
The New SignificanceがZnetと関係しているのかと思い検索してみるとそうでもないようで、でもチョムスキーの長いエッセイが紹介されていて、アナキストの彼のスタンスはなるほどと思う。「多言語社会研究会」を主宰している原 聖先生を一瞬思い出した。
以下は彼らのコンセプトである。ジャマイカ出身のBob Marleyについての長いエッセイ(論稿)を読んだが、読み応えがあった。学生に課題として与えようかな?去年一人の学生がBob Marleyについて発表したことが頭をよぎる。このグローバルな地球で熱く非人間的(消費対象のモノ化にする)なからくりで動く資本・金融・軍事・政治圧力に反抗し闘う大勢の地球人たちの姿がこれでもか、と紹介されている!久しぶりにああ、いつまでもメソメソしてもしょうがない、このどん底から立ち上がらなければと、凡庸な大学の空気の中で、次に進むのだと意を強くした。(でも、あなたが安穏と多くの本を読み資料を逍遥し論文を書く時、バッファーの彼/彼女は身が引き裂かれる思いで本を読み明日の生活を憂えている。あなたは鬼に見え、鬼は血をすすっている。痛い!痛い!痛い!と叫ぶが鬼にその声は聞こえない)
“The New Significance” was set up to explore possibilities for revolutionary change in the 21st Century. This effort rests on some underlaying propositions. For example:【私たちは、21世紀の画期的な変革(革命)を追求(探求)する】
Proposition One: The organization of society as it appears today is neither the best possible outcome of history, nor of human nature, nor of previous social struggle, nor of gods.(今日の社会は、歴史や人間性に照らしても、この間の社会的紛争(闘争)に照らしても、神々の名においても、決して最良のものではない)
Proposition Two: People have the capacity to self-consciously govern their lives and society both as individuals and collectively with others. (人々は自らの人生(生活)や社会を個人として集団の成員として意識的に決定する能力を持っている)
Proposition Three: Existing societies based on class rule, racism, sexism, or any other unjustified authoritarianism must be self-consciously transformed for a new society that is autonomous, classless, self-managing, mutually-aiding, solidaridous, diverse, and participatory across all spheres of life.
(階級(階層)、人種差別、性差別、他いかなる正義にも依拠しえない権威主義に根差した社会は、意識的に自立的で、階級のない、自己決定できる、相互に助けあえる、連帯しあえる、多様であらゆる人生の領域で自由に参加できる社会へと移行できるに違いない)
Proposition Four: Possibilities for this new society always exist, however change as social and material conditions change, and as a consequence, activate new agents for revolution. Although everyone is a potential agent of change, some lay dormant while others organize and rebel. Agents of revolutionary change are those most self-consciously seeking to change their circumstances in fundamentally defining ways as well as activate others to seek their own empowerment in concert with all.(この新しい社会が常に存在する可能性は、社会的物資的条件がたとえ変っても、その結果として革命の新たな同調者を活気づけることになる。誰でも改変(変化・革新)の主体でありえるが、ある人々は固定された状態のままに留まり他の人々は組織を作り反抗していくだろう。革命的な変化(革新)の主体はもっとも自らの置かれた環境(社会)の変化を自覚(自発)的に追求し、共通の理念を持つ者たちと協調しながら実際に活動していく)
Proposition Five: Revolution, is not the continuation of society’s defining institutions, or what is otherwise called “evolution,” but is instead the fundamental transformation — through big and small changes — of these institution’s defining roles and relationships as well as the social and material outcomes they produce.
(革命は、社会の顕著な組織の持続ではない(?)まして進化でもない。根源的な移行(改変・変換)である。大きくとも小さくとも現存する社会が産出するものあからさまな役割や関係性を含め総べてのものを網羅する)あまり訳に自信はないな?!
Each of these propositions and more will be explored in various ways through the postings on this site.
(これらの命題はこのサイトを通して多様な方法で探求されることになるだろう)
Content such as theory, commentary, and analysis — not always complementary and sometimes contradictory — will be published alongside art, journalism, audio, video, and culture generally. TNS editorials will also be written as time allows.[理論、コメント、分析など、補完(足)的ではなく時に矛盾[反論]も伴いながら芸術、ジャーナリズム、動画、一般的な文化問題と共に発信されるだろう。TNSの編集者も時により書くこともある)
The site will publish daily, hourly, and weekly — up to the minute, and by using modern technologies, up to the moment. Stay tuned…(このサイトは現代のテクノロジ―を用いて普段に発信されよう)
*********************************************
実際の論文を(日本語訳がついたのをここに紹介しますね)これはただ参照で、実際は世界で多様に不条理と闘っている方々の論文やドキュメントが紹介されている。こんなサイトを読んでばかりいると自分の本来のテーマへの取組がまったくできなくなるのも事実で、いったいお前は何をしているの?だがーー。ああ論文!宝の資料探しはどうなったの?だがーー。
The New Significance » Classics »
Two Letters to Japan…
April 24th, 2011 | Add a Comment
Two letters to Japan, one each from John Holloway and Marina Sitrin. Japanese translations are at the bottom.
Here is the first letter from John Holloway:
More than a month has passed since the earthquake, and the level of nuclear threat in Fukushima has just been raised. The terrible thing is that we do not want to see. Some things are so horrifying that we just want to look the other way, pretend that it did not happen. It is painful to open our eyes.
I feel a numbness when I think of what has happened and what is happening. Certainly I share the tears of anger and frustration and inspiration that Marina talks about, but there is the feeling of What can we do? Fukushima has happened and cannot be undone. But can we stop the world being turned into a series of Fukushimas? As long as money rules the world, there is probably little that can be done to stop our self-destruction. We must break the rule of money, wherever we can, whenever we can, however we can.
It seems hopeless, absurd, but then we look at the amazing work of the People’s Rescue Troops, of so many people driven simply by the necessity to help others whatever the cost to themselves. In them we see our own enormous strength, the power of the drive of solidarity, of love-trust-dignity-communism (or whatever we want to call it). And we know that money is not all, that there is still hope in the world. In our shock we may not see a way forward, but in our helplessness we sense our own strength.
Almost a month has passed since I received Sabu’s invitation to write something and I am responding only now. Pressure of work, of course, the same pressure that causes disasters and drives the world to destruction. But also the feeling of helplessness, the feeling that there was nothing I could say. Yet sometimes it is important to say that, although words fail us, we are with you.
John Holloway
15 April 2011
–
ジョン•ホロウェイからの手紙
地震からすでに一月以上が経過した。そして福島における原発の脅威のレベルは、上昇するばかりだ。ひどいことは、われわれがこの事実を見たくないということだ。ある事柄は、あまりに恐ろしいので、われわれはそれが起こっていないかのように顔をそらす。目を見開くのが、つらいのだ。
わたしは、そこで起こったことと起こりつつあることを思うと、麻痺状態におちいってしまう。確かにマリーナがいう怒りの涙と無力感と啓示を共有するのだが、「われわれに何が出来るのか?」という気持ちが存在する。福島はすでに起こってしまって、それをもとに戻すことは出来ない。だが、世界を福島の連続にすることを止めることが出来るだろうか?金が世界を支配している限り、われわれの自己破壊を止めるために為しえることはおそらくないだろう。われわれは、可能な場所で、可能な時に、可能な方法で、金の支配を破壊せねばならない。
事態に希望はなく、不条理にさえ思われるが、「人民救援隊」のように、自らを顧みず,他の人々を助ける必要にのみ動かされる多くの人々の素晴らしい行為を目の当りにする。こうした人々に、われわれはわれわれ自身のとてつもない強さ、連帯を駆動する力、愛/信頼/尊厳/共産主義(あるいはどのような呼び方でもいいが)を見いだすのだ。そしてわれわれは、金が全てでないことを、それでも世界に希望があることを知っている。われわれがこうむる打撃には、前進する途は見えないかもしれない。だが、われわれのどうしようもなさに、われわれは自らの強さを感じるのだ。
サブから何か書いてくれという依頼を受けてから、すでに一月経過してしまった。仕事の圧迫、勿論、諸々の災害を起こし、世界の破壊を駆動しているのと同じ圧迫のせいである。しかしそこにはどうしようもなさの気持ちもあった。わたしには何も言えないという気持ちがあった。だがそれでも、ある場合には、それを言うことが大切だと思う。この言葉が失敗するにせよ、われわれは皆さんと共にある。
2011年 4月15日
ジョン•ホロウェイ
ホロウェイ論
ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』を読む その1
▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 23 日 四茂野 修
はじめに
ジョン・ホロウェイが書いた『権力を取らずに世界を変える』という本の内容を紹介していきます。大窪一志さんといっしょに訳してこの春、同時代社から出した本です。
○20世紀の苦い現実
メキシコ南東部チアパス州ラカンドンのジャングルからさまざまなメッセージを世界に発信してきたサパティスタのモットーに「道をたずねながら、われわれは歩く」というのがあります。ジョン・ホロウェイはこれを「道をたずねるのは道を知らないからだけではなく、道をたずねること自体が革命のプロセスの一環だからでもある」(414頁)と解説します。そういえば宮沢賢治もかつて「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」(「農民芸術概論綱要」)と書いていました。
なんだ、あたりまえのことじゃないかと思われるかもしれませんが、20世紀に革命をめざした人たちの間では、それは決してあたりまえでなかったのです。彼らから見ると道はすでに確固として存在していました。幸福な未来に到達できる道を自分たちはとうとう見つけたと深く信じていました。まごまごしながら道をたずねているような人は、まだ自覚のできていない「遅れた大衆」と見なされたのです。やがて誰が見つけた道が正しいかをめぐって諍いが生じ、争いが果てしなく続きました。大きな犠牲を払いながら、結局だれも幸福な未来というハッピーエンドに到達することはできませんでした。これが20世紀の苦い現実でした。
革命家たちが考えていた道には国家権力の掌握という通過点がありました。かならずそこを通らなければならない場所です。世界を変えるにはまず権力を取ることが不可欠だと、ほとんどの人が思っていたのです。選挙を通じてであろうと、労働者のゼネストや、果ては暴力によってであろうと、国家権力を握ることが世界を変えるために欠くことのできない条件だと考えられていました。『権力を取らずに世界を変える』というこの本は、まず表題からこの常識を逆なでします。なんという非常識! 暴論だ! 現実を知らないお人好しの夢物語……いろんな非難の言葉が世界中で飛び交いました。
「本当にそんなことができるのかい?」と聞かれて、ホロウェイが「実は僕にもよくわからないんだ」と答えるのを聞くと読者は「だいじょうぶかな」と思い、だんだん不安になります。そういえば、この本の末尾が、ピリオドもないまま、文の途中で途切れているのも変です。この本には正しい答を示す結論はありません。周囲の喧しい非難の声と比べて、頼りのないことこの上ありません。まったく非常識な本です。でも20世紀に革命をめざした人たちの常識に挑戦する本ですから、非常識に見えても仕方がないのです。
○「する力」と「させる力」
この世界には二種類の力があるとホロウェイは言います。「する力」と「させる力」です(これらは「パワー・トゥー」と「パワー・オーバー」という原語に大窪一志さんが苦心の末につけた訳語です)。権力にまつわる関係のなかでは「させる力」が働いています。誰かに何かをやらせる力です。やらされる方からすれば強制力です。これに対して「する力」は自分の内から発する力です。人間は「行為の社会的流れ」のなかで、相互に結びついて生きているとホロウェイは言います。家具職人が椅子をつくると、一瞬それはモノとなって行為の社会的流れから独立します。しかし、誰かがそれに座ることによって、直ちに行為の社会的流れに戻ってくるのです。この流れのなかにあるのが「する力」です。
私が子供の頃、「江戸城をつくったのは誰?」というなぞなぞがありました。相手が「太田道灌」と答えたら、「ちがうよ、大工さんがつくったんだ」とやりかえす意地悪な仕掛けになっていました。ホロウェイ流に考えると、このなぞなぞには深い意味があります。大工さんは自分の「する力」を使って立派なお城をつくったわけです。でもその後ろには太田道灌がいて「させる力」を行使していました。大工さんは自分の考えで江戸城をつくったわけではなく、命令されて仕事をしたわけです。勝手に自分の考えで設計を変えてしまったら、たぶんひどい処罰を受けてやり直しを命じられたでしょう。大工さんたちの「する力」は「させる力」の下におかれ、違うものに変えられていたのです。
権力者の「させる力」によってこれまで民衆はずいぶんとひどい目にあってきました。何度も何度も戦争に駆り出されて殺し合いをさせられました。あるときは権力者の住居や墓を作るためにさんざん働かされました。いつも重い税を取り立てられました。そして逆らう者は残虐な処罰を受けました。こうした横暴のない、人々が互いに尊重しあい、力をあわせて生きていける世の中を多くの人が夢見てきました。20世紀の革命家たちも同じような夢をもち、「させる力」をふるう権力を取り除こうとしたことは間違いありません。
ところが彼らは、上述したように国家権力を握ることを通じて、つまり「させる力」を行使することを通じて、それを成し遂げようとしたのでした。この考えは、権力の掌握に至る過程に「させる力」を引き入れることになってしまいました。党の官僚機構はピラミッド型の上下関係を通じて「させる力」を発揮しました。軍事組織ともなれば絶対的な命令と服従の関係が不可避でした。「遅れた大衆」を政治的に利用し引き回すことは当然と考えられるようになりました。打ち倒そうとした敵と同じものになることによって、運動は結局内から崩壊していきました。権力を握ったところでも権力自身が自己崩壊してしまいました。
彼らは「させる力」に依存するのと同時に、自分たちの掲げる革命の道こそ、歴史の流れに対する科学的な認識にもとづくもので、正しいものだと思い込むようになりました。ホロウェイはここに大きな問題があると言います。認識を持っている者(党)が持っていない者(大衆)を教育し指導するという関係が固定化されるのです。「させる力」の行使は正当化され、権力関係が運動のなかに持ち込まれます。ちょっと考えてみればわかることですが、現在の社会に組み込まれ歴史的な制約を受けて生きている者が、歴史の外に立って客観的な認識をすることなどできるはずがないのです。
○権力と共同体
他方、20世紀の多くの革命家が見落としていたのは、長い歴史のなかで民衆の生活に根付いてきた共同体の存在です。彼らはそれを歴史の進歩を妨げる過去の遺物として切り捨ててきました。民俗学者宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の冒頭に描かれた、対馬の寒村の寄り合いの模様には、この見方を覆すに十分な迫力があります。
〈…会場の中には板間に20人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長から話をきくと、それぞれの地域組でいろいろ話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。〉(13頁)
〈…三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。〉(16〜7頁)
サパティスタの意思決定も、きっとこれと同じようなものではないかと思います。そこには「する力」を撚りあわせる共同体の自治の営みがあります。相互扶助の精神があります。この共同体と「させる力」を行使する権力の間には常に張りつめた緊張関係があったと思います。権力が共同体の領域に介入し、自治を侵食することもあったでしょう。耐えられなくなった共同体が権力にたいして一揆を起こすこともありました。しかしどれほど抑圧的な権力の下でも、民衆はさまざまな自治の領域を生み出し、助け合って生きてきたのではないでしょうか。
ところが、権力と共同体の長い歴史に大きな変化が訪れます。市場原理が侵入することによって、共同体が内から毀れはじめました。バラバラにされた個人が貨幣を仲介に取引を行う市場の原理は相互扶助を基盤とした共同体原理を駆逐します。権力の姿も変わりました。資本家と官僚という二つの姿に分裂したのです。労働者の「する力」を使って利潤を蓄積する資本家と、その関係を維持する官僚とに権力は分岐します。この変化は数世紀にわたって進行しました。
20世紀末から世界を席巻した新自由主義は、社会のなかになお残っていた共同体の領域に最後の総攻撃を仕掛けました。サパティスタが「ヤ・バスタ(もうたくさんだ)」の叫びをあげて蜂起したのが、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効した1994年1月1日であったことは決して偶然ではありません。ついにラカンドンの密林にも市場原理が攻めよせてきたのです。彼らは共同体を守るために蜂起しました。とはいっても、メキシコ政府を倒すためではありません。それは「権力を取らずに世界を変える」蜂起でした。
今や、世界には「もうたくさんだ」の叫びが満ち溢れています。ときとしてこの叫びは、テロや衝動的な殺人など暴力的で野蛮な形で現れることもあります。ホロウェイによればそれは「現在の資本主義の展開があまりにテロルに満ちているので、それが、テロルを含んだ反撥行動を呼び起こしているのであり、あまりに非人間的なので、それが、同じように非人間的な反撥行動を呼び起こしているのです」(396頁)。もっと創造的な形をとることもあります。昨年末に日比谷公園に出現した「派遣村」は、現状を拒否するノーの叫びに発しながら、失われた共同体を再創造しようとする試みだったと見ることができます。
このノーの叫び以外に私たちの出発点はありません。だから本書は「初めに叫びがある。われわれは叫ぶ」という言葉ではじまるのです。今回、大急ぎで概観した本書の内容について、次回からいくつかポイントを絞って詳しく紹介したいと思います。
<痛いと叫ばない限り彼らは分かってくれない。痛いと分かってはいても無視する。痛い!痛い!と叫ぼう!鬼が血を啜る。バッファーは痛い!>
(アンサンジが世界に挑んだ事に関心をもってこの本を買った。まだ全部読破していないが、興味深い)
以下は彼らのコンセプトである。ジャマイカ出身のBob Marleyについての長いエッセイ(論稿)を読んだが、読み応えがあった。学生に課題として与えようかな?去年一人の学生がBob Marleyについて発表したことが頭をよぎる。このグローバルな地球で熱く非人間的(消費対象のモノ化にする)なからくりで動く資本・金融・軍事・政治圧力に反抗し闘う大勢の地球人たちの姿がこれでもか、と紹介されている!久しぶりにああ、いつまでもメソメソしてもしょうがない、このどん底から立ち上がらなければと、凡庸な大学の空気の中で、次に進むのだと意を強くした。(でも、あなたが安穏と多くの本を読み資料を逍遥し論文を書く時、バッファーの彼/彼女は身が引き裂かれる思いで本を読み明日の生活を憂えている。あなたは鬼に見え、鬼は血をすすっている。痛い!痛い!痛い!と叫ぶが鬼にその声は聞こえない)
“The New Significance” was set up to explore possibilities for revolutionary change in the 21st Century. This effort rests on some underlaying propositions. For example:【私たちは、21世紀の画期的な変革(革命)を追求(探求)する】
Proposition One: The organization of society as it appears today is neither the best possible outcome of history, nor of human nature, nor of previous social struggle, nor of gods.(今日の社会は、歴史や人間性に照らしても、この間の社会的紛争(闘争)に照らしても、神々の名においても、決して最良のものではない)
Proposition Two: People have the capacity to self-consciously govern their lives and society both as individuals and collectively with others. (人々は自らの人生(生活)や社会を個人として集団の成員として意識的に決定する能力を持っている)
Proposition Three: Existing societies based on class rule, racism, sexism, or any other unjustified authoritarianism must be self-consciously transformed for a new society that is autonomous, classless, self-managing, mutually-aiding, solidaridous, diverse, and participatory across all spheres of life.
(階級(階層)、人種差別、性差別、他いかなる正義にも依拠しえない権威主義に根差した社会は、意識的に自立的で、階級のない、自己決定できる、相互に助けあえる、連帯しあえる、多様であらゆる人生の領域で自由に参加できる社会へと移行できるに違いない)
Proposition Four: Possibilities for this new society always exist, however change as social and material conditions change, and as a consequence, activate new agents for revolution. Although everyone is a potential agent of change, some lay dormant while others organize and rebel. Agents of revolutionary change are those most self-consciously seeking to change their circumstances in fundamentally defining ways as well as activate others to seek their own empowerment in concert with all.(この新しい社会が常に存在する可能性は、社会的物資的条件がたとえ変っても、その結果として革命の新たな同調者を活気づけることになる。誰でも改変(変化・革新)の主体でありえるが、ある人々は固定された状態のままに留まり他の人々は組織を作り反抗していくだろう。革命的な変化(革新)の主体はもっとも自らの置かれた環境(社会)の変化を自覚(自発)的に追求し、共通の理念を持つ者たちと協調しながら実際に活動していく)
Proposition Five: Revolution, is not the continuation of society’s defining institutions, or what is otherwise called “evolution,” but is instead the fundamental transformation — through big and small changes — of these institution’s defining roles and relationships as well as the social and material outcomes they produce.
(革命は、社会の顕著な組織の持続ではない(?)まして進化でもない。根源的な移行(改変・変換)である。大きくとも小さくとも現存する社会が産出するものあからさまな役割や関係性を含め総べてのものを網羅する)あまり訳に自信はないな?!
Each of these propositions and more will be explored in various ways through the postings on this site.
(これらの命題はこのサイトを通して多様な方法で探求されることになるだろう)
Content such as theory, commentary, and analysis — not always complementary and sometimes contradictory — will be published alongside art, journalism, audio, video, and culture generally. TNS editorials will also be written as time allows.[理論、コメント、分析など、補完(足)的ではなく時に矛盾[反論]も伴いながら芸術、ジャーナリズム、動画、一般的な文化問題と共に発信されるだろう。TNSの編集者も時により書くこともある)
The site will publish daily, hourly, and weekly — up to the minute, and by using modern technologies, up to the moment. Stay tuned…(このサイトは現代のテクノロジ―を用いて普段に発信されよう)
*********************************************
実際の論文を(日本語訳がついたのをここに紹介しますね)これはただ参照で、実際は世界で多様に不条理と闘っている方々の論文やドキュメントが紹介されている。こんなサイトを読んでばかりいると自分の本来のテーマへの取組がまったくできなくなるのも事実で、いったいお前は何をしているの?だがーー。ああ論文!宝の資料探しはどうなったの?だがーー。
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Two Letters to Japan…
April 24th, 2011 | Add a Comment
Two letters to Japan, one each from John Holloway and Marina Sitrin. Japanese translations are at the bottom.
Here is the first letter from John Holloway:
More than a month has passed since the earthquake, and the level of nuclear threat in Fukushima has just been raised. The terrible thing is that we do not want to see. Some things are so horrifying that we just want to look the other way, pretend that it did not happen. It is painful to open our eyes.
I feel a numbness when I think of what has happened and what is happening. Certainly I share the tears of anger and frustration and inspiration that Marina talks about, but there is the feeling of What can we do? Fukushima has happened and cannot be undone. But can we stop the world being turned into a series of Fukushimas? As long as money rules the world, there is probably little that can be done to stop our self-destruction. We must break the rule of money, wherever we can, whenever we can, however we can.
It seems hopeless, absurd, but then we look at the amazing work of the People’s Rescue Troops, of so many people driven simply by the necessity to help others whatever the cost to themselves. In them we see our own enormous strength, the power of the drive of solidarity, of love-trust-dignity-communism (or whatever we want to call it). And we know that money is not all, that there is still hope in the world. In our shock we may not see a way forward, but in our helplessness we sense our own strength.
Almost a month has passed since I received Sabu’s invitation to write something and I am responding only now. Pressure of work, of course, the same pressure that causes disasters and drives the world to destruction. But also the feeling of helplessness, the feeling that there was nothing I could say. Yet sometimes it is important to say that, although words fail us, we are with you.
John Holloway
15 April 2011
–
ジョン•ホロウェイからの手紙
地震からすでに一月以上が経過した。そして福島における原発の脅威のレベルは、上昇するばかりだ。ひどいことは、われわれがこの事実を見たくないということだ。ある事柄は、あまりに恐ろしいので、われわれはそれが起こっていないかのように顔をそらす。目を見開くのが、つらいのだ。
わたしは、そこで起こったことと起こりつつあることを思うと、麻痺状態におちいってしまう。確かにマリーナがいう怒りの涙と無力感と啓示を共有するのだが、「われわれに何が出来るのか?」という気持ちが存在する。福島はすでに起こってしまって、それをもとに戻すことは出来ない。だが、世界を福島の連続にすることを止めることが出来るだろうか?金が世界を支配している限り、われわれの自己破壊を止めるために為しえることはおそらくないだろう。われわれは、可能な場所で、可能な時に、可能な方法で、金の支配を破壊せねばならない。
事態に希望はなく、不条理にさえ思われるが、「人民救援隊」のように、自らを顧みず,他の人々を助ける必要にのみ動かされる多くの人々の素晴らしい行為を目の当りにする。こうした人々に、われわれはわれわれ自身のとてつもない強さ、連帯を駆動する力、愛/信頼/尊厳/共産主義(あるいはどのような呼び方でもいいが)を見いだすのだ。そしてわれわれは、金が全てでないことを、それでも世界に希望があることを知っている。われわれがこうむる打撃には、前進する途は見えないかもしれない。だが、われわれのどうしようもなさに、われわれは自らの強さを感じるのだ。
サブから何か書いてくれという依頼を受けてから、すでに一月経過してしまった。仕事の圧迫、勿論、諸々の災害を起こし、世界の破壊を駆動しているのと同じ圧迫のせいである。しかしそこにはどうしようもなさの気持ちもあった。わたしには何も言えないという気持ちがあった。だがそれでも、ある場合には、それを言うことが大切だと思う。この言葉が失敗するにせよ、われわれは皆さんと共にある。
2011年 4月15日
ジョン•ホロウェイ
ホロウェイ論
ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』を読む その1
▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 23 日 四茂野 修
はじめに
ジョン・ホロウェイが書いた『権力を取らずに世界を変える』という本の内容を紹介していきます。大窪一志さんといっしょに訳してこの春、同時代社から出した本です。
○20世紀の苦い現実
メキシコ南東部チアパス州ラカンドンのジャングルからさまざまなメッセージを世界に発信してきたサパティスタのモットーに「道をたずねながら、われわれは歩く」というのがあります。ジョン・ホロウェイはこれを「道をたずねるのは道を知らないからだけではなく、道をたずねること自体が革命のプロセスの一環だからでもある」(414頁)と解説します。そういえば宮沢賢治もかつて「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」(「農民芸術概論綱要」)と書いていました。
なんだ、あたりまえのことじゃないかと思われるかもしれませんが、20世紀に革命をめざした人たちの間では、それは決してあたりまえでなかったのです。彼らから見ると道はすでに確固として存在していました。幸福な未来に到達できる道を自分たちはとうとう見つけたと深く信じていました。まごまごしながら道をたずねているような人は、まだ自覚のできていない「遅れた大衆」と見なされたのです。やがて誰が見つけた道が正しいかをめぐって諍いが生じ、争いが果てしなく続きました。大きな犠牲を払いながら、結局だれも幸福な未来というハッピーエンドに到達することはできませんでした。これが20世紀の苦い現実でした。
革命家たちが考えていた道には国家権力の掌握という通過点がありました。かならずそこを通らなければならない場所です。世界を変えるにはまず権力を取ることが不可欠だと、ほとんどの人が思っていたのです。選挙を通じてであろうと、労働者のゼネストや、果ては暴力によってであろうと、国家権力を握ることが世界を変えるために欠くことのできない条件だと考えられていました。『権力を取らずに世界を変える』というこの本は、まず表題からこの常識を逆なでします。なんという非常識! 暴論だ! 現実を知らないお人好しの夢物語……いろんな非難の言葉が世界中で飛び交いました。
「本当にそんなことができるのかい?」と聞かれて、ホロウェイが「実は僕にもよくわからないんだ」と答えるのを聞くと読者は「だいじょうぶかな」と思い、だんだん不安になります。そういえば、この本の末尾が、ピリオドもないまま、文の途中で途切れているのも変です。この本には正しい答を示す結論はありません。周囲の喧しい非難の声と比べて、頼りのないことこの上ありません。まったく非常識な本です。でも20世紀に革命をめざした人たちの常識に挑戦する本ですから、非常識に見えても仕方がないのです。
○「する力」と「させる力」
この世界には二種類の力があるとホロウェイは言います。「する力」と「させる力」です(これらは「パワー・トゥー」と「パワー・オーバー」という原語に大窪一志さんが苦心の末につけた訳語です)。権力にまつわる関係のなかでは「させる力」が働いています。誰かに何かをやらせる力です。やらされる方からすれば強制力です。これに対して「する力」は自分の内から発する力です。人間は「行為の社会的流れ」のなかで、相互に結びついて生きているとホロウェイは言います。家具職人が椅子をつくると、一瞬それはモノとなって行為の社会的流れから独立します。しかし、誰かがそれに座ることによって、直ちに行為の社会的流れに戻ってくるのです。この流れのなかにあるのが「する力」です。
私が子供の頃、「江戸城をつくったのは誰?」というなぞなぞがありました。相手が「太田道灌」と答えたら、「ちがうよ、大工さんがつくったんだ」とやりかえす意地悪な仕掛けになっていました。ホロウェイ流に考えると、このなぞなぞには深い意味があります。大工さんは自分の「する力」を使って立派なお城をつくったわけです。でもその後ろには太田道灌がいて「させる力」を行使していました。大工さんは自分の考えで江戸城をつくったわけではなく、命令されて仕事をしたわけです。勝手に自分の考えで設計を変えてしまったら、たぶんひどい処罰を受けてやり直しを命じられたでしょう。大工さんたちの「する力」は「させる力」の下におかれ、違うものに変えられていたのです。
権力者の「させる力」によってこれまで民衆はずいぶんとひどい目にあってきました。何度も何度も戦争に駆り出されて殺し合いをさせられました。あるときは権力者の住居や墓を作るためにさんざん働かされました。いつも重い税を取り立てられました。そして逆らう者は残虐な処罰を受けました。こうした横暴のない、人々が互いに尊重しあい、力をあわせて生きていける世の中を多くの人が夢見てきました。20世紀の革命家たちも同じような夢をもち、「させる力」をふるう権力を取り除こうとしたことは間違いありません。
ところが彼らは、上述したように国家権力を握ることを通じて、つまり「させる力」を行使することを通じて、それを成し遂げようとしたのでした。この考えは、権力の掌握に至る過程に「させる力」を引き入れることになってしまいました。党の官僚機構はピラミッド型の上下関係を通じて「させる力」を発揮しました。軍事組織ともなれば絶対的な命令と服従の関係が不可避でした。「遅れた大衆」を政治的に利用し引き回すことは当然と考えられるようになりました。打ち倒そうとした敵と同じものになることによって、運動は結局内から崩壊していきました。権力を握ったところでも権力自身が自己崩壊してしまいました。
彼らは「させる力」に依存するのと同時に、自分たちの掲げる革命の道こそ、歴史の流れに対する科学的な認識にもとづくもので、正しいものだと思い込むようになりました。ホロウェイはここに大きな問題があると言います。認識を持っている者(党)が持っていない者(大衆)を教育し指導するという関係が固定化されるのです。「させる力」の行使は正当化され、権力関係が運動のなかに持ち込まれます。ちょっと考えてみればわかることですが、現在の社会に組み込まれ歴史的な制約を受けて生きている者が、歴史の外に立って客観的な認識をすることなどできるはずがないのです。
○権力と共同体
他方、20世紀の多くの革命家が見落としていたのは、長い歴史のなかで民衆の生活に根付いてきた共同体の存在です。彼らはそれを歴史の進歩を妨げる過去の遺物として切り捨ててきました。民俗学者宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の冒頭に描かれた、対馬の寒村の寄り合いの模様には、この見方を覆すに十分な迫力があります。
〈…会場の中には板間に20人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長から話をきくと、それぞれの地域組でいろいろ話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。〉(13頁)
〈…三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。〉(16〜7頁)
サパティスタの意思決定も、きっとこれと同じようなものではないかと思います。そこには「する力」を撚りあわせる共同体の自治の営みがあります。相互扶助の精神があります。この共同体と「させる力」を行使する権力の間には常に張りつめた緊張関係があったと思います。権力が共同体の領域に介入し、自治を侵食することもあったでしょう。耐えられなくなった共同体が権力にたいして一揆を起こすこともありました。しかしどれほど抑圧的な権力の下でも、民衆はさまざまな自治の領域を生み出し、助け合って生きてきたのではないでしょうか。
ところが、権力と共同体の長い歴史に大きな変化が訪れます。市場原理が侵入することによって、共同体が内から毀れはじめました。バラバラにされた個人が貨幣を仲介に取引を行う市場の原理は相互扶助を基盤とした共同体原理を駆逐します。権力の姿も変わりました。資本家と官僚という二つの姿に分裂したのです。労働者の「する力」を使って利潤を蓄積する資本家と、その関係を維持する官僚とに権力は分岐します。この変化は数世紀にわたって進行しました。
20世紀末から世界を席巻した新自由主義は、社会のなかになお残っていた共同体の領域に最後の総攻撃を仕掛けました。サパティスタが「ヤ・バスタ(もうたくさんだ)」の叫びをあげて蜂起したのが、北米自由貿易協定(NAFTA)の発効した1994年1月1日であったことは決して偶然ではありません。ついにラカンドンの密林にも市場原理が攻めよせてきたのです。彼らは共同体を守るために蜂起しました。とはいっても、メキシコ政府を倒すためではありません。それは「権力を取らずに世界を変える」蜂起でした。
今や、世界には「もうたくさんだ」の叫びが満ち溢れています。ときとしてこの叫びは、テロや衝動的な殺人など暴力的で野蛮な形で現れることもあります。ホロウェイによればそれは「現在の資本主義の展開があまりにテロルに満ちているので、それが、テロルを含んだ反撥行動を呼び起こしているのであり、あまりに非人間的なので、それが、同じように非人間的な反撥行動を呼び起こしているのです」(396頁)。もっと創造的な形をとることもあります。昨年末に日比谷公園に出現した「派遣村」は、現状を拒否するノーの叫びに発しながら、失われた共同体を再創造しようとする試みだったと見ることができます。
このノーの叫び以外に私たちの出発点はありません。だから本書は「初めに叫びがある。われわれは叫ぶ」という言葉ではじまるのです。今回、大急ぎで概観した本書の内容について、次回からいくつかポイントを絞って詳しく紹介したいと思います。
<痛いと叫ばない限り彼らは分かってくれない。痛いと分かってはいても無視する。痛い!痛い!と叫ぼう!鬼が血を啜る。バッファーは痛い!>
(アンサンジが世界に挑んだ事に関心をもってこの本を買った。まだ全部読破していないが、興味深い)