時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

NIKONのある街 大井町を散策する

2017年04月15日 | 東京/江戸散策

 

こんな昭和な街並みも残る

 

 大井町と聞いてどんな街をイメージするだろうか? 競馬場?大井埠頭?元京浜工場地帯?大井町阪急?きゅりあん? 鉄道ファンなら(といっても中高年以上)国鉄大井工場か。少なくともさしたる名所旧跡も見当たらないし、はやりのお洒落なお店もないので、なかなか話題になるような人気のエリアというわけにはいかないだろう。たぶん住みたくなる街ランキングトップテンに入ることもない。だが、そう捨てたものではない。私のようなカメラファン、そして「時空トラベラー」にとって大井町は決して記憶から消え去ることのない地名である。ここは知る人ぞ知る「カメラの聖地」なのだ。そうカメラファン憧れの世界ブランドNikonの大井工場所在地なのだ。丁度ライカファンにとってWetzlar GermanyがErnst Leitzの創業の地、カメラの聖地としてその名が記憶に刻まれているのと同じで、大井町はNikonの創業の地である。あのレジェンダリー一眼レフカメラNikon Fが生まれた聖地なのだ。

  

 

NIPPON KOGAKU TOKYOというロゴが刻印された

Nikon F最初期型

この大井工場101号館で生まれた

 

ニコン大井工場101号館

去年の姿

 

今年、取り壊しに向けて覆いがかけられた

 

 

 Nikon Corp.の前身は1917年(大正6年)創業の日本光学工業。もともとは軍用の光学兵器開発製造するために設立された。のちのトプコン(東京光学工業)が主に陸軍用製品を供給したのに対し、海軍用製品を開発製造した。1933年(昭和8年)に、大井町のシンボル的白亜の殿堂大井工場101号館が建設された。有名なのは戦艦大和の艦橋に装着された巨大な測距儀。これがここで製造された。

 

 戦後は民生品にシフトしていった。特にカメラは戦後日本の復興のシンボル的な製品となった。いまでは世界のNikon:ニコン(ナイコン)! プロはもとより、アマチュアにとっても憧れのカメラだ。私の子供の頃は、Nikonのカメラなんぞは、手に入れたくてもなかなか入荷しない高嶺の花だったことを覚えている。しかし、そんなNikonも戦後のカメラ事業創業の頃は苦闘の連続だった。当時、プロの写真家にとって圧倒的に支持されていたのは、ドイツのErnst LeitzとCarl Zeiss。特にオスカー/バルナックが開発した35ミリ判フィルム(ライカ判)を使う小型カメラLeica。その改良版のLeica Mは究極の光学レンジファインダーを搭載し、他社の追随を許さない圧倒的な精密光学機器の精華であった。これにNikonなど日本のカメラメーカーは無謀にも挑戦し、多くのいわゆる「ライカコピー」を生み出したが、結局追いつくことができず、一眼レフ方式のカメラ製造に転換した話は有名すぎる。しかし、その結果、レンジファインダーではなくてペンタプリズムを搭載した一眼レフカメラは、その優秀なレンズ群と共に報道カメラマン始め、多くのプロに支持されるようになり、カメラ市場を制覇する。こうして戦後日本のNikonが名門Ernst Leitz社を抜いて世界一のカメラメーカーに成長することになった話も改めて述べる必要もないだろう。

1933年に開業した101号館

 

 

現在の101号館

取り壊しが始まった。

 

無残な姿に...

 

 その大井工場101号館は2016年解体が決まり、83年の歴史に終止符を打つこととなった。そして2017年に入っていよいよ解体が始まった。そのNikonの栄光の歴史を象徴する白亜の殿堂は、いま無残な姿をさらしている。あのレンジファインダーカメラNikon Iに始まり、名機Nikon SP、そして伝説の一眼レフNikon Fもこの101号館で開発、設計、製造が行われた。F3まではここで製造されたそうだ。ニコンファンにとってはまさに聖地と言わざるを得ない。そこが取り壊されてしまう。折しも今期決算でNikon Corp.は、本業のカメラだけでなく、レンズ、メガネ、さらには半導体ステッパーなどのハイテク製品を含め、業績の不振を露呈してしまった。老舗が希望退職を募る状況は悲しい。デジカメ時代になってカメラメーカ各社は冬の時代を迎えるところと、新たなビジネスチャンスを見つけ出すところと明暗が分かれている。Nikonはきっと名門光学機器メーカーとしての再生を果たすものと期待している。 

 時代は繰り返す。名門Ernst Leitz社のちにLeica社も、かつてはNikonに市場を奪われて経営破綻に瀕した。スイスの会社の買収されてLeicaはその創業の地Wetzlarを去り、新天地Solmsへ移り再起を期することとなった。そして時はめぐり、老舗ブランドを生かした戦略でしだいに好調の波に乗り始めたLeicaは、再びその創業の地Wetzlarへ戻って来た。会社の復活を象徴するように。LeicaとNikon。良きライバルは輪廻転生。巴のように時間差で浮いたり沈んだり絡み合い転がりながらながら生きのびてゆくのだろう。LeicaもNikonもそのブランドイメージは強烈だ。レジェンドといっても良い。そうしたアセットを最大限活用した新しいビジネスモデルを創造することだろう。

  

ニコン大井事業所

 

光学通り

この左手が101号館

 

 ところで、日本のWetzlarともいうべき大井町を歩いてみよう。JR大井町駅からNikon大井製作所に向かう「光学通り」を進む。徒歩20分程で聖地到着。通りの街路灯にずっとあの「Nikonロゴ」と「光学通り」のサインがでているので間違うことはない。地元では誰もが知っている通りだ。実は横須賀線のJR西大井駅が一番近い最寄駅だ。駅ホームから工場の建物群が見える。ここが現在の大井製作所だ。今はここでカメラを作っていないそうだ。新館ウエスト館は本社っぽく見えるが、本社は品川インターシティーにある。

 前述のように、大井町といえば、大井競馬場が有名だし、大型コンテナ船の出入りが忙しい大井埠頭を思い浮かべる人もいるだろう。線路の東側は工場が立ち並ぶモノ造りの街、労働者の街であった。大井町駅前にはカネボウがあったが、やがて撤退し、その跡地を小林一三氏が買い取り、大井町阪急百貨店が出来た。その後改装され阪急大井町ガーデンになっている。立会川が駅前を流れていたが、暗渠化して、「立会通り」という地名にその痕跡を残す。戦後の闇市の名残の東小路や平和小路がディープな世界を今に残している。「路地裏探訪ブーム」で最近は人気が出てきているという。一方、東急大井町線はお洒落で人気の自由が丘や二子玉川へ連れて行ってくれる。臨海高速鉄道線も深い深い地下に駅ができ、西は渋谷、新宿へ。東はお台場へつながっている。2020年のオリンピック会場に出かけるのも便利!というわけだ。隣のJR品川駅には新幹線駅が開業し、さらにリニア新幹線駅もできる。羽田空港の国際線増便も有之、ますますこの辺りは便利で賑やかになってきている。なんだか、しばらく忘れていたバブルみたいな様相だ。

  

JR大井町駅

 

平和小路入り口

人気店だが本日休業で誰も並んでない

こちらは行列

 

東小路

 

 歴史を遡れば、江戸時代には大井は江戸の近在。品川宿のさらに西に位置している荏原郡大井村であった。あたりは地下水脈豊富な江戸の近郊農業地帯であった。いまでも町内あちこちに水神社がある。明治以降、東京が帝都となってからは政治家、軍人、官僚が多く住む住宅地になった。伊藤博文の大井別邸があった。伊藤公の墓所も西大井駅近くにある。別邸は最近まで池上通り沿いに存在していて、ニコンの社員クラブとして使われていたが、残念ながら解体され、今は無粋なマンションが建っている。ちなみに解体された建物は、伊藤公の故郷萩に移築されている。大井は品川区に属し、海岸線に沿っている旧東海道あたりも大井だが、もう一方、旧大井村の鎮守の鹿島神社あたりからは高台に位置している。鉄道、道路といった交通の便がよく、住みやすい住宅街である。西大井あたり(出石町、金子山町など)は隣の大田区山王に隣接する比較的閑静な立地である。豪邸とまでは言えないまでも、それなりの敷地を有し、囲い塀、鬱蒼とした木立の庭を配した戸建ての立派な邸宅が多い。しかし、最近は御多分に洩れず、相続税対策であろうか、そうした古い邸宅の売却が進んでいて、一軒の屋敷があった土地が更地にされると、その跡地には3〜5軒くらいの狭隘なプレハブの3階建住宅がギッチリと隙間なく立ち並ぶ。生け垣も塀もなく、一階が全てガレージと玄関で、道路にママチャリや子供の遊び道具、植木鉢が散乱するという生活感丸出しの住宅街に変貌しつつある。公/私の境界が曖昧な雑居地化し人口密度が高まり、街の瀟洒な景観も、邸宅街としての品格もどんどん失われてゆく。山手の下町化が進んでいる。しかし下町の人情は育っているのだろうか?

 Nikonのある「光学通り」を一歩脇に入ると、そこにはまだ昭和な街並みが残されている。三間通りは道幅3間。道幅が狭いが旗の台、中延から西大井経由大井町まで延々と一直線に伸びている(車は大井町方向の一方通行)。商店街としてはシャッター通り化しているが、看板建築の商店も残されている。これだけの「昔繁華街」が連なっているのに感動する。一歩通りを入るとさらに狭い路地が網の目のように伸びていて、どこからどこまでが個人宅の敷地なのかわからない世界が広がっている。かと思えば大きな樹木が塀越しに緑陰を作り出しているような邸宅もまだある。時空を超えた不思議な世界だ。さらに、驚きは銭湯が多いことだ。どれも現役で、ニコン工場の周りだけでも3軒の銭湯がある。別にニコンの従業員向けにあるというわけでもないだろうが。まだそうした需要がこの辺りの街にはあるということだろう。庶民的な街でもあるのだ。街角には水神様やお稲荷さん、お地蔵さんが鎮座ましましていて江戸の在「大井村」の佇まいをよく残している。古い道標があちこちに残っているのも珍しい。江戸の外なので江戸切り絵図にも出てこないし、歴史の舞台となったような名所もない。人気のお散歩コースとして取り上げられることもない。おしゃれなカフェやレストランもない。ないない尽くしなのだがなぜか惹かれる大井町。「世界ブランドNikon」を生み出した大井町。不思議を体感したいなら是非お越しください。

 

ニコンのある光学通りと並行する三間通りは昭和な雰囲気が残る

 

 

東光寺のしいのきとお地蔵様

大きなみかんの木がある家

 

 

昭和な商店街

 

看板建築商店群

路地という迷宮へ

大井三又の地蔵堂

東京には珍しく地蔵堂が街角にある。

京都、大阪、奈良では良く見かけるのだが。

  

鹿島神社のお祭り

水神様もあちこちに祀られている

大井は地下水脈が豊富なところだ

 

旧大井村の総鎮守鹿島神社

 

 

光学通りにある

東京浴場

 

みどり湯

大盛湯

 ちなみに今回の撮影機材はLeica Q Summilux 28mm f.17 ASPH。Leicaの目で見るNikonの聖地というわけだ。Nikonへのレスペクトを込めて大井町へ切り込んだLeica。なかなかドラマチックだ。そのうちLeicaへのレスペクトを込めてNikonをぶら下げてでWetzlarに乗り込んでみたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 


「谷根千」谷中散歩 〜坂と寺のある町〜

2017年03月06日 | 東京/江戸散策

 谷中という地名は、上野台地と本郷台地の谷間に位置していることに由来しているという。江戸時代以前から尾根筋には町が形成されていたが、江戸時代になるとこの町人町に寺院が集められ寺町が形成されていった。その結果、辺りは門前町として繁栄する。高低差のある地形に網の目のように路地が走っていて独特の景観を呈している。幕末から明治の激動期にはすぐ東隣の上野のお山、寛永寺が戊辰戦争の激戦地となったが、谷中は戦火を免れた。また第二次大戦の空襲でもこの町は焼け残ったため、古い江戸の下町の佇まいを今に残している。とはいえ京都市内や大阪上町台地のような町家街としての景観は、東京の急速な近代都市としての発展の陰でかなり消滅していまっていて、今はむしろ東京の「昭和」な住宅街、商店街のそれになっている。これはこれでとてもノスタルジックで散策が楽しい。また、最近この辺りは谷中、根津、千駄木を含め「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、江戸情緒あふれるエリアとして人気がある。

 

 JR日暮里駅から御殿坂を西へ進み「夕焼けだんだん」を下ると「谷中ぎんざ商店街」。東京の下町にはまだこのような商店街が残っている。品川区の「戸越銀座商店街」や「中延アーケード商店街」も人気だが、ここは江戸の下町情緒を残していて、外国人観光客が多いのが特色。戦後の高度経済成長期に大型スーパーや大資本のショッピングセンター、量販店ができて、住宅街に隣接するこうした昔ながらの商店街、アーケード街が、どこも寂れて「シャッター通り」になってしまった。やがてバブル崩壊。失われた10年、さらに20年が過ぎた。最近はむしろネット通販などのバーチャルショッピングモールが、大手のスーパーや量販店を脅かし始めている。デフレも進み大手商業施設の統廃合が進み地元から撤退してゆく。皮肉な巡り合わせだ。こうして再び古い地元商店街が見直されてきている。全国チェーン店ではなくて、個人商店やローカルビジネスがその個性的で地元志向のサービスを復活させつつある。ネットのバーチャルワールドに疲れた人々は町へ出てリアルの商店の惣菜の匂いや、売り子の威勢の良い掛け声、頑固オヤジやオバちゃんとの接点を求め始める。町の輪廻転生を感じる。

 

 谷中といえば墓地を思い浮かべるだろう。東京都内でも青山墓地などと並び古くて有名な墓地である。谷中墓地はかつては天王寺の境内であった。今でも五重塔跡が墓地内にある。隣は上野の寛永寺。言わずと知れた徳川家の大寺院。どちらも明治期の廃仏毀釈や徳川幕府崩壊の影響を受け、寺域が大きく縮減された。明治政府は神式の墓地を確保する必要もこれ有り、天王寺の墓地を一部没収し、旧東京市にこの谷中に墓地を設けさせた。今でも谷中墓地と、天王寺墓地と寛永寺墓地は隣接していて、というか(境界がなく)寄り集まって一帯が墓園を形成していると言って良い。ちなみに徳川慶喜公の墓所は、谷中墓地エリアでは無く、寛永寺墓苑エリアの属すそうだ。なぜ最後の将軍が江戸東京市民の谷中墓地にあるのか不思議だったが謎が解けた。谷中墓地は、渋沢栄一、幸田露伴、長谷川一夫など各界の有名人の墓があちこちに見られる。ある意味で江戸、東京の歴史を物語る地域となっている。

 

鍵屋のお仙

  谷中墓地には桜並木がある。東京の桜の名所の一つであるが、かつては天王寺の表参道であり、江戸時代にも花見の名所として賑わっていた。その入り口には花見客相手のお茶屋が軒を連ねていたという。現在も数軒残されている。また、天王寺近くの笠森稲荷門前に鍵屋という水茶屋があったと言われている(現在、場所が特定できないそうだが)。ここには江戸期の明和三美人の一人と言われた、水茶屋鍵屋のお仙という評判の看板娘がいたそうだ。このお仙目当ての客も多かったそうで、彼女を描いた鈴木春信の浮世絵がすごい人気だった。春信はこの絵がヒットして浮世絵師メジャーデビューを果たしたとも言われている。今でいうアイドルのブロマイド(この単語自体がもう死語であるが)ような存在だったのだろう。

 

 

 先述のように、谷中は寺町である。歩いてみると日蓮宗の寺院が多いように思う。歴史を遡れば、先述のように現在の谷中墓地は天王寺の寺域であった。その前身は13世紀の日蓮の弟子日源によって創建された感応寺であったという。江戸時代になると、感応寺は三代将軍家光や英勝院、春日局の厚い庇護を得て繁栄を誇ったが、のちに日蓮宗不受不施派の寺となり幕府に邪教として睨まれて宗門閉鎖に追い込まれた。その後再興の動きもあったが、結局は天台宗に改宗して天王寺として再建され現在に至る。江戸時代初期はこのあたり一帯の寺院は日蓮宗感応寺の末寺が多かったのであろう。現在は日蓮宗のほか。天台宗や曹洞宗などの宗派寺院が混在している。

 

感応寺境内図

 

 この辺りは高台でかつては眺めも良く、行楽に訪れる江戸庶民も多かったという。江戸時代には風流人を当て込んだと見られる凝った庭園を有する寺が多かった。それに四季折々の景観を楽しめることから、根岸あたりは富裕な商人や文人墨客の別邸も立ち並ぶなど、風流人憧れの土地であったようだ。地名の日暮里(にっぽり)も、もとは新堀村(にっぽりむら)であったのだが、粋人達が「日暮らしの里」という当て字にしたのが始まりと言われている。富士見坂からは、文字通り富士山の眺望が楽しめた。今は周りに高い建物が立ち並んで眺望がきかなくなってしまったが、「寺と坂のある町」谷中、日暮里は粋な町だったのだ。

 

 ちなみに今回の谷中散策ブラパチカメラはLeicaQ Summilux 28mm ASPH。M Type240+Summilux 35mm ASPHも持って行ったが、結局ほとんどすべてをQでまかなった。こうしたストリートフォトには最適のカメラだ。広角マクロまで付いているので落花のクローズアップもお手のもの。

 

 

夕焼けだんだん

尾根筋から谷筋へ

御殿坂から谷中ぎんざ商店街へ続く

 

  

谷中ぎんざ商店街

 

  

猫が見守るお惣菜屋さん

 

 

何屋さん?

「錻力」を読めれば...

  

昭和の香り漂う

「初音小路」 

 

三崎坂あたりの家並み

 

朝倉彫塑館

 

 

落花の舞

谷中コミュニティーセンタ辺り

 

椿

お寺の境内から塀越しに伸びてくる古木

 

寺町らしく寺院が立ち並ぶ

日蓮宗の寺が多い

竹垣

 

観音寺の築地塀

  

元質屋の建物を活用したアートスペース「すぺーす小倉や」

  

こちらは元銭湯を活用した「スカイ・ザ・バスハウス」

 

あちこちに路地が

 

 

 

風雅と洒脱!?

これも街角アート!?

 

  

ヒマラヤ杉

分かれの一本杉

切り倒す話が出ていて保存運動が起きている。

 

旧吉田屋本店

酒屋さんだった

 

古い看板

 

人気の古民家カフェ

 

 

谷中霊園入り口

江戸時代には谷中の桜見物の客相手の茶屋が並んでいた。

現在も名残の数軒が残っている。

 

天王寺五重塔跡

昭和になって焼失した

幸田露伴の小説「五重塔」はその事件を描いた

徳川慶喜公墓所

ここは谷中墓地では無く寛永寺墓地だそうだ

 

名物「谷中七福神そば」で一服

 

(撮影機材:Leica Q Summilux 28mm 1.7f ASPH)

 

 

 

台東区HPより

 

 

 

 

 


江戸・東京鳥瞰図 〜200年の時間を超える景観〜

2016年11月15日 | 東京/江戸散策

今年10月31日(月)からいよいよ羽田発着のANAのニューヨークJFK便が就航した。これまで片道2時間以上かけて成田まで行かなければならなかったが、羽田だと我が家からタクシーで30分ほどで行けるようになった。これは便利!早速3日の朝10時20分羽田発便でJFKに向けて飛び立った。羽田便は離陸直後に東京の街を見渡すことができる。ちょうど天気も快晴。日本を代表する霊峰富士山を背景に広がる首都東京。なんとも贅沢な景色だ。成田便だと離陸後すぐに鹿島灘から太平洋に出るので東京の街を見下ろすことはない。

 

 ところで、離陸直後の機内からのまさにこの景観、実は江戸時代の浮世絵師も描いているのだ。もちろん当時飛行機などないし、東京スカイツリーもない、ドローンによる空中撮影もない時代。どうやってこの鳥瞰図を描いたのか不思議だ。おそらく江戸の地図と、何箇所かの高台から展望した街の風景を、想像たくましく、頭の中で合成して描いたのだろう。江戸城、寛永寺、隅田川、永代橋、浅草、高輪、品川など、デフォルメして描かれているものの、仔細に再現している。それにしてもこうして現代の東京上空からの写真と両方を並べてみると、驚くほど正確に描かれていることに驚かされる。200年の時間を超えたデジャヴを覚える。

 

 

羽田離陸直後の東京・富士山展望

 

「大江戸鳥瞰図」作:鍬形蕙林(くわがたけいりん) 東京都立図書館蔵

東京都立図書館東京誌料より引用:

 

 この鳥瞰図の作者・蕙林は鍬形蕙斎(くわがたけいさい)の孫にあたる人物です。蕙斎は浮世絵師から津山藩(岡山県)のお抱え絵師になったというめずらしい経歴を持ち、鳥瞰図を得意としていました。蕙斎は「大江戸鳥瞰図」や「江戸一目図屏風」といった江戸の鳥瞰図を多く残していますが、蕙林が描いたこの図も、祖父の影響を色濃く受けたものと言えるでしょう。
 鳥瞰図とは、鳥が空から地表を見たように描いた図のことです。このような描き方が流行したのは、遠近法が取り入れられるようになった江戸時代後期以降のことです。

 

 注:鍬形蕙斎(くわがたけいさい)は江戸中期(1764−1824)の浮世絵師。

 

 


静嘉堂文庫美術館探訪 〜東洋の至宝と英国調建築の調和〜

2016年08月02日 | 東京/江戸散策

静嘉堂文庫

英国調の洋館に日本や東洋の貴重な古書籍が収められている

 

 

 人気のエリア東急二子玉川駅から、商店街を抜けて20分ほど歩いた閑静な住宅街に静嘉堂(せいかどう)文庫と付属の美術館がある。世田谷区岡本。この辺りは雑木林が未だあちこちに残っており、坂と水路が交錯する武蔵野の面影を色濃く残す街である。明治以降は政財界で活躍した人物の別邸が多くあったところだ。

 

 静嘉堂文庫も小高い丘陵の上にあり、鬱蒼とした緑の塊が遠くにいても目に入ってくる。入り口から続く上り坂をゆるゆると歩む。この道は木立に覆われ、今日のような梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でも緑陰の涼しい風がそよいでいて気持ち良い。とやがて目の前に英国風の堂々たる近代建築が現れる。これが静嘉堂文庫だ。その左手には付属の美術館が。これらは岩崎彌太郎の長男で三菱財閥の二代目総帥岩崎弥之助(静嘉堂)の墓所のある敷地に建てられている。岩崎弥之助、小弥太親子が収集した古典籍、東洋美術品のコレクションが収蔵されている。

 

 

(以下、静嘉堂文庫美術館のHPから引用)

 

 父子二代によるコレクション


 静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。


明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。


 文庫創設から美術館開館まで


 図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋 1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。

大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。

美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。

1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)



 以前訪問した駒込の「東洋文庫」も岩崎家創設の私設図書館である。こちらは岩崎弥之助の弟で、三菱財閥三代目の総帥である岩崎久彌のコレクションである。なかでもモリソン書庫の圧倒的な古書空間が印象的だ。(東西文明の邂逅 〜知のラビリンス「東洋文庫」探訪〜

 

 

 上述のように静嘉堂文庫美術館には多くの国宝・重要文化財が収蔵されているが、なかでも有名なのは、中国南宋時代の「曜変天目茶碗」。現在、完全な形で残っているものは世界に三個しかない。しかもその全てが日本にあるという貴重な逸品だ。一つはここ静嘉堂文庫美術館のもの。もう一つは大阪の藤田美術館所蔵のもの。そしてもう一つは京都の大徳寺龍光院所蔵のものだ。なぜ窯元があった中国に一個も残っていないのか(破片は見つかっているが)謎である。静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は元は徳川家の所蔵で三代将軍家光が春日局に贈ったもの。その後春日局の子孫である淀藩稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも呼ばれている。不思議な魔力を秘めた椀だ。見ての通り一椀のなかに宇宙が見える。

 

国宝「曜変天目茶碗」

静嘉堂文庫美術館のHPより引用

 

 この洋館はジョサイア・コンドルの弟子である桜井小太郎の設計。1924年(大正13年)に竣工。スクラッチタイル、鉄筋コンクリート造りの英国風の建物だ。英国の田舎を散策すると、よくこのようなマナーハウスやコテッジに出会うことがある。そうした雰囲気がこの武蔵野の林によく似合う。明治期のセレブには英国風の建物を好む傾向があったようだ。駒場の旧前田侯爵邸もそうだ。駒込の旧古河邸も。今回は撮影できなかったが、岩崎弥太郎の墓所はジョサイア・コンドルの設計だ。コンドルは岩崎家の洋風建物を多く手がけている。岩崎家高輪邸(現在三菱開東閣)、岩崎家茅町本邸(現在旧岩崎邸庭園)、岩崎家深川邸(現在清澄庭園。建物は現存せず。)などがそうである。また三菱一号館もそうだ。こうした洋館が日本や東洋の文化財を収集、保存する器として建設されたことに時代を感じる。明治以降の日本における西洋文明と東洋文明の調和を象徴するものだろう。

 

 中国/日本の古籍や東洋美術の海外流出を憂え保存しようという動きは、明治初期の西欧文化優先の風潮への反省から起こったものだ。岩崎家は代々こうした文化財の収集と保存、海外流出を食い止める活動を進めてきた。確かに大英博物館やメトロポリタン美術館、ボストン美術館を訪れるたびにそこに収蔵されている日本の古典や美術品の山を目の当たりにして、なぜこのようなところにこれほどの逸品が集まっているのか不思議、かつ、日本にないことを残念に思っていた。こうした古美術品や文化財級の逸品は、えてしてその時代に富を蓄積した国に集まるものだ。19世紀のこの時代は欧米列強諸国というわけだ。すなわちそれらの国の支配層、貴族や富裕層の財力で集められたものだ。残念ながら近代化を進めるに必死であった当時の日本では、一時期日本や東洋の古い文化を「遅れた文化」と捉え、こうした日本や東洋に固有の文化財を「文化財」と認識しない風潮があった。廃仏毀釈の嵐が貴重な仏像や寺院を破壊してしまった。さらに、版籍奉還、藩主の身分の剥奪により封建領主としての生活基盤を失った大名、そしてその大名に金を貸していた富裕大商家は債権の焦付きで倒産する。藩主や上級武士や富豪が生活のために大量に放出したお宝は、安値で西欧の富裕層の手に渡った。かつて江戸文化のパトロンであった家系は没落していった。一方で、なんとか日本にこうした文化的な遺産を残そうという動きが出てきた。岩崎家のような明治維新以降の新興財閥がこうした運動の中心になった。時代はめぐるわけだ。

 

 しかし一旦海外に流出したお宝は、日本が経済大国になっても、なかなか戻ってこない。その価値が認識されず、海外の博物館の収蔵庫の奥深くや個人の屋敷の片隅に今も眠り続ける文化財も数多あることだろう。バブル時代の日本の成金たちは、金になりそうなゴッホの絵やヨーロッパの城などを投機の対象として買って喜んでいたが、江戸末期から明治期に流出した貴重な文化財の買い戻しには金を使わなかった。もちろん、その価値に早くから気付いていた欧米のコレクターたちがそうやすやすとは手放さなかったし。文化の破壊や無関心は取り返しのつかない結果を将来に残すことを痛切に感じる。そしてもはや日本では、岩崎家のような芸術や文化のパトロンになる事業家は数少なくなってしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文庫正面

 

 

 

 

 

 静嘉堂文庫のある地域は現在、岡本静嘉堂緑地として整備され、岡本民家園が隣接する。江戸時代の豪農の屋敷で、よく保存されており市民に公開されている。静嘉堂文庫の英国調建物とはある意味対照的な純日本風の茅葺の建物だが、不思議なコラボレーションを感じる。この辺りは明治時代には東京市の郊外で、武蔵野の丘陵や林が残る田園地帯だった。このころから政財界の大物がこの豊かな田園地帯という環境を求めて別邸を建て始めた。現在その建物はほとんど残っていないが、今この辺りは東京の閑静な住宅街として人気のエリアになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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浜離宮恩賜庭園 梅雨入り直前の大名庭園散策

2016年06月06日 | 東京/江戸散策

 都内大名庭園めぐり。今日は浜離宮恩賜庭園。徳川将軍家の浜御殿から皇室の浜離宮へ。そして都民の公園へ。

 

 元は甲府宰相の江戸屋敷であったが、将軍家に移された。四方を掘りに囲まれ石垣があり、徳川将軍家の唯一の別邸である。しかしその構造から見て、江戸城の出城として造営されたことがわかる。江戸時代には鷹狩りが行われた。ほかに2箇所の鴨場があり、今でも皇室行事の鴨狩が行われる。

 

 庭園の中心にある池は、都内に残る唯一の潮入池、すなわち海水を引き込んだ池だ。ボラがジャンプするのが見える。どうりで、日本庭園なら典型的な池畔の菖蒲などの淡水生植物が見えない訳だ。菖蒲は池から離れたところの密集して植えられている。橋に繋がれた中島の御茶屋は公開されていて、この日も外人観光客の人気をさらっていた。このほかにも、当時の茶屋が次々に復元されている。2010年(平成22年)松の御茶屋、2015年(平成27年)燕の御茶屋が再建された。明治になって迎賓館として利用されのちに取り壊された延遼館も、2020年に再建され、再び迎賓館として使用される予定。

 

と、ガイドブック的な説明はできるが、なぜか「時空トラベラー」としてウンチクを語るエピソードがない。あまり歴史的な出来事の舞台となった形跡がない庭園だ。将軍家の御殿でいわば禁断の園だったからかもしれない。延遼館は元は新政府の海軍練習所として建てられた石造りの建物で、これを改修し迎賓館として利用した。英国皇太子や米国グラント大統領などが滞在したそうだ。いまは荒れ果てた空き地が虚しく広がっているだけだ。浜離宮庭園はいまや汐留の再開発に伴い、高層ビル群に囲まれた大名庭園という独特の都市庭園の景観と成っている。その現代と江戸時代のコントラストが人気となっていて、皇居周辺と並んで外国人観光客が多い。ちなみに再開発された汐留操車場跡は新橋停車場のあったところ。当時の駅舎が復元されている。

 

 西日本は梅雨に入ったようだ。関東も明日からいよいよ梅雨入り。その直前の晴れ間に菖蒲が咲き誇る。紫陽花はもう少し先だろうか。帰りに歩いた銀座の電通通りの歩道沿いの花壇に紫陽花が咲き誇っていた。気がつかなかったが、ここは意外な紫陽花の散歩道だったんだ。

 

 

 

 

現代と江戸時代の景観コントラスト

 

富士見山から眺める潮入りの池

 

松の新緑が目にしみる

 

菖蒲が盛りに

 

 

 

紫陽花はもう少し先

 

 

 

 

平成22年に復元された「松の御茶屋」

平成27年に復元された「燕の御茶屋」前のツツジ

 

「中島の御茶屋」

 

以下はおまけの写真。Finally but not least. 銀座の紫陽花が綺麗だった。意外な紫陽花ストリートに感激!