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授業の実際漢字クイズ

2010-12-30 11:13:00 | 日本語教育
心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「漢字クイズ」
(12/22)
春庭のBC級ニッポン語教育研究18「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー漢字クイズ」

12/19、年内最後の授業。最後のクラスは初級漢字クラス。
 授業が終わったらその足で成田空港へ向かい、帰国する留学生もいて、じっくり初出の漢字を覚えるには、あまりよくない時間。明日からの冬休みを前に、皆浮き足だっている。

 本当は、字形に注意しながらゆっくり書き練習、音読み訓読み気をつけて熟語や漢字交じり文の読み練習をしなければならないのだが、どうやら、いくら練習しようとしても、右の耳から入った説明が左の耳から出ていってしまう状態。
 新出漢字の導入はちゃっちゃっと終わりにする。練習は「冬休みの宿題」ということにしてしまった。

 10月に来日して「あいうえお」から習い始めたクラス。これまでの3ヶ月、とても仲がよく助け合って勉強してきた。
 最後くらい漢字詰め込みはお休みにして、ちょっと遊びましょう。

 今日の初級漢字クラスのメインイベントは、「Five hint 」というクイズ。見たことのない漢字や、忘れている漢字を出題し、3つのヒントで答えをいう。

 3つのヒントだけで答えられたら3ポイント。当たらなかったらひとつ追加の質問ができる。ここであたったら2ポイント。当たらなかったらさらに追加の質問。ここで当たったら1ポイント。はずれたらゼロ。ポイントなし。

 最初に私がデモンストレーション。私の例題は「兎」と「象」「薔薇」など、初級クラスでは、教えない漢字。見たこともない漢字に頭をひねったあと、ヒントを言って答えさせる。

 例題第1問。「兎」と書いた紙を見せる。誰も読めない。それはそうだ。「うさぎ」という日本語は知っていても、漢字はまだ知らない。

 「First hint、最初のヒント。動物です」
 学生「?」
 「二番目のヒント。小さくてかわいいです」 学生「Cat? ねこですか?」
 「いいえ、ちがいます。最後のヒント。耳が長いです」
 学生「わかりました。Rabit」
 「日本語でどうぞ」「えーと、うー」
 別の学生「うさぎ!」
「正解です」という具合。

 ラビットはわかったのに、うさぎが答えられなかった学生はくやしそう。

 次に、クラスを半分に分け、赤チームに赤いマジックペン、青チームに青いマジックを渡す。二人ずつペアを組み、ペアワークで、正解にする漢字とヒントのことばを考えさせる。

 赤チームは、赤いマジックで紙に正解を書いておく。赤チームが考えた正解は「日本酒」「東京タワー」「鎌倉の大仏」「日本、酒、東京、大」は既習漢字だが、「鎌倉、仏」は未習。未習の漢字は、学生に聞いて私がこっそり書いておく。
 「タワー」と、カタカナで書くと簡単にわかってしますから、塔という漢字も教える。

 青いマジックを使う青チームが考えた正解は「新幹線」新は既習。幹線は未習。「年賀状」年は既習、賀状は未習。三問目の正解は「私たちは漢字、書けます」と言って、正解を見せてくれなかった。

ふたつのチームがかわりばんこに出題。

 青チームの学生が自分たちで考えたヒントを言う。
 「長いです」「とても速いです」「安くありません、高いです」
 冬休みに旅行を計画している学生から「しんかんせん」という正解が出た。3ポイントゲット。

 赤チームのヒント。「とても大きいです」「いつも座っています」「外に座っていますが、寒くありません」正解が出ない。

 青チームからの質問「動物ですか」「いいえ、どうぶつじゃありません」
 ここでちょっと私の助け船。いすの上にあぐらで座って手で印を結び「I'm a buddist」それで「ダイブツ」という答えが出た。ここでもめた。
 「ナラのダイブツは外にいません。かまくらと言わないから、正解じゃない」という赤チーム。「ダイブツ」があたったのだから、正解だという青チーム。「じゃ、1点だけ」と、仲裁。

 青チームの第二問「日本の人はこれが好きです」「フィフィさんも好きです」「飲み物です」
 赤チームの答えは、すぐに出た「お酒」「日本酒」。みんなどっと笑う。フィフィさんの日本酒好きはクラスで有名らしい。

 年賀状は、「じゅうしょとなまえを書きます」「お正月にもらいます」「郵便局へ行きます」というヒントで正解が出た。

 東京タワー。「一番高いです」「きれいです」「のぼります」というヒントで出た答えは「ふじさん」

 「ちがいます。東京タワーです」と、正解が発表されると、青チームは「ふじさんはきれいです。東京タワーはきれいじゃないです」と、ヒントの出し方が悪いとブーイング。
 「夜、ライトをつけるときれいですよ」と、私のヘルプ。

 青チーム、最後の問題。出題者はやけにうれしそう。
 「きれいです」おや、また「きれいです」というヒント。あとでブーイングがでないといいけれど。「かわいいです」ますますブーイングが出そうなヒント。
 「いつも冗談を言います」

 赤チームは、「わかった、わかった」と大喜び。声をそろえて「春庭先生」と言い、みな大笑い。
 青チーム「正解です」。私も大笑いして「春庭先生はきれいです。かわいいです。わあ、それは冗談ですねぇ」

 めでたく正解がでたところで、漢字クイズはおしまいにした。

 私の冗談好きも、クイズにしてしまう学生達の機転に、日本語の上達を確かめて、「みなさん、たのしい冬休みをすごしてください」と、ごあいさつ。

 「よいお年を」「よいお年をおむかえください」という年末のあいさつも上手に言えるようになって、今年の授業おさめ。
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2003年12月24日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/24)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール①」

 前回紹介した初級漢字のクラス。12名が、とても仲良く助け合っているので、教師としては大助かり。クラスの雰囲気がいいか悪いかは、教育効果が上がるかどうかに一番大きな影響を与える。

 教師がどれほど言語学の大家であろうと、第二言語習得理論の専門家であろうと、クラスの「助け合って学んでいこうとする雰囲気」が形成されていなければ、ザルに水を汲むような授業になる。

 最新の教授法理論の中では「ピアラーニング」がもてはやされてきた。
 ピアカウンセリング=専門家と患者という関係のカウンセリングでなく、立場を同じくする仲間同士による助け合いカウンセリング。
 同じように、ピアラーニングというは、仲間同士の「教えあい育てあい」によって教育効果を高めようとする教授法である。

 最新の教授法と聞いて、春庭「ワッハッハ、ついに時代が私に追いついてきた」と思う。

 教師と学生の関係を築くことから授業をスタートさせる、学生同士が知り合い仲良くなることで教育効果が高まる。
 15年前に日本語教師になったときから、私が実践していることだ。

 日本語教育に携わるようになったとき、私はハンディ以外もっていなかった。英語は下手。第二言語教育理論の専門家でもない。日本語学をかじったとはいえ、博士号もない。

 英語やフランス語など、外国語に携わることから日本語教師になる方が多い業界の中で、中学校国語教師から転身した私の日本語教授法の基本は、「ラポール形成」「ピアラーニング」につきた。

 クラスの中を楽しいいい雰囲気にすること。間違えても大丈夫、自分の居場所はここにあるという安心感。どんな質問をしても共に考えようとする教師の姿勢。このようなことが教育の基本であると信じてやってきた。

 教師にとって教える教科の知識は基本事項。しかし、知識だけもっていても授業は成立しない。教師が学生に関わっていこうとする態度、学生同士の助け合い学び合おうとする心を呼びおこすこと。よい授業のために必須の条項はたくさんある。

 楽しい雰囲気にするため、私は何でもやる。ときどきやりすぎて顰蹙もかう。
 これまでに紹介した日本語教授法クラス。どのように授業を行うかを実演してみせる私のデモンストレーション授業の中でも、おおいに受けたのは、すもうのジェスチャーだった。

 学生のひとりが、「日本語教師はジェスチャーの練習もしておかなきゃなりませんね」というので、「日本語教師は芸人を目指さなければ、やっていけません!」という、私の持論を披露。

 日本語の歌を歌って文法を導入するときもあるし、映画や小説の一部分を、シナリオにして、教師がひとり二役で演じてみせることもある。「朗読が上手」などは、芸のうちにも入らない。

 私がよく学生に披露する芸は、バレエのポジション。一番得意なのは、足を前後開脚して、180度に完全に開くこと。また、「パ・ド・シャ」という、「猫の足」の形でくるくる回転するのも得意。

 そんなもの披露して、日本語と何の関係があるのかって。な~んもありゃしません。
 ただ、学生の興味を授業に集中させるとき、「はい、はい、こっちを見て、集中して!」と叫ぶより、学生のひとりに「足を前後に開いてみせて」と、やらせて、開かないのを確認してから、私がぱっと開いて見せると、いっぺんに学生の注目があつまり、次の授業項目へ向かって、集中させることができる。

 留学生に対する日本語授業に限らず、教育の基本は「教室内のコミュニケーション」をいかになごやかに、いい雰囲気にするかが、重要。

 逆に、この雰囲気が壊れたときは修復がむずかしい。
 あるクラスで、全員が先週とうってかわってギスギスした雰囲気になっており、授業の進行がうまくいかないことがあった。

 連絡ノートに先週のクラスの報告があった。
 ディベート授業で、「それぞれの国の印象を話し合う」というトピックが出された。国の第一印象、私たちもよく話題にすることだ。
 エジプト=歴史の古いピラミッドの国。サウジアラビア=石油がとれる砂漠の国。フィンランド=森と湖とサンタさんの国。タイ=仏教寺院とほほえみの国。などなど。

 ある学生が、ペアになった学生の国の印象を「麻薬の輸出国」と言ったことから、ふたりが反目し合い、クラス内が対立してしまったのだという。
 結局このクラスは、仲直りできないままコースを終了する結果となった。

 私もディベートのトピックには気をつかい、国際問題になりそうな話題は避けているが、まさか、「国の印象」から対立が始まるとは、このトピックを提出した先生も予想がつかないことだったろう。

 クラスの雰囲気を作るための方法は、教師それぞれの個性。

 書道師範の資格をもつ先生が、最初のひらがなの練習のとき、筆と墨を用意し、「日本文化体験授業」として、ひらがなを半紙にかかせてクラスを盛り上げることもある。

 学生がひらがなの書き練習をしている間に、折り紙でひとりひとりに様々な形を折ってプレゼントする先生も。(私が本を見ないでできる折り紙は、つると兜だけ)
 春庭は、挫折したとはいえ、元ミュージカル役者なのだから、唄や踊りが主要ツール。

 日本語教師とは、かくも芸に精進するものなのだ。
 といっても、授業中にすもうのジェスチャーやったり、足を180度に開脚してみせたりする日本語教師は、日本で私だけである!

 春庭、「50代の日本語教師の部、餃子早食い暫定日本一(10/20『をんなとおんな』参照のこと)」の座のほか、「授業中に足を180度に開くことができる唯一の日本語教師」の座、も保持している。

 イブの夜。またもや「膝っ小僧が、寒うかあろうぉおお」の夜である。膝は寒いが、せめて、ジングルベルでも歌いながら、前後開脚180度。開き直るのが春庭の人生。

Dashing through the snow 
In a one horse Open sleigh
 
 オープンスレイ!オープンマインド!、開きっぱなし。今夜も、あなたのために、スプリングガーデン、開けてあります。
 よい聖夜を!!
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2003年12月25日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/25)
春庭のBC級ニッポン語教育研究19「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール②」

 たたけよ、さらば開かれん。いつでもオープンの春庭教室。クリスマスの今日も、滞りなくオープンです。パンと葡萄酒もございます。
 おひとつワインなど飲みながら、こころと心をつなぐ授業の話、聞いてくださいな。
 

 はじめて習う言語。緊張している学生を前にして
「あなたは、この教室に受け入れられている」
「ここでは、言語の練習過程で、どんな間違いをしても許されるし、まちがえるのは当然のことだ」
「まちがってもいいから、できるだけたくさん日本語を口にしてほしい」
「教師は、あなたがまちがえながらも成長していくのを応援するし、必ずあなたの味方になる」
ということを、最初に教室内に浸透させることが、教師の仕事のいちばん基本。

 これを教育学では、「ラポール作り」と言う。

 日本語文法を日本語を使ってわからせながら、日本語の基礎を教えていく日本語教育。「文型つみあげ方式」である。

 直接法(日本語だけを用いて、日本語を教える教授法)で日本語を教えるには、教授者が日本語の文型、文法を熟知している必要がある。

 しかし、私は、日本語教授法を学ぶ学生にいう。
 どんなに言語学を修得しようと、日本語文法を完全マスターしていようと、ラポール作りができない教師は、教師ではない。

 これは、日本語教師だけじゃなく、あらゆる教育者に共通することだと、春庭まじめに信じております。

 教育の基本は、教師と学習者の間に生まれる、心とこころのつながり「ラポール」です。超まじめに、叫ぶ春庭。

 12月は、日本語教育のさわりをお話してきた。まじめに。
 日本語教育とは、何か。「日本語を母語として成長しなかった人に、第二言語としての日本語を教えること」

 日本語文法とは何か、についても、もうおわかりいただけたと思います。
 「文法」は、言葉を効率よく学ぶのに必要な、ことばの規則。
 ひとつひとつの単語を覚えることが、クラッチやブレーキの働きを知ることに相当するなら、車の構造や交通ルールを覚えることに相当するのが「文法」です。

 そして、「ことばの学習」「語学の勉強」とは。
 基本は「人と人がコミュニケーションをとろうとする、つながりあいたい、という欲求」からはじまる。

 私は、あなたと、つながりたいのです。もちろん心とこころで。あなたのこころ、受け止めます。

 場合によっては、成り成りて成り余れるところのもので、成り成りてなり合わざるところを刺しふたぐという、古事記が書き残した「あなたと私がつながる方法」も、有り得ます。ただし、この方法、春庭、辺見庸が相手の場合のみです。あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよう!

 あなたには、春庭からの「愛」をおくるからね。
 自称マリアのごとき、慈母観音のごとき春庭からの深い愛を、今日のこの夜、あなたへ届けます。
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2003年12月26日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ①」
(12/26)
春庭のBC級ニッポン語教育研究20「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「宿題答え合わせ」

 12月の「おい老い笈の小文」は、「へぇへぇ平成教育研究」(へぇへぇ、へぇなるきょういくけんきゅう)のBC級ニッポン語教育研究「サルでも出来るHow to teach Nipponia Nippon語」をお送りしてきた。
 前回で、ニッポン語教育研究第1段階は修了。今回は、宿題答え合わせ。宿題を出されてまじめにやってきたよい学生のための解説コーナーである。

 宿題の点検、一番たいへんなことは、宿題を出したことを忘れること。真面目な学生がいるクラスでは、級長タイプの学生が、「先生、先週の宿題、あつめましょうか」などと授業のおわりに声をかけてくれたりするが、教師も学生も宿題があったことなど、とんと忘れて、冗談に笑いころげたまま授業終了となることもよくある。

 漢字の宿題の点検。字形に注意。点や丸の位置ひとつで、別の漢字になってしまうことをわからせなければいけない。作文の宿題の点検。添削はたいへんだが、苦にはならない。それより、ひとりひとりに心をこめたコメントをつける。こちらに気をつかう。同じようなコメントになってしまうこともある。

 今回は、忘れずにきちんと宿題点検を行いましょう。宿題、やってありますか?

宿題1,象鼻文(03/12/03の宿題)
 「足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。」という宿題でした。

 「象は鼻が長い」という文の、主語はどれか、というhawkさんからの質問であった。
 これは、副助詞(トピックマーカー)「は」と、格助詞「が」の機能解説のところで、おおよそは理解してもらえたと思う。

 「は」は文全体の話題をしめす、文レベルの主題を表し、「が」は行為・事象の主体を表す格助詞。「は」と「が」は、同じレベルの助詞ではなく、たとえていえば「フルーツとりんご、どっちがおいしいですか」みたいな、レベルの異なるものを比べる、という一面があります。

 「象は」というのは、「私がこれから聞き手に話すことの話題の中心は象に関してです」ということを表す。

 「鼻が」は、「長い」という述語の主体を表す。長いって表現していることの主体は何か。「鼻」である。「鼻」というものが「長い」んである。

 象鼻文に限らず、「は」というトピックマーカーで表現される部分は、あえて英語に翻訳するなら「~に関して申し述べるなら」「~について説明するなら~」という意味で、「As for~」を用いる。「As for the elephant it has a long nose.」
「私は 教師です」という単純な文も、正確な翻訳をしようとするなら、「As for my job I am a teacher」と、言ったほうがわかりやすい。

宿題2 助詞「に」と助詞「で」
 「会社で働く」「会社に勤めている」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができなのは、どうしてか

 「に」は、存在するものや事象の状態が続いている場所を示す助詞。現在、実際に動いて活動している場所を示すのが「で」
 「タコが海で泳ぐ」というとき、泳ぐという動作を行っている場所が「海で」として示される。「タコ」は、活動している行為動作の主体。
 「タコが海にいる」というときは、活動ではなく、存在を示している。タコは「存在している」ことの主体。状態の主体である。

 「働く」は、個別的具体的な活動を表現する動詞なので「会社で」になる。「勤務する」は、その人の職業の状態、会社員としてその会社に存在していることを表現しているから「会社に勤めている」となる。

 「会社でつとめている」と言ったばあい、何か特別な活動をしていることを表現することになり「会社員として勤務している」という状態を表現するのとは異なってくる。
 「彼は最近、会社で大きなプロジェクトをまかされ、いっしょうけんめいつとめている」という場合、「勤める」ではなく「努める」という動作を表す動詞のほうがふさわしい。

宿題3「に」と「で」のちがいの教え方
 「日本語学習者が「いすに座る」と「いすで座る」というのは同じですか?と質問してきたとき、あなたなら、どう説明しますか。
 学習者は、日本語を学びはじめたばかり。ひらがなは読めるようになったけれど、日本語の文は「わたしは、がくせいです」くらいしか、習っていません。
 日本語もできない、英語もできない学生、学生が知っている言語ポーランド語もロシア語もわからない教師。
 こういう状況で教えることができるのが、「直接法=ダイレクトメソッド」という教え方です。
 春庭の場合、体をはって教えます。「いすに」と「いすで」の違い、宿題にしておきます。知ってしまえば簡単な教え方があるんです。でも、まだ秘密。」という宿題。

 別段、もったいぶって秘密にしておくほどのことでもなく、助詞の機能の違いがわかっていれば、その違いを学習者に教えられる。
 「で」は、上記の宿題2と同じ、活動の場所をしめす。
 「に」の別の機能、「目的地を示す」を思い出してほしい。(「駅へ行く」と「駅に行く」の違いについて、すでに説明した)

 以下、春庭方式文法説明。

① 教室に椅子を用意し、学生の前に置く。椅子から少し離れた場所に立つ。
② 「That chair is my goal place.」と言って、椅子を指さす。
③ もう一度「あの椅子は私の目的地です」と言って指さしてから、椅子に座る
④ 椅子の上に立つ。「Here is my action place.」と言って、椅子を指さす。「I do some action. Here is my action place」「ここは、私の活動する場所です」と説明してから、椅子の上に立っている状態から、「いすで すわります」と言って、しゃがむ。
⑤ もう一度②と③を繰り返す。

 この一連の動作で、「で」で示された「椅子で」は、「椅子」が活動を行う場所として限定されることと、「椅子に」は、椅子を動作の目的地としていることが、学習者にわかってもらえる。

 英語でスラスラ文法用語を駆使して説明する先生に教わるより、春庭が下手な英語で説明した方が、学習者に日本語文法の説明が「よくわかる」と好評である。
 これは、どのような文法説明の場合も、春庭は、具体的な動作や絵で違いを目に見える形にして教えているから。

 単純なことのように思えるかもしれないが、実際の教室で、靴を脱いで椅子の上に立ち、立ったり座ったりして体をはって教える教師は少ない。
 他の教師がしないから、春庭が好評を得ることになる。たいていの行儀のいい教師たちは、ここまでやらない。

 人前で靴を脱ぐことを行儀が悪いと感じる欧米系の学生がいるときは、ついでに、部屋へ入るときや、椅子やソファに足を載せるときは、日本の習慣として靴をぬぐことも教える。日本の生活文化だから。

 あなたの家、靴を脱いで入りますか?
 くつを脱がない文化を持つ人々にとって、靴を人前で脱ぐのは、あなたが人の家に入るときに、コートを脱ぐだけじゃなく、上着もセーターも脱いで、ステテコ一枚になってください、と言われるような気がするそうです。最初はちょっと抵抗を感じるとか。

 でも、日本には日本の生活文化があることを知らせるのも、日本語教師の大切な役割。押しつけることはしませんが、日本にいる間は、日本の文化を尊重する気持ちを持ってほしいと思っています。

 日本の「うち」と「そと」の文化のちがいも、おおきな問題。敬語もこの「うち」と「そと」の使い分けが関わってきます。
 
 「うち」「そと」の問題はまた後の課題にして、あしたは、敬語の宿題つづきを。
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2003年12月27日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ②敬語」
(12/27)
春庭のBC級ニッポン語教育研究21「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ② 敬語

宿題4,「差し上げる」は、敬語か
 「国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。

 差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった」という宿題。

 待遇表現(いわゆる敬語問題)については、また詳しく論じる機会をもちたいと思うが、とりあえず「差し上げる」について説明しよう。

 学習者は、giveにあたる日本語として、「やる」は子どもか動物に使う、と教わる。「金魚に餌をやる」など。ふつうは「あげる」を使う。「友だちに花をあげる」先生には敬語を使う。「先生にお茶を差し上げる」

 しかし、実際の敬語運用は、学習者にとって、大きな問題。学生が大きな荷物を持って歩いている教師に「先生、荷物をもってさしあげましょう」というのは、なぜ敬意の表現としてまずいのか。敬意をあらわすなら、どう言えばいいのか。

 現代の表現でいうなら、「先生、荷物をお持ちしましょうか」が、ニュートラルな表現。「先生、さしつかえなければ、荷物を持たせていただけませんか」などが、より丁寧な印象を与える。

 「荷物をもって差し上げましょう」というのは、すでに話し手が「荷物を持つ」という行為を行うことを決定し、それを前提として、それを聞き手に承知させようとしている。
 そのため行為が押しつけがましくなり、敬意表現と受け取られないのである。

 「荷物をお持ちしましょうか」「持たせていただけませんか」という表現なら、「持つかどうか」という行為の決定権は、相手にゆだねられている。そのため押しつけがましくない。

 敬語表現には、以上のように複雑な要素がからみあう。
 日本人学生でも、「先生、おりますか」など、謙譲語と尊敬語の混乱した使い方、「来週の授業、やすまさせていただきます」など、の誤用が見られる。
 (やすまさせて、という誤用、20年後には正しい表現とされそうな勢いで広まっている)

 敬語は、人間関係の円滑なコミュニケーションに必要とされるから、古来から形を変えながら生き残ってきた。
 ただし、敬意表現はすぐにすりきれるので、くるくると表現がかわってくる。

 「聞き手(第二人称)」をしめす言葉を例にしよう。
 昔は尊敬の意味を含んでいた「御前(ここにひかえている私から見て、前にいる方」「貴様(貴い方)」などの語が、現在では「オマエ」「キサマ」を目上の人に使うことはできなくなっている。

 このように、敬意表現は価値がすり切れやすいのだ。
 源氏物語ではよく使われる「給ふ」という敬語も、現代では、平社員が課長に「この仕事、仕上げておき給え」と、言うことはできない。

 敬語(待遇表現)には「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」がある。

 「見る」という動詞に「見ます」と「ごらんになります」と「拝見します」がある、というと、母語に敬語システムを持たない学生は「どうして、そんなにつかいわけなければならないのか」と、言う。

 なぜ敬語があるのか。
 では、逆に、敬語が発達しなかった言語を話す社会とは、どのような社会であったか。

 前近代の中国や欧州には、韓国朝鮮語や日本語のような敬語システムはなかった。
 「丁寧な表現」は、どの言語にも、多かれ少なかれ存在する。しかし、尊敬語は発達しなかった。
 なぜなら、身分が上の者と下の者は、決して会話をかわさなかったからだ

 身分が上の者と、身分が下のものが、直接会話することが許されていなかった社会では、敬語など必要がない。同じ階級の中同士で話すのだから。

 身分の上の方と直接口を利ける者は、ただひとりの伝送役のみ。あとの者は、伝送役にことばを伝え、伝送役から上の人のことばが返ってくるのを待つ。

 丁寧な言い方は必要であっても、尊敬語としての敬語(待遇表現)が必要がない社会というのは、身分の上下がハッキリし、上下は決して混じり合わない社会だった。

 日本社会が敬語を必要としたのは、身分の上下を越えて話ができたからである。

 古事記や万葉集などにも、下働きの翁媼が、天皇と直接会話をかわしているエピソードが出てくる。尊敬語を使えば、宮廷の庭掃除の翁が、たまたま御簾をかかげて庭を眺めている高貴な方に許されて、ことばをかわすことができたのだ。

 現代社会においても、敬語を駆使できれば、平社員が社長と直接会話することができる。

 この待遇表現システムさえ身につけてしまえば、相手に不快感をもたせることなく、だれとでも会話ができるのだ。

 便利な表現システムではありませんか。
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2003年12月29日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ③」
(12/29)
春庭のBC級ニッポン語教育研究22「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ③動詞のカテゴリー分類

宿題5,「が」を対象格としている動詞
 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)
という宿題。

 12/21に「水が飲みたい」「テニスが好きだ」など、「が」を対象格とする表現について説明した。要求や好悪など、心理的動詞の対象は、一般の対象格「を」ではなく、「が」によって対象をしめす、と述べた。

 では「音楽をきく」と「音楽が聞こえる」は、どうちがうか、と留学生に質問されたらどう答えるのか。

 動詞にはさまざまなカテゴリー(範疇)の違いがある。
 意味的なカテゴリー分類。例をあげるなら「変化を表す動詞」「移動を表す動詞」などのカテゴリー。変化動詞の例「焼く、切る、壊す」など、動作の前とあとでは世の中が変化する動詞。移動動詞の例「行く、来る、渡る」など、主体の位置が変化する動詞。

 また、文法的な違いによってカテゴリーを分ける。例として、アスペクトのカテゴリーをあげてみる。アスペクト(動詞の相)による分類では、「状態継続動詞」「動作継続動詞」のカテゴリーに分類できる。(以前は「瞬間動詞、継続動詞」と呼ばれていた)。

 「電気が消えている」は、電気を消すという動作が終了したあと、電気がついていない状態が続いていることを表す。こちらが状態継続動詞。動作は一瞬で終わってしまい、その動作の結果が残存していることを「~ている」という表現で表す。

 「死ぬ」という行為は一瞬で決定してしまい、「死んだ」と、過去形になる。そしてそのあと、「死んでいる」という状態が続くのである。

 一方、「ごはんを食べている」というのは、今現在、動作が継続していて、食べるという動作が引き続き行われていることを表す。こちらが動作継続動詞。

 日本語動詞の、過去形、非過去形、「~ている(アスペクトのひとつ)形」を、ことが起きる順に順番に並べてみると。
 動作継続動詞の場合: 食べる→食べている→食べた
 状態継続動詞の場合: 死ぬ→死んだ→死んでいる  
 と、なる。動詞のアスペクトカテゴリーによって、違いがあるのだ。アスペクトについては、またあとで。

 意志動詞、無意志動詞、という分け方もある。「みる」「きく」は意志動詞。「みえる」「きこえる」は、無意志動詞である。

 「昨日、私はローストチキンを食べた」という表現。「食べる」という動作を行った「私」はその動作を行う意志を持って、自分で口を動かして食べたのである。
 自分でも気づかないうちに、無意識で食べるということは、まず特殊な場合だけ。普通は、自分で意志をもち、自分から動作を行う。

 一方、「きのう、私は財布を落とした」という表現。文の形式は同じ「~は、~を 動詞」というかたち。
 しかし、「財布を落とした」私は、そうする意志をもってその動作を行ったのではない。知らないうちに落ちていたのだ。この場合の動詞「落とす」は無意志動詞。

 意志動詞の表現は「欲求形=~たい」にすることができる。「ローストチキンを食べたい」「ハワイへ行きたい」「彼女と結婚したい」など。

 しかし、無意志動詞の表現は要求の形が不自然になる。「財布を落としたい」と、表現したとき、知らないうちに落ちてしまった、という意味にならない。自分の意志で財布をどこかにわざと落とすことになる。

 「聞こえる」も、無意志動詞なので「音楽がきこえたい」にはならない。「聞く」は意志動詞なので、「音楽をききたい」は、OK。

 「見える、きこえる」は、その動作を行いたいという意志を持たなくても、自然の状態として、目に入ってくる、耳に入ってくるということを表現しているのである。

新幹線の車窓に偶然富士山が、という場合「あ、ほらほら、あっちに富士山がみえる」と言う。「あ、ほらほら、あっちに富士山を見る」とは、言わない。

 以上、今までに課題がでていた宿題の簡単な説明をしました。まだまだ、無意識のうちに使っている日本語で、外国人に質問されるとどう答えようかと悩む表現はたくさんあります。

 新しい宿題。
 むこうから電車がホームに近づいてくる。「あ、ほら、電車が来た、来た」と、友だちに知らせてやりました。
 留学生の友だちが「電車が来る、来る、じゃないんですか。だって、まだホームのところまで来ていないのに、来た!と過去形で言うのはへんでしょう。」

 さあ、あなたは、この「きた!」をどのように説明しますか。冬休みの課題です。
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2003年12月30日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ④」
(12/30)
春庭のBC級ニッポン語教育研究23「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ④「ル形」と「タ形」

①日本語クイズ:動詞の「ル形」と「タ形」(非過去、過去、完了の形)。

2003/12/29 2: 3 pjtako すごく難しい宿題。
と、考えすぎるとわかんなくなるけれど、

2003/12/29 1:47 donblaco 「来る=まだ見えない」「来た=見えた!」って感じがします
と、感覚でとらえたほうが、わかりやすいかもしれない。どんぶらこさんのとらえ方、正解です。

 日本語教育では、動詞の基本形(辞書形)を「ル形」と表現する。英文法のテンスについて知識を持っている人が「現在形」と言うこともあるが、これは誤解を生む言い方。
 なぜなら、日本語動詞の「ル形」が現在を表すのは、存在をあらわす「ある」「いる」と、昨日「無意志動詞」として紹介した「わかる」「みえる/きこえる」などの」などの限られた動詞。
 無意志動詞というのは、意志のあるなしというより、「自分で制御できるか、できないか」と言い直したほうがいいだろう。

 「わかる」などは、本来は、わかるかどうか自分で制御できない動詞であったが、最近では、「理解する」と同じようにつかわれるため、「あの子の心をわかりたい」などのように、コントロールできる動詞として用いられるようになってきた。

 この存在をあらわす「在る、居る」や、「見える、聞こえる」は、「ル形」が現在の出来事をあらわす。しかし、一般の動詞は、基本的に「ル形」は未来の出来事を表す。
「オレ、昼飯を食べるよ」と言う人は、まだ、食べていない人。
 「しぬ、しぬ」というのは、まだシんでいない人がいう。「イク!イク!」も、これからイク人が叫ぶ。英文法でいえば、willやshallを用いた未来の機能を、日本語の動詞基本形は担っている。

 その出来事が実現したあとでは、現代日本語では「タ形」を用いる。「昼飯、もう食べた」など。
 しかし、「タ」の機能は、過去をあらわすだけではない。

 日本語の「過去形」とみなされている「た」の出自は、古典日本語の「たり」である。過去を表す「き」や「けり」に比して、「たり」は、完了と存続の意味を担っていた。その「たり」が現代語では「た」となっている。

 ゆえに、「た」を「過去形」と名付けてしまうと、他の機能に目がいかない場合もあるので、「過去形」と呼ばずに「タ形」と呼ぶ。

 「食べる」などの動詞基本形を「ル形」と呼ぶ。辞書形という場合もあるが、学校文法のように終止形という言い方はしない。

 現代語では、終止形と連体形は同じ形になっている。終止形と連体形を区別するのは古典文法では必要なことであるが、現代語では必要ない。それより、「食べた」を語幹「食べ」+「助動詞タ」と、とらえるのではなく、「食べた」は、動詞「食べる」の活用形のひとつ、ととらえる。活用の呼び名が「タ」形である。

動詞タ形には、過去を表すという以外の機能もある。
 「ほら、そこ、じゃまだよ。どいた、どいた」と、まだどいていない人に対して「タ形」で言うのも、古典語なら「どいたり、どいたり」であって、「そこから立ち退くという動作を完了させなさい」という完了の意味を含めているのである。

 ホームの向こうのほうに見えた電車に気づいた人が「電車が来た!」と、まだホームに着いていないのに言うのは、「完了」を前提とした「気づき」を表現している。
 「電車の到着」という事象が完了しようとしていることに、今私は気づいた!」と、言って居る。

 どんぶらこさんが「見えた!って感じがする」というのは、まさにその通り。今、現在電車の存在に気づいた人が「来た!」と叫ぶ。

 そして「電車が来る!」というとき、まだ電車の姿に気づいていなくても、「時刻表のとおりなら、まもなくホームに来るはずだ」という予測だけでも、言うことができる。

 普通はこんなふうにいちいち理屈で使い分けをしているのではない。「タ」の機能に過去の意味以外にあることなど、意識はしていなくても、無意識ではあるが、ちゃんと使い分けをしながら話しているのだ。

②日本語クイズ:自動詞に「たい」がつくか?

2003/12/29 2: 7 mysteries 「うんちがでたいんか」と群馬のおばあちゃんが言うのを聞いた

 これは、日本語の自動詞表現に関わる問題
 無生物を主体とした表現は、ふつう無意志表現になるので、欲求形「たい」はつかない。
「川が流れたい」も「山がそびえたい」「家が建ちたい」も、不自然。

 「わかる」「みえる」などの、自分でコントロールできない動詞、可能形もコントロールできないので、「富士山が見えたい」「もっと上手な文章が書けたい」などは不自然。

 群馬のおばあちゃんは、無生物「うんち」を自動詞「でる」の主体として「うんちがでる」と表現した。

 「うんちがでたい」とうんちを主体に欲求の言い方にしている。
 おばあちゃんは、うんちにたずねているのではなく、うんちをする本人に「うんちがでたいのか」とたずねている。

 おばあちゃんは、うんちをする本人とでてくる「うんち」を一体化したものととらえている。うんちは、それを出す本人の代理人として本人とその存在を等しくする存在として出てくるのである。

 I have a sore throat form a cold.(風邪でのどが痛い)
 と、英語ではどこまでも、本人が主体になる表現でも、日本語では「私」という語は出てこないで、ただ、「のどが痛い」と言う。痛いと感じているのは「私」であり、「のど」は痛んでいる場所、もしくは痛む対象であるが、「のどが」と、「のど」を中心にして表現する。

 日本語は「自分が、自分が」と、自分の行為であることを前面に出すことをきらう言語。

 年末の大掃除手伝いをしていて、花瓶にぶつかり大事な花瓶をわってしまったとき、たいていの人は「あ、花瓶がわれちゃった」と言う。

 割ったのは「花瓶にぶつかる」という自分の行為が原因であることが分かっていても、第一声は、ほとんどが「割れちゃった!」になり、最初から「あ、私が花瓶を割っちゃった!!」と叫ぶ人はいない。

 自分の行為であっても、「自分がコントロールして自分の意志で行ったのではない」という意識があるとき、自分が「割る」という行為を行ったのではなく、「自然にそうなった」「この現象は、私が意図して行ったのではなく、自然の推移や偶然として起こったのだ」という意識から、自動詞の表現「花瓶が割れた」と言うのである。

 「うんちしたいんか」と、たずねるとき、うんちをする本人がトイレへ行きたいのかどうか、意志を確認している。

 しかし、おばあちゃんにとって、うんちをすることは、本人がどうこう意志をもつからできるのではなく、自然にもよおすものととらえているのである。

 本人の意志のあるなしではなく、自然の推移のよって、ことが進むので「うんちがでたい」と、うんちの側に視点をおいて表現しているのである。

 日本語では、動作行為の主体をはっきりさせてだれが行うのか主体を明示する他動詞表現より、世の中の事象を自分がコントロールできないことととらえ、自然の推移として表現する自動詞表現のほうが、好まれる。

 ふたりが合意の上で結婚を決めたとしても、結婚報告のあいさつことば、上司への報告として、「来年、結婚の運びとなりました」「結婚することになりました」と、自分たちの意志ではなく、自然に決定したかのように言う「なる」表現のほうが、「来年、結婚することにします」「来年、結婚します」と、自分たちの意志を鮮明にして表現するより好まれる。

 おばあちゃんにとって、「うんちがでるかでないか」ということは、自分自身でコントロールすべきことではなく、「自然の推移」「自分では決められない事象に従っていく」と感じられたから「うんちがでたいんか」と、たずねたのである。

2003/12/29 3:13 mysteries 「この判子はよく押さる」(井上和子)さすがに言えないだろう

 とても押しやすく、きれいに刻印できる判子がある。その判子の性質を説明するために「この判子はよく押せる」「このハンコはきれいにおすことができる」と表現することは可能。
 以上の宿題の答え合わせ。

 では、みなさん、これにて「サルでも出来るnipponia nippin語の教え方」2003年の教室はこれにて閉室です。

 Nipponia nipponn語が「よくわかるようになりました」「文法って、けっこう笑えるって思えました」と、自然の推移的」感想。

 他動詞表現であるならば、「来年もしっかり勉強します」「日本語文章が上達するよう、勉学に励みます」などになる。よい年にしたいですね。

ダイレクトメソッド

2010-12-24 17:09:00 | 日本語教育
春庭のBC級ニッポン語教育研究13「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「直接法(ダイレクトメソッド)の語学教育」

2003/12/18 0: 1 katuyuki22 中国の学生の話をきくと「大地の子」を思いうかべます。
という足跡をいただきました。

 「大地の子」は、春庭にとっても特別な思い出の作品。春庭が出演しているからです。
 出演といっても、俳優としてではなく、ただのエキストラ。長い作品の中で、ほんの5分間くらい画面に映ります。

 中国の大学で教えていたとき、大地の子のロケが行われました。
 仲代達矢と渡辺文夫が、家族の墓参りをするというシーン。

 日本に戻ることなく満州の地に倒れた妻や子をしのんで、皆で泣きながら家族が埋められていると推定される場所に墓を建てる、という場面です。
 春庭は、日本からの墓参訪問団の一員という役まわりのエキストラでした。

 エキストラが中国の方ばかりだと、日本からやってきた訪問団という設定が本物らしく見えない、というNHKの判断で、急遽日本人の教師がエキストラにかり出されたのです。

 ほとんどの先生はテレビドラマのエキストラなどに興味をしめさず、やりたいという人に限って、はずせない授業があったりして、私のところまで話がまわってきました。

 春庭は、好奇心のかたまり。喜び勇んでエキストラに参加しました。

 私と男の先生がふたり。男の先生にはひとことずつセリフが与えられたけれど、私は「墓参団に参加するという設定と年格好が合わない」というので、セリフなし。

 セリフなしでもめげない春庭。主役のうしろに立てば必ずカメラワークに入ると計算して、仲代達也のうしろに立ち、墓参りのシーン撮影に臨みました。

 結果、今年の夏再放送されたロングバージョンの回では、5分間くらい写っています。
 ショートバージョンのビデオの場合、満州墓参団のシーンはカットされているので、映りません。

 25年前、ケニアに滞在していたときは浅野ゆう子の友だち役で『熱中時代スペシャル版』にエキストラ出演。
 10年前の中国では『大地の子』にエキストラ出演。家族へのなによりのおみやげです。

中国で半年間教えている間、中国語を勉強したのですが、最後まで上手になれませんでした。

 え、中国語できなくて、どういうふうに中国の大学で教えるの?と、質問されることもあります。
 中国語ができなくても、英語ができなくても、日本語教えられるのです。

 日本語の授業って、いったいどんなふうにして、外国人に日本語を教えていくのか、見たことある人もいるだろうし、まったく知らない人も。

 一番わかりやすいたとえとして、子どもが中学校に入学して英語を習う際に、英語圏から来た「TA=ティーチングアシスタント」がついたクラスを思い浮かべてください。

 私たちの世代では、日本人の先生が、英語をカタカナ読みした、日本語なまりそのままの英語。カムカムエブリバディ世代の先生に教わりました。

 現在では、英語教育理論をきちんと身につけた外国人教育者を採用している学校が少なくありません。

 TAは、英語だけで、英語の授業を行うことが多いです。少しは日本語を知っているとしても、授業ではなるべく日本語を使わないで、英語だけで教えるのです。

 また、小学校での英語教育も始まろうとしているところです。英語の先取り研究授業、または総合学習「異文化理解教育」として、英語の授業を行っている学校もあります。
 この場合も、TAが英語だけで英語教育を行う場合があります。
 
 日本語教育では、この「英語だけを用いた英語教育」を逆にした「日本語だけを用いた日本語教育(直接法)」が最も広く行われています。

 どのように日本語だけで日本語をわからせていくか、については、「話しことばの通い路」のウェブログハウス春庭「ステップバイステップ日本語教授法」の「最初の授業」に、くわしく書いてあります。読んでね。

 私は、サバイバル日本語として、最初の日に、自己紹介「わたしは○○です。どうぞよろしく」と「○○、ください」を導入する。そして、日本語の音節の発音練習と、ひらがなの読み方(あ行からな行くらいまで)をインストールする。

 英語は、第二言語習得理論の上で、音声から導入する方法が確立しているが、日本語と英語は異なる。

 10/18「いろは歌留多」で説明したように、日本語は開音節の発音で、音節文字であるため、文字と発音を同時に、最初から指導するやりかたが、効率的。

 2日目に「いくらですか」と、数字の数え方を導入(導入というのは「インストール」の教育用語)ひらがなの「な行~わ、を、ん」
 3日目に濁音、拗音、促音、長音。

 「ひらがな」導入のとき、最初はあ行とか行だけでできている名詞を練習する。色カードをみせながら「あか」「あお」、「貝」の絵をみせながら「かい」自分の顔を指し示したり、顔の絵を見せて「かお」を練習する。駅の絵や写真を見せて「えき」

 発音練習ができたら、音声と文字を結びつける。

 さ行、た行の発音ができれば、音の組み合わせもふえて、いろんな単語を絵カードで教えられるようになる。

 そうしたら、「~ください」を導入。八百屋や肉屋、コンビニにいることを想定して「とりにく、ください」「はむ、ください」「ぱん、ください」などを練習する。私が店員の役をして、買い物ごっこをする。

 留学生が、うまくできたら大いにほめて「Now you can buy anything at the Japanese shop.」などと、おだてます。

実際には、まだまだ運用できないことがたくさんあるのだが、「日本語で買いたい物が注文できた!」という喜びを味わうことが大事。

明日は、授業の実践例を紹介しましょう。
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2003年12月19日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「日本語教授法」私の趣味は日記を書くことです
(12/19)
春庭のBC級ニッポン語教育研究14「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える①」私の趣味は日記を書くことです

 春庭が「ニッポニア教師日誌」に書いた一番新しい授業実践報告の中から、日本語文法「動詞の名詞化」を、どのように学習者にわからせるか、というのを転載紹介しましょう。

 日本語教師の資格取得をめざす日本人学生の「日本語教授法」というクラスで紹介した、春庭日本語授業のデモンストレーションです。

 日本語教授法は、「どのようにして日本語を教えるか」を教えています。教員免許の「英語科教科法」とか、「国語科教育法」などに相当する授業です。

 以下は、『話しことばの通い路』フリースペースちえのわ『七味日記2003/11/26 ニッポニア教師日誌』に記載した授業実践の転載です。興味が持てたら、七味日記の他の「ニッポニア教師日誌」も、どうぞご覧ください。

 「動詞の名詞化」を教える授業。直接法(ダイレクトメソッド)と、媒介語(この授業の場合は英語)を用いて文法を説明するのを組み合わせた折衷直接法による授業例

 最初に、基本の理論から。
 英語の動詞はrun がrunning に、walk が walking に、という現在分詞の形で、動詞を名詞としてもちいることができる。
 日本語はこれを取りいれ「ランニング」など、そのまま外来語として使用している。

 日本語の動詞を名詞的用法で文にするには、助詞「の」形式名詞「こと」が用いられる。
 泳ぐという動詞を名詞化(nominaraization)すると、「泳ぐこと」「泳ぐの」どちらも使う。
 「こと」と「の」の使い分けなど、留学生には混乱が起きやすい文法項目だ。
 
 「泳ぐのが好きです」は、「泳ぐことが好きです」と、言うことができる。しかし、「私の趣味は泳ぐことです」という文を、「私の趣味は泳ぐのです」と、言うのは不自然だ。

 そのあたりの文法事項を、きちんと把握していないと、もし、留学生が「私の趣味は泳ぐのです」という発話をしたときに、教師として対処できなくなる。
 「日本語ではそう言わないんだから、つべこべ言わないで覚えろ」と言うしかなくなる。

 名詞化の「の」は、コピュラ「だ」「です」と共起しないことを、教授者が把握している必要がある。

動詞の名詞化の説明(「S.F.J」文法解説に基づく)

1,Attaching「の」 or「こと」(tha fact)that ro V-ing to the end of a sentence in it's plain form allows it to function like a noun.
動詞の基本形(辞書形=国文法でいう終止形)のうしろに、「の」、「こと」(できごと、事実の意味)を附属すると、名詞と同じ機能を持つ。

2 ナ形容詞(国文法でいう形容動詞)や、名詞+ナの単語は、「の」を附属させる方が、「こと」を附属させるより、好んで使われる。

 例:「春さんが元気なことを知りませんでした」より「春さんが元気なのを知りませんでした」のほうが、よく使われる。

3 「の」is preferred to 「こと」in sentences involving ~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ。
~好きだ/嫌いだ/いやだ/上手だ/下手だ、と、組み合わせるばあい、「こと」よりも「の」の方が好まれる.

例:雨の日にでかけるのはいやですね。>雨の日にでかけることはいやですね

4「こと」only is used in the following type of sentence. ( N は N です)

例:私の趣味は本を読むことです(「私の趣味は本をよむのです」は、不適切)

 cf:「だれがなんと言おうと、私はいくのです」という場合の「の」は、また別。「いくんです」「だれが撮っても上手に写るんです」の「の」や「ん」は、説明的終助詞(explanated finel particle)の、「の」である。

あ、話がややこしくなった。逃げないで次に展開する授業実践を読んでね。春庭、授業中に「横綱土俵入り」を披露しているから。
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2003年12月20日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「の/こと」
(12/20)
春庭のBC級ニッポン語教育研究15「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー動詞の名詞化を教える②」

 12/19に、形式名詞「こと」助詞「の」による動詞の名詞化(Verb nominalization)の理論編を書いたところ、dionさんから「『体言止め』と同じですか」という足跡質問をいただいた。
 いいえ、「体言(名詞)止め」と、「動詞の名詞化」は、同じではありません。

 体言止めというのは、文のおわりが名詞で終止することを言います。「働けどはたらけどわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」という短歌は「見る」という用言(動詞)で終わっています。これに対して「今年も何もいいことがなかった。泣き濡れて砂をつかむ私の手。」という文では、「手」という名詞で文が終わっています。これが体言止め。

 動詞の名詞化とは、動詞の形を変えて名詞にすること。「こと」をつけると、動詞「する」が、名詞「すること」に変化します。これが動詞の名詞化。

 もうひとつ動詞を名詞化する方法は、動詞の連用中止形名詞。「行く」が「行き」という名詞になり「行きも帰りも立ちっぱなし」と、名詞として用いることができる。「のぼり、下り」「読み書き」なども、動詞連用中止形名詞です。

 いつもならパソコンの前でいつまでもメールをやりとりしている学生が、明日からの冬休みめがけ、一目散に帰っていったので、留学生センターのパソコンがめずらしく使われていませんでした。
 それで、仕事が終わってから学生用のパソコンで足跡をチェックでき、dionさんの質問に気づきました。足跡ページに書いてあるとおり、昼間は春庭授業中、質問が書いてあっても、足跡をチェックできず、答えられません。質問があるかたは、ミニメールでお願いします。

 敬愛する九州のドクターからも、助詞「が」について説明せよとの御下問が。明日お答えします。
 年末年始特別更新。12/20、12/21,12/22 更新します。12/23,、12/24,更新しません。12/25,12/26、更新します。12/28、12/29,12/30、更新しません。12/31、2004/01/01,01/02,、更新します。01/03,01/04,01/05,01/06,01/07 、更新しません。
 2004/01/08から、通常の平日更新、土日祝日更新なし。

 さて、「動詞の名詞化を教える授業」の続き。
 「私が、『こと』と『の』を導入するときは、こうやります」というサンプル。あくまで一例であり、さまざまな授業方法が存在する。

 以下の授業実践は、直接法(日本語だけで授業をする)に、媒介語(このクラスでは英語)を加えた、「折衷直接法」の授業である。

1,文字カードを準備。
 カードに「ピンポン」「バレーボール」「バスケットボール」「テニス」「ボクシング」「すもう」「Swimming」「Walking」「Watching」「Standing」「Taking photograph」などと書いてある。

2,日本語学習者をふたつのチームに分ける。カードを配り、ふたり一組になってジェスチャーを出題し、相手チームに何をしているか、あてさせる。あたったら、ポイントゲット。
 これは、カードの語句の意味を理解しているかどうか、確認するための遊び。

 「泳ぐこと」「写真をとること」などは、ジェスチャーで当てられるが、「立っていること」「見ること」などは、ジェスチャーが巧みでないと、答えが出にくい。ただ、じっと立ち続けるジェスチャーでは「立っていること」という答えが出ないのだ。

 「すもう」のジェスチャーなどは知らない学生もいるので、できそうな人にあてておく。学生ができないときは、教師がジェスチャーすると、みな大喜び。私は調子にのると、横綱土俵入りのジェスチャーまでサービス。

3,「Please answer. Do you like sports. 答えてください.スポーツが好きですか」スポーツが好きそうな学生に質問する。学生は「好きです」と答える。

①テニスが好きそうな学習者に質問「テニスが好きですか」学習者の答え「はい、好きです」

②女子学生に質問「ボクシングが好きですか」好きだと答えたら「ボクシングができますか」「いいえ、できません」「そうですか、○○さんは、ボクシングができません。○○san can not play boxing.」

① わざと、すもうができるか聞いてみたりする。冗談で「できる」と答える学生がいたら、「Let's play the game. I am Takamisakari You are Asashoryu.」と、のせる。ふたりで、立ちあい「みあって、見合って、はっけよいのこった」と、立つまでをジェスチャーでやったり。がっぷり四つに組むのは、ちょっと遠慮。(昼間だからね)

4,教師「○○san do you like TV watching ?」
  学生「Yes I do」
 教師「そう、好きなのね。日本語で言ってください」
 学生「好きです」
 教師「Please say full sentence.」
 学生「わたしはテレビを見るが 好きです」

5,教師「今の日本語は正しい日本語ではありません。もういちど、言ってください」
 学生「わたしはテレビをみるが、、、、」
 教師「ちがいます。『みるが』は、正しい日本語ではありません」
 学生「Ah!わかりません」

6,学生が間違えたら、すかさず、「こと」「の」を導入する。「日本語動詞の名詞化 Japanese verb nominaraization」の説明。「の」と「こと」の使い分けなどを説明する。
「私は テレビを見るのが 好きです」

7,「こと」を用いた、動詞の名詞化の練習。カードをみせながら、あるいは口答練習で「Walking →あるくこと」「Watching →みること」の変換練習

8「動詞~のが好きです/~のは好きじゃありません」の代入練習。「公園を歩くのが好きです」「テレビを見るのが好きです」「電車の中で立つのは好きじゃありません」などの文型を練習。

9「趣味は、動詞~ことです」の代入練習。
①「趣味はお酒を飲むことです」「趣味は映画を見ることです」「趣味は絵を描くことです」などの例文を練習。

②調子にのりやすい男子学生がいるクラスだと、「趣味は、女の人の写真をとることです」「趣味は女の人と話すことです」などと、うけねらいの短文が続出。

②乗りやすいクラスと、そうでないクラスでは、例文を使い分ける。やたらに「うけねらい」の文を発表しようと、はりきる学生がいるクラスがある。
 また、ちょっとでもふざけた文を言うと、ブーイングを出す、まじめ学生のいるクラスも。

 教師も、クラスの個性にあわせて臨機応変に。

 あなたの趣味は?「趣味は、女の人といっしょにホテルへ行くことです」あ、そう、いい趣味ですわね。春庭も同じ趣味です。共通の趣味を持っていて、気が合いますこと。おほほほ、、、
 「春庭の趣味も、女の人といっしょにホテルへ行くことです」ホテルのレディスサービス、エステ料金無料などのサービスがある。

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2003年12月21日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「が」の機能
(12/21)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「が」の機能。納得するまで疑問を持ち続けることの価値

 12/03に、英語のことばの並びかたと日本語の並び方の違いについて、述べた。英語の基本的な文型SVOでは、動詞の前にあるのが主語(subject)動詞のうしろにくるのが対象語(object目的語)

 「Subject」の形容詞や動詞としての意味が「服従する」「受け入れる」「従属させる」ということからわかるように、動詞で表現される行為行動や事象を、我が身に負う、受け入れる主体という意味。「Object」は、Subjectの対象となるもの、動詞で表現された行為をはさんで、主体と対極に存在し、行為の対象となるもの。

 日本語では、語の順番ではなく、どの助詞(particle)が単語にくっついたかによって、文の中での機能が決定する。
 ここでは便宜的にparticleと言っているが、英語のparticleには前置詞、冠詞、接頭辞などがすべて含まれるので、英語圏の学生に対してparticleという文法用語を使うときは、前置詞や冠詞とは異なることを言っておく必要がある。

 日本語の助詞には、日本語独特の働きがある。
 初級で最初に教える助詞は、副助詞の「は」。「わたし は がくせい です」などの「(名詞)は(名詞)です」という文が、どの初級教科書にも、第1課で扱われる。

 「は」は、文のトピック(話題、これから話し手が述べたいことの主題)をあらわす。
 聞き手が承知している話題について、説明をくわえるときに用いる。

 「私」という存在が目の前にいて、聞き手は「私が今ここにいること」を承知している。そのとき、「私は 春庭です」とここに存在している「私」がどのようなものかを説明する。

 もし、「私」の存在を、話し手が知らないときにはどうするか。
 病院の受付で、受付係が名前を確認している。「鈴木さん、内科の受付をなさった鈴木さん、いらっしゃいますか」
 このように受付係が呼んだとき、話し手が承知しているのは、「鈴木さん」という氏名のほうであって、「私」を見たことはない。
 そのとき、「私は 鈴木です」とは、言わない。「はい、わたし が すずきです」という。相手にとって、新情報であるとき「は」ではなく、「が」を用いる。
 「は」は、話し手聞き手が承知しているものを話題としてとりあげるときに用いるからだ。

 「昔むかし、おじいさんとおばあさん が 山の中に住んでいました。」と、話をはじめるとき、おじいさんとおばあさんのことを新情報として提出するので、「昔、むかし、おじいさんとおばあさん は 山の中に住んでいました」とは言わない。

 しかし、一度おじいさんとおばあさんの存在が読者に提示されたあと、おじいさんとおばあさんが新たに行う動作は、「は」で示す。「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」
 もう、おじいさんとおばあさんの存在がわかっているのに、「おじいさんが山へ芝刈りにいきました。おばあさんが川へ洗濯に行きました」というのは、不自然になる。

 副助詞「は」の機能はまだ、たくさんあり、たとえば、対比をしめす「は」。
 「ビールは飲めるが、ウィスキーは飲めない」のように、ふたつのものを対比させて述べるときの助詞。
 「チューリップは咲いているが、桜はまだだね」なども、対比。

 副助詞の仲間には、「も」「さえ」などがある。「わたしも がくせいです」などが第1課で提出される。「副助詞」という呼び方のほかに「取り立て助詞」というときもある。

 「は」の次に扱う助詞が、格助詞「を」や「へ」「で」。
 格助詞は、単語について、文節(文の成分)の機能を確定する。ひとつの助詞がさまざまな機能を担う。
 
 初級教科書の第2課第3課あたりで扱う「毎日、私は がっこうへ 行きます」「毎朝、わたし は たまご を たべます」など。

 助詞「へ」は、方向、目的地をしめす。
 「に」との違いが必ず質問で出てくる。「学校へ行きます」と「学校に行きます」は、どう違うのですか、という質問。

 「へ」は、方向の移動性を頭に置いて、今存在する場所から、目的地へ向かって移動していく過程を念頭におく場合使う。
 「に」は、移動の過程を念頭におかず、目的地の存在を強く意識するときに使う。「学校へ」というとき、家を出て電車に乗って、最寄り駅から歩いて、という過程が念頭にある。「学校に」というときは、移動の過程ではなく、「学校」という場所が、話し手が到達したいと思っている目的地であることが意識されている。

 「毎日、会社へ行きます」というとき、会社までの道のりや、乗換駅のことなども念頭にあり、「毎日、会社に行きます」というとき、目的地としての会社、自分が働く場所としての会社が意識にある。

 格助詞は、このように、語と語がどのような関係で述語に結びつくかを表す。ひとつの格助詞は、多様な機能を持つ。

 たとえば、対象を表す「を」。「パンを食べます」「彼女を愛している」など、述語の対象を表すのが第一の機能。
 第二の機能として、「橋を渡る」「公園を通る」など、移動を表現する動詞と結びついて、通過地点を示す、という機能がある。

 「に」「で」なども、多様な機能をもつ。
 「で」の機能のいくつか。
 「で」の基本機能は、場所の表示。「郵便局で 葉書を買う」「北海道で 大雪になった」など、「で」は、行動・事象が行われる場所を示す。

 「電車で 会社へ 行く」このときの「で」は、手段を表す。「はしで ごはんを 食べる」の「で」も手段。
 「人身事故で 電車が 遅れた」の「で」は、原因理由を表す。
 さらに、「市役所で 住民登録をした」というときの「で」は、場所を示しているが「この問題については、市役所で調べているところです」というときの「で」は、「動作主体
」を示す。「事件は 警察で 処理するから、素人はひっこんでいろ」などと言うときの「警察で」は、処理するという動作を行う主体を表現する。

格助詞「が」は、代表的な格助詞が提出されたあとで、教えられる。「は」との使い分けの説明がかなり難しいからだ。

 格助詞「が」の第一の機能は「述語predicate」が表す行為・事象の主体を示すこと。
 話し手も聞き手もその存在を知っている「桜」について述べるとき「桜は きれいだよね」「今年の桜は、いつが見頃だろう」など、「は」で、話題にだす。

 しかし、今現在目の前で展開している事象に気づいて話すとき「あ、ほら、あそこ見て。もう桜が咲いているよ」と言う。新しく気づいた現象についてその主体を示すときは「が」が用いられる。

 格助詞「が」の、もうひとつの機能は、心理的な対象、欲求が向けられる対象を示すこと。「あの子が好きだ」「テニスが上手だ」「酒が飲みたい」など、話し手の心が向けられる対象をしめす。

 対象を示す助詞は「を」であるので、最近の若者は「あの子を好きだ」「酒を飲みたい」など、「が」格でなく、「を」格で対象を表す傾向にある。あと、20年くらいすると「酒が飲みたい」より「酒を飲みたい」のほうが一般的な言い方になるのではないか。

 また、「が」は、「の/が」変換といって、文の中、特に従属節においては、「が」で表示される機能は「の」に置き換わって使われる。「私が好きなあの子」は「わたしの好きなあの子」と、「が」が「の」に変換されて使われる。この場合の「の」は、「が」の機能と同じ。
 
 ドクターからの質問。『どうやら「が」と「の」は、後ろに来る述語によってその前の言葉が主語にも目的語にもなるらしいのだが、なぜなんだろう』

 「なぜなんだろう」の回答としては
1,「が」は「の」と変換できる。
2,「が」の機能のひとつとして、「行動行為のむけられる対象」を示す。
3,「が」によって対象を示すときの述語は、心理的な愛憎や要求などがむけられることを示す述語である。

 ドクターがお気づきのように、「が」が、対象を示す述語は「好きだ/上手だ(ナ形容詞)飲みたい食べたい(動詞の欲求形、活用はイ形容詞と同じ)」などの、述語に限られ、動詞の欲求形(~たい)以外の動詞述語の場合は「パンが 食べる」などにはならない。

 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。
 「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)

 ふだん、何気なく使っている母語を意識化するのは、むずかしいことだ。あたりまえの用法としてしゃべっているから。

 その母語を意識化できるということは、ほんとうにすばらしいこと。ドクターが「なぜ、こういうんだろう」と疑問に思ったということが、私がいう「文法というのは、ことば不思議発見のこと」と、以前に話したことなのだ。

 「なんで、こういうんだろう」「どうしてこういう表現をするんだ」と気になることが、文法意識の出発であり、日本語を教えるということは、こういう「なんで日本語ではこういうんだ」ということを、意識化して外国人に伝えること。

 mitubaさんの日記に学校へ行くことを拒否した15歳少年の話が出ている。

 彼は「なぜ、縦と横をかけると面積になるのか」と教師にたずねたが、答えてもらえなかった。彼にとって、学校教育が意味のないものに思えたのもしかたがないことだろう。

 教師とは、「縦と横をかければ面積になる」という計算方法を教える役目も担うが、もっと大事なことは、「なぜ?」という素朴な疑問に答えてやることだ。

 私は数字に弱く、数学は大の苦手。中学1年生のとき、マイナスをマイナスをかけると+になる、ということがどうしても理解できなかった。

 教師は「そんなこと考えてないで、決まっていることなんだから覚えればよい」と言った。テストではマイナスかけるマイナスはかならず+にして答えを書いたから、点はとれた。

 どうしてマイナスかけるマイナスが+になるのかをおしえてくれたのは、中学校国語科教諭になったときの同僚の先生。

 水道方式という教授法をマスターしている先生だったが、出産したあと、教師をやめることになった。生まれてきたお嬢さんの治療養育に専念するため。

 今でも、数学でわからないことがあると、この友人に手紙を出して素朴な疑問に答えてもらう。このような先生に巡り会える人は幸福だ。

 多くの場合、このような教師に巡り会わないまま学校教育の場で「がまんしながら」すごすのではないか。

 わたしが「なぜ、英語では、いちいち一個の林檎とふたつ以上のりんごを区別するのか」という疑問をもったときに「ヘリクツ言わずに覚えろ」と叱られた思い出をもつように、ほとんどの子どもは、素朴な「なぜ」をつぶしながら学校の勉強を強要されているのではないだろうか。
 
 少なくとも、私は、学生から「どうして日本語ではこういうふうに言うのだ」と、質問されたとき、「つべこべ言うな。日本語ではこう言うのに決まっているんだ」と、答えることはしたくない。

 自分でも、わからないことなら、学生といっしょになって考える。答えが出ないときもある。それでも、「先生は質問したことを絶対に無視しない。いっしょに考えてくれる」という姿勢を示すことが、教師の基本だろうと思う。

 ドクターから、「が」の機能について、質問を受けて、とてもうれしかった。まだ全部説明しきれたわけではないけれど、ドクターの疑問にいっしょに考えることができて、楽しいひとときだった。

 「不思議に思う、疑問をもつ、いっしょに考える」これは、世界を共有しようとする人間と人間の関わり合いの基本ではないかと思っている。

 社会のなかであたりまえとされていること、当然だからといわれること、これらのことも、なぜなんだ、なぜ当然のことにされているんだ、と考えることは相当なエネルギーを要する。
 長いものに巻かれて生きる方が、はるかに楽である。

 chiyoisozakiさんの日記。
 「入会するのが当然」とされている地域の「自治会」への疑問から、脱会を決めた。相当な圧力、地域からの圧迫もあったことだろうと察する。

 しかし、納得のいかない自治活動なら、長いものに巻かれて楽を決め込むより、納得できるまで考えてみようとする態度。ここから何かがスタートするのだと信ずる。

 有無を言わさず「決まったことだから」と、遠い戦地へ出かけていくこと。「なぜ?」という素朴な疑問を持ち続けたい。

ほかに、貢献できる方法はないのか、現地の人々にとって、一番必要なことは何なのか。疑問を持ち、考え続けたい。
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2003年12月22日



文法とは何か1

2010-12-19 22:17:00 | 日本語教育
(12/02)
春庭のBC級日本語教育研究1「文法とは何かその1」

 11/30に、次のような足跡をもらいました。

2003/11/30 9:30 hawk 「象は鼻が長い」って主語は鼻って本当?
2003/11/30 13:41 haruniwa 象鼻文の「は」トピックマーカー、「が」は「長い」の主体を示す
 
 せっかくのご質問なのに、足跡では、十分な説明もできません。
 日本語教師ポカポカ春庭、12月は、まじめに日本語学概論と日本語教育概論をやります。足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。

 三上章「象鼻文」は、日本語学のなかでは、奥津敬一郎「うなぎ文」と並んで、論争が続いた「日本語の文」です。英語に直訳ができない、日本語独特の文と言われています。

 「象鼻文」は、日本語における主語論争。「うなぎ文」は、日本語のコピュラ文の問題を明らかにしました。今では、ほぼ解決した文法事項なので、春庭、ちゃんと説明ができます。でも、いち早く「象鼻文」の秘密が知りたい人は、次の本をどうぞ。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.63
(み)三上章(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版.

 文法と聞くと、「活用形の丸暗記」とか、「文節と文節の関係がどうかの設問で、悩まされた国語試験の思い出」しかない人もいるでしょう。
 しかし、春庭が再三申し上げているように、ひとつには文法は「ことば、不思議発見!」のことです。

 そして、もうひとつ、文法とは、語学学習を「経済的に、最小の努力で最大の効果」で行うための「秘密の呪文」のことなのです。

 11/18「いろは歌留多」11/21「んじゃ、メナ」でも、五十音について、日本語音韻論のさわりをほんの少し齧ってみました。12月は、日本語文法学のさわりを少々。

 あ、文法と聞いて逃げないで。最後まで読むと、春庭からのステキなサービスが用意されているんです。あなたのための特別サービス。あなたっていうのは、そう、「あ・な・た」のこと。わかってるでしょう。春庭からのスペシャルコンタクト。
(以上、俺俺詐欺の逆バージョン、よくある手ですね)

 のちほど講義する本家「本居春庭」の国学研究は、文の成分関係の研究です。
 文の成分(文節)関係というのは、学校文法で教えられた方もいるでしょう。
 「修飾語が、どの語(被修飾語)を修飾しているか」「主語と述語の関係」などをやらされて、文法がすっかり嫌いになった人も多いようです。

 嫌いになっても、実はあなたは、日本語の文法すべてを全部習得済みであり、暗記しています。日本語しゃべっているんですから。

 「語と語の並べ方の規則」「語の意味」「活用規則」「語用論」など、文法全部。えっ、いつの間に、、、。たぶん、生まれてから6歳までくらいのあいだに、これらの日本語文法を、すべて習得しています。

 しかし、日本語学習者にとって、これらの「この単語の発音はどうやるか」「この単語の意味は?」「ことばとことばがどうつながって文になるか」など、一から勉強していかなければならないのです。

 単語をひとつひとつ習得することと、文法の習得は、学習者にとって重要なことがらです。ことばの習得にとって、「文法」は、なくてはならない必要事項。

 「私は学生です」という文と、「私は会社員です」という文を、ひとつひとつ丸暗記するのは、とても不経済なやり方。
 「私は~です」という「文の型」と、「学生」「先生」「会社員」「男」「女」という単語を覚えれば、「私は男です」「私は女です」と、いくらでも応用が利いて、しゃべれる文が増やせます。

 この「文型」を教えていくことが、日本語教育では大切な教授法になっています。
 ひとつひとつの文をべつべつに覚えていくのはたいへんだから、あるまとまったルールを知り、経済的に覚える方法、それが「文法」のことなのです。

 ほらね。文法って何か、わかってきたでしょ。

 12月の春庭は、とてもまじめです。まじめに日本語学概論を講義します。

 今月はシモネタギャグはなしです。ああ、つまらない、と思ったあなた、春庭から仕込んだ日本語学蘊蓄を、仕事を終えたあとの楽しみ「クラブ活動」の際に、先輩おねえさんに披露して、もててみたいと思いませんか。

 あ、おねえちゃんにモテるには、蘊蓄より、チップのほう、、、ですか。じゃあ、どっちにしろ、あなたがモテないことには変わりないから、暇つぶしに春庭サイトを読みましょう。

 多額のチップがはずめる方、パソコンの前で難しい顔をしていないで、チップを持って、ほら、、、お出かけを。

 お出かけしない真面目なあなたに、今月はとてもまじめな春庭がサービス。

 春庭、つつとあなたのおそばににじり寄り、
 「いらっしゃいませぇ!あたしぃ、このお仕事を始めてからまだ日が浅くてぇ、あまりいろいろわかってないけど、いっしょうけんめい勤めさせていただきま~す。よろしくねっっ。本気でサービスしちゃうから。
 お客さん、本番?生、いく? あ、うち、尺八生演奏禁止なの。ひちりきと笙の笛なら、演奏できるけど。
 はい、ひちりき演奏ね。かしこまりました、喜んで!
 普段は1曲だけなんだけど、お客さん、あたしのタイプだから、特別に2曲演奏するわね。サービス、さーびす」

 では、ひちりきを演奏します。1曲目は「越天楽」でぇ~す。
 ♪ヒューヒャアラ、ヒャラヒャラリコ、ヒャアラー リィコォリー~♪。

 あれ?何かべつのサービス期待した?

 春庭の日本語教室では、日本文化の紹介の際、ひちりき笙の笛で、「雅楽」演奏聞かせるんですよぉ。
 東儀秀樹の本番生演奏じゃないのが残念だけど、CDとかで。

 では、2曲めを。あ、いらないの?せっかくのスペシャルサービスなのに。
 2曲めがすごくいいんです。
 「越天楽」ほど、知られてないんですけど、「古楽乱声(こがくらんじょう)」って曲なんです。乱声、、、すごっく乱れちゃおうと思ったのにぃ。残念!

 12月の春庭は、これまでと違います。すごく真面目に、、、、文法を、、、斯うご期待!
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2003年12月03日


足跡メールにこたえて3「サルでもできる日本語の教え方
(12/03)
春庭のBC級日本語教育研究2「文法とは何かその2 うなぎ文」

 12/02スタートのBC級日本語教育研究、2回目です。

 ミステリーズさんから2003/12/02夜、届いた足跡「mysteriesうちの嫁は男です。これ何文?」

 春庭は、トランスジェンダー大賛成の人間ですから、自分のセクシャリティに正直にパートナーを選びとった息子を自慢している姑のセリフと解釈して、「芸文、ゲイ・ブン?」と足跡をかえしました。

 しかし、ミステリーズさんからの種明かし。
 2003/12/02 19:15 mysteries 孫の話なので孫文・笑

(この駄洒落が分からない人、あとでミステリーズさんから、清朝の辛亥革命と「孫文&宋慶麗夫婦」人民中国誕生と、「蒋介石&宋美麗夫婦」の講義をうけてください。または、映画『宋姉妹』を見ましょう。)

 日本語は省略を多く用います。お互いに話が通じていて、言わなくてもわかることは、いちいち言いません。

 息子夫婦のおめでたを吹聴したくてたまらないお姑さん。ご近所の最近孫が生まれた人に「オタク、お孫さん女のお子さんだったんですってね。うちの嫁は、まあ、お手柄!男の子を出産したんですよ。跡取りが生まれて、これで一安心」と、言いたくてたまりません。

 そんなとき、ゴミ出しのついでに立ち話。「おたく、お孫さん、お嬢ちゃんだったんですって。オタクのお嫁さん、やさしそうな顔してらっしたから、女の子かなあ、っておもってたんですよ。うち?うちの嫁は男です」

 「うちの嫁が生んだ孫は、男の子です」を省略した文が、「うちの嫁は男です」になるのです。この文、実は芸文でも、孫文でもなく、日本語の「うなぎ文」と構造が同じです。

 今回は「うなぎ文」とは何か、の講義。
 ことばは、直訳だけでは理解できないことがある、という例です。

 日本語では「猫がネズミを食べる」「ネズミを猫が食べる」と、語順を変えても、助詞を変えなければ、文の意味が変わりません。

 しかし、「ネズミを猫が食べた」という文の、日本語の語順の順番通りに「A rat eats cats」という文にしたら、英語の意味が変わってしまいます。

 英語を習った人が、cat rat eat の三つの単語を知っていて、複数形のS,三単現のSなんてことも教わったが、語順の理論を知らなければ、「A cat eats rats.」と「A rat eas cats.」では、まったく「逆の意味」になる、ということがわかりません。英語では、主格(主語)と対象格(目的語)の語順が大切だからです。

 「Kitty chan eats Mickey mouse..」だと、「あ、やっぱりキティちゃんって、ねずみが好物だったんだね。ピューロランドのキティちゃん、毎晩10匹はネズミ食っているらしいよ、あくまで噂だけど」という噂がたつ程度です。

 が、「Michey mouse eats Kitty chan .」という文が打電されたら、騒動がおこります。
 普通、ネズミは猫を食べませんから、オリエンタルランドがサンリオを吸収合併か、という話の譬喩かと思われて、株価が動いてしまします。

 株主特別サービス仕様のキティちゃんグッズほしさに、サンリオの株をこずかいはたいて10株買ったあなたは、大ショック!

 このように、単語と単語の並び順は、とても大切です。この並び順の研究を「シンタックス=構文論」といいます。

 英語には英語のことばの並べ方があり、日本語には日本語の「コトバの並べ方の規則」があります。習得たいへんですよね。

 あなたは、つまずいたり、ころんだりしながら英語を学んで、結局は英字新聞を読むことも、金髪ねえちゃんと会話することもできないで終わったことと思います。勝手に思ってすみませんが、まあ、春庭の英語習得と、みなさんだいたいいっしょでしょ!と推察。

 日本語学習者も、つまづいたり、まちがえたりします。いろんなまちがいをしますが、ちゃんと日本語を習得します。会話ができるようになるし、研究のための日本語文献も読めるようになります。春庭の指導よろしきを得ているからです。

 日本語の場合、助詞(particle)の働きを知ること。日本語の構造の中では、述語がもっとも大切であり、述語に係る文の成分を、「述語の働きを補助する補語」としてとらえる、ということが必要です。

 英語のような「主語ー述語」という関係の文法とは異なるので、最初は、いろんな誤解も生まれます。

 大衆食堂に入った留学生が、他の客が「ぼくは、きつねだ」「わたしは、うなぎよ」と、いっているのを聞きました。

 少し英語ができる日本人の友だちが「ぼくはきつねだ。I am a fox. わたしはうなぎよ。I am a eel.」と、翻訳して聞かせました。
 外国から来た友人のために、英語に翻訳してやれて、ちょっと得意な日本人。「それじゃ、ぼくはたぬきにしようかな。I am a racoon. 」

 ちょっとだけ出来る人ほど、得意になって知っている外国語を披露したくなるものです。私のスワヒリ語吹聴のように.


 留学生はびっくりして、日本ではレストランに入ったら、自分を動物にたとえるのが作法とおもい「I am a tiger. わたしはトラだ!」と、叫びました。

 大阪の阪神ファンが集まる食堂だったので、他の客にも、店主にもオオウケで、ライスは大盛りサービスになったとか。

 こんな楽しい誤解なら、笑ってすませられますが、自分の母語にひきつけて、外国語を直訳的に理解しようとすると、さまざまな誤解もでてきます。

 「私はきつねだ」が「I am a fox. 」になってしまったら、文の意味がことなってしまう、ということを教えていかなければなりません。このような誤解をときほぐし、ときほぐしして、日本語を教えていくのが、私の仕事です。

 「ぼくはうなぎだ」を英語で言うなら「I'd like to order my lunch. My order is a grilled eel on the rice.」くらいの表現になるでしょうか。

 「日本語のうなぎ文」
 奥津敬一郎の「うなぎ文」の解釈。「ぼくはうなぎダ」と言う表現は「ぼくはうなぎを注文する」と、同じ意味を表現していると考えました。

 「ダ」に「~ヲ 注文スル」という表現が含まれると、解釈したのです。日本語のコピュラ(繋辞)「ダ」に「述部代替機能」がある、と論じました。くわしく知りたい方は、下の一冊を。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭今日の一冊No.64
(お)奥津敬一郎『「ボクハウナギダ」の文法』くろしお出版.

 奥津と異なるもうひとつの解釈は、「ぼくはうなぎダ」という文は「僕が注文したいのはうなぎダ」という表現だ、という考え方。

「僕が注文したい食べ物は、うなぎダ」という文のうち、いわなくても分かっている「注文したい食べ物」という部分を省略した、という考え方です。ポカポカ春庭は、こちらに賛成しています。

 「うちの嫁が産んだのは、男の子です」を省略して、「うちの嫁は男です」と言ってしまっても、孫の誕生の話をしているという前提を、話し手聞き手両者が合意しているなら、誤解は生まれません。

 日本語では、言わなくてもわかることは、お互いの「語用論pragmatism=実用的実践的言語運用法」の中で解釈し合い、いちいち表現しなくてもいいのです。

 「食べた?」「うん、食べた」「じゃ、食べちゃうから待ってて」これで、すべてわかり合えます。

 いちいち主語と述語を出して、
「あなたは、お昼ご飯をもう食べましたか。それとも、まだあなたは昼ご飯を食べていないですか」

「はい、わたしはもう昼ご飯を食べました。あなたがまだ昼ご飯を食べていないのなら、どうぞ、あなたも昼ご飯を召し上がってください。」

「それでは、失礼して、お昼ご飯を食べますから、私が昼ご飯を食べ終わるまで、すみませんが少々お待ちください」

と、いちいち言わなくてもいいんです。こんなふうに会話していたら、わずらわしいですよね。

 「する?」「うん、しよう」
 これだけで、夜の会話が成立します。便利ですね。

 じゃ、今夜も、、、する?うん、しよう。じゃ、日本語の勉強をすることにしましょう。え?なにをするつもりだったの?

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2003年12月04日


足跡メールにこたえて4「サルでもできる日本語の教え方」
(12/04)
春庭のBC級日本語教育研究3「文法とは何か3 母語、第二言語、バイリンガル」

 「私も英語苦手です」「英語、苦労しました」という足跡を何通か、いただきました。よかった、英語苦手な人、春庭だけじゃないよね。

 今からでも遅くないから、初歩からきちんと学びたいとは思うものの、ついつい、目先の自転車操業に追われています。
 「ブロークンでも通じているからいいじゃないか」と、開き直って、これまで来てしまいました。

 習い始めのあの頃に、きちんと勉強しておけば、、、、。してもせんない後悔を今夜もしつつ、ブロークン。文法がなあ、ちゃんと覚えなかったから。

 中学1年生の英語を学び始めたあのころ。半年もたつと、始めて習う英語に夢中になって、どんどん勉強が進む子と、私のように、途中でひっかかって、前へ行けなくなる子の二手に分かれていきました。

 私が最初にひっかかたのは、複数のS。
 「先生、なんで英語は、本を持っています、と言うときに、いちいち、私は一冊の本を手の中に持っていますって、言うんですか。どうして一冊のっていうのをくっつけないとダメなんですか」と、質問した。教師は「そんなヘリクツ言ってないで、その間につづり字を覚えろ!」と叱りました。

 確かに、私は「Sii kamu to mai hausu.」と、書いていたんです。
そりゃ、つづりを覚えない私も悪いけど、「なぜ複数にSをつけるのか」というは、「ヘリクツ」なんでしょうか。子どもが抱いてはいけない疑問だったのでしょうか。

次は三単現のS。 I love you. はlove でいいのに、なぜshe loves me. と、Sをつけるのか?
 これも「英語じゃそういうって決まってるんだから、つべこべ言わずに覚えろ」と叱られました。
 私は I lobe yuu.と書いていましたから、それ以上つっこむことができませんでした。

 I am a girl. のとき、am は「です」と訳すのに、「I am in Tokyo.」のとき、am を「います」と、訳せという、そんなご都合主義のような、、、、。適当な、、、

 「なぜ、複数形にSが必要なのか」という疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。10年間、疑問に答える先生に会わないまま、国語教師になりました。そして挫折。

 日本語学、日本語教育、外国語教授法を学ぶことになって、やっと疑問に答えてくれる先生に出会いました。

 英語教科法の先生は「子どもに、なぜ複数にSが必要かと聞かれて、答えられないような者は、英語の教師になる資格がない」といいました。
 私は長年、英語の教師になる資格もない人たちから英語を教わっていたんですね。

 コトバには、抽象的一般的に「あるひとつのもの」、「出来事全体をあらわすこと」を表現する単語と、一回ごとの会話の中で、個別のものを指し示すものの、ふたつがあります。

 一般的に「りんご」と呼ばれるもの全体を示しているときの「りんご」と、今目の前にあって、私が食べようとしている「りんご」は、別のものです。今、目の前にあるりんごは、私が手に取り、口にいれることができる具体的な存在だからです。

 「りんごは赤い」というときの「りんご」は、目の前の一個のりんごじゃなくても、頭に思い描いただけの、りんご全体を思い浮かべて発言することができます。
 日本語は、この「一般的な表現としてのりんご」も、「目の前の、今手に持っている具体的実在としてのりんご」を、区別しないで表現する、言語です。

 日本語では「りんごは赤い」も「いま、手にりんご持ってるよ」も、ただ「りんご」でよい。
 しかし、英語は、このふたつを区別する。世界の中の一般的な「りんご」はりんご全体を表わすため、「apple」でよい。

 が、今、目の前にあり、私が食べようとするとき、具体的な存在であることを示すために「a」をつける。「I eat an apple」と、この「りんご」が、個別的存在であることをしめすためです。
 英語は、一般的な存在の「apple」と個別的存在の「an apple」または「apples」を、区別しなければならない言語だったのです。

 こんな個別表現のための「a」だった、ということを、英語を習い始めてから20年目にして、ようやく教わることができました。

 こういうことが「言語学」を学ぶ、ということです。

お察しの通り、私は「appuru」と書いていました。今では、「語尾にeがつくフォニック」も、ちゃんとわかりますが。

 私の中学校時代の英語教師は、つづり字命のようにスペリングテストを行い、テストでは、文が合っていても、つづりを間違えると×にされ、私はずっと英語の点数悪かった。 つづりも、フォニックをきちんと学んだ先生から教われば、そんなにややこしいもんじゃなかったんです。

 英語はつづりが複雑で、子どもが学ぶにはふさわしくない言語です。
 エスペラント語などのように、合理的で覚えやすい言語もあるけれど、現代では英語が世界制覇してしまいました。

 英語のつづりは、まことに不合理。前にかいたように、「Knight」ナイト=騎士のつづりのうち、Kも、ghも、発音はしない。昔の発音のなごりが残されているだけです。

 日本語も、昔は、ちょうちょうを「てふてふ」と書きました。歴史的仮名遣いです。これと同じような、歴史的つづり字法が、そのまま残っている言語が英語です。

 現代では、つづり字のまちがいなんか、たいしたことではありません。私の一太郎には、スペリングチェックという機能がついていて、まちがいつづりをチェックしてくれます。

 それより、コトバのルール、文法をきちんと知っておけばよかったんですね。
 
 英語でも、日本語でも、はじめて新しいことばを習う人にとって、「文法を学ぶ」ということは、避けて通るわけにはいきません。

 文法には、「シンタックス=構文論」「セマンティクス=意味論」のほか、「語彙論」「単語形態論、活用論」などが含まれ、さらに「語用論」「社会言語論」なども知らないと、言語運用ができません。

 すなわち、今、日本語を話して生活している人は、日本語の「構文論」「語彙論」「意味論」「単語形態論、活用論」「語用論」「社会言語論」などの全部を、すでに習得していることになります。すごいですね。

 そんなにいろいろ身につけていたなんて、春庭に言われるまで、知らなかったでしょ。これから大いに自慢してください。
 と、いっても、ほとんどの人は、自然に母語を身につけるんです。母語というのは、人が成長していく過程において、周囲で話されていたことばのことです。

 第一言語(母語)の習得は、だいたいどの言語でも、生まれてから3~6年くらいで、おおよその言語運用能力が身につくとされています。

 周囲の人が話しているのを聞いて、文を解釈し、自分でもまねて使ってみる。ただまねをするだけでなく、人は新しい文を作り出す能力を持っています。

 「パパ、買い物。ママ、会社」という二語文が話せるようになった子どもは、「ぼく」が自分自身を指し示す語、「トイレ」がおしっこをするときに行く場所だという単語の意味がわかれば、ふたつを組み合わせて、自分で「ぼく、といれ」と表現できるようになります。単語を文の型の中にあてはめて、新しい文を作り出せるのです。

 この、「語と語を組み合わせて新しい文を創出する能力」、これが「文法能力」のことなのです。

 この成長過程で、ふたつの言語を同時に聞いていると、自然習得のバイリンガルになります。自然にふたつの言語が身に付くのです。

 両親が別々の言語を話している場合、たとえば、母は日本語、父はフランス語を話していると、子どもは日本語フランス語両方を同時に覚える。
 また、両親の言語と、生活範囲(保育園、ご近所)などの言語が異なる子どもの場合、家の中では両親と子どもが中国語で話すが、子どもは学校で日本語を話し、バイリンガルになる。

 ただし、子どもによっては、どちらの言語も中途半端にしか理解できないという結果になって、どの言語でも十分な自己表現ができない、という場合もあります。安易に「うちの子、バイリンガルにしたいから、アメリカンスクールに入れてみようか」などは、要注意。

 自然に身につく第一言語(母語)と異なり、第二言語(主に外国語のこと)の習得は、大人になるほど、努力が必要になります。脳が若いほど、第二言語の受け入れがたやすいからです。

 もっとも、脳の若さ以上に、個人差というものが存在し、年をとっても驚異的な記憶力でつぎつぎに外国語を学んでいく人もいれば、若い頃から外国語苦手な春庭のようなのもいる、というしだい。

 10/08に書いた「シニア海外協力隊」への参加お勧めの一環として、効果的な外国語習得法について紹介しました。

 春庭、残念ながら、効果的に外国語を学ぶ方法を実践できなかった。
 わが恋人(そのなれの果てが、現在のワーカホリック夫)は、私以上に外国語を苦手とする「語学音痴」の男。

 夫がケニアにいって、最初に覚えた英語は、ハウマッチ。「ハウマッチって、ホントに実用的で、便利なことばだよね。買い物にすごく役にたつよ」と、新しく覚えた英語を披露して得意になっていた彼。(あのころは、それがかわいく思えたんですけど)

 外国にでるまで、ハウマッチを知らないですごしてきた人がいることに、感心してしまった、ということからおつきあいがはじまりました。間違いの元でしたね。

 このような語学音痴の恋人でなく、ペラペラの人と同居できていたら、今頃私の英語力は、、、、と泣いています。
 これまでに、英語ができなくて、ソンをした人生の分、金額になおせばハウマッチ。


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2003年12月05日


足跡メールに答えて5「サルでもできる日本語の教え方」
(12/05)
春庭のBC級日本語教育研究4「複数形」

2003/12/04 22:53 miyu312fm こんばんは、私も英語苦手発音だけは得意。
2003/12/04 22:43 tttakaaki 自然に身についた母語だけで生きています。
2003/12/04 22:15 piano212880 a にそんな意味があったなんて…勉強になります。

などなど、反響ありがとうございます。

 12/04に書いた単語の複数形について、補足トリビアを。

 世界で使用されている約3000の言語は、おおまかにインドヨーロッパ語族とか、ウラルアルタイ語族のような大きなファミリーに分類されている。日本語はウラルアルタイ語族のひとつ。

 11月27日付の英科学誌ネイチャーで発表された比較言語学の最新情報。
 DNA配列の類似度による系統分析の技術を応用した分類方法によれば、8700年前、トルコのあたりにいた農耕民族ヒッタイトの言語がインドヨーロッパ語族の先祖らしい。

 現在トルコでは、ウラルアルタイ系の言語が話されているから、ヒッタイト民族の直系子孫はトルコ近辺には残らなかったことが推測される。
 鉄器を発明したと言われているヒッタイト。鉄器を残して子孫を残さなかったらしい。

 3000もあるさまざまな言語。
 単語の単数複数の表し方は、言語によって、異なる。
 単語の複数の表し方は、

1,原則として単数も複数も同じ形。

2,原則として単数も複数も同じ形でよいが、語によっては複数を別の形であらわすこともある。

3,原則として、単数と複数を別の形であらわす。単数はひとつだけ、複数はふたつ以上の数をあらわす。(語によっては、単複同型)。

4,単数、双数、複数の三種類に分ける。単数はものがひとつだけあるとき、双数はものがふたつ存在しているとき、複数はものが3つ以上あるときに用いる。

 日本語は2番。原則、単数も複数も同じ形。「きのうりんご食べた」というときのりんごは、一個でも二個でも100個でもよい。

 そして、人々、山々、国々、など、畳語(おなじコトバを繰り返す語)による、複数の強調もある。

 大論争を巻き起こした日本語の単数複数論争。
「古池や蛙飛び込む水の音」
 この芭蕉の句を英語に翻訳するとき、a frogなのか、frogsなのか、論争が起きた。一匹だけ、ぽちゃんと、池に飛び込んだのか、何匹から続けて飛び込んだのか。

 日本語では問題にならない蛙の数が、翻訳では、どちらかに決めなければならないために起きた大論争。

 英語は、語尾にSをつけることで、複数を表すが、スワヒリ語は、語頭の文字を変える。

 ムトトは子どもひとり、ワトトは子ども複数。
 ムワリムは先生ひとり、ワリムは先生複数
 ムティは木一本、ミティは、木、複数。

「英語じゃ、ふたつ以上の数があれば、Sをくっつけるのが決まりなんだから、つべこべ言わずに覚えろ!」ではなく、「世界のことばにはいろいろあって、ものの数をあらわす言い方も、こんなにいろんな種類があるんだよ。

 たまたま英語は、ふたつ以上の数があるものを表すとき、Sをつけることになったコトバなんだ」
と、教えてくれる人がいたら、私も、この納得いかない言語と折り合いをつけることができたかもしれない。

 英語教師が言語学の基礎を少しだけ知っていれば、私も、不合理きわまると思えた英語から逃げ出さなかったかも知れない。

 日本語のばあい、家々、道々などの畳語の言い方を教えるのは中級以後。初級では登場しないことが多い。しかし、初級で学習者がひっかかるのが、助数詞。

 一番最初に教えるのは、紙やお皿の数え方。一枚二枚三枚四枚五枚六枚、、、、と、番長更屋敷のお菊さんが一枚一枚うらめしげに皿を数えるのと同じく、留学生にとって、さらさらと数えられる。
 
 ひっかかるのは、ペンや傘を数えるとき。「いっぽん」と教えると、必ず次は「にぽん」と言う。「いいえ、two pensは、にぽんではなく、にほん」と教えると次は「さんほん」というので、「さんぼん」と訂正。すると次は「よんぼん」と言う。

 数を数えるのも、たいへんなのだ。
 ムワリム春庭、羊を数えて寝ることにします。Sheep(単複同型)いっぴき、Sheepにぴき「ちがう!にひき」Sheepさんひき「ちがう!さんびき」Sheepよんびき「ちがう!よんひき」、、、なかなか寝付けません。

 「三匹の山羊のがらがらどん」読み聞かせで子どもを寝かしつけた日も遠く、ひとりでねるときにやようぉおお、膝っ小僧が寒ぅかあろぅ」と、膝を抱えて寝ることにします。じゃ。山羊が一匹山羊が二匹、、、、
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2003年12月08日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/08)
春庭のBC級ニッポン語教育研究4「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語教師はトリビア雑学博士であるべし」

 12/06、07、両日、「地学巡検」の旅に参加しました。
 2日間で、日鉱記念館、石炭化石館の見学、アンモナイト館の見学と化石掘り体験コーナー。常磐いわき周辺地層、数カ所での化石掘り。

 え?日本語教師がなんで、化石掘りに?話せば長くなり、長い話はお得意なのですが、そこは割愛。「話しことばの通い路」フリースペースちえのわ七味日記のこのページなどにhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0311b7mi.htm グチグチと理由は書いてあります。

 で、今回の化石掘り旅行は、娘が成人し、「子育て卒業、子離れ実習」の第3弾です。これまでは親子3人で参加してきた「地学ハイキング」の「2003年一泊地学巡検」にひとりで参加することにしました。

 本来、春庭は「全身完全文化系」人間です。
 でも、私、高校時代は科学部に所属し、クラブ活動として共同研究した成果が「読売学生科学賞」全国大会に入賞したりしたんですよ。。

 学生科学賞といっても、クラブ活動を行った部員全員の努力の結果であり、私はちゃっかり東京のホテルで行われた授賞式に参加したのがメインの活動というお調子者。授賞式のメインゲストは朝永振一郎博士でした。

 高校時代の思い出。
 生物はなんとか理解できたけれど、化学は「水素と酸素がくっつくと水になるって、なんて不思議なことなんだろう」と、ひたすら感心したり、「硫酸銅のブルーって、なんともいえない青色だなあ」と、科学室の棚にある硫酸銅の瓶を飽きずにながめたり、という「不思議な世界へのあこがれ」だった。

 物理となると、まったくお手上げ。りんごが落ちたのを見て、どうして「すべての物は引きつけ合う」と思いつけるのか、まったくもって理解不能。

 地学も、天文分野は、ギリシャ神話の星座の話と関連させながら、星について学ぶのは好きだったが、気象や地形の話には興味が持てなかった。

 地学で星座のほかに興味が持てたことが「太古の地球」。恐竜、化石、リンボクロボク。ムカシトンボ、三葉虫、アンモナイト。
 今は絶滅してしまったたくさんの生物が、人間が誕生するよりはるか昔にいたことが、とても不思議だった。

 「遠くに行きたい」が第一テーマの私にとって、時間を遡ってはるか遠く、昔々に遡ることのできる化石の世界は、大好きな分野のひとつだった。 

私がどんなことに興味をかき立てられたかについては、11/10春庭今日の一冊、山口昌男『道化的世界』の項に書いた。同じ地面を掘るのでも、考古学の専門家になりたいと思ったことはあったが、化石の専門家になりたいとは思ったことがなかった。化石は、遠くから眺める夢の世界だったのだ。

 それが、7年前に「化石採集教室」に参加して以来、毎年、化石を掘るハイキングに参加してきた。

 ここから昨日の話。
 今回の採集地は、トキオがDASH村の「化石発掘プロジェクト」を実施した地域。トキオがこのテレビ番組の中で掘り当てた化石は「アンモナイト館」に寄贈展示されていることもわかりました。

 春庭、今回は二枚貝と巻き貝の化石を掘り出しました。ほんとはアンモナイトが欲しかったんですが、私がアンモナイトだと確信していっしょうけんめいハンマーとタガネで掘り出したのは、イノセラムスという貝の化石。
 私の隣で掘っていた人はみつけたのに、残念。でも、貝の化石もステキですよ。

 さて、冒頭に戻って、なんで、日本語教師が授業準備にあてるべき週末に化石掘りに出かける?

 私の持論は、「日本語教師は、教室では芸人であれ、トリビア雑学収集家であれ」。

 教室をなごませたり、授業に集中させるためなら、「日本語の歌」指導もやるし、踊りも見せる、土俵入りのジェスチャーも披露する。照れたり「歌は下手なのに」と躊躇したりはしない。

 歌や踊りが美味くて、才能があったのなら、私はミュージカル女優としての仕事をやめずに続けていた。人様から金をいただいて見せるほどの芸ではないとわかったから、小学校の体育館を回ってミュージカルを見せる仕事をやめたのだ。

 そして私は、他の日本語教師のように「日本語学」で博士号を持っているわけでもないし、「第二言語習得理論」を専攻した教育プロパーでもない。

 私が得意なのは、「楽しい教室」にすること。
 そして、学生の質問には、出来る限り答えること。わからないことは、あとで調べて答えるが、できるなら簡単にでもいいから、その場で答えたい。

 「日本事情」という科目では、日本の文化、歴史を教えている。「留学生のための日本史」というテキストを使っているが、テキストに書かれたことのほか、本当にさまざまな日本に関する質問が出る。

 それらの質問につぎつぎに答えていくと、「先生は歩く百科事典のようです」と、持ち上げてくれる学生もいる。

 「I'm not a walking encyclopedia. I'm an old secondhand dadderring Japanese book. 歩く百科事典ではなく、よぼよぼ歩きの古本です」と答える。一応「謙遜」の美徳は示しておかないと。

 よぼよぼ古本ではあるが、学生の質問に出来る限り答えるという姿勢、どんな質問をしても、先生はいやがらずに答えようとしてくれる、という教室の雰囲気は損なわずにいようと、思っている。

 日本文化、歴史以外の質問。当然、日本語の文法に関することが最も多い。これに答えるのは、日本語教師として当たり前のこと。

 「会社で働く」「会社に勤める」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができないのは、どうしてか、という基本中の基本の助詞問題から、国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった、という待遇表現に関することまで、日本語についての質問は、とぎれることなく出てくる。

 当然知っていると、思って解説をしなかったことについて、留学生がまったく知らなくて、質問を受けることもある。

 日本の高校卒業程度の学生なら当然知っていると思うことを、留学生の既習項目によって、まったく学んでおらず、その部分の知識が欠けている、ということも多々あるのだ。
 理科教育、芸術教育などは、国によって、カリキュラムが大きく異なる、という教育事情による。

 「私の国では、学校の授業で音楽や体育を習うことはない。音楽は町のピアノ教師にならったり、スポーツは、クラブチームで練習したりする」という国もあるし、「受験科目になかったから、地学はまったく勉強したことがない」という学生も。

 私が担当している授業科目の中に、「日本語文章表現」というのがある。

初級日本語を学んでいる学生への、「初歩の日本語作文」の指導もある。初級の学生には、ひとつの文章の中で「だ、である体」の文体と、「です、ます体」の文体を混ぜてはいけないと口をすっぱくして教えますが、本日の春庭雑文は、雑文らしく、文体もまぜまぜです。

 大学院で、日本語によって博士論文修士論文を書く予定の学生に対して「論理的な日本語表現」などの指導もある.

 中級用の作文テキストのひとつの章に「変化の過程を表現するための、論理的な説明文」を練習する課がある。

 例文として出されているのは「アンモナイトがどのようにして化石になるか」という、変化の過程について。

 「アンモナイト」を、当然知っていると思って、化石になる過程を読解していたら、途中で「先生、さっきから話にでてくるアンモナイトっていったいなんのことですか」と質問を受けたことがあった。

 テキストに挿絵があるが、イカなのか、オーム貝なのか、知らない人には区別がつかない。

 そのとき、あわてずさわがず、さらりとアンモナイトを説明するには。

 まったくアンモナイトについて興味をもったことがない教師が、流暢な英語で説明するよりも、たどたどよぼよぼした私のブロークンイングリッシュで解説したほうが、わかってもらえる、という場合が多い。

 私はアンモナイトに興味があり、アンモナイトが好きだから、説明に「愛」があるんでR。

 おまけに、アンモナイトの章を受け持つときは、「古代の海」の古生物が描かれた図版や、私の宝物のひとつアンモナイト化石の文鎮(モロッコ出土の化石)を持参する。一目瞭然。

 これなら、どんなに英語がへたでも、通じるわけだ。必要なのは愛じゃなくて、文鎮だったのね。

 というわけで、今回はアンモナイト館の体験発掘現場で、ぜひともアンモナイトを掘り当てたかったのだが。

 つまるところ、日本語教師は、何事にも興味を持ち、トリビア収集が大好きという人に向いている仕事だと思う。どんな些末な雑学でも、それがほんとうに役にたつ。
 学生から出る質問は、多種多様おもいがけない質問も多い。

 私は、テレビからも、留学生からも日本人学生からも、毎日たくさんのトリビア雑学を学べる。覚えたトリビアは、すぐにでも次の教室で話したい。

 かくて、春庭日本語教室は、今日も「へぇへぇへぇ」が連打されるのである。

 これまで、地学などに興味がわかなかった人にも、化石掘りはお勧め。

 学術的な見地から「人生において意義深いのは、掘ることより、掘られることだ」という信念をお持ちのお方もいらっしゃいましょうが、ここはひとつ、掘るほうも体験してみましょう。

 新しい経験は、必ずあなたに新しい喜びをもたらすことでしょう。
 あなたが、アンモナイトや、恐竜の骨などを掘り当てることをお祈りして、、、、。掘られるのも楽しいでしょうが、機会があったら、ぜひ掘ってみて!
19:01 コメント(0) 編集 ページのトップへ
2003年12月09日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究
(12/09)
春庭のBC級ニッポン語教育研究6「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「日本語古文もなんなくわかる伝達の極意」

 語学(第二言語)の学習は、
1,単語を覚えること。単語の発音ができ、語句の意味がわかること

2,単語と単語をどうつないで、どう並べたら、意味のある文になるか、覚えること

3,文の含意や、ことば以外の情報(顔つきや態度、服装、文化的背景、などコトバ以外のすべて)を加味しながら、文の情報を正しく受けとる訓練

 実際の会話では、文の表面上のことば以上に、「3」の情報は大切。
 しかめっ面をしながら、「係長、ご栄転おめでとうございます」と言えば、この栄転を快く思っていないことは、すぐにわかる。伝達情報は、ことばだけでは成立しない。

 沈痛な顔を作りながら、「奥さんのご冥福をお祈りします」と言っても「やったあ、これで、与党を総攻撃できる。ツッコメェー」と、内心小躍りしているようすがアリアリの人もいれば、「盗聴を社長から指示したことはございません。世間をおさわがせしたこと、まことに申し訳なく」といいながら、少しも悪いと思っていないようすが、ミエミエというのも、よくある話。

 コミュニケーション(情報伝達、交流)は、人間存在のすべてが丸出しになる行為なのです。
 1,2,3,すべてが、「ことば」の習得にとって重要、とは言っても、「3」は、語学教室で教えることがらではなく、実際の運用の中で、自分自身の経験から学び取っていくもの。
 日本語学習は、「第二言語習得理論」に基づいて、効果的な日本語習得方法の研究を工夫し、主として1と2を教えます。

 春庭がどのように日本語を教えているか、興味がある人は「話し言葉の通い路」サイトをごらんください。

 ウェブログハウス春庭『ステップバイステップ日本語教授法』には、日本語を教えるための理論が書いてあります。フリースペースちえのわ『七味日記』の中の「ニッポニア教師日誌」に、毎日の日本語授業をどのように行っているかの、簡単な紹介があります。

 外国語習得に効果的な学習方法については、笈の小文11/07「シニア海外協力隊」の項で伝授してあるので、11/07を読み返してください。
 外国語を学ぶ二番目にいい方法は、ポルノをジャンジャン読みふけることでしたね。

 春庭、サービス精神旺盛だから、もう一度繰り返して、復習サービスしましょう。
 英語については、11/07を読めばいいから、古典日本語のサービス。

 古文を始めて読まされたときは、とても日本語とは思えなかった。英語以上に、ちんぷんかんぷんでした。
 しかし、古典文学ったって、こわかない。読むべきところを読めば、そのまま意味が通じるんです。
 (万葉仮名の原文を現代かなづかい漢字仮名まじり文に変換)

 「汝が身はいかにか成れる」と、問いたまえば、「吾が身は、成り成りて、なり合わざるところ、ひとところあり」と、こたえ給いき。ここに、いざなぎの命、のりたまわく、「我が身は、成り成りて成り余れるところ、ひとところあり。かれ、この吾が身の成り余れるところをもちて、汝が身の成り合わざるところに刺しふたぎて、くにを生みなさんとおもう。生むこといかに」と、のり給えば、いざなみの命「しか、善けむ」と、こたえ給いき。

 どうですか。日本の最古の古典。初めて読んでも、ちゃんと古文の意味が通じたでしょ。

 「なりなりて、なりあまれる所」をもちて、「なりなりて成り合わざるところ」を、「刺しふたぐ」んですよ。リアルですね。
 すばらしき哉!最古の古典のリアリズム!

 ぽかぽか春庭の最初の「卒論」は「古事記」です。
 この卒論を書いて以来、清純な乙女だった春庭が、現在のような耳年増に、、、、ああ、私

サルでも出来る日本語の教え方 目次

2010-12-12 09:28:00 | 日本語教育
2003/12月目次
BC級日本語教育研究「サルでも出来る日本語の教え方」

12/01 2003/9月10月11月の目次
12/02 春庭BC級日本語教育研究「サルでもできる日本語の教え方」
12/03 「サル出来日本語」うなぎ文
12/04 「サル出来日本語」母語、第二言語、バイリンガル」
12/05 「サル出来日本語」複数形
12/08 「日本語教師はトリビア雑学博士であるべし
12/09 「日本語古文も、なんなく読める」
12/10 留学生・就学生、そして戦争
12/11 日本語教師になりたい人のために
12/12 ニッポニアニッポン語とは何か
12/15 BC級日本語教室リストラされた
12/16 BC級日本語教師養成講座
12/17 サルが教える初級日本語
12/18 「直接法」大地の子に出演した
12/19 「 動詞の名詞化を教える」BC級日本語教授法実践教室
12/20 「動詞の名詞化 こと/の」
12/21 「が」の機能
12/22 漢字クイズで授業おさめ
12/24  ラポール①
12/25 ラポール②心と心をつなぐ伝達
12/26 宿題答え合わせ①「タコが海で泳ぐ」
12/27 宿題答え合わせ②敬語
12/29 宿題答え合わせ③動詞の分類
12/30 宿題答え合わせ④タ形ル形

師走の意味、ついたちの語源

2010-12-07 06:20:00 | 日本語学
2005/12/01 木
ニッポニアニッポン語教師日誌>ことばの知恵の輪「ついたち、とおか、はつか、みそか」
 
12月1日は、師走ついたち。あっというまに十日(とおか)二十日(はつか)が過ぎていく。一年さいごの大晦日(おおみそか大三十日)まで、駆け足。早い!
 忙しい12月ではありますが、日本語トリビアをひとつ。

 日付を教わった留学生からの質問。二つ→ふつか、三つ→三日、四つ→四日です。ひとつ→ひとか?ひつか?いいえ、ついたち。なぜ、最初の日は、ついたちなの?

 大学後期10月から日本語学習を始めた留学生達、一日に4~5時間の日本語授業を週に5日受け、8週間で160時間日本語を学んだところ。まだまだヨチヨチ歩きの、おぼつかない足取りです。
 日本語集中コース初級は、5ヶ月間で約300時間の日本語授業を受け、修了となります。

 300時間の外国語授業、日本の中学校英語授業に換算すると、3年間分にあたります。
 日本人中学生が3年間かけて習う英語と同じ分量の日本語を、5ヶ月で詰め込むのです。
 この「日本語集中コース」を担当するようになって、10年になります。

 学生は博士課程修士課程へ進学する大学院の院生研究生たち。5ヶ月で3年分を詰め込む「シンカンセン授業」にも耐えて、熱心に日本語を吸収する。ま、教える教師がいいからですね、、、、ってことはありませんで、国費奨学金を受けている優秀な学生が集まっているからです。

 日本語ゼロスタートの留学生にとって、日本語の日付の言い方も、関門のひとつ。
 月の言い方は、注意さえすればなんとかなる。4月を「よんがつ」「よがつ」と言ったり、9月を「きゅうがつ」と言ったりする間違いを訂正して、「4月はよんがつじゃ、ありません。しがつですよ。9月はくがつ」と、練習れんしゅう。

 次ぎに日付の言い方。学生にとっては、物の数え方が「ひとつ、ふたつ~」の和語と「いち、に、さん~」の、中国語由来の数え方の二種類あるのだけでも、たいへん。それに、日付の特別な言い方が加わります。

 英語圏の学生や、外国語教育としてインドヨーロッパ語系の言語しか習ったことがない学生。英語では、「one two three~ 」の基数と「first second  third~」の序数を覚えれば、日付もOK。

 ところが、日本語では日付は特別な言い方を用いる。「12月いちにち、12月ににち、12月さんにち」と言えません。
 まず「ひとつ、ふたつ、みっつ~」の言い方を復習する。「1=ひ、2=ふ、3=み、4=よ~」を思い出させて、「日」を「か」と読む読み方をインストール。
 2日は、「ふつ+か→ふつか」。3日は、「みつ+か→みっか」。4日は「よつ+か→よっか」。5日「いつ+か→いつか」。
 促音(つまる音)、小さい「っ」になるところ、注意。

 でも、6日は「むつ+か」が「むつか」にならず、「むいか」に変化するし、「なな+か」は「ななか」ではなくて「なのか」、「やつ+か」は「ようか」になるので、ややこしい。
 「ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、ここのか、とおか」お経のように唱えて暗記させる。

 あるとき、言葉の規則、音のルールに注意深い学生が、日付のルール違反に気づいた。「二日から十日までは、ひづけに『か』がつくのに、1日目は、『か』がつかない。どうして?『ひとか』か『ひつか』になるはずなのに」

 この疑問を、日本語教育研究の日本人学生に、出題しました。
 こういう質問が留学生から出たとき、答えられますか?「なんでもいいから、とにかく覚えろ」という返事をする先生もいますし、「さあ、なんでついたちだけ、ちがうんでしょうね。日本語はいろいろだわね」という先生もいます。
 でも、正解を答えてあげられれば、留学生は日本語によりいっそう興味を感じて、勉強に熱がはいると思うよ。

 正解。「ついたち」は「つきたち=月+立ち」から変化したことば。日本語音声ルールでいう音便です。(この場合は「イおんびん」)
 新しい月が、この日に立ち上がる。

 旧暦(太陰暦)のこよみでは、「ついたち」が新月(朔月)の日。文字どおり、新しいお月様が空に立ち上がるのが見える日だった。
 新月から15日に満月になり、また月が欠けていく。月の満ち欠けによって、月日の移り変わりを知った。

 「This first day , the new month stands up.」 Month は、つき→つい、Standing up は、たち」と、言ってあげると、留学生の印象にも残り、覚えやすくなります。

 日本人学生たち、たいていは「なんで、ついたちっていうか、初めて知った」と言う。
 「どんなトリビアも、日本語教師の知恵袋に入れておこうね。日本語学習者からどういう思いがけない質問が飛び出すかわからない。
 なんでもかんでも知っておいてソンはありません。」

 さて、師走ついたち、ふつかと過ぎ去りまして、十日(とおか)二十日(はつか)三十日(みそか)もすぐに。大三十日(大晦日)まで、カレンダーは駆け足です。<おわり>