ジャカルタは何かにつけて「ゆるい」。
釣り銭が間違ってても誰も怒鳴ったりしない。
そもそも釣り銭なんぞチップの一種だと思っている。
外国人だとわかればメーターを回さないタクシーも多く、ボッタくり料金を請求するのが普通の経済行為だと思っている。
加えて街中どこへ行っても汚い、臭い、時には危ない。
でもジャカルタには不思議な開放感がある。
2~3日滞在しただけで何がわかるというものでもないが、
1日慣れてしまうと釣り銭の間違いにクレームつけたり、過剰な清潔さを求めたり、正誤にこだわったり、白か黒かで争ったり、そんなことが実は病の一種ではないかと思えてくるから不思議だ。
もしかすると我々日本人は日本病を患っているのではないかと・・・。
事実、数年ジャカルタで生活すると日本に戻りたくないと思う人も少なからずいるようだ。
中国や韓国みたいな反日感情がまったくないというのも大きいだろうし、日本からジャカルタに赴任すると為替レートのマジックで日本では考えられない優雅な暮らしが出来る訳だが、それだけが理由とは思えない。
ジャカルタが居心地良くなる理由は少なからずこの「ゆるさ」にあるのだろうと思う。
少し話の方向が変わるが、ジャカルタ名物?のひとつに鉄道の線路の上にまで露店を開いて生活しているスラムの住人たちがいる。
電車が通る度に、露店を畳まなければならないので、あまりちゃんとした商売にはなっていないだろうし、おそらくは立ち退きに対する抗議の意で意地になってやっているとしか思えない。当然当局はそんな人達を排除しようとしているのだが、さほど強行な手段を行使しようとはしていないように見える。
当局側にも立ち退きに対する十分な保障費用の用意がないのかもしれないが、もしこれが中国だったら人民の名の元に殺してでも排除するかもしれない(比喩的に)と考えると、やっぱり基本が「ゆるい」のである。
残念なことに滞在期間がラマダン明けの連休中だったためスラムの露天商たちもお休みでこの目でその光景を見ることは出来なかった。
スラムの露天商も連休中はお休みっていうのもなんだか可笑しいのだが・・・それもやっぱり「ゆるさ」ってことか。
物乞いも路上の「押し売りもどき」もたいへん多い。
驚いたことに彼らの顧客は金を持った外国人観光客ではなく、地元の人達なのだった。
信号待ちで止まった車に押しかけてくる物売りに窓を明けて金を払っていたり、物乞いを疎ましがらず金銭を与えているのはなんと地元の人々なのだ。
旅行中我々が乗った電車にもいきなり物乞いが登場して驚いたのだが現地の人々の過半数が自らすすんで金銭を与えていた。
だからジャカルタの物乞いは堂々としている。営業上みすぼらしい姿(演出?)はしているが空き缶を前に置いてひれ伏しているほどの卑屈さはない。
その物乞いは電車賃をちゃんと払って乗りこんだのか、あるいは営業力?で駅員に顔パスしたかは知らないが(多分駅員も見て見ぬふりをしているのに違いない)、ここまで来ると「物乞いもちゃんとやればビジネスの内」だと思えてくる。
ほんとうは曖昧な態度が好きなくせに規範には厳格で一斉に右向け右の日本の社会とは根本的に違う何かをジャカルタという街は持っている。
インドネシアは基本的には多民族の国であり人工的には世界最大のイスラム教国でありつつもキリスト教も含め多様な宗教が存在しており、傍目にはマイノリティーな人達が色々と騒動を起こすにはちょうど良い?条件が多数揃っているように見えるのだが、目立った内紛?が東ティモールでの一件ぐらいというのは比較的穏やかな国と言えるのかもしれない。
たぶんに「ゆるさ」というものが社会の緩衝材になっているのだろう。「ゆるさ」はジャカルタの人々の生きる知恵なのだ。そして出会った範囲でジャカルタの人達は基本優しくとても人懐っこかった。
釣り銭が間違ってても誰も怒鳴ったりしない。
そもそも釣り銭なんぞチップの一種だと思っている。
外国人だとわかればメーターを回さないタクシーも多く、ボッタくり料金を請求するのが普通の経済行為だと思っている。
加えて街中どこへ行っても汚い、臭い、時には危ない。
でもジャカルタには不思議な開放感がある。
2~3日滞在しただけで何がわかるというものでもないが、
1日慣れてしまうと釣り銭の間違いにクレームつけたり、過剰な清潔さを求めたり、正誤にこだわったり、白か黒かで争ったり、そんなことが実は病の一種ではないかと思えてくるから不思議だ。
もしかすると我々日本人は日本病を患っているのではないかと・・・。
事実、数年ジャカルタで生活すると日本に戻りたくないと思う人も少なからずいるようだ。
中国や韓国みたいな反日感情がまったくないというのも大きいだろうし、日本からジャカルタに赴任すると為替レートのマジックで日本では考えられない優雅な暮らしが出来る訳だが、それだけが理由とは思えない。
ジャカルタが居心地良くなる理由は少なからずこの「ゆるさ」にあるのだろうと思う。
少し話の方向が変わるが、ジャカルタ名物?のひとつに鉄道の線路の上にまで露店を開いて生活しているスラムの住人たちがいる。
電車が通る度に、露店を畳まなければならないので、あまりちゃんとした商売にはなっていないだろうし、おそらくは立ち退きに対する抗議の意で意地になってやっているとしか思えない。当然当局はそんな人達を排除しようとしているのだが、さほど強行な手段を行使しようとはしていないように見える。
当局側にも立ち退きに対する十分な保障費用の用意がないのかもしれないが、もしこれが中国だったら人民の名の元に殺してでも排除するかもしれない(比喩的に)と考えると、やっぱり基本が「ゆるい」のである。
残念なことに滞在期間がラマダン明けの連休中だったためスラムの露天商たちもお休みでこの目でその光景を見ることは出来なかった。
スラムの露天商も連休中はお休みっていうのもなんだか可笑しいのだが・・・それもやっぱり「ゆるさ」ってことか。
物乞いも路上の「押し売りもどき」もたいへん多い。
驚いたことに彼らの顧客は金を持った外国人観光客ではなく、地元の人達なのだった。
信号待ちで止まった車に押しかけてくる物売りに窓を明けて金を払っていたり、物乞いを疎ましがらず金銭を与えているのはなんと地元の人々なのだ。
旅行中我々が乗った電車にもいきなり物乞いが登場して驚いたのだが現地の人々の過半数が自らすすんで金銭を与えていた。
だからジャカルタの物乞いは堂々としている。営業上みすぼらしい姿(演出?)はしているが空き缶を前に置いてひれ伏しているほどの卑屈さはない。
その物乞いは電車賃をちゃんと払って乗りこんだのか、あるいは営業力?で駅員に顔パスしたかは知らないが(多分駅員も見て見ぬふりをしているのに違いない)、ここまで来ると「物乞いもちゃんとやればビジネスの内」だと思えてくる。
ほんとうは曖昧な態度が好きなくせに規範には厳格で一斉に右向け右の日本の社会とは根本的に違う何かをジャカルタという街は持っている。
インドネシアは基本的には多民族の国であり人工的には世界最大のイスラム教国でありつつもキリスト教も含め多様な宗教が存在しており、傍目にはマイノリティーな人達が色々と騒動を起こすにはちょうど良い?条件が多数揃っているように見えるのだが、目立った内紛?が東ティモールでの一件ぐらいというのは比較的穏やかな国と言えるのかもしれない。
たぶんに「ゆるさ」というものが社会の緩衝材になっているのだろう。「ゆるさ」はジャカルタの人々の生きる知恵なのだ。そして出会った範囲でジャカルタの人達は基本優しくとても人懐っこかった。
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