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オセロの受容と変容

2008-10-06 18:56:00 | 日記
1 日本演劇史
2-1 正劇オセロ
2-2 貞奴と音次郎
2-3 明治社会とオセロ
2-4 川上一座の室鷲郎
2-5 デズデモーナから鞆音へ
2-6 貞奴の身体性
2-7 黒田事件
3 オセロの変容
4 現代のオセロ
5 結論


「日本語言語文化における主体性の研究-日本的主体を成立させようとした演劇受容の一例について」

 本稿は、川上音次郎一座によって1903年に上演された『オセロ-室鷲郎』について、日本でのシェークスピア受容と変容を論じる。『オセロ』の核となるストーリーの運びはシェークスピアの戯曲を用いながら、明治期日本の社会情勢によってどのように人物像が浮かび上がってくるのかを見ていく。
 明治中期以後の日本の帝国主義的海外進出と、産業資本主義の急激な発展期に、他者の視線によって成立する自己アイデンティティの表出、明治日本が「西洋」「遅れていて野蛮な台湾」のふたつの視線によって、日本的主体を成立させようとした過程のひとつとして、「オセロ=室鷲郎と鞆音の物語」を考察したい。
 また女性史の面から、オセロのヒロイン、デズデモーナ像を論じた言説の可否について見ていくことにする。室鷲郎の妻鞆音は、近代家族制度家父長制度のなかに押し込められた明治期の女性たちに、近代国家が要求する「貞淑でつつましやかな良妻」の規範を体現する存在だったのかどうか、当時の世相から見ていく。

1 日本演劇史
 日本演劇史は、受容と変容の歴史である。
 法隆寺などに残されている面をつけて踊ったという伎楽は、唐時代の中国に西方地域のペルシャなどから伝わった胡の舞踊だといういうし、平安の都で舞われた越天楽や青海波などの舞楽も、大陸から伝わった踊り。各地の神社に伝えられる神楽や巫女舞も伎楽・舞楽が各地の神舞と習合したものである。
 中世には大陸から伝わった散楽が農村での田楽に変容し、そこから能や狂言が成立した。
 日本に中世から伝わっている説話『百合若大臣』。百合若大臣の話は、幸若舞として上演された。幸若舞を愛好したという織田信長も知っている話だったであろう。主人公の百合若は、合戦から帰る途中、家来に裏切られて島に置き去りにされる。島を脱出し、苦労を重ねてやっと帰還。貞淑な自分の妻に言い寄っていた男たちを弓で射殺し、妻のもとに帰った、という話。
 坪内逍遥や南方熊楠が唱えた説に「百合若大臣はユリシーズの翻案」というものがある。『百合若大臣』あらすじは、ギリシアの『オデュッセイア』と、よく似ている。オデュッセウスのラテン語名「ウリッセス」で、英語名は「ユリシーズ」。ユリシーズが百合若に変わることは、考えられることだが、このような類話は、各地独自に、同じような話が生み出される場合もあるし、なんらかの影響関係から、もとの話が各地に伝播していく場合もある。
 現在の研究では、ユリシーズと百合若大臣に直接に影響関係のある翻案だったかどうかは、まだ不明である。古今東西の文献を網羅して脳内にしまっておくことのできた博覧強記の学者、南方熊楠などが「ユリシーズ→百合若」説を打ち出しているなどから、今後の比較研究が深まることが期待される。
 いずれにせよ、一国の文化は、孤立したままではいない。海によって大陸と隔絶したかに見える地理的な位置を持つ日本の文化も、むしろ海が「海路」となってさまざまな分野で海外の文化がもたらされ、受容し変容する中で、列島の文化を維持発展させてきた。
 本稿では、明治期における「西洋演劇の受容と変容」をとりあげ、シェークスピアの「オセロ」がいかなる受容と変容によって上演されたのかを考察する。


2-1 正劇オセロ
 幕末から明治初期にかけて、啓蒙主義的な言説が次々に日本に移入され、近代日本の思想を作り上げるために利用された。欧米文学の移入も盛んに行われてきたが、一般社会に影響を及ぼすような大規模な文学紹介は、明治中期以後、欧米留学から帰国する「新帰朝人」の活躍によってなされた。
 二葉亭四迷のロシア文学紹介、森鴎外のドイツ語圏の文学紹介などが盛んに行われ、欧米文学の翻案移入は、日本の文化に大きな影響を与えてきた。森鴎外が翻訳した『即興詩人』などは、「元の話であるアンデルセンの原作よりもよほどすぐれた作品に仕上がっている」と、評判になったほどである。
 坪内逍遙も、多くの翻訳翻案作品がある。シェークスピア劇を歌舞伎や新派のために翻案するなど、演劇分野で大きな影響を残した。
 坪内の翻案ものほか、演劇では、西欧翻案ものは人気を博した。日本におけるシェークスピア演劇の嚆矢は、1903(明治36)年、川上音二郎・貞奴夫妻によって上演された『オセロ』である。
 『オセロ(Othello)』は、5幕の悲劇。シェイクスピア四大悲劇のひとつとして、1602年に初演から、世界各地で現在まで上演が続いている。副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)。
 日本初演のタイトルは、『正劇・オセロ』。オセロを演じたのは川上音二郎、デズデモーナは音次郎の妻の川上貞奴。舞台のセットはスコットランドでもヴェニスでもなく、台湾を舞台にした翻案劇であった。女優のいない歌舞伎が中心であった日本の演劇界において、女優がはじめて人前で演じた作品としても重要な作であり、翻案シェークスピア劇上演として演劇史に残る作品である。

2-2 貞奴と音次郎
 川上貞奴は、日本最初の「女優」として、その名が喧伝され、数種の伝記・評伝が出版されている。杉本苑子『マダム貞奴』、山口玲子『女優貞奴』童門冬二『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』など、著名作家による「貞奴の物語」が出され、世に知られてきた。特に、NHK大河ドラマ『春の波濤』は、貞奴と電力王と呼ばれた福澤桃介(正妻は福澤諭吉の次女、房)との恋が主要ストーリーになっている。
 私がもっとも早く貞奴について読んだのは、長谷川時雨『近代美人伝』(1936)による。
 川上貞(旧姓:小山)、1871(明治4)-1946(昭和21)年。維新明治初期の社会変動により生家が没落し、7歳で芸妓となる。容姿端麗芸事上手のためたちまち売れっ子となり、伊藤博文に水揚げされたのちは、伊藤の庇護を得たほか、西園寺公望らの贔屓を受けた。
 1894年、22歳の貞は、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と、金子堅太郎の媒酌により正式に結婚した。
 1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行し、女形の死去(または興業主からの拒否)のため急遽代役を務め、日本初の女優となった。1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、同年、万国博覧会において会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演した。これは、日本からの正式参加ではなく、勝手に興業したものだったが、大好評を博した。この公演の後楯は、フランス駐在公使の栗野慎一郎であった。栗野が正式参加者ではない川上一座を支援したのも、貞奴に有力政治家の「贔屓」がついていたおかげと考えられる。幕末から明治時代、日本の演劇一座が海外で公演を行った例は多数あったが、日本政府側の支援を受けたのは、川上一座など、ごくわずかである。
 フランス政府はこの時、オフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与したほど、貞奴を厚遇し、パリはジャポニズム一色となった。ジャポニズムは、中国趣味(シノワズリ)を凌駕して絵画やファッションに大きな影響を残した。
 帰国後の川上一座は、いわば「凱旋公演」の趣で、各地を巡演した。
 1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立したが、3年後の1911年に川上音次郎が死去し、貞は演劇界から引退した。長谷川時雨が『近代美人伝』に貞奴の章を書いたときは1918(大正9)年であったため、貞奴の物語は、女優引退の部分で終わっている。
 日本初の女優、川上貞が、寡婦となり女優引退してのちの人生、さらに波乱がある。
 貞奴が、「奴」という源氏名で芸妓をしていた時代、無名の慶応大学生と出会い、恋に落ちた。だが、この恋は実らず封印された。なぜなら、このときの苦学生岩崎桃介は、洋行留学の費用を出してもらうことを条件に福澤諭吉の養子となり、留学から帰国後は約束通り、福澤の次女房と結婚したからだ。桃介は事業家として成功すべく奮闘し、電力王という名で呼ばれる大物に成長した。貞が寡婦となったとき、義父諭吉もすでに亡く、当時の経済界政界の大物がそうであったように、正妻以外の愛人を囲うことをはばかることはなかった。
 夫川上音次郎の死後、1920(大正7)年以後、貞は福澤桃介の愛人として同棲した。桃介50歳、貞47歳での、若き日の恋の成就であった。桃介が1938(昭和13)年に70歳で死去するまで、20年をともに暮らした。67歳で再び寡婦となった貞は、桃介なきあと8年を生き、1947(昭和21)年、75歳で死去した。
 
2-3 明治社会とオセロ
 1899(明治32)年から1900(明治34)年にかけて、川上一座は欧米諸国巡業を行った。
 アメリカでは小村寿太郎全権大使が、当時の大統領マッキンレーほかの上流人士に紹介の労をとるなど、「伊藤公」以来の「貞の贔屓筋」が生かされた。
 自由民権壮士であった音次郎は、海外公演においてはナショナリズムを打ち出し、「楠公」「児島高徳」「台湾鬼退治」などを上演した。欧米人に受けたのは、「芸者と武士」一作のみ。芸者を演じる貞奴の踊りのエキゾシズムと、武士がハラキリをするシーンのみが大受けしたのである。上演された劇の成否はともかく、「パリ万博で大受けし、勲章を授与された」というのは、他の劇団には見られない、文字通りの「洋行の勲章」となった。
 1903(明治36)年、「洋行帰り」というキャッチフレーズを全面に出した川上音二郎・貞奴夫妻によって『オセロ』が上演された。2月11日紀元節、明治座においての上演は、他の劇団では考えられないほど入場料が高かったが、公演は大成功に終えることができた。

作:シェイクスピア
訳:江見水蔭
配役:室鷲郎(オセロ)川上音二郎
    鞆音(デズデモーナ)川上貞奴(新聞予告の中では市川九女八)
    その侍女 藤間静枝
    伊屋剛蔵(イヤーゴ)高田実
    お宮(エミリア)市川九女八 守住月華
 この上演は、川上音次郎にとって一座が目指す演劇を日本の世間に示す絶好の機会ととらえられた。音次郎は、「壮士劇」「新劇」などの用語が提出されていた演劇界にあって、自分たち一座の演じるものを「正劇」と名付けたのである。
 欧米列強国の「オリエンタル趣味」の中で公演を続けた川上一座にとって、「文明社会」の一員となることが演劇上演の意義であった。西欧と同じ「帝国主義」をめざす「近代国家日本=天皇」の臣民として、演劇を「天皇のために」上演することが、川上一座を支援した明治エリート層、伊藤博文小村寿太郎金子堅太郎たちとの「共闘」を示すものと意識されたのである。
 20世紀初頭に、ヨーロッパ帝国主義、近代国家主義の「オリエンタリズム」のまなざしを受けた川上一座は、シェイクスピアの『オセロ』の上演にあたって、日清戦争後日本の植民地として領有した台湾を舞台とした。主人公「ヴェニスのムーア人オセロ」を、台湾原住民鎮圧のために台湾に送り込まれた、薩摩出身の帝国軍人に設定している。川上音次郎にとって、「演劇」は、「国家国民意識」を表明する手段でもあった。「西洋演劇、沙翁の翻案『オセロ』」の上演は、近代日本が台湾へ朝鮮半島へと「帝国主義的発展」を実践することの演劇的表現として、川上音次郎によって取り上げられたのであった。

2-4 川上一座の室鷲郎
 川上音次郎の翻案演出が、どのようにシェークスピア劇から変容しているかを見てみよう。
 シェークスピアが「オセロ」を書いた17世紀初頭のイギリスでは、まだ黒人との関わりは薄く、北アフリカのモスレム(イスラム教徒)についても特に差別の対象とされていたわけではない。オセロもキリスト教徒に改宗していると設定されているので、イスラム教や黒人差別をモチーフにして執筆された原作ではなかった。しかし、産業資本主義の労力として黒人奴隷が欧米社会に浸透すると、オセロの悲劇も彼の「キリスト教徒として生まれたのではない」「黒人」という出自を悲劇の要因とする解釈で上演されることも多くなった。オセロ自身は改宗しているが、なおヨーロッパブルジョア社会からみると、「生まれながらのキリスト者ではない人々」とは、非文明社会を代表する「他者性」のシンボルとして記号化されていた。「オセロ=ヴェニスのムーア人」とは、キリスト教社会において宗教的にも人種的にも差別排他を受ける「他者」への視線を受ける存在だった。
 川上音次郎が「正劇オセロ」を上演する以前に、アメリカまたはヨーロッパで見たことがあるかどうか、私の手元の資料ではわからないのであるが、もし見たとしたら、すでに産業化を経て、奴隷解放の時代に入ってなお、黒人への差別が深く社会に浸透していた19世紀欧米のまなざしによって上演されていたオセロであったことだろう。
 川上音次郎のオセロ(室鷲郎)は、台湾総督の地位にあり、「原住民」「土匪鎮撫」のために台湾の澎湖島へ派遣されている日本帝国軍中将である。薩摩出身者として、無骨な武人らしい人物として設定されてはいるが、宗教的人種的な差別を受ける立場ではない。
 室鷲郎は「」出身ではないか、と噂される背景を持っている。ただし、上演台本の中で、そのことが特に差別のまなざしを受けることはない。薩摩出身の軍人であるということは、当時の社会では「勝者・強者」である。
 川上がオセロに「」という出自を与えたのは、原作のオセロが身に帯びている「常に差別のまなざしを受けて生きる者」という人物像を作りたかったからであろうが、台湾総督として、軍関係者や現地の「原住民」と関わる室鷲郎には、「被差別」の状況は反映されていない。川上音二郎が演じたオセロは、薩摩弁を強調し、粗野だが合法な男らしさ無骨さを際だたせた人物像になっていた。
 依田学海は、1903(明治36)年3月の『歌舞伎 第34号』での劇評で、「オセロが黒人(依田の表現では「くろんぼう」)であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」と述べている。
 また、当時の演劇界の重鎮、坪内逍遙は、同じ『歌舞伎34』で、風貌を黒人とするか否かについては、「シェークスピアは、二グロとムーアの区別をよく知らなかったかもしれないので、色は黒くなくてもよい」としながらも、オセロを人種的に「黒奴、クロンボ、蛮人」などの「劣った記号」として見なす点では依田の見方と同じ立場、すなわち帝国主義的な優越感を示し「文明―野蛮」図式で「他者オセロ」を見ている。「オセロが黒人であるなら話はわかるが、帝国軍人の姿としては、このように騙され陥れられる者では困る」との依田学海評。黒人ひいては、この舞台に登場する台湾原住民への蔑視は、依田や坪内の中で「文明人として当然」のものであった。日清戦争後10年近くがたち、台湾の併合領土化が着々と進む中で、「近代化した日本」を国民意識に定着させるためには「野蛮で遅れた台湾原住民」の存在を必要としたことの反映である。遅れてきた近代国家ニッポンに「近代的主体性」を成立させるためには、「他者の存在」「他者のまなざし」が必要であったのだ。
 「他者の視線」これは同時に、明治ジェンダーの視線でもあった。「男たちの共同体」近代国家を成立させるためには、強い支配者たる男が必要だ。維新期には、お化粧お歯黒をして長くひきずる衣装を身につけていた少年明治天皇は、西南戦争後は、軍服を着て馬にまたがる「男」へと身体性の変換を迫られた。軍服をきた「ご真影」配布は、「男性原理」で国家改造を進めなければならなかった明治国家の象徴でもある。
 軍服のオセロが薩摩武士とされていたのは、この「男性原理」象徴のひとつの表現であるが、その「軍服」が「くろんぼでもないのに部下に騙される」男であるのはイカン、という依田学海の評となるのも、「軍人のあるべき姿」が社会に浸透した日清戦争後10年、日露戦争の前年の上演であったことを知ればうなずける。
 川上音次郎は、なぜ新帰朝第一作として『オセロ』を選んだかという理由を、『歌舞伎34号』に語っている。「壮士芝居のように男性中心に舞台が推移し、女優の出番セリフが少ないこと。女優は「舞台の花」程度の扱いで主筋において重要ではないから」という理由を川上は挙げている。日本の演劇界での「女優」の立ち位置をまだ図りかねている川上ゆえ、出来る限り女優の重要度が低い作品、かつ、日清戦争後の「国威発揚」を損なわぬものであること、翻案演出者川上音次郎も、観客も「帝国主義側、欧米側から、非文明・野蛮人側をながめる視線によって「オセロ」を演じ、「男性原理」「天皇を頂点の父とする家父長制度」の枠組みのなかで上演された劇であったことを指摘しておかなければならない。

2-5 デズデモーナから鞆音へ
 デズデモーナは欧米社会において、長い間、「貞淑な子どものように純真な妻」として受け入れられてきた。デスデモーナとはギリシャ語で「不運な」という意味である。貞淑を貫きながら殺されてしまう運命を背負ったデズデモーナは、不運なヒロインとして、ひとつの典型的な女性像を成立させてきた。
 「御一新」以来、農業を基盤とする日本社会全体に、突如武家的な女性像が波及し始めていた明治期社会にとっても、シェークスピア劇の女性のなかで、デズデモーナは、もっとも受け入れられやすい人物像と見なされていたのであろう。
 デズデモーナは、自分よりずっと年上で勇猛な武将として知られるオセロを心から愛しており、夫に対しては、尊敬の念を抱いている。この「年の離れた夫への”父を慕うがごとき”尊敬と信頼」は、江戸期までの武家社会における妻の夫に対する態度として、規範的なものであり、江戸の武士家庭規範がそのまま持ち込まれた明治家庭規範における男女像にとっても、デズデモーナは「当然そうあるべき妻」の像として選ばれたのであった。
 最後の場面で、夫に逆らうイアーゴー(伊屋剛蔵)の妻エミリア(お宮)は、デズデモーナよりは積極的な発言をし、自らの信念によって行動しようとした女性であるけれど、やはり男によって殺されてしまう犠牲者「不運な女」である。
 デズデモーナ(鞆音)だけでなく、エミリア(お宮)像の日本的変容は、ムーア人から薩摩武士へと変わったオセロの変容に比べれば、見かけの変化の幅が小さいように見える。
 しかし、舞台での設定以上に、「観客の受容」が作り出す意味は大きい。それが「戯曲・役者の肉体・観客」の3者の合作である「舞台」の宿命なのだ。
 洋装写真も数多く残している貞奴であるが、この初演において、軍服姿のオセロに対して、鞆音は、着物姿で舞台に立っている。「夫に従順な貞淑な妻」を表徴するためには、「洋装」はふさわしくなかった時代であった。鹿鳴館時代は終わっていたが、貴顕夫人が洋装をするのは、宮中晩餐会のような特別な時だけであり、日常生活において洋装をしていたら、特別に眼をひく存在だった。貴顕夫人達も家の中のふだんの生活では和装がふつうであり、台湾赴任中の軍人の妻も和服を着ていたであろう。和装のデズデモーナは、夫につき従う日本女性の一典型として舞台の上にある。
 「恋愛」を受け入れようとし始めた明治社会、しかし上流社会においては「見合い」「政略」「家のため」の結婚がほとんどだった。明治社会のデズデモーナ=鞆音は、「己の恋愛を貫き、夫に対しては最後まで愛を失わなかった女」として、「愛に生きた女性の姿」を貞奴の肉体によって具現化している。
 オセロによる妻の殺害ののち、真実が明らかになる。デズデモーナは夫を裏切っておらず、不倫の証拠となったハンカチは夫イアーゴが盗み出したものだ、という真実を、デズデモーナの侍女エミリアがオセロに告げる。そのエミリアもイアーゴによって殺される。夫を裏切っていない妻デズデモーナ=鞆音が、理不尽にも無実の罪で殺されるというストーリー。夫も結局は死を選ぶという物語を、舞台の上に見つめた人々はどのように反応しながら見たのであったか。
 坪内逍遙は『歌舞伎34号』の『正劇オセロ』批評のなかで、貞奴の演ずる鞆音について「夫婦別ありて行儀正しいといふよりは、斟酌分別ありすぎて冷ややかな明治式」と表している。理知を漂わせた貞奴の鞆音造形だったことが想像できる。

2-6 貞奴の身体性
 戯曲は、舞台の上の俳優の肉体と声によって完成される。観客は俳優の肉体を通して実現化したヒロインを見つめる。このときの貞奴の肉体は、32歳の洋行帰り。まだ若さをつなぎ止めている、自信に満ちあふれたころだったろう。
 『オセロ』初演の1903(明治36)年とは、日清戦争によって台湾を得た直後であり、日露戦争の直前であった。不穏な世界情勢のなかにも、日本帝国が条約改正などの「欧米との対等」の地位をもとめて、はい上がろうと必死だった時期にあたる。
 「女優貞奴」の肉体は、「パリの勲章」「パリの香水にその名を残したヤッコ」であった。彼女が鞆音として舞台上に息絶えたとしても、観客は彼女の栄光を二重写しにしながら見つめただろう。「くろんぼうでもないのに騙されてしまった、しょうもない薩摩軍人」への非難はあっても、貞奴が演じた鞆音への非難は見あたらない。
 この「正劇オセロ」を見た観客はどのような人々であったろうか。このオセロ上演の数年前、1896(明治29)年に貧困の中に亡くなった樋口一葉は、「一ヶ月の暮らしにはどうしても8円かかる」と日記に書き残している。きりつめた生活でも一ヶ月の費用は8円がかかるのに、その8円が工面できなかった一葉。一方、オセロの桟敷席の席料は、9円50銭であった。一葉たちその日暮らしの庶民階級の者達はこの劇を見ることはまずできなかったであろう。この正劇オセロを見ることができた観客は、庶民の一ヶ月の生活費にあたる金額を一夜の観劇に蕩尽できる層であった。
 鞆音は、この9円50銭支払える層の「女性へのまなざし」にたがわぬ女性像を表現していたと言える。しかし、鞆音を演じる貞奴の現実肉体は、あまたの政府要人の贔屓を一身に集めることができ、その贔屓の力を夫に与えた内助発揮した女であり、結婚前は「男達の財力を背景にしたまなざし」を受けて生活する芸妓として生きていた女である。実際の生活で、貞奴が表向き夫を立てる行動を貫いたとしても、人々は川上一座の成功は、貞の功績によると見ていた。
 貞は、「夫には尽くせるだけ尽くした」という思いを持っていた。川上音次郎の壮士的女性観から言えば「二夫にまみえず」であったかもしれないのに、夫の死後は福澤桃介の愛人として同棲することに躊躇していないのだ。もちろん福澤との同棲は川上の死後のことではあるが、この鞆音の姿の表出においても、「夫を支えている」という自負のあふれる貞奴の身体が作り出す鞆音像は、決して「夫に殺されてしまうあわれな不運な妻」としてだけで観客に受容されたのではないだろうと想像されるのだ。はじめて日本の舞台に見る「女優」という好奇の目と、「洋行成功者が演じる悲劇の妻」は、輻輳し二重化された表徴となっていたのではないか、というのが、上演記録を見ただけの私の想像である。録音も映画フィルムも残されていない舞台なので、舞台評などから想像する以上のことはできない「鞆音」の身体である。
 川上音次郎が『オセロ』を選んだ理由を先にあげたが、たとえ「女優の出番が少ないものを選んで、女形に慣れている日本の演劇観客の目に違和感を残さない劇」として『オセロ』を選んだのだとしても、初めて舞台にのった「女優」は、特別な光を身に帯びていたであろうし、事実、貞奴の名声は、この舞台後も夫をしのぐものとして定着したのである。頭のいい貞が、常に夫をたて、自分は影の存在になろうとつとめたのも、影としていようとしても夫より自分の輝きが強いことを知っていたからだ。

2-7 黒田事件
 もうひとつ、この『室鷲郎』が、明治の人々に特別な感想を与える劇内容であったといえるのは、この『正劇オセロ』の上演1903年に先立つこと13年前の事件による。
 明治の高官・黒田清隆は、妻を斬り殺した、と噂を立てられた人物である。1880(明治11)年3月、泥酔して帰宅し、にささいなことで腹をたてて逆上し、部屋にあった日本刀で病弱だった妻・せいを切った。この事件は、黒田の盟友大久保利通が動き、「妻は病死」という結論になったため、噂だけを残して終わりになった。大久保が腹心の警察官僚川路利良に検視を命じ、川路は夫人の墓を掘り起こした。川路は、警察側の医師に「病死との検視結果」を出させた。黒田せいが、長年肺の病を患っていたのも事実だったが、黒田が酒乱で、酔うと刀を振り回す男だったことも周知のことだった。平素は慎重な人柄だったが、酔うと人格が一変し、友人宅で日本刀を振り回すという性癖が知られていた。酔った勢いで、妻を斬り殺す結果になったとしても、あり得ない話ではない。「黒田の妻殺し」という噂は、格好の「新聞ダネ」であった。
 黒田清隆による妻の殺害が、巷間には未だ根強い噂として残っていたいたところへ、「嫉妬のあまり妻を殺す将軍」の芝居である。実際に舞台を見ることができず、新聞などの劇評判記を読みまわすしかない人々にとって、「妻殺し」という文字は、ただちにひとつの噂を思い出す結果と成ったことだろう。人々がこの「黒田の妻の死」を新聞種として好んだのは、「近代国家」「帝国の藩屏としての人民」という枠組みがどんどんと強化されていく社会の中で、江戸後期の芝居、鶴屋南北以降の歌舞伎を彷彿とさせるほど、江戸的「エログロ」に満ちた事件と受け取られたからであった。
 デズデモーナは、夫に首をしめられながら、「こんなことになったのは、私が悪いから」と、最後の瞬間まで夫を許し愛しながら「夫による自らの死」を受け入れている。現代若者用語で言えば、「究極のドS」である。己の身に痛みや苦しみを引きうけることで、愛する者の幸福や快楽を実現しようとする「ドS=超級サディスト」と、現代の若い世代の人によってデズデモーナは評されるだろう。
 「責め絵」の代表的作家伊藤晴雨は、1903年にはまだ描き初めてはいないが、責め絵自体は、江戸末期から明治大正昭和と、密かにしかし連綿と愛好されていたのであり、この『オセロ』の妻の絞殺も、「夫の嫉妬による悲劇」という表の受け取り方の裏には、さまざまな「男と女の事情」がからまった記号として巷間に流出したであろう。夫による絞殺を受け入れた鞆音の姿は、そういう人生を選び取るのもまた女の主体にかかっているのだと、メッセージを送ることにはならなかったか。

2-8 明治社会と鞆音のジェンダー
 私は、加野彩子(1998)の、「女優・川上貞奴が近代のジェンダー範疇の形成にも、帝国主義の再生の過程にも深く関わっている」という現代フェミニズムからの視点による言説にただちに賛成できないものを感じる。
 加野彩子の「彼女(貞奴)は海外においてはエキゾテイックなゲイシャ・ガールを演じ、それによって東洋化され女性化された日本の構図を再確認するのに貢献した。だが一方で日本に帰ると、近代の日本国家の男性主体を支えるモダン・ガールの役を演じ、帝国主義の再生に貢献したのである」
 池内靖子(2008)「したがって、貞奴が欧米から帰国して初めて演じたヒロインは、川上音二郎が見通したように、シェイクスピアの他の芝居に見られるような強烈な個性のモダンガールではないが、大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するものだったといえる。」
というようなフェミニズム視点&近代国家と文化の成立論によるジェンダー定義に対して私が違和感を覚えてしまうのも、彼女ら「女性学者」の目から漏れている姿を鞆音の身体に感じてしまうからなのだ。
 明治の女達の中には、確かに、明治近代国家成立に合わせて、「良妻賢母」教育に絡め取られ、「貞淑でつつましやかな日本女性」の規範に押し込められていった層もある。高等教育を受けるような層の女達にとって、その規範にじわじわと締め付けれれる息苦しさを感じ取り、ブルーストッキングを履いて世の締め付けを蹴っ飛ばしたいと思えたこともあろう。青鞜の女たちは、明治末の1911(明治44)年には、大正へむかって足を高くあげて歩き出す。
 貞奴の「女優」の仕事が、「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化」をなしたという一面は否定出来ないだろう。しかし、新聞で『室鷲郎』の劇評を見てあらすじを知ったら、その夜に「鞆音ごっこ」を夫に命じる女達も存在しただろうし、「女優」という職業が成立することを知って、世の中に立っていこうと決意した女もいた。
 「日本の女優」の出発点であった「鞆音」が、「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」だけでなく、女達を「自分の周囲にはない女のモデル」を示し、「女優という職業」を提示した意味において、女性を解放するひとつの窓を開けておいたことにもなるのではないかと思う。女性が自らを主体として社会に立たせる糸口となっていくための「鞆音」の姿が、刻まれたのだと考えることは恣意的にすぎようか。

3 オセロの変容
 『オセロ』の原典は、イタリア人作家チンツィオ(Cinthio)の『百物語』第3篇第7話にある。デスデモーナはこの話の中では、ギリシャ語で「不運な」という意味そのままに、オセロによって事故死に見せかけて殺されしまう。チンツィオの「ムーア人と結婚した女の物語」は、「ムーア人など、身分の釣り合わない結婚を親の許しを得ずにした結果、不幸になる女」の教訓話として書かれた。
 シェークスピアはその原典を戯曲『オセロ』に翻案し、原典にはなかった人間ドラマとして400年続く上演に耐える作品にまとめあげた。
 川上音次郎は、『オセロ』をさらに翻案し、『正劇・オセロ』として上演した。明治貴顕の後ろ盾をもつことによって、夫を何度も窮地から救い出してきた自負を持つ妻、貞。デズデモーナが軍人オセロをひたむきに尊敬しているように、帰国後の貞は音次郎と向き合っていたのだろうと思う。しかし、貞は、「帝国が植民地へと進していく軍人を支え、彼の犠牲と成って死んでいく貞淑な妻、鞆音」のような人生を歩まなかった。
 原典チンツィオのデズデモーナは、「ムーア人などという人種と、親の許可なく結婚した女のたどった不運な一生」を教訓として残すものだったことを、おそらく貞は知らなかっただろう。15歳のとき出会った芸者と、福澤の養子に選ばれた慶応大学生の恋が実らなかったことを「身分違い」としてあきらめたあと、川上音次郎の妻となったことに後悔はなかったろうと思う。しかし、後半生の貞は、「元女優と電力王の恋」に、臆することはなかった。47歳の貞は、電力王と呼ばれた男の愛人として堂々と同棲し、ひるむところはなかった。鞆音の造形が、後世のジェンダー学者に「大日本帝国軍人にふさわしい貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と、評されたことなど、貞はぽんと蹴っとばすに違いない。

4 現代のオセロ
 1995年10月堤春恵の戯曲による『正劇室鷲郎』がパナソニック・グローブ座で上演された。川上音次郎(加藤剛)川上貞奴(河津左衛子)を主人公とし、ふたりが劇中劇『室鷲郎』を演じる。その舞台や楽屋を描いた入れ子構造の演劇で、これもまた「オセロ」の変容のひとつに数えられるだろう。
 2007年10月4日(木)~10月21日(日)彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、蜷川幸雄演出『オセロ』が上演された。オセロ:吉田鋼太郎、デズデモーナ:蒼井優
 蜷川幸男の演出は、「変容」ではなく、正当なシェークスピア演劇としての「オセロ」だったということだが、劇評ではおおむね好評を得ていて、「21世紀のオセロ」もますます人の真実を描いた悲劇として観客の心に足跡を残しているのである。
 最後に、オセロとデズデモーナが、嫉妬の要となるハンカチをめぐって、一語一語すれ違いのセリフを交わしながら、夫の猜疑心を呼び起こすシーンを見ておく。妻は夫への愛を信じ込んでいても、常にことばは行き違い、思いはすれ違う。明治政府は修身教科書のなかで「妻は夫を支え、良き家庭を作ることが、よい国家をつくるものと心得よ」と、女達を教育した。しかし、小説のひとつ、戯曲のひとつを読めば、男と女、妻と夫は、かくもすれ違い、誤解は増殖することを、女達は学んでしまう。
 言葉がすれ違っていくその場面を、見てみよう。嫉妬心の証拠となる1枚のハンカチをめぐってかわされるデズデモーナのすれちがう言葉の数々。

(オセロ第三幕第三場より)
【エミーリア】 旦那様は嫉妬深くはございませんか?
【デズデモーナ】 誰? 主人? そんな気持はあの人が生まれた所のお日様が、
みんな吸い取ってしまったらしいのよ。
〔オセロー登場〕
【エミーリア】 あら、旦那様がいらっしゃいました。
【デズデモーナ】 もうあの人の所を離れないわ、キャッシオーが
呼び戻されるまでは。あなた、ご機嫌いかが?
【オセロー】 いいよデズデモーナ。(傍白)おお知らぬふりをする難(むずか)しさ!
君はどうだ、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 いいですわ、あなた。
【オセロー】 手を貸してごらん。これは湿ってるね。
【デズデモーナ】 まだ年もとっていませんし、悲しみも知りませんもの。
【オセロー】 これは実り豊かで、寛大な心をあらわしている。
熱い、熱い、そして湿っている。君のこの手は
自由からの隔離(かくり)、断食(だんじき)と祈祷(きとう)、
厳しい修行と敬謙な礼拝を必要としているという手だ。
それ、若い、汗だくの悪魔がここにいるからな、
よく謀叛(むほん)を起こすやつだ。これは実にいい手だ、
気前がいい手だ。
【デズデモーナ】 ほんと、そうおっしゃってもいいわ、
だって、わたしの心をさし上げたのはこの手ですもの。
【オセロー】 気が大きい手! 昔は心があって手をさし出したものだ。
ところが今の新しい流儀は手だけで、心は無い。
【デズデモーナ】 何のことをおっしゃってるのかしら。それより、例のお約束!
【オセロー】 何の約束かねお前?
【デズデモーナ】 わたしキャッシオーにここへ来るように使いを出しましたの。
【オセロー】 わしは悪い風邪をひいて鼻水が出て困っている。
お前のハンカチを貸してくれ。
【デズデモーナ】 さあ、どうぞ。
【オセロー】 わしがやったのをだ。
【デズデモーナ】 いま持っておりませんわ。
【オセロー】 持っていない?
【デズデモーナ】 ほんとうに持っていません。
【オセロー】 そりゃあいかん。
あのハンカチは、
さるエジプト女がわしの母親にくれたものだ。
その女は魔法使いで、人の心はたいていは読みとれた。
それがお袋(ふくろ)に言った、そのハンカチを身につけているあいだは、
お袋には魅力があって、親父(おやじ)の愛情を完全に
自分に惹(ひ)きつけておくことができる。だがもしそれを失くしたり、
あるいは人にやったりすると、親父の目は
お袋をうとましいものと見るようになり、親父の心は
新しい愛人を漁(あさ)るのだと。お袋は亡くなるとき、それをわしにくれた。
そしてわしが妻を娶(めと)るような巡り合わせになったときには、
それを妻にやれと言った。わしはそうした。だからくれぐれも注意して欲しい、
君のその大事な目と同じに、それを大切なものとして欲しいのだ。
それを亡くしたり、人にやったりすることはまさに身の破滅、
とりかえしのつくことではない。
【デズデモーナ】 そんなことってありますかしら?
【オセロー】 事実だ。あの布には魔法がかかっているのだ。
織ったのはさる巫女(みこ)……太陽が年ごとの軌道をめぐること二百度(たび)、
その年月をこの世の中で数え重ねたその巫女(みこ)が、
精霊乗り移り予言の力を身に受けて、それを織り上げた。
その絹を吐いた蚕(かいこ)の虫は清められて神に捧げられたものだ。
その糸を、熟達した秘法の名手が、乙女の心臓から絞った
魔の体液で染め上げたのだ。
【デズデモーナ】 まあ! ほんとうにそうなのでしょうか?
【オセロー】 正真正銘の事実だ。だからよく注意して欲しいのだ。
【デズデモーナ】 それならそのようなもの、いっそもらわなければよかった!
【オセロー】 何だと! どうしてだ?
【デズデモーナ】 どうしてそのようにぶっきらぼうに、急(せ)いておっしゃいますの?
【オセロー】 失くしたのか? もう無いのか、さあ言え、見失ってしまったのか?
【デズデモーナ】 神様、どうすればよいのでしょう!
【オセロー】 何と言った?
【デズデモーナ】 失くしはしません。でも失くしたって別に……
【オセロー】 どうだというんだ?
【デズデモーナ】 失くしはしないと言ってるのです。
【オセロー】 じゃ取って来い、見せろ。
【デズデモーナ】 そりゃ見せられますわ。でも今は駄目です。
こんなふうにして、実はわたしのお願いをはぐらかすおつもりなんでしょう。
お願いです、キャッシオーをもう一度受け入れてあげてください。
【オセロー】 あのハンカチを取ってこい! 俺(おれ)は不安になってきた。
【デズデモーナ】 ねえ、あなたったら!
あんな立派な方は、またといるものではありません。
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 お願い、キャッシオーのことをおっしゃって!
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 あの方は一生涯あなたのためを思い、
それにすべてを賭(か)けて一すじに生きてきた方です、
いつもあなたと苦楽を共にして来た……
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 ほんとうにあなたって悪い人。
【オセロー】 おのれ畜生!〔退場〕

 「エジプト女の魔法使いにもらった魔法のハンカチだから、これを失うと夫の愛情を失うことになる」という作り話をしているうちに、オセロは自分の心を嫉妬へと導いていく。デズデモーナは、夫の作意にはまったく気付かず、悠長にキャッシオーの復権復職をねがって、夫に迫る。オセロは、妻のハンカチがここにないことを確信し、キャッシオーの名が妻の口から出るたびに猜疑心を膨らませていく。
 人の心の変容を見事にシェークスピアは、一枚のハンカチをめぐって書き表している。
 このシーンで印象に残るのは、デズデモーナが夫のことばの裏にはまったく気づかず、ひたすら夫の部下キャッシオーの左遷を憂えて、彼のために役立つ人間であろうとしている点だ。デズデモーナを「日本近代国家の貞淑な妻」を体現したと見るなら、オセロに「ハンカチを失うと夫の愛を失う」という話で脅されても「失ってはいない」と、強弁しながら、自分の意見をぶつけていく妻の姿は、「貞淑な妻」「黙って夫に従う妻」とは相容れないものだ。この「夫の言葉とすれちがいながらも、自分の主張を続ける妻」の姿は、ジェンダー学者が「貞淑な良妻賢母という日本近代のジェンダー再編に役立つ性定義を強化した」と主張する姿とは異なっているように見えるのだが。

5 結論
 シェークスピア『オセロ』の翻案日本初演を考察し、『オセロ』が近代日本社会にどのように受容されてきたかを見てきた。
 翻案劇『正劇オセロ』は、日本で本格的に女優が女性を演じた劇として、ジェンダー論や近代文化論で扱われてきたが、私がそれらの言説のなかに感じた違和感を、自分なりに考察できたと思う。「鞆音を演じた貞奴の身体は、日本近代国家の貞淑な妻を体現した」という一面からの見方に対し、「それだけではなかったのではないか」という私の思いに、ひとつの解決を与えることができた。
 黒田事件に注がれた視線と同じ視点で「室鷲郎と鞆音」を見た人々もいるのではないか、という疑念、女優貞奴の姿によって演じられた鞆音は、「貞淑な妻という、日本の近代的なジェンダー再編に役立つ性定義を強化するもの」という現代ジェンダーの見方による規定以上に、「夫に殺されることも自分自身の運命として主体的に選びとった女」、また、「女優という職業を選んだ女の姿」を、明治社会に確固とした女性像のひとつとして表現しえたのだと、私は思う。
 「女優貞奴」は、近代女性が自己を主張し、自分自身を社会の中に押し広げていこうとするとき、「出口のひとつ」を開いておいた存在なのであり、「夫に殺される運命を、自ら肯定できる主体としての鞆音」を、男にも女にも知らしめた「コトの主体としての女」を開示したのではなかったかと、私は考えるのである。


参考文献

池内靖子(2008)『女優の誕生と終焉-パフォーマンスとジェンダー』
加野彩子「日本演劇と帝国主義:ロマンスと抵抗と」(pp.19-48)[『日米女性ジャーナル』第23号、1998年、城西大学国際文化教育センター
河竹 繁俊(1966)『概説日本演劇史』岩波書店
郡司正勝(1977)編『日本舞踊辞典』東京堂出版
杉本苑子(1975)『マダム貞奴』読売新聞社
童門冬二(1984)『川上貞奴―物語と史蹟をたずねて』成美堂出版
長谷川時雨(1936)『近代美人伝』岩波文庫1985年
山口玲子(1982)『女優貞奴』新潮社
若桑みどり(2001)『皇后の肖像――昭憲皇太后の表象と女性の国民化』筑摩書房
同 (2003)『お姫様とジェンダー』ちくま新書
若林雅哉(関西大学文学部総合人文学科芸術学美術史専修準教授)『萬朝報「川上のオセロを観る」を手がかりに』京都大学大学院文学研究科「グローバル化時代の多元的人文学の拠点形成」URLhttp://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/2_tetsugaku1/2_09.pdf