時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

福岡城と鴻臚館 ー半島に築け時代の館をー

2012年06月16日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策

 忙しい一週間が終わり、やっと週末に。しかし,季節は梅雨。今日から本格的に雨が降り出した。時空トラベラーもこの週末は自宅引きこもり。ってことで、出かけずに,ブログ書き。

 福岡城は別名舞鶴城とよばれ、黒田如水、長政父子の築城になる名城だ。関ヶ原の後、徳川氏から筑前52万石を与えられ、豊前中津から筑前に入国した。最初は小早川隆景が開いた名島城に入城したが、領国経営には手狭という事で、那珂郡警固村福崎に地に築城開始した。ここは当時は博多湾に突き出した半島のような場所で、東は古代の冷泉の津を隔てて博多の町、西は湾入する潟(草香江)、北に博多湾、南に赤坂山、大休山という要害の地であった。

Img_595535_21663289_2
(福岡城内配置図。福岡県立図書館蔵)

 城郭の形式は、黒田長政が朝鮮出兵時に知った晋州城を参考にしたという平城である。天守台、本丸、二の丸、三の丸の四層構造で、47の櫓が設置されていた。加藤清正築城の名城熊本城のような壮大さは無いが、合理主義者の如水、長政らしく、戦国乱世の城ではなく、平時の城としての実用性と合理性を体現した城だと言われている。外濠は浅く、城壁は低く、石垣も無い構造だが、隠密等が進入しようとしても浅すぎて隠れることが出来ず、高い石垣が無いので見つかりやすい構造となっている。西側はかつての草香江の入り江をそのまま利用した広大な大堀を配し(現在の大濠公園)、北は湾を埋め立てて武家屋敷や町人町を配す。東は古代からの港町博多。那珂川まで中堀(紺屋町堀)、肥前堀を配した(いずれも埋め立てられて現存しない)。南は大休山と(現在の南公園を含む桜ヶ丘エリア)いう縄張りであった。

 よく話題になる天守閣は、「無かった」というのが定説のようになっているが、「あったが破却された」という記録も。現在も立派な天守台跡が残っている。最近、観光の目玉として、天守閣「復元」の話も話題に上っているようだが、イマイチ盛り上がりに欠けているようだ。そもそも、お城自体,もっとキチンと整備しないと,石垣は草ぼうぼうで,崩れかけているところすらある。47あったという櫓の位置や、遺構の確認、検証も必要だろう。少なくともホームレスのブルーシートが点在するようでは城跡公園としては如何なものか。国立病院の移転、平和台球場の廃止、そして高等裁判所の六本松移転等、徐々に城内の城跡公園としての整備が進んでいるが。

01_01
(江戸時代の福岡と博多)


 


 







 明治維新以降は城内には、一時福岡県庁がおかれたが、のちには陸軍の練兵場や兵舎がおかれ、屋敷や多くの櫓が破却された。戦後は、一世を風靡した「野武士軍団」、西鉄ライオンズのフランチャイズ、平和台野球場や、福岡国際マラソンの平和台陸上競技場、国立病院、福岡高等裁判所、戦後復興住宅などが立ち並び、堀と石垣の一部が残されたものの城としての様相が薄れてしまった。子供の頃見た、お堀越しの石垣上に平和台球場の大きな照明塔が立ち並ぶ光景を思い出す。また47あった櫓もほとんどが無くなり,唯一潮見櫓が大手門脇に復元されたが、最近ではこれは潮見櫓ではないとの見解が有力。また、祈念櫓が復元されたが,これも最近の研究ではオリジナルか否か疑わしい、と。大手門(下の橋御門)が不審火で焼失したが、これを最近復元した。これもオリジナルの形が不明とのこと。このように福岡城の詳細は資料も不十分で,これだけの大大名の居城にしてはあまりにも記録が残っていない。

O0800050410811423643_4

(博多古図。右が冷泉の津,博多、左が草香江。半島部が警固村、平尾村。その先端に現在の西公園がある。当時は島だったのだ。住吉神社に奉納されているもので、時代は判明していない)


0401b
(鴻臚館想像図。福岡市教育委員会パンフレットより。このように博多湾に突き出した岬の先端に立地していたようだ。左上の島は現在の西公園)

 








 


 
 ところで、この福岡城内に飛鳥時代、奈良時代、平安時代(7世紀後半~11世紀前半)にもうけられたという鴻臚館があったのでは、という説を唱えたのは、九州帝国大学医学部の教授であった中山平次郎。大正時代の事である。それまでは、江戸時代以降、鴻臚館は博多の呉服町付近にあったのでは,という説が定説であった。1987年の平和台球場の外野スタンド工事の時に地中から遺跡が出て来た。これが古代筑紫館、鴻臚館の跡である事が発掘により判明した。中山博士の予測通りであった。

 その後平和台球場は廃止され、その後では鴻臚館の発掘作業が現在も続いている。しかし、先程も述べたように、この地は古代には冷泉の津と草香江の挟まれた半島のような地形で、博多湾に突き出していた。「警固(けご)」という地名が示すように、天智天皇の時代に663年の白村江の敗戦後の倭国防衛の最前線の那の津に警固所が設けられ、防衛拠点とした。そして戦時の緊張関係が和らぐと,今度は大陸との交流の拠点として鴻臚館を設置した訳だ。後世,偶然にも同じ地に黒田父子が福岡城を構築したことになる。このような半島のような地形を人々は歴史の舞台に好んだのだろう。大阪の上町台地も往時は難波津と河内湾に挟まれた半島状の台地であった。その先端に四天王寺や難波宮、石山本願寺、そして大坂城が次々と設けられた。時代が変われどもそのような立地が好まれたように。

<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5749626605386878913%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
  <embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5749626605386878913%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed> (撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon Lens 18, 35, 60mm)


筑後柳川 ー水郷と白秋のまち。そしてうなぎのせいろう蒸しー

2012年06月03日 | 日本の古い町並み探訪
 川下りと北原白秋で有名な水郷柳川(柳河)は、筑後南部、立花氏13万石の城下町だ。しかし、あまり「城下町」という印象は薄いかもしれない。むしろ倉敷や佐原のような、漠然とした商業町のイメージがある。一つには水郷地帯に築かれた平城で城跡がはっきりしない事があろう。観光写真も、殿の倉や並蔵のような水路沿いの蔵屋敷のイメージを強調している事もあろう。ちなみに、筑後国は江戸時代は北部が久留米有馬藩21万石で、筑前国のように黒田家が一国支配する体制とは異なっていたようだ。

 立花家は、もともと九州の有力大名大友家の重臣であった。筑前立花城主の立花(戸次)道雪の娘で、8才で主家に安堵されて女城主(城督)となったギン(門構えに言)千代の婿養子として、高橋家から立花家に入った宗茂(あの岩屋城主高橋紹運の嫡男)が、島津氏との戦いでの功績が豊臣秀吉に認められて、筑後柳川13万石の大名に取り立てられた。しかし関ヶ原の戦いでは西軍側に組したため、敗戦後は徳川から家臣共々領地を追われ,浪々の身になってしまった。替わって三河岡崎から田中吉政が入国し、現在の濠割を巡らせた柳川城下町の基礎を造ったと言われている。しかし、田中氏は跡継ぎが居らず、20年あまりの領地支配の後、御家断絶。徳川に恭順した立花氏が再び元の領地に入国するという異例の展開となった。立花家は幕末まで続き、明治維新後も柳川に留まり、現在の御花(旧立花邸)の当主である。

 柳川は大きく、柳川城内、その東北に位置する柳河城下町、西の沖端町の三つに分かれる(添付の古地図は上下が東西方角になっているので、左上が柳河城下町、右下が沖端となる)。これらの町割りは現在も、掘割と小路でそれと確認出来る。柳川城内も掘割ではっきりとその範囲がわかるが、天守は現存せず、城壁もあまり残っていない。沖端は沖端川に面した湊町であったが,現在も沖端漁港となっている。
M99901js0603r_2

 「御花」は観光の中心であるが、先程も述べたように現在も旧藩主立花家の邸宅である。堂々たる大広間を持つ屋敷と広大な庭園、松涛園、そして明治期に元藩主が好んで建てた洋館が、ここでも正門の向こうにそびえている。屋敷の大広間から眺める白亜の洋館は、妙にマッチしていいる。

 北原白秋の実家は沖端に位置している。立花邸からそれほど遠くないところにあるが、この辺りは城下町というよりは、もう漁港の雰囲気である。近くには櫂や櫓を売る古い店があったが、今回行ってみると、きれいに改装されてお土産屋さんになってしまっていた。沖端漁港は、今はコンクリート護岸工事で整備されてしまったが、昔は、有明海の干満差の大きい港で、干潮時には泥底が露呈した上に多くの小型の漁船が乗り上げている光景が独特の景観を呈していた。昔ながらの風情をいつまでも残すという事は難しいものだ。ただ、木造の水産橋が、朽ち果てた橋脚をさらしていて、やつれ感を漂わせている(ちなみにこの橋は車両通行禁止。しかし、人は渡っていいようだが、何時崩落してもおかしくない有様だ)。

 柳川といえば、うなぎのせいろう蒸しが名物だ。子供の頃、両親に連れて行ってもらって初めてせいろう蒸しを食べた事を覚えている。たしか若松屋という店だった。今も掘端にある。せいろう蒸しとは、せいろうにご飯を盛り,その上にうなぎの蒲焼きを乗せてタレをかけてフタをして蒸す。味がしっかりとうなぎとご飯に沁みてアツアツをふうふう言いながら食べる。うまい!なかなか東京や関西ではお目にかかれない。博多には中洲川端に店がある。名古屋のひつまぶし、なんぞというお茶かけて食うみたいなヤツはあちこちで目にするが、この柳川の伝統うなぎ料理はまだ全国区ではないのか。

 しかし,それにしても柳川の水路,掘割は網の目のように街中に張り巡らされている。川下りの船はあちこちに乗り場があって、船頭さんの語り口を楽しみながら船下りを楽しむ観光客で賑わっている。このように,昔は水路が極めて重要な交通、輸送手段だった。河口や大きな河の支流や運河沿いに物流拠点として発展した町が全国あちこちに見られるが、ここも沖端川を経て有明海につながっていた。

 現在の柳川市の玄関口は、西鉄天神大牟田線の柳川駅。福岡天神から特急で45分ほど。駅は観光の中心である御花や白秋生家のある地域からは離れているが、船下りの乗船場が近い。バスで行く手もあるが、掘割沿いにぶらぶら散策するのも良い。歌碑巡りしながら、船下りしてる人たちを岸辺から見るのも悪くない。柳川は先にも述べたように、よくその町割りと掘割が、今に至るまで珍しくも残された城下町なのだから、ゆったりと、小路や街道を巡るまち歩きが、実は柳川を知る一番良い方法なのだ。そこには隠れた「美」がここにも、あそこにも... 。
<embed type="application/x-shockwave-flash" src="https://picasaweb.google.com/s/c/bin/slideshow.swf" width="600" height="400" flashvars="host=picasaweb.google.com&captions=1&hl=ja&feat=flashalbum&RGB=0x000000&feed=https%3A%2F%2Fpicasaweb.google.com%2Fdata%2Ffeed%2Fapi%2Fuser%2F117555846881314962552%2Falbumid%2F5749056331509810929%3Falt%3Drss%26kind%3Dphoto%26hl%3Dja" pluginspage="http://www.macromedia.com/go/getflashplayer"></embed>
(撮影機材:FujifilmX-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)