時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

播州龍野 ー露の風の城下町ー

2013年02月05日 | 吉備/播磨散策
 龍野は播磨の国、揖保川沿いの静かな城下町。姫路からJR姫新線乗り換えで約15分。山陽本線沿いではない所がポイントだ。最寄りの本竜野駅は龍野の旧市街からは徒歩で20分ほどの川向こうにある。明治の頃、日本各地で鉄道が開通し始めた時の地元の人々の反応は様々だった。大抵は近代化の恩恵を複雑な気分で恐る恐る手にとって見たのだろう。鉄道の駅は必ずと言ってよいほど町外れに出来た。その町が古い城下町であればあるほど... 龍野も例外ではないという事を、まず駅をおりて実感する。町まで遠い...

 揖保川にかかる龍野橋から旧市街を見渡す。戦国時代の城づくり、城下町づくりに共通するエレメント、小高い山と川。辺りを睥睨する山上に石垣を巡らして堅固な山城を築き、その山麓に城下町を開く。そして、川を掘りに見立てて城を守る。ここ龍野も戦国時代の赤松氏が鶏籠山(けいろうさん)に城を築き,その山麓の揖保川沿いに城下町を開く、という典型的な城下町ロケーションだ。

 江戸時代に入り、信州飯田から移封されて来た脇坂氏の龍野藩5万3千石の城下町となる。時代は既に徳川幕府の支配が確立された時期で、城も戦国時代の要塞、砦の機能はもはや不要のものとなる。また諸大名も幕府の眼を恐れて壮麗な城造りを控えるようになった。脇坂氏は入封とともに、鶏籠山の山頂ではなく、その山麓に縄張りをする。山を背に正面を石垣で囲んだ居館といった風情の平山城となっている。脇坂氏は明治維新まで代々藩主として龍野を治め、維新後に多くの藩主が東京へ移住した後も龍野に戻っている。旧武家屋敷地区に居宅を構え昭和初期まで居住したそうだ。今も「脇坂屋敷」としてその敷地が残っている。

 脇坂氏といえば、あの浅野内匠頭の刃傷事件で,御家断絶になった浅野家の赤穂城を幕府の命令で受け取りに行った大名である。忠臣蔵の物語りの中でも、脇坂出羽守は浅野びいきであり、ふだんから吉良上野介を快く思っていなかったとされている。松の廊下での内匠頭刃傷のおりに、斬りつけられて逃げる上野介と出羽守は交錯し、その家紋が血で汚された事を怒り、上野介を「無礼者めが」と叱責したというエピソードが伝えられている。どこまでホントかはわからないが、同じ播磨の赤穂と龍野はお隣さんと言ってよいほどの距離。どちらも5万石ほどの外様大名である。親近感を持っていてもおかしくない。また赤穂城開場時の大石内蔵助はじめ,赤穂藩家臣の潔い引き際。その後の隠忍自重、艱難辛苦のすえ武士の忠義を示した討ち入りに、庶民大衆を始め、多くの武家も喝采を送る中,特に浅野/赤穂浪士シンパの大名の存在が,忠臣蔵の話に花を添える名脇役としてもてはやされたとしてもおかしくない。

 この美しくたおやかな龍野の城下町は、こうしたお隣の赤穂浪士達の義挙に花を添える脇役としての歴史を伝える訳であるが、むしろそのエピソードよりも、一般には三木露風の唱歌「赤とんぼ」で有名な町だ。戦前の哲学者で治安維持法で検挙され獄死した三木清もこの龍野の出身。旧制第一高等学校の寮歌「嗚呼玉杯に花受けて」の作詞者で歌人の矢野勘治もそうだ。こうした文人を輩出した龍野とはどのような町だったのか。

 一方、龍野を代表する産業は世界のブランド、ヒガシマル醤油。房州野田のキッコーマン醤油に対峙する龍野の淡口醬油だ。関西の味の原点を生み出した町でもある。そして、そうめんの名品ブランド、揖保の糸。ここは明治以降も時代から忘れ去られた,歴史のタイムカプセルに収められた城下町としてではなく、伝統産業を世界に広める近代産業への脱皮を実現した現代の町としても発展している。

 龍野には有名な本屋さんがある。伏見屋さんだ。絶対訪ねる価値有りだ。明治34年(1901年)に建てられた白壁の商家を一歩中に入ると、ぐるりと廻廊が巡らされ、天井には採光用の天窓が並んでいる。吹き抜け2階建てのユニークな店内のしつらえが眼に飛び込んでくる。この建物は今も現役の書店として営業中である。ご主人に「写真撮らせてもらっていいですか?」と伺うと快く承諾して下さり、しかも接客の合間にこの店の説明をして下さった。二階の廻廊にも本棚が並び(昔は教科書の仕分けに使われていたそうだ),廻廊から伸びた針金のフックは一階を照明するランプが吊るされていたとか。明治にこの建物を発想した人もスゴイが、今にこの建物を引き継ぎ、家業を継続している人もスゴイ。なんだかBusiness Continuity Planningってこういうことではないか、という気がしてきた。

 ご主人が下さった一枚のプリントにこの伏見屋さんの歴史やエピソードが記載されている。明治/大正期には龍野は大阪、京都、奈良といった関西と山陰地方、出雲を結ぶ街道の途中にあり、伏見屋さんは書籍だけではなく,紙や油その他の物資の流通にも携わっていたそうだ。以前は出雲の人がわざわざ龍野まで書籍を探しに来たり、戦時中、某大学教授が疎開して研究に没頭する時は伏見屋のある龍野に居を移したり、様々なエピソードに事欠かない一種の文化流通の拠点であったようだ。さらに歴代のご主人や奥様も若い人達の教育や、文化活動の支援にも尽力されたそうだ。

 ご主人にチョット失礼な質問をしてみた。「今も現役の本屋さんとしてやって行くご苦労は?」 ご主人笑いながら「今でもこの町の方々の本の注文はウチに頂けるし、学校向けの教科書の取り寄せや配布もやらせていただいてるのでなんとかやってます」と。まさに現役なのだ。この日も、中学生の女の子が学習参考書の注文に来ていた。自転車でやって来たおかあさんが取り置きしてもらって雑誌をうれしそうに受け取って帰ったり,ご主人は結構忙しそうであった。 ご商売の邪魔をしてはいけない。早々にお礼を行ってその場を辞した。

 出版の衰退とか,活字メディアの衰退とか言われているが、やはり「本」は文化の源泉なのだ。本屋さんは本を通じて人が交流する一種のサロンなのだ。三木露風、三木清等の多くの文化人を生んだ龍野の文化的背景のかなり大きな部分を担って来たのだろうと思う。AmazonやGoogleにはマネ出来ない「実在」が確かに息づいている。

 もう一つ,龍野には和菓子屋さんが多いのも気になった。松江や金沢のように、武家や商家の間で盛んであった茶の湯文化の町には素敵な和菓子屋さんが多い。きっと龍野もそういった文化の香りを和菓子に留めているのだろう。白壁の本屋と和菓子と醤油と赤とんぼ。日本だなあ。


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(脇坂氏5万3千石の居城、龍野城。城と言うより,防備を巡らした居館という造り。明治維新後破却されたが、戦後一部が再建された。これはその再建隅櫓)

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(鶏籠山麓の龍野城趾から城下町を見渡す。お城はあまり高い位置ではないので威圧感が無い。ヒガシマルの醤油蔵が見える)

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(伏見屋書店。明治34年(1903年)に建てられた吹き抜け2階建ての店舗。二階の回廊と天井の採光窓が明治の建築とは思えないモダンさを醸し出している。)

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(和菓子屋さんが多い龍野の町。茶席にふさわしい和菓子の他にも、薄口醤油を売りにした饅頭などユニークな商品が並ぶ)

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(ヒガシマル醤油の醤油蔵。延々と続く白黒の壁と,水路が龍野の街の独特の景観を生み出している。)


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(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm いつものブラパチ風景散歩のベストパートナー。)


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アクセス: JR新幹線、山陽線の姫路からJR姫新線本竜野下車。徒歩20分で揖保川を渡り,旧市街へ。町中散策は特に地図などなくても十分に楽しめるが、駅の案内所に散策マップがおいてある。


因幡街道平福宿と利神城

2013年02月03日 | 吉備/播磨散策
 兵庫県佐用町の平福は、江戸時代初期に池田氏が築いた山城、利神(りかん)城の城下町として建設された。利神城はもともとは戦国時代に赤松氏が砦を設けたのが起源だと言う。その後一国一城令により廃城となり、平福は旗本の直轄領となり、平福陣屋、代官所がおかれた。城下町としての性格は薄れ、因幡街道/出雲街道の分岐点、佐用川沿いという交通の要衝に位置していた事から、在郷町、宿場町として発展する。なんと300軒の8割が屋号を持っていたという。また因幡鳥取藩の本陣も置かれた。その後明治以降は、鉄道が通らなかったために,交通の要衝、商業地としての地位が低下し,次第に時代から忘れ去られて行った。1994年になってようやく智頭急行線が開通し,平福に駅が出来たが、もはや往年の繁栄を取り戻すことはなかった。

 なんと言っても平福を象徴する景観は、赤土壁の土蔵を中心に、川屋敷や商家が続く佐用川沿いの家並だ。最近は「川端風景」として観光名所にもなっているが、まだまだ知名度は低く穴場的な存在だ。第一、ここへ来るにはなかなか大変。今は車で来れば比較的簡単なのだろうが、ここの地理的な距離感、旧街道と川の町の雰囲気を知るにはローカル線の旅がなんと言ってもおすすめだ。

 初めてこの美しい町並みを見たのは、鳥取から大阪へ向う智頭急行線、スーパーはくとの車窓からであった。「宮本武蔵」(もちろん武蔵の生まれ育った)という駅を過ぎ、佐用川沿いに走ると、右手の山麓に広がるこじんまりした町並み、さらに佐用川のほとりに土色の土蔵が並んで居る風景が眼に飛び込んで来た。なんと心を奪われる風景。こんな山の中の小さな町に,往時の繁栄の記憶がひっそりと保存されている。まるで南欧の田舎の風景を彷彿とさせる、どこかエキゾチックな景観でもある。それ以来,是非一度行ってみたいと恋いこがれた。

 先述のように、平福はもともと城下町として建設された。佐用川を隔てて東に山があり、ここに山城、利神城があった。智頭急行線のトンネルの上に「利神城跡」の看板が見える。山上に見事な縄張りで石垣が築かれているそうだが、残念ながら集中豪雨で石垣が崩れ落ち、登山禁止になっている。播州、但馬など中国地方にはこうした山城があちこちに築かれている。去年登った和田山の竹田城も良く佇まいが似ている。山上の壮麗な石垣、麓の城下町... そういえば備中松山城を抱える備中高梁もそうだ。

 今回は姫路からJR姫新線で本竜野に行き、播州龍野の散策を楽しんだ後、憧れの宿場町平福を目指す事にした。本竜野からは播磨新宮まで各停で行く。そこで佐用行きに乗り換える。姫新線はその名の通り姫路から岡山県の新見までの路線であるが,地元の足として細切れにローカル各停を走らせているが、既に急行等の直通の列車はないそうだ。通学の高校生と買い物のオバちゃんが乗客の主体。乗ってたオバちゃんが、話しかけて来て、そんな事を教えてくれた。人なつっこくて優しい人達だ。

 佐用はJR姫新線と智頭急行線の分岐点。ここから智頭急行線各停(一両ワンマンカー)で鳥取方面へ一駅乗れば平福だ。平福駅は立派な駅舎が利神城の麓にそびえているが、無人駅。観光案内所辺りで地図もらおう,と思っていたが人っ子一人居ない。近畿の駅百選の一つとか。宮本武蔵が初めて13才で決闘した場所ということで、その看板と記念写真用等身大武蔵がポツンと。下車したのは二人の高校生と私だけ。高校生は駅舎内の庇の下に留めてあった自転車に乗って颯爽と町並みに消えて行った。小雪の舞い散る駅には私一人。深閑とした空気に急に寂しくなった。

 しかし、町自体は非常にコンパクトで地図はいらない。まずは車窓から観た土壁の町並みへ行ってみよう。しかし、ちょうど日は西に傾き、早くも山間の家並は陰に入って来ている。佐用川に架かる天神橋からの土蔵撮影ベストアングルは、真逆光!ああ、もっと早く来るべきであった。しかし、それでも赤土色の土蔵が美しい。あの心を奪われた川端の景観が目の前にある。やっと来たぞ,はるけき平福へ!

 ちょうど佐用川の浚渫作業が行われていて、水が濁っている。勝手に清らかなせせらぎをイメージしていたので裏切られた感があったが、水量豊かな脈々とした川の流れがかえって、土蔵から高瀬舟に荷物を積んで,忙しく各地に出荷していた往時を彷彿とさせる。旧因幡街道と国道が接する辺りに現代の「道の駅」があり、そこに平福本陣跡がある。国道が街中を外れて走っているために、旧因幡街道沿いの静かな平福宿の町並みが往時のままの残されているのが嬉しい。明治以降、鉄道が通らなかったため、かつての街道随一の繁栄を誇った平福宿は衰退し、であるが故の静けさと,美しい佇まいをタイムカプセルに留めている。近代化以前の日本の原風景。

 薄暗くなって来た無人の平福駅で、佐用へ行く電車(いやワンマンDL車)を待っていると,もう一人乗客とおぼしきオトウさんが、駅に向う一本道を歩いてやって来た。「寒いねえ」「かなんなあ、雪降ってきましたなあ」と話しかけて来た。都会と違って、これだけ誰も人がいないと,お互いの存在を無視し得ない。しばらくたわいない話で列車が来るまでの時間をつぶす。これから上郡まで行くと言う。私は佐用乗り換えで大阪へ帰る、と。こうした知らぬ人同志の何でも無いコミュニケーションが無くなってしまった現代人が、この地に似合わない事を実感した。


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(てんじん橋からの川端風景。ちょうど日が西に傾いてしまい逆光に)


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(赤土色の土壁が美しい。どこか南欧の小さな町の風景を彷彿とさせる)

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(土蔵は川岸から船で荷物を積み出せるようになっている。)

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(利神城のある山裾に智頭急行線が走る。スーパーはくとが通過中。)

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(撮影機材:NikonD800E, AF Nikkor 24-120mm)

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アクセス:JR山陽線上郡から智頭急行線各駅停車で約40分。平福下車。大阪からはスーパーはくとで佐用下車、乗り換えで平福下車で約一時間半。駅からは徒歩5分ほどで川端風景。


古代の大国「吉備」 ー四道将軍吉備津彦の吉備津神社探訪ー

2013年01月27日 | 吉備/播磨散策
 日本の古代史を明らかにする過程で、大陸から伝播した弥生の文明が北部九州(チクシ)から近畿(ヤマト)へと伝播して行く途中に登場する、いくつかの重要な国々の存在を無視する訳に行かない。それは筑紫国であり、筑紫の日向国であり、出雲国であり吉備国である。これらの国々は、魏志倭人伝に記された邪馬台国への道すがらのクニグニと一致するのか否か、どこに比定されるのかが常に日本古代史の論争になっているが、日本側の資料である記紀や風土記に出てくるこれらの国々は、確かにその実在の痕跡を今に残している。

 筑紫がヤマト王権の勢力下に入るのは、8世紀に編纂されたヤマト側の正史である日本書紀によれば、6世紀継体大王の時代の「筑紫の国造」磐井の「反乱」平定の時期であると言われている。弥生時代以降、文明先進地域である筑紫の「反乱」と「平定」は、出雲の國譲り神話のような神代の出来事ではなくて、比較的新しい事件として記述されている。多分、筑紫の磐井は「ヤマトから任命された国造」でも無ければ、この事件は「ヤマトへの反乱」でも無く、ヤマトとは別の大国筑紫の大王であったのだろう。ヤマトレジュームへの対抗勢力であり続けたのであろう。

 一方、日向平定の時期は明確ではないが、熊襲(邪馬台国と対立した狗奴国は熊襲勢力であろう)やその後の隼人と呼ばれた人々が統一大和に完全に服属するのは8世紀の奈良時代に入っての事、すなわち日本書紀編纂後のことだ。なぜそのような「蛮夷の地」日向が、天孫降臨の地、神武天皇東征の出発点であり、日本の発祥の地とされたのかは古代史の謎の一つだが,そのことはまた別途。ちなみに東北の蝦夷(エミシ)が大和に服属するのは8世紀末、奈良時代末期から平安遷都の時期だ。

 出雲は大国主の國譲り神話に象徴されるように、ヤマト王権成立過程で、その巨大な勢力をヤマトとの連合、いわば「國譲り」という形のアライアンスで安堵したのだろう。そのシンボルが「雲太」と言い習わされる出雲大社の巨大神殿であり、大和の大三輪神社である。いずれにせよ記紀に記述された「神話」の時代の話で、「歴史」的な検証が出来ていない時期であるが、ヤマト王権成立の極めて初期段階で起きたエピソードの一つだ。

 吉備は出雲とは少々異なる道を歩んだようだ。吉備津彦神社に伝わる伝承では、この辺りを支配していた悪者、温羅(ウラ)一族を吉備津彦が退治して、困っていた地元の民を救った、とされている。吉備津神社には温羅が投げたといわれる大石と吉備津彦が放った矢が当たって落ちたと言われる岩や、捕えられた温羅の首を埋め、今でも叫び声が聞こえると言われる鳴釜がある。8世紀に編纂された日本書紀や古事記においては、もともと吉備は朝鮮半島新羅からの渡来人に支配されていた地域であったが、崇神大王が全国平定のために使わした四道将軍の一人吉備津彦が、地元の渡来系の温羅一族を滅ぼしてヤマト王権の支配下にしたことになっている。崇神大王(天皇)は日本書紀に記述されている最初の実在が想定される天皇(ハツクニシラススメラミコト)であり、この征服劇が史実であるとするならば、おそらく3世紀後半から4世紀前半の出来ごとではないかと推定されている。

 これが「桃太郎の鬼退治」の物語りのルーツと言われる伝承である。この近くに「鬼が島」のモデルと言われる古代山城「鬼城」がある。ヤマト勢力の吉備津彦以前の地元の支配者(温羅など渡来系豪族なのか)の拠点であるとも、ヤマト勢力の吉備制圧の出城であるとも、あるいは7世紀の大陸からの侵攻に備える山城(筑紫の大野城、基城などのような)とも言われている。いずれにせよ吉備はヤマト王権に平定されたという歴史が伝えられている。

 しかし、吉備は奈良盆地で発掘された3世紀の纏向遺跡の土器や、箸墓古墳の特殊器台に吉備由来のものが出土している事で理解されるように、ヤマトに大きな影響を与えた国であった。またその後の歴史の中でも、奈良時代の吉備真備(吉備下ツ道の真備)のような,平城宮の朝廷に影響力をもつ有力な高官を輩出する勢力があった。畿内に近い吉備は大和との緊密な関係を持っていたのであろうが、どのような歴史を紡いで来たのか詳細は依然謎が多い。

 このようにヤマト王権の成立には長い時間がかかり、幾多の有力なクニグニ、在地豪族との激しい抗争があった。その間、各地域の群雄割拠状態であったのだろう。決して天孫降臨の権威を背景とした大王が権力を行使して、東遷しながら次々とその他のクニグニを服属させて行ったというようなリニアーな歴史ではない。日本書紀においても神武天皇の大和入りの苦戦,その後の歴代天皇による国土統一への遠く険しい道のりが語られている。

 ようやく天皇中心の統一ヤマト国家体制が整備されたのは、実に7世紀、壬申の乱に勝利して即位した天武天皇、その后、持統天皇の時代になってからのことだ。律令制の導入。天照大神の皇祖神化、公地公民制導入。仏教による鎮護国家思想導入。そして天皇制確立と、これを歴史的に権威付けるための古事記、日本書紀(記紀)の編纂。我々が現在入手可能なこれらの資料は,そうした時代背景を担って編纂された歴史書だから,それを理解して読み進めなければならない。

 吉備津神社はこの前述のような吉備の歴史を語る上で重要な神社である。主神は大吉備津彦命である。吉備はその後、備前、備中、備後の三国に分かれるが、この吉備津神社は三備一宮である。近くに、これと対を為すように吉備津彦神社があり、こちらは備前一宮とされている。この辺りは、中国地方独特のなだらかな甘南備型の山々に囲まれた穏やかな景観を持つ地域だ。吉備津神社への道は美しい松並木に縁取られ、その長い参道が吉備の盆地を貫いている。不思議なデジャヴ(擬視感)を覚える。まるで大和盆地や筑紫平野のような景観である。古代倭人達はこのような甘南備の山々に神を感じ、太陽と川からの水の恵みによる稲作生産活動を営み、微高地に集まって暮らした。弥生の稲作農耕文化から生まれたクニの原型は、このような共通する地形,景観,風土の中に形成されたのだろう。

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(吉備津造の本殿。国宝である。)

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(荘厳な拝殿。主神は大吉備津彦命。すなわち四道将軍吉備津彦である。)

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(松並木が続く長い参道は、古代吉備国の物語りへのタイムトンネルとなっている。)

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(参道からは甘南備型の山が望める。筑紫や大和の風景に重なる。不思議なデジャヴを体感する。)
 
アクセス:JR岡山駅から吉備線総社行きに乗り約20分。吉備津駅下車。駅前から続く松並木の参道を徒歩15分。

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(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)


天空の城、但馬竹田城 ー「日本のマチュピチュ」に遂に登ったー

2012年05月27日 | 吉備/播磨散策
 雲海に浮かぶ竹田城の写真を初めて見た時、衝撃を受けた。日本にもこんな幻想的な風景があるんだと。人は「日本のマチュピチュ」と呼ぶ。確かに... まあ標高2300mのインカ文明の痕跡マチュピチュとは一緒にして良いのやらわからないが、このような「天空の城」が日本に存在している事に感動した。そしていつかは行ってみたいと思うようになった。遂にその時が今日やってきた。

 兵庫県朝来市和田山。ここは但馬国。室町時代の1431年に但馬の守護であった山名持豊(宗全)により築城開始。1443年の完成し大田垣光景を城主とした。別名「虎臥城(とらふすじょう)」と呼ばれる。戦国時代末期には木下藤吉郎の但馬攻め、播磨平定ののち赤松広秀を城主としたが、関ヶ原合戦では広秀は西軍につき、敗戦後、廃城となった。現在は天守や建物はもちろん残っておらず、ただ見事な石垣が山上に連なっている。この石垣は、近江穴太衆が手がけた「穴太積み」である。のちの安土城や姫路城も穴太衆の石積み技法による城だ。

 この竹田城は標高353.7mの山頂に、南北400m、東西100mに及ぶ縄張りを誇る壮大な山城だ。400年経っても石垣はほぼ完全な形で残っており,日本100名城に選定されている。以前登った、大和高取城も山上の城で、こちらは標高583.8mの山頂に周囲3キロ、大天守、小天守合わせて33の櫓が立ち並んでいたという見事な城構えであったが、竹田城は一回り小さいものの城自体の景観が素晴らしい。向かいの立雲峡の展望台からは山上の天守、南千畳の全景が展望出来る。特に、秋の早朝の雲海に浮かぶ城の全景は、まさに「天空の城」そのものだという。今回はそれを写真に収める事は出来なかったが、いつか挑戦したいものだ(掲載した写真は朝来市のHPからの転載である)。

 この日は、まずまずの晴天。大阪から特急「はまかぜ」で姫路、播但線寺前(ここまでは電化されている)経由で和田山まで行き、一駅戻って竹田駅下車。そこからは登山道を900mほど徒歩で行く。距離はたいした事無いが、急峻な階段状の坂道を上るので、息が上がった。しかし、上り切ると登り甲斐のある素晴らしい眺望が迎えてくれる。山上からは但馬、播磨両国、360度を見渡すことが出来る。足下に竹田の城下町が広がる。そして何よりもこのような山上に展開する広大な城跡。天守台を中心に南千畳、北千畳、花御殿という広場が三方に展開する。いずれの地点からも素晴らしい景色が楽しめる。石垣には柵も無く、直下に竹田の町が見える等、足がすくむようだ。高所恐怖症の人にはチョットきわどいか。

 城下の竹田の町並みは美しい黒瓦の連続で均整のとれた景観を形成している。現在の家屋は主に大正時代の建築だそうで、比較的新しいが、落ち着いていて、あまり俗化されていない静かな町だ。バイパスが川の向こうに造られ、町を完全に迂回してくれたのが良かったのだろう。城のある山の麓と竹田駅との狭い道沿いが寺町通り。古くからの寺院が四軒連らなってており、白壁沿いの水路には鯉が泳ぎ、古い石橋が架かる落ち着いた町並みを形成している。

 駅にある観光案内所では、丁寧な案内をしてくれて心地よい。以前は、竹田城と言っても、観光スポットとしてはそれほど知られておらず、人が押し掛ける事は無かったそうだが、最近は一種の「秘境」ブームや、インターネットでの情報流通で、絶景スポットとして人気が出ているようだ。この日も播但線の一両編成のディーゼルカーからは、カメラ担いだ、いかにも中高年男子が約3名、私と同時に下車した。列車到着組は30分ほどゼイゼイいいながら,急峻な坂を上り、山頂の城跡にたどり着く。こりゃウオーキングシューズは必須だ。と、山上の展望所に着くと、ベンチには、5センチのヒール履いた、ヒョウ柄パンツのオネーチャンが座っていて、雄大な景色見ながらケータイでシャベクリまくっているのに遭遇して愕然。なんじゃこりゃ! 車で途中の駐車場まで来れるようだ。そこからは舗装した道をタラタラ5分ほど歩けば山頂に着くのだそうだ。以前、高取城に登った時も同じ「愕然」を味わった事があったっけ。頂上に場違いな背広姿のオッサンの集団がいた事にショックを覚えた記憶がある。

 「関西歩こう会」ご一行様約200人の中高年の団体さんが、大阪からバスを連ねてやってきた。バスは駅前の駐車場に止めて、先導役の人の旗に導かれて麓からここまで登ってきたそうだ。みんな元気だ。そういえば杖ついたおばあちゃんや、車いすの人まで山上にいて,ビックリしたが、こうして皆がこの素晴らしい景観を楽しめるのはいい事なんだと納得した。自分は汗かいた分だけ感動も人一倍だ,とイイ聞かせつつ。

 帰りは和田山まで出て、特急こうのとりで、福知山線経由で宝塚まで。そこから阪急電車で帰宅。行きも帰りも片道約2時間行程なので日帰りできるのがうれしい。

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(兵庫県朝来市のホームページから転載。)

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(兵庫県朝来市のホームページから転載。)

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(撮影機材:NikonD800E, Nikkor AF Zoom 24-120, Nikkor AF Zoom 80-400. Picasa用に画素数を落として掲載)