそうと思い始める。
 「素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙出揃へて、そのままに神にうつしとること、それより他に無いと思ひ、さう思ふときには眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。」と、太宰は自分の文学を考える。

 「単一の美」と「通俗」の違いに苦しみながら、自己の文学の可能性を探っていく。
 ここで、太宰のいう「単一の美」が、どういうものを目指しているのか、私にはよく分からないのだが、天下茶屋へ行く前の『二十世紀旗手』『創世記』『HUMAN LOST』の緊張し作り上げた文体から一変し、平明でのびやかな文体になっていることは読みとれる。

 梅原も、平野と同じように
『人を愛することより、まずおのれ自身を愛すること、キリストの苦悩をまねることをやめて、昇進的な仮面をかぶって、絶望の心のなかに小市民的な仮面を定着させること、仮面が単なる仮面にとどまらず、ひとつの実体的な子こりになるほど巧みな仮面使いになるkと、それが太宰の絶望を終わらす生活の知恵であった。』
と、中期の太宰をとらえ、この時期の太宰を仮面をかぶった状態としている。

 奥野健男『太宰治論(1955)』
 人と異なっているという、ドラマティックな自己意識を一歳捨て、平凡なる小市民に、凡俗に下降しようといた。つまり彼はようやく「現世には、現世の限度といふものがある。
とあきらめ、一種の妥協を試みる三十歳の大人になったのだ。既に中日戦争が始まった社会に生きていくためのやむを得ない適応でもあったのだ。そして自己意識を捨て、「他の為」の芸術をつくる機会として生きようとする。自己の芸術を守るため、生活をフィクション化し、平凡な日常の中にかくれようとしたのだ。これが戦争へ突っ走るその当時の社会への一つの反逆でもあったのだ』
と、述べている。

 なぜ、中期の太宰を仮構・仮面の存在と言い立てるのか。おそらく、戦後再びデカダン、放蕩、無頼の生活に戻った太宰の印象が強烈であるからだろう。確かに戦後の、なにもかも一切の価値が崩壊し、すべてが空しく虚無的になった社会に太宰の無頼ぶりはピッタリ合一し、この太宰が本質的な太宰であるかのように見える。
 だがだからといって、中期の太宰が仮構・仮面の太宰であるということは、私にはできない。 
 『富嶽百景』に表れた再生の意志、井伏にあてた手紙に見える「新しい生活」への決意、これらがむりやりの、嘘で固めた仮構だとは思えない。

 通俗の富士から離れ、まっ白い水蓮のような富士を思わせる美知子と生き直そうとした太宰も、また一人の太宰なのだと、私は思う。
 
 戦後の太宰の絶望について、社会の荒廃・虚無と関わって語られることが多く、もちろんそれも無関係ではないと思うのだが、私は長男の問題がたいへん大きな原因だったのではないかと想像する。

 モデリングすべき父を失っていた太宰にとって、自身が父親として振る舞うとき、あるぎこちなさを感ぜずにはいられなかったろう。
 『おとぎ草紙』にあるように、こどもにおとぎ話を語って聞かせる太宰の姿なども「懸命によい父親として振る舞おうとしている」という印象を受ける。

 父としておのれの在り方に自信をもてないままの太宰をうちのめしたのが、知恵遅れとなった長男の問題だったのではないか。

 自分の血を分けた子供が、人並みに発育できないことがわかったとき、どのような強靱な精神の持ち主でも一度は絶望的になる。
 苦しんだ末、絶望から這い上がり、希望を見いだし、子とともに十字架を背負って生きて行こうと決意できる人もいる。大江健三郎や米谷ふみ子のように、その子と共にあることで自己の文学を新しく創造していくことのできた文学者だっている。
 しかし太宰にはその重荷を担いきれなかった。
 一度ならず絶望と戦って疲労のなかでようよう生きてきた太宰に、我が子の十字架は重すぎた。

 「子供より親が大事と、思ひたい」と、『桜桃』に繰り返し書かれているのを読むとき、私には子と共に重荷を担い切れなかった太宰のつらい悲鳴を聞く思いがする。
 太宰の実生活と引き比べて読むことをこれまでしてこなかったので、以前に『桜桃』や『ヴィヨンの妻』を読んだときは、この中にでてくる知恵遅れの子供のことは太宰の創作だと思っていた。
 太宰に本当に障害のある子がいたと知ったのは、津島佑子が兄の障害のことを何かに書いているのを読んでからだった。

 『ヴィヨンの妻』のなかで、「ああ、いかん。こはいんだ。こはいんだよ、僕は。こはい!たすけてくれ!」と言って、妻にすがりつく姿は、おそらく太宰の本当の気持ちだったろう。
 父を知らず、母の認知と愛を求めてきた太宰にとって、美知子は母のような存在だった。母の愛を得て、落ち着いた生活を営むことができたのも束の間、自分が父として振る舞わねばならなくなったとき、重荷を背負って子と共に生きるべき状態に太宰は自分自身を保つことができなかった。太宰は再びくず折れた。

 奥野健男は、太宰治の文学と生涯を「下降への指向」と規定し、
『金持ちの旧家の出身という環境から、また、自分は特別に「選ばれたもの」だというナルシズムと分裂性性格のまじりあった自己意識から下降しようとした』
 『彼は自己に潜むものへの嫌悪から、欠如感覚を心理優越ないし社会的使命感により充足して、つまりエリートになることにより、既成秩序に順応してしまう上昇感性を拒んだのだ。』
と、述べている。さらに、
『すぐに、明日の黎明などと設定しなければならない、彼の下降はすぐ未来に、上昇を予定されている、ちゃちな放物線みたいな気がするのだ。』
と、規定している。

 「下降への指向」とは太宰の文学を語るときに、もはや枕詞のようになってしまった便利な規定であるが、奥野自身「放物線」と規定し直しているように、実は決して下降指向ではない。世間的な立身出世とか、金儲けという意味での上昇志向は、確かに太宰の生涯と無縁であったといえるが、芸術・文学上の真実を目指す、という点では太宰も又、常に上昇志向を持ち続けていたのだと思う。

 まわりの人に認めてもらいたかった幼年時代や芥川賞を欲しがった初期の太宰は、明らかに上昇志向を見せている。文学は自分の存在証明であり、自分を認めてもらうための手段でもあった。
 むしろ中期の太宰は純粋に自己の芸術の可能性をさぐっていたように思うのだ。
 後期の太宰は文学上の名声も手に入れ、傑作を残したい、自己の芸術を完成させたいという上昇志向を成就したようにみえる。が、たぶん、太宰はそんな名声が空しいものであることに気づいていた。
 自分の文学は、ただ一人の自分の息子を救いはしなかったのだ。
 息子の障害に打ちのめされたとき、文学が自分の人生を救ってくれないことに、太宰は煩悶したに違いない。

 地主の子に生まれたという罪の意識と同時の誇り。
 心中相手の女だけ死なせてしまったという罪の意識と、同時に選ばれてあることの不安と誇り。
 過去のさまざまな煩悶からは抜け出することができた太宰も、障害を持つ我が子に何もしてやれぬという絶望からは逃れられなかった。
 戦後の虚無的な社会、自己の文学や名声のむなしさ、そして息子に何もしてやれぬ自分への絶望。疲労が極度に達したとき、ついに太宰は自殺に成功する。

 部屋には、美知子あての遺書と、子供たちへの玩具が残されていたという。
 「家庭の幸福は諸悪の根源」などと言ってはいるが、それは一緒の照れであって、決して太宰が家族を愛さなかったのではない。家庭を大事に思いながら、家庭の幸福におさまってしまえない自分がもどかしいのだ。

 子としてのアイデンティティをようよう確立できたものの、父としてのアイデンティティを確立しきれずに、太宰は玉川のふちに立った。

 玉川のほとりから富士は見えただろうか。小さな三角のかたちして、沈没しかけてゆく船のような富士だったろうか。
 太宰はまぶたを閉じて心のシャッターを切る。
 「さやうなら、お世話になりました。パチリ」

 ドボン、、、、、玉川や太宰飛び込む水の音。合掌。

テキスト『太宰治全集2』1975 筑摩書房  
参考  『太宰治集』 1967 集英社
    『地獄の思想』梅原猛 1967 中公新書
    『評釈 太宰治』塚越和夫  1982 葦真文社
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(あとがき)乳やりながら読む太宰(1990年1月23日)

 1989年の年末。掃除もせず、おせちも作らず、1歳を過ぎたのに、まだ乳離れできない息子に乳をやりながら『富嶽百景』を読み返した。三度目の『富嶽百景』になる。

 一度目は高校生の頃、現代国語の教科書だったか、副教材だったか、たいして面白くもなく、「なにもそんなイジワルをしなくたって、ちゃんと二人の娘を画面に入れてシャッターを押してやりゃあいいじゃないか」と思ったくらいで、特になんということもなかった。

 二度目は、国語の教員をしているとき、『走れメロス』の授業に際し「太宰を教材にするからには、一応主要作品を読み返しておこう」と思って読んだ。
 『人間失格』や『斜陽』に比べれば平板な気がして、作品それ自体のみで読むべきだと信じていたから、年譜と引き比べて読むということもしなかったので、『思い出』などに比べても、いいとは感じられなかった。

 三度目の今回は、前の二回とはまったく読み方がが変わった。
 まず、読もうとする自分自身の年齢が四十歳である。
 太宰が死んだ年を越してしまっている。(惑いっぱなしでも、人は生まれて四十年たつとちゃんと不惑の年になってしまうのだ。)

 二十代で読むのと、四十で読むのでは、他のどのジャンルの本でもいくらかは印象が変わるものだ。まして今回は何事かは言わねばならぬ、という気迫に満ちている。いわば、書いた三十歳の太宰に対して、四十歳のおばさん読者が対決するのである。
 (富士をバックに、着流し浪人風の太宰と、子連れ狼よろしく乳母車に二人の子を乗せて、けなげにも立ち向かわんとする中年女、というったシーンを思い浮かべてください。)

 これまで『近代日本人の発想の諸形式』を読んできて、ひとつ思ったことは、私小説の読み方が、今まで間違っていたのではないか、ということだった。
 いままで、小説は、作品自体を自立したものとして読むべきだ、と、思いこんでいたのだが、特に戦前の私小説というのは、読者と作者はもっと密着した狭い世界で作品を書き、読んでいたとわかった。

 純文学の読者は今よりずっと層が薄く、限られた人々であった。そのなかでも、特定の作家に特定の読者がつき、たぶん読者は、作家の実人生と世界をまったく同一視していただろう。
 読者や、作品を評価する文壇のお歴々は、その作家の私生活について隅々まで知ったうえでよんでいたはずである。

 伊藤整によれば、「真実と正義のための生活であるにしろ、調和のある理屈の通る生活であるにしろ、作家はその報告を書く」という通念を作家も読者も持っていたのが「正しい私小説の読み方」というものだった、と、やっと思い至ったわけである。

 そこで今回は、まず太宰の年譜を読み返し、年譜と小説が一体であるように読んでみた。その上で、深層心理カウンセラー的に読んでみることにした。
 (アメリカ映画などによく出てくる心理分析医にかかっているシーンを思い浮かべてください。カウンセラーの前に、横になって目をつぶっている患者=太宰。カウンセラーは、優しく、おもむろに「さあ、ラクにして、子供の頃のことを思い出してみましょう」なんていっている)


日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-

2008-09-08 17:57:00 | 日本語言語文化
融合文化の歴史-日本文化における融合・隠れキリシタンのオラショを中心として-

1 縄文から室町まで
 日本列島において、最初の「文明の遭遇」と「融合」は、紀元前600年ごろから紀元後100年ごろにかけての長期間の出来事である。栗の実や栃の実、稗や粟などの雑穀の栽培、里芋類の焼き畑農業を行っていた縄文の土地に、稲作を中心とする農耕民がしだいに入り込み、長い年月をかけて縄文村は稲作を受け入れていき融合した。これが日本の「縄文弥生時代」である。縄文の焼き畑村と稲作の村は利用する土地が異なっていたので、競合することなく争うこともなかった。しかし、稲作村の人口増加率が、年3~5%で増えるのに対して、縄文の焼き畑村では年1%の人口増加にとどまる。この結果、千年の間に、稲作村の人口は焼き畑村の人口を凌駕し、列島全体が縄文弥生ハイブリッド稲作村になる。稲作村が列島ほぼ全土に渡ってひろがった、という時代が3~5世紀である。
 アジア大陸、またその突端の朝鮮半島から日本列島への人口移動は、長期間にわたって随時行われたと推測できるが、その中でも突出した出来事として中国の史書に記録されたのが、秦の始皇帝時代の「徐福」である。徐福は、始皇帝に不老不死の妙薬を手に入れよと命ぜられ、3000人の部下を引き連れて大陸から出航しそのまま戻らなかった、と司馬遷が史記に記録している。この伝説が歴史上の具体的事実であるかどうかはまだ不明だし、徐福一行のたどり着いた土地が日本であるというのも実証されたわけではないのだが、司馬遷が徐福の出航を記録として残したことは事実である。この稲作に伴う移入は、長期間にわたって進んだので、「他者との遭遇」という強い衝撃すなわち「文明の衝突」としてではなく、ゆっくりと「融合」がすすんだ。
 次の「他者の移入と融合」は、日本列島に「大和の大王」支配が確立した5~6世紀に起きた。朝鮮半島での百済国滅亡に伴う、百済国難民の日本列島流入である。このときの朝鮮半島と日本の戦いについては、高句麗王が残した石碑(AD414年に建立)に刻まれている。
この7世紀の大量移民受け入れで日本列島に起きた大変化は「文字文化の移入」であった。それまでも「護符」としての文字は入ってきていたが、言語の記録装置としての文字文化が、日本語言語文化に影響を与えるまでに大量に入ってきたのは、6~7世紀のことであった。このとき、文字文化を受け入れた人々にとって、文字は「異質な文化」との遭遇となった。文字を伝えた朝鮮半島の人々(百済人を中心とする)の言語と日本語は統語を同じくする。単語を同じ語順で並べる言語であり、当時の百済語と大和語は、かなり近いことばであったろうと推測される。マレーシアのマレー語とインドネシア語は、方言差がある程度の同一の言語である。デンマーク語とノルエー語スエーデン語も、方言差程度の同一言語である。日本語と百済語は、それほど近くはないものの、現在のスペイン語とポルトガル語程度に近い、すなわち通訳なしでもアル程度通じあえる言語であったのではないか、とみなす言語学者もいる。(ただし百済語は死語であり、記録も残されていないので、あくまでも推測である。高句麗語&新羅語の系統をひくとされる現代の朝鮮語は日本語とは統語は同一であるが、同系統の語彙は少ない)。
 6~7世紀ごろ、日本に漢字を伝えたのは、朝鮮半島から大量に渡来して大和朝廷で一定の地位を占めていた古代朝鮮人である。初期には、文字の読み書きができるのは、ほぼ渡来人に限られていた。古代朝鮮の知識人は漢字を早くから移入し、漢字によって朝鮮語を表記する方法を開発していた。漢字を表音文字として用いて、中国語にない朝鮮語の助詞を書き表すなどしていたのである。
 日本語は、母音の数が少なく、「子音+母音」という単純な音節音韻体系を持っている。言語の構造(統語法)が朝鮮語と同じであり、漢字による朝鮮語表記法の知識のある渡来人にとって、日本語を漢字で表記することはそれほど難しいことではなかったであろう。漢字を用いた朝鮮語表記法を「吏読」という。名詞など自立語を漢字で、中国語にはない朝鮮語独自の助詞などを漢字の音読をあてて記録している。これと同じ方法で日本語も表記できる。古代日本人が、短期間に漢字による日本語表記ができるようになったのは、朝鮮半島渡来人の力によるものであると推測できる。この漢字による日本語表記が「万葉仮名」表記である。8世紀に成立した『万葉集』『古事記』は、万葉仮名で表記されている。
 この時の「他者との出会い」すなわち文字文化との遭遇は、統語法を同じくする言語の話者である朝鮮語話者を媒介としていたため、「衝突」はおこらず、融合のみが進み、万葉仮名はわずか100年の間に「ひらがな」を生みだし『土佐日記』『竹取物語』などのひらがな文学を創出した。
 平安時代鎌倉室町と続く時代にも、日宋貿易日明貿易など、大陸からの文化移入がつづけられた。

2 信仰の習合と隠れキリシタンの誕生
 日本文化が「融合」ではなく、「衝突」を他者との間に巻き起こしたのは、室町末期の戦国期に至って、キリスト教が流入したときである。唯一神を絶対者とする一神教は、日本の社会とは異質な宗教であった。日本の宗教は、第一次に縄文以来の土着の神々(国つ神)であるスサノオやオオクニヌシと、大和農耕民の自然神、アマテラス(太陽神)や豊受大御神(とようけのおおみかみ=オオゲツヒメ食物神)が「八百万の神」としてまとめられた。第二波として、文字文化流入期に儒教道教仏教が習合し、日本独自の神道仏教習合が行われた。唯一神は、これらの習合的多神教を認めようとはしなかった。そのため豊臣秀吉や徳川将軍家は、キリスト教を排斥した。キリスト教信者は国外追放や死刑とされ、九州を中心に隠れキリシタンとして残った人々のキリスト教は、「マリア観音」信仰など、「習合的キリスト教」に変化していったのである。こうした隠れキリシタンの多くは、明治時代に来日したパリ外国宣教会によってカトリックに復帰したが、長崎県などには、今でもカトリックに復帰せず土俗化した信仰を保有しているキリシタンも存在する。マリア観音信仰における「オラショ(祈祷書)」を精査することによって、キリスト教が仏教の隠れ蓑を着て伝わるうちにどのように習合されていったのかを追跡できるのではないかと思う。オラショの原語はラテン語のOratio(祈祷書)である。
 長崎生月島のキリスト教布教史を概観する。室町末期、長崎の平戸藩主の松浦隆信は貿易を目的としてザビエルとその部下のトレリスらに布教を許可した。藩主自身は入信しなかったが、筆頭家老で生月の豪族籠手田安経が国守の名代として入信した。1557(弘治3)年のことである。天正15年(1587年)6月20日、豊臣秀吉は突如としてバテレン追放令を出した。「日本は神国であり南蛮国の邪法を拒否する。仏法の破壊者である宣教師達は20以内に日本から退去せよ」という天皇署名の勅状を発行したのである。秀吉死去ののち幕府を開いて全国支配を完了した徳川家康は、慶長17年(1612年)にキリスト教の布教禁止を命じた。弾圧が強まり、殉教者が続く中、キリシタンは潜伏し、明治の世まで300年間、密かにキリスト教信仰を続けた。

3 隠れキリシタンにおける習合
生月に伝わるオラショ『生月島サンジュワン様の歌』は以下のような歌詞である。
    前は泉水、後ろは高き岩なるやナ 前もうしろも汐であかするやナ
    この春は桜鼻かや、散るぢるやナ 又来るときは蕾開くる花であるぞやナ
参ろうやナ参ろうやナパライゾの国に参ろうやナ パライゾの寺と申するやナ
    広い寺と申するやナ 広い狭いはわが胸にあるぞやナ

 サンジュアン様とは、中江島という岩礁の呼び名である。生月島と平戸島の間に浮かぶ小さな岩礁において、数々のキリシタンが命を落とした殉教の地であった。生月島キリシタンにとっては最大の聖地であり、洗礼をほどこすときはこの岩礁サンジュアン様から水を汲む。この「殉教者の聖地を神格化して祭り、そこから洗礼の水をくみ上げる」という行為は、正月行事の「正月神に供える若水を、新年最初に井戸からくみ上げる」を思わせる。カトリックの洗礼式において、「どこそこの聖地で汲んだ水を用いなければならない」という規定があるとは聞いたことがない。たとえば、ヨーロッパカトリックの教会で洗礼式を行うとき、「ヨルダン川またはそれに準ずる水を洗礼に用いること」というようなきまりはあるだろうか。寡聞にして知らない。サンジュアン(殉教地中江島の岩礁)の水を使う、という隠れキリシタンの意識は、新年行事の「若水汲み」の行事が影響が習合しているのではないかと、筆者は推測する。
 以下、300年にわたって密かに伝えられた「キリスト教信仰」は、表向き仏教徒と見えるように、マリアは「マリア観音」として画像が描かれ、今となってはヨーロッパキリスト教とはかなりかけ離れた独自の宗教となっている。たとえば、カトリックでは行わない「祖先崇拝」がある。明治期にカトリックに復帰しなかった隠れキリシタンは、その理由として「ハライソに行き、祖先に会いたい」という彼らの信仰が現代のカトリック教義によって否定されたことをあげる。1年のうち40の行事を行うが、カトリックと同一の行事はイエス生誕と復活行事など数種のみであり、他はほとんどが祖先崇拝行事にあたる。おおかたの行事は、「祈願、直会、宴会」がセットとなっており、これは神道における祭式と同様の進行である。
ほとんどの行事は祈願、直会、宴会の順に進行され神道の行事とほぼ同じ
4 どちりなきりしたん(教義問答にみる隠れキリシタンの思想)
 「どちりなきりしたん」は、隠れキリシタンに伝えられたキリスト教の教義問答である。その一部を写す。

「どちりなきりしたん」より、弟子と師の教義問答(天地創造について)
   弟子 ばんじかなひ玉ひてんちをつくり玉ふとはなに事ぞや。
   師  そのこと葉の心はデウスばんじかなひ玉ふによててんちまんぞうをいちもつなくしてつくりいだし玉ひ、御身の御いくはう、われらがとくのためにかかへ、おさめはからひ玉ふと申ぎなり。
   弟子 御あるじデウス一もつなくしててんちまんぞうを作り出し玉ふとある事ふんべつせず。そのゆへは御さくのものはみなデウスの御智慧、御ふんべつよりいだし玉ふと見ゆるなり。しかるときんば一もつなくしてつくり玉ふとはなに事ぞや。
   師  此ふしんをひらくために、一のこころみあり。それというはデウスの御ふんべつのうちには御さくのもののたいは一もなしといへども、それそれのしよそうこもり玉ふなり、これをイデアといふなり。此イデアといふしよそうはさくのものにあらず、ただデウスの御たいなり。然るにまんぞうをつくり玉ふとき、デウスの御ふんべつにもち玉ふイデアにおうじて御さくのものは御たいをわけてつくりいだし玉ふにはあらず、ただ一もつなくしてつくり玉ふなり。たとへばだいくはいへをたてんとするときまづそのさしづをわがふんべつのうちにもち、それにおうじていへをつくるといへども、いへはふんべつのうちのさしづのたいにはあらず、ただかくべつのものなり。そのごとくデウス御ふんべつのうちにもち玉ふ御さくのもののイデアにおうじてつくり玉ふといへども、御さくのものはそのイデアのたいにはあらず、ただばんじかなひ玉ふ御ちからをもて一もつなくしてつくり玉ふなり。

「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(神と被造物との差異についての質疑)
   弟子 みぎデウスと御さくのもののしやべつはうけたまはりぬ。今又御さくのものはいづれもたがひに一たいか、べつのたいかといふ事をあらはし玉へ。
   師  御さくのものはいづれもべつたいなり。そのゆへはデウスよりつくり玉ふときそれぞれにおうじたるかくべつのせいをあたへ玉へばなり。そのせうこにはさくのものにあらはるるかつかくのせいとくあり。このぎをよくふんべつすべきためにこころうべき事あり。それといふはしきさうあるよろづのさくのものは二のこんぽんをもてわがうしたる者也。一にはマテリヤとてそのしたぢの事。二にはホルマとてそのせいこれなり。みぎのしたぢといふは四大をもてわがうし、あらはるるしきそうなり。又ホルマといふはよろづのものにしやうたいと、せいとくをほどこす者也。めに見ゆる御さくのものは四大をもてわがうしたる一のしたぢなれども、しやうたいとそのせいとくをほどこすホルマはかつかくなるによて、みなべつたいなる者也。かるがゆへにちくるいと四大わがうのそのしたぢは一なりといへども、人のしやうたいとちくるいのしやうたいかくべつなるによてべつたいなる者也。これらの事をくはしくふんべつしたくおもはば、べつのしよにのするがゆへによくどくじゆせよ。

「どちりなきりしたん」より弟子と師の教義問答(アベマリアについて)
   弟子 でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや
   師   其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座ます諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也
   弟子 びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや
   師  あべまりあと云おらしよ也たゝいま教ゆ」(十九ウ)べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん
   弟子 此おらしよは誰の作り玉ふぞや
   師  さんがびりゑるあんじよ貴きびるぜんまりあに御つげをなし玉ふ時の御ことばとさんたいざべるびるぜんまりあにごんじやうせられたることばに又さんたゑけれじやよのことばをそへ玉ふを」(二十オ)以てあみたて玉ふおらしよ也
   弟子 御母びるぜんは誰人にて御座ますぞや
   師  でうすの御母の爲にえらび出され給ひ天にをひて諸のあんじよの上にそなへられ給ひ諸善みち/\玉ふこうきうにて御座ます也是によて御子ぜずきりしとの御まへにをひて諸のへあとよりもずくれて御ないせうに叶玉ふ也それによて我等が申上ることはりをおほせ叶へらるゝが故にをの/\きりしたん深くしんかうし奉る也
   弟子 何によてか御母さんたまりあへ對し奉り百五十友か又は六十三友かのおらしよを申上奉るぞ」(二十ウ)
   師  六十三友のおらしよは御母びるぜんの御年の數に對し奉りて申上る也又百五十友のおらしよは十五のみすてりよとて五ヶ條は御よろこび五ヶ條は御かなしひ今五ヶ條はくらうりやの御ことはりに對して申上奉る也此十五ヶ條のだいもくははんぎにひらきたる一しにあり
   弟子 あるたるにそなわり玉ふによにんの御すがたは誰にて御座ますぞ
   師   天に御座ます御母びるぜんまりあをおもひ出し奉る爲の御ゑいなればうやまひ奉るべき者也
   弟子 此びるぜんさんたまりあの御ゑい其しなおほきごとく其御體もあまた御座」(二十一オ)ますや
   師  其儀にあらずたゝ天に御座ます御ひとりのみ也
   弟子 然らば人々なんぎに及時或は御あはれみの御母或は御かうりよくのなされて或はかなしむ者の御よろこばせてなとゝ樣々によび奉る事は何事ぞや
   師  別のしさいなしたゝ御母の御とりなしでうすの御まへにてよく叶ひ給へば御おはれみの御母にて御座ます上よりしゆゝの御忍を與へ玉ふによてかくのごとくに唱へ奉る也
   弟子 あべまりあのおらしよをば誰にむかひて申上奉るぞ」(二十一ウ)
   師  貴きたうみなびるぜんまりあにゑかう仕る也
   弟子 何事をこひ奉るぞもし我等が科の御赦しをこひ奉るか
   師  其儀にあらず
   弟子 がらさかくらうりあをか
   師  其儀にもあらず
   弟子 然らば此等の儀をば誰にこひ奉るぞ
   師  御主でうすにこひ奉る也
   弟子 御母には何事をこひ奉るぞ
   師  此等の事を求めんかために御子にて御座ます御主ぜずきりしとの御まへにて御とりあはせを頼み奉る也」(二十二オ)

 以上のアベマリアに関するオラショのなか、
    でうすに對し奉りてのみおらしよを申べきや
    其儀にあらず我等が御とりあはせ手にて御座(おはし)ます
    諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ
    御母びるぜんさんたまりあにもおらしよを申也
    びるぜんさんたまりあに申上奉るさだまりたるおらしよありや
また、
べしがらさみち/\玉ふまりあに御れいをなし奉る御主は御身と共に御座ますによにんの中にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ又御たひなひの御實にて御座ますぜすゝはべねぢいとにて御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへあめん

などのオラショにみられる「諸のへあと中にも惡人の爲になかだちとなり玉ふ」「御座ますでうすの御母さんたまりあ今も我等がさいごにも我等惡人の爲に頼みたまへ」という文言は、浄土真宗の親鸞の唱える「悪人正機説」「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」を思い出させる。
 隠れキリシタンが「祖先崇拝」と習合すると、父や子イエス(でうす)よりもマリア信仰が強くなるのは、母系社会の祖先崇拝を残している日本型神道仏教習合のひとつのあらわれが、キリスト教にも見られる、と感じる。

「さるべ-れじいな」より
深き御柔軟、深き御哀憐、すぐれて甘く御座(おはし)ます びるぜん-まりあかな。
貴(たっと)きでうすの御母(おんはわ)きりしととの御(おん)約束を受け奉る身となる為に、頼み給へ。あめん。

<おわり>