Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

涼しげなお菓子

2008年06月11日 | 家・わたくしごと
 かみさんが、数日前から、私が京都みやげで買ってきた緑寿庵清水の金平糖をガラスのふた付きの透明な器に入れて、食卓机の中央に置いている。巨峰味の紫の金平糖と林檎味の白い金平糖が、交じり合う配色は透明な器の外から眺めるだけでも美しい。
 「透明さ」というのはなぜ涼しく感じるのだろう?最近、私のゼミの学生が風鈴はなぜ涼しいのか、ということをテーマに論文を書いたが、江戸時代につくられるようになった「ガラス」と関係があるらしい。今でも江戸風鈴は確かにガラスで作られる。風鈴の音そのものが涼しく感じられる日本の音文化は、日本人にもともとそなわっていたものではなく、何らかの要因によって作り出されたものだろう。
 ガラスの器に入った金平糖は決して、そのものがアイスクリームのように冷たい食べ物ではない。どちらかというと、舐めるものではなく強く噛むもので「力」が必要だし、それらは直接「涼しさ」に結びつくことはない。しかしガラスの器に入っているだけで、金平糖の不思議な形は、小さくかわいい氷のようなイメージを作り出し、心理的に涼しさを感じさせてしまうのだ。うっとうしい梅雨の季節に、こうして金平糖が置かれるだけで、そして一つ二つ摘むだけで、心も体もクールダウンしたような不思議な錯覚に陥る・・・。器の大切さをしみじみ感じる。


ラグタイムと楽譜

2008年06月10日 | CD・DVD・カセット・レコード
 「ラグタイムはジャズの源流であるが、ジャズではない」というくだりは、たいていのジャズの概説書に書かれている。その理由は、「楽譜」の存在で、しかもそれが表音譜であり、基本的にはアドリブではなく楽譜通りに弾くからである。(と書かれた本を読んだことを記憶している。)
 確かに、CDショップのクラシックコーナーに置かれたスコット・ジョップリンのラグタイムなどは、演奏者によって速度の違いはあるものの整然と楽譜通りに演奏されている。その点では、まさにこれはクラシックのピアノ音楽である。しかし、私は数年前にジョップリン自身の演奏を記録したピアノ・ロールによる演奏を聴いた時、作曲者自身の演奏は楽譜通りではなかったことに驚いた。そしてその演奏は、私にはとても新鮮に聞こえた。
 ラグはアドリブを許さないのか?それともラグを楽譜通りに弾かなければ、それはもうラグではなく、「ラグもどき」なんだろうか?たとえば、ジェリー・ロール・モートンがアメリカの議会図書館に残したジョップリンのラグの録音を聞くと、もう、それはリズムもスイングしてしまって、ラグの規則正しいリズムが聞かれず、すでにラグというよりジャズに近い。そう考えるとラグの楽譜は規範的楽譜に過ぎないような気もする。ようするに出版された楽譜をもとに「あなたのセンス」で演奏してもいいよ、という楽譜であり、奏でられる音楽は出版された楽譜に示された音とは異なるのである。
 最近Ragtime Piano RevivalというフォークウエイズのCD(もとは1983年に出されたレコード)を買った。収録されているのはほとんどラグの名曲ばかりである。1940年代から1950年代にアメリカでリバイバルして45回転レコードに録音されたラグを集めた音盤なのだが、この演奏は、出版譜と相当な距離を感じるのだ。しかしその距離は音楽が時代とともに生き続けている証拠でもある。つまりラグは、表音譜であっても楽譜が絶対的な価値をもたない音楽だ。たぶん私がこの音楽に魅かれるのはそんなアバウトさなんだろうと思う。


沖縄とバリ

2008年06月08日 | 
 今日は一日読書三昧だった。原稿の締め切りが目前に迫っていない休日の極めて理想的な過ごし方である。今日、読み終えた本の一冊に坂野徳隆『サムライ、バリに殉ず――インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録』(講談社、2008)がある。
 この本は、先月、神保町のアジア文庫を覗いたとき、インドネシア・コーナーに平積みにされていた本で、沖縄に戻ってから思い出して購入したものである。きちんと内容を見ることもなく、タイトルから「サムライ」と「バリに殉ず」という言葉から、バリと関わった三浦襄という有名な日本人についてかかれた本だとばかり思っていたのだが、実は、太平洋戦争後のオランダとの独立戦争に参加した平良定三という日本人の話であった。
 私は、バリに留学した1986年以前から、太平洋戦争以前にバリ島と関わった日本人に興味をもち、たまたま祖父の親友の一人が戦争中軍属で三井農林の社員としてバリに滞在していたことから、わざわざ神戸にまでその人に会いに行ったほどだった。この人は藤岡保夫といってすでに故人となったが、三浦襄が自決する直前までそばにいて、三浦の腕時計を形見として受け取った人物である。その時は、祖父の友人がバリと繋がっていて、戦後はバリの研究をしていたことに驚いた。なんとなく私がバリの音楽を学ぶことに宿命的なものすら感じたのだった。
 さて、今日、読んだ本に戻ろう。この本に描かれている平良定三(故人)を私は、留学中に一度だけデンパサールの寺院の儀礼の中で遠目に見たことがある。私の周辺のバリ人の誰もが、「彼は日本人としてバリのために戦った英雄なのだ。」と私に説明した。本名がTAIRAでありながら、Nyoman Bulelengというバリ名をもつこともその時に教えられた。しかし当時の私は、TAIRAと聞けば、歴史で学んだ「平」だと思い、その後、ずっとそのように信じてやまなかった。
 本を読んでわかったことだが、TAIRAは「平」ではなく、沖縄に多い名字の一つ「平良」であり、宮古出身の日本人だったのだ。つまり沖縄県人が太平洋戦争後、バリに残り、大勢の日本人たちとインドネシア独立戦争に参加し、その中でただ一人生き残っていたのである。文化の中だけでなく、歴史の中でもバリと沖縄が結びついたのだ。こじつけなのかもしれないが、やはり私が今、沖縄でバリの音楽を研究し、ガムラン音楽を指導していることに運命的なものを感じる。偶然、私はここにいるのではない。目には見えない力が私をここに呼び寄せたに違いない。


DFS沖縄

2008年06月07日 | 那覇、沖縄
 DFS=DUTY FREE SHOPPERSは世界展開する大型免税品店チェーンで、日本であるはずの沖縄にもこの免税品店が那覇市内と空港にあって、いつも観光客で賑わっている。そんなDFSのあるモノレールの駅に息子と二人で降りて、観光客であふれる店に入ってみた。といっても通過したというのが正確な表現である。沖縄は沖縄振興特別措置法によって特定免税店制度が認められ、日本にもかかわらず、ブランド品の多くが外国と同様に免税価格で買い物ができるわけである。といっても沖縄に住んでいるからといって利用できるわけではなく、本土行の航空券を持っている場合のみである。しかも品物は空港で受け取る仕組みである。
 バリにも同じDFSがある。買い物をしたことはないが、ここまでホテルからメーターのタクシーに乗ると、DFSが支払ってくれるために、DFSの隣にあるスーパーマーケットに行くために頻繁にバリでもその店内を通過している。それにしても免税品店というのはどうして同じようなにおいがするのだろう。息子が歩きながら、関西空港の国際線のにおいがすると言っていたがまさにその通りである。
 日本の中にあるこの免税品店には、本当に買い物をする観光客が多いのには驚く。しかしこれも沖縄の観光の姿である。かつて「アメリカ」だった沖縄に、日本からたくさんの観光客が買い物にやってきたという。今は、内地から日本人たちがDFSに免税品店を買い求めるために訪れ、海外からは、大型スーパーマーケットで買える日本製品を求めて大勢の台湾人観光客が沖縄を訪れる。結局、沖縄が舶来製品の買い物をするための観光地であることは昔も今も変わらない。


念願のチャロナラン劇

2008年06月06日 | 家・わたくしごと
 バリ島の芸能の一つにチャロナランとよばれるものがある。チャロナランという黒魔術と関わる物語をガムランの伴奏で上演する劇で、バリでは夜10時くらいからはじまり、遅いと夜2時くらいまで休憩なく続く。大抵は死の寺とよばれる寺院の中庭で行われ、例外なくどの村で上演する場合も数百人の観客で会場はびっしりと埋まる。夜12時を過ぎる頃ランダとよばれる魔女が登場し、終盤にはそのランダと聖獣バロンの戦いになり、最後は大勢の観客がトランスに入り、何がなんだかわからない状態で終演するのが常である。
 この演劇をバリで最初にみたのはスミニャックという当時は観光とは無縁な漁村の寺院で、今から20数年前のことである。今では観光地になってしまったスミニャック村のどの寺院でみたのかを思い出すことができない。この演劇を見た時のとてつもない衝撃は今もなお記憶に残るのだが、私はこの時以降、ぼんやりとであるが、いつかこの劇を日本でやりたいと思った。もちろんその時代、やっとバリのガムラン・グループが日本でただ一つ、東京で活動を始めた頃で夢のまた夢の話。それでも、バリでチャロナラン劇を見るたびにそんな思いは募った。
 沖縄に赴任した時、ここにはバリのガムランは全く無かった。しかしいつかはここでチャロナランをやるんだ、というある種の決意を持ってガムランを揃え、教えてきた。そうして8年が経ち、やっとチャロナラン劇が沖縄で具体化する。念願がかなうのだ。しかもバリの舞踊家たちとともに舞台にあがることができる。
 念願が叶うという喜びと同時に、これが終ると私は演奏者として何を次の目標にすべきなのかという出口のない迷路の中をさまよう恐怖にも慄いている。そんな時、「お前は、研究者なんだろう?いつからガムランの演奏家になっちまったんだい?」という声がどこからともなく聞こえてくる。僕はとっさに「愚問だね。俺はアーティストなんだよ。ちょっと立ち止まっているだけさ。」と呟く。


おみやげで買った「らくがん」

2008年06月05日 | 
 包みをはずしてふたを開けた瞬間、ガムランのメンバーたちから「わっー」と簡単の溜息が漏れる。私が京都から買ってきたお土産を、メンバーたちが練習の休憩時間にあけたのだった。そんな声を聞いて私は急いでお菓子を囲んだメンバーたちの輪に戻った。
 「ほぉー・・・」確かに私もちょっぴり驚いた。とにかく淡い赤、白、青、緑の形、配色のバランスが素敵なのだ。そんな感動はちょっと高級な洋菓子店で出される皿に美しくソースで円を描いたようなケーキを見るのとはまた違ったものだ。これが和菓子の美しさなのだと感嘆する。「ちょっと待ってね。食べちゃだめだよ」と私は言ってカバンからいつも持参しているデジカメを取り出して一枚撮影。撮影が終わるやいなや、あっという間にあちこちからお菓子の箱に手が伸びる。
 正直いって、私は個人的に干菓子が好きというわけではなく、どちらかといえば洋菓子派である。しかしせっかく京都にいったのだから和菓子にしようと買ったのが京都の老舗の「らくがん」だった。「先生も食べてみてください」と言われて、緑の葉の形をした「らくがん」を舌の上にのせると、すっと溶けていった。淡い甘さが口いっぱいに広がった。見て楽しんで、味わって楽しむお菓子。和菓子がそういうものだと頭でわかってはいたものの、自分の買ってきたお土産から、そんな当たり前なことを実感する。


立て看板から見えること

2008年06月04日 | 
 京都大学正門の近くで、大きな看板に目を止めた。黒字のベニアの中央に白字で大きく「京大らしさとは?」と書かれている。東大、京大といえば、かつての大学紛争のメッカであり、やはり私のような世代の人間にとって「立看文字」が身近なのだが、「京大らしさとは?」と書かれた文字は、「立看文字」の名残は微塵もなく、もう「かわいい」といっても過言ではない看板である。時代は変わっている。しかし私の興味はそんな看板の文字ではなく、内容である。学生たちが自ら作成した看板で「京大らしさ?」を模索している看板だからである。
 どこの大学も今、21世紀における大学サバイバル時代の中で、自らの大学の「らしさ」の模索に苦しんでいる。いくつかの大学はすでにその方向を明確に定め、ひらすら突っ走っているのだろうが、たぶん大多数は今なお学内で議論を続けているのだと思う。そして、私のいる大学も来年の法人化に向けて、そんな議論の真っ最中である。もちろん私のような「小者(物)」はそんな議論の場からははるか遠方にいるが。
 大学の経営者や教員が大学の将来を考えるのは、珍しいことではないのだろう。珍しいというよりも当たり前のことなのかもしれない。しかし、この看板は学生会が立てたものなのだ。しかも黒字に白文字である。これはいったい何を意味するのだろう。ただ単に目立つようにしたのか、それとも学生なりに黒白を用いることでメッセージ性を包含させたのだろうか?どちらにしても、正門から出入りする学生や教職員に対して、自らの大学らしさとは何なのか、ということを毎日問いかけ続けている看板の効力は大きい。
 学会などでさまざまな大学の状況を聞いていると、経営者や一部の教員たちは自らの都合と理論や権力闘争によって、時には学生の存在を忘れて議論を進めてしまうことがあるという。しかし、この看板の発信元は「学生たち」なのだ。私はこの看板を見て襟を正す。これはきっと私のために作られた看板なのかもしれないと。そう思って看板をみると、看板の「京大」の文字が、自分の大学にすり替わって見えてくる。


いいじゃないですか?神戸空港

2008年06月03日 | 
 日曜日のうちに沖縄に戻らないと、月曜日の朝の授業に間に合わないので、神戸空港から出る最終の沖縄便に搭乗することにする。京都に持ってきた仕事も完全に終わっていなかったため、空港のラウンジで仕事をしてしまおうと、出発の1時間ほど前に神戸空港に着いた。コンビニでパンを買って、すぐに荷物のセキュリティーチェックを受けた。
「あの、JALのラウンジはどちらでしょうか」と聞く。なんといっても、この空港は降機するだけで、ここから搭乗するのは初めてなのである。空港の職員はちょっとびっくりしたように、「この空港はラウンジがないんですよ」と答えた。「えっ?ないんですか?」再度質問をしてしまう。「そうなんです。」とクールに答える。そりゃ、空港職員に責任はない。
 驚愕!である。この新しい神戸空港にはラウンジがない!しかしここで何かを言っても解決するわけではない。仕事の予定が狂ってしまうことの方にイラついてしまう。あきらめて通過したセキュリティーから再度外に出て、コーヒーショップを探すことにして、上階にある小さなレストラン街に行ってみる。大きな机のある喫茶店を見つけて入ろうとしたとき、すぐ近くに「デッキ見学入口」という階段が見えた。なぜだか、ふらふらっとそちらに足が向いた。イライライしたときは、自然に身体が外の空気を欲するのだろう。
 外の階段に出ると、海の香りでいっぱいである。胸いっぱいにそんな新鮮な香りを吸い込む。そしてデッキに上ると、涼しい海風が感じられる。いい気分だ。遠くにJTAの機影が見えてくる。たぶん私が乗って帰る飛行機が着陸するのだ。あわてて、格子状の鉄製の網のすぐ前に立って機影を追いかけた。すごいエンジン音で着陸するJTA機。今度は、飛行機がゆっくり入ってくるゲートのそばまで小走りで急ぐ・・・。デッキにいた数人の子どもたちも私と一緒に移動だ。
 そんなことに夢中になっているうち、ラウンジのことや、仕事のことなんてどうでもよくなってしまった。これって、もしかして神戸空港の戦略に嵌ってしまったわけ?それにしても神戸空港、いいじゃないですか。もしラウンジ作れ!なんて声があっても、どうか無視してくださいますように。どうせならデッキをオープンカフェにしちゃいましょう。


記念碑

2008年06月02日 | 
 中学生の頃、幕末史に夢中になって友人三人と京都に旅をした。ちょうど祇園祭の季節で、コンチキチンの音が三条あたりにあった和風のユースホステルの部屋にもよく聞こえていた記憶がある。当時は冷房なんて入っていなかったし、さぞかし暑かったと思うのだが、暑さの記憶ではなく、音の記憶の方が今なお鮮明である。
 このとき、私たちがまわったのは幕末史とかかわる寺社仏閣ばかりでなく、幕末史に事件が起きた場所に建てられた石碑だった。たとえば、新撰組の屯所跡だとか、大村益次郎が襲撃された場所だとか、そんな石碑の場所に行っては石碑をながめ、その周辺の風景を満喫し、最後に写真に収めた。それで目的は、十分達成されたのだった。
 歴史的事件の石碑を見る、その周辺の景色を見るということは、歴史を学ぶことにとってどれだけ重要なのだろうか?文化人類学や民族音楽学を研究する私の分野のフィールドワークと、石碑が建つ場所にいくことは、少々、状況が異なっている。文化人類学も民族音楽学も、そこでは基本的には現在に生きる「人」と対峙する。しかし石碑も風景も、「人」ではない。歴史研究とフィールドワークが結びつかないのはそんな所以か?
 しかし、私は歴史もその現場に足を運んでみる必要性を漠然と感じるのだ。その風景を自身が感じることは研究そのものではないにしても、そこから見える川や山を、「あの時代」の人々もきっと見ていたのだ。その光景をその場に立つ自分が、時代を超えて歴史に生きる人々と共有できるのだから。そんな経験や体験は歴史学とは無縁なんだろうか?そんなことを思いながら、私は、空き家になったビルの前に建つ池田屋事件の石碑の正面に立ってそれをぼんやりと眺めた。


学会の魔力

2008年06月01日 | 
 大学院生だった頃、ある著名な学者がわれわれ学生にこういったことを今でも覚えている。
「学会の全国大会にはぜひ行った方がいい。そしてできるならばぜひ発表しなさい。ただ、せいぜい15分程度の発表なのですから、自分のどんな研究をしているかを他の先生たちに知ってもらう場所だと思ってください。学会は勉強したり、研究したりする場というよりも、人脈を作る場です。」
学会発表なんていうと、きわめてアカデミックな響きがしたものだが、「人脈作り」なんて生臭い話になって、私は少々がっかりした記憶がある。
 今、学者になってみて、そういう考え方が学会参加にあることは否定しない。若い研究者たちはパーティーで自分の名刺や抜刷りをもって、大先輩の先生方に挨拶をする光景なんて珍しくはない。また発表するのも確かに自分の「宣伝」になることは疑いない。当然、その発表が優れた内容であればの話であるが・・・。(とんでもない発表であれば、それはそれで「宣伝」になるだろう。)
 しかし私は自分の学生には、以前私が聞かされた理由とは別の理由から学会にいくことを勧めるだろう。学会は「刺激の場」である。さまざまな見方、さまざまな理論がその発表の中に溢れている。研究フィールドが同じである必要などはまったくない。自分の学ぶ大学では刺激にも限界がある。だからこそ学会に行かなくてはならないのだ。私はこの二日間で、大盛りの刺激を受けて、今はもう一分でも早く、研究室の椅子に座って文献に向かい合いたい願望に溢れている。私にとって学会は、人脈よりは、学問的知識の源泉である。そして学者である間は、この先もずっとそうでありたいと思っている。