結論
本論では、下記の構成において日本語言語文化における<主体>と<主体性>について考察した。
第1章 日本語における<主体>と<主語>
第2章 日本語言語文化における<主体>と<主体性>
第3章 日本語の<主体>と<主体性>を反映させた日本語教育
考察のまとめは各章の最後にあるが、全体をまとめておきたい。
近代の日本社会においては、<主体性>を発揮することが社会全体で求められてきた。これは日本社会が<主体性>を発揮しにくい社会であるという暗黙の前提によって追求されてきたことで、この点は文部科学省の指導要領などに繰り返し言及されてきたことにも表れている。<主体性>を自立性、独立性、個人性などの語と同義であるとみなすと、国をあげて「我々には主体性がない」と言っているかのごとくである。日本語を母語とする日本語母語話者の社会は、「1億3千万人がほぼひとつの母語によって生活している」という世界の中でも数少ない「同一言語社会」を形成している。多民族多宗教多言語社会が多くの国民国家の常態であるのに比べると、同質性の高い社会であることはまちがいない。人は言語によって社会的動物となり、言語によって互いの存在を確認しつつ交流することのできる動物であるから、社会生活において言語は人が人らしく生きるための最大の武器であり財産となっていることは疑うことはできない。言語と文化には深い結びつきがあり、言語によって人の思考方法が決定されたり、語彙の差によって思考方法に違いが出たりする部分があることは、色彩表現にみる言語の比較などからもうかがうことができる。しかし、ある文化において特徴的な社会的性質が、すべて言語から生じることもないし、言語がまったく社会や文化に影響を与えないこともない。ある言語の構造が社会的特徴の原因であるのかあるいは結果であるのかについては、慎重な考察が必要であろう。
日本語は、一般的な発話においては、発話主体(話し手・語り手)は背景化され、発話主体が述語の主語であるなら、主語は明示されない。また、ある事象の言語化にあたって、西洋語が「主語+他動詞述語+目的語」の文型により、動作主が目的語(対象語)に変化を加えることによって描写することを主な表現形式とするのに対して、日本語は事象推移を主な表現形式とし、「主語+自動詞述語」によって表現されることが多いとされている。他動詞述語が用いられるときも主語は背景化され、明示されないのが通常の日本語表現である。動作行為主体を明示しないことに対して、「日本語は動作主を明示せず、行為の責任者を明らかにしたがらない言語である」という日本語観が提出され、日本語を母語とする者の中にも、これを肯定し「日本人が集団主義をとり、個人の意志を主体的に示すことが少ないのは、日本語が主語を明確にしない言語だからである」と、論じられることも多かったのである。最近の日本語論の中では、金谷武洋や内田樹が「主語なし文と日本人の集団主義の関連」をあげている。また、井上ひさしは戯曲『夢の痂』において、主人公に「日本語は主語を隠してきた。状況を主語とするために、主体的な行動をとらず、命じられるままに従う国民になっていた」と語らせている。第1章第3節は、日本人の文法感覚の検証として、井上ひさしの『夢の痂』を取り上げて、日本人の日本語と<主体>に関する意識を考察した。「日本語が主語を明示しないことによって、行為主体としての存在であることを免れようとしている」という日本語観が、日本語母語話者によっても信じられていることを確認した。
日本社会に生きている者が、個人主義よりも集団での思考行動を採用すること、全体の中でひとり際立つことを避けようとすることなどは、社会心理学などの研究によっても明らかにされ、『タテ社会の人間関係』『世間とは何か』『空気の研究』などをはじめ日本社会の集団主義については言及が続けられてきた。しかし、では、日本社会の集団主義は言われているように、日本語が主語を明示しない言語であるゆえ、個人の存在が薄れ集団の中に埋没することによるという論理は事実なのだろうか。日本社会の非個人性、非主体性は、日本語の特質から生じるといえるのだろうか。本稿の出発点のひとつは、この「日本語は主語を明示しないことによって、動作主、行為主体を曖昧にしている言語である」ということが事実であるのか、検証することにあった。日本語の統語構造を検討した限りでは、日本語の主語非明示は、他の多くの言語が持つ特徴と共通していることであり、むしろ主語を明示しなければ表現が成立しにくい西洋語のほうが特殊な言語であることがわかった。世界における三千~五千の言語の類型から言えば、日本語は多数派を占めるほうの、主語をいちいち言わなくても表現できるタイプの言語に属しているのである。
日本語教育に携わる者は、ことに西洋語を母語とし、西洋語の構造が「唯一正しい」と思い込んでいる日本語学習者に、日本語表現の在り方を理解させ、日本語を日本語の構造の中で理解させる必要がある。言語活動において、人がつまずきを感じる大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」機会においてであるが、日本語を母語としない学習者が日本語を習得する際に「単語も文型もわかっているのに、理解できない日本語文がある」という感想を持つことは、日本語教師として日本語と日本文化を教える仕事を1988年より20余年続けてきた筆者にはしばしば遭遇することであった。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることから、筆者は、日本語の特質、とくに「主語無し文」「他動詞なのに他動性を発揮していない文」について考察を続けた。日本語は発話主体を背景化し、話し手と聞き手双方にとって自明のことであり、旧情報に属すると思われることがらは、いちいち明示することなく表現する言語であると学習者に伝える必要があることを、日本語教育において「日本語の表現」として学習者に系統的に教える必要があると考える。
本稿は、まず日本語の統語構造において、また言語文化においての<主体>を確認した。次に日本語と日本語言語文化に対して<主体性>欠如の日本言語文化、日本人という論を検討し、日本語が<主語>を表さない言語ゆえに、日本人は<主体性>を発揮できないのだ、という言説がその通りなのかどうか、検証した。その結果得られた日本語の<主体>また<主体性>についての考察を日本語教育の指導法に積極的に活用する方策を考察した。
本稿は、日本語言語表現を、文単位の表現から小説として表現された作品までを見渡す意図をもって<主体>を考察した。日本語の<主体>は、他動詞能動文であっても、「自己をとりまく環境の中で、述語によって表現された事象推移の中心者として事象の認識者となる」のであって、「動作行為者」としてのみ表現されているのではないことを確認した。本稿は、再帰的他動詞文や授動詞文の分析を通して、以下のことを考察した。
(1)日本語は、表現主体の認識や知覚感覚を客観化を経ずに直接表現できる言語である。「痛い!」や「ああ、もうダメだ」など、表現主体の意識、感覚を表現主体を背景化したまま表現する。
(2)日本語の他動詞文は、自動詞文と異なる表現をするのではない。他動詞文も自動詞文も、「事態の推移」を表現している。「Aが木を切った」という表現は、木こりAが木に対して「切る」という動作を加える、という現実を表現していると見なすこともできるし、山林の持ち主Aが木こりに依頼して持ち山の木を切らせたときにも「Aが木を切った」と表現できる。日本語の他動詞文は、他動詞の内容を実現する場となる主語が、principalでもagentでも表現できる。そのとき、主語と客語は合一的に事象の中に存在し、述語の内容である事象の推移の中に存在する。再帰的他動詞においては、<主体>と<客体>が合一的に事象の推移の主体として述語の実現する場として存在しており、日本語表現にあっては、他動詞文も自動詞文と同じように「事象の推移」を表現しているのである。日本語は、自己の認識した外界の事象を、表現主体の主観による直接的な表現として表すものである。外界への認識を全体的に捉えて事象の推移を表現する自動詞文は、状態主体を文の中心者として表現する。他動詞文は、動作行為者を<主語>として<客体>へ動作行為を向ける他動詞文もあり、<主体>は<客体>と所属関係を持ち、動詞文全体で事象の推移を表す再帰的他動詞文もある。自動詞と他動詞は截然と区切って用いられるのではなく、他動性の強さによって、段階的に移行する。また、動詞内容の完結性(限界性)によって、自動詞表現のほうがより、強い完結性を有するために、他動詞表現が用いられない場合もある。
日本語は、情報の伝達を行う場合、「主題・解説」の構造による文が表現の大きな部分を占める。日本語の主語、主体などの用語は、西洋語の文法的範疇と一致する面も備えているが、統語が異なる西洋語の主語、主体とは異なる面も持っている。subjectの訳語としての主語から出発していても、日本語は日本語統語の範囲で主語を捉えていかなければならない。
第2章は、第1節で現代日本語言語文化の中に表現されている<主体>、<主体性>とその意味を考察した。<主体性>という語の持つ意味に「主観性」と「自立性・独立性」の両義があり、分野によって一方の意味に偏って用いられることもある。しかし、<主体>という本来の語に立ち戻って文の成立、文章の成り立ちを考えれば、表現主体の<主体>としての存在が表れるのは、主観によるのであり、主観が主体の<主体性>を支えている。日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察し、subjectivityの訳の<主体性>と<主観性>の語義を確認した。第2章第2節では哲学、言語学などの<主体性>の意味を確認した。言語学においても、「自己をとりまく環境の中で、<主体>がそこに実現するという意味での<主体性>」と、「陳述的な主体性」を表現する<主観性>に分裂して訳され使用されてきた。日本語においては表現主体の主観性は述語の叙述形式に示され、テンス・アスペクト・ヴォイス、授受関係、待遇表現など、動詞述語の表現形式の多くに表現主体が<主体性>を持って選んだ叙述が表れることを確認した。日本語は<主体性>によって表現される言語である。第3節では、具体的な作品分析として、太宰治の「富嶽百景」を取り上げ、表現主体とその主観、そして両者の統合としての<主体性>の表現を考察した。表現主体太宰治は、小説中「私」という自称で登場し、小説は一貫して「私」の視点によって描写されている。述語文体を検討し、太宰の<主体性>により叙述形式が選ばれ、小説全体の<主体性>を支えていることを考察した。小説『富嶽百景』を主人公の心理的な自立性回復の物語と解釈するとき、主人公の心理的自立性確立は、叙述の形式の<主体性>によって支えられていることが観察できたのである。
第3章は、第1節で日本語教育の立場から<主体>の理解と教育について考察した。中国人学生の誤用分析を行い、自動詞文他動詞文の<主体>を誤解せずに受け止められるための読解力養成を考察した。日本語教育実践例を紹介し、日本語教育において<主体>、<主体性>について、日本語学習者にとって躓きとなる、自動詞他動詞の<主語>の誤用、授受動詞文の<主語>と<受益者>の誤用を見た。また、表現主体の視点がどのように表示されているかを理解することにより、明示されていない<主体>をわからせるための指導法について述べた。第2節で、日本語文を英語訳と対照しつつ、翻訳に頼らない読解を可能にするための日本語読解を探り、絵による表現などで、日本語が表現主体を背景化しつつ事象を描写するとき、どのような表現形式がとられるか、日本語学習者に指導すべき点について考察した。第3節では、日本語文読解授業の実践を通して日本語文のよりよい理解を探求した。
日本語学習者は、日本語の表現方法を学ばせることにより、誤解しがちな自動詞文他動詞文の主語、授受表現も理解できるようになる。読解において翻訳を補助的に用いることを否定するものではないが、「場面を絵に描いてみる」などの方法を用いることによって、日本語表現をそのまま受容することも容易になる。日本語を日本語として理解し味わうことは、日本語を母語としない者にとっても可能なことであると、日本語教育を通して主張することができる。
「はじめに」で示した日本語教育における問題点について、(1)日本語教育テキストなどへの文法記述がまだ十分とはいえない。(3)学習者の母語干渉の強弱が、母語ごとにどのように学習困難点をもたらすのかについて、研究はまだ不十分である。この2点については、今後の日本語教育の進展に待たねばならない。しかし、(2)日本語教師による授業で、最新の文法記述を生かす、という面においては、教師それぞれの指導力によって学習者の読解力を十分に伸ばしていくことのできる文法指導が可能であるとの確信を得ることができた。
筆者は、2011年に中国で発行される日本語教科書『南京大学 日本語会話』、『東北師範大学 新概念日本語中級読解』の執筆者として会話スクリプトと読解本文を担当したが、今後は、(1)(2)の面でも日本語教育に貢献できる道をさぐることが課題となる。これからの日本語教育に、文法研究と言語文化研究の成果を反映していきたい。
本論では、下記の構成において日本語言語文化における<主体>と<主体性>について考察した。
第1章 日本語における<主体>と<主語>
第2章 日本語言語文化における<主体>と<主体性>
第3章 日本語の<主体>と<主体性>を反映させた日本語教育
考察のまとめは各章の最後にあるが、全体をまとめておきたい。
近代の日本社会においては、<主体性>を発揮することが社会全体で求められてきた。これは日本社会が<主体性>を発揮しにくい社会であるという暗黙の前提によって追求されてきたことで、この点は文部科学省の指導要領などに繰り返し言及されてきたことにも表れている。<主体性>を自立性、独立性、個人性などの語と同義であるとみなすと、国をあげて「我々には主体性がない」と言っているかのごとくである。日本語を母語とする日本語母語話者の社会は、「1億3千万人がほぼひとつの母語によって生活している」という世界の中でも数少ない「同一言語社会」を形成している。多民族多宗教多言語社会が多くの国民国家の常態であるのに比べると、同質性の高い社会であることはまちがいない。人は言語によって社会的動物となり、言語によって互いの存在を確認しつつ交流することのできる動物であるから、社会生活において言語は人が人らしく生きるための最大の武器であり財産となっていることは疑うことはできない。言語と文化には深い結びつきがあり、言語によって人の思考方法が決定されたり、語彙の差によって思考方法に違いが出たりする部分があることは、色彩表現にみる言語の比較などからもうかがうことができる。しかし、ある文化において特徴的な社会的性質が、すべて言語から生じることもないし、言語がまったく社会や文化に影響を与えないこともない。ある言語の構造が社会的特徴の原因であるのかあるいは結果であるのかについては、慎重な考察が必要であろう。
日本語は、一般的な発話においては、発話主体(話し手・語り手)は背景化され、発話主体が述語の主語であるなら、主語は明示されない。また、ある事象の言語化にあたって、西洋語が「主語+他動詞述語+目的語」の文型により、動作主が目的語(対象語)に変化を加えることによって描写することを主な表現形式とするのに対して、日本語は事象推移を主な表現形式とし、「主語+自動詞述語」によって表現されることが多いとされている。他動詞述語が用いられるときも主語は背景化され、明示されないのが通常の日本語表現である。動作行為主体を明示しないことに対して、「日本語は動作主を明示せず、行為の責任者を明らかにしたがらない言語である」という日本語観が提出され、日本語を母語とする者の中にも、これを肯定し「日本人が集団主義をとり、個人の意志を主体的に示すことが少ないのは、日本語が主語を明確にしない言語だからである」と、論じられることも多かったのである。最近の日本語論の中では、金谷武洋や内田樹が「主語なし文と日本人の集団主義の関連」をあげている。また、井上ひさしは戯曲『夢の痂』において、主人公に「日本語は主語を隠してきた。状況を主語とするために、主体的な行動をとらず、命じられるままに従う国民になっていた」と語らせている。第1章第3節は、日本人の文法感覚の検証として、井上ひさしの『夢の痂』を取り上げて、日本人の日本語と<主体>に関する意識を考察した。「日本語が主語を明示しないことによって、行為主体としての存在であることを免れようとしている」という日本語観が、日本語母語話者によっても信じられていることを確認した。
日本社会に生きている者が、個人主義よりも集団での思考行動を採用すること、全体の中でひとり際立つことを避けようとすることなどは、社会心理学などの研究によっても明らかにされ、『タテ社会の人間関係』『世間とは何か』『空気の研究』などをはじめ日本社会の集団主義については言及が続けられてきた。しかし、では、日本社会の集団主義は言われているように、日本語が主語を明示しない言語であるゆえ、個人の存在が薄れ集団の中に埋没することによるという論理は事実なのだろうか。日本社会の非個人性、非主体性は、日本語の特質から生じるといえるのだろうか。本稿の出発点のひとつは、この「日本語は主語を明示しないことによって、動作主、行為主体を曖昧にしている言語である」ということが事実であるのか、検証することにあった。日本語の統語構造を検討した限りでは、日本語の主語非明示は、他の多くの言語が持つ特徴と共通していることであり、むしろ主語を明示しなければ表現が成立しにくい西洋語のほうが特殊な言語であることがわかった。世界における三千~五千の言語の類型から言えば、日本語は多数派を占めるほうの、主語をいちいち言わなくても表現できるタイプの言語に属しているのである。
日本語教育に携わる者は、ことに西洋語を母語とし、西洋語の構造が「唯一正しい」と思い込んでいる日本語学習者に、日本語表現の在り方を理解させ、日本語を日本語の構造の中で理解させる必要がある。言語活動において、人がつまずきを感じる大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」機会においてであるが、日本語を母語としない学習者が日本語を習得する際に「単語も文型もわかっているのに、理解できない日本語文がある」という感想を持つことは、日本語教師として日本語と日本文化を教える仕事を1988年より20余年続けてきた筆者にはしばしば遭遇することであった。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることから、筆者は、日本語の特質、とくに「主語無し文」「他動詞なのに他動性を発揮していない文」について考察を続けた。日本語は発話主体を背景化し、話し手と聞き手双方にとって自明のことであり、旧情報に属すると思われることがらは、いちいち明示することなく表現する言語であると学習者に伝える必要があることを、日本語教育において「日本語の表現」として学習者に系統的に教える必要があると考える。
本稿は、まず日本語の統語構造において、また言語文化においての<主体>を確認した。次に日本語と日本語言語文化に対して<主体性>欠如の日本言語文化、日本人という論を検討し、日本語が<主語>を表さない言語ゆえに、日本人は<主体性>を発揮できないのだ、という言説がその通りなのかどうか、検証した。その結果得られた日本語の<主体>また<主体性>についての考察を日本語教育の指導法に積極的に活用する方策を考察した。
本稿は、日本語言語表現を、文単位の表現から小説として表現された作品までを見渡す意図をもって<主体>を考察した。日本語の<主体>は、他動詞能動文であっても、「自己をとりまく環境の中で、述語によって表現された事象推移の中心者として事象の認識者となる」のであって、「動作行為者」としてのみ表現されているのではないことを確認した。本稿は、再帰的他動詞文や授動詞文の分析を通して、以下のことを考察した。
(1)日本語は、表現主体の認識や知覚感覚を客観化を経ずに直接表現できる言語である。「痛い!」や「ああ、もうダメだ」など、表現主体の意識、感覚を表現主体を背景化したまま表現する。
(2)日本語の他動詞文は、自動詞文と異なる表現をするのではない。他動詞文も自動詞文も、「事態の推移」を表現している。「Aが木を切った」という表現は、木こりAが木に対して「切る」という動作を加える、という現実を表現していると見なすこともできるし、山林の持ち主Aが木こりに依頼して持ち山の木を切らせたときにも「Aが木を切った」と表現できる。日本語の他動詞文は、他動詞の内容を実現する場となる主語が、principalでもagentでも表現できる。そのとき、主語と客語は合一的に事象の中に存在し、述語の内容である事象の推移の中に存在する。再帰的他動詞においては、<主体>と<客体>が合一的に事象の推移の主体として述語の実現する場として存在しており、日本語表現にあっては、他動詞文も自動詞文と同じように「事象の推移」を表現しているのである。日本語は、自己の認識した外界の事象を、表現主体の主観による直接的な表現として表すものである。外界への認識を全体的に捉えて事象の推移を表現する自動詞文は、状態主体を文の中心者として表現する。他動詞文は、動作行為者を<主語>として<客体>へ動作行為を向ける他動詞文もあり、<主体>は<客体>と所属関係を持ち、動詞文全体で事象の推移を表す再帰的他動詞文もある。自動詞と他動詞は截然と区切って用いられるのではなく、他動性の強さによって、段階的に移行する。また、動詞内容の完結性(限界性)によって、自動詞表現のほうがより、強い完結性を有するために、他動詞表現が用いられない場合もある。
日本語は、情報の伝達を行う場合、「主題・解説」の構造による文が表現の大きな部分を占める。日本語の主語、主体などの用語は、西洋語の文法的範疇と一致する面も備えているが、統語が異なる西洋語の主語、主体とは異なる面も持っている。subjectの訳語としての主語から出発していても、日本語は日本語統語の範囲で主語を捉えていかなければならない。
第2章は、第1節で現代日本語言語文化の中に表現されている<主体>、<主体性>とその意味を考察した。<主体性>という語の持つ意味に「主観性」と「自立性・独立性」の両義があり、分野によって一方の意味に偏って用いられることもある。しかし、<主体>という本来の語に立ち戻って文の成立、文章の成り立ちを考えれば、表現主体の<主体>としての存在が表れるのは、主観によるのであり、主観が主体の<主体性>を支えている。日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察し、subjectivityの訳の<主体性>と<主観性>の語義を確認した。第2章第2節では哲学、言語学などの<主体性>の意味を確認した。言語学においても、「自己をとりまく環境の中で、<主体>がそこに実現するという意味での<主体性>」と、「陳述的な主体性」を表現する<主観性>に分裂して訳され使用されてきた。日本語においては表現主体の主観性は述語の叙述形式に示され、テンス・アスペクト・ヴォイス、授受関係、待遇表現など、動詞述語の表現形式の多くに表現主体が<主体性>を持って選んだ叙述が表れることを確認した。日本語は<主体性>によって表現される言語である。第3節では、具体的な作品分析として、太宰治の「富嶽百景」を取り上げ、表現主体とその主観、そして両者の統合としての<主体性>の表現を考察した。表現主体太宰治は、小説中「私」という自称で登場し、小説は一貫して「私」の視点によって描写されている。述語文体を検討し、太宰の<主体性>により叙述形式が選ばれ、小説全体の<主体性>を支えていることを考察した。小説『富嶽百景』を主人公の心理的な自立性回復の物語と解釈するとき、主人公の心理的自立性確立は、叙述の形式の<主体性>によって支えられていることが観察できたのである。
第3章は、第1節で日本語教育の立場から<主体>の理解と教育について考察した。中国人学生の誤用分析を行い、自動詞文他動詞文の<主体>を誤解せずに受け止められるための読解力養成を考察した。日本語教育実践例を紹介し、日本語教育において<主体>、<主体性>について、日本語学習者にとって躓きとなる、自動詞他動詞の<主語>の誤用、授受動詞文の<主語>と<受益者>の誤用を見た。また、表現主体の視点がどのように表示されているかを理解することにより、明示されていない<主体>をわからせるための指導法について述べた。第2節で、日本語文を英語訳と対照しつつ、翻訳に頼らない読解を可能にするための日本語読解を探り、絵による表現などで、日本語が表現主体を背景化しつつ事象を描写するとき、どのような表現形式がとられるか、日本語学習者に指導すべき点について考察した。第3節では、日本語文読解授業の実践を通して日本語文のよりよい理解を探求した。
日本語学習者は、日本語の表現方法を学ばせることにより、誤解しがちな自動詞文他動詞文の主語、授受表現も理解できるようになる。読解において翻訳を補助的に用いることを否定するものではないが、「場面を絵に描いてみる」などの方法を用いることによって、日本語表現をそのまま受容することも容易になる。日本語を日本語として理解し味わうことは、日本語を母語としない者にとっても可能なことであると、日本語教育を通して主張することができる。
「はじめに」で示した日本語教育における問題点について、(1)日本語教育テキストなどへの文法記述がまだ十分とはいえない。(3)学習者の母語干渉の強弱が、母語ごとにどのように学習困難点をもたらすのかについて、研究はまだ不十分である。この2点については、今後の日本語教育の進展に待たねばならない。しかし、(2)日本語教師による授業で、最新の文法記述を生かす、という面においては、教師それぞれの指導力によって学習者の読解力を十分に伸ばしていくことのできる文法指導が可能であるとの確信を得ることができた。
筆者は、2011年に中国で発行される日本語教科書『南京大学 日本語会話』、『東北師範大学 新概念日本語中級読解』の執筆者として会話スクリプトと読解本文を担当したが、今後は、(1)(2)の面でも日本語教育に貢献できる道をさぐることが課題となる。これからの日本語教育に、文法研究と言語文化研究の成果を反映していきたい。