鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

阪神淡路大震災

2007-01-18 23:28:12 | 提案・要望

 きのう17日は丁度12年前にあの忌まわしい阪神淡路大震災があった日です。

 それによって防災とボランティアの日と制定されたのですか。地震なんか関係ないと思われていた阪神地区において、想定震度である震度5強をはるかに超える震度7の大地震、しかもまだ朝早く、周りが暗いときで、ほとんどの人が寝ているときの大地震。

 宮城県地方も地震が多い地区で、震度4、5くらいの地震は何度も経験していますが、慣れっこにはとてもなれません。その度に心臓の鼓動は早くなり、とても不安になります。これが夜中だと恐怖感も倍増し、その後はなかなか寝付かれません。本当に地震は怖いものです。

 それが一気に震度7の激震に襲われたら、一体何が起きたのか訳が分からないまま戸惑い、右往左往し、恐怖に戦いたことだろうと思います。トラウマとなって当然かと思います。これで終わりか、死んでしまうのかと思ったことだろうと思います。

 

 私もかって西宮に住んで、大阪の本町まで通勤していたことがあり、そのときの友達が何人も住んでいたので、テレビで炎を上げ真っ黒な煙に覆われた神戸を見たときには信じられませんでした。これは一体なんだ、何があったのだと、テレビ画面を見ながら怒りみたいなものがこみ上げてきたのを覚えています。

 西宮から神戸までは阪神電車ですぐの距離です。阪神甲子園駅から神戸三宮まで行って、三宮から元町までぶらぶら歩くこともありました。丁度三宮のそごうデパートから元町の三越デパートまでの距離となりますか。なんとかいう道路(思い出せませ鵜)があり、土曜日なんか、風呂上りに先輩と神戸に遊びに行ったりしたことがあります。

 

 そんなことがあったので、同僚や先輩が無事だったのかどうか、心配でした。電話をしても通じませんし。まあ数日後には通じて、知人は全員無事だったので安心はしたのですが、でもあの大地震で数千人の人々が命を落としていたのです。

 地震による家屋等の倒壊による死亡だけでなく、倒壊した後に逃げたくても逃げられないまま火事により焼け死んでしまった人たちも一杯いました。

 助かったというか生き延びた子どもたちにはいろんな形でトラウマが発生し、そういう子どもたちを支援するためにあしなが育英会とか何といったでしょうか・・ハウス(レインボウ ハウス?)が建てられました。少しですが義捐金を送らせていただきました。そしたら本が贈られてきました。

 すっかり忘れていましたが、そういうことが過去にありました。本当に人間は忘れる動物です。忘れてはならないことも忘れてしまいます。

 

 今朝日新聞で連載をしています。「ニッポン 人・脈・記」「震度7からの伝言⑨」今日の記事の終わりのほうに、「震災を『五千人が死んだ一つの事件』と考えるのは死者を冒涜してはいないか。1人が死んだ事件が5千件あり、5千通りの死があるはずだ。」という文言ありました。

 そういったのは、ビートたけしでした。

 統計の数字では伝えきれない、それぞれの死、ひとり一人の命を見つめるべきではないか、といっています。もっともなことだと改めて考えさせられました。

 

 今回のイラクでの戦争でも、アメリカ軍人の死者は3,000人を超えた、イラクの人民は5、6万人が死んでいると報じられていますが、死というものは何十、何百、何千、何万と一括りにして考えるのではなく、あくまでも個別具体の個人個人の死、そしてその死には何人もの家族がいるということを改めて考える、思いを馳せるということ、想像するということが絶対的に必要ではないかと思います。

 


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