薄幸の国、ギニア。今日はこの国の話題から。
去る2017年3月12日、セネガル政府は、ギニア政府による指名手配を受けていたある人物の身柄を引き渡した。この身柄引き渡しは、ギニア現代史上において、極めて大きな意味を持つものと注目されている。その人物の名は、人呼んで「トゥンバ・ディアキテ」。それはいかなる人物か?
ここを理解するには、コナクリ・ギニアの黒歴史について少し語らなければならないだろう。
西アフリカ、ギニア湾沿岸の西端に位置するギニア共和国。現在、民主的に選ばれたアルファ・コンデ大統領が二期目の任期に就き、一時はエボラ危機などにも苛まれるが、いま少しだけ持ち直してきた。今年に入り、コンデ大統領はガンビア危機の仲裁を司どり、アフリカ連合(AU)では2017年の議長国として選出されるなど、外交的手腕も発揮している。一見、順調な政権運営に見られる。
しかしそのギニア、現代史において市民社会や労働組合によるつばぜり合いが常に続いてきた。特にここ10年は、常に当局と市民が犠牲者を伴う衝突を繰り返し、いわば「弔い合戦」が繰り広げられてきた。
中でも喉元に刺さったトゲとなってきた忌々しい事件。2009年9月28日に発生した「コナクリ・スタジアム虐殺事件」である。
これは同日、野党支持者が首都コナクリのスタジアムに多数参集したところで起きた事件。制圧しようとした当局と民衆との間で衝突が発生。治安部隊は民衆に銃口を向け掃射、その後蛮行が横行し、国連調査委員会の報告によれば、少なくとも157人が死亡、109名の女性が婦女暴行を受けたとされる。
以降のギニアの政局において、コナクリスタジアム虐殺事件は黒歴史として今日まで残っている。ギニアの真の民主化と自由のために乗り越えなければならない壁、それがこの事件を法により裁くことだと考えられている。
この主犯とされた人物がアブバカル・シディキ・ディアキテ少佐、通称「トゥンバ・ディアキテ」。そう、先に触れた人物だ。
(RFIホームページより)

もともと軍医の出身で、ダディ・カマラ大尉によるクーデターの後はカマラの親衛隊「レッドベレー」の指揮官に。コナクリ事件では現場における主犯格とされた。ところが2009年12月3日には、ダディ・カマラ国家評議会委員長を銃殺未遂。のち逃亡していた。
ギニア政府はのちに同氏を国際指名手配。逃亡先のセネガルでは同氏の逮捕や身柄の引き渡しなどについて水面下での交渉が行われてきた。2016年12月、セネガル当局はディアキテ氏の身柄を拘束、2017年1月にはセネガルのマッキー・サル大統領が身柄引き渡しを訓令。そして3月12日、同氏の身柄はギニア捜査当局に引き渡された。人権団体や市民は「虐殺の真相解明に向けた大きな一歩」とコメントした。
冒頭で述べたとおり、ギニアは薄幸の国だ。初代大統領にして英雄だったセク・トゥーレ。「隷属の中での経済的自由より、貧困の中での真の自由を選ぶ」と宣言し、フランスとの関係を断ち切って1958年に独立。アフリカ中の喝采を浴びた。
しかしその後、セク・トゥーレ、ランサナ・コンテと独裁の歴史が2000年代後半まで続き、コンテ逝去直後の2008年にダディ・カマラによる軍事クーデター。さらにはダディ・カマラまで銃弾に伏すという激動を続けて来た。その銃殺未遂とは、上記のとおり、トゥンバ・ジャキテによる犯行とされる。
ディアキテ氏は、逃亡中にインタビューの中で「虐殺はダディ・カマラ大尉による命令に基づくもの」と自らに責任はないとするコメントを発表している。
野党支持者や人権団体は、ディアキテ氏公判の早期開催とともに、ダディ・カマラの召喚を合わせて要求している。カマラ元大尉は、2009年12月、上記のとおり銃弾に伏したのち、モロッコに緊急搬送。しばらくしてマリに保護されていたが、さらにその後ブルキナファソに居を移している。2015年にはブルキナファソで、在留ギニア人弁護士から告訴され、虐殺への関与を問われていた。
このような背景から、ギニア情勢は例年9月末に荒れる。今回のディアキテ身柄引き渡しに当たっても野党支持者や人権団体は「9月の虐殺追悼日前に後半を開始することを強く求めている。
今回の身柄引き渡しで、ギニアの黒歴史を払拭するような法の裁きに移行できるのだろうか。ンボテも再三このブログで述べているように、「アフリカがアフリカの犯罪を裁けるか」との命題に帰着するのだった。
(関連記事)
アフリカの犯罪をアフリカで裁けるか?(1)~不処罰とアフリカ
(おわり)
去る2017年3月12日、セネガル政府は、ギニア政府による指名手配を受けていたある人物の身柄を引き渡した。この身柄引き渡しは、ギニア現代史上において、極めて大きな意味を持つものと注目されている。その人物の名は、人呼んで「トゥンバ・ディアキテ」。それはいかなる人物か?
ここを理解するには、コナクリ・ギニアの黒歴史について少し語らなければならないだろう。
西アフリカ、ギニア湾沿岸の西端に位置するギニア共和国。現在、民主的に選ばれたアルファ・コンデ大統領が二期目の任期に就き、一時はエボラ危機などにも苛まれるが、いま少しだけ持ち直してきた。今年に入り、コンデ大統領はガンビア危機の仲裁を司どり、アフリカ連合(AU)では2017年の議長国として選出されるなど、外交的手腕も発揮している。一見、順調な政権運営に見られる。
しかしそのギニア、現代史において市民社会や労働組合によるつばぜり合いが常に続いてきた。特にここ10年は、常に当局と市民が犠牲者を伴う衝突を繰り返し、いわば「弔い合戦」が繰り広げられてきた。
中でも喉元に刺さったトゲとなってきた忌々しい事件。2009年9月28日に発生した「コナクリ・スタジアム虐殺事件」である。
これは同日、野党支持者が首都コナクリのスタジアムに多数参集したところで起きた事件。制圧しようとした当局と民衆との間で衝突が発生。治安部隊は民衆に銃口を向け掃射、その後蛮行が横行し、国連調査委員会の報告によれば、少なくとも157人が死亡、109名の女性が婦女暴行を受けたとされる。
以降のギニアの政局において、コナクリスタジアム虐殺事件は黒歴史として今日まで残っている。ギニアの真の民主化と自由のために乗り越えなければならない壁、それがこの事件を法により裁くことだと考えられている。
この主犯とされた人物がアブバカル・シディキ・ディアキテ少佐、通称「トゥンバ・ディアキテ」。そう、先に触れた人物だ。
(RFIホームページより)

もともと軍医の出身で、ダディ・カマラ大尉によるクーデターの後はカマラの親衛隊「レッドベレー」の指揮官に。コナクリ事件では現場における主犯格とされた。ところが2009年12月3日には、ダディ・カマラ国家評議会委員長を銃殺未遂。のち逃亡していた。
ギニア政府はのちに同氏を国際指名手配。逃亡先のセネガルでは同氏の逮捕や身柄の引き渡しなどについて水面下での交渉が行われてきた。2016年12月、セネガル当局はディアキテ氏の身柄を拘束、2017年1月にはセネガルのマッキー・サル大統領が身柄引き渡しを訓令。そして3月12日、同氏の身柄はギニア捜査当局に引き渡された。人権団体や市民は「虐殺の真相解明に向けた大きな一歩」とコメントした。
冒頭で述べたとおり、ギニアは薄幸の国だ。初代大統領にして英雄だったセク・トゥーレ。「隷属の中での経済的自由より、貧困の中での真の自由を選ぶ」と宣言し、フランスとの関係を断ち切って1958年に独立。アフリカ中の喝采を浴びた。
しかしその後、セク・トゥーレ、ランサナ・コンテと独裁の歴史が2000年代後半まで続き、コンテ逝去直後の2008年にダディ・カマラによる軍事クーデター。さらにはダディ・カマラまで銃弾に伏すという激動を続けて来た。その銃殺未遂とは、上記のとおり、トゥンバ・ジャキテによる犯行とされる。
ディアキテ氏は、逃亡中にインタビューの中で「虐殺はダディ・カマラ大尉による命令に基づくもの」と自らに責任はないとするコメントを発表している。
野党支持者や人権団体は、ディアキテ氏公判の早期開催とともに、ダディ・カマラの召喚を合わせて要求している。カマラ元大尉は、2009年12月、上記のとおり銃弾に伏したのち、モロッコに緊急搬送。しばらくしてマリに保護されていたが、さらにその後ブルキナファソに居を移している。2015年にはブルキナファソで、在留ギニア人弁護士から告訴され、虐殺への関与を問われていた。
このような背景から、ギニア情勢は例年9月末に荒れる。今回のディアキテ身柄引き渡しに当たっても野党支持者や人権団体は「9月の虐殺追悼日前に後半を開始することを強く求めている。
今回の身柄引き渡しで、ギニアの黒歴史を払拭するような法の裁きに移行できるのだろうか。ンボテも再三このブログで述べているように、「アフリカがアフリカの犯罪を裁けるか」との命題に帰着するのだった。
(関連記事)
アフリカの犯罪をアフリカで裁けるか?(1)~不処罰とアフリカ
(おわり)