時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(3)長谷寺、室生寺、大神神社

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 

 奈良市内を離れ、三輪山の麓から初瀬街道にそって長谷寺、室生寺へと歩を進める。ヤマト王権の発祥の地である三輪山山麓。奈良市内からは「山辺の道」が南に伸び、道に沿って大型古墳が並ぶ、いわゆる大ヤマト古墳群である。最近、纒向の地に東西軸で構築された3世紀のものと考えられる宮殿/神殿跡が発見された。これぞ邪馬台国女王卑弥呼の居館であると騒がれたが、まだ明確な証拠となる遺物は見つかっていない。むしろ初期ヤマト王権の拠点遺跡であろう。その三輪山から東に谷あいを進むと、初瀬街道、伊勢詣での伊勢街道へと続く。ここには観音様で有名な長谷寺、そして女人高野室生寺がある。山と谷に囲まれた隠国(こもりく)の初瀬だ。

 

(1)長谷寺

  真言宗豊山派の総本山。もとは天武天皇の病気平癒を願い、686年に初瀬山に開いた精舎(現在も本長谷寺として残されている)である。727年には聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀った。やがて西国三十三所観音霊場の根本道場となった。平安時代には長谷の観音様詣でがみやこ人の間で人気があり、初瀬街道や伊勢街道が参詣客で賑わった。いまでも初瀬街道沿いには宿屋や茶店、土産物屋が軒を連ねている。なかでも出雲人形という土人形が名物であった。京都の伏見人形とともに参詣の土産として売られていた。残念ながら現在では伝統を継ぐ職人もなく、唯一残っていた出雲人形の店も看板はあるが玄関は固く閉ざされている。代わって最近の土産物は、草餅。そして三輪そうめん。我らも、にゅうめんを食して初瀬もうでを締めくくった。

 長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれ、四季折々の花に彩られる美しい寺だ。とくに春の桜、五月の牡丹、秋の紅葉は有名。その他にも四季折々に花が咲き乱れ、いつ訪れても目を楽しませてくれる美しい寺だ。桜は今回残念ながらまだ咲いていなかったが、梅やサンシュユ、花桃、雪柳が早春の名残に咲き誇っていた。全山満開の桜の季節になると、初瀬川対岸の愛宕神社境内から眺める桜花に埋もれる長谷寺の全景が素晴らしいのだが。今回は境内は季節の端境期で訪れる人も少なく静かな佇まいである。それはそれでまた良し。

 ちょうどご本尊の十一面観音菩薩のご開帳の時期にあたった。普段は入れない内陣に入れてもらい、御像の足元に触れさせていただくことができた。身の丈が三丈三尺(約10メートル)で、近江高島の楠の霊木を彫り上げた観音様。右手に錫杖を持ち、大磐石という大きな平らな石の上に立つ独特のお姿を足元から見上げる。はるか頭上に慈愛に満ちて微笑む観世音菩薩との結縁を結ぶことができた。私のような現実的で理屈優先な人間がなぜか心洗われ世俗の憂いや煩悩から解き放たれた心持になった。

 

参考:

2012年4月18日のブログ:初瀬のお山は花盛り〜長谷寺の桜〜

2015年12月18日のブログ:初冬の大和古寺巡礼(1)長谷寺〜冬紅葉を巡る旅〜

 

名残の梅が本堂舞台を彩る

 

与喜天満宮から初瀬街道を望む

 

西国三十三ヶ所巡りのお遍路さん

 

 

参道の梅

 

登廊

 

桃とサンシュユ

 

桃が盛りだ

 

さんしゅゆ

 

お遍路さんご一行さま

舞台

 

内陣から舞台を望む

 

善男善女の参拝が続く

 

桜が咲き始めた

 

サンシュユの大木がみごと!

 

 

(2)室生寺

 室生寺のあるここ室生の地は、太古の室生火山群が形成する深山幽谷の地、神々の坐す聖地として仏教伝来以前から仰がれていた。近くには龍神信仰の聖地龍穴神社がある。奈良時代の後期に勅命により創建されたのが室生寺。山林修行の道場にして法相/真言/天台各宗兼学の寺であった。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許す真言道場であり「女人高野」と称された。大和路の寺のなかでも谷を越え山に分け入る地にある静かな聖地である。

 ここはシャクナゲで有名な寺で、金堂にいたる鎧坂の両側はその季節になると見事であるが、もちろんまだその季節ではない。里ではそろそろ蕾をつける頃だが、深山幽谷の室生寺ではまだまだだ。そしてやはり桜はまだであった。しかし、なんという静けさ。こんな春の陽光の中、鎧坂、金堂、五重塔、奥の院へ続く道、ほとんど独り占めできる嬉しさ。今回は奥の院までは行かなかったが、これから新緑の季節を迎えると、向かいの室生山の山肌が若葉で美しく輝く。いつ訪れても心洗われる聖なる場所だ。

 室生寺は大和路散策のなかでも人気の寺で、近鉄室生口大野駅から日に数本しかバス便が無いにもかかわらず、平日でも結構な数の参詣者がいる。しかし、この日はさすがにバスの客も少なくゆったりと20分のバス旅を楽しむことができた。駅近くの大野寺の枝垂れ桜が有名で、シーズンには大勢の花見客が押しかけるが、この比較的早咲きの桜さえ今年はまだ蕾であった。河岸の磨崖仏もこの日は寂しそうだ。

 こちらも、この時期、金堂の内陣が特別公開であった。普段は外の回廊から拝観するしかない。ところがちょうど諸仏のご尊顔あたりにハリが横たわっていて腰を低くして尊像を拝せざるを得ないのだが、この時は内陣ですぐ目の前に並ぶご本尊、薬師如来、土門拳の写真でも有名な十一面観音などの諸仏を拝観することができた。建物自体も平安期創建時の建物が貴重なことに残っていいて、時空を超えた曼荼羅世界に浸ることができた。

 

参考:

2016年1月21日のブログ:女人高野室生寺に雪が降った〜土門拳の世界に迫る?〜

鎧坂

 

鎧坂からみる金堂

平安時代初期(国宝)

 

今回は内陣の公開があったので

ご尊顔をゆっくり拝見できた

 

寺を守る神社

神仏習合のあらわれ

 

国宝五重塔

平安時代初期(国宝)

平成10年の台風で大きな損傷を被ったが平成12年に修復された。

 

同じく、横位置にして広がりを表現してみた

 

 

ここにも名残梅

 

 

(3)大神神社

 最後に、三輪山を御神体とする大神神社へ。神奈備型の美しく神聖な三輪山は大和の風景のシンボルであり、ヤマト王権発祥の地にふさわしい聖山である。そもそも大神神社の御祭神は大物主神。出雲の杵築大社(出雲大社)の御祭神、大国主命の別神とされており、「国譲り神話」という、ヤマトと出雲のつながりを暗示する記紀神話ストーリーの舞台である。また蛇が神の化身と言われ、大杉のウロに住み着いているという。参拝者は卵を御供物として献納する。記紀神話ではヤマトトトヒモモソヒメとの婚姻譚、其の死後に築造されたという箸墓古墳についての伝承が伝えられている。これが中国の史書、魏志倭人伝にいう邪馬台国女王卑弥呼であり、したがって箸墓古墳が卑弥呼の墓であると結びつける説がある。これを邪馬台国近畿説の「根拠」にしている学者もいる。もとより神話と考古学と中国の文献とを結ぶ証拠はもちろんない。日本側の公式な史書である記紀には邪馬台国や卑弥呼に関する記述、言及が一切ないのである。

 しかし、三輪山が、太陽神という自然神崇拝、やがては一族の祖霊神崇拝を旨とする、列島の原始宗教形態のシンボルになっていったことは間違いない。このような神奈備型の山を天上界の神が降臨する聖山として崇め、その麓で祭祀を執り行う形態は、列島の各地にあった。のちに(6世紀の仏教伝来以降、その外来の壮麗な宗教施設である寺院建築物に影響されて)拝殿、社を設け「神社」とするようになる。やがて列島内の首長・豪族といった勢力が緩やかな統合に向かい、大和三輪山の麓(やまと)に打ち立てられた「ヤマト王権」が列島を取りまとめる中心となってゆく(その遺構が纒向遺跡であり箸墓古墳である)。そして三輪山が、いわば「聖山の中の聖山」として王権のシンボル的なステータスになってゆく。そのなかで、やがて祖霊信仰が加わってくると、三輪山に一族の祖霊神を投影するようになる。それが大物主命であり、出雲大国主命の別神であると伝承され、出雲と大和の結びつきの記憶を想起させることとなる。

  三輪山の麓からヤマト世界を展望できる場所がある。ここからはとりわけ夕日に彩られる風景が美しい。大和三山、葛城・金剛山、そして二上山が見渡せる。日の出る山、三輪山、日の没する山、二上山。太陽信仰を基本とする東西軸の宇宙観を持った倭国ヤマト世界をここに立つと体感できる。南北軸の宮殿配置、都城配置は(藤原京・藤原宮、平城京・平城宮以降の)は後に中国から伝わった思想に基づくものである。さらに6世紀になると仏教が伝わり、西方浄土という考え方が徐々に人々に受け入れられる。やがて夕日の沈む彼方の極楽浄土を憧れるようになり、二上山が聖山として崇められるようになる。

 聖山三輪山の麓が3世紀ヤマト王権発祥の地である。しかし、そのこととここが邪馬台国の所在地であったか、ということは別問題である。同じく3世紀の倭国の姿として記述される魏志倭人伝世界の邪馬台国はやはり北部九州チクシ倭国連合の中心国であったという考えに変わりはない。3世紀当時の列島各地には、大小の違い、結びつきの強弱の違いはあれ、いくつかの地域連合があったであろう。筑紫、出雲、吉備、但馬、越、尾張などの地名がそれを表している。なかでもチクシ倭国連合はその、地政学的立ち位置、奴国、伊都国時代からの大陸との交流の歴史から、中国王朝(特に漢帝国)との結びつきが強く、列島内において文化的、経済的、政治的に優位なポジションにいたことは間違いない。しかし、大陸の漢王朝が衰退し、分裂して三国時代になると、チクシ王権の盟主である邪馬台国(卑弥呼)は朝鮮半島を通じて魏朝に朝貢するが、一方で、魏と対抗する呉(現在の上海付近)王朝と通交した列島内倭国の地域王権があったかもしれない。中国においても呉や蜀の史書は失われており、残念ながらこれらの通交を記録する文献資料は見当たらないが、当時の東アジア情勢は中華王朝、朝鮮半島、倭国を巻き込んで合従連衡の中にあったと考えるべきだろう。そうしたなかで魏志倭人伝には出てこない倭国内の(列島内の)有力な倭人勢力が幾つかあったとしても不思議ではない。その一つがヤマト倭国連合であった。この初期ヤマト王権の出自についても謎が多いが、先ほどの出雲勢力との関係や、その背後にある筑紫勢力(倭国争乱で邪馬台国に敗れて東遷したチクシ勢力と考える)と無縁ではないだろう。大和盆地に自生した土着勢力とは考えにくい。

 この辺りの話はし出すとキリがないのでこのあたりにしよう。さらに興味のある方は、下記のブログをご一読あれ。 ふと我にかえり目をあげると、眼下に広がるヤマト世界を夕日が茜色に染め上げている。

 

参考:

2016年1月17日のブログ:なぜ大和三輪山には出雲の神が鎮座しているのか?

2016年10月18日のブログ:「初期ヤマト王権」とはなにか

 

大神神社拝殿

御神体はこの後ろの三輪山

 

夕日に映える表参道

 

大和の夕景

まもなく二上山に夕日が落ちる

 

真西に夕日が沈みゆく

東の三輪山、西の二上山という

東西軸の宇宙観をここに立つと体験できる

 

大鳥居と耳成山

背景に葛城山、金剛山

ヤマト世界の夕景だ。

(撮影機材:SONYαR II + EF24-240Zoom. 長谷寺金堂と大神神社拝殿はLeicaM10 + Tri-Elmar 16-18-21/4 ASPH)

 

アクセス:

長谷寺:近鉄大阪線長谷寺駅下車。徒歩20分

室生寺:近鉄大阪線室生口大野駅下車。バス20分。

大神神社:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅下車。徒歩15分。

 

 

 


春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(2)高畑町、白毫寺、新薬師寺界隈

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 奈良市内にも昔からのお屋敷街がある。高畑町界隈だ。文人墨客や財界人の住まい、別邸が軒を連ねる閑静な邸宅街だ。この辺りは、春日大社の神域の南に位置しており、かつては春日大社の禰宜、権禰宜などの神職が住まう地域であった。ちょうど京都で言えば上賀茂神社あたりの社家町ようなところだ。春日若宮から鬱蒼たる春日の森を貫く小径に「禰宜の道」と名付けられているのはこうした由来からだ。さらに東にダラダラと坂を登ると、やがて柳生街道へと続く。

 今回は、破石町バス停から、旧志賀直哉邸、白毫寺、新薬師寺、そして最後に、大和路情景写真の聖地、入江泰吉写真美術館へ、という高畑町ルートを散策した。

 

(1)旧志賀直哉邸と高畑町界隈

 志賀直哉は家族とともに京都から奈良に移り住み、昭和4年に高畑町に自宅を建てた。数奇屋造りであるが、洋風の居室も設け、当時としては斬新な邸宅であった。昭和13年までここに住み、昭和12年には長編「暗夜行路」をこの邸宅で完成させた。終戦で米軍に接収されたが、接収解除後は厚生省の職員保養所として利用された。その後取り壊して建て直す話が出たが、地元では保存運動が起こる。結局、奈良学園の理事長が、保存を目指して厚生省から買い取り、再生/修景を行い現在に至っている。取り壊されなくてよかった。ここでも篤志家が文化財を守る良きパトロンとなった。最近の金融資本主義のなれの果てのような成金はこういう文化財に対する目線が乏しい。社会に富を還元するという志が薄くなっているようだ。残念なことだ。

 

 

志賀直哉邸玄関

 

 

 

 

 

馬酔木

 

 

(2)白毫寺と五色椿

  白毫寺の五色椿。東大寺良弁堂糊こぼし椿、伝香寺もののふ椿とともに「奈良三名椿」と称されている。一本の木に白、ピンク、赤、まだらなど様々な花をつける。天然記念物に指定されている。今年は花付きが悪いそうで花の数が少ないようだがその美しさは変わらない。秋には萩寺として有名な白毫寺だが、この椿の季節がまた一段と良い。ここからの奈良市内の展望が素晴らしい。春日山、高円山の山麓に位置し、山の辺の道の北端にあたる。一度、ここから山の辺の道の全行程を踏破してみたいものだが。入江泰吉師の白毫寺界隈の写真にはのどかな田舎の風景が写し出されている。今でもその面影は残されているものの、この辺りも開発が進み、白毫寺に至るのどかな参詣道ぞいにあった風情ある古民家が取り壊され、プレハブの民間アパートやマンションに建て替わってしまっている。あたりの景観にまったく配慮しない建物だ。なぜこのようなものが建築許可を得る事ができたのか理解に苦しむ。かつての鄙びた佇まいがどんどんなくなってゆくのが悲しい。奈良白毫寺町も鄙びたまま時を過ごすのは難しいのか。なんともやるせない気持ちになる。

 

2012年3月21日のブログ:奈良三名椿を巡る

  

五色椿

 



 

 

五色椿

  

落花の舞

奈良市内の展望が素晴らしい

  

椿

 

桜が開花した

 

 

サンシュユ

 

  

(3)新薬師寺

  御本尊薬師如来、十二神将で有名な華厳宗の古刹。聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が創建したと言われるが、正史に記載がなく正確な創建の由来、年次は不明と言われている。しかし、奈良時代には南都十大寺の一つとして広大な寺域を有していたことは確かであったようだ。やがて平安期に入ると徐々に衰退していった。現在は境内もこじんまりとし、金堂も本尊の薬師如来と十二神将が鎮座する小さなお堂でしかない。同じように寺域が後世縮小してしまった元興寺も、旧僧房の一つにこじんまりと本尊を祀る寺になってしまっているが、現在の奈良町が旧元興寺境内であったことが分かっており、広大な寺域を誇っていたことを確認することができる。新薬師寺は創建時の壮麗な大伽藍を彷彿とさせるものはあまり残っていない。しかし平成20年、創建時の威容を示す遺構が、近くの奈良教育大学構内で発見された。巨大な金堂を想起させる礎石列が地中から発見された。平城京東郭にあって東大寺、元興寺、興福寺に匹敵する大伽藍であった。ちなみに新薬師寺の名は、新しい薬師寺ではなく、霊験あらたかな薬師寺という意味。

 

 学生時代に新薬師寺を訪れた時、山門の前に素焼きの土器を製作する工房があった。ここで薬師如来の土面を買ったことを覚えている。なんとも心奪われる面立ちの面であった。いまでも実家に飾られており、経年変化でさらに味わい深いお顔になっている。大阪勤務時代にここを再び訪れた時にはその工房はなくなってお土産屋兼食堂になっていた。工房を継ぐ後継者がいなかったのだろうか。門柱がわりのハニワ像がその痕跡を残していた。そして今回行ってみたら閉店の看板。その横に「売り物件」の張り紙。時の移り変わりを感じざるを得ない。

 新薬師寺のすぐ隣が「入江泰吉写真美術館」である。この道すがらの田んぼも、無くなっていて、シニア向けマンションぽい施設が立っていた。ここを人生の終着点として住む人には良い立地だろうが、鄙びた「滅びの美」を探し求めてここへたどり着いた旅人にはどうだろうか。むしろ路傍に終の住みかを見つけて「旅に死す」ほうがロマンチックだと思うのはまだ若いからだろうか。

 

新薬師寺近金堂

 

レンギョウ

  

ハクモクレン

 

馬酔木

 

入江泰吉写真美術館

  

 締めくくりに、今回の散策で出会った椿をご披露したい。白毫寺参詣を終え、坂を下りると参道に一軒の植木屋さんがあった。そこには様々な種類の椿の鉢が並べられ、どれも美しくその華麗な姿を競っていた。そのなかで、パッと目に飛び込んでくる椿の花が一輪。華麗ではあるが可憐でもあるその姿。懸命に咲き誇りこちらに手招きをしているではないか。出会いとはこういうものだ。一目で気に入り、早速求めたいと思った。が、店の人が誰もいない。そもそも周りに誰もいない。散々「ごめんくださ〜い」「おねがいしま〜す」と声をかけるが誰も出てこない。やはり縁がなかったのかと思って立ち去りかけた頃、建物の裏から年季の入った温和な風貌のオトーさんがひょっこり現れた。やれやれだ。聞けば、この椿は「絵日傘」だとか。玉之浦や岩根絞りもあったが、オトーさんのイチオシはこれだという。都会ではなかなかお目にかからないはずだという。あまり大きな鉢に移し替えず、小ぶりな鉢で小ぶりに育てると、花が大きく色鮮やかに咲く、と教えてくれた。こうして、大和路散策の旅の締めくくりは、この「絵日傘」と二人旅となった。奈良白毫寺から京都経由で新幹線に乗って東京の自宅まで、「博多来るときゃ独りで来たが帰りゃあ人形と二人連れ」。筑前博多節の一節だが、今回は「大和来るときゃ独りで来たが帰りゃあ椿と二人連れ」と洒落込んだ。

 

白毫寺参道で出会った「絵日傘」

 

Googleフォトサイトへはこちらから:春爛漫大和路散策

(撮影機材:SONYαRII + FE24-240)

 

 

 

 

 

 

 


春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(1)奈良公園/東大寺/春日大社

2017年04月16日 | 奈良大和路散策

 

 いよいよ桜が開花。東京ではぼちぼち咲き始めた。ということで3月27−29日、奈良、大和路へ枝垂桜ハンティングに出かけることにした。今回は、入社同期組3人で出かけることにした。皆、定年を迎え、金はないが時間はたっぷりあるご隠居さんになった。40うん年前の新入社員当時は入社後全国の電話局に現場実習訓練として一年間配属されるのが通例であった。この時関西に配属された同期生の中のこの3人は、週末になると奈良や京都に出かけ、写真を撮り回ったものだった。初めてもらった給料から一眼レフカメラとレンズを買った。その仲間が40うん年ぶりに奈良に集合したというわけだ。当時NIKONの一眼レフを所有する仲間をうらやましそうに横目で見ながら、愛機ミノルタSRをぶら下げて徘徊した40数年前を懐かしく思い出す。気のおけない仲間と楽しい撮影旅行であった。

 考えてみると、あの時の関西配属が、私を写真好き、大和路好きにしたきっかけであった。私のその後のサラリーマン人生は、東京はもとよりロンドンやニューヨークを拠点に海外勤務が長くなった。ニューヨークから帰国して第一回目の定年を迎えたのち、大阪勤務となり、再び関西生活を送った。この時大和路の魅力を再発見することになった。長く海外生活を送ると、「海外かぶれ」「現地ボケ」「アメリカ出羽守」になると言われるが、実は帰国後、日本ってなんと美しく、魅力に溢れた国だろうと、これまであまり気がつかなかった母国の側面を再発見する。特に田舎の美しさに目を見張る。イギリスの田舎も美しかったし、豊かで今でも憧れるが、日本の田舎はそれに負けていない。そこに蓄積された長い歴史と人々が育んだ文化、ライフスタイル。稲作文明「豊葦原瑞穂の国」の象徴たる田園風景。それを彩る四季折々の花々... 今まで気づかなかった「美」。目から鱗が落ちた。こうしたことに気づくことができるのも、海外生活のおかげだ。

 というわけで出かけた奈良/大和路散策。しかし今年の関西は開花が遅れている。例年他の桜に先んじて咲き誇る氷室神社の枝垂桜もまったくの蕾。大野寺の滝桜も、長谷寺も枝垂れ桜は全く咲いてない。もちろん吉野桜もやまざくらもまだまだ。緋寒桜や河津桜がちらほら。というわけで桜のない大和路を散策することになった。しかし、負け惜しみじゃないけど、桜直前の早春の佇まいもまた捨てがたい。むしろ大和路の春めいた古都の「滅びの美」といった佇まいを楽しむには、観光客がドッと押しかけない今が絶妙のタイミングなのかもしれない。我々が敬愛する入江泰吉先生の写真にも桜満開の大和路よりも、梅や馬酔木、コブシや椿が楚々と路傍を彩る風景写真のほうが多い気がする。古代、万葉集や古今和歌集に歌われる花は梅であり桃であって桜ではなかった。いまや桜は日本人の象徴のように捉えられているが、それは比較的新しいことだ。桜が開花すると世の中全て桜一色になってしまう。他の春を彩る花々が霞んでしまう。花見だ、桜撮影だ、と桜前線に沿って慌ただしく桜ハンターが右往左往して落ち着かない。しかし、この桜狂想曲直前は、梅やサンシュユ、レンギョウ、花桃、菜の花、馬酔木、春を彩る花々が一斉に咲き誇っている。この春の足音こそ心に響く前奏曲だ。

 まず第一回は、定番コース:外人観光客でいっぱいの奈良公園/興福寺/東大寺/春日大社をめぐる散策。そして第二回は静かな長谷寺、室生寺、大神神社と回る。第三回として白毫寺、新薬師寺、高畑町界隈、そして我らが巨匠、入江泰吉写真美術館を巡る。

 

奈良県庁屋上から東大寺大仏殿、二月堂を望む

 

この洋館は奈良国立博物館

 

この時期の奈良と言えば馬酔木

 

氷室神社は未だ枝垂桜は蕾

ハクモクレンが主役

 

観光客で溢れる東大寺南大門あたり

近年外国人観光客が多くなった

 

南大門で見つけたリトル・プリンス

 

 

  

  

何をお祈りしたの?

 

柳が芽吹き、新緑が青空に映える

 

西方浄土へ誘う階段

 

 

二月堂から大仏殿越しに生駒山を望む

 

 

日が傾き始めた

夕陽刺す西方浄土の姿を見るような

 

春日大社参道にかかる夕陽

 

春日大社表参道の灯篭

 

鹿たち

  

奈良公園で見つけたリトル・プリンセス

 

桃と梅

 

飛火野

 

(撮影機材:SONYαRII + FE24-240 Zoom)

 

 

入江泰吉旧居探訪

2016年12月28日 | 奈良大和路散策

入江泰吉旧居

 

奈良市水門町。東大寺や戒壇院に近い閑静な地区に入江泰吉旧居はある。ちょうどこの日は春日若宮御祭りのお渡り式行列の日で、登大路や三条通りはすごい人出であった。しかし、一歩県庁脇から東大寺境内の西側に入るとそこは別世界の静けさ。入江泰吉旧居は、師の逝去後しばらくは空き家になっていたが、奥様から奈良市に寄贈され、整備され最近ようやく公開にこぎつけたという。これまでも奈良フェチの私は、奈良散策定番ルートであるこの邸宅の前を何度も往復していたのだが、うかつにもそれと気付かず、ここが入江泰吉師の旧居であることをようやく最近知った。その聖地公開と聞いて今日こそはとワクワクしながら門をくぐった。

 

 ここは元々の東大寺境内の一部であり、あたりには奈良県知事公邸や依水園、吉城園などの大きなお屋敷が立ち並んでいる地域だ。京都南禅寺界隈の別荘群と同様、奈良も東大寺旧境内界隈や、春日大社の杜に隣接する高畑町辺りは塔頭や社家をルーツとする邸宅・別荘地区になっている。広大な敷地を有する邸宅が白壁・築地壁に囲まれていて、外界と隔てられた特別な空間を形成している。そうした中にあって入江邸は生垣に囲まれオープンな感じだ。内が外から伺えると、秘密のバリアーに閉ざされた邸宅と異なり、意外にこじんまりした邸宅にみえる。しかし、吉城川の流れと河岸段丘の高低差ををたくみに取り入れた配置となっており、寺の塔頭の建物を移築した母屋と茶室と、のちに増築した書斎というコージーな住まいだ。庭はさして広くないが、母屋の縁側からは吉城川を挟んで向かいの森が望め、濃い緑と静寂な佇まいが借景として取り入れられた配置となっている。窓に近接して紅葉と椿の巨樹が枝を広げている。そのシーズンはさぞやと思わせる。とても落ち着くセッティングだ。「紅葉、綺麗でしたよ!この時期紅葉は終わってしまって残念ですが、間も無く椿の季節です。見事ですよ!」と案内の女性が誇らしげに説明してくれた。もちろん仕事場である現像室も庭の離れに再建されている。

 

 都会の生活に疲れた私の最初の印象は「こんなところに住んで見たい!」である。そもそも写真と大和路に心を奪われてしまっている私にとって、ここが理想的な棲家に見えたのは不思議ではないだろう。人生にとって住環境は大事だ。人の感性を磨き、心の豊かさを与えてくれる要素の一つは住まいだ。かつてロンドンの南の郊外ケントに暮らしたことがある。ここは「英国の庭園(Garden of England)」と呼ばれ、自然と人の営みの歴史が今に生きている田園地帯である。森と牧場と歴史的なマナーハウスという英国のauthentic life, quality of lifeを涵養する住環境であった。そこの田舎生活で体得した感覚が、すっかり都会生活に埋没してしまった今も蘇る。洋の東西、歴史的背景の違いこそあれこの奈良の入江邸はそうした感性を刺激する要素を揃えている。こういう環境の中でこそ創造的な思考と、人の心に響く情感を切り取る「心の眼」が養われるのだと。

 

 そもそも私が奈良大和路に憧れるようになったのも、写真が好きになったのも、すべてこの入江泰吉というマエストロのせいなのだ。学生時代に出会った入江泰吉の写真集。「入江調」と言われる独特の光と陰の階調に驚かされた。モノクロとパステルカラーの作品の数々に心奪われた。そこには現代から古代という時間の流れが写っている。飛鳥人(あすかびと)の情感が写っている。初めて「二上山残照」を見たときの衝撃。「大仏殿落日」の印象。モノクロ写真に記録されている田園風景には古代飛鳥京の情景。東大寺二月堂に至る小径を知ったのも師の写真から。観光客で賑わう通りをふと避けて一歩道を入ると「観光地」奈良にもこんな情感豊かな世界が残っている。あの頃の師の写真には古代大和の国の滅びのまほろばが写っている。

 

 師は言う。「現代の技術、機械であるカメラという媒体で、古代の情景や余韻、気配、歴史の心象風景を表現するのは不可能に近い。しかしその不可能に近いことを、あえて可能にできないだろうかと模索し、試行錯誤を繰り返しその難しさに挑み続けてここまで来てしまった」と。画家や文筆家とは異なり、筆と紙による表現では無く、写真という銀塩フィルム、いや最近は電磁的撮像素子というテクノロジーで情感を表現することのジレンマをどのように克服するか。そこにはテクノロジーと精神世界という共に人間が生み出した大脳皮質にまつわる領域の融合と相互補完、という哲学的な問いが含まれている。

 

 この理解は重要だ。今や誰でも綺麗な写真は撮れる。テクノロジーはそれを可能ならしめた。花はそれだけで綺麗だ。観音菩薩像はその存在だけで優美だ。東大寺南大門はそれだけで荘厳・雄渾だ。写真はリアリティーを撮す。しかし、師が言うようにその「科学の眼」だけでは心は動かない。その背後にある目に見えない情感や時間を表現するにはどういう感覚を持っているべきなのか。可視化されるリアリティーの後ろに紡がれる物語を語るにはどうすれば良いのか。入江調には表現されている余情や気配がなぜ私には表現できていないのか。なぜそこにある物語(story)を訴えかけることができていないのか。「カメラという科学の眼だけで撮るのでは無く、心の眼との焦点合致を図らなければならない」のだと。「自分自身のストーリー」を持つことが大事なのだと。そんなことをグルグル考えながら邸内を見学させてもらい、結局は「来館記念写真」をいっぱい撮って帰ろうと、忙しくシャッターを切っている自分に思わず苦笑してしまった。ふと目をやると壁にかかる師の肖像写真が「まだまだ修行が足りぬ」と笑っている。

 

 

東大寺戒壇院に続く道すがらにある

 

 

お寺の塔頭を移築した母屋

土間のない玄関がその名残

 

 

師の肖像写真

その風貌はフォトグラファーのそれでは無く

文人墨客の風貌だ

 

なかなかのユーモアセンス

 

編集者たちと打ち合わせた部屋。

師はいつもこのソファーに座っていたという

 

 

壁面書棚のある書斎

増築した部分

趣味の彫刻や絵画を楽しんだ縁側テラス

こんな部屋が欲しい!

 

  

絵の具

仏像の彫刻

小さな石仏

  

書斎の座卓

ここで撮影の事前調査や、写真集の構想を練ったという

 

玄関あたり

 

塔頭名残の縁側

 

秋には窓辺が紅葉に染まる

 

応接間

亀井勝一郎、志賀直哉、会津八一、白洲正子や杉本健吉など各界の名士との交流があった。

 

 

 

一見平屋に見える建物だが、斜面に建っているので裏に回るとかなりの高さだ

 

 

庭園の一角に設けられた現像室

再現されたものだとか

引き伸ばし機

  

玄関左手の井戸と丸窓

 

丸窓が素敵だ

案内と行き方のご参考に:入江泰吉旧居公式HP

 

 

 


本薬師寺のホテイアオイ 〜藤原京の夢の跡〜

2016年09月22日 | 奈良大和路散策

 

 

 今年の夏も暑い!そして今年も本薬師寺跡にホテイアオイがいっぱい咲いた!

 

 本薬師寺跡のある橿原市城殿町は、かつての藤原京(新益京:あらましのみやこ)の西、西二坊大路、西三坊大路と七条大路、八条大路に囲まれた一角である。藤原京は690年に持統天皇により造営が開始され、694年に飛鳥浄御原宮から遷都。わが国初の唐風の条坊制を備えた都城であった。しかしわずか16年でさらに平城京へ遷都された。薬師寺は680年、天武天皇が皇后である讃良皇女(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して創建した寺院。金堂、講堂、を回廊で結び東西二塔を配した壮麗な伽藍がここには建ち並んでいた。その薬師寺は平城遷都に伴い現在の奈良市西の京町へ移転した。ただ藤原京の薬師寺はその後も平安時代中期、10世紀頃まで現在地に存続し本薬師寺と称されたが、やがて廃寺となった。

 

 ちなみに、平城京の薬師寺(現存する)は藤原京の薬師寺の大部分を移築したものなのか新造されたものなのかが、長年論争になっていたが、最近の研究では、移築ではなく新たに造営したものと考えられている。こうして本薬師寺は旧都の地に残ったのだが、今では木立に囲まれた土壇に金堂の礎石や東西二塔の心礎を残し、往時の面影をかすかに留めるのみとなった。しかし最近は遺構周辺の休耕地にホテイアオイやコスモス、ハスを植え、夏の間はホテイアオイの名所となっている。地元の小学校の生徒が毎年植えて手入れしているという。ホテイアオイはそもそも外来種で在来種を駆逐する生命力を持っているので(Blue Devilと呼ばれている)、国によっては持ち込みが規制されているそうだが、ここでは他の生態系に影響を与えないように管理され、このような壮大な景観を作り出している。

 

 倭国から日本へ移り変わる激動の時代。壮大な首都建設計画も廃都という皮肉な結末を迎えた。そういう滅びの歴史を背負い、古色漂う古代寺院の跡と、一面の外来種のホテイアオイの青という組みわせは一見似つかわしくないようにも思えるが、今では盛夏の青空と涼やかなホテイアオイの群生は、飛鳥の夏を代表する景観として定着している。

 

 「夏草やツワモノどもが夢の跡」じゃなくて「青花やツワモノどもが夢の跡」だ。

 

 

 

 

東塔跡

 

正面は金堂跡

左の土塁は西塔跡

 

金堂跡から東塔跡を望む

 

左が金堂跡

右は東塔跡

 

金堂跡

東からの景観

 

西に畝傍山を望む

すぐ近くまで住宅開発が迫る

 

元薬師寺の伽藍配置

(橿原市HPより)