時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

妙心寺退蔵院再訪 ~そして太宰府観世音寺の兄弟鐘に再会!~

2016年02月26日 | 京都散策

妙心寺山門

 

 

 京都花園の妙心寺は、室町時代の1342年、花園天皇が落飾して法皇となり、花園御所に開基した寺である。山号を正法山という。臨済宗妙心寺派の総本山。全国の臨済宗6500ヶ寺のうち3500ヶ寺を有する最大の宗派の総元締めだ。鎌倉時代に栄西が中国から臨済禅を持ち帰り、最初に我が国に創建した禅寺が博多の聖福寺である事は以前のブログでも述べたが、この「扶桑最初禅窟」聖福寺も江戸時代に藩主黒田家の意向で、建仁寺派から妙心寺派に変わっている。

 妙心寺は七堂伽藍、40余の塔頭からなる広大な境内を有する京都でも有数の大寺院だ。室町幕府は京の主要な臨済宗の禅寺を保護統括するために五山十刹を指定した(南禅寺を五山の上位に置き、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山という。鎌倉五山にならった)。これらの寺は禅林と呼ばれた。一方これらとは別に林下と呼ばれる禅宗寺院があった。厳しい修行を旨とする禅寺で、妙心寺や大徳寺はこの林下である。

  

堂々たる甍の伽藍群

 

法堂

ここに狩野探幽の雲龍図と国宝の梵鐘がある

(1)退蔵院

 妙心寺境内には40数か院の塔頭があり、広大な寺域はさながら寺内町の様相を呈している。石庭で有名な京の観光スポット、龍安寺も妙心寺の域外塔頭だと今頃知った。しかしそのなかで一般に公開されている塔頭は退蔵院、桂春院、大心院の三院のみだ。

 学生時代、わが故郷の筑紫太宰府の観世音寺にある日本最古の梵鐘と兄弟鐘が京都妙心寺にあると知り、歴史好きの私としては是非一度見ておく必要があると考えた。やはり冬の寒い時期であったと思う。博多から列車を乗り継いでの京都旅行でようやく訪問できたわけだが、肝心の梵鐘の方はあまりしっかり鑑賞した記憶が残っていない。たしか鐘撞堂に、観世音寺と同じ形の鐘を見て「ああこれか...」と思っただけだったのだろう。むしろその折に訪れた塔頭の一つ、退蔵院の枯れ山水庭園のシンプルで静かなな佇まいに心奪われてしまった。それ以来ずっと京都の侘び寂びイメージの原点として心に残り、いずれまた訪ねてみたいと思っていた。今日、ようやく45年ぶりの再訪となったわけだ。

 現在は結構有名な観光スポットになっているようで、この時も「京の冬の旅」と銘打ったツアー(シニア層ばかり)の一団で賑わっていた。となりの普段は公開していない霊雲院が限定特別公開中で、こちらはさらに賑わっていた。しかし境内に一歩入ると、建物内、庭園すべて撮影禁止。縁側や襖絵や柱にまで「撮影禁止」の張り紙がベタベタと貼られていて少々興ざめ。マナーの悪い撮影者から場の雰囲気を守ろうということなのだろうか。それとも... 何を守ろうとしているのかよくわからないが、結果的には禅寺の雰囲気が「張り紙」という雑念に邪魔されてしまった感が有る。残念だ。

 退蔵院の方は撮影OK。狩野元信作庭と伝わる枯れ山水の庭と、禅問答の公案を題材にした瓢鮎図(本物は京都国立博物館に寄託され、ここにあるのはコピー)が有名。この日は2月下旬のいかにも京都らしい冷え込み厳しい一日で、美しい花々や、桜、新緑、紅葉を楽しむ季節ではなかった。しかし禅寺に色彩を求める必要はなさそうだ。このモノトーンの観念的で抽象化された景色の中に様々な心象世界が見えてくる。ただ、東屋の脇に佇む紅白の枝垂れ梅と、黄色い花をつけたマンサクが精一杯に咲き誇り、控えめだが色を添えていた。なかなかよろしい風情だ。

 こうして禅寺という空間に佇み、冬枯れの庭園を眺めながら、学生の時からどれくらい成長した自分に出会えたのかはなはだ心もとない。だが、世界を駆け巡った忙しい社会人人生に区切りをつけて、資本主義のロジックと組織人のロジックの狭間で呻吟する世界から開放され、具体的かつ問題解決型(それを戦略的と言ってきた)の意思決定を強いられる日常からも離れ、抽象的な観念の世界の入り口に立ってみる。その先には新しい宇宙が広がっているような気がした。まさに「小さな瓢箪で大きな鯰を捕まえるにはいかにすべきか」との問いは、これまで解決を求められてきた現世的煩悩にまつわる課題とは大いに異なることに気づかされた。

退蔵院

陽の庭

 

陰の庭

方丈

元信の作庭の枯れ山水

一般公開のエリアからは一部しか見えない 

瓢鮎図:如拙筆

国宝 京都国立博物館蔵

 

(2)日本最古の梵鐘

 ところで妙心寺の梵鐘である。先ほども述べたように筑紫太宰府の観世音寺との兄弟梵鐘と言われている。鐘の銘文には698年文武天皇の時代に筑紫糟屋郡で鋳造されたとの記述がある。鋳造年がわかる最古の鐘である。吊るし部分などを除き細部まで同じで観世音寺の鐘と同じ型から鋳造されたものと考えられている。両方とも国宝。

現在、オリジナルは法堂に収蔵されており、鐘撞堂に吊るされているのはレプリカ。なんかお堂の片隅に安置されていて、CDで音色を再生するのは寂しい気がする。老朽化が激しく保存のため致し方ない。

 一方、太宰府観世音寺の梵鐘はほぼ創建時の伽藍配置にしたがった場所に現在もつるされている。金網でこそ囲ってあるものの、風雨にさらされた屋外に普通の鐘然としてぶら下がっている。同じ年代なのにこちらは老朽化してないのだろうか?あるべき場所にある姿が、往時を思い起こさせて好きだが、ちょっと心配になる。

 

太宰府観世音寺の鐘楼。オリジナルの梵鐘が元の位置に置かれている

妙心寺の鐘楼。中の梵鐘はレプリカ。オリジナルは法堂に安置されている。

 

(3)兄弟鐘の謎

  考えてみると7世紀後期の飛鳥時代の鐘が、なぜ14世紀室町期に創建された妙心寺にあるのか?筑紫太宰府の観世音寺と妙心寺との間には空間的、時間的隔たりがあり、なぜ兄弟鐘を共有しているのか不思議だ。そもそも筑紫生まれのこの鐘はどのように渡ってきたのだろう。空白の700年を辿ってみたい。

 鎌倉時代の吉田兼好の徒然草にこの鐘のことが触れられている。それによればこの鐘は京の淨金剛院という寺の鐘で、その音色は黄鐘調である、と記されている。これが何を意味するのか。やがて淨金剛寺は後述のごとく廃寺となる。その鐘を地元の民が売りさばこうとして荷車で運んでいたのを妙心寺の僧が見つけ引き取ったと言い伝えられている。

 ではその淨金剛院とはどのような寺なのか? 鎌倉時代、後嵯峨天皇が嵯峨離宮に創建した浄土宗の寺院だという。1272年の後嵯峨天皇崩御後はこの寺院に葬られた。またその子亀山天皇も崩御後はこの寺に埋葬された。そののち室町時代に入ると、寺域は足利尊氏が天竜寺を造営するために再開発され、その際に淨金剛院は廃絶された。さらに時代を下り、江戸時代になって幕府により山陵の特定作業が進められ、後嵯峨天皇陵、亀山天皇陵が現在の地に定められた。すなわちこの天皇陵があるところがかつての淨金剛院跡であるということになる。

 また鎌倉時代に著された「とわずかたり」という後深草院に使えていた女官の日記がある。ここに後深草院が淨金剛院の鐘の音を聴き、かつて平安時代に太宰府に流された菅原道眞が観世音寺の鐘の音を聴きながら読んだ漢詩「一従謫落就柴荊/万死兢々跼蹐情/『都府楼纔看瓦色/観音寺只聴鐘声』/中懐好遂孤雲去/外物相逢満月迎/此地雖身無撿繋/何為寸歩出門行(『不出門』)」の一節を口ずさんだとするエピソードが記されている。京のみやこの淨金剛院の鐘の音が、筑紫太宰府の観世音寺の鐘と同じ黄鐘調の音高であることを当時のみやこ人は知っていたようだ。この黄鐘調は「無常感」を表す音色であり、みやこの他の寺の鐘の音と聞き分けられたのであろう。

 さて、このようにこの鐘の歴史を鎌倉時代までさかのぼることはできたが、その淨金剛院に至るまでの500年余の鐘の旅路は依然として謎だ。7世紀後期に創建された筑紫太宰府の観世音寺は、筑紫で崩御した母である斉明天皇を菩提を弔うための天智天皇勅願寺で、奈良時代には鑑真によって戒壇院が設けられるという「官寺」である。そこに奉納された梵鐘の片割れはどのように山城国葛野(かどの)の地(7世紀後期は飛鳥時代でまだ平安京も京のみやこもない)に運ばれたのであろう。あるいは飛鳥京や藤原京、近江京、平城京あたりを転々とした挙句に平安京にたどり着いたのだろうか? 後嵯峨天皇をどこからこの鐘を入手して淨金剛院に奉納したのか? 歴史の糸はここで再び途切れてしまった。ドラマのフィナーレじゃないが「この謎解きの挑戦はまだ始まったばかりだ。終わりのない旅はまだまだ続く」だ。

 2010年に太宰府にある九州国立博物館で両方の鐘を並べて鳴らし比べをする、といういイベントがあった。行くことはできなかったが、なかなか貴重なイベントでもう二度とないだろうと思うと行けなかったのが残念だ。YouTubeで聴き比べができる。素人ながらなるほどこの兄弟鐘の黄鐘朝の音高が同じであるような気がする。

妙心寺/観世音寺両方の鐘が一堂の展示され鳴らされるのは貴重だ

九州国立博物館「妙心寺鐘、観世音寺鐘 鳴鐘会』

 

   

妙心寺/退蔵院の点描写真集

 

紅白の枝垂れ梅

退蔵院余香苑

マンサク

白梅

境内の道

背景に衣笠山が

幼稚園児のお散歩

佐久間象山の墓所へ向かう道

特別公開中の霊雲院

西田幾多郎墓所(霊雲院)

歴史上の人物の墓所も多い。

 

 

 

 

 


Leica Vario Elmarit SL 24-90mmASPHという怪物ズーム!

2016年02月18日 | 時空トラベラーの「写真機」談義

レンズを着けるとボディーが小さく見える

 ライカSLがリリースされてから3ヶ月が経過した。予約入荷待ち状態が解消されようやく市場にブツが流通し始めたようだ。もちろん話題の中心はこのコンクリートブロックのようなミラーレスのSLボディーなのだが、私にとってはレンズが注目だ。何しろライカ初の35mmフルサイズAFズームレンズなのだから。

 

 ライカMの「ズームがない、寄れない、AFがない」の3無いを解消したレンズ。レンズ内手ぶれ補正つきAFレンズだ。しかしその代償は「でかい、重い、長い」。SLボディーに装着すると重厚長大の超弩級カメラとなる。コンクリートブロックの塊のようなボディーが小さく見える。というわけでとても軽快なスナップシューターには程遠い。しかしそれだけのことはある高性能ズームだ。一見、24-90mm f.2.8-4というスペック的にはよくあるキットレンズに見えるが、その解像度、階調、ボケ味、どれを取っても単焦点レンズに匹敵する性能を発揮する最高のズームレンズに仕上がっている。望遠端が90mmというのも良い。Mレンズ群が苦手とした近接撮影では広角側で30cm、望遠側でも45cmまで寄れるし、フローティング機構により解像度も素晴らしい。歪曲収差はデジタルカメラらしく上手く補正されている(JPGでは全域でデジタル補正。DNGでは24mm付近では樽型に曲がるがADOBE現像ソフトでは自動的に補正される)。これぞ待ち望んでいたライカズームレンズ!とうとう出てきたなゴージャス君!

 

 これまでのライカズームレンズは旧Rマウントシリーズ(一眼レフ)向けのものしか無かった。それも自社製ではなくて日本メーカーのOEM供給品ばかり。その性能も造りもソコソコで、価格もライカにしては安い。それにライカブランドつけて出すんかい?と言いたくなるような代物ばかりであんまり評判が良いとは言えなかった。ライカはズームをやる気が無い、ということを感じさせたものだ。もっとも日本メーカーの名誉のために言っておくと、それらのOEM 供給各社は、自社ブランド向けには、極めて高性能なズームラインアップを市場投入している。ようは発注側の問題だろう。この Vario Elmarit SLはドイツのレンズ設計部隊の作品で、かつドイツ製造だ。この少し前にTマウントAPS-Cサイズセンサー用の標準ズーム(28−80mm)を出しているが、こちらは設計はドイツ、製造はまだ日本メーカーのOEM。SLミラーレスと銘打ってやっと自社製に本気出した。

 

 作例を以下に掲載した。ズームレンズとは思えない先鋭な解像度とアウトフォーカス部のとろけるようなボケ味がこのレンズの持ち味だ。ライカレンズ独特の立体感表現(木村伊兵衛の言うところのデッコマヒッコマ)をズームレンズでどこまで出せるか、という課題への挑戦が実ったということだろう。これならこの一本でズミクロンやズミルクスに肉薄する世界を写し出してくれそうだ。かつての首をひねりたくなるようなズームからは大きくパラダイムシフトした。ここまで来るのにこれだけの時間とコストがかかった。やはりライカのレンズの味に対するこだわりは妥協を許さないものがある。しかもコスト度返しでそれを追求する。数字上は一見平均的なスペックのレンズだが、レンズ硝材、コーティングに贅を尽くし、総金属製の堅牢で巨大な鏡胴をまとい、フィルターサイズ82mmというフロントレンズの口径はすべて画作りのためだった。しかしそれにしても重い。

 

 (作例)

 

 

結像部分はシャープ。背景のボケはメロー。この組み合わせがライカレンズの「味」だ。

 

水平も歪みがない。隅々までクリアーに写る

 

かなり意図的なシーンだが階調も豊か

 

シャドウ部の点光源もシッカリ解像している

 

不思議な立体感

 

これが標準ズームの画なのか?!

 

コントラストを強調