時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

ライカ限定モデルのお宝勝負 M9チタン 対 M7チタン

2011年01月29日 | 時空トラベラーの「写真機」談義
 ライカの好きな稀少限定モデル。M9チタンについて前回報告したが、今回2004年のライカM型50周年記念で限定販売されたM7チタンと比較する機会を得た。どちらも500台限定だ。M7の方はレンズ3本がセットになってリモアのアタッシュケースに入った50台限定モデルも同時にリリースされた。今回、東京と大阪の老舗カメラ屋さんのご協力、コラボにより、比較研究(?)が可能となりましたことを感謝いたします。

 ちなみにM6チタンもあるが、こちらはチタンカラーのコーティングを施した真鍮ボディー。これとマッチするレンズとして発売された35、50、90mmのレンズも鏡胴はチタンコーティング(Titan Finish)。レザーはオーストリッチ風をまとっている。1000台限定だそうで、比較的良く中古市場でお目にかかる。

 M9チタン、M7チタンは両方とも純チタン削り出しボディーで、付属するレンズもチタン製だ。チタンは加工が難しい金属だからさぞ苦労したのだろう。特にM7チタンはオリジナルのM6、7と同じ形状で段差のある表面だからなおさらだ。

 M9チタンとM7チタンを比べてみると、もちろんM9はデジタル、M7はフィルムである事は言うまでもないが、

 1)まずM9チタンのボディーサイズはM7チタンより全てのディメンジョンで一回り大きい。もちろん通常のM9よりもボディーの厚みが増しているのでM9チタンは見た目がいかにもメタボボディーだ。

 2)したがって手にしたときのホールド感が異なる。M7チタンは我々の手が覚えているサイズ。M9チタンはやや手に余る感じだ。とくに日本人にはデカイと感じる。フィンガーループ方式はやはり有効だ。

 3)チタンのカラーはM7の方が濃い。M9チタンは明るいフィニッシュとなっている。M7チタン付属のSummilux 50mm 1.4 ASPHをM9チタンに装着するとレンズ鏡胴が暗く沈んだ感じだ。逆にM7チタンにM9チタン付属のSummilux 35mm 1.4 ASPHを装着すると不思議に良くマッチする。花形フードがアクセントになっている。

 4)付属レンズのレンズキャップの違い。M7チタンの50mmのほうは何のロゴも刻印されていないノッペリした、しかしずっしりと重いねじ込み式のフロントキャップ。金属度120%だがこれチタン製? リアーキャップは通常のプラスチック製。 一方、M9の35mmの方はLeicaロゴ刻印付きの被せキャップ。軽い!チタン製だ。リアーキャップもチタン製!

 総じてM7チタンは浅黒く筋肉質なスリムボディーで、手にしっくりフィットする。レザーがやや滑りやすい感じがするが、全体に重量も適度にあって金属フェチには好ましい。特にレンズがずっしり重い。一方、M9チタンはデザインが一新されたので、ふくよかでリッチな雰囲気。突起部を少なくした為か,ちょっとのっぺりしたルックス。レザーはホールド感が良い。

 「どっちが好きか?」ううん、なかなか難しいが、私にとってはM7チタンの方がライカらしくていい。これまでのライカファンにとってはデジカメM8、9でさえ、その手触りと厚みがもう今までのライカMシリーズとは違う。したがってM9チタンのようにデザインが一新されて,サイズが明らかに一回り大きくなると、もうライカではないような気さえする。ちょうどデザインが一新されたM5が出た時、保守的なユーザから評価されずに、次のM6では先祖返りしてM4と同じサイズと形状に戻した事が思い出される。

 とかくライカユーザは保守的だ。職人的な使い込んだ道具を愛でる。最新の機能やデザインを求めなていない。イノベーションよりは,トラディションを求める。平均的なユーザに売り込んで収益とシェアーを伸ばすモデルが働かない。なかなか商売しにくいだろうライカ社は。だからこそ,こんな限定モデル商法でニッチ市場を狙うのだろう。

 それはそれで狙いは良いが大きな商売にはならない。元々、日本の競争相手がやってるような事業のスケーラビリティーを求めた訳ではないのだろうが、小さくても利益率の高い商品を生み出し続けるのはチャレンジだ。しかも中古市場が賑わう事になり、新品よりも中古、ビンテージものにプレミア価格がついたりしてライカ社に金が還流しない仕組みが出来てしまう。

 ちなみにM9チタンセットのシリアル#1は写真家セバスチャン・サルドガに贈られたとか。もっぱらセレブ中心の市場に対しては週刊誌的な関心でしか接することが出来ない我々は,せめてM9チタンのデザインがM10に繋がるのか楽しみに見続けて行くだけだ。

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(ブツ撮りのウデが悪すぎて違いがよくわからない、って? 視神経から伝達された画像情報とテキスト情報とを脳内で補完しながら見て下さい。スミマセン)



奈良に春を告げる若草山山焼き ー 平城宮跡から ー

2011年01月22日 | 奈良大和路散策
 奈良に春を告げる...とは言っても、ここんところの寒さで,とてもそんな感じではないが、今日は恒例の若草山の山焼き。午後6時に花火が打ち上げられ、全山が明るく照らされる。午後6時15分、花火が終わると,山の麓で待機していた地元消防団員が一斉に枯れ草に点火。火は瞬く間に山肌を駆け上り、若草山は炎に包まれる。

 初めての山焼き観覧は平城京趾の寒風吹きすさぶノッパラから。西大寺駅から延々と歩き、撮影ポイントを探す。早くも5時頃には三脚で陣取りするカメラマンのオヤジさん達の姿がそこかしこに... 皆元気だ。なぜかこんなに広い所なのに,三脚がカタマッて林立している。

 こちとらも撮影ポイントを決めて三脚にカメラセットして待機。やっと午後6時。辺りはいい感じに暗くなって来た。観光ポスターにあるような、若草山全山真っ赤な炎。その上に花火2~3発...なんて光景を想像していると拍子抜けするかもしれない。あれは多重露光という写真合成テクニックを使う有り得ない光景なのだ。脳内で重なるイメージの世界だ。今回はオーソドックスに一枚一枚攻めてみる。

 寒い中、長い時間待った甲斐があった。荘厳で美しい炎の響宴。奈良の街を明るく照らし出す。平城京趾からはちょうど真東に奈良の市街と若草山、三笠山の全景を見渡すことが出来る。コレだけ遮るもののない平べったい野っパラはそうない。結構良いポイントだ。

 この他の山焼き絶景ポイントは薬師寺東塔,西塔が美しくシルエットになって映える、西ノ京大池辺り。こちらは昼から場所取り競争だとか。次回がんばろう。

 終盤にかけての残り火が山稜をシルエットに写し出して美しい。約一時間程のショーを満喫した。
 さて,帰るか、と機材をかたずけて、ふと見回すと、すでに辺りは漆黒の闇。どうやってここまで来たのか道も見えない。野っパラには街路灯もまばらにしかない。遠くのライトアップされている大極殿を目印に暗闇をセッセと歩いて、なんとか西大寺駅へ向う道に出ることが出来た。

 しかし、暗闇の平城京は何か物の怪でも出そうな雰囲気である。異様に光輝く大極殿はまるで怨霊達のたまり場のように妖艶に漆黒の闇に浮き上がっていた。

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ライカM9とSDカード ー好き嫌いのはっきりしたお嬢さんとの付き合い方ー

2011年01月21日 | 時空トラベラーの「写真機」談義
 前からそうかとは思っていたが、M9にとってSDカードの適合性、という問題は,思った以上に厳密である事を知った。まず持って安定したオペレーションにはライカなりの「お作法」を守る事をお勧めする。

 Panasonic製の16GのSDHC(Class10)をカメラ本体で初期化して使用していたが、数枚撮れたあと、撮影中に電源オンしても反応(起動)しないケースが発生。「ケース」と言うのは、時々は反応し,時々は反応しない事があるということだ。いざ、という瞬間に、イヤイヤをする彼女には参ってしまう。

 こういうのが一番困る。不適合なら不適合で最初から起動しなければ使わないからだ。一旦装着して,撮影を始めて、途中で起動しなくなる。こうなると何度スイッチオンを繰り返してもダメ。しばらくしてスイッチオンすると起動する。いわゆる「時時断」というヤツだ。時には「カードがロックされてます」というメッセージが出る事も。「カードが入ってません」なあんて言われた事も。

 ライカ社推奨のSanDisk Extreme 8G (Class10)に入れ替えて使用すると問題は発生しなくなった。
 これほどにカメラ側にSDカードの好き嫌いがはっきりあるとは思わなかった。まして、以前報告したように他のカメラ(たとえM8であっても、例え推奨カードであっても)で使用したカードを途中から挿入して使用するといろいろトラブルの元となる。

 そこで、幾多の失敗からの教訓:

 教訓1:絶対に推奨SDを使用する。
 教訓2:使用前に必ずカメラ本体でカード初期化する(新品カードでも必ずこのカメラ用に手なずけておくこと)
 教訓3:一連の撮影が終了したら、撮影可能枚数が残っていても、初期化してファイルナンバーを0クリアーしておく(カードの空きメモリーがあってもカメラ側のファイル番号が一杯になると全く撮影出来なくなる)
 教訓4:何が起こるか分からないので、こまめにPCやHDDに撮影画像を移しておく。
 教訓5:イライラしない。

 このカメラは、「どんなボーイフレンドとでも器用に付き合えるお嬢さん」ではない事を知るべし。SDカードの相性だけではない。使い手を選ぶ。使い手に自分の性格と扱い方をマスターする事を求める。「デジタルライカのお作法」をマスターすれば良い写真が撮れますよ。素敵な彼女だよ、気難しいけどね。

R0011191_8
(お気に入りのお相手はコレ。SanDisk Extreme 8G (Class10)。「気に入らないカレとはうまくいかないの...」だって)

L1000033
(ベストパートナーと出会えば、ホレこんなにきれいな写真が撮れるでしょ? 私って素敵でしょ? ちがう?)




穴虫? 二上山残照を追って

2011年01月17日 | 奈良大和路散策
 正月明けから全国的に冬の嵐で,各地が豪雪に見舞われる中,大阪は寒いが比較的穏やかな日々である。日曜日の今日はそれでも雪/曇りという天気予報であったのに、朝起きてみると晴天ではないか。こうなると家にジッとして入られない。今日はきっと二上山残照が拝めるかもしれない。行ってみよう。やおらカメラ機材一式バッグに詰め込んで家を飛び出した。

 いつもの上六から近鉄大阪線で二上駅まで行き、そこから南へ向って近鉄南大阪線二上山駅方向を目指して歩けば、二上山が正面に見える。もちろん桜井から三輪山目指して行き、三輪神社か桧原神社から二上山を遠望する手もある。また飛鳥甘樫丘か、さらには談山神社方面へ登る峠道からの二上山もいいが、これは次回の楽しみにとっておこう。今回は間近に二上山を見上げよう。

 さて、二上駅を降りて二上山方面へ歩き始める。いつものように車が走る道を避け、脇道に入る。だいたい歴史散策は一本脇道へ入るのが鉄則だ。車の通れない狭い道こそが古くからの道であったのだから。しかし驚いた。この辺りはあまり有名を歴史スポットではないのに、まるで時間が止まったように古い家並が残っている。ここは奈良県香芝市穴虫。珍しい名前だが、大和から大阪へ抜ける竹内街道の脇街道として二上山の北の麓をたどる穴虫峠というのがある。その大和側の集落が穴虫だ。

 集落に入ってさらにおどろくのは、その充実した古民家の集積度だ。いや,古民家というより、船板塀に囲まれた堂々としたお屋敷街である。しかも入母屋造り、切り妻造り、大和棟と様々な様式が混在する。ここはどういう町なのか?

 ここ穴虫は、今井町や大宇陀のような商業地や街道沿いの宿場町、富田林のような寺内町、稗田、番条のような環濠集落でもない。豪農の邸宅地という風情でもない。二上駅から二上山駅までの南北わずか2キロメートルほどの間に異空間が静にたたずんでいる。立派な家ばかりだ。ここは先程も述べたように、古代より大和国中から河内、摂津へ向う峠道の傍らにある集落で、やはりなにがしかのヒト、モノ、カネが集まる場所だったのかもしれない。

 背後にそびえる二上山は古代、石器の材料となったサヌカイトの産地であった,ドンヅル坊というサヌカイトの露出した岩肌の奇観も穴虫峠の近くで見ることが出来る。また、金剛砂が川から採れる為、研磨材や研磨機を扱う企業が今でもある。

 ともあれ武家屋敷と見まごうばかりの門構えの家、巨大な庭木がそびえる家、本瓦葺きの蔵屋敷など、その土地の富を誇示するような建物がこれだけの狭い地域に密集している事に改めて驚かされる。多くは江戸期以降に起源を発する建物だろう。うらやましいような豪邸ばかりだが現在住んでいる方々のご苦労もあるのだろう。

 だらだら坂を上り、この不思議な穴虫の集落を抜け、近鉄二上山駅脇の踏切を渡ると、目の前にいよいよ二上山がそびえる。しかし、この位置からだと、あの雄岳、雌岳あい並ぶあのフタコブラクダ型二上山は望めない。そうこうしているうちに日は傾き、あとわずかな時間で山の向うへ隠れてしまう。ため池に映る美しい入り日の残照をカメラに収めつつ,慌ただしく東へ移動する。冬の日は秋よりもつるべ落とし。當麻の里まで行けばあのツインピークスの二上山の姿が拝める。冬枯れの田園の鉤の手道をひたすら當麻に向って走る。途中すれ違う犬の散歩中の人が,何事かと振り返るが気にしない。

 二上ふるさと公園にたどり着いた時には陽は二上山の雌岳の遥か左(東方向)に今まさに沈まんとしている。あわててシャッターを切った。なかなか雄岳と雌岳の間に夕陽が輝く光景を拝む事は出来ない。入江泰吉の「二上山残照」に憧れるが、あのような瞬間を収めるには飛鳥の山肌や三輪山の麓から望む方がやはり良いのだろう。近づきすぎたんだろう。季節に寄って太陽の傾きも変わるし。

 澄み切った空気の冬、夕陽は赤く山肌を染める事なく、青空と白い雲の間からキラキラと輝きを保ったまま山稜にその姿を隠していった。二上山に日が落ちてもしばらくは緩やかな傾斜地である當麻の里からは真っ正面(真東)に三輪山と箸墓を望むことが出来る。山の隙間から西日がまだ三輪山を煌煌と照らしている。三輪山と二上山はほぼ正確に東西軸上にある。一昨年11月に纒向遺跡で宮殿趾と目される遺構が発掘されて、卑弥呼の宮殿ではないか,と話題を呼んだが,この建物配置はまさに三輪山を東に背負い、西に二上山を望む東西軸の配置であった。

 ここから観る三輪山は甘南備型で美しく神々しい。さらに目を右手に転ずると、畝傍山や耳成山、飛鳥古京の地、東山中の山々を一望にすることが出来る。逆に飛鳥、三輪、纒向の古代ヤマト王権の地からは西方にこの二上山を望み、一日の終わりに太陽がこの山に沈んで行く神々しい光景を眺めた。さらに仏教伝来以降は、この二上山の向うに夕陽に輝く仏のおわします西方浄土を夢見た。大津皇子が無念の死を遂げて、大和盆地の西の二上山雄岳に葬られたのも偶然ではなかったのだろう。

 静かに暮れ行く當麻の里。この豊かで平和な田園地帯を少し急ぎながら歩く。うっすらと雪化粧した山肌を背景に當麻寺の東塔、西塔を抱く當麻の里を愛でながら,大和国中の眺望が広がる里を歩く。日が落ちた一本道を當麻寺駅に向って歩く。凍える手をこすりながら。夕暮れ時はいつも寂しくて心細い。でも今日は楽しかった。

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法隆寺 斑鳩町西里 匠たちの故郷は今

2011年01月12日 | 奈良大和路散策
 世界遺産法隆寺の西大門を出ると、幅3m程の道が一本西に向う。その両側に広がる落ち着いた町並み。一歩足を踏み入れただけでなにか違う雰囲気が漂う静かな町並み。大和路で見かける白壁、大和棟の立派な構えの豪農の住宅が立ち並ぶのでもない。虫籠窓に煙出にウダツが上がる商家の家並でもない。武家屋敷でもない。土壁に囲まれた邸宅が並ぶなにか質実剛健でかつ洗練されたな雰囲気の町。

 ここは斑鳩町西里。現在の住居表示では法隆寺西町。かつて法隆寺の建立、作事に携わった匠達の故郷である。
法隆寺の東には東里という集落があり、こちらも法隆寺を支える人々の住む町であったと言う。

 西里は一町四方(300m四方)程の地区で、この町の西口に掲げられてい案内板によれば、近畿一円の大工支配となった中井大和守正清の出身地で、その父、孫太夫正吉は法隆寺大工の棟梁で、京都の方広寺大仏殿建立、大坂城築城にも携わるなど、大掛かりな普請を手がける専門集団であったようだ。正清は関ヶ原の合戦以降、徳川家康に取り立てられて伏見城の築城、江戸城本丸や天守や法隆寺の大修理、江戸の町割りに携わった。畿内,近江六カ国の大工棟梁を支配するに至る。しかし、大坂夏の陣では豊臣方に西里の中井館が攻められ、その戦乱の中で町は焼かれて衰退した。

 こうした歴史を持つ西里地区はかつて程の輝きは失われたようだが、法隆寺の作事を請け負う匠の伝統は絶える事なく今に引き継がれている。ここは法隆寺の昭和の大修理を手がけた宮大工の棟梁故西岡常吉氏の出身地でもある。また、そのご子息故常一氏は薬師寺金堂の再建の棟梁である。いわば伝説の父子はここ西里を一族の故地としている。

 そもそも法隆寺は50~80年毎に修理、補修を行ってきている。さらに過去4回の大規模な解体修理が行われている。昭和の大修理の以前は500年前だという。そうでなくてはこのような木造建築がこのような姿で現代の世まで古の姿をとどめることはない。しかし、その営みは想像を絶する長期にわたる技術承継のプロジェクトである。

 一言で匠の技の継承というが、1400年の時空を超えて現代までそのオリジナルな姿を維持出来る「技」を継承するという事は奇跡に近いだろう。何十年あるいは何百年に一度であるから、次の修理の時には手がけた元の棟梁や大工はもちろんいない。元の設計図面や前の修復の記録も必ずしも残ってはいない。古材の活用、オリジナルと同じ材料の調達にも挑まねばならない。建築工法も大きく時代とともに変わるのだから、昔の技の継承はほとんど無に近い所からはじめなければならない。そう思うとため息が出てしまう。

 この西里集落を西へ抜けると、藤ノ木古墳が目に飛び込んでくる。六世紀後半の円墳で、未盗掘古墳である。状態の良い家型石棺と二体の人骨、3セットのきらびやかな馬具、土師器、埴輪、数々の装飾品が保存状態もよく出土したことで有名。崇峻天皇の陵墓ではとの見解もある。古墳時代末期で、しかも仏教伝来の時期でもあり、次第に古墳は築造されなくなってゆくが、ここの出土品は古墳時代最後の輝きであるのかもしれない。

 現在はきれいに整備され。史跡公園となっている。遠くに葛城山を望み斑鳩の里散策途中に人休むするのにちょうど良いベンチも備わっている。あんまりきれいな芝生の小山なので子供達が駆け上って遊べそうだ。かつては草蒸し、鬱蒼とした木立に囲まれた古墳だったそうだ。その方がロマンを感じるけどなあ。

 横穴式の石室内は厳重に封印されたドアの見学窓から覗くことが出来る。これがおもしろい。中は当然真っ暗だが、人が窓に顔を近づけるとセンサーが働き、石室の照明が点灯し家型石棺が観れるようになっている。古墳とセンサーという組み合わせ。被葬者も想定外の仕掛けだろう。

 異なる時代の遺跡、建造物、町が共存する斑鳩の里。厩戸皇子が権謀術数の渦巻く飛鳥を避けて居宅を構え,後に法隆寺を建立したたこの里に、それを支えた人々の生活があった。大陸の渡来人から技術を学び,継承して日本独特のものへ昇華させてゆく。日本人が好きな「モノ造り」の原点がここにあった。古代の東大阪、蒲田だ。

 そして現在までその香りを残す町がある事に時空の重みを感ずることが出来た。



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