時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

東西文明の邂逅 知のラビリンス「東洋文庫」を探訪する

2015年06月12日 | 世界史散策

 学生時代に平凡社「東洋文庫」シリーズに出会った。内外の歴史的な資料、古文献を日本語で読む上でのバイブル的存在であった。もちろん膨大なシリーズをとても全てを読破できないものの、図書館にある面白そうな巻を手当り次第を斜め読みしてみた。そのなかでも、マルコ・ポーロ「東方見聞録」の邦訳版に出会った時の衝撃を覚えている。歴史の教科書でしか見たことのないこの文献が、実際に読めるのだ、と。西洋が東洋に出会った最初の記録である。「ジパング」の記述が初めて出てくる14世紀の旅行記。これが私にとって「東西文明の邂逅」というテーマへの憧れを抱くきっかけであった。

 

 のちに留学先に英国を選んだのも、考えてみるとこうした背景が深層にあったように思う。ユーラシア大陸の西の果てと東の果ての出会い。その時空を超えた「未知との遭遇」のロマンが、私をロンドンでの、British Museum探訪、古書店探訪、古プリント/古地図店探訪へと駆り立てていった。考えてみると明治の先人達は欧米だけでなく、中国、インド、イスラム等、世界中の古典を勉強し、和訳して世に広めたわけだ。そのおかげで、後世の若者がマルコ・ポーロであれ、イブンバツータであれ、四庫全書であれ、アダムスミスであれ日本語で読む事ができる。これはすごい事だ。それを日本語訳した「東洋文庫」シリーズ。これらが日本人の知識欲と教養への憧れと知的探究心をおおいに涵養した。皮肉にも、おかげで普通の日本人はすっかり外国語が苦手になってしまったが...(なにしろ、世界中の知の体系が日本語で理解でき、大学の講義が全て自国語で行われるような国は欧米を除くと日本くらいだろう)

 

 一方、東京駒込に「東洋文庫」がある。こちらは平凡社叢書とは関係ないが、東洋学の貴重な研究図書館として90年の歴史を有する。最近こちらを訪ねる機会があったが、その圧倒的な蔵書と吸い込まれるような空間にすっかり魅了されてしまった。もっと早く知っておくべきであったと思う。今回はその探訪記だ。

 

 東洋文庫の沿革(同ウエッブサイトより引用):

 

 東洋文庫は東洋学の研究図書館です。三菱第三代当主岩崎久彌氏が1924年に設立した、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられております。その蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊であり、内訳は、漢籍40%、洋書30%、和書20%、他アジア言語(韓・越・梵・イラン・トルコ・アラビア語等)10%です。 

 職員は研究員も含め約80名で、2つの超域研究、10の研究班による歴史・文化研究および資料研究を行っております。又、人間文化研究機構との共同研究組織2つ、文部科学省からの受託事業、更には、フランス国立極東学院、台湾の中央研究院、EUの東洋学研究コンソーシアムと協力協定を締結しております。その研究成果は東洋学報・東洋文庫論叢・Memoirs of the Research Department of The Toyo Bunko・東洋文庫書報等の刊行物で発表し、一般向けに東洋学講座等の講演会も行っております。 

 図書館は閉架式の閲覧室を設け、貸し出しは致しておりませんが、一般に無料で閲覧に供しております。又、データベース化にも力を入れており、書誌データはインターネット検索が出来ます。又、順次貴重本・絵画等の全文データ・画像データ・動画データ等をインターネットで公開致しております。 

 当文庫は特定公益増進法人に認定された財団であり、その必要資金は自己資産、寄付金及び補助金で賄われております。

 

 岩崎久弥とモリソンの肖像

 

岩崎久彌(1865-1955)

岩崎彌太郎の子で、三菱会社三代目社長。事業の発展だけではなく、社会貢献にも心を配り、この東洋文庫設立の他にも、岩崎家の所有になっていた清澄庭園と六義園を東京都に寄付した。上野のジョサイア/コンドル設計の洋館岩崎邸は彼が建てたもの。彼はまた、三菱会社社長を小彌太に譲った後は農場経営に力を尽くした。この時に小岩井牧場を所有した。現在の「東洋文庫ミュージアム」にあるカフェレストランは小岩井農場の経営である。ペンシルバニア大学ウオートン校留学。

 

モリソン、ジョージ・アーネスト George Ernest Morison(1862-1920)

イギリスのジャーナリスト。オーストラリアのヴィクトリア州ジーロン市に生まれる。1895年にロンドン・タイムズ入社、1897年より北京特派員。1911年中華民国総統府顧問。在任中蒐集したモリソン文庫と称される極東関係文献2万4,000冊は1917年、岩崎久彌に譲渡。

 

 このように、世界的にも貴重な東洋学の研究図書館としてその役割を果たしているのであるが、私にとっては、西洋と東洋の文化の出会い、とりわけ日本との遭遇(日本にとっては西欧文化との遭遇)をテーマとした様々な古典資料の宝庫であることに興奮を抑えることができない。おそらくこの分野ではBritish Libraryよりも充実しているかもしれない。ロンドン大学SOAS(School of Oriental and African Study)、またオランダのライデン大学図書館/博物館シーボルトコレクションが有名であるが、むしろ日本との関係ではこの東京の東洋文庫が世界のセンターであるかもしれない。三菱財閥3代目の当主である岩崎久彌の残したこのレガシーこそ、日本が世界に誇る文化遺産の一つとなっている。

 

 岩崎久弥は明治期の西欧文化、文明開化至上の時代、東洋や日本の古い文化が疎んぜられ、打ち捨てられかねない時代に心を痛め、自ら古典/書画を収集保存し「岩崎文庫」を設けた。そしてモリソンから彼の東洋在任中の書籍コレクションを購入。その「モリソン書庫」は視覚的にも圧巻!モリソンが集めた書籍はおもに西欧から見た東洋を描いた貴重な古書の数々である。彼の帰国に伴い散逸の危機にあったが、岩崎久彌の日本を含む東洋文化への憧憬の心がこれを防いでくれた。この「岩崎文庫」と「モリソン文庫」が合わさって現在の「東洋文庫」の基礎をなしているという。あの岡倉天心やフェノロサが日本の美術の価値を認め、破壊から守り再び光を当てたように。

 

 東洋文庫は奥深い知のラビリンスだ。その底なし沼に分け入る前に、まずはミュージアムを巡ってその一端を味わってみよう。まずは眼に飛び込んでくるモリソン文庫の圧倒的な威容に驚かされるが、他にも貴重な書籍の数々が。

 

司馬遷の史記(写本)

中国清朝時代の「四個全書総目提要」

日本書紀(寛永版写本)

マルコポーロ「東方見聞録」コレクション

ジョン・セーリス航海日記

バスコダガマ航海記

コロンブス航海記

キャプテンクック航海日誌

ジョン万次郎を救助した捕鯨船の航海日誌

好太王碑文の拓本

等々

 

 また古地図の宝庫でもある。この時はちょうどブラウの大地図展、「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展を開催中であった。人気のフェルメールの「天文学者」と対をなす「地理学者」が展示されている。普段はフランクフルトのシュテーデル美術館に展示されているのだが、この企画展示ために東京出張中だ。この絵の主人公はコンパスを片手に、ふと見上げたその目は遠い東洋を夢見ているようだ。あるいはなにかの「啓示」があったのかもしれない。彼が羽織っているガウンは日本から伝来した着物をリフォームしたものだとか。当時流行りのファッションだった。オランダが世界に羽ばたき東洋との交易で繁栄の時代を築く17世紀。その遠洋航海を可能としたのは天文学と地理学であった。フェルメールはこの繁栄の時代のオランダを二人の学者の姿を描いくことで表現したのだろう。そして画中に広げられたブラウの「大地図帳」こそがその重要なモチーフであった。

 

 このように国宝、重要文化財を含む約100万点の書籍/資料が収蔵されている。去年創設90周年を迎えた。5年前に新書庫へ蔵書を全面移動した際に「再発見」されたのが、このヨアン・ブラウ(Joan Blaeu)の「大地図帳全9巻」Grooten Atlas(1664−65年アムステルダム刊)だ。

 

 私はかつて、ロンドンの大英博物館近くの古書店でたまたまオルテリウス(Abraham Ortelius)の「The Theatre of The Whole World」(London 1606)の1969年800冊限定facsimile版を見つけた。イングランド王ジョンに献上された英語版だ。オルテリウスはアントワープの地図製作者で同僚のメルカトルから地図を学んだと言われている。彼がいわば大航海時代の世界地図製作ブームの火付け役といっても良い。のちにブラウ親子がアムステルダムで「大地図帳」を出すにあたってもこのオルテリウス世界地図が原本となっている。ブラウの「大地図帳」出版が、オランダがスペイン・ポルトガルに変わって世界進出する時期と重なる事は偶然ではない。

 

 余談だが、この時は現金の持ち合わせがないのでクレジットカードで購入。すさまじく大きくて重い地図帳であったので、店主が「郵送してやるよ」と言ってくれたが、ゲットしたら何が何でもすぐ持って帰りたい。幸い大英博物館前の地下駐車場に車を止めていたので、なんとかそこまで休み休み担いで行ったことを覚えている。物欲煩悩とどまるところを知らず。

 

 このオルテリウス版の世界地図が、以降の様々な地図の原本になっている。ブラウもその一人。ヤン・ヤンセンもそうだ。アントワープからアムステルダムへ地図作りの中心地が移って行く。それにしてもこのオルテリウスの地図帳には日本の形はサモサ状のものとオタマジャクシ状のものの二種類が掲載されている。なぜなのだろう。ポルトガル人の航海者やイエズス会宣教師からの情報に基づいて描かれたものだろう。日本という島の形状に二説あったのだろうか。結論が出ず両論併記とした訳か。その60年ほど後のブラウの地図の日本は、北海道らしき島も描かれてもう少し現実の形に近くなっている。日本に関する情報がアップデートされていった経緯など、この辺りの変遷を追いかけるのも面白いかもしれない。

 

 ここでブラウにめぐり合うのも奇遇だ。ユーラシアの東の果ての日本(Iaponia)で再会とは。「東洋文庫」恐るべし。いや、なんだこんなところに俺の居場所があったぞ!! 分け入って散々に迷って出口さえ見えない知のラビリンス(迷宮)。いや、出れなくて良い。古書に埋もれて過ごす余生、かあ。悪くない。フェルメールの「地理学者」の、まだ見ぬ東洋を夢想するようなあの眼(まなざし)こそ、時空を超えた知の冒険者の心を表している。

 

Look at this!

圧巻のモリソン書庫

美しい装丁の書籍に囲まれているだけで至福の時間だ。

 

フェルメールの「地理学者像」

遠い東洋を夢想しているのだろうか...

 

バスコ・ダ・ガマ航海記

 

クリストファー・コロンブスの書簡集

  

 

キャプテン・クック

 

 

「フェルメールも描いたブラウの世界地図」展 大世界地図全9巻が揃い踏み

 

アジア/中国の巻

日本が含まれている

明朝時代の中国全図

右端に日本が記載されている

 

マルコ・ポーロ「東方見聞録」各国版のコレクション

 

清朝乾隆帝の「四庫全書総目提要」

 

世界の賢者達の言葉が刻まれた小径 小岩井農場のカフェレストランへ

注記:写真撮影は許可を受けています。

 

 


古書探索の楽しみ ~ペリー艦隊日本遠征記~

2015年05月30日 | 世界史散策

 

 

 


  

Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Year 1852-54, Under the Command of Commodore M.C. Perry, by Order of the Government of the United States.


New York: Appleton, 1856.

[First trade edition] 1 vol. 


26:17cm, VII, 624 pages. With engraved portrait, 8 engraved-and 67 woodcut-plates, 11 partly folded lithographed maps, and various woodcuts in the text. Half cloth in contemporary style, title in gold on spine. Shortened edition of the official report of the famous Perry-Expedition, which lead to the end of the isolation of Japan against the western hemisphere.



 この書物は、フランシス・ホークスがペリー艦隊の日本遠征の公式報告書として編纂し、ペリーが監修して1856年に 全3巻で刊行された“Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan”(『ペリー艦隊日本遠征記』)を縮約したものである。


都内の某古書店で偶然見つけた。以前から翻訳版や復刻版は見たことがあったが、この原書との邂合を心待ちにしていた。古書店めぐりするたびに本棚を見て回り、店主に問い合わせてみたりしたが、これまで一度も出会うことがなかった。特にロンドンやニューヨークの古書店では、より遭遇する可能性が高いことを信じて探していたが、そこでも出会いは訪れなかった。こうして探していると見つからないものだが、出会いは突然やってくる。なんだ「君」は日本に居たのか。それも不思議ではないかもしれない。やはり日本人コレクターの方がこの本への関心は高いだろうから。


 ニューヨークのマディソンアベニューにThe Complete Travellerという旅行書/地理書/古地図専門の古書店があり、私の大好きな空間であった。店主は博識で日本関係の旅行書のコレクションも優れていた。Isabella Birdの「Unbeaten Tracks In Japan」の初版本はここで入手した。他にもLafcadio Hearnの初版本も豊富に並んでいた。しかし、この「ペリー艦隊日本遠征記」だけは、何度訪ねてもお目にかからなかったし、入荷情報もなかった。これだけ日米の歴史上有名な出来事のNarrative(記録)なのだから、当然古書店市場にはそれなりに出回っているだろうとタカをくくっていたが、現実はそう容易くはなかった。店主曰く「公文書だったので国立公文書館や大学図書館、博物館に収蔵されていて滅多に市場に出てこないのかもしれない」と言っていた。


 ちなみにこのThe Complete Traveller、この3月にニューヨークへ行った時立ち寄ったら、残念ながら2015年3月をもって閉店してしまっていた。マディソンアベニューにはまだ店があり、看板も出ていたが、「Closed」の張り紙が... まさにタッチの差であった。今後はネット販売中心でやっていくらしい。あの古書店独特の空気感と店主との会話、そして本棚に佇む美しい装丁の本達がたまらないのだが... どうも中古カメラ屋と古書店は実店舗販売が難しくなってしまったようだ。どんどん町から姿を消してゆく。悲しいことだ。


 The Complete Travellerのウエッブサイト


確かに、日本でも翻訳版が岩波書店などから出されているし、横浜の開港資料館には3巻セットの公式報告書原本が収蔵されている。下田の豆州下田郷土資料館編纂の「ペリー日本遠征記図譜」も出回っていることから、図書館や博物館には収蔵されているのだと考えていた。しかし今回判ったのは、そうした公的な報告書だけでなく、いわゆる「市販本」が商用ベースで出版されていたということだ。今回入手できたのもNew YorkのAppleton社による「Trade Edition」(市販版)である。また、公式報告書は3巻からなる膨大な書籍であるが、ペリーの功績を多くの人々に伝えるために、より入手しやすく1冊にまとめた「Shortened Edition」(縮約版)が出版されている。


入手した本にはTrinity College Libraryの蔵書印がある。それが米国コネチカット州ハートフォードのそれなのか、英国ケンブリッジのそれなのか、あるいはアイルランドダブリンのそれなのかは確認できないが、いずれにせよ大学図書館が放出(withdrawn)したもののようだ。なぜ放出したのだろう。
公式版3巻が入ったので市販版を放出したのだろうか。また表紙が中身に比して新しいので、装丁はオリジナルではなさそうだ。あるいは大学図書館で補修したものなのかもしれない。経年によるシミや変色はあるものの、書き込みやインク汚れのようなものは見当たらず、古書としては程度が良いように見受ける。あまり読まれなかったのか? そうした本の歩んだ道筋を想像するのも面白い。


 マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry:1794-1858)は15歳で海軍に入り1812年の米西戦争、地中海・アフリカ巡航、西インド諸島での海賊狩り、メキシコ戦争等を経て、1852年米国東インド艦隊提督(この提督は正式にはCommodoreでありAdmiralではない。また艦隊も当時はFleetではなくSquadronと称されていた)となった。やがて大統領フィルモアの命を受け日本と通商開始のために1853年浦賀に来航、大統領の国書を将軍に伝達。翌1854年再び江戸湾に入り神奈川沖で日米和親条約に、さらに6月下田で追加条約に調印した。こうして鎖国日本の開国への道を開いたことは衆知の通りだ。 


 1855年1月帰国後、政府の委嘱を受けフランシス・ホークスに命じて編纂せしめたのが本書である。ペリー自身の航海日記と公文書を中心に部下の航海記や日記・報告書を用いて編纂、1856年に公刊された。この「遠征記」には色々異本があるようで、本報告書には、米国議会上院版と下院版の2種がある。その内容構成は第1巻は遠征記の本文、第2巻は諸調査の報告書類、第3巻は黄道光の観察記録である。また、先述のように市販版がNew YorkのAppleton社から出版されている。その縮約版の1856年初版が今回入手できたものである。


下田の公衆浴場の図

ペリー一行が最も驚いた光景の一つ

 また、俗に云う「風呂屋版」と云うのがある。同行した画家ハイネが描いたものを、黄・淡藍・墨の3色刷の砂目石版に複製した「下田の公衆浴場の図」(右図)入りの版である。ペリー艦隊一行が、女性のお歯黒と共に、この公衆浴場での混浴を、最も驚いた日本の習慣であると記述しているものである。公式な本報告書では、あまりの驚きにより(?)この図が掲載されていないものが多いと云う。ハイネ著のドイツ語版には、ハイネが写生したものを木版画にしたものがあり、今回の古書店にも並んでいたが、希少本扱いでとても手が出る値付けではなかった。コレクターズアイテムというわけだ。ちなみに今回入手した版にはこの「話題騒然」は掲載されていない(残念ながら...)。


 ペリーは遠征準備のため8か月間もの時間を掛けたという。その間、航海に必要な海図をオランダから入手し、日本に関する書籍を可能な限り収集して読破したという。これらの書籍の中には、シーボルト『ニッポン』やケンペル『日本誌』などが含まれている。 
イントロダクションでは、かなりのページを割いて、これまで日本を訪れた過去の西洋人の活動の歴史が記述されていて興味深い。16世紀末の大航海時代のポルトガル人、オランダ人、ウイリアム・アダムス、イギリス人などの活躍、幕末のロシア人、アメリカ艦隊などの日本との関わりから説き起こしている点が興味深い。そうした歴史の上に成り立つ今回の偉業であることを印象付けたのであろう。


 ペリーの黒船来航は、日本を鎖国から開国に向かわせた歴史的な出来事であるが、一方で長い眠りからたたき起こされた側から言わせてもらうと、その強引な砲艦外交に対する批判もある。しかし、この「日本遠征記」自体は歴史上の一大事件に関するその当事者達の詳細な記録であるだけでなく、当時の日本の社会・文化・自然等に関する観察記録でもある。さらには異文化との遭遇の記録である。そういう観点から読んでみると、現代の日本人の目からとても興味深い。黒船来航騒ぎといえば、度肝を抜かれた日本人の驚きばかりが伝えられているが、一方で、日本に上陸したアメリカ人の驚きも新鮮だ。彼らは、危険な未開の国々を経由する長くて困難な航海の後、たどり着いた地球の裏側にもう一つの文明国を発見した、と書いている。これは260年前に、オランダ船リーフデ号で豊後府内に
漂着同然にたどりついた、イギリス人航海士ウイリアム・アダムスが、彼の航海日誌の最後に記した言葉でもある。まさにEast meets west. West meets east. 東西の文明の歴史的な遭遇である。


 さて、この本の表紙を開き、時空のドアーを開けて、ゆっくりと幕末の日本にタイムスリップしてみようと思う。古書探索はもう一つの「時空旅行」だ。



ペリー艦隊の日本への航海(横浜開港資料館資料より)


 

 

 

 

 


2010年正月 初夢を見た

2010年01月03日 | 世界史散策
15世紀の大航海時代が始まる前のヨーロッパはユーラシア大陸の西端に圧迫された後進地域であった。森の中で獣を追っかけて西へ東へ移動していた狩猟民族の世界だった。ローマ帝国から広がったキリスト教はまだ世界宗教ではなく、東方の圧倒的なイスラム教世界に包囲された地方宗教に過ぎなかった。
ポルトガルやイスパニアによるヨーロッパからの脱出行動はユーラシアの西端という閉ざされた地域の経済的閉塞状況の打破、大文明イスラム世界に包囲された中でのキリスト世界の生き残りをかけた挑戦だった。

十字軍の遠征に始まるイスラムとの戦いは,やがてユーラシア大陸東方に存在していると信じられた伝説のプレスター・ジョン率いる幻のキリスト教王国との同盟によりイスラム世界を挟撃せんとする試みに発展してゆく。また12世紀のマルコポーロの「東方見聞録」に描かれた伝説のジパングに代表される東方世界、その黄金と香料という富に引きつけられ冒険的商人達が一攫千金を求めて,あるときは商人になり、あるときは海賊に変身して東方へ船出してゆく。

こうして東を目指したヨーロッパ人はアラブ世界が支配する陸路を避けて海路を進む。やがてバーソロミュ-・ディアスはアフリカの南端に喜望峰を「発見」する。バスコダ・ガマはさらにインドのゴア、カリカットに到達。こうしてアジアへ東航路が開拓される。さらにその後輩達はマッラッカ、マカオに到達し,そこを植民地化し、ついに伝説の国ジパングに到達する。

一方、ポルトガルに東航路の制海権を支配されたイスパニアの国王はコロンブスに命じて、インド、ジパングを目指す西航路を開拓しようとした。そして偶然にも「新大陸」に行き当たる。最初はインドへ到達したと信じていたが,やがてそこが未知の大陸であることに気付くとそこを侵略支配した。そこはまさに黄金の郷エルドラードだった。略奪帝国主義の時代だ。

もっとも皮肉なことに,ヨーロッパ人達にとっての伝説の黄金の島ジパングは、時がたつにつれ、その輝きが薄れてゆく。東方へのパッセージの途中に香料諸島を見つけ莫大な利益を上げることが出来た。さらに新大陸の黄金はまさに想定外の世界帝国発展の源泉となる。わざわざジパングまで行かなくても…コロンブスもジパング探索どころではなくなった。マゼランもその世界一周航海の途中で日本近海を通過しているが、立ち寄ってみようとはしなかった…

現に当時の日本は戦国時代。貧しく、資源の乏しい国であったし、絹も陶器などの工芸品も中国から輸入していた国であった。まして黄金などわずかしか産出しなかった。石見銀山が博多の豪商によって開発されて脚光を浴びるのはもう少し後の話だ。やがてポルトガル商人がこの銀に眼をつける。日本と中国の間での中継貿易に従事して大きな利益を上げたが、新大陸やモルッカ諸島で行ったような略奪的支配とまではいえない状況であった。

やがて旧教世界の盟主ポルトガル、イスパニアに替わって世界に躍り出たのは、ヨーロッパの新興国、旧教に対抗する新教国オランダとイギリスであった。イスパニアの植民地だったオランダは独立を果たし、イギリスに先駆けて世界へ乗出してゆく。この頃ようやくブリテン島内の混乱を治めたエリザベスのイギリスはイスパニアの無敵艦隊を破り、閉塞されていたビスケー湾を脱し、ついに大西洋へ出て世界へ進出する突破口を開いた。一時はスペインの脅威を避けて北極周りで東洋へ向おうという無謀な計画を立案,実施して,案の定手痛い失敗を経験したりもしている。これがその後のアラブ、インド、インドシナ,オーストラリア、新大陸、やがては香港にまたがる大英帝国の時代の始まりだ。

一方、大西洋の向うの新大陸では、スペイン。ポルトガルの略奪帝国主義的な支配が南米大陸に及び、インカ、アステカ、マヤなどの幾多の現地文明を破壊したのに対し、北米大陸はノバイスパニア(メキシコ)を除き、彼等が望むようなエルドラード(黄金郷)が見つからなかったせいで征服の意欲を失い、やがて後発の新興国のフランス、オランダ,イギリスが「残り物に福あり」とばかりに植民地化してゆく。そしてやがては独立を獲得した国家のなかからアメリカという新興国が生まれることになる。

こうして世界は19世紀、20世紀を迎えてヨーロッパとアメリカといういわば欧米キリスト教文明が世界を支配する時代となる。世界は欧米中心の経済、文化、政治、戦争を含む外交、思想、宗教の時代となった。世界観も欧米中心世界観となった。イスラムはキリスト教に対する異教徒.近代文明への脅威であり、野蛮な戦いの相手。インドは文明から取り残された未開発地域。中国は閉鎖的な孤立した文明。日本に至っては伝説と異なり,現実は遥か東の果て(Far East)のそれほど豊かでもない島だった。

しかし、こうした欧米中心の世界観が唯一無二、無誤謬ではないことは歴史が示している。そして時代は大きく場面展開を果たしつつある。21世紀に入り時代の転換点にきた。中国やインドと言った「新興国」が、19世紀20世紀、未開の文明のレッテルを貼られ、発展から取り残され、欧米の植民地というつらい屈辱的な時代を経たのち、再び世界の中心的な経済圏、文化圏として歴史の舞台に踊り出て来た。

このきっかけを作ったのはユーラシア大陸の東の端にあって、かつて黄金の島「ジパング」と伝説化され、しかし現実にはあまりの辺境ゆえ欧米の植民地化を免れた日本というアジアの鎖国国家。19世紀中葉以降のその急速な近代化、「改革開放」の動きであった。欧米植民地主義への恐怖とそれへの挑戦が日本の近代化「富国強兵」「殖産興業」の大きな原動力であった。やがて世界の舞台にそろそろとデビューした小さな国日本は、中国の支配政権であった清朝を破り,南進してアジアを狙う後発帝国主義国ロシアを破り,一気にアジア随一の近代国家、軍事大国として躍り出た。しかし、列強の帝国主義的野望をくじく、とした日本の拡張政策は次第に欧米列強の脅威になるまでになり、想定通り反発を招いたのみならず、皮肉にも欧米列強に伍してアジアにおける植民地獲得競争に参戦するという事態に突き進んでゆく。すなわち「日本の欧米化」である。
その結果、宗主国である欧米列強諸国と現地双方からの激しい反抗に合い、無惨にもその野望は破綻する。

しかし、この出来事が皮肉にもアジアにおける欧米列強の植民地支配の終焉をもたらた。日本が本来意図したはずのアジアの自立と繁栄を実現させるきっかけとなる。最後まで残った欧米のアジア植民地香港もマカオが中国に返還されたのは記憶に新しい。また欧米に永年牛耳られて、あたかも文明世界への脅威の様に扱われて来たイスラム世界が、石油という戦略資源をテコにして、また経済的な発展の可能性を武器にして、復興の時代を迎えようとしている。

世界の景色は21世紀初頭から大きく変わるのだろう。「旧世界」の中国、インド、イスラムの「新興国」が新しい世界のリーダーに復活する。人口で世界のマジョリティーを占めるこれらの地域が一斉に経済発展を始める。明国鄭和の大船団が再び世界を闊歩する。イブンバツータが再びやってくる。大航海時代の15世紀から、世界戦争の時代20世紀にかけて世界を、そして地球文明をリードしたヨーロッパ、そしてそのエクステンションであるアメリカの時代が徐々に終焉を迎えるのかもしれない。

高校時代に大学受験で世界史を必死で覚えさせられた悪夢がなぜか今再び… 
覚えられない!という悲痛な叫び!
気がつくと汗びっしょりで眼がさめた。
よかった。もう大学受験の時代なんぞとうに終わっていた…

しかし正月早々壮大な夢を見たものだ。



大航海時代 東と西の遭遇 

2009年12月28日 | 世界史散策
久しぶりにSamurai William(Giles Milton)の和訳本「さむらいウィリアム-三浦按針の生きた時代ー築地誠子訳)を読んだが、原著が読みたくてAmazonで注文。届いた「Samurai William The Englishman who opened Japan」はなかなか素敵な装丁の本。挿画がいい。日本の南蛮屏風絵や多分イエズス会の伝道師か、オランダの商人が描いたと思われる日本の17世紀初頭の光景が新鮮だ。腹切りや、キリシタンの処刑の光景があるかと思えば、大阪夏の陣冬の陣の現場リポート風挿画、江戸城や壮大の江戸市中の光景。平戸の漁師の姿。家康の軍隊の装備など、描き方が泰西名画的で、日本ではないような感じだが、逆に当時の日本人が描いた南蛮屏風に登場するポルトガル人や、スペイン人がこれまた異様な風体に描かれているのと対比できて面白い。もちろんこうした出来事は史実としては知っているが、当時はるばるユーラシア大陸の西の端からやって来た西洋人の目で見た日本が可視化されていて、まさに時空トラベラーの視点が新鮮だ。冒険的商人、航海士らがロッテルダムの港を出て以来、様々な未知の土地で、海域で危険と遭遇しながらの航海。ようやく東の果てに見た伝説の国ジパングを「野蛮人の群れをかきわけて進んだ末に到達したもうひとつの文明国」とみている点にも興味がそそられる。当時の日本は戦国時代。おぞましい内戦が長く続く混乱の時勢であったにもかかわらず。

当時の地図を見ると日本は不思議な形状の島として描かれている。彼らが頼りにした日本の地図はおそらくイエズス会の宣教師が持ち帰ったものを元に、オランダやベルギーあたりのメルカトール、オルテリウス、ヤンソン、ブラウ等の地図製作者(カートグラファー)が人の話を聞き、想像で描き足したものだろうといわれている。宣教師が入手した元の日本地図が何だったのかは謎だが、研究者によれば、さかのぼること奈良時代の僧、行基が作った行基図が元では?といわれている。8世紀から17世紀まで日本には正確な地図はなかったのあろうか? ともあれ、私がロンドンで買ったQuadのAsiaという地図(1600年出版ケルン)には日本がサモサ様な形で描かれている。良く見ると九州、四国、そしてミヤコのある近畿地方、すなわち瀬戸内海、大阪湾部分のみが描かれ、その他は適当に線を引いた、という感じの地図になっている。当時の西洋人が知りえた「日本」の範囲がわかって面白い。ちなみに、九州にはFacataという街が記されている。その後やはりロンドンで入手したヤン・ヤンソンのIapanの地図では、北海道を除く他の日本列島が描かれており、都市や国名がMiakko,とか、Tonssa, Bungo,などと記されている。都市や国以外では石見銀山の位置が記されており、世界史的にも重要なランドマークであったことを示している。朝鮮半島は島なのか半島なのかいまだ不明、と注記されている。

East encouters West. 初めて日本に到達した西洋人は種子島に漂着したポルトガル人だといわれているが、その後ザビエル等のイエズス会宣教師が次々と来日する。そしてイギリスの航海士William Adamsがオランダ船Liefde号で豊後府内に漂着する(目的を持って日本に来たらしいが,到着の様子は漂着に近かった)。この頃のオランダはヨーロッパの強大な帝国スペインからの独立直後で、いよいよ海洋国家として世界に羽ばたいた時期。イギリス人もその冒険的なオランダ貿易船に乗船していた。Adamsの出身地ロンドン郊外のギリンガムには小さな石碑が建っている。日本では三浦按針として歴史に名を残し、三浦半島に領地を得て「サムライ」となったイギリス人時空トラベラーも母国イギリスではあまりたいした歴史的扱いを受けていないと見える。

この当時の日本における、いわゆる西洋人の出入りを見ていると、16世紀後半から17世紀にかけてヨーロッパにおける、スペイン、ポルトガルといった大航海時代の先進国、カトリック国(日本人がいう南蛮人)と、オランダ、イギリスのような新興国、プロテスタント国(紅毛人)が大きな時代の流れの中で激しく世界市場の利権を争っていた時代が反映されていること分かる。何故、最初に種子島に漂着した西洋人がポルトガル人だったのか。 何故その後イエズス会宣教師が日本に来て、やがて禁教令で去らざるを得なくなり、代わって新興国のオランダが日本に進出して平戸、長崎出島にとどまることが出来たのか。何ゆえイギリスは平戸に商館を開いたのに、著者の表現を借りるならば、「まるで日本になぞにいたこともなかったかのように」いなくなったのか。

そして240年後の19世紀に入り、鎖国日本の小さな窓、長崎から外界をのぞくと、いつのまにかAdamsが警戒し、徳川将軍が排除した旧教勢力は日本の周りからすっかり姿を消し、スペインはフィリピンに、ポルトガルはマカオにプレゼンスを確保するのみであった。もはや大航海時代を切り開いた覇者の姿はなくなっていた。代わって新興海洋帝国オランダが平戸に長崎に進出した。彼等はバタビアに東インド会社の拠点を置いてジャワ、モルッカ諸島(香料諸島)などの現在のインドネシアを植民地とした。オランダにやや遅れて日本進出を果たし、しかしオランダとの日本における覇権争いに負けて平戸を後にしたあのイギリスは、中東からインド、ビルマ、香港、さらにはオーストラリアを有する広大な世界帝国に発展していた。そして新世界からはイギリスからの独立を果たしたアメリカという新興国が太平洋に進出してくる。世界地図はすっかり塗り変わってしまっていた。

日本はこうした世界の激動の中で240年国を閉ざし、曲がりなりにも平和を維持してきたことはある意味世界史の不思議だ。 徳川政権の先見性なのか? あるいは歴史の偶然? 伝説の国、黄金の島ジパングはあまりに遠すぎて忘れられたことも幸いしたのか? William Adamsは日本を世界に開いたはじめてのイギリス人と紹介されているが、同時にスペイン、ポルトガルの帝国主義的野望から日本を守り国を閉ざさせた(彼の意図ではなかったかもしれないが)イギリス人でもある。また皮肉にも彼の母国であるイギリスの日本での活動を支援しなかった人物でもある。平戸のイギリス商館が閉鎖され商館長コックス以下商館員が全員日本を去った後にロンドンへ帰還できたのはタダ一人の商館員だったといわれている。後にイギリス東インド会社が再び日本へ進出を企てた時に、彼は会社からの誘いを断り、その結果日本進出計画は破綻してしまった。結局、明治維新まで長崎に残った西洋人はオランダ人だけだったのだ。歴史に「たら」「れば」はないが、その時イギリスが再び日本に進出していたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。この意味においてもこのイギリス商館員はAdams同様、結果的に(勿論意図せず)日本をイギリスの世界帝国の野望から守ったのかもしれない。歴史の皮肉としか言いようがない。
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