にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

語彙論>新語旧語死語生き語

2010-09-27 00:09:00 | 日本語学

2010/05/21
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>新語旧語死語生き語(1)ぐいち

 ネット散歩、日本中どこにでも飛んでいけます。散歩をしていると、関東で生まれ育った私にはお初のいろいろな地方のことばを知ることができます。昔は方言研究者が家々を回って集めた地方のことばを、東京に居ながらにして読むことができ、楽しみも大いに広がりました。「専門用語」も、ネット散歩でおべんきょうできます。
 建築が専門の方のサイトで左官用語の「しっくい引き物」なんて言葉にであいました。

 「彼岸の入り」に対して彼岸のおわりの日を「はしりくち」と呼ぶ地方もあると知ったのも、ネット散歩中のどなたかの日記によってなのですが、2005年3月25日に、「はしりくち」という言葉を新しく知ったと書いているのに、どなたの日記で知ったのか書いてありません。5年前のことですが、誰の日記に書いてあった言葉だったかもうすっかり忘れてしまいました。

 「ぐいち」ということばをmomosuke2seiさんの2010年2月20日のカフェ日記で知りました。モモスケママさんが、子供の頃につかっていた「ぐいち」と言う言葉を広辞苑でひいてみたら、ちゃんと載っていた、という日記です。
 私にとっては、初めて見る言葉なので、私も広辞苑を引きました。

 「手元にあった広辞苑」と書きたいところですが、正確には「足下にあった広辞苑」です。重たい辞書なので、本箱の下のほうに置いといたら、どんどん増える駄本が本箱の前に積み上がっていって、広辞苑が取り出せなくなってしまいました。それで、本箱に戻さずに重たい辞書を椅子の下に置いておくことになった。足下においといた広辞苑、漏水事故のとき、椅子の下にあったので、びしょぬれにはならず、表紙は湿気ってぶよぶよになったけれど、中はまだ読めるので、部屋片づけをして本箱に戻しました。

 広辞苑「ぐいち【五一】ばくちで采の目の五と一がでること。たがいちがい」
 大辞林には用例まで載っていました。「(1)博打(ばくち)で、さいころの五の目と一の目。(2)〔さいころの目は五と一が向かい合っていないことから〕食い違っていること。ちぐはぐなこと。「ぐいちに生えたが歯違ふの歯の見所/浄瑠璃・菅原」

 関西では、ものごとがぴったり合わずにくいちがいが起こることを「ぐいちやワァ」などと表現するようです。関西弁のコーナーでの解説。「ぐいち」は「位置がずれてはまっている様子。掛け違え。「釦(ぼたん)がぐいち」、「歯がぐいち」などと使う。
 金型を扱う業界での専門用語としては、成形品に段差ができ、製品が食い違うことを言うのだそうです。ゴム金型で食いきりがずれてしまうなど。
 
 「ぐいち」の語源をいくつかの辞書はさいころの目の「五一」だとしているのですが、金型業界の用語解説では「くいちがい」の略語が「ぐいち」だとしています。
 広辞苑といえども、語源に関してはまちがいが多いことを、ことばの達人柳瀬尚紀『広辞苑を読む』で知りました。「ぐいち」のような方言や職人言葉などだと、広辞苑だとてあてにはならず、「五一」という語源が正しいかどうかは、わかりません。

 さて、「ぐいち」の語を調べて、これから先にどんな知らない日本語に出会えるやら、老い先短いとはいえ、まだまだ私の辞書に新語は増える。脳内土蔵には、まだまだ本棚があります。脳内漏水により、本がぐずぐずになってしまうかどうかは、先のことゆえわかりませんが。

 ちなみに、死語に対して「生き語」なんてことばはありません。今生きて使われていることばを「なま語」と言ってみたかったのですが、生ビール、生足、生会話(メールやチャットでなく、実際に会っての会話)など「生なま」の台頭著しい昨今、死語の対義語は何がいいでしょうか。

<つづく>
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2010年05月22日


ぽかぽか春庭「よい一墻を」
2010/05/22
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>新語旧語死語生き語(2)よい一墻を

 新学期が始まって、4月からの出講大学、国立2校、私立3校になりました。毎日日替わりでキャンパスを駆けめぐることになります。国立大で留学生に教えるのは、日本語初級文型教科書。私立大留学生に中級作文。私立大日本人学生に日本語学概論。日本語統語論語彙論から社会言語学まで広く、というか何でもアリの日本語学です。

 私の日本語力、教師として教えるに足る語彙を持っていると自負していますけれど、自分では使ったことのない熟語がメール中にあったりするとびっくりします。
 育児休暇をとるというお知らせのメールに「なにかとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかご海容ください」という結語があり、「海容」が実際に手紙の中で用いられているのを初めて見ました。私自身は使ったことはなくとも、海容なら、意味も読み方もわかる。
 同期生からメールをもらい、その結語に「ではどうぞよい一墻を」とあったので、目を丸くしました。「一墻」というのは、読み方も意味もわかりませんでした。
 
 辞書を見ても意味が出ていないので、発信者へ返信のついでに、意味を尋ねました。日本語教師、知らないことを恥とせず、わからないことをそのままにすることを恥とせよ、の精神です。
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メール末尾のご挨拶に「ではどうぞよい一墻を」と書いてありました。「一墻」なんていう語をはじめて見て、どうも浅学非才の身、吝嗇のショクに土偏で「墻」、「いっしょく」と音読みするのか「ひとがき」と訓読みするのかも知らず、意味もわからず、辞書ひいちゃいました。角川漢和辞典、大修館現代漢和、三省堂漢辞海には「墻」が搭載されておらず、小学館現代漢語辞典にのみ「牆」の異体字として搭載されておりました。
発音は漢音ではショウ、意味は「垣根」とわかりましたが、「一牆」となると、どのような意味になるのか、私手持ちの辞書には載っておりません。お教えいただければ、今後の学習の励みにもいたしますので、よろしくお願いいたします。
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 メール返事によると、「ただの誤変換!」
 「ではどうぞよい一週間を」のつもりで書いたら、なぜか「一墻を」となったのですって。
 字引辞典を引くのが好きだから、あれこれ探ってついにわからず、けっきょくは誤変換とわかった、という検索の結果でした。「牆」などという漢字が存在することだけでもわかって、「日本語教師、なんでも調べて損はない」と思うことにいたしましょう。
 では、みなさまにおかれましても、どうぞよい一墻を。

<つづく>
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2010年05月23日


ぽかぽか春庭「四葉胡瓜と紅娘」
2010/05/23
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>新語旧語死語生き語(3)四葉胡瓜と紅娘

 哲学者の廣松渉の本を読んでいるとやたらに見たこともない熟語が出てきます。「旧来の発想法の地平そのものを剔扶(てっけつ)し」とか「形而学上悖理(けいじがくじょうはいり)」とか。悖理は背理とどう違うのかと思ったら同じだったし、内容自体もなんだか小難しくてさっぱり理解できない。
 「廣松の本、むずかしくてわかりません」と嘆いたら、退官を迎えた教授「ああ、あの人は衒学趣味で、やさしく書けば誰でもわかるようなことをやたらにわかりにくく難しく書くのが趣味なんだから、わからなくてもよろしい。ああいう文体読まされて難しそうで高級そうなこと書いていると思いこむのは愚の骨頂」とおっしゃる。

 それを聞いて「なあんだ、やっぱりそれでいいんだ」と安心しました。「赤信号、みんなで渡れば恐くない」を廣松式にいうと「世界の共同主観的存在構造における現象的世界の四肢的存在構造」ってなるんです。あ、ちょっと違うか。もう、私には牆、墻、かきね、、、、の世界です。

 私は、難しいことをより難しく書くのより、難しいことも中学生にもわかるように書く人が好きです。とは言うものの、私が「中学生にもわかるように書いた」つもりの授業レジュメの中の熟語、漢字検定2級に出てくる熟語より難しいのは使わないと決めているのに、昨今の南瓜頭大学生たち、まあ、読めないこと。「南瓜」だって読めないんだから。きっと彼らは私が廣松の熟語使いに頭を悩ませたように、「読めネー、イミ、ワカンネー」と思っているのだろう。ただし、私は読めない漢字があれば辞書を引き、検索するけれど、彼らは「ワカンネー」で終わり。

 ホームセンターでパート勤務している方のサイトに書いてあった「園芸の苗を買いに来たお客さんが「四つ葉のキュウリ」が欲しいと注文したけれど、四つ葉キュウリって何のこと?」、さあ、何でしょう。私は双葉の時期をすぎて四つ葉になった頃の苗と推察したのですが。検索してみると「四葉(スーヨー)キュウリ。本葉が4枚付いた頃から実がなるのでこの名があるんですって。

 「美味で有名な白イボ系キュウリ。普通の白イボキュウリの1.5倍ぐらいの大きなキュウリです。イボとシワが多く見た目が悪い上に鮮度落ちが早いのですが、歯切れが良く漬物にもむきます。四川キュウリは、四葉キュウリの改良型。大きさは普通の白イボキュウリと同じぐらいですが、 四葉と同様にシワが多い。美味です。」
 と、わかりました。へぇ~、四葉キュウリ、鮮度落ちが早くても、味がいいなら、自家用で食べる人にはぴったりの品種。私も食べたいです。
 四葉キュウリは、よくしゃべるオウムとの会話が楽しいので読みに行くパロットさんの日記で知りました。

 蝶のコレクターにとって、新種の蝶の標本を手に入ったらうれしくてならないように、切手収集家が稀少品をオークションで競り落としたときのように、「ことば採集家」は、今まで知らなかった言葉に出会うと、うきうきして脳内土蔵に収集します。でも、私の脳内土蔵はしっかりしまっておくには不向きなようで、集めた言葉はぽろぽろとこぼれ落ちてしまいます。

 「Qさま」という漢字を中心としたクイズ番組で、よく、知らない読み方や熟語に出会います。そのときは「へぇ!そういう読み方だったんだ」と感心するのですが、テレビで知ったことはたいてい翌週には忘れてしまう。「これ、同じ問題を前に見たね。答えなんだっけ。忘れちゃったね」と、私同様物覚えの悪い娘息子とワイワイ言いながら、何度でも同じクイズを楽しめる。「平成教育委員会」などでも同じです。

 先週の「Qさま」で漢字検定1級の問題から、「紅娘」をなんと読むか、というのがありました。漢検1級問題は当て字や、生活に必要のない熟字訓や訓読みが多いので、学生には、「社会生活では準1級までの字が読めればOK、1級問題は漢字オタクの趣味の世界」と言ってあります。
 「紅娘」の読み方がわからなくて、答えを知って「へぇ!」と思ったのですが、これも来週には忘れているかも。ただし、私の主張では「教育漢字(約千字。小学校6年生までに習う)以外の漢語にはふりがなをつけよ!」ですから、忘れてもOKです。

 「紅娘」の読み方は、「てんとうむし」でした。私は「天道虫」という漢字しか知らなかった。中国語では「瓢虫」なので、辞書によってはテントウ虫の漢字として「天道虫、瓢虫、紅娘」の三つがでています。
 さて、来月はどんな言葉に出会えるでしょうか。

<おわり>

にほんごでどづぞ2

2010-09-25 12:14:00 | 日記
2010/05/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(1)サヌい氏は存在するか

 自分が書いたことを訂正しなければならないとき、単純な誤変換などでは訂正したあと、いちいち「訂正した」という記述は残していません。しかし、本論の主旨に関わる記述で間違いに気づきとき、訂正するときは、文末に「○○という理由で、△△を××に訂正」という注記は入れなければならない。
 訂正する必要はないと感じるけれど、訂正ではなく注記を入れておきたいことも生じます。

 映画『デイアフタートゥモロー』の中の東京が災害に見舞われるシーンで、お店の入り口が鳥居であったり、バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれていたりすることの違和感から、これはハリウッドが見よう見まねで作り上げたセットの東京だから、このような違和感が生じるのだ、という感想を述べたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1018#comment
 
 店名の看板文字が「サヌい」となっていたことにも違和感を感じました。日本人名の表記で、漢字、平仮名、片仮名それぞれの表記があります。選挙用ポスターの人名表記など、書きやすさを重視して、漢字と平仮名を併用することもあります。しかし、平仮名とカタカナを混用するのは、名前のほうには見たことがあるけれど、苗字ではあまり見たことがありません。名前ではたとえば「マサゑ」とか「ツね子」なんていうのも私の母の世代まではありました。

 でも、店の名の看板に「サヌい」とあるのに違和感を感じたのは、日本語表記で語尾の「い」をそれだけ平仮名で表記した場合、「この語は形容詞である」という感覚になるからです。「サムい」「マルい」「ヌクい」「カタい」「ヤバい」など。
 店の名として「讃井」「さぬい」「サヌイ」ならば、違和感はありません。「さぬい」は名詞や人名と感じることもできる。しかし「サヌい」と書いてあると、この「サヌい」は、形容詞であると私は感じてしまったのです。「サヌい」なんていう形容詞は見たことありません。だから、店の看板の文字として違和感を覚えました。

 さて、「サヌい」への違和感と、その訂正についてです。たぶん、片仮名と平仮名を混ぜた「サヌい」も戸籍表記上、現在では認められないことはない、と思います。したがって、私が「サヌい」なんていう苗字が店の名として看板に書かれることはない、と感じたことは、間違いでしょう。しかし、私が違和感を感じたことも事実であって、これは訂正する必要はないと思います。私の違和感は、「日本人の苗字は、漢字またはひらがな、カタカナによって表記され、漢字かな交ぜ書きの姓や平仮名カタカナ交ぜ書きの姓はないとは言えないが、少数である」という一般的な見方によるものでありました。

 「苗字の表記には、漢字を用いる」という規定は、つい最近まで行政指導として存在しました。以前は、外国人が日本に帰化するとき姓名を日本風に直すよう指導され、それが義務ではなかったものの、漢字表記のほうが帰化申請が通り安いとされていました。現在はその指導もなくなり、カタカナの姓でもOKです。(使用漢字は日本漢字の常用漢字と人名漢字の範囲内に限られているので、中国簡体字などを使うことはできません)。

<つづく>
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2010年05月26日


ぽかぽか春庭「孫と侍」
2010/05/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(2)孫と侍

 トンガ王国出身のラグビー選手ルアタンギ・バツベイ(Luatangi Vatuvei)は日本国籍帰化後の戸籍名をカタカナ表記そのまま、ルアタンギという姓にしました。名前は「侍バツベイ(さむらいバツベイ)」です。ラストサムライにあこがれて日本に留学したことから、「侍」を名前に加えました。かって私が出講していた大学の出身ですが、スポーツ特待生で別学科。私の日本語クラスには在籍したことがなかったのは残念。怪我のため2009年にラグビーの一線からはいなくなりましたが、日本の戸籍名に「ルアタンギ」という新しい姓を加えた侍バツベイさん、これからも日本国民として活躍してほしいです。
 両親の国籍のふたつを持ち、成人後に国籍を選ぶ人もいます。野球選手のダルビッシュ有は2008年に日本国籍を選び、母親の旧姓によって戸籍を作り「東本有(ひがしもとゆう)」となりました。野球選手名の登録ではダルビッシュのままですが。
 
 かっては、国籍変更の帰化申請時に、「姓は、既存の日本人の姓のなかから選ぶ」という行政指導ありました。あくまでも指導であって義務ではなかったですが、法務局は新しい姓を記載することに慎重でした。ソフトバンクの孫正義は、帰化申請をしたとき、「孫は日本人の苗字にない」という理由で、既存の姓を選ぶよう指導を受けました。そこで彼はまず、家庭裁判所へ妻の姓の変更希望を届けさせました。奥さんは規定通りの手続きを経て旧姓の苗字から「孫」という苗字に変更しました。その次に「日本人が有する既存の姓」となった「孫」で帰化申請を出し、法律に則って「孫」という苗字が認められたのです。

 日本人帰化申請も時代の要請で変化があったように、日本語表記もこれから変わっていく部分もあると思います。「てふてふ」という歴史的仮名遣い、現代表記では「ちょうちょう」と書くことになりました。私の変化予想のひとつは、平仮名の長音表記が、カタカナと同じ「ー」になる、というものです。「おかーさん」「おねーさん」などの平仮名長音表記がメールの中などでは若者に使われているので、やがてはこれが標準表記になるという予想。当たるかな?

 侍バツベイさんにとって、きっと『ラストサムライ』は、日本そのものに思えたことでしょう。2003年公開の『ラストサムライ』あたりだと、日本人俳優やスタッフががんばって、「アメリカ的思いこみの日本」像をずいぶんと訂正して撮影に臨んだというエピソードが伝わっています。

 しかし、1987年公開のラストエンペラーだと、満州皇帝溥儀の弟溥潔の妻嵯峨浩の着物姿がなんともだらしない。妊婦姿ということなのだけれど、前あわせがダラ~としていて、とても人前に出られる着物姿ではなかった。髪型も変。江戸時代の浮世絵の花魁の結髪をさらに崩したようなおかしな後ろ姿でした。ヘアメイク担当者は、日本の浮世絵を参照しながら「これぞ日本女性の髪」と思って鬘を作ったのかも知れませんが、華族出身の皇弟の妻が花魁の髪型をすることは、ありえない。

 『デイアフタートゥモロー』で感じた東京シーンへの違和感、ハリウッド映画ではよくあること。映画『ラストエンペラー』の衣装やメイクで、私には嵯峨浩の奇妙な結髪が気になったけれど、中国清朝の宮廷を知る人々にとっては、あんなのはあり得ない、と感じる衣装や髪型もたくさんあったことでしょう。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』では、清朝時代の満州族宮廷の時代考証がかなり史実に近く、きちんとなされている感じがするので、『ラストエンペラー』の宮廷人たちの衣装やヘアスタイルが、これは、きっと「西洋から見た中国清朝なのだろう」とわかるようになりました。

 日本の時代劇でも、元禄時代の話なのに、女性の髪型が文化文政時代以後に流行した結髪だったり、ということはよくあることなので、そんなに目くじら立てることもないのかもしれませんが、映画の中に描かれる各国の文化、それぞれの国で「これは、我が国のようすとは違うぞ」と、感じられ、その国に人にとっては違和感が残るものなのでしょう。春庭カフェコラムでも、映画『ビルマの竪琴』のビルマ僧の僧衣がタイ仏教の僧衣であり、ビルマの人々には違和感を感じさせるものであったことを書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200808A

 『デイアフタートゥモロー』の東京シーンで、店の前に立つ鳥居に違和感を感じたことを述べましたが、大阪のウェブ友toukuroさんから、「ビルの前に立つ鳥居」の写真をみせていただきました。ほんとうにビルの入り口に立っている鳥居です。少し離れたところにある神社の参道だったところに、あとからビルが建ったのではないかということですが、ビルを建てるとき、石造りの鳥居があって建築の邪魔になったのではないかと思うのですが、罰があたりそうで、撤去できなかったのか、鳥居をくぐってビルに入っていく人々、毎日どんな気分でしょうか。「日本珍景百選」というのがあったら、推薦したい写真です。

<つづく>
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2010年05月28日


ぽかぽか春庭「どゆしていますか」
2010/05/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(3)どゆしていますか

 文化の紹介や翻訳は、ほんとうに難しいものです。
 2007年の新聞記事に、ボストンレッドソックスのオープン戦デビューの松坂についてのニュースがあり、日本語を書いたボードを持つマツザカファンの少年の写真が掲載されていました。
 少年が手に掲げるボードには漢字もしっかりとワープロ打ちされ、「松坂氏、あなたはどうか私の野球に署名できます」と書かれていました。(2007/03/03朝日新聞)

 おそらく、あまり性能のよくない機械翻訳で日本語にしたものか、日本語をちょっとだけ勉強した人に頼んで訳を書いてもらったのか。少年は、「ちゃんと日本語で頼んであるんだから、きっと松坂選手のサインをもらえるに違いない」と信じてうれしそうにボードを持っているのでした。

 日本語では「アリエネー」表現が、留学生の作文や海外のおみやげ屋や、日本にあるエスニック料理店のメニューなどにも書かれていることがあります。そんな日本語を見つけるのは愉快で楽しみなことですが、逆に言うと私たちが書いている英語英文もおかしな表現がたくさんあるのでしょう。

 これまでコラムで紹介した文例からあげると、「Can you celebrate.キャンユーセレブレイト」というのは、celebrateに他動詞の目的語がないから、自動詞での意味となり「陽気にあそべますか」「お祭り気分にひたれますか」という意味になるという例など。安室奈美恵は「(この結婚を)お祝いできますか」という意味のつもりで歌っています。作詞した小室哲哉によると、これらは「和製英語」として作詞しているのだから、英語の正確な意味は問題にならないのですと。そ、そうだったのか。確かに、そう言われれば、この歌を歌うのは英語母語話者ではなく、日本語を話す人たちであろうから、まあ、ナイターのような和製英語として♪キャンユーセレブレイト~と歌えばよろしいのですね。

 麻布十番にあるポルトガル料理店の宣伝葉書の日本語。
 「ポルトガルを愛される方に、ちょうどア、タシカオープンして1年になりました。OBRIGADA! ランチパーティとティーパーティとディナーパーティどゆしていますか。ATASCAの料理はおいしい!お店もエレガントである!あなたにぴったりです。」
 「エレガントである!」と言い切るところが、何とも自信にあふれている感じがして笑えます。
   
 おもしろがりつつ、世界に広がっていくいろんな日本語に触れ、相手の文化を尊重しつつ世界のさまざまな文化とふれあっていきたいと思っています。

<おわり>
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2010年05月29日


ぽかぽか春庭「幸い」
2010/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーユーハッピー?(1)幸い

 「ハッピー」という外来語もずいぶんと日本社会に定着したので、新年の賀状に「ハッピーニューイヤー」とあるのもなじんできましたし、宗教が異なる民族が暮らす地域では、祝日のお祝いに「ハッピィホリディ」と挨拶するというのも知りました。たとえばクリスマスのとき、相手がクリスチャンなら「メリークリスマス」でいいですが、他の宗教かもしれないから、かわりに「ハッピィホリデイ」と言うのですって。

 私のお気に入りの留学生ブログ「I am a happy song私は幸福な歌」は、苗字のピンインがsongになるところから名付けられたブログタイトルです。毎日サイトを訪問して、彼が日々のあれこれ、日本の生活を記すのを楽しんで読んでいます。彼の「幸福な歌」は、私にたくさんのハッピィを与えてくれます。5月27日の日記には、「明日から始まる五月祭に行ってみる」と書いてありました。

 もうひとつのお気に入りに入れてあるブログ「my happy talkingしあわせなおしゃべり」は、私の最初のウェブ友ちよさんのブログです。2010年になって更新がときどきになっていますけれど、1月に行われた娘さんの結婚式のことで忙しかっただろうし、いろいろたいへんなのだろうと推察して更新をまっていました。2月末に浅田真央選手の銀メダルを祝福するコラムがUPされ、久しぶりに幸せなおしゃべりを読むことができました。

 1月のちよさん、娘の結婚式と言えば、母親にとっては、一生で一番の幸福と寂しさを味わうときでしょう。娘の幸いを願うひとときでもあり、手元から飛び立たせる寂しさのひととき。ちよさんにとってはひとり娘ですから、寂しさもひときわだったことでしょう。結婚式が予定されていた日から一ヶ月を過ぎても更新がないので、ちょっと心配になってきました。もともと体調が万全ではなかったちよさんが、結婚式の準備や当日の緊張などで疲れてしまったのではないかと案じていたのです。

 2月末の記事でも体調がよくないことはわかりましたが、パソコンを開く気持ちになったことをともかくもうれしく思いました。2010年05月09日のちよさんの日記タイトルは、ずばり「happy」です。娘の幸せを案じる母としてのhappy、娘として高齢のお母さんを思い、この母の娘でよかったと感じるhappy、ペットをいとおしみながら穏やかな暮らしを続けることのhappy、そのペットが御縁となって遠く離れたウェブ友を我が娘のように思って交流できることのhappy、たくさんのhappyがちよさんの日記のあちこちに綴られています。もちろん毎日の生活はhappyなばかりではないですけれど、happy!と口にしてみるのが好きです。

 子供は、女性にとって人生の手枷足枷のようなものだと言う人もいますが、その手枷が取れてみると、ぽっかりと心に大きな穴があく感じがするのではないかと想像しています。手枷がとれる状態を「幸い」と、漢字ではいうのですけれど。

 「幸」という文字、私は長い間「土」と「羊から横線を一本とった字」の形声文字と思いこんでいました。漢和辞書をひいてみると、今は「幸」の部首は「土」になっていますが、元の部首は「干」だったとあります。

 「幸」の漢字のかたち、実は「手枷の形を表した象形文字」なのです。漢和辞典の「漢字の成り立ち」を読んでみれば、「幸」は、甲骨文字の時代にすでに骨の上に刻まれていた文字で、罪人にはめる手枷の形を表していたのだ、と書かれています。手枷をはめられてしまえば「執」ですが、幸いにも罪を逃れて、手枷が手にない状態が「幸」であり、「幸い」なのだと知りました。
 幸を偏にしている「執」は、人が捉えられて手枷をはめられてしまった、という形声文字です。手枷の絵文字「幸」と、人が崖の下で背を丸めて手を前に出してかがんでいるようすを表した文字である「丸」を合わせています。「執」の部首も「土」です。

<つづく>
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2010年05月30日


ぽかぽか春庭「幸福」
22010/05/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーユーハッピー?(2)幸福

 はたして手枷は、手のうちにあるほうが幸いなのか、ないほうが幸いなのか。姑は、舅がホスピスに入院していた六ヶ月は、手枷足かせの中の半年だったことでしょう。その手枷がとれた状態が「幸い」で、お習字の会だ童謡の会だ詩吟だと、生き生きと未亡人生活をおくって8年になります。

 私の手枷足枷、これからは「娘と息子の食い扶持を稼ぐ」のほかに「姑の介護」があることでしょう。もっとも、姑の介護の前に、自分自身が介護される身になるということも大いに考えられます。健康オタクで元気にすごしている姑に比べて、私はもう、グズグズのやわやわで、くたびれきっております。私の介護が娘息子の手枷足枷になるとして、それが子供にとって「手枷の幸い」となるとは思えないのですが、これも「幸い」のひとつの姿と覚悟していきましょう。

 「幸福こうふく」という熟語、私たちは日常生活でもごく当たり前に使っています。けれど、庶民にとって、和語「さいわい」や「しあわせ」に比べ、漢字熟語の「幸福」は、日常生活になじまないことばであったと感じる層もいたと知りました。

 昭和30年代の東京を描いた『稲妻』(原作:林芙美子 脚本:田中澄江)。成瀬巳喜男の傑作のひとつ。(春庭はこの映画を見ていません)。バスガイドになった末娘清子(高峰秀子)は、貧しい暮らしの思い出だけの下町を出て、山の手住宅地の世田谷で一人暮らしを始めます。清子は、兄と三姉妹が皆ちがう父親の子であることについて母親(浦辺粂子)を責めます。結婚離婚を繰り返し、ようやく4人の子を育ててきた母は、自立しようと苦闘する末娘から「産んでくれなきゃよかった」などと言われて泣いてしまう。無学でもなんとか生きてきた「明治生まれの母」です。

 この浦辺粂子演じる母のセリフに、「やだよ、幸福だなんて、そんなハイカラなもん、、、、」というのがあるのだそうです。書生とか、ちょっとインテリぶった人は「幸福」という漢語を口にするけれど、明治生まれのおっかさんにとって、漢字を並べた熟語は日常生活のことばではなかった、ということがわかって、そうか!と、感じ入りました。言葉の意味は辞書を引けばわかるけれど、ある言葉が時代の中でどんなイメージで受け止められていたか、という点は、後の時代になってしまうと、なかなかわからなくなる。「幸福」というのは、山の手の奥様や官員さんには似合っても、1953年の下町に細々と暮らしている『稲妻』のおっかさんにとって、「自分には似つかわしくない言葉」に思えたということがわかりました。(芳賀綏『日本人らしさの構造』p139)

 ましてや江戸時代の小娘が「私は幸福です」なんて言うはずもない。もっとも、時代小説は「江戸の衣装を着た現代小説」なのですから、正確に江戸のことばを再現する必要はないのですけれど。それでも、江戸時代の武士が「武士の社会は~」なんてことを言うと、日本語オタクとしては、違和感を感じてしまいます。「社会」は、英語のsocietyを幕末~明治初期に翻訳した語なので、江戸の武士が言うはずのない言葉です。

 ことばについてのあれこれを日常生活や読書のなかで採集して、一人でおもしろがっている、これが私のささやかな「幸福」です。映画やテレビドラマの中で気になることばを拾って調べてみる、これも楽しみのひとつ。
 テレビドラマや映画のテレビ放映をワイワイいいながら娘息子と見るときも、言葉について話題が出ます。『めがね』で、登場人物たちは与論島の浜辺でゆったりしたリズムの丁寧語で会話をかわします。親しさを増してもぞんざいな口調が出ることはないセリフまわしが、のんびりゆったりした島の空気感によくあっていました。

 『天然コケッコー』では、島根県浜田市の美しい田園風景と夏帆の島根の石見弁を楽しみました。『陰日向に咲く』では、宮崎あおい演じる鳴子が、「~してごしない」と言うと、娘が「~ごしないって、聞いたことがある、どこのことばだろう」というので、あとで調べてみると鳥取弁だとわかりました。東京に出てきた素朴で一途な鳴子によくあっている方言でした。
 劇場公開されてからテレビ放映されるまで1年2年待って、ようやく家族で「あれこれおしゃべりしながら映画を楽しむ」のも、ささやかな幸せ。
 
 happyもしあわせも幸福も、ひとそれぞれの感じ方があるでしょうけれど、人様からみたら「ナイナイづくしであるのは借金だけ」というわが家の暮らしも「生きてるだけでもうけもん」と思えば、一生懸命働いて、古本屋で電車の行き帰りに読む100円文庫本を買う、こんな生活も「幸い」で「幸福」で「happy!」です。ささやかです。

<おわり>


編集とコピペ

2010-09-21 16:38:00 | 社会文化
2010/12/11 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(1)編集とコピペ

 私は、松岡正剛の「編集」という概念に賛同しています。「世の中のあらゆる文化は、先人が達成した文化の再編集によって、新たな装いをもって成立する」というのが「編集」の考え方です。新発見、新発明ということも、先人の知恵を利用して発見するものだからです。

 「編集」されたものには新たに「編集権」が備わります。単純な例でいえば、短歌集。短歌を作った人には創作著作権がありますが、それは著作者死亡後、50年で消滅します。万葉集の作者はもう1200年以上も前に死んでいますから、ひとつひとつの歌に著作権はありません。しかし、ある編集者が独自の観点で万葉集アンソロジーを編集して発行したら、編集した者には編集権が発生するのです。

 文章の中身が既存の知識で構成されているとしても、独自の観点から新たに書かれたものなら、書いた人に編集著作権があります。
 私が書く日本語についての文章、あちこちの文献を調べ、自分なりに納得したことを自分自身の文章で再編集します。

 春庭は、さまざまな文献を調べ、以下のような「海海海海海をアイウエオと読むことについて」の文章を書きました。書いた事実自体は、いろいろな文献に出ていることですから、春庭のオリジナルではありません。しかし、文章そのものは、春庭が自分の頭で編集し、書き上げたものです。春庭に著作権があります。
 他人が書いた文章を、自分の名前で発表したら、それは盗作です。

 春庭の文章がそっくりそのままコピペされていたサイトに出くわし、びっくりしました。ネットの中で、質問者に回答を寄せるとポイントが貯まる、というサイトの中に、あれ、どこかで読んだ気がする文章があるな、と思ったら、下記の2008/12/23付けの春庭コラムがそっくりコピペされていたのでした。

 下記のカフェコラムの元の文章は、春庭BBSに、2008-12-21 09:30:13 にUPしたものです。ネットのUPは、何月何日に書いたものなのか、確実に記録が残るのでありがたいです。
================
2008/12/23 (03:01にUP)
t******(2008-12-17 11:35:06)さんからのご質問に回答しました。
質問その1:海海海海海をアイウエオと読むということですが>

回答 「海海海海海と書いてアイウエオと読む」言葉遊びのひとつです。
「海」音読みは「カイ」訓読みは「うみ」ですが、当て字に用いた場合、さまざまな読み方にあてられる。ただし、この当て字は熟字訓というもので、アマという言葉に「海女」を当てたからといって、海に「ア」という読み方があるわけではありません。あくまでも「海女」という二字の熟語の読み方が「あま」なのです。

あ─海女(アマ)、
い─海豚(イルカ)、
う─海胆(ウニ)、
え─海老(エビ)、
お─海髪(オゴ)または海藻(オゴノリ)をあわせたもの。

 「海松」と書いて「みる」と読む。海草の一首の「ミル」に当てた漢字です。こちらの場合、海を「み」と読むのは人名地名にも当てられていますね。青海の読みは「おうみ」「あおうみ」「せいかい」などあり。
=============
 上記の文章をそっくりそのままコピーペーストした文が、別サイトに別人の名前でUPされていました。

 myth21hide氏によるコピーペースト、私がカフェコラムをUPした6時間後に「教えてgoo」というサイトにUPされていました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1758086.html
===========

回答者:myth21hide 回答日時:2008/12/23 09:26
 「海海海海海と書いてアイウエオと読む」言葉遊びのひとつです。
「海」音読みは「カイ」訓読みは「うみ」ですが、当て字に用いた場合、さまざまな読み方にあてられる。ただし、この当て字は熟字訓というもので、アマという言葉に「海女」を当てたからといって、海に「ア」という読み方があるわけではありません。あくまでも「海女」という二字の熟語の読み方が「あま」なのです。

あ─海女(アマ)、
い─海豚(イルカ)、
う─海胆(ウニ)、
え─海老(エビ)、
お─海髪(オゴ)または海藻(オゴノリ)をあわせたもの。

 「海松」と書いて「みる」と読む。海草の一首の「ミル」に当てた漢字です。こちらの場合、海を「み」と読むのは人名地名にも当てられていますね。青海の読みは「おうみ」「あおうみ」「せいかい」などあり。

 「海海海海海あいうえお」の言葉遊び、出典は「万葉集」という説もあるのですが、何巻の第何番の歌なのか、確認できておりません。

 逆に天智天皇、天武天皇の父の歌だとわかりました。
===========

 春庭が「海海海海海アイウエオ」について書いたコラムのコメント欄にmyth21hide氏からのコメントが書かれていましたから、myth21hide氏が春庭のコラムを読んだことは間違いありません。
 おそらく、myth21hide氏は、春庭とて独自の見解や発見を書いたわけではなく、いろいろなところに出ていることがらを寄せ集めているだけなのだから、myth21hide氏が春庭の文章をコピーしたところでたいした問題ではない、と考えての速攻コピーだったのでしょう。また、「教えてgoo」は大勢の人の目にふれるサイトですが、OCNカフェの春庭コラムなど、一日に10人も読む人がいれば上々のマイナーサイトだから、コピペが発覚することもないと考えてのことだったかもしれません。

 確かに、「海海海海海」を「アイウエオ」と読むことば遊びそのものは、昔から行われてきた当て字、熟字訓を元にしたもので、春庭が発見したことではありません。しかし、この文章を書いたのは春庭であり、春庭がさまざまな文献をもとにまとめたものなのです。編集権と執筆の著作権は春庭にあります。

 春庭は、ネットの中の文章をコピーすることについて反対しているのではありません。引用するなら、引用元について、きちんと執筆者名を書き引用元のURLを書くことでネットからの引用も許されると考えます。問題なのは、他者が書いた文章を自分の名で、自分が書いたようにしてコピーすることです。これは泥棒です。

 引用する場合の出所の明示については、著作権法の第48条に規定されています。myth21hide氏のコピーペーストは、春庭の文章であることを明示せず、myth21hide氏独自の文章の付け加えは、最後の一行のみなので、引用の範囲を超えています。
 なお、myth21hide氏の文の最後の一行は事実誤認です。万葉集原典にあたっていないことが、このことからもわかります。欽明天皇は「海海海海海」に関する歌を残していません。

 某私立大学中国人学生の作文コピペに悩んで、どうしようかとサイト検索しているうち、思いがけず、自分の文章もコピペされて、私の知らないところで勝手にUPされていることに気づいて、あれま、日本人でさえコピペに対してこの程度の意識しかないのだから、中国人学生が著作権を理解していかないのも、仕方ないのか、と暗然としています。

<つづく>
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2010年12月12日


ぽかぽか春庭「作文コピペ」
2010/12/12 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(2)作文コピペ

 北京で行われたフィギュアスケートグランプリファイナル。女子は新星村上村上佳菜子が3位、男子は織田信成が2位、小塚崇彦が3位。日本勢で金銀銅独占という欲張りな夢は成りませんでしたが、フリーでは安藤美姫が最高点になるなど、見所が多く、はらはらしながらも楽しめました。

 春庭創作「名前で回文」フィギュアスケート篇に、織田信成が抜けてしまっていた。付け足しです。昨日のフリースケーティングでは、4回転だけでなく2回転でも負けにつながる転倒があった織田信成でしたが、次回は無理な倒れ方をしないように、そしてチャンピオンに成れと願って。
 良し!成れ、織田信成、無理な負の倒れ無しよ。「よしなれおたのふなりむりなふのたおれなしよ」

 自作回文を作ったあと、必ず検索を入れて、同じものがこの世にUPされていないか確かめます。俳句やキャッチコピーなど短いフレーズのものは、意図しなくても同じものが作られてしまっている可能性があるからです。一文まるごとの検索と、一語ずつに分けてアンド検索をします。一文は、平仮名だけのと、漢字仮名交じりと両方確認します。良し、成れ。同じ回文は無しよ。それで、ようやくUP、OKになります。

 今年4月から担当している某私立大学の留学生クラス、一つのクラスに40人も詰め込まれているのが、二クラス。「文章表現」「口頭表現」の指導をせよ、ということで、春庭なりに、精一杯指導はしたつもりですが、なにせ人数が多すぎて、これまでの国立大学留学生クラスのような授業ができませんでした。十分な指導ができず、「学生の日本語力が4月から伸びた」という実感が得られずに年末を迎えたこと、近年にないことで、たいへん強いストレスになりました。

 ひとクラス40人の作文を提出させて添削し指導することは、かって他の私立大学留学生クラスでも行ってきたことだから、と思ってこの仕事を引き受けたのですが、どっこい、時代が違い、学生の意識が異なりました。インターネット時代の落とし子たち、それも、コピペを当然と考える国からの留学生です。ネットからコピペした文章を当然のように「作文の宿題」として提出し、「ばれなきゃOK」という意識なのです。

 「あなた方が現在書ける作文能力は、一番最初に授業中に書かせた自己紹介作文で把握しています。コピーペーストしても、ぜったいに教師は本人が書いた作文かどうか見破ることができるからね。コピペは必ず発覚しますよ」と、毎時間作文を書く度に言っているのに、コピペ作文があとをたちませんでした。

 仕方のないことかもしれません。中国に著作権意識はまだ浸透していないのです。
 「クレヨンしんちゃん」は、中国で中国人が取得した「蠟筆小新(ラービィシャオシン)」の商標が登録され、登録者は今も、この商標を「正式」に使用し続け、日本の原作者と出版社は、中国における権利を認められなかったという問題がありました。
 上海万博では、PRソングに選ばれた歌が、日本の岡本真夜のヒット曲「そのままの君でいて」(97年発売)にそっくりであることがわかり、中国政府側も認めました。岡本側に「楽曲使用願い」を出し、岡本が許可を出したことで一件落着となりましたが、これはあまりにも明白な盗作であり、世間にも広く知られてしまったため、上海万博を恙なく成功させたいという中国政府の意向から正当な処置になったのであり、おそらくおおかたの「中国パクリ天国」は、これからも当分の間横行することでしょう。

 「中国人は泥棒になることを良いことだと思っているのですか」そう尋ねると、学生たちは「人のものを盗むのは悪いことです」と答えます。でも、彼らの意識では、泥棒とは「物」や「お金」を盗むことに限られています。アイディアとか意匠登録とか著作物など、形のないものについては別なのです。
 学術論文、博士論文ですら、コピペ横行であることは、中国語の論文を読んだ人の多くが指摘しています。

 一般の中国人に「著作権」という概念はありません。日本語教師春庭は、「人の文章をそっくりそのままコピーしたら、それは泥棒です。人の文章をそっくりコピーしたら犯罪ですよ」と、教えるところから授業を始めました。

 それでも、コピペは続出しました。作文の一部、またキーワードをいくつか検索に掛けると、コピー元の文章が割り出せます。ネットをコピーしたものを学生に見せて、「あなたの文章は、ここからコピーしたのですね」と、突きつければ、しぶしぶ認めますが、「見つからなければOK」の精神は、続いています。コピー元がわからないとしても、普段自分の力で書いている文章とあまりの落差のため、すぐにコピーだとわかるのですけれど、証拠がないと言えないのが弱みです。

 経営上の問題で、日本語力が低い人たちもどんどん入学させている大学であることは承知の上だったのですが、「自分の力で日本語力を向上させたい」という意識が皆無の学生、「他の人の文章をコピペしてもバレさえしなければ、単位がもらえる」という考えの人に出くわすと、毎度毎度がっかりの連続です。

<つづく>
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2010年12月14日


ぽかぽか春庭「コピーとインスピレーションとオマージュ」
2010/12/14 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(3)コピーとインスピレーションとオマージュ

 春庭のカフェコラムで、何度か「コピー」「盗作」「インスピレーションを受けての再創作」「パロディ」「オマージュ」等の問題について述べてきました。
(2006年9月16~28日 翻案盗作パロディオマージュ(1)~(13)。シェークスピアの元ネタについて、また手塚治虫とディズニーアニメの影響関係など、作品中のコピーやオマージュについて述べました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609A
 
 あるモチーフを元にして新しい文化を創り上げることは、どの文化でも芸術や産業のどの分野でも行われてきたことです。言語作品の影響関係について、とても興味深い話をききました。題して「本歌どり・賢治とアメリカ郵便局スローガン」byアーサー・ビナード

 12月9日木曜日の夜、詩人アーサー・ビナードさんの講演がありました。
 ビナードさんはニューヨーク州のコルゲート大学卒業後、1990年に来日。池袋の日本語学校で日本語を学びました。英語日本語相互の翻訳や日本語での詩や俳句の創作をはじめ、2001年に日本語の詩集『釣り上げては』を出版し、中原中也賞を受賞。外国人でこの賞を受けたのはビナードさんただ一人です。

 現在は、青森放送や文化放送のパーソナリティとして活躍し、詩集、絵本、エッセイなど多彩な作品を日本語社会に送り出しています。

 非日本語母語話者による日本語言語作品、リービ英雄や楊逸など「越境文学」を守備範囲に入れたい春庭、講演があることを昼休みに知り、仕事を終えてから講演をききました。師走のひとときを有意義にすごすことができました。

 ビナードさんが発見した、「インスピレーションを受けての再創作」についての話を採録します。

 ビナードさんが来日して、池袋にある日本語学校に通い始めたころのこと。ビナードさんは日本語クラスの市川先生に本を借りて読んでみることにしました。文庫本の日本語の詩を読み出してみると、以前に確かに読んだような、なつかしい感じを受けました。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ、、、、
 ビナードさんが宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を読み出したのは、最初の漢字「雨」を見て、「おお、知ってる漢字だ、これなら読めそうだ」と思ったからだそうですが、すぐに辞書を引いてもわからないところにぶつかりました。「イツモシヅカニワラッテヰル」
 日本語学校で片仮名は習ったけれど、「ヰ」は何だ?習ったことがない。「?」のような記号なのか。それならそのあとに片仮名の「ル」がつくのはおかしい。

 「ヰ」はひらがな「ゐ」のカタカナであることなどを知らなかった、日本語初級のころですから、一遍の詩を読み上げるにもいろいろな苦労がありましたが『雨にもまけず』は、ビナードさんにとって大きな印象を残した日本語詩になりました。

<つづく>
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2010年12月15日


ぽかぽか春庭「王の道と雨ニモマケズ」
2010/12/15 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(4)王の道と雨ニモマケズ

 知らない文字も出てきてたいへんだったけれど、ビナードさんは、「雨ニモマケズ」の最初の数行を読んで「どこかで出会った詩句のような、なつかしい感じのすることば」と感じたのだそうです。
 どこでこの「雨にも負けず」というフレーズを見かけたのだったか記憶をたどると、、、、。それは、大学があったニューヨーク州の郵便局の壁に掲げられている「郵便配達員のモットー」でした。

 「郵便配達員たちの信条 Postal Service Mission and "Motto”」として有名なスローガンなのだそうです。こんな詩句。
"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night, stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds"

 雪も、雨も、暑さも夜の暗がりも、配達人の配達区域で迅速な任務の完遂をおしとどめることは出来ない(春庭の訳なので、違っている部分があるかも知れません。たぶん、ビナードさんによる日本語訳がどこかの本に載っていることでしょう)
 ほんと、ビナードさんが「なんだかなじみのある詩句」と感じたこともうなずけます。
「雪にも負けず、雨にも夜の暗がりにも負けず、黙々と担当地区の郵便を運び続ける、、、、」そんな郵便局員に私はなりたい、、、、という郵便局のスローガン。

 アメリカ郵便局員のモットー、出だしのところは「雨にも負けず」の雰囲気にそっくりです。ビナードさんも最初は「あれれ、アメリカの郵便局は、宮沢賢治をパクッたのか?」と思ったそうです。でも、「雨ニモマケズ」を辞書をひきひき読み進めていくと、「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負イ」、、、おやおや、郵便局員の仕事とは違うようだなあ、、、、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」あれまあ、郵便局員をデクノボー呼ばわりしたら叱られるだろう。
 
 それで、アメリカ郵便局が「雨にも負けず」をパクッたのではないか、という疑いを捨てて、"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night,のほうを調べてみると。コピー元がわかりました。
 郵便局がパクッたのは、宮沢賢治からではありませんでした。
 賢治より2350年前のギリシャに生きた歴史家、ヘロドトスの詩句からでした。ギリシャ時代の歴史家ヘロドトスが書いた『歴史』の中の一節に、このスローガンの元ネタがありました。

 「この郵便局員のモットーは、ヘロドトスの『歴史』からのコピー、いや、コピーというより、本歌取りと言ったほうがいいでしょう」と、ビナードさんの説明。

 春庭は、ヘロドトスの『歴史』については、あまり知りません。学生時代にところどころを授業で読まされただけで、通読したこともなく、このヘロドトスによる「配達者の使命」についてまったく知らなかったので、ウィキペディアなどで調べました。

 ヘロドトスが書き記したのは「ペルシャ王の公道」という逸話です。ペルシャ帝国は、広大な領土に公道が整備されていました。王の道(Persian Royal Road)は、アケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオス1世によって、紀元前5世紀に建造されました。王都スーサからサルディスに至る拠点ごとに宿駅が設けられ、守備隊が置かれていました。この公道によって帝国は交通と通信を迅速に行うことができ、領土を保全することができたのです。

<つづく>
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2010年12月17日


ぽかぽか春庭「ヘロドトスと宮沢賢治」
2010/12/17 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(5)ヘロドトスと宮沢賢治

 ヘロドトスはダレイオス1世が死んだBC486年の1年前BC485年ころの生まれですから、大王が建設した王の道がもっとも盛んだった時代に生きていたことになります。
 ヘロドトスが『歴史』を書いた当時、王都スーサから帝国遠隔の地サルディスまでの 2,699キロメートル(1,677マイル)を7日間で旅することができたと言われています。

 ヘロドトスは、「この公道を利用したペルシアの旅行以上に速い旅は、世界のなかでも他にはない」と記録しました。王都から地方へ王の命令を伝える伝達使たちは使命感を持ってこの王道を行き来しました。

 ヘロドトスは、『歴史』の中に、ペルシャの伝達使についてこう書いています。
 「雨、雪、暑熱、夜の暗さであろうと、託された任務を伝達使が最高の速度で達成することを妨げることはできない」
 このヘロドトスの言葉が、今日、郵便配送者の(非公式ではありますが)モットーとして使用されています。それが、ビナードさんが紹介したPostal Service Mission and“Motto”です。

 ここから、ビナードさんは、「宮沢賢治もヘロドトスを読んだことがあったのかも知れない」と感じました。賢治の蔵書目録や読書メモの類をすべて研究している人もいるだろうから、そのリストを見たり、賢治が生きていた時代に日本で入手できたヘロドトスの本を調べると、賢治がヘロドトスからインスピレーションを得たのかどうか、わかるかも知れない、と、ビナードさんは考えました。

 賢治の時代、ヘロドトスの『歴史』全訳は出版されていなかったけれど、「英語名言集」「独語名言集」の形でヘロドトスの著作からも抄訳が出されていたので、賢治が読んだことがある、という想像はまったくの見当違いとも言えない。

http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Postal_Service_creed
 以上のページを参照して、ビナードさんが朗読した「郵便局ノモットー」をもう一度UPします。
"Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night, stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds"
(雪も、雨も、暑さも夜の暗がりも、われら配達人たちが配達区域に与えられた素早い任務の完遂をおしとどめることは出来ない)

 宮沢賢治の研究書は、ビナードさんに言わせると「馬に喰わせるほどある」そうですが、「雨ニモマケズ」とヘロドトスに関連した研究は見当たらず、おそらくビナードさんの「発見」だろう、ということです。

 賢治がヘロドトスの「ペルシャの配達人の使命」の詩句を知っていたかは、今後の研究で影響関係にあったかどうか、わかるかもしれません。もし、影響インスピレーションを受けたことがあったとして、賢治の「雨ニモマケズ」は賢治独自の創作としてすばらしいものです。ビナードさんは「ある文化の影響から再創造される文化」の例として、賢治と郵便局スローガンとヘロドトスを紹介したのです。

<つづく>
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2010年12月18日


ぽかぽか春庭「インスピレーションと再創造」
2010/12/18 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>コピペ(6)インスピレーションと再創造

 ビナードさんが語る「ある言語からの再創造」に関する話題を、以前、春庭もカフェ日記に書いたことがあります。アーサー・ビナードの訳詞に関するコラム「大平洋の発見は何度でも」です。以下のページにあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702a.htm

 もし、賢治が「英語名言集」というような本の中でヘロドトスに出会っていたとして、それから直接インスピレーションを受けたというより、心の中にNeither snow nor rain nor heat nor gloom of night というフレーズが印象づけられ、後年にその一節が「雨ニモマケズ」という詩句に結晶したことは考えられると思います。

 春庭は、2010年7月に掲載した「日本児童文学における外国文学移入の受容と変容・児童文学の変形譚レミとネロの物語を中心に」(それにしても長いタイトル!)シリーズの第一回目に、宮沢賢治が担任教師から『家なき子』を翻案した「未だ見ぬ親」という物語の読み聞かせをしてもらい、そこから賢治童話への道が開けていったというエピソードについて書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d2246#comment
 宮沢賢治が「太一の物語」に翻案された「家なき子ネロ」を読み、それが後年の賢治童話の世界につながっていく。ひとつの言語文化が世界に広がり、インスピレーションの元となる。

 どうして、あまたの宮沢賢治研究者が気づかなかった「雨ニモマケズ」とヘロドトスの「王の道」の類似について、ビナードさんが気づくことができたのか。ビナードさんが日本語と英語の間の橋を渡ることのできる人だったからにちがいありません。

 ひとつの言葉が他の言葉と出会う。「ことばメガネ」のレンズによって、世界が広がることを、ビナードさんは講演で語りました。
 二つの言語の間を行き来するビナードさんによる「ことばと文字のおもしろさ」を伝える講演の要旨は、次回シリーズで紹介します。

<おわり>


アーサー・ビナード講演会2010年12月

2010-09-21 09:59:00 | 社会文化
2010/12/19 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(1)ビナードという名の発音

 12月9日に開催されたアーサー・ビナード(Arthur Binard)講演会。
 講演はとても面白く有意義なものでしたが、501人収容数がある東京外国語大学プロメテウス・ホールに聴衆は半分くらいで、もうちょっと宣伝をしてたくさんの人に聞いて欲しかったと思う講演でした。聴衆は、若い人はほとんどが外語大の学生でしょう。あとは中高年が多かった。ポスターなどで講演会を知った生涯学習マイブームといったふうな中高年と、「アーサー・ビナード大好き、おっかけオバサン」みたいな人たち。

 私も「アーサー・ビナード大好きオバハン」ですけれど、これまで講演を聴いたことはなく、本は『日本語ぽこりぽこり』と『日々の非常口』、『出世ミミズ』の三冊のエッセイ集を読んだくらいで、詩や絵本など他の作品を読んだことはありません。だから、熱心な読者というわけにはいかないのでしょうが、コラムの題材にしたくらいですから、大好きなことは他のおっかけオバサンにひけを取らない。
 春庭コラムを再度ご紹介。このサイト。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702a.htm
 
 本の扉の写真などで、イケメンであることはわかっていましたが、講演会場の前から2番目の席に座って眺めるビナードさん、想像していた以上にステキな方でした。9歳年上の姉さん女房、詩人の木坂涼さん、うらやましいな。ビナードさん、白いフリースのジップアップジャケットを着て、少年のような雰囲気を保っていて、43歳という実際の年齢よりずっと若い印象を受けました。

 舞台上手にホワイトボードがあって、それに書き込み、ボードを見ながら話したので、ずっと客席上手のほうを向いていました。客席上手側、前から2番目の私としては、私を見て話していてくれるような気がしました。キャ!
 正面を向いてキッと観客を見据えながらグイグイと押し込むようなスタイルがアメリカ人の講演っていう先入観があったせいか、なんだが、ハニカミ王子のように見えました。

 ビナードさんは、ミシガン州デトロイト出身。親戚一同みなデトロイトで自動車産業に関わって生活していた、と自身のバックグラウンドを紹介していました。
 講演の最初は、名前のスペルの紹介から。先祖はフランスから来たということです。フランスで15~16世紀に建てられた教会の、立て直しのための寄付者名簿が残されていて、その中にS・Binardの名が書かれていたので、Binardがフランスの名であることは確かだけれど、アーサー・ビナードさんの出自には、フランスやアイルランドなどさまざまな土地が関わっているそうです。

 Binardという姓がアメリカ人に「ビナード」と発音してもらえることは少なく、たいていは「バイナード?」「ビナール?」などとと呼ばれてしまう。英語では、発音と文字に一貫性がないから、いろいろな発音に読めるのです。

 英語(アングロサクソンの言語)はもともと文字を持たない言語で、ラテン文字であるアルファベットを当てはめて綴ることになったので、表音文字とは言っても、英語の文字と発音に乖離があります。一方、ラテン語の子孫イタリア語やスペイン語は、ラテン文字(アルファベット)の綴りと発音が一致しており、アルファベットをローマ字式に読んでいけばよい。
 ビナードさんの表現によれば、イタリア語や中国語は整然と切石で舗装された道に思えるのに対し、ひらがなとカタカナと漢字が使われる日本語や、発音と文字が一致していない英語の表記はデコボコ道を行くがごとし。

 ビナードさんは、デコボコ道を一歩一歩自分の足で歩くことがお好きなのだとお見受けしました。現実生活でも、日常愛用の交通手段は自転車と歩くこと。車や電車は必要最低限にしか使わないのだそうです。

<つづく>
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2010年12月21日


ぽかぽか春庭「英語と日本語ふたつの言葉で」
2010/12/21 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(2)英語と日本語ふたつの言葉で

 ビナードさんは、1967年生まれ、1990年に来日してから20年になります。
 大学では英米文学を専攻し、在学中にイタリアに留学してイタリア語を、そしてインドに行ってタミル語を学びました。卒業論文執筆中に「漢字」と出会い、表意文字のおもしろさに惹かれました。中国か日本へ行ってみたいと、中国語や日本語のクラスに参加してみました。

 ビナードさんの印象では。文字表記の面で、自前の文字を使う中国語はラテン文字を使うイタリア語に近い。日本語は中国の文字を取り入れて自国語の表記にした点で、ラテン語の文字を借用してアングロサクソンのことばを表記した英語に似ている。それで日本語のほうを学ぶことにしました。

 一般のアメリカ人は英語以外の言語を学ぼうとしない人が多く、日本語に出会うと母語とまったく違う言語に戸惑います。でも、ビナードさんは日本語に出会う前にイタリア語を学んだことがあった。これは、日本語と同じ5母音で開音節の発音体系を身につけていたということです。タミル語を学んだ経験は、日本語の統語法(詞の並べ方シンタクス)になじみができていたということ。タミル語の文法と日本語は両方ともSOVの語順で、似ているからです。ビナードさんにとって、日本語は「なじみの言語」に感じられただろうと思います。

 ちなみに、日本語と似ていることばの並べ方をするのは、朝鮮韓国語、モンゴル語、トルコ語、タミル語など、世界の言語の半分は、日本語と同じタイプ。英語は世界の中でもかなり特殊な文法を持つ言語であり、世界共通語にするには向かない言語です。しかしながら、現実は英語が世界共通語に成ってしまっており、会議などでは英語が使用されています。19世紀の産業革命におけるイギリス覇権、20世紀の軍事と情報におけるアメリカ覇権により、言語の上では英語が世界の覇権言語となってしまった。

 世界の言語は、SOV、SVO、OSV、VSOなどの語順をとる言語がありますが、日本語と同じSOVの語順がもっとも多い。でも日本人は外国語として欧米語を習う人が多いので、日本語以外はほとんどSVO「私は食べるパンを」方式が多いと思い込んでいますが、実は日本語と同じ「私はパンを食べる」方式のほうが主流派です。

 「日本語を勉強するのってたいへんでしょう?漢字や仮名があって、とよく日本人にたずねられますが、全然!もっとお願いします!と言いたいくらい。なんなら、第三のかなを作ってもいいくらい」というのが、ビナードさんの日本語観。
 「雨ニモマケズ」を読んでいて「イツモシヅカニワラッテヰル」の「ヰ」が読めなくて困ったというビナードさん。第3の仮名を作らずとも、変体仮名はいかがでしょうか。現代では変体仮名をすらすら読める日本人は少ないので、ビナードさんには変体仮名の影印本や古文書をスラスラ読める人になってほしいな。

 私?スラスラなんて読めませんとも。先日卒論執筆中の息子に歴史資料の中の変体仮名の読み方を聞かれました。数字の「5」の左側の縦棒を下まで長く伸ばした文字。「文脈から言うとヨリと読むはずなんだけど、確信ないんだ」というので、変体仮名サイトを開いて見たら、「ヨリ」で正解でした。

 ビナードさんがアメリカの大学で、卒論執筆から日本語に興味を持ち日本語を学ぶことにしたと述べると、ある教授から反対されました。大学院入試を受けた後、C教授から「今から日本語を学んでもモノになるはずがない、日本へ行ってもにムダになるだけだから、やめておけ」と、言われ、「それなら絶対に日本語をモノにしてみせる」と決意。ビナードさんは、大学院には行かずに日本へ行くことにしました。
 このC教授はエズラ・パウンドの研究者で、今では、日本へ行く決意を固めさせてくれたこの先生の感謝している、と付け加えていました。

<つづく>
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2010年12月22日


ぽかぽか春庭「スパイダープラントと折り鶴蘭」
2010/12/22 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(2)スパイダープラントと折り鶴蘭

 名前の話。ビナードさんの友人の一人はBowlesという姓です。でも電話で「ボウルズです」と名乗ると、相手は同じ発音の「bowels」をイメージして、クスリと笑う。「bowels」は、「大腸&大腸の中にあるうんこ」を意味するから。

 そんな笑い話を枕に振って、ビナードさんの講演が続きます。落語家三遊亭円窓の元に「一日弟子」として入門して稽古をつけてもらった経験もあるというビナードさん、話術も巧みでした。とても誠実な話しぶりで「日本語が上手なことをイヤミに感じさせることのない話し方」がよかった。
 名前の文字と発音について話し、英語の表音文字はスペイン語やイタリア語とは異なり「発音と文字の結びつきがゆるい言語であり、出来の悪い言語である」ことを聴衆に伝えるにも、うまく笑いにのせて語っていました。

 さらに、自分の先祖はフランスの出であり、ルーツはヨーロッパであることなどをさりげなく伝える。日本人聴衆は、「自動車産業の申し子であるデトロイト生まれのアメリカ人」には機械産業の勢いを感じ、「古い伝統を持つ家系」には古い文化が背景にあると思い安心するメンタリティを保持しているってことを、計算済みとみえました。ここらへんは、木坂涼さんのアイディアも入っているかしら。

 通路を隔てた隣の席のオバサンは、私より年期の入ったビナードファンらしく、歌舞伎の大向こうよろしく、ここぞというときに大声で笑っていました。ビナードさんのユーモアのある語り口、隣のオバサンといっしょに、遠慮無く笑いながら聞きました。あれ?、私のほうを見ていてくれると感じたのは、実はこの笑い声の大きさに注意が向いてこっち見てたのかな。
 
 ビナードという名前紹介の次が、「コピペ」シリーズで紹介したとヘロドトスと「雨ニモマケズ」の類似についての話です。
 雨ニモマケズの次に、ビナードさんは「言語にはコミュニケーションツールとしての役割もあるが、それ以上に、世界をみるレンズとして言語の存在がある」という話を続けました。

 母語と異なる言葉を知ることは、異なる見方に出会うこと。ビナードさんは、いくつかの言葉を例にあげて、異なる表現方法を知ることにより、同じひとつのものを表すそのものへの見方が変わることを紹介しました。

 スパイダープラント(spider plant クモの植物)という観葉植物があります。(学名はChlorophytum comosum)。

 ビナードさんは、この葉っぱ四方八方に足を伸ばしているような葉を見ると蜘蛛をイメージしてきました。ところが、日本に来て、花屋の店先でこの観葉植物に「折鶴蘭オリヅルラン」という名がつけられているのを知って、この観葉植物への見方がすっかり変わった。ほんとうに折り鶴の姿のように思えたのだそうです。


<つづく>
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2010年12月23日


ぽかぽか春庭「泥のイメージ」
2010/12/23 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ビナード講演会(4)泥のイメージ

 ビナードさんの講演の中で、その他印象に残ったことば。
 「泥」という語のイメージについて話が続きました。泥まみれ、顔に泥を塗る、泥棒,,,,,泥が付く言葉によいイメージの言葉は少ない。しかし、ある体験で「泥」へのイメージが一変した、とビナードさんは語ります。

 ビナードさんは、日本びいきの外国人に多いように、和食を偏愛しています。毎朝ご飯。でも、20年も日本に住んでいて一度も田植えをしたことがなかった。
 機会があって、ビナードさんは、知人といっしょに「完全手植えの田植え」を体験することができました。

 泥田に入って、用意の苗を泥の中に植え付けていく。植える前の苗は「物体」であったのに、泥の中に差し込んで苗が自力で立つようにしてやった途端、苗は「モノ」ではなく、「生き物」になる、それがとても不思議な感覚だった、とビナードさんの田植えの感想。

 ああ、いいな。こういう感覚を持っているから詩人をやっていられるんだなあと思います。そうだよね。田の中に立つ苗は最初はひょろひょろと頼りなさげに見えますが、ちゃんと「稲の赤ちゃん」になり、水を飲み、根を張る。お日様を吸い込み、ぐんぐん育つ。泥は、稲の赤ちゃんを優しく育むゆりかごです。

 苗が「モノ」から「生き物」に変わったように、「泥」のイメージがすっかり変わったことにも驚いた、と、ビナードさんは語りました。
 「泥」は決して汚いものではありません。田の泥は稲の赤ちゃんのベッドだし、人の足をやさしく包む。お日様の光を含み、どじょうやザリガニを含む生き物の床なのです。実際に田植えをしてみることで、いままで「汚れもの」であった「泥」という一語のイメージがすっかり変わった、とビナードさんは言います。

 そう、言葉は観念でイメージしたらその本質はわからない。自分で触り、自分で味わい、自分で手の中に包み込まなければ、言葉のほんとうの意味は実感できません。現代の人々がパソコンの情報やケータイだけで物事を済ませようとするなら、いつか言葉たちは私たちの手の中からこぼれ落ちてしまうでしょう。

 ビナードさんは、この「ことばの実感」を持つには、「言葉に依存しないことだ」と言います。「泥」という一語を、言葉として知るだけでなく、泥の中に足を入れ、実感として泥を味わうこと。幼稚園保育園などでどろんこ遊びや泥団子作りを大切な保育活動にしている園があります。私も公園で砂遊びやどろんこ遊びを子供といっしょに楽しみましたが、泥や砂と戯れることは子供の成長にとって大切なことだったんだなあ、と今になって振り返っています。

 さまざまな出来事を言葉や文字、本の中で知るのもひとつの経験です。しかし、それは実体験、実際の経験に裏打ちされるべきもので、泥というのものを見たこともなくさわったこともないのに、「泥」をことばだけで「泥まみれ」「泥水稼業」「泥仕合」「泥臭い」などと使ったのでは、「泥」がかわいそう。

<つづく>
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2010年12月24日


ぽかぽか春庭「ホットケーキできあがり」
2010/12/24 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(5)ホットケーキできあがり

 実際にものにふれ、物事の成り立ちを実感させなければならないということは、ビナードさんの信念です。これを子供に教えなければならないと考え、ビナードさんはエリックカールの「ホットケーキできあがり」を紹介しました。1970年のエリック・カール作品を2009年にビナードさんが初邦訳として出版した絵本です。

 出版社の絵本紹介によると、こんなお話。
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 朝一番に「きょうは、でっかいホットケーキがたべたいなぁ」と思ったジャック。でも、すぐには食べられません。ホットケーキにありつくまでには、たくさんの仕事が待っていました。まずは小麦を刈りとり、脱穀して粉にして、卵をとってきて、牛乳をしぼって、、、、身近な食べ物が口に入るまでの過程を、エリック・カール独特の色あざやかな絵で生き生きと描いた絵本。
==========
 ビナードさんは、エリックカールの絵本を紹介しながら、「これだとホットケーキ食べたいと思ってから食べられるまでに1ヶ月以上はかかります」と、笑わせます。
 すべてのことを自給自足で何でも自分でやらなければいけない、となったら、現代社会では生きていけないかも知れないけれど、食べ物がどうやって口に入るのかという基本を全く知らない子ばかりになったら、社会が変容してしまうのもわかる。「ホットケーキ食べたい」とママに一言いえば、すぐにバターをたっぷりのせたホットケーキが出てくるのは幸せな子供のようでいて、実はそうじゃない。

 「ホットケーキ」という言葉を簡単に操るのではなく、ひとつひとつを実感しながら、粉をふるい、鶏小屋から集めてきた卵や乳搾りをして牛さんに分けて貰った牛乳と混ぜ、いろんな人がいろんな形で一枚のホットケーキに関わっていることを知って食べる子がいたら、その子は「お手軽簡単ホットケーキ」をチンして食べる子よりずっと幸福です。自分で小麦の刈り取りやバター作りを汗水流して体験してから食べられるなら、どれほど幸福な子供でしょう。

 「言葉に依存しない」と、ビナードさんが言う内容、よくわかりました。実体験実感を伴わない言葉は空疎になるばかりです。
 詩人ビナードさんは、ことばの本質を見事にすくい取って私たちに教えてくれました。


 モノは言葉を持ち、言葉はイメージを作り上げる。
 ビナードさんは、これら、母語とは異なる言葉のイメージ転換を子供の目を通して描いた絵本を出版したところです(2010年11月刊)。ビナード講演の中盤は、この絵本の紹介が続きました。『ことばメガネ』という絵本です。

 ビナードさんの経験した英語から日本語への「ものの見方の転換」をモデルに、日本語を母語とする少年が英語を知ることによって、語へのイメージを変えていく、というお話です。アーサー君の分身のリュージ少年がことばを見直します。日本語を話す少年が「えいごメガネ」という不思議なメガネをかけることによって、物の見方を広げていくようすを絵本で表現している作品です。八百屋の店先で、ナスが卵に変身してしまうのは、ナスは英語では「eggplant卵植物」と呼ぶから。横断歩道は縞馬になってしまいます。英語ではzebra zone, zebra crossingというので、zebraシマウマの身体の上を渡っていくイメージになります。

 最後のページでは、リュージ少年は、英語メガネだけでなく、イタリア語、タミル語、スワヒリ語、トルコ語、、、、、、、さまざまなメガネの中にいて、いろんな言葉のいろんな見方を知ることが出来そうだ、というところで絵本は終わります。


<つづく>
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2010年12月25日


ぽかぽか春庭「所有格「の」ハッピーホリデイ」
2010/12/25 
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーサー・ビナード講演会(6)所有格「の」ハッピーホリデイ

 私は、ポワポワと綿毛が飛んでいく「たんぽぽ」というかわいらしい名前の花が、英語では「dandelionダンデライオン=ライオンの歯」といういかめしく強そうな名になってしまうことを知り、「英語を使う人は、どうしてこんなかわいい花からライオンをイメージするのだろう」と、不思議に思ったことがありました。もともとdandelionというのはフランス語からの直訳なのだそうですが。それともフランス語だと「ライオン」というのは日本語の獅子とは異なるイメージなのかしら。

 今までの自分が気づかなかった見方、考え方を知ることは、世界を広げ、自分を広げていくこと。母語ではない言葉を知るのは、「コミュニケーションの実用」だけを目的としてしまったら、「母語話者から見たらしょせん二流の話し手」に過ぎない自分を発見するだけに終わります。

 「そうじゃない。異言語を知ることは、自分を知ることなんだ、世界を知ることなんだ。」「多言語教育」のメッカのような外語大総合文化研究所と図書館との共催講演会だから言葉の大切さについて強調したのだということではなく、ビナードさんのいつもの信条をかたってくれたのでしょうが、ビナードさんからの「言語教育を仕事とする者へのエール」のような言葉を聞くことができました。

ビナードさんは、講演の最後にふたつの詩を読んでくれました。「摩天楼の建設」という英語の詩と「の」というビナード作の日本語の詩。「摩天楼の建設」は、またのちほど紹介したいと思います。今回は「の」という詩について。

 ビナード作の「の」という詩は、所有を表す言葉について。英語の「’アポストロフィ」と日本語の「の」を比べて、ビナードさんはこう感じました。
 「’」は「鉤」なので、所有物を引っかけたら決して落とさずに所有し続ける。個人のものは個人のもの。一方、日本語の所有格「の」は所有物を所有者につなぐけれど、ころころと丸まって転げていってしまうイメージ。

 所有格についてのイメージは、春庭も同じような感覚を持っていました。私のものはひとつ転がればあなたのもの。ころころと転がっていけばみんなのもの。

個人と所有物をかっちりと結びつけるアポロストフィS。Obama's carといえば、オバマが所有する車。一方、ゆるい所有の「の」。オバマが所有している車は「オバマの車」ですが、所有以外の意味にも使われます。アメリカで製造された車は「アメリカの車」、「車を製造する」は「車の製造」、大統領であるオバマは「大統領のオバマ」。「の」は、所有だけでなく、なんでも結びつける。
 しかし、「の」についてころころ転がっていくなんて発想をしたことはなかったので、日本語についてのイメージが広がった気分がして、とても嬉しい。

 所有することを表す所有の格助詞「の」
 「の」は、ころころ転がっていく。私のものはみんなのもの。みんなのものは私のもの。分かち合えば、「の」はどんどん転がっていって、人々をつなぐに違いない。

 私のアナタの彼のビナードのホットケーキの牛乳の牛の首のベルの音の響きの流れの時間の中の私。
 アーサー・ビナードに感謝。

 25日はクリスマス。「クリスマス」という外来語は、すでに日本語であり、多くの人にとってこの語にまつわる思い出やイメージが共有されています。言葉も誰のものでもなく、誰もが所有でき、誰もが独自のイメージを抱くことができます。

 クリスチャンにとってはイエスの降誕を祝う日ですし、キリスト教布教以前のヨーロッパ社会や、アジアその他の地域にとっては、太陽がもっとも衰えた後、復活していくのを祝う「冬至祭り」の日です。北半球のほとんどの地域がこの「太陽の復活」を農耕の祭りに取り入れています。冬至祭りのキリスト教的変形がイエス降誕祭。もともとは冬至の祭なのです。(今年の冬至は22日でした)

 皆々さまに「太陽の復活祝い」の喜びの気持ちを送ります。ハッピィホリデイ!メリークリスマス。祝!おひさま復活。おひさまの光と暖かさは誰のものでもなくて、誰でもが所有できます。

<おわり>



語彙論>アジサイをめぐって

2010-09-13 05:36:00 | 日本語学
2010/07/02
ポカポカ春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(1)紫陽花公園

 今年は2月の母の命日にも、4月の姉の命日にも菩提寺へ来られなかったので、6月29日に義叔母の葬儀に出たあと、午後、両親と姉が眠るお墓に行ってお参りをしました。
 墓参をすませ、「紫陽花公園」を妹と散歩しました。紫陽花公園は、菩提寺のすぐ近くにあります。
 朝、激しい雨が降ったあとなので、川沿いの公園は日が差していれば湯気の立ち上るのが見えるのではないかと思うくらい、強い湿気に満ちていました。

 妹は、こどものころ同級の男の子たちが小野池という溜め池でよく釣りをして遊んでいるのを、女の子のグループと遊びながら見ていた、ということですが、そのころ小野池はうっそうとした山の中の、薄暗くちょっと不気味な雰囲気の溜め池でした。今から150年ほど前、天保年間に当地の名主であった小野沢平左衛門が農業用水として構築したと言われる人工湖です。池では鯉の養殖などが行われていたので、子供が釣りをすると叱られる場所だったのですが、大人の目を盗んで釣りをするのが男の子たちの楽しみだったのです。 今では「市民の釣り場」として公開され、池の北側の川沿いの一帯が紫陽花公園として整備されています。

 テレビの「季節便り」などにもこの紫陽花公園が登場することが増え、観光客も多くなったというのに、地元の妹は「子供の頃はよく遊びに来たのに、公園になってからは、来たことなかった」というので、いっしょに散歩したのです。

 近くには観光バスが2台来ていて、「中高年バスハイキング」という趣の人々がバスから降り立ち、添乗員に率いられてぞろぞろ公園に入ってきます。
 「市の花」も紫陽花に指定され、特に「アナベル」と名付けられている真っ白な紫陽花が有名なようです。公園以外に、市内の道の脇にもアナベルがたくさん植えられていました。アナベルはアメリカ原産で、薄緑から真っ白まで、小鞠型の美しい花が見られます。
 アナベルの写真をリンク。
http://annabelle.at.webry.info/200606/article_15.html

 公園内の石碑には、芭蕉が紫陽花を詠んだ句と万葉集の中の橘諸兄のアジサイの歌が刻まれていました。
 芭蕉の句。紫陽花や帷子時の薄浅黄(あじさいや かたびらどきの うすあさぎ)
 橘諸兄の歌。あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ(万20-4448)

 以下、2004年7月13~21日に、カフェ春庭コラムに掲載した「アジサイ色」を再録します。
================
2004/07/13の再録
 都内花名所のうち、アジサイなら白山神社、小石川植物園によくでかける。
 JR王子駅のホームからながめることができる飛鳥山公園は、江戸時代から桜の名所であるが、アジサイも美しい。
 7月11日の朝も、飛鳥山公園のアジサイを見ることができた。盛りのころに比べると、やや色の種類が少なくなった気がするが、まだ十分に観賞にたえる花が残っている。

 いつもホームや電車からながめるだけだったが、今年は初めて、「飛鳥の小径」を歩いてみた。1ヶ月前の6月5日のこと。
 王子駅で下車。高度成長期以前の雰囲気を残す「さくら新道飲食街」をぬけて、飛鳥山公園の崖下を歩く。飛鳥山公園とJR線路の間の小径、「飛鳥の小径」

 アジサイの時期以外では、付近の住民が通り抜けるだけで、通行人は少ないのだが、アジサイが盛りの間は、写真を撮っている人がたくさん。
 三脚のわきを通るにも声かけ道をゆずりあってすり抜ける、ちいさな通り抜けの道。 青い花、ピンクの花、紫の花、ガクアジサイ。様々な色合いを楽しめる。

<つづく>
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2010年07月03日


ぽかぽか春庭「オタクサ」
2010/07/03
ポカポカ春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(2)オタクサ

2004年07月14日の再録
 アジサイの花言葉。「強い愛情」「元気な女性」などのほか「移り気」もあるのは、ひとつの株の花でも、ときには青い花だったり、ときにはピンクになったり、土壌の組成によって、色が変わるため。土壌が酸性かアルカリ性かによってさまざまな色をみせる。

 アジサイ(ホンアジサイ)のラテン学名は、Hydrangea macrophylla。ハイドランジアは水、マクロフィアは容器の意味。たっぷりと水を含んだ、雨の季節にふさわしい名前に思う。
 私が使っている『原色牧野日本植物図鑑』の記述では、Hydrangea macrophyllaはガクアジサイの学名。花が手まり状になるアジサイの学名はHydrangea macrophylla Seringe var.otakusa ハイドランジア・マクロフィア・ヴァル・オタクサ)となっている。
 現在の植物学では、オタクサの名は除かれているそうだが、在野の植物学者として独自の研究を続けた牧野は、「オタクサ」を削ってしまいたくなかったのだろう。

 「 ハイドランジア・マクロフィア・ヴァル・オタクサ」この学名の最後の「オタクサ」は、ヨーロッパにこの花を紹介したシーボルトの日本人妻の名前「お滝さん(楠本滝)」にちなんでつけられたもの。
 シーボルトは医師として江戸末期の長崎のオランダ商館で働いていた。
 シーボルトは、長崎から「日本植物図」を植物学者・ツッカリーニに送った。あじさいの発見者は「ツッカリーニとシーボルト」となっている。

 当時ヨーロッパでは博物学が盛んであり、各国は競って世界各地の植物を蒐集研究していた。世界各地にいた探検家、学者、商人まで、新種の発見に夢中になり、本国へ標本や精密な植物図譜を送付した。新種の植物は「植民地から金を生み出す木」でもあった。
 日本のあじさいが西洋植物学研究者に知られるようになったのは、江戸末期からだが、あじさいは古来から日本の地に咲いていた。日本原産の花。東京や伊豆などで、野生種のあじさいが発見されている。

 奈良時代のあじさいが、万葉集にうたわれている。
 万葉集の編集者とされる大伴家持の歌。あじさいは「味狭藍」と表記されている。(巻四 773)

「言問はぬ木すら味狭藍 諸弟らが 練りの村戸に詐かヘけり(こととわぬ きすらあじさい もろとらが ねりのむらとに あざむかえりけり)大伴家持」
 物を言わない木にさえも、アジサイの色のように移ろいやすいものがあります。ましてや、手管に長けた諸弟の言うことに、私は簡単に騙されてしまいました。

 以下、アジサイの漢字表記について検証する。現在、アジサイは熟字訓として「紫陽花」という表記が定着している。万葉集に記された万葉仮名表記「味狭藍」や「安治佐為」という表記から「紫陽花」という表記に変わったのは、平安時代以後のことになる。

<つづく>
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2010年07月04日


ぽかぽか春庭「あじさいの漢字表記」
2010/07/04
ポカポカ春庭言海漂流記葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(3)あじさいの漢字表記

2004年07月15日の再録
 大伴家持のアジサイ表記は「味狭藍」。もうひとつ、万葉集に知られたアジサイの表記がある。橘諸兄の歌では「安治佐為」という万葉仮名で表記されている。(巻二〇 4448)
(たちばなのもろえ{684~757}、父は敏達天皇の玄孫美努王,母は県犬養三千代。光明皇后(藤原不比等と再婚した三千代の娘・)の兄として、奈良時代に権勢をふるった)

「安治佐為の八重咲く如く弥つ代にをいませわが背子見つつ偲ばむ(あぢさいのやえさくごとくやつよにを いませわがせこみつつしのばむ)」
 この場合の「八重咲く」は、「八重咲きのアジサイ」ではなく、「たくさんの花びらが重なりあって咲いているアジサイ」であろう。

 アジサイの表記について。
 平安時代のお坊さん、昌住が著した「新撰字鏡」では「安知左井」と表記。
 同じ平安時代の「倭名類聚抄(和名抄)」では「安豆佐為」。

 アジサイ。安豆(あつ)は「集まる」という意味。「佐(さ)」は、真を意味する。「為(い)」は、藍(あい)の意。すなわち、「真の藍色(あいいろ)の集まり」という花の様子から、安豆佐為(あつさい)と名がつき、安豆佐為(あづさい)が転訛(てんか)して、アジサイになったのだという。

 明治時代に編纂された「大言海」で、大槻文彦は「あじさい、語源は集真藍(あつさあい)」としている。

 アジサイに「紫陽花」の漢字をあてることについて。
 平安文学は、中国唐詩の影響を強く受けている。ことに中唐の時代の詩人白居易(白楽天772-846)の漢詩文集「白氏文集」は、人気が高かった。白居易の詩がアジサイに関わっている。
 10世紀に成立した「和名抄」に『白氏文集律詩に云(い)う、紫陽花、和名、安豆佐為(あつさい)』と書かれている。倭名類聚抄(和名抄)の編纂者は源順。

 源順は、白居易の「白氏文集第20巻」の中にでてくる紫陽花をアジサイのことを指していると思いこみ、「紫陽花=アジサイ」とした。
 源順の記述により、「白氏文集」に出てくる紫陽花がアジサイのことだと、皆も疑わなくなった。現在ではアジサイの漢字表記は紫陽花が一般的。

 しかし、ちょっと待って。違うのだ。
 実は、この「白氏文集」の中にでてくる紫陽花(ツィヤンファ)がどのような花をさしていたのかは、わかっていない。
 源順が「紫陽花とは、わが国の安豆佐為のこと」と書き残したのは、彼の思いこみによってであり、根拠があってのことではない。源順は中国へ行ったこともなく、白居易が詩に残した紫陽花を見たこともない。

<つづく>
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2010年07月06日


ぽかぽか春庭「白居易の紫陽花」
2010/07/06
ポカポカ春庭言海漂流記葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(4)白居易の紫陽花

2004/07/16の再録
 白居易が詩にした紫陽花が、紫色の花だったことだけは確かなのだが、その花が、はたして紫色のアジサイだったのか、ライラックのような紫色の花だったのか、はたまた別の紫色の花だったのか、記述は何もない。
 「白氏文集章巻二十」には、白居易が紫色の花を見て、だれもその名を知らなかったので、「紫陽花」という名をつけた、と書かれているだけだ。

 「紫陽花」の漢詩の前に、前書きがある。
招賢寺有山花一樹、無人知名(招賢寺に山花一樹あり、名を知る人無し)
色紫気香、芳麗可愛、頗類仙物(色紫にして気香しく、芳麗にして愛すべく、頗る仙物に類す)
因以紫陽花名之(よって紫陽花を以てこれを名づく。)
「招賢寺に、名前が不明の紫色の花木があった。その名を知る人がいない。色は紫で芳香がある。芳しく麗しい愛すべき花。まるで、人間界とは異なる仙界の花のようだ。よって、この花を紫陽花と名付けた。」

「白氏文集」より「紫陽花」
何年植向仙壇上(いづれの年か植えて仙壇の上に向かう)
早晩移栽到楚家(いつしか、移栽して梵家(てら)にいたる)
雖在人間人不識(じんかんに在りといえども人識らず)
与君名作紫陽花(君に名づけて紫陽花となさむ)
いつのころからか仙壇に植えられていた
いつしか移しかえて、寺に植えられた
人の世界に来たけれども、人はその名を知らない
この花に名を与えて紫陽花と呼ぼう(春庭拙訳)

 私は、この白居易の前書きを読んで、「?」と思った。「色は紫にして気は香る」と書かれているからだ。
 白氏文集「紫陽花」前書きにある「芳麗愛すべし。すこぶる仙物に類す」を読むと、あれ?アジサイって、そんなに香りの強い花だったっけ、と疑問が生じる。
 白居易が「色は紫にして気は香る」と書き留めたのは、その紫色のあざやかさと同等に、周囲の空気を満たす香りが印象的だったことを想像させる。

 薔薇やライラック、百合のカサブランカは、その花の下にたてば、芳香に包まれる。しかし、アジサイの花に近づいて香りを確かめても、そんなに強い芳香は感じない。
 「気が香っている花」の香りに包まれて「ここは人間の世界じゃない、これはまるで仙人の世界のようだ」なんて気持ちにはならなかった。
 アジサイの色はたしかに美しいが、「芳麗愛すべし」とは印象が異なる。

<つづく>
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2010年07月07日


ぽかぽか春庭「あじさいとライラック」
2010/07/07
ポカポカ春庭言海漂流記葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(5)あじさいとライラック

2004/07/17の再録
 紫色で香りが強い花といえば、むしろライラックの種類に近いんじゃないかなあ。だが、確実なことはわからない。白居易が書いているのは「色は紫、香りが強い」ということだけで、花の絵を残しているのではないから。

 私が出講している大学のひとつ。正門脇バス停に、ライラック(リラ)の群落がある。毎春バス停周囲が満開のライラックに包まれ、なかなか来ないバスを待つ間、馥郁とした香りを楽しむことができる。
 白居易が「色は紫にして気は香る。芳麗愛すべし」と言ったのは、この花かも知れないなあ、と思いつつライラックの香りを楽しんできた。

 白居易は紫陽花の姿形をどのような花であるとも描いていないのだから、「気は香る」という表現を「芳香がある」と受け取らず、「色の紫から、周囲の気が香るように感じる」と、色彩からくる感覚を「気が香る」と表現したのだ、と考えることも不可能ではない。

 源順も、白居易が描き出した花を確実に知っていたのではないが、彼自身の詩への感受性によって、この紫色の花を「安豆佐為(あぢさゐ)」と受け止めた。
 源順がアジサイの漢字名を紫陽花と思いこんで以来、日本ではアジサイ=紫陽花となり、「安豆佐為」という万葉仮名を押しのけて浸透した。
 定着してしまえば、それが「現在の日本語表記」となる。
 日本語の漢字表記が成立するには、様々な要素がある。だから、「現時点では、アジサイの漢字表記が紫陽花である」というのは、それでよい。

 ただ、白居易の「紫陽花」は、直接に日本原産の花「アジサイ」をさしていたのではなかった、という事実も知っておきたいと思うのだ。
============
2010/07/07の付け足し
 和語の「匂ふ(にほふ)」の原義は丹色(にいろ=赤土の色)が「秀(ほ)ふ=特別に秀でている」という意味なので、「匂う」は「美しい色が秀でている」という解釈ができますが、中国語の「香シャン」は、「嗅覚による香り」の意味になります。ただし現代中国語では「よい香り、良いにおい」は「香味xiāngwèi」ですが、唐代の「香」に別の意味があったかどうかまでは、春庭の貧弱な漢語知識ではわかりません。
===========
2004/07/20の再録
 私は、白居易の「紫陽花」は、香り高いライラックのような花だったのかも知れないなあ、と感じた。感じただけであって、絶対にそうだという証拠もない。

 千年前に、源順が「アジサイ=紫陽花である」と書いたら、だれも異議申し立てをしなかった。
 日本の文芸において、自分の感受性を発揮する以上に、「おつきあいの言葉やりとり」「同じ言葉をやりとりする仲間同士の交流」が重んじられる面があったから、紫陽花は別の花かも知れないと、だれも言い出さないうちに、いつのまにかアジサイといえば紫陽花になった。

<つづく>
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2010年07月09日


ぽかぽか春庭「遣唐使とあじさい」
2010/07/09
ポカポカ春庭言海漂流記葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(6)遣唐使とあじさい

2004/07/20の再録
 購読している新聞に、陳舜臣氏のエッセイが掲載されていた。
 2004年6月7日付の陳舜臣の文に「神戸市の市花は紫陽花」という紹介があり、紫陽花の名付け親として白居易の漢詩が紹介されていた。
 中国文学・歴史にも日本史にも造詣が深い氏のエッセイである。白居易の詩に関する部分は問題ない。

 しかし、文中に「遣唐使や水夫の衣服や荷物についた(日本原産のあじさいの)種が中国の沿岸地方で、しぜんに根付いて花をさかせたらしい」とあるので、陳氏は「白居易が実際に「安豆佐為」の花をみて紫陽花と名付けた」として、この文を書いているのではないかと推察された。
 遣唐使が唐のみやこ長安まで出かけているのだから、港町や長安までの道中に、安豆佐為(あづさゐ)の種がこぼれることも十分に考えられる。だから、千年前の上海の南200キロの港町杭州近くの西湖のほとりに、アジサイが咲いていたと想像することもできる。

 だが、「安豆佐為(あづさゐ)=紫陽花」というのは、源順の「思ったこと」であって、白居易が紫陽花の姿形を描写したわけでなく、「紫陽花が安豆佐為(あづさゐ)である」と、断定することもできない。
 白居易が「紫陽花はこの花」と指定しているのではないから、「紫陽花=アジサイ」かもしれないし、ライラックのような香り高い花かも知れない。

A:白居易は見知らぬ花を見て、紫陽花と名付けた 
B:源順は、紫陽花=アジサイと思った 
というA,Bから、
C:白居易が見たのは日本原産のアジサイである、
という結論が導き出せないことだけは、確認しておきたい。

2004/07/21の再録
 現代中国語では、アジサイは綉球科(八仙花科、虎耳草科)、綉球属(八仙花属)。
 綉球、八仙花、大八仙花、八仙綉球、繍球花、洋繍球、紫陽花、紫繍球、瑪哩花、天麻裏花、雪球花、粉團花などと表記されている。(私の手持ちの岩波日中辞典では、八仙花、綉球のふたつのみ)
 「紫陽花」の表記は日本からの逆輸入。「天麻裏花」は、「手鞠」の形の花、というこれも日本語からの表記。

 中国語を確認したり、アジサイの表記について検索をかけて確認するうち、私が自分の感覚で「白居易のいう香り高い紫色の花は、アジサイではなく、ライラックのような花」と感じたことが、案外まとはずれでもないことがわかった。

<つづく>
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2010年07月10日


ぽかぽか春庭「牧野富太郎のアジサイ」
2010/07/10
ポカポカ春庭言海漂流記葦の小舟ことばの海を漂うて>再録・紫陽花(7)牧野富太郎のアジサイ

2004年07月21日の再録
 植物学者の牧野富太郎が「植物一日一題」というエッセイに「千年前の中国にはアジサイは咲いていない」という長年の植物研究結果を書き留めている、と知った。私が愛用している植物図鑑は牧野の編纂による『学生版原色牧野日本植物図鑑』というハンディタイプの図鑑。しかし、エッセイ『植物一日一題』は読んでいなかったので、いつか読んでみたいと思う。

 また、植物学者湯浅浩史さんが、「白居易のいう紫陽花はライラックと思う」という主旨の文を書いていたことを知った。源順とは異なる感覚で、紫陽花をとらえていた人がいたことに感激!ライラックは片仮名表記なので、西欧の花かと思いこんでいたのだけれど、これも思いこみのひとつ。ライラック原産地は中国という。
 湯浅先生は植物学の権威だけど、「権威者だから、その言葉を信じる」というのじゃありません。植物には素人のオバハンが何となく感じた疑問を考えていったら、植物を長年研究している人と同じ結論に達したことの驚きと、同じ感覚を共有できた!という喜び。

 「アジサイの漢字表記は紫陽花」という「皆があたりまえと思っていること」でも、「ちょっとひっかかる」と感じた。
 「アジサイは雨のなかや湿った場所に咲いているのがぴったりするのに、なぜ、陽の花なのだろう」と感じたり、「芳香のある花」と白居易が書いているのに、なぜ、安豆佐為(あづさゐ)が紫陽花なのだろう、と思った。素朴な疑問を解決しようとあれこれ探っていったら、いろいろな事実がわかってきた。

 自分の心身でものごとを受け止めて、疑いを持ち、疑義提出するにはエネルギーがいる。約束事にしたがい、大勢にしたがってつつがなく生活し言葉を交わし合う方が、はるかに楽しく心地よく物事が運ぶ。
 だが、「つつがなく暮らすために、すでに決まっていることや考え方に従う」だけではいられない時もある。「思考を停止し、大勢に従うほうが楽」と思えるときも、一歩立ち止まり、自分の考え感性を信じていきたい。
 
 飛鳥の小径。アジサイは崖下の小径に咲き誇る。それぞれの株にそれぞれの色。
 様々な色を楽しむと同時に、私は私の感受性でものごとを受け止めようと願う。八方へアンテナをはり、さまざまな考えや感じ方を自分なりに受け止め、自分なりに考えていこう。

 アジサイのさまざまな発色は、土壌の酸性アルカリ性によるのだそうだが、私たちの思考感性は、サンセイもハンタイも、それぞれの自由に。
 世の中全体が一色に染まらぬことを願いつつ、私はさまざまな色を楽しみ、さまざまな色合いをながめることを喜びとしていく。

「紫陽花や 藪(やぶ)を小庭の 別座敷」松尾芭蕉
「紫陽花の 末一色(すえひといろ)となりにけり」小林一茶
「紫陽花や はなだにかはる きのふけふ」正岡子規
 「集真藍(アジサイ)や株ごとの色 わたし色」春庭
 「陽を放つごとく雨中に咲くあじさい」春庭
==========
2010/07/10
 この「アジサイ色」を書いたのは、2004年7月の参議院選挙の投票が終わり、自公与党の圧倒的多数という結果になったあと、「こんなふうに与党一色になったあと、いったいこの国はどうなるんだろう」と感じたころでした。小泉内閣が大人気を誇っていた頃です。今、あのときの内閣が行った「民営化」などのツケを、国民は「失業の増加、格差拡大、景気低迷のまま国の借金増大」によって支払っているわけです。

 さて、2010年7月の参議院選挙を明日に控えて、私たちは「自分の色」を見つけることができたでしょうか。熱狂的なひと色に染められることなく、ひとつひとつ自分の身近な問題について、どの政策が一番自分の考えに近いか、選挙公報とにらめっこしています。

<2004年7月「アジサイ色」再録おわり>

アンゼリカとスタルヒン

2010-09-09 12:51:00 | 社会文化
2010/07/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アンゼリカ(1)蕗とスタルヒン

 去る5月、夫が知人から蕗をもらいました。夫は事務所から電話してきて「食べるなら取りに来ること」と言う。「煮てあるならもらうけれど、生なら皮を剥いたりするのが面倒だからどうしようかなあ」と返事をすると、「煮てあるなら、すぐここで食べてしまう。タイ語のクラスに来ている人が、庭にたくさん生えたってクラスの皆に配ったんだよ。奥さんには面倒かけますが、と言っていた。いらないなら、捨てるけど」という。

 確かに蕗の皮むきは面倒だ。子供の頃、さやいんげんの筋をとるのと、蕗、とうもろこし、筍などの皮むきはテレビをみながらの子供の仕事だったのだけれど、考えてみると、料理する母も面倒だったので子供のお手伝い項目にしていたのかも知れない。
 捨ててしまうと言うのももったいないので、事務所まで出向いて蕗の束を受け取りました。なにせ夫は事務所に住みついているので、家に戻ってきませんから。

 4月にタケノコを煮るにあたって、しばらく生のタケノコを煮たことがなかったので、ゆでた後、糠入りの湯にさめるまで浸けておくというひと手間を忘れてしまい、エグミが残ってしまい、娘もむすこも食べてくれませんでした。失敗の巻。

 今回は、「蕗の下ごしらえ」とか「おいしいふきの煮方」などのサイトやユーチューブで「蕗を煮るおっさん」というビデオ投稿までチェックしてから、慎重に下ごしらえしました。
 蕗は、まな板の上で塩をふって板ずりしてからゆでる、という手順どおりに茹で、皮むきは「伝説の投手スタルヒン」という番組を「ながら見」しながら皮剥きしました。酒醤油砂糖鰹節で煮て、今度はおいしく煮上がったので、息子は「おいしい」と食べました。娘は元々山菜は嫌いなので食べません。

 私は蕗の甘露煮が好きです。この甘露煮アンゼリカは、日本の蕗でもおいしいのですが、西洋フキの蜜煮が本来のアンゼリカ。本来のアンゼリカはクッキーやケーキの中にちょびっと入っている程度で、私が欲するように「おなかいっぱい食べたい」という欲望には不向き。日本の蕗の甘露煮はアンゼリカの代用品にしかすぎません。でも、ちょっぴりじゃなく、バクバク食べたい人には、蕗の甘露煮で十分です。

 英語でバターバー(Butterbur)と呼ばれる西洋フキは、日本の蕗とは別種のハーブ。夏にバターをフキの大きな葉で包んで保存していた事から、この名前がついたそうです。フキにはいろいろな薬効があるので、バターも酸化せずに保存が効いたのでしょう。ヨーロッパでは昔、頭痛、熱、咳に効果のある薬草として使用していましたが、バターバーには「ペタシン」という抗炎症作用抑制の効果をもつ物質が含まれていることが判明しています。ペタシンは強い炎症反応を起こす物質「ロイコトリエン」の分泌を抑制し、花粉症やアレルギーによる鼻づまりの緩和にも効果があり、脳血管の状態を整えてくれる働きにより、偏頭痛予防効果もあるそうです。
 
 日本の蕗は西洋フキとは別種で全国に生えていますが、中でも秋田の蕗は2メートルの高さになり、葉は雨の傘代わりに使えるといいます。

 蕗を味見して、テレビで見たスタルヒン投手と家族についてグーグルチェック。スタルヒンとフキのつながりは、彼のお墓がフキの産地秋田のお寺にあるというだけですけれど。
 秋田に住む人のブログやウィキペディアなどで、スタルヒン一家の物語を知ることができました。私が物心ついたときには、スタルヒンは現役引退後40歳で交通事故死(一説には自殺的交通事故)しており、すでに「伝説の投手」でしたから、その名は知っていても一家の話までは知りませんでした。彼は日本人となることを望んでいたのに、どうして最後の最後まで日本国籍を与えられなかったのかなど、知ることができました。

<つづく>
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2010年07月13日


ぽかぽか春庭「スタルヒン一家のお話」
2010/07/13
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アンゼリカ(2)スタルヒン一家のお話

 スタルヒンのお墓は、秋田の雄物川町今宿の崇念寺に建立されています。スタルヒンの後妻高橋久仁恵さんの弟高橋大我さんが住職を務めている寺です。

 ヴィクトル・スタルヒンは、1916(大正5)年、ロシア生まれ旭川育ちのプロ野球投手。戦前戦後の通算303勝。そのうちの完封勝利83勝は、今も塗り替えられておらず、この先も残るであろう大記録です。

 ヴィクトルの出生地はモスクワから東に1800キロ離れたウラル山脈東側のニージニタギールというところ。モスクワから飛行機で2時間半で着くエカテリンブルグ。そこから更に車で北に2時間走ったところです。
 1919(大正8)年のロシア革命後、ヴィクトルの両親は迫害を逃れて流浪し、最終的には幼いヴィクトルを連れて日本に亡命。1929(昭和4)年ヴィクトル9歳のとき旭川に移住しました。旭川の小学校時代から野球に才能を見せ、旭川市は、スタルヒンを郷土の誇りとして球場に彼の名をつけています。

 スタルヒンの生涯は、私が見たNHKBSの番組「野球がパスポートだった」のほか、2009年2月にはテレビ朝日でも『心の中の国境~無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折』として放映されており、さまざまな情報を得ることができます。

 スタルヒンが軽井沢に「敵性外国人」として幽閉され、食べるにも事欠いた時代に不仲となり離婚した最初の妻レナ。レナの生んだジョージは再婚した久仁恵が育てたそうですが、ジョージの消息は検索しても「テレビ関係の仕事をしている」という以外には、わかりませんでした。娘のナターシャは父についての本も書いているし、ホリスティック栄養学の事業を手広く展開している人で、マスコミに登場することもあるのですが(NHKBSの番組にも登場)、ジョージについては番組でも触れられていませんでした。

 高橋久仁恵さんは、ロシア名はターシャ。秋田出身の日本人と亡命ロシア女性の間にハルビンで生まれました。
 後妻ターシャは、スタルヒンの晩年を支え、夫の死後、懸命に働き子供を育てていましたが、働きづめだった末に不治の病に倒れ、働くことのできない自分に絶望して自殺したそうです。ナターシャは日本航空のスチュワーデスという恵まれた職を得て働いていましたが、母の死に衝撃を受け、西洋医学では乗り越えられない病と向き合う中で、ホリステック栄養学という分野に進出します。栄養補助食品の販売や鍼灸院、エステサロン、日焼けサロンなどを経営し、自社ビルを建てるほどになりましたが、バブル後には銀行の貸しはがしにあいビルも手放しました。4億円を銀行から借り入れて手に入れたビルは、売却したときは4千万円。浮沈の末、借金を返しながら栄養学の研究を続け、今は講演活動などを行っています。
http://www.nstimes.info/natasha_profile.html

 さて、蕗とスタルヒン。つながりは「秋田」のみですけれど、私の「検索遊び」の一日、蕗とスタルヒンはほどきがたく結びつきました。もしもスタルヒンのお墓にお参りする機会があったら、蕗の甘露煮をお供えします。スタルヒンがアンゼリカを好きだったかどうかはわかりませんが、私が好きなので。

<つづく>
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2010年07月14日


ぽかぽか春庭「二人静」
2010/07/14
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>アンゼリカ(2)二人静

 新聞に出ていた短歌数首。タイトルに「Chloranthus serratus」とある。中の一首「半日をすごしたころの白色の二人静の花を見ている」
 知らない言葉があるとすぐに検索したくなる。「Chloranthus serratus」とは何じゃいな、と、さっそく検索する。
 「二人静」のラテン語学術名でした。英語名はなし。二人静はセンリョウ科の多年草。日本の山の暗がりにひっそりと咲く白い花です。緑の葉の中央に花穗が二手に分かれて伸びるので、この名がついたのでしょう。
 私がよく利用しているウェブ花図鑑に出ている「二人静」。
http://www.hana300.com/futari.html

 能に『二人静』という名作があります。世阿弥の作と伝えられている作品のひとつです。
 能の『二人静』の見所は、義経記などに名高い逸話を元にしています。捉えられた静御前が、頼朝の前で臆せず義経を慕う心を歌い舞った、という伝説をもとにしています。
 吉野の山里に住む菜摘女(なつみおんな)に静御前の霊がとりつき、女は静の亡霊が言ったことばを里の神職に伝えようとします。神官がただならぬ様子となった菜摘女に問いただすと、女は「自分は静だ」と告げます。静御前が神社に奉納した衣装を神官が女に与えると、女は舞い始めます。そこへ静御前の霊が現れ、吉野山奥での義経との逃避行、頼朝に舞を強要され心ならずも舞を披露しなければならなくなったときの苦しさを語り、菜摘女と静が二人してぴったりと形をそろえて「相舞い」を見せます。

 地謡:「それのみならず憂かりしは、頼朝に召し出だされ、静は舞の上手なり、とくとくとありしかば、心も解けぬ舞の袖、返す返すも恨めしく、昔恋しき時の和歌」
 静「しずやしず しずのおだまき繰り返し むかしを今になすよしもがな」
「物事に憂き世のならいなればと、思うばかりぞ山桜、雪に吹きなす花の松風、静が跡を弔いたまへ」

 和名の「ふたりしずか」という名、能の作品から命名されたのでしょうが、それでは、二人静という名を得る中世以前には、どんな名で呼ばれていたのかしら。それとも名前もなかった花だったのか。「名も無き花」として咲くにふさわしい地味な花です。ただの「野の花」で、名もない花だったというのが当たっているような気もします。たいていの野の花は、薬草にでも使われる草花以外は、特に名付けもされずに「野の花」であったのでしょうから。

 今、「何でもない雑草が生えている何でもない野原」や「見栄えのしない草ぼうぼうの河原」など、見た目はあまりパッとしない草っぱらの価値が見直されています。手入れのされた花壇が人目を引くのと異なり、名もない草花が生い茂る野原や河原。しかし、野っぱらや空き地の雑草も、実は環境を維持するためには大切な「生態系」のひとつに組み込まれていたことが環境学の研究進展によって一般の人にも理解されてきたのです。

 ネジバナ、ノアザミ、チガヤ、ススキなどの「何でもない草花」を復活させて在来種の草原を保全する取り組みも始まりました。品種改良を重ねた牡丹や薔薇や菊などの園芸種も見事な美しさを見せ、私たちを楽しませてくれますが、茅萱や野薊の生い茂る素朴な光景もいいものです。

 二人静も、目立たないひっそりした花ですが、いい名前がついたおかげで、歳時記にも採用されました。晩春の花で、5月6月まで花を見ることができます。
 花薊も二人静もなき野にて ひとひ昼寝の独り身の幸(春庭)

<おわり>

日本児童文学における外国文学移入の受容と変容-児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に」

2010-09-08 06:36:00 | 日記
2010/07/16
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容「児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に」(1)レミとネロ

 2010年7月3日付け朝日新聞2面の「ひと」欄に、「本国での不人気はなぜ「フランダースの犬」の謎に挑むアン・ファンディーンダレンさん(39)」という人物紹介コラムがありました。
 日本人観光客がルーベンスの絵が掲げてある教会を訪れるのは、例外なくこの絵の存在を「フランダースの犬」のラストシーンで知ったことによるのだということ、本国では知られていない「フランダースの犬」が、なぜ日本では大人気なのか、という問題について取り組んだ人がいます。そう、私春庭もそのひとり。
 ファンディーンダレンさんの紹介を読んで、私もフランダースの犬について書いたことがあったのだ、と思い出しました。発表レポートを掲載しておきます。

 以下の文章は、大学院博士課程単位取得のためのレポートとして2008年に執筆したものです。単位はもらえましたが、ゼミで口頭発表のあと、批判点を整理し追加執筆しようと思っていたのですが、その余裕のないまま放置してしまいました。
 以下の掲載は、口頭発表原稿であるため、文体は「デス・マス体」です。「フランダースの犬」のネロと「家なき子」のレミを、日本社会はどのように受容してきたかという「外国文学の受容と変容」についての論考です。
============

1 家なき子
1-1 レミの受容
 明治時代には、子どものための物語も、欧米からの翻訳物語や翻案ものが流行しました。
 『家なき子』のお話。少年レミが、苦労の末に実の母ミリンダ夫人に巡り会う「母さがし物」です。
 原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。
 1903(明治36)年、読売新聞記者の五来素川が翻案し、「未だ見ぬ親」と題して発売されました。

 主人公レミの名は「太一」に、太一が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」。太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」と、すべて日本を舞台にしたものとして翻案されています。

 この「太一の物語」につよく心を動かされた小学生が東北にいました。
 1905年、小学校3年生だった宮澤賢治は、担任教師だった八木英三教諭が教室で読み聞かせてくれたこの物語に深い感銘を受けました。
 後年になって、賢治は八木教諭に会った時、自分の童話創作の動機を次のように語っています。(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』による)

 『 私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分、先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。 』
 翻案された欧米の児童小説が、東北花巻の小学生の心に残る。彼はその後『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、独自の作品をつぎつぎに生みだしていく。
 翻案小説が、他国に根を張り、それが新たな物語の種として育っていく、ひとつの典型がここに現れています。

 1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で、菊池幽芳が同じ物語を「家なき児」という題名で発表し、1912年に春陽堂から発売されました。以後、この「家なき子」という題が定着しました。
 現代日本の『家なき子』ファンにとっては、アニメの「家なき子、レミ」です。全51話の放映。日本テレビ系列で1977年10月2日から1978年10月1日まで。

<つづく>
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2010年07月17日


ぽかぽか春庭「ネロの受容」
2010/07/17
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(2)ネロの受容

2 ネロの受容
 このような「翻案もの」の中で、近年の傑作といえるのは、『フランダースの犬』です。
 原作は、イギリスの女性児童文学者ウィーダOuida(1839~1908)の短編『フランダースの犬A dog of Flanders 』
 日本の翻案テレビアニメ作品は、52話。

2-1 パトラッシュ
 1975年1月5日から同年12月28日まで、フジテレビ系列の「世界名作劇場」枠で放映されたテレビアニメシリーズ『フランダースの犬』は、短編だった原作を、日本文化にうまく適合させて、長編アニメにしてあり、翻案として成功をおさめた作品のトップクラスだと思います。

 このアニメの大きな特徴はふたつ。
 主人公ネロの年齢が、原作では15歳、アニメでは10歳であること。 
 アニメの第1話~40話は原作にはなく、アニメのオリジナルストーリーだ、という2点です。
 ウィ-ダの『フランダースの犬』とアニメ『フランダースの犬』の差は、同じ翻案物であるシェークスピアの『オセロ』と、川上音次郎貞奴一座翻案劇『オセロ』の差より、はるかに大きく、主人公の名前や地名を翻案した『未だ見ぬ親』と『家なき子』より、ずっと大きい。
 この差を無視して、ウィーダ原作の読者受容とアニメ作品「フランダースの犬」人気を比較することはできません。

2-2 検証フランダースの犬
 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成しました。
 以下、読売新聞の特派員による記事(ブリュッセル=尾関航也)(2007年12月25日11時39分 読売新聞)より引用。
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  ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36歳)。
  制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

  物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。
  原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。

  米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。 悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。
  ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

  プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36歳)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
  上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月(2007年12月12日)からインターネットなどで販売されている。
=============

<つづく>
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2010年07月18日


ぽかぽか春庭「ネロとアロア」
2010/07/18
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(3)ネロとアロア

2-3 ネロとアロア
 
 アントワープの大聖堂でルーベンスの『キリストの降下』の絵を見て涙を流す日本人観光客の何人がウィーダの原作を読んでいるかは、不明です。おそらく日本人が涙を流すほとんどは、ウィーダの原作を読んでのことではなく、アニメ「フランダースの犬」を見てのことです。
 私自身、原作を読んだのは小学校のころであり、それから一度も読み直さなかった。今回のレポート執筆のために、50年ぶりに読み返しました。

 岩波少年文庫『フランダースの犬』、すぐに読み終わります。文庫95ページ分の、あっという間に読み終わる作品です。
 アニメ作品は1年間52話が放送されましたが、そのうちの原作相当部分は42~52話だけなのです。

 もし、原作通りにネロとパトラッシュの物語がアニメになったとしたら、これほど多くの人々が「もっとも心に残るクリスマスの物語は、大聖堂でルーベンスの絵を見上げてほほえんで死んでいくネロとパトラッシュ」という気持ちを持ち続けたかどうか、疑問です。

 原作ではネロは15歳になっています。アロアは12歳。原作でアロアの父親コゼツのだんなが、二人の年齢についての心配を妻に語る部分があります。
 『 コゼツのだんなは、とても心を悩ませながら家に入りました。その晩、粉屋は妻にこう言いました。「あの若者をアロアに近づけさせてはいけないよ。将来問題が起きるかも知れん。ネロは十五で、アロアは十二だ。ネロは、格好もよくて、なかなか美男子だからな。」 』

 原作が書かれた当時のヨーロッパで、15歳というのは、庶民階層の男子が自立してしかるべき年齢です。自分の人生を自分で開拓していくべき少年期から青年期への移行期間にあたっています。
 翻訳されて日本に移入された明治の日本でも、15歳はけっして「子ども扱い」される年齢ではありません。中学校への進学率はまだ低く、12歳で小学校を卒業したあとは、一人前の労働力として期待されました。

 また、ネロが15歳だとすると、12歳のアロアとふたりだけで親しくすることを心配する親の気持ちもわかり、アロアの父親が、ネロに苦言を呈するのも頷けます。年頃の娘をもった父親なら、15歳の男の子が自分の娘と二人でいっしょにすごすことを快く思わず、「うちの娘とつきあうな」と言うでしょう。

 アニメでは、ネロは10歳、アロアは8歳に設定されています。「15歳と12歳」に対して、「10歳と8歳」、この年齢設定の意味は大きい。10歳は、まだまだ自立するにはむずかしい年齢であるし、アロアとふたりっきりですごしていても、引き裂かれなければならない年齢には思われません。

<つづく>
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2010年07月19日


ぽかぽか春庭「ネロの時代」
2010/07/19
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(4)ネロの時代

2-3 ネロの時代
 『フランダースの犬』の作者、英国女流作家ウィーダ(1839~1908本名はド・ラ・ラメー マリー・ルイーズ)は、19世紀、ヴィクトリア女王の時代の人です。ウィーダが作家として活躍したころは、日本ではほぼ明治時代に匹敵します。この時代のイギリスにおいて、学校教育を受けて字が読める層と、読めない層の階層差は、現代では考えられないくらい大きなものでした。

 ウィーダの時代の考え方によれば、中産階級の子弟なら、学問を身につけて己の社会的地位を獲得すべきだし、土地財産をもたない下層階級の子どもなら、手に職をつけ一人前の職人になるなど、自立するための過程が必須でした。絵が好きなら、マイセン陶器などの絵付師に弟子入りするとか、タペストリーの下絵職人の親方の下で働くとか、なんとかツテを求めて、手に職をつけるよう家族が図るところだったでしょう。

 しかし、原作では、15歳のネロの唯一の家族ジェハンじいさんは、物語の最初からすでに80歳をすぎた老人であり、ネロの将来のために何かしてやれる状態ではありませんでした。牛乳配達ができないほどジェハンの身体が弱り、ネロが6歳で牛乳配達の仕事をおじいさんから引き継いだあとは、ほとんど寝たきりになっています。
 動けるうちにネロのために、コゼツ旦那に下げがたい頭でも下げるとか、教会が嫌いでも牧師に頼み込むなりして、ネロを徒弟奉公に出すよう、しておくべきだったのでしょうが、そうする前に病にたおれたてしまいました。ネロは自分の身の振り方について誰にも頼れず、親戚もいない村の中で自立の方法を探る機会はまったくありませんでした。

 ジェハンじいさんは、「ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、私も安心してお墓にいけるというもんだよ」と、ネロに語りかけました。兵士として働いた後、ついに自分の土地も持たずに一生を終えようとしているジェハンにとって、ネロが自作農になるというのが、最高の夢だったのです。

 ネロは、「絵を描きたい」などとジェハンに語ることは、ジェハンを困らせるだけだと思っていました。また、徒弟奉公に出てしまえば、寝たきりのジェハンの世話をすることができなくなってしまいます。ネロにとって、ジェハンとパトラッシュとともに小さな小屋で生きていくこと以外の望みは、ひと目アントワープの教会の中にしまわれているルーベンスの絵を見たい、ということだけでした。「絵を描いて身を立てる」という方法をさがすなど、ネロ自身に思いも寄らぬことだったのです。

 原作で、ウィーダはネロについて以下のように書いています。
 『ネロは、貧しく育ち、運命にもてあそばれ、読み書きも教えられず、誰にも顧みられませんでしたが、その見返りに、いや、災いだったかも知れませんが、「天才」と呼ばれる才能を授かっていました。誰も、そのことを知りませんでした。ネロ自身も全く。誰も、そのことを知りませんでした。』

 ネロの画才に気づいたのはアロアの父、コゼツ旦那だけでした。しかし、コゼツにとって「絵を描くなどということはよくないことだ。絵を描いている間は労働せず怠けていることになる」ことであり、絵描きなどは乞食よりもっとタチの悪い存在と思えるものでした。
 ネロが暮らす小屋は、わずか20軒ほどの農家がある小さな村です。村一番の金持ちは、風車小屋を持ち粉屋を営むコゼツ旦那。しかし、コゼツは、ネロの画才に気づきながら、だから、けっして娘のアロアに近づけてはいけないと、妻に命じました。

 ネロの村の人々は、ネロたちが牛乳運びの仕事でほそぼそと暮らしを営むことを助け、パンやスープやたきぎなどを恵んでくれる人もいました。しかし、ネロの将来を考えてやれる余裕のある人はいませんでした。一番余裕があったコゼツ旦那は、ネロの将来より、「娘のアロアに有利な結婚をさせてやりたい。見た目がよくきれいなだけで金のないネロのような貧乏人とつきあわせてはいけない」という現実的な問題を優先させました。

<つづく>
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2010年07月20日


ぽかぽか春庭「女流作家ウィーダの時代」
2010/07/20
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(5)女流作家ヴィーダの時代

2-4 女流作家ウィーダの時代
 「フランダースの犬」の作者ウィーダが作品を発表したころは、女性がようやく社会に進出できるようになった時代でした。女性の社会進出には、女性も識字教育を受けるようになったことの影響が大きい。読み書き能力(リテラシー)は、社会進出の第一の手段です。

 19世紀ヴィクトリア女王の時代以前の英国女性の識字率は、とても低いものでした。農民男性の識字率も低かったですが、さらに農民女性は低い識字率でした。そして驚くことに貴族階級の女性の識字率も日本のように高いものではなかったのです。イギリスの貴族階級女性にとって「字を読み書きする」などという男性のようなリテラシーを持つことは、女らしくないことでした。「右筆(ゆうひつ)=貴人のために読み書きをして仕える使用人」を雇うことが貴族女性の証だから、自分自身が文字の読み書きをする必要はなかったからです。手紙も領地の相続に関わる公文書も、信頼できる有能な右筆に口述筆記をさせれば間に合いました。

 例をあげるなら、17世紀初頭、イギリスの名家ライル卿夫人の娘アン・バセット。彼女は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(世継ぎのエドワード6世を生んで1ヶ月後に死去)に使えた女官であったけれど、「自分の名前しか書けない」と述べています。手紙は従者に口述筆記させていました。

 日本の上層階級の女性、特に宮中に仕えるような身分の女性たちは「女房奉書」という天皇の勅書に匹敵するような重要文書を書きこなすことが必須の教養とされていました。また農民や商人階級の女性でも寺子屋などで文字教育を受ける機会を得た場合、伊勢参りの旅行記を自ら執筆するくらいの文章力を持っていました。たとえば、江戸後期の福岡の商家のおかみさん小田宅子は、歌仲間の友人3人にお供3人を伴い、1841(天保12)年に旅行を敢行し、伊勢参り、長野善光寺参り、日光、江戸見物と、3200kmにわたる旅を旅行記『東路日記』に書き表しました。同行の桑原久子も『二荒詣日記』に書き、江戸女性の文章能力の高さを後世に残しています。
 江戸時代の識字率は、男女とも世界的に見て、日本は最高レベルであり、明治の近代化が成功したのはこの識字率の高さ、国民が近代化を受け入れることのできる教養をもっていたことによる点が大きいのです)。

 イギリス女性の識字率の低さについて、私はスーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』 (刀水歴史全書)を読んで知りました。イギリス貴族階級の女性は高い教育を受け、読み書きできるとばかり思いこんでいたので驚きました。

 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、数カ国語に堪能で読み書き能力にもすぐれていたと言われていますが、それは特殊な例だったのです。一般の女性は、読み書きに励むより、幸福な結婚生活のほうを選ぶこともできました。しかし、エリザベスの場合、女王として戴冠するまでは幽閉の身の上を強いられていました。「王に反逆したアンの娘であるゆえ、王女の身分を剥奪された囚人」でしかなかったから、結婚以外の身の振り方を考えるため、教養を武器にするしかなかったという特殊事情がありました。すぐれたリテラシィを持ったエリザベスは、「幸福で平凡な結婚生活」ではなく、「国家との結婚」を選択することになりました。

 19世紀に至るまで、イギリスの識字女性は、上級階級でも下層階級でも少数派でした。
 読み書き(リテラシー)能力が必要だったのは、中産階級の女性の一部、貴族の家に住み込んで家庭教師として働かなければならないような階級の娘に限られていました。たとえば、ジェーン・エアのような。
 産業革命後、19世紀のヴィクトリア朝に至って、ようやく女性たちは文字を読み書きすることで社会進出をはたすようになりました。

 『フランダースの犬』の作者ウィーダも読み書き能力を身につけ社会進出を果たしたひとりです。ウィーダは、この時代の「自立した女性」がそうであったように、生涯結婚しませんでした。小説家として華々しい活躍をしたあと、晩年は孤独と貧困のうちにひとりぼっちで死にました。

 イギリスの女流作家を描いた作品、エリザベス・テイラー原作フランソワーズ・オゾン監督の『エンジェル』(主演ロモーラ・ガライ)は、ウィーダより少しあとの時代1900年代初頭を背景にしていますが、女流作家の生活が幸福な結婚とは相容れないものであるという結末は同じです。(エリザベス・テイラーは女優ではなく、別人。他の作品に『天使』がある)

<つづく>
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2010年07月21日


ぽかぽか春庭「立身出世の時代」
2010/07/21
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(6)立身出世の時代

2-5 立身出世の時代
 ビクトリア女王の時代、女性の幸福は、「より有利な結婚相手に出会って、つつがなく結婚生活をおくることだ」と考えられていたころでしたから、コゼツ旦那が一人娘アロアの結婚相手としてネロを拒絶したのもやむをえないことでした。ウィーダは、パトラッシュを酷使して半死のめにあわせた飲んだくれの前の飼い主を筆をきわめて悪く描いていますが、アロアの結婚問題に対するコゼツの考え方を批判してはいません。(ウィーダは大の犬好きで、晩年落ちぶれてからも犬のために財産を使い果たしました)

 年老いたジェハン・ダースじいさんは、ネロに「貧民の処世術」として「わたしたちは、貧しいのだから、神様がくださるものを、よいものでも悪いものでも、受け取らなければならないよ。貧しい者は、選択をすることができないんだよ」とネロに言ってきかせ、ネロはそれにさからうことをしません。ネロはアロアと引き裂かれてしまったことに心の痛みを感じながらも、理不尽な離別として不満を述べることなく、受け入れる努力をしました。

 当時の中産階級の女性として、自分が「下層階級ではない」と意識することは「自分は男性ではない」と思うのと同じ、当然のアイデンティティであり、ウィーダが自分より下の階層を見る目には「上から目線」が含まれるのも仕方のないことだったでしょう。読者層も「自分たちの階層のお話し」として読む人はごく少なかった。
 下層階級のネロを主人公にした小説が書かれた時代には、「上層階級」「中産識字階級」と、「下層非識字階級」との間に、現在では想像しがたい階級差があったことを忘れることはできません。しかし、ウィーダの視点が「だれからの援助もうけられない運命をたどったネロ」「はい上がることを拒絶された下層民のお話」という目線のもとに執筆されたこと、読者は「気の毒な階層のお話し」として、同情の目で読んだことを現代の視線でとやかくいうことはできないでしょう。

 そして、このお話が「はい上がろうとする下層階級」からみても、「能力に応じて自力で将来を切り開けと育てられた中産階級」からも、「下のものたちを指導し援助すべきノブレスオブライジを負う上層階級」からも、共感の得られないお話だったことも理解できます。西洋社会ではネロの生き方は「負け犬」としか思われなかったからです。
 19世紀の西洋社会において、階級間移動の機会はごく少なかった。貴族階級と平民では言葉さえまったく違っていたことは、『マイフェアレディ』で下町娘イライザが上流階級の発音や言い回しを身につけるため厳しい教育を受けなければならなかったことでもわかります。

 日本に「フランダースの犬」が移入された時代、(最初の翻訳は1908(明治41)年、日本基督教会の牧師日高善一牧師によります。この翻訳は40版まで増刷され、日本では原作の人気も高かったことがわかります。このころの日本は「立身出世欲」が最高に盛り上がっていた時代でした。
 華族士族平民の差はあったものの、士族であれ平民であれ、学校教育において能力を発揮すれば、立身出世が望める時代でした。明治の高官たちは、足軽や下士など低い身分から成り上がった人たちで構成されていましたから、「生まれつきの身分」を変えることにこだわらず、階層移動が成立しやすい社会であったことが、イギリスとは異なっていました。

 貧しい者が勉学の機会を得るには、①軍の学校に入る、②授業料無料の師範学校に入る、③故郷出身の成功者の家に「書生」として住み込む、など、いくつかの方法がありました。
 歌人斎藤茂吉は、③を選択し、斎藤家の書生になりました。私の夫の伯父や伯母は、②を選択し、教師になりました。

 20世紀になって識字率が上がってきたとはいえ、ヨーロッパの読書階級は上流中流層が中心でした。貧しいネロが、立身出世の機会を得られなかったことに、この時代の欧州の読者たちは、「上から目線」で読み、ネロに感情移入することはありませんでした。
 しかし、日本の読者はネロに感情移入し、涙を流し続けたのです。

 日本では江戸時代から読本赤本、御伽草子浮世草子の読者層は広がっていました。明治初頭に日本へ来たヨーロッパ人の「日本旅行記」には、馬車の馬丁や料理屋の女中まで、ちょっとしたヒマを見てはふところから本を出して読みふけっている、という光景を目撃してびっくりしたことが記録されています。明治に義務教育が普及すると、読み物の読者層もさらに底辺が広くなりました。ウィーダがこの作品を書いた時代、ネロと同じ階級の読者層はヨーロッパより日本のほうがはるかに多かったのです。

<つづく>
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2010年07月23日


ぽかぽか春庭「アニメ版フランダースの犬」
2010/07/23
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(7)アニメ版フランダースの犬

2-6 『フランダースの犬』の映像化
 『フランダースの犬』は、イギリス・アメリカでは4度映画化されました。しかし4回ともお話しは「ハッピーエンド」の物語に書き換えられています。ネロもパトラッシュも最後は幸福になるのです。(1914年版:ハウエル・ハンセル監督、1935年版:シャルル・スローマン監督、1960年版 :ジェームズ・B・クラーク監督、1999年版:ケビン・ブロディ監督。その他、香港映画でも1度映画化されている)

 原作では、15歳になっても自分の身を立てることのできなかったネロ。
 アメリカでも、ヨーロッパでも、自立を自分の手でつかみ取ることのできず、負けてしまう者を映画の主人公としても受けない。映画化されたストーリーでは、いずれもネロは最後に救われ幸福になる結末になっています。

 また、現在アメリカで出版されている『フランダースの犬』の翻案は、原作では一言も言及されていないネロの父親が突然登場してくるのだそうです。原作ではジェハンじいさんの娘は、ネロが2歳のときに病死していると書かれています。そして父親のことは一言も書いてありません。これは、ウィーダがネロを「父無し児」として描いたことを意味しています。おそらくはこの時代に数多くいたであろう、「奉公先で未婚のまま何らかの事情により子を産んだ使用人」がネロの母として想定されていたのでしょう。原作には登場しない実の父親が、物語のラストに突然出てきて、すべてめでたしめでたしになるのがアメリカ版フランダースの犬。
 ネロがラストシーンで救われ、幸福な将来を望みうるストーリーに書き換えられたのは、「自立できなかったネロ」を容認できない西洋社会だからです。では、日本のアニメ版フランダースの犬はどうでしょうか。

2-7 滅びの美学
 第1話から40話までの「日本のフランダースの犬、オリジナルストーリー」は、とても良くできています。ラストの悲劇に向かって、10歳のネロのけなげさ、パトラッシュとの絆に涙しない人は「人」であるぞよ、これでもかっ!っていうくらいに、盛り上がっていく。

 なぜ日本で「フランダースの犬」が同情を集め、日本だけでこれほど多くの人々に愛される物語となったのかを、検証したのがベルギーのドキュメンタリー映画『パトラッシュ・フランダースの犬』です。

 ドキュメンタリー映画『パトラッシュ』では、100人以上の人へのインタビューや、明治から今までの日本での「フランダースの犬」の翻訳本を検証し、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけました。

 古くは、権力争いに負け九州太宰府に流された菅原道真、諸行無常の『平家物語』に描かれた木曾義仲、判官義経などの滅び行くもののふの姿。
 天下統一に王手をかけながら、本能寺の炎の中に49歳をもって滅亡した織田信長、明治の新天地を目前にしながら暗殺された坂本龍馬など、成功しなかった者にこそ自分たちの心情を託して救済のひとつとする伝統が、「アニメ・フランダースの犬」の翻案を受容する心情に重なったのだと、私も思います。

 日本人アニメ視聴者がネロの最期に涙するのは、ひとつにはこの「志を果たさずに非業の死を遂げた者」への深い思いを共有する民族的心情があった、という点。また、そのような者は、残った者によって哀悼され祀られる伝統が続きました。平安初期から「御霊信仰」が千年以上続いてきたことを考える必要があります。
 
<つづく>
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2010年07月24日


ぽかぽか春庭「御霊信仰」
2010/07/24
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(8)御霊信仰

2-8 御霊信仰
 御霊信仰は、山部親王(のちの桓武天皇)に皇位継承させるために反逆の罪を着せられ非業の死に追いやられた井上皇后(いのえこうごう、またはいがみこうごう=聖武天皇の第一皇女、光仁天皇の皇后)と皇太子他戸親王(おさべしんのう=井上皇后と光仁天皇の子)の霊のたたりを恐れて、御霊神社が創設されたことに始まります。皇室内の血で血を洗う権力抗争は飛鳥奈良の時代にもあったのですが、殺された者が殺した側を恨んで祟る、という考え方が広まったのは、陰陽師が国家体制に組み込まれて、「国家に不穏な出来事がおこるのは、○○の祟りによる」という占いをするようになったことが背景としてあります。

 祀られた怨霊は守護霊に生まれ変わり、人々を守るようになる、というのが御霊信仰です。
 平安初期に藤原氏との権力争いに敗れた菅原道真を祀った天満天神などがその例ですが、「非業の死」を遂げた者へ慰撫の祈りはさまざまな形でつづいています。木曽義仲の愛妾巴が建てた庵をもとにするという義仲寺、明治以降も土佐藩士武市半平太を祀った瑞山神社、長州藩士吉田松陰を祀った松蔭神社、殉職や戦死した軍人を祀った乃木神社東郷神社などの設立があり、「天寿まっとうしなかった者」への鎮魂の思いは現代にも続いています。 

 「ネロの死」の受け止められかたが、西洋社会とは異なったものとなった背景には、このような「敗者への鎮魂」「滅びの美学」とも言える意識があったということは、うなずける解釈です。

3-1 救済のかたち
 ここで、もう一度ネロの年齢を確認しておきます。
 日本の「パトラッシュ人気」は、あくまでも1~41話のお話がつづいたのちの、10歳のネロが死ぬラストの悲劇にあります。
 ウィーダの原作によって物語が進行し、15歳のネロが力つきたのだったら、日本人も、ここまでネロとパトラッシュの悲しいラストシーンに共感をよせなかったのではないか、と思われます。

 ネロの悲劇は、「10歳という設定」と「1~40話」のオリジナルストーリーの上に成り立っていることを確認すると、ヨーロッパで「負け犬」の物語とされてきた『フランダースの犬』が、ここまで日本人の琴線を揺るがしたのは、この翻案の年齢設定の絶妙さによるということが言えると思います。

 原作ではラストシーンで、コゼツ旦那はネロが純真無垢な心をもった真っ正直な子だったと気づき、後悔の涙を流します。ネロが落選してしまった絵画コンテストの審査員のひとりは、ほんとうはネロが一等賞をとるべきなのに、有力者の息子に賞がわたってしまったことを残念がり、ネロの天才を認めて芸術教育をしてやろうと決心します。あとちょっとのところで何もかも変わるはずだったのに、ネロはパトラッシュとともに空腹と絶望を抱えて死んでしまいました。

 神様がいて人の行いを見ていて下さるなら、こんな残酷な結末が許されるはずがない、と、西洋社会の人たちが感じるところです。アメリカ映画がどれもハッピーエンドに作りかえられている気持ちもわからないではありません。西洋流のとらえ方なら、悲劇のラストではネロとパトラッシュには救いがありません。

 日本のアニメでは、ネロとパトラッシュはいっしょに天国へと昇っていき、一種の救い、カタルシスが視聴者に与えられています。この部分は、日本のアニメの翻案です。この翻案は、欧米キリスト教圏の人の考え方ともっとも大きく違うところです。キリスト教では、パトラッシュが天使に迎えられ天国へ人と共に行くのは考えられないのです。

<つづく>
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2010年07月25日


ぽかぽか春庭「パトラッシュの昇天」
2010/07/25
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(9)パトラッシュの昇天

 ペットを家族のように愛する人々が増えた結果、犬や猫が天国に入れるかどうかの議論が出てきました。新旧聖書のことばは、解釈のやりようでどうにでも受け取ることができるので、なかには「神は動物が人とともに天国へ行くことを否定していない」と解釈するクリスチャンもいます。文書をどのように解釈するのも信者の信念によります。例えば「エホバの証人」の人たちが、新約聖書の使徒15章19、20、28、29節にある「血を避けるように」との聖書の教義を解釈した結果、「輸血拒否」を宗教的信念にした事件がありました。(この項に関し、クリスチャンからの「エホバの証人」のグループは真のクリスチャンではないと言う類の抗議は受け付けません。信仰とは何を信じようと自由と私は思うので、エホバの人たちが自分たちはキリストを信じていると言えば、そうですか、と思う)

 しかし、動物が霊魂をもって天国へ迎えられるかどうかについて、「神を信じる者が天国へいける」という公式の解釈からすると、「神を信じる」という精神的な行為ができない犬は、天国には入れないというのがキリスト教の一般的かつ公的な解釈です。

 犬が天国へ行けると解釈するなら、ペットの蛇や亀や山椒魚や鯉・金魚、クワガタや甲虫を家族のように愛し共に生きている人にとって、蛇や金魚やクワガタが天国に入れないわけはないということになり、そのうち天国もゾウリムシやらアメーバやら細菌ウィルスに満ちあふれ、天国も地上と変わらぬ生物多様性の様相を示して、生態論的には結構なのかも知れず、キリスト教の仏教化ができたことになります。

 アニメ版『フランダースの犬』のラストシーンは、テレビのアニメ「世界名作劇場」のスポンサー会社であったカルピスの当時の社長がクリスチャンであり、パトラッシュといっしょの昇天シーンを望んだことによって実現した、というエピソードが事実であるなら、これこそ日本のクリスチャンの意識に仏教的アニミズムが存在しているひとつの例になるでありましょう。

3-2 パトラッシュの昇天
 アニメのラストシーン、天使たちに守られながら天へ登っていくネロとパトラッシュの姿は、「負け犬」などではなく、「ちからいっぱい戦い、生き抜いた末に、力つきていくもの」の美しさを持っていました。
 その犬と少年の姿の荘厳さがあるからこそ、「アニメ名場面集」という特集が組まれれば必ず上位に「ルーベンスの絵を見て死んでいくネロとパトラッシュ」が選ばれるのです。パトラッシュをいっしょに連れていかないでは、ネロのラストのほほえみは考えられません。

 しかし、キリスト教国では、人間と犬がいっしょに昇天することはできません。犬と人が同時に天に昇っていく図柄は、不自然と受け止められます。キリスト教では、犬には霊があるとは考えません。犬に「意識=心」はあるとしても、神のみもとへ召される「霊」はないのです。

 日本語では「霊魂」といいますが、キリスト教では霊と魂は別概念です。人間は、体に現された魂と、不滅の霊の息吹が吹き込まれた体とが一つになった存在とみなされ、その意味で、神の霊が宿るのは人間のみ、と考えられているのです。

<つづく>
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2010年07月26日


ぽかぽか春庭「パトラッシュは不滅です」
2010/07/26
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(10)パトラッシュは不滅です

 日本アニメの翻案のうち、もっとも「日本的な絵」は、この最後の「パトラッシュ昇天」であり、犬の霊が人とともに天使にむかえられるというところだ、と私は思います。
 このラストシーンは、「一寸の虫にも五分の魂」の仏教思想が反映されています。一寸の虫に五分の魂ならパトラッシュには50cmの霊魂です!

 ルーベンスの『キリストの降下』の絵を見たあと、ネロは微笑みながら、パトラッシュとともにキリスト教の神のいる天国へと昇っていったとして、キリスト教の考え方によれば、天国の入り口で拒否されてしまいます。「ここは犬は入れないところだ」と、天国の門番に言われてしまうでしょう。
 でも、心配ありません。ネロとパトラッシュはともに常世の国かニライカナイか西方浄土か、どこかに迎え入れられるから。日本版アニメのラストシーンは、万物にアニマの魂を認め、山にも川にも一寸の虫にもタマシイがあるという日本的アニミズム思想、死後はともに常世の国(に類するところ)へ行くという思想が表されているものだ、と解釈できます。

 原作では、ネロはパトラッシュを抱いたまま死に、死後硬直のあとでは犬と人を離すことができなくなっていたために、いっしょの墓に葬ったことが書かれています。
 『 生涯ずっと、彼らは一緒でした。そして、死んでも、別れませんでした。というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。一緒に安らかに眠ることができるように。いつまでも! 』

 犬と人を同じ墓に葬るのは特別なことでしたが、「神様の格別のお慈悲を願って」村の人々はネロとパトラッシュをいっしょに土に埋めました。いっしょに埋めはしたけれど、村の人もパトラッシュとネロが同じ天国の神の世界に行くとは思っていなかったはずです。
 日本的解釈ではネロと犬は、一緒に昇天できたことで、「悲しいけれど納得のできる結末」になりました。キリスト教社会では、このカタルシス(浄化)が得られないのです。ネロとパトラッシュが一緒に天国に迎えられるという日本的解釈によってこそ、日本でネロの悲劇が浄化され、「日本でのみ受けた物語」として存在出来たといえます。

『フランダースの犬』原作テキスト
1,岩波少年文庫(114) 翻訳:野坂悦子
2,青空文庫 翻訳:菊池寛
   http://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/4880_13769.html
3,プロジェクト杉田玄白参加 翻訳:荒木光二郎
   http://homepage3.nifty.com/yodaka/dogoffra.htm

アニメ「フランダースの犬」
フジテレビ系列「世界名作劇場」枠で1975年1月5日~同年12月28日に放映全52話 
DVDは1999発売

<つづく>
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2010年07月27日


ぽかぽか春庭「おわりに」
2010/07/27
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(11)おわりに

4 おわりに
 なぜ、『フランダースの犬』は舞台となったベルギーでも、原作者の国イギリスでも受け入れられずに、日本だけで大人気の物語となったのか、という疑問への答えをさぐった本論の結論。第一に日本版アニメ『フランダースの犬』は、原作とは異なる別の物語に生まれ変わり、『国民的ものがたり』として視聴者に受け入れられてきた、ということです。さらに分析すれば、以下の通りです。1の理由はドキュメンタリー『パトラッシュ』でも言及されていたことですが、2,3,4は、筆者のオリジナル意見です。
 
 1,社会思想的背景:「志を得られずに非業の死を遂げる敗者」に対する民族的心情の伝統があり、ネロの死は同情共感をもって受容されていること。

 2,脚色の成功:主人公の年齢を変更するという脚色と、原作とは異なるストーリーの追加。原作主人公の年齢が5歳引き下げられ、アニメのネロは10歳に設定されている。そのため、「自立すべき年齢だ」という原作の設定にしばられなかったこと。

 3,ラストシーンの映像的変更:同じ墓に葬られたという原作の記述を、パトラッシュとネロがともに昇天するシーンに変更した。犬と人がともに昇天することを違和感なく受容し、悲劇の死に対してカタルシスが用意されていること。

 4,テレビ視聴者層及び読者層の差:西洋社会より日本社会のほうが識字層が厚く、ネロの社会階層にあたる読者層が多かったため、ネロに同情を寄せる人々が圧倒的だったこと。「子供がいる家族」を主な視聴者層として設定されているテレビアニメ版は、最終回に30%の視聴率を獲得し、その後も何度か再放送されてきた。日本の「フランダースの犬」受容層は幅広く、30%の視聴率を単純に人数にしても4千万人が「フランダースの犬」を見て涙したことになる。この人数は、ベルギーの総人口1千万人よりはるかに多い。

 以上、翻案という作業の結果、受け入れる側の社会思潮が関わりつつ受容がなされていることを、アニメ「フランダースの犬」と原作の比較を中心にして概観し、翻案の成功には、それを受け入れる社会に、受け入れるための社会思想が形成されていることが必要であること、受容された物語は新たな生命を得て人々の心に残ることを考察しました。

<おわり>