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時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

土佐の赤岡町 ー「あの頃の町」へ迷い込むー

2013年02月17日 | 四国散策
 私の祖父は土佐人であった。その祖父は臨終の床の苦しい息でポツリと「ああ、赤岡のジャコが食べたい」とつぶやいた。あの頑固で無骨な祖父が「赤岡のジャコ」かあ。人間は死ぬ時には,薄れて行く意識の中で、生涯にあったいろいろな事を回想するのだろう。まるで走馬灯のように。祖父は自分が生まれ育った高知の「赤岡」を思い出したのだ。そういうものなのだ、人間って... まだ18才の少年だった私の心にその末期の言葉がこだまのように響いた。

 祖父はいわゆる土佐の「いごっそう」、即ち頑固一徹な明治の男であった。次男坊で、高知商業卒業後、当時の日本一の経済都市、大大阪へ出て住友銀行に職を得た。大阪で一家を成し、私の父が生まれ、上町台地の一角、北山町に家を構えた。やがて脱サラ、起業して、道修町に製薬会社を創業。会社は順調に成長し,祖父は西宮の夙川に邸宅を構えるまでになった。当時の関西の立身出世物語だ。そして戦争。社員の多くを失い,創業パートナーを病気で失い、会社は廃業を余儀なくされた。高知から青雲の志を持って大大阪に出て掴んだ栄光と挫折。波乱の人生だった。

 その祖父の「赤岡」である。「ジャコ」である。私は土佐人の血筋は引いているが、高知に住んだ事は無かった。この歳になるまで、その謎の地名「赤岡」にも「ジャコ」にも関わりなく、祖父のようなビジネスマン人生を送って来た。今回仕事で高知へ出かけることになった。ふと、あの祖父の臨終の一言「赤岡のジャコ」が心に蘇った。「ところで赤岡ってどこだ?」「なぜジャコなのか?」。今まで疑問を疑問としてけ受け止めていなかったのに、急に「その疑問は解いておかねばならぬ」と思い始めた。人間やはりある歳にならないと心に響かないものがあるものだ。私もそういう歳になったという事か。

 赤岡は、高知市の東、高知県香美郡赤岡町のことだった。いまは平成の町村合併で香南市となっているが、それまでは日本一小さな「町」として有名であったらしい。今はひっそりとした町だが、もともと高知城下に伍して栄えた在郷町、商業都市。上方や九州への回船業や製塩業、綿織物業(赤岡縞)が盛んな土地であったそうだ。そして赤岡の名物は「絵金」と「どろめ」だ。また謎の言葉が出て来たな。「絵金」とは、江戸時代末期から明治にかけて活躍した絵師金蔵のこと。芝居絵で名高い赤岡の有名人だ。こういう絵師を抱える事の出来る経済力を持った豪商が多くいた町だったということなのだろう。そして「どろめ」とは、まさに「ジャコ」のことである。赤岡港に上がる「ちりめんじゃこ」が昔から名物だったのだ。しかし「絵金」の話は祖父から聞いた事無かったなあ。今みたいに有名になるとは思ってなかったのかもしれない。

 ともあれ、これで「赤岡のジャコ」の謎がひとまず解けた。よし,行ってみよう祖父の故郷、赤岡へ。

 高知からは、JR土讃線で御免(ごめん)まで、さらにそこから第三セクターの土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線に乗り換え「あかおか」下車。高知駅からは約30分。この「ごめん・なはり」線(なんとも頭を低くした奥ゆかしいの名前が微笑ましいが)は高架鉄道で、太平洋沿岸を安芸、奈半利まで走る景観抜群路線だ。高知の生んだ漫画界の巨匠、やなせたかしのラッピング一両編成車両がユニークだ。海岸側にはオープンデッキが設けられた車両もある。

 赤岡に着く。下車した人は私を含めて3人だけ。無人の高架駅だ。絵金さんの作品を収めた「絵金蔵」がほとんど唯一無二の観光スポットだから、まずはそこを目指してみよう。そこまで行けば町の案内があるだろう。少し歩くと、あったあった絵金蔵はコッチという看板が。しかしよく見るとその上に「現在臨時休館中」のはり紙。「なんじゃそりゃ?」ここまで来て絵金蔵が閉まってるんじゃあ他に行くとこないじゃないか... じゃあ、最近「弁天座」という歌舞伎小屋が再建されたと言う話を聞いていたのでそこへ行こう。なんだ、絵金蔵の隣だ。絵金蔵は2月イッパイ全面改装中とか。なかなか立派な美術館だ。隣の弁天座も、愛媛県内子町の内子座ほど大きくはないし、オリジナル建造物の再建でもないが、赤岡の意地を見せるような立派な芝居小屋だ。そこに絵金の芝居絵が2枚かかっている。

 さて、町を歩く。小さな町だが、ここにはかなりの古民家、古い商家が並んでいる。土佐独自の水切り瓦の豪壮な屋敷や蔵が眼につく。かつて栄えた商業都市の残照を見る思いがする。また港の近くには本瓦葺きの純和風建築がずらりと並んでいる。漁業で結構豊かな家が多いのだろう。しかし、残念ながら多くの古い建物は老朽化がひどく,ほとんど廃屋になっていたり、改造されたり、あるいは完全に建替えられていたり。町の歴史的な景観が保全されているとは言いがたい状況だ。残念だ。重要伝統的建造物群保存地域に指定もされていないので、保存修景のお金も出ないのだろう。

 横町という古い商店街に「おっこう屋」という雑貨屋さん(骨董屋と自称していないが)がある。建物は,江戸時代の脇本陣であったもの。店内は、文字通り「足の踏み場も無い」ほど、様々な雑貨(骨董?)が並んでいる。外からこわごわ覗いていると、ここのオカアさんが、「コーヒー入れるき、なかに入りや」。コテコテの高知弁だ。祖父や祖母の関西弁風高知弁を聞いていた私にとって、これはこれは、なんとnative Kochi-benに感動!

 「おっこう屋」とは「奥光屋」だそうだ。奥深い所にある光を,という意味を込めたと。ここは一種の町の社交場になっているようだ。町おこし活動の拠点でもあるそうだ。ここに山のように散らかっている(失礼)無数の品々は、どれも町の古い蔵や町家から出てきたものだそうだ。皿、壷、着物、家具、グラス、ランプ、掛け軸、置物、柱時計、電話機、蓄音機、クラシックカメラ等等等等等等..... 見れば見るほどお宝満載の不思議なラビリンス。ウラには庭があり、そこにも「お宝」が散乱している。かつて脇本陣であった事を示す立派な蔵もある。オカアさん、「怖くて開けてない」と。

 昨今,次々と町の古民家が取り壊され、蔵が消え、若者が居なくなり、町に残る年寄りも古い家を維持すことが出来なくなる。こうして、家に伝わるお宝をここに持ち寄って売ってもらうことになるのだと。また、売上の一部は、町の古い建物の維持保存の資金になっているそうだ。重伝建地区の指定もされてないので、行政からの補助金も出ない。住民のある種の「景観保存」自衛策なのだ。しかし、入ってくるほどには出て行かない(売れない)そうだ。そうだろう、この「在庫」の山は.....

 オカアさんにコーヒー入れてもらいながら赤岡の話を聞いた。私の祖父がここの出身で、臨終の時「赤岡のジャコが食べたい」と言い残した話をすると感動してくれた。「ジイちゃん、ええオトコやっつろうね」「赤岡は、今はこれバアのチンマイ町になっちゅうけんど、スゴイ町やきにね」「赤岡は情念の町ぜよ」「その頃(祖父の少年時代)はもっと賑わッチュウロウね」。話が止まらない。祖父が当時どの辺に住んでいたか,今となってはもちろん知る術も無いが、オカアさん、「いっつも皆で集まって昔の事聞きユウキ、知っチュウもんがおるかもしれんロウ。聞いちょいちゃらあ」と言ってくれた。このオカアさん、ホント「ハチキン」(土佐のしっかりした女性のこと)や!

 以前、あの赤瀬川原平や藤森照信、南伸坊等の「路上観察学会」の面々が赤岡にやって来て、「赤岡不思議幻灯会」なるまち歩き会を催したそうだ。このオカアさんは、その時の記録をまとめた「犬も歩けば赤岡町」(赤岡探偵手帳)という本の発行人になっている。私も歩いてみてわかったが、確かに赤瀬川先生の好きそうな町だ,赤岡は。町には不思議な「トマソン」が至る所に。ちなみにこの本、古い銭湯の建物を移築保存するための資金集めだったそうだ。無事お金が集まって「風呂屋が残った」。めでたしめでたし。

 今の赤岡は、7月の「絵金祭り」とともに4月の「どろめ祭り」が有名だ。「どろめ」は先ほどの説明通り「ジャコ」のことだが、どろめ祭りは、一升瓶で酒の飲み比べをするいかにも高知らしい祭りだそうだ。昔はどろめ(ジャコ)で一升酒飲んだのだろう。ちなみに祖父は「下戸」だった。お猪口一杯でとスグ真っ赤になって「火事場の金時」になっていた。さぞや若い頃は酒で苦労しただろう。父も私もその下戸の血を引いているのでよくわかる。高知出身だ、九州出身だというだけで、何の根拠も無く「酒は強い」と決めつけられる理不尽さ... でも、どろめ(ジャコ)の方は、大好きだったに違いない。赤岡漁港近くにどろめの老舗三浦屋が天日干しの工場と直営店舗を開いている。「ははあん、ここのがうまいんだ,キッと」。急に祖父が懐かしくなって涙が出そうになった。

 結局、祖父の少年時代の暮らしの痕跡を見つける事は出来なかったが、祖父の「あの頃」の町を訪ねることが出来た。祖父を育んだ「赤岡」。ジャコが名物である事も現認出来た。ハチキンのおカアサンにも会えた。native Kochi-benを聞く事も出来た。滅び行く栄光の赤岡をなんとかしなくては,とがんばってる人々の活動にも触れた。建物や町並みが壊されて行く中で、赤岡の遺産が集積された骨董屋さんががんばっている。祖父の故郷を「どげんかせんといかん」。また来よう、我が家のルーツを感じる旅に。私が今ここに居るのも、祖父がこの町で育ったからだ。


(追記)

 今回、行きは大阪から飛行機で高知へひとっ飛び。帰りは土讃線経由で岡山から新幹線で帰った。四国はこんな狭い島なのに、山山山..... 瀬戸内沿岸から太平洋沿岸の高知に出るにはこの山隗の波を越えねばならぬ。鉄道も道路も大変な難工事だったことだろう。今は本四架橋で瀬戸内海をひとまたぎで岡山へ。日本の土木技術のすごさを見せつけられる。そういえば,祖父母も父も,大阪から高知への里帰りの行き来は船だったと言っていた。陸路よりも便利で速かったんだろう。土讃線が出来たのはかなり新しい事のようだ。

 機上から見ると、所々山肌や谷間にへばりつくように集落が見える。人の営みの執念に凄みを感じる。四国山脈を飛び越えると、すぐに目の前には無限に広がる太平洋。幾重にも重なりあう山並と広大な太平洋に挟まれた狭い帯状の平地に人が住む高知。ボンバルディアは剣山を越えられるのか,というような低空飛行でようやく高知空港に降りる。そして、帰りは地べたの土讃線で。三次元で四国を体感する。トンネルと鉄橋の連続。しかし上空から見る以上に沿線には集落や道路が続き、人跡未踏という感じでない事を改めて現認。大歩危小歩危は秘境の空気に満ちているが、山の中にある阿波池田駅の構内の広さには人々の開拓の歴史を感じる。高知はやっぱりすごい所だ。人はハングリーにならざるを得ない。自ずと外向きにならざるを得ない。坂本龍馬のような人物が出ても何ら不思議ではない土地だという事を改めて感じた。

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(高知独特の水切り瓦のある蔵。台風などの風雨から建物を守る高知ならではの工夫。赤瀬川原平がこれを見て「トマソン」と間違えたそうだ。さもありなん話だ。)

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(新装なった弁天座。なかなか赤岡の気合いがこもった芝居小屋だ。この向かいが絵金蔵。こちらは改装のため臨時閉館中。残念。)

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(横町の雑貨店、おっこう屋さん。店内は赤岡のお宝満載。その奥深さはまさに迷宮。ハチキンのオカアさんが居る店。)

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(土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅。高架のプラットホームからは美しい瓦屋根の家並が見渡せる)

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(ボンバルディアで四国山脈をひとっ飛び。幾重にも重なる山並みの向こうに高知が)

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 アクセス:土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅下車。徒歩5分程で絵金蔵。高知からはJR土讃線で御免乗り換えで。高知から直通列車もある。所用時間約20分。


えひめ内子町散策

2012年09月02日 | 四国散策

 愛媛県の内子町は松山市からJR予讃線特急で約30分ほどの山の中にある。伝統的建造物群保存地域に指定されている八日市・護国地区は、その昔大洲と松山を結ぶ街道沿いに発展した街だ。江戸時代後半から明治にかけて、ハゼの実から取れる木蝋生産の中心地として栄え、品質の高い内子産のWaxは世界中に輸出された。江戸藩政時代は伊予大洲藩6万石の領地となり、一帯は典型的な中山間農村地帯であるが、伝統的に木材、木炭、コウゾ、ミツマタ、ハゼなどの林産物の集散地であった。また大洲藩は和紙を専売品とし、紙漉業者を中心とした家内手工業の街でもあった。

 街並は、塗り籠めの白漆喰と黄土の大壁、なまこ壁、ベンガラ格子の重厚な建物が、約600mの街道沿いに、約120軒立ち並んでいる。このうち91軒が伝統的建造物として指定されている。

 なかでも、明治以降に木蝋生産で財を成した上芳我邸住宅、その本家に当たる本芳我邸住宅などの豪邸が並び、この町がいかに経済的に繁栄したかを物語っている。さらに、大正5年に創建された木造の劇場、内子座は、その経済的繁栄が、人々に芸能、芸術、娯楽を愛する余裕を生みださせ、このような田舎に(失礼)、このような豪壮な劇場を残した。この他にも、伝統工芸の和蠟燭や、鋳物のろうそく立て等の工芸品を造る工房、和紙の店、塗り壁/鏝絵職人の工房、大正時代の薬舗を再現した店舗などが並び、美しい景観とたくみの里の雰囲気を保っている。

 それにしても、このような街の景観や、内子座のような建築物を今に守り続ける地元の人々の努力は並や大抵ではないだろう。もともと昭和51年に街の住民の方からの発案で、まだ「景観」という言葉が定着していない時期に,早くも町の景観の調査、保存の動きが出てきたと言う。その後のいわゆるグリーンツーリズムの草分け的な町である。ドイツのローテンブルクと町並み保存に関して市民ぐるみの交流があるとか。ローテンブルクは以前行った事があるが、ロマンチック街道の美しい町である。日本が高度経済成長真っただ中の時代であった。なぜ日本にはこんな美しい町がないのだろう。古い物はドンドン破壊されて、若者は皆こぞって都会へ出て行く時代であった。思えば,私の町並み景観を巡る旅はこの頃始まった。そして、今、奇しくも伊予内子に至ったという感動を噛み締めている。

 また内子座も、一時は老朽化で取り壊しが決まっていたようだが、これも住民の活動で,保存、再建がなされた。しかも、動態保存である。今でも、毎年8月に文楽公演、2年に一回歌舞伎公演が行われるとか。その他にも、様々な芸能や,地域のイベントに利用され、讃岐の金毘羅座にも引けを取らない有力劇場に発展しているところが驚きだ。

 東京首都圏や大阪関西圏にも決して近くない,このような山間部の町に、これだけの文化的な遺産が、ただ静態保存されるのではなく,生活の場として動態活用されている様は驚き以外の何ものでもない。「観光地」としての経済効果を狙うなら、都会から人が押し掛けてくれなくてはならない。しかし、それでは、静かで落ち着いた佇まい、という資産が破壊されてしまう。経済的自立化と静溢な環境。この矛盾を解決する「町の活性化」はなかなか難しい。

 内子を廻って感じたのは、やはりそこに住む人々がその日常の生活をこつこつと維持している事。そして皆で町の景観を大事にして、誇りの持てるコミュニティーを作り上げようとしている事。それが町を「動態保存」する最良の方法だということだ。行き交う人々の顔が皆明るくて、柔らかな事が印象的だった。中学生や小学生は,すれ違う旅人に「こんにちわ」と挨拶してくれる。学校や家でそのように教育しているのだろう。そしてそれをキチンと守っている子供達。

 今回は時間もなくて,周辺の農村部を廻ることが出来なかったが、そこでも米作中心の農業から、新たな物流システムを活かした近郊農業へ転換し、田畑が荒廃するのを避けている。その美しい農村風景を維持しているほか、屋根付き橋や石畳の道などの、農村の生活資産を活かした,新たなエコツーリズムへ展開していると言う。

 補助金や,観光客の落とすカネだけでは、美しい景観,安らかな佇まいは長続きしない。住む人の内なるパワーこそがこうした,日本の原風景を維持する(いや再生する)ことができるのだろう。そこにこれからの日本が、あたらたな価値を見出し、創造し、再生産する道があるのを観たような気がする。ITや交通の発達が、じつは上手に使えば,こうした価値再生産の手助けになるであろう事も感じた。



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(交通:JR予讃線(内子線)特急宇和海で松山から約30分。各駅停車だと約一時間。特急は一時間ごとに出ているので便利。岡山方面から来る特急に、松山で接続している)

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(撮影機材:Nikon D800E, AF Zoom Nikkor 24-120mm)


土佐の高知 我がルーツ

2009年09月25日 | 四国散策
仕事で高知へ行った。
まず松山に用事があったので伊丹からボンバルディアで飛ぶ。松山からは高速バスで高知まで2時間半。時間距離は意外と近い。しかし心理的な距離は遠い。四国山脈をくぐって太平洋まであと00キロの表示を見ながら、延々と続くトンネルを抜け、連続する峻険な峡谷を渡りたどり着いた高知はすっかり日が落ちていた。
こんなに小さな島に2000m級の山々がそそり立って行く手を阻んでいるんだ。それにしても日本の土木技術はすごい。瀬戸大橋もすごいがこの四国縦断高速道路もすごい。

高知は我が父祖の地。父方だけでなく、母方も、連れ合いの父方も、皆一族の故郷は高知。
といっても自分自身が生まれた訳でも、育った訳でもなくて、祖父母から高知なまりで聞かされた「故郷」の思い出が、父母から聞かされた「帰省先」としての高知の話があるだけだ。

しかし、「土佐の高知」と聞くだけで何か懐かしい想いにとらわれるのは、やはり私にも土佐の血が流れているからだろうか。ワクワクしながらの高知到着だ。

街を歩くと、父母、祖父母、親戚の叔父叔母、から聞かされた懐かしい地名が次々に現れる。
枡形、乗出、八百屋町、唐人町は父方の本家、分家一族の居所。桜馬場、永国寺町は母方の一族。上町、水通町は連れ合いの父方一族の地。鏡川を隔てて向うにそびえる山が潮江山。最近は筆山と呼ばれてるようだ。ここには我が一族の墓所がある。高知支店の人たちの尽力で墓も見つけることが出来た。何しろ古い墓所だけに所在が不明な墓や荒れ放題の墓が多い。幸い市役所が管理している墓地なのでとろく情報があったのと、墓守の方が我が一族の墓を管理してくれていたのとで見つけることが出来た。感謝感謝だ。ヤブ蚊にいっぱい刺されたが。

高知は背後を壁のような四国山脈、前を広大な太平洋に挟まれた狭隘な町だ。かつてはここに住む人たちは容易に京都や大阪や東京へ出て行けた訳ではない。土讃線が開通したのは長い歴史の中ではつい最近のこと。大阪へは浦戸湾から船で天保山へ行くしかない。山内一豊公も船で浦戸から入国している。太陽に恵まれた明るくて恵まれた土地だが、かといって高知にとどまっても何か出来る訳でもない。食い扶持も限られている。そんな土地に育った若者はやはりハングリーになる。瀬戸内海を見て育ったわけではない。太平洋を見て育ったのだ。この海の向うはもうアメリカだ。そしてここを出てゆく。青雲の志を持って故郷を後にする。たまりにたまったエネルギーをやがて新天地で爆発させることになる。坂本龍馬をモデルとする土佐人像だ。

鹿児島もそうだ。そうした若者のエネルギーが日本を動かす。世界を動かす。高知も鹿児島も人口の少ない、県民所得も最下位に近い地域だが、出身者で世界をまたにかけて活躍している人たちが多いのには驚かされる。県人会が強力な人的ネットワークを形成している点も同じだ。鹿児島に行ったときに、地元のヒトから鹿児島県の人口よりも鹿児島県人会の会員数の方が多い、と言っていた。表現に多少の誇張はあるが県外にいる鹿児島県出身者が多いのは事実だろう。ちょうどアイルランド本国は人口800万人なのに、アイルランド系アメリカ人は3000万人いるのと同じ理屈だ。

我が一族の本家筋の人たちは地元高知で実業家一族として活躍しているが、わたしの祖父のような分家の次男坊は高知を出て行かざるを得ない。当時日本でもっとも繁栄した大大阪へ出て行って一家を成した。銀行から転じて今はやりのベンチャー事業を起業し、西宮に屋敷を構えた。母方の祖父も同じだ。三男坊で、継ぐべき財産がなければ学問で身を立てる。東京へ出てゆき官僚として活躍した。つれあいの一族も次男坊以下は皆東京や大阪や上海へ出て行って立身出世していった。みんなハングリーで、豊かな未来を信じていた。そしてみな故郷高知を懐かしんでいる。集まると高知弁で話が尽きない。

ルーツの旅が出来る幸せをかみしめている。父祖の地を出て我々一族の新天地での基礎を築いてくれた祖父母、父母、叔父叔母に感謝の念を抱くとともに、私の世代の後に続く子々孫々の益々の繁栄を祈念するを禁じ得ない。

高知龍馬空港から、再びあの双発プロペラ機ボンバルディアに乗って高知を後にした。この峻険な四国山脈をエンジンを唸らせながらかろうじて飛び越て、わずか40分で大阪に着いた。

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