8月7日と21日のデモを頂点に、高岡蒼甫さんの発言に端を発するフジテレビと韓流偏重問題に対する盛り上がりがようやく落ち着いてきたようだ。この間、肯定・否定、批判・擁護含め様々な議論があったが、どうも一面的なものが多かったように思う。
ある人はフジテレビ批判を韓流批判と捉え、嫌韓国・韓国差別の問題としてのみ考え、またある人はフジテレビ批判を公共の電波を独占(寡占)する放送局への批判の問題としてのみ捉える。
だが、そのように一つの論点だけを取り上げて片付けることは適切ではない。インターネット上で盛り上がる言論一般に言える事だが、批判派も擁護派も決して一枚岩ではないからだ。今回の問題は多くのレイヤーが重なった問題であるということを、自分用のメモもかねて。(なお、このエントリは実証的ではないので要注意。)
1)韓国に対する差別感情・愛国運動
2)広告代理店・流行プロモーション批判 →ステルスマーケティング批判
3)マスメディア批判・地上波放送局批判
4)商業主義拝金主義批判 →行き過ぎた資本主義批判
1)韓国に対する差別感情・愛国運動
これが最もピックアップしやすいく、分かりやすい論点だ。だから、気をつけないとこの論点が今回の問題の全てだと勘違いしてしまうことになる。反対に、この論点を見落としてしまっても綺麗ごとにしかならないだろう。注意すべきなのは、フジテレビ批判派やデモ参加者は一枚岩ではないということだ。
デモの参加者の間でも、日の丸を掲げ、君が代を歌い、天皇陛下万歳を叫ぶ人もいれば、それは今回のデモには関係が無いとして批判する人もいる。フジテレビ批判派の中にも、韓国や韓国コンテンツそのものを批判する人もいれば、そのような姿勢を差別的だとして再批判する人もいる。
*追記
江川紹子さんの「韓国の経済や、アジア市場への文化展開がうまくいっていることへの嫉妬の表われでしよう。文化的に偏狭な日本人の存在を内外に知らしめたのは非常に恥すかしい現象だと思います」というような意見もこのカテゴリの一種だろう。紙面の都合上その他の理由については省かれてしまっているのかもしれないが、ここに引用されている限りでは、やはり論点の単純化・矮小化と言える。
参照:http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/1569037.html
*追記
中村うさぎさんの記事は途中まではいい感じだが、最期の「それにしてもなぜ、今このタイミングで、韓流ブームヘの嫌悪が一気に高まってきたのだろう?ここで思い出すのは、関東大震災後の「朝鮮人虐殺事件」。震災後の不安が、異分子を排除する方向に向かっているとしたら…。うわ、似てる!何だかヤな感じがするぞ!」は妥当ではないし、蛇足。「韓流ブームヘの嫌悪」というまとめ方が誤りの原因。
参照:http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1314953895/
2)広告代理店・流行プロモーション批判 →ステルスマーケティング批判
これは「韓流ゴリ押し」に対する批判なのだという形で、フジテレビ批判派によく取り上げられる論点だ。ここでは、「ゴリ押し」される対象が何であるかは問題ではなく、「ゴリ押し」されることそれ自体が問題になる。だから、「韓流コンテンツ」以外であっても、「ゴリ押し」があればそれは批判するという論理になる。(広告代理店批判はお決まりなので省略)
これについては逆に、「ありとあらゆる主体がありとあらゆる物をゴリ押ししてきたのだから、フジテレビ/韓流だけを取り上げて批判するのはおかしい」というような反論があるが、それは小学生が叱られて「皆もやっている」と言い訳するのと同じである。
だが、「ゴリ押し」批判には、普通の営業(プロモーション)と「ゴリ押し」をどこで区別するのか明確ではないという弱点があり、これは今のところ克服できていないのではないかと思う。批判者が「ゴリ押し」だと主観的に感じたら「ゴリ押し」だということでしかない。(だが、その主観的な違和感がこの運動に多くの人を動員する力になっているようにも思う。)
そこで、ある時期からステルスマーケティングが悪いのだという方向に移ってきたようだ。これについてはMIAUの小寺信良さんがまとめている。
参照:フジテレビの韓流ゴリ押しは事実か
3)マスメディア批判・地上波放送局批判
これは最近目立つようになってきた論点だ。ビートたけしさんや岡村隆史さんのような有名人が「嫌なら見るな」という旨の発言をしたことに対して、作家の深水黎一郎さんがその論理は通用しないと批判したことで注目を集めている。(従来からあるマスメディア・マスコミ批判は略)
参照:「韓流が嫌なら見るな」は間違っている 作家・深水黎一郎がフジ騒動を分析
これに対してはさらに、元フジテレビ関係者の岩佐徹さんが再反論している。
参照:「深水ツイート・考~リモコンの8を押さない選択も~」
深水さんはテレビ局が公共の電波を独占(寡占)していることを理由に「嫌なら見るな」は成立しないとしているのに対して、岩佐さんはその寡占によっても代替手段はなお残されており、命にはかかわらないことをもって「嫌なら見るな」は成立しているとしている。(テレビ局を一私企業として、経済合理性の観点からのみ論じるのは公共の電波論を見過ごしている時点で失当。)
だが、岩佐氏の代替手段があるからテレビ局は何をしてもいい、見たくないなら見るなという理論は、あくまでもテレビ局(事業者)対視聴者(消費者)という構図によるものだ。これは深水さんが依拠するところの、テレビ局(事業者)対視聴者(国民)という構図に対する正面からの反論にはなっていない。
視聴者(国民) → 国・政府 → テレビ局(事業者)
テレビ局(事業者) → 視聴者(消費者)
岩佐さんの論理でいくならば、例えばテレビ局が過剰な量の広告を放送しても、視聴者は嫌ならば見なければ良いというだけの話になるはずだ。だがそうではない。例えばBSデジタルでは、総務省が放送時間の3割を超えて広告放送をしてはいけないとする。決して、広告を見るのが嫌なら見るなと言う話ではないわけだ。
参照:○放送法関係審査基準の一部変更案
これは国・政府によるテレビ局に対する規制だが、当然、国・政府というものは国民に依拠する。つまり、主権者国民である視聴者は、国・政府を通して、テレビ局に対して意見を言える(その内容を規制として実現でき得る)ということだ。
そして、そのように民主主義の過程においてテレビ局に対して意見を言う/実現するためには、広く一般における言論が重要であることは言うまでもない。
つまり、一視聴者として特定のテレビ番組を見る/見ないに関わらず、主権者国民として、本来的には国民の/公共の財産である電波を寡占的に使わせているテレビ局に対して、その放送内容等に対して意見を述べて良いということだ。
もちろん、そのような過程を経てテレビ局への規制を実現するということは、表現の自由を侵害する危険性を帯びているのであり、最大限の注意をする必要がある。国民の望みによる(という形での)テレビ局規制が結局は国民の不利益になるということだってありえるのだから。
今回のフジテレビはどの法律や規則に照らして妥当ではないのか、あるいは、どのような規制を新たに作るべきだというのか。そして、そのような運用や規制の制定にはどのようなメリット・デメリットがあるのか。そのような議論が今回のフジテレビ批判派には(もちろん擁護派にも)欠けているように思う。
過去に韓国が行ってきたような、外国映画規制や日本の大衆文化の流入制限のようなことをやりたいのかどうか。
4)商業主義拝金主義批判 →行き過ぎた資本主義批判
お決まりなので略。
***追記
「テレビ局の売上高が減少傾向にあることは承知している」フジテレビデモ総務省からの回答
参照:http://getnews.jp/archives/139658
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