今日の朝日新聞、土曜日特集の紙面、日野原重明さんの「95歳私の証 あるがまゝ行く」シリーズで「日本人戦没者が眠る街」と題して、オーストラリアのカウラにある日本人捕虜収容所のことが書いてありました。このことは戦後本にもなり、私も持っています。どこにあるかは??ですが。
太平洋戦争で日本軍はオーストラリアとも交戦しました。そのとき1000人以上の日本兵が捕虜となりました。おとなしく捕虜として生きていくことは考えられず、死を覚悟して集団脱走しました。案の定数百人の捕虜が射殺されました。
なぜ無謀な集団脱走を図ったか、いうまでもありません、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからです。それを兵隊になったときから叩き込まれていたからです。
戦陣訓をつくった張本人がそれを守れず、それによって死ななくてもいい何十万人の兵隊を死に至らしめたか。病死・餓死・自決・・・。そこまで追い込んだ張本人を私は絶対に許すことはできません。ましてや、そんな最大の戦争犯罪人が、徴兵され死んだ(殺された)兵隊たちと同じところに祀られるなんて信じられませんし、私が遺族だったら絶対に許しません。
映画「硫黄島からの手紙」でもまだ戦うことができるのに、陣地を守備できなかったということで、手榴弾で自決する場面がありました。負傷して動けなくなったというのならまだしも、まだ戦えるのに死を選ぶ、それが責任をとること、潔いことということで自決する、兵隊なら、手榴弾を持っているのなら、それを使って一人でも多くの敵兵を倒すというのが使命だと思うのですが。自暴自棄になりやすいのか、簡単に諦め死んでしまう。
それは別としても、自決するのは捕虜になるのは恥だ、自分だけではなく、家族・親族までの恥だという「戦陣訓」に基づく考えでしょう。押し付けといってもいいでしょう。本人は死にたくなくても、周りが許さない、死ななければならない状況に追い込まれてしまう。
硫黄島での戦闘に際して、司令官の栗林中将が命じたのはあくまでも生きて戦え、ゲリラとなって戦えというものでした。日本軍得意の、集団自決としかいいようのない万歳突撃は許さなかった。
「敢闘の誓い」として、「我等は」の後に続く文言は、
一 全力を振るって守り抜かん。
ニ 爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
三 挺身敵中に斬り込み敵を鏖(みなごろ)しせん。
四 一発必中の射撃に依って敵を撃ちた仆(たお)さん。
五 敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず。
六 最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。
というもので、勝つことはありえない状況下で、少しでもここでアメリカ軍を引き止めておけば、本土空襲が遅れる、遅れればそれだけ家族が何とか無事に生きられる、家族のためになるということで抵抗し続けたわけです。
だけど、現実には2万余の兵隊がいるわけで、命令をきかない部隊もあったし、旧態依然とした万歳突撃して散っていった部隊もあったし、最後の一兵になるまで戦おうとした部隊も当然いたわけだし、戦闘部隊ではなくてもあくまでも投降はしなかった兵隊もいたわけです。
「十七歳の硫黄島」の著者秋草鶴次さんは通信兵として最後まで投降はしませんでした。食べるものはもちろん飲み水までなくなるなか、「目覚めては蛆を食し、虱を食べて、またウトウトと寝る。」ということを繰り返すうち、意識を失い米軍に発見されて助かったような人もいます。ここまでくるともう何もいえません。
「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」という辞世の句を残した司令官は、アメリカの事情にも通じていて狂信的な精神論とは縁がなく、冷静沈着、行動は果敢な司令官でしたが、そうであれば、当然国際法にも通じていたと思います。
ならば、「矢弾尽き果て」るまでは徹底抗戦して、決して自決せず、兵隊として戦闘行為が不可能になったのなら、投降してもいい、というか投降せよと言えなかったのかと思うのは、今更どうしようもないことは分かっていますが、それでも武器弾薬がなくなったら投降してもいいんだというようなことは言えなかったのかと、立派な軍人であればあるほどそう思ってしまうのですが・・・。(現実には投降した兵隊もいたし、自決できずに捕まってしまった兵隊も当然いたでしょう。)
もちろんそうなったら本人は投降はできないでしょうが。責任を取って自決はやむをえないことと思います。前線で戦う将兵と、後方で指揮命令する最高指揮官では取扱に差をつけることは仕方がないのではないかと思うのですが。(やはり、なんか矛盾しているか)
なんかとてもまとまりのない文章になってしまいました。
ここまで付き合ってくれた人に、読んでいただいてありがとうございます。
写真は、昨日ブログに書いた長浜らーめんです。