時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

歴史の台地 上町台地を俯瞰してみる

2016年12月30日 | なにわ大阪散策

あべのハルカス60階展望室より「上町台地」真北方向を望む。

南北に走る真ん中の道は谷町筋。左手前は天王寺公園、住友慶沢園、茶臼山古墳。

その上方に見える緑地帯は夕陽ヶ丘の寺町地区。ここが昔の上町台地の西の端で断崖が海に落ち込んでいた。

左上方の高層ビル群あたりが梅田、御堂筋、堺筋のビジネス街。弥生後期、古墳時代は海の中だった。

谷町筋の右に見えるのは四天王寺。上方に小さく大阪城が見える。難波宮跡も大阪城の手前に位置する。

今やビル群に覆い隠されてどこが台地なのか分かりにくくなってしまったが、仔細に見るとその痕跡があちこちに見てとれる。

 

 

 

四天王寺

飛鳥時代574年に聖徳太子によりこの台地上に創建された

 

四天王寺の北。上町筋の延長線上に難波宮/大阪城(石山本願寺跡)が見える

いずれも台地の頂上部に建てられたことがわかる。

 

 

 

大阪城(石山本願寺跡)

ここが上町台地の北端であった

東方向、大和と河内を分ける二上山。

手前が河内(かつては湖/海だった)、山向こうが大和国(奈良盆地)。

 

西方向、大阪市街地を隔てて大阪湾、さらには明石海峡大橋、淡路島が遠く見える

 

 

谷町筋の果てにはキタ、梅田のビル街が展望できる。

 

四天王寺西門前

仏教寺院に鳥居という神仏習合の原初の姿だ

 

 

 

四天王寺境内

 

その四天王寺西門を出ると、大きな坂が急勾配で西へと下る。

ここが上町台地の頂上であることがわかる場所だ。

「大坂」という地名の由来の場所と言われている

(天王寺区逢坂。四天王寺夕陽ヶ丘界隈)

 

 

 

 

弥生時代後期〜古墳時代頃の大阪。

上町台地は海に突き出た半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。

台地西側の現在の大阪市中心部はまだ海の中。東側の現在の河内平野は、淀川と大和川の流入による土砂によって海から切り離されて、河内湖に。後にはやがては土砂の堆積が進み干潟、平地へと変化してゆく。

 

江戸時代中期18世紀の大坂古地図

右側(東側)が上町台地部分(「御城」と「四天王寺」)

左側(西側)東横堀と西横堀に挟まれた船場。その西が西船場。さらに西が天保山。

大川の北は天満。南が長堀と道頓堀に挟まれた島之内

 

 

 あべのハルカス。JR天王寺駅前、近鉄阿部野橋駅上という立地。横浜ランドマークタワーを抜いて日本一の高層ビルとなったことと、周辺に遮る建物もないため大阪の街が360度展望できることで、新しい大阪の観光スポットとして大人気だ。とうとうあの通天閣が足元に見える仕儀となった。大型施設、新し物好きの大阪人が喜びそうな建物だ。しかしその構造は高さ300mにするためにビルの屋上に展望用に鉄骨を三段組み上げ「屋上屋を重ねた」ような作りだ。実際エレベータを降り60階の展望フロアーに降り立つとなんかユラユラ揺れているような気もする。外から見るとまだ工事中のように見える。どこか風格と威厳を感じるビルに見えないのはそのせいか?

 

 それはそれとして、私「時空トラベラー」にとっては、古代からの歴史の舞台「上町台地」全景を俯瞰できる場所が出来たということが画期的なのだ。今までは空から飛行機で見るしかなかったのだが、1500円(65歳以上はシニア割引で1000円!)払えば誰でも登って数々の歴史の現場を俯瞰できるようになった。もっとも、現在の上町台地は市街地の建物群に覆われてしまい、どこがそれなのか、にわかには判然としない状態になっている。しかし見る人が見ればいたるところに「台地」「半島」という地形とかつての海との高低差を、そしてそこで繰り広がられた人間のドラマの痕跡を確認することができる。茫漠たる市街地ビル群の風景の中にその地形的痕跡と歴史の証を見つける楽しみは何にも代えがたい。歴史は時々「マクロ的に俯瞰する」ことが大事だ。そうすることで一つの事象/事件が長い時間の中でどのような意味を持つのか見えてくることがある。また時代が異なっても共通の理(ことわり)が潜んでいることも理解する。ここ上町台地のように古代から歴史の舞台となった土地をこうして高いところから睥睨し俯瞰していると、時間を巻き戻しながら、脳内で眼前のビル群を引っ剥がして過去にタイムスリップする3D映像が妄想される。まるで時間の流れを俯瞰しているような感覚にとらわれるから不思議だ。

 

 実際、揺れのない高速エレベータを降り展望フロアーに立って目に飛び込んでくる大阪の大パノラマは感動ものだ。周辺にこのビルに匹敵する高さの建造物がないのでぐるりと見える。上町台地だけでなく、東は二上山から生駒山。西は大阪湾から遠く明石海峡大橋、淡路島まで見える。南に目を転ずると、足元の阪堺電車の先に住吉大社、堺をへて、紀伊半島の山々が眼に飛び込んでくる。飛鳥時代574年に創建された四天王寺から、7世紀大化の改新後の孝徳天皇の難波宮、16世紀後半戦国時代の一向宗石山本願寺、そして太閤さんの大坂城。大坂の陣で徳川方、大坂方(真田信繁)共に砦を築いた茶臼山古墳も真下に見える。日本の歴史の表舞台に登場したゆかりの場所がここ上町台地に集中している。各時代の権力者は高台を好む。文化は高台に生まれる。

 

 それもそのはずである。ここは弥生後期から古墳時代は海に突き出した半島(山塊と砂嘴で出来た)であった。現在の大阪のキタ/ミナミをつなぐ繁華街はまだ海の中。半島の西側の海岸べりに古代難波の津があった。また東側の現在の東大阪あたりの河内平野は、縄文時代には瀬戸内海とつながった海であった。それが弥生時代後期頃から淀川や大和川から流入する土砂が堆積しで海から遮断され、汽水湖(河内湖)になった。記紀にも神武天皇の東征軍は瀬戸内海から河内の海へ奥深く入り、生駒山麓の草香江の津から上陸して大和に攻め込もうとしたとある。河内は海/湖だったのだ。16世紀末、太閤さんが上町台地の北端に(もと一向宗の石山本願寺があった場所に)大坂城を築いた。やがて上町台地西側に船場、島之内、西船場という掘割に囲まれた東西南北の町割(太閤割)を開いた。こうして巨大な商業都市が生まれ、人/物/金が集まる難波/大阪は「天下の台所」として、さらには明治以降は「日本一の経済都市大大阪」として繁栄することになる。しかし、それは16世紀以降というのちの時代の話。それまではこの台地の上に全ての歴史の現場が集中していた。

 

 

 上町台地は西側の勾配が急である。四天王寺から難波宮、大坂城に続く上町筋が馬の背であるとすると、谷町筋から西は急速に勾配が落ち、松屋町筋へと下る。四天王寺西門から、今宮戎方面に向かう大通りは下り坂になっている。ここは「大坂」の地名の由来となった場所だと言われている。現在の町名も「逢坂」である。さらに平野町/夕陽ヶ丘の寺町地区へ行くとかなりの崖になっているのがわかる。この辺りは太閤さんが街造りをするときに、摂津平野郷から多くの住人を遷して住まわせ、寺社を集めた。防衛上だろう。今でも崖の上と下に連綿と寺町街が形成されている。ここらには「天王寺七坂」がある。夕日が綺麗ななにわの名所として江戸時代から人気の場所であった。地名の「夕陽ヶ丘」も、ありがちな昭和的なネーミングトレンドから後世につけられた地名ではなく、古来より西方浄土に向かう夕陽を拝む土地という意味で、夕陽が美しく拝める崖っぷちであることから名付けられていたもの。この辺りの坂はどの坂も急勾配で、立ち並ぶ寺院の合間を下って行くと上町台地が海面に対して大きな高低差を持っていたことがわかる。実際大坂城あたりで標高は36メートルほど、天王寺あたりで16メートルほどだそうだ。

 

 上町台地が高台であるということを語るエピソードにはこういうのもある。父の世代の人の話を聞くと、昭和20年の大空襲で大阪の街が焼け野原になった時、上本町から大阪湾が見渡せたそうだ。坂の上から見渡す大阪の市街地は焼けて無くなってしまい遮るものもなかったというのだ。今では台地の断崖に位置する「天王寺七坂」に立っても、高層ビルが林立していて、大阪湾はもとより市街地の眺望も利かず、ここが高台であることを感じさせない。この空襲では、大阪城周辺の砲兵工廠などは徹底的に破壊された(その跡地がOBPオフィス街や大阪城ホールになっている)。惜しいことに四天王寺も金堂や五重塔など多くの堂宇が空襲で焼けてしまった(現在の建物は戦後鉄筋コンクリートで再建されたもの)が、上町台地は空襲を免れた地域が多かった。天王寺真法院町や北山町、上本町、高津、清水谷、真田山あたりは今でもお屋敷街の佇まいが残っている。谷崎潤一郎の「細雪」の船場の御寮人さん、いとはんの世界だ。船場の資産家のお屋敷はこの辺りであった。そうしたことから緑地が少ないといわれる大阪の街の中でも、このあたりは緑濃い山手の雰囲気を今も残している。勿論、多くの寺院が軒を連ねる地区も貴重な緑地帯と成っている。こうしてあべのハルカスの展望台から俯瞰するとき、そうした緑のあるスポットを探して行くと、上町台地という地形の記憶と、1400年の歴史の痕跡を見つけ出すことができるだろう。

 

 

 


阪堺電車で行く住吉大社(すみよっさん)

2012年09月24日 | なにわ大阪散策
 大阪市内に唯一残る路面電車、阪堺電車。天王寺駅前から浜寺公園、住吉公園へ向う上町線と、恵比須町から堺へ向う阪堺線の2系統が運行されている。沿線は大阪のディープサウス、まるで昭和の空間だ。映画「Always3丁目の夕陽」の世界だ。電車の窓から見える建設中の阿倍野ハルカスが、建設中の東京タワーの画にかぶる。

 今回は天王寺駅前から住吉大社まで約15分の路面電車旅。運賃は均一で200円(290円から値下げされたらしい)。その住吉大社は全国の住吉社の総本宮で摂津国一宮。博多の住吉神社、下関の住吉神社とともに三住吉と呼ばれる。ちなみに博多の住吉神社は筑前国一宮で、一番古い創建といわれている。

 お社は住吉三神と神功皇后を祀り、四本宮ある。三本宮が東西一列に並び、第四本宮は第三番本宮の北に建つというユニークな住吉造り。正面の鳥居は西向きで、かつての難波津を向いている。博多の住吉神社も冷泉の津に面して西向きであったといわれるように、住吉三神は海運、海軍の神様である。住吉大社は神功皇后の三韓征伐の無事帰還の際に創建された由。という事で伝承では西暦200年の創建ということになる。すなわち魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼の時代、ということになるのだが。

 辺りは関西独特の神社仏閣の周辺に出来た街の雰囲気を色濃く残している。四天王寺や大阪天満宮辺りにと同じ匂いがする。お参りの人々は文字通り老若男女を問わない。反りのキツイ太鼓橋を欄干に掴まりながら「きいつけや」「急ぎなや」などと声かけながら渡る。四本宮を一つ一つ柏手を打ってお参りする。お参り済んだら「たこ焼きよばれていこか」となる。かなり年配のおトーさん、おカーさん夫婦も、チョット怖いオッチャンも、ヒョウ柄のオバちゃんも、ヤンキーのニイちゃん、ネーちゃんも、ここへ来ると皆救いを求める神の赤子だ。街角にはあちこちに地蔵堂があるように、大阪の街には庶民の信仰が満ち満ちている。「神と仏の違いなんか関係あるカイ」ちゅうわけや。そこにあるのは、どっちゃかちゅうと極楽浄土ではなく現世利益のような...

 そしてこのワンダーランドを結ぶチンチン路面電車だ。質屋やパチンコ屋の広告を派手派手しく塗りたくった電車。これがいやが上にも、大阪を大阪らしくしている感じがする。よそ行きのすまし顔とは違う「大阪の品格」や。東京の都電荒川線とも,地方の路面電車とも違う独特の佇まいを醸し出すのが阪堺電車だ。時空トラベラーが思わず小躍りしてしまうぶらり旅だ。

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(撮影機材:Fujifilm X-Pro1 )

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大阪駅物語 ーカオス梅田の進化ー

2011年06月19日 | なにわ大阪散策
 今年の5月に梅田の大阪駅がリニューアルオープンした。連日すごい人出で、久しぶりに大阪も大都会になった感じがする。こういうと大阪人は怒るが。これで東京並みの人出の町となった。

 大阪の町は江戸時代の町衆の北組、南組の区分、また御堂筋の北御堂、南御堂のように、南と北、いや、「ミナミ」と「キタ」に大別出来る。キタの中心はなんと言っても梅田。これがまたややこしい。大阪駅前と言わずに「梅田」という。ちなみにミナミの中心は難波。こちらも南海,近鉄,地下鉄御堂筋線、少し離れてJRが集まっている。
 キタは阪急電車のターミナル駅も「梅田」。阪神電鉄のターミナル駅も「梅田」。地下鉄御堂筋線も「梅田」。唯一JRだけが旧国鉄時代から駅名は「大阪」。地元では「梅田」と言えば大阪駅周辺のことだ。

 その「大阪駅」が大きくリニューアルされて大阪の新名所になった訳だ。元来大阪は、大坂城を始めとして、世間の人をビックリさせる建造物を造って自慢する傾向があるが、この新「大阪駅」ビル、いやいや、Osaka Station Cityは、その大阪の歴史上もアッと驚く建造物の筆頭に数えることが出来るだろう。駅が南北の大型デパートに挟まれサンドイッチ状態なのはまだしも、プラットフォームの屋根の上にさらに巨大な屋根をかぶせる、という、「屋上屋を重ねる」をやってしまっている。その割には電車待ちでホームに立っていると雨の日はしぶきが降りかかる、という苦情が絶えないなど、「どないなってんねん?」度も満点だ。

 まだまだこの辺りの再開発は終わって無い。大阪駅の北側にあった(今も少し残るが)旧国鉄の北ヤードの再開発が着々と進んでいる。ワールドカップ誘致の目玉に、ここにデッカいサッカースタジアム建設するプランが発表され度肝を抜いたのは記憶に新しい。幸か不幸かワールドカップの日本誘致は失敗に終わり,この計画もウヤムヤになったが、成功してたらどうなってたんだろう。建設資金の当ては無い計画だったのだから... そんなことは横に置いて、ビル群はドンドン建設ラッシュ。ここに大阪一の新たなオフィス街が登場する。しかし、誰が入るねん... このご時世。

 そもそも梅田はJR大阪駅の脇腹に突き刺さるように阪急が駅やデパートやショッピングモールを張り出している。、阪神デパートは駅前に堂々と店を構えて,一種独立峰を為しており、その地下が阪神電車の駅となっている。しかしそこへ,地下鉄御堂筋線、谷町線、四つ橋線がテンデに「梅田」「東梅田」「西梅田」駅を開設しそれぞれと大阪駅、阪急、阪神各線へのを乗り換えの利便の為に地下街で結んだ。その結果としての地下街の迷路ぶりが悪名高いが、これで地上というか、空中と言うか、全ての次元で迷路状態になった訳だ。全く人の動線を考慮に入れた造りとなってない。

 子供の頃、梅田の地下街の迷路ぶりを経験してショートSF小説を書いたことがある。我ながら良く出来た話だ、と自画自賛していたが、学校での夏休みの宿題作品展では全く評価されなくて悔しかった覚えがある。話は単純。梅田の地下街の雑踏を歩き回っているうちに迷い、ふと気がつくと東京の八重洲の地下街にいた,というもの。時空を超えた,と言いたかった... ダメかな?

 話は戻る。駅はシンプルであるべきなのだが、無理矢理集中させて,人が集まるのでそこに、商業施設を創ったり、こちゃこちゃした細工、小道具、仕掛けが多すぎて、スッと電車に行き着かない。エキナカがデパ地下になってしまっている。表から北側のヨドバシカメラにいけないことが最近苦情となっているようだが、そんなことだけに留まりそうもない。何処を歩いてるのか分からなくなる。行き止まりが意外に多い。大丸、三越伊勢丹、何タラ言うファッションビル、やたらに人を集めているが,それぞれどう違うのかよくわからん。人間の欲望と見栄と公共建築とが渾然とするとこのようなカオスがうまれるのだろう。

 そんな中で右往左往してる人を見てるのが面白い。都会のフロアーの模様の上をまるでマスゲームをさせられるように行き交う人々。一列に並ばされたり、ランダムに行き来させられたり。天井に吸い込まれたり。「時空の広場」はワンダーランドだ。ふとホームを見下ろすといつもの電車待ち行列に並ぶ乗客をを「上から目線」で楽しむことが出来る(大阪のホームでも並ぶようになったのは格段の進歩だが)。部分部分を見ると楽しく美しく都会的だが,全体最適のプロデュースが出来てない。今の日本の状況の縮図のような駅の中で、人々は「大阪も変わったやろ」「めっちゃおもしろいわあ」「ごっついなあ」などといいながら出口の無い回遊を楽しんでいる。

 近鉄大阪上本町駅の隣に出来た上本町Yufuraでの写真がおまけでついてます。こちらのキーワードは「自転車」。駅前の放置自転車の数がハンパでない...のはともかく。駅コンコースをママチャリが走り抜ける町... 「自転車での通り抜けお断り」という張り紙をこのようなターミナル駅で初めて見た。

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大阪中之島公園バラ園

2011年06月05日 | なにわ大阪散策
 堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島公園。明治24年(1891年)に大阪市に初めて建設された公園である。中之島自体は西はロイヤルホテルや大阪大学医学部趾があるビジネス街。淀屋橋界隈は大阪市役所、大阪府立図書館、中之島公会堂、東洋陶磁器美術館。そして、難波橋から天満橋方面には中之島バラ園が広がっている。天神橋が渡る辺りは公園の先端に噴水もあり、パリのシテ島にも比肩しうる風景となっている。

 ここは水の都大阪の都心のオアシスだ。難波橋から階段を下るとそこはバラ園。天神橋から天満橋を望む中洲の先端部まで都心にしては広々としたバラ園と芝生広場が広がっている。バラは珍しい種類のものも数多く咲いている。

 今日は梅雨の合間の晴れ。大勢の人がこのお天気とバラに誘われて集まって来ている。皆一様の携帯カメラで写真撮っている。私は携帯カメラはカメラと認めてないが、こうして皆が「カメラ」を日常的に持ち歩いて、ふとした風景や、心に留まったアイテムをカシャリと撮る。撮りたいと思った時に何時もカメラを持っているということが大事だが、結構傑作が沢山撮れていることだろう。携帯カメラ普及も悪いことではない。

 ともあれ咲き乱れる美しいバラの花々をご覧あれ。

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大阪城京橋口 つわものどもの夢のあと

2011年06月03日 | なにわ大阪散策
 大阪城公園の東北にそびえ立つOBP (Osaka Business Park)のビル群、大阪の新しいビジネス拠点として住友、パナソニックなどの地元企業が中心となって再開発した新都心は、かつては幾多の戦いの場であった。

 大和川,寝屋川、猫間川などの合流する中洲地帯であったこの一帯は、弁天島とよばれ、古くは石山本願寺攻略戦や大坂の陣の古戦場であった。淀どのの遺体を埋葬した祠があるとされている。江戸期には大坂城代の京橋屋敷がおかれ、さらに時代が下り、明治維新後は,ここには大阪造兵工廠が設けらる。1945年8月15日のアメリカ軍の猛爆撃で壊滅するまで東洋一の兵器工場として有名であった。

 私が子供の頃(小学校低学年ころ)、祖父母のうちに遊びにくるときは、大阪駅から鶴橋まで環状線で移動し、そこから近鉄で奈良のあやめ池まで行くのだが、京橋駅周辺、森ノ宮駅周辺には広大な工場の残骸が広がっていたのを記憶している。戦後の再開発はなかなか進まなかったようで、終戦から15年経った1960年時点でも、大阪の街の中に広大な廃墟が横たわっているような状況だった。

 戦前の大阪は日本一の商業都市であり大大阪の繁栄を享受していたが、同時に「東洋のマンチェスター」と称せられる程の工業都市でもあった。街中にも様々な工場があって、当時の絵はがきや名所地図を見ると煙突マークがいたるところに見受けられる。江戸時代にさかのぼると住友家の銅の製錬所が島之内にあったくらいだ。

 そして、この大阪造兵工廠がその最たるものであった。しかし、考えてみると当時は大阪の街のど真ん中にこのような巨大な兵器工場が存在していたなど驚きだ。大阪城そのものがもともと要塞として構築されたことは知っているが、明治以降は城内に大阪鎮台、のちに帝国陸軍第四師団司令部が設けられ(今でも中世欧州の城風の建物が残っている)、その周辺にこのような砲兵工廠や化学工廠、被服工廠などの軍関係の工場が取り巻き、まるで軍事要塞の様相を呈していた。大阪は軍都でもあったのだ。

 ようやくこのような廃墟が整理され再開発が進んだのは1970年代に入ってからのこと。現在は高層のオフィスビルの他、いずみホール、ホテルオークラ、大阪城ホールが建ち並び、公園も整備されて市民の憩いの場にもなっている。環状線にも「大阪城公園」駅が新設された。森ノ宮駅にはJRの電車区が設けられている。

 ちなみに大坂城京橋口には太閤秀吉の時代には、壮麗な漆塗り屋根付きの京橋御門が架けられていたらしい。これは、当時太閤秀吉が大坂城の北東、すなわち京への玄関口に、天皇の行幸を迎える為の橋を架けさせたものだという。そのような壮麗な橋は現存していないが、確かにこの辺りは大川、淀川の通じて京への玄関口であった。

 さらに幕末の時代、戊辰戦争に敗北した幕府軍の総帥徳川慶喜が密かに大坂城を脱出したのもこの京橋門だと言われている。大川に出て八軒家浜から船にのり江戸へ逃げ帰った。

 このように多くの戦にまつわる土地だが、いま、OBPの高層ビルの最上階から展望すると、大阪の街は美しい。深い緑に包まれた大阪城を眼下に見て、大川にかけられた天満橋、天神橋、難波橋を望むことができる。大阪が「水の都」と称せられる訳がよくわかる。特に夜景が美しく、天神橋のライトアップされた二重橋はまるでパリのシテ島に架かる橋のようだし、洲の先端から30分ごとに吹き出す噴水すら見える。西側には堂島、中之島辺りのオフィス街の夜景が広がっている。かつての様な大大阪の繁栄は無くなってしまったが、平和で近代的な街に生まれ変わった。

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(新緑美しい大阪城公園。その南側から天守閣とOBP(Osaka Business Park)を望む)

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(OBPツインタワービルの最上階から大阪城公園を見下ろすことが出来る。京橋門が見える)

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(夕闇迫る大阪城天守閣。城の南側にはNTT西日本本社やNHK大阪放送局、大阪歴史博物館が見える。さらに向うに通天閣がライトアップされているのが見える)

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(こうして見るとこの辺りが、かつてはいくつもの川に囲まれた水運の重要拠点であったことがわかる)
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(西に眼を転ずると堂島、中之島辺りの大阪のビジネスの中心街を見渡すことが出来る。平和で美しい都会の夜景だ)

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(水の都大阪。ライトアップされた天満橋、天神橋が美しい。特に天神橋と中洲の光景はパリのシテ島の風景を彷彿とさせる)