Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

記念碑

2008年06月02日 | 
 中学生の頃、幕末史に夢中になって友人三人と京都に旅をした。ちょうど祇園祭の季節で、コンチキチンの音が三条あたりにあった和風のユースホステルの部屋にもよく聞こえていた記憶がある。当時は冷房なんて入っていなかったし、さぞかし暑かったと思うのだが、暑さの記憶ではなく、音の記憶の方が今なお鮮明である。
 このとき、私たちがまわったのは幕末史とかかわる寺社仏閣ばかりでなく、幕末史に事件が起きた場所に建てられた石碑だった。たとえば、新撰組の屯所跡だとか、大村益次郎が襲撃された場所だとか、そんな石碑の場所に行っては石碑をながめ、その周辺の風景を満喫し、最後に写真に収めた。それで目的は、十分達成されたのだった。
 歴史的事件の石碑を見る、その周辺の景色を見るということは、歴史を学ぶことにとってどれだけ重要なのだろうか?文化人類学や民族音楽学を研究する私の分野のフィールドワークと、石碑が建つ場所にいくことは、少々、状況が異なっている。文化人類学も民族音楽学も、そこでは基本的には現在に生きる「人」と対峙する。しかし石碑も風景も、「人」ではない。歴史研究とフィールドワークが結びつかないのはそんな所以か?
 しかし、私は歴史もその現場に足を運んでみる必要性を漠然と感じるのだ。その風景を自身が感じることは研究そのものではないにしても、そこから見える川や山を、「あの時代」の人々もきっと見ていたのだ。その光景をその場に立つ自分が、時代を超えて歴史に生きる人々と共有できるのだから。そんな経験や体験は歴史学とは無縁なんだろうか?そんなことを思いながら、私は、空き家になったビルの前に建つ池田屋事件の石碑の正面に立ってそれをぼんやりと眺めた。