2009年秋の纒向遺跡発掘現場 |
フロンティアの移動。
10万年前にアフリカを出た人類は、アラビア半島からユーラシア大陸の西端に向かった一団と、ヒマラヤ山脈の北と南に分かれてユーラシア大陸の東へと進んだ一団とに分かれた。そして、その一部が3万年前には日本列島に移動して来た。主にシベリア樺太経由北方ルート、朝鮮半島ルート、琉球・奄美黒潮ルートから入り合流したとみられる。人類はグレートジャーニーの終点にたどり着いた。
彼らは列島内に住み着き、のちに考古学者たちが「縄文時代」と呼ぶ長い長い安定した時代を形成する。最近再認識されているように、縄文人たち(現日本人)は長期にわたるサステーナブルな社会を形成し、縄文土器に象徴される豊かな文化を生み出した。一つの文化がこれほど継続したのは人類史上稀有なことであると。彼らは自然と共生し、漁ろうや狩猟と採集を基本とする生活を営んだ。初期には移動を旨とし、後期には徐々に定住(海岸べりや照葉樹林帯)し集落を形成するようになる(三内丸山遺跡。上野原遺跡など)。
しかし、3000年ほど前、紀元前5〜10世紀頃、列島の原住民である縄文人にとって大きな生活・文化的変化を伴うパラダイム転換が起こり始めた。大陸から海を渡って列島に移動して来た人々により水稲稲作農耕が北部九州エリアに伝来する(板付遺跡、菜畑遺跡など)。安定的な食糧生産を可能とする稲作農耕は瞬く間に列島を東に伝播してゆく。列島の原住民である縄文人と外来の人々とは初めは争ったり、やがては融合したりしながら混血も進み、また列島の原住民も稲作農耕生活に適応したり、やがて新しい弥生人が列島の主役となってゆく。こうして弥生時代が始まる。そう!「豊葦原瑞穂の国」の始まりである。
稲作農耕文化は、定住生活、土木/灌漑技術、高度な金属器といった道具生産、気象に対する知識経験、自然崇拝、穀霊神、祭事、労働力である人民の統率、生産物の分配、余剰生産物の蓄積と流通、交易、資源/生産物を巡る争い。首長・王の出現、環濠集落、ムラ、クニ、やがては国家の出現を促す。こうして狩猟採集生活を送っていた列島の原住民にとって新しい文明がもたらされた。
こうして生まれた稲作農耕集落、ムラ、クニは徐々に国へと発展してゆき、紀元前4世紀〜紀元3世紀頃には大陸に近い北部九州が列島の中心、最先進地域となった。大陸側の視点で見ると文明の開発フロンティアが朝鮮半島から海を越えて日本列島へと移動し発展していったことを意味する。
このころの北部九州の国々は、大陸の文化や技術を有した人々(中華王朝の攻防から逃れて来たり人々や、列島と半島との間を行き来していた人々)が移り住み、土着の現日本人(縄文人)と融合してできたムラ、クニ、王国であった。その指導者たちは少なくとも大陸中原の技術、文化、習俗、を理解していた人々であった。すなわち稲作農耕技術、青銅器/鉄器などの金属器生産技術、集団の統治、言語・文字、東アジア的な世界観(華夷思想、王化思想、朝貢冊封体制、神仙思想、道教、儒教的価値観など)。少なくとも中華王朝への朝貢、冊封の交渉には文字・言語、習俗、外交儀礼などの知識と経験が不可欠であったはずだ。これらを可能にしたのは大陸からの渡来人であっただろう。
したがって倭国統治には中華王朝への朝貢と冊封が絶対と考えていた(早良国王、奴国王、伊都国王、邪馬台国王)。そしてこぞって朝貢冊封体制に組み込まれていった。その証拠が北部九州の首長墓から出土する「威信財」だ。これには勾玉、劍、鏡という三種の神器の他に、中華王朝・皇帝から下賜された前・後漢鏡・魏鏡、の数々が含まれる。もちろん冊封の証としての印綬(漢委奴国王、倭面土国王、親魏倭王など)がそうだ。中国のこのころの史書、すなわち「漢書」「後漢書東夷伝」「魏志倭人伝」などに登場する「倭国」の姿である。
しかし、3世紀末頃には列島内のフロンティアーは徐々に東へと移動してゆく。やがてはその開拓・発展の進行ともない列島の中心が北部九州から徐々に東へ遷移してゆく。このころの列島には広範な地域にクニや国々の地域連合が生まれてくる。その中から列島内の生産、流通の結節点となる拠点地域が生まれそこに富や人が集まり始める。出雲、吉備、讃岐、但馬など。そしてやがては奈良盆地。大陸文化の窓口であり、列島の最先進地域である北部九州チクシ倭国世界から見ると列島の辺境であった地域がフロンティアとなり、やがて列島の中心として開発されてゆく。そして、理想的な位置どりと、地形的特色から安心できる囲まれ感を持った奈良盆地・ヤマトが「国のまほろば」として列島を支配する中心となってゆく。これが初期ヤマト王権(纒向遺跡)発生の背景である。
以降、ヤマト王権の都、やがては天皇の都は奈良盆地内(飛鳥、奈良)、河内(難波)、山城カドノ(京都)と近畿の中を移動はするが、基本的には近畿地方が千五百年にわたって日本列島の中心となる。のちに武家政権の時代になって鎌倉や江戸といった東国に権力の一部が移動するが、依然統治権威である天皇は京都に居続けて、本格的に関東が日本列島の中心となるのは19世紀明治維新の天皇の東京奠都の時である。
このように列島内の経済発展、「蛮夷の民」の服属、政治的統合、人口の増加に伴い、開発フロンティアは東へと拡大し、それに伴って政治経済の中心は東へと移動してきた。これが列島における「国家」形成プロセスの歴史である。整理すると、
1)チクシが中華文明のフロンティアーであった時代(北部九州に大陸から人が移り住み稲作農耕というイノベーションをもたらした。原住民(縄文人)と融合して弥生人が生まれ、やがてムラ、クニ、国ができる)
2)フロンティアーが東へと移動し列島の中心が近畿に東遷した時代(ヤマト王権の発生・いわば日本文明勃興/列島人のアイデンティティー認識の時代)。
3)さらに近畿から関東へフロンティアーが移動した時代(北海道・東北を含む列島全体支配の完成時代)。
4)フロンティアが海外に拡がった時代(この話はまた別途)
変質する朝貢・冊封体制の受容
先にも見てきたが、このフロンティアの東への伸展と統治中心の東遷という動きの中で重要なのは、列島内の統治において中華文明との関係、特に朝貢/冊封体制の受容がどのように変わっていったかということである。これがチクシ倭国とヤマト倭国を分ける大事なポイントであると考える。1)のように縄文人が東海の海中の列島で平和でサステイナブル社会を形成して居た中に、大陸の先進国中華帝国から稲作農耕文明というイノベーションが持ち込まれ、列島が中華文明のフロンティアになっていった。その時代にあっては最前線である北部九州の国、王権は中国王朝の冊封を得なければ成立し得なかった。もとより初期の北部九州沿岸の国々が、文化的にも大陸渡来の人々やその末裔のいわば居留地的国(いわば華僑の国)の性格を持っていたとすればなおさらである。彼らが(仮に亡命人、難民であろうと)母国の文明、習俗、権威付けというパラダイムの中で、さらには中華世界を中心とする東アジア的世界秩序のなかでその支配の権威を得ようとしたことは不思議ではない。そうした政治的な理由だけではなく、先進国中国との交易により、貴重な財物や資源を独占的に得る事ができるという経済的な便益も無視できない。
しかし、時代が進み、開発フロンティアが列島の東へ伸び、それに伴って統治の中心が列島を東遷。徐々にではあるが列島自体が新たな文明の揺籃の地へと発展し、人々も大陸系と列島系の融合が進み、列島人、倭人が生まれ(みずから倭人と名乗ったわけではないが)、やがては日本人というアイデンティティーを持ち始めると、必ずしも統治の権威を中華王朝への朝貢冊封に頼らない(最新の文化や技術は依然大陸に依存しているとしても)国つくりを目指すようになっていった。ヤマト王権は3世紀後半から巨大な前方後円墳という独特のモニュメントを王権の列島全域への拡張のシンボルとして展開してゆく。さらに7世紀には律令国家体制の整備(先進国中国から取り入れたシステムであるが)という「近代化」を進め、乙巳の変、白村江の戦い敗北、壬申の乱を経たのち迎える7世紀〜8世紀初頭の天武・持統帝の時代を迎える。国号も自分たちが名乗ったわけでもない「倭国」ではなく「日の本」とし、中華世界の頂点にいる天帝(皇帝)の向こうを張って大王(おおきみ)をもう一つの天帝、すなわち天皇(すめらみこと)と宣言する「大宝維新」の時代を迎える。まさに中国の史書が描いた「倭国」の姿ではなく、日本書紀、古事記が描く「日本(ひのもと)」という「国家観」である。
すなわち2)の時代は中華的大宇宙から脱して日本的小宇宙へと移行してゆく時代の始まりだった。こうして新興の列島帝国「日の本」は天皇が天孫族の末裔という自らのルーツと、そこに依拠する権威に基づいて統治する国となった。すなわち中華皇帝から冊封された国ではない。こう理解すると魏志倭人伝に記述のある魏に朝貢し、冊封された邪馬台国とその女王卑弥呼は、2)の時代の国や王ではなく1)の時代のものだと考えるのが自然だ。つまり邪馬台国は北部九州にあったチクシ倭国で、卑弥呼やトヨなどのその系譜は、奈良盆地に発生した初期ヤマト王権とは繋がらないと考えた。だからこそ日本書紀も古事記も邪馬台国/卑弥呼について記述しなかったのである。記紀の歴史認識、思想は、日本(日の本)は天孫が降臨して建国した国である。天孫族の子孫である万世一系の天皇が支配する国であって、決して大陸からの渡来人やその末裔がルーツではない。したがって中華王朝に朝貢して冊封されたチクシ倭国の国々(奴国、伊都国、邪馬台国)はヤマト王権のルーツでは断じてない、と。少なくともそう主張した。
とは言え、倭国が大陸の文化圏、東アジア世界秩序に無縁で、中華王朝やその伝達者である朝鮮半島の国々からなんらの影響をも受けずに、独自に列島に自生した国家であるという記紀のストーリーはフィクションであることは言を俟たない。7世紀末という時代を背景としたある政治的意図を持った主張である。しかし、新生ヤマト王権も初期の頃は朝貢冊封体制を意識していた。中華王朝の朝貢冊封体制に組み込まれていた邪馬台国などチクシ倭国との王統の系譜に繋がりはないものの、4世紀に入っても列島の支配を強める「天下統一」の過程では、ヤマトの大王たちは中華王朝に、その支配権威の正当性を認めさせるべく遣使し、冊封を求めていたのではないかと思われる(いわゆる「空白の4世紀」。魏から晋、さらには晋の分裂、五胡十六国という中国王朝興亡の騒乱が260年も続いた時代で中国側の史書に記録が見つかっていないが)。5世紀に入ると朝鮮半島における、鉄資源を巡る権益を認めさせるためにも高句麗や新羅に対抗して中華皇帝に爵号や軍号を求めている(5世紀の晋書、宋書の「倭の五王」の記述)。
こうして奈良盆地のヤマト倭国王権も(邪馬台国などチクシ倭国ほどではなかったが)列島内の「天下統一」、朝鮮半島における鉄資源権益確保のためには、利用できる権威は利用しようと考えた。やがて青銅器生産に必要な銅資源や錫、水銀などの鉱物資源が列島内でも供給可能となり、経済的にも自給力を徐々に獲得するにつれ、また、政治的にも中華王朝が必ずしも倭国大王が期待するほどに権威の承認をせず(特に朝鮮半島諸国との関係上)、自国の統治と権益にとって思うように朝貢冊封体制が機能しなくなったと感じた時に、そこからの離脱と新しい権威の源泉を自ら創出し始めたと考えられる。これが3世紀末の初期ヤマト王権の「大王」からスタートして、5世紀の「治天下大王」の自称を経て、7世紀末の「天皇」宣言まで、約400年の列島統治の権威と権力確立の闘いと、中華世界的秩序からの離脱の歴史である。
「初期ヤマト王権」とは何か? 彼らはどこから来たのか?
さて、その初期ヤマト王権とは一体どのような王権であったのか。どこから来たのか。奈良盆地に土着の首長達のなかで抜きん出た首長が王、さらには大王に発展したのか? 振り返ってみると、(信じられないことだが)これまでヤマト王権のルーツについてしっかりと考えてみたことがなかった。神武天皇が九州から東征してきてヤマトで即位した、という記紀のストーリーが、九州からヤマトに「なんらかの勢力」が移ってきたらしい事を示唆しているのではないか、くらいの推測にとどまっていた。そもそも神武天皇はなぜ奈良盆地を選び、わざわざ九州から入ってきてそこで即位した、というストーリーが必要なのか? ただ今回は古事記や日本書紀の記述については立ち入らないでおこう。
結論を先に言うと、この初期ヤマト王権は奈良盆地に自生した土着の首長が権力闘争(武力闘争)の末に獲得した王権ではなさそうだ。ヤマト王権(王のなかの王、すなわち大王)が有力豪族を氏族化し、優勢な武力で周辺諸国や「蛮夷の民」を平定服属させてゆく「天下統一」物語はこののち(3世紀末以降)の話である。考古学的に見ると、3世紀後半の初期前方後円墳が出現する前のヤマトには有力な首長の墳墓が見つかっていないし、よって北部九州の首長墓から多く見つかる威信財も出てこない。奈良盆地には幾つかのムラ・クニがありそれぞれに首長がいたが、「王」として認知される(冊封される)首長はおらず(ヤマトの王墓からは初期古墳時代を含めて中国製の鏡は一枚も見つかっていに。ちなみに卑弥呼に下賜された魏鏡ではないかと話題になった三角縁神獣鏡は全て仿製鏡(日本国内製)であることがわかっている。チクシ倭国の諸王が大陸との交流で倭国の覇権を競っていた2世紀から3世紀前半ころまでは、ヤマトは未だ辺境の地であった。王を自称し盆地内の主導権をめぐっての争いごともあったであろう。しかしチクシ倭国の「倭国大乱」のような天下の覇権を争うような事態にはならず、土着勢力がそのまま列島の支配者にのし上がる状況ではなかった。ところが3世紀末になると、突然のようにヤマトが倭国の中心として登場してくる。何が起こったのだろうか?
おそらくこの時代の列島には、邪馬台国を盟主とするチクシ倭国連合の他にも、各地に有力な地域連合/王権(出雲、吉備、讃岐、但馬、越など)が出現していたと考えられる。列島内のフロンティアが東へと伸びていくに従ってこうした地域連合/王権は相互に覇権争いしたり、同盟したり、ちょうどのちの戦国時代のような様相を呈していたと考えられる。こうした列島情勢のなかから抜け出して力を蓄える国(例えば出雲など)が現れ、奈良盆地に進出した可能性もある(三輪山の神は出雲の神)。あるいは各地域の首長によって共立された大王が、有力勢力の支配権が及んでいない第三の地(すなわちフロンティアであるが)、奈良盆地に新連合王国の王都纒向を建設した可能性もある。あるいは、チクシ倭国の奴国や伊都国などの勢力の一部が2世紀の倭国大乱などで邪馬台国連合に敗れ、チクシ倭国から離反して東へ移り、各地の勢力とも合従連衡しながら辺境フロンティアの地である奈良盆地に新連合政権を打ち立てたことも考えられる。
何れにせよ奈良盆地土着勢力が成長していったものではなく外来勢力が奈良盆地に入ってきたものであろう。それはチクシ以外の中華王朝の朝貢冊封体制に入らない(入れない)勢力や、チクシでの主導権争いに破れて離脱した勢力などの外来勢力だ。もちろん、その後の覇権を確立するプロセスは一本調子に突き進んだわけではないことは想像に難くない。初期ヤマト王権成立後も地方豪族や畿内の有力豪族を巻き込んだ王権のへゲモニー争いの連続であったことはのちの歴史が示している通りである。そういう点では「天下統一」の争いを繰り広げた群雄割拠勢力の戦国時代に似た状況があったのだろう。ただ大きく異なるのは、16世紀の武士団の棟梁である戦国大名は、武力平定を果たしたのちに、京都の天皇からの統治権威を獲得する(征夷大将軍、関白、太政大臣などの官位)ことで「天下統一」を果たすわけであるが、この時代はどうであったのだろう。チクシ倭国的な統治権威観によれば中華皇帝への朝貢/冊封(漢委奴国王、親魏倭王など)ということになるのだが。はたして列島内の地域王権の合従連衡による王の共立、連合王国という「戦国時代」を決着させた権威、すなわちヤマト王権を認めた権威はなんだったのか。
前述のように、4世紀から5世紀初めの頃までのヤマト王権初期には、国内の統治、大陸との交易(主に鉄資源)を巡って、中華王朝の冊封体制下での権威を利用しようとした形跡がある。しかし、それはそれとして前述のように列島各地にはそれぞれの小国の王(自称)や首長(豪族)がおり、それぞれに自律的な存在であっただろう。だが先進的な文物や知識、資源、なかんずく鉄資源の獲得がそれぞれの地域における支配権を安定的なものにするためには必須であった。しかし、それは地域によって地勢的な有利不利があり、比較優位に立つ国、地域と連携したほうが自らの権威/権力を担保できる場合が出てくる。そこに緩やかな国の連合体を形成する「国の形」が生まれる経緯があった。それは1〜3世紀にはチクシ倭国連合(奴国、伊都国、そして邪馬台国女王卑弥呼を「共立」する)であったし、3世紀後半以降はヤマト倭国連合(ヤマト王権)であった。やがて、そうやって「共立」された王の王(King of Kings)、大王(おおきみ)は有力な首長たち(豪族/氏族)の支援を得ながら、軍事力も高め、列島内の支配権を得ていった。そのなかで、中華朝貢冊封型パターンをコピーしながら、徐々に大王(おおきみ)自らが他地域の王/首長/豪族に対して「統治権威を認証する」仕組み、すなわち「日本型の冊封体制」を築き上げていった。各地の首長/豪族にとっては地域における自律とヤマト王権への従属という二面性を持つこととなるが、王権に寄り添うことで、地域の対抗勢力/新興勢力との競合に有利に働くことともなり、比較的抵抗なく受容されていった。やがて6世紀には氏姓制(豪族の承認)が整備され、さらに7世紀後期になると律令制(豪族/氏族の官僚化)へと、天皇中心の中央集権的なヤマト政権が出来上がっていく。前方後円墳というシンボリックな墳墓形態がヤマトから地方に広まっていったことに、その考古学的な証左を見ることができる。
残念ながら、この間の事情については文献資料がほとんどないので文献史学的に解明することは困難である。何度も述べているように日本側に資料である古事記、日本書紀は編年体で記述されていないし、時の編纂者の意図に合わせた潤色や脚色が多くて、史実を解明するにはかなり批判的に読み解かねばならない。一方、中国の史書である魏志倭人伝は2〜3世紀の倭国の事情を比較的詳細に記述している。しかし、魏の使いがどこまで倭国内を自ら見聞した結果を記述しているかは疑問だ。おそらく伊都国にいて邪馬台国の役人からの聞書きで倭国を描写したのだろう。少なくともこの記述では邪馬台国がどこにあったのかもはっきりしないのが実情だし、まして邪馬台国(女王国30カ国)支配の及ばない倭人の世界(傍国や倭種)の詳細は聞いてもいないだろうし、報告もしていない。倭人も説明もしていないだろう。特にこの時代に繁栄を誇っていたと思われる出雲や吉備についての記述も見当たらない。当時の倭国(列島)の全容を知るには、その記述には自ずと限界がある。さらに彼らが見聞した倭国の姿は、当然ながら限られた時間スペースでの出来事、すなわち彼らが生きた時代をスポット的に記述したものである。よって倭国の歴史を通史的に俯瞰することはもとより不可能だ。そこには卑弥呼/イヨ以降の倭国の王権の消息に関する記述もない。
そうなると、考古学的な調査研究が重要になってくる。初期ヤマト王権とは何者なのか?は今後の考古学的な発掘成果から徐々に解明されてゆくだろう。初期ヤマト王権の遺構と考えられる纒向遺跡(これ自体画期的な考古学的発見である)がこれまでの弥生的な農耕集落的性格を持たない人工都市であること(東西軸に配置された居館、神殿。運河など)や、纒向遺跡からはチクシから尾張にいたる全国からの土器が検出されていること。そして纒向都市の成立とともに奈良盆地内に紀元前3世紀から続いた弥生の環濠集落唐古・鍵遺跡が急速に衰退消滅する様など、何かしらの人為的な外圧により急速にフェーズ転換が起こり、王都が出現し、人が集まり、列島の中心として発展していったらしいことを想像させる。このころ箸墓古墳などの巨大な前方後円墳が奈良盆地の東の山麓に出現し、ヤマト王権の全国支配に伴い、中華王朝による冊封に代わる、統治権威を認証するものとして広がっていった。こうしたモニュメント的な墳墓形態と威信財を副葬する形は、奈良盆地に自生したものではない。吉備や出雲、筑紫の王達の葬祭習俗をさらに発展させたものであろう。その一方で、前述のように初期の大型古墳(メスリ山古墳、黒塚古墳など)からは中国製の鏡は一枚も発見されていない(卑弥呼が魏から下賜されたのではと話題になった大量の三角縁神獣鏡は仿製鏡(日本国内製)であることはすでに述べた通り出ある)。一方で北部九州のこの時期の王墓(伊都国の三雲南小路遺跡や平原遺跡など)からは魏鏡、漢鏡が大量に出土している。チクシ倭国とヤマト倭国の相違を際立たせる考古学的成果だ。結局、これは親魏倭王とされ印綬と魏鏡100枚を下賜された邪馬台国の女王卑弥呼はヤマトにいた訳ではなく、纒向の初期ヤマト王権には繋がらないということを示唆している。これをもう少し検証するにはさらなる発掘調査の成果(例えば箸墓古墳の副葬品など)が期待されるが、ヤマトの大型前方後円墳はどれも陵墓指定されていて調査ができないことがネックになっている。
これから期待される考古学的発見の中では、邪馬台国遺構(纒向遺跡が卑弥呼の宮殿であるとする考えには組しない)がどこでどのような形で発見されかが一番の関心であろう。例えば「親魏倭王」の印綬や、魏鏡100枚、卑弥呼の墓などが見つかれば「邪馬台国位置論争」は一挙氷解だ。邪馬台国卑弥呼と初期ヤマト王権の関係(別の系譜であるということ)が確定するであろう。他にも奴国王や伊都国王などのその後の消息や、魏志倭人伝に記述のない列島内の(卑弥呼の女王国30カ国以外の)国々、地域王権の実情、チクシと出雲とヤマトの関係などを解明する発見などがあれば、初期ヤマト王権を形作った人々の実像が見えてくるだろう。期待は膨らむ。しかし、そのような画期的な考古学的発見が謎を一気に解明するまでは、記紀を批判的に読み込み、その中から丁寧に史実に基づくであろうエピソードを取り出し、あれやこれや推理し、何か見えてこないか、感じないか「匂いを嗅いでみる」というカンの研ぎ澄ましが必要だ。イザナギ/イザナミの国生み神話、出雲国譲り神話、ニニギの天孫降臨神話、神武天皇の東征伝承。それら筑紫、出雲、大和を舞台とする建国ストーリーはなぜ生み出されたのか。そのなかにはヤマト王権の発生、出自、実態に肉薄する史実や記憶が潜んでいるのだろうか。ただ初期ヤマト王権の全貌解明を記紀の記述の解析に頼ろうとする以上、それらは科学的な手法ではなく、推理と空想の世界に止まらざるを得ない。なんらかの結論を導き出したとしても、それは事実をもって証明されるまでは「仮説」にすぎない。フリードリッヒ・エンゲルスの「空想から科学へ」とは異なり、「科学から空想へ」がしばらくは幅をきかせそうだ。楽しい空想だ... だから私のような古代史ファンが生まれる余地がある訳なのだが。
龍王山から展望する奈良盆地の風景 左から箸墓古墳、渋谷向山古墳、行灯山古墳 背景は右が二上山、正面が葛城山、金剛山 |
渋谷向山古墳の上方、アパート群左の集落内に纒向遺跡発掘現場 |
いわゆる大和国中 正面は二上山 手前は行灯山古墳 |