時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

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伊豆下田 ~ペリーロードはアジサイの季節~

2016年05月25日 | 伊豆散策

保育園の子供達が歩くペリーロードはアジサイの季節を迎える

 

 

 伊豆下田では恒例の黒船祭が開催された。今年は第77回、例年より少し遅い20~22日の開催となった。国際色豊かなパレード、コンサート、踊りや、祭で町中が賑わっている。公式パレードはペリー提督上陸ポイントを出発するが、この静かで情緒あふれるペリーロードを迂回して、賑わう商店街の方向へと進んで行く。したがって祭りの最中もこの辺りは比較的落ち着いた雰囲気を保っている。ペリーロードの背後にある下田公園の山はアジサイが満開になると見事だが、これはもう少し先の6月に入ってから。しかし、色付き始めたまだ若い楚々としたアジサイはこの古い街並みに似合う。もっとも下田が下田らしい季節だと思う。

 

 このペリーロード、もちろん昔からそう呼ばれていたわけではない。1854年ペリー提督率いる米国海軍東インド艦隊が下田條約を締結するために寄港。上陸地点の下田湾頭(現在はペリーポイントとして記念碑が建つ)から、調印式の行われた了仙寺まで隊列を組んで行進した800メートルほどの道で、ペリー提督にちなんでそのように呼ばれている訳だ。当時のIllustrated London Newsや、ペリーの「日本遠征記」に挿入されているハイネの画を見ると、いまの了仙寺やペリーロード界隈の町の佇まいがほとんど違っていないのに驚く。時空の扉に閉じ込められた地区だ。明治になってこの川沿いの街は花街として栄えた。今でも残る江戸末期から大正期に建てられた伊豆石や海鼠塀の遊郭、置屋、商家、蔵などの建物が、今はカフェやギャラリー、レストランなどになっている。川にかかる石橋、川沿いのガス灯、柳、アジサイと共に独特の情緒ある町並みを形成している。下田の観光スポットではあるが、小さな通りなのであまり観光地ズレせずに済んでいるのが不思議なくらいだ。多層な歴史を積み重ねたこうした地区を残してゆかねばと思う。

 

ペリー提督に同行した画家ハイネの描いた了仙寺界隈

今のペリーロードあたりの風景

 

以前のブログ:

最初の開港場 伊豆下田 ~ペリー提督が歩いた街

  

 

大正期に建てられた古民家はカフェになっている。

風通しのためちょうど窓を開け放った時、花瓶の花が輝いた

 

 

 

 

 

 

下田公園から市街地を下田富士を望む。

本格的アジサイの季節はこれから

 

 

 


六義園散策 ~江戸の大名庭園を巡る~

2016年05月22日 | 東京/江戸散策

 

六義園

ツツジの頃が美しい

 

 

 駒込の六義園は小石川後楽園とともに、東京を代表する大名庭園である。我が家が、かつて小石川植物園の近くに住んでいた時には、両親や子供を連れて遊びに来たものだ。そもそ小石川植物園も、現在は東京大学の付属植物園になっているが、元は徳川将軍家の白山御殿、後に小石川御薬園、養生所(赤ひげで有名な)であった。もちろん東京大学本郷キャンパスはもと加賀藩邸跡。この辺りは江戸の大名文化の名残があちこちに見て取れる。

 

 六義園は、元禄年間、第五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が築造した柳沢家下屋敷である。彼は綱吉の寵児であり、幕府内で絶大な権勢を振るった。あの浅野内匠頭刃傷事件・赤穂義士事件の時に、無慈悲な裁定をした悪役として名前が出てくる、時のいわば政権トップであった。この事件の裁定は、幕府側から見れば難しい判断であったであろう。吉保は英明で、教養もあり、とくに漢詩、和歌の素養があった。「六義」の名称も漢詩、和歌からきている。1695年(元禄8年)綱吉から拝領された2.7万坪という広大なこの土地に、自ら設計し7年かけて回遊式築山泉水庭園を築いた。その後は幕末まで柳沢家が所有。江戸の大火や地震にも耐え、ほぼ原形のまま存続した。明治になって荒廃した六義園を岩崎弥太郎が購入。庭園を整備し現在のようにレンガ壁で囲んだ。以後、関東大震災にも東京大空襲にも被害を受けることなく現在に至っている。1938年(昭和13年)東京市に寄贈された。このように創生より300年余りに渡り、ほぼも原型が維持され、今、往時の姿を目の当たりにすることができる訳だ。

 

 この他にも岩崎家が所有し東京市・東京都に寄贈された庭園がある。清澄庭園(元禄年間は紀伊国屋文左衛門邸宅、その後下総関宿藩下屋敷)がそうだ。また上野の岩崎家邸宅も2001年に東京都へ移管された。高輪の三菱開東閣は今も非公開だ。明治の頃に荒廃した大名屋敷や庭園を買い取り、後世に残したのはこうした新興財閥であった。そのほかにも、都内には、先述の小石川後楽園(水戸徳川家)、浜離宮庭園(甲府藩下屋敷、将軍家浜御殿)、芝離宮庭園(老中大久保家、紀伊徳川家など)、などの江戸の名残を示す大名庭園が多い。江戸時代、江戸御府内の50%はこうした大名屋敷と大名庭園で占められていたという。このことが、後に明治の近代化に向けて、官庁や大学、政財界有力者の屋敷、外国人向け宿泊施設(ホテル)、企業用の敷地の確保を可能とし、首都としての基盤整備、発展を可能ならしめた。さらに一部は、上述のように公園としても整備・公開され、東京都心に貴重な緑地と文化財とリフレッシュ空間を提供することとなった。このように幕藩体制下の江戸の「大名屋敷」というリザーブされたスペースが、近代日本の首都、さらにはボーダレス化する経済活動の拠点としてのインフラとなったわけだ。明治新政府の中で、新首都候補論争があった。京都に留まる案、大阪に移す案... しかしきっと、京都や大阪では、近代化日本の首都としての発展に備えたスペースの確保は無理だっただろう。東京奠都を進言した大久保利通の先見の明に感謝すべきか。

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 


旧古河庭園にバラを愛でる

2016年05月21日 | 東京/江戸散策

 

 

 五月の薫風、爽やかな晴天のもと、旧古河庭園にバラを愛でる。休日にもかかわらず幸い思ったほどの人出もなく、比較的ゆっくりと庭園散策を楽しむことができた。東京にはこうした庭園が多い。江戸時代から続く大名庭園だけでなく、明治以降、維新の元勲、旧大名家、財界の長老、文化人などの邸宅が都民の公園として開放されている。さすが近代日本の首都、東京だ。

 

 その一つ、ここ旧古河庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅があったところである。その後陸奥の息子が古河家の養子に入ってことから、古河家の邸宅になった。1917年(大正6年)に古河虎之助が洋館と庭園を築造し、現在の姿となった。武蔵野台地の傾斜を利用して、最頂部の本館から、イタリア式/フランス式の美しいバラ園を斜面に配し、底部に日本庭園を展開するという変化に富んだ景観を生み出す構造となっている。日本庭園は、山県有朋の無鄰庵や南禅寺別荘群の庭園などを手がけた京都の名作庭師、小川治兵衛(植治)の作。建物/洋式庭園はジョサイア/コンドルの最晩年の設計で、本館はレンガ造りの躯体に黒い新小松石を貼ったルネッサンス洋式の建物だ。なんと豪勢な東西の巨匠のコラボではないか。今となってはこのような文化財として残るような邸宅、庭園を作る有力者もいなくなった。終戦後はGHQの接収されたが、返還され国有財産となった。東京都に貸し出され、都民公園として整備された。

 

 東京には明治から戦前にかけて、立派なお屋敷街があった。立派な塀に囲まれ、鬱蒼とした樹木に覆われた閑静な邸宅が、東京という街の時代の繁栄を象徴していた。しかし、一億総中流、いや最近は中流と下流に二分化して、資産家が少なくなり、さらに資産家もお屋敷を維持できなくなった時代だ。今では東京へ出てきて出世して、大会社の社長になったと言っても、サラリーマン社長の場合は富豪と言えるほどの資産を持っているわけではなく、子々孫々に財産を残せる人はそれほどいない。仮に不動産を残しても、低成長時代、ゆとり世代の息子や娘は、それほどの所得を得ていないので相続税を払うことすらできない。我が家の周辺の住宅地も、かつてのお屋敷が、代替わりで空き家となり、やがて相続税対策で売却され、立派な洋館や日本家屋が惜しげもなく取り壊されて更地になっている。その後には、大きな敷地だとマンションが、ちょっと狭い敷地だと、一階はほぼ駐車スペースというプレハブ住宅が10軒くらいギチギチに建つ。いずれにせよチマチマしたマイホームを建てるのが精一杯という時代は、良い時代なのかどうなんだろう。100年後のこの街の景観を想像することができない。建物や住宅という「不動産」はもはや「不動産」ではなく、単なる「耐久消費財」になってしまい、建てては壊すを繰り返さないと経済が回らないようになってしまった。経済合理性と効率が優先する社会にあっては、住宅メーカーにしてみれば100年も保たれては困るのだろう。京都の南禅寺界隈の別荘群にしても、これらを文化財として維持、保存して行くにはそれなりの費用がかかる。文化財としての価値をよく理解し、このような永続的な負担に耐えうる「資産家」は海外に求めなければならなくなってきているのかもしれない。

 

 せっかくコンドル設計のルネッサンス様式の邸宅や、見事に手入れされたバラが咲き誇る庭園を散策してきたのに、そんなことばかり考えてしまうのはサラリーマンの性なのだろう。もとよりマンション住まいの自分自身がこのような豪邸に住めるとは思わないが、かといって豪邸を所有する人々を僻んで、それが取り壊されてチープな景観の街になっていくのを喜ぶ気にもなれない。「文化財守れる人が文化人」。守る気はあるが金がない。情けない。しかし、豊かさとは、懐の金の多寡で決まるものではなく、心の余裕で決まるものらしい。隣人愛や知性や豊かな教養があれば、自ずと人には品格が備わる。それが心の余裕につながってゆくものだ。街の豊かな風格もいかにお金をかけたかではなく、いかに品格の歴史が蓄積されたかで決まるのだと思う。そのような人々が心豊かに住まう街、それが英国の田舎で学んだライフスタイルなのだが... 往年の経済大国「英国」に、かつての経済大国「日本」が学ぶべきはこういうコトだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新緑の北鎌倉を歩く

2016年05月09日 | 鎌倉散策

 新緑の季節、「そうだ鎌倉 行こう」。しかし連休中の鎌倉なんて一番人出でごった返すので、できれば避けたいところだ。いつも「鎌倉イコール混雑」という先入観が頭をよぎる。しかし、奈良や京都へ出かけるならともかく、首都圏でやはりこの季節、新緑の美しさと歴史の風情を味わおうとするとここしかない。何しろ一時間ほどの満員電車を我慢すれば到着するのだから。今回は北鎌倉の円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院を巡り圧倒的な新緑の海にどっぷり浸ってきた。

 

 鎌倉は「古都」であると言われるが果たしてそうなのか?確かに歴史の香りを纏った町である。ベッドタウン化して街の様相も首都圏郊外の典型的なそれになってはいるが、やはり山々の谷あいに佇む古刹は美しい。だがまさか鎌倉を「神奈川の小京都」なあんて呼ぶ人はいないだろうが、でも皆なんとなく「古都」だと思っている。鎌倉が日本の「みやこ」であった事はない。何がこの狭隘な山と谷に囲まれた相模湾に面した土地を、日本の歴史の一時期、表舞台に引っ張り出したのか?

 

 鎌倉が輝いた時代は意外に短い。400年続いた平安時代の藤原氏一族を中心とした貴族による摂関政治から武家政治へ、と大きな時代のパラダイムシフトがあった。もともと朝廷や貴族の藩屏(警護団)であった武士が政権を乗っ取ることになる。武家の棟梁、平清盛が初めて、京の都で武家政権(いわば軍事政権)を始め、その平氏を滅ぼしたもう一方の武家の棟梁、源頼朝が1192年に、都から遠く離れた東国、鎌倉に幕府を開いた。1333年の新田義貞の鎌倉攻めで幕府が滅びるまでの140年ほどの歴史である。源頼朝直系の将軍位の歴史はもっと短い。1192年に朝廷から征夷大将軍に任じられた頼朝から数えて、その子頼家が二代。三代が実朝。頼家は追放され死亡、実朝は暗殺され(あの鶴岡八幡宮の階段のところで)、源氏直系の征夷大将軍の血統はたった3代で途絶える。その後のここ鎌倉における武家政権の歴史のほとんどは地元の武士団、とりわけ頼朝の妻、北条政子の実家、北条氏得宗家の歴史だ。

 

 北条氏の素性はよくわかっていない。桓武平氏の直系だと自称していたが、もとは伊豆田方郡あたりの小豪族であったようだ。考えてみると頼朝は平治の乱で敗れた源義朝の嫡男。ミヤコから血筋の良い源氏の御曹司が流刑者として伊豆にやってきた。それを預かったのは平氏の血統を謳う北条氏。なんの因果か男女の仲。北条時政の娘政子が頼朝と結婚して、坂東武者一家の運命が変わった。事態は反転し、朝廷の平家討伐の院宣で挙兵した頼朝は平家を滅亡させ、流刑者は征夷大将軍に。北条時政は想定外の出来事に戸惑ったことだろう。さらにその源氏嫡流将軍は3代であっという間に消え去り、北条政子が尼将軍として幕府の実権を振るうことになる。その後は北条氏が鎌倉幕府の執権、得宗家として鎌倉時代の主役となるというわけだ。天さかる鄙の坂東武者にとっては千載一遇の好機、というか、降りかかった災難というか、天下に押し出され権力闘争の渦に巻き込まれてゆく。

 

 頼朝は鎌倉の地に幕府を開いたが、ここはそもそも源氏ゆかりの地ではない。いわば女房の実家ゆかりの地に幕府を開いたみたいなものだ。例えて言うと、本社から左遷され、そこで出会って結婚した嫁の故郷で、実家の義父の力を借りて起業し、元の会社をmanagement buy-outしたようなものだ。その本人があっけなく世を去り、二代目、三代目が凡庸であったため、嫁の実家の番頭が社長代理をズット勤めた、と。こうして鎌倉は執権である北条得宗家の統治拠点としての歴史を重ねるが、関東を中心とした武家の権力闘争の中で鎌倉幕府は滅び、北条一族も滅亡する。周知のごとく、やはり坂東武者の足利尊氏(高氏)に将軍職を奪われてしまう。彼は関東ではなく京都の室町に幕府を開く。

 

 同じ武家政権でも西日本に広大な経済基盤を有し、海外との交易をも牛耳っていた平氏の世界観と比べ、あまりにもローカルな地元の武士団のロジックが横行しているように見える。日本の歴史の流れの中で、初めてミヤコから遠い辺境の地、坂東(関東)に時代のハイライトが当たった。極めて国内志向の強い政権闘争/統治理念で、清盛に代表される日本のグローバル戦略が大きく後退した時代だ。一例を挙げると、北条時宗の「元寇」への対応にしても、清盛がもし生きていたらフビライの使者を切り捨てたりはせず、高麗や元との交易を始めていたかもしれない。だとすると日本のその後の歴史は大きく変わっていただろう。鎌倉時代とは、支配層が貴族から武士に移っていった時代であるとともに、近畿のミヤコに対して関東がもう一つの中心となった(日本独特の二元統治体制)時代の始まりである。しかしその嚆矢となった画期的な「鎌倉幕府」という試みはあっけなく終わった。再び関東が脚光をあびるのは徳川家康が江戸に幕府を開く270年ほど後の事だ。

 

 海べりの狭い土地、三方を山に囲まれ、狭い切り通しを介して外界と繋がる土地。防衛を基本とし、国内の物流や情報流のハブにも、海外との通交拠点にもなれない鎌倉。ミヤコの源平藤橘のような血筋ではなく、坂東武者達のローカルなロジックで政治闘争が繰り広げられた時代であった。もとより日本のミヤコ(首都)にはなれなかった。そんな鎌倉も、武家文化の誕生・揺籃の地として臨済禅など鎌倉五山や日蓮宗のような新興仏教を生み出し、運慶・快慶などの仏師が全国で活躍する時代の画期をもたらした土地であった。武家文化が日本文化の底流をなす大きな流れとなるには、その後の歴史を待たねばならなかったが、1867年の徳川将軍の大政奉還・王政復古までのおよそ700年に渡る武家政権の最初の「ミヤコ」であった。

 

 今や鎌倉は、週末ごとに人がわんさと押しかける(安近短型)混雑観光地の代表格だ。3000万人という人口を抱える首都圏にあって、関西のように、古の文化の香りに飢えた人々を十分に収容するスペースもコンテンツも足りない。例えば江ノ電や横須賀線や道路を見るがいい。何時も人で溢れかえっている。もともと、先述のように、この街は大量のモノやヒトの流れを受け入れるようには作られていないのだから。鎌倉文化を代表する禅宗寺院も日蓮宗寺院も、京や奈良の大寺院に比べると、円覚寺や建仁寺ですら山と谷に囲まれた狭隘な土地というそれなりに制約されたスペースに展開せざるを得なかった(もっとも、鎌倉の外では、源平の戦乱で荒廃した南都東大寺を再建し、博多に我が国初の禅寺、聖福寺の創建を許可し、京都に臨済禅の建仁寺を創建した。)。鎌倉の街のランドマーク、鶴岡八幡宮。その海につながる参道が街のメインストリートという風情が鎌倉らしいが、これはミヤコの佇まいというよりは門前町のそれだ。やはりミヤコとして発展するだけのスペース用意されていなかった。現に江戸時代には、江戸から足を伸ばせる寺社仏閣巡りの遊興の地。明治以降は、帝都東京で活躍する政財界人、文人墨客の別荘地としてもてはやされた。現在の週末ごとに発生する混雑は、この首都圏という後背地を控える観光地、鎌倉の宿命なのだ。もともとは鎌倉という街はこじんまりした佇まいを密やかに楽しむ場所なのだが、皮肉にも明治以降、ミヤコが近畿から関東、東京に移り、日本の近代化、戦後の経済成長に伴う東京一極集中が起こった。そういう「東京」の発展が鎌倉の静寂を許さなかった。

 

 ただ今回は、連休中にもかかわらず、思ったより人出が少なくゆっくりと散策できた。これはラッキーとしか言いようがない。それにしても新緑の鎌倉は美しい。

 

 

明月院

 

円覚寺

山藤が美しい

 

沙羅双樹

 

円覚寺から東慶寺を望む

 

菖蒲はこれから

  

 

 

 

 

 

  

 

 

円覚寺庭園

 

 

浄智寺

 

鎌倉を上空から見る