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ぽかぽか春庭「かわいい東京駅・近代建築物語」

2008-10-12 00:50:00 | 日記
かわいい東京駅
2005/01/11 水
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(1)東京ミレナリオ

 2005年12月30日に、東京ミレナリオを見ようと思い立ち、有楽町と東京駅へ行ってみた。しかし、あまりの人出の多さにおそれをなし、見ないで帰宅してしまった。
 東京駅の人群、係員が「ミレナリオ入り口で入場規制中、入り口までの待ち時間は、2時間待ちとなっております」と、アナウンスしていたのだ。

 東京駅丸の内側から北口へ向かう列の中に入っていたときの、私の前にいたカップルの会話。
 男性「ミレナリオ、今年で終わりです、来年は見れませんって、あんなにニュースで言うからこんなに人が集まっちゃうんだよ」
 女性「でも、うちらだって、そのニュースみてきたんやん」

 東京駅丸の内側の前にミレナリオの見本が飾られている。
 男性「これ、見て帰ろうや」
 女性、ケータイで写真をとりながら「でも、せっかくここまで来たんになあ」ライトアップされている東京駅もついでに撮りながら
 女性「あ、かわいいなあ。わたし、東京駅はじめて見た。かわいいやんか」
 
 東京駅丸の内口駅舎は、辰野金吾設計の近代建築史に残る傑作である。明治期近代建築の粋を示す。完成は1914年(大正3)年。赤煉瓦駅舎の全長は、320メートル。煉瓦の建造物では日本最大。
 近代建築傑作としての東京駅駅舎、また、東京のランドマークとして語られる場合も、この駅舎の美術芸術的な価値を語られ、近代建築の傑作と褒め称える。

 「辰野式」と呼ばれた煉瓦を基調とした独特の作風を示した辰野金吾。建築家辰野金吾は、日本という国家を近代化するために西洋建築の建設を行い続けた。彼が生涯を賭けて作り上げた最高傑作、それが、東京駅駅舎。

 照明デザイナー石井幹子さんが1986年に駅舎のライトアップを依頼され、東京の夜に駅舎の赤煉瓦の色が映える。

 「かわいいっ!」という彼女のことば。なんでもかんでも感動したり、気に入ったものへの形容は、「かわいい」の一語ですませてしまう、若者のボギャブラリーによって発せられたのだろうが、私はその素直な感想に感心した。

 私に「東京駅をひとことで表現しなさい」と、課題を与えられたら、「東京駅はかわいい」と、言えただろうか。
 大建築家の傑作、日本最大の赤煉瓦近代建築、などなどの枕詞によって、この駅舎を飾り立てたくなり、けっしてひとこと「かわいい!」とは言えなかっただろう。

 でも、ライトアップされた東京駅、ほんとうに「かわいいっ」のです。ディズニーリゾートの建物みたいに。
<つづく>
00:32

2005/01/12 木
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(2)日本の近代はカワイイもんだった

 「東京駅、かわいい!」と言った女性、彼女は、ディズニーリゾートのライトアップされた建物を思い出し、「同じテイストの建物」と思ったのじゃないだろうか。

 ディズニーリゾートの建物は、おとぎ話にでてくるような「子どもが喜びそうな」見た目をしている。たぶん、建築評論家に言わせれば「特に芸術的な価値はない」と評されるのだろう。

 でも、でも。丸の内口からライトアップされた東京駅を見ていると。ああ、ほんとに「おとぎの国の駅舎」みたいだなあ。建築家の権威とか、近代建築の傑作とかいう言葉にかかわらず、この駅舎を表現したら「かわいいっ!」なんだなあ、と納得した。

k:****さんからのコメント
 其の「かわいい」と云うのは多分、今風の構造建築物、直線的な物との比較から出た言葉でしょう。何か温かみの無い、近代高層構造物。

 k****さんのおっしゃるとおりの面もあるでしょう。東京駅の中央、ドーム型の天井をもち、赤い煉瓦と花崗岩の白による外観が印象的。本来は3階建てだったが、戦災で3階部分が焼け落ちてしまい、2階までを修復して現在の形になっている。そのため、無機質な感じがする高層ビル群とは趣がちがっているのだろう。
 だが、私には、もうひとつ、「カワイイ」の中味が感じられた。

 「日本の近代化」は、西洋欧米に追いつけ、マネて真似して西洋をぜんぶ取り込んでいけ、というまねっこ精神によって始まった。明治45年間、人々は懸命の努力を続け、ようやく西洋に追いついた、西洋の水準にたどりついた、と思えたひとつのモニュメントが、東京駅丸の内駅舎だった。明治精神の仕上げのひとつとして、1914年(大正3)に完成。

 「かわいいっ!」のひとことは、「日本の近代化」の本質を言い当てている。
 ディズニーリゾートの建物のように、ひとつの仮構された世界を現出し、「本物ではないけれど、そこにいると、自分がお伽の国の住人になったように感じられてくる」装置。

 産業革命以来、近代国家設立を重厚壮大に練り上げてきた西洋列強を後追いして、「おもちゃの国」のように急ピッチで作り上げたハリボテの街、まねっこの制度。それが日本の「近代化」であった。

 とにもかくにも大急ぎで工場を作り上げて生産にはげみ、鉄道を張り巡らせて輸送をする。映画セットのように、目に見える側だけは近代化を達成した。
 おもちゃの国だろうと、お伽の国だろうと、見た目に「西洋列強国にひけをとらない」が必要だった。

 明治初期の鹿鳴館の舞踏会。フランス軍将校だったピエール・ロティが、「お猿さんたちの舞踏会」と評した「まねっこ舞踏会」も、盛大に開催された。
 明治の仕上げとしての「東京表玄関」も、盛大に築き上げなければならなかった。

 お雇い外国人ジョサイア・コンドルらに学んだ辰野金吾が、「自前の設計施行によって、自分たちで作りあげる」仕上げの作品として東京駅丸の内駅舎を完成した。
 明治期の西洋文化への憧憬が、美しい外観となって現出した。ランドマークとして、すてきな建物だと思う。

 東京駅の外観が、どこかディズニーリゾートのようなお伽の国めいたかわいらしさを人々に感じさせるとしたら、「まねっこで、追いつけ追い越せ」とはげんで成立した明治以後の「近代国家」を反映しているからかもしれない。
<つづく>
00:03

2005/01/13 金
ことばのYa!ちまた>かわいい東京駅(3)おのぼりさんぽ再び

 「近代産業国家日本」という装置。
 「自分たちが近代国家の住人になったように感じられてくる」装置として完成するために、「最大の煉瓦建築による駅舎」を必要としたのだろうなあ、などと思いながら、ライトアップされたかわいい東京駅を見上げた。

 近代市民社会という土台なしに、砂上楼閣のように急ごしらえで作られた「近代国家」は、華麗な姿の東京駅完成から30年後に進むべき道を見誤り、大きな破綻をおこした。
 その破綻を徹底的に見つめることなしに、これまた大急ぎで取り繕ったために、今再び、繕ったはずの縫い目が綻びはじめ、大きな裂け目になろうとしている。

 「仮構された近代産業国家」日本が、今、きしきしと建物のゆがみを音に表わしながらきしんでいる。あらゆる「近代国家」の装置が、ひび割れにかろうじて耐えている。学校教育しかり、医療保健制度しかり、郵政しかり、公営放送しかり、。

 次の建物を、次の装置を、私たちは作り上げることができるのだろうか。
 土台を確立せずに急ピッチで作り上げた「書き割りのような国」ではない、真に民衆のための国家。

 つぎつぎに装いを変えて、その都度「新しい首都」を演出してきた東京。
 石器時代の太古から人が住み着いた台地と谷地が、人の中心地としての機能をはたすようになって400年。次はどのような衣裳が与えられるのだろうか。
 十二階や煉瓦作りの駅で装われた近代都市東京から、高層ビル群スカイスクレイパーにきらびやかな電飾の衣裳をまとったコンテンポラリー・トーキョーへと時代は移り変わってきた。
 電飾は、いつまで輝き続けることができるのだろうか。

 丸の内ミレナリオ、見に行った人の日記をいくつか拝見。
 読んでわかったこと。東京駅北口に大群の列を作って2時間待ちをしていたのは、田舎者。東京駅周辺の道を知っているひとは、さっさと丸の内ストリートへたどり着き、横の路地から本通りへ入り込めたのだって。また、有楽町側から東京駅方向へ歩道反対コースを歩いてミレナリオを見た人もいる。

 わざわざ有楽町側から東京駅北口まで歩き、人混みに驚いて帰宅してしまった私は、20余年東京に住んでいても、いつまで経っても田舎者なんだなあ。
 「近代産業国家の首都東京」は、私にとって、どれだけ長く住んでいても「出稼ぎの街」であり、「ふるさとから遠く離れた大都会」である。都民税区民税は払っているけれど、「東京市民」には、なかなかなれそうにない。

 東京は分刻みでその相貌を変えていく。丸の内再開発後、「東京ミレナリオ」再開したら見にいき、年末年始の祝祭空間を存分に味わうことにしましょう。
 そのときは「かわいい東京駅」から列を組んで並んだりせず、直接、ストリートに横はいりしますから。
 おのぼりさんの東京徘徊、今年も続きます。
<おわり>
00:11




コンドル近代建築探訪散歩・煉瓦の館旧古河邸の光と闇
2006/08/05 土
煉瓦造りの館、光と闇

 私の自転車散歩の休憩スポット、旧古河庭園、六義園、小石川植物園、後楽園。それぞれの庭の造りを楽しみ、季節ごとの花や木を眺めます。
 7月8日、薔薇を見に旧古河庭園に立ち寄ったところ、旧古河邸の内部見学会が2時からおこなわれるというので、申し込みをしました。

 煉瓦造りの洋館は、「大谷美術館」として管理されており、内部で結婚式なども行えます。
 入館見学料500円(往復ハガキによる事前申し込みだが空きがあれば当日も参加可。私は当日参加)

 旧古河庭園にある煉瓦のお屋敷、ジョサイア・コンドルの設計です。コンドルは明治から大正にかけて日本の近代建築に指導的な役割をはたし、鹿鳴館・ニコライ堂・湯島の岩崎邸、品川の島津邸(現・清泉女子大学)などを設計しました。現存しない鹿鳴館以外は、見にいけますが、内部が常時見学できるのは、湯島岩崎邸。

 旧古河邸の見学は2回目。前回見学したのが何年前のことだったか、忘れてしまいました。
 「近代建築・煉瓦造りの豪邸」としての古河邸紹介は、たくさんのサイトがあるので、そちらを参照ください。
 たとえば、公式サイトは
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index034.html

 建物については
http://allabout.co.jp/house/architect/closeup/CU20050717B/

 今回の私の古河邸紹介は、題して「煉瓦のお屋敷、光と闇」

 内部見学会が始まる2時まで、少し時間があったので、まずは庭園の薔薇を見て歩きました。
  薔薇の名前、「クイーン・エリザベス」「プリンセス・ダイアナ」「プリンセス・ミチコ」「カトリーヌ・ドヌーブ」など。曇り空での下でも、光り輝くような名を持つ花たちです。

 庭からベランダを見ると、きもの雑誌の撮影が行われていました。モデルはスラリとした容姿の桐島かれん。レフ板(Reflector反射板)の光を受け、かれんさんがいろんなポーズや表情を作ります。ベランダの下の植え込みの薔薇ごしにシャッター音が続きます。
 古いお屋敷の壁にそっと手をあてて、美しいモデルがすっくりとたったようす、薔薇の花のようにつややかです。

 トップモデルが、小粋にまたあでやかに着こなす着物。きもののことはなにひとつ知らない私でも「わぁ、高そう!」と、思った。お屋敷に似合う着物です。
 ふぅ、私は一生着ることもなさそうな、、、
 古い洋館のなかでの着物姿、どんなふうに仕上がっているのか、あとで、雑誌を立ち読みしよっと。

 2時から若い女性ガイドさんの案内で、10人ほどの見学者が説明を受けながら見学しました。
 1階は、お客をもてなす公的なスペース。応接間、ビリヤードルーム、食堂など。
 2階は、古河旧男爵家の私的居住スペース。外観は洋館だけれど、コンドルは巧みな設計で、2階を和室にしつらえてあります。

 前回と異なる私の興味は、岩倉靖子に関わっています。
 明治の元勲岩倉具視(旧500円紙幣の肖像)の曾孫にあたる岩倉靖子の評伝『公爵の娘・岩倉靖子とある時代』(浅見雅男著 中央公論新社)を読み、靖子が一時期、親戚の古河男爵家で生活していたことを知りました。

 靖子が預けられていたころの古河邸は、このコンドル設計の洋館だったのかどうか。
 年代など忘れてしまったので、はっきりはわからなかったのですが、たぶん、こちら西ヶ原の別邸ではなく、新宿若松町の本邸のほうと思います。
 でも、靖子がこの和室の窓から外をながめて、青春の鬱屈を感じることもあったのではないだろうか、などと、勝手な想像をしながら、見学しました。

 岩倉靖子は、「赤化華族事件」に関わった唯一の女性。
 他の華族お坊ちゃまたちが、口では「貧しい人々を救おう、そのためにはマルクス主義の勉強も必要だ」と、威勢の良いことを言いながら、警察に思想事件として検挙されるとたちまち転向してしまったのに対して、靖子は長期間の拘留にただ一人耐えました。

 8ヶ月半もの獄舎生活から釈放後、靖子は遺書を残して自殺。享年20歳。

 靖子を預かっていた古河男爵は、「顔に泥を塗られた」と、激怒し、靖子を許さなかったそうです。
 
 靖子の遺書
 『 生きて居る事はすべて悪影響を結びました。
 これ程悪い事はないと知りながらこの態度を取る事を御許し下さいませ。
 皆様に対する感謝と御詫びとは言いつくせません。
 愛に満ちたいと思っていてもこの身が自由になりません。
 ただ心の思いを皆様にささげる事を御汲取り下さいませ。
 総てを神様にお任せして、私も魂だけはみ心によって善い様になし給うと信じます。
 説明も出来ぬこの心持ちをよい方に解決して下さいませ。
(1933年12月21日付け) 』

<つづく>
00:49 |

2006/08/06 日
薔薇庭園の光と陰

 西ヶ原の旧古河邸、もとは明治の元勲・陸奥宗光(むつ・むねみつ 1844-1897)の別宅でした。
 宗光の次男・潤吉(1869-1905)が、古河財閥の創始者・古河市兵衛(ふるかわ・いちべえ 1832-1903)の養子になった際に、この土地が古河家の所有となりました。

 古河家は、創業者古河市兵衛が足尾銅山の成功などで、財を築きました。
 晩年まで息子を得られなかった市兵衛が、陸奥宗光に請うて宗光次男潤吉を養子としたことから、上層階級へのつながりを深くすることができました。

 潤吉35歳で早死にしたあと、市兵衛が晩年にもうけた息子、虎之助(1887-1940)が三代目となりました。

 1915(大正4)年12月1日大正天皇即位大典に当り、28歳の虎之助は、大倉財閥を築いた大倉喜八郎らとともに爵位を与えられ、男爵となりました。
 明治中期までは「維新の功労者」などに与えられた爵位が、明治後半から大正には、経済界の成功者、多額納税者にも与えられるようになっています。

 1917年(大正6)、古河虎之助が30歳のとき、ジョサイア・コンドルに、邸宅設計を依頼しました。コンドル最晩年の作品が、この煉瓦造りの邸宅です。
 この洋館設立は、2年前に虎之助が男爵を受爵した記念でもあったことでしょう。

 洋風庭園の設計はコンドル自身が行い、 和風庭園は京都の庭師・七代目小川治兵衛(おがわ・じへい 1860-1933)が築庭した、和洋折衷の庭。館は1階洋室2階和室の和洋折衷の邸宅です。

 シャンデリアの材料はこれこれ、天井のデザインはこう、と、説明を受けながら古河邸を見学する人々は、屈託なく「へぇ、すごい材料を使っているんだねぇ」などと、館の中を歩いています。

 受爵、豪邸建設と、表は光に満ちた古河邸です。
 しかし、邸宅のガイドさんが一言もふれなかった、このお屋敷の背景には、靖子が心を痛めた「時代の病理」も闇の中に潜んでいたのです。

 古河財閥とは、足尾銅山の足尾鉱毒事件の加害者側、古河鉱業社主の家です。
 銅山の鉱毒のため、群馬栃木の渡良瀬川流域が汚染され、流域の人々は悲惨な状態に陥りました。

 群馬栃木両県鉱毒事務所の1899年の調査によると、鉱毒水が井戸水に混入したことなどを原因とする死者・死産が推計で1064人にものぼりました。
 土壌が鉱毒に汚染された渡良瀬川流域の農民は農作物も作れず、健康被害も広がりました。

 衆議院議員・田中正造(1841~1913年)は一身を投げ打ち、被害の実態を明治天皇へ直訴しようとしました。
 1901年12月のこと。

 平民が天皇に直訴するということは、重罪で、最高刑は死刑です。正造は妻に罪が及ばないよう離縁状を渡した上で、天皇の前に進み出ようとしました。しかし、進路をはばまれ失敗。逮捕拘束。

 釈放ののちも、田中正造は足尾、谷中村の農民のために働きました。名主の家に生まれたけれど、財産はすべて農民のために使い果たし、72歳でなくなったときは、無一文。信玄袋ひとつに書きかけの原稿が残されているのが、唯一の財産でした。

 鉱毒の影響は長く残り、1971年に至っても、この地域の米からカドミウムが検出されて大問題になりました。

 正造がなくなった1913年に、岩倉靖子が誕生します。

<つづく>
00:02 |

2006/08/07 月
煉瓦館の公爵令嬢・岩倉靖子

コンドル設計の洋館に古河夫妻が実際に住んだのは、邸宅が完成してから6年間ほど。古河夫妻が若松町の本邸に越したあと、西ヶ原別邸は古河財閥の迎賓館として利用されました。

 古河家迎賓館として20年余り使用されたあと、戦後はGHQに接収され、その後は東京都の所管となriました。
現在、庭園は公園として一般公開されています。(建物は大谷美術館が管理)

 古河夫妻は、西ヶ原の屋敷で1923年まで暮らしましたから、1913年生まれの岩倉靖子が、子供時代にこの庭で遊んだこともあったと思います。 岩倉靖子は、古河虎之助夫人不二子の姪です。

 古河虎之助夫人は西郷家から嫁いできました。
 西郷従道(上野の銅像西郷さんの弟)の娘のうち、桜子が岩倉具張(岩倉具視の孫、公爵家当主)に嫁ぎ、不二子が古河虎之助夫人となりました。

 岩倉家は、当主具張が若い女性と出奔し、家庭を顧みない父親でした。母子家庭同然で育つ岩倉家の子供たちを不憫に思い、古河夫妻は桜子と子供たちをなにかと気にかけていました。

 古河夫妻は実子がなく、不二子の甥(西郷従道の次男の息子)を養子にしました。
 養子のいとこにあたる岩倉家の子供たちは、古河邸ですごすことも多く、なかでも靖子は古河家に預けられ、しばらく古河夫妻の家で生活していました。

 古河邸2階の和室縁側の窓から外をながめると、下に薔薇園が見えます。コンドル設計の薔薇園として、家が建った当初から薔薇が庭に植えられていたそうです。
 靖子が庭の薔薇の花々の間をめぐって歩いたこともあったでしょう。

 芝生と薔薇の洋風庭園の下は、和風庭園の池が広がっており、木立を抜けた先にある池は静かに水をたたえ、水面には形のよい松や楓、石灯籠が映っています。
 靖子は公爵家のお姫さまとして、名家に嫁ぎ、何不自由なく生きていく人生を選ぶこともできました。
 しかし優雅で贅沢な生活に安住するには、靖子の心は純粋すぎ、清廉すぎました。

 豪勢な館の外には、貧困に苦しむ人々があえいでいる。
 その声に耳をふさいで安楽に「公爵令嬢」として暮らすことは、靖子には苦痛でした。
 靖子は「貧しい人々の側に立ちたい」という生き方を選びました。
 しかし、8ヶ月の拘留生活に耐えた靖子も、釈放後の周囲の無理解と非難の嵐には耐えることができませんでした。

 20歳の靖子の心は誰にも理解されないまま閉ざされました。
 華族から思想犯として拘留される人物がでた、ということは、一族にとっては、世間体だけでなく、華族年金の支給など経済的なことにも問題を及ぼす、重大事件だったのです。
 靖子は、心のうちをたった200字の遺書に残したのみで死んでしまいました。

 今日見た着物雑誌の撮影だけでなく、この邸宅はテレビロケなどでも時々使われ、お金持ちの豪華なおやしきとして、雑誌やテレビ画面でみることができます。
 スポットライトがあたる豪勢なおやしき。

 でも、その裏側に、足尾の鉱毒に苦しんだ農民もいたし、農民たちを支えて戦い抜いた田中正造がいた。貧しい農民たちの側に立つことを望んで心を痛めていた20歳の公爵令嬢がいたことを忘れないでいようと思います。(煉瓦館の公爵令嬢の項おわり)
00:21 |



コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復と保存

2006/08/19 土
やちまた日記>夏のおでかけリポート(15)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸ミニコンサート

 夏のおでかけリポート、「コンドルの近代建築めぐり」シリーズ、旧古河邸につづき、旧岩崎邸を紹介します。

 8/12夕方、旧岩崎邸を見学しました。
 旧岩崎邸洋館は、8/05~8/07に紹介した旧古河邸と同じ、ジョサイア・コンドルの設計です。
台東区サイト  http://www.uraken.net/rail/travel-urabe75.html
東京都公式サイト
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index035.html

 旧岩崎邸庭園、初めて訪れたのは、2003年の4月末。改修後岩崎邸初公開直後のゴールデンウィークにいったので、ものすごい混みようでした。
 大人気の洋館見学は長蛇の列。このときは、和館と撞球室(ビリヤード室)だけ見て帰りました。2回目の訪問のとき、ゆっくり洋館を見ることができました。

 今回3回目。三の丸尚蔵館を見た帰りに、大手町から千代田線湯島へ行きました。湯島駅からは徒歩3分ですが、JR上野駅から不忍池をめぐって10分くらい散歩がてら歩いていくのもいいでしょう。

 8/12のおめあては、毎週土曜日に開催されている、「土曜ミニコンサート」
 夏の間、8/26日までの木金土は、開園時間が19時まで延長されており、土曜日、4時と6時、の2回、30分間のミニコンサートを聴くことができます。

 9月からは、夕方17時閉園。毎週土曜日1時と3時にミニコンサート開演。

 2005年隔週開催だったミニコンサートが好評で、2006年は毎週土曜日に開催されるようになりました。
 新進の音楽家による演奏が、入園料のみで聞けるのです。(入園料 一般400円65歳以上200円)
 8/12の演奏者は、バイオリン堀井希美さん、ピアノ鎌田恵さん。

 岩崎邸での、賓客へのもてなしとして開かれた音楽会そのままの雰囲気で、洋館客室に立つ堀井希美さん。
 客室、婦人客室、食堂の3室に集まった観客が、美しいバイオリン演奏に聴き入りました。

 演奏された曲は、シューマン「ロマンス・イ短調」「民族風の5つの小品」、トボルザーク「4つのロマンティックな小品集」、バルトークの「ルーマニア民俗舞曲」、アンコールは、ラフマニノフ「コレルリの主題による変奏曲」
 
 木造の部屋でバイオリンの響き、思ったよりずっといい感じでした。突然の雷雨のあとだったので、湿度が高く、堀井さんは、一曲終わるごとに調律して演奏していました。
(ピアノは部屋の広さとの関係と思いますが、電子ピアノでした)

 演奏のあと、邸宅ガイドさんの案内で洋館と和館の見学をしました。建材などのこまかい説明を聞くことができました。

 コンドルが設計した洋館は、客室食堂書斎などがあり、三菱財閥の迎賓館として使用されました。1896年に竣工。

 17世紀のジャコビアン様式を取り入れた設計。
 南面のベランダ床はイスラム風の模様がはめこまれています。ベランダの外側、1階南側にはトスカナ式の列柱、2階にはイオニア式の列柱が並んでいます。

 芝庭からながめると、コンドルが和館との調和も考えて、アメリカのカントリーハウスのイメージも取り入れた、という雰囲気が伝わります。

<つづく>
00:29 |

2006/08/20 日
やちまた日記>夏のおでかけリポート(16)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の破壊と保存

 洋館の一室にコンドル夫妻の写真が飾ってありました。日本舞踊のお師匠さんだった女性を妻としたコンドルが、サムライの衣装をつけています。すっくと立つ和服姿の美しい奥さんを見上げ、かがんで踊りのポーズをきめているコンドル。奥さんへの憧憬と愛情が感じられる写真です。

日本と日本文化を愛したジョサイア・コンドル(Josiah Conder 1852~1920)。24歳で来日してから終生日本に住み、お墓は護国寺にあります。

 岩崎邸洋館は三菱財閥の迎賓館として使われ、和館は岩崎久弥私邸。戦後はGHQに接収されました。現在は東京都が管理しています。

 往時は20棟あったという建物のうち、現在修復保存され、公開されている建物は3棟のみ。木造2階建ての洋館と、木造平屋の和館の一部。山小屋風の撞球室(ビリヤード場)が残されています。

 家の持ち主岩崎久弥(1865~1955)は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の長男。三菱三代目社長。
 和館は、大河喜十郎を棟梁として施行され、岩崎久弥の家族9人が住んでいました。久弥夫妻、久弥の母、久弥の子供6人。

子供たちのうち、男子3人は三菱に入社。
 長女美喜は、外交官沢田廉三に嫁ぎ、戦後エリザベス・サンダースホーム(日米混血児のための児童施設)を開設しました。
 三女の綾子は、福沢諭吉の孫・堅次と結婚し、98歳で、存命だそうです(1908年生)。

 550坪あった和館は、最高裁判所研修所等を建設するために取り壊され、現在は160坪分だけが残されています。

 残された160坪分の和館建材は、四方柾目の五寸柱、杉柾目一枚板の天井をはじめ、現在では手に入れたくても入手困難になってしまった貴重な材料が使われています。

 邸宅ガイドさんは、厚さ3cm幅60cm長さ5mの天井板一枚が500万以上するだろうから、一室の天井を復元するだけでも、1億円はかかるだろう、と説明していました。
 しかし、500万はおろか1000万払っても、昔のような建材が手にはいるかどうかはわからない、という状況だそうです。

 建具には、橋本雅芳の絵が描かれていました。たった一枚だけ残っている、雅芳のふすま絵、ふくろうが描かれているのを見ました。

 このような貴重な文化財を取り壊して、コンクリートの研修所を建て、しかも1969年の建設からわずか25年後の1994(平成6)年 4月 、研修所は埼玉県和光市に移転してしまい、現在は研修所として使われていない。

 「古びた和館よりコンクリートの新しいビル」という発想しかもてなかったお役人様。そういう行政には、何の責任も問われない。
 もったいないことです。

<つづく>
00:26

2006/08/21 月
やちまた日記>夏のおでかけリポート(16)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復

 コンドルがこの岩崎邸竣工の前に手がけたのが、三菱一号館。1894年に竣工。日本で最初のオフィスビルとして東京丸の内に建てられました。こちらは1968年に解体されました。
 しかし、三菱は文化財としての価値を考え、外観だけですが、この一号館を復元する予定だそうです。2009年完成予定。

 一度壊してしまってから、文化財の価値に気づいたわけですが、できれば、解体されたときに、そっくり移転保存しておいてくれたらよかったのになあ、と、残念に思います。

 岩崎邸を見て、私が一番美しいと感じた部分。それは、階段ホールの一階から二階へ立っている太い円柱です。百年前に塗られたニスが結晶し、茶色のニスの上に黒い斑点模様が浮き出ているのです。これぞ、百年かかってニスが自然に固まってできた模様であり、人工ではできない技です。

 邸宅ガイドさんは、「この柱、こんなに古くなって汚くなってますけど、塗装し直しなんかできないですよ。文化財だから」
と、説明していたので、え、この柱を「古くてきたなくなっている」と、見る人もいるのだな、受け取り方は人それぞれなんだな、と思いました。
 私には、「百年の時間の美」があらわれた、もっとも美しい塗装に思えたのですが。

 この柱、もし解体して破壊されてしまっていたら。柱だけ再現しても、このニス結晶の美しさを再び現出するためには、あと百年待たなければならない。

 「古いけれど修復できない」というものが、もうひとつ。
 婦人客室の天井は、絹地に手で刺繍してある布を貼りめぐらせた豪華なもの。豪華ですが、米軍接収時代を経て、汚れてしまいました。しかし、洗浄はできません。洗浄しようとすると刺繍の絹糸がほつれてしまうからです。
 このような刺繍を手で行うことは、現代では、もはや不可能なので、洗浄せずにそのまま保存することにしたのだそうです。

 岩崎邸は、戦後、GHQに接収されていました。
 米軍接収時代に、住人となった将校たちは、壁紙が古くなったり破れた部分があったからと言って、壁にどんどんペンキを塗り立てました。
 アメリカのホームドラマでも、パパの日曜日の仕事といえば、毎週のようにペンキ塗りや庭の芝刈り。家の壁はペンキを塗りまくり、常にぴかぴかにしておくのがアメリカの美学なのでしょう。
 
 しかし、「古くなって破れていた壁紙」、実は、とても貴重な工芸品でした。
 和紙を革のように細工して金細工をほどこしたように見える、「金唐革(きんからかわ)」という特別な壁紙が使われていたのです。
 米軍将校たちは、この貴重な金唐革の、工芸的価値・美術的価値を知りませんでした。

 江戸時代に、西洋渡来の金革が大名や大商人の間で珍重されました。金革は、薄い皮に金細工をほどこしニスを塗ったもの。たばこ入れや刀の鞘に細工されました。
 江戸の奇才、平賀源内は、金革人気に目をつけ、和紙による擬革紙を作り出そうとしました。和紙に箔を張り、漆を塗る。紙なのに金革のように見える「金唐革紙」を工夫したのです。

 明治時代になると金唐革紙が産業化され、高級壁紙として西欧へも輸出されました。
 しかし、明治末期には手漉き和紙がすたれ、機械漉きが台頭しました。手漉き和紙産業が衰え、金唐革輸出も不振となって衰退しました。
 金唐革の技術を伝える者がいなくなり、幻の壁紙となってしまったのです。

<つづく>


2006/08/22 火
やちまた日記>夏のおでかけリポート(17)コンドル近代建築探訪散歩・旧岩崎邸の修復、金唐革紙

 岩崎邸に入ったGHQ将校に工芸美術品の価値がわかる人がいなかったこと、不幸なことでした。貴重な壁紙は全部上からペンキを塗られて破壊されてしまいました。 

 さて、岩崎邸修復に際し、金唐革の再現にあたったのが、現代の名工、上田尚(うえだたかし)さん。
 上田さんは1983年に金唐革に出会い、復元に成功しました。失われようとしていた金唐革紙の技術が、上田さんの研究のおかげで復活したのです。

金唐革紙紹介HP
縄文社「日本のてしごと」http://www.handmadejapan.com/sidestory_/sst074_01.htm 
紙の博物館 http://www.handmadejapan.com/features_/ft008_01.htm

 岩崎邸の修復。米軍によって壁に塗られたペンキをはがす作業からはじまりました。ペンキを塗られ、台無しになってしまった金唐革壁紙。
 上からペンキを塗ってしまわずに、そっと壁紙をはがして保存しておいたなら、今や美術館でひっぱりだこ、オークションで高値取引ができる工芸品コレクションになったのに。
 「米軍に金唐革紙=豚に真珠」だったのですね。
 って、壁紙とっておけばいくらで売れたか、などと値段のことを気にしちゃう私も、まあ、「豚に模造真珠」くらいのシロモノですね。

 金唐革紙の壁紙、復元には、1平方メートルあたり500万円、一室で1億円以上かかりました。費用の面から、復元できたのは、客室一室のみ。あとの部屋の壁紙は、金唐革にはできませんでした。

 ある文化財を、「古くなった」「汚くなった」と、こわし、新しい建物を建てる。
 米軍が金唐革紙にペンキを塗ったようなことが、日本各地で続いています。
 東京都北区にある煉瓦造り工場の「造兵廠275号」も、まもなく取り壊され、「真新しい図書館」になろうとしています。
 275号の前には解体作業のブルドーザーがきていました。

 図書館の一部に煉瓦造りの外観を残すということですが、外観だけ残した丸の内の銀行倶楽部のように、やはり元の建物を保存するのとは違います。
 http://yma2.hp.infoseek.co.jp/TokyoArch/Photo/01/daimaruyu/GINKO-CLUB.html

 文化財の保存と修復。経済優先のこの国では、なかなか難しいことなのでしょう。
 経済価値以上の価値を認めたがらない行政は、まだまだ続くみたい。
 そりゃまあ、私みたいに、金唐革紙の美術的価値もさることながら、1平方メートルあたり500万と聞いて、ヒェーと言っちゃうようなもんが国民ですから、、、、、、それに見合うような政府なんでしょけどね。

<旧岩崎邸の項おわり >




煉瓦造り・造兵廠275号
2006/08/04 金

 私の好きなものめぐり、絵本の次は、「煉瓦のたてもの」
 近代建築を見て歩くのが好きです。とくに、煉瓦造りがすき。
 煉瓦建築の東京駅について、今年1月11日~13日カフェコラム「かわいい東京駅」に書いたので、ご参照ください。

 東京都内の煉瓦建築、東京駅のような有名建築なら、保存に問題はありませんが、あまり有名でないものなどは、しばらく見ないでいるうちに壊され、あっというまに鉄とコンクリートの現代建築に立て替えられてしまいます。

 私のように、見て歩くだけの人間にとっては、煉瓦の色や手触りが好きで、残してほしいと思っているのですが、煉瓦の建物、実際に中に住んでみると使い勝手の悪いことも多いらしく、設備の整った新建築に対抗して保存するには、よほどのことがないと、保存の願いもかないません。

 東京都北区にぼろぼろの煉瓦建物が残っています。
 旧陸軍造兵廠 (ぞうへいしょう)。鉄砲の弾を作る工場でした。
 大正8年に建築された煉瓦建物。「275号棟」という古い標識が入り口に残っています。

 これまでの20年間、これからこの建物の保存はどうなるのだろうと思いながら見てきました。
 JR十条駅から徒歩10分程の北区十条台,
公園予定地の中にあります。隣の敷地は自衛隊十条駐屯地。

 歴史的な意味からも、なんとかして全体保存ができないものか、という保存運動も起こりました。しかし、そっくりそのままの保存はならず、煉瓦建築のごく一部分を新中央図書館の外観にとりいれる、という部分保存が決まりました。
 「軍事産業の工場」という建物のせいか、あまり保存運動は盛り上がらなかったようです。

 私は図書館の本をよく借りるので、新しい図書館が区民の福利厚生に役立つということは、わかるのだけれど、関東大震災にも東京大空襲にも耐えて残ってきた歴史的建物を「古いから」という理由で、壊してしまったら、二度と取り戻せないと思うのです。
 軍事工場は、邸宅やお城、寺のような歴史的建造物とはことなるけれど、やはり、私たちがたどってきた歴史のひとつの姿を残しています。

 「負の遺産」として広島の原爆ドームを残すべきであるのと同じく、軍事工場もひとつの歴史遺産として、残しておくべきことだと思います。
 この煉瓦造りの工場で、大勢の人々が「爆弾つくり」を行ったのだ、ということを伝えていくのも、平和を考えるひとつのよすがとなります。

 軍事工場も歴史的建物だとおもうし、なにより、煉瓦造りが美しいのです。
 木のドアは朽ち、窓のガラスは割れ放題。青いペンキの屋根はさび付いています。ぼろぼろだけれど、煉瓦の外壁はとても美しい。美しいものは残すべきです。

 20世紀という「破壊と創造の時代」に、破壊を目的として爆弾を作り続けた造兵廠。
 1887創業の埼玉県の日本煉瓦製造も2006年6月末に業務を停止ましたし、煉瓦建物はもう補修も難しいのでしょう。


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