時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

私の「青い山脈」 〜青というモチーフ〜

2016年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム

 大阪から高知へ飛ぶ双発プロペラ機ボンバルディア。エンジンをうならせながら高度を上げようとするが低空飛行のまま四国山地の険しい山々に差し掛かる。越えられるのかと心配になるが、健気に機体を震わせながらようやく飛び越えると、視界に突然太平洋が広がる。青い山脈、幾山河。そこを越えれば青い大海原だ。

 

 今月で40余年のサラリーマン生活に終止符を打った。これからは肩書きと他人が決めたスケジュールから解放された自由人。資本主義のロジックと、所属する組織独特のロジックからも解き放たれる。出世欲、名誉欲、物欲といった煩悩とは無縁の閑人人生をスタートさせるのだ。ま、少しくらい欲は残るかもしれない。いや、なかなか煩悩から解脱できないだろうから、ちと覚悟しておく必要があるが...

 

 「青雲の志」を抱いて飛び出した故郷。あこがれの「青い山脈」から始まった私の人生は、その画期となる通過点に達した。確かに大きな節目ではあるが、新しい人生の出発点でもある。そこにはあの頃の「青い山脈」や「坂の上の青空に浮かぶ一朶の雲」はない。他の人から示されるゴールや目標ではなく、これまでに自分で歩んだ道のりを観照して、自ら設定する目的地に向かって歩み始める。

 

 「幾山河越えさりゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(若山牧水)

 

 「人間到処有青山」 人間到る処 青山有り(釈月性)

 

 そう、旅はまだまだ続く... 日暮れて道遠し。だが、急がず慌てず、脚下照顧。自分の足元を見ながら歩を進めよ。行け「青二才」!夜明けの来ない夜はない。

 

 

 


私の「三都物語」~Tokyo, London, New York、そして...~

2016年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 夢を求めて故郷博多を離れた私は東京へ。そしてそこからロンドンへ、ニューヨークへ。まさに「昨日、今日、明日」の「三都物語」が書ける人生であった。今思えばそれは長い旅路であったような、短い一瞬の出来事であったような。グローバルな24時間ノンストップ金融市場、その三大センターを渡り歩いた訳だ。その間、金融市場としての東京の地位は大きく低下したものの、それでも世界を代表する経済センターの一つであることにかわりはない。その三都というステージで広い視野を養い、日本のICTをworld class serviceとして世界視野で展開するという、高い目線で仕事をすることができた。とりわけ、あの高度成長の時代が終焉を迎え、少子高齢化も重なって日本国内市場の成長に先が見えた今、不可避的に海外市場への進出を選ばざるを得ない事業環境となった。加えて基幹サービスのコモディティー化に伴い、高付加価値サービスを求めて異なるレーヤーのサービスへの進出し、ビジネスモデルイノベーションに挑戦することが求められる経営環境である。その双方の要請からもグローバル展開を20年前にいち早く着手したことは、先見性があったものと自負できる。そういう意味ではビジネスマンとしての幸せの「青い鳥」に出会うことができたと言って良いだろう。

 

 しかし、私の「三都物語」は何の予告もなく終わりを告げる。ニューヨークにいた私は、突然日本に引き戻された。一本の事務的な電話で。

 

 帰国後の会社人間としての人生は、これまでのような膨らむ勝利への期待と、それに付随するリスクがないまぜとなるようなワクワクするものではなかった。いわば閑職。しかも帰国するとまもなく大阪へ異動させられた。もちろん大阪が国内事業の重要な拠点であることは間違いないが、海外事業畑の私にとって「なんでやねん」の転勤だ。周囲の人々の驚きもモノかわ、人事異動は淡々と進められてゆく。経済的には定年までのサラリーマン人生を不自由なく過ごさせてもらったので文句言う筋合いではないのだろうが、もはや新しいプロジェクトを企画し、事業を起こし、それをリードする立場にもなく、新任地はそういったロケーションにもない。海外で築きあげた人脈や経験を生かす術はもはやない。結局、「組織人」たるサラリーマンは「ビジネスロジック」だけで動かされるのではなく、そこには別の「えも言われぬロジック」が働くものだ。従っていまさらそれを理不尽だとか、不合理だとか言って嘆くつもりもない。

 

 いずれにせよ、時差をモノともせず広い世界を飛び回る生活、異なるメンタリティー、多様なビジネススタイルの人たちとのつばぜり合い生活は突然終わった。これまでしゃにむに走り続けていた自分が、前のめりに転びそうになるほどの急ブレーキであった。毎日定刻に出社して定刻に帰るという、「スーダラ」サラリーマン生活の経験はこれまでない。昭和型「モーレツ」サラリーマン生活(その時はそうは思わなかったが、振り返って切るとアレが「モーレツ」だったんだと)と、多くの時間を空港と機内で過ごす「国境なき」サラリーマン生活を過ごしてきた。その落差は急激なものであった。大阪本社ビルの最上階に役員個室が用意され、毎日秘書が運んでくれる新聞を読み、お茶を飲み、法令で求められる形式的な会議に出席する。文字通り「窓際」から大阪の街を展望するのを心の癒しとする。マンハッタンのオフィスから展望する都会の景色とある意味で重なる部分もないではないが、その心象風景は大きく異なる。ぽっかり空いた心の空白。なんと平和で居心地の良い「座敷牢」生活...

 

 しかし、そうして心のカタルシスを強制され、煮えたぎっていた血肉、熱き心が冷めて行くにつれ、私の脳は戦時モードから徐々に平時モードへリセットさてれていった。そう、彼らの筋書き通りに事は運んだ。そこで私は、新しい世界を発見した。路傍に咲く雑草のたくましさ、名も無き花の美しさに気づいた。いや、普段見慣れたはずの風景に今まで気づかなかった新しい価値、美を再発見した。関西という土地柄はそういうリハビリには誠に適切な時間を提供してくれる。ここはなんというculture richな土地柄だろう。ここに佇み、たっぷりとした時間を過ごすと、日本という国・社会の成り立ち、世界史の中での立ち位置が見えてくる。そのはるか時空の線上にはナニワ、ヤマト、ミヤコ、そして遡ればはるかにツクシが見えてくるではないか。稲作農耕社会たる弥生倭国の姿が浮き上がってくる。美しい風景はただ美しいだけでなく、それは長い時間の経過のなかで熟成され、そこに育まれた文化と、人間の欲望に基づく闘争の歴史によって形作られた原風景なのだから。そこには短い時間の中で移ろいゆく栄枯盛衰の繰り返しではなく、変わらぬ不動の時間が確かに存在している。

 

 こうして日本の文化と歴史というこれまで当たり前で、振り返ってみようともしなかった世界をふと垣間見てしまった。「日本の心」などという日本観光のキャッチフレーズのようなキーワードがリアルに蘇ってきた。そうだ、これからは使用言語を英語から関西弁に切り替えて、大阪、京都、奈良という新たな三都物語を紡いで行こう。それはその先にある博多・太宰府という筑紫倭国の世界へと繋がってゆく。こっちは博多弁、ネイティヴ言語だ。ユーラシア大陸の東の果ての海中に存在する日本、倭国という小宇宙。それは私の人生にとっての「新しい冒険のパラダイム」。再び「ワクワク」の世界が広がってきた。

 

 幸せの「青い鳥」は遠くの見知らぬ異国にいるのではなく、この日本という身近なところにいた。故郷を出て「青い鳥」を探す旅路の果てに夢半ばで帰り着いた故国に、それを再発見した。だが、話はそこで終わらない。 メーテルリンクの「青い鳥」は、最後には自宅のカゴから逃げ出していなくなってしまう。結局は、この話はよく解説されているような「遠くの幸せを夢見るのではなく日常の生活の中で幸せを見つけよ」という単純な教訓話ではない。真理の探究心はとどまるところを知らず。やはりハングリーに新たな三都物語を目指して旅立つしかないのだ。

 

追記:

 

 これまでの自己意識は、戦闘モードに耐え抜き、結果を出して他人に認められる(認めさせる)、すなわち他人による「承認」を求める精神構造に基づいている。しかし、過ぎさって見ると「他人の承認」ではなく、「自己の承認」という自らの普遍の価値の発見に向かう自己意識があることに気づき始める。それは人との競争、共存やコミュニケーションからではなく、自らの内面の観照から生まれるものである。それは時として孤独な世界に引きこもることになりがちではあるが、人が認めるものが良いものなのではなく、自分が良いと思うものが一番良いという意識、精神構造に基づく自己意識である。これは煩悩からの解脱とも違う。唯我独尊とも違う。まして価値絶対主義でもない。普遍的価値というものも実は相対的なものである。人が認める普遍性と、自分が認めるものが異なっていることは常にある。しかし、いわば人の評価に依存せず、自分の評価に基づいて自分の普遍的価値を見出すよう物事を意識して行こうということだ。

 

我々日本人はどこから来てどこへ行くのだろう過去から未来へという時の流れの「今」という一瞬を切り取ることはできるが...

 (縄文遺跡「大森貝塚遺跡」にて)

 

 

戦後70年目の終戦記念日

2015年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、2015年8月15日は戦後70年目の終戦の日だ。暑い一日だ。しかしどこまでも澄み切った青い空。悲しみを忘れさせるような。

 

 8月は多くの魂があの世とこの世を彷徨う月。仏教でいうお盆の時期であり、先祖の霊魂が帰ってくる月である。しかしそれだけではない。8月は終戦の月である。先の大戦の最末期のひと月で大勢の人々が亡くなった。6日の広島原爆投下(9~12万人が即日死、19万人が4ヶ月以内に死亡)9日の長崎原爆投下(7万4千人が即日死)、9日のソ連軍満州侵入(50万人の難民、死亡者不明)。その前の3月から6月の沖縄戦(捨て石作戦)で20万人、沖縄県民の4人に一人が死亡。3月10日の東京大空襲では一晩で10万人の市民が焼死している。そのほとんどが子供や母親や老人を含む一般市民であった。大勢の無辜の民が亡くなった。戦没者慰霊の季節。

 

 開戦の判断と意思決定の是非と共に、終戦の判断と意思決定は時宜を得たものであったのだろうか。この時期になるといつも近現代史研究者や評論家やジャーナリストが、当時の講和の判断が迷走した事情をいろいろに分析しているが、少なくとももう一ヶ月終戦の判断が早ければこの何十万の一般市民は死ななくてよかっただろうと思う。国民を守るという判断基準がなかったのだろうか?国民を守らない国、軍隊とは何なのか?戦争指導者の責任の重大さを思わざるを得ない。これほどの負け戦(いくさ)を負けと認めず本土決戦に持ち込む方針を堅持し、「此の期に及んで」特攻攻撃による一撃講和で有利な条件で講和する道を模索していたという。その根拠のない楽観主義、あるいは現実を見ようとしない自己肯定主義。その間に人類にとっての最終兵器、禁断の原爆が使用され、何十万人も死に、ソ連の火事場泥棒参戦を許すことになった。結局、最後は無条件降伏。日本の戦争指導者の判断は正しかったと言えるのか。 なぜこのような日本有史以来の破滅を体験しなくてはならなかったのか。その総括はしたのか。中国や韓国に言われるからではなく、300万人とも320万人とも言われる自国民を犠牲にした戦争の歴史を忘れる事なぞ出来るのか。

 

 戦後70年目の終戦の日の安倍首相の談話が、彼の個人的な世界観、意思とは別のメッセージにならざるを得なかったことは皮肉だ。彼の内閣の支持率の凋落を考えての政治判断であったことだろう。しかし、もういい加減に謝罪し続けるのはやめにしたい、というメッセージも忘れずに付け加えられたところに本音が見える。当然、中国や韓国や旧連合国の反応は好意的とは言えない。どんなに謝ったって「許す」というメッセージは出さないだろう。少なくとも加害者側から言い出す話ではないというのが彼らの言い分だろう。もっとも彼らの反応自体も、それぞれの国の指導者が自国で置かれている政治的立場を反映した、自国民を念頭に置いた政治的なメッセージなのだ。常に外部に敵を作り、内政の矛盾から国民の目をそらせるのは、古今東西変わることなく続いてきた為政者の常套的国民支配術なのだ。そもそも国家・支配者の思惑と国民・市民の思いは必ずしも一致しない。戦勝国、敗戦国を問わず、否応無く国家の思惑で戦争に巻き込まれていった国民の悲惨な記憶は、もっと長い時間の中でしか咀嚼されて行かないだろう。自ら、あるいは親兄弟の体験に基づく感情が昇華して知恵になるには70年は短すぎる。

 

 明治維新以来、太平洋戦争の惨めな敗戦までの77年は、欧米の植民地化への脅威から、近代国家確立を急ぎ、殖産興業/富国強兵を国是とし、結果的に対外戦争を繰り返してきた年月であった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変に始まる泥沼の日中戦争、南部仏印進駐、真珠湾攻撃、太平洋戦争。そして敗戦。有史以来初めて外国に全土を占領され独立を失うに至った。明治維新の掲げた理念の結末はこういうことだったのか?これに対し、戦後の70年は幸いにも戦争のない平和な年月であった。振り返ってみると、明治維新以前の江戸時代の260年も対外戦争に関与しない、巻き込まれない平和な時代であった。太閤秀吉の朝鮮侵攻、明国侵攻などという国策は荒唐無稽で無謀なものであることを理解していたし、大航海時代の南蛮人、紅毛人との争いにも巻き込まれないように鎖国という外交政策で国を守ってきた。それ以前の歴史で対外戦争に出かけたのは663年の唐・新羅連合軍との朝鮮半島白村江の戦いだ。倭国は惨敗して逃げ帰ってきた。日本という国は対外戦争に懲り、自ら出かけて行って戦争する事を避けてきた歴史を持っているはずなのだが。ある意味、明治維新はその歴史を変えてしまったのかもしれない。今更このグローバル時代に鎖国などという選択肢はないことはいうまでもないが、さればこれから日本は本当はどういう国を目指していけば良いのだろう。軍事大国でもない、経済大国でもない。どのような世界から尊敬される国を目指すのか。

 

最後に、岡倉天心の「茶の本」に記述された言葉を引用して筆を置きたい。

 

 「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。--------- もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」

 

 

 

夏の盛りに花を愛でることなく劫火に倒れた人々に一輪の芙蓉を捧ぐ

 

今年の大河ドラマ「花燃ゆ」はどう? ~あらためて尊皇攘夷とは?~

2015年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

 今年のNHK大河ドラマは「花燃ゆ」。吉田松陰の妹、文(ふみ)の生涯を描いたドラマ。女性が主人公になる大河はヒットする、との伝説がNHKにはあるそうだ。しかし、今回はどうも視聴率が低迷していると聞く。主人公を演じる井上真央が「私の力量不足で申し訳ない」と語っているとか。そんなことはないと思う。しっかりとした演技で好感が持てるし、役者として大きく成長していると感じる。視聴率低迷は役者のせいではない。「大河」というセッティングとのミスマッチかな?

 そもそも視聴率などという前世紀的評価基準でドラマの良し悪しを論ずること自体、如何なものかと思う。しかし、「大河ドラマ」というと、私のような中高年の歴史好きが、ワクワクしながら毎週楽しみにしてる「日本史教科書」の復習というステロタイプのイメージがつきまとう。昨年の「軍師官兵衛」など、主人公の演技はともあれ、影のヒーローのストーリー展開に引き込まれた。黒田官兵衛自体はこれまであまり歴史ドラマの主人公になったことはなくて、常に戦国の脇役で登場する人物であった。信長、秀吉、家康という誰もが知る超大物歴史主人公の知られた戦国乱世ストーリーの中で、「実は」という、官兵衛の立ち回りにワクワクさせられた。そういった観点から見ると、「花燃ゆ」は、激動の長州藩という舞台で血気にはやる男たちに比し、主人公の文が脇役のように見えてしまうのに、いちいち彼女の言動がドラマのストーリ展開の主題になっているからなんか場違い感を感じてしまう。別の言い方をすると、妻として母として、女としての心情が歴史の激流の中でメッセージとして伝わっていないように感じる。ホームドラマとしては面白いのかもしれない。現に、これまで「大河ドラマ」を観なかった連れ合いが「花燃ゆ」だけはしっかり観ている。連れ合いの評価は私とは全く違っているようだ。

 

 さて、テレビ批評はさておき、かつてものした一文をこの際、アーカイヴから引っ張り出してきて「再放送」してみたい。改めて「尊皇攘夷」とはなんであったのか?

 維新胎動期の「尊皇攘夷」運動を観ていると、ある意味でテロリズムそのものに見える。桜田門外で大老(今でいう首相のようなものだ)を暗殺したり、都に武装して押し入ったり、海峡を通行する外国商船を砲撃したり。徳川幕藩体制という現状を破壊しようとする過激な反体制テロリズムだ。あるいは幕府の開国政策に反対し、開国によって混乱する国内経済に対する民衆の不満を背に、外国人襲撃を決行する民族主義的テロリズムだ。このドラマに登場する久坂玄瑞は、最初に武力で馬関海峡を通過する外国船を砲撃し(攘夷決行)、帝のおわします京で禁門の変を起こし(反幕府/攘夷派を武力で朝廷に直訴するという)町の多くを焼失させる。この頃の活動だけを取り上げると「尊皇攘夷」をスローガンとするテロリストということになろう。そうした過激な尊皇攘夷運動は、やがて近代化という流れの変化の中で、彼に続く高杉晋作の倒幕運動、そして彼らを乗り越えた桂小五郎や井上聞多等が明治新政府の要人となって維新を成就させてゆく訳だが、初期の頃の長州藩の来島又兵衛に代表される藩に横溢する感情的な攘夷の声に押されて(声の大きなものに押されて)しまって、尊王のはずが朝敵にされてしまった悲劇の久坂玄瑞だ。彼は皮肉にも過激なテロリストとして描かれることが多い。

 テロリズムは常にネガティブなイメージで捉えられる。テロリストというレッテルが貼られると社会から排除され、抹殺の対象となる。しかし、テロリズムの定義は極めて多義で、しかも相対的。かつてはマハトマガンジーもネルソン・マンデラも体制側からはテロリストと呼ばれていた。現状を壊し、体制を打倒しようとする動きの初期に発生する活動は社会の安寧を脅かす「過激」「危険」な不穏分子の「恐怖を煽る」違法活動、すなわちテロリズムと見なされる。やがて目的が成就し、新たな秩序が生み出されると、歴史にその破壊活動の意義が認められ革命家になる。歴史とは皮肉なものだ、勝てば官軍、負ければ賊軍。勝てば革命家、負ければテロリスト。

  一方、松陰の「草莽崛起」は、身分や藩といった旧弊な立場を乗り越えて、民衆、日本という枠組みで社会を捉え直そうというのはまさに革命的であった。だがその旗印が「攘夷」であることにいつも違和感を感じる。もちろん松陰自身は、幕府の拙速な開国に批判の矛先を向け、まずは欧米列強に伍すことのできる日本の体力固めを説いているのだが、その弟子たちは、当初、急進的な攘夷行動テロ集団になっていった。これが倒幕、新政府、殖産興業、富国強兵へと繋がって行くには高杉晋作やそれを継ぐ、次世代「維新の志士」たちの出現を待たなければならないわけだ。現代の日本の閉塞感の中で、吉田松陰のような維新胎動のイデオローグが待望される、という気分に満ちているが。これからは日本という枠組みを乗り越えて国境なきグローバリズムへと向かいつつある時代に、まさか「攘夷」ではあるまい。彼の思想の何を学ぶのか、これに続く志士たちのどのような考えと行動に学ぶのか。これは意外に現代の日本が置かれている状況(幕末明治期とはことなる)を考えるとそう単純ではないような気がする。あるいはグローバル化するにつれ国家ではなく私人の時代に向かいつつある現代、イデオローグ松陰の妹で、久坂玄瑞の妻であるこのドラマの主人公。家族愛に生き、女性の果たすべき役割を示そうとする文(ふみ)こそが時代のヒロインなのかもしれない。そう考えさせるのが「花燃ゆ」のメッセージなのだとすれば、これは稀代の名作と言ってよいだろう。

 以前のブログ:

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 「尊王攘夷」は日本の近代化スローガンだったのか?: 明治維新は、鎖国政策を基本とした旧弊な幕藩体制を倒して、近代的な国家を建設しよう,とした動きだと捉えられている。その運動の初期のスローガンは「尊王攘夷」であった。しかし、「尊王攘夷」はどう見ても近代的な国家建設のための政治経済社会体制の変革を進める「革命」のスローガンには見え...

 

松下村塾の吉田松陰像

 

松下村塾

 

萩の城下町

ほぼ当時のままの町割が残っている

 

上空から見た城下町萩

日本海に接する小さな町だ

ここに押し込められた毛利の怨念が250年後に爆発する

 

 

 

 

 


旧制浪速高等学校「イ」号館に父の青春の面影を訪ねて

2015年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 私の父は生まれも育ちも大阪天王寺、チャキチャキの(?)浪速っ子であった。以前、私がこのブログを始めるきっかけとなった大阪勤務時代、当時住んでいた天王寺の宿舎の近くに、父が旧制中学生時代まで暮らした住所と番地を確認することができた。しかし、父がその後進学した旧制浪速高等学校(浪高)へも行ってみたいと思いつつ、結局大阪在任中、この浪高のあった豊中待兼山を訪ねることができなかった。今は大阪大学の豊中キャンパスとなっている旧制浪速高等学校跡には、本館である「イ号館」が残っており、大阪大学会館として保存活用されているという話を大阪大学OBの同僚には聞いていた。
 
 旧制浪速高等学校(浪高)は、1926年(大正15年)に大阪府立の公立7年制校(尋常科4年、本科3年。のちに尋常科は廃止された)として創立された。その後、終戦後の1949年(昭和24年)には学制改革で大阪大学に包含され、翌年に廃校となった。その間、たった24年という短い歴史ではあるが、政官界、財界、学界に戦後の日本を代表するリーダーを多く送り出した旧制高校として知られる。制服はボタンのない「海軍式」で、上からマントを羽織り、かっこよかった、と父も語っていた。学生は、やはり地元出身者が多かったようで、当時、大阪が日本一の経済都市で「大大阪」と呼ばれていた時代に創設された学校だけに、地元財界の御曹司など都会的でスマートな学生が多かった、と言っていた。旧制高校といえば、弊衣破帽に朴歯下駄という「バンカラ」が主流であった時代に、やや異色の旧制高校だったのかもしれない。
 
 一方、大阪には官立の旧制大阪高等学校(1921年大正10年創立)もあった。やはり戦後の学制改革で廃校となり大阪大学に包含されたが、こちらはキャンパスが引き継がれず消滅してしまった。旧制高校は戦後、新制大学に包含、改組され、旧ナンバースクールは、一高が東京大学に、二高は東北大学に、三高は京都大学に、四高は岡山大学に、五高は熊本大学に、六高は金沢大学に、七高は鹿児島大学に、八高は名古屋大学に、それぞれ包含、改組された。旧帝國大学では九州大学が旧制福岡高等学校を吸収し、大阪大学が旧制浪速高等学校と旧制大阪高等学校を吸収した。ちなみに浪高も一部の教官と蔵書は、府立浪速大学、のちの大阪府立大学に引き継がれた。父もよく大高は官立なのに無くなってしまい、卒業生はかわいそうだ、と言っていた。
 
 父の浪高時代の青春は、勉学一筋であったようだ。学究肌を地で行くような人で、もともと愛だの恋だの、ナンパな話は聞いたことがなかった。かといって、硬派ぶってバンカラ風を愛するわけでもなく、端然としていたようだ。浪高では弓道部に属し、各地の旧制高校との他流試合に出かけたといっていた。旧制松江高校との試合では、松江高校が駅まで出迎えに来て、黒山の人だかりの駅前で蛮声を張り上げてエールの交換を行い恥ずかしかった、と語っていたくらいだ。また、ご時世で、軍事教練では、分列行進、閲兵の指揮をとらされ「大声を出すのが大変だった」と述懐していた。確かに、父は、成績優秀でひときわ長身で目立つ体躯だったので、選抜されたのだろうが、サーベルで号令かけている父を想像できない。
 
 このように、父には中学時代から自ら興味のある研究テーマがあり、「その研究のため」という明確な進学理由を持っていたので、あまりそれ以外のことにうつつを抜かす、というようなことはなかったようだ。本人の希望としては、そのためには名古屋の八高へ進学したかったようだ。のちに祖母や父から聞いたエピソードで、浪高理科に合格したのち、大阪駅から八高受験のため名古屋に向かおうとしていた父を、中学の担任の先生が「浪高に行け」と、駅まで連れ戻しに来たそうだ。
 
 結局浪高に進学したが、そこで父は、後の人生に影響を与える多くの友人を得ている。父自身はその後、東京帝大に進み学界で研究者、教育者として活躍することになるが、その浪高人脈は、学界にとどまらず、財界、政界、官界で活躍する、いわば戦後復興期のリーダーたちのそれである。父の晩年まで各方面に活躍する同窓生との交流があったことを覚えている。この待兼山でのいい意味でのエリート教育と、多彩な人脈がのちの父を育てたといっても過言ではないと思う。羨ましい青春時代を送ったものだ。いや、羨ましいと言わしめるのも、のちの父の壮絶な学究人生を振り返ればこそである。あの時に培われたものが大きかったんだと。
 
 この度ようやく父の母校、旧制浪速高等学校を訪ねることができた。場所は豊中市の待兼山。父からよく聞かされた地名だ。同窓会誌が「待稜」であったことを覚えている。阪急石橋駅から坂を登り歩くのが正面ルートのようだ。父もそうして通っていたと話していた。ちなみに旧制高校は全寮制が多くて、私の子供の頃まで、旧制高校OBが全国寮歌祭なるものを毎年開催していて、NHKテレビで全国放送されていたのを覚えている。しかし浪高は全寮制ではなく、通学生が多かったそうだ。父も生まれ育った天王寺からこの頃には豊中に引っ越して自宅から通っていた。「孟母三遷の教え」。子供の教育のために引っ越した祖父母の父への愛情が感じられる。
 
 現大阪大学豊中キャンパスには、浪高本館「イ号館」が修復保存され、大阪大学会館として待兼山にそびえ立っている。ここに立つと、待兼山の名にふさわしく大阪を一望に見渡すことができる。とても風光明媚な地だあることがわかる。「イ号館」の前にはかつて、父が水練に勤しんだという池も半分残っている。弓道場は今も阪大弓道部が使っているとか。なんと緑濃い素晴らしいキャンパスだ。比較的新しく帝国大学(8番目)になった大阪大学にとって、「イ号館」は現在残る唯一の歴史的建造物(2004年登録有形文化財)としてキャンパスにアカデミックな風格を醸し出している。「時空トラベラー」にとってここに立っていること自体が得難い体験だ。
 
 ところで、今回の私の大阪大学訪問の主目的は、法学研究科での特別講義である。父と違って理系の学究の道を歩んだわけでもない「不肖の息子」が、亡き父の母校を図らずも訪れることができ、そこで、自らの長い会社人生を背景とした講義が出来たことは感無量であった。講義を熱心に聴講してくれた若い学生諸君の澄んだ瞳に父の青春時代の面影を見たような気がした。
 

 

旧制浪速高等学校生(理科)の集合写真
青春群像!
「イ号館」横の土手で撮った写真だと思われる

 


 

その石段が今も残っていた!

 

「イ号館」から理科特別教室へ移動する若き日の父(右)
写真の裏に昭和15年4月とある

 

 
浪高「イ号館」
父の卒業アルバムから

 

 
現在の浪高「イ号館」
修復保存され「大阪大学会館」として豊中キャンパスのランドマークとなっている。


「イ号館」を望む「浪高生の像」


 

 

同窓会により寄付された「浪高庭園」

 

リノベートされているがファサードの原型は残されている

 

階段は往時のままだという

 

館内廊下

 

         エントランス部のレリーフは往時のまま復元

 

当時の浪高キャンパス配置ジオラマ
エントランスに展示されている


この池には「水練場」があった
手前の石柱は当時池の周りを囲っていた柵の跡だ。


現在は大阪大学豊中キャンパス


法文系キャンパス


法学研究科特別講義
若き阪大生の瞳に父の青春時代の面影を見た