時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

アール・デコ建築の粋 ~旧朝香宮邸の美と技法を愛でる(第二弾インテリア編)~

2015年08月11日 | 近代建築遺産を巡る

東京都庭園美術館はアール・デコ展開催中。以前来た時(アール・デコ建築の粋 ~旧朝香宮邸の美と技法を愛でる~)には建物内部の撮影ができず、フラストレーションが溜まったまま帰ったので、今回は出直しというわけだ。日によって写真撮影が許されていることを知った。今日はやっと心置きなく撮影できた。アンリ・ラパン、ルネ・ラリックなどのフランスのアール・デコ作品と、それを東京に移植して根付かせた日本の匠が出会うとこうなった。フランスのアール・デコと日本のアール・デコを楽しめる。いわばジャポニズムの里帰りだ。この展覧会、さすがにフランスからの訪問者が多い。若いフランス人の学生に感想を聞いてみた。「トウキョウという東洋の街でパリに出会った!」と。コメントが出来過ぎだ。まあ、まずは写真をお楽しみあれ。

ダイニングルーム
イヴァン=レオン・ブランシェの壁面レリーフ、ルネ・ラリックのシャンデリア

 

 
テーブルセッティング
 
 
アンリ・ラパンの香水塔
セーブル製陶製




ホール
アンリ・ラパンの内装設計

 

ルネ・ラリック
 
 
ルネ・ラリックの玄関のガラスレリーフ
撮影者が真ん中で一生懸命身を細くして隠れているのがご愛嬌だが
 
 インテリアを彩るパーツはフランス直輸入のものが多いが、日本の匠の手になる作品がまた素晴らしい。フランスのアール・デコと日本のアール・デコのコラボレーションだ。
 
 
イヴァン=レオン・ブランショ作
大理石レリーフ「戯れる子供達」
マックス.アングラン作エッチングガラス扉
 
 ラジエータグリルカバーなどの装飾金物達。

 これらは宮内省内匠寮技手のデザインにより電気鋳造で作られた。居室や階段など館内のいたるところに施されており素敵なアクセントになっている。アンリ・ラパンの内装デザインの重要な構成要素になっている。

 これらのオーナメントは日本の匠によるアール・デコ作品。こうして日仏両匠の見事なコラボレーションが全体の意匠をさらにエレガントなものに仕上げている。



 

日本伝統の模様「青海波」



マントルピースカバー

 

「香水塔」上部にはランプが仕込んである。






 

アール・デコの美と技巧を堪能する ~旧朝香宮邸宅と自然教育園~

2015年06月24日 | 近代建築遺産を巡る

 東京都庭園美術館と目黒自然教育園。中世の豪族白金長者の居館跡だと言われる広大な杜の中に存在する。今でも敷地内に当時の土塁の遺構が確認できる。都心に残る数少ない緑地の一つだ。そもそも「白金長者」とは誰なのか。その確かな伝承はないそうだが、その割には広大な敷地を残したものだ。白金長者の居館敷地跡はその後、江戸時代には讃岐高松藩下屋敷となる。その名残に大名庭園の池やクロマツの大木が今も残っている。明治維新後は陸軍・海軍のの弾薬庫に、大正時代には皇室の白金御料地となる。そしてその敷地の一部が皇族朝香宮家に下賜された。英国Kentの田舎暮らしで週末の森の散策を楽しみとしていた我が家にとって、東京へ戻ってからの、この「自然教育園」という都会の杜は貴重な空間だった。そして白金迎賓館(「庭園美術館」というより馴染みがある)は知人の結婚式や、夏のプール、お庭での食事など、思い出深いところだ。

 

 世界に誇るアール・デコ建築の粋を堪能せよ。

 

 旧朝香宮邸。現在は東京都庭園美術館となっているこの地の圧巻は、何と言っても緑の庭園に広がるアール・デコ建築の邸宅。外見は思いの外シンプル。しかし、一歩玄関を入ると、デコラティヴな別世界。アンリ・ラパンによる内装、ルネ・ラリックのガラス工芸品の数々。一つ一つの部屋は世界中から取り寄せた、拘りの素材、部材を使った装飾芸術でしつらえられている。建築設計は、赤坂離宮など、数々の日本を代表する洋風建築を手がけた宮内省内匠寮。そしてフランス留学していた朝香宮に依頼を受けたインテリアデザイナー、アンリ・ラパンによる内装は、妥協を拒んだ本格的なもの。

 

 日本人の異文化の咀嚼力の凄さを感じさせられる。趣味の悪いコピーではない。本物を取り入れて日本の風土に同化させるだけでなく、日本古来からの伝統的な技を使って、西欧の技法と素材をうまく日本化している。そして新たな本物にする。古来よりユーラシア大陸の東の端の、文明の終着点の島であった日本。その水の流れの淀みには、様々な文明・文化が融合した堆積物が新たな価値と美を生み出して蓄積されている。それを日本人は咀嚼し、昇華し、自分の物にしてきた。今回は、館内では「マスク」展が開催されていたため、残念ながら建物内部の撮影は禁じられて紹介できない。しかし、そのインテリアのディテールと全体コーディネーションの完成度に、日本という国の海外文化に対するオープンネスと多元的な受容性が凝縮された成果の一つを見る事ができる。

 

 戦後は、一時吉田首相の仮総理大臣公邸、西武グループへの売却により、白金プリンス迎賓館などとして使われ、1984年に東京都へ売却され東京都庭園美術館として公開されている。2014年リニューアル再オープンした。隣の自然教育園で森のお散歩を楽しんだあと、アール・デコの邸宅でアートな時間を過ごす。目にも鮮やかな緑の芝生庭園を眺めながらカフェで一服する。フランスの田舎ではないが、KentやSussexあたりのManor Houseでの英国貴族の生活を、このせせこましい東京の中で味わえる不思議。なんか素敵な時間と空間だ。

 

 

旧朝香宮邸

 

門から玄関までの散策も楽しい

 

ようやく邸宅の玄関が見えてきた

 

玄関のラリックのガラスレリーフ

(東京都庭園美術館HPより引用)

  

2014年オープンの庭園美術館新館

 

新たにオープンしたカフェレストランで昼食

  

庭園の芝生が鮮やか

玄関に立つ狛犬

アール・デコとのコラボ

 

庭園側から見た本館テラス

 

アジサイの季節だ

 

大和撫子

 

 

 

 

 

 

 

 


帝都東京の面影 明治生命館

2014年09月09日 | 近代建築遺産を巡る

子供の頃、夏休みに母の実家のある東京へ遊びに行くだびに、心に残った景色があった。皇居お堀端の景観である。日比谷通りと晴海通りの交差点(日比谷交差点)から、重厚な近代建築ビルが並ぶ日比谷堀、馬場先堀を眺める。第一生命ビル、帝国劇場、東京会館、明治生命館... 水面に影を映す高さのそろった美しい堂々たる街並。田舎からやって来た少年は、これぞ首都東京だと眼を見張ったものだった。

 なかでもひときわ美しい古典主義様式のビル、これが明治生命館である。大阪にも素晴らしいビルが沢山あった。かつて大阪が日本の経済・産業の中心であった大大阪の時代の、中之島の住友銀行本館ビルやダイビル、御堂筋の日本生命ビルも堂々とした大建築。しかし、皇居馬場先堀端に屹立するフルブロックのビルは、その前面のコリント式列柱が、皇居の松の緑、日比谷通りの柳と銀杏の並木と相まって、ひときわ威風堂々たる風格を誇る。戦前は、まさに帝都東京を代表する建物であった事であった。

 明治生命館は、昭和9年(1934年)3月に竣工。設計は建築家で東京美術学校教授の岡田信一郎。しかし岡田は竣工を見ずに急逝し、実弟の岡田捷五郎に引き継がれた(意匠)。また構造設計はあの、東京タワーや通天閣で有名な塔博士、内藤多仲。当時の第一級の建築家の作品だ。あの頃のビルディング(ビルヂング)には、現代の合理主義一辺倒で無駄のない簡素さとは異なり、ある意味では実用性よりも古典的な装飾性を取り入れた非合理主義が表現されている。建物に対する価値観の違いだろうか。

 終戦後は第一生命ビルとともに占領軍に接収され、GHQの諮問機関である、米英中ソ4カ国の対日理事会が置かれた。今も残る二階の重厚な会議室では164回に及ぶ対日理事会が行われ、昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結、すなわち日本の独立回復まで使用された。歴史の生き証人である。ちなみにビルの返還は昭和31年(1956年)になってからだ。

 平成9年(1997年)重要文化財指定がなされている。明治生命館も辺りの近代建築ビルの例に違わず、オフィスとしては手狭になったため、平成13年(2001年)リニューアル工事に着手。30階の高層棟を継ぎ足す改修工事は平成16年(2004年)完成した。しかし、重要文化財指定であるため、第一生命ビルのように外観以外、内部が大きく変更されてしまったケースと異なり、内装も見事に創建当時のデザインがそのまま生かされ、往時の姿が保存されている。また、内部は一般公開されており、対日理事会が開催されていた会議室などが見学できる。モダニズム建築も良いが、かつて日本にはこのような壮麗な古典主義建築があったのだ、とついノスタルジックな感傷に浸ってしまう。


 都市には、その街の歴史の長さと厚みを象徴する建築物が存在し続けていることが大事だと思う。日本の場合、木造建築が多かったので、大方が火事や、地震などの自然災害、戦乱で跡形も無くなってしまうことが多かった。そうでなくても「古い」イコール「汚い」、という感覚で、随時建て替える文化だったようだ。建物が不動産ではなく、消費材として扱われてきた文化なのか。明治の近代化以降、せっかく石やレンガの文化の建築物が入って来たにもかかわらず、古くなったら、汚い、狭いと言って壊して建て替えるDNAは、容易には消えなかったのだろう。お堀端や丸の内の古い写真を見ると、まさに一丁ロンドンよろしく、ここには典雅な赤煉瓦や石造りの近代建築の街並がかつてはあったのだと知る。それは震災や戦災はともかく、世の中が平和で豊かになった経済発展期に、土地バブルの狂乱でで破壊されてしまったのであると知る。

 古いからといってすぐに壊して新しいものを求める。そういう時代もあったね,とならないものか。いざとなったら,いつでも更地に戻せる薄っぺらいプレハブ工法の建物と、商業主義的なネオンサイン(デジタルサイネージもだ)と看板だらけの街は品格が無い。もちろん都市は今を生きているのだからそういう地区があってよいのだが、歴史を感じさせる地区だってあっても良い。パリやロンドン、バルセロナ、ローマなどの欧州の街の旧市街は、その都市を威厳と品格が漂う街にしている。欧州に比べれば歴史が新しく経済合理性、マネー優先に見えるニューヨークでさえ、その歴史を物語る建物や景観が残されている。土地一升金一升の東京では、つい古いものを壊して、猫のひたい程の土地に、新しく空に向って高い建物を建てがちだ。古い建物を保存しろ、という言われるから、「外観だけは残しましたよ」みたいな「看板建築」型高層ビルが流行するのもどうなんだ。一つ一つの建物は建築家が自慢する見事なデザインと構造設計技術の粋を集めた建物だし、クラシックな外観を皮一枚のこした「看板建築」ビルも、それだけ取り出せばよくデザインされている。しかし、それらが連なった街並はバラバラで、その街の悠久の時の流れのなかで熟成された佇まい、そこから来る風格を感じさせないことがままある。悲しい。

 一方、街並の美観を守るための高さ規制もどんどん緩んでゆく。お堀端の景観論争は昭和41年の東京海上ビルの建て替えを機に起こった。現在は何事も無かったかのように建っている故前川國男設計の「高層ビル」も、当時はお堀端の景観を壊す、皇居を上から覗く恐れがある、などとカシマしい論争となったが、とうとうこれをきっかけにお堀端の高層ビル解禁となった。それまではビルの高さ31mと定められ、そろっていて美しかった街並も、最近ではすっかり高層化が進み、セットバック方式がとられているものの、グラス&スチール高層棟の高さも、ファサードも不揃いなビルが林立する街に変わりつつある。東京会館ビル、東京商工会議所ビルも建て替えとなるそうで、低層部は31mは守られるが、高層部どのようになるのか... 東京の顔である皇居周辺の美観地区としての景観保存という観点からは、時代の流れとはいえ残念だ。

 ビルの高さがそろった街は美しい。パリ中心部がそうである。ワシントンDCもそうだ。街中から見上げる空が広い。幕末にベアトが愛宕山から撮ったの江戸の街も整然とした武家屋敷の黒瓦の家並が壮観だ。ちなみに我が故郷、福岡もビルの高さがそろっている。福岡は空港が町中にある(というか、もともとは郊外だったんだが、市街地が広がってしまった)ため、ビル建設に高さ制限があり、都心で高層ビルが建てられないためだ。福岡市民の中には、これを悔しがっている人がいるようだが、乱雑に高層ビルなど建たない方が美しい街並を誇ることが出来る。むしろこうした都市景観は、今となっては希少だ。福岡の空も広い!

 幼い眼に焼き付いた、美しい東京のお堀端は、これからどこへ行ってしまうのだろう。明治生命館が残ったのがせめてもの救いだ。銀座などはドンドン再開発が進んで、街の景観が変わりつつある。老舗の街,銀座は、ショッピングモールと外国人観光客向けDuty Free Shopsの街に変わって行くのか。

 日本という国の成長が緩やかになり、成熟した大人の国になるのは良いことだ。かつての「老大国」イギリスのように、厳しい再生の時代を経ねばならないだろうが、成熟に向かって美しく老いることを学ばねばならぬ。そのとき、はたして「老大国」日本に残せる遺産レガシーはあるのか。イギリスは1760年に始まったと言われる産業革命以来250年以上の繁栄の時代を謳歌してきた。近代化の歴史の厚みがある。日本は明治維新から数えても140年だ。GDP 世界第二位という戦後の高度成長期はたかだか30年ほどだ。近代国家としての繁栄の時代が短く、蓄積したレガシーが少ない分だけ、建築物や都市景観を含む「近代化遺産」を大切に後世に引き継ぐ必要がある。


かつての高さ31m規制は、低層部にその面影を留めている。
中央が明治生命館ビル。セットバックを大きく取っているので,高層棟が目立たない。


コリント様式の列柱が辺りを圧倒するファサード


占領下で連合国対日理事会が開かれた会議室

 

天井の明り採り窓

 

一階の営業室の見事な天井と列柱

 

会議室から続くコリドー

二階コリドーから営業室を見下ろす


こうした街区景観はもう生まれないだろう

 


新・大大阪の夢 (御堂筋編)

2009年11月12日 | 近代建築遺産を巡る
先週末は土曜日には、奈良西ノ京の唐招提寺へ平成の修理完成落慶法要が済んだ金堂を見に、また東塔の解体修理が始まる薬師寺へ行った。
この写真は別途掲載するつもりだが、秋の観光シーズンたけなわであることも相まって、大勢の人出で、こころしずかに金堂の修復を愛で、諸仏に手を合わせる雰囲気ではなかった。

唐招提寺は入山に大勢の人の列。皆さんよく知ってるんだなあ。しかも寺院、仏像ブームもあって若い女性「仏女」が目立つ。特に薬師寺は東塔の解体修理への寄進イベントなのか、大勢の善男善女が東塔の公開に長蛇の列をなし、写経納経の受付でテントが並び、坊さんはハンドマイク片手に走り回わり、ライブイベント開催で金堂と講堂の間は立ち入り禁止。

ちょっと来る時期を間違えたなあ。

で、次の日には、がらりと趣向を換えて大阪の近代建築遺産を求めて,「新.大大阪の夢」シリーズの第3弾として御堂筋をライカM9片手に徘徊する。

だんだん「ブラタモリ」風になってきたなあ.....

今回は淀屋橋を起点に南へ歩く。日曜日とあってオフィス街のこのあたりは人気が少なく,ゆっくりとブラパチ散策を楽しむことが出来た。

ビルの前で立ち止まって一生懸命カメラで下から上を仰ぎ見ていると、通りがかりの人が「なに撮ってんやろ?」と一緒になってビルを見上げるのが楽しい。つい,「このビルは素敵ですねえ」、「フーン、昔から建っとるけどな...」などと自転車に乗ったオッチャンと,ほとんど意味のない会話が成立するのが良い。大阪人は東京人のように周りに無関心(あるいは無関心を装っている)でないのがよい。気取りがなくて「好っきゃで」大阪!

そういえばニューヨークで建築写真撮ってたときも同じ経験をした。たいがいは「Oh, Nikon. Good Camera, isn't it?」と声をかけられる。建物ではなくカメラの方に関心が。ホームレスのおじさん(オニイさん?)がブツブツとカメラのうんちくを語り、最後に,要はナイコンが最高だ,と言って去っていったこともあった。通りがかりのおばさんが建築評論家よろしく,延々と建物の故事来歴を聞かせてくれたこともあった。大阪はニューヨークだ。人がオープンでよそよそしくない。

まずは、堂々とした白い石の塊、日本生命本館。そこから東に折れて緒方洪庵の適塾跡とその隣の大阪市立愛珠幼稚園、八木通商本社ビル、再び御堂筋に戻り大阪ガスビル、又一ビル、そして心斎橋大丸本館と写真を撮り回った。どれも大大阪を代表する近代建築であるが、その有様がそれぞれで楽しい。大阪は面白い!

なかでも一番感動したのは、日本で一番古いと言われる愛珠幼稚園だ。堂々たる近代建築群とは異なり、堂々たる日本建築。明治34年竣工。これが幼稚園か。しかもまだ現役の...  大大阪の中心地にこんな広大な敷地を有する幼稚園。船場の旦さん、ゴリョんさんの底力を見せつけられる。

もう一つは大阪ガスビル。昭和モダニズム建築の粋と言っていいだろう。1933年竣工で、ちょうど御堂筋拡張工事が本町通りまで進んだ時期だ。ここではガスを使った近代的な家庭生活をショールームとして紹介していたようだ。今でも最上階のレストランは大阪モダンの象徴である。大阪ってすごい町だったんだ。御堂筋のランドマークだ。

もちろん大丸心斎橋店ビルはウイリアム・ヴォリス設計の大阪を代表するアールヌーボー建築。御影石とスクラッチタイル、テラコッタの3段重ね。すごい装飾に覆われている。最近はデパートが景気悪くって、つぎつぎ店を畳んでる。大丸の隣のそごうも近代建築の代表的な建物であったが、取り壊されて新生そごうの本店として高層ビルに建て直された。それもつかの間、結局そごうは心斎橋から撤退を決めて、隣のライバル店、大丸へ売却。大丸北館として11月14日に再オープンする。大丸さんがんばってくれよな。一生懸命買い物するよってな、この建物の為にも。それだけの価値のある建物だよ。

最近の経済情勢を見るにつけ、「昔はよかったなあ」などと,年寄り臭い感慨に浸るのは嫌だけど、御堂筋沿いの古き良き時代の大大阪の建築遺産を見せつけられると、つい過去を振り返りたくなってしまう。

日本もヨーロッパの古い町のように時間の経過とともに熟成した町が増えると良いのだが。残念ながら日本は近代資本主義の時代に入ってわずか100年余。蓄積された近代建築の町並みが充分に景観として形成され熟成する時間を経ていないのと、その間に戦争や地震で失われてしまったのと、高度経済成長の時代に惜しげもなく取り壊してしまったのとで、ヨーロッパの都会ほどに厚みのある景観が残されていないのが残念だ。大阪の町に残された、数少なくなりつつある栄光の時代の遺産をこれからも大事に残してゆく努力が必要だろう。

むしろ,繁栄を享受した大都市よりも経済発展に取り残された地域、であるが故に戦争で空襲も受けず、地上げにも遭わずに残った地方の田舎の方に日本らしい町並みが残っているのは皮肉だ。こうした景観の集積は貴重で、これが普通の町の普通の景観になって欲しい。これからはこれらを大事に文化遺産として、今度こそ破壊せずに後世に残していかねばならないと思う。

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新・大大阪の夢 (堂島・中之島編)

2009年11月09日 | 近代建築遺産を巡る
前回,中之島のダイビル建て替えの話を書いたが、取り壊される前に是非一度見ておきたいと秋晴れの休日に訪ねた。
残念ながら建物は既に閉鎖されていて中をみることは出来なかったが、外観をカメラでなめ回してきたので下のアルバムでご覧あれ。ちなみにカメラはゲットしたばかりのライカM9。こうしたクラシックな建物をとるのにはちょうどいいカメラだ。が、一眼レフからスイッチすると、やはりレンジファインダーでのフレーミングがなかなかうまく行かなくて慣れるまで苦労した。だがエルマリート28mmの歪曲の少ない写りは、M9ボディーとのマッチングが最高であること示している。どうだ!

中之島は再開発が進み、京阪の中之島線も去年10月に地下に開通してロイヤルホテルまで通じた。かつて山崎豊子の小説「白い巨塔」の舞台となった旧大阪大学医学部跡は堂島リバーフォーラムや朝日放送本社、タワーマンションなどに生まれ変わった。その向かいの旧大阪中央電信局、電話局は堂島テレパークとして建替えられ、今でもNTTグループの西日本の重要拠点として存在感を誇示している。堂島電電ビルとNTT西日本堂島ビルに挟まれた鉄塔が低く見えてしまう。この鉄塔はかつてここが全国の電話中継網の西のハブであったことを示すしていたのだが..... このようにここダイビルだけが周囲の新しい高層ビル群の中で圧倒的な存在感を持ってワイドスパンの敷地にドッカと座っている。周囲は関西電力本店ビルや,新ダイビル、三井ビルなどの高層オフィスビルやタワーマンションに囲まれてしまっているが。

ダイビルは遠くからみると重厚な外見で,一見装飾性を排したシンプルなオフィスビルに見える。しかし,近寄ってみると外壁一面を覆うのはスクラッチタイル。壁からエントランスにかけて豪華な装飾の連続である。連続する柱は蛇や人面や動物のモチーフのテラコッタ装飾で飾られ,メインエントランスはことのほか豪華なレリーフで飾りまくられている。これらの一階の柱や外壁に用いられている石材は龍山石というものらしい。住友銀行本店ビルの外装全面にも用いられている石材だそうだ。

残念ながら既に内部をみることは出来なくなってしまったが、一階のアーケードは吹き抜けの大天井、華やかな照明器具、漆黒のエレベータ、渋い金色に輝くメールボックスなど、徹底的に豪華さを誇るインテリアであるそうだ。残念。キット東京日比谷の三信ビル内のアーケードの様だったんだろうなあ。こちらは跡形もなく解体されてしまったが.....

隣に新しい中之島ダイビルが建てられているが,こちらは低層部にクラシックな装飾が施されて,その上に高層のタワーが屹立している。ダイビルも立て替え後のイメージはこんなものなのだろうか。内部は確かに明るく合理的な空間と機能美のコラボレーションがさすがであるが、外見は最近流行の「壊してごめんね、だけど一応残しました」風の高層ビルだ。日本は古い建物の保存や修復に補助金や税金面での優遇措置などないのでビルオーナーだけに保存を押し付けるのは無理かもしれない。もう少し市民の側もこうしたビルのオリジナリティーや景観の価値を認識すべきだろう。

土佐堀川沿いに東へ進むと、朝日新聞大阪本社、旧住友銀行本店があたりを圧倒する威容で立っている。高層ビルに囲まれて高さ的には睥睨することは出来ないが、その存在感は圧倒的である。この朝日ビル旧館はダイビルの4年後に竣工した古いビルだが、外見は古さを感じさせないモダンなものだ。御堂筋のガスビルにも通じる当時としては未来を予感させる景観をあたりにつくりだしていたに違いない。こちらも新・旧両方のビルが建替え計画中だ。

西から見ると阪神高速の高架に視界を遮られた旧・住友銀行本店ビルはまさに大大阪を象徴するビルだ。土佐堀川沿いに建つフルブロックの建物の威厳と自信に満ちた有様は周りを黙らせるオーラを持っている。当時としては珍しく銀行内に建築部門を設け設計にあたらせたという力の入れ様だったと聞く。メンバーは辰野金吾の弟子達でその後の日本の建築史に名を刻む建築家がここで育った。第一期大正15年(1926年)、第二期昭和5年(1930年)の2期に渡って完成させた。その設計に携わった建築家の長谷部鋭吉、竹越健造がその後独立して開いたのが日本最大の設計事務所、日建設計である。

さらに東へ向かうと、錦橋、淀屋橋、日本銀行大阪支店、大阪市役所、中之島図書館、中之島公会堂、と大阪のプロムナードをつなぎ、北浜の旧・大林組本店、大阪証券取引所,と続く。堂島川(旧・淀川)土佐堀川沿いの大大阪の東西軸のハイライトだ。どうだ,大阪はすごいだろう。

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