にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ぽかぽか春庭「留学生のための日本史」

2008-10-20 06:30:00 | 日記
2007/02/27 火

日本事情・留学生のための日本史

 留学生向けに開講されている授業のひとつに、「日本事情」という科目があります。
 「上級日本語」のひとつとして開講されている場合が多く、授業内容はたいへん幅広い。
 日本の文化について、あるいは現代社会について書かれた文章を読解していく授業もあるし、地理歴史の基礎的な知識を教える授業もあります。

 「日本事情」とタイトルがついている教科書では、だいたい「日本の地理歴史、文化、現代社会」を扱っているものが多数派ですが、大学でも日本語学校でもも、同じ「日本事情」という科目名がついていても、ひとつとして同じ内容の授業はないと思うくらい、それぞれ独自に展開されています。

 私が、私立大学学部2年次留学生に行ってきた「日本事情」の授業、10年ひとくぎりとして担当を終えることになりました。
 毎年、留学生とともにたくさんのことを学ぶことができて、楽しみな授業のひとつでした。

 毎年毎年担当してきた授業について、いずれゆっくりとまとめていきたいと思っています。今回はこの、「日本事情」のさわりを駆け足で紹介します。

 日本の歴史と文化について、留学生はまちがいや誤解も楽しみながら、吸収していきます。
 お寺にいって、神社のように柏手を打ってしまった、なんてまちがいも、「日本の宗教の諸相」を知ってから振り返れば、笑い話のタネになります。

 日本では、ご飯茶碗を食卓においたまま食べるのは不作法で、「犬食い」と呼び、母親は「お茶碗をちゃんと手に持って食べなさい」と躾をする。
 一方、韓国では、ご飯茶碗を手に持って食べるのは不作法で「こじき食い」と叱られる。親は子供の不作法を見とがめ、「そんなふうに茶碗を手に持って食べるのは、食卓を囲めないまま食べる乞食のようですよ」とたしなめる。茶碗は食卓において手をそえ、スプーンまたは箸をつかう。

 韓国人がはじめて「茶碗を手に持つ作法」をするとき抵抗を感じるそうですが、でも、「それぞれの文化、ちがっているから面白い」と、感じていけば、「郷に入っては郷に従え」が、身につきます。

 日本ではおにぎりを左手でもって食べても不作法ではないけれど、イスラム文化圏では食事では右手のみを使う。ムスリム(イスラム教信者)が右手で食事をするのは、「飲食には右手を使いなさい。左手で食事をしてはいけない」との教え(ハディース)に基づいています。

 左手が不浄ということではないけれど、食事は右手と決まっている。だから、もしムスリムの家庭におじゃますることがあれば、ちょっと不自由ではありますが、私も左手はつかわないよう気をつけます。ムスリムでない客が左手をつかったとしても、とがめられることはないけれど、お互いを尊重するマナーとして。

 いろんな違いも、お互いに知り合えば、「どちらが正しい」ということではなく、文化の違いは違いとして尊重しあえるようになります。
 この10年間、さまざまな国からの留学生と知り合いながら、いろいろな国の文化を知ることができました。
 日本の文化についても「日本事情」の授業を通して、新たな学びがたくさんありました。

 10年前1997年に「日本事情」の担当になったころは、オーソドックスに、日本の歴史関連書籍や、教科書『留学生のための日本史』(山川出版社)を読みながら、歴史と文化について学んでいく授業を行いました。
 『留学生のための日本史』を原始時代から読んでいき、語句の解釈や出てきた史実について解説し、学生からの質疑に答えていく、というスタイルでした。

 2000年以後は、日本文化についての発表と自国と日本の交流史の発表を中心に、学生の主体的な関わりを重視するようになりました。

<つづく>


2007/02/28 水

最大の古墳は仁徳天皇陵にあらず
 
 『留学生のための日本史』原始時代縄文時代の章が終わると、弥生、古代と進んでいきます。

 「日本事情」の授業、『留学生のための日本史』で、4~5世紀に大和政権が成立したころの歴史を扱っているときのこと。

 「ヤマトのオオキミ」が各地の小さな「クニ」を統一していったという説明のある教科書『留学生のための日本史』。
 大阪の前方後円墳の写真に「日本最大の古墳」とキャプションがあります。
 「古墳は、有力な支配者が権威をしめすために作ったお墓です。古墳はヤマト地域だけでなく、九州から東北まで各地にあります。一番大きいのは、この写真の、大阪にある古墳です」

 「一番大きいお墓の被葬者はだれですか」という質問に、私は長いこと、子供の頃歴史の時間に教わったとおりに「仁徳天皇の御陵です」と説明してきました。
 「大阪にある最大の古墳=仁徳天皇陵」と思ってきたのです。

 しかし、近年の研究では、「この最大の古墳の被葬者は、仁徳天皇であるかどうか、わからない」というのが、考古学的知見であることを知りました。

 宮内庁は今でも仁徳陵として管理し、一般的には「仁徳天皇古墳」と認識されているのですから、まちがった説明をしたことにはならないのですが、歴史学考古学では、「被葬者は、仁徳天皇・反正天皇・履中天皇のうちのひとりかもしれないし、ほかの大王の墓かもしれない」ということになっていたのでした。
 わあ、いつのまにかお墓の主が変わっていたなんて、、、、知らなかった。

 留学生は、実際にだれのお墓だったかなんてことはあまり気にせずに、古墳の写真がのっているページを見ながら、「今の天皇は、この古墳にいる大王の直接の子孫ですか」という質問をしてきます。

 中国や韓国など、かって王朝があった国、タイなど現代も王朝が存続している国でも、古代からの王朝が続いている国はないので、「ヤマトのオオキミ」についても、あくまでも歴史の話として教科書に出ていると思い、それが現在の日本の皇室と関係があると思っていない留学生もいます。千数百年前の古代の王と現在の皇室を結びつけて考えたことがない。

 回答。 
 「そうですね。 最新の考古学の研究では、大仙古墳と呼ばれている日本最大の古墳は、5世紀に築土されたことはわかっているけれど、誰のためのものかはまだ明らかになっていません。私は子供のころ仁徳天皇陵だと教わり、ずっと信じていましたが、本当は、だれの陵墓なのかわかっていないのだそうです。

 また、このころの王朝のつながり、血縁関係についても、確かなことはわかっていません。このころの神話伝説をまとめた本である『古事記』『日本書紀』には、血筋を受け継いだ先祖子孫の関係と書いてありますが、記紀の記述は、諸豪族各家の口承伝説をまとめて編集したもので、文字に記載されたことがすべて文字通りのことなのかどうかは、わかりません。

 ですが、一般の人々は、日本の皇室はこのヤマトのオオキミの子孫だと受け止めており、神話や伝説では、そのように伝わっています」

 私自身は、継体天皇以前の王朝と現在の天皇家の関係については、まだまだこれから研究がなされるべきことがたくさんあると思っており、留学生には、2代目から9代目の開化天皇までは、名前以外の記録はなく、実在しなかったという説が有力であることを話します。

<つづく>

2007/03/06 火

この人だあれ?キドコーイン?クガカツナン?マツビバナナ
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(8)この人だあれ?キドコーイン

 タイの歴代の王様は、それぞれがお札の肖像になっているから、タイの人々は、王様の姿、歴代を区別しています。
 日本では天皇皇后肖像をお札の顔にしません。実在の人物では、聖徳太子以外にお札に顔を載せた皇族はいません。古代伝説のヤマトタケル、神功皇后は、肖像といっても、想像で描かれた絵姿。しかも神功皇后の肖像は、キヨッソーネが描いた西洋美人風です。
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/02.htm

 日本では、明治天皇昭和天皇の肖像を知っている人でも、大正天皇の肖像を出されたら、「え?この人だあれ」と思う若者もいるんじゃないかしら。

 肖像写真についての留学生の質問を紹介します。

 『留学生のための日本史』の近代史のページ、明治の岩倉使節団の写真が掲載されています。
 中央に羽織り袴姿の特命全権大使岩倉具視。4人の副使が岩倉の周りに並んでいます。岩倉具視については、旧500円札を見せて紹介してきました。

 「はい、この人が岩倉具視。教科書の114ページに、遣欧岩倉使節団の写真がありますね。明治政府の要人がアメリカとヨーロッパを2年近く視察したときの写真です。
 真ん中にすわっている人が岩倉具視です。現在は500円はコインになっていますから、みなさんがこのお札を使うことはないでしょう」

 あるとき、「真ん中の人が古い500円札の岩倉具視っていうのは、わかりましたが、あとの4人はだれですか」という質問がでました。

  副使は、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ということまでは調べてわかっていましたが、ひとりひとりの顔について、だれがだれであるのか、区別がつきませんでした。伊藤博文など、千円札になった晩年のおひげの顔とは全然違う若い時代の顔です。

 図書館で資料をさがしましたが、写真の説明までしてある本を見つけだすのに手間取りました。
 右から順に、大久保、伊藤、岩倉、木戸、山口でした。
使節団正使副使の写真
http://www13.ocn.ne.jp/~dawn/sekai.htm

 いまなら、インターネット検索でクリックひとつでわかることも、10年前は図書館に通って資料をいくつもしらべなければなりませんでした。

 日本事情を教え始めた1997年当時と、10年たった現在では、留学生の教育環境が大きく変わりました。
 読み方がわからない漢字でも、一字ずつ拾って入力ができれば、コンピュータのほうが適切な読み方を教えてくれます。
 読み方がわかれば、どんどん検索して、必要な情報を手に入れられるようになったのです。

<つづく>
00:01 |

2007/03/07 水 
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(9)この人だあれ?クガカツナン

 最近では、電子辞書に漢字を手書き入力すれば、検索機能でたちどころに読み方もわかることが多くなりました。
 が、10年前くらいまでの留学生にとって、日本語の「漢字のよみかた」は、難問のひとつでした。

 読み方がわからないと、辞書事典をひくのもたいへん。漢和辞典で、読めない漢字を画数索引を調べるには、書き順と画数を正確に知っていなければなりません。

 資料に出てきた「國」という漢字が読めない留学生。台湾の留学生なら「國」が「国」の本字であることを知っていますが、他の国の学生は初めて見る字。
 まず、先生にたずねる前に辞書をひきなさい、と言っているのですが、その辞書をひくのが、一昔まえはたいへんでした。

 「口」という字を左下からひとまわりして一画で書くような学生だと、「口」の画数は「1」になってしまい、漢和辞典で調べることもできませんでした。(最近は日本人大学生でも、口をぐるりとひとまわりの1画で書いている)

 日本の漢字、「芸」。台湾では康煕字典の通りに「藝」、中国簡体字では「草冠の下に乙」くらいはわかっていました。しかし、私も、全部の漢字字体の違いを把握していませんでしたから、非漢字圏の学生への指導は当然のこと、中国台湾からの留学生の漢字指導もたいへんでした。
 作文の前後の文脈から、中国簡体字の意味を推測することができる場合もありますが、まったく推測できないときもありました。

 日本事情の授業でも、人名の読み方、事項の解説、ひとつひとつ手探りでやっていました。

 10年近く前のある日のこと、留学生が「日本事情」の授業後に質問に来ました。
 「日本人の名前を調べているんですが、わかりません。きのう、ほかの日本語の先生にきいて、読み方を教えてもらいました。でも、人名辞典を調べたのに、出ていないんです。来週、発表しなければならないのに、どうしたらいいでしょう」と、困ったようすです。

 「人名?なんていう名前ですか」
 「日本語の先生に読んでいただいたら、リクっていう名字だったのですが、リクの項を調べても人名辞典に載っていないんです。」

 ピンと来たので、たずねました。「名字ではなく、名前のほうに、南という字がはいっていますか」
 「はい、南があります」

 「それじゃ、その人は、クガカツナン陸羯南. だと思いますよ。陸という字をくがと読むんです。明治時代のジャーナリスト、思想家です。陸をクガと読むのは、特別な読み方なので、日本人が読めなくても、仕方がないんですよ」
 陸羯南、明治思想史や文化史に興味がない人にとって、あまりなじみの名前ではないと思います。

 「くが、、、あ、ありました。人名辞典に載っていました」
 最初に学生がたずねた日本語教師の「トリビア袋」に「陸羯南.」という人名がはいっていなかったからといって責められることはないでしょう。日本語教師は百科事典として存在しているわけではありません。

 しかし、日本語学習者は、「日本のことでわからないことは、まず日本語教師に質問してきますから、できるかぎり答えてやる必要があり、答えられないと、「日本のことをよく知っている日本語教師」と思いこんでいる留学生をがっかりさせてしまうことにもなります。

<つづく>
00:06 |

2007/03/08 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(10)この人だあれ?マツビバナナ

 アジアからの留学生たち、自国で「アジア史」「近代史」などを学習して来日していますが、日本の人名などは、自国での発音で覚えています。
 たとえば、韓国の学生にとって、豊臣秀吉は「倭乱(ウェラン)」を起こした「プンシン・スギル」ですし、安重根が中国ハルピン駅で暗殺した韓国統監・伊藤博文は「イドゥンバクムン」です。

 まずは、日本人の歴史上の人名、読み方を日本語発音で読むことから歴史と文化の授業をはじめました。
 日本語能力試験の1級に合格し、日本語の漢字の読み方を一通り習っている学生にとっても、人名の読み方はあまりにもさまざまで、読み方がむずかしい。
 留学生は、既得の「漢字の読み方」を応用して、さまざまに人名を読もうとします。

*松尾芭蕉→マツビ・バナナ
 松尾を「マツビ」と読み間違えたのはわかるけれど、なぜ芭蕉をバショウでなくバナナと読みまちがえたのか。

 バナナは芭蕉科の植物の1種であり、バナナの和名は「実芭蕉」です。
 中国語では、日本と同じ黄色く熟して生で食べるバナナは香蕉(xiangjiao)ですが、焼いたり揚げたりして食べる料理用の青いバナナを「芭蕉」という地域もあります。
 「芭蕉を日本語に翻訳すると、バナナ」と考えた留学生が、芭蕉→バナナと読んだのです。

*紫式部→シ・シキヘ
 「部屋へや」の「部へ」だから、式部は「しきへ」だろう。

*卑弥呼→ビヤコ
 弥生時代を「やよい時代」と読むのだから、弥は「ヤ」と読むはず。

 教科書『留学生のための日本史』の「弥生時代」のページに「奴国」が中国の皇帝から受けたという金印(志賀島出土)の写真があります。金印の写真のとなりには、「奴国」や邪馬台国、卑弥呼の説明。

 卑弥呼と邪馬台国についての質問もよく出ました。
 邪馬台国についても、ずいぶんと雑学を仕入れてあります。
 今の私の興味の範囲でいうと、邪馬台国畿内説が有利かと思っています。

素人探偵が自分なりの推理力を働かせることができる「魏志倭人伝」の記述なので、畿内説あり大和説ありですし、卑弥呼についても百家争鳴、それぞれの学者が自説を展開しています。

 卑弥呼はだれか。熊蘇の女王説あり、神功皇后説あり、ヤマトヒメ説あり、ヤマトトトヒモモソヒメ説あり、、、、 諸説とびかう中の、「今の古代史研究のなかで、まちがいないと言える範囲」を答えるようにしてきました。

 わたしの最近の「ひみこトリビア」のネタ本のひとつは、2005年発行の新書、義江明子『つくられた卑弥呼』です。フェミニズム古代史ってかんじ。
 諸説百家争鳴の中で、どの説をどう受け止めるかは、読者の考え方によるし、著者への信頼感によります。私は『つくられた卑弥呼』面白く読みました。

 種々の本を古代代史トリビアとして活用するなか、最新古事記ネタ本は、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』(2007年2月発行)。

 魏志倭人伝記述についての専門的な質問もあるし、「ヒミコは美人でしたか」とか、「ヒミコは呪術をつかって国を支配したと教科書に書いてありますが、呪術ってどんなものですか」などの質問まで、いろいろでます。

 回答「美人だったかどうかは、わかりませんが、人々を支配する力はたいへん強いものだったようです」
 「中国の魏志倭人伝に、邪馬台国の卑弥呼は、鬼道を事とし、よく衆を惑わすと書いてあります。鬼道というのが、どのような行為であったのか、はっきりとはわかっていません。

 道教の鬼道と共通するようなたいへん力が強い呪術であるという説もあるし、神のことばを媒介する力、という説もある。
 卑弥呼は天文についての知識をもっていて、日食の予言などが出来たのではないか、という説もあります。」

<つづく>
00:45 |

2007/03/09 水

剣と刀

 「鬼道ってどんなこと?」という質問なら、宗教学でシャーマニズムについてならったことなども援用でき、私がこれまでに知り得た範囲で答えることも可能です。
 しかし、思いもかけないこと、私のまったく不得手、門外漢なことについての質問もたくさん出ました。

 知らないことは「そのことについて、来週までに調べてみましょうね」と答えるしかなくて、翌週、調べられる範囲で留学生に回答してきました。
 おかげで10年続けるうちには、ずいぶんと「日本の歴史と文化トリビア」を仕入れました。

 自分自身に興味がなかったことも調べることになり、「日本の文化や歴史について、留学生に教えられる程度のひととおりのことは知っている」つもりだったのに、細かいことは知らないこ思い知らされ、学生以上に、私が学ぶことがたくさんありました。

 卑弥呼について書かれているページには、「銅剣・銅鉾、銅鐸」の写真がのっており、「ceremonial bornze swords spearrs、amd bells」と英語説明があります。
 銅剣も銅鉾も、両側に刃がある諸刃のかたち。

 ある年の日本事情の授業で。
 日本の剣道に興味を持っていた学生が銅剣の写真をみて、「日本の剣術と中国の剣術は違いますね。日本では、カタナとツルギとケンは、どう違うのですか」という質問がありました。しかし、質問されても即答できませんでした。

 「え、剣と刀?同じじゃないの?ちがうんだっけ?」
 いったいどのように説明したらいいのか、この方面の知識がまったくない私には即答できなかったのです。あらためて調べ、翌週回答。

 「刀」と「剣」の違いについてわかってきたことを、煩雑にならない範囲での回答として、説明しました。

 『中国と異なり、日本では諸刃(両刃もろは)の武器は発達しなかったので、広く「刀剣」の意味として「剣」を用いており、「剣道」「剣術」という場合も、片刃のカタナを用いています。

 日本刀というときは、片刃のみをさし、両側に刃がある剣は、日本の「剣道」「剣術」で使われることはなかったようです』というような説明からはじめました。

 もともとの漢字としての意味は、辞書をひけば、「剣は諸刃(両刃もろは)、刀は片刃をいい、片刃の刀のうち、おおむね2尺(60センチ)以上のものを太刀(たち)いう」というような区別は書いてあります。
 中国で剣というと諸刃をさし、中国は剣術と刀術は別の武術なのだそうです。

 しかし、日本社会で「剣道、剣術、剣士」などというとき、剣は「諸刃」を意味していません。日本の武器としての「刀剣」は、片刃のみなので、剣といっても刀といっても、片刃のみをさしています。

 私の回答は、「刀剣史」などを研究している人からみたら、物足りない答えに見えるかも知れません。
 この質問のあと、刀剣について私が仕入れた雑学トリビアは、刀鍛冶の名匠・河内國平とビートたけしの対談記事を読んだ程度ですが、気軽な対談記事からでも、玉鋼の作り方とか、鍛錬の仕方、鉄分と炭素の割合とか、焼き入れの温度の微妙さとかわかりました。
 が、専門知識をそれ以上深めているひまもなく、付け焼き刃のまま、とにかく広く広く、留学生の疑問質問は多岐にわたりました。

 さて、「付け焼き刃」とは、刀鍛冶から生まれた慣用句です。
 そのほかにも、刀鍛冶から生まれた日本語慣用句がたくさんあります。
 師匠と弟子が刀身を鍛えていようすから。相槌を打つ、とんちんかん、反りが合わない、太刀打ちができない、地金をあらわす。
 刀の鑑定書から、折り紙つき、札付き。
 刀剣での戦いぶりから、しのぎを削る、切羽詰まる。鍔迫り合い。
 刀と鞘から、目貫き、元の鞘に収まる、恋の鞘当て、身から出た錆など。
 試し切りの刑場から土壇場。

 日本の刀についての話から、日本語についての知識を深めていくきっかけにもなり、日本事情も日本語の授業に結びついていきます。

<つづく>

2007/03/10 土

日本文化史発表 お札の顔

 私の日本事情の授業、「日本史の基礎的な知識」を中心とした初期のころから、大きく授業内容を変えてきました。
 2000年以降の日本事情は、「自国と日本の交流の歴史について、テーマを決めて資料を集め、自分なりにまとめて発表する」ということがメインになりました。

 学生のほうも、10年前と現在では、「わからないことを調べる」という環境が大きく変わってきています。

 『留学生の日本史』にそって、「日本の文化と歴史」のなかで、興味をもったことについて発表する「日本の文化発表」と、「日本と自国の交流史発表」の授業をはじめたころ、最初は図書館の利用方法、資料の探し方などから指導していました。

 21世紀になってから、留学生もインターネットで検索する方法を覚えたので、以前のような資料探しの苦労はなくなりましたが、「インターネットには、確実でないことも掲載されているから、すぐにまるごと信じてしまうのは危険」という指導をいれておかなければなりません。
 何年もの時間と、人の英知を集めて編集された事典類や参考文献にはない手軽さがインターネット調査にはありますが、手軽なだけに危険もついてまわります。

 歴史上の事実を書いたサイトでも、これだけの間違いがある、というのを学生に話しています。
 春庭HPの「メディアリテラシーについて」というページに、まちがいを平気でネットに載せてあるHPもあることを書きました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0612a.htm

 「日本文化」についての発表授業。
 留学生には、「日本の歴史と文化に関連したことなら、どの時代をとりあげてもいいし、人物についてでも、事項についてでも、興味を感じたことを調べてみよう」と話しておきます。

 クラスを班に別け、班ごとにテーマを決めます。留学生が選んだテーマには、「日本の食文化」「日本人の生活文化、余暇文化」「有名観光地紹介による日本地理復習」などがあります。

 「歴史にみる日本の寺院文化」をとりあげた班は、「平等院と平安朝の浄土信仰」「永平寺と禅」「金閣寺銀閣寺と室町文化」などを紹介しました。

 個人の興味のむくままに、「パチンコ盛衰からみる日本の社会と現代文化の諸相」という発表をした学生もいたし、「パラサイトシングルということばからみる日本の家族」という発表もありました。

 日本ではじめて花火を見た感激が忘れられないといって、「花火の歴史」を紹介した学生もいれば、「わたしはゲームオタクです」という学生が、「日本の娯楽と産業・日本ゲーム発達史」をとりあげた年もありました。

<つづく>

2007/03/11 日
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(13)お札の顔

 2001年の学生の日本文化についての発表のタイトルをみると。
 「日本の着物について」「畳の効用」「懐石料理」「銭湯の歴史」など、生活文化に興味をもったり、「能楽について」「京都の葵祭」など、自分が見てきて面白かったものの紹介をしたり。

 「空手について」など、自分が大学のサークルでやっていることの紹介、貨幣博物館での見学をもとに「日本貨幣史」、沖縄名護博物館での見学をもとに「日本の捕鯨」など、それぞれが興味をもったことについて、図鑑や博物館パンフレットの文をまとめ、クラスメートの日本語能力にあわせて、わかりやすく紹介解説する努力をしました。

 2006年の発表から。
 「日本の交通」をテーマにした班は、東京の電車や地下鉄網について、また明治期に自転車が輸入されて以来の自転車文化について発表しました。

 日本の四季をテーマにした班は、季節ごとの天候や自然の特徴についてまとめました。自分の国と違う点、同じ点をしらべ、「桜前線「梅雨」「紅葉狩り」「雪祭り」など、日本の文化が自然の姿季節の移動と深く結びついていることを知ることは、留学生にとっても興味深いことのようです。

 今年「食文化」を選んだ班は、例年の「おせち料理」「寿司の歴史」「漬け物」などの料理ごとのトピックではなく、「日本の食器・陶磁器の歴史」や「和食の食材」「食べ方マナー」「和食の作り方」というトピックを選びました。

 「タイのお札には国王の肖像があるのに、なぜ日本の天皇はお札に顔をださないのですか」という質問がタイの留学生から出たこともありました。タイの紙幣は表が現国王プミポン陛下の肖像、裏が歴代の王様の姿です。
 アメリカドル紙幣は、大統領ワシントンやリンカーン、国家元首がお札になっています。「なぜ、日本のお札には元首が登場しないのですか?」

 聖徳太子の肖像の古い1万円札を見せて、「この人が、教科書の46ページに名前がでている聖徳太子です。太子は天皇のかわりに政治を行った摂政でした。明治時代に神功皇后という神話時代の皇后の肖像がつかわれたこともありましたが、日本ではお札に天皇の肖像が使われたことがありません」

 明治以後の近代史を扱うときのために、五百円の岩倉具視。千円伊藤博文、夏目漱石など、古いお札も「日本事情」用に保存してあります。

 留学生活もまずはお金が必要。日本に到着して一番最初に両替で目にしたお札の肖像に興味を持つ留学生は多い。
 お札の肖像になる人物は、紙幣を発行している国家の代表的人物であるから、発表するのに資料も集めやすくてちょうどいい。 

 10年前、私の日本事情授業の初期は、教師がお札を見せて、人物紹介をしていましたが、後に、「留学生による日本文化発表」という「調査と発表」がメインになると、「お札の人物紹介」は、留学生の人気テーマになりました。

 2006年も、毎年のように選ばれる人気のテーマ「お札の顔」をとりあげた班がありました。
 モンゴル、マレーシア、中国の学生が千円、二千円、五千円、一万円を分担し、樋口一葉、野口英世、福沢諭吉、二千円札の裏に絵がある紫式部を調べて人物紹介を行いました。

<つづく>

2007/03/12 月

自国と日本の交流史

 人物についての発表、留学生に人気の日本の人物は、さまざまです。
 2006年に「日本の作家」をテーマにした班。森鴎外、大江健三郎など、これまでよくとりあげられた作家だけではなく、「自分がこれまで翻訳で読んできた作家を日本語で読んでみる機会だから」と村上春樹、伊集院静をとりあげるなど意欲的でした。

 伊集院静を選んだ韓国の学生は、「今は帰化して日本国籍になったけれど、元は民族名・趙忠來(チョ・チュンレ)をもっていた韓国系日本人作家として親しみがあり、自分たちにとっては、韓国人の魂を持っている作家だから」と、好きな理由を述べていました。

 日本では毀誉褒貶さまざまある田中角栄も、「日中友好の基礎を固めた人物」として、中国からの留学生には人気のある人物なので、「へぇ、そうなんだ」と、思ったりしました。
 「日本の文化紹介」の発表レジュメを作って日本語で発表したあとは、質疑応答。学生に答えられる質問もあるけれど、留学生には即答がむずかしい場合は、教師が助け船をだします。

 資料を集めて、それをわかりやすい日本語にしてまとめるのはとても時間もかかり、「発表準備のために徹夜した」という学生もいるのですが、発表がすむと、ほとんどが、「たいへんだったけれど、いい経験になった。資料の集め方も発表のしかたも、自分から関わっていくことで、積極的に学ぶことができた」という学生が多かったです。

 前期の「日本の文化」発表は、いわば「発表の練習」にあたります。

 夏休みには「日本の各地の博物館を見学し、見学した文物をひとつとりあげて、作品の背景をレポートにして提出」という宿題を出しています。
 「博物館なんて興味ないと思って、日本に留学してから一度も見たことがなかったけれど、宿題のためにしかたなく見学した。見ているうちにとても興味がわいてきた。朝から閉館まで見たけれど、まだ、全部は回りきれなかった」という感想が毎年寄せられました。

 後期には、「日本事情」の要にしている「自国と日本の交流史」の発表を行います。
 留学生の出身国と日本が、どのような交流を重ねてきたか、古代から現代まで、自分が興味をもてたことがら、人物について調べ、発表します。

 人物紹介では。
 中国からの留学生に人気定番の「日本との交流史」上の人物が何人かいます。
 近代日本に留学したことのある魯迅、孫文、周恩来などが人気の御三家。

 今年は、遣隋使遣唐使の周辺が人気で、「阿倍仲麻呂と李白・王維の親交」についてと、「留学僧空海の長安での活動」についての発表もありました。
 私が「交流史のモデル発表」として例を示したのが、今年は「鑑真と井真成」だったので、遣唐使周辺に興味がわいたのかも知れません。

<つづく>


2007/03/13 火
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(15)クエートコーラン朗唱インドの衣装

 韓国の学生は、古代史から「高句麗と日本の関係」「桓武天皇の生母である高野新笠のルーツは百済」などのテーマがだされました。

 昨年度2005年に高野新笠について発表した学生は、この時代の皇室の婚姻関係の詳細な系図を調べてきました。
 聖徳太子はじめ、天皇家が深く婚姻関係を結んだ蘇我氏が、朝鮮半島からの渡来系の一族であるという学説の紹介など、古代天皇家が朝鮮半島と深い交流をもっていることを検証していました。

 2001年11月、今上天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言され、韓国でも大きく報道されたため、古代日本についてのテーマが、韓国の学生にとっても身近になったのだろうと思います。

 現代の交流として、「朝鮮の美」を尊重した柳宗悦を紹介した学生がいました。
 「柳宗悦は、日本の民芸美術紹介に貢献しただけでなく朝鮮美術の紹介者として慕われており、朝鮮の独立運動を支持しました。韓国国民が尊敬する人物です」という発表しました。
 学生の発表に触発されて、私も何度か日本民芸館へ見学に行き、柳宗悦についてくわしくなりました。

 最期の大韓帝国皇太子李垠の妃となった李方子(イ・バンジャ=梨本宮方子)を紹介した学生もいたし、安重根や従軍慰安婦問題をとりあげた学生もいました。

 数年前、クェートの学生が「歴史上の交流はおもいつかない」といいました。現代社会での石油の輸出輸入を発表してもよかったのですが、「現在のクエートの衣服と音楽とコーランの紹介」をしてもらうことにしました。

 アジアの学生たち、クエートといっても、石油のほかに思い浮かぶことがなく、アラビア語でコーランの一節を朗唱したテープを聴くのもはじめてで、とても興味をもってくれました。
 発表した学生は日本語がいちばん弱い学生でしたが、発表が好評だったので、自国の文化に誇りをもち、上の学年に進級していきました。

 交換留学生として半年だけクラスに在籍したインドの学生に、インディラ・ガンジーの紹介はどうですか、と水をむけてみました。ネール首相、その娘のインディラ首相も日本に「象」をプレゼントしてくれ、日本人にはなじみのあるインド人です。でも、彼は政治家は好きじゃないという。新宿中村屋の娘、相馬俊子と結婚したラス・ビハーリー・ボースも、私にとって興味深い人物でしたが、彼はボースにも、興味がわかないらしい。

 彼は、「クエートの衣服」発表の大成功を見て、自分もインドの衣服を紹介するのだ、と、はりきりました。
 インドの衣服は、時代によっても地域によっても階級(カースト)によっても違います。

 発表のために調べているうち、留学生は「自分の出身階級に誇りをもってきたけれど、日本で発表の準備をしているうちに、低い階級に差別感を持っていた自分に気づいた」と、感じるようになりました。

 自国の文化を、他国に身をおいて客観的にながめるうち、「身分制度」にとらわれてきた自分の姿に気づいたのです。カースト制度は法的には廃止されているけれど、実際の生活では大きな影響力をもっています。就職にも結婚にもカーストの制約があります。
 留学生活は、そのような制度を外から見直す目を与えたのです。

 ちなみに、IT産業がインドで盛んになってきたのは、近年発達した現代産業にはカースト制度の制約がないからだそうです。生まれ出自に関係なく、自分の持つ能力を発揮できる分野、そんな新しい産業へ有能な人々が集まることで、インドの新しい社会が活性化してきている、そんなインド国内事情も、私は留学生から学びました。

<つづく>


2007/03/14 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(16)八田ダム、禹長春のキムチ

 台湾の学生が「八田與一」について、発表したとき、私は八田についてほとんど知りませんでした。
 「台湾の嘉南平野にダムを築き、今なお地元の人々に敬愛されている日本人」として、司馬遼太郎の『台湾紀行』などにもとりあげられている人物とわかり、八田について調べる機会となりました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm
 いまでも地元の人によって顕彰され続けていると知って、とてもうれしく思います。

 2006年も、さまざまな事項や人物についての発表がありました。
 モンゴルの学生には「モンゴル相撲について、発表してほしい」と、リクエストをだしてみました。しかし、彼は、「今年は1206年にチンギスハーンがモンゴル帝国を樹立してから建国800年にあたるので、ぜひともチンギスハーンとフビライの元寇について発表したい」というので、トピックは「元寇」になりました。

 元寇について、私にとっては新たな発見はありませんでしたが、留学生たちは、チンギスハンやフビライについてあまり知らない人もいたので、質問がたくさん出て、発表者と教師が回答していきました。

 私がまったく知らなかった人物について知ることもできました。
 韓国の育種学者「禹長春ウーチャンチュン」について。
 私は禹長春について、今まで何も知りませんでした。

 禹長春は、日本人を母とする在日韓国人として50歳までの半生を日本で過ごしました。日本名は須永長春(すなが ながはる)
 東京大学から博士号を受け、日本で研究者として地位を築きました。日本人女性と結婚、子も生まれ、そのまま日本にいても、すぐれた業績を残す生涯を過ごせたことでしょう。

 しかし、かれは50歳をすぎ、残りの人生を韓国の植物学研究に捧げました。
 ジャガイモや種なしスイカなど、たくさんの植物についての研究が実りました。
 白菜の品種改良に取り組み、「韓国キムチの父」として、韓国の人々の中にウー博士を知らない人はいないそうです。

 「韓国の第二回目の文化褒章(日本の文化勲章ににあたる)を得た」という発表をきいて、韓国からの留学生たちは、「ウー博士が韓国文化褒章を得た偉い学者だということはとても有名で、子供でも知っていることだが、お母さんが日本人だったことは、はじめて知った」と、驚いていました。
 ウー博士の子供たちは日本で育ちました。四女の須永朝子は京セラ創業者の稲盛和夫の夫人。

 発表を重ねてきて、学生同士、お互いに新しい知識を与えあい、これまで知らなかった事実を知って、目が見開かれていきます。

 タイからの学生は、ほとんどが「アユタヤ日本人町と山田長政」についての発表になります。近代以後では関わりを深めた日本とタイですが、江戸時代以前では、山田長政以外のトピックで、資料を見つけることがむずかしいので。

 今年もタイの学生は山田長政ついて発表したのですが、他の留学生たち、近代以前に日本とタイに関わりがあったことをはじめて知ったという学生が多く、さまざまに興味を呼び起こしました。

<つづく>


2007/03/15 木 
ニッポニアニッポン語教師日誌>日本事情(17)漱石の漢詩、満鉄あじあ号

 人物紹介以外では、さまざまな事物の交流がトピックになりました。
 「饅頭の伝来」「琴」「鏡」「囲碁・将棋」「お茶」「砂糖」「漢方薬」「算盤」などの文物の往来について、それぞれとても興味深い発表になりました。

 中国の琴と和琴(わごん)の違いとか、将棋の日中のルールの違い、鏡や算盤の歴史など、私のトリビア袋がどんどんふくらむ発表が相次ぎました。

 「日本のお札の顔」や「日本の文学者紹介」で人気の夏目漱石、今年は文化発表でとりあげる人がいなかったなあと思っていたら、交流史のほうで、「漱石と漢詩」についての発表がありました。

 夏目漱石の教養の基盤となっていたのが、漢詩漢文学であることについて、どのような漢詩漢文を学び、それが彼の俳句や小説、英文学研究にどのように反映されているかを考察した発表です。
 私も、これまで漱石と英文学については調べたことがありますが、漱石と漢文学については、一般常識の範囲でしか知りませんでしたから、学生の熱心な発表に感銘を受けました。

 日本近代文学の成立に漢詩漢文がどのくらい深い影響を残しているのか、まったく知らない留学生もいるので、森鴎外、幸田露伴など明治の文学者の基礎的な素養として漢詩漢文学があったことを補足説明しました。

 漱石は漢文の素養が深く、中国大陸の旅行を望んでいました。
 1909(明治42)年、漱石は、大学予備門時代の友人だった中村是公の誘いで、満州に旅行しました。中村は当時、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁でした。
 漱石は『満州旅行日記』( 明治42年9月1日~10月17日 )を残しています。

 2006年の印象深かった発表のひとつに、「南満州鉄道」を取り上げた学生がいたことがあげられます。
 私は、12年前に中国東北地方で半年間をすごしたました。旧満州時代の歴史的事実について、否定的な意見をもち、南満州鉄道についても、その侵略的な面にマイナス評価を下す意見を中国の人々から聞くことが多かった。

 しかし、今年はじめて、満鉄に対して「日本が中国に残したインフラストラクチュアのひとつ」として高く評価するという意見を、若い世代から聞きました。
 満鉄が人民中国の発達に寄与した面もあることを肯定的に評価する発表をきいて、「偽満州帝国」への歴史的評価に、否定面だけで評価するのではない動きが出てきたのかなと思いました。

 昨年満鉄操業百年を期して、日本側からも満鉄研究の新しい動きが出てきたことも影響しているのかもしれません。客観的に歴史事実を研究していき、真実を明らかにしていこうとする相互の努力がこれからの歴史研究にも求められるでしょう。 

<つづく>

2007/03/16 日

次の時代へ

 1ヶ月前、娘、息子といっしょに上戸彩主演のテレビドラマ『李香蘭』を見ました。
 2003年に放映された『流転の王妃』を見て、天海祐希が演じた李香蘭に興味をもっていた娘が、見たい、と言ってチャンネルを合わせたのです。

 上戸彩の演技力歌唱力で、どこまで見ていられるかしら、と心配しながらでしたが、主演も助演もがんばってよいドラマになっていたと思います。
 もともとのドラマが波瀾万丈の自伝ですから、最後まで見ることができました。

 私は、数年前に、藤原作弥と山口淑子共著の『李香蘭・私の半生』を読みました。
 今回のドラマの原作は山口淑子自伝の『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』なので、「自己美化」の部分があるかなと思いましたが、満州国策の道具として中国人を演じなければならない女優であったこと、日中のはざまでゆれ、あわや死刑の可能性もあった李香蘭をきちんと描いていたと思います。

 李香蘭の父親は、南満州鉄道(満鉄)の中国語教師として、社員教育にあたっていました。満鉄社員は中国語習得が義務だったので。

 父親は「自分がこうして日本人に中国語を教え、中国人の友人と親しく交際することは、日中友好のためにも役立つこと」という信念をもって中国語教育を行っていたのでしょうが、敗戦となったあとは、日本人が自分たちの思いこみで「五族共和」「亜細亜はひとつ」と言っていたことが、結局は中国人の幸福のために寄与するものではなかったことを思い知りました。

 一方的にではなく、お互いの気持ちを通わせ合って、世界中のひとと交流したい。
 2007年、私はよりいっそう中国東北部、旧満州地域と関わり深くすごすことになると思います。
 もっともっと深く、いろいろなことに触れたいです。

 留学生たち、自国と日本との交流史実を発表したあと、みな、「自分たちの国が歴史的に深い絆で結ばれてきたことがよくわかった。わたしもこれからの両国の交流に役立つ人になりたい」と、意欲を燃やします。

 今はまだ、アジア共同体構想も「夢物語」と思われています。
 でも、ヨーロッパ共同体EUも、リヒャルト・英次郎・クーデンホーフが「ヨーロッパをひとつにまとめたい」と、言い出したときは、「夢のまた夢」と思われていたのです。

 留学生たちの真剣な学びを見ていて、今は夢物語の「アジア共同体」が、いつの日にか、平等な関係と対等な交流によって構築でき、人々が生き生きと交歓する日が実現すると、私は信じています。

<日本事情10年の実践 おわり>