桜井から奈良へ向かうJR桜井線沿線には、各駅毎に時空トラベラー御用達の史跡や遺跡があり、一駅一駅、毎週末に廻ってもなかなか制覇出来ない。ぼちぼち踏破するつもりだが....
今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。
まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....
中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。
ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。
一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?
早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。
話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。
遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。
この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。
遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。
唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。周辺は開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯であり瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。
この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。しかも弥生時代から平安時代まで続いた大型集落であったようだ。
帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。
しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。
<embed type="application/x-shockwave-flash" src="http://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=http%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2Ftatsuokawasaki%2Falbumid%2F5380919855164882785%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。
まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....
中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。
ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。
一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?
早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。
話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。
遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。
この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。
遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。
唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。周辺は開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯であり瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。
この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。しかも弥生時代から平安時代まで続いた大型集落であったようだ。
帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。
しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。
<embed type="application/x-shockwave-flash" src="http://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=http%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2Ftatsuokawasaki%2Falbumid%2F5380919855164882785%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
古代史ガイドの仕事も出来そうですねー。