私のある知り合いについて、
心理分析的にどうしても引っかかることがあって、
泰三さんに聞いてみようと思い、
カウンセリングをしてもらいました。
自分以外の人のことでカウンセリングを利用するなんて
考えたこともなかったのですが。
その友人は太めで、1,2年前に糖尿病と診断されました。
それで食事療法を勧められているのですが、
普通にダイエット中の人でもやらないだろうということを
いつもするのです。
たとえば、夜の10時過ぎにカップのアイスを1つ食べるとか、
油と砂糖たっぷりの菓子パンを食べるとか。
でも、その彼女は栄養士の資格を持ち、
調理場で働いたこともあるほど料理の腕もあるのです。
能力的には自分で食事療法を実践するのに
十分過ぎるほどなのです。
なのになぜ??ってずっと思っていました。
泰三さんによれば、それは一言で言えば、
自暴自棄、自己破壊行為なのだそうです。
何らかの理由で深い絶望があり、
自己嫌悪があるから、
自分を傷つけるようなことをするんだそうです。
たとえばもし、進行したガンと診断されても
何かまだやりたいことがあれば、
必死で治療法を探し、それを実践しますよね?
でも、生きがいもなく、生きる目的を見つけられなければ
「もうどうにでもなれ!」と思って、
やけ酒をあおってみたり、自暴自棄になっていくことが
予想されます。
私の知り合いの場合は、その後者の状態に陥ってる、
ようするに生きる目的を見出せてないようなのです。
でも、彼女はいろんなボランティア活動や
委員会などに参加し、毎日飛びまわっていて、
周りの人もみんな彼女を頼りにしています。
それでも、生きがいを見出せないのはどうしてなんだろう?
泰三さんはそれについて、
「たくさんの居場所があるというのは、何かおかしい。
本当はどこにも居場所がないんじゃない?」と言いました。
「もしかしたら、補償行為(何かが欲しいから、
その代償として何かをやる)でそういう活動を
してるんじゃない?
確かに昔は好きでやっていたかもしれないけど、
年をとって体調が悪くなってきてるのに
ペースダウンできないとしたら、それは犠牲だよ」
そうなのかなぁ。
「『私はこんなにやってるのに』という
恩着せがましい言葉が出てきたら、末期症状だよ」と
泰三さんは続けました。
でも、彼女からそういう言葉は聞いたことがありません。
だけど、以前ちょっとカチンとすることがありました。
私がある手伝いをちょっとお願いしたら、
「ちょっとその日は映画に行く予定だし、
他のイベントを見に行きたいの」と言われました。
「いつでもお手伝いするからね」と前から言ってたのに。
「私が期待するのがいけないんでしょうかね?」と泰三さんに言ったら、
「それは、『普段がんばっているんだから、
イベントや映画を見に行ったっていいでしょ?』って言ってるのと同じ。
つまり『私はこんなにやってる』というのと同じ」と言われました。
そうなんだ。
心の底の感情が同じでも、
言葉での表現の仕方が違うと、違うように思えてしまうもんだなぁ。
それで、私に何かできることがあるか聞いてみました。
「適確なタイミング、言動で、相手にプラスのインパクトを与える」
ことができたらいいとのこと。
よくやってしまいがちだけど、やってはいけないのは、
「やらなくちゃ」という強迫観念を与えることだそうです。
「やらされている」という強制感を与えるのもダメ。
絶望感、つまり「何をやっても、よくならない」というイメージを
少しでも変えるような言葉かけをするといいそうです。
「よくがんばってるじゃない」
「なんだか顔色がよくなってきたみたいだよ」など。
タイミングが悪かったり、わざとらしかったりすると、
かえって不信感を植え付けるから、注意が必要でしょうけどね。
というわけで、周りにいる人間として私が気をつけるべきことは、
「ちょうどいいタイミングを待つ=手放す」ことなのだそうです。
「ちょうどいいタイミングで適確な言動」が
私にとれることを信じて、待つ必要があるようです。
そんな電話カウンセリングを受けている最中に、
受話器の向こうでFAXの音が鳴りました。
泰三さんが確認したら、それは金沢での
初級心理分析士養成講座への申込書でした
すでに開講するかどうかのラインは超えているそうです。
よかった~
これまでに申し込んできた人たちは、
ずっと以前に泰三さんが関ったとかで、
あまり想定していなかったメンバーのようです。
逆に、「この人は申し込むだろう」と思っていた人が
「やっぱり受けられない」と言ったり。
やはり、次の講座でも最初からメンバーは
決まっていたのかもしれません。
「プロセス(自然な成り行き)を信じる」ことの大切さは、
特にパンフレット制作の最中に学びましたが、
その結果が今出てきています。
絶望している私の知り合いにも
きっとプロセスが働くと信じて、待ちたいと思います。
心理分析的にどうしても引っかかることがあって、
泰三さんに聞いてみようと思い、
カウンセリングをしてもらいました。
自分以外の人のことでカウンセリングを利用するなんて
考えたこともなかったのですが。
その友人は太めで、1,2年前に糖尿病と診断されました。
それで食事療法を勧められているのですが、
普通にダイエット中の人でもやらないだろうということを
いつもするのです。
たとえば、夜の10時過ぎにカップのアイスを1つ食べるとか、
油と砂糖たっぷりの菓子パンを食べるとか。
でも、その彼女は栄養士の資格を持ち、
調理場で働いたこともあるほど料理の腕もあるのです。
能力的には自分で食事療法を実践するのに
十分過ぎるほどなのです。
なのになぜ??ってずっと思っていました。
泰三さんによれば、それは一言で言えば、
自暴自棄、自己破壊行為なのだそうです。
何らかの理由で深い絶望があり、
自己嫌悪があるから、
自分を傷つけるようなことをするんだそうです。
たとえばもし、進行したガンと診断されても
何かまだやりたいことがあれば、
必死で治療法を探し、それを実践しますよね?
でも、生きがいもなく、生きる目的を見つけられなければ
「もうどうにでもなれ!」と思って、
やけ酒をあおってみたり、自暴自棄になっていくことが
予想されます。
私の知り合いの場合は、その後者の状態に陥ってる、
ようするに生きる目的を見出せてないようなのです。
でも、彼女はいろんなボランティア活動や
委員会などに参加し、毎日飛びまわっていて、
周りの人もみんな彼女を頼りにしています。
それでも、生きがいを見出せないのはどうしてなんだろう?
泰三さんはそれについて、
「たくさんの居場所があるというのは、何かおかしい。
本当はどこにも居場所がないんじゃない?」と言いました。
「もしかしたら、補償行為(何かが欲しいから、
その代償として何かをやる)でそういう活動を
してるんじゃない?
確かに昔は好きでやっていたかもしれないけど、
年をとって体調が悪くなってきてるのに
ペースダウンできないとしたら、それは犠牲だよ」
そうなのかなぁ。
「『私はこんなにやってるのに』という
恩着せがましい言葉が出てきたら、末期症状だよ」と
泰三さんは続けました。
でも、彼女からそういう言葉は聞いたことがありません。
だけど、以前ちょっとカチンとすることがありました。
私がある手伝いをちょっとお願いしたら、
「ちょっとその日は映画に行く予定だし、
他のイベントを見に行きたいの」と言われました。
「いつでもお手伝いするからね」と前から言ってたのに。
「私が期待するのがいけないんでしょうかね?」と泰三さんに言ったら、
「それは、『普段がんばっているんだから、
イベントや映画を見に行ったっていいでしょ?』って言ってるのと同じ。
つまり『私はこんなにやってる』というのと同じ」と言われました。
そうなんだ。
心の底の感情が同じでも、
言葉での表現の仕方が違うと、違うように思えてしまうもんだなぁ。
それで、私に何かできることがあるか聞いてみました。
「適確なタイミング、言動で、相手にプラスのインパクトを与える」
ことができたらいいとのこと。
よくやってしまいがちだけど、やってはいけないのは、
「やらなくちゃ」という強迫観念を与えることだそうです。
「やらされている」という強制感を与えるのもダメ。
絶望感、つまり「何をやっても、よくならない」というイメージを
少しでも変えるような言葉かけをするといいそうです。
「よくがんばってるじゃない」
「なんだか顔色がよくなってきたみたいだよ」など。
タイミングが悪かったり、わざとらしかったりすると、
かえって不信感を植え付けるから、注意が必要でしょうけどね。
というわけで、周りにいる人間として私が気をつけるべきことは、
「ちょうどいいタイミングを待つ=手放す」ことなのだそうです。
「ちょうどいいタイミングで適確な言動」が
私にとれることを信じて、待つ必要があるようです。
そんな電話カウンセリングを受けている最中に、
受話器の向こうでFAXの音が鳴りました。
泰三さんが確認したら、それは金沢での
初級心理分析士養成講座への申込書でした
すでに開講するかどうかのラインは超えているそうです。
よかった~
これまでに申し込んできた人たちは、
ずっと以前に泰三さんが関ったとかで、
あまり想定していなかったメンバーのようです。
逆に、「この人は申し込むだろう」と思っていた人が
「やっぱり受けられない」と言ったり。
やはり、次の講座でも最初からメンバーは
決まっていたのかもしれません。
「プロセス(自然な成り行き)を信じる」ことの大切さは、
特にパンフレット制作の最中に学びましたが、
その結果が今出てきています。
絶望している私の知り合いにも
きっとプロセスが働くと信じて、待ちたいと思います。