纒向遺跡の発掘調査で3世紀の大型の居館と見られる建物跡が見つかったことがNHKや新聞報道で流れた。日経新聞も邪馬台国論争を特集するなど、早速,邪馬台国の卑弥呼の宮殿跡ではないか、と多くの考古学ファンが夢を膨らませている。
時空トラベラーも最近はかなり「邪馬台国近畿説」に近づいてきたので、このニュースに「やはり出たか!」と心が騒ぐ。秋も深まったし久しぶりに三輪山、山辺の道に紅葉を求めて散策しようと、週末、紅葉で有名な長岳寺へでかける事にした。そして「ついでに」そのJR桜井線巻向駅近くの発掘現場を訪ねてみようと。
邪馬台国ファンの私が何故「ついで」なのか? 素直に飛んでけば良いものを... 一つには、遺跡といってもどうせ柱が立っていた跡の穴が並んでるだけだろう(それを言っちゃあおしまいだが)。そして、そこへ大勢の人が押すな押すなで殺到する。日本の古代遺跡は草むす無人の野原だったり、石造物が一つポツンと建っていたり、松の木が一本目印然としてたたずんでいて風が吹き渡ってたりするのが想像をかき立てて良いのに... そしてもう一つにはそこが卑弥呼の館だと断定されたら、その時点でロマンは終わり。文献調査や、考古学調査は誰かがやってくれれば良い。その成果の話は聞きたいが、発掘現場を見たからといって素人に何かがわかる訳でもない... 永遠に「幻の邪馬台国」であって欲しい... などといいろいろ言い訳をしながら、人ごみに出て行く事をいとっているのだ。ブームが去って人気がなくなったら行くタイプだ。
いつもの近鉄桜井駅で降りると、ちょうどJR桜井線の奈良行きがうまく接続している。JRの駅はいつもと違い大勢のそれとすぐわかる「考古学ファン」の群れでホームはあふれていた。たいていが中高年のハイキングスタイルの男女(おじさん、おばさん)。関西の中高年は元気やわ、ホンマ。二両編成のワンマン電車は珍しく満員状態。私は柳本で降りるのだが、案の定一つ手前の巻向でほとんどの乗客がドッとが降りた。すごい!いつもは無人駅なのに今日は駅員が5人もいて切符受け取ったり案内したり.....大騒ぎ。
龍王山を背景とした長岳寺の紅葉はきれいだった。こちらも山辺の道ハイカーが集まっていたが、静に深まる秋を楽しみ、写真を心ゆくまで撮ることが出来た。そこから、多くの人は山辺の道を三輪方面か、天理方面に歩いてゆくのだが、へそ曲がりで人と同じ事するのがキライな時空トラベラーは、柳本の町まで戻り、そこから南へ古代官道「上つ道」を下った。後の世になって伊勢街道と呼ばれるこの道は三輪山や二上山を左右に仰ぎながら大和の集落を見て歩くのにちょうど良い。歩くこと約25分、先ほどの巻向駅までたどり着いた。さて、時間は4時半。人は先ほどに比べると少し減ったようだ。ここまで来たらくだんの発掘現場を見てゆくか... 駅の脇の空き地に受付センターなるテント小屋ができていて今回の発掘概容を説明した資料をくれる。なかなか良くできた資料だ。ツアーはもう終わりだ、と言ってたが、発掘担当者がいるので説明を聞けるとの事。
現地は住宅街の中で、巻向駅プラットホームのすぐ目の前の空き地だ。ここに立って辺りを見回すと、東に三輪山を、そして西には雲間からの夕日の光芒に映し出される二上山、金剛山を望むことが出来る。ここが何かしら神聖で特別な場所であることが実感できる。それが魏志倭人伝に言うところの邪馬台国かどうかは別にしても。やはり現地に立ってみることは古代世界を時空トリップする為には大事だ。それだけで来て良かった(あまのじゃくな自分...)。
居館は当時は二本の川(現在は川は消滅している)に挟まれた微高地に位置しており、東西軸の一直線上にに4棟が配列されている(東に三輪山に、西に金剛山、二上山)。一番大きな建物は南北19.2m、東西12.4m、床面積238.08㎡で、これまでに発掘された3世紀中葉の建物の中では日本最大。高床式の神殿のような建物で、祭祀および権力者の居室をかねていたものらしい。建物の配置などが後の時代の宮殿の原型になるもののようだ。また出雲大社の建築にも通じるものだという。しかし、7世紀以降の大和朝廷の時代に入ってからの宮殿が南北軸上に配されるようになったのは中国の「天子南面す」の考えが入ってきてからのことのようだ。従ってこの東西の居館配置はまだ中国の影響を受ける前のものなのだろうか。
しかしこれが卑弥呼の宮殿だったのか? ここに邪馬台国があったのか? まだ明確な証拠は見つかっていない。当時の邪馬台国が筑紫の奴国や伊都国など30カ国余も支配下に置くの広範な倭国連合王国の盟主であったとしたら(それが経済的、軍事的に倭国を支配したのではなく、ある種の祭祀を司る権威で擁立されたものだとしても)、その女王である卑弥呼の居館としてはこの建物は少し小さいような気がする。この三輪地域の王(豪族)の居館くらいの規模だといってもおかしくない。ただ、この建物の東にさらに大きな建物がある可能性もあると言う。この居館の周辺がどのようになっていたのかが興味深い。今後の発掘に期待したい。
考古学ファン,とりわけ邪馬台国近畿説論者の期待にも関わらず、これが卑弥呼の建物なのかどうかはまだ確定できない。年代法によれば3世紀中頃のものだというが、これに異を唱える学者もいる。いずれにせよ、九州の吉野ケ里遺跡のような農耕と生活のための集落とは異なり、生活臭がなく、ある意図を持って人為的に建設された「都市」が纒向遺跡の特色だと言われてきたが、中心となるような宮殿、神殿にあたる建物が見つかっていなかったことが難点であった。そこでこのような政治や祭祀の場として建設されたであろう建物群が見つかった事は意義深い。ヤマト王権のルーツ、日本の古代史の未知の部分を解き明かす手がかりの一つになることは間違いないだろう。
時空トラベラーも最近はかなり「邪馬台国近畿説」に近づいてきたので、このニュースに「やはり出たか!」と心が騒ぐ。秋も深まったし久しぶりに三輪山、山辺の道に紅葉を求めて散策しようと、週末、紅葉で有名な長岳寺へでかける事にした。そして「ついでに」そのJR桜井線巻向駅近くの発掘現場を訪ねてみようと。
邪馬台国ファンの私が何故「ついで」なのか? 素直に飛んでけば良いものを... 一つには、遺跡といってもどうせ柱が立っていた跡の穴が並んでるだけだろう(それを言っちゃあおしまいだが)。そして、そこへ大勢の人が押すな押すなで殺到する。日本の古代遺跡は草むす無人の野原だったり、石造物が一つポツンと建っていたり、松の木が一本目印然としてたたずんでいて風が吹き渡ってたりするのが想像をかき立てて良いのに... そしてもう一つにはそこが卑弥呼の館だと断定されたら、その時点でロマンは終わり。文献調査や、考古学調査は誰かがやってくれれば良い。その成果の話は聞きたいが、発掘現場を見たからといって素人に何かがわかる訳でもない... 永遠に「幻の邪馬台国」であって欲しい... などといいろいろ言い訳をしながら、人ごみに出て行く事をいとっているのだ。ブームが去って人気がなくなったら行くタイプだ。
いつもの近鉄桜井駅で降りると、ちょうどJR桜井線の奈良行きがうまく接続している。JRの駅はいつもと違い大勢のそれとすぐわかる「考古学ファン」の群れでホームはあふれていた。たいていが中高年のハイキングスタイルの男女(おじさん、おばさん)。関西の中高年は元気やわ、ホンマ。二両編成のワンマン電車は珍しく満員状態。私は柳本で降りるのだが、案の定一つ手前の巻向でほとんどの乗客がドッとが降りた。すごい!いつもは無人駅なのに今日は駅員が5人もいて切符受け取ったり案内したり.....大騒ぎ。
龍王山を背景とした長岳寺の紅葉はきれいだった。こちらも山辺の道ハイカーが集まっていたが、静に深まる秋を楽しみ、写真を心ゆくまで撮ることが出来た。そこから、多くの人は山辺の道を三輪方面か、天理方面に歩いてゆくのだが、へそ曲がりで人と同じ事するのがキライな時空トラベラーは、柳本の町まで戻り、そこから南へ古代官道「上つ道」を下った。後の世になって伊勢街道と呼ばれるこの道は三輪山や二上山を左右に仰ぎながら大和の集落を見て歩くのにちょうど良い。歩くこと約25分、先ほどの巻向駅までたどり着いた。さて、時間は4時半。人は先ほどに比べると少し減ったようだ。ここまで来たらくだんの発掘現場を見てゆくか... 駅の脇の空き地に受付センターなるテント小屋ができていて今回の発掘概容を説明した資料をくれる。なかなか良くできた資料だ。ツアーはもう終わりだ、と言ってたが、発掘担当者がいるので説明を聞けるとの事。
現地は住宅街の中で、巻向駅プラットホームのすぐ目の前の空き地だ。ここに立って辺りを見回すと、東に三輪山を、そして西には雲間からの夕日の光芒に映し出される二上山、金剛山を望むことが出来る。ここが何かしら神聖で特別な場所であることが実感できる。それが魏志倭人伝に言うところの邪馬台国かどうかは別にしても。やはり現地に立ってみることは古代世界を時空トリップする為には大事だ。それだけで来て良かった(あまのじゃくな自分...)。
居館は当時は二本の川(現在は川は消滅している)に挟まれた微高地に位置しており、東西軸の一直線上にに4棟が配列されている(東に三輪山に、西に金剛山、二上山)。一番大きな建物は南北19.2m、東西12.4m、床面積238.08㎡で、これまでに発掘された3世紀中葉の建物の中では日本最大。高床式の神殿のような建物で、祭祀および権力者の居室をかねていたものらしい。建物の配置などが後の時代の宮殿の原型になるもののようだ。また出雲大社の建築にも通じるものだという。しかし、7世紀以降の大和朝廷の時代に入ってからの宮殿が南北軸上に配されるようになったのは中国の「天子南面す」の考えが入ってきてからのことのようだ。従ってこの東西の居館配置はまだ中国の影響を受ける前のものなのだろうか。
しかしこれが卑弥呼の宮殿だったのか? ここに邪馬台国があったのか? まだ明確な証拠は見つかっていない。当時の邪馬台国が筑紫の奴国や伊都国など30カ国余も支配下に置くの広範な倭国連合王国の盟主であったとしたら(それが経済的、軍事的に倭国を支配したのではなく、ある種の祭祀を司る権威で擁立されたものだとしても)、その女王である卑弥呼の居館としてはこの建物は少し小さいような気がする。この三輪地域の王(豪族)の居館くらいの規模だといってもおかしくない。ただ、この建物の東にさらに大きな建物がある可能性もあると言う。この居館の周辺がどのようになっていたのかが興味深い。今後の発掘に期待したい。
考古学ファン,とりわけ邪馬台国近畿説論者の期待にも関わらず、これが卑弥呼の建物なのかどうかはまだ確定できない。年代法によれば3世紀中頃のものだというが、これに異を唱える学者もいる。いずれにせよ、九州の吉野ケ里遺跡のような農耕と生活のための集落とは異なり、生活臭がなく、ある意図を持って人為的に建設された「都市」が纒向遺跡の特色だと言われてきたが、中心となるような宮殿、神殿にあたる建物が見つかっていなかったことが難点であった。そこでこのような政治や祭祀の場として建設されたであろう建物群が見つかった事は意義深い。ヤマト王権のルーツ、日本の古代史の未知の部分を解き明かす手がかりの一つになることは間違いないだろう。