加藤嘉一さんの「無意味な韓流バッシングより、近隣諸国に敬意払い、しっかりと手を結ぶことが重要なんです」というコラムが注目を集めています。
参照:意味な韓流バッシングより、近隣諸国に敬意払い、しっかりと手を結ぶことが重要なんです
このコラムに対するネット上の反応は概ね批判的で、「聞き飽きた、定番の見当違いだな」「マスコミの姿勢を批判してるだけで国粋主義や人種差別とは関係ない」というような意見が主流のように思われるます。(もちろん、韓国バッシングや加藤さん個人を攻撃する意見も散見されます)
先のエントリーのような見方をする私としても、マスメディアの問題を軽視しているこの加藤さんのコラムについては片手落ちであると評価せざるを得ません。
参照:フジテレビと韓流偏重問題
加えて、フジテレビ批判を「韓流ブームへのバッシング」へと、そして更に「韓流バッシング」へと問題を二重にすり替えている点は強く非難されるべきです。この様なすり替えは、ある種の読者との共犯関係の中でのみ有効なものです。
最期の甲子園のたとえでいえば、今回の騒動は主催者側に対する反発という要素が大きいのであって、相手チームに対するバッシングだけだと思っていてはダメだということでしょう。
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ついでに2点ほど。
(1) 日韓ワールドカップについて
加藤さんは近隣諸国と手を結ぶことの好例として2002年の日韓W杯共催を例に挙げておられますが、日韓W杯は、ネット上ではむしろ反韓国・嫌韓感情が盛り上がった契機として取り上げられる事例です。
(2) 日中韓の三国の関係について
加藤さんは、「この3国には複雑な歴史的背景がありますが、実は協力し合うにはとても相性がいいとぼくは思うんです。島国、大陸、半島という異なる風土の特性をはじめ、人口、経済力など“国家のスペック”がうまくバラけていて、互いが似通っている場合よりもいろいろな問題が発生しにくい。3国がそれぞれの個性を認め、うまく補完し合うことができれば、東アジア地域の大きな発展が期待できるでしょう」と書いています。
しかし、まさしく「島国、大陸、半島という異なる風土」であるがゆえに、協力し合うには極めて相性が悪いのだと言わなければなりません。
半島側に立ってみると、陸に広がる出口、半島の付け根を大陸の勢力に抑えられる危険性があり、他方、海に広がる出口を島国の勢力に抑えられる危険性があるという、地理的には非常に苦しい状況にあります。
歴史的には、大陸=中央であり、半島=辺境、島国=辺境の更に辺境という状況だったので、半島は大陸に従属することで生きてきました。その前提には、交通・情報伝達の効率が悪く、大陸=中央が辺境支配にある程度寛容であったということがあります。
しかし、そのような前提はいまや崩れているわけですから、過去と同じように大陸の属国となることが良い道であるとは言い切れません。
更に、大陸の勢力と島国(海)の勢力が衝突する地点に半島があるわけですから、大陸と海はそれぞれが半島を自分の勢力下に置こうとします。
これは古い話のように思えますが、しかし、現状の朝鮮半島はまさしくその構図になっています。
中国は北朝鮮を、日本(の親分のアメリカ)は韓国を味方につけて、互いに勢力争いをしているわけです。この勢力争いは紛争の火種ですが、同時に、どちらか一方が軍事的な冒険をしないように抑止するという意味では、平和の手段でもあります。
そして、そのような勢力争いを前提とした上で、お互いに利益を得ようというのが「戦略的互恵関係」と言えるでしょう。戦略的互恵関係は両勢力が張り合っているからこそ成立するのであって、どちから一方が油断すれば、もう片方が一方的に恵みを得ることになるだけです。
中国と張り合うために韓国と手を結ぶ。張り合った上でお互いに利益を得るための関係を中国と結ぶ。
このような意味でこそ、日韓・日中関係は重要なものであると言えるわけですが、加藤さんの牧歌的(?)な説明からはそれが読み取れません。
フジの問題を考えるとき、60年安保闘争の状況といくつか被るように思います。
普及したテレビによって岸政権の乱暴な模様を大衆が知ることになり、組織が人々を動員しない、中心が存在しない組織が生まれました。ちなみに安保闘争に参加した人々の大半は安保条約の中身を知らなかったそうです。一部の知識人を除いて政党も新聞も理解できず、それぞれがレッテルを貼りました。
このことを鑑みると、もちろん著名人の的外れな言説に突っ込みを入れることは重要なのですが、マスコミに正鵠を射た主張を期待するのは難しいのではないかと思えてきます。「名を棄てて実を取る」ではありませんが、最初のデモでは総務省へ抗議の趣旨(偏向報道について)を示しており、ある程度目的は達しているわけで、今頃参戦してくる人に対応する必要性は薄いかな、という気がします。
テーマが定まっておらず、更新もまばらな当ブログを閲覧していただきありがとうございます。
「このことを鑑みると」以下についてですが、期待するのは難しい「から」となるのがいいのか、期待するのは難しい「けれども」となるのがいいのかは、悩ましい問題ですよね。
「名を棄てて実を取る」以下については、名と実、理論と実践はどちらも重要だと思いますが、それらのバランスをどこで取るのかというのは極めて難しい問題だと思います。
私自身もその場その場でふらふらとしているような状況ですが、現段階ではやや理論の側に傾いています。
というのも、「名を棄てて実を取る」という手法は、諸々の事情がなんとなく共有されている間は良いのですが、年月を経ますと一気にその共有が崩れ、その主旨が歴史上適切に評価されなくなる危険性があるのではないかという気がしているからです(良い悪いを含め)。
今回の件で言えば、この加藤さんのコラムに対するネット上の眼差しや空気感というものが、後世においてどのように評価されるのだろうかということです。
おそらくはネット上の大量の情報をコンピューター処理して一定の傾向を見出すということになるのだと思います。なんの影響力もないちっぽけなブログですが、その史料の一つにでもなることが出来ればいいなと思う次第です。(えらく夢見がちなことですが)
なるほど、現場と主張を後世に残して正当な評価が与えられる余地を残すということですね。
それもまた重要なことだと思います。
デモが行われ、その趣旨が目的とする場所に届かないまま終わっていれば、著名人の的外れな言説はデモの目的を隠蔽・捏造するものとなりかねませんから私も反論します。幸いなこと(?)に“偏向報道について”であることを目的である総務省に対して表明していますから、政治活動としては前進しており、次の段階に進んでいるわけです。
資源の効率的な使い方、政治の段階を踏まえた振る舞いの観点から、もちろん楽観はできませんが、前段階に対する批判に注力するのは、義憤という資源がもったいないのではという思いからコメントさせていただきました。
リソースの配分と言う点では十日戎さんの書かれていることも一つの正しい考え方だと思います。
後は、個々人の向き不向きというのもあるでしょうね。