京都大学正門の近くで、大きな看板に目を止めた。黒字のベニアの中央に白字で大きく「京大らしさとは?」と書かれている。東大、京大といえば、かつての大学紛争のメッカであり、やはり私のような世代の人間にとって「立看文字」が身近なのだが、「京大らしさとは?」と書かれた文字は、「立看文字」の名残は微塵もなく、もう「かわいい」といっても過言ではない看板である。時代は変わっている。しかし私の興味はそんな看板の文字ではなく、内容である。学生たちが自ら作成した看板で「京大らしさ?」を模索している看板だからである。
どこの大学も今、21世紀における大学サバイバル時代の中で、自らの大学の「らしさ」の模索に苦しんでいる。いくつかの大学はすでにその方向を明確に定め、ひらすら突っ走っているのだろうが、たぶん大多数は今なお学内で議論を続けているのだと思う。そして、私のいる大学も来年の法人化に向けて、そんな議論の真っ最中である。もちろん私のような「小者(物)」はそんな議論の場からははるか遠方にいるが。
大学の経営者や教員が大学の将来を考えるのは、珍しいことではないのだろう。珍しいというよりも当たり前のことなのかもしれない。しかし、この看板は学生会が立てたものなのだ。しかも黒字に白文字である。これはいったい何を意味するのだろう。ただ単に目立つようにしたのか、それとも学生なりに黒白を用いることでメッセージ性を包含させたのだろうか?どちらにしても、正門から出入りする学生や教職員に対して、自らの大学らしさとは何なのか、ということを毎日問いかけ続けている看板の効力は大きい。
学会などでさまざまな大学の状況を聞いていると、経営者や一部の教員たちは自らの都合と理論や権力闘争によって、時には学生の存在を忘れて議論を進めてしまうことがあるという。しかし、この看板の発信元は「学生たち」なのだ。私はこの看板を見て襟を正す。これはきっと私のために作られた看板なのかもしれないと。そう思って看板をみると、看板の「京大」の文字が、自分の大学にすり替わって見えてくる。
どこの大学も今、21世紀における大学サバイバル時代の中で、自らの大学の「らしさ」の模索に苦しんでいる。いくつかの大学はすでにその方向を明確に定め、ひらすら突っ走っているのだろうが、たぶん大多数は今なお学内で議論を続けているのだと思う。そして、私のいる大学も来年の法人化に向けて、そんな議論の真っ最中である。もちろん私のような「小者(物)」はそんな議論の場からははるか遠方にいるが。
大学の経営者や教員が大学の将来を考えるのは、珍しいことではないのだろう。珍しいというよりも当たり前のことなのかもしれない。しかし、この看板は学生会が立てたものなのだ。しかも黒字に白文字である。これはいったい何を意味するのだろう。ただ単に目立つようにしたのか、それとも学生なりに黒白を用いることでメッセージ性を包含させたのだろうか?どちらにしても、正門から出入りする学生や教職員に対して、自らの大学らしさとは何なのか、ということを毎日問いかけ続けている看板の効力は大きい。
学会などでさまざまな大学の状況を聞いていると、経営者や一部の教員たちは自らの都合と理論や権力闘争によって、時には学生の存在を忘れて議論を進めてしまうことがあるという。しかし、この看板の発信元は「学生たち」なのだ。私はこの看板を見て襟を正す。これはきっと私のために作られた看板なのかもしれないと。そう思って看板をみると、看板の「京大」の文字が、自分の大学にすり替わって見えてくる。