にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

日本語言語文化における<主体>と<主体性> 結論

2010-02-28 12:53:00 | 日本語言語文化
結論

 本論では、下記の構成において日本語言語文化における<主体>と<主体性>について考察した。
第1章 日本語における<主体>と<主語>
第2章 日本語言語文化における<主体>と<主体性>
第3章 日本語の<主体>と<主体性>を反映させた日本語教育
考察のまとめは各章の最後にあるが、全体をまとめておきたい。
 近代の日本社会においては、<主体性>を発揮することが社会全体で求められてきた。これは日本社会が<主体性>を発揮しにくい社会であるという暗黙の前提によって追求されてきたことで、この点は文部科学省の指導要領などに繰り返し言及されてきたことにも表れている。<主体性>を自立性、独立性、個人性などの語と同義であるとみなすと、国をあげて「我々には主体性がない」と言っているかのごとくである。日本語を母語とする日本語母語話者の社会は、「1億3千万人がほぼひとつの母語によって生活している」という世界の中でも数少ない「同一言語社会」を形成している。多民族多宗教多言語社会が多くの国民国家の常態であるのに比べると、同質性の高い社会であることはまちがいない。人は言語によって社会的動物となり、言語によって互いの存在を確認しつつ交流することのできる動物であるから、社会生活において言語は人が人らしく生きるための最大の武器であり財産となっていることは疑うことはできない。言語と文化には深い結びつきがあり、言語によって人の思考方法が決定されたり、語彙の差によって思考方法に違いが出たりする部分があることは、色彩表現にみる言語の比較などからもうかがうことができる。しかし、ある文化において特徴的な社会的性質が、すべて言語から生じることもないし、言語がまったく社会や文化に影響を与えないこともない。ある言語の構造が社会的特徴の原因であるのかあるいは結果であるのかについては、慎重な考察が必要であろう。
 日本語は、一般的な発話においては、発話主体(話し手・語り手)は背景化され、発話主体が述語の主語であるなら、主語は明示されない。また、ある事象の言語化にあたって、西洋語が「主語+他動詞述語+目的語」の文型により、動作主が目的語(対象語)に変化を加えることによって描写することを主な表現形式とするのに対して、日本語は事象推移を主な表現形式とし、「主語+自動詞述語」によって表現されることが多いとされている。他動詞述語が用いられるときも主語は背景化され、明示されないのが通常の日本語表現である。動作行為主体を明示しないことに対して、「日本語は動作主を明示せず、行為の責任者を明らかにしたがらない言語である」という日本語観が提出され、日本語を母語とする者の中にも、これを肯定し「日本人が集団主義をとり、個人の意志を主体的に示すことが少ないのは、日本語が主語を明確にしない言語だからである」と、論じられることも多かったのである。最近の日本語論の中では、金谷武洋や内田樹が「主語なし文と日本人の集団主義の関連」をあげている。また、井上ひさしは戯曲『夢の痂』において、主人公に「日本語は主語を隠してきた。状況を主語とするために、主体的な行動をとらず、命じられるままに従う国民になっていた」と語らせている。第1章第3節は、日本人の文法感覚の検証として、井上ひさしの『夢の痂』を取り上げて、日本人の日本語と<主体>に関する意識を考察した。「日本語が主語を明示しないことによって、行為主体としての存在であることを免れようとしている」という日本語観が、日本語母語話者によっても信じられていることを確認した。
 日本社会に生きている者が、個人主義よりも集団での思考行動を採用すること、全体の中でひとり際立つことを避けようとすることなどは、社会心理学などの研究によっても明らかにされ、『タテ社会の人間関係』『世間とは何か』『空気の研究』などをはじめ日本社会の集団主義については言及が続けられてきた。しかし、では、日本社会の集団主義は言われているように、日本語が主語を明示しない言語であるゆえ、個人の存在が薄れ集団の中に埋没することによるという論理は事実なのだろうか。日本社会の非個人性、非主体性は、日本語の特質から生じるといえるのだろうか。本稿の出発点のひとつは、この「日本語は主語を明示しないことによって、動作主、行為主体を曖昧にしている言語である」ということが事実であるのか、検証することにあった。日本語の統語構造を検討した限りでは、日本語の主語非明示は、他の多くの言語が持つ特徴と共通していることであり、むしろ主語を明示しなければ表現が成立しにくい西洋語のほうが特殊な言語であることがわかった。世界における三千~五千の言語の類型から言えば、日本語は多数派を占めるほうの、主語をいちいち言わなくても表現できるタイプの言語に属しているのである。
 日本語教育に携わる者は、ことに西洋語を母語とし、西洋語の構造が「唯一正しい」と思い込んでいる日本語学習者に、日本語表現の在り方を理解させ、日本語を日本語の構造の中で理解させる必要がある。言語活動において、人がつまずきを感じる大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」機会においてであるが、日本語を母語としない学習者が日本語を習得する際に「単語も文型もわかっているのに、理解できない日本語文がある」という感想を持つことは、日本語教師として日本語と日本文化を教える仕事を1988年より20余年続けてきた筆者にはしばしば遭遇することであった。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることから、筆者は、日本語の特質、とくに「主語無し文」「他動詞なのに他動性を発揮していない文」について考察を続けた。日本語は発話主体を背景化し、話し手と聞き手双方にとって自明のことであり、旧情報に属すると思われることがらは、いちいち明示することなく表現する言語であると学習者に伝える必要があることを、日本語教育において「日本語の表現」として学習者に系統的に教える必要があると考える。
 本稿は、まず日本語の統語構造において、また言語文化においての<主体>を確認した。次に日本語と日本語言語文化に対して<主体性>欠如の日本言語文化、日本人という論を検討し、日本語が<主語>を表さない言語ゆえに、日本人は<主体性>を発揮できないのだ、という言説がその通りなのかどうか、検証した。その結果得られた日本語の<主体>また<主体性>についての考察を日本語教育の指導法に積極的に活用する方策を考察した。
本稿は、日本語言語表現を、文単位の表現から小説として表現された作品までを見渡す意図をもって<主体>を考察した。日本語の<主体>は、他動詞能動文であっても、「自己をとりまく環境の中で、述語によって表現された事象推移の中心者として事象の認識者となる」のであって、「動作行為者」としてのみ表現されているのではないことを確認した。本稿は、再帰的他動詞文や授動詞文の分析を通して、以下のことを考察した。
(1)日本語は、表現主体の認識や知覚感覚を客観化を経ずに直接表現できる言語である。「痛い!」や「ああ、もうダメだ」など、表現主体の意識、感覚を表現主体を背景化したまま表現する。
(2)日本語の他動詞文は、自動詞文と異なる表現をするのではない。他動詞文も自動詞文も、「事態の推移」を表現している。「Aが木を切った」という表現は、木こりAが木に対して「切る」という動作を加える、という現実を表現していると見なすこともできるし、山林の持ち主Aが木こりに依頼して持ち山の木を切らせたときにも「Aが木を切った」と表現できる。日本語の他動詞文は、他動詞の内容を実現する場となる主語が、principalでもagentでも表現できる。そのとき、主語と客語は合一的に事象の中に存在し、述語の内容である事象の推移の中に存在する。再帰的他動詞においては、<主体>と<客体>が合一的に事象の推移の主体として述語の実現する場として存在しており、日本語表現にあっては、他動詞文も自動詞文と同じように「事象の推移」を表現しているのである。日本語は、自己の認識した外界の事象を、表現主体の主観による直接的な表現として表すものである。外界への認識を全体的に捉えて事象の推移を表現する自動詞文は、状態主体を文の中心者として表現する。他動詞文は、動作行為者を<主語>として<客体>へ動作行為を向ける他動詞文もあり、<主体>は<客体>と所属関係を持ち、動詞文全体で事象の推移を表す再帰的他動詞文もある。自動詞と他動詞は截然と区切って用いられるのではなく、他動性の強さによって、段階的に移行する。また、動詞内容の完結性(限界性)によって、自動詞表現のほうがより、強い完結性を有するために、他動詞表現が用いられない場合もある。
 日本語は、情報の伝達を行う場合、「主題・解説」の構造による文が表現の大きな部分を占める。日本語の主語、主体などの用語は、西洋語の文法的範疇と一致する面も備えているが、統語が異なる西洋語の主語、主体とは異なる面も持っている。subjectの訳語としての主語から出発していても、日本語は日本語統語の範囲で主語を捉えていかなければならない。
 第2章は、第1節で現代日本語言語文化の中に表現されている<主体>、<主体性>とその意味を考察した。<主体性>という語の持つ意味に「主観性」と「自立性・独立性」の両義があり、分野によって一方の意味に偏って用いられることもある。しかし、<主体>という本来の語に立ち戻って文の成立、文章の成り立ちを考えれば、表現主体の<主体>としての存在が表れるのは、主観によるのであり、主観が主体の<主体性>を支えている。日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察し、subjectivityの訳の<主体性>と<主観性>の語義を確認した。第2章第2節では哲学、言語学などの<主体性>の意味を確認した。言語学においても、「自己をとりまく環境の中で、<主体>がそこに実現するという意味での<主体性>」と、「陳述的な主体性」を表現する<主観性>に分裂して訳され使用されてきた。日本語においては表現主体の主観性は述語の叙述形式に示され、テンス・アスペクト・ヴォイス、授受関係、待遇表現など、動詞述語の表現形式の多くに表現主体が<主体性>を持って選んだ叙述が表れることを確認した。日本語は<主体性>によって表現される言語である。第3節では、具体的な作品分析として、太宰治の「富嶽百景」を取り上げ、表現主体とその主観、そして両者の統合としての<主体性>の表現を考察した。表現主体太宰治は、小説中「私」という自称で登場し、小説は一貫して「私」の視点によって描写されている。述語文体を検討し、太宰の<主体性>により叙述形式が選ばれ、小説全体の<主体性>を支えていることを考察した。小説『富嶽百景』を主人公の心理的な自立性回復の物語と解釈するとき、主人公の心理的自立性確立は、叙述の形式の<主体性>によって支えられていることが観察できたのである。
 第3章は、第1節で日本語教育の立場から<主体>の理解と教育について考察した。中国人学生の誤用分析を行い、自動詞文他動詞文の<主体>を誤解せずに受け止められるための読解力養成を考察した。日本語教育実践例を紹介し、日本語教育において<主体>、<主体性>について、日本語学習者にとって躓きとなる、自動詞他動詞の<主語>の誤用、授受動詞文の<主語>と<受益者>の誤用を見た。また、表現主体の視点がどのように表示されているかを理解することにより、明示されていない<主体>をわからせるための指導法について述べた。第2節で、日本語文を英語訳と対照しつつ、翻訳に頼らない読解を可能にするための日本語読解を探り、絵による表現などで、日本語が表現主体を背景化しつつ事象を描写するとき、どのような表現形式がとられるか、日本語学習者に指導すべき点について考察した。第3節では、日本語文読解授業の実践を通して日本語文のよりよい理解を探求した。
 日本語学習者は、日本語の表現方法を学ばせることにより、誤解しがちな自動詞文他動詞文の主語、授受表現も理解できるようになる。読解において翻訳を補助的に用いることを否定するものではないが、「場面を絵に描いてみる」などの方法を用いることによって、日本語表現をそのまま受容することも容易になる。日本語を日本語として理解し味わうことは、日本語を母語としない者にとっても可能なことであると、日本語教育を通して主張することができる。
 「はじめに」で示した日本語教育における問題点について、(1)日本語教育テキストなどへの文法記述がまだ十分とはいえない。(3)学習者の母語干渉の強弱が、母語ごとにどのように学習困難点をもたらすのかについて、研究はまだ不十分である。この2点については、今後の日本語教育の進展に待たねばならない。しかし、(2)日本語教師による授業で、最新の文法記述を生かす、という面においては、教師それぞれの指導力によって学習者の読解力を十分に伸ばしていくことのできる文法指導が可能であるとの確信を得ることができた。
 筆者は、2011年に中国で発行される日本語教科書『南京大学 日本語会話』、『東北師範大学 新概念日本語中級読解』の執筆者として会話スクリプトと読解本文を担当したが、今後は、(1)(2)の面でも日本語教育に貢献できる道をさぐることが課題となる。これからの日本語教育に、文法研究と言語文化研究の成果を反映していきたい。

2010-02-10 06:01:00 | 日本語言語文化

第1章
はじめに
1 B.L.Whorfの用語「標準平均的ヨーロッパ語(SAEL Standard Average European languages)」 
第1節
2 クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らが出会う場において、自然に作り上げられた混淆言語(ピジン言語)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語を指す
3 伊藤真紀子(2008)「シンガポールの英語」『東京外語会会報2008//02/01発行』
4 ポール・ロワイヤル文法は、ポール・ロワイヤル修道院に所属していたアントワーヌ・アルノーとクロード・ランスロによって成立した。
5 主語肯定論のうち、橋本進吉、鈴木重幸、竹林一志を上げておきたい。
橋本進吉の主語
 橋本進吉の文法論を基本とする、いわゆる学校文法は、主題の「ハ」も含めて主語としている。
 3年生教科書(光村図書出版『国語下』)では
  主語・・・文の中で、「何が(は)」「だれが(は)」に当たる言葉。
  述語・・・文の中で、「どんなだ。」「何だ。」「どうする。」に当たる言葉。
  修飾語・・文の中で、「何を」「いつ」「どこで」や「どんな」「どのように」などに当たる言葉。
 広く「国語教科書」に採用されている主語に関する記述は、口語文法教科書にみられる以下のようなものである。
日本語では、「が」「は」などの助詞を伴った文節が主語である。主語が省略されることも多い。
 しかし、実は橋本自身、主語観として、以下のように述べている。橋本(1948)は
「鐘が鳴る」の「鐘が」も、「鳴る」では何が鳴るか漠然としてゐるのを委(くわ)しく定めるもので、やはり、修飾語ではないかといふ論が出るかも知れません。これは誠に道理であります。実をいへば、私も、主語と客語、補語との間に、下の語に係る関係に於(おい)て根本的の相違があるとは考へないのであります。
 三上章が<主語>という用語を廃し、動詞にかかる<主格補語>の考え方を提出しているのと同様の「主語と補語は下の語に係る関係において根本的の相違があるとは考えない」と橋本も述べているのである。

鈴木重幸の主語
主語肯定論のうち鈴木重幸(1992)は以下のように<主語>を規定する。
主語とは、おおまかにいって、文の表す出来事(ひろい意味での)の中心的な実態(特徴のもち主)をあらわす部分で、述語によってそれの特徴(動作、状態、特製、質、関係など)が述べられる対象となるものである。(鈴木1992 p106)
竹林一志の主部
 竹林(2004)『現代日本語における主部の本質と諸相』は、<主語>という用語ではなく、<主部>をとりあげている。すべての文の機能を「或る対象について或る事柄の実現性の在り方を語る」とした上で、文の機能を構成する基本的根本的2項(前項、後項)を立てる。前項を「主部」と呼び、「主部とは文(sentence)或いは節(clause)において、それについて或る事柄の在り方が語られる対象」と規定している。(48)
 竹林(2004)は、「このケーキおいしいね」では主部が言語形式化されており、「おいしいね」という文では、「主部が何であるかが当該コンテクストからあきらかである、(と発話者によって判断されている)ために言語形式化されない」と述べている。そして、主部を主題主部と非主題主部に分別する(49)。
竹林(2004)に定義されている<主部>という呼び方についてだが、現在の日本語教育の場で<主部>という言い方を用いた場合、橋本文法などにいう「修飾語+主語」を主部と呼んでいることとの区別がむずかしいことを考慮して、現段階では使用しない。また、日本語教育の現場においてpredicate という用語を使うのにsubjectという語を避けているのは、英文法などでSVO、SVC などと言う場合の「S」との同一視を学習者から遠ざけるためである。また、竹林(2004)は<主格>という用語を扱わない、としている。文機能構成上では、竹林(2004)の述べるとおり、「日本語は<主部>、<述部>の2項構成」の説明で必要十分であろう。では、<主格>という概念はどうか。竹林2004は、動詞文の主部には存在する<主格>が、形容詞文では「わぁー、天気がいい」の「天気が」を主格と言われることが少ない、という理由で、動詞文にのみ<主格>をたてる必要はない、としている(51)。しかし、日本語教育においては、助詞の説明に格成分の解説は重要であり、「ガ格」「ヲ格」「ニ格」など、日本語の助詞と名詞の結びつきを取り出してそれぞれの格の意味成文を例示することによって、学習者に文の意味を理解させる必要がある。
 統語上の<主格>を連用修飾成分のひとつとして扱うか、待遇表現などで<主格>が他の格成分とは異なる動詞との特権的な結びつきをする場合があるゆえ他の斜格とは別扱いにするか、という問題は議論が続く問題であり、<主格>の扱いはさまざまな議論を含む。しかし、日本語教育の面では、日本語学習者に用言述語文を教える際に、格成分の提示は必要不可欠である。日本語教育では<主格>ではなく<ガ格>として学習者に提示している。「水が飲みたい」の「ガ格」は、発話者の要求が向かう対象を示し、「花が咲いた」の「ガ格」は、「咲いた」が実現するところを示す、という説明で混乱はない。日本語教科書Sinctional Fanctional Japanese(SFJ)は、対象の「ガ」も動作主の「ガ」もSubject particleとして提出している。
 「東京で働く」の「デ」は場所を示し、「ナイフで切る」の「デ」は道具を示す、という説明と同じように、名詞+助詞の機能が複数あることが理解できれば、「ガ格」に複数の意味があることもわかる。<主格>という名称を用いるかどうかは教育者によって異なるだろうが、談話機能上の<主題><解説>という構造、統語上の<主部><述部>という構造とならんで、動詞述語文を扱うときには必要である。「水!」という一語文は「水を欲している」という希求文、「キャッ。ゴキブリ!」は「ゴキブリがいる」という認識を表す存在文であるとすると、名詞によるコピュラ文、主題解説文・措定文の以外の現象文は、述語に対して名詞の役柄を示す必要が生じ、日本語教育では助詞提示に際し名詞役柄(意味役割semantic role)日本語の<主格>(名詞の意味役割)を教えている。
6 岡部隆志1973「繞(めぐ)る歌掛け--中国雲南省白族の2時間47分に渡る歌掛け事例報告(共立女子短期大学文科紀要17号」田主誠1977「中国雲南省少数民族の歌と踊り 国立民族学博物館.・民博通信1号」など。
7 小柳昇(2009)は、稲村1995を引用し、稲村の分析が妥当であることを認めつつ、稲村が「再帰的他動詞文」とした文を「所有者主語の他動詞文」と言い換えている。主語と客語が所有者所属関係にある構文を稲村(1995)は再帰構文との関連から「再帰的他動詞」と呼んだのだが、小柳は稲村の分析のうち主語客語が所有関係所属関係にあることを重視し、「所有者主語他動詞文」と呼ぶ。小柳の説と先行する稲村の論の間に矛盾はないが、「再帰」という一般にはなじみのない用語より、「所有者主語他動詞文」のほうが、通りはよいように思う。


第2節
8 <名詞+格>の意味と階層
 以下の助詞表示はすべてを網羅するものではなく、主要なものの提示である。また、順序は、表れる名詞階層の高い順を基準にしている。)
 ・動作主(Agent)「が」「φゼロ」
 ・経験者(Experiencer)「が」「に」
・使役者(Causer)「が」
 ・被作用者(Affected)、受益者(Benefactive)、受害者(Malefactive)「が」「に」「を」
 ・相手(Partner)「に」「と」
 ・対象(Patient/Theme)「を」「が」
 ・位置(Location)「で」「に」、
 ・着点(Goal)「に」
 ・起点(Source)「から」
 ・道具(Instrument)「で」「によって」

 これらの動詞にかかる名詞の階層性は
 1)人称代名詞、親族名詞、個人名詞
 2)普通人間名詞
 3)動物名詞
 4)無生名詞 
 日本語のような対格型言語(自動詞主語と他動詞主語が同じ格で表示される言語)は、本来(4)の無生名詞が主格の位置に表れる文は、擬人法以外の表現には表れにくい。英語でThe key open the door. は「鍵が戸を開けた」は翻訳調直訳調と感じられ、「鍵で戸を開けた。鍵で戸が開いた」、という表現となり、英語の主語the keyは、日本語では具格「で」で表示される。The wind open the door. は、「風が戸を開けた」より「風で戸が開いた」のほうが自然な表現である。

第3節
9 『夢の裂け目』は、東京裁判検察側の証人として出廷した紙芝居屋の親方が主人公である。軍部や軍人に責任があるだけでなく、それを支持した庶民にも責任があるのではないかという問題点をあげ、また東京裁判は、東条英機らA 級戦犯を断罪することにより「天皇免責」を当然のこととして周知させるための裁判だったのではないか、ということが、テーマとなっている。『夢の泪』はA 級戦犯松岡洋右の補佐弁護人に選定される予定だった弁護士夫婦や検察側将校の秘書などが登場して裁判についての物語が展開する。東京裁判は、極東委員会が「日本をうまく管理するには天皇の存在が不可欠である。ゆえに天皇に戦争責任なし」と決め、日本国民の中から天皇の戦争責任を問う声が上がらないようにするための裁判であった、ということがテーマになっている。
10 「東京裁判三部作」は2010 年4~6 月に3 ヶ月にわたって再演された。
11 新国立劇場『夢の痂』作品解説
12 レーマとは、文の中の伝達の内容を表し、新情報や未知の情報をもつ部分のことをさす。(ドイツ語を中心とした文法用語ではThema/Rhema、英語ではtheme/rheme)
13 「主語がないゆえ主体性がない」という言説は、現在も変わりなく生産されている。内田樹(2009年08月20日)は、「自民党マニフェスト」についての感想をブログに述べている。この論の中で、内田は日本語文の「主語の欠落」を「行動責任の存在を見えなくするため」という従来の日本語論日本人論を採用している。内田は、「主語の欠落」は、「すべての失態を他責的な言葉で説明するため」に使われているということのあらわれと解釈しており、従来の「日本語主語なし文」の通説に沿った言説を行っている。内田は自民党マニフェストの主語無し文のほか、東京裁判における小磯国昭元首相の答弁をあげ、行動の主体が明示されない、ということの例証としてあげている。「日本語は主語を表現しないから行為主体の責任を明らかにしない」という内田の論は、西欧的な「行為主体=主語」という解釈で物事を判断する見方が広く浸透していることのひとつの例といえよう。



第2章
第1節
1 主語の一般的性質を表現するのに用いる。能動受動態、中間態、中動態などの用語も用いられる。

第2節
2 岩佐茂1990「主体性論争の批判的検討」一橋大学研究年報. 人文科学研究, 28: 177-227)
3 法政大学大原社研1955/2002日本労働年間第28集:268

第3節
4 本節では、1975「筑摩現代文学大系59太宰治集」筑摩書房に所収の「富岳百景」を用いた。
5 亀井勝一郎1959「『富嶽百景』作品鑑賞」、竹内清己1978「『富嶽百景』論作品の様態と生の位相」


参照文献一覧

2010-02-07 19:09:00 | 日記
<参照文献一覧>

青木保(1999)『日本文化論の変容』中公文庫
アーレント Arendt, Hannah(1981)『全体主義の起原』新装版(原著1951)大島通義、
 大島かおり(訳)みすず書房
赤川次郎(1998)『本は楽しい 僕の自伝的読書ノート』岩波書店
芥川龍之介(1968)『羅生門・鼻(いもがゆ)』新潮文庫
浅利誠(1981)『日本語と日本思想』藤原書店
阿部謹也(1995)『「世間」とは何か』講談社現代新書
------------(2006)『近代化と世間』朝日新書
阿部一(1995)『日本空間の誕生』せりか書房
天野みどり(1987a)「日本語文における再帰性について」『日本語と日本文学7』
--------------(1987b)「状態変化主体の他動詞文」『国語学151』
--------------(1991)「経験的間接関与表現」『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版
荒木博之(1973)『日本人の行動様式』講談社現代新書
------------(1985)『やまとことばの人類学-日本語から日本人を考える』朝日新書
------------(1994)『日本語が見えると英語も見える』中公新書

池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店
------------(1982)「表現構造の比較-<スル>的な言語と<ナル>的な言語」
『日英語比較講座 第4巻発想と表現』 大修館書店
------------(1993)『言語・思考・現実』講談社
------------(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』日本放送出版協会
------------(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
池島信平(1977)『雑誌記者』中公文庫
伊藤整(1981)『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫
伊藤真紀子(2008)「シンガポールの英語」『東京外語会会報2008//02/01発行』
伊藤左千夫(1955)『野菊の墓』新潮文庫
井上ひさし(1974)『青葉茂れる』文春文庫
--------------(1984)『私家版日本語文法』新潮文庫
--------------(1992)『ニホン語日記』文藝春秋
--------------(1994)『ニホン語日記2』文藝春秋
--------------(2007)『夢の痂』集英社
井上靖(1975)『後白河院』新潮文庫
井上靖(1957)『風林火山』新潮文庫
井上鋭夫(1975)『信長と秀吉』日本の歴史文庫
井伏鱒二(1970)『黒い雨』新潮文庫
稲村すみ代(1995a)「再帰構文について」『東京外国語大学日本語学科年報第16 号』
---------------(1995b)「現代日本語における再帰構文」『日本語の教育と研究(窪田冨男
 教授退官記念論文集)』(専門教育出版)
イリガライIrigaray, Luce(1987)『ひとつではない女の性』棚沢直子、中嶋公子、小野ゆり子(訳)勁草書房
岩佐茂(1990)「主体性論争の批判的検討」一橋大学研究年報. 人文科学研究, 28: 177-227)
岩波講座(1995)『自我・主体・アイデンティティ』岩波書店
岩波講座(1995)『他者・関係・コミュニケーション』岩波書店

梅原猛(1988)『地獄の思想』中公文庫
ウエーバーWeber, Max (1972)『社会学の基礎概念』阿閉吉男、内藤莞爾(訳)恒星社厚生閣
ウォーフ Whorf, Benjamin Lee(1993)『言語・思考・現実』池上嘉彦(訳)講談社 
宇津木愛子(2005)『日本語の中の私』創元社

遠藤周作(1971)『海と毒薬』新潮文庫

大出晁(1965)『日本語と論理』講談社
大江健三郎(1969)『万延元年のフットボール』講談社
大澤真幸(1994)『意味と他者性』書房
大曽美恵子(1983)「授動詞文とニ名詞句」『日本語教育50』
大槻文彦(1980)『広日本文典・同別記』勉誠社(『廣日本文典』1897)
大原始子(2002)『シンガポールの言葉と社会』三元社
奥田靖雄(1984)『ことばの研究・序説』むぎ書房
奥津敬一郎(1983)「授受表現の対照研究」『日本語学2-4』
---------------(1986)「やりもらい動詞」『国文学解釈と研究51-1』
奥野健男(1967)『太宰治集』解説 集英社

片山きよみ(2003)「他動詞の再帰的用法について」『熊本大学言語学研究室紀要』
加藤周一(1976)『日本人とは何か』講談社学術文庫
金谷武洋(2002)『日本語に主語はいらない』 講談社
------------(2003)『日本文法の謎を解く』 ちくま新書
神谷忠孝・安藤宏編(1995)『太宰治全作品研究辞典』勉誠社
柄谷行人(1994)『探求Ⅱ』講談社学術文庫
カラーCuller, Jonathan D. (2003)『文学理論』荒木映子、富山太佳夫(訳)岩波書店
川端康成(1952)『骨拾い―掌編小説第一話』(新潮社)
------------(2003)『雪国』岩波文庫改版(岩波文庫1948より)

北原保雄(1981a)『日本語の世界6日本語の文法』中央公論社
------------(2005)「主観的な文章-「富嶽百景」の場合」『達人の日本語』文春文庫
木下順二(1982)『夕鶴』岩波文庫
ギデンズ Giddens, Anthony(1986)『社会理論の現代像』宮島喬ほか(訳) みすず書房)
ギデンズ、 ベックBeck, Ulrich、ラッシュ Lash, Scott(1997)『再帰的近代化―近現代における政治、伝統』松尾精文、小幡正敏、叶堂隆三(訳)而立書房 
ギブソン Gibson, James Jerome(1989)『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』古崎敬(訳) サイエンス社
ギリガン Gilligan, Carol((1986)『もうひとつの声』生田久美子、並木美智子翻(訳)
 川島書店

工藤浩 (1989)「現代日本語の文の叙法性 序章」『東京外国語大学論集39』東京外国語
大学
----------(2000)「副詞と 文の陳述的なタイプ」『日本語の文法 3 モダリティ』岩波書店161-243
-----------(2005)「文の機能と 叙法性」『国語と国文学82巻8号』
工藤真由美(1995)『アスペクト・テンス体系とテクスト』ひつじ書房
久野(1973)『日本文法研究』大修館書店
---------(1978)『談話の文法』大修館書店
紅林伸幸(1989)「<主体性>概念の検討 : 行為の「主観性」と「独立性」をめぐって」 『東京大学教育学部紀要. 28巻, 263-71』

言語学研究会(1983)『日本語文法・連語論(資料編)』むぎ書房
------------------(1984~2006)『ことばの科学1~11巻』むぎ書房

幸田文(1957)『流れる』新潮文庫
児玉美知子(1995)「状態変化主体他動詞文の成立と構造」『甲子園短大紀要9』
小林多喜二(1953)『蟹工船』新潮文庫
小林典子(1996)「相対自動詞による結果・状態の上限:日本語学習者の習得状況」
『文藝言語研究言語篇29』151-65
小柳昇(2009)「<所有>の意味概念をもつ他動詞文の分析-所有他動詞という動詞クラスの存在とその他動詞文の生成プロセス」拓殖大学大学院修士論文

酒井直樹(1996)『死産される日本語・日本人』新曜社
------------(2007)『日本思想という問題』岩波書店
佐佐木幸綱(2007)『万葉集の<われ>』角川選書
佐治圭三(1973)「題述文と存現文―主語・主格・主題・叙述(部)などに関して―」
 『大阪外国語大学学報29』
佐藤琢三(2007)『自動詞文と他動詞文の意味論』笠間書店
サピアSapir, Edward、ウォーフWhorf, Benjamin Lee(1995)『文化人類学と言語学』
 池上嘉彦(訳)弘文堂

シクスーCixous, Hélène(1993)『メデューサの笑い』松本伊瑳子、 藤倉恵子、 国領苑子
(訳)紀伊國屋書店
柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店
島崎藤村(1954)『破戒』新潮文庫
白川博之(2002)「記述的研究と日本語教育―語学的研究の必要性と可能性」
『日本語文法2巻2号』

須賀敦子(1998)『ヴェネツィアの宿』文春文庫
鈴木孝夫(1990)『日本語と外国語』岩波新書
------------(1973)『ことばと文化』岩波新書
鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』くろしお出版
------------(1992)「主語論をめぐって」『ことばの科学5』73-108むぎ書房
須田義治(2007)「言語学的なナラトロジーのために」『国文学解釈と研究72-1号』
 至文堂

高橋太郎(1994)『動詞の研究』むぎ書房
高橋和巳(1993)『邪宗門』朝日文芸文庫
高島元洋(2000)『日本人の感情』ぺりかん社
竹林一志(2004)『現代日本語における主部の本質と諸相』くろしお出版
------------(2007b)『「を」「に」の謎を解く』笠間書房
------------(2008)『日本語における文の原理』くろしお出版
太宰治(1968)『富嶽百景・走れメロス』岩波文庫
----------(1954)『走れメロス』新潮文庫  
---------(1999)『富士に就いて』(太宰治全集11)筑摩書房
丹保健一(1989)「提題論の奇蹟:松下から佐治までを中心に」『三重大学教育学部研究
 紀要第40巻人文社会科学』11-30

中右実(2007)「主観的モダリティ二層構造論」(日本言語学会第134回大会(2007)公開講演要旨)
----------(1979)「モダリティと命題」『英語と日本語と・林栄一教授還暦記念論文集』223-50,くろしお出版.
千葉敦子(1987)『乳がんなんかに負けられない』文春文庫

月本洋(2009)『日本語は論理的である』講談社
津島美知子(1998)『増補版回想の太宰治』人文書院
角田太作(1991)『世界の言語と日本語』くろしお出版
坪本篤郎編(2009)『「内」と「外」の言語学』開拓社
壺井栄(1957)『二十四の瞳』新潮文庫
鶴谷憲三(1994)『Spirit太宰治作家と作品』有精社

寺村秀夫(1982・1984)『日本語のシンタクスと意味Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』くろしお出版

時枝誠記(2007)『国語学原論上下』岩波文庫
------------(1954)『日本文法文語篇』岩波全書
------------(1959)『日本文法口語篇』岩波全書
豊田豊子(1974)「補助動詞・やる・くれる・もらうについて」『日本語学校論集1』
東京書籍(1990)『新しい国語二』東京書籍
---------『新しい国語三』東京書籍
夏樹静子(1984)『Wの悲劇』角川文庫
中島文雄(1987)『日本語の構造』岩波新書
中根千枝(1967)『タテ社会の人間関係』講談社現代新書
夏目漱石(1967)『夏目漱石集二(こころ)』集英社
------------(1990)『行人』岩波文庫
------------(1970)『明暗』新潮文庫

日本古典文学体系(1955)『古事記 祝詞』岩波書店
------------------------(1959)『万葉集』岩波書店

西田幾多郎(1950)『善の研究』岩波文庫
仁田義雄(1991)『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房
仁田義雄編(1991)『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版

野上弥生子(1969)『秀吉と利休』新潮文庫
野田尚史(2004)「見えない主語を捉える」『言語33-2』24-31,大修館書店2004年2月

芳賀綏(2004)『日本人らしさの構造』大修館書店
橋本進吉(1946)『国語学概論』岩波書店
------------(1948)『改制新文典別記 口語篇』「修飾語」冨山房
林芙美子(1979)『放浪記』新潮文庫
------------(1953)『浮雲』新潮文庫
早津恵美子(1987)「対応する他動詞のある自動詞の意味的・統語的特徴」『言語学研究6号』京都大学言語学研究会
バンヴェニストBenveniste, Émile(2007)『一般言語学の諸問題』(1966原著)岸本通夫、
 河村正夫、木下光一、高塚洋太郎(訳)みずず書房

廣瀬幸生・長谷川葉子(2010)『日本語から見た日本人・主体性の言語学』開拓社

フーコーFoucault, Michel(2004)『主体の解釈学』フーコー講義修正11コレージュ・ド・フランス講義1981-1982 廣瀬浩司、原和之(訳)筑摩書房
富士谷成章全集上(1961)竹岡正夫(校注)風間書房718-20
藤野寛(2006)「主体性という理念とその限界」『高崎経済大学論集第48巻台3号』203-11

ベイトソンBateson, Gregory (2000)『精神の生態学』佐藤良明(訳)新思索社

堀口純子(1983)「授受表現にかかわる誤りの分析」『日本語教育52』
本多啓(2003c)「認知意味論における概念化の主体の位置づけについて」日本認知学会
 第4回大会発表レジュメConference Handbook 75-78
---------(2005)『アフォーダンスの認知意味論―生態心理学から見た文法現象』東京大学出版会
----------(2009)「他者理解における「内」と「外」」『「内」と「外」の言語学』開拓社

前田尚作(2006)『日本文学英訳分析セミナー』昭和堂
益岡隆志(1987)『命題の文法』くろしお出版
-----------(1991)『モダリティの文法』くろしお出版
真木悠介(1993)『自我の起源』岩波書店
松岡直美(1989)Japanese-English Translations and the Stream of Consciousness ReviewVol.19, No.1-4 538-45
松下大三郎(1996)『改撰標準日本文法』勉誠社(原著1928)
松本克己(2006)『世界言語への視座』三省堂
------------(2007)『世界言語のなかの日本語』三省堂
松本伊瑳(2003)「主体、性(ジェンダー)、文化」名古屋大学大学院国際言語文化研究科
『言語文化論集』第XXV
丸谷才一(1977)『彼方へ』集英社文庫

三浦つとむ(1976)『日本語はどういう言語か』講談社学術文庫
三尾砂(2003)『三尾砂著作集Ⅱ』ひつじ書房(『話しことばの文法』法政大学出版局1958より)
三上章(1963)『日本語の論理 ハとガ』くろしお出版
---------(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版
---------(1972)『続現代語法序説』くろしお出版 
---------(1975)『三上章論文集』くろしお出版
---------(1999)『現代語法序説―シンタクスの試み』くろしお出版(刀江書院1953より)
南不二男(1974)『現代日本語の構造』大修館書店
------------(1993)『現代日本語文法の輪郭』大修館書店
三原健一(1994)『日本語の統語構造 成文法理論とその応用』松柏社)
宮地裕(1965)「やる・くれる・もらうを述語とする文の構造について」『国語学63』
三好徹(1984)『夜の仮面』徳間文庫
宮島達夫(1972)『動詞の意味・用法の記述的研究』秀英出版

向田邦子(1988)『向田邦子TV作品集』大和書房
村上三寿(1986)「やりもらい構造の文」『教育国語84』
村木新次郎(1991)『日本語動詞の諸相』ひつじ書房

森鴎外(1948)『雁』新潮文庫
森川寛(2009-09-25)http://sckobe.exblog.jp/12002144/
本居春庭(1996)『詞八衢』勉誠社文庫(原著1822文化5)
------------(1977)『詞通路』勉誠社文庫(原著1829文政12)
森田良行(1990)『日本語学と日本語教育』凡人社
------------(1998)『日本人の発想、日本語の表現』中公新書
------------(2006)『話者の視点が作る日本語』ひつじ書房
森山卓郎(1988)『日本語動詞述語文の研究』明示書院
------------(2002)『表現を味わうための日本語文法』
森村誠一(1991)『空洞星雲』講談社文庫

山口明穂(1989)『国語の論理』東京大学出版会
山路平四郎(1977)『記紀歌謡評釈』東京堂出版
山本七平(1983)『「空気」の研究』文春文庫 
------------(1992)『幸福と科学の間(『文芸春秋』1992年1月号)』文藝春秋社

吉行淳之介(1978)『美少女』新潮文庫
吉田一彦(2000)「日本語の非明示的主語に関する一考察」東京外国語大学修士論文
URL: http://www.geocities.com/kunetti

ライアンズLyons, John(1987)『言語と言語学』近藤達夫(訳)岩波書店
ラガナ Lagana, Domenico(1975)『日本語とわたし』文藝春秋
ラネカーLangacker, Ronald W. (1994)『言語と構造』牧野成一(訳)大修館書店
---------------------------------------(1994)『はじめての言語学』井上信行(訳)泰文堂

ロドリゲスRodrigues, João Tçuzu(1993)『日本小文典 上下』池上岑夫(訳)岩波文庫
----------------(1995)『日本大文典』土井忠生(訳)三省堂

渡辺実(1971)『国語構文論』塙書房
---------(1996)『日本語概説』岩波書店

Oe, Kenzaburo.(1974)The Silent Cry. Translator: O. Bester. Kodansha International Ltd.
Kawabata,Yasunari.(1957)Snow Country. Translator: Edward Seidensticker.(Unesco Translatins of Contemporary Works)Charles E. Tuttle Company.
------------------------(2006)“Picking up the Bone.” Palm of the Hand Stories. Translator: L.
Dunlop and J.M. Holman.
Hall, Donald E. (2004)Subjectivity. New York: Routledge.
Lyons, John(1982)“Deixis and Subjectivity: ‘Loquor, ergo sum?’”, in R. J. Jarvella & W. Klein
(eds.) Speech, Place, and Action. John Wiley & Sons.
Langacker, Ronald W. (1987)Foundations of Cognitive Grammar: Theoretical Prerequisites.
Stanford: Stanford UP.
------------------------(1991)Foundations of Cognitive Grammar: Theoretical Prerequisites. Vol. II.
Stanford: Stanford UP.
McGloin, Naomi Hanaoka.(1989) A Student's Guide to Japanese Grammar. Tokyo: Taishukan Publishing Company