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ディディエ・ドログバが引退!〜アフリカサッカーのスーパースター、ピッチを去る

2018-11-23 07:40:00 | アフリカサッカー・スポーツ
2018年11月9日、米国ルイスヴィル。アフリカが生んだサッカー界のスーパースター、最後のマッチはこの地で開かれた。米国サッカーの「いわくつき」の2部リーグ、ユナイテッドサッカー・リーグ(USL)、フェニックス・ライジングのオーナーにして現役のフォワード。この日はUSLの最終戦だった。ホイッスルとともに、二十余年にわたるプロサッカーとしてのキャリアが幕を閉じた。そして22日、正式に引退を発表した。

ディディエ・ドログバ(40)。その名はプレミアリーグ、ヨーロッパ、アフリカ、そして世界に轟いた。日本人にも苦い思い出が蘇る。2014年、ワールドカップ・ドイツ大会。日本代表の初戦はコートジボワール戦。本田のフリーキックでリードしていたゲームは後半36分、ドログバの投入で一変。彼のゴールを含む2点をあっさりとり返され、日本代表は敗戦を喫した。彼は大陸が生んだ最高のフォワードの一人であることは疑いがない。


しかし彼のサッカー人生は初めから華やかであったわけではない。ドログバは2008年に自伝を出版した。ンボテも読んだことがあるが、この本の中に彼の足取りが記されている。

ディディエ・イヴ・ドログバ・テビリー(Didier Yves Drogba Tébily)、 1978年3月11日生まれ。コートジボワール出身、部族は同国中西部を本拠とするベテ族だ。生まれはアビジャンの庶民の街ヨプゴン、シコジ(Sicogi)といわれる地区。銀行家の父と秘書の母の裕福な家庭に生まれ、英才教育を志した親の意を受けて、5歳で叔父の住むフランスに渡った。その叔父は地味ながらもサッカー関連の仕事をしていた。ドログバは叔父につきいて、仕事でフランス、ヨーロッパを点々とした。しかしビザの問題からわずか3年でコートジボワールに戻ることとなる。

ほどなくドログバはフランスに戻ってくることとなる。両親が失業の憂き目にあい、再び叔父に我が子を託したのだった。そしていつしかその才覚を発揮し始める。1988年からクラブチームのジュニアでプレー。毎年、ダンケルク、アッベヴィル、トゥルコワン、ヴァンヌ、ルヴァロワ、ル・マンとチームをわたり、1998年、19歳でル・マンでプロとしてデビューした。

その後、2002〜2003年期には、いとしのオランピック・マルセイユに移籍。また2004年から8年間在籍した英国プレミアリーグ、チェルシーに移籍。この時代の偉業が最も華々しい。その後、中国スーパーリーグの上海申花、トルコのガラダサライ、(英国チェルシーへの一時復帰を挟み)カナダのモントリオールと転々とし、米国フェニックスへ。クラブへの出資も行いつつ、選手として最後のプレーを全うした。

18歳からこの日まで22年間、クラブチームおよびコートジボワール代表として、700マッチに出場、360得点をマークした。コートジボワール代表としては2004年から2012年まで出場。映えあるアフリカカップで2006年、2012年の2回、'Les Eléphants'(代表チームの愛称)を優勝に導いた。コートジボワールサッカー絶頂期の、不動のキャプテンであった。

(sofoot.comウェブサイトより)


彼の存在は当地、コートジボワール人にとっても絶大であった。ドログバが活躍した2000年代、コートジボワールは国が南北に分断される紛争の最中にあった。しかしコートジボワール国民の共通の希望がドログバの活躍であり、サッカー代表チーム'les éléphants'は統合への可能性なのであった。

2005年10月8日、スーダンの首都、ハルツーム。ワールドカップ予選を勝ち抜いた試合のあと、ドログバはテレビの前でマイクを手にすると、チームメートを一堂に集め、国民にこう呼びかけた。

(YouTubeサイトへ、英語テロップ付き動画です!)


コートジボワール国民のみんな、
北に住んでいる人も、南の人も。西も、中部も。
たくさんの部族の人がともに暮らす祖国
きょうわれわれは、一つの目的のもと、違いを乗り越えて、
ともにいくていくことができることを、
ここに証明した。
ワールドカップ本戦への切符を手に入れることができたのだ。
・・・ここでひざまづいて、お願いしたいことがある。
神よ、お許しを。
かけがえのない豊かな大地を持つ我が祖国。
お願いだ、武器を置いてくれ。
そして選挙を行ってくれ・・・。


いわゆる「ハルツームの呼びかけ」(L'appel de Khartoum)である。彼のメッセージは国民に大きな感動と希望を与えた。

コートジボワールにおけるサッカーは、単なるスポーツを超え、国民統合の象徴であり、共通の精神的支柱となってきた。「アフリカの偉人」にも数えられている。
絵本『偉大な黒人たち』

余談だが、そういったことに敬意を評し、以前こんなイベントを企画したことがある。
あえてアフリカと一つになるパブリックビューイングin横浜、ご来場ありがとうございました!


さて、今回のドログバの引退。当のコートジボワール人はどう見ているのであろうか。
「残念すぎる(On est découragé)。」
「いや、でももう彼ももう歳だ。よく頑張った。」
「十分金は儲けただろうからね。」
「これからはコートジボワール代表を監督として引っ張っていって欲しいね。」
「彼は国をまとめる力があるよ。2020年、大統領選挙はドログバに一票だな。」
「なんなら第三の橋の名前も、ベディエ橋からドログバ橋に変えちまえばいいんじゃないか?」
「それはいい!」

週末のぶらぶらトークでもこんな感じの盛り上がり。


アフリカの星、コートジボワールの英雄。ドログバの引退の花道は、彼の偉業と存在感の大きさを改めて覚えさせるものであった。そして彼の今後も、多くの国民から見つめられている。

(おわり)


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