Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

沖縄とバリ

2008年06月08日 | 
 今日は一日読書三昧だった。原稿の締め切りが目前に迫っていない休日の極めて理想的な過ごし方である。今日、読み終えた本の一冊に坂野徳隆『サムライ、バリに殉ず――インドネシア独立戦争の英雄になった旧日本兵の記録』(講談社、2008)がある。
 この本は、先月、神保町のアジア文庫を覗いたとき、インドネシア・コーナーに平積みにされていた本で、沖縄に戻ってから思い出して購入したものである。きちんと内容を見ることもなく、タイトルから「サムライ」と「バリに殉ず」という言葉から、バリと関わった三浦襄という有名な日本人についてかかれた本だとばかり思っていたのだが、実は、太平洋戦争後のオランダとの独立戦争に参加した平良定三という日本人の話であった。
 私は、バリに留学した1986年以前から、太平洋戦争以前にバリ島と関わった日本人に興味をもち、たまたま祖父の親友の一人が戦争中軍属で三井農林の社員としてバリに滞在していたことから、わざわざ神戸にまでその人に会いに行ったほどだった。この人は藤岡保夫といってすでに故人となったが、三浦襄が自決する直前までそばにいて、三浦の腕時計を形見として受け取った人物である。その時は、祖父の友人がバリと繋がっていて、戦後はバリの研究をしていたことに驚いた。なんとなく私がバリの音楽を学ぶことに宿命的なものすら感じたのだった。
 さて、今日、読んだ本に戻ろう。この本に描かれている平良定三(故人)を私は、留学中に一度だけデンパサールの寺院の儀礼の中で遠目に見たことがある。私の周辺のバリ人の誰もが、「彼は日本人としてバリのために戦った英雄なのだ。」と私に説明した。本名がTAIRAでありながら、Nyoman Bulelengというバリ名をもつこともその時に教えられた。しかし当時の私は、TAIRAと聞けば、歴史で学んだ「平」だと思い、その後、ずっとそのように信じてやまなかった。
 本を読んでわかったことだが、TAIRAは「平」ではなく、沖縄に多い名字の一つ「平良」であり、宮古出身の日本人だったのだ。つまり沖縄県人が太平洋戦争後、バリに残り、大勢の日本人たちとインドネシア独立戦争に参加し、その中でただ一人生き残っていたのである。文化の中だけでなく、歴史の中でもバリと沖縄が結びついたのだ。こじつけなのかもしれないが、やはり私が今、沖縄でバリの音楽を研究し、ガムラン音楽を指導していることに運命的なものを感じる。偶然、私はここにいるのではない。目には見えない力が私をここに呼び寄せたに違いない。